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​サイの御教え

SRI SATHYA SAI RAM NEWS 

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​牛乳と水

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​教育の目的は人格​

​牛乳と水​

牛乳と水

 ⻄洋のカレンダーでは1月1日から新しい年が始まり、この日はインドにおいても⻄洋諸国の祝祭に合わせて新年の日として祝われています。しかし、少し考えてみれば、一秒一秒が新しいものであることが分かるでしょう。一秒一秒が新しい誕生を示しています。それは新たな勝利を得るための機会です。 というのは、インド文化が目的としているのは各人がアートマ〔真我〕を認識することであり、富や学問や名声を手に入れることではないからです。人間の最大の義務は、真実〔真理/サティヤ〕を探究することです。真実は献身と信愛によってのみ勝ち得ることができます。そして、それらは神の恩籠しだいであり、神の恩籠は愛に満ちあふれたハートだけに注がれるのです。

 「神はどこにいるのか?」という質問を、最近の人々はよく口にします。プラフラーダは、神の御名をたゆみなく唱えることによって、神は至る所にいることを知りました。「神はここだけにいる」とか、「神はあそこにはいない」と断言するのは正しいことではありません。真実の悟りは、真剣なサーダナ (霊性修行)を経て、初めて開かれるのです。あなたはあらゆる種類の魅力的な品物がデパートに並んでいるのを見るかもしれませんが、くださいと頼むだけではそれらを自分のものにすることはできません。あなたが代金を支払った品物しか、自分のものにすることはできません。あなたにとって、悟りは魅力的な品物で、手に入れて帰りたいと思うかもしれませんが、あなたはその代価を支払わなければなりません。これは自分のものだと主張して懇願するだけでは、あなたのものにはなりません。


激情に左右されることから 自由になる努力をしなさい
 

 あなたが明らかに国の君主である場合に限り、あなたは王になるに値します。もしあなたが敵に追われて王座から逃げ出そうとしているならば、あなたには王という位がふさわしいなどとどうして言えるでしょうか? 同様に、あなたは、情欲、食欲、憎悪、慢心という内なる敵を打ち破り、明らかに自分自身の主人となることができたとき、初めて王座に就い て、私は主人であると宣言することができるのです。

 

 インドでは、「我らはスワラージヤ〔自己支配〕 (自由)を勝ち得た」と言いますが、スワーラージヤ〔自己発光〕(光を放つ存在であるブラフマンと自分を同一視すること)こそが、私たち一人ひとりが勝ち得ようと熱望する地位であるべきなのです。 スワラージヤ〔自己支配〕は、政治的な独立であり、 外国人支配者のくびきという屈辱から自由になることです。スワーラージヤ〔自己発光〕は、激情や感情に左右されることから解放されることです。

 

 外的な束縛が解かれたとき、人はスワラージヤ 〔自己支配〕を得ます。内的な束縛が解かれたとき、 人はスワーラージヤ〔自己発光〕を得ます。スワーラージヤ〔自己発光〕のみが、平安と歓喜を確実にすることができるのです。
 

 神はあなたの手の届かない所、遠く離れた場所にいるのではありません。神はあなたの内に、あなた自身の内なる祭壇にいます。そこに神を見いだせないために、そして、見いだして平安と歓喜を引き出すことができないために、人間は苦しんでいるのです。流れる川の水に膝までつかって洗濯物を洗っていたあるドービー(インドの洗濯人)は、のどが渇いて死にました。なぜなら、彼は命を与えてくれる水が自分の手の届く所にあることに気がつかなかったからです。彼はただ身をかがめて水を飲めばよかったのです。これは人間を語った話です。人間は自分の外に神を求めて必死に走り回り、目的を達することができないまま失望と混乱のうちに死んでいきます――また生まれてくるためだけに。
 

 もちろん、あなたはこの世にいなければなりませんが、この世のものである必要はないのです。あなたの注意は、神に、内なる神に、固定しておかなければなりません。カンナダ語が話されている地方に、カラガと呼ばれるお祭りがあります。その神聖な儀式の中心となる人物は、頭の上にいくつも壺を載せて積み重ね、そのまま音楽に足取りを合わせて行進します。さらには、他の人たちと声を揃えて歌を歌い、太鼓に合わせて拍子もとらなければなりません。 しかし、そうしている間ずっと、その人の注意は自分の頭に載っている不安定な壺の塔のバランスを取ることに向けられています。それと同じく、人間は人生という騒がしくて浮かれた行進を続けている間、 神を悟るという目標を持ち続けなければなりません。

英知は清らかな心でのみ得ることができる

 人々の中には豊かな国々が到達した高い生活水準をうらやむ人もいますが、インドの貧困は、⻄洋の豪華で見栄っ張りな生活よりもずっと善良な生活に適しています。広大な海は莫大な水をたたえていますが、人間ののどの渇きを癒すことができますか? それと同じように、どんなに多くを持っていても、 無執着を身につけなければ、それは単なる不毛の浪費でしかありません。五感の喜びと物質的な追求に対する無執着は、神と神聖なものへの愛が育つ助けとなります。

 人々は、自分に興味があるのは探究と理性だけだ、 自分はグニャーナ(霊的英知)の道だけを歩むのだと、誇らしげに言います。彼らはグニャーニ(霊的英知を得て解脱した人)になることを熱望しています! しかし、グニャーナ(霊的英知)は清らかな心を持っていなければ勝ち得ることはできません。

 「神とは何者か?」という探究に取り組む前に、自分は何者かを見いだす必要があります。ひとたび自分は何者であるかを見いだしたなら、神は何者であるかを知る必要はありません。なぜなら、両者は同じだからです。

 神は自分の中にいるということが分かった時、あなたは自分をはるかに高く評価するようになるでしょう。というのも、自分が拾った「ガラス玉」は 実は「ダイヤモンド」だったということが分かったら、安全のためにそれを鉄製の金庫に保管するに違いないからです。石も、彫刻家によって魅力的な神像の姿に彫られれば、非常に大切にされ、立派な寺院に安置されて、何世代にも渡って人々から儀式を伴う礼拝をされることでしょう。

 いくつもの過去生の間に、この世は実在であり、自分は肉体と同じである、という誤った認識があまりにも深くあなたの中に植え付けられてしまったために、それを取り除くには非常に強い薬を絶え間なく服用し続けるしかありません。その薬、「ラーム、 ラーム、ラーム」〔ラーマの御名〕を、限りなく服用し、吸収しなければなりません。その治癒力のあ るエッセンスは、体のすべての部分、すべての感覚器官、すべての神経、そして、血液の一滴一滴に行き渡ります。すると、あなたのすべての細胞がラーマへと変えられるでしょう。あなたは、るつぼの中で溶け、ラーマの鋳型に注がれて、ラーマとならなければなりません。それこそがグニャーナ〔英知〕の完成です。ラーマ ナーマ〔ラーマの御名〕であれ、 他のどんな御名であれ、唱えて心の中に吸収されれば、それは、あなたをむなしいものへと引きずり込む五感の気まぐれを制御する助けとなるでしょう。

内なる敵を打ち破り あなたのエゴに打ち勝ちなさい

 五感のコントロールという分野では、五世紀前のインドと今のインドではとても大きな差があります。 現代では、五感は自由に遊ぶことを許されています。 人は貪欲と情欲とエゴの奴隷になっています。その原因はすべて、親と年⻑者にあります。親たちは、 自分の子供がお寺に行ったり宗教的な講話を聞きにいったりすると、叱りつけ、頭がおかしくなる兆候だと注意します。宗教は老後に追求するもので、若者が真剣に取り組むべきものではないというのです!

 

 逆に、親たちがそれを奨励しさえすれば、子供たちは人生の戦いのために、より良い装備をすることができます。親は子供にこう助言すべきです。

 「私たちを導き、守ってくださる神がいることを確信しなさい。感謝の気持ちを持って神を憶念しなさい。私を清らかにしてくださいと神に祈りなさい。 すべての人を愛し、すべての人に奉仕しなさい。善い仲間に入りなさい。寺院や聖人を訪ねなさい」と。

 あなた方は新聞で、戦闘や征服、勝利や成功の記事などを読みますが、それらはすべて物質的な征服や成功などです。五感の誘惑と戦い、内なる敵を征服し、エゴに勝利しなさい。それこそが、祝うに値するあなたの勝利であり、それ以外は勝利ではありません。それこそが、私がスワーラージヤ〔自己発光〕と呼んでいるものです。

 年が新しくなるのも、日が神聖なものになるのも、 あなたがサーダナ〔霊性修行〕によって年や日を神聖なものにしたときに限られるものであり、それがなければそうはなりません。サーダナは、愛という肥料がよく施された畑でしか育ちません。愛、すなわちプレーマは、バクティ(神への信愛)に必須の条件です。物品や名声や妻や子などに抱いているあなたの愛は、より強烈な神の愛に包摂されることで、神聖なものにならなければなりません。

 スプーン2杯の水を2リットルの牛乳に混ぜれば、 水も牛乳として喜ばれます! 今、あなた方のサーダナは、2リットルの水にスプーン2杯の牛乳を混ぜているようなものだといえるでしょう!あなたのハートを神への愛で満たし、ハートを感動で震わせなさい。そうすれば、あなたは、誰も憎むことができなくなるでしょう。不健全な競争意識に浸ることもできなくなるでしょう。誰にも欠点を見つけることはなくなるでしょう。人生が穏やかで甘美でなめらかなものとなるでしょう。

サティヤ サイ ババ

1967年1月1日

マドラス市グインディ地区のシュリ サティヤ サイ マンダリーにて

Sathya Sai Speaks Vol.7 Ch1

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​教育の目的は人格

教育の目的
教育の目的

 学生の皆さん、少年少女の皆さん! 現在の副学長、元副学長 、セントラル・トラストの事務局長、そして二人の学生は、美しい語彙を用いて素晴らしいスピーチをしました。この広い世の中では、内なる存在を目覚めさせ、ハートを大きな至福で満たしてくれる、この上なく素晴らしい、喜びに満ちた行事の数々が、至る所で行われています。本校の学生たちも、卓越した技能や知性、スポーツや競技や音楽の分野における専門的な技能を養い、自分たちの才能を発揮して、あらゆる人を喜ばせました。学生たちは、着手する活動が何であれ、それを一時的な幸福のためではなく、スワミを喜ばせるために行っています。

教育は内なる視力を育てなければならない

 生まれた時から、人間のすべての活動は、学んで知恵を獲得する過程に中心が置かれます。自分のハートを愛で満たし、万人を幸せにすることができるよう、本校の学生たちに理想主義の精神を教えることは絶対に必要です。今日、世界中に数多くの教育機関が存在していますが、教育とは本当は何を意味しているかを理解している人は誰もいないようです。学生たちは、単なる書物上の知識で頭を満たし、試験の答案を書き、合格点を取って、自分たちは教育を身につけたと主張しています。
 

身につけた教育や知力にもかかわらず、

愚かな人間は、自らの真我を知ることがないだろう

心の卑しい人間は、

自らの悪い性質を捨てないだろう

(テルグ語の詩)
 

現代の教育は、論争だけをもたらし、

完全な英知をもたらさない

不滅へと導くことのできない教育を身につけて、

いったい何の役に立つだろう?

あなたを不滅にしてくれる知識を手に入れなさい
(テルグ語の詩)

 ヴィッディヤー〔光を照らす知識〕とはグニャーナ(英知)を意味します。グニャーナは、世俗的な知力のことではありません。真の教育は、内なる視力〔霊的な目〕を育み、永続的な至福を体験させてくれます。学生は、現代の教育制度からどのように恩恵を受けているでしょうか? 学生たちは、ただ学位を手に入れて、権威者たちから高い評価を得てはいますが、教育というものの真の意味を理解していません。

 

 現代の学生は、スポーツや文化の行事に参加することの背後にある真の精神を理解することができていません。スポーツや競技といったあらゆる行事には、勝者と敗者がつきものです。人々は競技の結果だけに関心を持ち、スポーツの精神を享受することがありません。スポーツや競技の目的は、勝負の決着をつけることではなく、参加者にスポーツマン精神を教え込むことにあります。人生はゲームです、プレイしなさい。人生は夢です、それに気づきなさい。人生は愛です、楽しみなさい。これらの言葉の趣旨を理解し、日常生活でそれを実現する人だけが、真の学生です。

 現代の教育制度は、学生の識別力を育てる代わりに学生を狭量にしています。真の知識を与えることもなければ、学生たちが広い心を持つのに役立つこともありません。現代の教育は意味のないものになっています。学生たちに指定された教科書には、真の教育の核心が含まれていません。なぜ政府がそれほど無価値な教科書を奨励するのか、私は不思議に思います! おそらく、政府でさえその実態に気づいていないのでしょう。それは、低い地位にいる人が高位の関係当局に相談しないまま決定したかのように見えます。それは政府に悪名をもたらしていますが、誰もそのことを憂慮しているようには見えません。このような不健全な傾向が増加しています。

 古代の教育制度と結びついている神聖さを理解しようと努めている人は誰もいません。学生は、教育の核心にではなく、書物の知識だけに関心を抱いています。実践的な知識ではなく、教科書の知識だけがテストされています。学位は生計を得るための手段であると学生たちは考えています。教育は、生計を立てるためにではなく、人生のためにあるのです。ところが、学生も親もこの真理に気づいていません。親は、自分の子供が試験で良い成績を取れば嬉しく思います。親は、子供が得た悪い所見の山については、何の心配もしません。所見に関心を持ちさえすれば、親は子供たちが受けている教育がどんな類のものなのかをきちんと理解することができるでしょう。現代的な教育が進出してきたせいで、ヴェーダとシャーストラ〔天啓経典〕の学習は衰退してしまいました。このような状況下で、どうやって現代の教育が皆さんに真の英知を授けることができるのでしょう?

親と教師はもっと責任を負うべきである

 学生の皆さん! 皆さんは、あまねく社会と世界に恩恵をもたらすような教養を身につけるべきです。社会の現状はどうでしょう? 私たちはどのような方法で社会を理想的なものにすることができるでしょう? 人はどのようにして社会の進歩のために働くべきなのでしょう? 誰もこの種のことは考えていないようです。さらに、現代の教育制度は社会奉仕を重視していません。もし誰かが教育制度の改革について話をしても、学生たちはそれを無視します。学生たちは、教科書の知識が教育のすべてであり、目的であると考えています。年長者たちは学生に正しい教育を施す責任を持つべきです。学生たちは社会の名誉を守るべきです。私たちは教育の真の意味を伝えてくれた古の聖者や先覚者の教えに従うべきです。

 ただ単にいくつか学位を取得したからといって自惚れるのは、愚かさのしるしです。社会が必要としているものを理解し、自分の受けた教育を社会の発展のために生かすべきです。人々は、自分は社会に奉仕をしていると言っていますが、社会が何を必要としているかを本当には理解していません。そのような奉仕はサマージャ セヴァ(社会奉仕)ではなく、サマーディ セヴァ〔墓奉仕〕、つまり、生気のない、機械的な行為です。教育制度が正しく整えられたとき、社会は初めて発展するでしょう。

 西洋の教育への熱狂が増したために、ヴェーダ聖典の学習はおざなりにされています。親は子供が幼いころから、何が善で何が悪かを教えるべきです。親は、子供が大学の入学許可を手に入れて学位を取得することで満足してはいけません。親は、子供が自分の受けた教育を国への奉仕に活用することを確実にすべきです。この点について、政府はあまり多くのことはできないでしょう。子供を正しい方向に沿って導くのは親の責任です。親は、国の発展のために働くよう子供を奨励すべきです。しかし、昨今の親はそのような寛大な心を持ち合わせていません。教師でさえ、国家の安寧に関心を抱いていません。

 

 教師は、学生に書物の知識を教えることで自分の責任は終わりだと感じています。教師は、教科書に載っている情報は社会の役に立つものか、そうでないかを調べることさえしていません。教師は、その問題を政府に持ちかけようとしません。たとえ教師がそれを持ちかけても、政府は返答しません。彼らは、教育機関を学位保持者の生産工場にしています。この現状について、学生だけが責められるべきではありません。この情けない現状には、親と教師と政府に等しく責任があります。

 学生は、教室で良い順位を得て良い評判を手に入れたとしても、それだけでは不十分です。社会と国家の発展のために働いて、そうすることで親に良い評判をもたらすべきです。親は、折に触れて子供の進歩を観察し、子供に繰り返し功徳を説き聞かせ、責任ある市民に育て上げるべきです。親は、子供が良い点数を取ったからといって満足してはいけません。親は、子供が家でどんな種類の本を読んでいるかにも注意を払うべきです。無益な小説を読んでいる学生もいます。しかし、親はそれを矯正することに時間をかけようとはしません。逆に、親たちは、「小説を読むことに何か間違いがあるのですか? 子供が喜んでいるなら構いません」などと言う始末です。このようにして親は子供を駄目にしているのです。親たちは、自分の留守に子供がどう振る舞っているかを気にかけません。子供の振る舞いを正さず、ただ教育を受けさせるだけでは意味がありません。親たちは、最も理想的な方法で子供を育成した祖先たちの模範を見習うべきです。

学生に世俗と霊性の融合した教育を施す

 愛の化身である皆さん! 現代の教育制度は改革を必要としています。現代の親たちは、自分の子供が英語を媒体とする学校で学び、英語の詩を朗唱できることを自慢に思っています。彼らは、その現代的な教育が子供にどのような種類の打撃や影響を与えているかをわかっていません。幼稚園の小さな幼児たちは「バーバー、ブラック シープ」〔メーメー、黒い羊(厄介者)さん〕といった童謡を教えられています。このような教育のせいで、最終的に、子供たち自身が黒い羊〔厄介者〕になってしまうのです。学生たちの人生をすっかり台無しにしている現代の教育制度を見ると、私は本当に胸が痛み、うんざりしてしまいます。だから私は、学生の人格形成のために、何千万ルピーもかけて教育機関を設立したのです。

 

 私は教科書でさえ学生たちに無料で支給しています。今日の世界は状況が大変悪いため、小学校に入学するのにさえ、あらかじめ寄付として何千ルピーも支払うことで、上手いこと手続きをしなければなりません。親たちは、自分たちが良い学校だと思っている学校に子供が入学許可を得ると嬉しく思い、そのような教育制度のために生じる成果については気にかけません。子供は、親が子を教育するために窮乏に耐え忍ばなければならないことに対して、感謝をしていません。親たちは、子供を教育するために借金し、まともな食事や睡眠すら取っていません。結局のところ、子供たちはこの教育制度から恩恵を受け取っていないのです。

