SRI SATHYA SAI RAM NEWS

サイの御教え
SRI SATHYA SAI RAM NEWS

⻄洋のカレンダーでは1月1日から新しい年が始まり、この日はインドにおいても⻄洋諸国の祝祭に合わせて新年の日として祝われています。しかし、少し考えてみれば、一秒一秒が新しいものであることが分かるでしょう。一秒一秒が新しい誕生を示しています。それは新たな勝利を得るための機会です。 というのは、インド文化が目的としているのは各人がアートマ〔真我〕を認識することであり、富や学問や名声を手に入れることではないからです。人間の最大の義務は、真実〔真理/サティヤ〕を探究することです。真実は献身と信愛によってのみ勝ち得ることができます。そして、それらは神の恩籠しだいであり、神の恩籠は愛に満ちあふれたハートだけに注がれるのです。
「神はどこにいるのか?」という質問を、最近の人々はよく口にします。プラフラーダは、神の御名をたゆみなく唱えることによって、神は至る所にいることを知りました。「神はここだけにいる」とか、「神はあそこにはいない」と断言するのは正しいことではありません。真実の悟りは、真剣なサーダナ (霊性修行)を経て、初めて開かれるのです。あなたはあらゆる種類の魅力的な品物がデパートに並んでいるのを見るかもしれませんが、くださいと頼むだけではそれらを自分のものにすることはできません。あなたが代金を支払った品物しか、自分のものにすることはできません。あなたにとって、悟りは魅力的な品物で、手に入れて帰りたいと思うかもしれませんが、あなたはその代価を支払わなければなりません。これは自分のものだと主張して懇願するだけでは、あなたのものにはなりません。
激情に左右されることから 自由になる努力をしなさい
あなたが明らかに国の君主である場合に限り、あなたは王になるに値します。もしあなたが敵に追われて王座から逃げ出そうとしているならば、あなたには王という位がふさわしいなどとどうして言えるでしょうか? 同様に、あなたは、情欲、食欲、憎悪、慢心という内なる敵を打ち破り、明らかに自分自身の主人となることができたとき、初めて王座に就い て、私は主人であると宣言することができるのです。
インドでは、「我らはスワラージヤ〔自己支配〕 (自由)を勝ち得た」と言いますが、スワーラージヤ〔自己発光〕(光を放つ存在であるブラフマンと自分を同一視すること)こそが、私たち一人ひとりが勝ち得ようと熱望する地位であるべきなのです。 スワラージヤ〔自己支配〕は、政治的な独立であり、 外国人支配者のくびきという屈辱から自由になることです。スワーラージヤ〔自己発光〕は、激情や感情に左右されることから解放されることです。
外的な束縛が解かれたとき、人はスワラージヤ 〔自己支配〕を得ます。内的な束縛が解かれたとき、 人はスワーラージヤ〔自己発光〕を得ます。スワーラージヤ〔自己発光〕のみが、平安と歓喜を確実にすることができるのです。
神はあなたの手の届かない所、遠く離れた場所にいるのではありません。神はあなたの内に、あなた自身の内なる祭壇にいます。そこに神を見いだせないために、そして、見いだして平安と歓喜を引き出すことができないために、人間は苦しんでいるのです。流れる川の水に膝までつかって洗濯物を洗っていたあるドービー(インドの洗濯人)は、のどが渇いて死にました。なぜなら、彼は命を与えてくれる水が自分の手の届く所にあることに気がつかなかったからです。彼はただ身をかがめて水を飲めばよかったのです。これは人間を語った話です。人間は自分の外に神を求めて必死に走り回り、目的を達することができないまま失望と混乱のうちに死んでいきます――また生まれてくるためだけに。
もちろん、あなたはこの世にいなければなりませんが、この世のものである必要はないのです。あなたの注意は、神に、内なる神に、固定しておかなければなりません。カンナダ語が話されている地方に、カラガと呼ばれるお祭りがあります。その神聖な儀式の中心となる人物は、頭の上にいくつも壺を載せて積み重ね、そのまま音楽に足取りを合わせて行進します。さらには、他の人たちと声を揃えて歌を歌い、太鼓に合わせて拍子もとらなければなりません。 しかし、そうしている間ずっと、その人の注意は自分の頭に載っている不安定な壺の塔のバランスを取ることに向けられています。それと同じく、人間は人生という騒がしくて浮かれた行進を続けている間、 神を悟るという目標を持ち続けなければなりません。
英知は清らかな心でのみ得ることができる
人々の中には豊かな国々が到達した高い生活水準をうらやむ人もいますが、インドの貧困は、⻄洋の豪華で見栄っ張りな生活よりもずっと善良な生活に適しています。広大な海は莫大な水をたたえていますが、人間ののどの渇きを癒すことができますか? それと同じように、どんなに多くを持っていても、 無執着を身につけなければ、それは単なる不毛の浪費でしかありません。五感の喜びと物質的な追求に対する無執着は、神と神聖なものへの愛が育つ助けとなります。
人々は、自分に興味があるのは探究と理性だけだ、 自分はグニャーナ(霊的英知)の道だけを歩むのだと、誇らしげに言います。彼らはグニャーニ(霊的英知を得て解脱した人)になることを熱望しています! しかし、グニャーナ(霊的英知)は清らかな心を持っていなければ勝ち得ることはできません。
「神とは何者か?」という探究に取り組む前に、自分は何者かを見いだす必要があります。ひとたび自分は何者であるかを見いだしたなら、神は何者であるかを知る必要はありません。なぜなら、両者は同じだからです。
神は自分の中にいるということが分かった時、あなたは自分をはるかに高く評価するようになるでしょう。というのも、自分が拾った「ガラス玉」は 実は「ダイヤモンド」だったということが分かったら、安全のためにそれを鉄製の金庫に保管するに違いないからです。石も、彫刻家によって魅力的な神像の姿に彫られれば、非常に大切にされ、立派な寺院に安置されて、何世代にも渡って人々から儀式を伴う礼拝をされることでしょう。
いくつもの過去生の間に、この世は実在であり、自分は肉体と同じである、という誤った認識があまりにも深くあなたの中に植え付けられてしまったために、それを取り除くには非常に強い薬を絶え間なく服用し続けるしかありません。その薬、「ラーム、 ラーム、ラーム」〔ラーマの御名〕を、限りなく服用し、吸収しなければなりません。その治癒力のあ るエッセンスは、体のすべての部分、すべての感覚器官、すべての神経、そして、血液の一滴一滴に行き渡ります。すると、あなたのすべての細胞がラーマへと変えられるでしょう。あなたは、るつぼの中で溶け、ラーマの鋳型に注がれて、ラーマとならなければなりません。それこそがグニャーナ〔英知〕の完成です。ラーマ ナーマ〔ラーマの御名〕であれ、 他のどんな御名であれ、唱えて心の中に吸収されれば、それは、あなたをむなしいものへと引きずり込む五感の気まぐれを制御する助けとなるでしょう。
内なる敵を打ち破り あなたのエゴに打ち勝ちなさい
五感のコントロールという分野では、五世紀前のインドと今のインドではとても大きな差があります。 現代では、五感は自由に遊ぶことを許されています。 人は貪欲と情欲とエゴの奴隷になっています。その原因はすべて、親と年⻑者にあります。親たちは、 自分の子供がお寺に行ったり宗教的な講話を聞きにいったりすると、叱りつけ、頭がおかしくなる兆候だと注意します。宗教は老後に追求するもので、若者が真剣に取り組むべきものではないというのです!
