SRI SATHYA SAI RAM NEWS
帰依者インタビュー
私の旅
サティヤ サイ出版協会 代表理事 比良 竜虎
第8回
日本での活動
今回は、私がスワミに日本でどのような活動を行えば良いのでしょうかと、伺ったときの話をしましょう。
最初に言われたことは、ガーヤトリー マントラを教えなさいということでした。そこで、マントラの録音テープや小冊子を作り、日本各地でマントラの講習会を開きました。また、サーダナキャンプでも、ガーヤトリー マントラをテーマにした勉強会を繰り返し行いました。今から振り返ってみると、私たちがヴェーダを学ぶ前に、ガーヤトリー マントラを学べたことは、とても大切なプロセスになりました。
また別の機会に、日本でどのような奉仕をすれば良いのでしょうかと、スワミに伺いました。その時、スワミは少しお考えになって、次のようにおっしゃったのです。
One cup of milk is better than two cups of wine.
(一杯のミルクは二杯のワインよりも良い)
Two cups of wine are better than one cup of milk.
(二杯ワインは一杯のミルクよりも良い)
せっかく教えを頂いたというのに、スワミのおっしゃる言葉の真意が、その時の私には理解できませんでした。その後、インドからの帰りの飛行機でたまたま読んだ新聞に、世界保健機構と日経新聞が主催する、日本のアルコール問題に関するシンポジウムが開催されるという記事が目にとまりました。とても偶然とは思えず、そのシンポジウムに参加することにしました。
そこで私は、日本は人口一人当たりのアルコール消費量が世界で最も多いこと、飲酒による健康問題や社会問題が増えていることを知りました。当時は、高校の近くにもお酒の自動販売機があり、高校生でも簡単にお酒を購入できる環境にありました。酒税は国にとって大切な財源の一つなので、お酒の販売を制限することは簡単ではないようでした。しかしながら、このときの提言がきっかけとなり、その後、学校から一定の範囲内には、お酒の自動販売機を設置できない法律ができました。
シンポジウムに参加して、私はスワミから頂いた言葉の意味を理解しました。お酒で健康を害しては、霊性どころではありません。そこで、健康に関するセヴァを行うことにしました。「霊性と飲酒 Sprit & Spirituality」というテーマを掲げて、飲酒による社会問題に取り組む団体と共催で、横浜のサンモール・インターナショナル・スクールにおいて展示会を行いました。
展示会では、飲酒運転によって子どもを失った母親たちの講演会なども企画しました。また、ゲストスピーカーとして、スワミの帰依者であり、アメリカにおけるドラッグやアルコールなどの社会問題に詳しいビル・ハーヴィー医師をお招きして、アメリカの実情について講演をしていただきました。
その頃の日本では、飲酒だけでなく、喫煙による健康への影響も社会問題となっていました。日本は喫煙者が多く、仕事上のおもてなしとして外国の高級な煙草をお客様に勧めることもありました。今日、日本でのアルコール消費量や喫煙人口は、当時と比較するとずいぶんと減ってきましたが、人々の健康意識が高まってきたことは、ババ様の恩恵だと思います。肉体が浄化されて初めて、次のステップとして精神的な世界に入っていけるのではないでしょうか。
ヴェーダの浸透
ババ様が、この世に降臨された使命の一つは、世界中にヴェーダを広めることだと言われています。ババ様のご意志により、日本でもヴェーダを学び唱えることが始まりました。ヴェーダは精神的な活動の基礎であり、その基礎ができたうえで、さまざまな精神的な道を選ぶことができます。
今から7,8年前には、300名ほどの日本人帰依者が、テキストを見ずにヴェーダを唱えることができるようになりました。これは奇跡的なことです。日本のいくつかの国立大学や仏教系の大学でも、ヴェーダを学問として教えていますが、精神的な観点でのヴェーダの習得は期待できません。ヴェーダを教える教授が肉食を行っていることからも分かります。
ババ様の意志のもとにヴェーダが浸透していくことは、日本にとって大きな国益となるでしょう。奈良時代、天然痘のために多くの人が命を落としましたが、人々は仏教でその国難を乗り越えました。日本は徳高い国ですが、その徳を実行できる社会に変わらないといけません。私は、今後300年ほどかけて、日本も大きく変わっていくのではないかと思います。今日、日本が直面しているさまざまな課題も、必ずやヴェーダによって克服されることでしょう。
比良 竜虎(ひら りゅうこ)プロフィール:
1948年インド共和国ラージャスタン州ジャイプルで誕生。シニアケンブリッジ(ムンバイ)卒業。その後日本に移住し、1976年日本に帰化する。
1978年からサイセヴァを始め、全国のサイセンター、サイグループの発足に貢献。東京サイセンター初代会長、サイラムニュース初代編集長、シュリ サティヤ サイ国際オーガニゼーション ジャパン (SSSIOJ) 会長、SSSIO ゾーン5(中国、台湾、香港、日本、韓国)コーディネーター、SSSIO B地区(世界80か国)会長を歴任。現在は、シュリ サティヤ サイ セントラル トラスト理事、SSSIOJ相談役、サティヤ サイ出版協会 代表理事、サティヤ サイ教育協会 理事長。
来日以来、日本で複数のビジネスを立ち上げ、現在はHMI(株)ほか 数社の代表取締役を務める。日印の文化・経済・親善交流促進にも尽力し、さまざまな活動に携わる。公益社団法人在日インド商工協会 会長。財団法人日印協会理事。
長年にわたる観光産業の発展、日印親善、インド哲学・文化伝承活動における功績が認められ、インド政府から2010年1月にプラヴァシー・バーラティヤ・ディヴァス賞を、2022年3月にパドマ・シュリー勲章を受章。
第7回
日本での広がり
前回は、日本でサティヤサイオーガニゼーションが誕生した頃の話と、津山先生とのご縁で始まった奉仕活動や、Sis.津山の翻訳などのおかげで、サイの活動が徐々に広がっていったことをお話ししました。
もう一つ、サイ ババ様の御名が日本中に広がるきっかけとなった出来事がありました。青山圭秀さんがババ様に会いに行ったときの体験談を記した著書『理性のゆらぎ』が、1993年にベストセラーになったのです。その本を読んだ多くの日本人が、インド人が中心となって立ち上げた東京、神戸、横浜、沖縄のサイセンターに足を運び、バジャン会や奉仕活動に参加するようになりました。そして、日本人が世話人を務める新しいサイセンターやサイ グループが次々と誕生しました。しばらくするとその現象は落ち着きましたが、サイ ババ様のことを敬い、信じ、慕い、愛している方は、今も日本国内にたくさんいます。
日本でのサイの活動は、1975年に神戸でバジャン会が始まってから、まだ47年しか経っていません。神という概念は何千年、何万年も続くものですから、サティヤ サイの御教えが日本中そして世界中の人々の中に深く浸透していく歩みは、まだ第一歩を踏み出したとも言えない状況だと思っています。日本に限らず、サイ ババ様の助けが必要な人々にサイの御教えが届くには、まだまだ長い年月がかかることでしょう。
これからの道のり
なぜそのように思うかというと、ババ様がどれほどの存在なのか、どれだけ自分を助けてくださる存在なのかを、ほとんどの人は未だに知らないからです。神は人々が求めるものであって、こちらから広めるものではないというババ様の御教えもあり、これまで私たちはババ様のことを宣伝してきませんでした。しかしこれからは、人々が自ら神を求める時代がやってくると思います。
イエス・キリスト様が肉体を離れられたのは紀元後33年頃と考えられていますが、今のような形で新約聖書が編纂され、バチカンの地に最初の教会堂が建てられたのは、紀元後4世紀のことで、約400年かかっています。紀元前5~7世紀のいずれかに肉体を離れられたと考えられているお釈迦様の教えが体系化されて、仏教として日本に伝わったのは、紀元後6世紀に入ってからで、およそ千年かかったことになります。
現在、プッタパルティではセントラル トラストが新しい役割を担うこととなり、グローバル カウンシルが作られました。キリスト教においてバチカンが担った役割と同じように、これからはグローバル カウンシルが、グローバルな役割を担っていくことでしょう。これにはさまざまな議論がありますが、向こう100年、300年、500年という単位でものごとを見ていく必要があると思います。