 子供は自分にとって何が良くて何が悪いのかを理解できません。今、教育の質がこれほど「チープ」〔低級〕になってしまったというのに、どうやってそんな教育が人を「チーフ」〔長〕にすることができるでしょう? 親も教師も学生も、現代の教育制度によって社会や国家がどのような恩恵を受け取るかを理解できていません。ですから、社会に完全な変革をもたらすために、親と教師と学生が皆、手を取り合って、一致団結して働くべきです。

 現在、学生たちの不安が増大しつつあります。しかし、それは学生の責任ではありません。学生たちは非常に良い素質を持っています。過ちは、教師と年長者と政府にあります。現代の教育制度が学生の人格を形成するように計画されていないことが、決定的な要因です。良い学生がたくさんいるのに、親と教師と教科書が学生たちを正しく導いていないのです。今は、親が目を開いて現状を理解する潮時です。親は、子供が適切な教育を受けることで子供の人生を向上できるようにすべきです。親は子供に、そうした、不滅をもたらしてくれる教育を受けるよう勧めるべきです。もちろん、世俗に関連した教育も必要です。しかし、学生の人格を形成して国家のより良い市民にするためには、世俗に関連した教育は霊的な教育と調和しているべきなのです。

 

教育の目的は人格であるべき

 

 学生の皆さん! 自分が高等教育を追求していることを自慢に思ってはなりません。高度な教養と共に、高潔な性質を養うべきです。美徳を欠いた教養は無益です。教育の目的は人格です。今日、多くの学生が、無益で、不道徳ですらある小説を読んでいます。関係当局は、そのような本が市場で販売されないことを確実にすべきです。学生は、自分の人格を向上できるような本だけを読むべきです。学生は真の精神でスポーツや競技に参加すべきです。

 

 このアドバイスは女子学生にも当てはまります。女子学生たちは、「男子がオートバイに乗っているのに、なぜ私たちは同じことができないのですか?」と尋ねます。このようにして、彼女たちは議論をして時間を無駄にしています。誰も女子はオートバイに乗るべきではないなどとは言っていません。しかし、人は時と状況に応じて行動すべきなのです。若い人の二輪車での死亡事故の件数が増加しています。親は子供を育てるために多くの犠牲を払っています。それなのに、その大切な命がオートバイの事故で失われたとしたら。私にはそのときの親の苦悶が分かります。

 今、女子たちは、あらゆる分野で男子と競争したがります。名声と評判も熱望しています。彼女たちの主張はこうです。「どういう点で私たちは男子より劣っているのですか? どうして私たちは男子と同じ種類の教育を身につけることができないのですか?」。しかしながら、人はそれぞれ、自分に見合った、適切な種類の教育を身につけるべきです。家族の面倒をよく見て、理想的なしつけで子供の人格を形成することは、女性にとって必要不可欠です。

 子供に美徳を教え込むのと同時に、適切な教育も施すべきです。現代の教育は、学生を誤った方向に導いています。親は、これに関して、ある程度の責めを負うべきです。親は、子供が高い資格を取得すること、高い資格を持つ相手と結婚することを望んでいます。縁談をまとめようとする時、次のように尋ねる親もいます。「うちの娘は大学院を修了しました。娘は器量が良いのです。お宅の息子さんはどうですか? 大学院を修了されましたか? 息子の顔立ちは良いですか?」。実のところ、美しさは人格と結びついたものであり、身体的な容姿と結びつくものではありません。人格の美しさこそ、人が切望すべきものです。大学院を修了した花嫁が、必ず大学院を修了した花婿を得ることは可能でしょうか? 現代の教育は不健全な競争と対立をもたらしています。私は、女子は高等教育を追求すべきではないと言っているのではありません。もし私が女子の教育に不賛成であれば、なぜ女子大学を設立しなければならないのでしょう? 私は、学生に美徳を教え込むという唯一の目的を持って、さまざまな教育機関を設立しました。私は無料で教育を提供しています。受験料さえありません。私のもっぱらの目的は、学生が正しい教育を身につけて、理想的な市民となり、両親を幸せにすることです。

 

 学生の皆さん! 私の言葉を誤解してはなりません。私は皆さんの安寧と繁栄のために、これら一切を話しているのです。皆さんは、自分に良い評判をもたらしてくれるような教養、家族の名声を守ってくれるような教養を得るべきです。自由の名の下に利己的になって、誤った道を歩んではなりません。私は、道を歩いている時はあちこちよそ見をしないようにと、たびたび男子学生に警告しています。中には、猛スピードでオートバイを運転しながらすれ違う若い女性を見続けている男子もいます。彼らは注意がそれて事故を起こす羽目に陥ります。もし、あなたの人格が善良であれば、あなたは常に守られるでしょう。自分の五感をいつもきちんとコントロールしているべきです。自分の見るもの、聞くこと、話すことを、いつもチェックしているべきです。仏陀は、五感を支配する目的でさまざまな霊性修行に着手しました。

 

なぜ、あなたに目が与えられたのか?

それはあちこち見るためか? 否

目は神の美しい姿を見るために与えられた

なぜ、あなたに耳が与えられたのか?

それはつまらぬ噂話を聞くためか? 否

耳は神の栄光を聞くために与えられた

(テルグ語の詩)

 

 耳は善い言葉を聞き、それらを実践し、そうすることによって有徳な人生を送るために与えられているのです。仏陀は、神が有徳な人生を送る目的で感覚器官を授けたことに気づいたため、儀式化したあらゆる霊性修行を捨て、自分の五感を神聖な使い方で用いました。仏陀は、自分が人生で獲得しなければならないのは美徳であって、五感の喜びではないことを確信しました。仏陀は、自分の良心が自分の真の導師〔グル〕であることを悟り、目や舌といった感覚器官を制御する努力をしました。この二つの感覚器官が制御されるなら、他のすべての感覚器官は自動的に制御できるようになります。こうして、人生における自分の目標を定めた仏陀は、妻と一人息子を捨て、広い世間に足を踏み入れました。

 しかし、私は皆さんに、仏陀のように妻子を残して森へ入るよう勧めているわけではありません。皆さんは、妻子の面倒をよく見て、妻子に対する責務を果たしなさい。自分の子供に高潔な性質を教え、世の中で子供を育てなさい。有徳の人生を送りなさい。これが仏陀の教えたことです。もしあなたが仏陀のようにサムヤク ドリシティ〔正見/サムヤク ドルシティ〕を養うなら、全世界はあなたの配下に入ることでしょう。

有徳の人生のために懸命に努力せよ

 他の人の誤った助言に注意を払ってはなりません。高潔な性質を育てなさい。もしあなたが自分の五感を制御することができれば、叙事詩バーガヴァタの精髄を悟ることになります。叙事詩バーガヴァタの学習は、人を有徳の人に変えることを意図しています。ですから、自分の五感を制御して、この世の主人となりなさい。これこそ、皆さんが目下、懸命に努力しなければならないことです。両親にも人生における自分の優先事項について説明しなさい。両親にこう言いなさい。「お母さん! お母さんは私が高給をもらえる仕事を選ぶことを期待しています。でも、高い給料は有徳の生活ほど重要ではありません。もし高潔な生活よりもお金を優先するなら、人生そのものが台無しになってしまうでしょう」

 自分の五感を制御し続ければ、あなたは高潔な性質の人となるでしょう。人格の強さも手に入れるでしょう。主ラーマの傑出した召し使いであるハヌマーンは、そのような高潔な性質の模範です。ハヌマーンは、「サントゥドゥ」(穏やかで落ち着いている者)、「グナヴァントゥドゥ」(有徳の者)、「バラヴァントゥドゥ」(大きな力強さを持つ者)と称えられています。ハヌマーンは、自らの高潔な性質のゆえに、偉大な導師〔グル〕となりました。私たちはハヌマーンの高潔な性質を見習うべきです。

 愛しい学生の皆さん! 皆さんは純金のようです。皆さんは高潔な性質の数々を持っている人たちです。皆さんは貴重です。ところが、皆さんの中には、悪い要素によって、誤った方向へ導かれる者もいます。たとえ他の人々が皆さんを誤った方向へ導こうとしても、自分が選んだ道からそれてはなりません。しっかりと踏ん張りなさい。そうして初めて、あなたは名声と良い評判を手に入れるでしょう。これは学生への私のアドバイスです。

 皆さんは、現代の教育を通して、職業で出世することのできる技能を教えられていますが、誰も皆さんに道徳教育を教えてはいません。道徳は、教育の最も重要な側面です。お金は入っては出ていきますが、道徳は入ると育ちます。ですから、道徳を養いなさい。それはあなたに社会からの尊敬をもたらすでしょう。

 あなたがどこにいようとも、

森の中であれ、空中であれ、都会であれ、

村であれ、山の頂上であれ、深海の真ん中であれ、

神が、あなたの唯一のよりどころ

〔テルグ語の詩〕

 高潔な性質を養いなさい。私があなたにすべてを与えましょう。それどころか、高潔な性質を養う人、そして、それらを教える人には、私自身を与えましょう。実際、私はそのような人々のためだけに生きているのです。私は彼らから何のお返しも求めません。徳のある高潔な生活を送りなさい。両親と母校とスワミに良い評判をもたらしなさい。

 

 愛しい学生の皆さん! 皆さんは全員、高潔な性質を備えた人たちですが、ある程度、現代社会の影響を受けています。ですから、心を乱す影響力に打ち負かされてはなりません。何よりもまず、自分の五感を正しく使いなさい。あなたが出会う年長者全員を、自分の父や母として敬いなさい。あなたの思いと言葉と行動によって、良い評判を得なさい。

 善良な仲間に加わり、善い言葉を話し、サムヤクドリシティ〔正しい見方〕を養い、あなたの人徳を形成する善良な教育を受けることを追求しなさい。それこそが、私が学生の皆さんに期待していることです。実際、これは皆さんの両親も望んでいることです。子供が台無しにされるのを期待する父親や母親はいません。しかし、親は一種の遠慮から、子供に適切な助言を与えたり子供をきちんと正したりすることができずにいます。もちろん、私にはそのようなためらいはありません。ですから私は、私が命じていることを強調して、皆さんに、善いものを見なさい、善くありなさい、善いことをしなさい、と助言します。高潔な性質を養いなさい。ボーガ(享楽)ではなく、ティヤーガ(犠牲/手放すこと)こそが、あらゆる性質の中で最も高潔なものです。実際、ボーガ(享楽)は、あなたをローガ(病気)へと導きます。ヴェーダは次のように宣言しています。

ナ カルマナー ナ プラジャヤー ダネーナ

ティヤーゲーナイケー アムルタットワマーナシュフ

行為によっても、子孫によっても、富によっても、不滅の命は手に入らない。

不滅の命は犠牲によってのみ手に入る。

 

 それゆえ、バンガール〔黄金〕たちよ! ティヤーガ(犠牲/手放すこと)といった高潔な性質を養いなさい。私は皆さんのためなら何でも犠牲にする覚悟です。しかし、皆さんも私の恩寵を受け取るにふさわしい立場にいなければなりません。私は皆さんのものであり、皆さんは私のものです。それが私たちの間にある関係であるべきです。スワミの愛を理解しようと努めなさい。この一切は、正しい道を歩むようにと、皆さんに助言しているのです。両親の願いに背いてはなりません。もし万が一、あなたの意見が親の意見と違ったら、愛をもって自分の見解を親に説明しなさい。両親も、あなたが親の気持ちを尊重してくれていることを嬉しく感じるでしょう。

 

 ヴェーダは宣言しています。

マートゥル デーヴォー バヴァ

ピトゥル デーヴォー バヴァ

アーチャールヤ デーヴォー バヴァ

アティティ デーヴォー バヴァ

 

母を神として敬いなさい

父を神として敬いなさい

霊性の師を神として敬いなさい

客人を神として敬いなさい

 親に優しく穏やかに話しなさい。もし必要であれば、親を説得しなさい。私は、そのような学生のためなら、何でも犠牲にする覚悟があります。さまざまな学生が私たちの教育機関に入学してきます。中には学費を払えない学生がいるかもしれません。そのため、私たちは、サティヤ サイの学校ではすべての教育を完全に無料化すべきであり、学生からは一銭も徴収しないことに決めたのです。皆さんは、あらゆる心配から解放されて平安を楽しむべきです。善良な振る舞いをすることによってこそ、平安を手に入れることができます。今、いく人かの学生は、人生で良いことを味わいたいと願いながら、間違った方法に従っています。彼らは、砂糖を食べたいと望みながら、苦い丸薬を飲んでいるのです。彼らは、言っていることと別のことをしています。だからこそ、次のように言われているのです。

マナッスィエーカム ヴァチャッスィエーカム

カルマンニェーカム マハートマナム

マナッスヤンニャト ヴァチャッスヤンニャト

カルマンヤンニャト ドゥラートマナム

 思いと言葉と行動が完全に一致している人は高潔な人間であり

思いと言葉と行動が一致していない人は

邪悪な人間である

 私は、思いと言葉と行動が完全に一致している学生が好きです。彼らのためなら、私は何でも犠牲にする覚悟があります。それどころか、そのような人々には私自身を与えるでしょう。

 愛しい学生の皆さん! 皆さんは、間違っていると知りながら、あるいは、そうとは知らずに、過去に過ちを犯してきたかもしれません。しかし、少なくともこれからは、善良な性質を養い、いつも両親とスワミを幸せにし続けるよう努めなさい。

 

 (スワミは小学校と中高等学校と三つのキャンパスから来た学生をお呼びになり、〔前日行われた〕スポーツ文化祭での学生たちの活躍を賞賛して、光り輝く銀のトロフィーを授与なさいました。)

 

サティヤ サイ ババ述

サンクラーンティ

2004年1月15日

プラシャーンティ ニラヤム

Sathya Sai Speaks Vol.37 Ch3

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​愛によって
もたらされる​神性

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あなたのハートの中に
​寺社を建立しなさい

 

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愛によって
もたらされる神性

1987年クリスマスのババの講話

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さまざまな信仰を持つ男女が

世界各地から愛と謙虚さを携えて

快適か快適でないかを

気にかけることなく

数々の苦難に耐えながら

ここに集まった

すべてはババの恩寵を得るために!

蔓延(まんえん)する無神論を払拭し

神への信仰を植え付ける

すべてを包み込むサイの愛が

人類を変容させ、神へと導いている

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​愛によってもたらされる神性

 神の愛の化身たちよ! 人間は、身体的には基本的な違いはありませんが、習慣や考えや感情には多くの違いが見られます。すべての国は人間の集合体です。世界全体の自然環境はそれほど違いませんが、諸国の人間社会における生活様式の違いはかなりのものです。これは人間の状態の大きな特徴の一つです。

 

 真理は一つです。真理は心(マインド)や言葉を超えています。真理は時間や空間というカテゴリーを超えています。数え切れないほどの求道者が真理を認識するためにさまざまな道を追求してきました。真理を求める人々の間には顕著な違いが存在します。この違いは宇宙の本質に影響を与えるものではありません。逆に、こうした違いは宇宙のプロセスを理解する上でのさまざまな段階であると考えなければなりません。こうした違いこそが、統一的な原理を探求し続けることを促してきたのです。

究極の真理は一つ

 インドの形而上学の六つの学派(シャド ダルシャナ)〔六派哲学〕は、過去の偉大な求道者たちによって私たちに提供されてきました。この神聖な教えは、今日ではほとんど注目されていません。それぞれのダルシャナ〔学派〕が示している霊的な道は異なるように見えますが、目的は共通しており、彼らが宣言する究極の真理は一つです。国内におけるさまざまな宗派や共同体の違いや、人々の間に蔓延してきた唯物論のせいで、六つのダルシャナの教義は真剣に追求されていません。唯物論の教義があまりにも世界を席巻しているため、インドの形而上学〔六派哲学〕の偉大さが評価されていません。この哲学を適切に検討するための環境さえも存在していないように見えます。

 

 唯物論者の教義は、チャイタニヤ(意識/チャイタンニャ)は感覚的な経験の産物である、そして、意識の進化は物質の進化に依存し、物質の進化に基づくものであるという前提で進んでいます。無生物である物質が、唯物論者の教義の基礎になっているのです。物質は有限です。ヴェーダの教義は、意識は体の感覚から生じるものであり、体の感覚は有限で限られた物質に起因するものによって制限されている、という見解を否定しています。意識に対する物質の優位性という概念の誤りを示すために、この唯物論的な教義とは真逆の、アーディヤートミカ〔アートマに関係する〕(霊的)な見解が投じられたのです。

人間と自然

 霊的な見解では、基本はアートマ(神霊)〔真我〕です。アートマは無限です。ヴェーダーンタの教義は真我の無限性を宣言し、物質は不活性で有限であることを指摘しました。シュルティ〔ヴェーダ〕は宣言しています。

トリパーダッスヤームルタム ディヴィ

〔彼の輝きの4分の3は不滅の領域にある〕

〔プルシャ スークタムより〕

 4分の3を意識が占め、4分の1は不活性な物質です。したがって、物質を動かしているのは意識であって、物質が意識を生み出しているのではないのです。これは霊的な概念の本質です。

 

ウールドヴァ ムーラム アダハサークハ

(根は高いところにあり、宇宙の木の枝は下にある)

とギーターは述べています。これは、物質である宇宙は普遍意識から生じたという見解をさらに裏付けるものです。

 ジャダ(物質)を活性化しているのはチャイタニヤ(意識/チャイタンニャ)であり、意識を生み出しているのは物質ではありません。現代のテクノロジーは、すばらしい機器を生み出し、新しいエネルギー源を利用し、宇宙空間の月や他の惑星を探査する宇宙船を作り出しました。しかし、これらの機器はすべて自力で作動しますか? いいえ、しません。その背後には人間の創意工夫と知性があるのです。どんな機械より人間のほうが偉大です。

 人間は意識の化身です。機械を動かすのは意識であり、不活性な物質は意識を創造することができないというのは、議論の余地がないほど明らかです。人間は創造物の中で最も高次のものです。人間は、自然に支配される動物のような本能の生き物であってはならず、自然の主人になるべきです。人間は、ナラ(人間)からナーラーヤナ(神)へと進歩しなければなりません。知的な人間として、自分はサムサーラ(サンサーラ/世俗の鎖)に縛られていると考えるべきではありません。人間を縛っているのはこの世ではありません。この世には、見る目もつかむ手もありません。人間は自分自身の思考と欲望に捕らわれているのです。はかないものや壊れやすいものに執着する中で、人間は自分が生来持っている神性を忘れてしまい、宇宙のすべてのものは神から来ていて、神の力なしには存在できないということを理解していないのです。