逆に、親たちがそれを奨励しさえすれば、子供たちは人生の戦いのために、より良い装備をすることができます。親は子供にこう助言すべきです。
「私たちを導き、守ってくださる神がいることを確信しなさい。感謝の気持ちを持って神を憶念しなさい。私を清らかにしてくださいと神に祈りなさい。 すべての人を愛し、すべての人に奉仕しなさい。善い仲間に入りなさい。寺院や聖人を訪ねなさい」と。
あなた方は新聞で、戦闘や征服、勝利や成功の記事などを読みますが、それらはすべて物質的な征服や成功などです。五感の誘惑と戦い、内なる敵を征服し、エゴに勝利しなさい。それこそが、祝うに値するあなたの勝利であり、それ以外は勝利ではありません。それこそが、私がスワーラージヤ〔自己発光〕と呼んでいるものです。
年が新しくなるのも、日が神聖なものになるのも、 あなたがサーダナ〔霊性修行〕によって年や日を神聖なものにしたときに限られるものであり、それがなければそうはなりません。サーダナは、愛という肥料がよく施された畑でしか育ちません。愛、すなわちプレーマは、バクティ(神への信愛)に必須の条件です。物品や名声や妻や子などに抱いているあなたの愛は、より強烈な神の愛に包摂されることで、神聖なものにならなければなりません。
スプーン2杯の水を2リットルの牛乳に混ぜれば、 水も牛乳として喜ばれます! 今、あなた方のサーダナは、2リットルの水にスプーン2杯の牛乳を混ぜているようなものだといえるでしょう!あなたのハートを神への愛で満たし、ハートを感動で震わせなさい。そうすれば、あなたは、誰も憎むことができなくなるでしょう。不健全な競争意識に浸ることもできなくなるでしょう。誰にも欠点を見つけることはなくなるでしょう。人生が穏やかで甘美でなめらかなものとなるでしょう。
サティヤ サイ ババ
1967年1月1日
マドラス市グインディ地区のシュリ サティヤ サイ マンダリーにて
Sathya Sai Speaks Vol.7 Ch1


教育の目的は人格
学生の皆さん、少年少女の皆さん! 現在の副学長、元副学長 、セントラル・トラストの事務局長、そして二人の学生は、美しい語彙を用いて素晴らしいスピーチをしました。この広い世の中では、内なる存在を目覚めさせ、ハートを大きな至福で満たしてくれる、この上なく素晴らしい、喜びに満ちた行事の数々が、至る所で行われています。本校の学生たちも、卓越した技能や知性、スポーツや競技や音楽の分野における専門的な技能を養い、自分たちの才能を発揮して、あらゆる人を喜ばせました。学生たちは、着手する活動が何であれ、それを一時的な幸福のためではなく、スワミを喜ばせるために行っています。
教育は内なる視力を育てなければならない
生まれた時から、人間のすべての活動は、学んで知恵を獲得する過程に中心が置かれます。自分のハートを愛で満たし、万人を幸せにすることができるよう、本校の学生たちに理想主義の精神を教えることは絶対に必要です。今日、世界中に数多くの教育機関が存在していますが、教育とは本当は何を意味しているかを理解している人は誰もいないようです。学生たちは、単なる書物上の知識で頭を満たし、試験の答案を書き、合格点を取って、自分たちは教育を身につけたと主張しています。
身につけた教育や知力にもかかわらず、
愚かな人間は、自らの真我を知ることがないだろう
心の卑しい人間は、
自らの悪い性質を捨てないだろう
(テルグ語の詩)
現代の教育は、論争だけをもたらし、
完全な英知をもたらさない
不滅へと導くことのできない教育を身につけて、
いったい何の役に立つだろう?
あなたを不滅にしてくれる知識を手に入れなさい
(テルグ語の詩)
ヴィッディヤー〔光を照らす知識〕とはグニャーナ(英知)を意味します。グニャーナは、世俗的な知力のことではありません。真の教育は、内なる視力〔霊的な目〕を育み、永続的な至福を体験させてくれます。学生は、現代の教育制度からどのように恩恵を受けているでしょうか? 学生たちは、ただ学位を手に入れて、権威者たちから高い評価を得てはいますが、教育というものの真の意味を理解していません。
現代の学生は、スポーツや文化の行事に参加することの背後にある真の精神を理解することができていません。スポーツや競技といったあらゆる行事には、勝者と敗者がつきものです。人々は競技の結果だけに関心を持ち、スポーツの精神を享受することがありません。スポーツや競技の目的は、勝負の決着をつけることではなく、参加者にスポーツマン精神を教え込むことにあります。人生はゲームです、プレイしなさい。人生は夢です、それに気づきなさい。人生は愛です、楽しみなさい。これらの言葉の趣旨を理解し、日常生活でそれを実現する人だけが、真の学生です。
現代の教育制度は、学生の識別力を育てる代わりに学生を狭量にしています。真の知識を与えることもなければ、学生たちが広い心を持つのに役立つこともありません。現代の教育は意味のないものになっています。学生たちに指定された教科書には、真の教育の核心が含まれていません。なぜ政府がそれほど無価値な教科書を奨励するのか、私は不思議に思います! おそらく、政府でさえその実態に気づいていないのでしょう。それは、低い地位にいる人が高位の関係当局に相談しないまま決定したかのように見えます。それは政府に悪名をもたらしていますが、誰もそのことを憂慮しているようには見えません。このような不健全な傾向が増加しています。
古代の教育制度と結びついている神聖さを理解しようと努めている人は誰もいません。学生は、教育の核心にではなく、書物の知識だけに関心を抱いています。実践的な知識ではなく、教科書の知識だけがテストされています。学位は生計を得るための手段であると学生たちは考えています。教育は、生計を立てるためにではなく、人生のためにあるのです。ところが、学生も親もこの真理に気づいていません。親は、自分の子供が試験で良い成績を取れば嬉しく思います。親は、子供が得た悪い所見の山については、何の心配もしません。所見に関心を持ちさえすれば、親は子供たちが受けている教育がどんな類のものなのかをきちんと理解することができるでしょう。現代的な教育が進出してきたせいで、ヴェーダとシャーストラ〔天啓経典〕の学習は衰退してしまいました。このような状況下で、どうやって現代の教育が皆さんに真の英知を授けることができるのでしょう?