別の例を挙げましょう。シルディ サイ ババ様のサマーディ マンディール(霊廟)に、毎年数億人という人々がお参りに行っています。それだけの人が参拝するのは、その方々の願いがかなえられているからです。
シルディ サイ ババ像
(サマディ マンディール寺院)
このように多くの方がお参りするようになったのは、有名俳優が出演したシルディ サイ ババ様の映画「Shirdi Ke Sai Baba」が1977年に公開され、一般の方々に広く知られるようになったことがきっかけでした。シルディ サイ ババ様が肉体を離れられたのは1918年のことでしたから、およそ60年後ということになります。それから40年ほど経ち、没後100年が経過した現在では、年に数億人という人々がサマーディ マンディールを訪れているのです。
サティヤ サイ ババ様のマハーサマディ
(プッタパルティ)
インド、日本、アメリカなど、それぞれの国によって、そして時代によって、神様の役割は変わっていくのだと思います。「魂の向上」という一つの大きな役割のために神様は存在なさっているわけですが、細かく見ていくと、それぞれの国や時代ごとに少しずつ異なるアプローチをなさっていることに気づくでしょう。
最近、私が聞いた話をご紹介しましょう。アメリカにおける社会問題の一つに人種問題があります。2022年の春、アメリカで初めて完全無料のコミュニティクリニックが始まりました。ここでは、シカゴ在住のインド人医師たちが中心となって、ボランティアで診療を行っています。アメリカの医療費が世界一高いことはよく知られていますが、国民皆保険の制度がないため、高額な医療保険に入ることができず、十分な医療を受けられない人々がいます。その中でも特に多いのが、アフリカ系アメリカ人のケースです。このコミュニティクリニックは、そのような人々のために、無償で医療を提供しています。彼らにインスピレーションと導きを与えたのは、ババ様の御教えです。
(つづく)
第6回
サイのミッション
前回は、私が初めてババ様にお会いした時の話をしました。そこから私の人生が変わり始めたわけです。ババ様は神だと信じるようになってから、ババ様についての本を読むようになりました。最初に読んだ本はカストゥーリ博士の『Loving God』(邦題:愛の神)で、この方は神だと確信するようになりました。そして忙しい仕事をやりくりして、年に2~3回はインドに行くようになりました。私はサイのミッションに夢中になり、50歳までの約20年間、サイの活動に邁進しました。
初めに、サティヤ サイ オーバーシーズ オーガニゼーション(Sathya Sai Overseas Organization:SSIOの前身)会長であるインドラル シャー先生にお会いしました。シャー先生からは、日本もSSOOに正式に加盟して、ババ様の御教えを国内に広めるようにとのアドバイスをいただきました。
そこで、既にバジャン会が開かれていた神戸に(「私の旅」第4回参照 )1979年、サティヤ サイ神戸センターを設立し、神戸センターを本部として、日本もSSOOに加盟しました。そこからババ様の御教えを日本で広める活動が本格的に始まったのです。
翌1980年には東五反田でサティヤ サイ東京センターを立ち上げました。続いて、1982年にサティヤ サイ横浜センターが発足しました。同年サティヤ サイ オーガニゼーション ジャパン(SSOJ)の初代会長にBro. クブチャンダニが就任しました。
サイの御教えは徐々に日本全国に広がっていき、毎年のように日本各地でサイ センターやサイ グループが設立されました。1985年には、SSOJの2代目会長に、日本人初の会長となるSis. 津山千鶴子が就任されました。年を追うごとにSSOJの活動内容は充実していきました。1990年にはジュムサイ博士とBro.ジャガディーサンをゲストに迎え、神戸で第1回SSOJ全国大会を開催しました。
第1回SSOJ全国大会(開催地:神戸)
右からジュムサイ博士、インド総領事(当時)、Bro.比良
(1人おいて)Sis.津山千鶴子、Bro.ジャガディーサン
右からBro.チュガニ、Bro.比良、インド総領事(当時)
ジュムサイ博士、Bro.津山直一、Sis.津山千鶴子
翌1991年には横浜で第2回全国大会「テーマ:霊性と飲酒 Spirit & Spirituality」を開催しました。第2回大会では、サティヤ サイ大学ブリンダーヴァン校アニル クマール校長(当時)が、ババ様からの祝辞を携えて来日してくださいました。またSSOO会長のインドラル シャー先生もお越しになりました。
第2回SSOJ全国大会(開催地:横浜)
幸いなことに、インドを訪れるたびにババ様に直接お会いする機会に恵まれました。当時のインドは貧しい人や病人がとても多かったので、多くの奉仕活動が行われており、さまざまな施設の計画・建設が進んでいました。インタビューで、というよりも、奉仕活動の中でババ様にお会いすることが多かったと記憶しています。
初めての頂きもの
ある時、ババ様が私に大きなダイヤモンドのついた指輪を物質化してくださったことがあります。そのダイヤモンドは親指の半分ほどもあり、きらきらと輝いていました。それをはめようとした時、私の心に「なぜ神様はこんな指輪を私にくださるのだろうか?」という思いが湧き上がって来ました。それはまるで日本のヤクザがはめているような、とても派手な指輪だったのです。
そう思った瞬間、ババ様は私に対して「あなたはこの指輪が嫌いですね」とおっしゃったのです。私が「はい、スワミ」と答えると、ババ様は「それでは変えましょう」とおっしゃって、その指輪に3回息を吹きかけられたのです。するとそれは、素晴らしく美しい珊瑚のガネーシャが付いた、落ち着いた感じのゴールドの指輪に変わりました。それが私がババ様から初めて頂いたものです。
御降誕祭での大役
1991年、「65周年御降誕祭で、ゲストスピーカーとして話をしてください」というババ様からのメッセージが私に届けられました。私は「とんでもない。話などできません」とお断りしました。すると私はババ様に呼び出されて、「なぜスピーチをしないのですか」と問いただされました。
当時は通常でも1日に3~4万人の人々がプッタパルティを訪れていました。御降誕祭ともなれば、会場は巨大なスタジアムで、世界中から30万人もの帰依者が集まります。「スワミ、私は怖いのです。そんなにたくさんの人前で話をするなんて、私には無理です。インドの高名な哲学者もたくさんいらっしゃるというのに、私はそんな器ではありません。いったい何を話せばよいのか、見当もつきません。私にはできません」と答えました。するとババ様は「その30万人を1人だと思いなさい。人の数を見るのではありません」とアドバイスしてくださいました。私は勇気を振り絞ってスピーチをすることにしました。
その日のゲストスピーカーは、SSOOアメリカ会長ロバート ボザニ夫妻、インドラルシャー先生、そして私でした。驚いたことに、ババ様の玉座があるそのステージから会場を見ると、人々の顔はまったく見えず、頭だけが一つの黒い海のように見えました。聴衆の顔がわからないので、見られているということを意識することもなく、落ち着いて話をすることができました。おかげ様でスピーチのあと、多くの方々から「良い話でした。感動しました」など、お褒めの言葉を頂き、安堵しました。
65周年御降誕祭でのババ様とBro. 比良
津山先生ご夫妻
SSОJが設立された当時、日本は物質的には豊かになったにも関わらず、ボランティアの精神はあまり見られませんでした。ほとんどの人が中流階級と言われていましたが、実際には貧富の差があり、孤児や、病気になっても満足な治療を受けられない子どもも数多くいました。
その頃のことで最も記憶に残るのは、SSOJ2代目会長となった津山千鶴子先生と、その夫である津山直一先生にまつわる話です。東京大学医学部教授であった津山直一先生は、整形外科の医師として、国立身体障害者リハビリテーションセンター総長、日本リハビリテーション医学会理事長、日本肢体不自由児協会会長などを歴任された方です。
話は1980年代前半にさかのぼります。ある年、整形外科の学会がシンガポールで開催され、津山先生が日本代表として、千鶴子夫人を伴って参加されました。その学会の主催者であるシンガポールの整形外科医ピレー博士は、サティヤ サイ ババ様の帰依者でした。ピレー博士は、彼のクリニックのすぐ隣にあったババ様のバジャンセンターに、津山ご夫妻をゲストとして招待されたのだそうです。
