SRI SATHYA SAI RAM NEWS

帰依者インタビュー
私の旅
サティヤ サイ出版協会 代表理事 比良 竜虎
第8回
日本での活動
今回は、私がスワミに日本でどのような活動を行えば良いのでしょうかと、伺ったときの話をしましょう。
最初に言われたことは、ガーヤトリー マントラを教えなさいということでした。そこで、マントラの録音テープや小冊子を作り、日本各地でマントラの講習会を開きました。また、サーダナキャンプでも、ガーヤトリー マントラをテーマにした勉強会を繰り返し行いました。今から振り返ってみると、私たちがヴェーダを学ぶ前に、ガーヤトリー マントラを学べたことは、とても大切なプロセスになりました。
また別の機会に、日本でどのような奉仕をすれば良いのでしょうかと、スワミに伺いました。その時、スワミは少しお考えになって、次のようにおっしゃったのです。
One cup of milk is better than two cups of wine.
(一杯のミルクは二杯のワインよりも良い)
Two cups of wine are better than one cup of milk.
(二杯ワインは一杯のミルクよりも良い)
せっかく教えを頂いたというのに、スワミのおっしゃる言葉の真意が、その時の私には理解できませんでした。その後、インドからの帰りの飛行機でたまたま読んだ新聞に、世界保健機構と日経新聞が主催する、日本のアルコール問題に関するシンポジウムが開催されるという記事が目にとまりました。とても偶然とは思えず、そのシンポジウムに参加することにしました。
そこで私は、日本は人口一人当たりのアルコール消費量が世界で最も多いこと、飲酒による健康問題や社会問題が増えていることを知りました。当時は、高校の近くにもお酒の自動販売機があり、高校生でも簡単にお酒を購入できる環境にありました。酒税は国にとって大切な財源の一つなので、お酒の販売を制限することは簡単ではないようでした。しかしながら、このときの提言がきっかけとなり、その後、学校から一定の範囲内には、お酒の自動販売機を設置できない法律ができました。
シンポジウムに参加して、私はスワミから頂いた言葉の意味を理解しました。お酒で健康を害しては、霊性どころではありません。そこで、健康に関するセヴァを行うことにしました。「霊性と飲酒 Sprit & Spirituality」というテーマを掲げて、飲酒による社会問題に取り組む団体と共催で、横浜のサンモール・インターナショナル・スクールにおいて展示会を行いました。
展示会では、飲酒運転によって子どもを失った母親たちの講演会なども企画しました。また、ゲストスピーカーとして、スワミの帰依者であり、アメリカにおけるドラッグやアルコールなどの社会問題に詳しいビル・ハーヴィー医師をお招きして、アメリカの実情について講演をしていただきました。