宇宙における神性

 宇宙は、永遠なるものである無限の実在(ブラフマン)の投影であり、ブラフマンとは別のものではありません。

サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト

(全世界には神が浸透している)

 この真実が認識されれば、人が知覚したり経験したりするものはすべて神の顕現であることが明らかになるでしょう。すべての木はカルパヴリクシャ(願いをかなえる木)です。すべての仕事場は神の社(やしろ)です。多くの人は、自分は神との一体感を実現するために霊性修行に取り組んでいると思っています。さまざまな霊性修行やさまざまな形式の礼拝は、個人的な満足感を与えるかもしれませんが、神の悟りはもたらしません。神は誰からも何も必要としません。神は供物を求めず、供物を喜ぶこともありません。神はあなたと違いません。あなたを神から引き離しているのは、あなたの好き嫌いです。欲望や嫌悪感を取り除いたとき、あなたは自分が生来持っている神性に気づくでしょう。人が行っているあらゆる霊性修行、あるいは、供養礼拝における儀式の遵守は、心(マインド)を浄化してエゴをなくすのに役立つだけです。人類は、すべての人間に内在する神性を認識することによって、人類の一体性という理想を目指して努力すべきです。

罪と悔い改め

 キリスト教徒の間では、自分の罪を許してくださいと神に祈るという古くからの習慣があります。教会には、信徒が自分の罪を告白し、現金を供えて、教皇や司祭から贖罪(しょくざい)を得るという習慣があります。悔い改めと神への供物によって罪をあがなうという信仰は、インドでも広く浸透しています。こうした習慣は、神に対する誤った認識に基づいています。人々は、神の本質を真剣に探究し、真実に基づかない迷信的な信仰を一掃するよう努めるべきです。

 

 探求の精神は、キリストより何世紀も前に古代ギリシャ人の間で広まっていたということに注目すべきです。ソクラテスは、アテネの若者たちに探究心を芽生えさせた偉大な師です。ソクラテスは、真理を追求するあまり、弟子の助けを借りて逃亡するよりも、故郷での死を選びました。ソクラテスは、命にも財産にも所有物にも価値を置きませんでした。

イエスと金持ちの男

 イエスも富や地位に価値を置きませんでした。イエスがマルタとマリアの家にいた時、ある金持ちがイエスのもとを訪れました。その金持ちは、自分はあらゆる財産を持っているにもかかわらず心の平安がないのだとイエスに言いました。彼は多くの心配ごとに悩まされており、出口を示してほしいとイエスに訴えました。イエスは彼に言いました。

 

 「簡単な方法がありますが、あなたはそれに従いますか? あなたは富を蓄え、それに伴って心配ごとも増えています。いつかは置いて逝かなければならないその富を、あなたはどうするつもりですか? 貧しい人や困っている人に分けてあげれば、あなたの心配ごとはなくなるでしょう。人類同胞を愛することによって、財産ではなく神の恵みという富を蓄えなさい」

 

 これは、今日、理解されなければならないメッセージです。人々が求めるべきことは、神の愛を得ることです。それ以外の富の形は、学識という富も含めて、価値のないものです。

 

 イエスは、富める者に厳しくし、貧しい人や病人に尽くすことによって、神への信仰に基づいた新たな生き方を弟子たちに教えました。神の使者としての聖職を始めたイエスは、最終的に「私の父と私は一つである」と明言しました。聖パウロは、最初イエスを頑固に批判していましたが、夢でキリストを見て、その夢の中でイエスに「すべての人は神の火花である。私を憎むことはあなた自身を憎むことであり、神を憎むことである」と言われてから、キリスト教の最初の伝道師になりました。キリストのメッセージを広める中で、パウロは多くの試練に直面しました。初期のキリスト教徒たちは、ローマの支配者たちによる迫害を受けました。時が経つにつれ、キリスト教の信仰はローマに定着し、ローマはカトリック教会の本拠地となりました。

「天の国はあなたの中にある」

 キリストは、神は愛によってのみ悟ることできると明言しました。ある時、エルサレムの大祭司がイエスを呼んで尋ねました。「そなたはユダヤ人の王なのか?」イエスは「私はそうは言っていません」と答えました。大祭司はイエスに言いました。「そなたは間違った教えで人々を迷わせている。そなたは人々に、皆そなたを通してのみ天国に入れると言っている」。イエスは、自分は人々に天の王国を求めるようにと言っているのだと述べました。祭司は「その王国はどこにあるのか?」と尋ねました。イエスは答えました。「天の王国は、あなたの中に、万人の中にあります。これが私の教えであるとき、どうして私が天の王国は私を通してのみ到達できると主張していると非難されることができますか?」

 イエスはこのように話す勇気をどうやって得たのでしょうか? それはイエスが真実を公言していたからです。真実は愛から生まれ、愛は神への信心から生まれます。

信あるところ、愛あり

愛あるところ、平安あり

平安あるところ、真実あり

真実あるところ、至福あり

至福あるところ、神あり

 

 バーラタ〔インドの呼称/神を愛するものの意〕では、神性はブラフマー神、ヴィシュヌ神、マヘーシュワラ神〔シヴァ神〕という三つの姿で存在すると信じられています。これら異なる姿の神を見た人は誰もいません。これらの形態は特定の方法で信仰を深めるために考え出されたものです。この三位一体の神は、誰の中にも象徴として存在しています。ハートはイーシュワラ〔シヴァ神〕と見なされます。その意味は、ハートは人間の内にあるアートマ原理を象徴しているということです。このハートというのは肉体の心臓のことではなく、霊的なハートのことです。ハートは神性と愛の原理を表しています。アートマは限りないものであり、ですから、愛にも限界はありません。心の狭い人々は自分の愛に限界を設けるかもしれませんが、神の特性としての愛は無限です。

「あなたは神」

 心(マインド)はハートから生じました。心(マインド)はすべてに浸透しています。

マノームーラム イダム ジャガト

(心は宇宙の土台)

 心(マインド)はヴィシュヌ神を象徴しています。「ヴィシュヌ」という単語は「宇宙のあらゆるものに浸透しているもの」を意味します。心(マインド)がハートから生じたように、ヴィシュヌの原理はイーシュワラの原理から生じました。ブラフマーはヴィシュヌから生じたと言われています。人間においては、心(マインド)からアハム(自我)が生じ、ブラフマーはアハムの象徴です。これが三位一体の神の深遠な解釈です。三位一体の神は誰の中にも存在するということです。ハートはイーシュワラ、心(マインド)はヴィシュヌ、そして、「私」はブラフマーです。自己をブラフマー神と見なせば、あなたの思考と行いは道から外れなくなるでしょう。心(マインド)は中にある不純物を取り除くことによって、解脱を得る手段となります。すべての霊性修行は心(マインド)を浄化するためだけにあるのです。心(マインド)が清らかになれば、おのずと神を経験することができます。

 神はあなたと別のものではありません。あなたは神です。この確信があなたの中で大きくならなければなりません。最初のうちは、あなたは自分を単なる人間だと思っています。それから、自分の潜在的な神性に気づく段階に到達します。最終的に、あなたは自分の神性を理解する段階に到達します。この3つの段階はイエスの生涯にも見ることができます。最初、イエスは「私は神の使者です」と明言しました。次に、イエスは「私は神の子です」と言いました。最終的に、イエスは「私と私の父とは一つです」と断言しました。こうした過程を経て、キリストは神との一つになることを達成したのです。

 あなたは、今この瞬間から、神と一つになるための旅に出なければなりません。時間は誰のことも待ってはくれません。すべての努力を、神を悟ることに傾けなさい。そのためにはまず、エゴをなくすことが必要です。エゴを取り除かなければ、神性の至福を経験することはできません。これ見よがしの礼拝は用をなしません。富も権力も地位も、霊的な探求には役に立ちません。それらは平安を与えることも、人間に常につきまとっている恐怖を取り除くこともできません。信仰心のある人だけが、恐怖から完全に解放されます。ですから、神への信仰を深め、神に導かれた人生を送りなさい。神への信仰を手放さなくても、学問や趣味を追求することはできます。今起こっていることは、人々は富を追求する中で神を忘れているということです。人々はアートマ〔真我〕ではなくアンナム(食べ物)を求めています。アートマを悟れば、他のすべてのものは大きな努力なしで得られるでしょう。

3つの格言を心に留めていなさい

 真我を悟った人は自分の人生を救ったのです。自分の欠点を自覚している人は祝福されています。他人の良いところを見る人も、同様に祝福されています。すべての人に愛を示しなさい。

 

 今日、ここに多くの国から人々が集まっています。彼らは何のためにここに来たのでしょうか? 彼らは富を欠いていません。快適さも欠いていません。彼らは自国でいろいろなことを楽しんでいます。しかし、彼らは霊的な悟りからのみ生じることのできる真の至福を経験していません。そして、そのために彼らはやって来たのです。自分の心(マインド)をアートマ〔真我〕に向けなさい。アートマは無限です。「私のもの」、「あなたのもの」という考えを捨てなさい。自分たちは全世界の守護者である一なる神の子供であると考えなさい。三つのことを心に留めなさい。それは、神への愛、罪への恐れ、社会の道徳を守ることです。

 神への愛のない人は、簡単に罪を犯し、すべての道徳的価値を失います。神への愛は罪への恐れを強め、その人に道徳的な生活を送らせます。この三位一体の原則は、三位一体の神のようなものです。それはトリカラナ シュッディ(思考と言葉と行いの清らかさ)を助長します。その清らかさを備えて行うことは何であれ、神の悟りの助けとなります。何よりも、愛を育みなさい。皆さんをここに連れてきたのは、愛です。愛を強めなさい。愛は神です。愛の中で生きなさい。どのような礼拝の形を選んでも、あなたの好むどのような霊的な道をたどってもかまいません。あなたのハートを喜ばせるものは何であれ、神を喜ばせるでしょう。あなたの良心の指示に従い、ハートを愛で満たし、神の至福に浸りなさい。

 

サティヤ サイ ババ述

1987年12月25日

前例のない外国人とインド人の信者の集まりへの

クリスマス メッセージ

プールナチャンドラ講堂にて

Sathya Sai Speaks Vol.4 C4

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あなたのハートの中に
寺社を建立しなさい

グントゥールでの

新マンディル落成式での

ババの御講話

​あなたのハートの中に社寺を建立しなさい​

 このマンディル(寺社)を建てたのは皆さんです。それは私を満足させることではありません。皆さんのハートの中に建てられた寺社だけが、永久的なものです。寺社の建設に費やされる金額は、貧しい人々や困っている人々への奉仕のために、もっと有効に使うことができたでしょう。
 

 人間のほとんどすべての活動は、スワールタム(利己心)に動機づけられています。利己心は、人間の中に内在する神性と対立するものです。その神性を顕現させることなしに、人間はどうやって内的にも外的にも平安を達成することができますか?
 

 個人・社会・世界 —— この3つは表裏一体です。個人の福祉は、国家の状態に左右されます。誰もが自分の霊的な資質を高め、それを地域社会や国の利益の増進に役立てるよう努力すべきです。社会への奉仕が、個々人の絶えざる関心事になるべきです。
 

 人間の内にある性質の中で、無私の愛に優るものはありません。無私の愛は、他者への奉仕として自らを現します。そのような愛は、真の至福の源泉です。
 

 カルマとカルマヨーガの関係をきちんと理解すべきです。執着や欲望を伴ってなされる普通のカルマ(行い)は、束縛を生みます。一方、無欲で無私の行いは、カルマヨーガ〔行いによって神との合一を果たす行〕となります。私たちの生活は、ローガ(病気)ではなく、ヨーガ(神との親交)となるべきです。


 今日、私たちの行いのほとんどは、五感の快楽と結びついているために、「ローガ」(病気)をもたらします。この病気からの解放は、霊的な道を歩むことによって手に入れることができます。霊的な道というのは、単にバジャンを歌ったり、讃歌を唱えたりすることではありません。これらは善い行いですが、完全に神への捧げものとして行われた行為だけが、霊的と見なされるのです。
 

 真我について無知な状態にある人は、まだ咲いていない花のつぼみのようなものです。花が咲くと、花は周囲に香りを放ちます。それと同様に、自分の内にある神性を実感認識した人は、光と力の源となります。
 

寺社は思い出させるものとして役に立つのみである
 

 なぜ寺社を建てる必要があるのですか? 理想は、あなたのハートを神が宿る神殿にすることです。しかし、これは誰にでもできることではありません。

 石造りの神殿は、神の存在を思い起こさせるものです。弁護士に会うと、あなたは法的な問題を思い起こします。医者を見れば、自分の病気のことを考えます。それと同じように、寺社を見ると、あなたは神を思い出します。


 寺社は、思い出させるものとして役に立つのみです。一方、真の礼拝は、それぞれの内にいる神への心からの信愛から成るものです。ハートの神殿を清めるためには、あなたの人生を奉仕に捧げなければなりません。サティヤ サイ オーガニゼーションを他の霊性団体と区別するのは、サーダナ〔霊性修行〕の精神で行われるそうした献身的な奉仕です。老若男女を問わず、数え切れないほどのサイの帰依者たちが、サイへの愛により、さまざまな形で奉仕をしています。人々はスワミのヴィブーティ(聖なる灰)とスワミの奇跡について話します。しかし、本当の奇跡は、スワミの限りない愛です。この愛こそが、数え切れないほどの帰依者に、無私の奉仕に従事するよう促しているのです。


人生の浮き沈みは、私たちに教えを与えてくれる
 

 この愛に優るものはありません。皆さんは、その愛によって私に引き寄せられているのです。愛を与え、愛を受け取る。これが私の取り引きです。この「取り引き」から得られる「所得」がどの程度のものであるかは、所得税担当者には分かりません。

 

 私のアーナンダ(神聖な至福)には限りがありません。私は常に至福に浸っています。それは、私の至福は愛と結びついていて、他のどんな物とも結びついていないからです。もしあなたがこの道を歩むなら、あなたもこの、言葉では言い表すことのできないアーナンダを得ることができるでしょう。あなたはあらゆる種類の平安を実感認識することでしょう。
 

 幸運と不運、幸せと悲しみ、失うことと得ることを、同じ心で見なさい。これらは、暑さと寒さ、夏と冬のように、自然の産物です。これらにはそれぞれ役目があるのです。それと同じように、人生の浮き沈みには、私たちへの教えがあるのです。実際、人生に反転がなければ、神性を経験することはできないでしょう。闇がなければ、光に価値を置くことはできません。困難を経験することなしに、利益を享受することはできません。心の平安がないからこそ、私たちは永続的な平安を実現するための方法を求めざるを得ないのです。ウパニシャッドは、「手放すことによってのみ、不死を得ることができる」と宣言しています。永続的な平安と至福の秘訣を発見するために、人は「手放すこと」を身につけるべきです。

シュリ サティヤ サイ ババ述

1983年4月6日

新マンディル

「サティヤ サイ シャーンティ シュッダ」の落成式

グントゥール県にて

Sathya Sai Speaks Vol.16 C8

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​母の恩寵の重要性

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​バーラタの栄光を
取り戻しなさい

 

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​母の恩寵の重要性

1999年女性の日のババの講話

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ジャスミンやキンコウボクのような

甘い香りの花よりもかぐわしく

チーズやバターよりも柔らかく

孔雀(くじゃく)の瞳よりも美しく

月光よりも快いもの

それは母の愛

(テルグ語の詩)

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​母の恩寵の重要性

 愛の化身たちよ! 動けるものと動けないものが存在するこの世界は、シヴァの宇宙の舞(シヴァ ターンダヴァ)にほかなりません。この至福あふれるシヴァ ターンダヴァは、畏敬の念を起こさせ、驚きに満ち、人間の理解を超えています。昼と夜、喜びと苦痛、生と死という二元性には終わりがありません。誕生と死が自然なことであるのと同じように、ダルマとアダルマ(正義と非正義)の存在も自然なことです。ダルマが隆盛になればアダルマは衰退し、アダルマが隆盛になればダルマは衰退します。男性も女性も、このダルマとアダルマの隆盛と衰退の責任を負っています。人間は、内なる神性に気づくことができず、神と自分は違うものであると錯覚しています。

シヴァ シャクティの原理

 スマティーは、夫の命を救うために太陽が昇るのを止めさせることさえできました。サーヴィトリーは、死んだ夫をよみがえらせることさえできました。彼女たちはその力をどこから得たのでしょうか? それは、彼女たちの信愛と純潔の力です。信愛と熱意を持って神を礼拝するとき、神の性質であるサッティヤム・シヴァム・スンダラム(真・善・美)がその人の中に姿を顕わします。このまぶしく輝く神の力は、人の中に潜在しています。カムサが自分の妹デーヴァキーを殺そうとした時、夫のヴァスデーヴァが間に入ってデーヴァキーの命を救いました。それはヴァスデーヴァが生来持っていた神の力によって可能となりました。神の力を得るには、なんら特別な努力をする必要はありません。神の力はあなたの中にあります。神の力は、あなたが我を忘れて神を憶念したとき、初めて顕れます。

 人間は、自分が持っている神の性質を忘れて、神は自分とは別のものだと思い、神を得ようとさまざまな霊性修行をします。人々は、ラーマ、クリシュナ、イエス、アッラーといった異なる御名で神を崇めます。しかし、ただ一つの根源的な力が存在するのみであり、それはシヴァ シャクティという形にほかなりません。シヴァ シャクティの原理はすべてに浸透しています。この世界は、バヴァーニー シャンカラ〔命を与える者という意味のパールヴァティー女神の別名と、至福を与える者という意味のシヴァ神の別名〕という、非常に意味深い名前を持っています。バヴァーニーはシュラッダー〔シラッダー〕(揺るぎない信愛)を、シャンカラはヴィシュワーサ〔ヴィッシヴァーサ〕(信念)を意味します。それはつまり、世界はシュラッダー(揺るぎない信愛)とヴィシュワーサ(信念)という二つの原理に基づいているということを意味しています。バヴァーニーとシャンカラは不可分で、相互に依存しており、すべてに浸透しています。ですから、全世界はアルダナリーシュワラ〔半身がパールヴァティーで半身がシャンカラという両性具有の神〕の姿なのです。このことに基づいて、「シュリーマティー」〔シュリーマト〕と「シュリー」〔シュリ〕という語が、女性、男性のそれぞれの呼びかけに使われているのです。「シュリーマティー」はバヴァーニーを現しており、「シュリー」はシャンカラを象徴しています。あなたの崇める御名と御姿がどのようなものであろうとも、確固たる信愛と信仰心を持つことが必要です。この二つがなければ、あなたは人生において何事も成し遂げることはできません。