親と教師はもっと責任を負うべきである
学生の皆さん! 皆さんは、あまねく社会と世界に恩恵をもたらすような教養を身につけるべきです。社会の現状はどうでしょう? 私たちはどのような方法で社会を理想的なものにすることができるでしょう? 人はどのようにして社会の進歩のために働くべきなのでしょう? 誰もこの種のことは考えていないようです。さらに、現代の教育制度は社会奉仕を重視していません。もし誰かが教育制度の改革について話をしても、学生たちはそれを無視します。学生たちは、教科書の知識が教育のすべてであり、目的であると考えています。年長者たちは学生に正しい教育を施す責任を持つべきです。学生たちは社会の名誉を守るべきです。私たちは教育の真の意味を伝えてくれた古の聖者や先覚者の教えに従うべきです。
ただ単にいくつか学位を取得したからといって自惚れるのは、愚かさのしるしです。社会が必要としているものを理解し、自分の受けた教育を社会の発展のために生かすべきです。人々は、自分は社会に奉仕をしていると言っていますが、社会が何を必要としているかを本当には理解していません。そのような奉仕はサマージャ セヴァ(社会奉仕)ではなく、サマーディ セヴァ〔墓奉仕〕、つまり、生気のない、機械的な行為です。教育制度が正しく整えられたとき、社会は初めて発展するでしょう。
西洋の教育への熱狂が増したために、ヴェーダ聖典の学習はおざなりにされています。親は子供が幼いころから、何が善で何が悪かを教えるべきです。親は、子供が大学の入学許可を手に入れて学位を取得することで満足してはいけません。親は、子供が自分の受けた教育を国への奉仕に活用することを確実にすべきです。この点について、政府はあまり多くのことはできないでしょう。子供を正しい方向に沿って導くのは親の責任です。親は、国の発展のために働くよう子供を奨励すべきです。しかし、昨今の親はそのような寛大な心を持ち合わせていません。教師でさえ、国家の安寧に関心を抱いていません。
教師は、学生に書物の知識を教えることで自分の責任は終わりだと感じています。教師は、教科書に載っている情報は社会の役に立つものか、そうでないかを調べることさえしていません。教師は、その問題を政府に持ちかけようとしません。たとえ教師がそれを持ちかけても、政府は返答しません。彼らは、教育機関を学位保持者の生産工場にしています。この現状について、学生だけが責められるべきではありません。この情けない現状には、親と教師と政府に等しく責任があります。
学生は、教室で良い順位を得て良い評判を手に入れたとしても、それだけでは不十分です。社会と国家の発展のために働いて、そうすることで親に良い評判をもたらすべきです。親は、折に触れて子供の進歩を観察し、子供に繰り返し功徳を説き聞かせ、責任ある市民に育て上げるべきです。親は、子供が良い点数を取ったからといって満足してはいけません。親は、子供が家でどんな種類の本を読んでいるかにも注意を払うべきです。無益な小説を読んでいる学生もいます。しかし、親はそれを矯正することに時間をかけようとはしません。逆に、親たちは、「小説を読むことに何か間違いがあるのですか? 子供が喜んでいるなら構いません」などと言う始末です。このようにして親は子供を駄目にしているのです。親たちは、自分の留守に子供がどう振る舞っているかを気にかけません。子供の振る舞いを正さず、ただ教育を受けさせるだけでは意味がありません。親たちは、最も理想的な方法で子供を育成した祖先たちの模範を見習うべきです。
学生に世俗と霊性の融合した教育を施す
愛の化身である皆さん! 現代の教育制度は改革を必要としています。現代の親たちは、自分の子供が英語を媒体とする学校で学び、英語の詩を朗唱できることを自慢に思っています。彼らは、その現代的な教育が子供にどのような種類の打撃や影響を与えているかをわかっていません。幼稚園の小さな幼児たちは「バーバー、ブラック シープ」〔メーメー、黒い羊(厄介者)さん〕といった童謡を教えられています。このような教育のせいで、最終的に、子供たち自身が黒い羊〔厄介者〕になってしまうのです。学生たちの人生をすっかり台無しにしている現代の教育制度を見ると、私は本当に胸が痛み、うんざりしてしまいます。だから私は、学生の人格形成のために、何千万ルピーもかけて教育機関を設立したのです。
私は教科書でさえ学生たちに無料で支給しています。今日の世界は状況が大変悪いため、小学校に入学するのにさえ、あらかじめ寄付として何千ルピーも支払うことで、上手いこと手続きをしなければなりません。親たちは、自分たちが良い学校だと思っている学校に子供が入学許可を得ると嬉しく思い、そのような教育制度のために生じる成果については気にかけません。子供は、親が子を教育するために窮乏に耐え忍ばなければならないことに対して、感謝をしていません。親たちは、子供を教育するために借金し、まともな食事や睡眠すら取っていません。結局のところ、子供たちはこの教育制度から恩恵を受け取っていないのです。
子供は自分にとって何が良くて何が悪いのかを理解できません。今、教育の質がこれほど「チープ」〔低級〕になってしまったというのに、どうやってそんな教育が人を「チーフ」〔長〕にすることができるでしょう? 親も教師も学生も、現代の教育制度によって社会や国家がどのような恩恵を受け取るかを理解できていません。ですから、社会に完全な変革をもたらすために、親と教師と学生が皆、手を取り合って、一致団結して働くべきです。
現在、学生たちの不安が増大しつつあります。しかし、それは学生の責任ではありません。学生たちは非常に良い素質を持っています。過ちは、教師と年長者と政府にあります。現代の教育制度が学生の人格を形成するように計画されていないことが、決定的な要因です。良い学生がたくさんいるのに、親と教師と教科書が学生たちを正しく導いていないのです。今は、親が目を開いて現状を理解する潮時です。親は、子供が適切な教育を受けることで子供の人生を向上できるようにすべきです。親は子供に、そうした、不滅をもたらしてくれる教育を受けるよう勧めるべきです。もちろん、世俗に関連した教育も必要です。しかし、学生の人格を形成して国家のより良い市民にするためには、世俗に関連した教育は霊的な教育と調和しているべきなのです。
教育の目的は人格であるべき