ピレー博士は次のような話をされました。「サイ ババ様は神様です。私が整形外科医として治せないものは、すべてサイ ババ様が治してくださいます。私のクリニックには世界中からさまざまな患者が来ます」それを聞いた千鶴子夫人は、ぜひ一度インドに行ってみたい、とおっしゃったそうです。その後、ピレー博士の案内で、ご夫婦そろってインドのババ様のアシュラムを訪問されました。
二人はババ様のインタビューに呼ばれ、長さ約5cmもあるサラスワティー女神の指輪が物質化され、千鶴子夫人に渡されたそうです。その指輪を右の薬指にはめた千鶴子夫人は「スワミ、日本にはさまざまな課題があります。スワミの御教えを日本人に伝えてくださいませんか?」と直接お願いされたそうです。そこから、Sis.津山による「サナザナサラチ」誌の日本語訳が始まりました。「サナザナサラチ」とは、インドで定期刊行されていたババ様の御講話集です。
ご夫妻がインドから帰国された後、私は食事会に招かれ、お二人の体験談を伺いました。その時、私は、神様に出会う人たちは徳高い人たちであるということを改めて感じたのです。
戦前、東京都板橋区に日本初の公的肢体不自由児学校である「整肢寮護園」がありました。これは、障害児には生活すべての面にわたる総合的な支援が必要であるという観点から、医療・教育・職能の賦与(ふよ)を三つの柱として創設された施設です。ところが、東京大空襲により、その病院や施設のほとんどは破壊されてしまいました。
その当時、まだ若かった津山直一先生は、最初はテントの中で障害児の治療を行っていたそうです。終戦後もいつ施設が再建されるのか見当もつかず、津山先生たちはご自宅を売却するなどして、障害児の治療を継続されたそうです。先生方のご尽力の結果、「整肢寮護園は国により再建されました。その後「心身障害児総合医療療育センター」と名称を変えて、今も多くの障害児を養育しています。
津山直一先生
始まった奉仕活動
津山先生からその話を伺った私は、横浜と東京のサイ センターで「心身障害児総合医療療育センター」での奉仕活動を始めました。当時は、900人ぐらいの手足の不自由な子どもたちが、5つの病棟に分かれて療養介護を受けていました。第5病棟には、背骨がなく寝たきりで動けない子どももいました。横浜サイ センターのインド人が作ったインド料理を子どもたちに食べさせたり、料理が食べられない子どもにはバジャンを歌ってあげたりしていました。
その当時の所長は、坂口亮先生という大変慈悲深い方でした。「サイ ババの歌を聴くと、最も厳しい障害がある第5病棟の子どもたちも喜んでいます。だから必ず来てくださいね」とおっしゃっていました。その奉仕活動は十数年間続きました。
坂口亮センター所長(右側)
一方、Sis.津山は「サナザナサラチ」の日本語訳だけでなく、多くのババ様の本も日本語に翻訳してくださいました。その後、私たちはサティヤ サイ出版協会や、サティヤ サイ教育協会を立ち上げて、サイの活動は少しずつ地方にも広まっていきました。
(これまでに設立されたセンター・グループは次の通りです。すでに解散したもの、名称を変更したものも含まれます。新大阪、天王寺、天満、広島、北九州、札幌、岩国、千葉、浜松、三宮、新潟、那覇、盛岡、倉敷、静岡、福岡、長野、金沢、香川、武蔵野、帯広、京都、名古屋、鹿児島、東北、札幌、金沢、群馬、埼玉、奈良、多摩、川崎)
(つづく)
第5回
最初のお導き
前回は、サティヤ サイ ババ様のことを初めて聞いた頃の話をしました。今回は、マハーシヴァラートリのお祭りの後で、私に何が起こったかについてお話ししましょう。
午前6時にマハーシヴァラートリ祭を終えてお腹が空いていた私は、メイドさんに卵とベーコンとソーセージという、いつもと変わらぬ朝食を用意してもらいました。ところが、お腹は空いているのに、食べようとしても食べられません。不思議なことに、食事を口に入れようとしてもまったく入らないのです。何が起きたのか分からず、電話で姉に相談したところ「あなたが一晩中馬鹿なことをやるから、お腹を壊して食事ができなくなったのでしょう。そのうち治りますよ」と言われました。
そこで私は、朝食を食べずに、車で会社に向かいました。当時は仕事のストレスもあって、毎日アメリカ製の強い煙草を1日2箱、葉巻も2~3本吸っていました。その日も、車の中でいつもの煙草に火をつけたのですが、吸おうとしても一服も吸えません。口に入れてもまったく美味しくなくなっていました。
当時、まだ若かった私は、がむしゃらに仕事を頑張っていました。お客様との食事会も週に3~4回あり、1日に2~3組を接待することもありました。部長や次長がお客様を招いて行う接待の席に、社長の私が1時間ずつ顔を出すわけです。お客様を喜ばせるために、高級なエビやカニ、珍しいウサギや鹿の肉などを注文することもありました。お酒も人に負けないくらい飲んでいました。
ところが、マハーシヴァラートリ祭を終えたその日は、お昼になっても相変わらず食事もできず、煙草も吸えず、夕飯の時間になっても何も食べられないままでした。そこでようやく私は、自分の体に何か不思議な変化が起きたのだと自覚したのです。お肉もお酒も煙草も一切口にすることができないという、180度の変化が一晩で起こり、ベジタリアンになったのです。それは、苦しみや我慢を強いるものではまったくなく、自然に起きた変化でした。
もし、あのような暴飲暴食やチェーンスモーカーの生活を続けていたら、自分の健康はどうなっていたか分かりません。それは、ババ様からの最初のお導きでした。
初めての祈り
その頃の私は、まだババ様の本も読んでおらず、御教えもよく分かっておりませんでしたので、ババ様が神様だとは信じていませんでした。人間というものは、困った時に願いがかなって初めて、相手が神様と分かるものです。
当時、私は毎月のように、ソ連、ベルギーのアントワープ、イスラエルのテルアビブなどに出張していました。そして、ある出張の帰路で、大きなハプニングに遭遇しました。
それは、アントワープから、ドイツのフランクフルト空港経由で日本に帰国する搭乗手続きをしていた時のことです。日本航空のカウンターでチェックインしようとして鞄を床に置いた瞬間、後ろから来た泥棒に鞄を盗まれてしまったのです。まさに一瞬の出来事でした。鞄の中には、パスポート、航空券、現金、家の鍵、仕事の重要な書類などが入っていました。すぐに追いかけましたが、相手は猛スピードで逃げていき、とても追いつけません。私は、大切なものをすべて持ち去られてしまいました。
途方に暮れた私は、空港にいる日本航空の責任者のところに行って頼みました。「なんとかこの便に乗せてもらえませんか?」今から考えても無茶なお願いです。案の定「あなたは、チケットもないし、パスポートもありません。これではあなたを乗せることはできません。まずは警察に届けてください」と言われました。
それで私は、生まれて初めてサイ ババ様に祈りました。まず祈ったのは、予定していた帰国便に乗せてもらうことです。「私はなんとしてもこの便で帰国しなければなりません。この飛行機に乗せてください。あなたが神なら、パスポートがなくても私を乗せるくらいのことはできるでしょう!?」
もう一つ祈ったことがありました。盗まれた鞄の中には、ある偉大なシーク教聖者(故人)のスピーチをメモしたノートが入っていました。その聖者が来日された時に原爆記念館で行ったスピーチがあまりにも素晴らしかったので、私はその時に取ったメモを元にして、聖者の御言葉を本にまとめようと思っていたのです。「失ったノートはとても大切なものです。どうか、私のもとに返してください。」私はその二つだけを祈りました。
それから私は、空港内の警察署に行き、調書を取ってもらいました。発行された盗難証明書を持って、日本航空の責任者のところに急いで引き返し、「何とかなりませんか?」と再びお願いしました。
彼は「わかりました。それでは、こういうことでどうでしょう。誰かにあなたのパスポートのコピーを羽田空港まで持ってきてもらうことはできますか?それが可能であれば、この便に乗せてあげましょう。飛行機が羽田空港に到着した時点で、盗難証明書とパスポートのコピーを羽田空港内の警察に届け出ることが可能であれば、入国を認めてもらえるように手配しましょう」と言って、親切にも飛行機に乗せてくれたのです。普通ではありえない、特別な計らいでした。
当時、ヨーロッパから日本への帰国便は、モスクワ空港を経由していました。今でも、私は座席番号が3Aだったことを覚えています。飛行機に乗ってからもずっと、ババ様に深くお祈りをし続けました。「神様なら、聖者のスピーチをメモしたノートを見つけてください。どうか私にノートを返してください」
