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​サイの御教え

SRI SATHYA SAI RAM NEWS 

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​内なる三位一体

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新婚カップル
​への祝福

240501

​内なる三位一体​

2000年夏期講習のババの御講話

邪悪な思考は人を下劣にする

善良な思考は人を高貴にする

けれども、もし思考が完全に終息したら

そのとき、その人は平安を確保することができる

これはサイの言葉

 愛の化身たち、少年少女たちよ!

 人間は、この広大な創造世界の最も貴重な宝石です。生きとし生けるものの中で、人間は最も高貴な、最も高位の存在です。人間として生まれるのは、あらゆる生の中で最も偉大なことです。ですから、人生を正しく生きることは必須です。

 

 人間の生は、どこからその神聖さを得るのでしょうか? どこからその価値を得るのでしょうか? 人間の生に価値を与えるのは、体すなわち人間の姿形でしょうか? いいえ! 体は五元素(腐敗しやすいもの)で出来ています。この観点から、体は肉と骨で出来ていて、まだ排泄されていない汚い糞尿がその中に詰まっているものである、と見なすことができます。その一方で、体はアートマの住まいでもあり、そのことが体をたいそう価値の高いものにしています。

 

 三位一体によって象徴される三つの原理

 

 愛の化身たちよ! ディーパク・アーナンド(先にスピーチをした学生)はこう質問しました。「ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラの両親は誰でしょう?」 この質問の答えを知っている人は誰もいません。ウパニシャッドも他のさまざまな聖典も、このテーマに光を投げかけてはいません。ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラには肉体がありません。しかし、彼らはグナスワルーパ、つまり、特定の性質や属性を象徴しています。彼らが体内に存在していることによって、人間に潜在しているグナや固有の傾向と共に、感情、思考、言動のすべてが動機づけられるのです。現代人は、人間という存在の正しい意味さえ理解していません。それでどうして自分が神であることを理解することができるでしょうか? あなた方の最初の課題は、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラは自分の内にいるということを理解することであるべきです。

イーシャー ヴァースヤミダム ジャガト

 〔すなわち、〕神は全宇宙に満ちており万物に宿っている、のです。神はあなたの中に住んでいる存在です。神はアートマです。シュルティすなわち聖典〔ヴェーダ〕には、すべての人の中に存在しているこのアートマの特別な呼び名が述べられています。それは「フリダヤ」です。フリダヤとは、(霊的な)ハートのことです。アートマすなわちフリダヤは、イーシュワラとも呼ばれています。マインドド(心)はアートマから生じたものであり、ヴィシュヌの具現です。ヴェーダにはこうあります。

ヴィシュワム ヴィシュヌマヤム ジャガト

 〔すなわち、〕ヴィシュヌは全宇宙に満ちている、のです。マインドも同様です。マインドも全宇宙に満ちているので、ヴィシュヌと同一視されます。したがって、イーシュワラとヴィシュヌはすべての人の中にいるのです。

 

イーシュヴァラサルヴァブーターナーム

 

 〔すなわち、〕イーシュワラは万物に宿っている、のです。ヴィシュヌの原理はイーシュワラの原理から生じます。

 

 次に、ブラフマーです。伝統的に、ブラフマーはヴィシュヌのへそから生じた蓮に座っている者として描かれています。個人においては、ブラフマーは話す言葉と結び付いています。ブラフマーはヴァークスワルーパ、つまり、話す言葉として顕現します。これは、言葉の出所はマインドであるためです。

 

 聖典は、神を次のように表現しています。

シャブダブランマーマイー、

チャラーチャラマイー、

ジョーティルマイー、

ヴァーングマイー、

ニッティヤーナンダマイー、

パラートパラマイー、マーヤーマイー、

シュリマイー

 〔すなわち、〕全能の神は、原初の音であり、不動であると同時に可動であり、神の光であり、言葉であり、永遠の至福であり、至高の存在であり、幻影であり、究極の富である、のです。これは、神を包括的に叙述したものです。こうした神性は、三つの原理として個人の中に現れます。それは、アートマの原理、マインドの原理、そして、言葉の原理です。マヘーシュワラ〔イーシュワラ〕、ヴィシュヌ、ブラフマーは、相互に関連するこれらの三つの原理と結び付いています。ブラフマー、ヴィシュヌ、イーシュワラは、特定の姿形を持ちませんが、今言及した三つの原理として個人の内に現れるのです。

 

 清らかな感情と思考と言葉によって神の原理を表現しなさい

 

 アートマはどんな姿形をしているのでしょう? イーシュワラはどんな姿形をしているのでしょう? アートマは純粋意識、すなわち絶対意識であり、意識にはどんな姿形もありません。個人において、絶対意識は良心として機能し、その住まいはハートです。認識力を有するマインドはアートマから生じます。外界と内界の両方を認識することができるのがマインドです。さらに、マインドは言葉や発言の源でもあります。折に触れてスワミは、あなたは一人ではなく三人であるということを思い出させています。

 

あなたが自分だと思っているあなたは、

あなたではありません

他の人があなただと思っているあなたは、

あなたではありません

本当の自分が、あなたです!

 これは、あなたは根本的に、三つの原理が一つになったものである、ということを意味しています。あなたは、ハート〔フリダヤ〕とマインド〔マナス、心〕と体の複合体です。そして、イーシュワラ、ヴィシュヌ、ブラフマーが、あなた自身のこの三つの側面の霊妙な基盤をもたらしているのです。

 

 スワミは先ほど、ヴィシュヌは万物に満ちている存在であると言いました。つまり、ある意味で、ヴィシュヌは広大さを象徴しています。マインドも広大で、万物に満ちているものであり、全世界に満ちています。

 

マノームーラム イダム ジャガト

〔全宇宙はマインド(マナス、心)

を基盤としている〕

 

 マインドは空間にも時間にも縛られず、いつでもどこへでも行くことができます。宇宙レベルでは、イーシュワラ、ヴィシュヌ、ブラフマーは全能であるだけでなく、時間と空間をも超越しています。そして、それぞれが、純粋意識として、普遍的な心として、原初の音として、どこにでも存在しているのです。この三位一体の宇宙それ自体が、個人にも内在しています。

アノーラーニャーン マハトーマヒーヤーン

〔(神は)最小のものより小さく、最大のものより大きい〕

 宇宙に満ちている神は、小さな原子の中にも存在しています。宇宙を動かしている神の力は、原子も支配しています。宇宙に内在する三位一体を直接見ることはできません。しかし、もし自分に内在している三位一体の原理を理解することができれば、宇宙に内在している三位一体を理解することは容易になります。

 

 (霊的な)ハートはイーシュワラを象徴しています。ハートをイーシュワラと見なす人は、決して悪い感情を抱くことがないでしょう。神は次のように描写されています。

ニルグナム、ニランジャナム、サナータナム、

ニケータナム、ニッティヤ、

シュッダ、ブッダ、ムクタ、

ニルマラスヴァルーピナム

 

 これは、神はあらゆる姿形を超越しており、あらゆる属性を持たず、永遠であり、神髄そのものであり、原初の知性であり、清らかで、汚れ(けがれ)なき存在である〔等々〕という意味です。人間は、自分の中に潜んでいる神聖な力をどれだけ誤用していることでしょう! 人間は、無垢(むく)なハートを持っていながら、ハートを持っていない愚か者のように振る舞っています。ハートは神の座であるということを心に留め、いつでも神への思いに浸りながら生活しなければいけません。

 

 神は、思考を超越した存在であるのは間違いのないことですが、人間においては思考や言葉となって現れます。それはどのような類いの言葉でしょうか? 神聖で、縁起がよく、甘美で、優しい言葉です。もし私たちの言葉がこのような性質のものであれば、私たちの発言や会話はどれほど甘美なものになることでしょう!

 

 愛の化身たちよ! 神が世界を静かに支配しているように、私たちも思考と言葉と行動を完全に支配しなければなりません。甘美な言葉、すなわちブラフマヴァーク〔神の言葉〕が、私たちの中から出てこなければいけません。もし私たちがハートに内在するイーシュワラを体験すれば、そうした言葉が自動的に出てくるはずです。

 

 ヴィシュヌについてはどうでしょうか? どのような姿形で存在しているのでしょうか?スワミはすでに、ヴィシュヌはマインドとなって具現化しているということを述べました。マインドはきわめて強力であり、人間にとって最も重要な道具です。ですから、マインドは本来、汚れのない、甘露のようなものであるはずです。ヴィシュヌは常に穏やかで、微笑んでいます。これらの側面を反映して、マインドは常に穏やかで、落ち着いていて、喜びを放つものでなければなりません。

 神はあなたが神を思うことだけを望んでいる

 ある時、リシたち(サナカ仙やサナトクマーラ仙など)が、主ヴィシュヌのダルシャン〔拝謁〕に行きました。一般的には、このような機会には、きちんとした正装で行くものだと思われています。しかし、その聖賢たちは、生まれたばかりの赤ん坊の姿、つまり裸で行きました。その理由は、赤ん坊は清らかであり、肉体意識を持っていないからです。聖賢たちのこの行いの深い意味は何だったのでしょう?それは、清らかなマインドを体験するためには肉体意識の一切を捨てなければならないということです。ヴィシュヌは清らかなマインドの象徴であり、だからこそ、聖賢たちはそのような行動をとったのです。

 

 ここにボランティアの人たちがいるように、ヴィシュヌの門前にはジャヤとヴィジャヤという二人の門番がいました。聖賢たちが服を着ていないのを見て、二人は強く抗議して入場を禁じました。二人は「そのままでは神に会いに行くことはできない!」と言いました。聖者たちはこう返答しました。

 

 「神は清らかで、汚れなく、原初のものであり、あらゆる属性を超えた存在です。そのような主のダルシャンには、原初の姿で行かなければなりません。それこそが、私たちが行っていることなのです」

 

 門番たちはその言い分を受け入れず、口論は激しくなりました。すると聖賢たちは、ジャヤとヴィジャヤが地上にラークシャサ(羅刹、悪魔)として生まれてくるよう呪いました。

 

 〔ジャヤとヴィジャヤはヴィシュヌ神に訴えました。〕

 「おお主よ! 私たちにはあなたを見ることによって至福を得ること以外に望みはありません。あなたのダルシャンは私たちの喜びであり、あなたのスパ ルシャン〔触れること〕は私たちの食事であり、あなたのサムバーシャン〔会話をすること〕は私たちの呼吸そのものです。私たちは常にあなたのダルシャン、スパルシャン、サムバーシャンを切望しています。私たちの運命はこれからどうなるのでしょうか?」

 ヴィシュヌは答えました。

 「そなたらが呪いから逃れることはできず、悪魔となって生まれるしかない。そなたらは九回生まれ変わらねばならない。しかし、そのすべての生において、そなたらは私に対して善良で、献身的であるだろう。それにより、私の恩寵を得ることができ、やがて二人とも私のもとに戻ってくるであろう」

 すると、門番たちは叫びました。

 「おお、聖賢たちの心を動かす主よ、けれども、それでは、私たちはたいそう長い間あなたから離れていることになります!」

 主は答えました。

 「なら、私はそなたらにこういう選択肢を与えることもできる。九回ではなく、三回生まれ変わるだけでよいが、その三回の生では、私を憎み、常に私を罵倒し、私の敵となる! その覚悟はあるか? 選択はそなたら次第だ」

 すると、ジャヤとヴィジャヤは言いました。

 「私たちは、あなたを褒めなければならなくても、罵倒しなければならなくても、気にはしません。私たちの望みは、ただ一刻も早くここに戻ることです」

サルヴァダー サルヴァカレーシュ

サルヴァットラ ハリ ドゥーシャナム

 〔すなわち、〕いつでも、どこでも、どんな場合でも、神は罵倒されるものである、ということです! これがジャヤとヴィジャヤのしたことであり、二人が躊躇(ちゅうちょ)なく罵倒の道を行ったのは、そのほうが早く主のもとに戻れるチャンスが与えられるからでした。

 

 もし誰かがクリシュナを泥棒と呼んだら、帰依者たちは即座に異議を唱え、そう呼んだ人に襲いかかるでしょう。しかし、愛と信愛を込めて、

チッタ チョーラ ヤショーダー ケー バール

ナバニータ チョーラ ゴーパール

〔心泥棒、ヤショーダーの子、

バター泥棒、牛の守護者〕

 と歌えば、皆が歌に加わり、手拍子をします。この歌はクリシュナを泥棒と呼んでいるのではありませんか? しかし、信愛の音楽は歌に甘さを添え、罵倒は消えてしまいます。

心を制し、口数を少なくしなさい

 ヴィシュヌはマナスワルーパ、つまりマインド〔マナス〕となって顕現する者です。ヴィシュヌは、よく想像されているような、シャンカ(法螺貝)やチャクラ(円盤)やガダ(棍棒)を持っている者ではありません。そうした一般的な肖像は、有名なラヴィ・ヴァルマを中心とした画家たちによって作り出されたものです。ヴィシュヌは清らかなマインドの中に現れます。だからこそ、スワミはダイヤモンドの指輪を与えるとき、しばしば、「ダイヤモンドはDIE MIND(マインドの死滅)を意味します!」と言うのです。これは、世俗的な思考を消滅させなければならないという意味です。どのようにして? 気まぐれで、常に揺れ動いている人間のマインドを、清らかで、常に安定していて、愛に満ちた神のマインドと置き換えることによってです。

 

 人のマインドがヴィシュヌの具現であるように、言葉すなわち発言はブラフマーの具現です。ですから、不適切な話に陥らないよう、細心の注意を払わなければなりません。注意深くなるための最良の方法は、モーナムすなわち沈黙を、実践することです。これはまさに、古代のリシたちが行っていたことです。話をすると、さらに話をすることになり、最終的には嘘を話すことになる危険性があります。話しすぎることが好ましくない行動を引き起こす場合もあります。そのため、リシたちは、ほとんどの時間、沈黙していることを好んだのです。沈黙とは、単に話をしない、会話をしないということではありません。聖賢たちにとって、沈黙とは思考プロセスを止めることも意味します。思考はマインドの波紋です。一連の思考は波となり、たくさんの波が嵐となります。ですから、思考を排した、静寂の段階にいるのが一番です。これが古代の感覚でした。現代では、過剰な思考がマインドの特徴になっています。

 (スワミは聴衆にハンカチをお見せになる)これは何でしょう? 皆さんは、一枚の布だと言うでしょう。これは、実際は糸の束です。糸をすべて抜いてしまえば、布は残りません。それと同じように、発言をコントロールし、思考を取り除くことが、マインドを制する助けになります。ヴィシュヌを体験できるようになるためには、口数を少なくしなければなりません。

 皆さんは、話すこと、考えること、感じることができます。言葉はブラフマーの象徴であり、マインドはヴィシュヌ、ハートはイーシュワラの象徴です。このように、あなた自身が三位一体の神の象徴なのです!

トリダラム、トリグナーカーラム、

トリネートラム チャ トリヤーユダム

トリジャンマ パーパ サムハーラム

エーカ ビルヴァム シヴァールパナム

(三つの武器を持ち、

三度の生で犯した罪を一掃する力を持つ、

三つの目のお方シヴァ神に、

三つ葉の葉ビルヴァを捧げなさい)

 過去は忘れ、現在に生き、良い未来を確実にしなさい

 イーシュワラには目が三つあると言われています。人々は、「そんなことがあり得るのか?」と言います。ここで言う目とは、肉眼のことではなく、さまざまな時を知覚する能力のことです。第一の目は過去、第二の目は現在、第三の目は未来を意味します。現在と過去も誰もが知っています。ですから、人間には目が二つあることには同意できます。未来を知っている人は誰もいませんが、神は未来を知っています。ですから、目を三つ持っているのは神だけであるのに対して、人間は二つの目しかないと言われているのです。しかし、もしあなたが過去において完全に自分を制していて、現在も制しているならば、あなたの未来は完全にあなたの手の中にあるということになります。

 

 現代人はいつも、過去のことを考え、未来のことを心配しています。いつもです。過去、未来、過去、未来、過去、未来、と。過去のことをくよくよと考え、未来について心配していると、現在を見失ってしまいます。現在は過去の産物であり、未来の種でもあるということを忘れてはなりません。過去と未来は現在の中に組み込まれています。人は、この基本的な真理を理解していないように見えます。もしあなたが、良い明るい未来を望むのであれば、現在を正しく活用することです。現在は、過去という種から生えた木です。この木は未来のための種も有しています。つまり、未来はすでにここにあるのです!