その頃の日本で は、飲酒だけでなく、喫煙による健康への影響も社会問題となっていました。日本は喫煙者が多く、仕事上のおもてなしとして外国の高級な煙草をお客様に勧めることもありました。今日、日本でのアルコール消費量や喫煙人口は、当時と比較するとずいぶんと減ってきましたが、人々の健康意識が高まってきたことは、ババ様の恩恵だと思います。肉体が浄化されて初めて、次のステップとして精神的な世界に入っていけるのではないでしょうか。
ヴェーダの浸透
ババ様が、この世に降臨された使命の一つは、世界中にヴェーダを広めることだと言われています。ババ様のご意志により、日本でもヴェーダを学び唱えることが始まりました。ヴェーダは精神的な活動の基礎であり、その基礎ができたうえで、さまざまな精神的な道を選ぶことができます。
今から7,8年前には、300名ほどの日本人帰依者が、テキストを見ずにヴェーダを唱えることができるようになりました。これは奇跡的なことです。日本のいくつかの国立大学や仏教系の大学でも、ヴェーダを学問として教えていますが、精神的な観点でのヴェーダの習得は期待できません。ヴェーダを教える教授が肉食を行っていることからも分かります。
ババ様の意志のもとにヴェーダが浸透していくことは、日本にとって大きな国益となるでしょう。奈良時代、天然痘のために多くの人が命を落としましたが、人々は仏教でその国難を乗り越えました。日本は徳高い国ですが、その徳を実行できる社会に変わらないといけません。私は、今後300年ほどかけて、日本も大きく変わっていくのではないかと思います。今日、日本が直面しているさまざまな課題も、必ずやヴェーダによって克服されることでしょう。
比良 竜虎(ひら りゅうこ)プロフィール:
1948年インド共和国ラージャスタン州ジャイプルで誕生。シニアケンブリッジ(ムンバイ)卒業。その後日本に移住し、1976年日本に帰化する。
1978年からサイセヴァを始め、全国のサイセンター、サイグループの発足に貢献。東京サイセンター初代会長、サイラムニュース初代編集長、シュリ サティヤ サイ国際オーガニゼーション ジャパン (SSSIOJ) 会長、SSSIO ゾーン5(中国、台湾、香港、日本、韓国)コーディネーター、SSSIO B地区(世界80か国)会長を歴任。現在は、シュリ サティヤ サイ セントラル トラスト理事、SSSIOJ相談役、サティヤ サイ出版協会 代表理事、サティヤ サイ教育協会 理事長。
来日以来、日本で複数のビジネスを立ち上げ、現在はHMI(株)ほか 数社の代表取締役を務める。日印の文化・経済・親善交流促進にも尽力し、さまざまな活動に携わる。公益社団法人在日インド商工協会 会長。財団法人日印協会理事。
長年にわたる観光産業の発展、日印親善、インド哲学・文化伝承活動における功績が認められ、インド政府から2010年1月にプラヴァシー・バーラティヤ・ディヴァス賞を、2022年3月にパドマ・シュリー勲章を受章。
第7回

日本での広がり
前回は、日本でサティヤサイオーガニゼーションが誕生した頃の話と、津山先生とのご縁で始まった奉仕活動や、Sis.津山の翻訳などのおかげで、サイの活動が徐々に広がっていったことをお話ししました。
もう一つ、サイ ババ様の御名が日本中に広がるきっかけとなった出来事がありました。青山圭秀さんがババ様に会いに行ったときの体験談を記した著書『理性のゆらぎ』が、1993年にベストセラーになったのです。その本を読んだ多くの日本人が、インド人が中心となって立ち上げた東京、神戸、横浜、沖縄のサイセンターに足を運び、バジャン会や奉仕活動に参加するようになりました。そして、日本人が世話人を務める新しいサイセンターやサイ グループが次々と誕生しました。しばらくするとその現象は落ち着きましたが、サイ ババ様のことを敬い、信じ、慕い、愛している方は、今も日本国内にたくさんいます。
日本でのサイの活動は、1975年に神戸でバジャン会が始まってから、まだ47年しか経っていません。神という概念は何千年、何万年も続くものですから、サティヤ サイの御教えが日本中そして世界中の人々の中に深く浸透していく歩みは、まだ第一歩を踏み出したとも言えない状況だと思っています。日本に限らず、サイ ババ様の助けが必要な人々にサイの御教えが届くには、まだまだ長い年月がかかることでしょう。
これからの道のり
なぜそのように思うかというと、ババ様がどれほどの存在なのか、どれだけ自分を助けてくださる存在なのかを、ほとんどの人は未だに知らないからです。神は人々が求めるものであって、こちらから広めるものではないというババ様の御教えもあり、これまで私たちはババ様のことを宣伝してきませんでした。しかしこれからは、人々が自ら神を求める時代がやってくると思います。
イエス・キリスト様が肉体を離れられたのは紀元後33年頃と考えられていますが、今のような形で新約聖書が編纂され、バチカンの地に最初の教会堂が建てられたのは、紀元後4世紀のことで、約400年かかっています。紀元前5~7世紀のいずれかに肉体を離れられたと考えられているお釈迦様の教えが体系化されて、仏教として日本に伝わったのは、紀元後6世紀に入ってからで、およそ千年かかったことになります。
現在、プッタパルティではセントラル トラストが新しい役割を担うこととなり、グローバル カウンシルが作られました。キリスト教においてバチカンが担った役割と同じように、これからはグローバル カウンシルが、グローバルな役割を担っていくことでしょう。これにはさまざまな議論がありますが、向こう100年、300年、500年という単位でものごとを見ていく必要があると思います。
別の例を挙げましょう。シルディ サイ ババ様のサマーディ マンディール(霊廟)に、毎年数億人という人々がお参りに行っています。それだけの人が参拝するのは、その方々の願いがかなえられているからです。


