SRI SATHYA SAI RAM NEWS

スタディーサークル
活動報告
開催日:2022年6月12日(日)
テーマ:ルチル・デサイ先生(サティヤ・サイ大学)の一周忌にあたって、同先生の故郷のムンバイのアシュラム※1(ダルマクシェートラ※2)で行われたご講演を聞いていただきました。
参加者:29名
質問:
① 本エピソードでスワミ※3が示されたユーモアにはどんな意味があるのか?
② スワミを祭壇に祀られた方としてではなく、最も身近な友人とするためにはどのような取り組みが必要か?
<参加者のコメント>
① 本エピソードでスワミ※3が示されたユーモアにはどんな意味があるのか?
「『アニャーター・シャラナム・ナスティ―あなただけが私の救い主です』の本を読んで、スワミがいたずらだったエピソードが書かれているのを読むと、スワミに親しみを感じたり、時にはいたずらなのにひどいことをするなあと思ったりした。神のリーラー(奇跡的な御業)はそれによって幸せにしてくれる部分があると思う。」
「ルチル先生の動画を見て、先生は本当に信仰心の塊でいらっしゃり、強く強く神を求めていらっしゃるその眼差しが印象深い。スワミは戯れたいと思われてルチル先生と戯れたのではないか。アナンタプル※4校の卒業生のSis. Sのお話でも、『スワミは本当に戯れたいんですよね』とおっしゃっていた。神聖な魂たちがスワミの周りに集まってきていて、選ばれたその人たちをスワミが楽しみながら教えられる。その人自身の鏡を見るように、スワミはその人の反射反映であるように、楽しみながらも傷つけることはなく、悪ふざけのように見える部分があっても教えられ、気づかされる。以前のスタディーサークルでも、 たくさん話しすぎている世話人の口に甘いキャンディを入れられたというエピソードがあった。愛された魂とのやり取りによって私も教えられるところがあると思う。」
「お話を聞きながら、(スワミのいたずらが)少しそれはひどいと思ったが、多分ルチル先生はすごくまじめだった。スワミからするとかわいい生徒で、皆に紹介したい気持ちがあったと思う。ルチル先生にはもう少し力を抜いてリラックスすることを教えながら、周りの人にもあまり優等生だと煙たがれることがあるかもしれないけれども、彼はこんなに純粋な青年なのだとお披露目したと思う。また、テルグ語も勉強した方がいいよということを、ユーモアを交えながら教え、他の学生たちとルチル先生が友人になれるように仕向けたような気がする。」
「私は本当に何回もいたずらな奇跡を何回も味合わせていただいた。何と身近な神様なのだろうと感じてきた。例えば、東京センターで3人ぐらいでスワミの若い時の写真を見て話をしていた。ある方が『スワミの髪の毛すごいね。もうグジャグジャしていてすごいね』と言い、『スワミは髪の毛を切ったことがあるのかしらね、切ったことないのでは、いや誰かが切っているのではないか』という話をしていた。すると、ある方がスワミの御講話のコピーを配り、それを見たら、『私は髪の毛は一回も切ったことがありません』とその御講話の中にあったので、皆ですごく笑ってしまった。そういう、いたずらっぽい奇跡を何回も何回も今まで体験してきたので、身近な神様だといつも感じていた。」
② スワミを祭壇に祀られた方としてではなく、最も身近な友人とするためにはどのような取り組みが必要か?
「本当にスワミはいたずらっぽい。何か自分の行いが良いときには、『ああスワミ助けられた、本当にありがとうスワミ』と思う。自分が間違いがあった時には、『してやられた、スワミにやられてしまった』と思うが、本当にいたずらで、チャーミングな感じで反応してくださる。例えば私がメロンが食べたいと思ったら、メロンがぱっと出てきたりする。私はスワミがスイカがお好きなので、スイカを今日も祭壇に捧げたが、心に思ったことをスワミがちゃんと分かってくださっていて、良いものであればすぐに与えてくださる。私もスワミのお好きなものを本当に捧げたいと思う。」
「今日、お話を聞いて、私もちょっと力を抜いて、もっとスワミにからかってもらえるようになれたら良いなと思った。以前、スワミの御姿を知って信仰し始めた頃、よく夢の中でスワミがサーカスをして、芸をしてくれる夢を何回か見たことがあったが、もしかしたら、もうちょっと楽しく生きなさいと教えてくれてたのかな、と思う。もっと心の中で、悠然として、もっと楽しく、身近な親友になれるようにスワミに話しかけていきたいと思った。」
<際の学生のコメント>
① 本エピソードでスワミ※3が示されたユーモアにはどんな意味があるのか?
「ユーモアは楽しみのために人間に与えられたもので、合理的な考えがなければ生まれてこないと思う。そしてスワミは人間の姿をとられた神様で、皆さんにもそのようなユーモアの一部になり、そこにいる皆さんに神様と共にいることを心地よく思ってほしかったのだと思う。スワミはすべてのことをシリアスに捉えすぎないようにと、そして人々と神との間にそれほど壁がないようにと意識されて、こんなことをされたのではないかと思う。またスワミは喜びや笑いを伴った体験を神と共有し、こういったことを通して周囲の人に神とつながったことを感じてほしかったのではないか。ルチル先生にもスワミを友人であると感じてほしかったのだと思う。スワミはこういった振る舞いを通していつも私たちの側にいて、私たちに親密な方であると感じさせたかったのだと思う。」
「まずはこのような体験をスワミが与えた一つの理由は、やはりルチル先生が本当に一生忘れないような、心に残る体験を与えることだっただろうと思う。すごく親しい人には、親しく話すように、スワミはルチル先生に親しさを感じてほしかったのではないか。スワミがルチル先生にきっと伝えたかったのは、人間だけが神様と親しくなりたいと思っているのではなく、神様のほうもこのように人と親しくありたいのだと教えたかったのではないか?」
「スワミと親友になるためには、親しい友人になるためには、神と一緒に良い時間を過ごす必要があると思う。また、ハートから神に話しかけることだと思う。そしてスワミが言っていることにしっかりと耳を傾けて、またそれにスワミがどのように反応してくださるのかということにちゃんと注意を払うことだと思う。どのようにスワミが反応してくださるのかということにしっかり注目した上で、それに基づいていろいろなことを修正して行くことだと思う。そして、やはり純粋性を高めること、いつも至福に満ちて話すこと、それが私たちをより神に親しくさせてくれると思う。そのようにすると私たちの愛が増していくと思うが、その時だけではなくて、コンスタントにそうしていくことがとても大事。そうすれば愛がより揺るぎないものになっていくと思う。そして、それがどのように神に親しくなるかということだと思うし、そういった努力を続けていくのであれば、決して神様が私たちを手放して、どこかに行かせるということはないと思う。」
「友情に関しては、どのようにスワミを受け取るかが、とても大きな違いを生むところになってくると思う。アナンタプル校時代の友人の中には、本当にスワミを普通の友人と同じようにして、友人として捉えている友人がいた。友人の一人は、とにかくスワミに毎日手紙を書いて、その日の一日がどうだったかということを、毎日毎日手紙にしたためて書いていた。別な友人は、スワミは私たちの内側に居ると固く信じていた。その友人にとっては、ただ本当に静かに座っていることが、友人であるスワミへのアプローチだった。それは両方とも神と友情を築くための二つの異なった方法だと思う。どちらのタイプの友情であったとしても、そのように築いた友情は、真実の友情であり、また長く持続するものだろうと思う。実際に神と友情を築くというコンセプトはとても美しいと思う。自分がバールヴィカス(子どもの開花教室)の生徒の頃、その時のグル(霊性の師)の方が、いつも『神様と友人になりなさい、友人になりなさい!』と言ってくださっていたことが自分に大変印象に残って、今でもいろいろなことが起こると、やはりまずスワミにシェアして、『スワミ、今こんなことが起こっているんですよ』とスワミに話しかけている。」
ババ様の御⾔葉
神があなたの唯一の真の友です。神以外の友だちは皆、あなたが財産を持っている間はあなたにくっついていますが、あなたが一切を失ってしまうやいなや、立ち去って行くでしょう。神のみが、いかなる時にもあなたと共にいる唯一の友です。神はつねにあなたと共にあり、あなたの内にあり、あなたのそばにいます。ですから、豊かに栄えるための唯一の方法は、神との友情を育てることです。
1994年1月1日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19940101.html
※1アシュラム:修行場、道場、隠遁所、行者の住処、隠遁者や引退した聖者の独居所。スワミのダルシャンを授かり、修行するための居住施設。
※2「ダルマクシェートラ」はマハーラーシュトラ州のSSOの本部およびスワミの住居のある建物の名称。ボンベイの北にある。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
開催日:2022年6月2日(木)
テーマ:ダルマヴァーヒニー『生きる道』7~10ページ
参加者:38名
質問:
① ダルマとは具体的にはどのような振る舞いか?
② 無分別をどのように取り除くことができるのか?(9ページ)
③『その高さに等しい梯子(はしご)』をどのように得るのか? (10ページ)
<参加者のコメント>
① ダルマとは具体的にはどのような振る舞いか?
「愛から出た言葉は真実で、愛に満ちた心の思いは平安で、愛に満ちた心で行う行為が正義であるというスワミ※1の御教えがある。したがって義務感からではなく、愛の思いから行うのがダルマの振る舞いだと思う。」
「ワカチンナカタ(小話)で、金品を差し出された時に僧侶は受け取ってはいけないが、踊り子は受け取って良いという例があった。つまりダルマとは生まれてきた役割、自分の役割に徹していくことだと思った。」
② 無分別をどのように取り除くことができるのか?(9ページ)
「感覚のコントロールの仕方が間違っていると思った時点で、ストップできる力も必要だ。そのために『良心の声』を聴くことのできる識別力も大切だと思う。また、今の時代(カリユガ※2の時代)には神の御名を唱えることが一番有効であると、スワミがおっしゃっているので、御名を唱えることが一番良いのかなと思う。」
「無分別を取り去るには識別することだと思った。行おうとしている行為の目的や、それによって誰が喜んで、誰が得をするのかと考えつつ、行為をスワミに捧げて全託していくことは大切。一方、悪徳だったら、気付いた時にはなおさらスワミに捧げるようにしていく。それで少しずつ良い行為だけが残っていき、自分の思っているダルマができるようになっていくと思う。」
③『その高さに等しい梯子(はしご)』をどのように得るのか? (10ページ)
「真理に立脚したカルマ(行為)とダルマを固く守っていくことが、この梯子になる、ということだと思った。また、より高い境地に達した人の力を借りることによって登っていくことができるという意味とも思った。これを現代にあてはめた場合、サットサング(善い仲間に加わること)の力を借りるという意味だと思った。」
「前の方が言われたように、このスタディーサークルで本当にたくさんのことを教えていただいて、やはりサットサングの力はすごいものだと思う。それと、自分の気づきで欠点を一つずつなくしていく努力、スワミの御教えを一つずつ守っていくこと、スワミの本などを読んで正しい知識を入れていくことも梯子になっていく気がする。」
<サイの学生のコメント>
① ダルマとは具体的にはどのような振る舞いか?
「ダルマは神を意味し、ダルマを行うことは愛するスワミへの入り口になると思う。良い振る舞いとしてのダルマは時とともに変化するものではない。私たちの振る舞いは慈愛に満ちたものである必要があり、正直で真実なものがダルマだと思う。そして他者を助けるものであり、何をもひけらかしたりせず、誰をもがっかりさせたりしないことだと思う。いろいろな状況に対して反応しないで、平静を保つこともダルマ。振る舞いにおいてダルマができれば、非常に平安な人間になれると思う。」
「自分の責任を果たす振る舞いがダルマだと思う。例えば親としての義務だとか、子供が親に仕えること、職業的な義務、そういった振る舞いのこと。それに加えて、他者を傷つけず自分の良心に従うこと。また人生の真実のために人生を理解することもダルマだと思う。ダルマに従っているのかどうか、自己判断するためには、自分が良心に従っているか、あるいはそれに背いて自分をだましているのかを見ていくことだ。」
② 無分別をどのように取り除くことができるのか?(9ページ)
「無分別さ、ブラインドネスというのは私たち自身のエゴのことではないかと思う。私たちの中のいろいろなネガティブなもの、無分別さ、エゴというものは、私たちの成長過程で、次第に作り上げられると思う。そして、それを完全に取り除くことは決して簡単なことではないと思う。私たちは常に自己内省を続けていきながら、自分の振る舞いを見ていく必要があると思う。例えば二人の間で喧嘩や争い事がある場合には、お互いに過ちは、相手の人だけにあると思っている。でも、そういった場合には、それぞれの人が喧嘩の原因に絡んでいる部分が必ずあるということを理解する必要がある。そして、サティヤ・サイ・オーガニゼーションの活動は、いつも謙虚でいることの重要性を教えてくれたり、エゴから離れていることの大切さを教えてくれる。自分自身を内省すること、自分の内側を見ようとすることが、無分別、ブラインドネスを取り除くために一番大事なことではないかと思う。」
「スワミがおっしゃっているが、世俗的な特質、獣性、いろいろな欲望などを取り除いていく必要がある。肉欲、怒り、貪欲、錯覚、高慢、憎悪。そういったものを滅ぼす必要がある。これを除くための自己分析が大事だ。スワミの御教えを学び、理解して、従う時に、それらを取り除くことができると思う。自己分析によって、私たちは皆同じなのだということを理解することで、盲目さ、無分別を取り除くことができ、神により近づけると思う。そして、バガヴァットギーター※3にもあるが、私たちは常に邪悪な性質と戦い続けていかなければならない。それが正義を確立するために必要なこと。そして、実践していくことで、神の意志が私たちの中に行き届くようになる。それは私たちの一歩のステップをご覧になった神が、千歩近づいてくださるということだと思う。」
③『その高さに等しい梯子(はしご)』をどのように得るのか? (10ページ)
「時々、いろいろな聖典や文献に書いていることを誤解することが起こるが、その誤解によって自分たちのグル(霊性の導師)をも誤解してしまい、誤った方向へ進んでしまうということが起こる。一方、学生にとっては良い先生がいることが当然だが、もしグルがちゃんと霊性のことを理解できていなかったら、自ずと学生たちも同じように間違った方角へと進んでいってしまうことになる。それはそれとして、幸運なことに私たちは今、神ご自身が書かれた文献(ヴァーヒニ シリーズ※4)を手にしている。スワミが書かれたすべての文献においては、正確な情報が書かれている。『その高さに等しい梯子』をどうやって得ることができるのかという問いに対する答えは、スワミがくださった文献があるので、その高さに等しい梯子を私たちはもうすでにもっているのはないかと思う。そして私たちはその宝物を支えとしていくことができる。」
「この梯子とは、私たちがもっているモチベーションのようなものなのではないか。やはりモチベーションを高く保っている人は、文献を学んでどうすれば良いかを見出していける人ではないかと思う。一方でモチベーションが低い人は、いろいろな御講話や文献を読んでいても、そうした振りをしているだけになってしまうのではないかと思う。『梯子の高さ』がどれくらいであるのかということは、モチベーションの高さによると思う。そのモチベーションが高ければ高いほど霊性の高みに登っていくことができると思う。帰依者の体験などを聴いて、シュラヴァナム(神の栄光を聴くこと)を続けていくことがモチベーションという梯子を得ることにつながると思う。」
サティヤ・サイ・ババ様の御言葉
愛の化身である皆さん!
火から生じる火花は、火と異なるものでもなければ、火と同一でもありません。それと同じように、ジーヴァ(個我)はブラフマン(神)と異なるものでもなければ、ブラフマンと同一でもありません。生まれたときに人間だった者は何人いるでしょう? 生まれた後に成長して人間の地位にふさわしくなった者は何人いるでしょう? 人間として生きている者で、正しい生活、正しい行動の鍵を知っている者が、何人いるでしょう? 人間は外見で人間と識別されるのではありません。綿はマンゴーに似た長い緑色の果実をつけます。野生のキビには多くの種類がありますが、そのすべてがサトウキビなわけではありません。石英(クォーツ)は氷砂糖に似ているかもしれませんが、食べることはできません。姿形に騙(だま)されるべきではありません。中味こそが重要な基準であり、中味が神なのです。
1981年11月23日
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2カリユガ:法の力が4分の3失われた闘争の時代
※3バガヴァッドギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※4ヴァーヒニシリーズ:インド発行の月刊誌、サナータナ サーラティ誌にテルグ語と英訳で連載されたサティヤ・サイ・ババ様の著作。
開催日:2022年5月25日(日)
テーマ:ラーマカター ラサ ヴァーヒニー(ラーマ物語・上・第一章P20)
参加者:37名
質問:
① 神の行動がありきたりに見えるとき、それは何が原因か?どのように見方を変えるべきか?
② 神の行動はなぜマーヤー(幻)の覆いを取り去ることができるのか?『ラーマの物語』は現代社会ではどのように演じられているか?
<参加者のコメント>
① 神の行動がありきたりに見えるとき、それは何が原因か?どのように見方を変えるべきか?
「スワミ※1が人間の姿をまとっていることが、一人の人間として見てしまう原因ではないか。その振る舞いの一つひとつに意味があるということを、深いところで見ていかなければならないと思っている。」
「私はスワミの写真をずっと見ていたりする。ある時、サットサング(善人との親交)でスワミの顔をずっと見ていて、その中で自分の心が震えた時があった。自分一人で霊性修行をするのと違って、サットサングの仲間の中でマンネリを壊していけるのではないかと思う。」
「いろいろな神の御業をいろいろな形で見ること。それによって神が実在しているということを体感すれば、マーヤーから引き離される。」
② 神の行動はなぜマーヤー(幻)の覆いを取り去ることができるのか?『ラーマの物語』は現代社会ではどのように演じられているか?