シラッダーヴァム ラバテー グニャーナム〔ニャーナム〕

(揺るぎない信愛を持っている者だけが英知を得る)

 

 信念を通してのみ、人は内なる神性を認識することができます。人の内にある神性は、バヴァーニーとシャンカラの結合体です。

神はあなたがしているすべてのことの目撃者

 

 全世界は、イッチャ シャクティ(意志の力)、クリヤー シャクティ(行動の力)、グニャーナ シャクティ(英知の力)の結合体です。イッチャ シャクティ(意志の力)は心(マインド)と関連しており、クリヤー シャクティ(行動の力)は身体、グニャーナ シャクティ(英知の力)はアートマ〔真我〕と関連しています。これが、あなたは一人の人間ではなく三人の人間であると言われる理由です。一人は、あなたが自分だと思っているあなた(身体)、もう一人は、他人があなただと思っているあなた(心体)、そしてもう一人が、本当のあなた(アートマ原理)です。あなたは本質的には神なのですが、そのことを理解することができずにいるのです。ヴェーダは宣言しています。

サルヴァタッ パーニパーダム タット

サルヴァトークシ シロームカム

サルヴァタッ シルティマルローケー

サルヴァマーヴルッティヤ ティシタティ

(その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している)

 神は、あなたがしているすべてのことの目撃者です。あなたは誰かをだますことができるかもしれませんが、神はだませません。なぜなら、神は常にあなたの中にいて、あなたと共にいるからです。

 

 バヴァーニー シャンカラの恩寵がなければ、あなたの努力はすべて無駄になるでしょう。名と姿が重要ではないのは、名と姿は変化するものだからです。身体は水の泡のようなものであり、心(マインド)は狂った猿のようなものです。これらを信頼することはできません。しかし、これらの内には、真実で永遠のものが存在しています。それは神性です。この隠れた神性を顕現させるためには信愛を養う必要があり、それによってあなたの信念は強まります。木は、根が深く伸びれば伸びるほど大きく強くなります。それと同様に、信念は、信愛が深まれば深まるほど強くなります。もしあなたに信念と信愛が欠けていたら、どんな御名も御姿も決してあなたを助けないでしょう。

 

 どの人の内にも無限の神の力が潜んでいます。もし、あなたがそれを顕わすことができれば、スマティーがしたように太陽が昇るのを止めることも、サーヴィトリーが証明したように死者をよみがえらせることもできるのです。神の力を顕現させた時、あなたは神になります。

 

神はあなたが得るに値するものは何でも与える

 アートマは遍在です。アートマを経験するためには、確固たる信愛と信念を持っている必要があります。今日、人々は、ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ(世界のすべての人が幸せでありますように!)と祈ります。それは、シュラッダー(揺るぎない信愛)とヴィシュワーサ(信念)が育まれたとき、初めて可能となります。喜びや悲しみは流れゆく雲のようなものです。それらは来ては去っていきます。道徳心は、芽生えると育ちます。ですから、道徳心を養いなさい。富や地位や権力を熱望してはなりません。神は、あなたが得るに値するものは何でも与えます。神への愛を育てなさい。それは最高のサーダナ〔霊性修行〕です。

 

 今日、人々は神に到達するためにさまざまな霊性修行をします。しかし、そのすべては精神的な満足をもたらすだけです。ナーラダ仙は、九つの信愛の道を広めました。それは、シュラヴァナム(聴くこと)、キールタナム(歌うこと)、ヴィシュヌ スマラナム(神を憶念すること)、パーダセーヴァナム(蓮華の御足に奉仕すること)、ヴァンダナム(崇敬すること)、アルチャナム(礼拝すること)、ダースヤム(神の召し使いとして奉仕すること)、スネーハム(友情を持つこと)、アートマ ニヴェーダナム(神我への全託)という道です。これらの修行が永続する喜びを授けることはできません。宇宙は神の御姿そのものである(ヴィシュワム ヴィシュヌスワルーパム)という揺るぎない信念を持ちなさい。ヴィシュヌ〔神〕は起因であり、ヴィシュワ〔宇宙〕は結果です。この二つは切り離すことのできないものです。

 ヴェーダは宣言しています。「アチャラム チャラメーヴァチャ」(神は不動でありながら明らかに動いている)と。実例を挙げましょう。夢を見ている状態で、あなたはさまざまな場所を訪れ、幸福や悲しみを経験します。しかし、実際には、あなたの身体はベッドに横たわったまま――不動の状態です。

 ですから、あなたがこの世で見たり経験したりするものはすべて、夢でしかありません。アートマ〔真我〕だけが真実であり永遠です。アートマはスティラム(永遠のもの)であり、この世はチャラム(変化するもの)です。人生は、このスティラム(永遠のもの)とチャラム(変化するもの)の組み合わせです。

 

ジャントゥーナーム ナラジャンマ ドゥルラバム

(人間として生まれることは、すべての生き物の中で最も稀有(けう)なもの)

 すべての生き物が人間として生まれ得るという幸運にあずかれるわけではありません。すべての生き物が人間としての生を得るほど幸運なわけではありません。

 

 すべての人間が神を体験するわけでもありません。神に到達するために偶像崇拝といった霊性修行をする人たちもいます。人は徐々に内面へと自分の目を向けていき、自分とアートマは一つだということを体験すべきです。

アートマの終わりなき至福を体験しなさい

 あなたがどれほど神を愛しているかは、それほど重要なことではありません。重要なのは、神がどれほどあなたを愛しているかということです。神は、サット・チット・アーナンダの化身です。サットは永遠のものを意味します。チットは完全なる意識です。水と砂糖が混ざるとシロップ〔砂糖水〕になります。同様に、サットとチットが結合するとアーナンダ(至福)が生じます。世俗の喜びから経験するアーナンダ(至福)は一時的なものです。

 目を内面に向けてアートマを体験したときにのみ、あなたは真実と尽きることのない至福を得ます。アートマは、姿形はありませんが、至福で満ちています。

 愛の化身たちよ! アートマの終わりなき至福を体験すべきです。

生まれた時、

人の首にはどんな貴重な宝石の

首飾りも掛かっていない

しかし、重たい首飾りが必ず掛かっている

それは、善果であれ悪果であれ、

過去の行いの果報をつないで作った

首飾りなのだ

(テルグ語の詩)

母を神として崇敬しなさい

 

 ヴェーダは宣言しています。

マートゥル デーヴォー バヴァ

ピトゥル デーヴォー バヴァ

母を神として崇敬しなさい

父を神として崇敬しなさい

 かつて、ヴィシュワ・ヒンドゥー・パリシャド〔VHPと呼ばれる過激派のヒンドゥー教グループ〕の書記長、アショク・シンガルが私のもとにやって来て嘆願しました。「どうかラーマの生誕地を教えてください。それがわかれば、そこに寺院を建設することができます」。私は、「ラーマの真の生誕地はカウサリヤー妃の胎内です」と答えました。庶民であれ、神の化身であれ、母親の胎内がすべての人の生まれた場所です。ですから、母を神として崇敬しなさい。母の名を守り、母を敬いなさい。

 今日は11月19日です。この日は、あなた方に母の重要性を思い出させるために、女性の日として祝われています。あなたは母の望みに応じて行動しなければなりません。母に背いてはなりません。クリシュナ神の大いなる帰依者であったチャイタニヤは、結婚を望んでいませんでしたが、母親のたっての願いに従ってラクシュミーという娘と結婚しました。しかし、不運にも、ラクシュミーは結婚後まもなく死んでしまいました。チャイタニヤの母、サッティデーヴィーは、息子の思いに反して結婚させたことをたいそう悲しみました。チャイタニヤは母にこう告げました。「これは良心の命じることに背いた結果です」。ですから、自分のしていることが正しいと感じるなら、母親を説得するように努めなさい。ただし、決して母親の感情を傷つけてはなりません。

 

 あなた方は、女性は体も心も弱いものであるという間違った見解を持っているかもしれません。しかし、実際には女性は男性よりも強いのです。叙事詩『マハーバーラタ』〔ジャイミニ仙版〕に、アルジュナとの結婚を望んだ女王プラミーラー〔女性の王国の王女〕の物語があります。アルジュナは彼女との結婚を望んではいませんでした。プラミーラーは、アルジュナを捕らえるために最高司令官のマラヤーヴァティーを送りました。マラヤーヴァティーはアルジュナと激しく戦い、ついにアルジュナを捕まえてプラミーラーの前に連れていきました。プラミーラーはアルジュナに求婚しましたが、アルジュナは、たとえ命に代えても結婚はしないと断りました。プラミーラーはクリシュナ神の敬虔な信者で、アルジュナもそうでした。二人は熱烈に祈りました。宇宙劇の監督であるクリシュナ神には、自らの計画がありました。クリシュナ神はその場に現れ、プラミーラーとアルジュナをそばに呼び、二人の手をつながせて、マントラを唱え、おごそかに結婚式を執り行いました。

神はどんなことでもすることができる

 神はどんなことでもすることができます。神は地を天に、天を地に変えることもできます。しかし、人間は神への信愛と信念に欠けています。人は世俗のことを信じ、霊性を信じません。バクティ(信愛)にまさるものはありません。「バクティ」の「バ」は「光沢」や「光輝」を意味し、「クティ」は「引き寄せる」という意味を持ちます。あなたは、バクティから身体と心(マインド)と霊〔アートマ、魂〕へのシャクティ(力)を得ます。バクティ(信愛)とシャクティ(力)によって、あなたは神へのラクティ(愛着)に浸り、世俗へのヴィラクティ(無執着)を培うことができます。すると、神はあなたにブクティ(食物)を与え、さらにムクティ(解脱)をも与えます。このようにして、人はバクティ(信愛)からムクティ(解脱)へと旅する必要があるのです。昨日、私が話したように、人生は「私」から「私たち」への旅です。聖地であるティルパティやヴァーラーナスィー〔ベナレス〕、ガヤーやプラヤーグへ行くために、あなたは大変苦労して長旅をするかもしれません。一方、「私」から「私たち」への旅は、あなたが自分を身体から引き離して真我への愛着を育む旅であるという意味において、非常に短い旅です。そのためには、母の恩寵が極めて重要です。

神は必要が生じればいつでもやって来る

 アビマンニュがまだ母スバドラーの胎内にいた時、アルジュナは妻のスバドラーにたくさんの物語を話して聞かせていました。ある日、アルジュナは、パドマヴューハ(蓮の花の形をした軍陣)に入る際の複雑さと細かな点をスバドラーに説明していました。アルジュナがスバドラーにパドマヴューハから脱け出す方法を話す前に、宇宙劇の至高の監督である主クリシュナがその場にやって来ました。神は必要が生じればいつでもやって来て、適切に自分の役を演じます。

クリシュナはアルジュナに尋ねました。

 「君は何という過ちを犯しているのだ! 君の言葉の一部始終を聞いているのは、スバドラーではなく、胎内にいる子供だ。子供にパドマヴューハについて教える必要性がどこにある?」

クリシュナは、アルジュナを連れて出ていきました。

 後に、クルクシェートラの戦いで、アビマンニュがパドマヴューハの中で命を落としたのは、その軍陣から脱け出す方法を知らなかったからです。クリシュナは、なぜこのようなことをしたのでしょうか? それは、アビマンニュはヴィーナ スワルガ(英雄の天国)に到達しなければならなかったからです。実際、カウラヴァ兄弟がアビマンニュにパドマヴューハに入るように挑戦をしかけてきた時、アビマンニュは母スバドラーのもとへ赴き、母の許可と祝福を請い求めました。スバドラーは、アビマンニュが戦場に行かないよう最善の努力を尽くして説得しました。スバドラーは言いました。

 「私の愛しい息子よ、パドマヴューハに入って、またそこから脱け出すのは、なまやさしいことではありません。それに、あなたの妻は身ごもっていますし、あなたの叔父上であるクリシュナと父上であるアルジュナは今ここにおりません。ですから、戦場に行くという考えはあきらめなさい」

 しかし、アビマンニュは母の忠告に耳を貸しませんでした。アビマンニュは言いました。

 「母上、私の生まれはクシャトリヤ(武人階級)です。クシャトリヤにとって、敵から突きつけられた挑戦に怖気づくほどの侮辱はありません。実に、母上は私を励まして、敵と闘って圧勝せよと勇気づけるべきなのです。戦(いくさ)に行く気持ちをくじかせるようなことをするのは、母上の役目としてふさわしくありません」

 アビマンニュは、自分がしようとしていることは正しいということは分かっていましたが、母の愛を理解することはできませんでした。アビマンニュが命を落としたのは、母の願いに背いて戦場に行ったからです。

神の恩寵と人間の努力

 母の愛よりも偉大なものはありません。母親の言葉は常に甘美です。時に厳しい言葉を使うこともあるでしょうが、それはただ、あなたを正すためであり、傷つける意図はありません。この世に邪悪な息子はいるかもしれませんが、邪悪な母は決して存在することはできません。女性の日が祝われているのは、母の愛の価値と、あなたへの母の思いをあなた方に理解させるためです。母親、父親、師、神の中で、最高位を与えられているのは母親です。現代の若者は母親を顧みません。若者は、自分はたいそう学があるけれど、母親は何も知らないと思っています。そのように考えるのは大きな間違いです。決して母を見下してはなりません。母親も、子供に自分の望みを強要してはなりません。母親は、愛と誠意を通じて子供を正しい道に置くべきです。母親は、わが子が善良になることを切望すべきであり、偉大になることを望む必要はありません。

 ラーマは善良で、ラーヴァナは偉大でした。ラーマは自分が学んだことは何であれ実行し、それゆえに名声を得ました。一方、ラーヴァナは学んだことを何も実行せず、無知に浸っていました。その結果、ラーヴァナは良い評判を得ることができませんでした。良い評判を得るためには、罪への恐れと神への愛を持つ必要があります。神への愛と罪への恐れが欠如しているために、人間性が衰退しています。これが、今の世の中が不安定である原因です。

 愛の化身たちよ! 神はガーナローラ〔歌を好む者〕でありガーナプリヤ〔歌を愛する者〕(歌に引き付けられる者)です。詩や祈りは、信愛を込めて歌われた歌ほどには神を引きつけません。皆さんはM・S・スッブラクシュミーの美しい歌を聞きましたね。彼女はガーナ コーキラ〔うぐいすのように甘く美しい歌声の人〕という称号を得ています。私は、まだとても若かった彼女がミーラーの役を演じたのを見たこともあります。

 多くのアーティストがダンスで名声を博しています。ウダイ・シャンカール〔舞踊家。シタール奏者ラヴィ・シャンカールの兄〕は、そうした偉大なダンサーの一人でした。彼が踊っている時、足が床に着いているのを見ることがほとんどできなかったくらいです。彼の妻、義理の娘、そして弟子たちが、明日ダンスプログラムを上演するために、ここに来ています。こういった芸術は練習だけでマスターできるものではありません。神の恩寵も必要不可欠です。電流が流れるにはプラスとマイナスの両方が必要です。それと同じように、成功に至るまでには人間の努力と神の恩寵が共に必要なのです。

決して怒りとエゴに入り込む隙を与えてはならない

 学生諸君! 青年男女の皆さん! 神はあなたの気持ちに一致した反応をします。ですから、ネガティブな思考を抱いてはなりません。たとえ孔雀の卵をニワトリが温めて卵がかえっても、その卵から出てくるのは孔雀だけです。ダイヤモンドは、肥溜めに落ちても価値と輝きを失うことはありません。それと同様に、善良な人は、どこにいても常に良い評価を得ます。エゴと憎悪と怒りは、人間の最悪の敵です。誰かを正しい方向に導くために、その人に多少の怒りを示すのはかまいませんが、決して誰をも憎んではなりません。怒りとエゴに付け入らせてはなりません。

 私は自分が教えることのすべてを、手本で示しています。中には、スワミが自分に話しかけてくれないのは、スワミが自分を嫌いだから、あるいは自分を怒っているからだ、と感じている者がいます。それは単に彼らの想像であり、彼らに良心の呵責(かしゃく)があるからにほかなりません。私は誰をも憎みはしません。あなた方を正しい道に導くために、私は時に怒ったふりをすることがあるかもしれません。けれども、実際には、私は誰に対しても怒りや憎しみは持っていません。中には、そうすれば自分の望みをかなえてもらえるだろうと期待して、グラーマ セヴァ(村への奉仕)をする人たちがいます。私を喜ばすには、それで十分でしょうか? すべての欲望を手放して、あなたのハートを清めなさい。そうすれば、私はあなたに頼まれずとも、あなたに必要なものをすべて授けます。ネガティブな思考を手放さないで、どうしてポジティブな結果を期待できますか? あなたのハートをポジティブな思いで満たしなさい。ハートを愛で満たしなさい。その時、あなたのすべての思考と言葉と行いは、愛で満たされるでしょう。

万人はヴィシュワ マータの子供たち

 愛の化身たちよ! 決してあなたの母の愛を忘れずに、どんな状況の下でも母を幸せにしなさい。あなたが母を幸せにするときにのみ、私はあなたに満足します。ウマー・バーラティーが指摘したように、すべては一つであることを理解するよう努力しなさい。もしあなたが他人と自分を別のものだと考える

なら、憎しみが入りこむ余地があるでしょう。私とあなたは一つであることを認識しなさい。身体は異なっていても、あなた方は同じ愛の原理で結びついているのです。あなたの母があなたを愛するように、あなたはすべての人を愛すべきです。すべての人はヴィシュワ マータ(万物の母)の子供です。すべての人は兄弟姉妹です。何であれ差別意識を持ってはなりません。太陽はどこの世界でも一つであり同じです。太陽は貯水池にも川にも海にも映るのと同じように、同じ神性がすべての人のハートに映っているのです。

エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ

(真理は一つ、しかし、学者はそれを異なる名で呼ぶ)

 自分はラーマだけが好きだとか、クリシュナだけ、シヴァだけ、サイ ババだけが好きだと言うのは正しくありません。一なる神がいるだけであり、神は遍在です。他の宗教を憎んではなりません。

ヒンドゥー教徒はより良いヒンドゥー教徒になるべきであり、クリスチャンはより良いクリスチャンに、イスラム教徒はより良いイスラム教徒になるべきです。愛がなければ、その人をイスラム教徒とも、ヒンドゥー教徒とも、キリスト教徒とも、シーク教徒とも呼ぶことはできません。実際、愛のない人は地

