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​気づき

SSSIOJ副会長 小窪正樹

私は、今、この時点で神

この世の真実、3-1=1

人間に自由意志はあるか? 〜 この世は操り人形劇 〜

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私は、今、この時点で神

 凍てつく朝に、雪をフワッと手に掬(すく)ってみた。キラキラッ、キラキラッとまばゆい輝きを放つ結晶は、その冷たさとは裏腹に私の心を温めてくれる。よく見ると、どれ一つとっても同じ形がない。何という不思議だろうか。神の無限の栄光を感じる瞬間である。

 

無知の極み

 「私は神です。あなたも神です。私とあなたの唯一の違いは、私はそのことを知っていますが、あなたはそのことを全く知らないことです。」       

 http://www.sathyasai.or.jp/international/saibaba.html

 

 霊的な教えを殆ど知らない頃の私にとって、この御言葉ほど印象深くショッキングなものはありませんでした。なぜなら、それは「今、この時点で、私は神である」と解釈されるからです。どうしてそんなことがあり得ましょうか?これまで悟りを開かれた聖者や賢者は、苦行を積み重ねた結果として神になったはずです。あれは無駄な努力だったのでしょうか?さらにスワミは、次のようにもおっしゃいます。 

 『私とは別に、私から遠く離れたところに、私には分からないある偉大な力がある”と考えて、ある人たちは瞑想を始めます。“自分とははっきり別のある秘密の神聖な力がある。私はそれを獲得しなければならない”と想像して、別の人たちは多くの誓いを守り、いろいろの儀式をとり行い、種々の難行を始めます。こういったことは全て無知の極みです。あなたとは別の何かがあると思っている限りは、あなたは無知の中に沈み込んでいます。宇宙にはあなた以外のものは無く、あなた以上のものもありません。』 

- ブリンダヴァンの慈雨  P.175

 私の霊性修行は、まさにスワミがここで述べておられる「自分とは別の神聖な力」を獲得しようとするものでした。それをスワミは「無知の極み」と厳しい言葉で表現されます。私たちは、錯覚しているということでしょうか。

 

 少し話はそれますが、日本の曹洞宗の開祖で「道元」という高名な禅僧がおられました。彼は、仏典には、本来本法性天然自性身(ほんらいほんぽっしょう てんねんじしょうしん)、つまり、人間は生まれながらにして仏であり、そのままで仏である、と説かれているのに、なぜわざわざ修行して悟りを求めなければならないのか、と疑問を持ちます。最終的に道元は、「身心脱落」という状態に至り悟りを得るわけですが、私たちの迷いもこれに近いのかも知れません。

自分を拠り所として自分を知る

 さて、「私」とは何でしょうか?私たちは、まず、自分を知らなければなりません。では、どうしたら良いのでしょう?

 『あなた自身がパラマートマであり、アートマであり、そしてジュニャーナ(英知)なのです。独座して、このジュニャーナがどのようにして存在するかを静かに問うとき、あなた方は自分の深奥から永遠不変の自発的な声を聞くでしょう。』

- ブリンダヴァンの慈雨  P.182

 私たちは霊性に興味を持ちはじめると、神を知ろうとして、多くの聖者や霊性に関する書物を読みあさります。それはそれで素晴らしいに違いありませんが、スワミは他者に頼らず、自分を拠り所として自分を知ろうと努力しなさいと仰います。「静かに問う」とはどのようなことでしょうか?「永遠不変の自発的な声」とはどのようなものでしょうか?道元の只管打坐(しかんたざ)にはほど遠いかも知れませんが、独座して、皆さんと共に「自分」についての考察を深めて行きたいと思います。

肉体は実在しない?

 私たちは通常、「私」というモノを肉体と心と魂の複合体として捉えているように思います。それぞれについて、それが「私」であるか否かについて検討したいと思います。

 

 まず肉体についてです。私たちの肉体は60兆個の細胞が集まって出来ていると言われますが、それとは別個に、腸内には60兆個の腸内細菌という細胞が存在しています。細胞数の観点から見れば、半分は人体から分離した「私以外の要素」で成っているわけで、肉体の全てが「私」であるとは言い難い状態といえます。

 また、肉体には限りませんが、これらのモノは、空間的観点からみますと全て原子から出来ていて、原子は原子核と電子で構成されています。後者は負のエネルギーで前者は中性子と陽子(正のエネルギー)からなっています。原子核の周りを猛烈なスピードで電子が回っているのですが、その距離と大きさは、電子の軌道が体育館とすると原子核はその中の1mmの仁丹にも満たないほど小さい存在ということです。つまり、原子はほぼ空間のみの存在となります。それから物質が出来ているわけですから、私たちの肉体は隙間だらけであり、その実態はエネルギーであると言えます。ちなみにアインシュタインの相対性理論によるE = mc²(E:エネルギー、m:質量、c:光速度)という等式は、「物質はエネルギーである」ことを証明しているとも捉えられます。

 

 また、現代物理では量子力学が発達し、物質の最小単位は原子ではなく素粒子(上記の陽子や中性子を構成するクオークのほかレプトン、電子、光子、ヒッグス粒子などがある)とされていて、その標準理論では、にわかには信じがたいことですが、大きさの無い点粒子として存在し、同時に波・波動の性質があるとされています(カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳 :『すごい物理学講義』 河出文庫、2021年版より)。大きさのないものが集まると物質が出来ると言うのは矛盾しているようにみえますが、結局は全てが波動エネルギーで繋がっていて形態をとっていると推察されます。そうすると、見える世界は、実は映画のような実態のないものとも考えられるわけで、「私」と思っている肉体も実在しないことになります。まさしく「色即是空 空即是色」と言えるのです。

 

 本題から外れますが、波のエネルギーが物質や肉体を支えていると言うことになりますと、波の代表格である音、つまり神性な音であるバジャンやヴェーダが世界を変えるというスワミの御言葉がいまさらながら頷けます。スワミの御言葉を以下に列記します。

 『オームから五大元素が生じた。最初は空だった。空から風が生じた。風から火が生じた。火から水が生じた。水から地が生じた。』                

- タイッティリーヤ ウパニシャッド 2.1.

  『可視世界で見られるあらゆるもの、音の領域で聞くことのできるあらゆる音、ハートの多種多様なあらゆる体験――これらはすべて、プラナヴァ(原初の音 オーム)に包含されています。』

- 1987年10月1日ご講話「プラナヴァを唱える礼拝」

 

 『私たちはプラナヴァがなければほんの一瞬でも存在できません。プラナヴァは、生きとし生けるものすべての内に存在しています。』            

- 1987年10月1日ご講話「プラナヴァを唱える礼拝」

 

 『大気が神の御名の波動で満たされたなら、すべての環境が浄化されます。』

- 「今日の御言葉」2006年8月11日発行

肉体は私のものとは言えない

 次に、私たちの肉体を時間的経過で考えるとどうなるでしょうか?私たちは誰もが例外なく母親から生まれてきました。母親の卵子が「私」の出発点ですが、この卵子は母が産みだしたものであり、「私」が産み出したモノでも、「私」のモノでもありません。「私」の元である卵子が受精すると、母親の胎内で、母親から栄養をふんだんに吸収し成長して、この世に赤ちゃんとして誕生します。この時点でも「私」の力で大きくなったとは全く言えないわけですが、その後も、自然界からの食物や水や空気を得て成長し成人となるわけです。卵子から成人まで「私」の力は全く関与しておらず、完全な他力本願でここまで成長してきたことが分かります。おまけに、命の大本である心臓や肺を動かしているのは誰でしょうか?少なくとも自分の意志で動かしているわけではなく、それを考えれば、この肉体が「私」である、「私」のものであるとは口が裂けても言えない、言ってはいけないことに気づかされます。さらに付け加えるなら、肉体を構成する60兆個の細胞は、それぞれが日々、誕生と死(アポトーシス)を繰り返していて、肉体は常に変化しています。同一の肉体が存在しないということは、「これが私である」と言える肉体が存在しないことになり、この点からも「私は肉体である」とは言い難いことになります。このように、私たちの知識を整理して空間的・時間的に理詰めで考えていきますと、「私」は肉体ではないことが当然のこととして理解されてきます。