 

 現在を大切にする最善の方法は、あなたの話すことがいつも神聖であるようにすることです。言葉はどこから生じるのでしょう? マインドからです。ですから、話すことが善良であるということは、その人のマインドも善良であるということを意味します。マインドはヴィシュヌの姿なのですから、もしあなたがヴィシュヌの恩寵を享受すれば、あなたの言葉は自動的に清らかで甘美なものになります。

 神の意志は常に勝つ

 愛の化身たちよ! 皆さんはまさしく、三位一体の神、すなわち、三つの属性、三つの目、三つの時(過去・現在・未来)の化身なのです。いつも神と調和し、常に細心の注意を払いつつ神の命令に従わなければなりません。決してそれに反してはなりません。何があろうとも神の意志は必ず勝つ、ということを例示している小話があります。

 

 ある時、パールヴァティー女神がシヴァ神に言いました。

 「あなたはいつも世界を動き回っていますが、私はずっとここにいます。私には滞在する場所がありません。私たちには自分たちの家と呼べるような場所がありません。雨が降ったときに避難できる小屋さえもありません。その上、あなたのダルシャンを求めて多くの聖賢たちがやって来ます。私たちには、彼らを迎え入れ、泊まらせる場所がありません。だから、家を建てましょう。そうすれば、いろいろな用途に使えるでしょう」

 これはつまり、主婦が家を求めているのであり、このような願望はすべての女性にとって当然のことです! シヴァは答えました。

 「パールヴァティーよ、家を建てることは、すべての問題の始まりを意味する。まず、ネズミの仲間ができる。ネズミを駆除するためには、猫を飼わなければならない。猫に餌をやるためには、牛を飼わなければならない。そして、牛の世話をするためには、使用人を雇わなければならない。こうして次々に事が増えていく! そうして問題が山積みになる、ということがわからないか? 家は必要ないと私は思う」

 議論は続き、パールヴァティーは断固として要求し、シヴァは同じように断固として拒否しました。これはどの家でも起こることです――「イエス、ノー! イエス、ノー!」。ついに、憤慨したパールヴァティーは言いました。

 「なぜあなたはそんなに頑固なのですか? もともと、私は自分のためではなく、あなたの帰依者のためにお願いしているのです。家がなくて、どうやって帰依者たちをもてなせばいいというのですか? 」

 シヴァは答えました。

 「ああ、君に家が必要なのは分かるが、今は家を建てるには吉ではない時期だ。今、家を建てたら、何があっても焼き払われる運命にある。私は、火の神アグニがそうするのは間違いないということを知っている。私には未来が見えるが、君には見えない」

 パールヴァティーは言いました。

 「主よ、私はあなたのおっしゃることに従います。しかし、すべての力はあなたの中にあり、さらには、あなたはアグニを含むすべての神々を統べています。もしあなたがアグニに私たちの家を燃やすなと命じたら、それに従わないことなどアグニにできるでしょうか?」

 もはや、シヴァはパールヴァティーが家の建設を始めることに同意するしかありませんでした。シヴァは、アグニに会ってパールヴァティーの家を燃やさないようにと言うことにも同意しました。シヴァが出かけて行く直前に、パールヴァティーは言いました。

 「私はアグニに私の建てた家を燃やさせはしません。そのような行いは私への大きな侮辱となります。もし万が一アグニがあなたの言うことをきかなかったら、ダマル(太鼓)を叩いて音で私に合図してください。そうしたら、私はすぐに家を自分で焼き払い、アグニに家を燃やす喜びを与えないようにします」

 シヴァは同意し、アグニに会いに出かけていきました。アグニはシヴァの姿を見て喜びました。アグニはシヴァを歓迎して言いました。

 「主よ、私はあなたが私に会いに来てくださりとても嬉しいです。主よ、私はあなたのために何ができるでしょうか?」

 シヴァは答えました。

 「私には自分の望みはない。しかし、パールヴァティーが家を建てたので、彼女はその家を焼き払わないというそなたの約束を欲しがっている」

 アグニは約束することを快諾し、言いました。

 「主よ、長い間、私はシヴァ・ターンダヴァ〔シヴァ神が踊る宇宙の舞い〕を見たいと切望していました。どうか、私のために踊っていただけませんか?」

 そこで、アグニを喜ばせるために、シヴァはターンダヴァを踊りはじめました。その過程で、シヴァは必然的にダマル(太鼓)を叩くこととなり、その音を聞いたパールヴァティーは、すぐさま自分が建てた家に火をつけました!

 

 (ここでスワミは、たいそう美しく軽快なメロディーの歌をお歌いになりました。その歌の壮大さを損なわずに翻訳することは不可能なので、その部分は英語に訳していません。その歌に万雷の拍手が湧き起こりました。)

 

 シヴァが戻ると、パールヴァティーが建てた家は燃えて廃墟(はいきょ)になっていました。シヴァは言いました。

 「パールヴァティー、これはいったい何事か? アグニは家を焼き払わないと約束してくれたのに、家が灰になっている」

 

 パールヴァティーは答えました。

 「この家に火をつけたのは私で、アグニではありません。もしアグニが私の望む約束をあなたにしたのなら、なぜあなたはダマルを叩いたのですか?」

 シヴァは微笑んで答えました。

 「ああ、それは、約束をした後、アグニが私にターンダヴァを踊ってくださいと懇願したからだ。私はそれに応えなければならなかった。どうして嫌だと言えようか? 宇宙の踊りを舞ったとき、私は我を忘れて太鼓を叩いた。そういうことだ」間を置いて、シヴァはこう付け加えました。

 「そもそも、私は君に、今は縁起の良い時ではなく、家は焼けてしまうだろうと言った。しかし、君は聞き入れようとしなかった!」

 このメッセージは明らかです。神の意志は常に勝ち、誰もそれを邪魔することはできない、ということです。

 

 時間を聖化しなさい

 神の意志はハートから生じ、常に成就します。ハートが清らかなときには、思考も行動も神聖なものになります。ですから、ハートをいつも清らかに保っていなければなりません。これがシヴァの原理の真髄です。ハートは本質的に清らかで神聖で縁起のよいものなのですから、決してハートが汚れることを許してはなりません。

 

 愛の化身たちよ! いつでもハートの清らかさを保っていなさい。どんな人も罵倒せず、他の人を批判せず、どんな人も非難せずにいなさい。そうすれば、あなたのハートの中にシヴァが見えるでしょう。清らかなハートからは清らかなマインドが生じます。スワミが言っているのは、モンキー・マインド(猿の心)のことではなく、ヴィシュヌの象徴である汚れなき心です。そのようなマインドは、愛にあふれ、慈愛に満ちた思考で満たされ、常に至福にあり、いつも喜びを放っています。このように、ヴィシュヌの光輝は清らかなマインドの中に見ることができます。同様に、ブラフマーは真実の言葉となって光り輝きます。サティヤすなわち真理を超えるものは何もありません。

創造物は真理から生じる

そして、それは最終的に真理の中に溶けていく

真理のない場所はない

おお人よ! 真理の栄光を目撃せよ!

 真理の言葉はブラフマーであり、清らかなマインドはヴィシュヌであり、清らかなハートはイーシュワラです。ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラは、特定の姿形を持っているのではなく、特定の神の属性を象徴しており、そのすべてがあなたの中に潜在しています。

 

 神は愛ですが、時たま、怒っているように見えることがあります。それは教訓を与えるためです。ヴェーダは、この二つの面を、ルッドラ(怒れる者、ルドラ)とバッドラ(救う者、バドラ)という言葉で述べています。神は、あなたの欲望のうち、善につながるものは叶えますが、害をもたらすものであれば叶えません。いずれにせよ、神はあなたにとって良いことしかしていません。もしあなたが神に完全な信頼を置いているなら、神は可能なあらゆる方法であなたを助ける用意があります。 

 

 皆さんは、16年だけ寿命を与えられた少年、マールカンデーヤの物語を知っているでしょう。マールカンデーヤはその事実を知りませんでしたが、両親は知っていました。両親は15年間、息子と幸せな時を過ごしました。16年目に入り、運命の日が近づいてきました。母と父は憂鬱になり、しくしくと泣き出しました。マールカンデーヤは戸惑って、「お母さん、どうして急に悲しくなったの?」と尋ねました。両親はマールカンデーヤを近くに呼んで、「息子よ、今日はおまえの人生の最後の日なのだ。これは私たちの不幸なのだ」と言いました。そして、なぜ寿命が縮まったのか、その理由を説明しました。マールカンデーヤはショックを受けました。しかし、すぐに状況を理解して、こう断言しました。

 「これまで僕は、その秘密を知らずに時間を浪費してきました。今から僕は神聖でない行いはせず、一瞬も時間を無駄にしません。僕の人生に残された時間はすべて、イーシュワラへの礼拝に使います」

 そう言うと、マールカンデーヤは地元のシヴァ寺院に駆け込み、リンガムを強く抱きしめて、さまざまな御名で主を呼びました。一方、死の時が近づいたので、死の神ヤマ〔閻魔大王〕が、命を引きずり出すのに使うヤマパーサ(縄)を持ってその寺院にやって来ました。マールカンデーヤがしっかとシヴァに抱きついているのを見て、死の神は、「どうやってマールカンデーヤだけに死の縄をかけたらよいだろう?」と考えはじめました。少年だけを縛るのは容易ではありませんが、死の時が訪れたからには、すぐに事を運ばなければなりません。そのため、ヤマは縄を投げました。それはマールカンデーヤとリンガムの両方にかかってしまいました。すると瞬時にシヴァが現れて言いました。

 「おお、ヤマよ! そなたは今、私にまで死の縄をかけるほどの勇気があるのだな?!」

 ヤマは即座に呪いをかけられ、マールカンデーヤは不死を与えられました。この物語は何を教えているのでしょうか? それは、もしあなたに完全な信心があり、決意を固めているならば、主は定められた運命さえも取り消す用意がある、ということです。与えられる恩寵は、その人の祈りの強さに比例するのです。

 この真理を認識して、ハートの清らかさを保ちなさい。清らかなハートはイーシュワラであり、清らかなマインドはヴィシュヌであり、清らかな言葉はブラフマーである、ということを固く信じなさい。この信心に根ざして、神から与えられた能力を正しく活用しなさい。そうすれば、必然的に良い結果がもたらされ、最終的には必ず主に融合することができます。人が生涯において経験する喜びと苦しみはすべて、各人の善行と悪行の結果です。

 今日、ディーパク・アーナンドは、スワミが「内なる三位一体」というテーマについて話すのを聞く機会を皆さんに提供しました。スワミがいかにしてあなたの内で三位一体の神のダルシャンを得ることができるかを明らかにしたのは、今回が初めてです。このように、あなた方には知られていない霊妙な神秘は、たくさんあります。神の神秘のニュアンスを知らないまま、人々はくだらない行動をして時間を浪費しています。

 愛の化身たちよ! 時間はきわめて神聖で、最も価値があります。神は、時間として、次の言葉で礼拝されています。

カーラーヤ ナマハ、

カーラ カーラーヤ ナマハ

カーラ ダルパ ダマナーヤ ナマハ、

カーラ スヴァルーパーヤ ナマハ

カーラ ニヤミターヤ ナマハ

〔時であるお方に帰命します、

時を凌駕(りょうが)するお方に帰命します

時を征服したお方に帰命します、

時の姿をとったお方に帰命します

時を定めるお方に帰命します〕

 これらはすべて、時間としての面を持つ神についての描写です。そうであっても、神は時間と空間を超越した存在でもあります。時間が人生であり、それゆえ、善い言葉、善い考え、善い感情で人生を聖化しなければいけません。

 

 清らかな発言、清らかなマインド、清らかなハートは、無私の愛の真の具現です。

 (バガヴァンは、「プレーマ ムディタ マナセー カホー」というバジャンで御講話を締めくくられました)

サティヤ サイ ババ述

 

2000年5月16日

夏期講習

ブリンダーヴァンにて

Summer Showers in Brindavan 2000 Ch3

240502

​新婚カップルへの祝福

親愛なる子供たちよ、

 

 あなた方は、ただ出会って連れ合いになった男子と女子ではありません。あなた方は、ハイフンで一つにつながった「シヴァ‐シャクティ」であり、まさに私がそうであるように、一つの体の右半身と左半身なのです。あなた方が、ずっと歓喜と満足という日よけの下にいることができますように。あなた方が二人とも、忘我の愛という波の上に浮かんでいることができますように。あなた方が、花で飾られた、勇気と自信というロープで吊るされた信仰心というブランコに乗って、楽しく揺られていることができますように。あなた方が今日乗り込んだ小舟に、幸せな関係と祝宴と健康と有益なものが積み込まれますように。その小舟が安全に、そしてスムーズに、主の蓮華の御足に到着しますように。その小舟を全託と奉仕というオールで、二人で漕いできなさい。その小舟に神の恩寵という風がいっぱいに当たるようにさせなさい。


あなた方のババより

 

Prema Dhaara Part2 No.68

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主の蓮華の
​御足の栄光

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理想の学生の
​資質

​主の蓮華の御足の栄光

パードゥカ・プラティシターにおけるババの御講話

正しい行いを守ることは減り

ダルマは危機にひんしている

道徳は行き場を失っている

人間の存在について何を語ることが

できるだろうか?

道徳と倫理は書物の中にしかなくなった

ハートは汚ないゴミ箱と化してしまった

 神聖アートマの化身たちよ! 湿り気は水の自然な特質です。硬さは石の属性です。甘さは砂糖にとって自然なことです。熱は火の特性です。

 

 これらは物質のダルマ(自然な生態)です。個々人にとってヴァーンチャ(欲望)があるのは自然なことです。なぜなら、人間は欲望によって支えられており、それは人間のダルマ(自然な性質)であると考えられているからです。「ダーラヤティ イティ ダルマハ」(ダルマとは支えるものである)。人間は欲望によって支えられています。人間の第一の義務は、自分の欲望をすべて神に捧げることです。

 

 これは、ダルマの実践には、現世の欲望をすべて神に捧げ、内なる目を発展させることが必要だということを意味しています。「サルヴァダルマーン パリッティヤッジヤ マーメーカム シャラナム ヴラジャ」――すべてのダルマを手放して、私だけを拠り所としなさい――とギーターの中でクリシュナは述べています。これは、人は外的な感覚的、肉体的な欲望をすべて神に捧げ、永遠なるものを軸とした霊的な思考を培うことを第一に目指さなければならないということを示しています。

 ハートの純粋さは霊的英知に不可欠

 こうした霊的な展望を身につけて、他の人々を感化するには、チッタ シュッディ(ハートの清らかさ)を持っていなければなりません。霊的な英知は、ハートの清らかさがあって初めて姿を現すことができます。雑草を取り除き、土地を耕し、種を蒔き、水をやることが、その土地で作物を収穫する前に必要であるのと同じように、人のハートの土地も、悪い考えや悪い感情を取り除き、愛を含んだ水をやり、霊性修行で耕し、神の御名という種を蒔かなければなりません。そうして初めて、人はグニャーナ(神聖な英知)という収穫を得ることができるのです。

 

 今日では、霊性修行は話を聞くことだけになり、教えを実践することはなくなっています。聞くことは一種の病気になっています。人々は、話を聞いただけで、自分は何でも知っていると自慢します。このおかしな自慢話は人の無知を深めています。

 

 人は聞いたことを反芻(はんすう)すべきです。反芻した後に、ニッディディヤーサ(教えを実践すること)をすべきです。そうして初めて、思考と言葉と行いの三重の清らかさが得られるのです。今日、人々はただ講話を聞くだけで満足しています。これでは悟りには至りません。

 

 シュリーニヴァーサラガヴァンは、「ナーマ・リキタ・ジャパム」(霊性修行として主の御名を繰り返し書くこと)の実践について言及しました。この修行は、思考と言葉と行いの調和を促進します。これら3つの過程(まず主の御名を思い、次に御名を口に出し、次に御名を書く)はすべて、清らかなハートで行うべきです。

 「サッティヤム」は人間の真の姿を示す

 どのサーダナ(霊的規律)にも、完全な清らかさが不可欠です。この清らかさを達成するためには、シュレーヤス(霊的な幸福)とプレーヤス(俗世の幸福)の違いを理解しなければなりません。真の人間らしさとは、アートマ(内在する魂)の本質を知ることにあります。ヴァーク(話す言葉)、マナス(マインド)、プラーナ(生命力)が一体となってアートマを構成しています。「サッティヤム」(satyam)というサンスクリット語に含まれる3つの音節は、人間の真の姿を指しています。「サット」(sat)は食べ物、「イ」(y)は水、「ヤム」(yam)はスーリヤ(太陽)を表しています。この言葉の中にある意味は、太陽は人が食物を育てるのに役に立つ水を供給している、ということです。「サッティヤ」(satya)を逆の順序で解釈すると、真実は苦行と感官の制御によって悟られる(「サット」(sat)は真実、「タ」(t)はタパスすなわち苦行、「ヤ」(ya)はヤマと感官を制御する他の形態)という意味になります。

 

 感官とそこから生じる欲望を制御することは、ほとんど不可能です。そこでできることは、すべての欲望を神に向けることです。これは、目、耳、鼻、舌といった感覚器官はすべて、それぞれが働く力をアートマ(内在する魂)から得ている、ということに気づけば可能になります。感覚器官を動かして、目が見ること、耳が聞くこと、舌が味わうことを可能にしているもの、それはチャイタンニャ(アートマの意識)です。意識の役割は、電球が光を放つのを可能にしている電流のようなものです。このアートマ意識はすべての存在に内在しているので、ブラフマンと呼ばれています。

 

 人間の体は神を悟るための道具

 

 世俗的な欲望にとらわれて、人は自分の神性に気づいていません。体は一時的なものであり、滅びゆく、ということに気づかずに、人は体と自分を同一視しています。人間の体は、自分に内在する神を悟るための道具にほかなりません。人は宇宙のすべてを知ろうとしていますが、自分は何者であるかを知ろうとはしていません。人は自分の実体を知らないために、不自然な人生を送っています。人間の第一の努力は、自分の神性を悟ることに向けられなければなりません。人は単なる人間ではありません。人は真に神であり、この根本的な真実に気づかなければいけません。

 

 人は、自分の体の各部は、それらを動かしている神の力のおかげで機能しているということに気づかなければいけません。体の各部を重視しすぎてはなりません。目の見えない人は、目がなくても生きているのではありませんか? 耳の聞こえない人は、聞く力や話す力がなくても生きているのではありませんか? 重要なのは、これらの器官をどのように使うかです。

 

 聖者スールダースは、魂を揺さぶる歌の中でこう嘆いています。

「おお主よ! 目を授かっているというのに、人々はあなたの美しさを見ることができません。耳を持っているというのに、人々はあなたの美しい声を聞くことができません」

 人は役に立たない噂話ばかり聞いています。吉兆な神聖なことには耳を傾けません。せっかく目を持っているのに、憎しみと嫉妬で人々を見ています。

 猿も、ロバも、犬も、豚も、人間と同じように視力を持っています。こうした動物と人間との違いは何でしょう? 動物は、食べて、寝て、子をもうけます。人間もこれらのことをしているなら、動物と人間とは何が違うのでしょうか? 動物は自分の子供を愛しますが、その愛は一時的なものです。しかし、人間の場合、その愛は一生続きます。

 

 どうすれば体を聖化できるのか?