モスクワ空港に到着すると、日本航空から私の名前で呼び出しがありました。カウンターに行くと、日本航空フランクフルト支店からモスクワ支店に、私宛のテレックスが届いていました。「パッセンジャー リュウコ ヒラ、ザセキバンゴウ 3A、ヌスマレタ カバン ミツカル、ナカニ チイサナ ノート アリ、ホカハ ナニモ ナシ」日本に帰国して3日後、大切なノートは無事に私のもとに戻ってきました。
私は東京に住んでいた兄に、モスクワからの便が羽田空港に到着する時刻に、パスポートのコピーを持ってきてくれるよう頼みました。無事に入国できた私はマンションに戻りましたが、家の鍵は盗まれた鞄に入っていたので、マンションの管理人さんに頼んでドアを開けてもらいました。その時、管理人さんから聞いたところによると、私と同じマンションに住むある大企業に勤めている人も、ちょうど同じ頃ヨーロッパでパスポートを盗まれて、いまだに帰国できずにいるとのことでした。改めて、予定通り帰国できたことが、どんなに奇跡的なことだったのかを実感しました。
ダルシャンへ
その出来事からしばらく経ってからのことです。私は、バンガロールに住んでいた知人、インド陸軍のタルワール少佐という方に、バンガロール経由でプッタパルティに連れて行ってもらう機会に恵まれました。初めてのダルシャンでは、インタビュールームから10メートルくらい離れたところに、私の席が設けられていました。
ババ様がインタビュールームから出て来られましたが、私はババ様が怖くて目を合わすこともできませんでした。神様を目の前にして、私の体は震えていました。ババ様はだんだんと私の方に近づいて来られました。そして私の前で立ち止まられると、次のようにおっしゃったのです。
「フランクフルトはどうでしたか?」
「スワミ、私は鞄を取られて何もかもなくなりました」
「でもノートはありましたね。あなたはノートを返してくださいと祈ったので、ノートだけを返しました」
こうなると、ババ様は神様だと信じるしかありません。1978年か79年のことでした。
(つづく)
第4回
今回は、私がサティヤ サイ ババ様のことを初めて聞いた頃のお話しをしましょう。
1975年頃のことです。J.T.クブチャンダニさんというシンディ(*)の方が神戸にいました。奥様はレジナさんという中国の方で、ご夫婦とも長年にわたるババ様の帰依者でした。クブチャンダニさんは二人の息子さんと共に商社を営んでおり、長男のキシン クブチャンダニさんはアフリカのガーナの首都アクラで、次男のナリ クブチャンダニさんはインドネシアで、それぞれ大事業に携わっていました。(*シンディについては「私の旅 第1回」参照)
クブチャンダニさんがどのようにしてババ様に出会ったのか、私は詳しくは知りません。1975年にクブチャンダニさんは、ラム チュガニ夫妻、ダヤル夫妻、グジャラート州出身のラマンラルさんたちと共に、神戸でバジャングループを立ち上げました。神戸の帰依者たちが持ち回りで、自宅でバジャンやお祭りを行っていたそうです。それが実質上、日本のオーガニゼーションの発足となりました。私がまだ、クブチャンダニさんにも、他の帰依者の方々にも出会っていない頃のことです。
ここで注目していただきたいのは、なぜババ様は東京や京都ではなく、神戸に来られたのかということです。神戸は、神の戸(とびら)と書きます。神の世界には偶然がありませんので、きっとスワミご自身の意志ではないかと思います。
さて、クブチャンダニさんは熱心な帰依者で、1979年にババ様に関する日本語の小冊子を自分で作りました。当時のバジャングループには日本語の文章を書ける帰依者はいなかったので、バスに乗り合わせた初対面の日本の方に話しかけて、「私は本を書きたいけれど、日本語が書けないので助けてくれませんか」と頼んだそうです。その方は、見ず知らずの外国人のお願いを親切にも引き受けてくださいました。こうして出来上がったのが『シュリ サッチャ サイ バーバの語録』という御言葉集でした。
クブチャンダニさんはその本をスワミのもとに持って行き、「スワミ、これが日本語で書かれた最初のスワミの本です」と報告し、祝福を受けたそうです。その時の写真がサイ オーガニゼーションの記録に残っています。
J.T.クブチャンダニ氏
ラム チュガニ夫妻
クブチャンダニ氏から
『シュリ サッチャ サイ バーバの語録』を受け取られたスワミ
突然の依頼
ある日のこと、まだ会ったこともなかったこのクブチャンダニさんから、私の東京の事務所に電話がかかってきました。「私は神戸のクブチャンダニと申します。インドにサイ ババという人がおりまして、その人から直接、『東京に比良という人がいるからサイの活動ができるように連絡を取ってください』と言われました」と、唐突に言うのです。
その時の私は、正直に言って、クブチャンダニという人は嘘つきだと思いました。というのもインドにはババと呼ばれる人がたくさんいるのです。私はサイ ババにもサイの活動にも興味がなかったので、怒って電話を切りました。ところがこの電話の主はしつこい方で、二度三度と繰り返し電話をかけてきました。私はなおさら怒りを感じ「あなたはしつこい人だ」と強く断りました。
するとクブチャンダニさんは、当時香港に住んでいた私の兄であるプレームに連絡を取って、私に対する苦情を申し立てたのです。彼は「この比良という人は、連絡しても信じてくれないし、会ってもくれない。生意気な人です」と言ったそうです。
兄は私に電話をかけてきて「あなたは非常に失礼なことをしている。人を助けるために東京で会合を開いてくれと言っているだけなのに、断るのは罪です」と言いました。兄はシルディ サイ ババの帰依者で、シルディ サイ ババに命を助けられた経験があったのです。
兄が若い頃の話です。社会的信用が高かった彼は、あるインド人夫婦の離婚の仲裁を引き受けたことがありました。後日わかったことですが、その時、兄はその夫の恨みを買ってしまい、復讐のための黒魔術をかけられてしまったのです。兄の体重は1ヵ月で3分の1になり、熱は下がらず、うつ状態が続きました。どの医者に見せても原因はわからず、衰弱して死ぬのを待つばかりだと匙を投げられてしまいました。
窮状を知った兄の妻の母親は、帰依していたシルディ サイ ババのもとに行き、「娘が小さい子供たちを抱えて未亡人にならないよう、守り導きください」と一心に祈りました。そしてシルディ サイ ババのヴィブーティと写真とプラサードを持ち帰り、娘の夫であるプレームに渡しました。それから兄は徐々に回復し始め、数か月かけて健康を取り戻していきました。こうした体験を経て、兄はシルディ サイ ババに帰依するようになったのです。
兄は私に言いました。「私の命はシルディ サイ ババに助けられた。サティヤ サイ ババのことは知らないけれども、クブチャンダニさんは東京でサイ ババを紹介する会合や勉強会を開きたいと言っている。あなたに頼むのは、会場を手配して案内状を出すことだけで、あなたは会合に参加しなくていいとも言っている。参加しなくてもいいし、皆さんに会わなくてもいいのだから、迷惑はかからないのではないか?」
それからしばらくして、再びクブチャンダニさんから電話がかかってきました。私は「では会場を探してあげます。案内状も出しましょう。しかしそれ以上のことはやりませんよ」と念を押して電話を切りました。
私は会合を開く場所を探し始めました。ところがクブチャンダニさんは、神聖な場所がいいとか、肉や魚を扱っていないところがいいとか、細かい条件をつけてきました。そこで、芝公園にある仏教系の東京グランドホテルという会場を借りることにして、東京にいるインド人の方々に第1回会合の案内状を出しました。
当日は、神戸からクブチャンダニ夫妻、ラム チュガニ夫妻が来て、サティヤ サイ ババの説明をしたそうです。また、ダヤル夫妻も出席したそうです。私も「3分でよいので、会合に来てください」と誘われましたが、「終わってから行きます」と答えて、会合そのものには参加しませんでした。
閉会の時刻を見計らって会場に行ってみると、なんとクブチャンダニさんは私に了承を得ずに勝手に「今日から東京にサイセンターを作ります。比良さんがその世話人になるのでよろしくお願いします」とアナウンスしていました。私は怒って発言を撤回するよう迫りましたが、彼らも引き下がりませんでした。その後の2年間、私は何もしませんでした。
何もしなかった2年間に、クブチャンダニさんは、幾度となく私に電話をかけてきました。電話のたびに「どうなっていますか? 何かやりましたか?」と聞かれましたが、私はいつも「いや、何もやっていません」と答えていました。
バジャンの調べ