学生の皆さん! 自分が高等教育を追求していることを自慢に思ってはなりません。高度な教養と共に、高潔な性質を養うべきです。美徳を欠いた教養は無益です。教育の目的は人格です。今日、多くの学生が、無益で、不道徳ですらある小説を読んでいます。関係当局は、そのような本が市場で販売されないことを確実にすべきです。学生は、自分の人格を向上できるような本だけを読むべきです。学生は真の精神でスポーツや競技に参加すべきです。
このアドバイスは女子学生にも当てはまります。女子学生たちは、「男子がオートバイに乗っているのに、なぜ私たちは同じことができないのですか?」と尋ねます。このようにして、彼女たちは議論をして時間を無駄にしています。誰も女子はオートバイに乗るべきではないなどとは言っていません。しかし、人は時と状況に応じて行動すべきなのです。若い人の二輪車での死亡事故の件数が増加しています。親は子供を育てるために多くの犠牲を払っています。それなのに、その大切な命がオートバイの事故で失われたとしたら。私にはそのときの親の苦悶が分かります。
今、女子たちは、あらゆる分野で男子と競争したがります。名声と評判も熱望しています。彼女たちの主張はこうです。「どういう点で私たちは男子より劣っているのですか? どうして私たちは男子と同じ種類の教育を身につけることができないのですか?」。しかしながら、人はそれぞれ、自分に見合った、適切な種類の教育を身につけるべきです。家族の面倒をよく見て、理想的なしつけで子供の人格を形成することは、女性にとって必要不可欠です。
子供に美徳を教え込むのと同時に、適切な教育も施すべきです。現代の教育は、学生を誤った方向に導いています。親は、これに関して、ある程度の責めを負うべきです。親は、子供が高い資格を取得すること、高い資格を持つ相手と結婚することを望んでいます。縁談をまとめようとする時、次のように尋ねる親もいます。「うちの娘は大学院を修了しました。娘は器量が良いのです。お宅の息子さんはどうですか? 大学院を修了されましたか? 息子の顔立ちは良いですか?」。実のところ、美しさは人格と結びついたものであり、身体的な容姿と結びつくものではありません。人格の美しさこそ、人が切望すべきものです。大学院を修了した花嫁が、必ず大学院を修了した花婿を得ることは可能でしょうか? 現代の教育は不健全な競争と対立をもたらしています。私は、女子は高等教育を追求すべきではないと言っているのではありません。もし私が女子の教育に不賛成であれば、なぜ女子大学を設立しなければならないのでしょう? 私は、学生に美徳を教え込むという唯一の目的を持って、さまざまな教育機関を設立しました。私は無料で教育を提供しています。受験料さえありません。私のもっぱらの目的は、学生が正しい教育を身につけて、理想的な市民となり、両親を幸せにすることです。
学生の皆さん! 私の言葉を誤解してはなりません。私は皆さんの安寧と繁栄のために、これら一切を話しているのです。皆さんは、自分に良い評判をもたらしてくれるような教養、家族の名声を守ってくれるような教養を得るべきです。自由の名の下に利己的になって、誤った道を歩んではなりません。私は、道を歩いている時はあちこちよそ見をしないようにと、たびたび男子学生に警告しています。中には、猛スピードでオートバイを運転しながらすれ違う若い女性を見続けている男子もいます。彼らは注意がそれて事故を起こす羽目に陥ります。もし、あなたの人格が善良であれば、あなたは常に守られるでしょう。自分の五感をいつもきちんとコントロールしているべきです。自分の見るもの、聞くこと、話すことを、いつもチェックしているべきです。仏陀は、五感を支配する目的でさまざまな霊性修行に着手しました。
なぜ、あなたに目が与えられたのか?
それはあちこち見るためか? 否
目は神の美しい姿を見るために与えられた
なぜ、あなたに耳が与えられたのか?
それはつまらぬ噂話を聞くためか? 否
耳は神の栄光を聞くために与えられた
(テルグ語の詩)
耳は善い言葉を聞き、それらを実践し、そうすることによって有徳な人生を送るために与えられているのです。仏陀は、神が有徳な人生を送る目的で感覚器官を授けたことに気づいたため、儀式化したあらゆる霊性修行を捨て、自分の五感を神聖な使い方で用いました。仏陀は、自分が人生で獲得しなければならないのは美徳であって、五感の喜びではないことを確信しました。仏陀は、自分の良心が自分の真の導師〔グル〕であることを悟り、目や舌といった感覚器官を制御する努力をしました。この二つの感覚器官が制御されるなら、他のすべての感覚器官は自動的に制御できるようになります。こうして、人生における自分の目標を定めた仏陀は、妻と一人息子を捨て、広い世間に足を踏み入れました。
しかし、私は皆さんに、仏陀のように妻子を残して森へ入るよう勧めているわけではありません。皆さんは、妻子の面倒をよく見て、妻子に対する責務を果たしなさい。自分の子供に高潔な性質を教え、世の中で子供を育てなさい。有徳の人生を送りなさい。これが仏陀の教えたことです。もしあなたが仏陀のようにサムヤク ドリシティ〔正見/サムヤク ドルシティ〕を養うなら、全世界はあなたの配下に入ることでしょう。
有徳の人生のために懸命に努力せよ
他の人の誤った助言に注意を払ってはなりません。高潔な性質を育てなさい。もしあなたが自分の五感を制御することができれば、叙事詩バーガヴァタの精髄を悟ることになります。叙事詩バーガヴァタの学習は、人を有徳の人に変えることを意図しています。ですから、自分の五感を制御して、この世の主人となりなさい。これこそ、皆さんが目下、懸命に努力しなければならないことです。両親にも人生における自分の優先事項について説明しなさい。両親にこう言いなさい。「お母さん! お母さんは私が高給をもらえる仕事を選ぶことを期待しています。でも、高い給料は有徳の生活ほど重要ではありません。もし高潔な生活よりもお金を優先するなら、人生そのものが台無しになってしまうでしょう」
自分の五感を制御し続ければ、あなたは高潔な性質の人となるでしょう。人格の強さも手に入れるでしょう。主ラーマの傑出した召し使いであるハヌマーンは、そのような高潔な性質の模範です。ハヌマーンは、「サントゥドゥ」(穏やかで落ち着いている者)、「グナヴァントゥドゥ」(有徳の者)、「バラヴァントゥドゥ」(大きな力強さを持つ者)と称えられています。ハヌマーンは、自らの高潔な性質のゆえに、偉大な導師〔グル〕となりました。私たちはハヌマーンの高潔な性質を見習うべきです。