 

 人間は、それがなければ自分は存在することができないものは何か、を理解しなければいけません。目や耳や他の器官がなくても生きていくことはできますが、プラーナ(命)あるいはアートマがなければ生きていくことはできません。これはプラーナ・プラティシタ(人の中に神聖な生命力を入魂すること)と呼ばれています。人体という鏡には、神の姿が映し出されています。人間は愚かにも、その鏡をチャイタンニャ(意識、実体)だと思っています。人ができることはすべて、この意識がその担い手であり、体ではありません。

 

 では、体はどのように聖化されるべきなのでしょうか? それは、体をアートマ意識と結び付いた行為に従事させることによってです。この教えは、ハヌマーンによってヴィビーシャナに説かれました。ハヌマーンは、ラーマの御名をただ繰り返すだけではラーマの御姿を見ることはできない、とヴィビーシャナに言いました。ラーマの御名を唱えつつラーマへの奉仕に身を捧げることによってのみ、彼(ヴィビーシャナ)はラーマとのサーユッジヤム(一つになること)を経験することができる、と。

 

 ギーターの700のシュローカをすべて唱えても、ギーターの教えを一つも実践しないなら、それがいったい何の役に立つでしょう? 「アドヴェーシター サルヴァ ブーターナーム」(いかなる生きとし生けるものに対しても悪意を抱いてはならない)。これは人類に対するギーターの第一の禁令です。これは、一なるアートマ(神)がアンタラアートマ(内在者)としてすべての生きとし生けるものの中に宿っている、という声明に基づいたものです。他の人に憎しみを抱くなら、ギーターを唱えることに何の意味があるでしょう? 皆さんは、神を礼拝し、他の人の中にいる神を憎んでいます。その礼拝と憎悪は互いに打ち消し合い、皆さんには何も残りません。

 

 ラーマ神の命令に従いなさい

 

 ラーマーヤナは定期的に読まれ、ラーマはバーラタ〔インド〕の大多数の人々に崇拝されています。どの村にもラーマ寺院があります。しかし、何人がラーマの命じたことを守って生活しているでしょうか? ラーマは父親が交わした約束を貫くために森に行くことを選びました。今日、父親の命令に従う人はどれだけいるでしょう? ラーマは、真実を貫くために、王国と快適さの一切を犠牲にしました。ラーマは、自分の唯一の目的は人々の福祉を促進することである、と言いました。ラーマは人々の中に神の姿を見て、人々に仕えようとしました。

 どんな苦行も、どの聖河への巡礼も、

どの経典の研究も、主の御名を唱えることも、

サッジャナ〔善人〕に奉仕をしないなら

サムサーラ〔輪廻〕の海を渡る役には立たない

 サッジャナムとは、サット、すなわちアートマが宿っている者のことです。アートマがすべての存在に宿っているように、サッジャナムはあらゆる人を指します。すべての存在の内なる実在であるサットに奉仕するとき、あなたはチット(意識)の気づきを得ます。この気づきによって、ハートはアーナンダ(至福)で満たされます。

 

 アンナマーチャーリヤは、主の御足はブラフマー自身によって洗われたものであり、ブラフマンそのものであり、全宇宙の重荷を負い、すべての人間の体の重荷を負うものである、と称賛しました。これはどのように行われるのでしょうか。神はプールナ・スワルーパ(すべてを包み込む姿をとる存在)です。個人の足がその人の体の重さを負っているように、神の微細体は、その足で全宇宙を負っています。足がなければ、体は動くことができません。

 主の御足に与えられた偉大さの意味

 人は、大宇宙と小宇宙が同じ五大元素によって構成されていることを認識し、すべてのものの中には神が存在しているということを悟るべきです。ですから、人は心の底から主の御名を唱え、主の御足を拠り所とすべきなのです。アンナマーチャーリヤはこう宣言しました。

 「おお、心(マインド)よ! 主の蓮華の御足を拠り所としなさい。蓮華の御足はおまえをすべての災いから解き放ち、神の世界へと導いてくれるだろう」

  

 バラタがラーマのパードゥカ(サンダル)を安置し、アヨーディヤーは実際にラーマのサンダルによって守られました。バドラーチャラ・ラーマダースも同じ調子で歌いました。

 「おお、ラーマ! 私はあなたの御足をしっかりと捕まえています。あなたが私を守ると保証してくださるまで、私は一歩たりともあなたを行かせません」

 

 ティヤーガラージャも同じ調子で、自分はタンジャーヴルのラージャ〔藩王〕が差し出す財宝に誘惑されることを自分に許さない、自分はこの世のあらゆる富よりもシュリ・ラーマの蓮華の御足を好む、と言明しました。

 

 「御足」というのは、金や銀でこしらえたサンダルのことではありません。御足とは、すべてのものを支える神のことを指しています。どうして足にそれほどの偉大さが与えられているのでしょうか? 科学の観点から見てみると、血液は足から上に向かって体のあらゆる部分に流れていることが分かるでしょう。この血液こそが全身を養っているのです。全身の重荷を負う足は、生命それ自体にとって不可欠なものです。主の御足を拠り所とするならば、あなたは神の御姿を見ることを確実にすることができます。

 ヤショーダーは足跡のおかげでクリシュナを捕まえることができた

 主の御足が何を意味するかを示すために、幼少期の主クリシュナのゴークラムでのちょっとした例を挙げてみましょう。クリシュナは、あらゆる家からバターを盗み、友人や遊び仲間にも食べさせることで知られていました。このいたずらっ子に対するたくさんの苦情が来る中で、クリシュナの母ヤショーダーは、ある日、逃げ回るクリシュナを捕まえて尋ねました。

 「家でたくさんあげているのに、どうして他の家からバターを盗むの? あなたの口はいつもバターの匂いがする。盗み癖をやめなさい。さもないと、臼(うす)に縛り付けて動けなくしますよ。こんなに小さな子供なのに、どうしてそんなことをするの?」

 クリシュナは、にっこりと微笑み、走って逃げていきました。ヤショーダーはクリシュナを探して家々を回りました。クリシュナは小さないたずらをしました。ヤショーダーは体重が重かったので、速く動くことができませんでした。ヤショーダーは、どうやってクリシュナを探し出せばいいのか困り果ててしまいました。

 

 クリシュナは、ある家で牛乳の中に足を浸し、その場から逃げ出しました。そのため、足跡が残りました。その足跡のおかげで、ヤショーダーはクリシュナを捕まえることができました。実のところ、ヤショーダーがクリシュナを捕まえたいと強く望んだために、ヤショーダーが自分の跡をたどれるよう、クリシュナ自身がその助けをしたのです。ヤショーダーは、主の足跡のおかげで、主を捕らえることができたのです。

 

 主の御足は、さまざまな点で栄光に満ちています。けれども、主の御足が祝福を与えてくれるのは、本当に信じて求めた場合に限られます。主の御足には、シャンカ(法螺貝)とチャクラ(円盤)という神の印が付いています。シャンカはシャブダ・ブラフマン(神なる宇宙の音)の象徴です。円盤は時間の輪の象徴です。音と時間は共に、主のさまざまな宇宙的側面を表しています。全宇宙は音の振動から生じました。その振動は時間と相関しています。音と時間は切り離すことができず、相互に依存しているのです。

 

 悪いことをしてしまった人に対して、その相手(被害者)の足をつかみなさい、と勧めるのが、農村の人々の一般的な習慣です。ひとたび相手の足をつかんだならば、それは、相手に許しを求めて許しを得た、ということを意味します。現在では、裁判所や法的な手続きがすべて整っているため、相手の足をつかもうとする人はいません。昔の村では、もし誰かが自分の足にひれ伏してきたら、その人を許すしかありませんでした。

 

 主の御足を求めることは、許しを求めること

 

 主の御足を求めることの内的な意味は、そうすることで、主はその懺悔(ざんげ)している人の罪を許してくれる、というものです。けれども、ただ御足をつかむだけでは十分ではありません。心から悔い改め、二度と同じような罪を犯さないと宣言しなければいけません。そうして初めて、その人は贖罪(しょくざい)を確実なものにすることができるのです。

 

 神聖アートマの化身たちよ! サーダナの種類は人それぞれです。人々はサーダナの恩恵を得るためにアシュラムに行きます。彼らは年長者を敬愛し、年長者に礼拝を捧げます。これらの実践は、自分にエゴが残っている限り、何の役にも立ちません。あなたのエゴは、あなたがアシュラムから追放されることにさえ、つながりかねません。ですから、あなたの真の人間性に気づくために、エゴを抑え、所有欲を消し去り、アートマへの執心を強めなさい。妬み、憎しみ、怒りが、人間の間に大混乱を引き起こしています。アシュラムの住人たちでさえ、怒りに満ちています。怒りは罪に捧げられたお香である、と言われています。ですから、蓮華の御足を礼拝している最中、主の御名を書いている最中には、これら3つの邪悪な性質を追い出さなければいけません。

 エゴを破壊し、義務を果たし、互いに助け合う

 最初に、エゴを破壊しなさい。そうすれば怒りは収まるでしょう。自分の義務を果たしなさい。エゴを出してはいけません。互いに助け合う心を育みなさい。喜びをもって仕事を続けなさい。互いに友好的でありなさい。このように振る舞うときにのみ、皆さんはリキタ・ジャパム〔神の御名を繰り返し書くこと〕とパードゥカ(主のサンダル)への礼拝のご利益を得るでしょう。

 

 サイ・オーガニゼーションにおいて第一に必要なのは、団結と互いの信頼です。団結があってこそ、世界の幸福を促進することができるのです。組織の中に不和があれば、どうやって他の人々に奉仕できるでしょうか? 忍耐をあなたの装身具にしなさい。愛を通してあなたの悪い特質を取り除きなさい。ナーマ・リキタ・ジャパムやパードゥカ・セヴァのような神聖な活動に着手する、サイ・オーガニゼーションの指導的なメンバーたちは、神聖な資質を身につけるべきです。

 

 タミル・ナードゥ州では、多くの村で、帰依者たちがナーマ・リキータ・ジャパを行い、パードゥカに礼拝を捧げています。それと同時に、自分のハートも清めるべきです。今日、世界の多くの地域で、自然が地震、飢饉(ききん)、洪水、火山の噴火など、さまざまな災害を引き起こしています。その理由は何でしょう? 人間の霊性の低下がそうした災害の原因です。ハート(人のハート)の乱れが地震に反映されるのです。あなたの心(マインド)を善い思いで満たし、善い行いに従事しなさい。主の御名を唱えなさい。空間が神聖な御名のバイブレーションで満たされると、環境全体が浄化されます。そうした神聖化された空気を吸う人は、清らかな思考を持つようになります。今汚染されている大気を、浄化しなさい。

 

 1993年10月7日

パードゥカ・プラティシターの日

プールナ・チャンドラ講堂

Sathya Sai Speaks Vol.26 Ch31

​理想の学生の資質

親愛なる学生諸君

 

 三日月から離れることなく揺るぎない信仰心を固持している、星のようでありなさい。太陽があなたの頭上にある時には、影はできません。それと同じように、あなたの信仰心がハートの中で揺るがずにいる時には、疑いの影が射すことはありません。

 

 他人の悪口は言わず、善いところだけを話しなさい。すべての人は善いのです。もしあなたが他の人の中に悪を見たとしたら、それはあなたの中に悪があるからです。もしあなたが誰かのことを好きでないなら、その人とは関わらないことです。恩寵は果実を熟させる日光であり、サーダナ〔霊性修行〕は大地から上がってくる樹液です。木が果実を実らせるには、そのどちらも必要です。

 

祝福と共に

ババ

 

Prema Dhaara Part2 No.31

*三日月と星はイスラム教のシンボル

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​勝利の勝利

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サイラーマを
得ていながら​

​勝利の勝利​

 霊性の道とは、無執着の道であり、感覚の制御の道であり、厳しい心の訓練の道です。パールヴァティー女神は最初、身体的な魅力によってシヴァ神を獲得しようとしました。そして、シヴァ神を誘惑するために、恋愛の神であるマンマタに一役買ってもらう計略を練りました。しかし、シヴァ神は恋愛の神を灰にして、パールヴァティーの誘いを断りました。その後、パールヴァティーは厳しい苦行生活に入り、それによってシヴァ神の恩寵を勝ち取ることができ、シヴァ神の聖なる体の左半身となるまでになりました。人はまず、くじけることなく自省をし、継続的に識別をしてから、自分の進みたい道を決める必要があります。モークシャ(解脱)とは、真実(真理)を曇らせて真実でない蜃気楼(しんきろう)を作り出す無知という束縛を取り除くことを意味します。実際、生きることは、代わる代わるにやって来る不幸と幸福、飢えと満足、病気と健康、欲望と充足を得ていくプロセスの別名にほかなりません。人は、一つの欲が満たされるやいなや、新たな欲の対象へと触手を伸ばします。人はいつももがいていて、いつも不幸せです。それは、永遠のものや永続するもの、源や実体を求めようとしていないからです。人は、束の間のもの、ささいなもの、一時的なもので満足しているのです。

他の人を幸せにすることで喜びを得る 

 真理を通じて解脱に到達するために、体を戦車として使いなさい。その戦車がサティヤ(真理、真実)、ダルマ、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)の4つを車輪に据えてゴールへの道を進むのを見届けることは、あなたの義務です。荷物が少なければ、すなわち、欲望や心配や恐れが少なければ、戦車は道を進んでいくことができます。自分は肉体とその付属物の一切であって、肉体の持ち主ではない、と考えていると、欲望や心配や恐れは増大します。カルマ〔行い〕、バクティ〔信愛〕、グニャーナ〔英知〕は、神への3つの道です。しかし、カルマは欲望によって歪められ、バクティは貪欲によって汚され、グニャーナは怒りによって曇ります。しかし、人はプレーマ(愛)を通じて、欲望と貪欲と怒りを容易に克服することができます。

 

 小さな蟻(あり)から教訓を学びなさい。蟻は、砂糖の塊を見つけると、その事実を他の蟻に隠して独り占めして食べようなどとはしません。反対に、蟻は動き回って友だちや親族を集めます。なぜなら、蟻は自分が見つけたごちそうを分かち合いたいと思うからです。カラスは、軽蔑されていて、よく追い払われる鳥ですが、小さな食べ物の山を見つけると、知り合いや親族がその場所に集まってくるまで、何度も鳴いて知らせます。おいしいものは分かち合われ、まずいものは遠ざけられます。人生は短く、苦しいこともたくさんあるのですから、他の人たちを幸せにすることから喜びを得ることができるよう、全力を尽くしなさい。もし他の人たちが不幸であるなら、どうやってあなたが本当に幸せになることなどできるでしょうか?
 