悪魔です。愛のない人だけが、宗教に基づく違いに余地を与えるのです。あなたがハートを愛で満たしたとき、初めてすべての宗教は一つであることがわかるでしょう。

 バーラタの文化は、母親に最大の重要性を与えています。人は、自分の国を母国と呼びますが、父国とは呼びません。主ラーマは宣言しました。「ジャナニ ジャンマブーミシュチャ スワルガダピ ガリーヤスィ」(母と母国は天国よりも偉大である)と。国は母であり、文化は父です。決してあなたの国と文化を忘れてはなりません。古来、バーラタの文化は、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」(世界のすべての人が幸せでありますように!)という祈りと共に、平和と愛のメッセージを広めてきました。あなた方は、この神聖な文化を支えなければなりません。

 どのような御名、どのような御姿の内に神を礼拝してもよいのです。しかし、神は一つ、ただ一つである、という真理を理解しなさい。

シュリ サティヤ サイ ババ述

1999年11月19日

プラシャーンティ ニラヤム

サイ クルワント ホールにて

Sathya Sai Speaks Vol.32 Part2

訳注1:スマティーの物語 
 
 ウグラシュラヴァスというバラモンの妻スマティーは、貞節の誉れ高い貞女だった。ウグラシュラヴァスは病気で足が不自由になり、出かけるときはいつもスマティーが背負っていくようになった。ある日、ウグラシュラヴァスは売春宿に行きたいと言い、夫に忠実なスマティーは何も言わずに夫を売春宿まで連れていこうとした。それを見ていたマーンダヴィヤ仙は、ウグラシュラヴァスの非道に怒り、「明日、朝日が昇ったら首が落ちるように」と呪いをかけた。スマティーは悲しんで、「私が真に貞女であるならば、明日の朝、太陽が昇りませんように」と祈願した。すると、翌朝になっても太陽は昇らなかった。神々も人間も困ってしまい、スマティーのもとに行って、夫の命を保証するから太陽を昇らせるようにと頼み、スマティーは太陽が昇るようにした。


訳注2:サーヴィトリーの物語  

 ヤマ(死神)がサーヴィトリーの夫サティヤーヴァンの命を取った時、サーヴィトリーは悲しみを募らせて、夫を生き返らせてほしいとヤマに懇願した。「夫を生き返らせるか、私の命を取るかしてください。私は夫なしでは生きられません。私たちは一つなのです」。夫の命を取った後、ヤマがその場を去ろうとすると、サーヴィトリーはヤマの行く手をふさいで、ヤマを行かせなかった。そのため、ヤマはサーヴィトリーの願いに耳を傾けるしかなかった。ヤマがサーヴィトリーに「どうして欲しい?」と尋ねると、サーヴィトリーは「私に夫を返してください。なぜなら私は夫なしでは生きていけないのです」と答えた。結局、ヤマはサーヴィトリーの願いに屈した。ヤマはサーヴィトリーの貞操と決意を喜んで、サティヤーヴァンをよみがえらせ、さらにはサーヴィトリーとサティヤーヴァンに数々の恩恵を授けた。

11月−2
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バーラタの栄光を

取り戻しなさい

65歳御降誕祭のババの講話

​バーラタの栄光を取り戻しなさい

 神聖アートマの化身である皆さん! 最も古い時代から、バーラタ人〔インド人〕は真理〔真実/サティヤ〕を神と見なし、真理を愛し、真理を促し、真理を保護し、そうすることによって神性を得ました。バーラタ人は真理に徹し、ダルマ(正義)と結び付き、社会における道徳を第一の義務として尊重しました。今、人々は、真理と正義を忘れているために、国家的な問題を解決することも、共同体の対立を終わらせることもできずにいます。私たちは、東にベンガル湾、西にアラビア海を持ち、その両方がインド洋で合流しています。それと同じように、バーラタ〔サンスクリット語でのインドの正式名称/神を愛する者、あるいはバラタの子孫といった意味がある/ヒンディー語ではバーラト〕は、世俗の繁栄と霊的進歩の結合を例示しています。バーラタは、ジーヴァ(個々の魂)とブラフマー(普遍の魂)の一体性が浸透している国です。
 

 私たちが「バーラタ」と言うとき、バーラタという単語は特定の個人や国や状況とは関係ありません。この単語には、さまざまな典拠によって多くの異なる派生的な意味が与えられていますが、それらはあくまでも個人的な解釈にすぎません。いくつかのプラーナ〔古来の神話集〕によれば、この国にバーラタという名前が付けられたのは、この国はジャダ バラタという王によって統治されていたからであるとあります。他には、ドゥシュヤンタとシャクンタラーの息子で、この国を支配していた、かのバラタ王に由来するという説もあります。他にも、シュリ ラーマの弟であるバラタがラーマの神聖なサンダルを王座に置いて国を治めたので、この名前はインドに起因すると説く人もいるでしょう。

 

 ですが、「バラタ」という単語はいつできたのでしょうか? この名前は、ジャダ バラタがその名を授かるより前、ドゥシュヤンタの息子とラーマの弟の命名より前から存在していたはずです。バラタという名前は太古の昔から存在していたことは明らかです。
 

「バラタ」は人間家族全体を意味する
 

 サラスワティー女神は、サラスワティーやバガヴァティーやバーラティーと呼ばれます。サラスワティーはヴァークデーヴァター(話し言葉の女神)を意味します。ですから、言葉を話す才能を持って生まれた人は誰もがバーラタです。バーラタという名前は、特定の個人や国とは関係ありません。バーラタという単語は、人間家族全体に適用されます。「バ」は、神聖な知識によって表される原理を指します。「真我の知識」が「バ」です。真我の知識を喜ぶ人たちが「バーラタ」です。したがって、自分自身の光り輝く力によって輝いている人は皆、バーラタなのです。
 

 この単語は、バーラタ人は戦い(サングラーマム)に長けた者であるという意味の語根にも由来しています。サングラーマムとはどういう意味でしょう? それは、対峙(たいじ)する敵対勢力を、神聖な霊的な力によって征服することを意味します。「Balam Bharam Bhavathi Bibhartheh」〔バラム バラム バヴァティ ビバルテーハ〕は、ニルクタ〔ヴェーダの補助学であるヴェーダアンガすなわちヴェーダーンガのうちの一つ〕の中で使われている言葉です。バラ(バラム、力)とは、ブランマバラ(アートマの力)、テージョーバラ(内なる光の力)、シャーストラバラ(経典の知識から得られる力)のことです。バーラタとは、これら三種類の強さを持つ者のことです。シュルティ(ヴェーダ)は、バラをヤグニャ(供犠)と定義しています。したがって、バーラタとは、ヤグニャを行うことによって力を得た者ということになります。したがって、バーラタ人は、アートマバラ(神霊すなわち真我の力)によって神聖な力を獲得した者なのです。ですから、誰であろうと、どこの国であろうと、この神霊の力を得る必要があるのです。
 

バーラタは豊かな国
 

 バーラタは自然に恵まれた国です。バーラタは、すべての道徳、霊性、世俗的な知恵の第一の源です。

 
 バーラタはアンナプールナー(豊穣の国)です。これほど神聖な国を貧しい国と見なすのは、頭がどうかしています。私たちは貧しい国ではありません。バーラタは天分豊かな国です。もし、豊かな国でなかったら、なぜ、ムガール人やヨーロッパ人などがこの国を侵略したのでしょうか? 天分豊かな国であるにもかかわらず、私たちはその豊かさを守ることができずにいます。その理由は何でしょう? それは、国民に団結力(一体性)がないからです。

 

 自由は勝ち得ましたが、団結は達成されていません。団結力がないからこそ、バーラタはあらゆる種類の災難に見舞われるのです。ガズニーのムハンマド〔当時のガズナ朝帝国の統治者〕はパンジャーブ地方に侵入し、略奪品として700モーンド〔2万6110キログラム〕の金をこの国から持ち去りました。ナガラコータには、すべてを金でこしらえた30ヤード × 5ヤード〔27.4 × 4.6メートル〕の会堂がありました。その会堂は侵略者によって丸ごと持ち去られました。

 

 これほど豊かな国に生まれたにもかかわらず、人々が自分の国に誇りを持たないのは残念なことです。どこを向いてもスワールタム(利己主義の横行)〔スワは自分、アルタムは富の意〕ばかりが目につきます。神の愛の化身である皆さん! 利己心を捨てなさい。団結を促しなさい。調和の至福を味わいなさい。
 

 バーラタがどんなに神聖な国であるか、そろそろ気づいてもいいころです。この神聖な土地には、何一つ欠けているものはありません。「バーラタにないものは、他の場所にもない」という古来の格言があります。それほど多種多様な恵みを授けられているにもかかわらず、この国は貧しく後進的であると見なされています。これは妄想から生まれたものです。この妄想から解放されて、初めて私たちはアートマの至福を体験することができます。私たちは、ブラマ(妄想)を取り除くことができて、初めてブラフマンを体験することができます。

 

 バーラタ国内ですべてが手に入るのに、なぜ他の国々に物乞いに行くのですか? あらゆるものはバーラタに源を発しています。ですから、バーラタに生まれたからには、バーラタの栄光を広めるために尽力しなさい。すべての帰依者は、バーラタの偉大さを保護し、促進することを誓うべきです。バーラタ人は、自分の力を知らない象のように、自分の力に気づいていません。莫大な力を備えているにもかかわらず、バーラタ人は、象使いの前で弱腰になっている象のように振る舞っています。皆さんはその弱さを捨てなければいけません。
 

バーラタの比類のなさを自覚せよ
 

 バーラタは、深遠な真理を説いた偉大な賢人や聖人を数多く輩出しています。バーラタは、国の自由のために戦った英雄たちの土地でもあります。さまざまな芸術や科学、音楽や文学の知識をリードしてきた国でもあります。この神聖な土地に生まれた多くの人がその無比の偉大さに気づいていないのは、大変残念なことです。母への愛は甘露のごときものです。母国への愛がないのは、なんと残念なことでしょう!
 

 皆さんは母国を愛さなければなりません。母国への奉仕に人生を捧げる決意をしなさい。団結は第一の必要条件です。人々は偉人たちの誕生日を祝いますが、偉人の教えを守ろうとする人はわずかしかいません。誕生日を祝うことは、何もすばらしいことではありません。偉人たちの教えを理解し、それに従って行動するために、あらゆる努力を払わなければなりません。

 

 愛の質を高めなさい。あなたの生活のすべてを愛で満たしなさい。これは、前のユガ〔ドワーパラ ユガ〕でゴーピカー〔牧女〕たちがクリシュナに宛てた祈りです。愛のない生活は、まったく不毛です。人間は愛の化身です。愛は、真実のものへと向けられなければなりません。そのような愛こそが、人間の生命の息吹なのです。

  

バーラタが受け継いできた財産でハートを満たしなさい
 

 神聖アートマの化身である皆さん! 愛を神性の神髄と見なして、社会への愛の奉仕に従事しなければなりません。あなた方は、バーラタの栄光を取り戻さなければなりません。バーラタは、過去において、ずっとすべての国の教師でした。他国のあらゆる人々が平和と悟りを得るためにやって来ています。このような状況の中で、バーラタ人自身が自分たちの偉大さを意識していないことは、大きな不幸です。バーラタ人の歴史は、肉体的、心的、霊的、その他、生活のあらゆる側面におけるバーラタ人の功績を反映しています。私たちは、受け継いできたその財産で自分のハート満たさなければいけません。

 

 今、私たちは、物質的で世俗的な快適さのために人生を捧げています。そうした備品はすべて、何の役に立つのでしょうか? 私たちは、永続的な至福の源であるアートマ原理を悟らなければなりません。ハートに愛がないなら、どんなに知識を得ても、どんなに地位を得ても、何の役にも立ちません。知識を追い求めるよりも、善い性質を身につけることの方が大切です。

神の愛という磁石

 

 今日、なぜこれほど多くの人がここに集まっているのでしょうか? 何か抗しがたい理由があるに違いありません。皆さんは、自分の地元では見つけられない何かを求めているに違いありません。もし地元で欲しいものを見つけることができたら、高い旅費を払う必要はないでしょう。ここには神の愛があります。神の愛という強力な磁石が、人間の形をしたすべての鉄粉を引き寄せているのです。招待状は、誰にも、一枚も送られていません。来るように頼まれた人は誰もいません。人々をここに引き寄せたのは、神の愛の力であり、ハートを結びつける絆です。そのすべての根底にあるのは清らかさです。清らかさがある所には愛が育ちます。清らかさと愛が一緒になると、そこにはアーナンダ(至福)があります。どんな行いをしようが、どんな供犠を執り行おうが、愛がなければ、それらはあまり役に立ちません。

 

 ヨーガの訓練では、いくつかの種類の呼吸法が取り入れられています。また、クンダリニーヨーガの訓練も行われています。これらはすべて、ビジネスの一形態です。呼吸法では、息を吸うことはプーラカム、吐くことはレーチャカム、息を止めることはクンバカムと表現されます。これらはヨーガの力を得るための手段にはなりません。善いものをすべて吸い込むことがプーラカムです。悪いものをすべて手放すことがレーチャカムです。善いものをハートに留めておくことがクンバカムです。誰にもこの種のヨーガを実践する資格があります。この神聖な種類のヨーガは、すべての人が実践すべきものです。これは、すべてのバーラタ人の第一の目標です。

 

 ここプッタパルティは小さな集落です。この村は、どのようにして今の傑出した状態になったのでしょうか? その答えは、各自が自分で見つけることができます。それはヨーガであるとか、大きな幸運であるとか、運のいいハプニングであるなどと考えるべきではありません。それは、思考の力によるものです。あらゆる神聖な思考には、成就を見いだす力があります。だからこそ、ヴェーダーンタはこう宣言しているのです。

 

 

ヤッドヴァーヴァム タッドバヴァティ

(その人が考えるように、その人はなる)

 

 ですから、誰もが善い思考を身につけるべきです。そうすることによって、その果報を手にする権利を得るようになるのです。
 

困難に順応するのは苦行の一形態
 

 神の愛の化身である皆さん! このプラシャーンティ ニラヤムには十分な施設や便利さはありませんが、生活を便利にするさまざまなものに慣れている多くの皆さんがここに集まっています。皆さんは、あらゆる不便さに自分を適応させる一種のヨーガに身を投じているのです。その経験をサーダナ(霊性修行)と考えるべきです。あらゆる快適さを享受することはサーダナにはなりません。困難があるからこそ、幸せを感じることができるのです。困難を通ることなく幸せを実現することはできません。そうした困難は苦行の一形態と見なされなければなりません。楽な生活は苦行になりません。実際のところ、これほど多くの人が多くの困難や不自由を我慢してここに集まっているというのは、彼らの一体感の顕著な証です。
 

 何を達成するにも人間の努力が必要です。この20年間、プラシャーンティ ニラヤムの宿泊施設やさまざまな設備が充実してきたのは、ジョーガ ラーオの働きによるものです。セントラル トラストのメンバーとして20年間、彼はプラシャーンティ ニラヤムにそうした改善をもたらすために、昼夜を問わず絶え間なく努力を続けてきました。彼はカルマ ヨーギ〔行いを通じて神との合一を果たす行者〕です。仕事に喜びを感じています。しかも、この12ヶ月間、彼が昼夜を問わずたゆまぬ努力を続けてきたことは、私だけが知っていることであり、他の誰も知りません。彼はジョーガ ラーオ大佐ではありません。ジョーガ大佐とは呼ばれていますが、彼はまさにカルマ ヨーギなのです。この1ヶ月間、彼は一睡もしていません。彼は82歳です。その年齢でなお、彼が人々に可能な限りの快適さを提供するために尽力してきたからこそ、帰依者たちは困難を乗り越えることができているのです。ジョーガ ラーオの奉仕に感謝するために、セントラル トラストのメンバーたちは、彼にふさわしい栄誉を与えることにしました。私は、ジョーガ ラーオを他人だとは思っていません。しかし、義務としてすべきことはあるので、ジョーガ ラーオに敬意を表すことで、セントラル トラストはその義務を果たすことになります。

 

 (ここでバガヴァンは、ジョーガ ラーオ大佐の手首に金の丸いカディヤム〔腕輪〕をはめられました。ジョーガ ラーオ大佐が神聖な御手からカディヤムを受け取るために登場した時、会場全体が歓声に包まれました。バガヴァンはジョーガ ラーオ大佐に小声で、同じ活力で善い仕事を続けていくようにとおっしゃいました。)


 今後、バーラタには、ジョーガ ラーオのようなカルマ ジーヴィ〔行いの人〕やカルマ ヨーギがもっと大勢現れるべきです。誰もがカルマ ヨーギになるべきです。そのカルマ〔行い〕はダルマへと変わります。そのカルマは人生を聖化するでしょう。
 

バーラタは貧しい国ではない
 

 神への信仰を培い、カルマ ヨーガに没頭し、自分の人生を神聖なものにすることは、すべての人の義務です。バーラタ人は皆、バーラタの神聖さを忘れてはなりません。バーラタは決して貧しい国ではありません。この事実に気づいていないから、この国は争いと無秩序に満ちているのです。一過性のものと永続的なものとの区別がつかず、人々はつかの間の快楽を追い求めて人生を台無しにしています。ささいな一瞬の利益のために、人々は永続的な価値を持つものを犠牲にしています。

 

 自由を手に入れた当時は、人口の13%しか後進〔進歩や発展が遅れていること〕と見なされていませんでした。その割合は年々増加し、今では80%になっています! 5年か6年後には100%になるかもしれません! これはまったく正しいことではありません。

 

 バーラタは後進の部類の人々で構成されている国ではありません。つまらない利権目的で、このような分類がなされているのです。諸外国は、バーラタを貧困に苦しむ国として見ています。神の愛の化身である皆さん! バーラタは豊かな土地であることを覚えていなさい。バーラタほど資源に恵まれた国はありません。なのになぜ、私たちは自分たちを貧しい国と呼ばなければならないのですか? それだけではありません。教育と医療の分野でも、私たちは犠牲の精神を育てなければなりません。
 

誰もが無料で教育を受けられるようにする
 

 皆さんは、一ヶ月前、多くの学生が(焼身自殺をして)命を落としたことを知っていますね。その理由は何でしょう? それは、共同体単位での制限制度に対する抗議でした。私たちは、すべての人が自由に教育を受けられるような制度の普及を目指さなければなりません。教育は学ぶためのものでなければなりません。そうなれば、学生たちの間でこのような問題が起こることはないでしょう。

 

 今日、ここに、インド大統領、アーンドラ プラデーシュ州の首相と州知事、その他の著名人たちが列席しています。教育界において、「遅れている」とか「進んでいる」といったような新たな分類を設けず、貧富の区別のない、万人のための無料の教育システムを確立すれば、国家は飛躍的な発展を遂げるでしょう。私たち〔国〕は何千万ルピーというお金を〔多くの見込みのない投機的事業に費やして〕無駄にしています。もし子どもたちに正しい未来を保証するなら、国家は限りない恩恵を得るでしょう。どの霊性団体も無料の教育を提供すべきです。

 

 ティルパティ デーヴァスタナム〔ティルマラにあるヴェーンカテーシュワラ寺院を管理する世界第二位の信託〕が豊富な資金を持っていることはよく知られています。なぜそこの当局は無料の教育を提供しないのでしょうか? 何億ルピーが無駄になっているのでしょうか? 教育が無料でないから、デーヴァスタナムの教育機関に通う学生は誰一人として寺院に足を運ぼうとしないのです。それでどうして信仰心が育つでしょうか? 主の御名において、無料の教育と医療の救済を提供すべきです。
 

10億ルピーの病院プロジェクトの目的
 

 このことを考慮して、私たちは昨日、ここに大きな病院を建てることを決めました。多くの人たちは都心に病院を建ててほしいと私に訴えてきました。いくつかの都市では、ビジネスとして多くの医療機関の運営がなされています。何か教育機関や医療機関ができると、そのもっぱらの目的は、ビジネスです。貧しい人々に無料で施設を提供するための事業を始めようとする人はほとんどいません。ですから、私たちは当初から、プラシャーンティ ニラヤムの近くに10億ルピーの病院を建てることを決めたのです。ここでは、高等教育が無料であるのと同じように、「高等医療」も無料になります。人々は、アメリカ合衆国で行われているような心臓外科手術を受けるために、何10万ルピーというお金を払っています。ですが、貧しい人たちはどんな有り様ですか? 誰が貧しい人たちの面倒を見るのですか? 都会へ行ったとしても、貧しい人たちは「色つきの水」(薬剤の混合液)さえ手にすることはないでしょう!
 