シルディ サイ ババ像
(サマディ マンディール寺院)
このように多くの方がお参りするようになったのは、有名俳優が出演したシルディ サイ ババ様の映画「Shirdi Ke Sai Baba」が1977年に公開され、一般の方々に広く知られるようになったことがきっかけでした。シルディ サイ ババ様が肉体を離れられたのは1918年のことでしたから、およそ60年後ということになります。それから40年ほど経ち、没後100年が経過した現在では、年に数億人という人々がサマーディ マンディールを訪れているのです。

サティヤ サイ ババ様のマハーサマディ
(プッタパルティ)
インド、日本、アメリカなど、それぞれの国によって、そして時代によって、神様の役割は変わっていくのだと思います。「魂の向上」という一つの大きな役割のために神様は存在なさっているわけですが、細かく見ていくと、それぞれの国や時代ごとに少しずつ異なるアプローチをなさっていることに気づくでしょう。
最近、私が聞いた話をご紹介しましょう。アメリカにおける社会問題の一つに人種問題があります。2022年の春、アメリカで初めて完全無料のコミュニティクリニックが始まりました。ここでは、シカゴ在住のインド人医師たちが中心となって、ボランティアで診療を行っています。アメリカの医療費が世界一高いことはよく知られていますが、国民皆保険の制度がないため、高額な医療保険に入ることができず、十分な医療を受けられない人々がいます。その中でも特に多いのが、アフリカ系アメリカ人のケースです。このコミュニティクリニックは、そのような人々のために、無償で医療を提供しています。彼らにインスピレーションと導きを与えたのは、ババ様の御教えです。
(つづく)
第6回
サイのミッション
前回は、私が初めてババ様にお会いした時の話をしました。そこから私の人生が変わり始めたわけです。ババ様は神だと信じるようになってから、ババ様についての本を読むようになりました。最初に読んだ本はカストゥーリ博士の『Loving God』(邦題:愛の神)で、この方は神だと確信するようになりました。そして忙しい仕事をやりくりして、年に2~3回はインドに行くようになりました。私はサイのミッションに夢中になり、50歳までの約20年間、サイの活動に邁進しました。
初めに、サティヤ サイ オーバーシーズ オーガニゼーション(Sathya Sai Overseas Organization:SSIOの前身)会長であるインドラル シャー先生にお会いしました。シャー先生からは、日本もSSOOに正式に加盟して、ババ様の御教えを国内に広めるようにとのアドバイスをいただきました。
そこで、既にバジャン会が開かれていた神戸に(「私の旅」第4回参照 )1979年、サティヤ サイ神戸センターを設立し、神戸センターを本部として、日本もSSOOに加盟しました。そこからババ様の御教えを日本で広める活動が本格的に始まったのです。
翌1980年には東五反田でサティヤ サイ東京センターを立ち上げました。続いて、1982年にサティヤ サイ横浜センターが発足しました。同年サティヤ サイ オーガニゼーション ジャパン(SSOJ)の初代会長にBro. クブチャンダニが就任しました。
サイの御教えは徐々に日本全国に広がっていき、毎年のように日本各地でサイ センターやサイ グループが設立されました。1985年には、SSOJの2代目会長に、日本人初の会長となるSis. 津山千鶴子が就任されました。年を追うごとにSSOJの活動内容は充実していきました。1990年にはジュムサイ博士とBro.ジャガディーサンをゲストに迎え、神戸で第1回SSOJ全国大会を開催しました。
.jpg)
第1回SSOJ全国大会(開催地:神戸)