愛しい学生の皆さん! 皆さんは純金のようです。皆さんは高潔な性質の数々を持っている人たちです。皆さんは貴重です。ところが、皆さんの中には、悪い要素によって、誤った方向へ導かれる者もいます。たとえ他の人々が皆さんを誤った方向へ導こうとしても、自分が選んだ道からそれてはなりません。しっかりと踏ん張りなさい。そうして初めて、あなたは名声と良い評判を手に入れるでしょう。これは学生への私のアドバイスです。
皆さんは、現代の教育を通して、職業で出世することのできる技能を教えられていますが、誰も皆さんに道徳教育を教えてはいません。道徳は、教育の最も重要な側面です。お金は入っては出ていきますが、道徳は入ると育ちます。ですから、道徳を養いなさい。それはあなたに社会からの尊敬をもたらすでしょう。
あなたがどこにいようとも、
森の中であれ、空中であれ、都会であれ、
村であれ、山の頂上であれ、深海の真ん中であれ、
神が、あなたの唯一のよりどころ
〔テルグ語の詩〕
高潔な性質を養いなさい。私があなたにすべてを与えましょう。それどころか、高潔な性質を養う人、そして、それらを教える人には、私自身を与えましょう。実際、私はそのような人々のためだけに生きているのです。私は彼らから何のお返しも求めません。徳のある高潔な生活を送りなさい。両親と母校とスワミに良い評判をもたらしなさい。
愛しい学生の皆さん! 皆さんは全員、高潔な性質を備えた人たちですが、ある程度、現代社会の影響を受けています。ですから、心を乱す影響力に打ち負かされてはなりません。何よりもまず、自分の五感を正しく使いなさい。あなたが出会う年長者全員を、自分の父や母として敬いなさい。あなたの思いと言葉と行動によって、良い評判を得なさい。
善良な仲間に加わり、善い言葉を話し、サムヤクドリシティ〔正しい見方〕を養い、あなたの人徳を形成する善良な教育を受けることを追求しなさい。それこそが、私が学生の皆さんに期待していることです。実際、これは皆さんの両親も望んでいることです。子供が台無しにされるのを期待する父親や母親はいません。しかし、親は一種の遠慮から、子供に適切な助言を与えたり子供をきちんと正したりすることができずにいます。もちろん、私にはそのようなためらいはありません。ですから私は、私が命じていることを強調して、皆さんに、善いものを見なさい、善くありなさい、善いことをしなさい、と助言します。高潔な性質を養いなさい。ボーガ(享楽)ではなく、ティヤーガ(犠牲/手放すこと)こそが、あらゆる性質の中で最も高潔なものです。実際、ボーガ(享楽)は、あなたをローガ(病気)へと導きます。ヴェーダは次のように宣言しています。
ナ カルマナー ナ プラジャヤー ダネーナ
ティヤーゲーナイケー アムルタットワマーナシュフ
行為によっても、子孫によっても、富によっても、不滅の命は手に入らない。
不滅の命は犠牲によってのみ手に入る。
それゆえ、バンガール〔黄金〕たちよ! ティヤーガ(犠牲/手放すこと)といった高潔な性質を養いなさい。私は皆さんのためなら何でも犠牲にする覚悟です。しかし、皆さんも私の恩寵を受け取るにふさわしい立場にいなければなりません。私は皆さんのものであり、皆さんは私のものです。それが私たちの間にある関係であるべきです。スワミの愛を理解しようと努めなさい。この一切は、正しい道を歩むようにと、皆さんに助言しているのです。両親の願いに背いてはなりません。もし万が一、あなたの意見が親の意見と違ったら、愛をもって自分の見解を親に説明しなさい。両親も、あなたが親の気持ちを尊重してくれていることを嬉しく感じるでしょう。
ヴェーダは宣言しています。
マートゥル デーヴォー バヴァ
ピトゥル デーヴォー バヴァ
アーチャールヤ デーヴォー バヴァ
アティティ デーヴォー バヴァ
母を神として敬いなさい
父を神として敬いなさい
霊性の師を神として敬いなさい
客人を神として敬いなさい
親に優しく穏やかに話しなさい。もし必要であれば、親を説得しなさい。私は、そのような学生のためなら、何でも犠牲にする覚悟があります。さまざまな学生が私たちの教育機関に入学してきます。中には学費を払えない学生がいるかもしれません。そのため、私たちは、サティヤ サイの学校ではすべての教育を完全に無料化すべきであり、学生からは一銭も徴収しないことに決めたのです。皆さんは、あらゆる心配から解放されて平安を楽しむべきです。善良な振る舞いをすることによってこそ、平安を手に入れることができます。今、いく人かの学生は、人生で良いことを味わいたいと願いながら、間違った方法に従っています。彼らは、砂糖を食べたいと望みながら、苦い丸薬を飲んでいるのです。彼らは、言っていることと別のことをしています。だからこそ、次のように言われているのです。
マナッスィエーカム ヴァチャッスィエーカム
カルマンニェーカム マハートマナム
マナッスヤンニャト ヴァチャッスヤンニャト
カルマンヤンニャト ドゥラートマナム
思いと言葉と行動が完全に一致している人は高潔な人間であり
思いと言葉と行動が一致していない人は
邪悪な人間である
私は、思いと言葉と行動が完全に一致している学生が好きです。彼らのためなら、私は何でも犠牲にする覚悟があります。それどころか、そのような人々には私自身を与えるでしょう。
愛しい学生の皆さん! 皆さんは、間違っていると知りながら、あるいは、そうとは知らずに、過去に過ちを犯してきたかもしれません。しかし、少なくともこれからは、善良な性質を養い、いつも両親とスワミを幸せにし続けるよう努めなさい。
(スワミは小学校と中高等学校と三つのキャンパスから来た学生をお呼びになり、〔前日行われた〕スポーツ文化祭での学生たちの活躍を賞賛して、光り輝く銀のトロフィーを授与なさいました。)
サティヤ サイ ババ述
サンクラーンティ
2004年1月15日
プラシャーンティ ニラヤム
Sathya Sai Speaks Vol.37 Ch3




愛によって
もたらされる神性
1987年クリスマスのババの講話


さまざまな信仰を持つ男女が
世界各地から愛と謙虚さを携えて
快適か快適でないかを
気にかけることなく
数々の苦難に耐えながら
ここに集まった
すべてはババの恩寵を得るために!