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心は「私」の意志とは無関係に動きまわる

 では、次に心について考えてみたいと思います。もし「私」が心であるなら、「私」の思うように心は動くはずです。ところが、心は全く制御することが出来ません。もし、心が傷付くような出来事があった場合、余りにも苦しいので、「楽しいことを考えよう!」と念じても、そう考えれば考えるほど「心が辛くなる」ことは良く経験することです。「心よ、静かになれ!」と言って心を静止できる人は、聖賢以外には皆無のように思われます。心をコントロールしようとすればするほど、心は、「私」の意志とは無関係に勝手に動き回る性質があることは、誰もが納得されると思います。

 『心はいたずらです。それは疑いから疑いへと飛び回り、道に障害物を並べます。心は網を編み、自分でその中に絡まってしまいます。それは決して満足することがありません。それは百もの対象を追いかけ、別の百のものから逃げ回ります。心は、主人を車に乗せていながら自分の好きなところばかり走っている運転手に似ています。ですから、心を訓練して従順な召使にする仕事に取り掛かりなさい。』  

- 1961年2月27日の御講話

心は対象物

 また、心を別の視点から考えてみたいと思います。読者の皆さんは、心がどのような要素で成り立っているかを考えたことがあるでしょうか?私は瞑想中あることに気づきました。それは、心が音またはイメージで成り立っているということです。この考えが正しいか否かを知りたいと思っていたところ、「この世のモノには全てに名と形があり、それがこの物質世界を創っている」と言う御言葉に出会いました。心も例外ではなくある種の物質であると言えるように思います。

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 『一切の粗なる名と形には、それに対応する微なる名と形がある。』

- 平安・瞑想・大成就  P.100

ヒスロップ :心を通る想念は物質なのでしょうか?

サイ:そうです。物質です。あらゆる物質は一時的なものです。

- サティアサイババとの対話  P.105

  心を見つめる上でとても大切なことは、私たちは常に感覚の主体であるということです(詳細は後述します)。これは至極当然のことなのですが、あまりにも当然すぎて、普段は意識することがありません。心を静かにしてこの真実に注意を向ける必要があります。つまり、「私」は聞くものであって聞かれるものではなく、「私」は見るものであって見られるものではない。聞かれる「心の声」、見られる「心のイメージ」は客体つまり対象物であって「私」ではないと言う事実です。私は、この事実に気づいたとき、驚きと同時に、心というモノが遠くに行ったような感覚を抱きました。皆さんはどうでしょうか?

 さて、今、ここで目を閉じ、自分の心を見つめてみてください。「この筆者は・・・なんか訳の分からんことを言っているな~、どんな人なんだろう?」などなど、心の声が聞こえるはずです。そして、その声を聞き続けてみてください。声の内容は無視して、その音声自体をターゲットに聞くことがポイントになります。心は決して「私」ではないと言うことが実感されるでしょう。そして、心の声が小さくなって行くのを感じると思います。ちなみに、これに加えて「その思考は誰に表れた?」、「私に」、「私は誰か?」と繰り返し心の主人(起源)にフォーカスする方法がラマナ・マハルシの真我探求の方法のようです。

 心を見つめて気づくことは、心が常に変化しているということです。心が自分であるとすれば、毎瞬、違う「自分」が生じるということになり、この観点からも「私」とは言い難いと思います。

 最後に魂についてですが、それは私たちの心の次元を超えた領域であり、さらに定義も曖昧であることから説明することは困難と思われます。ただ、魂には真我(アートマ、神、愛)の要素と、わずかながら他者と自己を区別する境界のようなものが残っているイメージがあります。私たちが誰に教えられなくても、愛し愛されることで喜びを感じるのは、私たちの本質が魂にあるからなのかも知れません。

 『あなたは純粋で不滅です。あなたは人生の浮き沈みを超越しています。あなたは、真実にして永遠不変のブラフマン(神)です。5分間探求するだけで、あなたが肉体や感覚ではなく、心や知性や名前や姿でもない真我そのもの…このすべての多様性として現れている真我にほかならないことを納得できることでしょう。いったんこの真理を垣間見たら、それをつかまえておきなさい。それが滑り落ちることを許してはなりません。それをあなたの永遠の所有物としなさい。 』

- 1965年1月30日の御講話

 ババ様は、5分間探求するだけで、私たちは肉体や感覚でも心でもないことが納得されますよ、とおっしゃいます。皆さんはどうでしょうか?では、私たちは一体何ものなのでしょうか?ここからは「私は誰か」について深く掘り下げていきたいと思います。

「私」について否定できない真実

 「私」について否定できない真実とは何でしょうか?私は次の4つを思い浮かべました。A存在すること、B意識を持つこと(意識の定義:自己や周囲の状況を認識できている状態)、C唯一であること、D感覚の主体であること、の4つです。「私は存在しない」と言う言葉には矛盾がありAは容易に了解されると思います。Bについては異なる見解もあるかも知れませんが、私の考えはこうです。覚醒状態では「私」はもちろん意識を持ち問題ありません。昏睡状態や熟睡状態では、意識が無いと同時に「私」も存在しないのでこれも了承されると思います。ただし、常時統合意識を悟った状態では、昏睡状態や熟睡状態さえ認識できており、その場合はアハムを私と考えます。また、夢見の状態や幽体離脱の状況ですが、この場合も覚醒状態と同様、夢や状況の認識があると同時に「私」も存在するため矛盾しないと思われました。Cについては、私が2人居るという人は世の中にいないと思いますので、これも納得されると思います。Dについては、感覚というものは主体が客体を認識するための手段ですので、これも異論は無いと思います。スワミの御言葉です。

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 『人間は自分自身を、肉体、感覚、心、理性から分離する能力を持っている。人は言う。「私の眼、私の耳、私の足、私の手、私の心、私の理性等」と。しかし、心の奥底では自分はこれらのものとは別のものであることを知っている。自分はそれらのものを使用し、所有し、支配する者であることを。』

- すべてはブラフマンなり  P.43

 

 『肉体や、心や、知性や、感覚は、単なる道具にすぎません。あなたが主人です。』

- Sathya Sai Speaks Vol.33 C10  2000 年7月16日

私は主体であり客体(対象物)ではない

 「あなたが主人です」というスワミの御言葉を踏まえ、ここからは「私」は感覚の主体であると言う観点から真の私に近づいていきたいと思います。繰り返しになりますが、心、知性、感覚、感覚器官など、これらは対象物または対象物を捕らえる手段ですから主体ではあり得ません。ですから、それらは「私」ではありません。「私は、見られるものではなく、見ることでもなく、見る主体である。私は、聞かれるものではなく、聞く主体である。私は、知られるものではなく、知る主体である」。スワミがよく「私は私である」とおっしゃるのは、「私は主体であり、客体ではない」という意味を含んでいるように思います。これらのことは普段意識することはありませんが、慎重に熟考すると思いもよらぬ気づきが得られることがあります。

私は主体―実験1

 ここで、早速ですが、自分の手をじっとみつめていただけますか?皆さんの視界には「自分の手」が映っていると思いますが、それは私でしょうか?いいえ、違います。それは見られるものであり、自分ではないはずです。さらに実験を続けましょう。両手指の先端同士を合わせて丸い輪を作り、両目の前に当ててその輪の中から周囲を見て下さい。両手指が視界の縁になり、その中に被写体が見えていると思います(下図参照)。被写体というのは、皆さんが普段見ている世界と言うことになります。

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 さて、ここで質問です。あなたはどこにいますか?被写体の中でしょうか?それとも外でしょうか?そうですね、私は、見られるものではなく、「見る主体」ですので、勿論、「被写体の外」と答えられると思います。では、世界はあなたの中に在りますか、それとも外ですか?これも同様に、自分が被写体の外にあるのですから、当然、「世界はあなたの中」に在るという答えが得られるでしょう。では、あなたは動いているでしょうか?それとも動かない存在でしょうか?これも上述と同様です。自分は見る主体であり、被写体の外にいる存在ですので、決して動くことはなく「不動の存在」と言えます。動いているのは被写体、つまり、見られる世界だけということになります。最後に、あなたに境界はありますか?という質問ですが、これも被写体の外に在る、見る主体としての自分に境界を見れる人はいないと思いますのでNoになると思います。

