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​サイの御教え

SRI SATHYA SAI RAM NEWS 

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​勝利の勝利

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サイラーマを
得ていながら​

​勝利の勝利​

 霊性の道とは、無執着の道であり、感覚の制御の道であり、厳しい心の訓練の道です。パールヴァティー女神は最初、身体的な魅力によってシヴァ神を獲得しようとしました。そして、シヴァ神を誘惑するために、恋愛の神であるマンマタに一役買ってもらう計略を練りました。しかし、シヴァ神は恋愛の神を灰にして、パールヴァティーの誘いを断りました。その後、パールヴァティーは厳しい苦行生活に入り、それによってシヴァ神の恩寵を勝ち取ることができ、シヴァ神の聖なる体の左半身となるまでになりました。人はまず、くじけることなく自省をし、継続的に識別をしてから、自分の進みたい道を決める必要があります。モークシャ(解脱)とは、真実(真理)を曇らせて真実でない蜃気楼(しんきろう)を作り出す無知という束縛を取り除くことを意味します。実際、生きることは、代わる代わるにやって来る不幸と幸福、飢えと満足、病気と健康、欲望と充足を得ていくプロセスの別名にほかなりません。人は、一つの欲が満たされるやいなや、新たな欲の対象へと触手を伸ばします。人はいつももがいていて、いつも不幸せです。それは、永遠のものや永続するもの、源や実体を求めようとしていないからです。人は、束の間のもの、ささいなもの、一時的なもので満足しているのです。

他の人を幸せにすることで喜びを得る 

 真理を通じて解脱に到達するために、体を戦車として使いなさい。その戦車がサティヤ(真理、真実)、ダルマ、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)の4つを車輪に据えてゴールへの道を進むのを見届けることは、あなたの義務です。荷物が少なければ、すなわち、欲望や心配や恐れが少なければ、戦車は道を進んでいくことができます。自分は肉体とその付属物の一切であって、肉体の持ち主ではない、と考えていると、欲望や心配や恐れは増大します。カルマ〔行い〕、バクティ〔信愛〕、グニャーナ〔英知〕は、神への3つの道です。しかし、カルマは欲望によって歪められ、バクティは貪欲によって汚され、グニャーナは怒りによって曇ります。しかし、人はプレーマ(愛)を通じて、欲望と貪欲と怒りを容易に克服することができます。

 

 小さな蟻(あり)から教訓を学びなさい。蟻は、砂糖の塊を見つけると、その事実を他の蟻に隠して独り占めして食べようなどとはしません。反対に、蟻は動き回って友だちや親族を集めます。なぜなら、蟻は自分が見つけたごちそうを分かち合いたいと思うからです。カラスは、軽蔑されていて、よく追い払われる鳥ですが、小さな食べ物の山を見つけると、知り合いや親族がその場所に集まってくるまで、何度も鳴いて知らせます。おいしいものは分かち合われ、まずいものは遠ざけられます。人生は短く、苦しいこともたくさんあるのですから、他の人たちを幸せにすることから喜びを得ることができるよう、全力を尽くしなさい。もし他の人たちが不幸であるなら、どうやってあなたが本当に幸せになることなどできるでしょうか?
 

 人間の偉大さは、意識的な努力によって自分の中の悪を取り除くことができる、という事実にあります。一方、人間以外の動物は、どれほど訓練や教育を受けようと、身を潜めていた根源的な本能が、いつでもわずかな挑発で湧き上がってきます。シヴァラートリは、その日一日断食し、丸一晩徹夜することによって、暗闇を光に変え、シャヴァム(死体)をシヴァム(神)に昇華させることができると言われています。この断食と徹夜は、寝ずに五感の動きを監視すること、五感が害を及ぼすのを阻止することで五感を征服する、という象徴です。

神の行動の背後にはすべて目的がある

 悲しみや喜びを他の人と分かち合うための特別な感受性を授かっている生きものである人間が、なぜ時間と空間が変化するこの世界に生まれてこなければならないのでしょうか? 生まれてきたものは死をまぬがれず、建てられたものが崩壊を耐えることはできません。では、なぜ人は、はかないこの経験の舞台に送り出されるのでしょうか? 神の行動の背後にはすべて目的があります。人は、自分の中の神性を顕現させて、その冒険の中で、すべての生きものを率い、導かなければならないのです。人は、自分で努力して自分を解放し、その模範によってすべての生きものを解放しなければならないのです。人は、自分自身の源の中で、自由になり、安全にならなければなりません。これがモークシャ(解脱)と呼ばれているものです。人は、小から大へ、束縛から無限の至福へと解き放たれるのです。

 

 エゴという不純物が人に入り込むのは、もっぱら見かけの多様性に惑わされ、創造世界には多面性があると断定したときです。アグニャーナの薄暗い夕暮れ(原初の無知)の中で誤認される実在が、神です。一なるものしか存在していないところに多を映し出す霧がかかっているのを見抜くこと、それがあらゆる霊性修行の目的です。何年サーダナ〔修行〕を続けても、それがどの宗教で定められた修行であっても、そのサーダカ(霊性の求道者)が違いや区別や多様性を見続けているなら、今生で人間として存在する目的を果たすにはまだまだ道のりは長い、と結論づけることができます。


一なるものに気づくことは揺るぎない平安を確実にする
 

 一なるものに気づいたとき、恐れはなくなります。なぜなら、「一なるもの」に自分自身を恐れることができますか?さらに、そこには欲望も存在することはできません。なぜなら、第二のものが存在しないとき、どうして所有したいという欲望がわいてくるでしょうか? そのとき、妬み、憎しみ、貪欲、高慢といった、人を苦しめ、安らぎを与えない邪悪な情念もまた存在することはできません。一なるものに気づくことは、揺るぎない平安プラシャーンティを確実にします。一なるもの(神やパラマートマやブラフマンや普遍なる絶対者と呼ばれる存在)は、すべての愛、すべての知識、すべての英知、すべての甘さです。「ラソー ヴァイ サハ」(彼〔一なるもの〕は甘さである)と、ウパニシャッドは述べています。そうであるとき、彼、すなわち、人の本質の中に、どんな苦味があり得るでしょう? というのも、人は彼によって、彼から、彼のために顕現しているからです。
 

 トラからヤギが生まれることはありません。神から生じるものは、必然的に神であるのみです。それゆえ、ウパニシャッドの中には、人間の呼称として、「アムルタッスヤ・プットラハ」(不死の子)というものがあるのです。それゆえ、パラマ・アートマン〔至高の真我、パラマートマ〕から生じた存在である人間の中に存在するアートマン〔アートマ〕も、不死なのです。火炎から発せられる火花には、火と同じ発火性があります。体は神の神殿であり、そこに身を置くと決めた神のために有機化されているのです。内なる神を悟り、それによって、この世という荒野をさまよっている間に見逃していた「神秘」は神なのだ、ということを理解するようになるまでは、人は体を維持することに熱心であらねばなりません。
 

源に融合するために努力し、切望し、もがきなさい
 

 その気づきは、さまよう心(マインド)をつないでじっとさせ、心を内側に向けることによってのみ、得ることができます。シヴァラートリは、心(マインド)の制御という目標を全人類に思い出させます。聖賢らによれば、月は心を司る神であり、現代科学も、心の気まぐれと月の満ち欠けとの間に微妙な関係があることを発見しています。黒分〔満月から新月に向かう半月〕の間は日が進むにつれて月が細くなりますが、これは、心も細くなる過程をたどっていることの象徴であるということになります。今日は〔満月の翌日から〕14日目の夜であり、地球や人の心に影響を与える月は、ほんのわずかしか残っていません。このラートリ(夜)、すなわち無知〔暗闇〕の間に、徹夜やバジャンや断食といった方法で霊的な努力に全力を傾けるなら、心(マインド)は消滅し、心によって陥れられているその人の傾向や態度のすべてを克服することになるでしょう。このようにして、このラートリ(夜)は、まるで天界のようなシヴァ神の輝きへと昇華されるのです。
 

 努力しなさい、それはあなたの義務です。切望しなさい、それはあなたの任務です。奮闘しなさい、それはあなたに割り当てられた仕事です。あなたがこれらを誠実に着実に行いさえすれば、神は悟りという報酬を長い間遠ざけておくことができません。川は、努力し、切望し、奮闘して、自分がそこからやって来た海へ流れ着こうとします。川は、常に油断なくその究極の達成を意識しています。川は、自分の源に歓迎されることができるよう、自分を清らかで澄んだ状態にしようとします。川は、ゴールに向かって首尾よく旅するために、あらゆる地形の障害を克服します。人間も、神が授けてくれた、肉体的、心的、知的、道徳的、そして、物質的な天賦の才をすべて活用し、悟りというゴールへと旅することができるようにしなければいけません。
 

愛は決して復讐という考えを抱くことができない
 

 現世と来世、こことこの先という、2つのものが存在することを信じることによって、惑わされてはなりません。ここでこの先を実現しなさい。現世は来世と織り合わされています。世俗的なものと霊的なもの、神聖なものと物質的なもの、天上のものと地上のものの間の相違に、真実はありません。すべての世界で実行されているのは、主の命令です。主の意志が風を導いて草の葉を揺らさなければ、草の葉一枚、揺れることはできません。生命という電球は、永遠普遍の動力源であるカイヴァッリャからもたらされる電流によって光を照らしており、その電流は主の法に従って働き、愛というケーブルを通って電球まで引かれています。

 

 その愛がエゴに染まると、電球はまったく光を照らすことができなくなります。エゴには愛がなく、愛にはエゴがありません。エゴは手に入れ、忘れます。愛は与え、許します。愛は決して復讐という考えを抱くことはできません。なぜなら、愛は自分以外のすべてのものを自分と見るからです。舌が歯に傷つけられたとき、あなたは歯に復讐するでしょうか? いいえ、しません。なぜなら、舌も歯もどちらもあなたのものであり、あなたの体に不可欠な部分だからです。

 

 それと同じように、他人があなたを侮辱したり、苦痛を与えたりしたときにも、英知にあなたを支配させなさい。真理を発見し、結論を急がず、常に愛をあなたの導き手としなさい。

 

 むろん、これは困難なタスクですが、人間の能力を超えているわけではありません。奮闘や持続的な努力なしに終えることのできるタスクは、誇れるものではありません。困難なタスクこそが、チャレンジであり、人間の中にある最善と最高を引き出すのです。熱意と信念をもってこのタスクに着手しなさい。ひとたびその勝利が得られれば、それ以外のものもあなたに付加されるでしょう。


1977年2月16日

マハーシヴァラートリ

Sathya Sai Speaks Vol.13 Ch30

​サイラーマを得ていながら

子供たちよ、
 

 欲望が生じてきました。この縁起のよい祝日は、人の偏見を追い払うこと、人の利己的な動機を捨て去ること、激性と鈍性を燃やし尽くすこと、そして、神への愛を強めることが意図されています。簡単に言うなら、欲望(カーマ)を滅ぼして、神(ラーマ)に到達するということです。

 

 サイ ラーマという、いつもあなたと共にある者を得ていながら世間を欲するのは、愚かなことです。何生もの功徳のおかげでこれほど並外れた特権を獲得していながら、私たちの男子諸君がまだ世間の楽しみを渇望しているのは、実に不幸なことです。
 

 サイは愛の権化であり、甘さの化身であり、あらゆる力の宝庫です。そのようなサイの恩寵を受けるに値する者となり、永遠に続く平安と幸せを楽しみなさい。この聖日に、サイの愛がすべての人に等しく分け与えられなければなりません。彼らに、自分の古い醜悪な特質を変えるよう、善い行いをして生きるよう、そして、自分の人間としての生の正当性を立証するようにと言いなさい。

 

 これはサイの愛です。


Love,
ババ

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​女性であることの栄光​

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​自然のベール

​女性であることの栄光

女性

死の神ヤマと戦い、死んだ夫を生き返らせた、

貞女サーヴィトリーは

このバーラタの国で生まれた

夫ハリシュチャンドラの悲惨な試練に苦しんだ、

美徳の模範チャンドラマティーは、

このバーラタの国で生まれた

ラーマの献身的な妃であり、

母なる大地の神聖な娘であったシーターは、

燃え盛る火の中から無傷で生還することで、

自らの貞節を実証したダマヤンティーもまた、

清き純潔の貞女であり、

楽しいときも苦しいときも

終始変わらず夫ナラのそばにいた

 愛の化身たちよ! ここバーラタ(インド)は神聖と貞節の地であり、バーラタに英雄の国という栄光をもたらした類いまれな人格者たちであるこうした偉大な女性たちを生んできました。
 

 古代より、ガーヤトリーマントラを司(つかさど)る女神、ガーヤトリー デーヴィーは、最も古く、信頼の置ける、英知の聖典と見なされているヴェーダの母として礼拝されてきました。ガーヤトリーマントラは、この聖なる地で生じました。ガーヤトリーマントラの栄光は全世界に広まっています。
 

 バーラタの人々は、さまざまな方法でガーヤトリーを礼拝し、自分の人生を救ってきました。ガーヤトリーは4つの姿において礼拝されています。それは、(1)サティヤヴァティー、(2)アンガヴァティー、(3)アンニャヴァティー、(4)ニダーナヴァティーです。この4つは、どれも等しく神聖であり、神の限りなき恩寵を引き出します。

 

 第1の姿、サティヤヴァティーは、ちょうど牛乳の中にバターが内在しているように、すべての生き物の中にはアートマが存在しているということを示しています。これは、「エーカートマ サルヴァブータンタラートマ」(唯一なるアートマがすべての生き物に内在している)と宣言されています。存在しているのは一つのサット(真理)ですが、それは賢者によってさまざまに語られているのです。
 

 第2の姿はアンガヴァティーです。アンガヴァティーは、すべての生き物に内在している五元素、そして、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚という五つの感覚を示しています。この世に五元素で出来ていないものは存在しません。アンガヴァティーは、パンチャブータ スワルーパ(五元素の具現)です。

 