蔓延(まんえん)する無神論を払拭し
神への信仰を植え付ける
すべてを包み込むサイの愛が
人類を変容させ、神へと導いている


愛によってもたらされる神性
神の愛の化身たちよ! 人間は、身体的には基本的な違いはありませんが、習慣や考えや感情には多くの違いが見られます。すべての国は人間の集合体です。世界全体の自然環境はそれほど違いませんが、諸国の人間社会における生活様式の違いはかなりのものです。これは人間の状態の大きな特徴の一つです。
真理は一つです。真理は心(マインド)や言葉を超えています。真理は時間や空間というカテゴリーを超えています。数え切れないほどの求道者が真理を認識するためにさまざまな道を追求してきました。真理を求める人々の間には顕著な違いが存在します。この違いは宇宙の本質に影響を与えるものではありません。逆に、こうした違いは宇宙のプロセスを理解する上でのさまざまな段階であると考えなければなりません。こうした違いこそが、統一的な原理を探求し続けることを促してきたのです。
究極の真理は一つ
インドの形而上学の六つの学派(シャド ダルシャナ)〔六派哲学〕は、過去の偉大な求道者たちによって私たちに提供されてきました。この神聖な教えは、今日ではほとんど注目されていません。それぞれのダルシャナ〔学派〕が示している霊的な道は異なるように見えますが、目的は共通しており、彼らが宣言する究極の真理は一つです。国内におけるさまざまな宗派や共同体の違いや、人々の間に蔓延してきた唯物論のせいで、六つのダルシャナの教義は真剣に追求されていません。唯物論の教義があまりにも世界を席巻しているため、インドの形而上学〔六派哲学〕の偉大さが評価されていません。この哲学を適切に検討するための環境さえも存在していないように見えます。
唯物論者の教義は、チャイタニヤ(意識/チャイタンニャ)は感覚的な経験の産物である、そして、意識の進化は物質の進化に依存し、物質の進化に基づくものであるという前提で進んでいます。無生物である物質が、唯物論者の教義の基礎になっているのです。物質は有限です。ヴェーダの教義は、意識は体の感覚から生じるものであり、体の感覚は有限で限られた物質に起因するものによって制限されている、という見解を否定しています。意識に対する物質の優位性という概念の誤りを示すために、この唯物論的な教義とは真逆の、アーディヤートミカ〔アートマに関係する〕(霊的)な見解が投じられたのです。
人間と自然
霊的な見解では、基本はアートマ(神霊)〔真我〕です。アートマは無限です。ヴェーダーンタの教義は真我の無限性を宣言し、物質は不活性で有限であることを指摘しました。シュルティ〔ヴェーダ〕は宣言しています。
トリパーダッスヤームルタム ディヴィ
〔彼の輝きの4分の3は不滅の領域にある〕
〔プルシャ スークタムより〕
4分の3を意識が占め、4分の1は不活性な物質です。したがって、物質を動かしているのは意識であって、物質が意識を生み出しているのではないのです。これは霊的な概念の本質です。
ウールドヴァ ムーラム アダハサークハ
(根は高いところにあり、宇宙の木の枝は下にある)
とギーターは述べています。これは、物質である宇宙は普遍意識から生じたという見解をさらに裏付けるものです。
ジャダ(物質)を活性化しているのはチャイタニヤ(意識/チャイタンニャ)であり、意識を生み出しているのは物質ではありません。現代のテクノロジーは、すばらしい機器を生み出し、新しいエネルギー源を利用し、宇宙空間の月や他の惑星を探査する宇宙船を作り出しました。しかし、これらの機器はすべて自力で作動しますか? いいえ、しません。その背後には人間の創意工夫と知性があるのです。どんな機械より人間のほうが偉大です。
人間は意識の化身です。機械を動かすのは意識であり、不活性な物質は意識を創造することができないというのは、議論の余地がないほど明らかです。人間は創造物の中で最も高次のものです。人間は、自然に支配される動物のような本能の生き物であってはならず、自然の主人になるべきです。人間は、ナラ(人間)からナーラーヤナ(神)へと進歩しなければなりません。知的な人間として、自分はサムサーラ(サンサーラ/世俗の鎖)に縛られていると考えるべきではありません。人間を縛っているのはこの世ではありません。この世には、見る目もつかむ手もありません。人間は自分自身の思考と欲望に捕らわれているのです。はかないものや壊れやすいものに執着する中で、人間は自分が生来持っている神性を忘れてしまい、宇宙のすべてのものは神から来ていて、神の力なしには存在できないということを理解していないのです。
宇宙における神性
宇宙は、永遠なるものである無限の実在(ブラフマン)の投影であり、ブラフマンとは別のものではありません。
サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト
(全世界には神が浸透している)
この真実が認識されれば、人が知覚したり経験したりするものはすべて神の顕現であることが明らかになるでしょう。すべての木はカルパヴリクシャ(願いをかなえる木)です。すべての仕事場は神の社(やしろ)です。多くの人は、自分は神との一体感を実現するために霊性修行に取り組んでいると思っています。さまざまな霊性修行やさまざまな形式の礼拝は、個人的な満足感を与えるかもしれませんが、神の悟りはもたらしません。神は誰からも何も必要としません。神は供物を求めず、供物を喜ぶこともありません。神はあなたと違いません。あなたを神から引き離しているのは、あなたの好き嫌いです。欲望や嫌悪感を取り除いたとき、あなたは自分が生来持っている神性に気づくでしょう。人が行っているあらゆる霊性修行、あるいは、供養礼拝における儀式の遵守は、心(マインド)を浄化してエゴをなくすのに役立つだけです。人類は、すべての人間に内在する神性を認識することによって、人類の一体性という理想を目指して努力すべきです。
罪と悔い改め
キリスト教徒の間では、自分の罪を許してくださいと神に祈るという古くからの習慣があります。教会には、信徒が自分の罪を告白し、現金を供えて、教皇や司祭から贖罪(しょくざい)を得るという習慣があります。悔い改めと神への供物によって罪をあがなうという信仰は、インドでも広く浸透しています。こうした習慣は、神に対する誤った認識に基づいています。人々は、神の本質を真剣に探究し、真実に基づかない迷信的な信仰を一掃するよう努めるべきです。
探求の精神は、キリストより何世紀も前に古代ギリシャ人の間で広まっていたということに注目すべきです。ソクラテスは、アテネの若者たちに探究心を芽生えさせた偉大な師です。ソクラテスは、真理を追求するあまり、弟子の助けを借りて逃亡するよりも、故郷での死を選びました。ソクラテスは、命にも財産にも所有物にも価値を置きませんでした。