「ラーマ※2物語の中では、お父様の言うことを守るために、即座にすべてを捨てて森に入った。ラーマの行動は何が本当の正しい行動かということが現れているので、迷いが出た時に、ラーマやスワミだったらどうしただろうと頭に思い浮かべるだけで、随分自分の汚れたところが分かったり、迷いを取ることができるような気がする。」
「ラーマの物語は、あらゆるもの、皆の心や良心の中にいて、何が正しいのかを分からせてくれるもの。時代に関係なく、善いもの、正しいものというのはいつの時代でも感動する。そういう永遠に変わらないものを指し示してくれていると思う。現代においても、何が正しいのかということを、一人ひとりの中でラーマ物語というのを上演しつつ、何が正しいのかということを私たちに見えない力で教えてくれているのではないかと思った。」
「シーター※3が金の鹿を欲しがったことで大きなドラマが始まったということを思った時に、自分自身でも、あれもこれも欲しいと思っているように感じる。コロナ禍でそれが少し休止され、本当は何が大切かということを問いかけられている。それぞれが生きていく上で本当は何が大切なのかを考えることができる機会も与えられているような気がする。」
<サイの学生のコメント>
① 神の行動がありきたりに見えるとき、それは何が原因か?どのように見方を変えるべきか?
「神様は生きとし生けるもの、あるいは命のないものさえも含めて、すべてのものを導くために高いレベルから降りてきてくださった存在。これまでアヴァター(神の化身)はナラシンハ※4のようなライオンなどいろいろな動物に化身し、その後は人間の姿の化身として降臨されたが、なぜかというと、すべてのものの中に神はいると教えるため。そういう姿をとりながらダルマ(本分)に従って、私たちにダルマに従う余地を与えてくださっている。そうした姿を取ってくださる時には 神様とコミュニケーションを取ることがとても簡単になる。サイ・ クルワント・ホール※5にスワミがいらっしゃる時はいつもスワミに注目し、スワミの一つひとつの動きから学んだり、スワミに従ってその振る舞いを実生活において実践できるようになっている。神様が来てくださることで、神様は必ずしもいと高きところにただ座っていらっしゃるのではなく、神様でさえも苦しんだり、時には痛みを感じられていて、そういう姿を見ることによって本来の神の姿は永遠のものであると分かるようになる。姿をもっている神がどのように皆に話しかけてくださり、神とどのように関係をもってコミュニケーションをとれるのかが分かると思う。」
「神が人間の姿をとって降臨してくださった時には、普通の人がいかに生きていくのかという模範を示してくださり、また自然界のルールやダルマに従うことを教えてくださる。ある意味、姿をとった神は普通の人のように振る舞う。人間の心には知性の限界もあるため、疑いを抱いたりしてしまう。でもそういった時に私たちは、神を理解することはできないことを理解する必要がある。もう一つ考えなければいけないことは、もし私たちが人の姿の神を理解できないならば、なぜ姿のない神を理解することができるだろうかということ。人間のマインドにはそういった限界があるが、神は感覚を超越した存在。だから、私たちも神を理解するために霊的な旅路において向上していくべき。質問の後半のどのように見方を変えるべきか、という点では、やはり神が人の姿をとって来てくださるのは私たちの誤った考えを取り除いてくださるため。私たちの霊的なレベルを向上させるために来てくださったという見方をしなければならない。小さな子供を母親が腕に抱えてベッドに連れていってくださるのと同じように、神様のアヴァターが降りてこられて私たちを導いてくださるということ。そのように神へ近づいていくためには、神への友情を培っていくことが必要。そして蓮華の御足に全託する必要がある。」
「サナータナ ダルマ(古来永遠の法)の中では、シヴァ※6というものは英知であると考えられている。母であるパールヴァティー※7には、最も大きなマーヤーという意味のマハーマーヤーという名前がある。マーヤーを取り除くためには、まずシヴァの恩寵を得る必要がある。このことに関連してスワミがよくおっしゃっていたのは、私のことを理解しようとしてはいけない、体験しなさいということ。実際に神の振る舞いを理解しようとすることは、非常に難しい。神の振る舞いによってマーヤーを取り除くことができるのか、あるいはその振る舞いを理解することがマーヤーを取り除くのか、それはよく分からない。文献には、何であれラーマが行なったようにやりなさい、クリシュナ※8が言ったことだけを行いなさいと書かれている。宇宙の歴史でいえば、ラーマとクリシュナは宇宙の別の時代に属したアヴァターだったが、その生きた時代によって、どのような振る舞いが求められるか、その時代の文化も違っていた。神の物語をただ読んだだけで、その振る舞いを理解できるようになるかどうかは分からない。それを理解すること自体が、まさに英知ということではないかと思う。そして英知がそこに有るのであれば、マーヤーの影響というものは無いと思う。そのアヴァターの人生が示しているような、その背後にある意図や哲学、それを理解しなければならないと思う。そして実際に、それらの文献に書いてあるような、人生におけるレッスンというものを、自分だったらどうするだろうかとシミュレートしていく必要があると思う。」
「マーヤーに関しては、ポジティブなエネルギーとネガティブなエネルギーの両方があると思う。憎しみや妬みなどは全部マーヤーのネガティブな側面。一方で愛や犠牲などは、ある意味マーヤーの中のポジティブな側面。実際にマーヤーを取り除こうということは正しいことだが、私たちが生きている限り、本当にマーヤーを完全に取り除くことはできない。でも神様の振る舞いは、あらゆる意味において、私たちがポジティブな側面のマーヤーを得ることを助けてくれると思う。例えば YouTube のビデオの中で、スワミが帰依者に何かをあげたり、そういった様子を見ると必ずそれを通して何かポジティブなエネルギーをいただくことができ、本当にそういう振る舞いをしたいと思えたりする。そのようなやり方で、スワミの振る舞いが自分に影響を与えて、私たちがよりポジティブな形態のマーヤーを得ることを助けてくれる。それが神の行動が、実際に私たちに影響を与えている例。」
② 神の行動はなぜマーヤー(幻)の覆いを取り去ることができるのか?『ラーマの物語』は現代社会ではどのように演じられているか?
「家庭に重きをおくのか、仕事に重きをおくのか、というように、ラーマーヤナ※9で示されているように、私たちが生活の中で色々なジレンマに遭遇するということは今も起きている。ラーマがよく考えていたように、何が正しくて何が正しくないかということを、今も私たちが考える状況におかれ続けている。またシュールパナカー※10やラーヴァナ※11といった人々も、今私たちの人生の中でもそういうカテゴリーの人々に遭遇することもあり得る。実際に、私たちが人生の中でいわゆる成功を得ようと思った場合には、いろいろな人に遭遇したり、いろいろなハードルを乗り越えてうまくやらなければならない点も似たところだと思う。もちろんラーマーヤナでまさに起こったこととまったく同じことは起こらないが、その本質においては同じようなことが繰り返されていると思う。一つの例をあげると、例えばラーヴァナはラーマやシーターに対してたくさんの恐ろしいことをしたが、ラーマが一度ラーヴァナを殺した後にはラーヴァナの葬式においてヴェーダ※12が定める様々な儀式をちゃんと執り行うようにとラーマが処方した。そしてラーマが言うには、彼がした行いは良くないので罰が与えられるべきだが、それが終わった後にさらなる罰が加えられるべきではないということだった。果たして私たちがそのような純粋なハートをもつことができるのかどうかということ。これで罰は終わったのだと頭を切り替えることができるかということ。もしそのように切り替えることができるのなら、私たちの人生を向上させていくことができると思う。例えばいろいろな学者やスワミ・ヴィヴェーカーナンダ※13のような著名な人々も、人生の中でそのような難しい局面に直面することがあった。彼らは非常に神に近しい人々だった。なぜなら、ラーマーヤナなどに示された原理にちゃんと従うことができた人々だったから。ラーマーヤナの物語はとても感銘を与えるものであり、とても甘いもので、それを読む人には幾分なりともその原理に従いたいと思わせる力をもつものだと思う。ブラフマー※14やヴァールミーキ※15も言ったことには、川に砂があり、山がそこにある限り、ラーマーヤナはずっと続くということだった。そしてこの物語がそこにある限り、人々に感銘を与え続け、正しい道へ誘い続けるということ。より多くの正義の道を歩む人々が将来にも現れ続けるということだと思う。
サティヤ・サイ・ババ様の御言葉
愛の化身である皆さん!
ラーマの物語は、神秘的で、神聖で、至福に満ちています。ラーマの物語はただの古いにしえの物語ではありません。ラーマの物語は不滅であり永遠に新しいものです。それは吉兆に満ち溢れています。皆さんが心を『ラーマーヤナ』の聖なる理想で満たしますように! 皆さんが嫌悪とあらゆる差別 を捨て去りますように! 皆さんが平和に仲良く暮らすことができますように! 絶えることなくラーマを憶念すれば、至福と歓喜を味わいます。ラーマの物語を心に刻みつけなさい。
2003年4月11日
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※3シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※4ナラシンハ/ナラスィンハ:ヴィシュヌ神の第四の化身。人獅子。
※5サイ・ クルワント・ホール:プラシャーンティ・ニラヤム(プッタパルティにあるサイ ババの住まいとアシュラムの総称)のダルシャン・ホール
※6シヴァ(神):破壊を司る神。
※7パールヴァティー:山の娘の意、シヴァ神の妃である女神
※8クリシュナ(神):ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※9ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※10シュールパナカー:扇のような爪を持つ女の意。ラーヴァナの妹。ラーマとラクシュマナに結婚を申し込んでラクシュマナに鼻と耳を切り落とされる。
※11ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※12ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※13ヴィヴェーカーナンダ:インドの宗教家。ヨーガとヴェーダーンタ哲学の霊的指導者としてインドを中心として、アジア諸国、西側諸国の人々に影響を及ぼした。
(日本ヴェーダンタ教会HPよりhttps://www.vedantajp.com/%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E4%B8%89%E4%BD%8D/ )
※14ブラフマー(神):梵天、創造を司る神。
※15ヴァールミーキ:ラーマの存命中に記されたインドの大叙事詩『ラーマーヤナ』(ラーマの歩みという意味の神の化身ラーマの物語)の述者。
開催日:2022年5月15日(日)
テーマ:フィリス・クリスタル女史※1へのインタビュー(通訳含め約40分)
参加者:41名
質問:
① スワミ※2はなぜ女史に「私は神である」と大声で宣言することを求められたのか?
② 死に対するネガティブな意識を取り去っていくためにどうすれば良いか?
<参加者のコメント>
① スワミ※2はなぜ女史に「私は神である」と大声で宣言することを求められたのか?
「これは私の想像でしかないが、クリスタル女史はシャイで内気だとも言われていたし、とても謙虚な方なのだろうと思った。スワミの御教えで聞いたことであっても、大それたことは自分には言えないという壁をもっていらっしゃった。そこをスワミは『打ち破りなさい』という意味で『大きな声で自分は神であると言いなさい』とおっしゃったのかなと思った。」
「言えないということにも自分の意識、自我意識があると思う。すべてスワミがおっしゃることにYes、Yes、Yesと言えるようになれればいい。自分の意見や意識をもっていることに気づかせるためにも、スワミはそのようなことをおっしゃったと思う。」
「世間的には私は神だと言えば高慢に聞こえる。そういうイメージもあったのかなと思った。」
② 死に対するネガティブな意識を取り去っていくためにどうすれば良いか?
「いつも神の御名を唱えているとハートには神が根付く。常に神と共にいることになり、奇跡というよりは、喜びや幸せ、『神と一緒であれば大丈夫』という安心を感じる。」
「肉体意識が死に対する恐れの原因だと思う。根本的には、アートマ意識(神我)に根差すために絶えずそういう訓練をしておくことが大事と思う。なかなか私たちはそうは言いながら肉体意識をすぐ簡単には取り除けないという事実もある。そういうときの助けとしては、やはりスワミの御言葉を信じる。それは何かというと、スワミがおっしゃっているのは死というのは光の体験、喜びの体験であるということ。それを信じるとすれば、本当に死そのものは決してネガティブなものではなくて、喜びに満ちたもの。そのように思えば心配や恐れが少しは減じていくのではないかと思った。」
「私自身が若い時、なぜか死というものに対して恐怖を感じていた。自分もいつか死ぬと思うとすごく怖かった。それが、スワミを知ってから、なぜか分からないが徐々に徐々に、死に対する恐怖はまだあるものの薄れてきた。自分が肉体意識から抜け出すことができているのかというと、まだまだ肉体意識をもったままだが、でも霊性修行を少しずつ積み重ねていくことによって、本当に死に関する恐怖が少しずつ薄れていく。その中で非常に大きなものは、ずっとスワミが助けてくれているということを繰り返し体験してきたこと。これはすごく怖いと思っても、必ずスワミが助けてくれた。あの時も助けてくれたということが、ずっと積み重なっているので、多分、死という大変な恐怖の時にもスワミが助けてくれるのだろう、という確信が自分の中で大きくなってきた。それが非常に大きいと思う。」
「ヴェーダ※3によると、人間は生まれてくる時に、すでに死期が刻まれているらしい。そしてスワミの御言葉によると、起こることはすべて自分にとって良いこと。本当に深い信仰をもってスワミに委ね、死ぬ時が来てもこれはピッタリの時に死ぬのだと、神が呼んでいるのだと感じて行くべきなのではないかと思う。」
サティヤ・サイ・ババ様の御言葉
タット トワム アスィ(それは汝なり)、アハム ブラフマースミ(我は神なり)、プラグニャーナム ブラフマー(覚醒意識は至高者なり)。これらの深遠な真理がヴェーダによって公言されているにもかかわらず、人々はそれらを信用しようとしません。人々は「自信」について語りますが、実際には、「自己」(真我(アートマ)、本当の自分)を信じていません。万人にとって、自己への信頼(アートマ ヴィシュワーサ)を有していることは最も重要です。自己への信頼は人生という館の土台であり、自己を満足させることが壁、自己への犠牲が屋根、自己を悟ることが住居です。自己(真我(アートマ))がすべての根底にあるのです。自己への信頼がなければ、人生はまったく無意味なものとなります。
1999年11月5日の御講話
※1フィリス・クリスタル女史:『節制のプログラム』の著者
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
開催日:2022年5月11日(水)
テーマ:生きる道(ダルマヴァーヒニ)P5-P7
参加者:37名
質問:
① ダルマとは何を意味するのか?
② 平安や幸福はなぜダルマと結びついているのか?
③ 世の人々(私たちを含む)がダルマへの疑念を解くためには何が必要か?
<参加者のコメント>
① ダルマとは何を意味するのか?
「ダルマという言葉自体、スワミ※1を知ってから知った。本の中で『正しい行い』とか『正義』とか書かれているので、正しい行いや本分という意味合いで理解している。」
「スワミの本を読むと、青年のダルマや家庭においてのダルマ、カースト※2のダルマなどが書いてあり、今まで『正しい行為』と理解していた。ダルマをどう捉えるかを考えると、スワミは『愛に満ちた心で行う行為がダルマ(正義)である』とおっしゃっているので、愛を基にしていかなければと思う。今後、ダルマへの認識を変え、愛に満ちた心を基にしたものでありたいと思う。」
② 平安や幸福はなぜダルマと結びついているのか?
「自然界の役割も、その根底にある神様が創られた自然法則もダルマ。法則にフォーカスしていくことで、一番自然な生き方ができ、それによって平安とか至福が得られるのではないかと思った。」
「二つぐらいの側面で考えてみたい。一つは心の側面。もう一つは霊的な側面。先ほどの話にあったがダルマとは本来の性質を発揮して生きることがダルマ。自分たちに与えられた役割、性質、あるいは本質など、自分に与えられたものを満たして、行為すること。そこからきっと心の満足感、充足感のようなものがきっと生まれてくる。そしてもう一つは、今日読まれた部分に『神はダルマの権化』、ダルマの化身であるとあり、これは、神はダルマであると言っていると思う。一つの言い方として愛。行う愛がダルマであると言われているので、そこに結び付くと幸福や平安になっていくと思う。反対にアダルマは、エゴに結び付いていると苦しみ、不幸、幸福になれないものを呼び寄せてしまい、そのような原因になると思う。」
「世の中の人々の価値観が損得に置かれているのではないかと思う。自分自身もスワミにそうではないということを教えられて、改善したとは思うが、どこかに損得に価値観を置いているところはあると思う。プッタパルティ※3に私たちが行くと、よくなぜハワイにいかないの?と疑問をもたれたり、どこがいいの?と言われることもあった。外側から見ると景色もよくなかったり狭かったりどこが良いだろうと思うかもしれないが、その中に平安や喜びや幸せがある。皆さんや私自身も体験してわかったこと。だから損得やきらびやかさとかそういうものではない。それを越えたところに本当にダルマがあり、その中に平安と喜びがあるという価値観がわかってくると世界が変わってくるのではないか。」
③ 世の人々(私たちを含む)がダルマへの疑念を解くためには何が必要か?