 第3の姿はアンニャヴァティーで、これは神のさまざまな姿の属性を指しています。例えば、シヴァ神は三叉戟(さんさげき)や第三の目などと関連しています。ヴィシュヌ神はいつもほら貝〔シャンカ〕や円盤〔チャクラ〕や棍棒(こんぼう)〔ガダ〕などを持っていると言われています。私たちはヴィシュヌ神をシャンカ チャクラ ガダ パーニ〔ほら貝と円盤と棍棒を手に持つ者〕と呼びます。

 

 ガナパティ〔ガネーシャ神〕は象の顔と大きなお腹でそれとわかります。ガナパティはあらゆる儀式において最初に礼拝されることになっています。サラスワティーは、ナーダ ブラフマー〔音の姿をとった神〕としての神聖な音の本質を教えていることから、手にヴィーナを持っていると言われています。このように、アンニャヴァティーは、神のさまざまな姿の構成要素を示しています。
 

 第4の姿、ニダーナヴァティーは、9つの種類の礼拝を教えます。すなわち、シュラヴァナム〔神の栄光を聴くこと〕、キールタナム〔神の栄光を歌うこと〕、スマラナム〔神を憶念すること〕、パーダ セーヴァナム〔蓮華の御足に奉仕すること〕、ヴァンダナム〔神を崇敬すること〕、アルチャナム〔神仏の像を礼拝すること〕、ダースヤム〔神の召し使いとして奉仕すること〕、サキーヤム〔神の親しい友人となること〕、アートマ ニヴェーダナム〔真我への全託〕です。

 

 世界はこれらガーヤトリーの4つの姿によって象徴されています。それゆえ、この世は自然界(プラクリティ)、すなわち女性の姿(ストリー)と言われているのです。
 

バーラタにおける女性の重要性
 

 バーラタ(インド)は、女性はあらゆる社会的美徳の担い手であるとして、常に女性に高い地位を与えてきました。ヴィシュヌとラクシュミー、シヴァとパールヴァティーといった神の夫婦の名前を挙げる際に、ラクシュミー・ナーラーヤナ、ウマー・マヘーシュワラといったように、妃の名前が先に挙げられるという事実は、バーラタ人がいかに女性を重視しているかを示しています。
 

 人々は一般的に、女性は弱いと言います。しかし、ようやく今、バーラタ人は、女性を弱者と見なすことはできないということを認識しました。家庭を預かる女性は、家庭に名声と評判をもたらす主役を担っています。個々の家庭だけでなく、国や世界の名声においても、女性は主役を担っています。古来より、女性は社会において高い地位を与えられてきたのです。
 

 諸聖典は、女性という種類の人間には7つの徳があると見なしています。それは、サティヤ(真理、真実)、プレーマ(愛)、ダルマ(正義)、シャーンティ(平安)、サハナ(寛容)、アーナンダ(至福)、スヴァヌブティ(霊性)です。


 家庭の女性は、家庭の繁栄の女神であるグリハ ラクシュミーとして高く評価されてきました。妻は、夫が困難に直面したときには喜んでその重荷を分かち合い、夫と家族の幸福のためならどんな苦難にも耐えよう、自分の命を犠牲にすることさえいとわない、という覚悟でいます。家庭の評判を支えているのは、家庭の女性です。女性は犠牲の権化です。一方、男性も犠牲を払うかもしれませんが、女性の犠牲には全く私心がないのに対して、男性の犠牲は利己的な色合いを帯びたものとなるでしょう。それゆえ、私たちはこの国の女性を誇りに思うべきなのです。


古代インドにおける女性の高い地位


 長い間外国に支配されていたにもかかわらず、バーラタ文化や道徳が存続してきたのは、少なからず、この国の女性の勇気と不屈の精神によるものです。先の講演者、ギーター・レッディ博士が指摘したように、女性はサティヤとダルマという武器を持つ兵士として輝いています。女性は通常、嘘をつきません。自覚なく嘘をつく女性が現れるような場合もあるかもしれませんが、全般的に見て、女性というものは真実と正しい行いを守ります。女性は、ヴェーダの勧告である「サティヤム ヴァダ、ダルムチャラ」(真実を語り、ダルマを実践せよ)に従います。

 

 あるとき、ジャナカ王は、王に学者としての栄誉を授けるべき人物として最もふさわしいのは誰かという議論を行いました。そこにはヤーグニャヴァルキヤのような偉大な賢人や博学の学者たちが集まっていたにもかかわらず、ジャナカ王はガールギー女史こそが最もその栄誉を受けるにふさわしい人物であるという決定を下しました。


 これは、女性は古来、一般市民からも王からもいかに高く評価されてきたかを証明する一例です。古代において女性は高く評価されていましたが、後世になると女性の地位は低下し、行者でさえも女性に対する正しい評価を否定するようになりました。


 例えば、聖者マタンガが偉大な女性帰依者シャバリーを自分のアシュラムに入れようとした時、出家の弟子たちの多くは異議を唱えました。しかし、高潔なマタンガ仙は、シャバリーの貞節、ひたむきな信愛、解脱の追求への献身という並外れた功徳を認め、シャバリーを自分のアシュラムに入れました。最終的に、シャバリーがどれほどラーマに信愛を捧げていたか、どれほどマタンガ仙の教えどおりにラーマを礼拝し、その結果、解脱したかが世に証明されました。
 

家庭と社会における女性の役割
 

 現代の教育の弊害のせいで、人々は女性をおもちゃのように考えて、操り人形のように扱う傾向にあります。女性はとても吉兆で高潔な資質を持っています。ところが、男たちは女性を台所と家の四方の壁に閉じこもる料理人だと考えています。女性は家事の切り盛りをするだけでなく、家庭の家族全員の健康と幸福にも気を配っているということを、男たちは忘れているのです。
 

 今、政府は、選ばれた市民にパドマシュリー、パドマブーシャンといった称号を与えはじめました。しかし、女性にはすでに、グリハ ラクシュミー(家庭の繁栄の女神)、ダルマパットニー(献身的な妻)、アルダーンギ(善き伴侶)といった、もっと立派で価値のある称号があります。女性にこうした称号があるのは、優れた資質と犠牲の精神のゆえです。


 女性が職場に行ったら誰が家庭を見るのか、母親が他の子供を教えに学校に行ったら誰がその母親の子供を教えるのか、等々といった問いが持ち上がります。中には、女性が働きに出るのは経済的な問題を解決するためであるけれども、働きに出ることでもっと大きな問題に向き合わなければならなくなることもあり得るだろう、と言う人もいます。しかし、現代社会では、女性は家庭を維持していくための負担を夫と分担する必要に迫られており、そのため、女性もできるかぎり学業に励んで、適切な仕事に就き、家庭の負担を分担すべきなのです。必要な資格を取得した女性が仕事に就くことを男たちが妨げるなら、そこには利己心の気配がうかがわれます。


 女性は、愛と犠牲という持ち前の資質(プレーマ・バーヴァとティヤーガ・バーヴァ)によって、自分たち自身で全世界を制することができます。怒りは、女性にとっては異質なものであり、男性の間ではより多く横行しています。女性が怒りを爆発させる場合もあるかもしれませんが、そのような機会は少なく、ごくまれであるのに対して、男性の場合はその逆です。

 

 サーヴィトリーは死の神(ヤマ)と戦い、夫を生き返らせることに成功しました。聖典や歴史の中に、夫が妻のために犠牲を払う覚悟をした例を見つけることができるでしょうか? 妻が亡くなると、夫は再婚を考えます。この世では、女性に関するかぎり、このような不公平が起こっているのです。だからこそ、11月19日だけでなく、毎月19日を女性の日として祝うことにしたのです。

  

女性はインド古来の文化の継承者

 サイ・ムーブメントの女性帰依者たちは、弱い立場にある女性たちが家族のためにお金を稼いだり、自分の時間を有意義に過ごしたりできるように、洋服の仕立てなど、役に立つ職業を学ぶのを助けるような奉仕活動に、大勢で熱心に参加しています。このような活動が全国で行われるようになれば、国は繁栄するでしょう。こうした神聖な仕事は、私たちの国の古来の文化の典型です。

 

 女性は私たちの古来の文化の継承者です。文化とは精錬を意味します。女性は精錬の聖火ランナーであり、国家の解放のために奮闘しています。

 

 ギーター・レッディは、ジャーンシーのラニ〔ジャーンシー藩王国の王妃ラクシュミーバーイーの呼称〕といった偉大な女性たちの戦場での活躍について語りました。ラニはすさまじい戦いを繰り広げ、打ち負かされると、敵〔イギリス軍〕に降伏するくらいなら命を投げ出すことを選びました。ラニは、犠牲によってのみ人は解放を得ることができるというヴェーダの教えを実践しました。このカリの時代には、女性がサティヤとダルマに従っていないという例外的なケースもあるかもしれません。しかし、ほとんどの場合、女性はサティヤとダルマの理想に従って生きています。


 しかしながら、女性は能力を発揮することを奨励されていません。家族の中でさえ、女性は障害や対立に直面しなければならない、というありさまです。もし女性に正当な評価と励ましが与えられれば、女性はあらゆる分野で輝きを放ち、家、国、そして全世界に輝かしい奉仕をして、全人類の安寧に貢献するでしょう。


女性は仕事に献身と誠意を示す
 

 確かに、女性特有の優れた資質を持ち合わせていない女性も少なからずいるかもしれません。けれども、社会のどの階層においても、これは避けられないことです。オレンジの果実を例にあげましょう。オレンジの果汁を味わうためには、苦味のある外皮と種の部分を取り除かなければなりません。人間という生命の果実にも、外皮のように苦い部分がたくさんあります。あなたはその苦い外皮と、悪い性質という種を取り除かなければなりません。そうすれば、中に詰まっている甘い果汁を味わうことができます。
 

 もし女性の例にならって男性が神聖で犠牲的な性質を身につけるなら、世界は間違いなく向上するでしょう。男たちは、あたかも仕事ができるのは男だけであるかのように、「ウッディヨーガム プルシャ ラクシャナム」(男は自分の職業によって知られる)などと言っています。これは間違った発言です。女性も、男性と同じようにあらゆる仕事をしています。実際、女性たちは、より誠実に、献身的に働いています。


 最近、インドの電話業界の役員がスワミに会いに来た時、スワミは電話業界で雇用されている女性の割合について質問しました。彼は、従業員の99%が女性であると言い、女性は男性の10倍良い仕事をしていると付け加えました。女性は、割り当てられた仕事が終わるまで、立ち止まったり外に出たりすることはしません。女性は男性よりも優れた労働文化を持っています。


 聖典のどこにも、女性は料理だけをすべきである、男性のように仕事をすべきではない、などとは書かれていません。実のところ、男性も、いざというときに妻を助けることができるよう、料理や家事を学ばなければいけません。気づきが人生です。気づきとは、部分的な知識ではなく、総合的な知識を意味します。女性にはその熱意が満ちあふれています。男性であっても、あらゆることを学ぶ努力をすべきです。女性には秘められた力があります。皆さんは、女性が才能を発揮できるよう励まさなければいけません。


 目の前にいる兵士全員を震え上がらせるほどの軍の指揮官が、家に帰って妻を目にすると震え上がります。同じように、目の前にいると学生たちが怖がって震えるような学校長も、妻から帰宅が遅くなった理由を問い詰められると、背筋が凍るような思いをします。
 

神は区別しない
 

 一般的に、プルシャという言葉は、肉体的な姿に基づいた男性だけを意味するものだと思われています。これは本当ではありません。プルシャは、頭のてっぺんから足の先まで体の隅々にまで存在しているアートマ、あるいはチャイタニヤ〔意識〕を表しています。プルシャールタ(プルシャ・アルタ、人生の主な目標)は、ダルマ、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)の4つです。これは男性だけに当てはまるものではありません。これは男性にも女性にも共通のものです。
 

 実際、女性は基本的なダルマに誠実に従うのに対して、男性は利己的に行動します。神性を悟っている者がプルシャです。スワ ダルマ〔自己のダルマ〕とはアートマ ダルマのことであり、肉体に関するダルマのことではありません。これはバガヴァッド ギーターの中で説明されています。これは古代人が従った理想でした。


 アルタとは、単に富や金銭を意味しているのではありません。これは知恵という富を意味します。真の英知である不二を体験する権利は、男性と女性の両方にあります。


 カーマとは、この世の対象物を求めるのではなく、神を求める欲望です。


 モークシャ(解脱)は、人生の第4の目標です。モークシャを求める欲望は、男女を問わず、万人に共通のものです。モークシャとは、モーハ クシャヤ、すなわち、身体的な妄執を捨てることです。感覚〔五感〕や心〔マインド〕に従うことなく、良心に従うなら、モークシャに向かって前進することができます。


女性は自分の役割を果たすよう奨励されるべきである
 

 経典の奥義を教え、女性が社会で役割を果たすことを奨励するために、19日は女性の日と定められています。ダルマは、女性によってこそ、社会で地位を占め、本来の栄光を取り戻すことができます。しかし、男性にも同等の権利があるのですから、国が繁栄するよう、この強大で神聖な努力を共にしなさい。たとえ積極的に加わらなくとも、少なくとも男性は女性に干渉をせず、女性に仕事をさせるべきです。

 クリシュナはギーターの中で、「アナンニャーシ チンタヤントー マーム イェー ジャナーハ パリウパーサテー」(誰であれ、他念なく私を想い、私を崇める者)〔ギーター9章22節の前半〕、「テーシャーム ニッティヤービユクターナーム ヨーガクシェーマム ヴァハーミャハム(それほどまでに私に専心する者の安寧は、私が担う)〔ギーター9章22節の後半〕と言いました。これは、いかなる区別もない、あらゆる人への保証です。誰もが同様の普遍性の感覚を養うべきです。


 神は遍在です。カースト、信条、性別、国籍に基づいた相違感は捨てなければいけません。神は何も区別しません。皆さんもこの平等の原則を実践すべきです。神はすべての場所にいます。まるで神があなたの小さな額縁に収められた姿の中に閉じこもっているかのように、神をあなたの狭い範囲内に限定することはできません。そう考えるのは愚かです。神には何千という姿と名前があるのです。サハッスラナーマ・アルチャナ(主の千の御名の礼拝)をするとき、あなたは千の御名を一つ唱えるごとに花を一つ捧げていきます。そのすべてはただ一つの絵姿に捧げるのであり、いくつもの絵姿に捧げるわけではありません。すべての御名はただ一つの神を指しているのです。皆さんは、アッラー、イエス、ラーマ、クリシュナなどと唱えるかもしれません。しかし、そのすべては、ただ一つの神を指しています。

 もしも、あなたが崇めている姿が唯一の神だと言うのなら、あなたは無限の存在を狭い有限の存在に限定していることになります。

 

 宗教的な差別は捨てなさい。一つの宗教があるだけであり、それは愛です。一つのカーストがあるだけであり、それは人間というカーストです。ただ一つの言語があるだけであり、それはハートの言語です。先ほど私はガーヤトリーの4つの部分と五大元素について話しました。すべては神です。そこにはカーストや信条やどんな違いもありません。


 一体性を悟れば、純粋性と神性を得ることができます。皆さんはこのことを忘れて、敵意や共同体の感情を増しています。神には共同体や国籍や性別といった区別はありません。古代では、人々の間にそのような相違感はありませんでした。そうした感情に余地を与えてはなりません。神は一つであり、この世の誰もが神の恩寵を享受する平等な権利を持っているのです。

 

1998年4月19日

コダイカナルにて

Sathya Sai Speaks Vol.31 Ch14

​自然のベール

自然

私の愛と祝福を受け取りなさい。

あなたの甘い手紙が届きました。調子はどうですか?