そんなやり取りが続く中、とうとう一つだけ約束をさせられてしまいました。それは、マハーシヴァラートリというお祭りを開催するという約束でした。「このお祭りをすることで、あなたの商売は上手くいくし、もっとお金も儲かります。健康もよくなりますよ」などと、クブチャンダニさんからいろいろなことを言われました。私は当時の東京に200名ほどいたインドの方々に「初めてシヴァラートリのお祭りを行います。皆さん来てください」と案内状を出しました。会場は私の自宅でした。
ところが、当日は誰も来なかったのです。きちんとした案内状を出したにも関わらず、誰一人としてお祭りに来ませんでした。私は、約束をした手前もあるので、ソファーの上にクブチャンダニさんからもらったババ様の小さな写真を置いて、教えてもらった唯一のバジャンを一人で繰り返し歌っていました。
夕方の6時から始めて、気が付くと、そろそろ夜中の12時になろうとしていました。誰も来ないし、歌い続けて頭も痛くなり、疲れてきたので、もう馬鹿馬鹿しいから寝ようと思った矢先のことです。ちょうど深夜12時になる5分ぐらい前に、リビングルームとキッチンの間に置いてあった赤いプッシュフォン式の電話が鳴りました。これから向かおうとしている人が、道がわからず電話をかけてきたのかもしれないと思いながら、私は電話に出ました。
当時の私は、まだ日本語が話せなかったので、ハロー、ハローと言いました。ところが相手の返事はありませんでした。代わりに、受話器から今まで聞いたことのないほど甘いバジャンが流れてきました。何度ハロー、ハローと言っても、相手は出ません。ただ、バジャンが受話器から流れてくるだけです。
私は、今でもはっきりと覚えています。それはババ様の声でも、普通の人間の声でもないものすごく甘い声で、バジャンがずっと続いていました。しばらくしてバジャンが終わった時、私の中で何か不思議な変化が起こり、エネルギーが湧いてきました。私はマハーシヴァラートリのバジャンに戻りました。今度は自分の意志でバジャンを歌おうと思ったのでした。
一人でバジャンを歌い続け、朝5時も過ぎた頃になると、今度はどうやって朝6時にバジャンを締めくくろうかと考え始めました。バジャンの終わりには、シヴァリンガムの写真が必要だと聞いてはいましたが、バジャンの間に誰かが持ってくるだろうと思い、用意していませんでした。けれど私以外の参加者は一人もいなかったので、バジャンを終えるための写真がありません。どうやって終わらせようかと考えながら歌っていると、玄関の呼び鈴が、ピンポン、ピンポンと鳴りました。
玄関に出てみると、なんと大阪にいるはずの従兄弟、スレーシュが立っていました。「たった今、インドから日本に戻って来たところです。インドから直接、大阪空港に行く予定でしたが、インド航空の便が遅れたので、羽田空港経由で帰ることにしました。インドではシルディにも行って、あなたにもお土産を買ったので、まだ朝早いけれど、シルディで買った絵と頂いたプラサードを渡そうと思い、寄らせてもらいました」と、彼は言いました。
渡されたその絵には、シルディ サイ ババとシヴァリンガムが描かれていました。おかげで私は、無事にシヴァラートリのバジャンを終了することができたのです。
従兄弟がお土産として持ってきたシルディ サイ ババの絵
第3回
日本でのビジネス
私が生まれるずいぶんと前から、祖父と父と叔父たちは、日本でビジネスを始めていました。その当時のことをお話ししましょう。
日露戦争の直前、ロシアの極東進出を阻止するため、明治政府は明治35年(1902年)に日英同盟を結びました。この同盟には外国企業を日本に誘致するという条項があり、日本にやって来た300社のうち、50社がインド系の企業でした。インド系の企業は明治から大正、昭和にかけて来日し、横浜と神戸で事業を始めました。このうちの一社が父たちの関わる会社です。日本での創業を届け出た登記簿謄本が今も残っており、資本金は40銭と記されています。SSSIOJ元会長であるL.P.チャブラさんのお父様の会社も、この時に来日した企業の一つでした。私たちの他に、香港上海銀行やシティーバンクなどの英国・香港・欧米系の企業約160社と、中国系企業約90社もやって来たそうです。
大正10年(1921年)2月、横浜で事業を展開していたインド系企業が集まって、社団法人横浜印度商協会(現 在日インド商工協会)を設立しました。その後、法改定に伴い、社団法人から公益社団法人へと法人格を変更し、昨年、設立100周年を迎えました。昨年はコロナ禍のため、記念行事を行うことができませんでしたので、今年は100周年のお祝いをしたいと思っています。
社団法人横浜印度商協会設立75周年記念に設置された記念碑
日英同盟締結の翌年に話を戻しますと、明治36年(1903年)に、大隈重信先生、渋沢栄一先生をはじめとする方々によって、日印協会が設立されました。この協会は、日印両国民の親善を深めることを目的に、インド事情の調査や日本文化と経済事情の紹介などを行うために設立されたものです。活動の本格化にあたっては、私の父が尽力したと当時の資料には記されており、上野の精養軒で大隈先生、渋沢先生らと一緒に写真に写っている父を見ると、感慨深いものがあります。
さて、父たちの会社を含めた外資系企業の主なビジネスは、日本製品を海外に輸出することでした。これにより日本は外貨を稼ぎ、国の外貨建て債務を債権に変えることができたわけです。
当時、インドに輸出されていたものは、主に3つありました。一つは福井県で生産された日本のシルクです。インドに駐留していた英軍の婦人たちが、質の良い日本のシルクでドレスを作るという需要がありました。もう一つは日本の靴です。インドには「日本の靴は世界一。私の靴は日本製」という子供の歌があるほど、日本の靴は人気がありました。そして、もう一つ人気だったのが日本の造花です。当時は冷蔵装置もなく、インド国内での生花の輸送はままならないものでした。日本の造花の品質は素晴らしく、大変喜ばれたそうです。父たちの会社も、こうした日本製品をインドに送る輸出業をしておりました。まだ私が生まれていない、大正時代の話です。
関東大震災
横浜から始まったインドとの貿易も順調に進んでいた大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生し、インド商館が建ち並ぶ横浜山下町は壊滅的な被害を受けました。当時、横浜にいた約二百数十名のインド人のうち28名が亡くなり、父の弟にあたる叔父も命を落としたのです。震災直後の大混乱の中では、犠牲者の火葬も法要もろくに行えませんでした。
後年、横浜印度商協会は、インド人犠牲者28名の追悼と、被災後に横浜市民がインド人コミュニティに差し伸べた援助への感謝の意を込めて、山下公園に「インド水塔(インド式水飲み場)」を建て、横浜市に寄贈しました。昭和14年(1939年)の建立当時は、まだ横浜市内の水道設備は整っておらず、住民の方に井戸水を提供できれば亡くなった方への供養になるのではという思いが、父にはあったようです。今でも毎年9月1日になると日印両国の関係者が「インド水塔」に集い、横浜ムンバイ友好委員会主催による追悼式典を行っています。
インド水塔
被災した外国企業に対して日本政府は誠意をもって対応してくれました。父たちは、多くの外国人とともに神戸に避難しました。神戸では、日本人はテントに避難していましたが、外国人には山手にあるコンクリートかレンガ作りのバラックが用意されたので、みんな安心して移って行きました。
その頃、神戸からインドへ、シルクに代わって新たに輸出され始めたものが二つあります。一つは綿生地です。それまで満州に輸出されていた綿生地は、満州事変を発端に起こった反日運動のために、行き場を失いました。渋沢栄一先生は、その綿生地をインドに輸出することを提案されましたが、当時は神戸とインドを結ぶ直行の船便がありませんでした。そこで、英国から貨物船を借りられるよう渋沢先生自らが交渉されましたが、それは叶わず、最終的には渋沢先生のご尽力で、大阪汽船と共に神戸・ベンガル間の初の直行航路が実現することとなりました。
もう一つ輸出が始まったのは高知県の珊瑚です。インドでは珊瑚はとても貴重なもので、修業やお祭り、お祝い事に使われます。偶然にも、ババ様が最初に私にくださったガネーシャの指輪も珊瑚でできていました。
横浜市の震災復興事業も完了した昭和27年(1952年)、父たちは横浜に戻って来ました。新しい住まいは、横浜の埋め立て地に建てられた1階が店舗、2階が住居になっている商館(ショップハウス)で、年5千円で借りることができました。道路を挟んで反対側には、中国人たちの借りる商館が並んでいて、それが現在の横浜中華街へと発展していきました。百数十名いた西洋人たちは山手に居を構えました。現在そこには西洋館や外国人墓地があります。