「結局ダルマへの疑念は、普遍的真理や神への疑念になると思う。神への疑念を解くためには、大自然の中に身を置くことによって神の衣である自然を見るということから始めると良いと思う。神聖な優しさ、栄光をたくさんの人と分かち合ったり、大自然に親しむ、自然の中にいるようにする。」
<サイの学生のコメント>
① ダルマとは何を意味するのか?
「本当にヒンドゥーの宗教的な背景で言えば、一人ひとりの行いの中の道徳的な側面のこと。宗教の中にポジティブな秩序をもたらしているものがダルマ。そしてヒンドゥーでは至高の神とかヴェーダ※4を信じる。それに従おうとする人々がダルマに従うことになる。もちろん、行い(カルマ)が一人ひとりの運命を決定づける最大の影響力をもつ。なので一人ひとりが自分のカルマに強力な影響力をもつダルマを行う必要がある。ダルマは宗教とか義務とか正義などの意味を含んでいると思う。ダルマには『掲げるもの』、『捧げるもの』という意味がサンスクリットではある。例えば私たちのコミュニティや国、地球はその平安を維持するために秩序を必要としている。ダルマが何であるのかは社会的な要求、期待によっても変わることがある。例えば、子供のダルマは、その子供の能力、才能、どのように期待されるかということによって変わってくる。子供たちは親にちゃんと従って、立派に育つことが期待されている。それが子供たちのダルマ。親のダルマはしっかりと子供の面倒を見ること。それが両親のダルマ。そのように一人ひとりが自分のダルマをちゃんと果たすのであれば、社会や国がしっかりとダルマを果たすことができる可能性が高くなる。もし人々、個人がそういったダルマをしっかり果たさないと社会は堕落してしまう。ダルマは社会を支えている私たちの義務で、それは宇宙を支えるものでもある。例えばヒンドゥーにおけるカーストなどの社会制度も人々のダルマの一部だと考えられている。インドではどういう社会環境で生まれたかによって、かなりダルマが制約される。例えばどういう人たちと結婚するのか制約があったりするが、そういったこともダルマに関係していると考えられている。一つひとつの階級の人たちが、属している階級のいろいろな慣習やダルマに従っていく必要があり、それがその人々なりに霊性を高めていくことに繋がると信じられている。」
「ダルマという言葉のサンスクリット語の意味は、堅持するとか、維持、支えるという意味。創造物の間のバランスを保ったり、維持すること。自分にとってのダルマとはしかるべき状況で正しい行為をすることだと考えている。私たちの生活の中で状況が変わったら、それに応じて役割を果たそうとし、その一つひとつの役割に私たちの責任が伴う。一人ひとりの能力に応じて、その最善を尽くして、その責任を果たすことが大事になってくる。もし一人ひとりが自分自身の義務に最善を尽くすことができるのであれば、社会、宇宙にも平安や幸せがあるだろうと思う。バガヴァッドギーター※5の中でクリシュナ神※6は『時には私たちがダルマを果たすべきではないと考える状況も訪れることがあるかもしれない』と言っている。私たちが自分の義務を果たすと、それによって誰かを傷つけることになるかもしれないと思うケースもあると思う。でもクリシュナ神は『たとえどんな状況であっても自分の義務、責任を放棄してはいけない』と教えた。同時にクリシュナ神は『本当に問題なのは誰かを傷つけることではなくて、一番問題になるのは自分自身の義務を放棄してしまうことだ』とおっしゃった。いかなる状況においても私たちの最善を尽くして、可能な限りの責任を果たすことがダルマであり、クリシュナ神が言ったように、状況に応じて考えが変わってしまうものでなく、毅然としてそれを行うということ。日常生活の中でそのような責任においてダルマを最善の努力を尽くして実行すること。そして行動の結果について考えることをやめることだと思う。」
② 平安や幸福はなぜダルマと結びついているのか?
「いろいろな文献で、例えばラーマ※7やパーンダヴァ五兄弟※8などダルマに従った人を見ると、人生の中で本当にたくさんの困難に直面しなければならなかった。その一方でダルマに従わないで生きたラーヴァナ※9やドゥルヨーダナ※10はとても贅の限りを尽くした人生を歩んだ。もし一般的な世俗の人が彼らのこういった生き方の例を見ると、ダルマに従えはそのような困難に直面することになってしまうと誤解してしまうのでとても繊細な質問だと思う。マハーバーラタ※11の中でもダルマラージャ※12がクリシュナにこのような質問をし、『ダルマに従っているからこういうたくさんの困難に直面しなければならないのではないでしょうか?』とクリシュナに尋ねる場面があった。その文献の本当の意味を理解しようとすると分かるのは、本当の平安や幸せは、私たちに与えられている状況を超越したものなので、私たちが直面する困難とはまったく関係がないといえる。平安と幸せは私たちの得る満足と関係している。ダルマに従っている人には、どれほど苦労しようとも神様が必ず付いている。パーンダヴァ兄弟はいつもダルマに従っていたので、彼らを守護するためにクリシュナがいつもそこにいた。そしてヴェーダにも書いてあるが、もしダルマを掲げるのであれば、ヴェーダが間違いなく皆さんを守護するということ。ダルマのことを知るだけで、ダルマ的な人になるというわけではない。ダルマに従ってダルマを実践し、初めてダルマ的な人になる。ダルマはいつもカルマと関係していて、日々それが実践されなければならない。そのダルマというものは私たちの満足に依存していて、平安とか幸せとは状況によらずに得られる心の状態、満足のこと。ダルマというものは、私たちが従わなければいけない、全般的なルールのようなもの。ダルマを運転免許の例になぞらえれば、運転免許を取ろうと思ったら、一生懸命本を読んでルールを学ばなければいけない。運転免許の試験に合格できるのは、ルールを知っていて、なおかつそれに従う時だけだ。それがうまくできなかったら、他の車に衝突して事故を起こしてしまう。サナータナ ダルマ(古来永遠の法)に述べられているのは、ダルマの原理を学ぶために参照しなければならないのはヴェーダ文献であるということ。そしてカリの時代※13においては、ヴェーダなどの本当の正確な意味を理解することさえも非常に難しい時代に置かれている。そして、それをより容易に理解するためにスワミご自身が本当に労をとられて、このダルマヴァーヒニを書いてくださった。そのような背景のもと、ダルマヴァーヒニのスタディーサークルに参加して学ぶことは、すべての人にとって重要なことで、これを学ぶことが皆さんを非常に助けてくれると思う。」
「自分が何か欲しいものを手に入れたから、これで幸せなのだろうかと自分の感情を分析すると、何か欲しいものが手に入ることは本当の幸せではないということが分かってくる。最終的には結局必要なものは満足なのだと分かってくる。言葉でいうことは簡単で、時に困難に直面し、難しい時もあると思うが、文献などを頼りに、模範を探し出していく必要がある。文献に出てくるような、多くの素晴らしい事例が私たちにモチベーションを与え、私たちがそれに従って満足を得て幸せや幸福を得ていくことができるのだろうと思う。」
③ 世の人々(私たちを含む)がダルマへの疑念を解くためには何が必要か?
「最初にダルマが何であるかを知る必要がある。ダルマは私たちの中に存在している基準のようなもの。もし私たちが、何がルールであるかということを確信がもてなくなったら混乱に陥ると思う。例えば、一か月おきに新しい携帯電話を買っているような人もいる一方で、同じ携帯電話を何年も使っている人もいる。どちらかのタイプが幸せでどちらかがそうではないと言っているわけではなく、両方とも満足して幸せでいると思う。それは自分自身でどのように価値観を設定しているかということ。ただ、他の人の価値観を自分の価値観と比べ始めると自分の価値観に対して急に確信がもてなくなってしまう。そのように他の人の価値観と比べるのではなく、自分自身の価値観に確信をもったのであれば、もっと幸せでそのような疑いがなくなっていくだろうと思う。私たちは自分がもっている価値を実践し続けていけば、必ず良い結果が私たちのもとに訪れると思う。そうするのであれば、自分が設定してきた価値観にさらに確信がもてるようになるだろう。そのような結果が得られたのであれば、自分で設定した価値の重要性がわかるだろうと思う。」
「ダルマに疑問を投げかけるよりも従うことが最善。例えばサイオーガニゼーションで疑問やわからないことが生じたら、私たちはその疑問をスワミに投げかけるべき。実際に多くの御講話でスワミはダルマについて、多くの事例を教えてくださっている。私たちがいかなる時にも何かに対する疑念を得た時には、最善の方法は御講話やヴァーヒニ※14を当たることだと思う。」
サティヤ・サイ・ババ様の御言葉
道徳的に正しいこと、すなわち、ダルマは、決して裏切らないということを信じなさい。ダルマは、他のいかなる手段を通じて得られる喜びよりも大きな喜びを保証してくれます。
1964年2月19日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19640219.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2カースト:カーストには、大枠を示す四氏姓(ブラフミン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)で区分するヴァルナと、職業で細かく区分するジャーティがある。各カーストはそれぞれの浄性を保つために、婚姻や職業に関する厳しい規制を設けている。カーストの高低と貧富は必ずしも一致しない。
※3プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※4ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※5バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※6クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※7ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※8パーンダヴァ(兄弟):「パーンドゥの息子たち」の意。『マハーバーラタ』に出てくるパーンドゥ王の五人の息子、ユディシュティラ(ダルマジャ)、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァのご兄弟の総称。ダルマジャとビーマとアルジュナはクンティ妃の息子で、ナクラとサハデーヴァはマードリー妃の息子。
※9ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※10ドゥルヨーダナ:『マハーバーラタ』の悪役。カウラヴァの百人兄弟の長男。
※11マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※12ダルマラージャ:パーンダヴァ兄弟の長兄、ダルマの王の意、ユディシティラの別名。
※13カリの時代(カリユガ):法の力が4分の3失われた闘争の時代。
※14ヴァーヒニ (シリーズ):インド発行の月刊誌、サナータナ サーラティ誌にテルグ語と英訳で連載されたサティヤ サイババの著作。
開催日:2022年5月5日(金)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第58節「真理の発見に専念し、永遠なるものを熟考しなさい」
参加者:34名
質問:
①「永遠に存続し、永遠に真実である神を熟考し、真理を見出すことにすべての時間を捧げなさい」との御言葉に関して、日常生活でどう実践するか?
②「いかなる迷妄の中に投げ込まれようとも、真理はよりまばゆく輝くばかり」であることを、どのように実感できるか?
③「このかりそめの世界においては、真の生き方はあり得ません」との御言葉に関して、かりそめの世界をどのように活用して神を悟るべきか?
<参加者のコメント>
… ①「永遠に存続し、永遠に真実である神を熟考し、真理を見出すことにすべての時間を捧げなさい」との御言葉に関して、日常生活でどう実践するか?
「スワミ※1が教えている朝の祈りで、『今日一日すべての行いを神への捧げものとして行います』という祈りがある。この祈りを始めた時に、最初朝の祈りができなかった。とてもではないが、良いことも悪いこともするので、一日を神への捧げものとしますとはなかなか言えなかった。最初は一日終わった後に捧げることはできるだろうと思い、夜の祈りから初めた。その後、せめて一日を神聖で煌めくものにしたい、朝も祈ろうと思い、もう一回朝の祈りを見てみると、そのように書いてあり、だんだん祈りと一致してきた。祈りは非常に重要だと思った。」
「すべての時間を捧げることができたら最高に良いと思う。この世に生きているといろいろな誘惑があって、すべてを捧げるには難しい部分がある。私の場合はなるべくスワミの写真を部屋に飾ったり、スワミの御言葉を飾ったり、スワミを忘れないようにしている。」
… ②「いかなる迷妄の中に投げ込まれようとも、真理はよりまばゆく輝くばかり」であることを、どのように実感できるか?
「今までで自分の執着とかエゴで苦しみや悲しみが一杯になってしまった時でも、空を見て『美しき』と心が動くというか、この美しい空を見られるだけでもう一日頑張ろうと思えたり、自然を神々しいと思ったり、道端の花が美しいと思えたり、赤ちゃんが本当に愛しいと思ったり、歳をとっている人に席を譲る姿を見て『ああ、なんて素敵なことだろう』ということに触れると、何かほっとする。そのように気持ちが動くのは、自分の中に光のような、そういうものが存在しているのだと思った。」
… ③「このかりそめの世界においては、真の生き方はあり得ません」との御言葉に関して、かりそめの世界をどのように活用して神を悟るべきか?
「外側の事象に対して反応しても、そこに引っ張られて苦しみが大きくなり、やはり自分の内側に向かって、その至福を体験していく方が自分にとっては本当に大切。常に神を黙想していくことで実感していけると思う。」
「私はスワミのことを知る前から『人事を尽くして天命を待つ』という言葉が非常に好きで、仕事や勉強などいろいろなところで目標を立てて、『人事を尽くして天命を待つ』という言葉を自分に言い聞かせながらやってきたところがある。仕事の目標にしても勉強の目標にしても、本当は意味のないことなのかもしれないが、目標を立てて一生懸命やる中で自分自身が成長できるし、その中で瞬間的に真理を見るということもあった。そのように、かりそめの世界を活用しながら自分を成長させていくことができるのではないかと思う。」
「スワミはいつも私は至福ですとおっしゃっていたので、私たちも自分の中のアートマ(神我)の部分が光り輝くと、どんどん幸福なって、『私』というエゴが減るとどんどん幸せになっていくのかなと思う。そしてスワミがおっしゃっている、『人生はゲームです。楽しみなさい。人生は挑戦です。立ち向かいなさい。人生は愛です。分かち合いなさい。人生は夢です。実現しなさい』という言葉のように生きていけたら良いと思っている。」
<サイの学生のコメント>
… ①「永遠に存続し、永遠に真実である神を熟考し、真理を見出すことにすべての時間を捧げなさい」との御言葉に関して、日常生活でどう実践するか?
「一つ大事なことは朝起きてから夜寝るまで常にスワミに照らして正しいことを考え続けるということかと思う。その一日にあたってダルマ(正義)、平安、愛、非暴力に関して従ってきたのかどうかを考えることが必要と思う。スワミがおっしゃっている、どの御言葉でも良いが、決めたことを一つ、一日しっかりと従う努力をしていくことが必要と思う。一つひとつのスワミの御言葉の引用を実践するには大変な努力を要する。プッタパルティ※2で刊行しているダイアリーがあるが、そのようなものに示されている御言葉をその日の終わりに至るまでしっかりと沿うようにできたかどうか検証していくことが大事。そういったことを毎日行っていると人生の真の目的を気づくことになると思う。」
「『永遠に真実の神を熟考する』ということと関連したことは、私たちが毎日過ごすことにおいて道を逸れて時間を無駄にしないことが大事だと思う。この世のすべての人間に魂の目的があり、それは神にかなった人生の目的だと思う。時が経つと共に人間には世俗的な執着が生じていく。世俗的なことに執着しないように心掛けながら、自分は神であるということに、心の中で常にフォーカスしていかなければいけない。いつも私たちが神だと考え続けていくのならば、神が私にどうして欲しいのだろうかと考えることになると思う。」
… ② 「いかなる迷妄の中に投げ込まれようとも、真理はよりまばゆく輝くばかり」であることを、どのように実感できるか?
「最初に理解しなければいけないことは、やはり物質的なことは幻影であるということ。移ろい行くものに執着してしまうと決して幸せにはなることができない。そういったことを常に黙想することによって、物質的なことは移ろい行くことを知り、より真実の方にシフトして行く必要がある。そして真理の性質を理解するためには、霊性の基本的な側面をまず理解しなければならず、そうして初めて、真理の道をしっかり歩き始めることができるだろうと思う。」
… ③「このかりそめの世界においては、真の生き方はあり得ません」との御言葉に関して、かりそめの世界をどのように活用して神を悟るべきか?