幸せでいなさい。心配しないでいなさい。サイはいつもあなたと共にいます。

 

放棄とは、悪の力と戦い、心(マインド)を抑制する力です。真理が、真理だけが、真の友であり、身内であり、自己(アートマ)です。真理に従い、正義の道を歩むなら、あなたの体の毛一本すら決して傷を負うことはないでしょう。

 

完璧になる必要はありません。あなたはすでに完璧なのです。自然は覆いのようなもので、その先にある事実を隠しています。あなたが考える良い考えや、それに基づいた良い行動はどれも、言わば、まさにそのベールを引き裂いて、その背後に存在している神の清らかさ、無限性が、もっともっと現れるようにするのです。

 

来たら、必ず5月の夏期講習(78年5月20日から6月20日)にいらっしゃい。

 

愛を込めて

ババ

Prema Dhaara Part2 No.49

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あなたの内に生じる愛を神に向けなさい。

あなたの体を神に捧げなさい。これは真の信愛の印です。

人間には3つの構成要素があります。

それは、心(マインド)、語る言葉の力、体です。

この3つは、トリカラナ、

すなわち、人の3つの行動媒体〔3つの道具〕

と呼ばれています。

この3つが神聖な目的のために使われるとき、

人は神聖化されます。

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​三重の清らかさ

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自分のサーダナに
集中する​

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​三重の清らかさ​

信愛のみが、至高の善を授けてくれる

信愛のみが、輪廻(りんね)の病を

滅ぼしてくれるもの

信愛のみが、神性を悟る手段

信愛のみが、解脱の手段

 愛の化身たちよ! 信愛〔バクティ〕によってのみ、人は至高の真理に到達します。信愛によってのみ、人は生死という病から解放されます。信愛によって、人は神を悟ろうと努めます。信愛によってのみ、人は解脱を達成します。バーラタ〔インド〕人は、バクティ(信愛)を人生の至高の目的、最高のゴールと見なして、古来よりバクティの道を追求してきました。

 

 バクティ(Bhakti)という言葉は、さまざまに解釈されてきました。バクティの語源は「バジ」(Bhaj)です。シャンカラは「バジャ セーヴァーヤーム」〔奉仕を通じて神を崇めよ〕と言明しました。シャンカラによれば、「奉仕は信愛」です。あなたは誰に奉仕をするのでしょうか? 奉仕の形とは何でしょうか? 神への奉仕が真の奉仕の形です。「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」〔シャンカラの著書『識別の至宝』〕では、バクティの意味を別の方法で詳述しています。「スヴァスヴァルーパ ダルシャナム バクティ」(真の自己を認識することがバクティである)、と。

 信愛の偉大な主唱者であったナーラダ仙は、「バジャ パラマバクティ」〔至高の信愛を崇めよ〕と言明しました。ナーラダは、バクティとは主の御名に浸ることから生じる信愛の絶え間ない流れである、と定義しました。ナーラダはまた、パラマバクティ(至高の信愛)で満ちている者は、肉体を忘れ、神への愛に完全に浸り、陶酔状態にあると言明しました。これは、真の信愛とは、肉体を忘れ、神の愛に完全に没頭することであるということを意味しています。

ラーダーとバクティ

 ヴィシシタ・アドヴァイタ哲学〔条件付不二一元論〕の提唱者であるラーマーヌジャは、ラーダーの名前からバクティの意味を導き出し、バクティとは神への絶え間ない愛の流れであると解釈しました。「ラーダー」という単語には、ラ、アー、ダ、アーという4つの音節が含まれている。この単語は、ラから読むとラーダーだが、アから読むとアーダーラになる。ダから読むとダーラーになる。2番目のアーから読むとアーラーダになる。アーダーラは「基盤」を意味する。ダーラーは「絶え間ない流れ」を意味する。アーラーダは「礼拝」を意味する、と。このように、ラーダーは、ラーマーヌジャにとって、神への礼拝の絶え間ない流れを表明しているのです。

 ヴァラッバーチャーリヤは、別の解釈を示しました。彼は信愛の絶え間ない流れと、しずくとなって落ちる信愛とを区別しました。ハートが完全に神への愛で満たされているとき、帰依者は絶え間なく神の御名を唱える。そうした帰依者の心の状態は、「サルヴァダー サルヴァカーレーシュ サルヴァットラ ハリチンタナム」(いつでもどこでも絶え間なく神を憶念し続ける)と表現される、と。

真の信愛は神を友と見なすこと

 マーダヴァーチャーリヤは、真の信愛とは神を唯一裏切ることのない友と見なすことであると述べました。他の友人たちは皆、一時は友人であっても、後には敵対するようになるかもしれません。このように、この世の友人は皆、いつかは敵に変わるかもしれません。神は唯一の真の友です。マーダヴァーチャーリヤは、真の信愛とは神を最も偉大な友と見なす神への愛の現れであると定義しました。

 

 ヴェーダは、以上のすべての解釈を超越した真理を宣言しています。ヴェーダは、ニッティヤムとスヴァーガタという2つの言葉を何度も繰り返しています。ニッティヤムとは、あらゆる時代を通じて変わることのないものです。これは、過去・現在・未来という3つの時間すべてにおいて変わらない真理であるとも表現されています。スヴァーガタとは、その光り輝く力のことであり、それはその光を自ら周囲に広げて存在し続けます。

 

 このことは太陽によって例示されています。太陽は変わることなく自らの光を四方八方に広げている存在です。太陽の永続性はニッティヤの属性を示しており、その光の拡散はスヴァーガタの性質を示しています。どちらの性質も一つの実体を源としています。スムルティ〔ヴェーダ以外の聖伝〕は、この性質をスヴァルーパ・スヴァバーヴァ(姿と質の組み合わせ)と呼びました。

 

 太陽には2つの性質があります。一つは光を放つという性質、もう一つは熱を伝えるという性質です。同様に、アートマには2つの性質があります。一つはプラバーヴァ(発散)、もう一つは光を周囲に広げる性質です。あなたの家にあるランプはその例です。ランプは一つでも、その光は家全体を照らします。それと同じように、アートマはその姿においてただ一つです。それは永遠であり、不変です。スムルティはそれを、「サッティヤム グニャーナム アナンタム ブランマー」(至高の自己は、真理であり、英知であり、無限である)と表現しています。グニャーナ(霊的英知)をあらゆる場所に広めるのは、アートマの本質です。

 

 スムルティは、アートマはアヌ(原子)の姿をしていると明言しています。ここには、宇宙には原子を持っていないものは存在しないという意味が含まれています。すべての物質は原子でできています。経典は、神はアヌスヴァルーパ〔原子の姿〕として遍在していると宣言しています。神はまた、大宇宙としても存在しています。

ダルミーとダルマ

 神のアヌスヴァルーパ〔原子の姿〕はダルミーと呼ばれています。この姿をとって、ダルミーはすべての被造物の中に存在していますが、すべての被造物はダルミーの中には存在していません。宇宙に存在するすべての物体は互いに異なるように見えますが、それらすべてに内在している神聖原理は一つであり同じです。その神聖原理は、すべての物体の根底にある単一性を明示するものであり、ダルミーと呼ばれています。これは、ダルミーは一見多様に見える物体すべてを一つにするものであるということを意味しています。

 

 ダルマは物体の姿における多様性を表しています。そうしたすべての物体の単一性を明らかにする根本原理がダルミーです。ダルミーは、ヴェーダにおいて、ムーラーダーラ・パダアルタム、つまり、万物の根源にあるもの、と説明されています。この原初の根本的な実体は他のすべてのものの基盤です。今、このダルミーの重要性が忘れ去られつつあります。また、ダルミーはすべてに浸透しているということも忘れられています。

 

 すべてに浸透しているダルミー(神性)は、微細な原子としてすべての物体の中に存在しているので、人はダルマ・スヴァルーパ、すなわち、ダルマの化身であると見なされています。人間は何のために肉体を与えられているのでしょうか? 何のために存在しているのでしょうか? 経典は、「シャリーラム アーディヤム カル ダルマサーダナム」(体はまさしくダルマを達成するための第一の道具である)と述べています。体はダルマを実践するために人間に与えられているのです。今、人々は自分が存在するようになった目的を忘れがちです。人々は、自分の義務を無視しています。無意味な空想を追い求めています。そのため、自分の本質を理解することができずにいます。

祝祭の役割

 祝祭は、人々に本当の神聖な性質を理解させるために意図されています。今日はヴァイクンタ・エーカーダシー〔内なる天国の扉が開くとされる日〕です。ヴァイクンタ〔天国〕とは何でしょうか? 主の住まいは、ヴァイクンタ、カイラーサ、スヴァルガなど、さまざまに述べられています。これらはすべて想像上の名前です。

 

 神の住まいとは何でしょうか? 主はナーラダ仙に言いました。「どこであれ帰依者が私の栄光を歌う所に私は住む」、と。主は帰依者のハートの中に住んでいます。これが主の「本宅」です。他のすべての場所は「別宅」です。ハートに宿る神聖なる者に宛てたメッセージは、必ず神に届きます。神の住まいとしてのヴァイクンタは、変わることのない場所を意味します。人間には多くの変化があるかもしれませんが、ハートは変化しません。エーカーダシーとは何を意味するのでしょうか? それを何か特別な場所や時間と考えるべきではありません。エーカーダシャ・ルッドラ〔11のルドラ神〕の姿は、五つの知覚器官と五つの行動器官と心で構成されています。ルッドラは人体に宿る者であり、人体は多くの潜在力で満ちています。現代の人々は、これらの潜在力と、ハートに宿る神性を忘れています。

 

 新年の日は来ては去っていきます。それらは何の役に立つのでしょうか? サムヴァッツァラ(一年)は主の御名の一つです。一瞬一瞬が新しいのです。自分を変えるのに、なぜ1年も待つのですか? 新年やヴァイクンタ・エーカーダシーといったこの世の祝祭にとらわれているかぎり、神はあなたを避けるでしょう。現象界と肉体意識を忘れて、初めてあなたは神を悟ることができるのです。

人間の3つの行動媒体

 あなたの内に生じる愛を神に向けなさい。あなたの体を神に捧げなさい。これは真の信愛の印です。人間には3つの構成要素があります。それは、心(マインド)、語る言葉の力、体です。この3つは、トリカラナ、すなわち、人の3つの行動媒体〔3つの道具〕と呼ばれています。この3つが神聖な目的のために使われるとき、人は神聖化されます。

 

 持っている信条にかかわらず、人は誰もが魂を磨く必要があります。すべての人に信愛が必要です。人のハートと心を浄化できるのは霊性だけです。第二の必要条件は道徳です。道徳はヴァーク(語る言葉)を浄化するのに役立ちます。第三はダールミカムです。体や手によって行われる正しい行いはすべて、人を神聖化します。3つの道具〔心・語る言葉・体〕は、霊性と道徳とダルマによって浄化されます。この三重の清らかさを達成した者だけが、神を悟ることができるのです。もしこれらの道具のどれかが不浄であれば、神を悟ることはできません。

 

 神を理解するためには、人間は宇宙全体に浸透している微細な原子の原理を理解しなければなりません。神を理解することの難しさは、ゴーピカー〔牧女〕たちによって認識されていました。ゴーピカーたちはこう明言しました。「どうすればあなたを知ることができるでしょう、おお、クリシュナ! あなたは小さなものの中で最も小さく、宇宙に存在する84万の種の中で最も大きなものよりも大きいのです」

大切にすべき3つの装飾品

 人は、神の遍在を信じて、善行に励み、善い思いを抱き、人生を善い修行に捧げるべきです。言葉は真実の言葉であるべきです。大切にすべき装飾品は、語る言葉にとっては真実、手にとっては慈善、耳にとっては聖なる伝承の傾聴です。自分の神性に対する信心を深めなさい。そうすれば、自分の人生を救うことができます。良心に従いなさい。ハートを清らかにしなさい。

 

 世俗の事柄に没頭していては、神を悟ることはできません。知識には2種類あります。ダルメー・ブータ・グニャーナとダルマ・ブータ・グニャーナです。ダルメー・ブータ・グニャーナは姿形に関する知識です。ダルマ・ブータ・グニャーナは名前に関する知識です。この2種類の知識に基本的な違いはありません。名前と姿形は相互に関連しています。この真実を理解しなければいけません。すべての存在の内で輝いている意識は、神の姿であり性質です。この姿形と名前の一体性を正しく理解しなければいけません。こうした概念にはどれも、外的な意味と内的な意味があります。内なる意味を把握しなければなりません。例えば、ここにあるマイクはテーブルの上に置かれています。テーブルが土台です。テーブルは大地の上に立っています。大地が土台であり、テーブルは大地に支えられています。土台はアーダーラと呼ばれ、土台に支えられているものはアーデーヤと呼ばれています。現代人はアーダーラ〔土台〕を忘れがちで、アーデーヤ〔土台に支えられているもの〕のことばかり考えています。