 つまり、自分を「見る主体=目撃者」にフォーカスすることで、肉体は分離し無限かつ不動の存在としての自己を実感認識できるようになるわけです。しかも、驚くことに、自分が目撃者であることを意識しようとしまいと同じ世界が見えているのであり、従って、今、この時点で私たちはアートマの状態にあると言えるわけです。実に不思議な感覚です。

私は主体―実験2「眼横鼻直(がんのうびちょく)」

 実験を続けましょう。両目の前に当てていた手を離して、眼の奥にいる自分を意識して世界を見てください。見える世界の縁、つまり視界の縁はぼんやりとしていて楕円形を横にした形になっていると思います。その楕円形の外側に在るのが「私」ですが、視野の下方には鼻が直に自分に付いているのが分かると思います(下図参照)。

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 この鼻は常に自分に付いていて離れません。先にご紹介した曹洞宗開祖の「道元」は、中国から帰国した最初の説法で、自分が悟りによって知り得たことは「眼横鼻直(がんのうびちょく)」であると語ったそうです。身心脱落により肉体意識を離れ、自分が「見るもの」であることを悟った道元にとっては、まさに眼横鼻直こそが自分のあるがままの表現であったと私は捉えています。

『私は見るものであって、見られるものではない』と確信するとき、シュティタプラグニャー(揺るぎない英知の持ち主)は執着から自己を解き放ちます。この方法によって、人は欲望を克服するのです。あなたは心の外側から、心の働きを注意深く見なくてはなりません。あなたは心に巻き込まれるべきではないのです。』

- ギータヴァヒニ第5章その2、サイラムニュース No.111P.33、2006、11・12月号

私は主体―実験3

 実験の続きです。瞑想をしているときのことを想い浮かべて下さい。「・・・何分経ったかな・・・もうやめようかな・・・足がしびれてきた・・・」などなど、瞑想時には次から次と心の声が聞こえてくると思います。でも、「私」は勿論、そのような心ではありません。心の声を聞いている主体です。ここで、読者の皆さんは不思議に思ったことはないでしょうか?つまり、どんなに小さく微かな心の声であっても、確実に「私」という存在はそれらを聞くことが出来る不思議さです。私は、その理由を突き詰めたとき、ある結論に達しました。それは、「私」という存在が全き静寂にあるから、ではないかということでした。皆さんはどう思われますか? でも、こんな声が聞こえてきそうです。「無限、不動、静寂」と言われても実感認識できないと。全くその通りですが、それは、私たちは自分を「見る主体」や「聞く主体」ではなく、客体である心や肉体に置いているからと言えるように思います。

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私はどこに?―私はここに

 自分はどこにいるでしょうか?主体である「私」の居場所は常に「ここ」です。心や肉体などの「そこ」ではありません。「私はここに居ない」と言える人は世界中どこにも居ないでしょう。私は在る、しかも、私は一人しかいない、ことを考えれば、私は、最初から最後まで常に「ここ」に居るわけです。私はここにも居るがそこにも居て二人居ると言える人は誰もいません。では、なぜ、「ここ」から「そこ」に自分を敢えて置いてしまうかと言えば、見ている映画が余りにも楽し過ぎてその主人公になりきってしまった人物と同じように、「そこ」に興味があり、「それ」を楽しみたいからであり、一方、「ここ」に戻ると、つまらなくなると勝手に思い込んでいたり、さらには、自我消滅の恐れや脅えがあるからとも言えるような気がします。私たちには、「どんなことがあっても絶対的に神に戻りたい」という熱烈な思いが、案外欠けているのかも知れません。スワミは、シラッダー(熱意と信念)、サッティヤム(真理)、リタム(道義)、マハト・タットワ(偉大な原理)、ヨーガ(合一)というブッディの5つの要素のうち、シラッダーが最も大切と説明されています。スワミの御言葉です。

 『人間が目的のある人生を送るのに、自分の才能と賢さだけに頼るのは無駄だと言うことです。根気と確固とした決意とともに、信仰と熱意を養うべきです。そうしたとき初めて、その人は自分の人生で偉大なことを成就できるでしょう。スラッダ〔シラッダー〕すなわち信念は最大の重要性を持っています。スラッダ〔シラッダー〕がなければ、何も成し遂げることは出来ません。小さい火花のような火でもあれば、それを扇いで燃えさかる炎にすることが出来ます。信仰はこの火花のようなものです。』

- ブリンダーヴァンの慈雨  P.132

私はどこに?―4次元以上の世界に(幾何学的考察から)

 私たちが、実は、肉体にではなく、それを超えた世界に居るということは、中学時代に習った数学(幾何学)からも容易に証明できそうです。点の位置を示す直交座標系というのを習ったことがあると思います。その座標系では、0次元は「点」であり、1次元は点に直行する座標系の「直線」2次元は直線に直行する座標系の「平面」、3次元は、平面に直行する座標系の「立体空間」を表します。もし、0次元の点を (どこに存在するか)認識するためには、同じ点の位置に居ては認識不可能であり、その上の次元、つまり1次元の直線にあることが必要になります。もし、1次元の直線に存在するものを認識するためには、同じ直線上にあっては全てが点にしか見えませんので不可能であり、その上の次元、つまり2次元の平面上にあることが必要になります。同様に、2次元の面に存在するものを認識するためには、同じ平面上にいれば全てが直線にしか見えませんので認識不可であり、その上、つまり3次元の立体的位置にいることが必要となります。私たちは、今、この3次元、立体空間に住む住人ですが、自分と他者の存在を認識できており、従ってその意識は4次元に存在すると言うことが出来ます。このように、私たちは意識してはいないのですが4次元以上の世界に存在していることが分かります。

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 また、上記とは別に、この3次元的空間から直接的に4次元の世界がどこにあるかを推察してみましょう。すると、それはこの直交座標系の規則から考えて、この立体空間に直交した位置にあると言うことが出来ます。立体空間に直交した位置とはどこでしょうか?先ほどの実験を思い起こして下さい。私たちの見る世界は楕円形の視野の中に在ります。その世界をあるがままに見てみますと、それは決して立体的ではなく、平面的世界であると言えます。映画のスクリーンに映る世界をイメージすると分かりやすいかも知れません。そのスクリーンに垂直に存在している位置はどこでしょうか?そうです、それは、驚いたことに「見る主体」、つまり「私」なのです。この事実に気づいたとき、私は「私」というものの不可思議さ、偉大さ、深遠さを思わずにはいられませんでした。

神ながらの生活をして至福を顕現するだけで良い

 ここまで読まれた読者の皆様は「私」という存在が、実はすでに神であるということをある程度理解されたことと思います。

 

 『人間は、歓喜と至福の性質を持ったいくつもの霊的光線を発しています。人間はただ、その至福を顕現するだけで良いのです。探し求めるという考え方は間違っています。すべての人がすでに真理を知っています。必要なのは、その真理を実践して、それを顕現することだけです。私たち人間の人間性とは、この歓喜の霊的光線のことに他なりません。花を押しつぶしたり、まばたきをすることはとても簡単です。自己実現もそれと同じくらいに簡単なことです。』

- サティアサイババとの対話  P.122-123

 

 スワミは、自己実現は瞬きするくらい簡単であると言われます。では、なぜそんな簡単なことができないのでしょうか?おそらくそれは、私たちはある種の魔法(マーヤー)にかけられ、自分を忘れるという記憶喪失に陥っているからと考えられます。一般的に記憶喪失の治療は、記憶喪失以前の習慣や環境にできるだけ戻すことが推奨されます。同様に、神であることを忘れた私たちが最もすべきことは、神であったときと同じように振る舞うことと言えるのではないでしょうか?