 こういった現実を鑑みて、私たちはこの病院建設プロジェクトを立ち上げました。心臓バイパス手術であろうと、腎臓移植であろうと、肺の手術であろうと、脳外科手術であろうと、すべてが無料で行われます。このことは、プロジェクト開始当初から決まっていたことです。この病院は1991年11月22日に開院します。誰もサイ サンカルパ〔サイの意志〕を推し測ることはできません。銃が発砲される時には光と音が同時に発せられるように、サイの場合は、思いと行いは同時に起こります。ですから、サイの決意を理解するのは、誰にとっても、たやすいことではありません。
 

サティヤ サイの英雄物語
 

 神の愛の化身である皆さん!私がこれから言うことを大げさだと思ってはなりません。私には利己心のかけらもありません。私がすることは何であれすべて、他の人々のためだけです。私は皆さんを「他人」と思っていません。あなた方はすべて私の民です。これほどのすべてを包み込むような気持ちは、世界中どこを探しても見られるものではありません。あなた方は、50年間でこれほどまでに成長した組織を他に見たことがありますか?
 

 これまでのアヴァター〔神の化身〕たちの場合、その名声が広まったのは、もっぱらそのアヴァターが亡くなったずっと後でした。現在のアヴァターの場合は、アヴァターが生きている間に、大学、大病院、飛行場をはじめとする多くの施設が村人たちのために建設され、今後もさらに多くのものができるでしょう。

 

 多くの人々は、どうしてこういった一切が成し遂げられるのかと不思議に思っています。(このアヴァターの)降臨は今から64年前に起こりました。それ以来ずっと、この手は、どんな時にも、誰かに何かを求めるために伸ばしたことはありません。私は誰にも何かを求めたことはありません。これからも決して求めたりはしないでしょうし、そのようなことは決して起こらないでしょう。では、一体どうやって一切が成し遂げられるのでしょうか? バーラタでは、善良な仕事には、障害となるものはありません。あなたが心の底から何か善い仕事をしたいと思ったときには、お金はふんだんに流れてきます。心の狭い人は、どんな仕事を始めても、決して満たされることはないでしょう。心の狭い人は、大きな心、広い心を持った人の行いを理解することができません。
 

 神の愛の化身である皆さん! 私は皆さんに何かを期待しているわけではありません。ただ、あなたの

ハートの中に愛を育てなさい。すべての人をあなたの兄弟姉妹だと思って扱いなさい。すべての人を神の子であると認識しなさい。誰に対しても敵意や憎しみを抱かないようにしなさい。誰の気持ちも傷つけてはなりません。そうした大きな心の態度こそが、あなたに限りない至福を与えてくれるのです。もしあなたがスワミの誕生日を祝ってくれるのなら、これが、私があなたに望むすべてです。あなた方の間で一体性を持ちなさい。バーラタの栄光をよみがえらせ、推進させるよう努力しなさい。
 

 「私はいつも限りない喜びで満たされています」
 

 ここへ来る途中、私は何人かから、「ハッピー バースデイ! ハッピー バースデイ!」〔幸せな誕生日を!〕という言葉で挨拶されました。私はいつもハッピーです。私には「ハッピー」〔お幸せに〕という挨拶は必要ありません! 「ハッピー バースデイ」という挨拶は、ハッピーでない人に伝えなさい。私は限りない喜びで満たされています。私は今までどんな時も、どんな場所でも、心配を抱いたことはありません。その理由は何でしょう? すべての物事は、過ぎ去る雲のようにはかないものです。なぜそれらを心配することがありますか?
 

 誕生や死に直面したとき、舞い上がったり落ち込んだりすべきではありません。私たちは裸でこの世にやって来ました。この世を去る時、行き先の住所を親類縁者に残すことはできません。親類縁者が親類縁者であり続けることなどどうしてできますか? そういったものはすべて、この世での現象です。生きている間ずっと、調和と同朋意識を持って生活を送るべきです。困難はすべて、神を黙想することによって乗り越えることができます。神を忘れて、世俗的な事柄にどっぷりと浸かりながら、あなたは何を達成するというのですか? 神への揺るぎない信心を持ちなさい。カースト、宗派、国籍による差別に、いかなる余地も与えてはいけません。すべての名と姿は神のものです。あなたが目にするすべては、主の普遍なる姿の現れです。神への固い信心を持って、主の御名を唱え、あなたの人生をあがないなさい。

 


サティヤ サイ ババ述

1990年11月23日

65歳の御降誕祭

プラシャーンティ ニラヤム

サイ クルワント ホールにて

Sathya Sai Speaks Vol.23 C34

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​自立心と
神への信心を
​養いなさい

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​一息ごとに
断言しなさい

10月−1
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​自立心と神への信仰を養いなさい

 古来、バーラタ〔インド〕は、霊性に立脚することによって平安と繁栄というメッセージを世界に伝えてきました。国民は常にすべての国の幸福を祈ってきました。バーラタ文化の偉大さは、その壮大さを体験した人だけが理解できるものです。バーラタ文化は、歴史の激動を乗り越えて試練に耐えてきた文化です。バーラタ文化の偉大さは、サナータナ ダルマ(古来永遠の人生哲学)に反映されています。正義はこの哲学の外的な現れです。正義が人間の生活を律してこそ、平等、友愛、自由といった理想が実際に実現されるのです。

 

 人々が感官をコントロールすることを学んだとき、世の中の対立や不和はなくなるでしょう。現代のバーラタ人は、インド文化の深遠な真理を無視しています。それは人々が私利私欲を追求し、利己心に振り回されて、本来持っている神性を忘れているからです。他者に対して親切で思いやりがあるという、人間としての自然な傾向をきちんと育むべきです。現代人はそれをしていません。

創造の神秘を理解しなさい

 

 基本的には、人と自然の間に対立はありません。赤ちゃんには母乳を飲む資格があるように、蜂には花の蜜を吸う資格があるように、人には自然の果実を味わう資格があります。創造世界は人類よりも偉大です。創造世界の神秘を理解することは人間の特権です。さらに、人は創造世界と創造主の関係を知る努力もすべきです。

 

 人体は、目や鼻や手や脚といった異なる器官で構成されています。人間は人間社会の手足であり、人間社会は人類の手足です。人類はプラクリティ(自然)の手足であり、プラクリティはパラマートマ(普遍なる大我)の手足です。こうした連鎖関係について考えるなら、人間は究極の至福の権化と結び付いているということがわかります。

 

 しかし、なぜその至福は、とらえようとすると人の手から逃げていってしまうのでしょうか? それは、人が自分に内在する神性を認識していないからです。人は、自然というものはもっぱら人間が享受するために神が創造したものだと思っています。それは間違っています。自然は人間が、一定の限度内で、享受するためにあります。

 

 現代の科学者たちは、無制限に自然を享受することを念頭において、自然の力を探っています。科学者たちは、自然のあらゆる力を人間のコントロール下に置いて、制限なしに享受したいと欲しています。今、私たちが目にしている非常に多くの自然災害は、それが原因です。

 世界中で起きている干ばつや洪水の原因は何でしょう? 人は、抑制も規制もなしに自然の恩恵を享受しようとして、墓穴を掘っています。ここに地球儀があるとします。片側を叩けばバランスが乱れます。天然資源を用いるときには、きちんとバランスが保たれるよう、常に細心の注意を払うべきです。一方を過剰に用いるなら、他方に害をもたらすことになります。

 

 天然資源の開発に際し、人々は権利という名の下に、限度を守らず、自分たちのやりたいようにやっています。私には、その「権利」という言葉がどこから来たのか、理解できません。実のところ、「権利」といったようなものは存在しません。実際、人々が持っているものは「責任」です。人が自分の責任をきちんと果たすなら、そこから何がしかの権利が生じることは可能です。もし責任を無視するなら、その結果はどうなるでしょう? 混乱と平安の欠如しかありません。雨が降ると水路に水が流れます。雨が降らないとき、どうして水を望むことができるでしょうか? ですから、まず雨が降るように祈ることです。そうして初めて、あなたは川の水の流れを享受することができます。同じように、まず自分の義務を果たすことです。そうすれば、自分の権利を確保することができるでしょう。

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人々が感官をコントロールすることを学んだとき、世の中の対立や不和はなくなるでしょう。

義務は最も神聖なもの

 

 今、誰もが権利ばかりを口にします。これは全く意味のないことに見えます。人は皆どのように一日を過ごしているか、しばし考えてごらんなさい。朝起きてから寝る時まで、誰もが何らかの心配事を抱えています。時間は神聖なものです。行動はさらに神聖なものです。義務は最も神聖なものです。活動によって何かを成し遂げるだけでは不十分です。人生の最後の最後まで、着手したことすべてにおいて成功を収めなければなりません。チャンドラバブ・ナイドゥ首相〔アーンドラ・プラデーシュ州首相〕がスピーチの中で述べたように、人々はすべての行いを理想的な形で行わなければなりません。単に機械的に存在しているだけでは、人間性を表現することはできません。人として生まれるのは計り知れないほど貴重なことです。真の人間の証として、3つのことを守らなければなりません。それは、罪への恐れ、神への愛、社会における道徳です。罪深い行為は慎むべきです。サンスクリット語の格言に、「人は徳行の果報を欲しながら、罪深い行いにふけっている」というものがあります。思考と言葉と行いの清らかさを身につけたとき、人は善行の果報を得ることができるでしょう。

 

 人としての生は、生まれてから死ぬまで、さまざまな悩みに満ちています。それらの悩みから解放される唯一の方法は、心を神に向け、いつも神のことを考えていることです。

​ さらに、人は自立心を養わなければなりません。自分でできることを人や政府に頼ってはいけません。自分のことはできるだけ自分でして、その労働の果報を享受しなさい。

 

神の助けを求める前に、自分の能力を使いなさい

 現代人の多くは、自分に自信がなく、自分が望んだことを成し遂げる決意も持っていません。そして、必要な努力もせずに、すぐに結果を出したいと思っています。どうしてそうなのでしょうか? 神や政府に責任を負わせるのは適切なことではありません。神は間違いなく助けることができますが、神に助けを求める前に、あなたが神から授かっている力と才能を使うことを神は期待しています。神から与えられた能力を最大限に活用することをせずに神に頼るのは、誤った判断です。

 

 自分たちが住んでいる環境を浄化するよう努めなさい。どこにも平和や調和がありません。帰依者は愛を育み、人間的価値を実践することによって、そうした空気を浄化し、聖化するように努めなさい。帰依者たちは、さる方面からの反対や不賛成に遭うかもしれません。そうした障害は克服すべきです。そのような批判をする人たちは、極めて価値のあるものを破壊する害虫のようなものです。

 福祉活動に従事する人たちは、そのような批判を気にすることなく、良心の指示に従って善い行いを続けていくべきです。この点については、州首相も述べています。自分は人々のためになることをやっているのだと確信しているとき、どうして小心者の批判を気にする必要がありますか? 自信を持ちなさい。

 

 今日、バーラタでは何百万人もの人々が飲み水の不足に悩まされています。この問題は、ある程度、人々自身の行動に原因があります。人々はどこまで正しい行動をとっているでしょうか?

 

 人の振る舞いには、神の振る舞い、人間の振る舞い、獣の振る舞いという3つの種類があります。私たちは、獣性の増大と人間性の衰退を目にしています。この傾向の原因は、欲望が際限なく膨らみ、アーシャヤール(理想)が確実に消滅していることです。利己心が拡大し、無私が減少しています。策略が蔓延(まんえん)し、誠実さが消え、体への執着が増し、国への愛が薄らいでいます。その結果、国民の人格がどんどん卑しくなっています。

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時間は神聖なものです。

行動はさらに神聖なものです。

義務は最も神聖なものです。

犠牲は幸福の真の秘訣

 

 古代の人々が生きていた古き良き時代の物事の状態は、どれほど違っていたことでしょう。彼らは善良な帰依者たちとの交流を喜び、貧しい困窮した人が家に来るのを歓迎し、神を讃える賛歌を聞くことを好みました。彼らは、そういったことがあった日だけを神聖な日と見なしました。人生はこうした高潔な生き方によってのみ救済されるのです。

 

 古代のバーラタ人は、犠牲の質を高く評価し、正しさを崇め、正義を最高の美徳とし、真理を大切な友として迎え入れました。今日の物事の状況は、これらすべてと食い違っています。

 

 幸せの真の秘訣は犠牲です。誰もが自分の能力の範囲内で収入と財産を他の人々に分け与え、他の人々の幸せに貢献すべきです。貧困にあえぎ、さまざまな形で苦しんでいる人がたくさんいます。そのような不幸な人たちを助けに行くのは、裕福な人の義務です。

 

自分の言葉どおりに生きなさい

 愛の化身たちよ! 今日、皆さんは多くのリーダーのスピーチを聴きました。彼らは心から語り、人々の福祉に対する懸念を表明しました。もしそれらの言葉が意味のある行動に移されれば、この国は必ずや良い方向に向かうでしょう。このような機会に、こうしたリーダーたちが前に出て、この種の保証をするというのは、歓迎すべき兆しです。それらは国民に熱意と自信を与えるに違いありません。州首相、カルナータカ州議会議長、連邦大臣は、いずれも信念と熱意を持って発言しました。このことは、人々のハートに刻み込まれるはずです。保証は行動に移されるべきです。

 バーラタだけでなく、世界の他の地域も、無数の問題に悩まされています。その解決策は何でしょう? 人の心を根本から変える必要があります。人々は人間に生来備わっている神性を認識すべきです。この心の変容と神性の認識が同時に起こったとき、人類の神格化があるでしょう。

 

 愛の化身たちよ! 5日から始まったこのヤグニャも今日で終わりです。今日はヴィジャヤダシャミーの日〔勝利の十日目という意味のダシャラー祭の最終日〕です。今日、飲料水プロジェクト〔恵みの水〕がアーンドラ・プラデーシュ州政府に移管され、州首相がこの事業を適切に維持する責任を引き受けたことは、おめでたい兆しです。国民のために実施しなければならない同様の福祉計画は、まだまだたくさんあります。私は、頭のてっぺんから足のつま先まで、全身全霊で人々への奉仕に尽くしています。私は、人々のためになる多くのことを行いたいと考えています。私は、それらについて話したくはありません。行動がそれを語らなければなりません。州議会議長は、自分の県でも飲料水の問題が深刻であることに言及しました。他の県と違って、コーラール県には川がありません。こうした問題を解決するために、誰もが自分の力を発揮することを決意すべきです。誰もが社会に恩があるのですから、誰もが社会に対する自分の責務を自覚すべきです。必要であればいつでも、自分たちの問題を解決するために集まって協力し合うべきです。

 

 多くの若者が家で時間を無駄にしています。そのエネルギーを建設的な福祉活動に集結させるべきです。州首相は、シュラマダーン(労働力を贈る)という案に言及しました。村の誰もが、他人の助けを待たずに村の道路を建設するために、そうしたシュラマダーンに参加すべきです。できるだけ多くの村人たちの必要を満たすために、この種の自発的な協力活動を行うべきです。必要なときには他人の助けを求めてもかまいません。

全力を傾けて助けるというバガヴァンの保証

 

 私は、どの村から来る人も、どの州から来る人も、どの共同体から来る人も、助ける用意ができています。私はどんな類の差別も心に抱きません。あなた方が信じようと信じまいと、私は、ただ一つのカースト――人類というカースト、ただ一つの宗教――愛という宗教、ただ一つの言語――ハートという言語を敬っています。私の助けを求める人には、私はその人がどのカーストであろうと、どの宗教であろうと、どんな信条であろうと、決して誰にも「ノー」(No)とは言いません。多くの帰依者がここに集まっています。私は、あなた方の要望に応えるためなら、プラシャーンティ・ニラヤムを手放す覚悟さえあります。私は人々のためになら何でもする覚悟があります。それが私の唯一の関心事です。私は、人々を主の恩寵を受けるに値するようにするためだけに働いています。この事実を認識している人はほとんどいません。何年も私の所に通っている人たちでさえ、この真実を認識していません。神のやり方について、真実を理解するのは難しいことです。

 

 あなた方は皆、神への信心を持って自分の義務に精を出すべきです。そうすれば、すべてが上手くいくでしょう。万事、容易に達成することができるでしょう。これは、私たちの古代の人々が追求した道です。当時は、政党も派閥争いもありませんでした。すべての人が心を一つにして行動していました。それは「ヴェーダ」のメッセージです。「共に働き、共に楽しみ、互いを愛し、皆と喜びを分かち合おう」――これはリグ・ヴェーダの輝かしいメッセージです。人々はヴェーダの教えを基に生活していました。こうした訓戒が尊重されない今、どうやって人としての生が神聖であることができるでしょうか?