神のサポートがあればすべてのことが成し遂げられる

 愛の化身たちよ! 新年は毎年、規則正しくやって来ます。一方、あなた方は何か新しい考えを抱きましたか? あなた方は、古い、間違った考えを捨てていません。そのようなものは捨ててしまい、神聖で、崇高な、新しい考えを持たなければなりません。もしあなた方が、古い考え方や行動の仕方を変えないのであれば、新年を祝うことが何の役に立つでしょう? 貴重であり神聖でもある時間を適切に使いなさい。役にも立たない噂話にふけるのはやめなさい。思いやり、愛、同情といった善い性質を培いなさい。自分の行いを注意深く監視して行動し、自分で自分を罰して行動を正しなさい。さまよう心や怒りは、簡単な方法でコントロールすることができます。そして、神を頼みとしなさい。

 

 あなたを支える神の力をもってすれば、成し遂げられないことは何もありません。カルナとラーヴァナは、背後に神の力がなかったために滅ぼされた強者の例です。パーンダヴァ兄弟が救われたのは、神への信心と団結のおかげです。世界の出来事は、ある一族は団結のゆえに繁栄し、ある一族は一族が分裂したせいで苦しむことになったことを示しています。

 

 今、国家は何よりも団結を必要としています。団結を促進することができるのは、神への信心を通してです。この会場にいる人々の多様性を見てごらんなさい。彼らは異なる信条を持ち、異なる国籍を持っています。その全員が、スワミへの共通の忠誠で結ばれています。神を信じるというたった一つの気持ちによって、団結を達成することができるのです。分裂の原因となっているのは、この信心の欠如です。

 

 あなた方は皆、神の化身です。あなた方は皆、愛と平安の化身です。あなた方は人間の姿をした神です。このことを確信できるようになりなさい。神の愛に浸りなさい。その愛を神に捧げなさい。そうすることで、あなたはすべてを愛するようになります。この愛の原理を身につけたときにのみ、あなた方はこのような祝日の意味を知ることができるようになるでしょう。自分の父親や母親のために立ち上がるのと同じように、神への信仰のために立ち上がりなさい。

 

 社会への奉仕をしなさい。社会がなければあなたは生きていけません。あなたの幸福は、社会の幸福と密接に結びついています。すべての人を神の一つの家族の一員として愛し、すべての人との一体感を育みなさい。

 

 

1998年1月1日

サイ クルワント ホールにて

Sathya Sai Speaks Vol.29 Ch1

自分のササーダナに集中する

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親愛なるバクタ〔バクティを持っている人/帰依者〕へ!

 

 あなたとあなたの家族を祝福します。

 

 あなたの手紙と、同封されていた新聞の切り抜きを受け取りました。世界は、あらゆる類いの人々、あらゆる類いの考えを抱えています。これは世界の特質です。私たちは、そうした人々や、その人たちの活動に注意を払うべきではありません。帰依者は、自分の領域の外で起こっていることを心配する代わりに、自分自身の向上のためにサーダナに集中しなければいけません。

 

 機関誌で、あなたが読者と分かち合うために寄せた文章を見ました。それは取るに足りない問題を扱っています。私たちは、価値のあるものとないものを識別しなければいけません。読者やメンバーが霊的なサーダナにおいて進歩すること、そして、スワミの教えを理解すること、実践することを、常に助けようと努めなさい。

 

 スワミが霊的な成功のために与えた、とても多くの建設的でポジティブな指示があります。書くとき、話すときには、それらに重点を置きなさい。瞑想は五感を超越します。人は、そうした瞑想によって穏やかになった心を携えて、勇敢に人生の活動に入っていくことができます。

 

 地元のすべての帰依者に私の祝福を伝えなさい。
 

 

 

愛と祝福と共に


シュリ サティヤ サイ

1982年5月20日

Prema Dhaara Part2 No.54

人は、神の遍在を信じて、

善行に励み、善い思いを抱き、人生を善い修行に捧げるべきです。

言葉は真実の言葉であるべきです。

大切にすべき装飾品は、

語る言葉にとっては真実、

手にとっては慈善、

耳にとっては聖なる伝承の傾聴です。

自分の神性に対する信心を深めなさい。

そうすれば、自分の人生を救うことができます。

良心に従いなさい。

ハートを清らかにしなさい。

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神はどこで

​見つかるか

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​主の威風

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​神はどこでみつかるか

73歳御降誕祭のババの御講話

 神の愛の化身たちよ! 神は完全な愛の化身です。その愛はどの人の中でも等しく輝いています。花の香りは、花を右手に持っても左手に持っても変わりません。それと同じように、神には、受け入れる者、排除する者といった区別はありません。さまざまな人が、自分の好き嫌いから、自分の心の中にある区別を神にも当てはめようとします。神には、善悪、好むものと好まないもの、邪悪なものと高潔なものといった、区別意識はありません。白檀の木は、自分に当てられた斧(おの)にさえ香りを与えます。それと同じように、神はいつでも分け隔てなく、万人を平等に愛し、育て、守る心積もりでいます。しかし、心の狭い人々は、神の平等心を簡単には理解できません。実際のところ、魚売りにダイヤモンドの価値が分かるでしょうか? 誰もが自分の限られた理解力と経験を頼りに、神の力と属性を理解しているのです。

 

人間の視野が狭い理由

 このような狭い観念を取り除くのにまず必要なのは、愛を育てることです。愛はどのようにして育めばよいのでしょうか? 人は「与えることと許すこと」によって、自分の中に愛を育みます。神との関係においては、それは、いつも自分のハートを神に捧げるという姿勢でいることを意味します。今日、私たちが目にしているのは、そのような神聖な態度とはほど遠い、「得ることと忘れること」という習慣です。

 今日、人は神の愛と恩寵と恵みを受けていながら、何の感謝も示さずに、自分の利己的な追求に没頭しています。これが人の視野が狭くなっている原因です。

 

 ギーターの最後に、サンジャヤは、ヨーガの主〔クリシュナ〕とパールタ〔大地の子であるクンティー妃の息子〕すなわち勇敢な射手〔アルジュナ〕が共に立つところ、そこに勝利はある、と宣言しました。人は繁栄や成功や至福を得るためにさまざまな努力をします。しかし、人がそれらを達成する手段は、自らバガヴァンの側に立つことです。パールタとはプリティヴィ(大地)の息子という意味です。それはすべての人間に当てはまります。サンジャヤの宣言は、人が神の側にいるか、神が人の側にいるかのどちらかであれば、勝利は確実である、ということを意味しているのです。現代ではそのどちらも起こっていません。人は神から離れた生活を送っています。

 

 まず始めに、人生の目的は何かを認識しなければなりません。あらゆる国の求道者たち、さまざまな宗教の信奉者たちは、この、人生の目的という問題を探求してきました。その結果、さまざまな宗教が生まれました。イエスはキリスト教の創始者です。キリスト以前の世紀には、ユダヤ教がユダヤ人の宗教として存在していました。ユダヤ人は、イスラエルの民を守るメシアの到来を信じていました。

 

 イエスが生まれたとき、東方から三人の王がやって来て、ベツレヘムの幼子を祝福しました。最初の王は、幼子を見て、この子は神を大いに愛する者となるだろうと言いました。二人目の王は、神はこの子を愛してやまないだろうと言いました。三人目の王は、イエスは神であり、神はイエスであると言いました。これらの声明の内的な意味は何でしょうか? 最初の声明は、神を愛する者は誰もが神の使者である、という意味です。神がその人を愛するとき、その人は神の子となります。その人が二元の感覚を手放して、自分の意識を神に融合させると、その人は神と一体となります。

 

イエスの生涯と使命

 子供のころにエルサレムを訪れたとき、イエスは群衆の中に迷い込んでしまいました。マリアは必死に捜し回り、ようやく神殿で祭司の話に熱心に耳を傾けているイエスを見つけました。マリアがイエスに彼を捜すのに苦労したと話すと、イエスは言いました。

 「お母さん! 私が父の家で父と共にいて安全であるのに、どうして心配する必要があるのですか?ここは神の神殿です。ここは私の父の館です。ここでは何も失われません。この永遠なる神聖な家では、私は完全に安全で、しっかりと守られているのです」

 

 この出来事は、イエスは12歳にしてすでに神の資質に満ちあふれ、自分の周りの人々に神のメッセージを伝えていたことを示しています。キリストは、世間の人々に三つの重要なことを明言しました。それは、1)神は一つである、2)神は全能である、3)誰も傷つけてはならない、というものでした。神はすべてに宿る者です。キリストは自らの使命に着手して、人々に、神への愛を育むことによって神の愛を獲得するように、と呼びかけました。

 

 それぞれ異なる信仰を公言する人々は、神をヴィシュヌ、シヴァ、ガネーシャ、アッラー、キリスト、その他、異なる名前で崇拝しています。神は一つであるというのが真実です。現代人は宗教の中に神を見出そうとしています。しかし、神は宗教(マタム)の中にではなく、心(マティ、マインド)の中で見つかるものです。心を制し、浄化したときにのみ、神は認識されるのです。

主は人に宿っている

 神はどこにいるのかを知らずに、人は神に捧げものをすると主張します。すべてをブラフマンに捧げると主張していても、人々はブラフマンがどこに宿っているのか知りません。主は宣言しています。「私はヴァイシュワーナラの姿であなたの内に住み、あなたが供える物をすべてたいらげる。私はすべてを消化して、あなたの体に栄養を与える」

 

 主は常に人間の側にいるというのに、人は神を世界中で探しています。外側を探しても、内側を浄化することはできません。不可欠なのは、意識を変えることです。あなたは自分の行いを正さなければいけません。というのも、すべては自分の行いしだいだからです。清らかなハートで正しい道を貫いて、あなたの人生を神聖なものにしなさい。すべての霊的な規律はすべて、この目的のためにこそ考案されたものなのです。捧げる祈り、ジャパ、プージャーはすべて、ハートを浄化することを目的としています。

 

 教育、科学、他のどの分野でも、偉大な業績を残した人は皆、ひとえに行いによってそれを為すことができました。体力も、富も、知力も、人に尊敬や名誉を受けさせることはできません。尊敬と名誉をもたらすものは、その人の生き方です。ですから、神を悟るためには、もっぱら行いを通じて努力することです。正しい行いに欠けていれば、他のすべての霊性修行は何の役にも立ちません。ですから、帰依者は皆、神を悟る努力を増進するために、善良で神聖な資質を身につけるべきです。

 

 あなた方は皆、サイの王国にいます!

 あなた方は皆、サイの家にいます!

 あなた方は皆、サイの光の中にいます!

 あなた方は皆、サイのハートの中にいます!

 私はあなた方を祝福します。

 この聖なる夜に、私はあなた方を祝福します。

 これはあなた方の権利です

 

 もし正しい考えを抱くなら、あなた方は皆、神の家にいることに気づくでしょう。全宇宙は主の家です。ひとたびこの真理を認識したら、区別意識が生まれることがあるでしょうか?

神の道を理解する

 人は、神は怒っているとか、無関心だなどと想像します。そのような想像をする人は。神性を理解していません。胃に腫瘍があったら、外科医はメスを使ってそれを取り除きます。その手術は患者に対する悪意から行われるのですか? そんなことはありません。手術は、その人を回復させるために、その人のために行われるのです。それと同じように、誰かが何か悪い性質を募らせたら、その悪徳を取り除くために手術が行われるのです。それが神によって行われると、神は、神が怒った、神の機嫌が悪くなったと言われてしまいます。そんなことを言うのは小心者の印です。神の愛の原理を理解している人は、そのような間違いを犯すことはありません。

 

 今日は偉大な宗教の創始者の誕生日です。キリスト教徒は、イエスは神のメッセンジャー〔使者〕であり神の子であると見なしています。アナンタプルにあるサティヤ・サイ女子大学のOG〔女性の卒業生〕たちは、メッセンジャーズ・オブ・サティヤ・サイと呼ばれる団体を結成していて、年に一度、この神聖な日にその記念日を祝っています。「私たちを教育してくれた母校、あまりにも多くのためになることを授けてくれた母校に、どのように感謝を示せばよいのでしょうか?」というのが、OG会の会長からの質問でした。「私たちはどうやってバガヴァンに感謝を示したらよいのでしょうか?」と彼女は問いました。

献身的に社会に奉仕する

 親愛なるOGの皆さん! どこにいようとも、神への信仰と無私の精神を胸に、社会に出て、あらゆる可能な方法で社会奉仕をしなさい。彼女が言ったように、女子は結婚後、義理の両親や夫から課せられるさまざまな束縛に耐えなければならない、というのは事実です。確かに、バーラタの文化と伝統は女性の自由を制限しています。一方、男子はより大きな自由を享受し、好きなように行動できます。どんな仕事に就こうが、どんな商売をしようが、どの国に行こうが、かなりの自由があります。束縛する人は誰もいません。社会奉仕をしたければ、多くのことができます。残念ながら、彼らは社会奉仕をしたいといった高潔な考えであふれているわけではありません。一方、社会奉仕をしたいという神聖な気持ちに駆られている女性たちは、ハンディと束縛に苦しんでいます。サイの教育機関で学んだ若き男女は、少なくとも今日からは、社会奉仕に従事すること、そして、自らの献身的な生活によって、人々の理想となることで、母校に感謝の気持ちを示すことを私は望みます。単に学位を取得するだけでは、教養人になることはできません。

 

 目先の利益のためだけに学歴を利用するのは愚かなことです。自分の知識は、人々の生活を向上させるために使うべきです。もしあなたが人間としての真の幸福を得ることができないのであれば、山のような書物の知識は何の役に立つでしょう? 神は、神に信仰を置く人の面倒を見てくれないのでしょうか? いつも生計を立てることにばかり熱心で、遍在の主を忘れているなら、何が得られるというのでしょうか?