 

 私は以前、人生の目的は何かと聞かれたとき、それ以外は考えられないというような、ある種の自信を持って「解脱」と答えていました。しかし、解脱を目的とした場合、それは崇高な目的には違いありませんが、微かな欲望と、今どこにいるだろうかという結果を気にする感覚があります。スワミは、「人間に唯一許される欲望は解脱である」ともおっしゃっていますので、これはこれで良いのでしょうが、私の場合、何となく全託に反しているようにも感じていました。スワミの御教えを学び、時宜を得た気づきを重ねる中で、私の修行の方向性が微妙に変わりつつあります。そして今は、人生の目的は「自分の中にある神性を顕現すること、愛を顕現すること」と考えるようになりました。「真理を実践して、それを顕現するだけで良い」という前述御言葉の実践です。解脱を目的とした場合とは違い、実践そのものが目的になり、結果は神任せです。バジャン、ヴェーダ吟唱、奉仕、瞑想、ダルマの実践、照覧者意識、「Love all, Serve all」、「Help ever, Hurt never」などなど、すべてが無理なく行われ平安な気持ちになります。なぜなら、それは「私は神である」という真理を基盤とした行為であり、当然のことだからです。

 最後まで、私の拙い文章を読んでいただいた読者の皆様に心よりお礼申し上げます。皆様の霊性修行に少しでも役に立つことがあれば幸いです。ババ様に感謝の祈りをお捧げし、筆を擱きたいと思います。

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この世の真実、3-1=1

 さて、いきなりですが、今世界ではコロナが蔓延し、大規模な自然災害が頻発し、今にも核戦争が勃発しそうな混沌とした状況にあります。もし、これが、あなたの心が創り出した世界ですよ、と言われたら、皆さんはどう思われるでしょうか?

 前回は、「私は、肉体でも感覚でも、心でも知性でもなく、すでに、今この状態で神である」ということをお話させて頂きました。

 今回は、「私と世界との関係」について、スワミの説く「3-1=1」という式から共に考究していければと思います。

神の算数:3-1=1

 神とマーヤー(幻妄、迷妄)と宇宙という三つの実態のうち、神は物体であり、マーヤーは鏡であり、宇宙は神の反映です。もし、鏡を取り去るならば、マーヤーも宇宙も存在しなくなります。そのとき、神だけが残ります。

 それゆえ、3-1=1となります。

『ブリンダヴァンの慈雨』p.40

 心そのものはマーヤー(幻妄)です。

『ブリンダヴァンの慈雨』p.174

 

 皆さんが夢を見ているときは、夢が現実です。覚醒時においては、覚醒時の体験が、夢の時と同じくらい現実に感じられます。実は、そのすべてが「夢」であって、それらはアートマ(真我)が心に反射されたときに心が創り出したものに過ぎないのです。その心を取り除けば、アートマを反映する媒体がなくなります。そのときアートマは、本来の輝きを発します。

1966年8月3日の御講話より

 

 宇宙を背景として考えると、自然界は鏡であり、神が見る人です。自然界に反映されているすべてのものは神です。いたるところに、神のみが存在しています。鏡があるために、物体とその像が現れます。鏡がなければ、像はありません! 神の算数は、人間の算数とは異なります。あなたの前に鏡を置くと、あなたと、鏡と、あなたの像という三つのものが見えます。普通の算数では、三つのものの中の一つを取り除くと、「3-1=2」なので、二つのものが残ります。ところが、宇宙的な算数においては、鏡を取り除けば、二つのものが残るのではなく、「あなた」だけが残ります! これが、自然界と神の不思議に関する神秘です。

『私の親愛なる学生諸君』

第3巻第17章より

 

スワミによりますと、この世の真実というものは、「神(真我)が鏡に映る自分の像(=世界)を見ているのである。鏡を取り除けば、世界も消え去り、神だけが残る。従って、3(神・鏡・世界)-1(鏡)=1(神)になる」と説明されています(下図)。では、この鏡とは何でしょうか?

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鏡とは・・・ マーヤー・心・自然界

 上記の御言葉では、鏡として「マーヤー(幻妄)」、「心」、「自然界」という3つの単語が使われていて多少混乱しますが、自然界を「天地万物の存在する範囲」という意味に解釈しますと、それはまさしく私たちの視界そのものを表していると言っても良いように思います。この視界については、前回、お示しした、見る主体(照覧者意識)が、見られる客体(世界)を見ているという関係図の「視界」(眼横鼻直の図)を思い起こして頂ければ、分かりやすいかも知れません。

 ここで上記御言葉を素直に解釈しますと、この視界そのものは、実は内なる心そのものであり、それはマーヤーであり、それは鏡というスクリーンになっていると解釈することが出来ます。

 実を言えば、心は存在していません。心はないのです。月は太陽に照らされています。我々が見ているのは月に反射された太陽の光です。私たちが心と思っているものは、ハートに反射されたアートマの光輝です。本当はハートが存在しているだけなのです。反射された光が心であると考えられていますが、それは一つの物の見方に過ぎず、単なる概念でしかありません。太陽と月が存在しているだけです。

『サティアサイババとの対話』p.93

 

 ヴェーダの「プルシャ スークタム」というマントラに、「チャンドラマー マナソー ヂャータハ(プルシャ※の心は月になった) チャックショーッ スールヨー アヂャーヤタ(プルシャ※の目は太陽になった)」という一節がありますが、まさにこの真理を表しているのではないかと感じます(下図)。※プルシャ:全能の神

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 つまり、私たちは肉眼で世界を見ているつもりになっていますが、真実は鏡で出来た自分の心を見ているのであり、そこに映された自分の反映を見て世界があると信じている、というように解釈できます。

心と世界は同時発生

 この場合、当然ですが、心と世界には同時性があることになります。本当にそうでしょうか?このことは案外容易に得心がいきます。朝、目を覚ますと世界が見えますが、同時に心も働いています。また、熟睡して心が消滅すると世界も消滅します。夢を見ているときも同様です。また、単純に目をつむったときはどうでしょう?世界は暗闇として見え、音として聞こえ、触感として知覚できる形で存在しています。このように心と世界は完全に一致して出現・消滅していることが分かります。

世界として映し出されているもの

 世界は、前述したように、 “私” (真我、神)の反映であり、同時に“私”の心の反映と言うことができます。つまり、世界は「“私”自身」の反映ですから、世界の良い、悪いは他者には責任がないということになります。

 あなたが自分の周囲に見ているこういった全てのものは、鏡に映ったあなた自身の投影です。

『ブリンダヴァンの慈雨』p.172

 

 私たちが鏡を見ているとき、もし鏡が曇っていたり歪(ゆが)んでいれば、映し出される自分の顔も歪んだり曇っていて判然としません。しかし、例え歪んでいても、それが自分の顔であるという点には注意が必要です。

 前述したヴェーダの宣言から、見る目(照覧者意識)を太陽に、心を月に例えて考えてみましょう。月に映る紋様は世界を表しています。見える紋様は月のデコボコ次第です。しかし、これらの紋様は太陽がなければ映りませんし、月が輝くことも、その存在が確認されることもありません。これらの紋様は、太陽光線の反射と月のデコボコの両者によって表現されたものと言うことができます。このように考えますと、世界(月の紋様)は、私(照覧者意識=真我=太陽)と私の心(月)が合作して創りだしているものということができます。この場合、デコボコだけを見るか、デコボコの背後にある神を見るかは、見ている人の受け止め方次第ということになります。

世界は基本的に善である

 

 私たちは、人から非難されたり、嘘をつかれたり、肉体的・精神的に傷つけられたりすると、当然の権利であるかのように、その相手を批判する傾向にあります。私は、自分の中に辛い思いを封印し心を苦しめるよりは、ある程度発散した方が良いと思ってはいますが、理想的には、神のメッセージを読みとり内省し、納得した上で忍耐する、または、愛で返すことが神に望まれる有り様ではないかと受け止めています。なぜなら、3-1=1の原理から分かるように、他者に見る欠点は自分の心が反映されたものであり、それが気になるのは、その「気になる」こと自体が、神(真我)から、真我へ戻る促しのメッセージであると考えられるからです。良い人も悪い人も自分であり、さらに言うなら、このようなカルマを自分に課したのも自分です。すべての体験が真我に向かう方向で仕組まれていることを考えますと、世界は基本的に善であり、神の慈愛の深さを感じざるを得ません。特に気になる人、その人はまさに自分から自分への愛のメッセンジャーと言えるのではないでしょうか?