「シュリーマド・バガヴァータム※3に書いてあるが、例えば貧しさも大変な祝福であるということ。自分が貧しいのであれば、他の人にそれが起こったときに、それがどういうことなのかを知ることができるから祝福であるのだと書いてある。実際に貧しい人にとっては、あまりにも苦しみが大きくて、ダルマの道からも外れてしまう程の苦しさがそこにある。そのように、貧しくない人が貧しさについて見るときと、本当に貧しい人自身とでは、見え方がまったく違う。暗闇というものは、過去にも今にも常に存在しているが、過去にも今にも、暗闇もあれば、そこを灯すキャンドル、灯との両方が常に存在している。暗闇があれば、それを照らすキャンドルが常に存在しているので、私たちがそのキャンドルを灯す側になれるように努めていかなければならない。ヴェーダ※4の伝統に従うことができれば、すべての暗闇、悲しみ、そういったものはすべてどこかに行ってしまう。そういう種類の光であると思う。毎朝太陽が昇れば、夜はどこかに行ってしまう。太陽が昇る時間と、夜の暗闇の時間が繰り返されているが、私たちは夜は眠って休み、日が昇ればその時間を楽しむように、その両方の時を楽しんで生きていくことができると思う。そして調和という価値や平安という価値に従って、その中で生きていくことができると思う。」
「自己実現だけがこの世界の唯一の真実。自己実現ということは自分自身の潜在力を実現すること。そのために私たちができる唯一のことは熱意を持って霊性修行を行うことだと思う。単純に言えば、価値に従って生き、悟りを得る時まで続けること。それだけが唯一の真実でゴール。そしてゴールはまわりのすべてのごみを捨て去ることによって得られる。熱意を持って霊性修行を実践することにより、私たちの潜在性の周りにあるすべての幻影を捨てることによってそれを得ることができるだろうと思う。」
「『私』とは誰だろうかというポイントがある。そこで気づかなければならないことは、私たちの感情や思いは本当の思いではなく、肉体から発しているということ。このような思いは日々変化していく。そういったことで感情的なことに重きを置く必要はなく、『私とは誰か』という自問がより重要。これに従うためには、『今』を生きる必要がある。ガジェットを触っていたり、友人にフォーカスしていてはそのようにはなれない。一日の中で私たちは『今』に本当に短い時間しかフォーカスしていない。私たちはもっとそこに飛び込んで集中力を示し、神と融合するためにその時間を見出して、そういう努力をしていかなければならないだろうと思う。そういう自我意識が比較的少ないタイプの人は簡単にそこから抜け出すすべを見出すと思う。それを始めるためには、私たちは毎日瞑想することを始めるべき。そして毎日自己実現を果たすために時間を割いていくことが必要。自己実現は一夜のうちにやってくることはないので、時間と実践が必要。その実践を続けていけばそれが習慣になると思う。私たちが自分の人生を自分でコントロールするという感覚を得て、自分の人生は他の誰かがコントロールしているわけではなく、自分でコントロールしているのだという実感が得られるようになったとき、最終的なゴールにたどり着けるのではないかと思う。」
ババ様の御言葉
神から離れているものなどありません。神性は一つであり、万人に内在しています。この真理を知って、万人を敬い、誰に対しても痛みを与えるという手段をとらないようにしなさい。そのとき初めて、社会はあなたを尊敬するでしょう。自分が尊敬されたいなら、同じように他の人々も尊敬すべきです。
1984年1月12日
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※3シュリーマド・バガヴァータム:神(バガヴァット)のもの、神から来たもの、ヴィシュヌ神やクリシュナ神と関係する、神聖な、聖なる2)聖賢ヴィヤーサの著で、バガヴァットという名で呼ばれるヴィシュヌ神とその化身の物語集。神の本の意。
※4ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
開催日:2022年4月27日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第32節、第33節「永遠なるヴェーダの教えは、全人類の遺産である」、「バーラタの主流を占める神聖な人々」
参加者:37名
質問:
① サナータナ ダルマ(古来永遠の法)の減退の要因は何か?それを取り戻すための神の帰依者による一歩とはどのようなものか?
② 第33節には、これまで多くの偉大な支援者たちが生まれてきたにもかかわらず、永遠であるヴェーダ※1宗教に無限の不名誉が与えられていることが述べられている。なぜこのようなことが起きるのか?
③ 永遠なるヴェーダ宗教に栄光をもたらすためには何が必要か?
④ 第33節にある「発展は腐敗するのみ」という記述について、どのような見解をもつか?
<参加者のコメント>
… ① サナータナ ダルマ(古来永遠の法)の減退の要因は何か?それを取り戻すための神の帰依者による一歩とはどのようなものか?
「私たちサイの帰依者にはスワミ※2が本当に分かりやすい形で規律、九つの行動規定※3などを示してくださっている。先日、Sis. Aにサティヤ・サイ・プライマリー・スクール(初等学校)についてのスピーチをいただき、プライマリー・スクールの先生方は規律のある信愛で子供たちに接しているという話があった。毎日の祈りと瞑想は九つの行動規定の一つ目で、そういうところから初めて、継続していくことが大事。」
「いろいろな文明が発達して、サナータナ ダルマの本来の部分を見落とし、表面的な捉え方になってしまった。段々と本来の根本的な要素や知識が薄れてしまった。それを取り戻すためには、根本的なところを古代と同じように取り入れていくべきだ。」
… ② 第33節には、これまで多くの偉大な支援者たちが生まれてきたにもかかわらず、永遠であるヴェーダ※1宗教に無限の不名誉が与えられていることが述べられている。なぜこのようなことが起きるのか?
「今の世の中が目に見えるものを重視して、目に見えないものをないがしろにする傾向があり、そういう傾向がヴェータから、どんどん離れていってしまっているということ。姿形ではなく、思いやりなど心の目に見えない真理に皆がどれだけ気付いていけるのかということだと思う。」
… ③ 永遠なるヴェーダ宗教に栄光をもたらすためには何が必要か?
「スワミの御講話の中に、犠牲を払わずして不死を得るチャンスはないとヴェーダは述べているというものがあった。サイの帰依者は神に仕えるために行為そのものに喜びを感じて、愛の有る努力をする。そして結果というのは求めないのが特徴。永遠なるヴェーダ宗教に栄光をもたらすためには、犠牲をいとわないと考えなければならないと思う。」
… ④ 第33節にある「発展は腐敗するのみ」という記述について、どのような見解をもつか?
「真実はそれ自体が完璧なので、発展する必要はなく、発展するというのは時代によって好みが変化していくということ。」
「世界の文明が発達したが、本当に表面的なことだけを快適な生活のために取り込んでしまった。人としての余裕がなくなり、欲望が積み重なった。じっくりものを考えるとか内に向かうということがどんどんなくなってきている。ニュースでも悲しいことがたくさんあり、外の世界がどんどん崩壊しており、人間的な精神が崩れているという形で表れていると思う。それが発展は腐敗するということ。将来的にはこのことから学んで、スワミの意図のもとで発展していければ良いという希望も祈りとしてもっている。」
「ある新興宗教の勧誘をしていた方は、仏教系の創始者の方を非難するようなことを言っていた。利己心に染まると、間違った解釈を真理に加えてしまい、枝分かれして間違った道に至っているのかなと思った。スワミがよく、様々な名前で呼んでも真理は一つ、賢者はそれを様々な名前で呼ぶとおっしゃっている。そして違う名前であってもそれを非難してはいけないと思う。利己心やエゴに染まっている方は盲目になって違った方向に向かって進んで、そこで発展していこうという道に進んでいるがゆえに、それが腐敗に向かって進んでしまっていると思った。」
<サイの学生のコメント>
… ① サナータナ ダルマ(古来永遠の法)の減退の要因は何か?それを取り戻すための神の帰依者による一歩とはどのようなものか?
「サナータナ ダルマという言葉自体は永遠のダルマいう意味で、それは創造者によって敷いていただいた道。サナータナ ダルマは永遠のものなので、決して薄まったりすることがないが、ただ私たちの理解が薄まってしまうことだと思う。私たち個人はそのサナータナ ダルマに心をしっかりとフォーカスし、見るものに様々な違いがあっても、絶えず神に全託していかなければならないということだと思う。そして何かの奉仕に従事することや、神聖な御名を唱えることなど、ダルマにしっかりとつかまっていることが助けてくれると思う。自分よりも若い世代に教えるためにバガヴァッドギーター※4を読んだりすることが必要だと思う。サナータナ ダルマにしっかりフォーカスしていくならば、何の罰もない。私たちが交通ルールを理解して、その上でしっかり車を運転するのであれば、他に誰も導いてくれなくても大丈夫。そのようにサナータナ ダルマは私たちが喜びに満ちて生きたり、私たちが能力の限り生きていくのを助けてくれる。」
「私たちがエゴとかプライドを捨てて世俗に関わるときに、行為者意識を捨てることができるのだと思う。そして何をしようともそれを神に捧げようとすること。私たちが本来すべきことは、神の一部として神に奉仕すること。そして私たちは神への無私の奉仕者だと考えることだと思う。神様の助けがあってこそ、行為者意識を捨て去ることができると思う。例えばキッチンのトングも、それを上手く使える人が使ってこそ役立つものとなる。例えば燃えている炭を持ち上げるような困難な仕事も、そのトングという道具を使えばうまくできる。でも素手では、燃えている炭を持つことすらできない。道具をうまく使えなければ、道具はただのテーブルの上の置物になってしまう。もし神様自身が私たちの身体や心、魂を使ってくださらないなら、私たちは何もすることができない。だから、私たち自身のエゴや行為者意識を捨て去る必要性や、神様だけが私たちに行動する力をもたらしてくださると理解している必要がある。」
「パルティ(プッタパルティ)※5で最初に教育を受けた時に、ある先生からダルマがそんなに複雑だと考える必要は全然ないと教わった。普通の人間は3つの基本的なポイントで理解することができる。人生でどのような野望・目標をもっているのか?どうしてそういったことを目指すのか?そして、実際にそれを達成するためにどういった手法を取る必要があるのかということ。もし人がその3つのことを明確に考え、自分なりの確信を得ているのなら、自分のダルマの道を歩いていける人だと思う。サナータナとは永遠という意味。いついかなる時にもそれに従えば良いという知識が得られる。どうして薄まったかというと、先ほどの3つのポイントが欠けるようになってしまったから。一つ目はどういう願いをもっているかということに関して、本来願うべきものからずれたものを願っている。生まれた時から人間というものは、両親に対する義務、兄弟、親戚、あるいは社会に対する義務など、何かしらの責任をもってそこにいる。サナータナ ダルマでは、そういった人々に対する自分の責任義務を果たしていきたいと願うことが目的であるべきだと言っている。私たちの責任が果たされないのであれば、当然のことながら社会が混乱に陥いる。サイの帰依者として、いろいろな願いとともにいろいろな責任を果たしていくようにしなければならない。家族とか社会の責任を果せるように御教えに従い、そういった責任をしっかりと行うこと。スワミもこれまでたくさんの御講話をされてきて、その中でバガヴァットギーターや叙事詩の深みを教えてくださっている。私たちの義務を果たすことを助けてくれるようになっている。私たちが義務を果たしていけるようにと、それが私たちの願いであるようにということ。」
… ② 第33節には、これまで多くの偉大な支援者たちが生まれてきたにもかかわらず、永遠であるヴェーダ※1宗教に無限の不名誉が与えられていることが述べられている。なぜこのようなことが起きるのか?
「ここでスワミが何回も述べていらっしゃるように、本当は永遠のヴェーダの宗教に非常に不名誉が与えられてしまっている。同時にインドでも世界でも、ダルマ的な生き方を改善しようと努めている多くの方々がいらっしゃる。また、いろいろな文献では、例えばブラフマー(創造を司る神)の子孫はラーヴァナ※6だったように、ヴェーダに強く従ってきた人々の直接の子供が大変良くない振る舞いをした例さえもよく出てくる。時にダルマについて良く知る非常に多くの人々もいる。しかし、よく知っていることが、必ずしもダルマ的な人々であるということにはならない。サンスクリット語でのダルマの意味は、従われるものという意味。単にダルマを知っているだけでは、知識にあふれた人にはなるかもしれないが、必ずしもダルマ的になるというわけではない。本当の大事な基本的な原則は、スワミが言われたように、そのダルマに従うということ。スタディーサークルでは、いろいろなことをたくさん話し合うが、ここに参加したり話したりするだけでダルマ的になるわけではなく、スワミがおっしゃった生き方ができるのであれば、それをとおしてダルマ的になることができると思う。最も基盤的な原理に従っていくことが必要だと思う。そして、永遠の宗教に栄光を与えることはダルマに従うこと、ただそれだけだと思う。ダルマが減衰した時にはクリシュナ神※7のようなアヴァター(神の化身)が来て、ダルマを掲げてくださる。それは本当にアヴァターのダルマで、失墜したように見えるものを取り戻して掲げることは、本当にアヴァターのダルマだと思う。」
「サナータナ ダルマというのは、正に生き方ということで、それを一種の宗教として見なすことは適切ではないと思う。どういう生活様式で生きていくかという指針のようなもの。今日の人々が不名誉に陥っているのは、やはり一時的な喜びを追い求めてしまっているからだとスワミはおっしゃっていて、あまり良い生活の仕方にはなっていない。なぜそうなってしまうのかは、罪への恐れがないことと、神への恐れがないからだとスワミがおっしゃっている。人々は他者の意見をちゃんと聴かなくなり、どんどん利己的になっていて、自分自身のポイントだけから見るようになってきている。そして社会に不調和が起きている。そうすると人々が真の幸福を楽しむことができなくなってくる。私たちは皆、人生における第一の目的は、幸せになることだと思っているが、良くない行いが原因で、そのような幸福を得ることができず、社会というものに不名誉を与えてしまっている。」
… ④ 第33節にある「発展は腐敗するのみ」という記述について、どのような見解をもつか?
「スワミが美しくおっしゃったのは、発展して成長していくということは最後には衰えることにつながらざるを得ないとおっしゃっている。バーラタ(インドの正式な国名)では大人になってそれぞれがいろいろな道を歩むようになるが、それぞれが純粋な思いをもって歩んでいかなければならないとおっしゃっている。日々自己コントロールしながら歩んでいかなければならない。人生の早い段階では、いろいろな文献や経典、シャーストラ(法典)、ウパニシャッド※8、ヴェーダなどとともに歩んでいかなければならない。そして私たちは自分の国の中のあらゆる階層を助けていくように努める必要がある。そういった道が現代社会のシナリオでは従われていない。むしろ人々はそれよりも力を信じたり、より利己的になってそういった道に従っていない。また、自分たちの兄弟姉妹に対しても嫉妬を抱いたりする。そういったことのすべてが良くない特質につながっていく。そして心に平安がないことにつながっていく。成長してもやがて減衰するという言葉があるが、そういったことがないようにセルフコントロールをしっかりする必要がある。そしてサナータナ ダルマが従われないと、人々が堕落して非常に悪い特質に陥ってしまうということを言っている部分だと思う。これらのすべてがどうして起こってしまうかというと、神がそこにいるという恐れがないことによる。私たちにとって必要な責任というのは、若い世代にサナータナ ダルマを取り入れていくこと。そういったバックグラウンドで育った人々が大人になれば他者を愛することができて利己心がなくなっているだろうと思う。」
ババ様の御言葉
バーラタ〔インドの正式名〕は、長い間、人間の教師、永続する喜びを求めるすべての国民の教師として、尊敬されてきましたが、今、その本来の役割を忘れ、他の国のドアの前に立って頭を下げて手を伸ばし、施しを乞うています。「母親を神として敬いなさい」というヴェーダの教えが、どの家でも無視されています。その結果、「母国」は自分の子供たちに豊かさと平安を恵んでいないのです。両親を敬い、教師を敬いなさい。これはサナータナ ダルマ〔古よりの永遠の法〕の教えです。兄弟には兄弟にふさわしい愛情を持って接しなければなりません。兄弟を忌み嫌う人の運命は、完全なる破滅です。これは、第五のヴェーダとして無数の人に崇敬されている古代の叙事詩、マハーバーラタが説いている教訓です。
1968年3月29日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19680329.html
※1ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3九つの行動規定:ババが定めた帰依者のための行動規定。
※4バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※5プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※6ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※7クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※8ウパニシャッド:ヴェーダ聖典群の中の哲学的部門の総称で、ブラフマンの探求を主な主題としている。
※9アーラーダナ・マホーッツァヴァム:ババに感謝を捧げる「感謝大祭」。2011年4月24日(日)日本時間11時10分に肉体を離れたババに感謝を捧げる日。マハーサマーディの日とも呼ばれる。
開催日:2022年4月20日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第72節、第73節「瞑想と唱名によって心を清めなさい」、「神の降臨を求めて祈りなさい」
参加者:38名
質問:
① 日々の行動を行いながら、どのように「非行為者」でいることができるのか?
② 「カースト※1も、僧侶の身分も、儀式も、経典を学ぶことによって得られた学識も、このアートマ(神我)の知識という悟りを得る基準にはなりません。揺るぎないブラフマン(宇宙の根本原理)瞑想だけが唯一の基準です」という御言葉をどのように理解するか?
③ なぜ私たちは神の降臨を願い求めるべきなのか?
<参加者のコメント>
… ① 日々の行動を行いながら、どのように「非行為者」でいることができるのか?
「日々、仕事や食事やいろいろなことをしている中で自分の行為を俯瞰して見ているようなもう一人の大きな存在の自分に気づいていられるようになれば、非行為者になるのではないのかと思う。そのために、世俗の色に染まらずに崇高な御教えに従って生活することも大事。そのために瞑想したり、神の御名を唱えたり、様々な霊性修行のやり方があると思うが、自分に合ったものを見つけていくのも大事だと思う。」
「達観した感覚をもった世界的に偉大な音楽家の方は、『自分が演奏しながら、自分が演奏したのではない』とおっしゃっている。私も同感で、本当に神様と一つになってできた場合には無我の境地というか自分がなくなって、神様によって行為がなされているという感覚。そのような時に非行為者でいることができるのではないか。」
… ② 「カースト※1も、僧侶の身分も、儀式も、経典を学ぶことによって得られた学識も、このアートマ(神我)の知識という悟りを得る基準にはなりません。揺るぎないブラフマン(宇宙の根本原理)瞑想だけが唯一の基準です」という御言葉をどのように理解するか?
「神聖な思いで心を育もうと努力しない人のハートは、必ずや不正と邪悪の楽園となる。心を育む努力をしないといけない。それがブラフマン瞑想をすることになるのでは。そのための方向として御言葉を読むとか、バジャン(信愛の歌)、ヴェーダ※2とかいろいろなサーダナ(霊性修行)があると思う。」
「この御言葉に、最後に揺るぎないブラフマン瞑想だけが唯一の基準ですと書かれている。その意味はきっと、私たちの行為の動機に神が不在であれば意味がないことになるということではないか。反対に言うと、一番目の問いにも関係しているのかもしれないが、その神を意識して、神に喜んでいただき、神に満たされた心で行うことが、やはり大事になってくるのではないかと感じた。」
… ③ なぜ私たちは神の降臨を願い求めるべきなのか?