昭和27年10月 印度商館復帰歓迎会
(出典元:社団法人横浜印度商協会創立90周年誌)
真の友
父たちが横浜に戻った1952年は、インドと日本にとって記念すべき年でもあります。
第二次大戦後、連合国と日本とでサンフランシスコ講和条約が結ばれましたが、インドのネルー首相には「他の国々と同様に、日本にも名誉と自由を与えるべき」という考えがあり、この条約には調印しませんでした。そして1952年、インドは単独で日本との日印平和条約を締結しました。この条約には、インドにある日本の財産を没収しないこと、インドの賠償請求を放棄することが謳われており、当時では考えられないほど、日本に対して寛大なものでした。
実は歴史的にはあまり知られてはいませんが、インドが親日国となった所以に、昭和天皇にまつわるエピソードがあります。イギリスが去った後のインドは大変貧しく、人々には着る物も満足にありませんでした。皇室は外交には口出ししない原則ですが、日々の衣服にも困っているインドの人たちのことを知った昭和天皇は、自ら宮内庁に指示されて、3年もの間にわたり、インドに無償で生地を送ってくださっていたのです。東レや帝人が作るナイロンやジャージなどの生地で、インドの人々は衣服やサリーを手に入れることができるようになりました。この輸出を担当したのは、父たちの会社を含めて7社ありました。
1957年、インドは国賓として当時の岸信介総理大臣をお迎えしました。ネルー首相は国民への演説の中で「この方が自分の尊敬する国、日本から来た首相です」と岸総理を紹介しました。インドの指導者が日本を「真の友」として歓迎したのです。50年後、孫である安倍総理がインドを訪問した際にも、インド国民は大歓迎をしました。
昭和天皇のご崩御にあたっては、インドは3日間の喪に服しました。また、インド国会は、広島と長崎の原爆忌に毎年黙とうを捧げています。
戦後の日本で著名なインド人の一人に、いわゆる東京裁判で判事を務めたパール判事がいます。パール判事は唯一の国際法を専門とする裁判官として、この裁判の違法性を指摘し、被告全員の無罪を主張しました。靖国神社境内にある遊就館の隣に、パール判事の肖像写真とその意見書の言葉を刻んだ顕彰碑があります。今から4代前のインド大使と日本の外務省との連携によって建てられたものです。その際は、私もお手伝いさせていただきました。
パール判事の顕彰碑
第2回
ムンバイの小学生
私たち家族が、ジャイプルからムンバイに引っ越したところから、話を再開しましょう。ムンバイでは親戚も一緒に暮らす住宅が必要でしたが、鉄筋などの資材が手に入るような状況ではなく、満足な家も建てられませんでした。水道もないので自分たちで井戸を掘りました。医者もいない。電話もない。その当時の苦労は、それを体験した人にしかわかりません。幼い私は、そのような厳しい環境で育ちました。
警察もいない、秩序もない混乱期だったので、ムスリムや共産党の家庭の子ども、裕福な家の子ども、農家で働けそうな子どもなどは、いとも簡単に誘拐されかねない時代でした。ですので、子どもたちが小学校に行く時は、動物みたいに10人ほどが一緒にロープにつながれて、誘拐されないようにして通っていました。ネパール出身のゴールカ(グルカ)さんと呼ばれる人たちが、今でいうボディーガードとして、学校への送り迎えに付き添っていました。あの当時、ネパールはインドの一部でしたが、ネパール出身の人たちは山で育っているので非常に強かったのです。
私が通った小学校は、いわゆる青空教室で屋根がなかったので、雨が降ると休校になりました。ニワトリや豚も出てくるような環境です。しかしながら、国を早く発展させるためには教育が最も重要ということで、国の方針として学校教育にはとても力を入れていました。小学校では中学校で教わるようなことも習いました。1.5倍とか2倍の速さで教えていくわけです。学校から帰ってくるとほっとするほど、学校の授業は厳しいものでした。
すべての学校では、授業を始める前に必ずお祈りをしていました。普通の学校でしたが、給食はすべてベジタリアンでした。それも、学校や生徒への無償の奉仕として町の人たちが手作りしてくれた、出来立ての料理でした。このように、みんなが国の発展を願って困難を乗り越えてきた時代でした。
母国の動乱
小学校を終えると、中学校、高校へと進学しましたが、独立したばかりのインドでは学校の数がまったく足りていませんでした。独立前にインドを支配していたイギリスは、いわゆる帝国主義を維持し続けるために、インドの人々が教育を受ける機会を制限していたからです。そのため、小学校へ行く人は偉いと尊敬されました。中学校に行く人は、もうちょっと偉い。高校に行ったらもっと偉い。大学生はもう崇(あが)められるくらいの扱いです。人口が5000万人のところに大学は一つしかないので、入学の倍率は数万倍なんですね。とても入れない。それくらい、教育を受けること自体、非常に厳しい状況でした。
1959年、中国のチベット侵略で、ダライ・ラマ14世がインドに亡命したことをきっかけに、1962年に中印国境紛争が起こりました。この戦争での兵士の不足を補うために、15歳から18歳の青年は全員、NCC (National Cadet Corps :全国青年士官隊)に強制的に入隊させられました。
当時、国防力がなかったインドは、中国に負けることが確実視されていました。そのため、NCCに入隊するということは、死を意味していました。当時、私はまだ中学生でしたが、15歳になったらライフルを担いで国境に行かされる運命でした。しかし、まもなく中国が勝利して、この紛争は終わりました。
もう一つ、深く記憶に残っているのは、パキスタンとの印パ戦争です。イギリスが去った後に起きたカシミール州の帰属問題をめぐって、パキスタンとインドは長年にわたって何度も戦争していました。
私が高校生になった頃には、反戦運動に取り組む学生もたくさんいました。それをチャンスととらえた共産党は、インド共産党と組んで、反戦運動に参加している学生たちを共産党に勧誘するようになりました。有名な歌手や俳優、女優などを雇って党集会にゲスト出演させ、彼らに憧れてやってきた学生を共産党に入党させていたのです。そのような時代もありましたが、最終的にインドは自由や人権を尊重することを選び、現代では世界最大の民主主義国家となっています。
もう一つ、インドが他国に誇るべきことは、マハートマ・ガンディーという政治指導者の下、人類史上初めて非暴力主義を貫いて、暴力を振るわず、一滴の血も流さずに独立を成し遂げたことです。「ヒンドゥー」とは一般的にヒンドゥー教という宗教として解釈されていますが、ババは哲学的な意味として、「ヒン」は暴力、「ドゥー」は無という意味であり、非暴力を遵守する人を「ヒンドゥー」とおっしゃっています。歴史的に見て、インドが他国を侵略したり、自ら戦争を始めたことはありません。
さて、印パ戦争が長期化するにつれて、高校生も学徒動員に参加することを強制される雰囲気になりました。私の両親は「この戦争は間違っている。正義のためならともかく、こんな何の大義名分もない戦争で息子を犠牲にすることはできない。親戚がいる日本に行きなさい」と言って、高校生の私を日本に送り出すことにしたのです。1966年12月のことでした。
決断
1966年、インドではネルー元首相の娘であるインディラ・ガンディーが首相になりました。中国共産党は、戦争よりももっと効果的な方法で、その価値観をインドに広めようとしていました。インドの言葉を学んだ中国人が、国境沿いの地域に入ってきて、共産主義を広める政治運動を行っていました。インド北東に住むインド人は中国人の顔によく似ているので区別がつきません。彼らは民主主義を悪用して、不正に土地を取得していました。中には地方議員となる人もでてきて、社会的秩序を乱すような大きな運動を起こしていました。
1970年代半ば、インディラ・ガンディー首相は、政治的混乱を抑えるための緊急措置として、一定期間大統領と首相が全権を持つという非常事態宣言を行いました。その結果、すべての銀行や保険会社、航空会社や港など、金融や国防に関連する事業は国有化されることになったのです。
それだけではなく、外国に住む在外インド人の事業も国有化の対象となりました。海外からインド共産党に資金を送って協力することもありえるという理由からでした。