 人間の偉大さは、意識的な努力によって自分の中の悪を取り除くことができる、という事実にあります。一方、人間以外の動物は、どれほど訓練や教育を受けようと、身を潜めていた根源的な本能が、いつでもわずかな挑発で湧き上がってきます。シヴァラートリは、その日一日断食し、丸一晩徹夜することによって、暗闇を光に変え、シャヴァム(死体)をシヴァム(神)に昇華させることができると言われています。この断食と徹夜は、寝ずに五感の動きを監視すること、五感が害を及ぼすのを阻止することで五感を征服する、という象徴です。

神の行動の背後にはすべて目的がある

 悲しみや喜びを他の人と分かち合うための特別な感受性を授かっている生きものである人間が、なぜ時間と空間が変化するこの世界に生まれてこなければならないのでしょうか? 生まれてきたものは死をまぬがれず、建てられたものが崩壊を耐えることはできません。では、なぜ人は、はかないこの経験の舞台に送り出されるのでしょうか? 神の行動の背後にはすべて目的があります。人は、自分の中の神性を顕現させて、その冒険の中で、すべての生きものを率い、導かなければならないのです。人は、自分で努力して自分を解放し、その模範によってすべての生きものを解放しなければならないのです。人は、自分自身の源の中で、自由になり、安全にならなければなりません。これがモークシャ(解脱)と呼ばれているものです。人は、小から大へ、束縛から無限の至福へと解き放たれるのです。

 

 エゴという不純物が人に入り込むのは、もっぱら見かけの多様性に惑わされ、創造世界には多面性があると断定したときです。アグニャーナの薄暗い夕暮れ(原初の無知)の中で誤認される実在が、神です。一なるものしか存在していないところに多を映し出す霧がかかっているのを見抜くこと、それがあらゆる霊性修行の目的です。何年サーダナ〔修行〕を続けても、それがどの宗教で定められた修行であっても、そのサーダカ(霊性の求道者)が違いや区別や多様性を見続けているなら、今生で人間として存在する目的を果たすにはまだまだ道のりは長い、と結論づけることができます。


一なるものに気づくことは揺るぎない平安を確実にする
 

 一なるものに気づいたとき、恐れはなくなります。なぜなら、「一なるもの」に自分自身を恐れることができますか?さらに、そこには欲望も存在することはできません。なぜなら、第二のものが存在しないとき、どうして所有したいという欲望がわいてくるでしょうか? そのとき、妬み、憎しみ、貪欲、高慢といった、人を苦しめ、安らぎを与えない邪悪な情念もまた存在することはできません。一なるものに気づくことは、揺るぎない平安プラシャーンティを確実にします。一なるもの(神やパラマートマやブラフマンや普遍なる絶対者と呼ばれる存在)は、すべての愛、すべての知識、すべての英知、すべての甘さです。「ラソー ヴァイ サハ」(彼〔一なるもの〕は甘さである)と、ウパニシャッドは述べています。そうであるとき、彼、すなわち、人の本質の中に、どんな苦味があり得るでしょう? というのも、人は彼によって、彼から、彼のために顕現しているからです。
 

 トラからヤギが生まれることはありません。神から生じるものは、必然的に神であるのみです。それゆえ、ウパニシャッドの中には、人間の呼称として、「アムルタッスヤ・プットラハ」(不死の子)というものがあるのです。それゆえ、パラマ・アートマン〔至高の真我、パラマートマ〕から生じた存在である人間の中に存在するアートマン〔アートマ〕も、不死なのです。火炎から発せられる火花には、火と同じ発火性があります。体は神の神殿であり、そこに身を置くと決めた神のために有機化されているのです。内なる神を悟り、それによって、この世という荒野をさまよっている間に見逃していた「神秘」は神なのだ、ということを理解するようになるまでは、人は体を維持することに熱心であらねばなりません。
 

源に融合するために努力し、切望し、もがきなさい
 

 その気づきは、さまよう心(マインド)をつないでじっとさせ、心を内側に向けることによってのみ、得ることができます。シヴァラートリは、心(マインド)の制御という目標を全人類に思い出させます。聖賢らによれば、月は心を司る神であり、現代科学も、心の気まぐれと月の満ち欠けとの間に微妙な関係があることを発見しています。黒分〔満月から新月に向かう半月〕の間は日が進むにつれて月が細くなりますが、これは、心も細くなる過程をたどっていることの象徴であるということになります。今日は〔満月の翌日から〕14日目の夜であり、地球や人の心に影響を与える月は、ほんのわずかしか残っていません。このラートリ(夜)、すなわち無知〔暗闇〕の間に、徹夜やバジャンや断食といった方法で霊的な努力に全力を傾けるなら、心(マインド)は消滅し、心によって陥れられているその人の傾向や態度のすべてを克服することになるでしょう。このようにして、このラートリ(夜)は、まるで天界のようなシヴァ神の輝きへと昇華されるのです。
 

 努力しなさい、それはあなたの義務です。切望しなさい、それはあなたの任務です。奮闘しなさい、それはあなたに割り当てられた仕事です。あなたがこれらを誠実に着実に行いさえすれば、神は悟りという報酬を長い間遠ざけておくことができません。川は、努力し、切望し、奮闘して、自分がそこからやって来た海へ流れ着こうとします。川は、常に油断なくその究極の達成を意識しています。川は、自分の源に歓迎されることができるよう、自分を清らかで澄んだ状態にしようとします。川は、ゴールに向かって首尾よく旅するために、あらゆる地形の障害を克服します。人間も、神が授けてくれた、肉体的、心的、知的、道徳的、そして、物質的な天賦の才をすべて活用し、悟りというゴールへと旅することができるようにしなければいけません。
 

愛は決して復讐という考えを抱くことができない
 

 現世と来世、こことこの先という、2つのものが存在することを信じることによって、惑わされてはなりません。ここでこの先を実現しなさい。現世は来世と織り合わされています。世俗的なものと霊的なもの、神聖なものと物質的なもの、天上のものと地上のものの間の相違に、真実はありません。すべての世界で実行されているのは、主の命令です。主の意志が風を導いて草の葉を揺らさなければ、草の葉一枚、揺れることはできません。生命という電球は、永遠普遍の動力源であるカイヴァッリャからもたらされる電流によって光を照らしており、その電流は主の法に従って働き、愛というケーブルを通って電球まで引かれています。

 

 その愛がエゴに染まると、電球はまったく光を照らすことができなくなります。エゴには愛がなく、愛にはエゴがありません。エゴは手に入れ、忘れます。愛は与え、許します。愛は決して復讐という考えを抱くことはできません。なぜなら、愛は自分以外のすべてのものを自分と見るからです。舌が歯に傷つけられたとき、あなたは歯に復讐するでしょうか? いいえ、しません。なぜなら、舌も歯もどちらもあなたのものであり、あなたの体に不可欠な部分だからです。

 

 それと同じように、他人があなたを侮辱したり、苦痛を与えたりしたときにも、英知にあなたを支配させなさい。真理を発見し、結論を急がず、常に愛をあなたの導き手としなさい。

 

 むろん、これは困難なタスクですが、人間の能力を超えているわけではありません。奮闘や持続的な努力なしに終えることのできるタスクは、誇れるものではありません。困難なタスクこそが、チャレンジであり、人間の中にある最善と最高を引き出すのです。熱意と信念をもってこのタスクに着手しなさい。ひとたびその勝利が得られれば、それ以外のものもあなたに付加されるでしょう。


1977年2月16日

マハーシヴァラートリ

Sathya Sai Speaks Vol.13 Ch30

​サイラーマを得ていながら

子供たちよ、
 

 欲望が生じてきました。この縁起のよい祝日は、人の偏見を追い払うこと、人の利己的な動機を捨て去ること、激性と鈍性を燃やし尽くすこと、そして、神への愛を強めることが意図されています。簡単に言うなら、欲望(カーマ)を滅ぼして、神(ラーマ)に到達するということです。

 

 サイ ラーマという、いつもあなたと共にある者を得ていながら世間を欲するのは、愚かなことです。何生もの功徳のおかげでこれほど並外れた特権を獲得していながら、私たちの男子諸君がまだ世間の楽しみを渇望しているのは、実に不幸なことです。
 

 サイは愛の権化であり、甘さの化身であり、あらゆる力の宝庫です。そのようなサイの恩寵を受けるに値する者となり、永遠に続く平安と幸せを楽しみなさい。この聖日に、サイの愛がすべての人に等しく分け与えられなければなりません。彼らに、自分の古い醜悪な特質を変えるよう、善い行いをして生きるよう、そして、自分の人間としての生の正当性を立証するようにと言いなさい。

 

 これはサイの愛です。


Love,
ババ

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​女性であることの栄光​

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​自然のベール

​女性であることの栄光

女性

死の神ヤマと戦い、死んだ夫を生き返らせた、

貞女サーヴィトリーは

このバーラタの国で生まれた

夫ハリシュチャンドラの悲惨な試練に苦しんだ、

美徳の模範チャンドラマティーは、

このバーラタの国で生まれた

ラーマの献身的な妃であり、

母なる大地の神聖な娘であったシーターは、

燃え盛る火の中から無傷で生還することで、

自らの貞節を実証したダマヤンティーもまた、

清き純潔の貞女であり、

楽しいときも苦しいときも

終始変わらず夫ナラのそばにいた

 愛の化身たちよ! ここバーラタ(インド)は神聖と貞節の地であり、バーラタに英雄の国という栄光をもたらした類いまれな人格者たちであるこうした偉大な女性たちを生んできました。
 

 古代より、ガーヤトリーマントラを司(つかさど)る女神、ガーヤトリー デーヴィーは、最も古く、信頼の置ける、英知の聖典と見なされているヴェーダの母として礼拝されてきました。ガーヤトリーマントラは、この聖なる地で生じました。ガーヤトリーマントラの栄光は全世界に広まっています。
 

 バーラタの人々は、さまざまな方法でガーヤトリーを礼拝し、自分の人生を救ってきました。ガーヤトリーは4つの姿において礼拝されています。それは、(1)サティヤヴァティー、(2)アンガヴァティー、(3)アンニャヴァティー、(4)ニダーナヴァティーです。この4つは、どれも等しく神聖であり、神の限りなき恩寵を引き出します。

 

 第1の姿、サティヤヴァティーは、ちょうど牛乳の中にバターが内在しているように、すべての生き物の中にはアートマが存在しているということを示しています。これは、「エーカートマ サルヴァブータンタラートマ」(唯一なるアートマがすべての生き物に内在している)と宣言されています。存在しているのは一つのサット(真理)ですが、それは賢者によってさまざまに語られているのです。
 

 第2の姿はアンガヴァティーです。アンガヴァティーは、すべての生き物に内在している五元素、そして、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚という五つの感覚を示しています。この世に五元素で出来ていないものは存在しません。アンガヴァティーは、パンチャブータ スワルーパ(五元素の具現)です。

 

 第3の姿はアンニャヴァティーで、これは神のさまざまな姿の属性を指しています。例えば、シヴァ神は三叉戟(さんさげき)や第三の目などと関連しています。ヴィシュヌ神はいつもほら貝〔シャンカ〕や円盤〔チャクラ〕や棍棒(こんぼう)〔ガダ〕などを持っていると言われています。私たちはヴィシュヌ神をシャンカ チャクラ ガダ パーニ〔ほら貝と円盤と棍棒を手に持つ者〕と呼びます。

 

 ガナパティ〔ガネーシャ神〕は象の顔と大きなお腹でそれとわかります。ガナパティはあらゆる儀式において最初に礼拝されることになっています。サラスワティーは、ナーダ ブラフマー〔音の姿をとった神〕としての神聖な音の本質を教えていることから、手にヴィーナを持っていると言われています。このように、アンニャヴァティーは、神のさまざまな姿の構成要素を示しています。
 

 第4の姿、ニダーナヴァティーは、9つの種類の礼拝を教えます。すなわち、シュラヴァナム〔神の栄光を聴くこと〕、キールタナム〔神の栄光を歌うこと〕、スマラナム〔神を憶念すること〕、パーダ セーヴァナム〔蓮華の御足に奉仕すること〕、ヴァンダナム〔神を崇敬すること〕、アルチャナム〔神仏の像を礼拝すること〕、ダースヤム〔神の召し使いとして奉仕すること〕、サキーヤム〔神の親しい友人となること〕、アートマ ニヴェーダナム〔真我への全託〕です。

 

 世界はこれらガーヤトリーの4つの姿によって象徴されています。それゆえ、この世は自然界(プラクリティ)、すなわち女性の姿(ストリー)と言われているのです。
 

バーラタにおける女性の重要性
 

 バーラタ(インド)は、女性はあらゆる社会的美徳の担い手であるとして、常に女性に高い地位を与えてきました。ヴィシュヌとラクシュミー、シヴァとパールヴァティーといった神の夫婦の名前を挙げる際に、ラクシュミー・ナーラーヤナ、ウマー・マヘーシュワラといったように、妃の名前が先に挙げられるという事実は、バーラタ人がいかに女性を重視しているかを示しています。
 

 人々は一般的に、女性は弱いと言います。しかし、ようやく今、バーラタ人は、女性を弱者と見なすことはできないということを認識しました。家庭を預かる女性は、家庭に名声と評判をもたらす主役を担っています。個々の家庭だけでなく、国や世界の名声においても、女性は主役を担っています。古来より、女性は社会において高い地位を与えられてきたのです。
 

 諸聖典は、女性という種類の人間には7つの徳があると見なしています。それは、サティヤ(真理、真実)、プレーマ(愛)、ダルマ(正義)、シャーンティ(平安)、サハナ(寛容)、アーナンダ(至福)、スヴァヌブティ(霊性)です。


 家庭の女性は、家庭の繁栄の女神であるグリハ ラクシュミーとして高く評価されてきました。妻は、夫が困難に直面したときには喜んでその重荷を分かち合い、夫と家族の幸福のためならどんな苦難にも耐えよう、自分の命を犠牲にすることさえいとわない、という覚悟でいます。家庭の評判を支えているのは、家庭の女性です。女性は犠牲の権化です。一方、男性も犠牲を払うかもしれませんが、女性の犠牲には全く私心がないのに対して、男性の犠牲は利己的な色合いを帯びたものとなるでしょう。それゆえ、私たちはこの国の女性を誇りに思うべきなのです。


古代インドにおける女性の高い地位


 長い間外国に支配されていたにもかかわらず、バーラタ文化や道徳が存続してきたのは、少なからず、この国の女性の勇気と不屈の精神によるものです。先の講演者、ギーター・レッディ博士が指摘したように、女性はサティヤとダルマという武器を持つ兵士として輝いています。女性は通常、嘘をつきません。自覚なく嘘をつく女性が現れるような場合もあるかもしれませんが、全般的に見て、女性というものは真実と正しい行いを守ります。女性は、ヴェーダの勧告である「サティヤム ヴァダ、ダルムチャラ」(真実を語り、ダルマを実践せよ)に従います。

 

 あるとき、ジャナカ王は、王に学者としての栄誉を授けるべき人物として最もふさわしいのは誰かという議論を行いました。そこにはヤーグニャヴァルキヤのような偉大な賢人や博学の学者たちが集まっていたにもかかわらず、ジャナカ王はガールギー女史こそが最もその栄誉を受けるにふさわしい人物であるという決定を下しました。


 これは、女性は古来、一般市民からも王からもいかに高く評価されてきたかを証明する一例です。古代において女性は高く評価されていましたが、後世になると女性の地位は低下し、行者でさえも女性に対する正しい評価を否定するようになりました。


 例えば、聖者マタンガが偉大な女性帰依者シャバリーを自分のアシュラムに入れようとした時、出家の弟子たちの多くは異議を唱えました。しかし、高潔なマタンガ仙は、シャバリーの貞節、ひたむきな信愛、解脱の追求への献身という並外れた功徳を認め、シャバリーを自分のアシュラムに入れました。最終的に、シャバリーがどれほどラーマに信愛を捧げていたか、どれほどマタンガ仙の教えどおりにラーマを礼拝し、その結果、解脱したかが世に証明されました。
 

家庭と社会における女性の役割
 

 現代の教育の弊害のせいで、人々は女性をおもちゃのように考えて、操り人形のように扱う傾向にあります。女性はとても吉兆で高潔な資質を持っています。ところが、男たちは女性を台所と家の四方の壁に閉じこもる料理人だと考えています。女性は家事の切り盛りをするだけでなく、家庭の家族全員の健康と幸福にも気を配っているということを、男たちは忘れているのです。
 

 今、政府は、選ばれた市民にパドマシュリー、パドマブーシャンといった称号を与えはじめました。しかし、女性にはすでに、グリハ ラクシュミー(家庭の繁栄の女神)、ダルマパットニー(献身的な妻)、アルダーンギ(善き伴侶)といった、もっと立派で価値のある称号があります。女性にこうした称号があるのは、優れた資質と犠牲の精神のゆえです。


 女性が職場に行ったら誰が家庭を見るのか、母親が他の子供を教えに学校に行ったら誰がその母親の子供を教えるのか、等々といった問いが持ち上がります。中には、女性が働きに出るのは経済的な問題を解決するためであるけれども、働きに出ることでもっと大きな問題に向き合わなければならなくなることもあり得るだろう、と言う人もいます。しかし、現代社会では、女性は家庭を維持していくための負担を夫と分担する必要に迫られており、そのため、女性もできるかぎり学業に励んで、適切な仕事に就き、家庭の負担を分担すべきなのです。必要な資格を取得した女性が仕事に就くことを男たちが妨げるなら、そこには利己心の気配がうかがわれます。


 女性は、愛と犠牲という持ち前の資質(プレーマ・バーヴァとティヤーガ・バーヴァ)によって、自分たち自身で全世界を制することができます。怒りは、女性にとっては異質なものであり、男性の間ではより多く横行しています。女性が怒りを爆発させる場合もあるかもしれませんが、そのような機会は少なく、ごくまれであるのに対して、男性の場合はその逆です。

 

 サーヴィトリーは死の神(ヤマ)と戦い、夫を生き返らせることに成功しました。聖典や歴史の中に、夫が妻のために犠牲を払う覚悟をした例を見つけることができるでしょうか? 妻が亡くなると、夫は再婚を考えます。この世では、女性に関するかぎり、このような不公平が起こっているのです。だからこそ、11月19日だけでなく、毎月19日を女性の日として祝うことにしたのです。

  

女性はインド古来の文化の継承者

 サイ・ムーブメントの女性帰依者たちは、弱い立場にある女性たちが家族のためにお金を稼いだり、自分の時間を有意義に過ごしたりできるように、洋服の仕立てなど、役に立つ職業を学ぶのを助けるような奉仕活動に、大勢で熱心に参加しています。このような活動が全国で行われるようになれば、国は繁栄するでしょう。こうした神聖な仕事は、私たちの国の古来の文化の典型です。

 

 女性は私たちの古来の文化の継承者です。文化とは精錬を意味します。女性は精錬の聖火ランナーであり、国家の解放のために奮闘しています。

 

 ギーター・レッディは、ジャーンシーのラニ〔ジャーンシー藩王国の王妃ラクシュミーバーイーの呼称〕といった偉大な女性たちの戦場での活躍について語りました。ラニはすさまじい戦いを繰り広げ、打ち負かされると、敵〔イギリス軍〕に降伏するくらいなら命を投げ出すことを選びました。ラニは、犠牲によってのみ人は解放を得ることができるというヴェーダの教えを実践しました。このカリの時代には、女性がサティヤとダルマに従っていないという例外的なケースもあるかもしれません。しかし、ほとんどの場合、女性はサティヤとダルマの理想に従って生きています。


 しかしながら、女性は能力を発揮することを奨励されていません。家族の中でさえ、女性は障害や対立に直面しなければならない、というありさまです。もし女性に正当な評価と励ましが与えられれば、女性はあらゆる分野で輝きを放ち、家、国、そして全世界に輝かしい奉仕をして、全人類の安寧に貢献するでしょう。