 愛という資質を育みなさい。だれをも嫌ってはなりません。起こることはすべて自分のためだという信念を培いなさい。いついかなる困難や苦しみが降りかかってきたとしても、その原因は自分自身にあるのです。反対に、もしだれかを意識的にあるいは無意識に侮辱したならば、誰か他の人がいつかあなたを罰するでしょう。喜びも苦しみもあなた自身が作り出したものです。あなたが積んだ徳や犯した罪は影のように常にあなたについてきます。・・・自分が遭遇する困難を、決して他人のせいにしてはなりません。決して誰かをののしってはなりません。万人を愛し、万人を兄弟姉妹として扱いなさい。

 2004年1月1日の御講話

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心と月の関係:シヴァラートリの意義

 ちなみに、心と月の関係についてスワミは、新月は心が静まり霊性修行には最適の日であると言われます。霊性修行の目的が心を純化、または滅して真我を自覚すること(3-1=1)と考えれば当然のように頷けますね。

 すべてのサーダナ(霊性修行)の主な目的は、心を無にし、アマナスカ(無心)になることです。そうして初めて、マーヤー(幻)をずたずたに引き裂いて、実在を明らかにすることができるのです。黒半月の二週間には、毎日、心の一部を除去するためのサーダナをしなければなりません。なぜなら、毎日、月の断片も知覚から消えていくからです。

1969年2月15日御講話

Sathya Sai Speaks Vol.9 C3

 マーガ月の14日目はマハーシヴァラートリ〔大いなる吉祥な夜〕と呼ばれています。なぜなら、この夜は別の理由でも神聖だからです。この日は、求道者のためにシヴァ神がリンガの姿をとるのです。・・・今日の日中と今日の夜、アートマ リンガ(シヴァ神の象徴としてシヴァ神から生じる長円形の偶像)やジョーティル リンガ(至高の英知の光の象徴である長円形の偶像)を黙想し、シヴァ神はあなた方一人ひとりの内にいることを確信しなさい。その御姿があなたの内なる意識に光を射すようにさせなさい。

1973年3月5日御講話 

Sathya Sai Speaks Vol.13C34

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 この視界には宇宙のあらゆるものが出没します。太陽も地球も神も悪魔も動物も昆虫も無生物もあらゆるものが、右から左、左から右、上から下、下から上と言うように出現し、維持され、消えていきます。これは創造、維持、破壊と言っても良いのではないかと考えますと、この視界そのものがまるで黄金の宇宙卵、リンガのようにも思えてきます。視界が楕円形になっていることで勝手な想像を膨らませてしまいましたが、自分では変に納得しています。さて、では、なぜ神は自分の前に鏡を置くなどというようなことをしたのでしょうか?

エーコーハム  

バフッスヤーム

私は一なるものである

私は多となりたい

 それから、明らかな原因も無く、至高者は創造したい、「多」となりたいという最初の衝動を持ちます。「エーコーハム バフッスヤーム」(私は一なるものである、私は多となりたい)。「それ」は存在を証明したいと欲し、愛したいと欲しました。楽しみたい、戯れたい、喜びを感じたいと欲しました・・・こうして「創造」が始まりました・・・至高者が自らに課さなければならなかった最初の条件は「知らないこと」すなわち無明でした。プルシャは「根源的宇宙」、「プラクリティ(原質)」、「種」、「因」を創造しなければなりませんでした。この段階は見方によって「プラクリティ」、「ヒラニヤガルバ(黄金の宇宙卵)」、「アヴィッディヤー(無明)」、「マーヤー(迷妄)」などさまざまに呼ばれます。 

ティーラキアト・ジャレオンセッタシン医学博士著

『サティア サイ エデュケア 理論と実践』pp. 9-10より

 神は、オームを発して五大元素を造り宇宙を創造し、自らに無知・無明を課して自分を忘れさせ、創造世界を楽しむということを可能にしました。無明というのは、これは想像の域を出ませんが、目の前に心(マーヤー)という鏡を置くことではなかったかと推察します。鏡を置くことで、唯一なる神は多となり、自分の姿を証明でき、愛したり、戯れたり、楽しむという目的を達成できます。そして、自分を忘れさせ、同時に自分を思い出させるという、相反する課題をこの単純な方法で可能にしました。神さまに言うのもおかしいですが、きわめて単純であるにも拘わらず実に理に適った方法と言えますね。神御自身が、こうして鏡の原理を語り、宇宙の神秘を明かしてくれたことは、私たちが真理に目覚めるために極めて大きな意義があると考えられます。忘れてならないのは、世界を創造した目的が、神と愛と喜びの顕現ということです。私たちの人生の目的も、これらに見合ったものにすることが大切ですね。

 では、「3-1=1」の意味が分かったところで、「“目の前”にある世界」の真実を紐解いていきましょう。この公式はスワミの御教えを理解する上でとても有益です。早速ですが、皆さんは「3-1=1」という公式から、どのような御教えを思い浮かべますか?前図を参考に少し考えてみましょう。

3-1=1から分かること

・心を清らかにすれば、世界には神(真我)が映し出されてくる

・心を滅すれば神(真我)のみが残り、悟りに至る

・私は神である

・私は肉体や心ではない

・心は神を理解できない

・世界は私の心の反映である

・世界は神の反映である

・心に光を当てているのは神である

・すべての問題は、自分の心に責任がある

・世界は幻であり、幻でない

・見るものは見られるものである

・私は、永遠であり死なない

・Yad Bhavam Tad Bhavati (ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ:思いの通りに結果がある)

・すべては私である

・すべては神である

 

等々が思い浮かびますが、皆さんの場合は如何でしょうか?最後に、具体例を通して3-1=1の理解を深めたいと思います。

具体例に学ぶ3-1=1

 重複しますが、「3-1=1」の意味するところをまとめますと、『世界は自分自身であり、そこに見える気になることは、真の自分に戻るための心の問題点を表している』ということになります。真の自分に戻るための仕掛けが、常に目の前で展開されていることになりますね。では、この観点から、次の事例について考えてみましょう。

〜​〜​〜​〜​〜​〜​〜​〜​〜​〜

妻:ねぇ、先日A子さんたら、私が挨拶しても無視しているのよ

夫:ふぅ~ん

妻:それで、大きな声でもう一度「こんにちは!」と言ったら、いや~な顔をして首をうなずくだけ。彼女はいつも、ああいう態度をとるわ

夫:それは、君の思い過ごしかも知れんぞ?僕には普通だからな~

妻:そんなことないわ。彼女はいつも私を無視するわ

夫:見える世界は、自分の心の反映というからな~

妻:それじゃ、彼女の態度は私のせいと言っているわけ?信じられない!

夫婦喧嘩勃発!

​〜​〜​〜​〜​〜​〜​〜​〜​〜​〜

 

 比較的ありがちな場面と思いますが、上記事例における、妻の正しい見方、夫の正しい見方とはどのようなものでしょうか?それぞれの立場に分けて考えてみましょう。

 

 まず、妻の場合、彼女の世界に登場する気になる相手というのは、A子さんと夫ということになります。ですから、A子さんと夫が、神(真我)から遣わされたメッセンジャーというように解釈されます。何を伝えに来たかというと、A子さんは、妻の挨拶を無視する役回りの神であり、「あなた(妻)も、他者を無視して傷つけてしまう傾向がありますよ。気をつけましょうね」、と教えに来たのかも知れません。夫については、「A子さんに対する正しい受け止め方を説明してくださる役の神」というようなことが想像されます。彼の助言を素直に聞き、内省することで神に近づいていくと思われます。 

 一方、夫の見方について考えますと、彼が気になっている相手というのは妻ということになります。ですから、「妻は、鏡に映る自分の姿であり、A子さんとの関係に悩んでいる自分自身」と受け止めます。この場合、妻の正否・善悪ではありません。妻は悩んでいる自分自身なのですから、夫は、妻の悩みをくみ取り傾聴し共感するのが正しい態度と言えるでしょう。皆さんの場合は、どのように感じ、どのように対応されたでしょうか?