右からジュムサイ博士、インド総領事(当時)、Bro.比良
(1人おいて)Sis.津山千鶴子、Bro.ジャガディーサン
.jpg)
右からBro.チュガニ、Bro.比良、インド総領事(当時)
ジュムサイ博士、Bro.津山直一、Sis.津山千鶴子
.jpg)
翌1991年には横浜で第2回全国大会「テーマ:霊性と飲酒 Spirit & Spirituality」を開催しました。第2回大会では、サティヤ サイ大学ブリンダーヴァン校アニル クマール校長(当時)が、ババ様からの祝辞を携えて来日してくださいました。またSSOO会長のインドラル シャー先生もお越しになりました。
.jpg)
第2回SSOJ全国大会(開催地:横浜)
幸いなことに、インドを訪れるたびにババ様に直接お会いする機会に恵まれました。当時のインドは貧しい人や病人がとても多かったので、多くの奉仕活動が行われており、さまざまな施設の計画・建設が進んでいました。インタビューで、というよりも、奉仕活動の中でババ様にお会いすることが多かったと記憶しています。
初めての頂きもの
ある時、ババ様が私に大きなダイヤモンドのついた指輪を物質化してくださったことがあります。そのダイヤモンドは親指の半分ほどもあり、きらきらと輝いていました。それをはめようとした時、私の心に「なぜ神様はこんな指輪を私にくださるのだろうか?」という思いが湧き上がって来ました。それはまるで日本のヤクザがはめているような、とても派手な指輪だったのです。
そう思った瞬間、ババ様は私に対して「あなたはこの指輪が嫌いですね」とおっしゃったのです。私が「はい、スワミ」と答えると、ババ様は「それでは変えましょう」とおっしゃって、その指輪に3回息を吹きかけられたのです。するとそれは、素晴らしく美しい珊瑚のガネーシャが付いた、落ち着いた感じのゴールドの指輪に変わりました。それが私がババ様から初めて頂いたものです。
御降誕祭での大役
1991年、「65周年御降誕祭で、ゲストスピーカーとして話をしてください」というババ様からのメッセージが私に届けられました。私は「とんでもない。話などできません」とお断りしました。すると私はババ様に呼び出されて、「なぜスピーチをしないのですか」と問いただされました。
当時は通常でも1日に3~4万人の人々がプッタパルティを訪れていました。御降誕祭ともなれば、会場は巨大なスタジアムで、世界中から30万人もの帰依者が集まります。「スワミ、私は怖いのです。そんなにたくさんの人前で話をするなんて、私には無理です。インドの高名な哲学者もたくさんいらっしゃるというのに、私はそんな器ではありません。いったい何を話せばよいのか、見当もつきません。私にはできません」と答えました。するとババ様は「その30万人を1人だと思いなさい。人の数を見るのではありません」とアドバイスしてくださいました。私は勇気を振り絞ってスピーチをすることにしました。
その日のゲストスピーカーは、SSOOアメリカ会長ロバート ボザニ夫妻、インドラルシャー先生、そして私でした。驚いたことに、ババ様の玉座があるそのステージから会場を見ると、人々の顔はまったく見えず、頭だけが一つの黒い海のように見えました。聴衆の顔がわからないので、見られているということを意識することもなく、落ち着いて話をすることができました。おかげ様でスピーチのあと、多くの方々から「良い話でした。感動しました」など、お褒めの言葉を頂き、安堵しました。

.jpg)