 

あなたのハートが善良なら、あなたに害は及ばない

 自分の良心に従って正しいことをしていれば、他人の言うこと、考えることを恐れる必要はありません。勇気は善行と共にあるべきです。あなたのハートが善良なら、あなたに害は及びません。

 

 私は、アナンタプル県〔アナンタプラム県〕以外にも、いくつかの県の必要に応えたいと考えています。その中で、私は一つのことを保証したいと思います。バーラタであれ他のどの国であれ、福祉計画を実行するための財源が不足することはありません。財源は豊富にあります。ただ、そうした計画を実行しようという強い気持ちがないだけです。強い気持ちがあれば、どんなことでも達成することができます。人々は、月へは行けるのに、自分のハートに旅をすることはできないのでしょうか?

 

 私が飲料水プロジェクトを始めた時、トラストのメンバーたちは私にこう言いました。「スワミ! トラストには十分な資金がありません。私たちはどうやってこの巨大プロジェクトに乗り出せばいいのでしょうか?」。私は彼らに請け合いました。「それは私の仕事です。私がこの善良なプロジェクトの完遂を見届けます」。それは何の障害もなく達成されました。

 

 バーラタには、まだ為されるべきことがたくさん残っています。カルナータカ州議会議長が述べたように、水は国中で第一に必要とされているものです。きれいな飲料水が全国民に行き届くようにしなければなりません。それが私の決意です。

 

 私は、早い時期から国民に3つの必需品を提供することを気にかけてきました。無償の教育、無償の医療、そして、飲料水といった基本的な設備の提供です。教育は頭のため、医療はハートのため、きれいな水は体のためです。この3つは、生活に必要とされる主なものをカバーしています。この3つを提供することは最も大きな満足感を与えてくれます。

リーダーたちに課せられた課題

 どこでもあなた方ができる所で、教育を無償で提供するよう努めなさい。貧しい人々のために無料で薬や治療を提供しなさい。飲み水を提供するために、あなた方の間で可能なかぎり協力し合いなさい。ラーヤラシーマ地方では、人々がフッ素症の弊害に苦しんでいます。どうか、少なくともこれからの世代がこれらの病気から救われるよう取り計らってください。私はあなた方全員を祝福し、あなた方のすべての有益な活動において私の恩寵があることを保証します。福祉プログラムを実行するためにすべての関係当局が協調して行動することを、私は望みます。

 

 長い間ここに来ることを切望していた州首相が、今日という縁起の良い記念すべき機会にここにいるのは幸運なことです。私は彼が自分のプログラムをしっかりと遂行してくれると確信しています。私は彼が将来におけるこの計画〔飲料水の提供〕の維持に対する責任を引き受けてくれたことを嬉しく思います。彼は部外者ではありません。実際、名前や姿は違っても、霊的には皆一つです。彼が引き受けてくれたことで、私たちは重い責務から解放されました。今後、私は新たな重荷を背負うことになるかもしれません。その用意は十分にできています。物語はこれで終わりではありません。

 

 私はコーラール県の人々が必要としていることを、近い将来実現することを保証します。72歳の誕生日までに、コーラール県の人々の飲料水の必要は満たされ、どの村の人々にも十分に行き届くようになるでしょう。アナンタプル県でさえ、まだ行き届いていない地域があります。私は、残りもすべて遂行させると断言します。もしカバーされていない地域があるなら、私に知らせてくれれば遂行させるつもりです。私はあなた方のものであり、あなた方は私のものです。私たちの関係は霊的な関係です。あなた方には私に近づく権利があり、私にはあなた方の希望に応える義務があります。この点に関して、いかなる疑いも抱いてはなりません。私はあなた方全員を祝福します。

 

1997年10月11日

ダシャラー祭ヴィジャヤダシャミー

プラシャーンティ ニラヤム

サイ クルワント ホールにて

Sathya Sai Speaks Vol.30 C29

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古代の人々が生きていた古き良き時代の物事の状態は、どれほど違っていたことでしょう。
彼らは善良な帰依者たちとの交流を喜び、貧しい困窮した人が家に来るのを歓迎し、神を讃える賛歌を聞くことを好みました。

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10月-2
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​一息ごとに断言しなさい

 シャーストリ〔学者〕は、叙事詩や歴史からの例を挙げて、人間の状況への時間の力と影響について皆さんに説明しました。今日は良いことでも明日には悪いことになり、今日実行可能なことでも明日には実行不可能なことになる場合があります。時間は、習慣や風習を時代遅れなものや時代錯誤なものにします。今日悲しみを与えるものは、明日には喜びをもたらすかもしれません。子供にとって学校に行くのは嫌なことですが、後になれば、自分が年若い時分に無理やり授業を受けさせられたことに感謝します! ラーマが追放された時、シーターは、アヨーディヤーの都も、宮殿も、自分が持っていた幸せな夢の数々も、すべてを捨てて、森に付いて行きました。けれども、金色の鹿を見て、隠れていた欲望が呼び覚まされて、世俗的なものへの「執着」が生じ、その結果、一連の災難に見舞われることになりました。時間がシーターのハートの中にあった欲望の根を温存させていたのです。

 

 ラーマーヤナは、もう一つの教訓も説いています。シーターを探すことは、体験の場における真我顕現の秘訣を象徴しています。ラーマは、シーターを取り戻した時、体験によって裏づけられた真我顕現の英知を取り戻しました。グニャーナ〔英知〕はアヌバーヴァ グニャーナ〔体験から生まれた英知〕となりました。ラーマーヤナは、人が真我顕現という尊い目標を切望しているときには、自然界のすべての力、すべての創造物がその人を助け、あらゆる援助をしてくれるということを教えています。猿、鳥、リス、さらには、石ころや岩までもが、その困難な務めにおける同志となりました。高みを目指し、最高の冒険をしようと決意しなさい。そうすれば、すべてが整い、あなたをゴールへと導いてくれるでしょう。

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ラーマが追放された時、シーターは、アヨーディヤーの都も、宮殿も、自分が持っていた幸せな夢の数々も、すべてを捨てて、森に付いて行きました。

世界は3つのグナの複合体

 

 実のところ、あなたはその冒険へと向かうよう、あなたの呼吸に促されているのです。呼吸は、1日に21,600回も「ソー ハム」(神=私)〔私は神であるという意味の音〕を繰り返して、宇宙に内在する原理と体に宿る者の同一性を強調しています。あなたは、口では「神はいない」と断言しているかもしれませんが、息が入ってくる時に「ソー」〔神である〕、出ていく時に「ハム」〔私は〕と繰り返して、不変の存在である「神」は常駐している「私」〔自分〕である、ということを明確にしているのです!

 

 インドの聖賢たちが日常生活に課した規制や制限、衝動や態度を制御して方向付けるために推奨したあらゆる処方箋は、インド文化の貴重な要素であり、大切にし、実践すべきものです。この世は3つのグナ(属性)――サーットウィカ〔浄性〕・ラージャスィカ〔激性〕・ターマスィカ〔鈍性〕――の複合体です。

 

 ウパニシャッドは、この3つのグナに絡め取られている人たちに、雷が「ダ、ダ、ダ」〔雷の音〕といって「ダヤー」・「ダマ」・「ダルマ」という3つの教訓を教えていると述べています。アーナンダ(至福)を渇望するサーットウィカ〔浄性〕の人には「ダマ」(自制心)を、冒険、英雄、活動を渇望するラージャスィカ〔激性〕の人には「ダルマ」(正しい行動、正義の理想)を、そして、感覚に執着して客観的な快楽を渇望するようなターマスィカ〔鈍性〕の資質に支配されている人には「ダヤー」(愛に基づく慈悲。これは執着と貪欲を昇華させることができる)を、教えているのです。 

 

 賢者たちは、「タット トワム アスィ」(汝はあれである)〔タットワマスィ、汝はそれなり〕という真理を発見しました。「あれ」は「神」であり、そこからすべてのものが生まれ、そこにすべてのものが在り、そこに一切が融合します。この真理は、バクティ マールガ〔信愛の道〕――真我への献身、信愛、全託の道――によって知ることができます。「汝」つまり「個人」は、カルマ マールガ――無私の行い、すべての行いの果報を放棄する道、尊崇の精神を持ってすべての行いを礼拝の行為として真摯に行う道――によって理解することができます。そして、「タット」(あれ)と「トワム」(汝)を同一視していく「アスィ」と呼ばれるプロセスは、グニャーナ マールガ〔英知の道〕――知恵の道、鋭く執拗(しつよう)な識別の道――によって完結しなければなりません。バクティとカルマ〔行為〕が結合すると、それはグニャーナへとつながっていきます。バクティはすべてのものを「タット」〔神〕と見ます。カルマ〔行為〕は「トワム」〔汝〕の分離性を消し去ります。そのため、「アスィ」(同一視)のプロセスは容易になるのです。

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賢者たちは、「タット トワム アスィ」(汝はあれである)〔タットワマスィ、汝はそれなり〕という真理を発見しました。
「あれ」は「神」であり、そこからすべてのものが生まれ、そこにすべてのものが在り、そこに一切が融合します。

貧しい人に奉仕することでエゴをなくす

 

 こうしたことはすべて単純なことで、さまざまな聖句によって説明されていて、それを著名な師が毎日何千という人々に説明していますが、真理は経験されておらず、自己同一視は味わわれていません。一切が舞台上の演技です。言葉はハートからのものではなく、他人が書いた台本の合図に従って発せられています。観客に受けるため、そして、拍手と劇場窓口の利益のために多くが行われているのです! バケツを逆さまに置いておいたら、せっかく大雨が降っても何が得られますか?  水を集めることができますか? 宗教に関する話を聞いても、あなたの心(マインド)がそれを受け入れないなら、あなたは何の利益も得られないのではありませんか?

 

 ミストリー博士は、ボンベイ〔ムンバイ〕でのセヴァダル〔無私の奉仕を行うボランティア〕の活動である献血、病院の病室訪問、貧しい入院患者への奉仕のことを話してくれました。実に、奉仕はエゴを消し去って人に本当のアーナンダ〔至福〕を与えてくれる行いです。ミストリー博士はパールシー〔インドに住むゾロアスター教徒〕ですが、博士がいかにヒンドゥー教の聖典も熟知しているかに注目しなさい。そのおかげで、博士は今、皆さんに、シヴァ神、パールヴァティー神、ガナパティ神〔ガネーシャ神〕はゴールへと向かうカルマ、バクティ、グニャーナのマールガ〔道〕の象徴として解釈され得るということを説明することができたのです。

 

 すべては一なる神の姿であるという信念を持って行われるセヴァ〔無私の奉仕〕は、最高のカルマ〔行為〕です。セヴァのインスピレーションは、頭ではなくハートから生まれることに着眼して見てみなさい。以前、ホワイトフィールドにある人文科学の大学の講師と学生たちに話をした時、私は年長者を敬う必要について語りました。今、学生は教師に対してうなずいたり頭を動かしたりする挨拶をしていますが、ただそれだけです。私は学生に、「うなずくこと」は距離、敵意、不和を意味すると伝えました。それは、学生と教師が対峙(たいじ)していることを明らかにし、互いに他人であることを示しています。私は学生たちに、そのような考えは捨て、先生を友人として、そして、セヴァに従事する導き手であると同時に学び手でもある者として受け入れるようにと望みました。私は両者の間に愛と尊敬の念が行き交うことを望みました。

クリシュナとバララーマの英雄的活躍

 今、私は〔この講話を〕終わりにして、楽屋にいるヴェーダパータシャーラ(ヴェーダを勉強する学校)の子供たちのもとに行かなければなりません。彼らは霊的な甘露でいっぱいの劇を演じることでしょう。というのも、神を味わったことのある人たちは、神は「ラソー ヴァイ サハ」(神は甘露そのもの)であると表現しているからです。神の物語は言葉にならないほど甘いのです。全世界は神のおかげで甘美であり、全世界は神であるがゆえに喜びを与えます。あなた方はその喜びをどうやってつかんで保っていいかを知らず、そのせいで喜びと悲しみの間を行ったり来たりしています。喜びを完全に、常に得ていなさい。そうすれば、生まれることも、死ぬこともなくなります。あなたは不滅です。あなたは至福であり、力であり、英知なのです。

 

 少年たちが演じようとしている劇の中で、私はカムサ、ゴーピー、アクルーラ、デーヴァキー、ヴァスデーヴァ、ナンダといった、私の昔のバクタ〔バクティを有する者〕たちの生涯における出来事を描いています。少年たちにとって幸運だったのは、私が何日も夕方に彼らと一緒にいて、歌い、セリフを繰り返したことです。

 

 そのおかげで、少年たちはそれらの偉大な真理を学び、皆さんの前で感動的な出来事を演じ、演者も観客も喜びを得て、分け合うことができるのです。少年たちは役を完全に表現することはできないかもしれませんが、皆さんはその感動と、それが伝えようとしている霊的な教訓を吸収することができるでしょう。

 

 物語は、カムサが宿敵である7歳の牛飼いの少年クリシュナとその兄バララーマを自分の都や宮殿に連れてきて、王家の象や闘士の力を借りてクリシュナを殺そうとたくらむところから始まります。その後の場面では、神童と離れ離れになってしまったゴークラ村の牧女たちの苦悩、里親を悩ませるジレンマ、そして、クリシュナ兄弟がカムサの待つマトゥラーの都へと旅立つ様子が描かれています。クリシュナは自分を招待した君主のもてなしではなく、貧しい信者のもてなしを受け入れ、クリシュナの来訪は民衆に大きな喜びを与えます。一方、牢獄(ろうごく)にいた両親は、長年離れ離れになっていたクリシュナとの再会を喜びます。看守たちは、象と闘士を亡きものとし、最終的に王であるカムサ本人に屈辱と崩壊をもたらしたクリシュナとその兄の英雄的な活躍、都に響きわたったその一連の勝利を、その都度、両親に伝えます! クリシュナとバララーマは牢獄に侵入して両親を解放し、そこで劇は終わります。

 

 演者たちの幼い年齢にとらわれてはいけません。彼らから発せられる言葉は賢明で、治癒力があります。それらはヴェーダやシャーストラの教えです。あなた方のハートの中にそれらを大切に収めて、少なくともそのうちのいくつかを日々実践することを決意して、それぞれの地元へと発ちなさい。

 

サティヤ サイ ババ述

ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)

プラシャーンティ ニラヤムにて

1969年10月17日

Sathya Sai Speaks Vol.9 C25

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神の物語は言葉にならないほど甘いのです。全世界は神のおかげで甘美であり、全世界は神であるがゆえに喜びを与えます。

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あなたの役割を
​果たしなさい

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​無駄な試み

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9月−1

​あなたの役割を果たしなさい​

 神性は、顕現していない形で、すべての人の中に存在しています。海の波と同じように、すべての人間は神の火花です。すべての人間は、神であるサット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)の化身です。このことは、バガヴァッドギーターの中ではっきりと述べられています。

 

 神が愛の化身であるように、人も愛の化身です。しかし、現代人は利己的で自己中心的であるために、愛を完全かつ適切に顕現させていません。 

 

 人類は、物質と科学の分野ではかなり進歩しましたが、道徳や霊性の分野では悲惨な状態に陥っています。あらゆる行いにおいて利己心が支配的になっています。すべての思考、すべての言葉の背後に利己心が突き出ています。この利己心が根絶されて、初めて神性は姿を現します。

 

 セヴァ(無私の奉仕)を行う際には、すべての人の中には神が遍在していることを認識すべきです。人間はティヤーガ(犠牲)の精神とボーガ(感覚の求める快楽)への嫌悪を育んできませんでした。真の奉仕は犠牲の精神を必要とします。犠牲は不死を得るための唯一の手段であると明言されています。

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神性は、顕現していない形で、

すべての人の中に存在しています。

 人々は神を探しているように見えます。人々は目に見えるものすべてに神が浸透していることに気づいていないのです。すべての姿は神の姿です。しかし、人の目が外に向けられているために、内を見る神聖な見方を持つことができずにいます。

 人は平安を切望しています。平安や至福の源は自分の中にあるにもかかわらず、人は蜃気楼(しんきろう)を追い求めるように外にそれを求めています。ひっきりなしの活動、終わりのない心配、際限のない欲望のために、人は心の平安を失い、不満と不幸の餌食となっています。まず自分の中に平安を育むことです。それから、その平安を家族に広げます。それが家庭から村へと広がっていくようにするのです。このように、平安は個人から始まり、社会全体へと広がっていくべきです。

 サイ オーガニゼーションでは真実〔真理〕、正義〔ダルマ〕、愛、平安、非暴力の価値を伝えるために努力していますが、それは単なる伝達であって、実践(あるいは実証)ではありません。ただ述べ伝えても、何の役にも立ちません。真実は実践されなければなりません。真実と正義〔ダルマ〕は、バーラタ〔インド〕文化が支持している最高の価値です。もし人々が真実と正義〔ダルマ〕に基づいて生きていないなら、人々の人間性には何の価値もありません。

 すべての美徳の中で、愛は何よりも優先されます。愛が育まれていれば、他のすべての徳目はそこから流れてきます。すべてのサーダナ〔霊性修行〕の形の中で、第一の位置を占めているのは愛です。愛は人間性の最高の印です。愛は神です。愛の中で生きなさい。一日を愛で始めなさい。一日を愛で満たしなさい。一日を愛で終えなさい。セヴァ(無私の奉仕)に従事して、アハンカーラ〔エゴ/自分が行為者であるという自我意識〕の痕跡をすべて排除しなさい。私たちの堕落は、神を忘れたことによるものです。神を覚えていれば、私たちの人生は平安と幸福で満たされるでしょう。

 

 人間は3種類のイッチャ シャクティ(望む力)〔意志力〕を持っています。それは、

1)スウェーッチャ(自由に望むこと)

2)パレーッチャ(他の人の望みを実行すること)

3)アニーッチャ(望まないこと)

です。

 

3つの望む力の真の意味

 

 スウェーッチャ(自由に望むこと)とは、他人の権利を顧みず、自分の力や持ちものを使って好きなように行動する自由という意味ではありません。真のスウェーッチャ(自分が望んでいるとおりに行動する自由)は、自分の心で決断し、それを行動に移し、その結果が良くても悪くても素直に心からそれを受け入れることにあります。これが真の意志の自由です。自分が好きなことをしたいと望む自由には、それがかなったときに生じる結果を、等しく、自由に受け入れることが伴うべきです。