このままでは、すでに親が横浜で始めていた事業や資産が、全部没収されてしまいます。自国を守るためであることは理解できましたが、罪を犯してもいない個人までも資産を取り上げられてしまうことになるため、私たち家族は大きな決断をせざるを得なくなりました。私は国籍を変え、日本人として生きることになったのです。1976年のことでした。
初めてのインド人帰化
当時は、帰化申請から国籍取得まで、5年ほどかかるのが普通でした。ましてや、日本で帰化したインド人はそれまで一人もおらず、前例がなかったため、なおさら大変です。しかし、一刻の猶予もありません。すぐにでも日本国籍を取得しないと、すべて没収されてしまいます。
当時の法務大臣は、中央大学元学長の稲葉修先生でした。日本で最高の弁護士事務所の先生と一緒に稲葉法務大臣訪ね、インドにおける共産党の実情を説明し、できるだけ早く日本に帰化できる方法はないかとご相談しました。そうしたところ、稲葉先生は次のようにおっしゃいました。
「日本も共産党が問題を起こし、日本の国益に反する活動を行っている状況です。インドは親日国家ですし、親御さんもすでに日本に住んでいますね。そして、日本に帰化する初めてのインド人を迎えることは、日本にとっての誇りです」と大いに理解を示してくださり、無事、無事に日本国籍を取得することができました。
新しい名前
家族の事業や財産を守ることができたのは良かったのですが、共産党のために国籍を変えたことで、精神的に非常に落ち込みました。もっとも辛かったのは、名前を変えなければならなかったことです。
家族を守るためとはいえ、そこまでやるのかと悩みました。当時、日本の戸籍には漢字の名前しか登録できなかったので、私は改名しなければなりませんでした。その頃には、ババ様の御教えを学んでいましたので、母国という意味をもっと深く勉強して、葛藤を乗り越えて、日本の名前に改名することを受け入れました。
滋賀県の琵琶湖にある竹生島(ちくぶしま)に、東大寺よりも古い宝厳寺(ほうごんじ)というお寺があります。そこはインドとのご縁でいえば日本最古となるお寺で、神道と仏教とヒンドゥー教で崇められている弁才天(サラスワティー女神)をご本尊としています。当時のご住職であった三原先生にお願いして、日本の名前を授けていただきました。
ご住職は、琵琶湖西岸に連なる比良山地にちなんで、姓を「比良」、名を「竜虎」と名づけてくださいました。せっかく授けていただいたものの、正直なところ、私は動物の名前が入っていることに抵抗を感じました。日本にいる兄嫁をはじめ、何人かから「そんな名前はやめなさい、お相撲さんの名前みたいで恥ずかしい」と言われました。
しかしご住職から「君は将来、インドと日本の二国間の世話をする運命です。竜は日本を象徴し、虎はインド象徴します。日印の架け橋となるために、竜虎という名前にしたのです。いずれ、その意味が分かるときが来ます」と諭され、私はこの名前を受け入れることにしました。
それから50年経ちますけれども、今になって、なるほどなぁと思います。
第1回
花はなぜ咲くのでしょうか
ある夏期講習で、ババ様は学生たちに「花はなぜ咲くのですか」と質問なさいました。学生たちは「神様や自然のおかげ」「太陽の光があるから」「水や肥料があるから」などと口々に答えました。
しかしババ様はこうおっしゃいました。
「それらもありますが、花が咲くのにもっとも大切なのはルーツ(根)です。花を咲かせるためには根がとても重要なのです。物事の始まりは根からです」と。
一般的には花を見て根を見ませんが、見えないものを見なさいということですね。ババ様は人類という花を咲かせるためにご降臨されました。ダルマという土、英知という水を人に与えて、人類全体の花を咲かせるという意味だと思います。
ババ様の御講話に、五大ヤグニャ(供儀)の話が出てきます。そのうちの一つに、ピトル ヤグニャ(Pitru Yagna)というご先祖様を敬うヤグニャがあります。現代社会においては、お墓参りに行っていてもご先祖様に敬意を表することが修行であるという意識は少ないと思いますが、私たちのルーツであるご先祖様を敬うことはとても大切です。
どの親たちも、自分の子や孫たちが代々栄えることや幸福になることを願って、私たちを支えてくれます。亡くなった後にもその子孫を思う気持ちは残り、私たちが繁栄するための一番大きな力となるのです。ですから、ピトル ヤグニャを行って、ご先祖様の力と共に生きることは、ババ様の御教えの中でも重要とされています。
インドのヒンドゥー教徒は亡くなった人を火葬しますが、日本とは違い、お骨はお墓には納めず川に流します。しかしながら、日本と同様にインドでも年に2回お彼岸があり、孫たちも含めた家族全員が実家に集まって、ご先祖様に祈りを捧げる法要を執り行います。
ですから、私のこれまでの人生をお話しするにあたり、まずは私がどのような環境に生まれたのか、私の根っこであるルーツの話から始めたいと思います。
曾祖父ジャガット ライ
私の曾祖父は、セット ジャガット ライ(Seth Jagat Rai)という名で、昔のイギリス領インド帝国シンド州の州都ハイデラバードシンドという町に生まれました。サンスクリット語でシンドは川を意味します。そこは、先史時代にインダス文明が始まった地域であり、モヘンジョ ダーロ(モヘンジョダロ)遺跡があるところで、全人類の聖地と言われています。
インドがイギリスから独立する時、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との間に争いが起こりました。その結果、パンジャーブ州とシンド州はそれぞれ東西に分断されることになり、その西側はパキスタンという国として分離独立し、先祖代々の故郷であるハイデラバードシンドはパキスタンに属すこととなりました。実のところ宗教戦争というのは口実で、政治家たちが自分の利益や選挙の票を守るために、政治的争いを繰り広げていたのだそうです。
インダス川が流れるシンド州の北に位置するパンジャーブ州は「5本の河」という意味で、インダス川とその支流を合わせて5本の大河が流れる、水が豊富で豊かな地域です。シンドが聖地となった理由は、昔から水が豊富にあったことと、昔からヒンドゥー教徒とイスラム教徒との争いが絶えず、いつか偉大な聖者か神様が降臨すると伝えられていたからです。シンドに流れるシンド川周辺で生まれた人たちのことをシンディー(シンド人)と呼びます。私の家系は代々シンディーです。シンディーは、アラビア文字を使うシンディー語を話します。
さて、セット ジャガット ライがどういう人だったかと考えるのに、その名前を見てみましょう。ジャガットという言葉は、ババ様の御教えにもたびたび出てきますが、Soul of the Universe、あるいは Soul of the World、つまり宇宙の魂という意味があり、宇宙に内在するすべてのものを意味しています。ヴェーダの中では、ブラフマンが地・水・火・風・空の五大元素からこの宇宙を創ったとされていますが、その宇宙がジャガットです。よくインドのグルのことをジャガットグルと表現することがありますが、優れた魂や、悟りに至った魂のことをジャガットグルと言います。
私は、帰化して姓が比良に変わりましたが、もともとは二つの姓がありました。一つはジャガット ライに属する家族という意味の「ジャクティアニ」、もう一つはパンジャーブ州から出世する人という意味の「パンジャビ」です。
シンディーの信仰
先ほど申し上げたように、シンド地域に住む人たちのことをシンディーと呼びますが、シンディーにまつわるスピリチュアルなお話をご紹介します。
昔、インドがイギリス領となる前は、ムスリム(イスラム教徒)のミルクシャー(Mirkshah)王がシンドを支配していました。ある日、王は「今から40日間の猶予を与えるので、この間にあなたたちシンディーは全員ムスリムになりなさい。従わない者は殺します」と宣言しました。過去には世界中で起きていたことです。王は、政権を安定させるために宗教を一つに統一しようとして、ヒンドゥー教徒であるシンディーたちに、イスラム教への改宗を命じたのでした。
シンディーたちは、一族の命を守るためにムスリムになるのか、それとも自分たちの信仰を貫いてヒンドゥー教徒として死を選ぶのか、究極の選択を迫られたわけです。シンディーたちは神様から答えを得るため、シンド川の川辺に座って、40日間の断食と祈りを行いました。その間、ひげも剃らず食事もとらず、ただひたすら祈り続けたのです。「神様、教えてください。ムスリムになるべきか、死ぬべきか、それともヒンドゥー教徒であることを隠して生きるべきか。」
人々の信仰にどれほどの力があるのか、そしてその恩恵がどれほどのものであるのかが分かるエピソードがあります。