「一人ひとりの人生を考えると、神に守られてきていると感じる。しかし世界全体を見てみると、戦争が起こっている。世界の平和や平安について考える時、神の降臨というものが一番大きなものになるのではないかと思う。だから神の降臨を願うことは世界の平和のために必要だと思う。」
「私がこの質問を読んで思ったことは、例えばスワミ※3を知る前にも私なりに信仰はあったが、やはりスワミの肉体を見て、スワミの行動を見て、本当に神様というのはこういうものなのだという確信が得られた。スワミが直接書かれた本を読んでわかったことは全然違った。やはり肉体の神様が降臨してくださって知ることと、その前に知っていたことは全然違い、その差は大きいということ。もう一つは、私自身が肉体を去るときにスワミご自身が現れてくれたら、迎えにきてくれたらいいなという願い。その二つの意味を考えた。」
<サイの学生のコメント>
… ① 日々の行動を行いながら、どのように「非行為者」でいることができるのか?
「とても美しくバガヴァッドギーター※4に書かれているが、クリシュナ神※5は二通りのヨーガ(神との合一のための行)を教えてくださっていて、それらはサンニャーシヨーガとカルマヨーガ(行為の道)。バガヴァッドギーター※の5章に書かれている放棄のヨーガともう一つは行いをとおした道に関すること。カルマサンニャーシヨーガとは行いの結果を放棄するヨーガ。カルマヨーガは行為の道。クリシュナ神は、誰でも二つの道のいずれかを選ぶことができ、そのいずれも最終的には解脱のゴールにたどり着くと教えてくださっている。しかしカルマサンニャーシヨーガ(行為の果実を放棄するヨーガ)は解脱を得るための第一の道のりとしてはとても難しいもの。カルマヨーガを辿る方々にとっては、世俗の仕事をすることによって同時に知性を磨くことができるようになっている。そしてすべての行為を神に捧げて、結果もいただける。しかし、そこで私たちはすべての結果を楽しもうとする行為者とならないように努めなければならない。この世的な喜びを捨てることによって、非行為者の立場を得ることができる。神の御名を唱えることによって、神の至福を得ることができる。外側の楽しみを克服して、欲望や怒りを克服し、そのような道を辿ることができる。」
「私たちがエゴとかプライドを捨てて世俗に関わるときに、行為者意識を捨てることができるのだと思う。そして何をしようともそれを神に捧げようとすること。私たちが本来すべきことは、神の一部として神に奉仕すること。そして私たちは神への無私の奉仕者だと考えることだと思う。神様の助けがあってこそ、行為者意識を捨て去ることができると思う。例えばキッチンのトングも、それを上手く使える人が使ってこそ役立つものとなる。例えば燃えている炭を持ち上げるような困難な仕事も、そのトングという道具を使えばうまくできる。でも素手では、燃えている炭を持つことすらできない。道具をうまく使えなければ、道具はただのテーブルの上の置物になってしまう。もし神様自身が私たちの身体や心、魂を使ってくださらないなら、私たちは何もすることができない。だから、私たち自身のエゴや行為者意識を捨て去る必要性や、神様だけが私たちに行動する力をもたらしてくださると理解している必要がある。」
「私たちがどれだけ霊的な実践(サーダナ)をしても、それを神に捧げなければ何の意味もない。そして、この世の中の知識、あらゆることを知っていたとしても、それを実践しなかったら意味がない。例えば、試験のためにあらゆることを勉強しても、答案用紙にその答えをまったく書かなかったら、やはり試験に失敗する。であればこそ、私たちが実際にやっている仕事というものに、よりフォーカスすべきだと思う。そして日々行っている私たちの行動に対して、より意識的であるべきだと思う。そしていつも、私たちのやっていることは、神への捧げ物なのだということを、思い出すようにしていくこと。そして私たちが何をしようとも、それは神への奉仕であり、それを神に捧げるべきであるということを覚えていること。そして日々働いている時にも、神にフォーカスし続けることだと思う。」
… ② 「カースト※1も、僧侶の身分も、儀式も、経典を学ぶことによって得られた学識も、このアートマ(神我)の知識という悟りを得る基準にはなりません。揺るぎないブラフマン(宇宙の根本原理)瞑想だけが唯一の基準です」という御言葉をどのように理解するか?
「マハーバーラタ※6から一つのお話がある。大変な苦行をした賢者が、朝の修行の儀式をしていたら、鳥がフンを落としてきた。それで怒った賢者が、怒りの力でその鳥を灰に変えてしまった。一部始終を見ていた他の賢者が、鳥を燃やした賢者にアドバイスをし、別な修行をするように命じた。それは自分の持ち物は何も持たずに他の村々を回って、托鉢などの修行をすることだった。そしてある時、村に行って何かを恵んでもらうため、ある家を訪ねた。そうすると、施しをしてくださるはずだったご婦人が出てくるのがすごく遅かった。すると再びその賢者はとても腹を立てた。ご婦人が言うには、『私のことはそのように見ないでください。私はあなたが燃やしてしまった鳥のようなものではありません』と言った。その賢者はとてもショックを受け、一体どうしてご婦人が鳥を灰にしてしまった出来事を知っているのだろうかと思った。そうすると、ご婦人が答えたのは、別に自分はそういう能力を得るために特段の苦行をしたのではなく、霊的な文献を学ぶということも一切していないけれども、ただ日々の家事を完全にしようとしてきただけで、そのようなことが分かるようになったとのことだった。賢者は赦しを請い、そのご婦人にダルマ※7について教えてくれるようにお願いした。ご婦人は、彼にダルマについて教えることができる、もう一人の適任な者がいると言って、その人の名前を教えてくれた。その方、ダルマ・ヴァーダという人を探して会いに行った。ダルマ・ヴァーダという名前からするとすごく偉大な聖者なのだろうと思われたが、実際にそのダルマ・ヴァーダという人を探し当てて、その人のもとに着くと、実際にはその人は肉屋さんだった。そしてまたショックを受けた。その肉屋さんに次のように尋ねた。『どうしてあのご婦人がダルマについてあなたから学ぶように言っているのでしょうか?自分は本当にこれまで文献をたくさん学んできたのに、どうしてあなたのような肉を切って売っている者から、私がダルマについて学ばなければならないのでしょうか?』。そうすると肉屋さんは、『自分は別にダルマや、何かの文献については何も知らない。どうしてまた、そのご婦人があなたにそういうことを言ったかも分からない。自分には、どうして肉を売ることが罪であるのかも分からない。何故なら自分にはそれ以外の知識がないからです。何であれ自分がもっているわずかな知識だけをもって、自分は両親に仕え、自分の家族に仕えているのです』と言った。そして『自分は何も動物に対して残酷なことをしたいとかいう意図は一切なく、その代わりにただ自分の家族に対する義務を果たしたいと考えているだけなのだ』ということだった。そして日々彼が行っているそのような行動はすべて神に捧げられているということだった。そのことをとおしてその賢者が悟ったことは、どれだけのことを知っているか、どれだけ物理的に神の近くにいるかということが全然大事なわけではなく、神のことを考えて黙想している時間の方が大事なことであるのだということ。そしてまた、肉屋さんもご婦人も、そのようにしながら、神の道から逸れるような悪いことを一切してこなかった。そういった点において、この鳥を燃やしてしまった賢者よりも優れた存在であるということが分かった。その一方で、この賢者の霊的知識は豊富だったけれども、いつも怒りに苛まれていた。私たちがどんな仕事をしていようが、どんな状況にいようが決して神の道から逸れてはいけない、そのようなことをして私たちの霊的な進歩を無駄にしてはいけないと学んだということだった。」
… ③ なぜ私たちは神の降臨を願い求めるべきなのか?
「これまで多くの僧侶や全世界のそのような方々が降臨を祈ってきたと思う。そしてそのような方が行ってきた祈りはすべての方の幸福に関するものであり、それはサマスタローカー スキノー バヴァントゥ(すべての世界が幸せでありますように)だった。バガヴァッドギーターの中でも、クリシュナ神はダルマが減退した時にはいつでも自分が人間の姿をとってもとの道へ彼らを戻すと語っていた。サイ・ババの降臨の場合にも、世界の中で大変な困難があった時期だった。お生まれになったプッタパルティ※8も当時は非常にアダルマ(不正)な活動に満ちていた。本来そのような土地であったプッタパルティ全体を完全に変容させ、さらに誰もがそこに行きたいと思うような聖地に変容させた。それが、神聖で偉大な魂が来られた時に、どのようなオーラをもって来られるかということではないかと思う。」
「皆さんは、どのような時に神の降臨の必要性があるかということはよくご存じだと思う。世界のダルマが減退したときには、再び人類の霊性を持ち上げるお方が、再びダルマを復興させるお方が来てくださらなければならない。そのような神聖な魂は邪悪な人々をも変えることができる。そして彼らを霊的に助けてくれる。それが神聖な魂の降臨が本当に必要である理由ではないかと思う。」
ババ様の御言葉
体に従ってはなりません。心とアートマに従いなさい。アートマに従う者が、真の霊性の求道者です。ハートのすべてで神を黙想し、神の御名を唱え、神に全託して、あなたの人生を救いなさい。神の名声と高名は、外から得られるものではありません。新聞やパンフレットが作り出すものではありません。状況によって変わるものではありません。主の名声と高名は、その神聖さと愛によって大きくなるのです。ですから、何についても思い悩むことはありません。あなたの愛を現しなさい。あなたの神性な本質を促進しなさい。犠牲の精神を育てなさい。
1993年8月30日
※1カースト:カーストには、大枠を示す四氏姓(ブラフミン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)で区分するヴァルナと、職業で細かく区分するジャーティがある。各カーストはそれぞれの浄性を保つために、婚姻や職業に関する厳しい規制を設けている。カーストの高低と貧富は必ずしも一致しない。
※2ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※4バガヴァッドギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※5クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※6マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※7ダルマ:本分、正しい行い、法、正義、規範、権利、義務、慣習、宗教という意味をもつ。ダル(保つ)を語源とする。
※8プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
開催日:2022年4月10日(日)
テーマ:『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』※1の意義
参加者:29名
質問:
① スワミ※2ご自身が書かれたラーマーヤナ※3から何を得ようとフォーカスしたいか?
② 善悪の様々な物語が混合したラーマーヤナが私たちにとって甘露のようなジュースであるためには、どのような姿勢でこれを聴く必要があるか?
<参加者のコメント>
… ① スワミ※2ご自身が書かれたラーマーヤナ※3から何を得ようとフォーカスしたいか?
「この『ラーマ物語』を上中下と読んだ。裏話のような『ラーマ※4が怒ったふりをした』というような、あえて神の視点から見た表現がある。いろいろな喜怒哀楽があり、いろいろなことが起こるが、結局すべては芝居で、神のリーラー(奇跡的な御業)なのだと、所々で気づかせてくれることが私には一番大きいと思った。」
「物語に夢中になっていると、時々スワミが裏話を解説してくださることがすごいと思う。全部スワミが脚本を書かれ、すべて劇の中で起こったこと。後書きにも書かれていたが、ラーヴァナ※5は一応悪役だが、本当は神と早く融合するために善人として7回生まれてくるよりもむしろ悪役として3回生まれてくることを選んだという、非常に帰依のある崇高な魂だった。世の中に起こる出来事は、何がどうなっているか私の目からは分からないが、本当にすべては神のリーラーで愛の中の劇なのだと思う。」
… ② 善悪の様々な物語が混合したラーマーヤナが私たちにとって甘露のようなジュースであるためには、どのような姿勢でこれを聴く必要があるか?
「ラーマーヤナはハッピーエンドではなく、最後は流れていく。この世的な幸せが最終的な目的というのではなく、良いこともあり、悪いこともあり、それを乗り越えて、また元に戻ったり。そういう流れを教えてくださる。それを超越したような気持ちで読んでいくことが必要。それが甘露、甘いということなのかなと思った。」
「一つひとつの場面で、男の兄弟の愛情とか、夫と妻との夫婦の関係などの生き方が人間としてのダルマ(正しい行い)にかなっている。特に私が好きなのは2つあるが、一つはラーマが戻ってきた時に、バラタ(ラーマの異母兄弟)がずっとラーマのことを想っていたために、どちらがラーマでどちらがバラタか分からないくらい、肌の色まで変わっていたということ。一生懸命御名を唱えて想うと肌の色も変わるくらい同じようになるという姿もとても感動的。また、ハヌマーン※6が純粋にラーマのことばかり考えていて、髪の毛一本一本から御名が聞こえて、もう最後にはラーマ自身がハヌマーンを抱きしめてくれるという場面は本当に憧れる最上の帰依の形だと思う。そのように物語の一つひとつの場面に大変な甘さがあると思うので、一個一個を深く味わいたいと思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① スワミ※2ご自身が書かれたラーマーヤナ※3から何を得ようとフォーカスしたいか?
「ラーマーヤナに関しては当時生きていたヴァールミーキ※7や他のたくさんの賢者が書かれた、本当にたくさんのバージョンがある。特にヴァールミーキはラーマ神の人間的な側面に重きを置き、そこではすべての出来事においてラーマのことを人間として扱っている。でもトゥルシー(トゥルシーダース・ゴースワーミー※8)のラーマーヤナは帰依者と神との関係から書かれている。スワミの書かれたラーマーヤナは神から見た視点で書かれている。なので、ラーマーヤナに興味のある方は誰でも『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』を読むことによって、本当に全体的なものの見方が完結してすべてのレッスンを得ることができると思う。この『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』では、何か学びを得るべきポイントが訪れた時には、その中で必ずスワミが学びを得るべき御教えを合わせて教えてくださっている。そしてもう一つ恩寵深いポイントは、ヴァールミーキや他のバージョンでは議論されていない出来事も含めて取り込まれている。この『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』を読むことで、レッスンを得るという側面からも楽しんで学ぶことができるということと、帰依の側面から楽しめる、その両方にここでフォーカスできるということ。」
「いろいろなトラブルがたくさん起こるが、そんな中でもラーマが首尾一貫して善良さに固執されてきたこと。一つひとつの章のすべてに学ぶべき点が含まれている。また、ラーマーヤナは同時にシーター※9の立場から読むこともできる。シーターは子供の頃から王宮に住んでいたが、結婚を経た後でまったく想像をしたことがないようないろいろな問題に直面することになった。どのようにシーターのように非常に強く人間性や謙虚さを様々な状況の中で維持できるのかという側面を学ぶことができる。同時にこの物語をとおしてシーターが、女性がいかにして幸せでまた強くいられるのかという人間として非常に素晴らしい例を示している。シーターはこの時どのように考えていたのだろうとか、ラーマ中心の見方とは異なった見方で読んでみることが違う楽しみ方になってくると思う。」
… ② 善悪の様々な物語が混合したラーマーヤナが私たちにとって甘露のようなジュースであるためには、どのような姿勢でこれを聴く必要があるか?
「皆さんに、神聖なラーマ・ナヴァミ(ラーマ神のご降誕祭)の日をおめでとうございますと申し上げます。オレンジの実の中にはいろいろな繊維質の物が入っているが、それを取り去ってジュースを得るのと同じように、物語の中にも良いもの・悪いものが両方含まれている。やはり悪いものとしてはカイケーイー※10が示した嫉妬や、ラーヴァナが示したエゴ。そういったものを繊維質と思って取り除くなど、そういう姿勢で学んでいけば良い。でも、ここで学べる非常に素晴らしい多くの良いことに比べれば、そこに混ざっている悪いことは着目するに値しないということだと思う。またラーマーヤナというのは素晴らしい人間関係のためのガイドブックでもあると思う。この物語をとおしてスワミが示された理想の人間関係は、例えば理想の母と子供の関係であったり、理想の夫と妻の関係であったり、理想の兄弟、親戚関係であったり。それらの理想の人間関係をこの物語をとおしてスワミが教えてくださっていると思う。そして同時に人間関係だけではなく、ジャターユ※11との関係や、いろいろな動物たちとの関係、さらに動物だけではなくて石や物との関係においてさえもそうだった。そして、これらの悪いものを乗り越えた後で、初めて良い特質がやって来る。私たちがいかに悪いことを克服して、良いものを得ることを学ぶことができるのか、その学びが得られるように祈りたい。」
「人間が体験していくことは、すべて悪いものと良いものが交互に続いていく。もし私たちが幸せな体験だけを送っていたならば、悲しみが何を意味するのかも分からないまま。そして悪い出来事も良いことも同様にレッスンを与えてくれる。もし悪い出来事もすべて神様がそのように演技をされているということを理解しなければ、物語を楽しむことができなくなってしまうのではないかと思う。また、これらの物語を読む時に、本当にこれは普通の人間の身に起こっていることだと考えて、そのような観点でこれを捉えていくことができれば、これは神様なのだからという冷めた目で見ずに、そのレッスンが得られていくだろうと思う。」
ババ様の御言葉
「ラーマーヤナは、人の本当の正体、家庭が真に意味するもの、社会の神聖さについて述べています。ラーマーヤナは、人間的価値の重要性を教えています。現代では、ビジネス、教育、政治といったあらゆる分野において腐敗が横行しています。このような状態ですから、ラーマーヤナの行動規範は非常に重要なのです。ラーマーヤナの行動規範は、兄弟の間、父と息子の間、師と弟子の間に存在すべき関係について、詳しく説いています。」
1999年3月25日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19990325.html
※1『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』:『ラーマ物語』 ラーマカター ラサ ヴァーヒニー ~ラーマーヤナの甘露の流れ~ サティヤサイ出版協会
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※4ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※5ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※6ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。風の神の子で空が飛べたため、飛んで薬草をとりに行ったり、海の上を飛んでランカを偵察に行ったりと、多大な貢献をした。
※7ヴァールミーキ:ラーマの存命中に記されたインドの大叙事詩『ラーマーヤナ』(ラーマの歩みという意味の神の化身ラーマの物語)の述者。
※8トゥルスィーダース・ゴースワーミー:北インドの聖者。ラーマ神の偉大な帰依者にして大賢人。16世紀にラーマーヤナをアワディー語で再編集した。
※9シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※10カイケーイー:ダシャラタ王の第三王妃。バラタの母親。
※11ジャターユ:『ラーマーヤナ』に登場する年老いた禿鷲(はげわし)、ヴィシュヌ神の乗り物である聖鳥ガルダの子といわれる。ラーヴァナがシーターを連れ去ろうとしたとき、衰えた身であるにもかかわらずシーターを守ろうとして戦うが、ラーヴァナに倒された。ラーマはジャターユの頭を膝に載せ、自らの手で死に水を飲ませた。ジャターユはラーマの御名を口にしつつ息を引き取り、ラーマそのなきがら亡骸をとむら弔った。
開催日:2022年4月7日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第55節、第67節「神に献身しながらあらゆる活動に取り組みなさい」、「ブラフマン瞑想を行う昔の聖賢たちを模範としなさい」
参加者:43名
質問:
① もし解脱が最終的な目的であれば、なぜ苦行をする代わりに様々な職業に就くのでしょう?