 

 パレーッチャ(他の人の望みを実行すること)とは、他の人に促されたり頼まれたりして行った行為の結果を嘆き、自分が被った責任を他人になすりつけることです。

 

 アニーッチャ(望まないこと)とは、自分の意志なく起こった、あるいは他人に促されて行った行為の結果として起こった偶然の出来事を、神の摂理として受け入れることです。

 

 尊いものである人間の姿を手に入れた以上、人は人の姿に真に求められることに応じて生きようと努めなければなりません。人は無知や貧困や罪に苦しむために生まれてきたのではないということを理解すべきです。人はもっと高尚な運命のために生まれてきたのです。人は自分に授けられた役割を果たすべきなのです。

 

王とサンニャースィと踊り子

 

 ある時、一人のサンニャースィ(出家行者)がマハーラージャ〔王〕のもとを訪れて、ヴェーダーンタの聖なる真理を説きました。王は彼の説明に満足し、皿いっぱいの金貨を差し出しました。行者はそれを受け取るのを辞退して、「物質的な贈り物を受け取ることは、私が身にまとっている衣にそぐいません」と言いました。「世俗のものをすべて捨てた私に、このようなものが必要でしょうか?」と行者は言いました。王はこのサンニャースィの態度を気に入りました。

 

 次の日、同じ人物が女の踊り子に扮して宮廷に現れました。踊り子は王の前で見事な踊りを披露しました。王は喜んで、踊り子に金貨の入った皿を差し出しました。しかし、踊り子は、「そんなはした金は受け取れません」と言い放ち、もっと多くを要求しました。その時、王は踊り子の衣装を着たその人物が前日のサンニャースィと同一人物であることに気がつきました。王は踊り子に言いました。「昨日、そなたは私の手による贈り物を拒否したが、今日は私が提示した以上を求めている。この態度の違いの真意は何か?」

 

 踊り子は、こう指摘しました。「誰もが自分の役割に応じた行動をとらなければなりません。サンニャースィのローブを着ている行者にとっては、いかなる物質的な贈り物も拒否するのが適切なことです。しかし、踊り子の役割においては、自分にふさわしいと思う分を要求する権利があります。私は、今日は踊り子の役を演じていました」

 

 その返事を聞いた王は、善い教訓を得たと感じました。「私は王だ。私は王としての行動をとるべきであり、王のローブをまとっている者にふさわしくない振る舞いをしてはならないのだ」。王は踊り子が教えてくれた教訓に感謝しました。

 

 現代では、黄土色のローブを着ていても、心の中は汚いものでいっぱいの人たちがいます。彼らは家長でさえ持ってないような欲を持っています。そのような二重生活によって、バーラタ文化は損なわれています。パンディト〔学僧〕たちを見てみると、彼らの多くは経典に精通しており、経典をそらで唱えることができます。彼らはルッドラークシャ マーラー(ジャパに使う聖なる珠数)を誇っているかもしれません。貴重なショールを身につけているかもしれません。しかし、彼らの行動は彼らの衣や装飾品にふさわしいものではありません。

 

 「パンディターハ サマダルシナハ」――真の学者はすべてのものを平等な目で見る――とギーターは明言しています。平等な目を持っていない人を、どうしてパンディト〔学僧〕と言えるでしょうか? もし、サンニャースィと名乗る人が俗世のものをすべて放棄しながら欲望を抱き続けていたら、その人はどうしてサンニャースィと見なされるでしょうか? 今日、経典の知識をひけらかしている多くの人は、ボーガラージュ〔贅沢の王者〕(贅沢を楽しんでいる人)やローガラージュ〔病気の王者〕(病気を自慢している人)であり、ティヤーガラージュ〔放棄の王者〕(放棄の大家)にはなっていません。

 

サイのセーヴァカの役割

 

 皆さんは、サティヤ サイ セヴァ ダルの一員です。一員として、皆さんは自分の役割に沿った奉仕をするよう努めなければなりません。皆さんはセーヴァカ〔無私の奉仕者〕です。あなたが奉仕する相手が誰であれ、自分は神に奉仕しているのだという気持ちを持ちなさい。猿のハヌマーンがどのような精神でシュリ ラーマに仕えたかを思い出しなさい。ハヌマーンは猿なのだから知性やその他の資質に欠けていると思ってはいけません。ハヌマーンは「穏やかで、徳が高く、強い」と描写されています。それほどの者が、ランカーのアショーカヴァナの木〔無憂樹〕の上で、ラークシャサ〔羅刹〕たちに「お前は何者だ、どこから来た?」と問われた時、「ダーソーハム カウサレーンドラッスヤ」(私はコーサラ国の主であるシュリ ラーマの召し使いである)と答えました。ハヌマーンは、自分の武勇や知識を自慢げに話しませんでした。ハヌマーンは、自分を謙虚で献身的なラーマの召し使いと称することに満足していたのです。

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人々は目に見えるものすべてに神が浸透していることに気づいていないのです。

 「キンカラ(主の命令を実行する覚悟ができている者)でなければシャンカラ(神)にはなれない」という格言を心に留めておきなさい。

 

 皆さんは、奉仕を通して自分の人生を変えなければなりません。皆さんの奉仕活動には、ほんのわずかでも、傲慢さや私利私欲が入り込む余地があってはなりません。自分が誰かに行う奉仕は神への奉仕である、という気持ちを心に植え付けなさい。そうして初めて、人〔マーナヴァ〕への奉仕は神(マーダヴァ)への奉仕となるのです。

 

自分の行いのすべてを神に捧げる

 

 社会で生まれ、社会で育ち、社会から教育を受け、社会から数え切れないほどの恩恵を受けている皆さんですが、皆さんは社会のために何をしていますか? 社会奉仕とは、社会が私たちにしてくれたことへの感謝の表現である、と考えるべきです。社会がなければ、私たちは生きていけません。神から与えられた体は、ダルマを実践するために使うべきです。プラフラーダが言ったように、もし手、足、口、耳といったさまざまな器官が主への礼拝に従事しないなら、人間として生まれることが何の役に立つでしょうか? そのような人は、その人を産んだ母胎にとって、重荷です。グニャーナ マールガ〔英知の道〕の唱道者であるシャンカラーチャーリヤ〔シャンカラ〕は、最後に「バジャ ゴーヴィンダム」の中でバクティの道を賞賛しています。

 

 女性はおしゃべりが過ぎる傾向にあります。毎日の家事も、集中して行う仕事と見なすべきです。もし家事のためにサットサンガ〔善良な集まり/サットサング〕に出られなくても、そのことで惨めな気持ちになってはいけません。家庭での義務を果たすことは、サットサンガに参加するのと同じくらい神聖なことです。家庭での義務をきちんと果たしてこそ、外で適切な奉仕を提供することができるのです。床を掃除するにしても、チャパティを作るにしても、家でするどんな仕事も、それを霊性修行の一つの形に変えなさい。すべての行いに神への愛を吹き込んで、それを神に捧げなさい。

1989年3月23日

アクティブ ワーカーと他の帰依者に向けた御講話

マドラス〔チェンナイ〕のアボッツベリーにて

Sathya Sai Speaks Vol.22 C6

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「キンカラ(主の命令を実行する覚悟ができている者)でなければシャンカラ(神)にはなれない」という格言を心に留めておきなさい。

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9月−2

​無駄な試み​

 善良な人との友情を育み、悩める人への思いやりを培い、幸福で繁栄している人を喜ぶ気持ちを養い、悪い心を持つ者への対する無関心を深める――これは古来よく行われてきた、穏やかで平和な人生を送るための処方箋です。神はそのような人を祝福し、恩寵を与えます。心からの喜びをもって唱えた神の御名は、人の心(マインド)に大きな影響を及ぼします。それは月光のように、人の内なる海の波に映ります。というのも、それは内からの神の響きであり、外からの神の呼び声だからです! しかし、ごらんなさい。科学によってもたらされるもの――物質世界を扱うもの、確認可能な部類の思考という方法によって測定や計量や計算ができる物事や出来事を扱うもの――は、喜びを求める人間を荒涼とした世界に追いやってきました!

 

 先ほど、チャンドラモーウリ シャーストリは、マントラについて、「信心を持って意味を十分に理解した上で繰り返し唱えると、神の神秘体験を与えることができる」と、あなた方に話していました。つまり、マントラは、あなた自身の心の電流で充電されたとき、文言の効力によって引き寄せられる神の近くにあなたを置くことを可能にするのです。

 

 マントラとは何でしょう? 「マン」(マナナ、すなわち、潜んでいる意味を考え続けること)、「トラ」(トラーナ、すなわち、救う行為、悲しみを越えられるようにする行為)。心(マインド)がマントラに必要な力を充電することができるための条件は何でしょう? 何よりもまず、「一点集中」です。

 

 さて、心はとても粗末な道具です。というのも、心は鈍いからです。心はあまりにも多くの物や目的を追いかけます。神に注意を向けるようにとあなたが心に説得したその瞬間にも、心は映画館やバザール、クラブのカードルームなどへとふらふらと出かけていきます。神の大いなる荘厳さに思いを馳せることに心が同意することは、めったにありません。あなたが心を神に向けさせると、心はあたかも、大洪水に直面しろ、あるいは、地獄の恐怖を迎え撃て、とあなたが心をけしかけているかのように振る舞います!

 

神への思いに浸るには神性への信仰心が不可欠

 

 神への思いに浸るためのどんな修行にも不可欠な、神性への信仰心がないのです。その信仰心は、信心深い人と付き合うこと、信心深い人の生涯や体験を読むこと、そして、自分自身が体験を重ねることによって、ゆっくりと芽生えることができるのみです。ナーマ サンキールタン(共に神の御名を歌うこと)は、たちどころに信仰心を生じさせます。最初は、好むと好まざるとにかかわらず、日課として御名を唱えなければなりません。やがてその味は、それが癖になるほど、あなたを引き込むでしょう。神の御名を繰り返し唱えることは、尽きることのない喜びをもたらしてくれるのです。私たちは、ハートの蓮の花について語ります! なぜでしょう?  蓮は水中で育ち、水中で栄養を得て、太陽の下で花を咲かせます。ハートも同様に、バクティ(信愛)から栄養を得て、グニャーナ(英知)によって花を咲かせます。

 

 神の御名のほとんどは、2つの文字あるいは音節で構成されています。2という数字では、(ラーマ、クリシュナ、ハラ、ハリ、ダッタ、シャクティ、カーリーといった二文字の御名の)1つ目の音節はアグニ(火の原理)を表しており、積み重ねた悪徳、すなわち罪を焼き尽くすということを意味しています。2つ目の音節はアムリタ〔不死〕の原理を表しており、これは回復させ、リフレッシュさせる、改善する力です。この2つのプロセスが必要なのです。すなわち、障害物の除去、そして、建造物の建設です。

 

 主クリシュナはヤショーダーに育てられましたが、彼女はクリシュナがどこで生まれたのか知りませんでした! クリシュナは実の息子のように愛され、扱われました。つまりそれは、ヤショーダーの愛は清らかで、利己的な思惑によって汚されていなかったということです。このたとえは、こう理解されます。

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善良な人との友情を育み、悩める人への思いやりを培い、幸福で繁栄している人を喜ぶ気持ちを養い、悪い心を持つ者への対する無関心を深める‥神はそのような人を祝福し、恩寵を与えます。

 へその領域で生まれた神の生気は、その後(ゴークラ村でナンダとヤショーダーが)御名を絶えず繰り返し唱えたことにより、舌の上で保持され、育まれたのだ、と。

 

 ラーマの原理は愛の原理であり、それは神々の贈り物として、偉大な犠牲の果報として、天界から降りてきたものです。「ラーマ」は「歓喜」を意味します!  生来備わっている真我(アートマ)ほど歓喜しているものはありません。それゆえラーマは「アートマ ラーマ」とも呼ばれているのです。

 

 では、どうしてバラタは、ラーマを正統な後継者とする王位の座を奪うことに応じたのでしょうか? ラーマが追放され、ダシャラタ王がラーマとの別離を悲しむあまりに死んだとき、バラタとシャトルグナはケーカヤ国の都にいました。〔帰国せよとの〕知らせが届き、アヨーディヤーの都に暗い影を落としていたその二重の悲劇を知らずに宮殿に入ったとき、バラタは何らかの災いを感じ取りました。王家の師であったヴァシシュタ仙は、バラタに王位に就くようにと勧めました。というのも、君主が不在であれば王国が苦難を被ることになるからです!

 

バラタが示した主ラーマへの愛の模範

 

 バラタは、「私が祈る神であり、絶え間ない愛に満ちた崇敬を受け取る主である者」のもとに行くことを許可してほしいと懇願しました。ヴァシシュタ仙は、君主としてバラタが王位に就くことはバラタの父の命令であり、師の助言でもあると、バラタに述べました。バラタは、その要求は両親、国民、師、そして、アヨーディヤーのすべての人がバラタに対して持っていた、きわめて激しい憎悪の証拠である。なぜなら、もし彼らがバラタを愛していたら、決してバラタにそのような恥ずべき罪を犯すよう迫らなかっただろうと、返答しました。

 

 バラタは合掌してヴァシシュタ仙の前に立ち、懇願しました。

 「王国を統治する重責を私に背負わせることは、正当で公正なことでしょうか? それは私の父を殺し、母を寡婦にし、私が自分の息よりも大切にしている最愛の兄を、兄が心から愛している妃と共に悪魔の棲む森へ追放させ、最終的に、私の母にぬぐうことのできない恥辱を与えることになります。私の王国は、ラーマが統治している王国、すなわち、私のハートです。そこは、ラーマの栄光を収めるには小さすぎる国ですが」

 バラタの名前それ自体が、バラタはラーマへの愛に浸りきっているということを示しています。(「バ」は、バガヴァーン〔宇宙のすべて〕、すなわち主ラーマを意味し、「ラタ」は、~を喜ぶ、~を幸せに思う、~に執心している、を意味する)

教育が人間のハートを硬化させている

 

 バラタがしたように、あなたの中で主への愛が育つようにしなさい。王座さえも捨てるほどの崇敬の念が、あなたの中に花開くようにさせなさい。そうすれば、あなたは、あなたの国、あなたの文化、あなたの社会、あなたの宗教、あなたの共同体にとって、大いに役立つことができます。それができないなら、あなたが体験してきたサットサンガ〔神聖な集い〕への参加、霊的な講話を聴くこと、霊性の大家たちと会うこと、霊的な書物を学習すること、といった骨折りは、すべて途方もなく無駄な試みになってしまうでしょう。

 

 読み書き、技能、適合、物質的進歩に重点を置いた教育システムが、人のハートを硬化させ、軍用品の蓄えのもう一つの武器にしています! 人の知性は、絶え間ない嘘の繰り返しによって鈍くなり、人の聖なる感情を養う畏敬の念や尊敬の念が、時代遅れのものとして非難されています! 聖人、聖地、聖河は嘲笑されています。長い間、神々の遊び場、聖者の生育の場、人類のグル〔導師〕であったインドが、今ではヴェーダーンタの光を求めて声を上げる人々〔ヴェーダの価値を認識している外国人〕のドアの前に立つ物乞いになっています!

 

 その光の輝きを知り、あなたの二つの翼――バクティ(信愛)とシラッダー(揺るぎのなさ/シュラッダー)――があなたを持ち上げることができる高さまで、その光に向かって飛んでいきなさい。

 

 シャーストリは、スワミの奇跡を描写するのは不可能なことだと言いました。その神秘を理解していない人が、どうやって説明することができるでしょう? 海岸にいる人が、どうやって海の波を数えられるでしょう? 海岸にいる人が全部の数を数えることはできません。その人にとっては、自分が数え始めた波が最初の波で、数えるのをやめた波が最後の波です。聞いて、反芻(はんすう)して、アドバイスに従う――これがあなたにとって十分なサーダナです。

 

 私の教えにおいて第一に重要なのは、あなたの両親、特に母親を敬いなさいというものです。あるとき、大変なハリケーンに見舞われた地域がありました。あまりの激しさにより、家という家がすべてなぎ倒され、住民は食べるものも寝る場所もなくなりました。最もひどい被害を受けた人たちの中に、ある母親と二人の息子がいました。長男は徳の高い素晴らしい息子で、家族を安全に守り養うことに責任を感じていました。というのも、彼は母親を愛していたので、何にも増して母の愛と祝福を得ようと努めていたからです。 

真の帰依者は、まず母親を敬うべし

 あなた方は、バーラタ マータ〔母なるインド〕、つまり母国について話しますが、どの母親も同じように呼吸をし、同じ血筋にあるのです。その母親は、下の子を連れて物乞いに出かけ、飢饉(ききん)に襲われたその地域で施されるわずかな食物で生き延びていました。しかし、間もなく母親は、自分がほんの数歩を歩くことさえできないほどに衰弱していることに気づきました。そのため、家族が食べていくには、長男が一人で物乞いに出なければならなくなりました。長男は母の足元にひれ伏して、「お母さんがしてきたことは僕がやります。みんなの食べ物を集めてきます」と言いました。長男は、母親が無理をして健康を悪化させるのは嫌でした。けれども、ほんのわずかな食べ物だけで、どうやって三人が生きていけるでしょう? 長男も衰弱していました。

 

 か弱い声と、おぼつかない足取りで、長男は大地主の家に行き、わずかな食糧を乞い求めました。その家の女性が、中に入るようにと言い、少年を葉っぱのお皿の前に連れていき、食べ物を盛りました。しかし、少年は食事をとるために身をかがめることなく、ふらついてバタリと床に倒れてしまいました。大地主が部屋に駆け込んできて、死に際にいる少年がふりしぼる最期の言葉を聞き逃すまいと、少年の口元に耳を寄せました。少年はこう言っていました。

「いえ、いえ、先にお母さんに食べ物をあげないと。僕の番はそれからです」

 

 あなたが負っている借金は返すことができるかもしれませんが、あなたが母親に負っている恩は決して返すことができないほど大きなものなのです。自分は神の帰依者だと言う人は、このように、それにふさわしい行いをしなければなりません。神の帰依者は自分の母親を尊ばなければなりません!

 

サティヤ サイ ババ述

ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)

プラシャーンティ ニラヤムにて

1969年10月16日

Sathya Sai Speaks Vol.9 C24

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ラーマの原理は愛の原理であり、それは神々の贈り物として、偉大な犠牲の果報として、天界から降りてきたものです。

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