 誰もが「私は平安が欲しい」と言って平安を切望します。しかし、平安は(peace)断片(piece)で満ちている外の世界で見つけることができるでしょうか? 平安は、「私は」と「~が欲しい」を取り除くことによって、自分の中で見つけるものです。平安は、エゴと飽くなき欲望によって破壊されています。欲望を抑えなさい。人間は、さまざまな種類の尽きることのない心配事に悩まされています。悩みは、心を神に向けることによってのみ、取り除くことができます。人々は、欲望を抑え、無執着(ヴァイラーギャ)を養わなければいけません。そうすれば、真の心の平穏を得ることができます。

 

 サイの教育機関で10年あるいは12年過ごした学生が、受けた教育から得た恩恵の証しとして示すことができるものとは何でしょう? 彼らの行いや実践が、ある程度の証しとなるはずです。もし人生の貴重な時期であるその期間に、自制と自己規律を実践することを身につけていないなら、せっかくのチャンスを無駄にしたという罪を犯すことになるでしょう。教育の真髄は、善良な資質を培い、有意義な人生を送るための正しい価値を身につけることにあります。

 

 私は、あなた方が人々への奉仕に献身し、それによって主の恩寵を得ることができるよう、あなた方学生全員を祝福します。

 

サティヤ サイババ述

1989年12月25日

クリスマス

プールナチャンドラ講堂

Sathya Sai Speaks Vol.22 Ch38

231202

​主の威風​

親愛なる人へ!

 

 何世紀にもわたってインド文化を通じて響き渡ってきた、2つの根本的なメッセージがあります。それは、「母を神として敬いなさい。父を神として敬いなさい」というものです。これらは神聖な指示です。親が子に避けられ、反抗されて傷ついているなら、きっとすぐに神も避けられ、反抗されるようになるでしょう。あなたの息子があなたをそこにいない者のように扱っているとき、どうしてそのような息子が私を敬っていると主張できるでしょう? その主張は明らかに偽りです。

 

 主は外面の威風は求めません。主は内面の清らかさがあるかどうかを調べます。悪しき生活を送る人生は、命の宿っていない体のようなものです。肉体は、サンスクリット語で「デーハ」と呼ばれる、「荼毘(だび)に付さなければならないもの」です。内面の清らかさを得るために努力しない人と同一視される〔その人の〕肉体は、自らの名を正当化するその終焉のためだけに生きています。その肉体は、それ以外の目的のために仕えることはなく、主の恩寵を得ることもありません。

 

 教育の価値は、その教育が植え付ける徳の観点から測られなければなりません。というのも、徳だけが平安と喜びを確実にしてくれるからです。徳がなければ、人は死んでいるも同然か、さらに悪いものです。教育は人に鋭い識別力を授ける必要がありますが、あなたの息子にとって、それを得ることは、みっともない、下等なことなのです!

 

 サティヤ〔真理、真実〕は私が教えるものであり、ダルマは私が生きる道、シャーンティ〔平安〕は私の人格の印であり、プレーマ〔愛〕は私の本質そのものです。

 

ババ

 

Prema Dhaara Part2 No.26

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あなたのハートを
​高潔な気持ちで
満たしなさい

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​決して
あきらめない

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​あなたのハートを高潔な気持ちで満たしなさい

73歳御降誕祭のババの御講話

我々の母国は、すべての大陸で

名高い高潔な魂たちを世にもたらした

この国は、外国の支配者たちを追い出して

自由を獲得した国

このバーラタは学問で評判の国であり、

音楽、文学、神聖な伝承の分野で

模範である神聖な国

ああ、帰依者たちよ!

母国の栄光と繁栄を育むことは、

すばらしい芸術と自然の美しさで知られる

バーラタの地に生まれたあなた方の義務

(テルグ語の詩)

 

神性は、太陽よりも輝かしく、

純粋な雪よりも清らかで、

風元素や空元素よりも繊細であり、

すべての生き物に内在している

神性は、小宇宙と大宇宙に浸透している

神はすべてのものの中に存在しているが、

何にも属していない

あなたはブラフマンの中にいて、

ブラフマンはあなたの中にいる

実に、あなたとブラフマンは一つ

これ以上、何を伝えることがあろうか?

(テルグ語の詩)

 愛の化身たちよ! バーラタは、霊性、正義、慈善、非暴力、そして、平安が生まれた場所です。バーラタで見られる、これらの特性への忠誠心は、他のどこでも見られません。バーラタは、サプタ リシ(七聖仙)と最初の詩人ヴァールミーキが生まれた場所です。ここは、ダルマの体現者であるラーマが統治する神聖な国であり、クリシュナによって神の歌であるギーターが歌われた国です。バーラタは、個々の魂と普遍の魂は一つであると宣言した国です。神聖さと正義と平安の国であるバーラタのような国は、他にありません。バーラタの大気には真実が浸透しています。バーラタの土には思いやりが浸透しています。バーラタのガンジス河には愛が満ちてます。この国の人のハートには寛容さが宿っています。これほど高潔で、神々しい、無類の性質は、バーラタだけに現れているものです。

 

神の磁力

神は全能であり遍在です。

 

サルヴァム カルヴィダム ブランマー

(まさにこの一切はブラフマンなり)

 

 科学と霊性を探求すると、どちらも同じ真理を肯定していることが分かります。神の存在は、科学によって、電気、磁気、レーザー、ラジオ〔放射〕、熱、光波といった形で可視化されており、これらは遍在です。これは、神の存在を示す直接的な証拠です。神性は、あなたが食べるもの、飲む水、吸う空気の中に存在しています。この世には、磁気のない場所はありません。磁石とは何でしょう? 鉄の含まれた物を引き寄せる物だけが磁石なのではありません。この世に存在するすべての物は磁力で満ちています。母は子を引き付ける磁石であり、子は母を引き付ける磁石です。同様に、夫と妻はお互いに引かれ合います。草は牛にとっての磁石です。花はミツバチの磁石です。このように調べていくと、すべてのものに磁気の原理が適応していることがわかります。ヴェーダーンタは「ラーマヤティ イティ ラーマハ」(引き付けることはラーマの原理なり)と明言しています。哲人たちはそれを「神の磁力」と呼び、科学者はそれを「バイオ コズミック パワー」または「スーパー パワー」と呼んでいます。ですから、ヴェーダーンタの支持者も科学者も、同じ神の力をさまざまな名前や形で経験しているということです。

 

遍在する神性の体験

 

 目に見える、このはかない世界には、人間の知らない多くの神秘的な力が存在します。それらは超越的な力や隠れた力と呼ばれています。誰もがそれらを理解できるわけではありません。どの創造物にも神の力が備わっています。だからこそ、私はいつも皆さんに「ディヴィヤートマ スワループラーラ」(神なる真我の化身たちよ)と呼びかけているのです。

 

 医者たちは人体の秘密や神秘を理解できていません。例えば、舌を見てみましょう。舌には4万個の味蕾(みらい)があります。熱を発する舌の蕾(らい)は2万5千個あります。眼球は1インチ〔約2.5cm〕にも満たない大きさですが、1万3千種類の光線を認識することができます。あなたの体には無数の細胞がありますが、細胞の一つひとつは神であり、各細胞にあなたの姿全体が入っています。畏敬の念を覚えませんか? これは誰の創造物でしょうか? これこそが神性の超越的な力です。

 

 神性が存在しないと考えるのは愚かなことです。この超越的な力を理解できない人は、神の存在を否定します。実際には知らないのに知っているふりをしてはいけません。神の存在を否定する権利は誰にもありません。「ムンデー ムンデー マティル ビンナハ」(考えは人それぞれ)です。どの人にも自分の信念があります。

 

「No」と言う人への返答は「No」

「Yes」と言う人への返答は「Yes」

「No」と「Yes」はあなたに付随する

しかし、サイはいつでも

「Yes」、「Yes」、「Yes」

(テルグ語の詩)

 

すべての力は人間の中に潜んでいる

 

 人は形のないものの存在を否定する傾向にあります。目に見えないからといって、ラジオの電波が存在していないわけではありません。デリーのラジオ局から放送される番組は、ラジオをその局の周波数に合わせれば、どこでも聞くことができます。人の体はラジオに例えられます。神を体験するには、形なき神に周波数を合わせる必要があります。人の体はコンピュータでもあり、そこにはとても多くの秘密が潜んでいます。心(マインド)はテレビのようなものであり、たくさんの名前や姿形がそこに映し出されます。体は発電機でもあります。これら一切の要点は、すべての力は人間の中に潜在しているということです。

 

 アインシュタインは、物質はエネルギーに、エネルギーは物質に変換できることを示しました。エネルギーはすべてを包含しているのです。ニュートンは、エネルギーは創造も破壊もできないと言いました。しかし、エネルギーは一つの形から別の形へと変換することができます。哲人たちはこれをさまざまな方法で説明しました。

神には誕生も死もない

神には始まりも終わりもない

神はどこにでも存在する

神は永遠の照覧者

(テルグ語の詩)

 

 現代の科学者たちは、この真実を理解できていません。彼らが知り、理解していることは、全体のほんの一部にすぎません。アウェアネス(気づき)とは何でしょう? それは完全な理解です。完全な理解とは、神性の遍在を知ること、経験することです。

 

 先ほどスピーチをしたヴァージペーイー首相〔バジパイ首相〕は、人々がモークシャ(解脱)を得るためにしている努力について言及しました。モークシャとは何を意味しますか? モーハ クシャヤ(完全なる無執着)がモークシャ(解脱)です。これはどういう意味でしょうか? 空気は容易に空気と混ざり、火は火と、水は水と容易に混ざります。それと同様に、神は光の姿そのものです。あなたが光になりなさい。そうすれば、あなたは普遍なる光と一つになるでしょう。神は無形です。あなたが無形の神に融合するには、体との自己同一視を捨てなければなりません。アートマ〔真我〕の原理に集中しなさい。いつも体に執着していたら、どうやってアートマ、つまり普遍なる原理を悟ることができますか? アートマに集中しなさい。そうして初めて、あなたの良心は普遍意識に融合するのです。この融合は、サーユッジヤ(神との融合)と呼ばれています。

 

ヒーローはただ一人、それは神

 

エーカートマ サルヴァブーターンタラートマ

(同一のアートマが万物に宿っている)

 

 一つのものしか存在していませんが、それにさまざまな名前と姿形があるのです。一つのものだけが存在しているのです。「0」(ゼロ)はその前に数字がある場合〔例:10〕に、価値を得ます。世界も生命も太陽も月も空も、すべてはゼロ〔zero/無価値〕です。一なるものだけがヒーロー〔hero/英雄〕であり、それは神です。人間(本来は神である者)は、神を忘れるとゼロになります。

 

 愛の化身たちよ! 神はあなた方と別のものではありません。あなた方は神です。この真実を探究し、理解しなさい。一生を研究や実験に費やしていたら、いつあなたは実践するのですか? 個々人は、名前や姿形や態度は違うかもしれませんが、アートマ〔真我〕は変わることなく内在しています。水は言語によって異なる名前で呼ばれます。テルグ語ではニール、ヒンディー語ではパーニー、タミル語ではタンニー、サンスクリット語ではヴァーリと呼ばれます。名前はさまざまですが、水に変わりはありません。

 

 それと同様に、神にはさまざまな名前と姿形がありますが、アートマの原理は同じままです。アートマはすべての人に共通しており、良心と呼ばれています。良心は意識〔普遍意識〕から生じたものです。有神論者であれ、無神論者であれ、有神論者と称する無神論者であれ、無神論者と称する有神論者であれ、すべての人がこの事実を認めなければなりません。ボーギ(世俗的な快楽の人)であろうと、ローギ(病気の人)であろうと、ヨーギ(平常心の人)であろうと、ヴィイラーギ(離俗の人)であろうと、アヌラーギ(執着の人)であろうと、アートマの原理は誰においても同じです。

 

 体は色の付いた風船に例えられます。風船の大きさや色は違いますが、風船の中の空気は同一です。同じ空気が風船の中にも外にも存在しているのです。風船の中の空気は良心に例えられ、あらゆる所に遍在している空気は意識に例えられます。風船にどんどん空気を吹き込んでいくと、最終的には破裂して、中の空気(良心)は外の空気(意識)と融合します。同様に、あなたの愛を拡大しなさい。そうすれば、体への執着という風船が破裂して、あなたの内なる良心は外の意識と融合します。良心と意識の違いは、質ではなく量でしかありません。

 

愛の吸引力は神性

 引き付ける力は神性です。小さな例を挙げましょう。今日は何万人もの人がここに集まっています。誰かがあなたを招待したのですか? 誰かがあなたに招待状を送ったのですか? 招待状は送られていません。では、どうしてあなたはここに来たのですか? スワミへのあなたの愛が主な原因です。誰も強制的にあなたをここに連れてきたわけではありません。皆さん全員がこのことを知っています。政治的な会合には、人々がトラックで連れてこられます。来ないようにと私が何度も言っているにもかかわらず、あなた方は依然としてここに来ています。愛の吸引力は神性です。それは神の磁石です。

 

 ラーマーヤナにも同じような話があります。ジャナカ王は、娘のシーターと同じようにシヴァ ダヌス(シヴァの弓)を持ち上げることのできた者とシーターを結婚させようと考えました。シーターはブージャーター(母なる大地の娘)であったため、生まれつき磁気の力が備わっていて、シヴァ ダヌスを難なく持ち上げることができたのです。シヴァの弓を持ち上げて弦を張ることができたのは、神の磁石であるラーマだけでした。こうした神聖な磁石は誰の中にも存在しており、違うのは強さの度合いだけです。その強さは愛によってのみ増すことができます。私とあなたは一つであるという一体感を養いなさい。一体感の至福を体験しなさい。神はあなたの中にいます。あなたは神です。あなたがこの真実を認識した時、いかなる種類の疑念の余地もなくなるでしょう。

 

誤りは、創造物にではなく見方にある

 