イエスと金持ちの男
イエスも富や地位に価値を置きませんでした。イエスがマルタとマリアの家にいた時、ある金持ちがイエスのもとを訪れました。その金持ちは、自分はあらゆる財産を持っているにもかかわらず心の平安がないのだとイエスに言いました。彼は多くの心配ごとに悩まされており、出口を示してほしいとイエスに訴えました。イエスは彼に言いました。
「簡単な方法がありますが、あなたはそれに従いますか? あなたは富を蓄え、それに伴って心配ごとも増えています。いつかは置いて逝かなければならないその富を、あなたはどうするつもりですか? 貧しい人や困っている人に分けてあげれば、あなたの心配ごとはなくなるでしょう。人類同胞を愛することによって、財産ではなく神の恵みという富を蓄えなさい」
これは、今日、理解されなければならないメッセージです。人々が求めるべきことは、神の愛を得ることです。それ以外の富の形は、学識という富も含めて、価値のないものです。
イエスは、富める者に厳しくし、貧しい人や病人に尽くすことによって、神への信仰に基づいた新たな生き方を弟子たちに教えました。神の使者としての聖職を始めたイエスは、最終的に「私の父と私は一つである」と明言しました。聖パウロは、最初イエスを頑固に批判していましたが、夢でキリストを見て、その夢の中でイエスに「すべての人は神の火花である。私を憎むことはあなた自身を憎むことであり、神を憎むことである」と言われてから、キリスト教の最初の伝道師になりました。キリストのメッセージを広める中で、パウロは多くの試練に直面しました。初期のキリスト教徒たちは、ローマの支配者たちによる迫害を受けました。時が経つにつれ、キリスト教の信仰はローマに定着し、ローマはカトリック教会の本拠地となりました。
「天の国はあなたの中にある」
キリストは、神は愛によってのみ悟ることできると明言しました。ある時、エルサレムの大祭司がイエスを呼んで尋ねました。「そなたはユダヤ人の王なのか?」イエスは「私はそうは言っていません」と答えました。大祭司はイエスに言いました。「そなたは間違った教えで人々を迷わせている。そなたは人々に、皆そなたを通してのみ天国に入れると言っている」。イエスは、自分は人々に天の王国を求めるようにと言っているのだと述べました。祭司は「その王国はどこにあるのか?」と尋ねました。イエスは答えました。「天の王国は、あなたの中に、万人の中にあります。これが私の教えであるとき、どうして私が天の王国は私を通してのみ到達できると主張していると非難されることができますか?」
イエスはこのように話す勇気をどうやって得たのでしょうか? それはイエスが真実を公言していたからです。真実は愛から生まれ、愛は神への信心から生まれます。
信あるところ、愛あり
愛あるところ、平安あり
平安あるところ、真実あり
真実あるところ、至福あり
至福あるところ、神あり
バーラタ〔インドの呼称/神を愛するものの意〕では、神性はブラフマー神、ヴィシュヌ神、マヘーシュワラ神〔シヴァ神〕という三つの姿で存在すると信じられています。これら異なる姿の神を見た人は誰もいません。これらの形態は特定の方法で信仰を深めるために考え出されたものです。この三位一体の神は、誰の中にも象徴として存在しています。ハートはイーシュワラ〔シヴァ神〕と見なされます。その意味は、ハートは人間の内にあるアートマ原理を象徴しているということです。このハートというのは肉体の心臓のことではなく、霊的なハートのことです。ハートは神性と愛の原理を表しています。アートマは限りないものであり、ですから、愛にも限界はありません。心の狭い人々は自分の愛に限界を設けるかもしれませんが、神の特性としての愛は無限です。
「あなたは神」
心(マインド)はハートから生じました。心(マインド)はすべてに浸透しています。
マノームーラム イダム ジャガト
(心は宇宙の土台)
心(マインド)はヴィシュヌ神を象徴しています。「ヴィシュヌ」という単語は「宇宙のあらゆるものに浸透しているもの」を意味します。心(マインド)がハートから生じたように、ヴィシュヌの原理はイーシュワラの原理から生じました。ブラフマーはヴィシュヌから生じたと言われています。人間においては、心(マインド)からアハム(自我)が生じ、ブラフマーはアハムの象徴です。これが三位一体の神の深遠な解釈です。三位一体の神は誰の中にも存在するということです。ハートはイーシュワラ、心(マインド)はヴィシュヌ、そして、「私」はブラフマーです。自己をブラフマー神と見なせば、あなたの思考と行いは道から外れなくなるでしょう。心(マインド)は中にある不純物を取り除くことによって、解脱を得る手段となります。すべての霊性修行は心(マインド)を浄化するためだけにあるのです。心(マインド)が清らかになれば、おのずと神を経験することができます。
神はあなたと別のものではありません。あなたは神です。この確信があなたの中で大きくならなければなりません。最初のうちは、あなたは自分を単なる人間だと思っています。それから、自分の潜在的な神性に気づく段階に到達します。最終的に、あなたは自分の神性を理解する段階に到達します。この3つの段階はイエスの生涯にも見ることができます。最初、イエスは「私は神の使者です」と明言しました。次に、イエスは「私は神の子です」と言いました。最終的に、イエスは「私と私の父とは一つです」と断言しました。こうした過程を経て、キリストは神との一つになることを達成したのです。
あなたは、今この瞬間から、神と一つになるための旅に出なければなりません。時間は誰のことも待ってはくれません。すべての努力を、神を悟ることに傾けなさい。そのためにはまず、エゴをなくすことが必要です。エゴを取り除かなければ、神性の至福を経験することはできません。これ見よがしの礼拝は用をなしません。富も権力も地位も、霊的な探求には役に立ちません。それらは平安を与えることも、人間に常につきまとっている恐怖を取り除くこともできません。信仰心のある人だけが、恐怖から完全に解放されます。ですから、神への信仰を深め、神に導かれた人生を送りなさい。神への信仰を手放さなくても、学問や趣味を追求することはできます。今起こっていることは、人々は富を追求する中で神を忘れているということです。人々はアートマ〔真我〕ではなくアンナム(食べ物)を求めています。アートマを悟れば、他のすべてのものは大きな努力なしで得られるでしょう。
3つの格言を心に留めていなさい
真我を悟った人は自分の人生を救ったのです。自分の欠点を自覚している人は祝福されています。他人の良いところを見る人も、同様に祝福されています。すべての人に愛を示しなさい。