 このように、気になっている人や体験から神のメッセージを読み解き、自らの姿を投影して内省することで、初めて私たちは、神へと向かって進んでいけるように思います。スワミは、「あなたがどのように感じるか、に常に注意を払いなさい」と言われます。「3-1=1」の原理は、神の恩寵が絶えず降り注がれていることを明かしていますが、その恩寵を受け取る第一歩が、「どのように感じるか」と自分の内面にフォーカスすることのように感じました。

 

 余談ですが、「心の反映」という言葉は他者に言うことではなく、自分に言い聞かせる言葉という点には注意が必要と思います。なぜなら、基本的に他者は神ですから、その人から教わることはあっても、忠告するものは何も無いと考えられるからです(ダルマのみがありますが、このことは、また、別の機会にお話しできればと思います)。

平和は自己変容・・・それ以外では得られない

 冒頭の質問、「分裂混沌とした世界は、実は私たちの心が創り出している」ということについて、皆さん、納得されたでしょうか。スワミは2033年~38年に世界は一つになる(2008年7月20日御講話)と仰っていますが、それは世界や世界中の人々に変容が起きるのではなく、世界を見る私たちの心に変容が起きることを暗示しているのではないかと私は捉えています。

 もし人が、他のすべての姿を、この世という鏡に映った自分の姿であると見るならば、一体性の原理を悟るでしょう。

2009年4月29日御講話

 肉体的には辛い状況があるかも知れませんが、真我の悟りは肉体を超越したものであり、私としては、これ以上に嬉しいニュースはありません。今、自分の見る世界にスワミが降臨され、心を占めていることに、スワミの深い恩寵を感じています。「あなたは救われたのだということを知りなさい」という御言葉が実感を持って響いてきます。最後に、サイの御言葉を紹介して筆をおきたいと思います。

 神を認識することによってのみ、世界に真の平和をもたらすことができます。物質的な次元では、平和と調和をもたらすために、世界中の偉大な指導者たちが多大な努力をし続けていることは間違いありません。しかし、サイは、彼らの努力の成功の兆しを何ら認めることができません。残された唯一の道は、私たちの心を自らの内側に向けて、至高の源泉である、真実で永続する基盤を見出すことです。この世では、そこからしか真の幸福と平和を得ることはできません。その基盤とは、実際に私たち一人ひとりのハートの内に住んでいる神のことです。神は普遍の魂です。

『プレーマダーラ 愛の流れ』

p.15

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アンカー 3

人間に自由意志はあるか?
〜 この世は操り人形劇 〜

 田舎町の小さな駅で、木製の長椅子に座り、毎朝一人汽車を待つ。私は此処で、正面の窓ガラスに映る世界を眺めるのが好きだ。そこには、背後にある町並みが映し出される。青・黄・赤・青・黄・赤・・・信号機の色が自動的に切り替わり、淡々と繰り返される。それに同調するかのように、バスも、人も、車も、静かに流れていく。何も考えずに、只々、その映像に見入っていると、ふっと我を忘れ、平安な世界に溶け込んでいく・・・と、その瞬間、「8時11分発、特急列車の改札を始めます」というアナウンス。私は一気に現実世界に戻されてしまった。

〔自由意志〕

 私たちは普段、自分の意志で職業を選んだり、趣味をしたり、買い物に行ったり、何かを考えたり、怒ったり、悲しんだりしていると信じています。しか し、第1回および第2回で述べてきましたように、私たちは肉体でも心でもありません。ということは、肉体がとっている「行為」や、心の機能である「思いやイメージなど」も、当然ですが自分ではないということになります。つまり、 「私」の行為や思いはない、ということになり、「私」が自分の意志で何かをしているという考えは誤っている、人間に自由意志はないと言う結論が導かれます。さて、皆さんは、このように言われて納得されるでしょうか?

 この疑問についてスワミは、ご自身が著した『Sandeha Nivarini(日本語版は平安・瞑想・大成就)』という本の中で民謡調の歌を詠み、私たちを啓発してくださっています。非常に長い歌ですので、部分抜粋して記述します。

あやつり人形の歌


タイ! タイ! タイ! タイ! タイ! ダミイ!・・・

あやつり人形の、「こっけいな」芝居をごらん。

ああ・・・人よ。過去と現在と未来、

すぎこしかたと、これから先の、長い長い話を聞きなさい。

・・・・・
男と女の人形をこしらえたもの

幾百万とない人形をこしらえたもの、それはブラフマン

しかし人形はそうとは知らず
人形あそびをよろこんでいる
ティム ティム ティム このマーヤーという人形は聖牛のように

鼻の孔に鈍性のなわがついている

肉欲と怒りはさそりのむち

奴隷の背中をぴしりぴしりと叩く
・・・・・
人形は泣き、眠り、目覚める。

見えない御手が、糸を引くとき、

手は神の御手、影に立つ神の御手。

しかし、かれは言うのだ。わたし わたし わたしと。

ダルマ、カルマは、強い糸。強く引いたり、緩めたりする。

そうとも知らず人形は、威張って歩く。舞台の上を縦横に。

-『平安・瞑想・大成就』pp.41-48

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 この歌にはこの世の真実が語られていますが、私なりの把捉(はそく)をまとめますと、「この世は芝居であり、舞台役者はブラフマン(神)が作った人形である。この人形は無明(筆者は、鼻の孔の鈍性の縄を無明と解釈しました)という縄で縛られており、そのため欲望と怒りで自分を痛めつける。ダルマ、カルマという強い糸で神に操られているが、そのことを知らない人形は、“わたし、わたし”とまるで自分の意志で動いているかのように振る舞っている。マーヤー人形のこっけいな芝居である」となります。

 

 私がこの歌を最初に読んだときは、自分とは関係の無い世界、夢の世界を語っているだけと言う理解で、ほぼ素通りしていました。しかし、読むごとに、スワミがおっしゃっていることへの理解が深まり、「私=人形」から「私≠人形(マーヤー)」へと感じ入った時には、驚きと同時に、世界の見え方が180度変わったような感覚を覚えました。私たちの識別力を高め、スワミのおっしゃっていることへの理解を深めるのに最適な、現実に即した歌だと思います。本文末尾に全文を掲載しておきますので、是非、読者の皆さんにもそちらも読んでいただければと思います。

 人は、人間という道具を通してすべてのことをなし遂げているのは、万物に内在する神の原理であるということに気がつかなければなりません。人が自分を、行為者(カルトルットヴァ)であり、楽しむ者(享受者/ボークトルットヴァ)であると見なす限り、自分の行為の結果から逃れることはできません。

-1993年1月1日御講話、Sathya Sai Speaks Vol.26 C1

 

 人間に自由意志はありません。自由意志があるのは神だけです。五感の奴隷となっている人間がどうやって自由意志を要求することが出来るでしょうか?人は何処から自由意志を得るのでしょうか?自由なのは神だけであり、それ故に神だけが自由意志を持つのです。

-『サティヨーパニシャッド上』p.269

〔私たちは操られている〕

 スワミは、「人間という道具を通してすべてのことをなし遂げているのは、万物に内在する神の原理である」とおっしゃいます。では、このことについて、実際どのようになっているかを検証してみましょう。

 まず、とても身近なことですが、私たちの行動の基盤である肉体についてはどうでしょうか? 命の大本である心臓も肺も消化管も肝臓も腎臓も脳脊髄系も免疫系も、すべて自分の意志で自由に動かすことは不可能だと分かります。誰が私たちの命を支えているのでしょう? 私たちは自分の意志で歩いているつもりになっていますが、右足、左足、右足、左足と考えて歩く人はいませ ん。一旦歩き出せば、その後は、歩いていると言うことを忘れ、考え事をしたり、携帯電話を操作しながらでも、誰にもぶつからず目的地まで歩いて行けます。これらはすべて条件反射的に行われているのですが、一体誰が歩かせているのでしょうか? マントラを唱えているとき、考え事をしていてもマントラは自動的に唱えられています。誰が唱えているのでしょう? 髪の毛や爪が伸びたり、瞬きしたり、眠くなったりすることなども同様に自動的に行われています。一体、誰がそうしているのでしょう?