女性は仕事に献身と誠意を示す
 

 確かに、女性特有の優れた資質を持ち合わせていない女性も少なからずいるかもしれません。けれども、社会のどの階層においても、これは避けられないことです。オレンジの果実を例にあげましょう。オレンジの果汁を味わうためには、苦味のある外皮と種の部分を取り除かなければなりません。人間という生命の果実にも、外皮のように苦い部分がたくさんあります。あなたはその苦い外皮と、悪い性質という種を取り除かなければなりません。そうすれば、中に詰まっている甘い果汁を味わうことができます。
 

 もし女性の例にならって男性が神聖で犠牲的な性質を身につけるなら、世界は間違いなく向上するでしょう。男たちは、あたかも仕事ができるのは男だけであるかのように、「ウッディヨーガム プルシャ ラクシャナム」(男は自分の職業によって知られる)などと言っています。これは間違った発言です。女性も、男性と同じようにあらゆる仕事をしています。実際、女性たちは、より誠実に、献身的に働いています。


 最近、インドの電話業界の役員がスワミに会いに来た時、スワミは電話業界で雇用されている女性の割合について質問しました。彼は、従業員の99%が女性であると言い、女性は男性の10倍良い仕事をしていると付け加えました。女性は、割り当てられた仕事が終わるまで、立ち止まったり外に出たりすることはしません。女性は男性よりも優れた労働文化を持っています。


 聖典のどこにも、女性は料理だけをすべきである、男性のように仕事をすべきではない、などとは書かれていません。実のところ、男性も、いざというときに妻を助けることができるよう、料理や家事を学ばなければいけません。気づきが人生です。気づきとは、部分的な知識ではなく、総合的な知識を意味します。女性にはその熱意が満ちあふれています。男性であっても、あらゆることを学ぶ努力をすべきです。女性には秘められた力があります。皆さんは、女性が才能を発揮できるよう励まさなければいけません。


 目の前にいる兵士全員を震え上がらせるほどの軍の指揮官が、家に帰って妻を目にすると震え上がります。同じように、目の前にいると学生たちが怖がって震えるような学校長も、妻から帰宅が遅くなった理由を問い詰められると、背筋が凍るような思いをします。
 

神は区別しない
 

 一般的に、プルシャという言葉は、肉体的な姿に基づいた男性だけを意味するものだと思われています。これは本当ではありません。プルシャは、頭のてっぺんから足の先まで体の隅々にまで存在しているアートマ、あるいはチャイタニヤ〔意識〕を表しています。プルシャールタ(プルシャ・アルタ、人生の主な目標)は、ダルマ、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)の4つです。これは男性だけに当てはまるものではありません。これは男性にも女性にも共通のものです。
 

 実際、女性は基本的なダルマに誠実に従うのに対して、男性は利己的に行動します。神性を悟っている者がプルシャです。スワ ダルマ〔自己のダルマ〕とはアートマ ダルマのことであり、肉体に関するダルマのことではありません。これはバガヴァッド ギーターの中で説明されています。これは古代人が従った理想でした。


 アルタとは、単に富や金銭を意味しているのではありません。これは知恵という富を意味します。真の英知である不二を体験する権利は、男性と女性の両方にあります。


 カーマとは、この世の対象物を求めるのではなく、神を求める欲望です。


 モークシャ(解脱)は、人生の第4の目標です。モークシャを求める欲望は、男女を問わず、万人に共通のものです。モークシャとは、モーハ クシャヤ、すなわち、身体的な妄執を捨てることです。感覚〔五感〕や心〔マインド〕に従うことなく、良心に従うなら、モークシャに向かって前進することができます。


女性は自分の役割を果たすよう奨励されるべきである
 

 経典の奥義を教え、女性が社会で役割を果たすことを奨励するために、19日は女性の日と定められています。ダルマは、女性によってこそ、社会で地位を占め、本来の栄光を取り戻すことができます。しかし、男性にも同等の権利があるのですから、国が繁栄するよう、この強大で神聖な努力を共にしなさい。たとえ積極的に加わらなくとも、少なくとも男性は女性に干渉をせず、女性に仕事をさせるべきです。

 クリシュナはギーターの中で、「アナンニャーシ チンタヤントー マーム イェー ジャナーハ パリウパーサテー」(誰であれ、他念なく私を想い、私を崇める者)〔ギーター9章22節の前半〕、「テーシャーム ニッティヤービユクターナーム ヨーガクシェーマム ヴァハーミャハム(それほどまでに私に専心する者の安寧は、私が担う)〔ギーター9章22節の後半〕と言いました。これは、いかなる区別もない、あらゆる人への保証です。誰もが同様の普遍性の感覚を養うべきです。


 神は遍在です。カースト、信条、性別、国籍に基づいた相違感は捨てなければいけません。神は何も区別しません。皆さんもこの平等の原則を実践すべきです。神はすべての場所にいます。まるで神があなたの小さな額縁に収められた姿の中に閉じこもっているかのように、神をあなたの狭い範囲内に限定することはできません。そう考えるのは愚かです。神には何千という姿と名前があるのです。サハッスラナーマ・アルチャナ(主の千の御名の礼拝)をするとき、あなたは千の御名を一つ唱えるごとに花を一つ捧げていきます。そのすべてはただ一つの絵姿に捧げるのであり、いくつもの絵姿に捧げるわけではありません。すべての御名はただ一つの神を指しているのです。皆さんは、アッラー、イエス、ラーマ、クリシュナなどと唱えるかもしれません。しかし、そのすべては、ただ一つの神を指しています。

 もしも、あなたが崇めている姿が唯一の神だと言うのなら、あなたは無限の存在を狭い有限の存在に限定していることになります。

 

 宗教的な差別は捨てなさい。一つの宗教があるだけであり、それは愛です。一つのカーストがあるだけであり、それは人間というカーストです。ただ一つの言語があるだけであり、それはハートの言語です。先ほど私はガーヤトリーの4つの部分と五大元素について話しました。すべては神です。そこにはカーストや信条やどんな違いもありません。


 一体性を悟れば、純粋性と神性を得ることができます。皆さんはこのことを忘れて、敵意や共同体の感情を増しています。神には共同体や国籍や性別といった区別はありません。古代では、人々の間にそのような相違感はありませんでした。そうした感情に余地を与えてはなりません。神は一つであり、この世の誰もが神の恩寵を享受する平等な権利を持っているのです。

 

1998年4月19日

コダイカナルにて

Sathya Sai Speaks Vol.31 Ch14

​自然のベール

自然

私の愛と祝福を受け取りなさい。

あなたの甘い手紙が届きました。調子はどうですか?

幸せでいなさい。心配しないでいなさい。サイはいつもあなたと共にいます。

 

放棄とは、悪の力と戦い、心(マインド)を抑制する力です。真理が、真理だけが、真の友であり、身内であり、自己(アートマ)です。真理に従い、正義の道を歩むなら、あなたの体の毛一本すら決して傷を負うことはないでしょう。

 

完璧になる必要はありません。あなたはすでに完璧なのです。自然は覆いのようなもので、その先にある事実を隠しています。あなたが考える良い考えや、それに基づいた良い行動はどれも、言わば、まさにそのベールを引き裂いて、その背後に存在している神の清らかさ、無限性が、もっともっと現れるようにするのです。

 

来たら、必ず5月の夏期講習(78年5月20日から6月20日)にいらっしゃい。

 

愛を込めて

ババ

Prema Dhaara Part2 No.49

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あなたの内に生じる愛を神に向けなさい。

あなたの体を神に捧げなさい。これは真の信愛の印です。

人間には3つの構成要素があります。

それは、心(マインド)、語る言葉の力、体です。

この3つは、トリカラナ、

すなわち、人の3つの行動媒体〔3つの道具〕

と呼ばれています。

この3つが神聖な目的のために使われるとき、

人は神聖化されます。

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​三重の清らかさ

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自分のサーダナに
集中する​

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​三重の清らかさ​

信愛のみが、至高の善を授けてくれる

信愛のみが、輪廻(りんね)の病を

滅ぼしてくれるもの

信愛のみが、神性を悟る手段

信愛のみが、解脱の手段

 愛の化身たちよ! 信愛〔バクティ〕によってのみ、人は至高の真理に到達します。信愛によってのみ、人は生死という病から解放されます。信愛によって、人は神を悟ろうと努めます。信愛によってのみ、人は解脱を達成します。バーラタ〔インド〕人は、バクティ(信愛)を人生の至高の目的、最高のゴールと見なして、古来よりバクティの道を追求してきました。

 

 バクティ(Bhakti)という言葉は、さまざまに解釈されてきました。バクティの語源は「バジ」(Bhaj)です。シャンカラは「バジャ セーヴァーヤーム」〔奉仕を通じて神を崇めよ〕と言明しました。シャンカラによれば、「奉仕は信愛」です。あなたは誰に奉仕をするのでしょうか? 奉仕の形とは何でしょうか? 神への奉仕が真の奉仕の形です。「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」〔シャンカラの著書『識別の至宝』〕では、バクティの意味を別の方法で詳述しています。「スヴァスヴァルーパ ダルシャナム バクティ」(真の自己を認識することがバクティである)、と。

 信愛の偉大な主唱者であったナーラダ仙は、「バジャ パラマバクティ」〔至高の信愛を崇めよ〕と言明しました。ナーラダは、バクティとは主の御名に浸ることから生じる信愛の絶え間ない流れである、と定義しました。ナーラダはまた、パラマバクティ(至高の信愛)で満ちている者は、肉体を忘れ、神への愛に完全に浸り、陶酔状態にあると言明しました。これは、真の信愛とは、肉体を忘れ、神の愛に完全に没頭することであるということを意味しています。

ラーダーとバクティ

 ヴィシシタ・アドヴァイタ哲学〔条件付不二一元論〕の提唱者であるラーマーヌジャは、ラーダーの名前からバクティの意味を導き出し、バクティとは神への絶え間ない愛の流れであると解釈しました。「ラーダー」という単語には、ラ、アー、ダ、アーという4つの音節が含まれている。この単語は、ラから読むとラーダーだが、アから読むとアーダーラになる。ダから読むとダーラーになる。2番目のアーから読むとアーラーダになる。アーダーラは「基盤」を意味する。ダーラーは「絶え間ない流れ」を意味する。アーラーダは「礼拝」を意味する、と。このように、ラーダーは、ラーマーヌジャにとって、神への礼拝の絶え間ない流れを表明しているのです。

 ヴァラッバーチャーリヤは、別の解釈を示しました。彼は信愛の絶え間ない流れと、しずくとなって落ちる信愛とを区別しました。ハートが完全に神への愛で満たされているとき、帰依者は絶え間なく神の御名を唱える。そうした帰依者の心の状態は、「サルヴァダー サルヴァカーレーシュ サルヴァットラ ハリチンタナム」(いつでもどこでも絶え間なく神を憶念し続ける)と表現される、と。

真の信愛は神を友と見なすこと

 マーダヴァーチャーリヤは、真の信愛とは神を唯一裏切ることのない友と見なすことであると述べました。他の友人たちは皆、一時は友人であっても、後には敵対するようになるかもしれません。このように、この世の友人は皆、いつかは敵に変わるかもしれません。神は唯一の真の友です。マーダヴァーチャーリヤは、真の信愛とは神を最も偉大な友と見なす神への愛の現れであると定義しました。

 

 ヴェーダは、以上のすべての解釈を超越した真理を宣言しています。ヴェーダは、ニッティヤムとスヴァーガタという2つの言葉を何度も繰り返しています。ニッティヤムとは、あらゆる時代を通じて変わることのないものです。これは、過去・現在・未来という3つの時間すべてにおいて変わらない真理であるとも表現されています。スヴァーガタとは、その光り輝く力のことであり、それはその光を自ら周囲に広げて存在し続けます。

 

 このことは太陽によって例示されています。太陽は変わることなく自らの光を四方八方に広げている存在です。太陽の永続性はニッティヤの属性を示しており、その光の拡散はスヴァーガタの性質を示しています。どちらの性質も一つの実体を源としています。スムルティ〔ヴェーダ以外の聖伝〕は、この性質をスヴァルーパ・スヴァバーヴァ(姿と質の組み合わせ)と呼びました。

 

 太陽には2つの性質があります。一つは光を放つという性質、もう一つは熱を伝えるという性質です。同様に、アートマには2つの性質があります。一つはプラバーヴァ(発散)、もう一つは光を周囲に広げる性質です。あなたの家にあるランプはその例です。ランプは一つでも、その光は家全体を照らします。それと同じように、アートマはその姿においてただ一つです。それは永遠であり、不変です。スムルティはそれを、「サッティヤム グニャーナム アナンタム ブランマー」(至高の自己は、真理であり、英知であり、無限である)と表現しています。グニャーナ(霊的英知)をあらゆる場所に広めるのは、アートマの本質です。

 

 スムルティは、アートマはアヌ(原子)の姿をしていると明言しています。ここには、宇宙には原子を持っていないものは存在しないという意味が含まれています。すべての物質は原子でできています。経典は、神はアヌスヴァルーパ〔原子の姿〕として遍在していると宣言しています。神はまた、大宇宙としても存在しています。

ダルミーとダルマ

 神のアヌスヴァルーパ〔原子の姿〕はダルミーと呼ばれています。この姿をとって、ダルミーはすべての被造物の中に存在していますが、すべての被造物はダルミーの中には存在していません。宇宙に存在するすべての物体は互いに異なるように見えますが、それらすべてに内在している神聖原理は一つであり同じです。その神聖原理は、すべての物体の根底にある単一性を明示するものであり、ダルミーと呼ばれています。これは、ダルミーは一見多様に見える物体すべてを一つにするものであるということを意味しています。

 

 ダルマは物体の姿における多様性を表しています。そうしたすべての物体の単一性を明らかにする根本原理がダルミーです。ダルミーは、ヴェーダにおいて、ムーラーダーラ・パダアルタム、つまり、万物の根源にあるもの、と説明されています。この原初の根本的な実体は他のすべてのものの基盤です。今、このダルミーの重要性が忘れ去られつつあります。また、ダルミーはすべてに浸透しているということも忘れられています。

 

 すべてに浸透しているダルミー(神性)は、微細な原子としてすべての物体の中に存在しているので、人はダルマ・スヴァルーパ、すなわち、ダルマの化身であると見なされています。人間は何のために肉体を与えられているのでしょうか? 何のために存在しているのでしょうか? 経典は、「シャリーラム アーディヤム カル ダルマサーダナム」(体はまさしくダルマを達成するための第一の道具である)と述べています。体はダルマを実践するために人間に与えられているのです。今、人々は自分が存在するようになった目的を忘れがちです。人々は、自分の義務を無視しています。無意味な空想を追い求めています。そのため、自分の本質を理解することができずにいます。

祝祭の役割

 祝祭は、人々に本当の神聖な性質を理解させるために意図されています。今日はヴァイクンタ・エーカーダシー〔内なる天国の扉が開くとされる日〕です。ヴァイクンタ〔天国〕とは何でしょうか? 主の住まいは、ヴァイクンタ、カイラーサ、スヴァルガなど、さまざまに述べられています。これらはすべて想像上の名前です。

 

 神の住まいとは何でしょうか? 主はナーラダ仙に言いました。「どこであれ帰依者が私の栄光を歌う所に私は住む」、と。主は帰依者のハートの中に住んでいます。これが主の「本宅」です。他のすべての場所は「別宅」です。ハートに宿る神聖なる者に宛てたメッセージは、必ず神に届きます。神の住まいとしてのヴァイクンタは、変わることのない場所を意味します。人間には多くの変化があるかもしれませんが、ハートは変化しません。エーカーダシーとは何を意味するのでしょうか? それを何か特別な場所や時間と考えるべきではありません。エーカーダシャ・ルッドラ〔11のルドラ神〕の姿は、五つの知覚器官と五つの行動器官と心で構成されています。ルッドラは人体に宿る者であり、人体は多くの潜在力で満ちています。現代の人々は、これらの潜在力と、ハートに宿る神性を忘れています。

 

 新年の日は来ては去っていきます。それらは何の役に立つのでしょうか? サムヴァッツァラ(一年)は主の御名の一つです。一瞬一瞬が新しいのです。自分を変えるのに、なぜ1年も待つのですか? 新年やヴァイクンタ・エーカーダシーといったこの世の祝祭にとらわれているかぎり、神はあなたを避けるでしょう。現象界と肉体意識を忘れて、初めてあなたは神を悟ることができるのです。

人間の3つの行動媒体

 あなたの内に生じる愛を神に向けなさい。あなたの体を神に捧げなさい。これは真の信愛の印です。人間には3つの構成要素があります。それは、心(マインド)、語る言葉の力、体です。この3つは、トリカラナ、すなわち、人の3つの行動媒体〔3つの道具〕と呼ばれています。この3つが神聖な目的のために使われるとき、人は神聖化されます。

 

 持っている信条にかかわらず、人は誰もが魂を磨く必要があります。すべての人に信愛が必要です。人のハートと心を浄化できるのは霊性だけです。第二の必要条件は道徳です。道徳はヴァーク(語る言葉)を浄化するのに役立ちます。第三はダールミカムです。体や手によって行われる正しい行いはすべて、人を神聖化します。3つの道具〔心・語る言葉・体〕は、霊性と道徳とダルマによって浄化されます。この三重の清らかさを達成した者だけが、神を悟ることができるのです。もしこれらの道具のどれかが不浄であれば、神を悟ることはできません。

 