 称賛と非難は内にあるものの反映です。高潔な人は決して他人を批判しません。そのような神聖でない行いにふけるのは、卑しい者だけです。あなたが見る色は、あなたがかけているメガネの色によります。愛のメガネをかけなさい。そうすれば、周囲のすべてに愛が見えるでしょう。間違いは、創造物にではなく、あなたの見方にあるのです。批判を重視してはいけません。もし誰かが大声であなたを批判したら、その声は空気の中に消えてしまいます。もし誰かが心の中であなたを批判したら、それはその人自身に戻ってしまいます。その人はあなたの体を批判しているのですか? 体は不活性です。その人はアートマを批判しているのですか? 同じアートマがあなたにもその人の中にも宿っているのですから、その人は自分の自己〔アートマ〕を批判していることになります。この事実に気づいた人は、真の真理の探求者です。

 

 人は自分の中にある何百もの欠点をわかっていないのに、他人の最も些細(ささい)な欠点を指摘する傾向があります。自分の中の悪いところは、他人の中の悪いところとして反映されます。まず自分を正しなさい。そうして初めて、あなたの心は清らかになるのです。ですから、神聖な思考を育みなさい。人間の内には多くの力が存在しています。小さな例をあげてみましょう。私が東アフリカに行った時、偉大な信者であるパテル医師が、鉄製のヘアブラシをプレゼントしてくれたのですが、私が髪をとかすと、髪が自然とヘアブラシに引き寄せられます。それは男子学生たちも目撃しています。今日、私がそのことを公表しているのは、私の内に神聖な磁力が存在することを皆さんに理解してもらうためです。その磁力が、ここにいる皆さんを引き付けたのです。私の愛は、私の最大の財産です。

 

Love is My form――愛が私の姿

Truth is My breath――真実が私の呼吸

Bliss is My food――至福が私の食事

My life is My message――私の人生が私のメッセージ

Expansion is My life――拡大が私の人生

No reason for love――愛に理由はなく

No season for love――愛に時季はなく

No birth, no death――誕生もなく、死もない

 

愛は与えることによって生きる

 

 神の力は生まれることも死ぬこともありません。私は褒められても嬉しくありませんし、責められても落ち込みません。私は人生のこうした二元性を平静に扱います。私は苦楽のどちらにおいても幸せです。私の中には愛しかありません。私の愛は、与え、与え、与えることで生きています。愛は決して受け取りません。これが、私の愛と、受け取ることだけを考える世俗の愛との違いです。だからこそ、私の愛はずっと拡大し続けているのです。小さな種が、多くの枝と実をつける巨大な木になります。その木の一切は、小さな種に起源があります。それと同じように、被造物は愛から生まれました。愛は神です。愛の中で生きなさい。愛を育みなさい。すべての人を心から愛しなさい。愛が現れて、初めてあなたは自己実現〔真我顕現〕を達成するのです。

 

 まず、自信を身につけなさい。自己信頼が土台です。自己満足が壁であり、自己犠牲が屋根です。自己実現がその家(人生という大きな館)です。すべては自己に包含されています。自己とは、アートマ、神霊のことです。このアートマの原理を用いて霊的な知識を得なさい。霊性の中にある力は無限です。愛の力は、原子爆弾の力をはるかに上まわっています。愛の力は、憎しみを抱いている人をも変えてしまいます。そのような神聖な愛を育みなさい。そうして初めて、バーラタ人の間に調和が生まれるのです。先ほどスピーチをしたチャバンは、至る所で暴力が横行していると述べました。人々の悪い思考がその原因です。ひとたび愛が芽生えれば、共同体に憎しみはなくなるでしょう。だからこそ、私は学生たちに繰り返し言っているのです。

 

一日を愛で始めなさい

一日を愛で満たしなさい

一日を愛で過ごしなさい

一日を愛で終えなさい

それが神への道

 

同じ神の力がさまざまな名前と姿形を持っている

 

 神は、創造、体系化〔維持〕、破壊の原因です。同じ神の力がさまざまな名前と姿形を持っているのです。例えば、アーンドラ プラデーシュ州の首相は一人しかいません。すべての部署は大臣たちが管理しており、大臣たちは首席大臣の直接の監督下にあります。

 

 それと同様に、全世界は3つの基本的な活動である創造、体系化〔維持〕、破壊の上に成り立っています。創造の面はブラフマーが、体系化はヴィシュヌが、破壊はシヴァが司っています。こうした権限の分散は、世界を円滑に機能させるために不可欠です。この3つの力を統合したものがGod、神です。Godという単語はG・O・Dという3つの文字で構成されています。GはGeneration「生成」、OはOrganisation「体系化」、DはDestruction「破壊」を意味します。このブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラの3つの側面が神を構成しているのです。誰も神の存在を否定することはできません。もし誰かが「神はいない」と主張するなら、その人に「あなたには、私の確信に疑問をはさむ権利はありません」と言いなさい。神の存在を否定する人には神は存在しないかもしれませんが、神を信じている人には神は存在します。「God is nowhere――神はどこにもいない」と言う人がいるかもしれません。nowhereのwhereからwの文字を取ってnoにつなげると「God is now here――神は今ここにいる」となります。これらはすべて、言葉の組み立てです。

 

神の原理を理解しなさい

 

 人は心の狭い感情によって人生を無駄にしています。人は自分と家族のことしか考えていません。これは愛の収縮です。全世界を一つの家族と考えなさい。それが愛の拡大です。さまざまな国は、世界という大きな家のさまざまな部屋のようなものです。それらの部屋に住んでいる人たちすべてを自分の兄弟姉妹と考えなさい。そのような関係を人類同胞と築けば、あなたは誰も憎まなくなるでしょう。

 

 愛の化身たちよ! 神性の原理を理解するよう努めなさい。この世界には、神以外、何一つ存在しません。この世界は物質とエネルギーから成り立っていると言う人がいるかもしれません。実際は、エネルギーだけがあり、物質はありません。あなた方が目にするどんな物質も、時間が経てばエネルギーに変わります。これは布です。布は糸でできています。糸は綿でできています。ですから、綿と糸と布は同一です。それと同様に、名前と姿形はさまざまですが、根本原理はただ一つであり、それは神性です。現代では、善いことをしている人を批判する人はたくさんいますが、善い行いに携わる人はほとんどいません。

 

 学生諸君! 少年少女たちよ! あなた方はバーラタと世界の解放者です。あなた方は未来のリーダーであり弁論者です。リーダーシップの資質を身につけなさい。

 

ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ

(世界中が幸せでありますように)

 

 ヴァージペーイー〔バジパイ首相〕は、「サルヴァ ブータ ヒテー ラタハ」(すべての生き物の幸福を願う)と言いました。誰もが健康で幸せであるべきです。それが私の本当の誕生日です。多くの人が私に「ハッピー バースデー」(幸せな誕生日でありますように)と願います。その願いを、幸せでない人たちに伝えなさい。私はいつも幸せなのに、私のために願う必要がどこにありますか?

 

 プラフラーダは、父親は息子が社会的に良い評判を得て初めて喜ぶのであって、息子が生まれた日を喜ぶではないと言いました。マーナヴァ〔人間〕とは何者ですか? マーナヴァは、まさしく神の化身です。「マ」は「無知」、「ナ」は「~がない」、「ヴァ」は「自分を律する」を意味します。ですから、「マーナヴァ」とは、「無知をなくして自分を律する者」という意味です。あなた方は気づきが化身した存在です。自分に付いている名前にのっとった行動をしなさい。あなたにティヤーガラージャ〔犠牲の王〕やラーマ〔喜びを与える者〕という名前が付いていたとしても、それだけでは不十分です。それらの理想に沿って生きるべきです。

 

 私たちが口にする食べ物には、神の力が宿っています。どの学生も、バランスのとれた食事をしなさい。オレンジジュース、トマトジュース、ライムジュース、リンゴジュースは、酸が多く含まれているので、とても健康に良いものです。葉野菜は、ビタミンも鉄分も含まれているので、栄養価が高いです。体は健康でなければなりません。健康な体があれば、どんな仕事でも引き受けることができます。

 

私の誕生日のメッセージ

 どこかに神を探しにいく必要はありません。神はあなたの体の隅々に、毛の一本一本に、内在しています。だから、シーターが感謝の印として真珠の首飾りを差し出した時、ハヌマーンは首飾りの真珠を噛んで捨てたのです。それらの真珠にはラーマの御名が鳴り響いていなかったからです。なぜそんなことをしたのかとシーターに問われたハヌマーンは、こう答えました。「あなたは真珠の価値で判断なさいますが、私は主の御名の神聖な響きに耳を傾けます。私にとって、ラーマの御名の伴わない宝石は石ころ同然です。私の体毛にはどれもラーマの御名が染み込んでいます」

 

 このように、神性はバーラタ人のすべての細胞、すべての毛に浸透しています。だからこそ、マックス・ミューラーをはじめとする多くの外国人は、この聖なる地に生まれて死ぬことを望んだのです。ヨーガ〔神との合一の行/自制〕とティヤーガ〔犠牲〕の神聖なこの国に生まれていながら、これらの聖なる価値を支持しないのは残念なことです。真のバーラタ人の人生を送りなさい。他の人々のために身をもって理想を示し、みんなを幸せにしなさい。これが私の誕生日のメッセージです。

 

 今日はこの体の誕生日です。実際には、私に誕生日はありません。皆さんがここに集まったので、私は今日を誕生日として祝っているのです。私には、この誕生日は重要ではありません。あなた方全員が幸せな日が、私の本当の誕生日です。私は何も欲しません。皆さんがプレーマ〔愛〕とティヤーガ〔犠牲〕とヨーガ〔神との合一の行/自制〕を吸収して、それによって神性を経験するとき、私は幸せでしょう。私は、皆さんが平安と安全の中で理想の生活を送ることを願っています。この縁起の良い日に、あなたのハートを高潔な感情で満たし、神の御名を唱えなさい。

 

1998年11月23日

プラシャーンティ ニラヤムの

サイ クルワント ホールにて

Sathya Sai Speaks Vol.31 C44

​決してあきらめない

ババからのお手紙

私の愛する者よ、
 

 

 瞑想にトライ、心が静まるようトライ、リラックスにトライ。トライし続けなさい。あなたが行う前向きな努力は、どれ一つ無駄にはなりません。レンガを一つ積み上げるたびに、レンガ造りのお寺は完成に近づいていきます。

 

 ですから、トライし続けなさい。すると、ある日、突然、あなたは心の低次の領域を突破して黙想の領域へと入り、「そうだ、分かった、私は理解した、今、自分がいる道が完全に分かった」と言えるようになるでしょう。トライし続けなさい。あなたはどこかで始めなければいけません。あなたが語ることのできない自分、それについて、あなたは、もしあなたがそうしたいと思うなら、ある方法で考えてみることができるでしょう。それは、あなたの心、体、感情を感知して、知ることです。
 

 

祝福と共に

ババ

1971年11月12日

Prema Dhaara Part2 No.45

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​第一の敵

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バール・ヴィカス
​の生徒たちへ

​第一の敵

 今日の世界は、恐れ、不安、あらゆる種類の恐怖症に悩まされ、病床でのた打ち回っています。しかし、それを治して健全な状態に戻す治療法がないわけではありません。世界を正すことのできる治療法とは何でしょう? 人間が、自分の高尚な運命、受け継いできた貴重な財産、生まれ持った強さと美徳に気づくことです。そうすれば、今日の病的な状況を引き起こしている、憎しみ、貪欲、猜疑心(さいぎしん)を取り除くことができます。兄弟愛の絆を深めることは、さまざまな実践者が提案している治療法です。しかし、それだけでは十分ではありません。平和と調和は、自分たちは兄弟だと言い合っても確保できるものではありません。私たちは、同じ母親から生まれた兄弟姉妹が互いに争い、互いを信頼し合うことがほとんどないという状況を見ています。彼らは怒りや妬みで心を汚し、人生を惨めなものにしています。子が親を敬う気持ちや、兄弟が協力し合う姿は、今の人類にはほとんど見られません。兄弟で財産の取り合いをし、時間とお金の大半を裁判に費やして、復讐心を燃やしています。

 

 自分の強さや力に対する慢心は、結果として多くの人に傷を負わせることになりかねませんが、その慢心が一番傷つける相手は自分自身です。慢心は、人間に取り憑く(とりつく)悪魔のようなもの(祓うのが難しいもの)です。他者を破滅させ、他者を踏み台にすることを促すそのエゴをサーダナ(魂の鍛錬)によって破壊するまでは、人は自分を人間であると主張することはできません。バガヴァッド・ギーターは、「ニル マモー、ニル アハンカーラハ」(「私のもの」や「私」のない状態)になるべしと、人に説いています。人に内在する神は、「私のもの」や「私」という闇の力が力を失ったときに、初めて現れるのです。

 

 エゴに打ち勝つのは、ほとんど不可能な仕事です。人生のあらゆる瞬間に人間を悩ましている、6つの内なる敵について聞いたことがあるでしょう。しかし、「私」や「私のもの」という感覚は、それよりさらに根深いのです。人間は、情欲、怒り、貪欲、執着、慢心、憎しみという、6つの敵を打ち破ってきました。実際、その勝利を収めた人は大勢います。けれども、自分のエゴを破壊して、エゴの邪悪な衝動から逃れた英雄は、実に稀(まれ)なのです。

 

エゴは親友を敵に回す

 

 エゴは茨であり、それをハートに植えて育てると、人はその代償を払わなければならなくなります。エゴは、親しい友人を敵に回し、多くの善行や事業を台無しにします。というのも、エゴは二人の人間がいっしょに働くことを許さないからです。悲しみは、影のようにその後に付いてきます。エゴのないところには、喜び、平和、勇気、協力、そして、愛が花開きます。自分を動かしているのと同じ神の意識が、他のすべての人を同じように動かしているということを認識したとき、愛はエゴを後ろへ追いやって、その人の行動と言葉と思考を司るようになります。

 

エゴが起き上がると知恵は台頭できない

 