 日常生活についても考えてみましょう。私の或る朝の行動です。①朝は6時に起きて、②祭壇にお祈りを捧げ、③部屋の掃除をした。④食事をしたら、⑤おなかがゴロゴロしたのでトイレへ行った。これらの行動について、それが自分の意志に基づくものか否かを調べてみますと、①目が覚めたのは自分の意志ではなく、何となく目が覚めたら6時だった、②お祈りは習慣になっていて、意識 はせず自然に行っていた、③床にゴミが落ちていて埃っぽく感じたので掃除をした、⑤妻が朝食を用意してくれたので食事をした、⑤糞尿の排泄は自分の意志ではない、となり、私の行動は、なにか外部の力に影響された結果だったと言えるように思います。自由意志を「条件に左右されない自分を起源とする意志」と定義しますと、全くもって私たちには自由意志がないことが明瞭になってきます。そして、誰かに動かされている、操られているということが実感を持って感じられると思います。

 

 ヒスロップ博士が神戸センターを訪問された際の自由意志に関する講演内容を記します。

 自由意志を持った、真に自由な魂は、アヴァター以外にこの世に生まれてくることはありません。我々の体験する人生は、カルマの川の流れであり、何が起こるかは、すべてカルマの法則や天体の影響力によって細部に到るまで決まっており、その意味では我々に自由は全くありません。しかし私たち自身は、その川の流れを見守っている者であり、川自体が我々なのではありません。私たちの苦しみは、自分と自分の体験を同一視するところから生じます。「私は誰か」という探究の 道を歩むことにより、自分は体験を意識している者であり、体験は自分ではないということがはっきり判ります。・・・一つの思いに動かされて行為をする場合、その思いに力を与えているもの は、あなたの欲ばかりではありません。あなたの過去生からのカルマの総体、あなたの食べたものに込められていた波動、あなたの周囲の人々の想念の力、その場のエネルギー、遠い天体からの影響力等々、そこには、あなたが通常「自分」と思っているエゴの力をはるかに上回る様々な力が複雑に組み合わさって人間を操っているのです。

ヒスロップ博士の神戸訪問(1994年9月27日)

http://www.sathyasai.or.jp/sn/sn39/hisrop39.html

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運命に身を任せ怠慢で良いのか

 「私たちは操り人形であり、その行為も思いも神の原理により自動的に起きていることなのであって、“私”がしていることではない」となりますと、“私”は運命に身を任せ怠慢で良いのか、という大いなる疑問がわいてきます。さて、皆さんはどのように考えるでしょうか?

 

 私なりの理解を述べさせていただきますと、この答えは「自分を何と同一視しているか」により異なってくるものと思われます。自分を肉体および心と同一視している人は、当然、自分の意志と言うものを信じるわけですから、それに従って行動することになります。ですから、「怠慢で良い」と言われたからと言って怠慢になれるわけでもなく、この質問自体が適用されません。

 

 しかし、一方、この質問にあるように「行為も思いも自動的に起きている、自分のものではない」と固く信じる人は、徐々に自分という存在が、肉体を離れ不動に、心を離れ静寂に導かれるため、やがて、自分を目撃者意識と同一視するようになります。この場合は、完全な不動、つまり、言葉は適切ではないかも知れませんが、究極の怠慢という状態になり、答えはイエスとなります。

 

 このように考えていきますと、この世が操り人形劇であるからと言って、私たちが何もしないで良いと言うことにはならないと思われます。また、肉体意識から目撃者意識になっても、実際は、行動が怠慢になるという事象は起きないようです。それはスワミを見ても一目瞭然ですが、バガヴァンの有名な帰依者であり、大企業の最高経営責任者であるジェームス・D・シンクレア氏の講演からも理解することが出来ます。

静寂の存在を許す

 もしあなた方がそこから一歩踏み出して敢えて神に集中して行動するというリスクを冒すならば、世間の人はあなたを最も活動的な人と見るでしょう。・・・「神なる自己」とつながるためには、その邪魔をしないようにすることこそが唯一の方法であり、邪魔をしない方法とは、黙って静かにすることです。聴くことを学んでください。聴くことを学ぶとき、またこの話題になりましたが、あなたは何もしていないのです。皆さんは、聞かなくてはならない声を聞くために、ボリュームを落とすのです。完全に信頼しなさい。そして、世界に出て、神のご意志が展開するままに任せなさい。その具体的な様子については何も意志しないことによって、それができるのです。・・・

 単純に知的な考察がない状態として定義される、その静寂が、そこに存在することを許しなさい。ちょうど問題がそこに存在するように、その静寂にも、そこに存在することを許すのです。そして、その問題への解決方法が皆さんに向かって、何ものにも止められない勢いを持って、決然と突き進んでくるのを感じてください。そうして、皆さんが、ただ単にスワミのなさり方の邪魔をしないでいることができただけだと知ってください。

ジェームス・D・シンクレア氏の講演(2002年4月3日放送) https://sathyasai.or.jp/sgh/talk/sinclair.html

 シンクレア氏の述べておられる「静寂の存在を許す」とはどのようなことを言うのでしょうか? 私の体験ですが、ダルシャンでスワミに手紙を受け取っていただいたとき、スワミと自分以外は他に何も見えず、時間が止まり、静寂に包まれたような感覚を覚えたことがありました。おそらく、そのような状態を言うのかなと思っています。ただし、絶対なる静寂という場合は、それは心の次元を超える必要がありますから、肉体でも心でもない状態、つまり、舞台監督である神の視点、人形劇を見ている目撃者の位置に意識があるときの境地と言えるでしょう。

悟るのは目撃者

 さて、ここで少し横道に逸れますが、皆さんは覚醒がどのように起きるかを考えてみたことがあるでしょうか? 私たちは通常、自分という個人が悟って何か変化を遂げると想像していますが、この操り人形劇という舞台を考えたとき、それは誤りと気づかされます。なぜなら、人形が悟れないのは自明のことだからです。悟りとはつまり、「人形劇の中の個人(たとえば小窪)が夢から覚めて特別な人になるわけじゃなく、目撃者である舞台監督の方が覚める」と推察されます。舞台監督であるアートマが、「あっ、そうだ、すっかり忘れてた。自分は小窪じゃないんだった。劇を見ているんだった!」と我に返ることが悟りだと思いました。ただ面白いことに、今この時点でも私たちは目撃しており、すでに神なのですが......。

 一本の木に二羽の鳥が止まっています。ウパニシャッドはそれを、この体、この世界という木に止まる、ジーヴァートマとパラマートマ、すなわち、個人の魂と至高の魂であると述べています。一羽の鳥はその木の実を食べ、もう一羽の鳥は目撃者として単にそれを見ています。しかし、驚くべきことに、その鳥は、二羽いるように見えても、実際には一羽なのです。それは同一の存在の二相であるがゆえ、二羽を引き離すことはできません。

-1964年1月1日御講話「ゼーローではなく、ヒーローになりなさい」

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ヒスロップ:・・・覚醒状態においては、私たちは自分を真の実体であると信じることができま  せん。私たちは自分を影として見ており、活動に従事する現実の人間ではないと感じます。

サイ:あなたは、自分を影と見なしています。そのうちそれが変化して、 自分は実体そのものであると感じます。このようにして、状態が交互に代わります。それは一枚の硬貨の二つの面のようであり、表と裏のようです。

ヒスロップそうです、その通りのことが起こります。

サイしかしそれは、覚醒状態における典型的な経験ではありません。 それは、サーダナによって

もたらされる、ヨーガ的な一段階です。人々は普通、夢を見ている間は夢を真実として体験し、起きている間は覚醒状態を真実として体験します。あなたが体験しているのは、条件付一元論の状態です。

-『サティア サイババとの対話』pp.145-146

〔努力は何のために?〕

 さて、また、本題に戻ります。人間に自由意志はない、すべては神がなさっていること、すべてはカルマの結果、と言うことになりますと、次なる疑問は、努力は必要か、努力は一体何の役に立つのかと言うことです。