 神を理解するためには、人間は宇宙全体に浸透している微細な原子の原理を理解しなければなりません。神を理解することの難しさは、ゴーピカー〔牧女〕たちによって認識されていました。ゴーピカーたちはこう明言しました。「どうすればあなたを知ることができるでしょう、おお、クリシュナ! あなたは小さなものの中で最も小さく、宇宙に存在する84万の種の中で最も大きなものよりも大きいのです」

大切にすべき3つの装飾品

 人は、神の遍在を信じて、善行に励み、善い思いを抱き、人生を善い修行に捧げるべきです。言葉は真実の言葉であるべきです。大切にすべき装飾品は、語る言葉にとっては真実、手にとっては慈善、耳にとっては聖なる伝承の傾聴です。自分の神性に対する信心を深めなさい。そうすれば、自分の人生を救うことができます。良心に従いなさい。ハートを清らかにしなさい。

 

 世俗の事柄に没頭していては、神を悟ることはできません。知識には2種類あります。ダルメー・ブータ・グニャーナとダルマ・ブータ・グニャーナです。ダルメー・ブータ・グニャーナは姿形に関する知識です。ダルマ・ブータ・グニャーナは名前に関する知識です。この2種類の知識に基本的な違いはありません。名前と姿形は相互に関連しています。この真実を理解しなければいけません。すべての存在の内で輝いている意識は、神の姿であり性質です。この姿形と名前の一体性を正しく理解しなければいけません。こうした概念にはどれも、外的な意味と内的な意味があります。内なる意味を把握しなければなりません。例えば、ここにあるマイクはテーブルの上に置かれています。テーブルが土台です。テーブルは大地の上に立っています。大地が土台であり、テーブルは大地に支えられています。土台はアーダーラと呼ばれ、土台に支えられているものはアーデーヤと呼ばれています。現代人はアーダーラ〔土台〕を忘れがちで、アーデーヤ〔土台に支えられているもの〕のことばかり考えています。

神のサポートがあればすべてのことが成し遂げられる

 愛の化身たちよ! 新年は毎年、規則正しくやって来ます。一方、あなた方は何か新しい考えを抱きましたか? あなた方は、古い、間違った考えを捨てていません。そのようなものは捨ててしまい、神聖で、崇高な、新しい考えを持たなければなりません。もしあなた方が、古い考え方や行動の仕方を変えないのであれば、新年を祝うことが何の役に立つでしょう? 貴重であり神聖でもある時間を適切に使いなさい。役にも立たない噂話にふけるのはやめなさい。思いやり、愛、同情といった善い性質を培いなさい。自分の行いを注意深く監視して行動し、自分で自分を罰して行動を正しなさい。さまよう心や怒りは、簡単な方法でコントロールすることができます。そして、神を頼みとしなさい。

 

 あなたを支える神の力をもってすれば、成し遂げられないことは何もありません。カルナとラーヴァナは、背後に神の力がなかったために滅ぼされた強者の例です。パーンダヴァ兄弟が救われたのは、神への信心と団結のおかげです。世界の出来事は、ある一族は団結のゆえに繁栄し、ある一族は一族が分裂したせいで苦しむことになったことを示しています。

 

 今、国家は何よりも団結を必要としています。団結を促進することができるのは、神への信心を通してです。この会場にいる人々の多様性を見てごらんなさい。彼らは異なる信条を持ち、異なる国籍を持っています。その全員が、スワミへの共通の忠誠で結ばれています。神を信じるというたった一つの気持ちによって、団結を達成することができるのです。分裂の原因となっているのは、この信心の欠如です。

 

 あなた方は皆、神の化身です。あなた方は皆、愛と平安の化身です。あなた方は人間の姿をした神です。このことを確信できるようになりなさい。神の愛に浸りなさい。その愛を神に捧げなさい。そうすることで、あなたはすべてを愛するようになります。この愛の原理を身につけたときにのみ、あなた方はこのような祝日の意味を知ることができるようになるでしょう。自分の父親や母親のために立ち上がるのと同じように、神への信仰のために立ち上がりなさい。

 

 社会への奉仕をしなさい。社会がなければあなたは生きていけません。あなたの幸福は、社会の幸福と密接に結びついています。すべての人を神の一つの家族の一員として愛し、すべての人との一体感を育みなさい。

 

 

1998年1月1日

サイ クルワント ホールにて

Sathya Sai Speaks Vol.29 Ch1

自分のササーダナに集中する

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親愛なるバクタ〔バクティを持っている人/帰依者〕へ!

 

 あなたとあなたの家族を祝福します。

 

 あなたの手紙と、同封されていた新聞の切り抜きを受け取りました。世界は、あらゆる類いの人々、あらゆる類いの考えを抱えています。これは世界の特質です。私たちは、そうした人々や、その人たちの活動に注意を払うべきではありません。帰依者は、自分の領域の外で起こっていることを心配する代わりに、自分自身の向上のためにサーダナに集中しなければいけません。

 

 機関誌で、あなたが読者と分かち合うために寄せた文章を見ました。それは取るに足りない問題を扱っています。私たちは、価値のあるものとないものを識別しなければいけません。読者やメンバーが霊的なサーダナにおいて進歩すること、そして、スワミの教えを理解すること、実践することを、常に助けようと努めなさい。

 

 スワミが霊的な成功のために与えた、とても多くの建設的でポジティブな指示があります。書くとき、話すときには、それらに重点を置きなさい。瞑想は五感を超越します。人は、そうした瞑想によって穏やかになった心を携えて、勇敢に人生の活動に入っていくことができます。

 

 地元のすべての帰依者に私の祝福を伝えなさい。
 

 

 

愛と祝福と共に


シュリ サティヤ サイ

1982年5月20日

Prema Dhaara Part2 No.54

人は、神の遍在を信じて、

善行に励み、善い思いを抱き、人生を善い修行に捧げるべきです。

言葉は真実の言葉であるべきです。

大切にすべき装飾品は、

語る言葉にとっては真実、

手にとっては慈善、

耳にとっては聖なる伝承の傾聴です。

自分の神性に対する信心を深めなさい。

そうすれば、自分の人生を救うことができます。

良心に従いなさい。

ハートを清らかにしなさい。

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神はどこで

​見つかるか

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​主の威風

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​神はどこでみつかるか

73歳御降誕祭のババの御講話

 神の愛の化身たちよ! 神は完全な愛の化身です。その愛はどの人の中でも等しく輝いています。花の香りは、花を右手に持っても左手に持っても変わりません。それと同じように、神には、受け入れる者、排除する者といった区別はありません。さまざまな人が、自分の好き嫌いから、自分の心の中にある区別を神にも当てはめようとします。神には、善悪、好むものと好まないもの、邪悪なものと高潔なものといった、区別意識はありません。白檀の木は、自分に当てられた斧(おの)にさえ香りを与えます。それと同じように、神はいつでも分け隔てなく、万人を平等に愛し、育て、守る心積もりでいます。しかし、心の狭い人々は、神の平等心を簡単には理解できません。実際のところ、魚売りにダイヤモンドの価値が分かるでしょうか? 誰もが自分の限られた理解力と経験を頼りに、神の力と属性を理解しているのです。

 

人間の視野が狭い理由

 このような狭い観念を取り除くのにまず必要なのは、愛を育てることです。愛はどのようにして育めばよいのでしょうか? 人は「与えることと許すこと」によって、自分の中に愛を育みます。神との関係においては、それは、いつも自分のハートを神に捧げるという姿勢でいることを意味します。今日、私たちが目にしているのは、そのような神聖な態度とはほど遠い、「得ることと忘れること」という習慣です。

 今日、人は神の愛と恩寵と恵みを受けていながら、何の感謝も示さずに、自分の利己的な追求に没頭しています。これが人の視野が狭くなっている原因です。

 

 ギーターの最後に、サンジャヤは、ヨーガの主〔クリシュナ〕とパールタ〔大地の子であるクンティー妃の息子〕すなわち勇敢な射手〔アルジュナ〕が共に立つところ、そこに勝利はある、と宣言しました。人は繁栄や成功や至福を得るためにさまざまな努力をします。しかし、人がそれらを達成する手段は、自らバガヴァンの側に立つことです。パールタとはプリティヴィ(大地)の息子という意味です。それはすべての人間に当てはまります。サンジャヤの宣言は、人が神の側にいるか、神が人の側にいるかのどちらかであれば、勝利は確実である、ということを意味しているのです。現代ではそのどちらも起こっていません。人は神から離れた生活を送っています。

 

 まず始めに、人生の目的は何かを認識しなければなりません。あらゆる国の求道者たち、さまざまな宗教の信奉者たちは、この、人生の目的という問題を探求してきました。その結果、さまざまな宗教が生まれました。イエスはキリスト教の創始者です。キリスト以前の世紀には、ユダヤ教がユダヤ人の宗教として存在していました。ユダヤ人は、イスラエルの民を守るメシアの到来を信じていました。

 

 イエスが生まれたとき、東方から三人の王がやって来て、ベツレヘムの幼子を祝福しました。最初の王は、幼子を見て、この子は神を大いに愛する者となるだろうと言いました。二人目の王は、神はこの子を愛してやまないだろうと言いました。三人目の王は、イエスは神であり、神はイエスであると言いました。これらの声明の内的な意味は何でしょうか? 最初の声明は、神を愛する者は誰もが神の使者である、という意味です。神がその人を愛するとき、その人は神の子となります。その人が二元の感覚を手放して、自分の意識を神に融合させると、その人は神と一体となります。

 

イエスの生涯と使命

 子供のころにエルサレムを訪れたとき、イエスは群衆の中に迷い込んでしまいました。マリアは必死に捜し回り、ようやく神殿で祭司の話に熱心に耳を傾けているイエスを見つけました。マリアがイエスに彼を捜すのに苦労したと話すと、イエスは言いました。

 「お母さん! 私が父の家で父と共にいて安全であるのに、どうして心配する必要があるのですか?ここは神の神殿です。ここは私の父の館です。ここでは何も失われません。この永遠なる神聖な家では、私は完全に安全で、しっかりと守られているのです」

 

 この出来事は、イエスは12歳にしてすでに神の資質に満ちあふれ、自分の周りの人々に神のメッセージを伝えていたことを示しています。キリストは、世間の人々に三つの重要なことを明言しました。それは、1)神は一つである、2)神は全能である、3)誰も傷つけてはならない、というものでした。神はすべてに宿る者です。キリストは自らの使命に着手して、人々に、神への愛を育むことによって神の愛を獲得するように、と呼びかけました。

 

 それぞれ異なる信仰を公言する人々は、神をヴィシュヌ、シヴァ、ガネーシャ、アッラー、キリスト、その他、異なる名前で崇拝しています。神は一つであるというのが真実です。現代人は宗教の中に神を見出そうとしています。しかし、神は宗教(マタム)の中にではなく、心(マティ、マインド)の中で見つかるものです。心を制し、浄化したときにのみ、神は認識されるのです。

主は人に宿っている

 神はどこにいるのかを知らずに、人は神に捧げものをすると主張します。すべてをブラフマンに捧げると主張していても、人々はブラフマンがどこに宿っているのか知りません。主は宣言しています。「私はヴァイシュワーナラの姿であなたの内に住み、あなたが供える物をすべてたいらげる。私はすべてを消化して、あなたの体に栄養を与える」

 

 主は常に人間の側にいるというのに、人は神を世界中で探しています。外側を探しても、内側を浄化することはできません。不可欠なのは、意識を変えることです。あなたは自分の行いを正さなければいけません。というのも、すべては自分の行いしだいだからです。清らかなハートで正しい道を貫いて、あなたの人生を神聖なものにしなさい。すべての霊的な規律はすべて、この目的のためにこそ考案されたものなのです。捧げる祈り、ジャパ、プージャーはすべて、ハートを浄化することを目的としています。

 

 教育、科学、他のどの分野でも、偉大な業績を残した人は皆、ひとえに行いによってそれを為すことができました。体力も、富も、知力も、人に尊敬や名誉を受けさせることはできません。尊敬と名誉をもたらすものは、その人の生き方です。ですから、神を悟るためには、もっぱら行いを通じて努力することです。正しい行いに欠けていれば、他のすべての霊性修行は何の役にも立ちません。ですから、帰依者は皆、神を悟る努力を増進するために、善良で神聖な資質を身につけるべきです。

 

 あなた方は皆、サイの王国にいます!

 あなた方は皆、サイの家にいます!

 あなた方は皆、サイの光の中にいます!

 あなた方は皆、サイのハートの中にいます!

 私はあなた方を祝福します。

 この聖なる夜に、私はあなた方を祝福します。

 これはあなた方の権利です

 

 もし正しい考えを抱くなら、あなた方は皆、神の家にいることに気づくでしょう。全宇宙は主の家です。ひとたびこの真理を認識したら、区別意識が生まれることがあるでしょうか?

神の道を理解する

 人は、神は怒っているとか、無関心だなどと想像します。そのような想像をする人は。神性を理解していません。胃に腫瘍があったら、外科医はメスを使ってそれを取り除きます。その手術は患者に対する悪意から行われるのですか? そんなことはありません。手術は、その人を回復させるために、その人のために行われるのです。それと同じように、誰かが何か悪い性質を募らせたら、その悪徳を取り除くために手術が行われるのです。それが神によって行われると、神は、神が怒った、神の機嫌が悪くなったと言われてしまいます。そんなことを言うのは小心者の印です。神の愛の原理を理解している人は、そのような間違いを犯すことはありません。

 

 今日は偉大な宗教の創始者の誕生日です。キリスト教徒は、イエスは神のメッセンジャー〔使者〕であり神の子であると見なしています。アナンタプルにあるサティヤ・サイ女子大学のOG〔女性の卒業生〕たちは、メッセンジャーズ・オブ・サティヤ・サイと呼ばれる団体を結成していて、年に一度、この神聖な日にその記念日を祝っています。「私たちを教育してくれた母校、あまりにも多くのためになることを授けてくれた母校に、どのように感謝を示せばよいのでしょうか?」というのが、OG会の会長からの質問でした。「私たちはどうやってバガヴァンに感謝を示したらよいのでしょうか?」と彼女は問いました。

献身的に社会に奉仕する

 親愛なるOGの皆さん! どこにいようとも、神への信仰と無私の精神を胸に、社会に出て、あらゆる可能な方法で社会奉仕をしなさい。彼女が言ったように、女子は結婚後、義理の両親や夫から課せられるさまざまな束縛に耐えなければならない、というのは事実です。確かに、バーラタの文化と伝統は女性の自由を制限しています。一方、男子はより大きな自由を享受し、好きなように行動できます。どんな仕事に就こうが、どんな商売をしようが、どの国に行こうが、かなりの自由があります。束縛する人は誰もいません。社会奉仕をしたければ、多くのことができます。残念ながら、彼らは社会奉仕をしたいといった高潔な考えであふれているわけではありません。一方、社会奉仕をしたいという神聖な気持ちに駆られている女性たちは、ハンディと束縛に苦しんでいます。サイの教育機関で学んだ若き男女は、少なくとも今日からは、社会奉仕に従事すること、そして、自らの献身的な生活によって、人々の理想となることで、母校に感謝の気持ちを示すことを私は望みます。単に学位を取得するだけでは、教養人になることはできません。

 

 目先の利益のためだけに学歴を利用するのは愚かなことです。自分の知識は、人々の生活を向上させるために使うべきです。もしあなたが人間としての真の幸福を得ることができないのであれば、山のような書物の知識は何の役に立つでしょう? 神は、神に信仰を置く人の面倒を見てくれないのでしょうか? いつも生計を立てることにばかり熱心で、遍在の主を忘れているなら、何が得られるというのでしょうか?

 誰もが「私は平安が欲しい」と言って平安を切望します。しかし、平安は(peace)断片(piece)で満ちている外の世界で見つけることができるでしょうか? 平安は、「私は」と「~が欲しい」を取り除くことによって、自分の中で見つけるものです。平安は、エゴと飽くなき欲望によって破壊されています。欲望を抑えなさい。人間は、さまざまな種類の尽きることのない心配事に悩まされています。悩みは、心を神に向けることによってのみ、取り除くことができます。人々は、欲望を抑え、無執着(ヴァイラーギャ)を養わなければいけません。そうすれば、真の心の平穏を得ることができます。

 

 サイの教育機関で10年あるいは12年過ごした学生が、受けた教育から得た恩恵の証しとして示すことができるものとは何でしょう? 彼らの行いや実践が、ある程度の証しとなるはずです。もし人生の貴重な時期であるその期間に、自制と自己規律を実践することを身につけていないなら、せっかくのチャンスを無駄にしたという罪を犯すことになるでしょう。教育の真髄は、善良な資質を培い、有意義な人生を送るための正しい価値を身につけることにあります。

 

 私は、あなた方が人々への奉仕に献身し、それによって主の恩寵を得ることができるよう、あなた方学生全員を祝福します。

 

サティヤ サイババ述

1989年12月25日

クリスマス

プールナチャンドラ講堂

Sathya Sai Speaks Vol.22 Ch38

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​主の威風​

親愛なる人へ!

 

 何世紀にもわたってインド文化を通じて響き渡ってきた、2つの根本的なメッセージがあります。それは、「母を神として敬いなさい。父を神として敬いなさい」というものです。これらは神聖な指示です。親が子に避けられ、反抗されて傷ついているなら、きっとすぐに神も避けられ、反抗されるようになるでしょう。あなたの息子があなたをそこにいない者のように扱っているとき、どうしてそのような息子が私を敬っていると主張できるでしょう? その主張は明らかに偽りです。

 

 主は外面の威風は求めません。主は内面の清らかさがあるかどうかを調べます。悪しき生活を送る人生は、命の宿っていない体のようなものです。肉体は、サンスクリット語で「デーハ」と呼ばれる、「荼毘(だび)に付さなければならないもの」です。内面の清らかさを得るために努力しない人と同一視される〔その人の〕肉体は、自らの名を正当化するその終焉のためだけに生きています。その肉体は、それ以外の目的のために仕えることはなく、主の恩寵を得ることもありません。

 

 教育の価値は、その教育が植え付ける徳の観点から測られなければなりません。というのも、徳だけが平安と喜びを確実にしてくれるからです。徳がなければ、人は死んでいるも同然か、さらに悪いものです。教育は人に鋭い識別力を授ける必要がありますが、あなたの息子にとって、それを得ることは、みっともない、下等なことなのです!