 次の出来事を考えてみましょう。ある男が突然息子を亡くし、大きな悲しみに包まれました。そこで、隣人が男のもとへ行き、あれやこれやと論じたり、逸話を聞かせたりして慰めようとしました。「親しき友よ! なぜ人は生まれるのか? なぜ人は死ぬのか? 人が生まれる理由は、人が死ぬ理由でもある。誕生は死を意味する。運命は私たちと奇妙なゲームをしているのだ。私たちは人形劇の人形にすぎない。人が死んで悲しむことに何の意味がある?」。隣人は、自分が知っているすべてのヴェーダーンタ(無執着の哲学)を遺族の耳に注ぎ込みました。けれども、遺族の悲しみは、自分でその真実に気づくまで、変わらずに続きます。

 

 数ヵ月後、その隣人が息子を亡くしました。今度は数ヵ月前にヴェーダーンタの一切を聞き入れた男が隣人のもとにやって来て、自分がされたのと同じ質問を何度も繰り返しました。男は言いました。「人は自分のカルマ(運命付けられている行為とその結果)が残っているかぎり生き続けるものであり、償わなければならないカルマがなくなると生は短くなる。この一切は、古い借金を返済するためなのだ」。しかし、このようなことを言っても、悲しむ隣人を慰めることはできません。というのも、息子を失った当事者は隣人だからです。エゴが起き上がると知恵は台頭できません。「自分の息子」という気持ちが、当事者の悲しみと、そうでない人が平気でいられる、根本的な理由です。

 

 私たちは、自分たちのために家を建て、それが「自分たちのもの」であることを喜びます。家の壁に映画のポスターを貼られると、「自分たちの家」が汚されたと感じ、裁判までしてその犯人を懲らしめます。選挙の時期になると、人目につく不快なスローガンで壁の外観が損なわれ、「自分たちの」壁を汚したとして、あらゆる人と口論になります。しばらくすると、「自分たちの家」を誰かに売って、引っ越していきます。それ以降は、たとえその家に爆弾が落とされても、少しも胸を痛めません。長い間胸が痛んだのは、すべてエゴによるものだったのです。こうしたエゴは、どうやって入り込んでくるのでしょうか? それは、私たちの中に芽生え、私たちによって育てられ、私たちを根こそぎ破壊してしまう雑草なのでしょうか? そうしたエゴは、初めはどこにあったのでしょうか? 私たちが生まれる前はどこにあったのでしょうか? 私たちは死んだ後は、どこにあるのでしょうか?

 私たちの考えや推測はすべて、生まれてから死ぬまでの間の産物にすぎません。自分と結婚した女性が子供のころに重い病気にかかったときには、その女性は「自分のもの」にはなっていなかったので、心配することはありませんでした。私たちは、この種の執着を、人生の結合と安定をもたらす要素として育んでいます。ところが、私たちはこの執着を、魂の進歩の妨げとなるほど大きくしてしまうのです。迷妄ではなく、愛を育みなさい。自分の妻や子供を愛し、夫として、父親としての義務を果たしなさい。しかし、常に真の価値を持ち続けていなさい。平衡感覚を失くしてはなりません。

 

すべての縁戚関係は基本的に身体上のものでしかない

 

 例をあげましょう。細くて背の高い椰子の木が風で揺れています。その下の砂地に長い影ができていて、その影も揺れています。神は実物であり、この世はその影です。あなたは椰子の実が欲しいと思いましたが、影を木と勘違いして、細くて暗い影の線に沿って歩いていって、椰子の実の影をつかみました。これがあなたの迷妄です。そうではなく、実物の木に登りなさい。そうすれば、椰子の実は手に入ります。そうしている時、あなたの影も、暗い影の線に沿って歩いて、椰子の実をもいでいるように見えます。ですから、愛の道、神の道を進んでいけば、あなたは両方の世界を手に入れることができるのです。愛はあなたのハートをとても大きく広げるので、あなたは親類縁者に対する自分の義務から逃げだすことはできなくなるでしょう。〔しかし、〕妻、息子、母――すべての縁戚関係は、基本的に身体上のもの、体に縛られたもの、時間制限のあるものであるということを、常に忘れずにいなさい。

 

 エゴは、次から次へと欲求や願望の波をあなたの目の前に寄せ、それを手に入れるようにとあなたを誘惑します。それは決して終わりのない輪です。ですから、あなたのエゴの輪から解放されるために、欲求を減らし、愛の範囲を広げるよう努めなさい。生きることは、多くの対立、交際や別離、闘争や無視を伴うものです。私たちは、二種類の接触――ヴィヨーガ(不快な分離)とサムヨーガ(快い結合)の両方を手放す必要があります。神に執着すれば、この世の迷妄は自動的に消え去ります。ヒランニャークシャ、ヒランニャカシプ、カムサ、ラーヴァナ、その他の者たちの場合を考えてごらんなさい。彼らは、幸せで平安でいるための富と力のすべてを持っていました。しかし、彼らは自分のエゴに支配され、ついには破滅に至りました。

 

僧侶にはエゴの詰まった慢心があってはならない

 エゴは、賢者、学者、教師、敬虔な求道者を、普通の人以上に攻撃します。彼らのエゴは、彼らに、自分は議論で誰にでも勝てる、自分は一番学識がある、自分は最も神に近い存在だ、と断言させます。エゴが入り込むと、その後をすぐに妬みが追いかけてきて、ハートを占領してしまいます。

 

 宗教団体を傘下に持つグルの中には、あなたが今年のダシャラー祭にプッタパルティに行くと言うと、あなたを笑う者もいます。彼らは、「ということは、あなたもサイババ狂の犠牲者になったのか?」と、あなたをからかいます。それとは反対に、彼らは、「それはよかった! 心の安らぎを得ることができる場所、アーナンダ(神聖な至福)を得ることができる場所、神性を自覚することができる場所には、喜んで行くべきだ。あなたがそのような場所を得たことを、私は嬉しく思う。神は一つであり遍在なのだから」と言って、喜ぶべきでしょう。

 

 黄土色の袈裟(けさ)〔捨離の印〕を着ている僧侶には、エゴの詰まった慢心や妬みがあってはなりません。私は常々、神はどこにでも、誰の中にもいます、すべての名と姿は神のものです、と語っています。私はあなた方に、あなたが静かにサーダナを行える場所、神性の雰囲気を感じられる場所、愛を受けとれる場所、奉仕を通して愛を育める場所に行くよう、指示します。

 アルジュナが巨大なカーンダヴァの森を灰にしたときには、エゴが頭をもたげることはありませんでした。しかし、カウラヴァ軍の前に立ったとき、エゴはアルジュナに逃げろと言いました。アルジュナはその戦いのために膨大な準備をし、長年にわたる苦行と冒険の末に特別な武器を集めていました。クリシュナは、自分がカウラヴァ軍との調停に入り、カウラヴァ軍がパーンダヴァ軍の嘆願を聞いてくれれば、戦争を回避することができる、と申し出ました。アルジュナはクリシュナに異議を唱え、それは失敗するに違いないと言いました。「ジャスミンの花は、火に投げ入れられても香りを放つことができるでしょうか? なぜ、聞く耳を持たない彼らにあなたの優しい説得の言葉を語って言葉を無駄にするのですか? 命を奪う猛毒から命を支える甘露を得ることができるでしょうか? あなたは彼らの中に入っていくことで嬉しいかもしれません。しかし、私は戦いに賛成です。今この瞬間も」

 

 それほど勇敢で好戦的だったアルジュナが、突然、エゴの迷妄に襲われたのです。アルジュナは言いました。「私には、墓地を統治したいという願望はありません。自分の親族を殺すくらいなら、物乞いをして暮らすほうがましです」。するとクリシュナは、ギーターの中でアルジュナにこう言いました。「ニルマモー ニルアハンカーラハ プラシャーンティム アドヒガッチャティ」――『私』や『私のもの』のない状態、つまり、これは『私』である、これは『私』ではない、これは『私のもの』ではない、といった性癖をなくした者だけが、プラシャーンティ(より高次の平安)に到達できるのだ」と。

 

サティヤ サイババ述

プラシャーンティ ニラヤムにて

1978年10月11日

Sathya Sai Speaks Vol.14. Ch12

​バール・ヴィカスの生徒たちへ

ブリンダーヴァンにて

愛しい子供たちよ

 

 私の愛と祝福を受け取りなさい。あなた方の兄弟、姉妹、両親、先生方への祝福も。あなた方のクラスは「バール・ヴィカス」〔子供の開花〕という名前が付けられています。「ヴィカス」の意味は、咲く、花が咲く、というものです。花は私たちを喜ばせてくれます。なぜなら、花は美しく、よい香りがして、活きいきとしているからです。子供はみんな、それぞれがサイの庭の花です。子供の柔らかさ、無邪気さ、純真さは、人を子供に引きつけます。子供はたいへん愛に満ちているので、そのお返しに、誰もが子供を愛します。子供は利己的ではありません。子供は他の子供たちと自由に遊びます。子供はいつも本当のことを話します。子供は自分の好きなものを遊び友だちと分かち合います。その分かち合いは子供に大きな喜びを与え、他の人たちにも喜びを添えます。子供たちよ! これらの価値を育てなさい。それから、自分ができるときには、いつでも他の子供を助けなさい。そして、両親が助けを必要としているときには、両親を助けなさい。両親を幸せにしなさい。両親があなたとあなたの善良さを誇りに思うような子供になりなさい。あなた方のグル〔導師〕である先生方の教えをよく学び、先生方があなた方に守るようにと助言する「すべきこと」と「してはいけないこと」を守るよう努めなさい。

 あなた方は今、長い人生という旅の第一段階にいます。あなた方の前にはたくさんの大きなタスク〔課業〕があります。あなた方には、母国を幸せで豊かな国にするために果たすべき、たくさんの義務があります。今の少年少女たちは、未来のお医者さん、エンジニア、役人、農夫、商人です。この広大な国を発展させ、守り、何万という家庭に喜びをもたらしなさい。インドと世界には、莫大な物質的資源がありますが、それらの資源を人のために使うことができるよう、あなた方のハートと手は、Will〔意志〕とSkill〔技能〕を提供しなければなりません。自分の準備を整えて、その役目に備えなさい。あなた方が、人々に仕える、強くて、勇敢で、私心のない召し使いへと成長するよう、私はあなた方を祝福します。サイはいつもあなた方と共にいます。サイは子供たちをとても愛しています。なぜなら、子供たちは、規律を守り、献身的で、いつも喜んで自分の義務を行うからです。

愛と祝福を込めて

ババ

Prema Dhaara II No.32

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​創造の神秘

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最終目標に意を
​定めなさい

​創造の神秘

この世の鳥や獣は

教育を受けていないにもかかわらず

節度ある生活を送っている

人間は知能に恵まれているのに

なぜそのような感覚に欠けているか?

 神の愛の化身たちよ! 現代人は、鳥のように空を飛び、魚のように海を泳ぐ方法を身につけました。しかし、地上で人としてどう生きるべきかは、身につけていません。科学は空を飛ぶことや海を泳ぐことを人間に教えることができます。しかし、人は地上で人としてどう生きるべきかを教えることができるのは宗教だけであり、科学にはそれはできません。ですから、もし科学が人間の全面的な発達を促そうとするならば、宗教の助けを借りなければなりません。宗教とは、いくつかの教義に盲従することではありません。宗教は、人が識別力と神聖な価値に基づいて人としての生の最終目標に到達することを、助けるものです。

すべての宗教〔伝統宗教〕は、

善いことだけを教えている

それらを正しく理解して、人生を律するべし

自分の心が善良であれば

宗教の中に悪を見つけることができようか?

 ですから、どの宗教も決して悪いものではありません。だからこそ、偉大な科学者アインシュタインは、科学なき宗教は不具であり、宗教なき科学は盲目であると公言し、人類の必要に応えるためには、科学と宗教の分別ある結合が必要である、ということを強調したのです。

すべての宗教は人間的価値を強調している

 宗教は、統合的な人格の発達を促進する上で、非常に大きな助けとなるものです。宗教は、多様性の中の単一性を強調しています。真の宗教は、すべての宗教の調和と単一性を説いています。すべての宗教の本質と目的は、マインドとハートの清らかさを達成することです。どの宗教も独自の戒律と原則を持っています。しかし、憎むことや非真や不義を教えている宗教はありません。「真実を語りなさい」、「正義を実践しなさい」――ウパニシャッドはそう指示しています。同様の聖なる指示は他のどの宗教にも見られます。

 このように、すべての宗教は人間的価値を強調し、人類の適切な進歩と発展のための道標として役立っています。それらはすべて、人に内在する神性の顕現を促進するものです。ところが、現代人、特に若者は、古くからの文化や神聖な価値を忘れ、現代の科学技術に誘惑されて、神に別れを告げています。

 しかし、時が経つにつれ、科学者自身も、宇宙は何らかの神聖な力に導かれている、支配されている、という見解に傾いてきました。宇宙に存在する無数の星や惑星は、とてつもないスピードで回転しています。もし、その軌道や速度から少しでも外れたら、宇宙の大惨事となるでしょう。いったい誰がその速度や軌道を守るよう命じたのでしょうか?

科学者と創造主の違い

 現代の科学者は人工衛星を作り、それらは地球の周りを回っています。しかし、それらの衛星は数日か数ヶ月で墜落したり炎上したりしています。一方、神の創造物である惑星は、太古の昔から規則正しく周回し、墜落したり炎上したりすることもありません。光は、秒速18万6千キロマイルで進みます。これだけのスピードがあっても、光が太陽や星団や星座の周りを回るには何年もかかります。天の川には私たちの知らない星が無数にあります。その中には、誕生から長い年月を経ているにもかかわらず、まだその光が地球に届いていない星もあります。科学者でさえ、創造物のこういった側面を完全に理解することにおいては、沈滞しています。創造の神秘のほんの一部を発見しただけで誇らしげに慢心を膨らませる科学者と、何の誇示も慢心もなく、平安に、静かに、忍耐強く、愛情深く全宇宙を動かしている創造主(神)の違いは、どれほどのものでしょう!

 これだけではありません。創造物すなわち自然界が機能するための方法は、言葉では表せないほど驚くべきものです。例えば、人間が吐き出した二酸化炭素は植物に取り込まれ、植物が放出した酸素は人間に吸い込まれます。自然界におけるこうした互恵的な取り決めは、誰が作ったのでしょうか? プランダラダーサといった詩聖たちは、全能の主への賛美を次のように歌っています。

山の岩の隙間に生える小さな灌木(かんぼく)や、巨大な樹木に水をやり、

手入れをし、育ててきたのは誰か?