 人々は、人間誰にでも自由意志があると信じています。これは完全に間違った信念です。人間が成功を収めるのは、自分の意志、決意、霊性修行、努力のためだと想像しています。これはすべて、彼らのアハムカーラ(自我意識)の逸脱・迷いによるもので、自分が行動しているのだという間違った考えを反映しています。

-『ブリンダヴァンの慈雨』pp.183-184

 

 ほとんど努力をしないで、または全く努力しないでも、あなたの全活動を神に捧げ、自分の行為を主なる神の仕事だと考え、神への信頼を固めて仕事を取り上げることによって、必ず成功を勝ち取ることが出来ます。あなた方は、人間の努力によっては何事も起こらないという固い信念を持つべきです。

-『ブリンダヴァンの慈雨』pp.173-174

 日本人は元来、勤勉で努力家であり、それらは日本人の美徳とされてきました。「努力に優る天才なし」、「努力は人を裏切らない」などの名言もあります。そして、スワミも、「解脱の門には、忍耐と努力という二人の門番がいる」(『神への道』p.191)とおっしゃり、努力することを強く勧めてもおられます。一見、相反するようなこれらの御言葉ですが、果たして努力は必要で しょうか? それとも必要ないのでしょうか?次のスワミの御言葉がその答えと思います。

 神の恩寵だけが真実であり永遠です。人は神の恩寵を得るよう努力すべきです。

-2005年7月21日 グル・プールニマ祭の御講話

 

 皆さんは、カルマの結果から逃れる方法はあるのだろうかと思っているかもしれません。方法はあります。神の恩寵を得た人々には可能です。ひとたび神の恩寵の受取人になれば、カルマ・パラ(行為の成果)の影響を受けることはなくなります。

-2005年7月21日御講話「すべては神の恩寵しだいである」

 

 広く一般に受け入れられている「カルマ」の意味の一つは、その人の運命あるいは宿命、すなわち、自分の額の上に書かれた消すことのできない「記述」であり、 実行されなければならないものです。それを逃れることはできません。けれども、 それは他人の手によって書かれたものではないということを人々は忘れています。 それはすべて自分自身の手で書かれたものです。そして、それを書いた手は、それを消すこともできます。

-1963年10月21日御講話「世界の繁栄 - ローカ カッリャーナ」

 答えは、「神(真我)の恩寵を得るように努力すべき」、努力のベクトルが重要と言うことでした。その理由は、操り人形劇の大要から考えて、十分得心がいくと思います。私たちの肉体や心や行動のすべてを操っているのは神ですから、神の恩寵がなければ何も生まれないというのは当然と言えます。つまり、努力も、ただ、闇雲に行うのではなく、神様を喜ばすように行わなくてはいけ ないとなります。そして、さらに付け加えるなら、「神の恩寵を得る努力ができる」ということは、それ自体が神からの恩寵であるということも忘れてはいけないと思いました。

 個人の努力と神の恩寵はどちらも持ちつ持たれつの関係です。努力をしなければ、恩寵が授けられることはないでしょう。恩寵がなければ、努力をしてみることもできません。その貴重な恩寵を神から勝ち取るために、あなたに必要なものは、信仰と美徳だけです。

-1966年3月27日の御講話

〔あれは完全、これは完全〕

 さて、「すべては神がなさっていること、あなたの名誉も不名誉も、幸も不幸もすべては神がなさっていること、あなたは人形に過ぎない」と聞いて、皆さんはどのように感じるでしょうか?面白くない、むなしい、関係ない、面白い、楽だ、ありがたい、素晴らしい、等々、いろいろな意見があると思いますが、これは、皆さんが自分をどう捉えているか、この世界をどう捉えているか、神をどう捉えているかによって変わってくると思います。甲乙はつけられないでしょう。

 私は、神が決めていることであれば、すべてが善であり完全であるに違いないと考え、難しいことですが、そのように対処するようにしています。

プールナマダッ プールナミダム

プールナート プールナムダッチヤテー

プールナッスヤ プールナマーダーヤ

プールナメーヴァーヴァシシヤテー

あれは完全、これは完全

完全から完全が生じ

完全から完全を取り去っても

完全が残るのみ

-1994年4月14日御講話「時は神なり ― 最大限に活用しなさい」

 しかし、これはそれほど簡単なことではありません。私の体験を以下に記します。

 『ヴェーダのマントラチェックが返ってきた。今回は、絶対に「指摘点無し😃」で返ってくるはずだと思っていたところに、「フィードバックをアップしました。ノートの更新をお願いします」と、予想に反し、修正箇所が必要というお返事。しかも、自分ではきちんと直して完全と思っている箇所を指摘されている。・・・心の声「そんなはずはない、これは何かの間違い。受け入れられない」と抵抗が続くが、気を取り直し、「そうか、こういう返事が返ってくることが最初から決まっていたんだ。必然なのだ。神がくださった最善の結果であるならば、この体験を楽しもうではないか。」と受け入れる。練習を積み重ね、何度か提出したある日のこと、マントラ合格のメールが届いた。普段であれば、大いに喜び「やった〜」と言うところを、「ふ〜ん、平常心、平常心 神の御業さ」と対応する。しかし、何かが違う。これでは無為、無気力と何処が違うのか? 喜怒哀楽はあった方が人生は豊かなのではないか? 苦悩の先に喜びがなければ人生の意味が無いではないか? 平常心は至福に繋がるのだろうか? 平常心とは何なのだろう? 疑問の連鎖が湧き上がる。』

 喜びと悲しみのようなあらゆる二元性は、一般の人々の心を波立たせ影響を与えます。感覚の対象から意識を引き戻すことは、日々の生活に携わる中で達成できます。世界を世俗的な目で見ないことです。そうすれば、あなたは悲しみと喜びの二元対立を離れて、バランスがとれ、平等心を得ることができます。あなたは、心が行なっているゲームのために、唯一者である神を、多くの存在として体験しているのです。あらゆるものを、愛にあふれた神様の投影/延長と見る練習をしなさい。そうすれば、あなたは二元性の地平を超えて一体性の領域に入ることができます。

-『スートラ ヴァーヒニ』第1章「六つの美徳」

 つまり、この答えは、私がまだまだ未熟で、あらゆる結果を神の御業と真に受け止めていないことにあるようです。「ふ〜ん、平常心。神の御業さ」という言葉自体に、それと対立する「平常心でないこと」、「神の御業ではないこと」が包含されていて、二元対立が明白です。人形劇の芝居に意識が囚われているうちは真の平常心は得られない、それは目撃者意識になって初めて得られるということのように思いました。

〔全託とダルマしかない〕

 この人形劇という舞台には、いろいろな役者がいます。善人も悪人も、富む者も貧しい者も、人を傷つける者も傷つけられる者も、嘘をつく者もつかれる者も、いろいろな役者がいて、すべてが神に操られています。その中でもサイは私たちに、サイの召使いとしての役を与え、バジャンを歌わさせ、ヴェーダを唱えさせ、サイに向かって歩ませるという役を演じさせているのです。おぉ、 何という幸運でしょう。これほどの喜びがあるでしょうか。これほどの恩寵があるでしょうか!

 

 もし、そうであるなら、私たちがしなければならないこととは何でしょうか?それはもう、心も体もすべてを神にゆだねる全託しかないと思うのです。そして、神の命令(ダルマ)に絶対服従することしかないと思います。皆さんは、どのように思われたでしょうか? サイの甘く優しい愛を感じつつ、筆をおきたいと思います。

 

 あなたがすべきことは、ただ神の意志に委ねることです。これは、良いことであ れ悪いことであれ、人生に何が起きようと、それは自分にとって最も良いことだと思い、喜んで受け入れる覚悟をすることを意味しています。あなたはそれを神からあなたへの贈り物として受け入れなければなりません。そうすることが真のグニャーナ(英知)でありバクティ(信愛)なのです。

-『サティヨーパニシャッド上』p.270

​「わたし」とはだれか

サティアサイババ述『平安・瞑想・大成就』pp.41-48

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