② 神聖な想いという燃料が欠けている理由はなぜでしょうか?
③「一人離れた場所でひたすら神の瞑想に勤しむ偉大なる魂の数が減ると、世界はより多くの苦しみに襲われます」と第67節にありますが、偉大な魂の減少はどのように世界の苦しみにつながるのでしょうか?
<参加者のコメント>
… ① もし解脱が最終的な目的であれば、なぜ苦行をする代わりに様々な職業に就くのでしょう?
「様々な職業に就いていくのも苦行だと思う。様々な人間関係などに悩みながらもスワミ※1に祈りながら、その経験の中で成長していける。まさに苦行であると思う。」
… ② 神聖な想いという燃料が欠けている理由はなぜでしょうか?
「神聖な想いというのは、やはり神への想い。それをハートに据えてこそ愛がどんどん拡がっていく。そうすると愛のエネルギーがあふれてきて、ずっとそれが消えることがなくなっていくと思う。教育機関でも、神の教えや、正しいことなど根本的なことを教えてくれる所が本当に少ない。私も学校でそういうことを習ってこなかった。皆が自然の成り行きで内面に神聖な思いを抱けたらいいが、やはり世の中には神聖な想いを遠ざけるようないろいろな情報が多い。そういうものに目を取られてしまって、大事な部分を忘れてしまう。子供のうちから神への信愛を育むこともできず、それは大人になってからも変わらない。だから皆が神聖な想いという燃料に満たされる訳ではない。やはり正しく導いてくれる教師が必要だと思う。学校でも忍耐とか、無私の行為など根本的な、ババのおっしゃるような真理が教えられる状態になると良いと思う。」
「私たちは食事もヤグニャ(供犠)だと教わっており、食前にフードマントラを唱えている。そのように一つひとつの行為を神聖なものにしていく思いが欠けていることが原因かと思った。」
「昨日、世界のお金持ちランキングというものを見た。上位の人たちの個人所得が何十兆円などと書いてあったが、そんな大金は一生かかっても使いきれないだろうが、さらに蓄えよう、もっと稼ごうとしているようで、そんなに稼いでどうするのだろうと思った。そのように皆が欲望に際限を設けていない。昔は世界がシンプルで霊性修行がしやすい環境だったと思うが、どんどん欲望が拡がってそこから世界の苦しみが生まれていると思った。」
… ③「一人離れた場所でひたすら神の瞑想に勤しむ偉大なる魂の数が減ると、世界はより多くの苦しみに襲われます」と第67節にありますが、偉大な魂の減少はどのように世界の苦しみにつながるのでしょうか?
「私の想像だが、そういう偉大な魂の方々は、その方々の周りのすべてが浄化されているような気がした。空気や五大元素が浄化され、そこから良い波動が広まって、地球に影響しているような気がする。一人の偉大な魂の祈りはとても大きな影響を与えていると思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① もし解脱が最終的な目的であれば、なぜ苦行をする代わりに様々な職業に就くのでしょう?
「サナータナ ダルマ※2では人生を年齢に応じて4つの時期に分類する。一つ目は学生期、その後に家長期が続く。その後は老年期。最後はサンニャースィン※3としての世を捨てた者の時期。その4つの段階がそれぞれの時期に果たすべき役割に相当している。誰もが4つの時期を通ることが想定されている。したがって一つひとつの段階が最終的なゴールにたどり着くための道具になっている。これがどういうことを意味しているかというと、すべてを神聖な活動として昇華されなければならないということ。ギーターヴァーヒニー(ヴァーヒニ シリーズ※4の1冊)の中でスワミがおっしゃっていることだが、その一つの方法は、私たちが何を行うときにおいてもスワミ、神様が私たちのことを見ていらっしゃると考えて、その義務を果たすことであるといわれている。そのように考えることが、神様が常に私たちと共にいると思いを与えてくれる。このように、神が私たちと常に共にいると考えていくことは、すべての中に神がいるように、すべての人を見ていくということに繋がっていく。すなわち、すべての人の中に神を見ることができる段階にたどり着いて初めて、世を放棄した人のようなステージにたどり着くことができるということを意味していると思う。最初の学生期や家長期のステージを通して平静さを学んだり、あるいは二重性を見ないということを学ぶことになっている。たとえ最終的なゴールが解脱だったとしても、その前の段階で行っていく一つひとつのことが、そこに至るための試金石になっている。であればこそ、その以前の段階においても私たちの職業的なことを献身的に行っていく必要があるということだと思う。」
「私たちがいろいろな職業に就いているのは、五大価値(真理、正義、平安、愛、非暴力)について学ぶこと。いろいろな職業をとおして、日々の生活の中で最終的に解脱を得るために五大価値を実践していかなければならない。よくスワミが教育の目的は生計を立てるためではなく、人生のためのものであるとおっしゃっている。それと同じでいろいろな仕事をしていくのも生計を得るためでなくて、最終的に解脱を得るためにそうしている。私たちの職業はそれぞれ違っていて、危険な仕事をしている人、普通の仕事をしている人、さまざまだが、一人ひとりが同じ原理を見るようにしていけるように仕事をしている。これが自分の理解。」
… ② 神聖な想いという燃料が欠けている理由はなぜでしょうか?
「私たちが人生の主なゴールを忘れてしまったことが原因。私たちは、例えばキャリアや、いろいろなことに重きを置き過ぎているため、何が中心的な目標なのかが分からなくなってきてしまっている。人間には五つの神聖な特質が備わっている。しかしいろいろな執着に縛られ利己的になることで本来備わっている神聖な性質の活かし方が分からなくなってしまっている。いつも私たちの中には良い思いや悪い思いの間の葛藤がある。そこで少しの時間を取って、どちらの思いを自分が励まして伸ばしていかなければならないのかを考えることが大事になっている。私たちが、良い思いの方を選ぶなら、それが習慣になり、いつも良い思いをもつようになり、悪い思いの方を選んでも、それが習慣化されてしまう。」
「ここでスワミが述べていらっしゃるのが、放棄、平安、真理、慈悲深さ、忍耐、無私の奉仕これらは元々の人間の性質であるということ。これらを燃料としていつもくべていなければならないとおっしゃっている。私たちがこれらの反対のこと、例えば嘘や、人を傷つけたり、良くない話し方など、そういったことは神聖な想いという燃料をくべることに繋がっていかない。スワミがおっしゃっているいろいろな特質というものは、私たちが常に神に献身的に捧げているのであれば、すべては自然にやってくるような特質ばかり。もし燃料が足りなくなるようなことがあるのであれば、それはスワミがよくおっしゃるようなパートタイムな帰依であるということになってしまう。そういった場合には望ましい結果にならないと思う。」
… ③「一人離れた場所でひたすら神の瞑想に勤しむ偉大なる魂の数が減ると、世界はより多くの苦しみに襲われます」と第67節にありますが、偉大な魂の減少はどのように世界の苦しみにつながるのでしょうか?
「サナータナ ダルマにおいては、生徒とグル(霊性の導師)の関係においてサナータナ ダルマが守られなければならないといわれている。体系的なやり方で師から弟子へ知識や英知が伝授されることになる。そのようにして多くの人がダルマの道を歩んでいくことを非常に助けてくれると思う。そのようなグルの数が減っていくとそのような体系的な知識が次の世代へ引き継がれることが難しくなると思う。そのような問題が起きると、やはりダルマ(正義)が減衰して、人々の行いもアダルマ(不正義)なものに変わってしまって、それが苦しみにつながると思う。グルの数が減っていくとアヴァターが降臨して、再び偉大な人々が力を取り戻せるようにしてくださると思う。」
「偉大なグルであるマハープルシャと呼ばれる人々は、単に自分の問いの答えを得るために瞑想しているのではなく、その人生において、完全に思いを世の中から切り離して瞑想しているのだと思う。彼らのとてもシャープな瞑想の能力によって一つのものに一点集中することができる。そのような彼らの自然とつながる能力のために自然を理解することができ、彼らはどのようにも自然を傷つけることがない。それに対して私たちは自然が一体何を必要としているのかということをまったく感じることができないし、自然を癒すためにどうすればよいのかもわからずに自分たちのことを中心に考えている。これがそのような偉大な魂の数が減るとなぜ世の中に苦しみが増えるのかということの背景だと思う。」
ババ様の御言葉
火には本来、光をもたらす力がありますが、それには燃料が必要です。霊性修行者の知性(ブッディ)という火の中に、放棄、平穏、真理、慈悲深さ、忍耐、無私の奉仕という燃料を常時くべなければなりません。その火が英知の光を放つのです。
プレーマヴァーヒニー第67節
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2サナータナ ダルマ:古来永遠の法
※3サンニャースィン:世捨て人、放棄者、隠遁者、隠者、苦行者、出家、出家行者、托鉢、生涯独身を貫く行者、遊行者、遊行期にあるブラフミン
※4ヴァーヒニ シリーズ:インド発行の月刊誌、サナータナ サーラティ誌にテルグ語と英訳で連載されたサティヤ サイババの著作。
開催日:2022年3月13日(日)
テーマ:ヒンドゥー新年
参加者:35名
質問:
①スワミ※1は良いことも悪いことも人間の思いの結果であるとおっしゃいる。思いが運命を形づくらないようにするには、どうすればよいか?
②人々は新年の誓いを立てるが、より良い自分になるには、どのような決意が有益か?
③スワミが教えて下さったUGADI(ウガーディ※2・テルグ正月)にまつわる5つのマハースートラ(簡明な規則)の中で、特にどれを自分のフォーカスにしたいか?また、それはなぜか?
UGADI(ウガーディ・テルグ正月)にまつわる5つのマハースートラ(簡明な規則)
U: Unity of Thought, Word and Deed (思いと言葉と行動の一致)
G: God is Now Here (神は今ここにいる)
A: As you sow, so you reap (蒔いたとおりに刈り取る)
D: Dedicate all your actions to lord (すべての行いを神に捧げる)
I : I want peace (私は平安が欲しい)
<参加者のコメント>
… ①スワミは良いことも悪いことも人間の思いの結果であるとおっしゃいる。思いが運命を形づくらないようにするには、どうすればよいか?
「今、ウクライナ問題や戦争が起こっている。サイセンターで一日3回世界平和に祈ることとなり、今までそういったことをしてこなかった私だが、日々流れてくる悲惨な状況を目の前にして、初めて世界平和を祈ることができた。しかし子供の病院が爆撃されたというニュースを聞いてすごい怒りにまみれてしまった。そしてその日の二つのサットサング(善人との親交)で聴いた話から教わることがあった。一つはビーシュマ※3が子供を殺されて怒ったときに、ドラウパディー※4から憎しみをもつものではないと諭されたというお話で、もう一つは、バガヴァッドギーター※5の中のお話。すべて敵も味方もなく、憎しみも一切なくすべてを平静に見るという教え。まさにいろいろなことが起きた中でも、平静を保っていく。そして世界への祈りをもつということを教えられたように思った。敵と味方とか、これが良いとか悪いとか、善悪を判断しないのはなかなか難しいが、本当に平静に見ながら祈っていくということではないかと思う。」
「思いどおりにいかないとき、ストレスや、反感、反発の思いが沸きあがってきたりする。そういう自分の感情と離れて、常に平安とか幸福でいられるように、それを持続できるように、自分を制御できるようにならないといけないと思う。職場でも一時的にストレスフルの時は、まるで戦場みたいだ。そういうときに平安、平安、シャンティ、シャンティと思うようにしていると、心も落ち着いてくる。とにかくどんな状況でも自分が一番落ち着いて、悪い感情が出ないようにしていれば悪い種を撒くこともないので、そのように努めたい。」
… ②人々は新年の誓いを立てるが、より良い自分になるには、どのような決意が有益か?
「しっかりとした強い決意が大切。それが持続できる人は良いが、私の場合は以前スタディーサークルで教わった、習慣を作るためのノートを書いている。毎日ノートに書いた『することリスト』をチェックして続けている。やはり毎日毎日、決意を新たに持続していくことが私の場合は大切。」
… ③スワミが教えて下さったUGADI(ウガーディ・テルグ正月)にまつわる5つのマハースートラ(簡明な規則)の中で、特にどれを自分のフォーカスにしたいか?また、それはなぜか?
「現在、コロナの蔓延や戦争、いろいろな悪いことがいっぱい起こっていて、良いことを見つけるのは非常に難しい。だが、こういう時こそいろいろなサーダナをとおして自分を常に冷静にし、静かに平静でいることではないかと思う。」
「私は5つのUGADIのマハースートラのD『Dedicate all your actions to lord』の『すべての行いを神に捧げる』にフォーカスしたいと思った。なぜかというと、自分の行いの良し悪しを見直して、神に捧げるため良いものにしたいから。しかしもし間違えや、悪い感情が出てしまっても、それすらも、ごめんなさい、今間違えてしまいましたと捧げて見直す。そのようにして、間違えも次へのステップとなると思ったので、Dを選びたい。」
「私は前回のスタディーサークルの平静さをテーマにしたサットサングの紹介動画でのBro.アラヴィンドのお話にとても感動した。そのようにすべては自分のために良いことであると思えるように、G『God is now here』の神は今ここにいるというのを特に留意して、これは自分のために良いことだと、ただ起こることを淡々と見ていけるようになれたらよいと願っている。」
<サイの学生のコメント>
… ①スワミは良いことも悪いことも人間の思いの結果であるとおっしゃいる。思いが運命を形づくらないようにするには、どうすればよいか?
「サイスクールの高校2年生の時に先生から学んだのは、自分で考えたことは良いことであっても悪いことであってもすべて神様は祝福してくださっているということ。そしてスワミは、良くないことがあっても、他の良かったことを常に思うことの重要性をおっしゃってきた。だから私たちは意図として他人の良い点だけを考えるべき。皆で集まってバジャン(神への讃歌)をする理由の一つは、人々の善良な思いを形にすることができるから。例えば、私がサイ大学の在籍時にインドでサイクロンが発生していたときのこと。サイクロンが沿岸部に到達しようかという時期だった。サイ・ クルワント・ホール※6で年長者が、サイクロンが到達することを妨げるために、皆で一緒に祈りましょうと言った。実際にサイクロンは到達したが、その時の被害は人々が思っていたよりもずっとずっと少ないもので済んだ。このように皆さんの心を合わせた祈りや思いが集合すると、良い結果に繋がるという例だった。」
「私たちの人生は思いをどう理解するのかにかかっている。何か思いが沸いてきたときに、ずっとそれを考えているとそれが大きくなってくる。例えば、自分が何か劣っているという思いにずっと囚われていると、落ち込んだり、そういった影響をずっと受けることになる。その一方で自分を強くするような思いを持ち続けるならば、私たちの自信やポジティブな部分を増強すると思う。それは思いに応じてどのように私たちの身体が反応するのかということ。ポジティブな思考が良いエネルギーをもたらす。同時に自信過剰にならないようにしていかなければならない。もし私たちがポジティブさをもっていればポジティブになり、ネガティブな思いをもち続ければそれが付いて回ることになる。」
… ②人々は新年の誓いを立てるが、より良い自分になるには、どのような決意が有益か?