シンディーたちが断食しながら一心不乱にお祈りしていたところ、なんと、目の前のシンド川の中から生まれたばかりの子供が現れました。それは、水から生まれた神様(ジュレラールサイ)で、日本でいう水天宮に祀られている水天(水の神様)だったのです。
ジュレラールサイは、王の宮殿に招かれた時に、「あなたに非常に徳高い英知を与えます。宗教を弾圧することは過ちです」と王を諭しました。しかし頑固な王はその言葉に応じませんでした。その結果、王が住む町はすべて火事で焼けてしまいました。悲嘆に暮れた王は、ジュレラールサイを呼び出して言いました。「私は神の力に目覚めました。私が出した宣言は取り下げます。ヒンドゥー教徒も、イスラム教徒も、兄弟として生きてください。」
ここにその物語がすべて書いてある本があります。横浜サイセンターにジャグディシュさん(ジャガさん)という方がいますが、その方の長男が8歳で神様の元へ旅立った時、その長男への追悼として、私がこの本を書きました。ジュレラールサイの像が横浜サイセンターに祀られているのは、このような経緯にちなんでいるのです。
水天様(ジュレラールサイ)
その横浜サイセンターにあるジュレラールサイの像の話をしますと、インドでその像を作る時、作った像を日本に持って来る時、その像を横浜センターに設置する時と、どの時もとても大変でした。インドで大理石に彫刻して作ってもらうにあたり、ピュアなものでないといけないので、彫刻師に「傷一つないきれいな大理石で作ってください」とお願いしました。しかし「300キロ以上ある大理石で、傷一つないものを探すのはまず無理です」という返事が返って来ました。しかしながら、最終的には色ムラ一つない素晴らしい大理石が見つかりました。彫刻師によれば「これほどきれいな大理石はこれまで見たことがない」ということでした。
完成した像を梱包するとさらに大きく数百キロにもなり、船便で運ぶのも大変でした。インドの梱包は日本ほど優れていないので、途中で壊れるのではないかと心配し、インドでできるだけのことをして送り出しました。ジュレラールサイは海の神様でもあります。海を渡ることを神様自身がお喜びになったようで、後日、日本に到着した神像の写真を彫刻師に見せると「私が作った顔と違います!この神様は微笑んでいます!」と言われました。私は製作過程を見ていないので、真偽のほどは分かりませんが。
そして、ようやく横浜にジュレラールサイの像が到着しました。まったく何の計画もせずに、ただ送ってくれとだけ伝えていたのですが、なんとその神様のお祭りをする新月の日に到着したのです。それは、設置する日にもつながってくるのですが、一つの良いことを行うと、神様は百歩近づいてくださるのだと実感した出来事でした。
なお、水天は、仏教と一緒に日本に伝えられた神様です。インドの水の神様と日本の水天様は違うと考える学者もいます。しかし、時代の流れのなかにはさまざまな解釈があり、奥深くしっかりと学ぶと、それらは一つであると分かるのです。
祖父クンダマル
さて、話を自分のルーツのことに戻しましょう。曾祖父ジャガット ライの長男にあたる私の祖父は、クンダマル(Kundamal)といいます。ヒンドゥー教徒である私たちは、シンディーなのでジュレラールサイも崇めていますが、クンダマルはシヴァ神をずっと熱心に信仰していました。
クンダマルは信仰深く、毎朝4時に起きて、下駄を履いてシヴァリンガムを祀る祠(ほこら)まで行き、神様にお水を捧げてお祈りをして、5時に帰宅するのを日課にしていました。もちろん私がまだ生まれていないころの話です。祖父の姉によれば、祖父が亡くなった後も1年以上、毎朝4時にそのリンガムが置かれている祠へ向かう下駄の音が聞こえ、5時になると帰ってくる下駄の音が聞こえたのだそうです。
祖父クンダマル
当時、法律上はムスリムとヒンドゥー教徒との間に区別はなく、兄弟姉妹として一緒にやっていこうとしていましたが、人々の間にはずっと溝がありました。やがてムスリムに支配される時代は終わり、イギリスに支配される時代となりました。イギリスは、ヒンドゥー教徒とムスリムが争って分断が生じる方が統治しやすいと考え、両者が対立するような状況をわざと作っていました。
クンダマルの時代になると、シヴァ神だけでなく、シンドがある旧パンジャーブ州から生まれたシク教の開祖グル ナーナクも崇めるようになりました。
そのクンダマルの長男が、私の父であるケムチャンド(Khemchand)です。ケムチャンドの時代になると、ジュレラールサイ、グル ナーナク、クリシュナ、ラーマ、ブッダなど、インドの神々すべてを崇めるようになりました。
父ケムチャンドと私の出生地
私のご先祖様が住んでいたシンド川流域は、水が豊富で土も豊かなところでした。そこでは金も宝石もたっぷり採れます。そのような理由から、先祖は代々家業として貴金属や宝石の商いをしてきました。商売相手は、お金持ちのムスリムの王様や宮殿関係の人々、政府の役人など裕福な人々でした。日本のお神輿(みこし)のように、リンガムや神像を乗せて宮殿に入っていくために、黄金の馬車や、8キロメートルにもわたる黄金の道路も作ったそうです。当時、金は安かったのです。
1945年頃からインドの独立運動が盛んになりました。1947年、インドがイギリスから独立するにあたり、パキスタンはイスラム国家として分離独立することを選びました。私たちが住んでいたシンド州ハイデラバードはパキスタン側に属することになりました。そのため、すべてのシンディーたちは全財産を置いて故郷を去り、難民として、インドに移ったのです。当時は電車なども通っておらず、皆、大変な思いで歩き続け、パキスタンの国境を渡ってインド側に入りました。その国境に一番近い町がジャイプルという町だったのです。
父ケムチャンド
私の父ケムチャンドも、住み慣れたシンド州ハイデラバードシンドから、インド側ラージャスタン州の州都ジャイプルに移りました。もちろん黄金の馬車や道路を持って行くことはできず、それらは置き去りにされ、失われました。
1000万人以上の大難民が移動したわけで、父たちは難民としてインドに渡ってきた人たちを助けなければならないと思いました。それで、3階建ての家を手配してダルマシャーラーとし、何百人もの難民をそこに迎え入れました。シャーラーとは家という意味で、今でいうアシュラムのようなものです。当時、その建物を取得したのか借りたのかは分かりませんが、今でもジャイプルにその建物が残っています。
そして、インドが独立してほぼ1年後の1948年5月、ラージャスタン州ジャイプルのダルマシャーラーの家で私は生まれました。ですから、私の年齢はインドの国の年齢とほぼ同じです。
ババ様は御講話の中で、人間には自分では変えられない、自分では選べないことが6つある、とおっしゃっています。その中には、自分が生まれる場所、自分の親、世の中で出会う人などがあります。自分の人生を振り返ってみますと、私が生まれたこの場所が、私の魂に非常に大きな影響を与えたのだと思います。
私が生まれたラージャスタンには、ラージャ(王様)を置く場所(タン)という意味があります。仏壇(ブッダを置く場所)のダンと一緒です。このラージャスタン出身の人たちのことを、ラージャスタンの子という意味でラージプートと呼びます。彼らは日本の侍のように、幼い頃から徳高い教育を受け、武人として育ちます。戦争に負けない戦士として有名で、イギリス統治時代でもこの地域だけはイギリスに負けなかったほどです。
ラージャスタン州は砂漠が多いのですが、それは石油が出る豊かな地域であることを意味していました。この地域では私たちが家業として扱っていた宝石も多く採れ、既に宝石産業があったことと、宝石を買う富裕層がたくさんいたことも、移住先としてこの地を選んだ理由の一つでした。私が生まれた州都ジャイプルは「インドの宝石」と呼ばれています。
私がまだ幼い頃、私たち家族はジャイプルから今のムンバイに引っ越しました。引っ越した理由は、ジャイプルには空港や港がなかったため、家業の宝石貴金属や時計などを海外に輸出できなかったためです。
シンディーたちは難民として自分たちの土地を離れたので、戻れる国や町や家はもうありません。そのため現在は、世界中のさまざまな国、いろいろな町にシンディーたちがいるわけです。故郷の土地や家は取られて戻れる場所はなくなりましたが、ババ様がおっしゃるように、私たちのルーツはご先祖様の信仰心にあると思っています。神様に対する信仰心や精神的な価値は、どこに移ろうとも誰にも取られません。そこに一つの救いがあったのではないでしょうか。
(つづく)