 

 サティヤ〔真理、真実〕は私が教えるものであり、ダルマは私が生きる道、シャーンティ〔平安〕は私の人格の印であり、プレーマ〔愛〕は私の本質そのものです。

 

ババ

 

Prema Dhaara Part2 No.26

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あなたのハートを
​高潔な気持ちで
満たしなさい

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​決して
あきらめない

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​あなたのハートを高潔な気持ちで満たしなさい

73歳御降誕祭のババの御講話

我々の母国は、すべての大陸で

名高い高潔な魂たちを世にもたらした

この国は、外国の支配者たちを追い出して

自由を獲得した国

このバーラタは学問で評判の国であり、

音楽、文学、神聖な伝承の分野で

模範である神聖な国

ああ、帰依者たちよ!

母国の栄光と繁栄を育むことは、

すばらしい芸術と自然の美しさで知られる

バーラタの地に生まれたあなた方の義務

(テルグ語の詩)

 

神性は、太陽よりも輝かしく、

純粋な雪よりも清らかで、

風元素や空元素よりも繊細であり、

すべての生き物に内在している

神性は、小宇宙と大宇宙に浸透している

神はすべてのものの中に存在しているが、

何にも属していない

あなたはブラフマンの中にいて、

ブラフマンはあなたの中にいる

実に、あなたとブラフマンは一つ

これ以上、何を伝えることがあろうか?

(テルグ語の詩)

 愛の化身たちよ! バーラタは、霊性、正義、慈善、非暴力、そして、平安が生まれた場所です。バーラタで見られる、これらの特性への忠誠心は、他のどこでも見られません。バーラタは、サプタ リシ(七聖仙)と最初の詩人ヴァールミーキが生まれた場所です。ここは、ダルマの体現者であるラーマが統治する神聖な国であり、クリシュナによって神の歌であるギーターが歌われた国です。バーラタは、個々の魂と普遍の魂は一つであると宣言した国です。神聖さと正義と平安の国であるバーラタのような国は、他にありません。バーラタの大気には真実が浸透しています。バーラタの土には思いやりが浸透しています。バーラタのガンジス河には愛が満ちてます。この国の人のハートには寛容さが宿っています。これほど高潔で、神々しい、無類の性質は、バーラタだけに現れているものです。

 

神の磁力

神は全能であり遍在です。

 

サルヴァム カルヴィダム ブランマー

(まさにこの一切はブラフマンなり)

 

 科学と霊性を探求すると、どちらも同じ真理を肯定していることが分かります。神の存在は、科学によって、電気、磁気、レーザー、ラジオ〔放射〕、熱、光波といった形で可視化されており、これらは遍在です。これは、神の存在を示す直接的な証拠です。神性は、あなたが食べるもの、飲む水、吸う空気の中に存在しています。この世には、磁気のない場所はありません。磁石とは何でしょう? 鉄の含まれた物を引き寄せる物だけが磁石なのではありません。この世に存在するすべての物は磁力で満ちています。母は子を引き付ける磁石であり、子は母を引き付ける磁石です。同様に、夫と妻はお互いに引かれ合います。草は牛にとっての磁石です。花はミツバチの磁石です。このように調べていくと、すべてのものに磁気の原理が適応していることがわかります。ヴェーダーンタは「ラーマヤティ イティ ラーマハ」(引き付けることはラーマの原理なり)と明言しています。哲人たちはそれを「神の磁力」と呼び、科学者はそれを「バイオ コズミック パワー」または「スーパー パワー」と呼んでいます。ですから、ヴェーダーンタの支持者も科学者も、同じ神の力をさまざまな名前や形で経験しているということです。

 

遍在する神性の体験

 

 目に見える、このはかない世界には、人間の知らない多くの神秘的な力が存在します。それらは超越的な力や隠れた力と呼ばれています。誰もがそれらを理解できるわけではありません。どの創造物にも神の力が備わっています。だからこそ、私はいつも皆さんに「ディヴィヤートマ スワループラーラ」(神なる真我の化身たちよ)と呼びかけているのです。

 

 医者たちは人体の秘密や神秘を理解できていません。例えば、舌を見てみましょう。舌には4万個の味蕾(みらい)があります。熱を発する舌の蕾(らい)は2万5千個あります。眼球は1インチ〔約2.5cm〕にも満たない大きさですが、1万3千種類の光線を認識することができます。あなたの体には無数の細胞がありますが、細胞の一つひとつは神であり、各細胞にあなたの姿全体が入っています。畏敬の念を覚えませんか? これは誰の創造物でしょうか? これこそが神性の超越的な力です。

 

 神性が存在しないと考えるのは愚かなことです。この超越的な力を理解できない人は、神の存在を否定します。実際には知らないのに知っているふりをしてはいけません。神の存在を否定する権利は誰にもありません。「ムンデー ムンデー マティル ビンナハ」(考えは人それぞれ)です。どの人にも自分の信念があります。

 

「No」と言う人への返答は「No」

「Yes」と言う人への返答は「Yes」

「No」と「Yes」はあなたに付随する

しかし、サイはいつでも

「Yes」、「Yes」、「Yes」

(テルグ語の詩)

 

すべての力は人間の中に潜んでいる

 

 人は形のないものの存在を否定する傾向にあります。目に見えないからといって、ラジオの電波が存在していないわけではありません。デリーのラジオ局から放送される番組は、ラジオをその局の周波数に合わせれば、どこでも聞くことができます。人の体はラジオに例えられます。神を体験するには、形なき神に周波数を合わせる必要があります。人の体はコンピュータでもあり、そこにはとても多くの秘密が潜んでいます。心(マインド)はテレビのようなものであり、たくさんの名前や姿形がそこに映し出されます。体は発電機でもあります。これら一切の要点は、すべての力は人間の中に潜在しているということです。

 

 アインシュタインは、物質はエネルギーに、エネルギーは物質に変換できることを示しました。エネルギーはすべてを包含しているのです。ニュートンは、エネルギーは創造も破壊もできないと言いました。しかし、エネルギーは一つの形から別の形へと変換することができます。哲人たちはこれをさまざまな方法で説明しました。

神には誕生も死もない

神には始まりも終わりもない

神はどこにでも存在する

神は永遠の照覧者

(テルグ語の詩)

 

 現代の科学者たちは、この真実を理解できていません。彼らが知り、理解していることは、全体のほんの一部にすぎません。アウェアネス(気づき)とは何でしょう? それは完全な理解です。完全な理解とは、神性の遍在を知ること、経験することです。

 

 先ほどスピーチをしたヴァージペーイー首相〔バジパイ首相〕は、人々がモークシャ(解脱)を得るためにしている努力について言及しました。モークシャとは何を意味しますか? モーハ クシャヤ(完全なる無執着)がモークシャ(解脱)です。これはどういう意味でしょうか? 空気は容易に空気と混ざり、火は火と、水は水と容易に混ざります。それと同様に、神は光の姿そのものです。あなたが光になりなさい。そうすれば、あなたは普遍なる光と一つになるでしょう。神は無形です。あなたが無形の神に融合するには、体との自己同一視を捨てなければなりません。アートマ〔真我〕の原理に集中しなさい。いつも体に執着していたら、どうやってアートマ、つまり普遍なる原理を悟ることができますか? アートマに集中しなさい。そうして初めて、あなたの良心は普遍意識に融合するのです。この融合は、サーユッジヤ(神との融合)と呼ばれています。

 

ヒーローはただ一人、それは神

 

エーカートマ サルヴァブーターンタラートマ

(同一のアートマが万物に宿っている)

 

 一つのものしか存在していませんが、それにさまざまな名前と姿形があるのです。一つのものだけが存在しているのです。「0」(ゼロ)はその前に数字がある場合〔例:10〕に、価値を得ます。世界も生命も太陽も月も空も、すべてはゼロ〔zero/無価値〕です。一なるものだけがヒーロー〔hero/英雄〕であり、それは神です。人間(本来は神である者)は、神を忘れるとゼロになります。

 

 愛の化身たちよ! 神はあなた方と別のものではありません。あなた方は神です。この真実を探究し、理解しなさい。一生を研究や実験に費やしていたら、いつあなたは実践するのですか? 個々人は、名前や姿形や態度は違うかもしれませんが、アートマ〔真我〕は変わることなく内在しています。水は言語によって異なる名前で呼ばれます。テルグ語ではニール、ヒンディー語ではパーニー、タミル語ではタンニー、サンスクリット語ではヴァーリと呼ばれます。名前はさまざまですが、水に変わりはありません。

 

 それと同様に、神にはさまざまな名前と姿形がありますが、アートマの原理は同じままです。アートマはすべての人に共通しており、良心と呼ばれています。良心は意識〔普遍意識〕から生じたものです。有神論者であれ、無神論者であれ、有神論者と称する無神論者であれ、無神論者と称する有神論者であれ、すべての人がこの事実を認めなければなりません。ボーギ(世俗的な快楽の人)であろうと、ローギ(病気の人)であろうと、ヨーギ(平常心の人)であろうと、ヴィイラーギ(離俗の人)であろうと、アヌラーギ(執着の人)であろうと、アートマの原理は誰においても同じです。

 

 体は色の付いた風船に例えられます。風船の大きさや色は違いますが、風船の中の空気は同一です。同じ空気が風船の中にも外にも存在しているのです。風船の中の空気は良心に例えられ、あらゆる所に遍在している空気は意識に例えられます。風船にどんどん空気を吹き込んでいくと、最終的には破裂して、中の空気(良心)は外の空気(意識)と融合します。同様に、あなたの愛を拡大しなさい。そうすれば、体への執着という風船が破裂して、あなたの内なる良心は外の意識と融合します。良心と意識の違いは、質ではなく量でしかありません。

 

愛の吸引力は神性

 引き付ける力は神性です。小さな例を挙げましょう。今日は何万人もの人がここに集まっています。誰かがあなたを招待したのですか? 誰かがあなたに招待状を送ったのですか? 招待状は送られていません。では、どうしてあなたはここに来たのですか? スワミへのあなたの愛が主な原因です。誰も強制的にあなたをここに連れてきたわけではありません。皆さん全員がこのことを知っています。政治的な会合には、人々がトラックで連れてこられます。来ないようにと私が何度も言っているにもかかわらず、あなた方は依然としてここに来ています。愛の吸引力は神性です。それは神の磁石です。

 

 ラーマーヤナにも同じような話があります。ジャナカ王は、娘のシーターと同じようにシヴァ ダヌス(シヴァの弓)を持ち上げることのできた者とシーターを結婚させようと考えました。シーターはブージャーター(母なる大地の娘)であったため、生まれつき磁気の力が備わっていて、シヴァ ダヌスを難なく持ち上げることができたのです。シヴァの弓を持ち上げて弦を張ることができたのは、神の磁石であるラーマだけでした。こうした神聖な磁石は誰の中にも存在しており、違うのは強さの度合いだけです。その強さは愛によってのみ増すことができます。私とあなたは一つであるという一体感を養いなさい。一体感の至福を体験しなさい。神はあなたの中にいます。あなたは神です。あなたがこの真実を認識した時、いかなる種類の疑念の余地もなくなるでしょう。

 

誤りは、創造物にではなく見方にある

 

 称賛と非難は内にあるものの反映です。高潔な人は決して他人を批判しません。そのような神聖でない行いにふけるのは、卑しい者だけです。あなたが見る色は、あなたがかけているメガネの色によります。愛のメガネをかけなさい。そうすれば、周囲のすべてに愛が見えるでしょう。間違いは、創造物にではなく、あなたの見方にあるのです。批判を重視してはいけません。もし誰かが大声であなたを批判したら、その声は空気の中に消えてしまいます。もし誰かが心の中であなたを批判したら、それはその人自身に戻ってしまいます。その人はあなたの体を批判しているのですか? 体は不活性です。その人はアートマを批判しているのですか? 同じアートマがあなたにもその人の中にも宿っているのですから、その人は自分の自己〔アートマ〕を批判していることになります。この事実に気づいた人は、真の真理の探求者です。

 

 人は自分の中にある何百もの欠点をわかっていないのに、他人の最も些細(ささい)な欠点を指摘する傾向があります。自分の中の悪いところは、他人の中の悪いところとして反映されます。まず自分を正しなさい。そうして初めて、あなたの心は清らかになるのです。ですから、神聖な思考を育みなさい。人間の内には多くの力が存在しています。小さな例をあげてみましょう。私が東アフリカに行った時、偉大な信者であるパテル医師が、鉄製のヘアブラシをプレゼントしてくれたのですが、私が髪をとかすと、髪が自然とヘアブラシに引き寄せられます。それは男子学生たちも目撃しています。今日、私がそのことを公表しているのは、私の内に神聖な磁力が存在することを皆さんに理解してもらうためです。その磁力が、ここにいる皆さんを引き付けたのです。私の愛は、私の最大の財産です。

 

Love is My form――愛が私の姿

Truth is My breath――真実が私の呼吸

Bliss is My food――至福が私の食事

My life is My message――私の人生が私のメッセージ

Expansion is My life――拡大が私の人生

No reason for love――愛に理由はなく

No season for love――愛に時季はなく

No birth, no death――誕生もなく、死もない

 

愛は与えることによって生きる

 

 神の力は生まれることも死ぬこともありません。私は褒められても嬉しくありませんし、責められても落ち込みません。私は人生のこうした二元性を平静に扱います。私は苦楽のどちらにおいても幸せです。私の中には愛しかありません。私の愛は、与え、与え、与えることで生きています。愛は決して受け取りません。これが、私の愛と、受け取ることだけを考える世俗の愛との違いです。だからこそ、私の愛はずっと拡大し続けているのです。小さな種が、多くの枝と実をつける巨大な木になります。その木の一切は、小さな種に起源があります。それと同じように、被造物は愛から生まれました。愛は神です。愛の中で生きなさい。愛を育みなさい。すべての人を心から愛しなさい。愛が現れて、初めてあなたは自己実現〔真我顕現〕を達成するのです。

 

 まず、自信を身につけなさい。自己信頼が土台です。自己満足が壁であり、自己犠牲が屋根です。自己実現がその家(人生という大きな館)です。すべては自己に包含されています。自己とは、アートマ、神霊のことです。このアートマの原理を用いて霊的な知識を得なさい。霊性の中にある力は無限です。愛の力は、原子爆弾の力をはるかに上まわっています。愛の力は、憎しみを抱いている人をも変えてしまいます。そのような神聖な愛を育みなさい。そうして初めて、バーラタ人の間に調和が生まれるのです。先ほどスピーチをしたチャバンは、至る所で暴力が横行していると述べました。人々の悪い思考がその原因です。ひとたび愛が芽生えれば、共同体に憎しみはなくなるでしょう。だからこそ、私は学生たちに繰り返し言っているのです。

 

一日を愛で始めなさい

一日を愛で満たしなさい

一日を愛で過ごしなさい

一日を愛で終えなさい

それが神への道

 

同じ神の力がさまざまな名前と姿形を持っている

 

 神は、創造、体系化〔維持〕、破壊の原因です。同じ神の力がさまざまな名前と姿形を持っているのです。例えば、アーンドラ プラデーシュ州の首相は一人しかいません。すべての部署は大臣たちが管理しており、大臣たちは首席大臣の直接の監督下にあります。

 

 それと同様に、全世界は3つの基本的な活動である創造、体系化〔維持〕、破壊の上に成り立っています。創造の面はブラフマーが、体系化はヴィシュヌが、破壊はシヴァが司っています。こうした権限の分散は、世界を円滑に機能させるために不可欠です。この3つの力を統合したものがGod、神です。Godという単語はG・O・Dという3つの文字で構成されています。GはGeneration「生成」、OはOrganisation「体系化」、DはDestruction「破壊」を意味します。このブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラの3つの側面が神を構成しているのです。誰も神の存在を否定することはできません。もし誰かが「神はいない」と主張するなら、その人に「あなたには、私の確信に疑問をはさむ権利はありません」と言いなさい。神の存在を否定する人には神は存在しないかもしれませんが、神を信じている人には神は存在します。「God is nowhere――神はどこにもいない」と言う人がいるかもしれません。nowhereのwhereからwの文字を取ってnoにつなげると「God is now here――神は今ここにいる」となります。これらはすべて、言葉の組み立てです。

 

神の原理を理解しなさい

 

 人は心の狭い感情によって人生を無駄にしています。人は自分と家族のことしか考えていません。これは愛の収縮です。全世界を一つの家族と考えなさい。それが愛の拡大です。さまざまな国は、世界という大きな家のさまざまな部屋のようなものです。それらの部屋に住んでいる人たちすべてを自分の兄弟姉妹と考えなさい。そのような関係を人類同胞と築けば、あなたは誰も憎まなくなるでしょう。

 

 愛の化身たちよ! 神性の原理を理解するよう努めなさい。この世界には、神以外、何一つ存在しません。この世界は物質とエネルギーから成り立っていると言う人がいるかもしれません。実際は、エネルギーだけがあり、物質はありません。あなた方が目にするどんな物質も、時間が経てばエネルギーに変わります。これは布です。布は糸でできています。糸は綿でできています。ですから、綿と糸と布は同一です。それと同様に、名前と姿形はさまざまですが、根本原理はただ一つであり、それは神性です。現代では、善いことをしている人を批判する人はたくさんいますが、善い行いに携わる人はほとんどいません。

 

 学生諸君! 少年少女たちよ! あなた方はバーラタと世界の解放者です。あなた方は未来のリーダーであり弁論者です。リーダーシップの資質を身につけなさい。

 

ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ

(世界中が幸せでありますように)

 

 ヴァージペーイー〔バジパイ首相〕は、「サルヴァ ブータ ヒテー ラタハ」(すべての生き物の幸福を願う)と言いました。誰もが健康で幸せであるべきです。それが私の本当の誕生日です。多くの人が私に「ハッピー バースデー」(幸せな誕生日でありますように)と願います。その願いを、幸せでない人たちに伝えなさい。私はいつも幸せなのに、私のために願う必要がどこにありますか?