「絶えず他者から学び続け、他者からいろいろな教訓を受け入れ続けることが、絶えずより良い自分になっていくために大事なこと。他者の意見から影響をあまり受けすぎることも良いことではないが、少なくとも他者の意見に一定以上の重きを置いて、その中で役に立つことを選んで受け入れていくことが大切。つまり同時に、他者の意見に過剰な重要性を置くことも避ける必要はある。本当に自分が理解している範囲では、新年の決意などにおいても、他者から学んでいくことができる。」
「次の2つのことについて、考える必要があると思う。一つは、より良い人間になるという目的地に辿り着くためにどんな行動が必要かということ。より成長していこう、前に進んでいくための努力。ときには道を下る場合もある。この新年の決意において大事なのは、私たちが実践可能な決意を設定することが非常に大事だと思う。そして、それを実践するうえでは、一人ひとりの旅の道のりはユニークであり異なるので、当然決意も違うし他者の真似をする必要はない。そして願いが必ずしも叶えられるとは限らないということも念頭に置く必要がある。また、このように立ち向かって行こうと決意をする時に、自分自身が今何処に立ち位置として立っているのかを、一人ひとりが自分自身を評価して、それを知ることから始めていく必要がある。今の自分自身の必要性と自分が置かれている状況をしっかりと分析して評価した後で、この状況にいる自分に必要なことの優先順位は何なのかを考える必要がある。それらのことをすべて考慮に入れたうえで、より良い自分になっていくために、前に向かっていくステップは何であるのかを考えていく必要がある。そして、もう一つ非常に大事なことは、このような決意をすることは、必ずしも新年だけに行わなければならないことではないということ。スワミは一瞬一瞬がすべて新しいものであり、遍在であるとおっしゃっている。自分が旅路において少し遅れをとったと感じたときには、いつでも新たな決意をして、どうやって自分がより良くなれるのかという決意をいつでも随時行っていくべき。そして一人ひとりが自分自身のために、それを決意していくことができる。」
… ③スワミが教えて下さったUGADI(ウガーディ・テルグ正月)にまつわる5つのマハースートラ(簡明な規則)の中で、特にどれを自分のフォーカスにしたいか?また、それはなぜか?
「個人的には、A:『As you sow, so you reap』、蒔いたとおりに刈り取るという点にフォーカスしてみたい。すべての行動には等しくそれと逆もあり得るということを思い起こさせてくれる。私たちは良い行いで悪い行いをキャンセルできるかと考えがち。しかし実際には悪いことをすればその報いが起きるし、良いことをすればそれは同じこと。常に絶えずコンスタントに行動しなければならない。私たちがもし絶えず良い思いをもっているのなら、それを実践に移して良い結果を得ることができる。それがスワミのおっしゃることで、『自分が思うようになる』という言葉があるが、そういったことなのではないかと思う。いつも私たちは良い思いをもって良い行動をして良い結果を得られるようにしていく必要があると思う。」
ババ様の御言葉
あなたの意識には二つの目があります。すなわち、サティヤ〔真理、真実〕と非暴力(アヒムサー)です。これらはあなたを目的地へと、二つの光へと、内なる空にある太陽と月へと連れて行ってくれる道案内です。もし自分の発言においてサティヤすなわち真実を守る方法を知りたければ、『バガヴァッドギーター』を見てみなさい。ギーターは最良の発言は、「アヌドヴェーガカラム ヴァーキャム」(他人に痛みや怒りや悲しみを生じさせない発言)であると述べています。シャーストラも、同様にこう述べています。「サッティヤム ブルーヤーット、プリヤム ブルーヤーット、ナ ブルーヤーット サッティヤム アプリヤム」――真実を語りなさい。喜ばしく語りなさい。こう言えば聞き手に歓迎されるからという理由だけで、聞き手の支持を勝ち得るために真実でないことを語ってはなりません。もし真実を語れば悲しみや痛みをもたらすことになるなら、黙っていなさい、ということです。これは日常生活における真実の誓いです。
1967年12月20日
ケーララ州サティヤ・サイ・オーガニゼーション役員大会の御講話より
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ウガーディ:テルグ正月。テルグ語、カンナダ語圏地方のお正月。ユガの始まり、世界の始まりという意味のサンスクリット語のユガーディYugadi(yugAdi)に由来する。
※3ビーシュマ:『マハーバーラタ』の英雄でシャーンタヌ王とガンガー女神との間の子。カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の大叔父。
※4ドラウパディー:夫の前で辱めを受けてクリシュナ神に救済を求め救われたパーンダヴァ兄弟の共通の妻。
※5バガヴァッドギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※6サイ・ クルワント・ホール:プラシャーンティ・ニラヤムのダルシャン・ホール
開催日:2022年3月23日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第30節、第31節「サナータナ ダルマ~人類の母なる神」、「バーラタはサナータナ ダルマの故郷である」
参加者:52名
質問:
①なぜこのような原理は古来永遠の法であると言われるのか?なぜすべての宗教の母であるとスワミ※1がおっしゃるのか?
②すべての宗教のゴールは一つである一方で、なぜ人々はある宗教を敬い、別の宗教を見下すのか?
③バーラタ※2人たちが得た心的傾向(サムスカーラ)を他国の人々がまだ獲得していないとスワミがおっしゃるのは、どのような点であると思うか?
<参加者のコメント>
… ①なぜこのような原理は古来永遠の法であると言われるのか?なぜすべての宗教の母であるとスワミがおっしゃるのか?
「サナータナ ダルマ(古来永遠の法)という言葉について、私自身はきちんと理解できていないと思うが、若いころからヴェーダ※3に触れて、学び、真理がすべてに遍満しているという教えは他にはないと思った。学ぶには膨大すぎて、とても大変だが、なにか一つ本当に理解すると、スピードがついて、子供が母親に駆け寄ってくるようにどんどん引き寄せられる。母のように感じる。たくさん体験して実践して、そのものになれたらいいと思う。」
「サナータナ ダルマというと宗教自体を超えて人間の五つの鞘※4や呼吸などの人間の原理。」
… ②すべての宗教のゴールは一つである一方で、なぜ人々はある宗教を敬い、別の宗教を見下すのか
「宗教は、生命原理を説いているサナータナ ダルマの一部分。いろいろな角度から教えてくれている宗教そのものは純粋なものだと思う。しかし、そこに人間が絡んでくると、私の宗教とか、私が信じているものだからとか、私の正しさという自分のエゴが出てきてしまうのではないかと思う。そうすると大きな見方ができなくなってくるのではないか。」
「本当は一つひとつすべての宗教を学んで、味わって深く突き止めると、すべては同じものであることがきっと分かると思う。自分が選んだものが一番良いものと考えたり、少ししか知らない他のものを、一部見ただけで判断してしまったりする行為は無知であり、一部しか見ていないことが一番の原因であると思う。」
… ③バーラタ人たちが得た心的傾向(サムスカーラ)を他国の人々がまだ獲得していないとスワミがおっしゃるのは、どのような点であると思うか?
「バーラタにおいては悟った聖者や賢者が最古の知識を正しくそのままの形で守り続け、語り継がれていて、人々の魂にも浸透していると思う。そこから拡がっていったことを考えると、人々が自分のものにしようという思いが出て、少しずつ形が変わっていったり、普遍的なものが少しずつ変化して枝分かれしてしまったと思う。そういう点で真理が純粋に守られてきたバーラタにおいては他国と異なる点があるのではと思った。」
<サイの学生のコメント>
… ①なぜこのような原理は古来永遠の法であると言われるのか?なぜすべての宗教の母であるとスワミがおっしゃるのか?
「それは神と同じぐらい古くて、そこからすべての宗教や一切のものが生じた源であるからこそ、それが古来永遠であると言われているのだと思う。一つひとつの宗教は、それぞれが少し異なったタイプのダルマ(本分)にフォーカスしているところがある。いろいろな宗教が示しているダルマを組み合わせれば、それらを統合したものがサナータナ ダルマになっていくのではないかと思う。すべての宗教はこのサナータナ ダルマに従うべきであると思う。すべての宗教がその同じ源に従うならば、それがサナータナ ダルマだと思う。サナータナ ダルマはいろいろと枝分かれして多様な宗教に変わった。スワミはサナータナ ダルマのことをすべての宗教の母であるとおっしゃっている。」
「サナータナ ダルマとは永遠の宗教であるという意味。それが絶対的な義務であると示す法であるから、文字通りサナータナ ダルマと呼ばれる。そしてサナータナ ダルマはいろいろなサーダナ(霊性修行)をその中に構成しており、すべての人間たちが実践していくべきものとなっている。異なった書物は異なったダルマや義務を示している。でもサナータナ ダルマとは美徳そのもののこと。例えば、正直で誠実であることや、他者を傷つけないことであったり、純粋であったり、行いにおいても純粋であったりすること。そういったことをすべて含んでいる。サナータナ ダルマは自然でかつ永遠なもの。サナータナ ダルマはすべての人々の行動を支配する法則になっている。それがあらゆる宗教の母であるといわれる所以。このサナータナ ダルマの役割は、私たちを一番太古の聖典に導き戻すことにあるのではないかと思う。そしてヴェーダも神ご自身が直接姿を現したものといわれている。それらの法の著者は神ご自身に他ならない。」
… ②すべての宗教のゴールは一つである一方で、なぜ人々はある宗教を敬い、別の宗教を見下すのか?
「多くの人が自分の宗教を実践することよりも、自分の宗教が正しいことを証明しようとすることにフォーカスするので問題が起きる。基本的にはすべての宗教の神髄の真実は、まったく同じだが、真実がどのように説かれているか、その説明の仕方が宗教によって異なっているだけであると理解している。どういうことを実践するかということを、一番母なるおおもとの宗教から引き出して、実践していくということが良いのではないかと思う。例えば、瞑想という霊性修行を仏教徒も採用しているし、一部のクリスチャンも採用している。バジャン(神への讃歌)を歌うことも、ヒンドゥー教にもシク教※5にも共通している。おおもとの母なる宗教であるサナータナ ダルマから引き出してサーダナを実践することは、どの宗教においてもできる。その一方で、他の宗教を見下ろすことは決して推奨できることではない。もし誰かが他の宗教を見下ろすならば、宗教とはどういうものであるか、自分の宗教も含めて、それを理解していないということになる。」
「現代社会の中で、この2番目の質問が一番大事な点であり、この問題によって、今日世界の多くの場所で戦争が起こり、血が流されている。すべての人が、すべての宗教というものは同じ一つの真実を言っていることを理解しなければならないと思う。大半の人は自分が信じている宗教がより優れたものであると思い込んでいるから。そのような考え方は、ほんの一部の人の利益にしかならない。一度プラシャーンティ・ニラヤム※6で、宗教間の一体性と、宗教間の調和という会議が開かれ、様々な宗教の人々がそこでスピーチする中で、ある一人のグル(霊性の師)、特にサナータナ ダルマに従っているというグルが発言した。その方が述べたのは、『今日の構造の中で大きな問題というものは、たった一人の神しかいないと思われていることです。それは間違っています』ということだった。そのグルによれば、正しいコンセプトはただ神がいるということであって、唯一の神でなければならないわけではないということ。大半の宗教は唯一の神様だけを強調しており、一つの神だけにスポットを当てたものにすぎない。もし、神がいるというだけで、そこに普遍意識があると考えると、その論争は終わる。これが今日世界で起こっているすべての宗教の問題の根源にあると思う。」
… ③バーラタ人たちが得た心的傾向(サムスカーラ)を他国の人々がまだ獲得していないとスワミがおっしゃるのは、どのような点であると思うか?
「バーラタの国では兄弟同朋という考え方がある。他のいくつかの文化ではそういった点が欠けているところがあるかもしれない。インドには多様な言語があり、色々な祝祭があるが、たとえインドの中にどれほどたくさんの言語や祝祭があったとしても、人々の中には兄弟同朋意識がある。それに関して私たちが理解しなければならないのは、得るべきサムスカーラ、心的傾向というのは、私たちがその文化において、ある一括りの価値に従っていかなければならないこと。それが本当の文化であり心的傾向だと理解することが大事だと思う。なぜなら私たちがもっている一括りの価値がどんなものであるかによって、毎日の生活の中でそれに基づいた幸せや悲しみを得ていくことになり、私たちが日々成長していくことができるかどうかを左右するからだ。」
「この世の中のあらゆるものは互いに関係している。一体性の感覚から、愛や思いやり、規律などがすべてが来ると思う。しかし多くの人が何らかの心的傾向によって十分な愛や思いやりなどを得ることができずにいる。すべての人々には幾分の兄弟同朋心もあれば、幾分の邪悪な性質、何らかの心的傾向を必ずもっている。どの程度のサムスカーラをもっているかということは、どの程度その人が心的傾向を外部から受け取って自分のものにしたのかということに依存していると思う。」
「スワミがバーラタ人に関連して話されたご講話で、時に人々がそのような良くない心的傾向をもつことがあると述べられたことがあった。例えば、太古の昔のヨーギ(ヨーガ行者)の人間性を見ていると、常に内側の真の自分自身の近くにいるような心的傾向があった。そして多くのヨーギは森に棲んで、人里離れたところで瞑想したりする人生を歩んできた。祈りというものは何かを願い求めるものではなかった。ヨーギが神に祈っていたのは、何かが欲しいというのではなく、執着を捨てて神に近づけるようにと祈ってきた。一方で、今日の人々はより快適さが欲しい、お金が欲しいという逆の方向の祈りをもっており、結果として、どこに限界があるのかということさえもわからなくなっている。ヨーギが古来にもっていたような常に無執着でいようとする心的傾向をより学んでいかなければならないと思っている。」
<ババ様の御言葉>
「怒りの炎、慢心の炎、憎悪の炎、妬みの炎は、他の炎よりも壊滅的です。これらの炎は、心の中で密かにめらめらと燃え上がります。そしてつねに、もっともっと油を注げと要求します。ギーターの中で、炎はアナラと呼ばれています。なぜなら、「アナラ」には「不十分」という意味があるからです! 炎は決して「もう十分だ」とか「満足だ」とは言いません。あなたは遠くで炎が燃え上がっても怖がります。そうであれば、あなた自身の中で炎が燃え上がったらどうでしょう? あなたはどうやってその恐ろしい炎を消すのでしょうか? サナータナ ダルマ〔古来永遠の霊的な法〕には、経験によってテストされ、聖仙たちによって保証された、いくつかの消火剤があります。それらは、真理(サティヤ/真実)、ダルマ、平安(シャーンティ)、愛(プレーマ)です。それらをあなたのハートに染み込ませなさい。そうすれば、炎を遮断することができます。」
1965年3月1日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19650301am.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2バーラタ:インドの正式な国名。バラタの子孫の意、「神を愛するもの」の意。
※3ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※4五つの鞘:パンチャコーシャ。食物鞘(アンナマヤ コーシャ)、生気鞘(プラーナマヤ コーシャ)、心理鞘(マノーマヤ コーシャ)、理智鞘(ヴィグニャーナマヤ コーシャ)、歓喜鞘(アーナンダマヤ コーシャ)。ヴェーダによれば、人間に内在するアートマは五つの鞘(コーシャ)に覆われている。
※5シク教:総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルにあるハリマンディル(黄金寺院)。グル・ナーナクを開祖とし、教典は『グル・グラント・サーヒブ』(原型は『アーディ・グラント』)。シク教寺院はグルドワーラーと呼ばれる。一方小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。宗教改革者カビールとイスラーム神秘主義スーフィズムの影響を受けている。スィクとはサンスクリット語の「シシヤ」に由来する語で、弟子を意味する教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している。グルとは師匠という意味である。
※6プラシャーンティ・ニラヤム:プッタパルティにあるサイ ババの住まいとアシュラムの総称、至高の平安の館の意。
OM SRI SAI RAM
スタディーサークルチームの活動報告のとりまとめ凝縮版は下記になります。
全文版はダウンロードボタン(pdfボタン)からご確認ください。
開催日:2022年2月16日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第17節、第23節「疑い深い人々と無知な人々を避けなさい」、「サンスクリット語とヴェーダ文化の学習を冷笑してはならない」
参加者:41名
質問:
① 霊的求道者として(第17節に記述されているような)霊的向上への障害を避けるために、どのように振る舞えばよいか?
② 帰依の道を歩もうとする求道者へのあざけりや批判から遠ざかっているにはどのようにすれば良いか?
③ サンスクリットやヴェーダ※1文化の知識と実生活の体験はどのような関係にあるか?
<参加者のコメント>
… ① 霊的求道者として(第17節に記述されているような)霊的向上への障害を避けるために、どのように振る舞えばよいか?
「何かに夢中になっていれば、周りの人もその人が何か没頭していると分かって周囲も整ってくると思う。小さい例だが、昨年のスタディーサークルで節制のプログラムに関して、缶ジュースを買うのをやめれば、その分お金が節制できると聞いた直後に、私は缶ジュースを買うのをやめたことを職場で言うと、『缶コーヒーでなくてジュースとかならいいの?』と周りが逆にそう言ってくれた。」
… ② 帰依の道を歩もうとする求道者へのあざけりや批判から遠ざかっているにはどのようにすれば良いか?