美しい孔雀(くじゃく)の体や尻尾を、

これほどまでに魅力的な色で描いたのは誰か?

緑の体と赤いくちばしという、

オウムのすばらしい配色をデザインしたのは誰か?

 

 科学者は、こうしたことの一切を「自然の法則」だと言い抜けるかもしれません。しかし、科学者は、自然を超越することや、自然界に存在する物質なしで済ますことが、できるでしょうか?

科学者たちの「創造」と言われているもの

 科学者が自分たちの「創造」であると主張しているものは、自然界に存在する基本的な物質の組み合わせから得られたものにすぎません。例えば、科学者は水素と酸素を組み合わせて水を作り出します。ですが、では、どこの科学者が水素と酸素を生成あるいは創造したのでしょうか? これらの元素は太陽の光によって生成されます。同様に、科学者が作り出すものはすべて、自然界にすでに存在している物質の順列と組み合わせに基づいているのみです。この事実は、ほとんどの科学者が都合よく無視しています。自然のミステリーや神秘に思いを馳せるとき、愚か者でさえ、それらのすばらしい現象の背後にある、神聖な力の存在を認めざるを得ないでしょう。

 別の例で考えてみましょう。世界には50億8千万人近くの人類がいます。しかし、これほど莫大な数の人口の中で、二人が全く同じ顔の人はいない、というのは驚くべきことです。神以外、どのクリエーターがこれほど超絶な業をなせるでしょうか! 現代のクリエーターが製作する品物は、同じ型で作られるため、どれも同じです。なんという違いでしょう! ですから、学生諸君は、創造の神秘を理解するよう努めるべきです。

自然界のバランスを崩す科学者たち

 私たちには、被造物を軽く見て、被造物は知覚を有しない自然にすぎない、と考える傾向があります。そのため、それこそが自然を制御し、自然のさまざまな構成要素の間に適切なバランスを与えているものである、知覚を有する原理を無視しているのです。科学者や科学技術者たちは、利己的な興味や名声を追い求め、社会と国家の安全と幸福にはまったく注意を払わず、自然のバランスを崩して、社会全般に災害や損害や苦痛を招いています。例えば、海水には地球で必要とされる10年分以上の空気が含まれています。空の一回の雷は全世界で必要とされる電力のゆうに20年分を放出します。

 巨大なダムを建設して大量の水を一ヶ所に貯めることで、その土地の地盤が沈下し、その結果、シーソーのように別の土地の地盤が上昇します。科学者や科学技術者による、鉱物、雲母、石炭、石油、その他のオイルを掘り出すための、さまざまな種類の鉱山など、天然資源を無差別に開発することは、五大元素のバランスを崩し、汚染をもたらし、地震や噴火といった大災害を引き起こします。

 産業、工場、自動車などの急激で過剰な増加は、大気汚染と共に、好酸球増多症、喘息、難聴、肺炎、腸チフスなどの増加の原因となっています。しかしながら、科学それ自体は悪くありません。必要なのは、人間が思慮分別を持って科学を正しく使うことです。

学生は神の存在を信じていなければいけない

 現代の学生たちは、科学者の言うことを盲信し、疑うことなく信じています。その一方で、どんなにやかましく言われても、神への信心を持ちません。親愛なる学生諸君! 第一に、神の存在を信じることです。その単純な理由の一つに、あらゆる言語の辞書には、他のさまざまな単語に混じって「神」という単語が入っている、ということがあげられます。どんな辞書にも、鳥や獣といった生き物や、無生物など、この世に存在するものを指す単語しか載っていません。この世に存在しないものは、辞書には載っていません。「神」という単語がすべての辞書に載っているという事実は、神の存在を証明するのに十分です。たとえあなたが辞書に載っているもののいくつかを見たことや体験したことがなくても、それを見たり体験したりした人たちは他にいます。

 ですから、辞書に記載されているものの存在を、あなたの限られた経験に基づいて否定することはできません。あなたが神を体験していなくても、神を体験した人がいるからこそ、「神」という単語が辞書に載っているのです。「空花(空華:くうげ)」(sky-flower)、「兎角(とかく)」(rabbit-horn)など、この世に存在しないものを指す単語もある、と主張する人もいるかもしれません。しかし、それらは単語ではなく別の2つの単語を組み合わせた複合語である、ということを分からなければいけません。「空」と「花」という単語は、それぞれ存在するものを指しています。同様に「兎(うさぎ)」も「角(つの)」も存在します。しかし、「空花」「兎角」という人工的な造語に当てはまるものは、この世には存在しません。

神の創造物の神秘

 ある科学者が、霊性用語で使われているパラマ・ハムサ(至高の白鳥)という単語の意味を知りたがりました。その科学者は、白鳥がミルクの混じった水にくちばしを浸してミルクと水を分けるように、パラマ・ハムサは適切な探究とその結果としての知恵によって、アートマ(真我)とアナートマ(真我でないもの)を分けるのだ、と言われました。科学者が逆に、白鳥にミルクと水を分ける能力を与えたのは誰か、と問われると、科学者は、白鳥のくちばしから分泌される酸がミルクの混じった水に触れると、酸がミルクを硬化させ、ミルクと水を分離させるのだ、と答えました。しかし、であれば、その酸を白鳥のくちばしに入れたのは誰か、という疑問が生じてきます。どこかの科学者が入れたのでしょうか? いいえ、そのようなことをするのは神だけです。これは、まさしく、神の創造物の神秘です!

 今から50年ほど前、科学者たちは「原子エネルギーに勝るものはない」と考えていました。もしこれ以上、原子力の核分裂を進めたら、大惨事になると恐れていました。しかし、この50年の研究と実験の後、科学者たちは、原子力よりも大きな力があることを発見することが可能になりました。同様に、今は神の体験がない人も、例えば、10年後には体験するかもしれません。神性はすべてに浸透しています。このことを固く信じることです。神への信心がなければ、人としての生は無駄になってしまいます。物理科学と共に、少なくともスピリチュアル・サイエンス〔精神科学/霊性の科学〕をある程度は理解するよう努めるべきです。

不必要な疑念に余地を与えない

 最近の学生は、不必要な疑念に余地を与えるようになりました。ある青年が私のところにやって来て言いました。

 「スワミ! シャンカラは、ブラフマンは実在で、世界は幻である、と断言しました。ですが、実在すると言われるブラフマンは、どこにも見えません。一方、私たちは、日常生活の中で、幻の世界と言われるものを、利益と損失、喜びと悲しみの一切と共に、それも1年や2年どころか、何年もはっきりと体験しています。それなのに、どうしてこの世は幻想だと信じられますか?」

 それに対して、私はこう答えました。

 「私のいとしい青年よ! そのような疑問について考えて、時間を無駄にしてはいけない。なぜ、ブラフマンやこの世の実在性や非実在性について気をもむのですか? その疑問はそれら(ブラフマンとこの世)に任せておけばよいのです。まずは、自分自身の真実を見いだすことです。あなたは、自分は実在すると思っているかもしれません。けれども、実在すると見なされるのは、過去・現在・未来という3つの時間すべてにおいて、どんな変化もしないものだけです。この基準に照らし合わせると、あなたの体は、刻々と変化し、また、いつでもすっかり消滅してしまう可能性もあるのですから、幻であると見なされます。同じことが、この世の他のものについても言えるのです」

 現代の若者は、自分は何も変わらないと主張して、自分の体は、生まれた時、幼少期、青年期、成人期、老年期、死ぬ時と、刻々と姿が変わっていくことを免れない、という事実を忘れています。このように、この世のすべてのものは刻々と変化しており、それこそが、この世は幻であるとされる理由なのです。シャンカラは、この世はまったくの非実在である、とは言っていません。シャンカラがこの世は幻だと言ったのは、この世には実在と非実在が混在し、ある時は現れ、ある時は消えるからです。しかし、学生諸君は、幻の世界の根底には実在の基層がある、ということを理解すべきです。これは、今、私のテーブルの上にある銀のお皿で説明することができます。このお皿は、明日にはコップに、あさってにはスプーンに変えることができます。けれども、そういった変化する名前や形態の中に潜んでいる物質は、変化することのない銀であり続けます。それでも、銀とカップ(あるいはお皿)は分離できません。それと同じように、ブラフマンという不変なる実在が、常に変化している幻の世界の根底にある基層なのです。

「疑う者は滅びる」

 現代の学生は、いくつもの疑念の犠牲になっています。なぜなら、学生のレベルまで降りてきて物事を明確に説明することのできる有能な教師が少ないからです。この講堂の後ろの壁に掲げられているスローガン、「サムシャヤートマ ヴィナーシャティ」(疑う者は滅びる)と「シャラダーヴァーン ラバテー グニャーナム」(信じる者は英知を得る)の意味を、学生たちに理解させましょう。悟りには、ニシサムシャヤム(疑いからの解放)とシュラッダー(信心/シラッダー)の両方が必要であり、それはちょうど、光が現れるにはプラスとマイナスの電流が必要なのと同じです。したがって、一方には疑念からの解放、もう一方には信心が必要であり、それらが2つの土手を形成し、それらに沿って、あなたの人生という川が流れていくべきなのです。そうすれば、最終的にその川を神の恩寵という海に合流させることができるでしょう。

 女性聖者ミーラーは言いました。

 「あらゆる苦難を乗り越えて、私は世俗の生活という海の深くに潜り、ついにクリシュナの御名の中にある貴重な真珠を手に入れました。もしもこの真珠を失ったなら、二度と手に入れることはできないかもしれません。ですから、おお主よ! あなたは私の唯一の避難所なのです」

 あなた方学生も、このような黄金の機会(夏期講習)は二度と得ることができないかもしれません。ですから、今、あなたの手に届く、貴重な考えといういくつかの真珠を、注意深く保管すべきなのです。そうすれば、それらは生涯を通じてあなたの役に立つことができるでしょう。

 

サティヤ サイ ババ述

1992年5月26日

ブリンダーヴァンの大学講堂にて

Sathya Sai Speaks Vol.25 Ch18

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​最終目標に意を定めなさい

私の親しき愛する者よ、

 

 あなたと、あなたの友であるすべてのサーダカを祝福します。しっかりとした信仰心を持って、霊性修行を続けていきなさい。急いだり、あまりに早い結果を期待したりしてはなりません。ゆっくり熟すことで、果物は甘くなるのです。

 

 あなたは主の手の中にある道具であるということを覚えていなさい。しかし、あなたはジャダすなわち自動力のないものではありません。あなたには、知能、識別力、そして、この世に対する自分の執着を解く力があります。この三つは、ヴィヴェーカ、ヴィチャクシャナ、ヴァイラーギャムと呼ばれています。これらを伸ばせば伸ばすほど、あなたは良い道具になります。知能は、感官を服従させることができなければいけません。識別力は、永遠と完全に至る道を示さなければいけません。ヴァイラーギャムは、あなたをより高い目標だけに執心させなければいけません。

 

 道を歩いていると、道の出っ張りにも、くぼみにも、その人の影ができます。道端に茨やゴミがあろうが、影が何に遭遇しようが、その人は気にしません。あなたは本体であって、影ではありません。あなたは体の中に入れられている神の火花であって、体ではありません。
 

 地面に椰子の木が生えているとします。椰子の木の影は、地面の前方に伸びています。影はこの世であり、椰子の木は実在です。椰子の木に登って、てっぺんの椰子の実に手を伸ばしなさい。そのとき、あなたの影も椰子の実の影に手を伸ばします。これはつまり、サーダナをして目標に到達しなさい、そうすることによって、あなたはこの世の幸せと平安にも到達する、ということです。

 

 もし誰かに奉仕するため、助けるため、慰めるため、励ますために手を動かすなら、それは神のために手を動かしているのです。なぜなら、どの人の中にも神がいるからです。体は個人の魂の寺院であり、世界は全宇宙の魂の寺院です。あなたの才能のすべてを、他の人々に奉仕するために使いなさい。それはあなた自身に奉仕する一番の方法です。というのも、人々とあなたは一つのものだからです。

 

 あなたのあらゆる切望が実を結ぶ時が、急速に近づいています。私はどの特定の場所にも属していません。私は全世界のために来ました。すべての人は私のものです。どこに建っていても、病院には私の祝福があります。

 

 本に英語以外の言葉の意味と写真を添えて送ります。

 

祝福と共に
 

シュリ・サティヤ・サイ・ババ

プラシャーンティ・ニラヤム

1965年8月11日

Prema Dhaara Part2 pp102-103

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​アヴァターはなぜ
やって来るのか

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小さな「私」を
​克服しなさい

​アヴァターはなぜやって来るのか​

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デーホー デーヴァーラヤハ プロークトー

ジーヴォー デーヴァハ サナータナハ

――永遠なる至高者は新たなジーヴァとして

生まれて人体という神殿に宿る

 そのために、アヴァター(神の化身)はすべて、人の姿をまとうのです。聖典は、神は信愛に服従する、と明言しています。

 

 ギーターの中で、主は人においては識別力すなわちブッディ(知性)である、と明言しています。人は、あらゆる形態の富を手に入れることで偉大さを得ることはできません。人を尊敬に値するものにさせているのは、知性の存在です。その識別力を発揮しない者は、鳥や獣にも劣ります。

 

 神がアヴァターとなって降臨するのは、人間をより高いレベルに引き上げるためです。アヴァターとは、降りることを意味します。大切に世話をするために身をかがめて子供を抱き上げるため、そして、つまらないものを欲したり追求したりすることにとらわれている人間を引き上げるために、神は人間のレベルまで降りてきて、どうすれば人が自らを神格化できるかを教えます。これはギーターが説いていることです。聖書やコーラン、その他、どの偉大な聖典も、すべて同じ目的のためにもたらされました。聖典それ自体が人間を救済することはできません。聖典は道標としての役割を果たすのみです。聖典は神を悟るために進むべき道を示しています。