 

 プラフラーダは、父親は息子が社会的に良い評判を得て初めて喜ぶのであって、息子が生まれた日を喜ぶではないと言いました。マーナヴァ〔人間〕とは何者ですか? マーナヴァは、まさしく神の化身です。「マ」は「無知」、「ナ」は「~がない」、「ヴァ」は「自分を律する」を意味します。ですから、「マーナヴァ」とは、「無知をなくして自分を律する者」という意味です。あなた方は気づきが化身した存在です。自分に付いている名前にのっとった行動をしなさい。あなたにティヤーガラージャ〔犠牲の王〕やラーマ〔喜びを与える者〕という名前が付いていたとしても、それだけでは不十分です。それらの理想に沿って生きるべきです。

 

 私たちが口にする食べ物には、神の力が宿っています。どの学生も、バランスのとれた食事をしなさい。オレンジジュース、トマトジュース、ライムジュース、リンゴジュースは、酸が多く含まれているので、とても健康に良いものです。葉野菜は、ビタミンも鉄分も含まれているので、栄養価が高いです。体は健康でなければなりません。健康な体があれば、どんな仕事でも引き受けることができます。

 

私の誕生日のメッセージ

 どこかに神を探しにいく必要はありません。神はあなたの体の隅々に、毛の一本一本に、内在しています。だから、シーターが感謝の印として真珠の首飾りを差し出した時、ハヌマーンは首飾りの真珠を噛んで捨てたのです。それらの真珠にはラーマの御名が鳴り響いていなかったからです。なぜそんなことをしたのかとシーターに問われたハヌマーンは、こう答えました。「あなたは真珠の価値で判断なさいますが、私は主の御名の神聖な響きに耳を傾けます。私にとって、ラーマの御名の伴わない宝石は石ころ同然です。私の体毛にはどれもラーマの御名が染み込んでいます」

 

 このように、神性はバーラタ人のすべての細胞、すべての毛に浸透しています。だからこそ、マックス・ミューラーをはじめとする多くの外国人は、この聖なる地に生まれて死ぬことを望んだのです。ヨーガ〔神との合一の行/自制〕とティヤーガ〔犠牲〕の神聖なこの国に生まれていながら、これらの聖なる価値を支持しないのは残念なことです。真のバーラタ人の人生を送りなさい。他の人々のために身をもって理想を示し、みんなを幸せにしなさい。これが私の誕生日のメッセージです。

 

 今日はこの体の誕生日です。実際には、私に誕生日はありません。皆さんがここに集まったので、私は今日を誕生日として祝っているのです。私には、この誕生日は重要ではありません。あなた方全員が幸せな日が、私の本当の誕生日です。私は何も欲しません。皆さんがプレーマ〔愛〕とティヤーガ〔犠牲〕とヨーガ〔神との合一の行/自制〕を吸収して、それによって神性を経験するとき、私は幸せでしょう。私は、皆さんが平安と安全の中で理想の生活を送ることを願っています。この縁起の良い日に、あなたのハートを高潔な感情で満たし、神の御名を唱えなさい。

 

1998年11月23日

プラシャーンティ ニラヤムの

サイ クルワント ホールにて

Sathya Sai Speaks Vol.31 C44

​決してあきらめない

ババからのお手紙

私の愛する者よ、
 

 

 瞑想にトライ、心が静まるようトライ、リラックスにトライ。トライし続けなさい。あなたが行う前向きな努力は、どれ一つ無駄にはなりません。レンガを一つ積み上げるたびに、レンガ造りのお寺は完成に近づいていきます。

 

 ですから、トライし続けなさい。すると、ある日、突然、あなたは心の低次の領域を突破して黙想の領域へと入り、「そうだ、分かった、私は理解した、今、自分がいる道が完全に分かった」と言えるようになるでしょう。トライし続けなさい。あなたはどこかで始めなければいけません。あなたが語ることのできない自分、それについて、あなたは、もしあなたがそうしたいと思うなら、ある方法で考えてみることができるでしょう。それは、あなたの心、体、感情を感知して、知ることです。
 

 

祝福と共に

ババ

1971年11月12日

Prema Dhaara Part2 No.45

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​第一の敵

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バール・ヴィカス
​の生徒たちへ

​第一の敵

 今日の世界は、恐れ、不安、あらゆる種類の恐怖症に悩まされ、病床でのた打ち回っています。しかし、それを治して健全な状態に戻す治療法がないわけではありません。世界を正すことのできる治療法とは何でしょう? 人間が、自分の高尚な運命、受け継いできた貴重な財産、生まれ持った強さと美徳に気づくことです。そうすれば、今日の病的な状況を引き起こしている、憎しみ、貪欲、猜疑心(さいぎしん)を取り除くことができます。兄弟愛の絆を深めることは、さまざまな実践者が提案している治療法です。しかし、それだけでは十分ではありません。平和と調和は、自分たちは兄弟だと言い合っても確保できるものではありません。私たちは、同じ母親から生まれた兄弟姉妹が互いに争い、互いを信頼し合うことがほとんどないという状況を見ています。彼らは怒りや妬みで心を汚し、人生を惨めなものにしています。子が親を敬う気持ちや、兄弟が協力し合う姿は、今の人類にはほとんど見られません。兄弟で財産の取り合いをし、時間とお金の大半を裁判に費やして、復讐心を燃やしています。

 

 自分の強さや力に対する慢心は、結果として多くの人に傷を負わせることになりかねませんが、その慢心が一番傷つける相手は自分自身です。慢心は、人間に取り憑く(とりつく)悪魔のようなもの(祓うのが難しいもの)です。他者を破滅させ、他者を踏み台にすることを促すそのエゴをサーダナ(魂の鍛錬)によって破壊するまでは、人は自分を人間であると主張することはできません。バガヴァッド・ギーターは、「ニル マモー、ニル アハンカーラハ」(「私のもの」や「私」のない状態)になるべしと、人に説いています。人に内在する神は、「私のもの」や「私」という闇の力が力を失ったときに、初めて現れるのです。

 

 エゴに打ち勝つのは、ほとんど不可能な仕事です。人生のあらゆる瞬間に人間を悩ましている、6つの内なる敵について聞いたことがあるでしょう。しかし、「私」や「私のもの」という感覚は、それよりさらに根深いのです。人間は、情欲、怒り、貪欲、執着、慢心、憎しみという、6つの敵を打ち破ってきました。実際、その勝利を収めた人は大勢います。けれども、自分のエゴを破壊して、エゴの邪悪な衝動から逃れた英雄は、実に稀(まれ)なのです。

 

エゴは親友を敵に回す

 

 エゴは茨であり、それをハートに植えて育てると、人はその代償を払わなければならなくなります。エゴは、親しい友人を敵に回し、多くの善行や事業を台無しにします。というのも、エゴは二人の人間がいっしょに働くことを許さないからです。悲しみは、影のようにその後に付いてきます。エゴのないところには、喜び、平和、勇気、協力、そして、愛が花開きます。自分を動かしているのと同じ神の意識が、他のすべての人を同じように動かしているということを認識したとき、愛はエゴを後ろへ追いやって、その人の行動と言葉と思考を司るようになります。

 

エゴが起き上がると知恵は台頭できない

 

 次の出来事を考えてみましょう。ある男が突然息子を亡くし、大きな悲しみに包まれました。そこで、隣人が男のもとへ行き、あれやこれやと論じたり、逸話を聞かせたりして慰めようとしました。「親しき友よ! なぜ人は生まれるのか? なぜ人は死ぬのか? 人が生まれる理由は、人が死ぬ理由でもある。誕生は死を意味する。運命は私たちと奇妙なゲームをしているのだ。私たちは人形劇の人形にすぎない。人が死んで悲しむことに何の意味がある?」。隣人は、自分が知っているすべてのヴェーダーンタ(無執着の哲学)を遺族の耳に注ぎ込みました。けれども、遺族の悲しみは、自分でその真実に気づくまで、変わらずに続きます。

 

 数ヵ月後、その隣人が息子を亡くしました。今度は数ヵ月前にヴェーダーンタの一切を聞き入れた男が隣人のもとにやって来て、自分がされたのと同じ質問を何度も繰り返しました。男は言いました。「人は自分のカルマ(運命付けられている行為とその結果)が残っているかぎり生き続けるものであり、償わなければならないカルマがなくなると生は短くなる。この一切は、古い借金を返済するためなのだ」。しかし、このようなことを言っても、悲しむ隣人を慰めることはできません。というのも、息子を失った当事者は隣人だからです。エゴが起き上がると知恵は台頭できません。「自分の息子」という気持ちが、当事者の悲しみと、そうでない人が平気でいられる、根本的な理由です。

 

 私たちは、自分たちのために家を建て、それが「自分たちのもの」であることを喜びます。家の壁に映画のポスターを貼られると、「自分たちの家」が汚されたと感じ、裁判までしてその犯人を懲らしめます。選挙の時期になると、人目につく不快なスローガンで壁の外観が損なわれ、「自分たちの」壁を汚したとして、あらゆる人と口論になります。しばらくすると、「自分たちの家」を誰かに売って、引っ越していきます。それ以降は、たとえその家に爆弾が落とされても、少しも胸を痛めません。長い間胸が痛んだのは、すべてエゴによるものだったのです。こうしたエゴは、どうやって入り込んでくるのでしょうか? それは、私たちの中に芽生え、私たちによって育てられ、私たちを根こそぎ破壊してしまう雑草なのでしょうか? そうしたエゴは、初めはどこにあったのでしょうか? 私たちが生まれる前はどこにあったのでしょうか? 私たちは死んだ後は、どこにあるのでしょうか?

 私たちの考えや推測はすべて、生まれてから死ぬまでの間の産物にすぎません。自分と結婚した女性が子供のころに重い病気にかかったときには、その女性は「自分のもの」にはなっていなかったので、心配することはありませんでした。私たちは、この種の執着を、人生の結合と安定をもたらす要素として育んでいます。ところが、私たちはこの執着を、魂の進歩の妨げとなるほど大きくしてしまうのです。迷妄ではなく、愛を育みなさい。自分の妻や子供を愛し、夫として、父親としての義務を果たしなさい。しかし、常に真の価値を持ち続けていなさい。平衡感覚を失くしてはなりません。

 

すべての縁戚関係は基本的に身体上のものでしかない

 

 例をあげましょう。細くて背の高い椰子の木が風で揺れています。その下の砂地に長い影ができていて、その影も揺れています。神は実物であり、この世はその影です。あなたは椰子の実が欲しいと思いましたが、影を木と勘違いして、細くて暗い影の線に沿って歩いていって、椰子の実の影をつかみました。これがあなたの迷妄です。そうではなく、実物の木に登りなさい。そうすれば、椰子の実は手に入ります。そうしている時、あなたの影も、暗い影の線に沿って歩いて、椰子の実をもいでいるように見えます。ですから、愛の道、神の道を進んでいけば、あなたは両方の世界を手に入れることができるのです。愛はあなたのハートをとても大きく広げるので、あなたは親類縁者に対する自分の義務から逃げだすことはできなくなるでしょう。〔しかし、〕妻、息子、母――すべての縁戚関係は、基本的に身体上のもの、体に縛られたもの、時間制限のあるものであるということを、常に忘れずにいなさい。

 

 エゴは、次から次へと欲求や願望の波をあなたの目の前に寄せ、それを手に入れるようにとあなたを誘惑します。それは決して終わりのない輪です。ですから、あなたのエゴの輪から解放されるために、欲求を減らし、愛の範囲を広げるよう努めなさい。生きることは、多くの対立、交際や別離、闘争や無視を伴うものです。私たちは、二種類の接触――ヴィヨーガ(不快な分離)とサムヨーガ(快い結合)の両方を手放す必要があります。神に執着すれば、この世の迷妄は自動的に消え去ります。ヒランニャークシャ、ヒランニャカシプ、カムサ、ラーヴァナ、その他の者たちの場合を考えてごらんなさい。彼らは、幸せで平安でいるための富と力のすべてを持っていました。しかし、彼らは自分のエゴに支配され、ついには破滅に至りました。

 

僧侶にはエゴの詰まった慢心があってはならない

 エゴは、賢者、学者、教師、敬虔な求道者を、普通の人以上に攻撃します。彼らのエゴは、彼らに、自分は議論で誰にでも勝てる、自分は一番学識がある、自分は最も神に近い存在だ、と断言させます。エゴが入り込むと、その後をすぐに妬みが追いかけてきて、ハートを占領してしまいます。

 

 宗教団体を傘下に持つグルの中には、あなたが今年のダシャラー祭にプッタパルティに行くと言うと、あなたを笑う者もいます。彼らは、「ということは、あなたもサイババ狂の犠牲者になったのか?」と、あなたをからかいます。それとは反対に、彼らは、「それはよかった! 心の安らぎを得ることができる場所、アーナンダ(神聖な至福)を得ることができる場所、神性を自覚することができる場所には、喜んで行くべきだ。あなたがそのような場所を得たことを、私は嬉しく思う。神は一つであり遍在なのだから」と言って、喜ぶべきでしょう。

 

 黄土色の袈裟(けさ)〔捨離の印〕を着ている僧侶には、エゴの詰まった慢心や妬みがあってはなりません。私は常々、神はどこにでも、誰の中にもいます、すべての名と姿は神のものです、と語っています。私はあなた方に、あなたが静かにサーダナを行える場所、神性の雰囲気を感じられる場所、愛を受けとれる場所、奉仕を通して愛を育める場所に行くよう、指示します。

 アルジュナが巨大なカーンダヴァの森を灰にしたときには、エゴが頭をもたげることはありませんでした。しかし、カウラヴァ軍の前に立ったとき、エゴはアルジュナに逃げろと言いました。アルジュナはその戦いのために膨大な準備をし、長年にわたる苦行と冒険の末に特別な武器を集めていました。クリシュナは、自分がカウラヴァ軍との調停に入り、カウラヴァ軍がパーンダヴァ軍の嘆願を聞いてくれれば、戦争を回避することができる、と申し出ました。アルジュナはクリシュナに異議を唱え、それは失敗するに違いないと言いました。「ジャスミンの花は、火に投げ入れられても香りを放つことができるでしょうか? なぜ、聞く耳を持たない彼らにあなたの優しい説得の言葉を語って言葉を無駄にするのですか? 命を奪う猛毒から命を支える甘露を得ることができるでしょうか? あなたは彼らの中に入っていくことで嬉しいかもしれません。しかし、私は戦いに賛成です。今この瞬間も」

 

 それほど勇敢で好戦的だったアルジュナが、突然、エゴの迷妄に襲われたのです。アルジュナは言いました。「私には、墓地を統治したいという願望はありません。自分の親族を殺すくらいなら、物乞いをして暮らすほうがましです」。するとクリシュナは、ギーターの中でアルジュナにこう言いました。「ニルマモー ニルアハンカーラハ プラシャーンティム アドヒガッチャティ」――『私』や『私のもの』のない状態、つまり、これは『私』である、これは『私』ではない、これは『私のもの』ではない、といった性癖をなくした者だけが、プラシャーンティ(より高次の平安)に到達できるのだ」と。

 

サティヤ サイババ述

プラシャーンティ ニラヤムにて

1978年10月11日

Sathya Sai Speaks Vol.14. Ch12

​バール・ヴィカスの生徒たちへ

ブリンダーヴァンにて

愛しい子供たちよ

 

 私の愛と祝福を受け取りなさい。あなた方の兄弟、姉妹、両親、先生方への祝福も。あなた方のクラスは「バール・ヴィカス」〔子供の開花〕という名前が付けられています。「ヴィカス」の意味は、咲く、花が咲く、というものです。花は私たちを喜ばせてくれます。なぜなら、花は美しく、よい香りがして、活きいきとしているからです。子供はみんな、それぞれがサイの庭の花です。子供の柔らかさ、無邪気さ、純真さは、人を子供に引きつけます。子供はたいへん愛に満ちているので、そのお返しに、誰もが子供を愛します。子供は利己的ではありません。子供は他の子供たちと自由に遊びます。子供はいつも本当のことを話します。子供は自分の好きなものを遊び友だちと分かち合います。その分かち合いは子供に大きな喜びを与え、他の人たちにも喜びを添えます。子供たちよ! これらの価値を育てなさい。それから、自分ができるときには、いつでも他の子供を助けなさい。そして、両親が助けを必要としているときには、両親を助けなさい。両親を幸せにしなさい。両親があなたとあなたの善良さを誇りに思うような子供になりなさい。あなた方のグル〔導師〕である先生方の教えをよく学び、先生方があなた方に守るようにと助言する「すべきこと」と「してはいけないこと」を守るよう努めなさい。

 あなた方は今