今日、ここに多くの国から人々が集まっています。彼らは何のためにここに来たのでしょうか? 彼らは富を欠いていません。快適さも欠いていません。彼らは自国でいろいろなことを楽しんでいます。しかし、彼らは霊的な悟りからのみ生じることのできる真の至福を経験していません。そして、そのために彼らはやって来たのです。自分の心(マインド)をアートマ〔真我〕に向けなさい。アートマは無限です。「私のもの」、「あなたのもの」という考えを捨てなさい。自分たちは全世界の守護者である一なる神の子供であると考えなさい。三つのことを心に留めなさい。それは、神への愛、罪への恐れ、社会の道徳を守ることです。
神への愛のない人は、簡単に罪を犯し、すべての道徳的価値を失います。神への愛は罪への恐れを強め、その人に道徳的な生活を送らせます。この三位一体の原則は、三位一体の神のようなものです。それはトリカラナ シュッディ(思考と言葉と行いの清らかさ)を助長します。その清らかさを備えて行うことは何であれ、神の悟りの助けとなります。何よりも、愛を育みなさい。皆さんをここに連れてきたのは、愛です。愛を強めなさい。愛は神です。愛の中で生きなさい。どのような礼拝の形を選んでも、あなたの好むどのような霊的な道をたどってもかまいません。あなたのハートを喜ばせるものは何であれ、神を喜ばせるでしょう。あなたの良心の指示に従い、ハートを愛で満たし、神の至福に浸りなさい。
サティヤ サイ ババ述
1987年12月25日
前例のない外国人とインド人の信者の集まりへの
クリスマス メッセージ
プールナチャンドラ講堂にて
Sathya Sai Speaks Vol.4 C4




あなたのハートの中に
寺社を建立しなさい
グントゥールでの
新マンディル落成式での
ババの御講話

あなたのハートの中に社寺を建立しなさい
このマンディル(寺社)を建てたのは皆さんです。それは私を満足させることではありません。皆さんのハートの中に建てられた寺社だけが、永久的なものです。寺社の建設に費やされる金額は、貧しい人々や困っている人々への奉仕のために、もっと有効に使うことができたでしょう。
人間のほとんどすべての活動は、スワールタム(利己心)に動機づけられています。利己心は、人間の中に内在する神性と対立するものです。その神性を顕現させることなしに、人間はどうやって内的にも外的にも平安を達成することができますか?
個人・社会・世界 —— この3つは表裏一体です。個人の福祉は、国家の状態に左右されます。誰もが自分の霊的な資質を高め、それを地域社会や国の利益の増進に役立てるよう努力すべきです。社会への奉仕が、個々人の絶えざる関心事になるべきです。
人間の内にある性質の中で、無私の愛に優るものはありません。無私の愛は、他者への奉仕として自らを現します。そのような愛は、真の至福の源泉です。
カルマとカルマヨーガの関係をきちんと理解すべきです。執着や欲望を伴ってなされる普通のカルマ(行い)は、束縛を生みます。一方、無欲で無私の行いは、カルマヨーガ〔行いによって神との合一を果たす行〕となります。私たちの生活は、ローガ(病気)ではなく、ヨーガ(神との親交)となるべきです。
今日、私たちの行いのほとんどは、五感の快楽と結びついているために、「ローガ」(病気)をもたらします。この病気からの解放は、霊的な道を歩むことによって手に入れることができます。霊的な道というのは、単にバジャンを歌ったり、讃歌を唱えたりすることではありません。これらは善い行いですが、完全に神への捧げものとして行われた行為だけが、霊的と見なされるのです。
真我について無知な状態にある人は、まだ咲いていない花のつぼみのようなものです。花が咲くと、花は周囲に香りを放ちます。それと同様に、自分の内にある神性を実感認識した人は、光と力の源となります。
寺社は思い出させるものとして役に立つのみである
なぜ寺社を建てる必要があるのですか? 理想は、あなたのハートを神が宿る神殿にすることです。しかし、これは誰にでもできることではありません。
石造りの神殿は、神の存在を思い起こさせるものです。弁護士に会うと、あなたは法的な問題を思い起こします。医者を見れば、自分の病気のことを考えます。それと同じように、寺社を見ると、あなたは神を思い出します。
寺社は、思い出させるものとして役に立つのみです。一方、真の礼拝は、それぞれの内にいる神への心からの信愛から成るものです。ハートの神殿を清めるためには、あなたの人生を奉仕に捧げなければなりません。サティヤ サイ オーガニゼーションを他の霊性団体と区別するのは、サーダナ〔霊性修行〕の精神で行われるそうした献身的な奉仕です。老若男女を問わず、数え切れないほどのサイの帰依者たちが、サイへの愛により、さまざまな形で奉仕をしています。人々はスワミのヴィブーティ(聖なる灰)とスワミの奇跡について話します。しかし、本当の奇跡は、スワミの限りない愛です。この愛こそが、数え切れないほどの帰依者に、無私の奉仕に従事するよう促しているのです。
人生の浮き沈みは、私たちに教えを与えてくれる
この愛に優るものはありません。皆さんは、その愛によって私に引き寄せられているのです。愛を与え、愛を受け取る。これが私の取り引きです。この「取り引き」から得られる「所得」がどの程度のものであるかは、所得税担当者には分かりません。
私のアーナンダ(神聖な至福)には限りがありません。私は常に至福に浸っています。それは、私の至福は愛と結びついていて、他のどんな物とも結びついていないからです。もしあなたがこの道を歩むなら、あなたもこの、言葉では言い表すことのできないアーナンダを得ることができるでしょう。あなたはあらゆる種類の平安を実感認識することでしょう。
幸運と不運、幸せと悲しみ、失うことと得ることを、同じ心で見なさい。これらは、暑さと寒さ、夏と冬のように、自然の産物です。これらにはそれぞれ役目があるのです。それと同じように、人生の浮き沈みには、私たちへの教えがあるのです。実際、人生に反転がなければ、神性を経験することはできないでしょう。闇がなければ、光に価値を置くことはできません。困難を経験することなしに、利益を享受することはできません。心の平安がないからこそ、私たちは永続的な平安を実現するための方法を求めざるを得ないのです。ウパニシャッドは、「手放すことによってのみ、不死を得ることができる」と宣言しています。永続的な平安と至福の秘訣を発見するために、人は「手放すこと」を身につけるべきです。
シュリ サティヤ サイ ババ述
1983年4月6日
新マンディル
「サティヤ サイ シャーンティ シュッダ」の落成式
グントゥール県にて
Sathya Sai Speaks Vol.16 C8