「日蓮上人はいろいろな人から誤解を受けたり、嫌なことを言われていたが、惑わされないで純粋な信念をもち続けて貫き通すと、必ずそれは分かってもらえる時がくる、という内容のテレビ番組を見た。純粋に貫き通すということが必要なのだろうと思った。」
「信仰というものは他人に見せるためのものではないと思うので、周りに言う必要はないが、一緒に暮らす人や、身近な人には、説明する必要があると思う。相手と状況を見てそれを話すのが一番良いと思う。また、本当に熱心なスワミ※2の帰依者だった方が途中でいろいろな情報から疑いをもち、出ていった時、その人は善意のつもりで、私に一生懸命いろいろなことを言って説得しようとした。私自身は、まず他の方の生き方や考えも尊重する必要が必ずあると思っている。私の中の神様はサイ・ババと呼ばれることを全然嫌がっていないし、喜んでいるから、私は今のままでいようと思うと答えると、その方は自分も否定されていないし、私の行動を尊重してくれるようになった。まずはあまり周りに言う必要はないということと、信仰が違う方への批判をこちらからもしないということがとても大切なことのような気がする。」
「まず、いろいろな批判とか嘲りなどの反応はずっとあるものだと思う。反対に称賛とか感謝もある。それらの思いは、それを発している側の方で、自分のものではない。それらの言葉は、それを発している人、称賛や非難を発している人を証明している言葉になると思う。そして、その言葉に反応している自分が、どういう反応をしているのかということも、一つの自分を知るきっかけにもなる。その人の言葉はいずれにしても、非常に役に立つ。私たちはまだまだ、霊性の途上を歩いている段階だと思うので、やはりそういう批判に対しては心が反応してしまうことがあるが、そのときにこそ、神と共に生きているという、あるいは神と手を繋いで生きているとか、自分の神の方にフォーカスすることによって、周りの現象がどうであれ、それをまた違った目で見ることができるのではないかと思う。少し俯瞰したり、自分の中に愛が満ちていれば、周りにどういう嘲りや批判があったとしても、それに巻き込まれないのではないかと感じた。」
… ③ サンスクリットやヴェーダ※1文化の知識と実生活の体験はどのような関係にあるか?
「私は日蓮宗の家庭で育ち法華経を学んできて、日蓮宗のバールヴィカスクラス(子どもの開花教室)のようなところで子供の頃お経を唱えていた。法華経では、法華経を信じて布教するものは本当に苦労してこの世の中では非難されるだろうと予見されていた。しかし弟子たちは『それでも構わない、信じることこそ最上の功徳である』と理解していて今日まで続いている。法華経の学びがあったおかげで、スワミに導かれてヴェーダに出会ったと思っている。ヴェーダのパワーというのが本当にすごいということは分かるし、帰依者の方の息子さんやお嬢さんの病気が治るなどのたくさんの奇跡が起きていて、本当にヴェーダは大事だなと思った。」
「例えばおもしろいテレビを見た後やおいしいものを食べた後など、この世的に楽しい経験をしたときには、後には空虚さが残る。その空虚さを埋め合わせるためにまた見たい、もっと食べたいと思うようになってしまう。今私が実践しているのが、空虚さを感じたときにヴェーダを唱えたりマントラ(真言)を唱えたりすると、その埋め合わせが必ずできると感じている。」
<サイの学生のコメント>
… ① 霊的求道者として(第17節に記述されているような)霊的向上への障害を避けるために、どのように振る舞えばよいか?
「霊的な道においては、自分自身が障害になっていることが多いと思う。外側のものが影響しているように見えるのは、自分自身が十分に強くないときなのではないだろうか。もちろんスワミは悪い仲間を避け善い仲間といなさいとおっしゃるが、それ以前に私たち自身が強くあってポジティブな態度を環境に関わらずに貫けるようになることが大事だと思う。私たちが直面するほとんどの問題の理由は、私たちの中に六つの悪い性質(六つの
敵)※3が混在しているということ。私たちと一緒に働いている人や家族などを私たちは変えることができない。私たちができる唯一のことは私たちの中にある六つの性質に対処して、自分自身がより良くなること。たとえ環境を変えてみたり、周りの人を変えてみても、別のところに行ったらもう一度同じ問題に出くわしてしまう。それは周りが原因ではなく、自分の内側のことが原因だったということになる。もし周りのことが非常にネガティブに見えると、一体何がネガティブさを作り出しているのだろうかと、自分の中の何がそのように見ているのだろうかとフォーカスしていくことで変えていくことができる。例えばスワミがおっしゃっているが、帰依者の皆さんが(プッタ)パルティ※4に来られる時に、何かを期待して来られる。ダルシャン※5を得たいとかパーダナマスカール※6したいとか、何かを物質化して欲しいとか。その一方で、もしスワミが一瞥もくれなかったなら、いや彼は神でないとか、スワミはお金や地位のある人にしか見向きもしないとか、そんなことを言うようになり、スワミを責めたり、ネガティブになってプッタパルティに来なくなり、心も落ち着きがなくなってしまう。フォーカスが外側の環境の方に向いているから、スワミが全然見てくれないととても悲しくなる。それはこうして欲しいと期待をもっているからで、期待がなくなれば全然問題がなくなる。そういった自分の内側の期待が原因であると探し当てて、それを変えるということ。スワミがおっしゃるように外側にあるものは何も影響しえないということ。私たちが霊的にいかに内側で強くいられるのかということ。私たち自身が最大の霊的な旅路の障害で、私たちが障害だということ。」
「特定の人々に自分とは違うところがあると、避けるようになったりすることがある。しばしば他の人がどのように振る舞っているか、関心をもって眺めることがあると思うが、考えていたのと違う振る舞いがあれば批判するようになったりしてしまう。自分自身も多かれ少なかれ、他の人々が振る舞っていることに干渉をしないようにしたり、他の人がどう振る舞っているかということに対して、過大な関心をもたないようにと思っている。他人ではなく、自分自身がどのように義務を果たしているのかということに焦点を当てていきたい。そして他人のことを嘲ったりする人は誰でもその人の時間を無駄にしていると思う。その一方で霊的な求道者たちは、時間を最も効果的に使っている人々だと思う。そういった意味で、霊性修行を行うということこそがすべきことで、他人を嘲たり批判したりするのは最もすべきことでない。霊的求道者も、何かゴールに辿り着こうとして一生懸命努力をするが、そのプロセスにおいては、非常に多くの批判などにも直面していくことになる。でも、そういった状況においても求道者は自分自身の義務だけを考えていくべきだと思う。」
… ② 帰依の道を歩もうとする求道者へのあざけりや批判から遠ざかっているにはどのようにすれば良いか?
「実践していることの不履行を避けることだと思う。善良であることと、神にフォーカスしていく必要がある。周りの称賛や批判を気にも留めないことが大事。幸せなときとそうでないときとの揺らぎを小さくしていくこと。嫌なことや、善くないことがあっても悲しんだり、揺らぎを避け、不動心をもっていることが必要。過去を思いわずらったり未来を心配することを避ける必要がある。今この瞬間だけを霊的求道者として考えている必要がある。そしてネガティブに考えることを避け、霊的なことに取り組み、ポジティブさを作り上げていく必要がある。世俗的楽しみをさし控える必要がある。世俗的なことにおいても不注意を避けていかなければならない。」
「一体どうやって他の人の嘲りや批判とか、そういうものを避けることなどができるだろうかということ。もう一つは、実際に、その嘲りとか批判が行われたときに、どうやってそれを無視することができるだろうかということ。これらの二つの状況に対して何か対応しよう、何か反応しようと考えるのは求道者にとって良くないことだと思う。例えば、もし私たちが誰かよりも優れていると感じるのであれば、あるいはもし自分たちの方が他者よりも道徳的で倫理的であると思うのであれば、自分の実践が他者と比べてずっと良いと考えるだろうと思う。そのような思いが他者を非難する元になる。そして、それが嘲りだとか批判ということになってくる。そのような思いが生じる原因はエゴ。一つ目は他人を判断したり責めたり嘲ったり批判したりしないということ。また、もし何かのメッセージを批判的に伝えなければならない状況があったとするならば、それをスワミがおっしゃるように可能な限り親切に伝える必要があるだろうと思う。そして、誰かが嘲ったり批判したりしたときに、他者から批判をされた場合には、その過ちが自分の中に有るのか無いのかということを考える必要がある。間違いが自分にあるならば、その間違いを正すことができる。もし、間違いが自分にないのであれば、それを問題にする必要はない。」
… ③ サンスクリットやヴェーダ※1文化の知識と実生活の体験はどのような関係にあるか?
「もちろんサンスクリットやヴェーダの知識を知っているだけでは十分ではなく、日々の実践の中にそれを持ち込むことができなければならないだろうと思う。そして皆さんおっしゃっているように、ヴェーダやサンスクリットの知識というのは非常に高次の知識だが、ただそれを覚えるというだけではそこからエッセンスを引き出すことはできないだろうと思う。例えば、皆スタディーサークルに定期的に参加し、その日に話し合われている章についていろいろな人が話している意見を聞いたりする。そのように学んだことが実践に移されなければ、学ぶことのすべてに感謝の念を抱くことには至らないと思う。先ほど言ったように、他者がいろいろな行為をしているときにそれに干渉しないとか、一歩ひいてそれを見ることはとても必要なことだと思った。今日このようなスタディーサークルをしても、なお他人を嘲ったり批判したりすることがあるなら、こういったスタディーサークルで学んだことを生かせていないということになる。いろいろな文献のテキストを覚えても、それを実践しなければ意味がないということになる。」
「あるところに僧侶がいて毎日バガヴァッドギーター※7を唱えていた。そのシローカ※8の意味は『いつも困難に陥ったときには神の御名を唱えなさい。そうすれば間違いなく神様が助けてくれることでしょう』という意味だった。牛乳配達人が牛乳を届けにやってくると僧侶はすぐに怒りだして、配達人に『なぜ今日は遅れたのか』と𠮟りつけた。配達人は『来る途中に渡ってくる川に大きな石が落ちていたから、それで遅れました』と言った。僧侶はまだ怒っていたが、『それならわかった。明日はもっと早く来なさい』と言った。次の日、配達人は早く家を出たが、また川に石が落ちていた。牛乳配達人は前の日に怒られたことを思い出して怖くなった。その時、前日に僧侶の家で聞いたシローカを思い出した。それは、困難があったときには神の御名を唱えれば間違いなく助けてくれるというシローカだった。彼はそれから神の御名を唱え始めると時間通りに僧侶の家に着くことができた。すると僧侶が『今日も同じように川の中に石があっただろうに、どうして今日は時間通りに来られたのか?』と聞いた。配達人は『今日は神の御名を唱えたおかげでちょうど時間通りに着くことができたのです』と答えた。僧侶はそれを聞いてショックを受けた。そんなことが本当に可能なら自分自身で試してみたいと思った。でも実際に僧侶がそれを試してみようとしたところ、水が冷たすぎてうまく歩くことができず、滑って転びひどいけがを負ってしまった。その様子を見ていた牛乳配達人は、『ただ唱えることはまったく重要ではない、そのシローカの言っていることをちゃんと信じて実際に実践することが大事なのだ』と理解した。」
<ババ様の御言葉>
「バガヴァッド ギーターも、この宇宙のすべてのものに神性が浸透していると明言しています。バガヴァッド ギーターは、霊性の本質は唯一性であると宣言しています。それを認識する代わりに、人々は他人を批判することにふけっています。神性はすべてのものの中に隠れているのですから、他人を批判することは神を批判することに等しいのです。」
2000年10月1日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_20001001.html
※1ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3六つの敵:カーマ〔欲望/情欲〕、クローダ〔怒り〕、ローバ〔貪欲(どんよく)〕、モーハ〔愛執(あいしゅう)・妄想・執着〕、マダ〔高慢(こうまん)・自惚れ〕、マーッツァルヤ〔嫉妬(しっと)あるいは憎しみ〕。
※4プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※5ダルシャン:聖者や神を拝見すること。
※6パーダナマスカール:御足への礼拝、帰命頂礼(きみょうちょうらい)。聖者や両親などの足に平伏して行う礼拝。
※7バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※8シローカ:詩節、心を楽しませる同じ音節をもつ四つの句で組み立てられた詩節。
開催日:2022年3月3日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第34節、第42節「立ち上がり、目覚め、愛と信愛の道を歩みなさい」、「霊性と解脱の道を歩みなさい」
参加者:39名
質問:
① 真実、寛容、道徳性、規律等の価値を受け入れるために必要なステップは何であり、どのようにそれらを受け入れることができるのか?
② ラーマラージャ(ラーマ※1の王政)とスワミ※2がおっしゃる理想の社会を、闘争と論争のさなかの時代にいながら、どの程度までそれが可能か?
③ 神の愛を求めて正しい行いをするのであれば、行動の見返りを求めることにはならないのか?
<参加者のコメント>
… ① 真実、寛容、道徳性、規律等の価値を受け入れるために必要なステップは何であり、どのようにそれらを受け入れることができるのか?
「私の場合はとても悩み苦しんだりして、生きづらさを感じてから本当の真実とは何かを考えるようになった。そしてスワミを知って、スワミの本を読んで、少しずつ真実、寛容、道徳、規律を学び、 行動していった。すると徐々に幸福感が増えていった。だから最初は自分が迷っていて、暗闇にいるという自覚から始まると思う。」
「自分自身が少しでも良くなりたいという気持ちが起きてきたときに、気づかされるような経験があると思う。ババの本を読む前に『あるヨギの自叙伝』という本に出会った。その本にはものすごい磁力のようなものを感じた。そこには真実が書かれていると思い、それをきっかけにギーター※3を読んだり、ババご自身が書かれた本も読むようになった。真実や寛容、道徳性や規律は、最初はおぼろげで、入りきれない感覚はあったが、向上心が目覚めてきた時に自分の中で決心のような思いが強く出た。やはり自分が決心したときがすごく大事だったような気がする。」
… ② ラーマラージャ(ラーマ※1の王政)とスワミ※2がおっしゃる理想の社会を、闘争と論争のさなかの時代にいながら、どの程度までそれが可能か?
「スワミは御自身の講話の中で『全人類の幸せと繁栄を祈って欲しい』、『人類同朋に慈悲を注ぐことのできる者だけが神の恩寵の中に自分の場所を要求することができます』とおっしゃっていた。だから私や私の国とかではなくて、私たちの社会、私たちの世界は全て神のもので、分け隔てないと思う。私が実際にパルティ※4で見た、スワミの帰依者たちの献身的にセヴァ(奉仕)をされていてる姿は、本当にプレマ(愛)を体現されていたように思う。スワミ同様に、帰依者がとにかくすばらしいと私はパルティに行く前から友人に聞かされていた。スワミのご意志のあるところと思うまで、スワミの道具として真面目にやらなければならないと思う。」
「今ウクライナが攻められている。こんな戦争が起こっている大変な状況だが、それでも世界中で、平和を願ってデモが行われている。大変な戦いの中でも人類愛のような、人間の本当に底に大きな愛があるのだといろいろなところで感じる。いかに愛を信じられるのかという点は、もちろんそこには信仰があると思うが、本当に愛を信じる力が支えになっていくと思った。」
… ③ 神の愛を求めて正しい行いをするのであれば、行動の見返りを求めることにはならないのか?
「正しい行い自体がダルマ(正義)でダルマにはアートマダルマ※5とアーチャーラダルマ※6という二つの種類があって、内側からの促しが良心そのもので、それ自体が神だと思うし、そのうえで行動することが大事だと思った。」
「神の愛を求めて行動するのなら、それが見返りを求めているのかどうかはわからないが、全然良いと思う。それはスワミも喜ばれると思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① 真実、寛容、道徳性、規律等の価値を受け入れるために必要なステップは何であり、どのようにそれらを受け入れることができるのか?
「基本的に真実、寛容性、道徳性、規律はもともと人間に備わっている。言葉を覚えたばかりの子供は決して嘘をつかないのは、幼い子供でも彼らなりに逸れないような規律をもっているからだ。もし不道徳性があるなら、外から入ってくるということ。私たちは誰かを喜ばせるために嘘をついたり、あるいは何かの幸せや一時的な幸せを得るために、良くない行いをしてしまうかも知れない。それによって友人や家族が喜ぶことがあるかもしれないが、決して神様はハッピーではない。真実、寛容、道徳性、規律などの価値すべての実践において同じことがいえる。道から逸れることの唯一の解決は、やはりこういった道を辿ろうと決意すること。それが解決法だと思う。何らかの状況や事情によってこれらの道に従っていくことができない場合は、スワミにこれらの道を実際に辿っていけるようにお祈りすることが大切。自分の理解ではそういった決意がこれらの道に従って行くために必要だと思う。」
「これらの特質はもともと人間に備わっていて、それらは神の性質であるとスワミはおっしゃっている。これらの神聖な特質は社会が進んでいくうちに失われてしまった。なぜかというと神への愛と罪への恐れを失ってしまったからだとスワミがおっしゃっている。その代わり人間は神を恐れて罪を好むようになってしまった。また気を付けなければいけないのは、真実、寛容、道徳、規律は、ともすると邪悪な六つの性質(6つの敵)※7の一つひとつに置き換えられてしまう危険があるということ。それらの悪い特質を抜き取っていく方法は、神の御名を唱えたり、サットサング(善人との親交)の中にいるようにすること。始めるのに決して遅すぎることはない。早く出発して、ゆっくり運転して、安全に到達しなさいとおっしゃっている。サーダナ(霊性修行)をとおしてのみこれらの性質を培っていくことができる。」
… ② ラーマラージャ(ラーマ※1の王政)とスワミ※2がおっしゃる理想の社会を、闘争と論争のさなかの時代にいながら、どの程度までそれが可能か?
「もちろんラーマラージャというのは本当の理想。どんな個人であれ社会であれ、もし神がその中心であったのなら、理想に近付いていくと思う。それは決して文字通り本当にラーマがやってきて統治してくれるという訳ではないが、私たちが内側においてラーマからいつも導きをいただくことによって、その理想に近付いていくということだと思う。これまでもたくさんのアヴァター(神の化身)が降臨されたが、正にスワミはこの時代にやって来られて、この時代に適したルールというものを、道を敷いてくださった。時も移ろい、人々の生活様式や、人々の考え方のプロセスもすべて変わってしまった。ラーマの時代から、クリシュナ神※8の時代、スワミの時代へと非常に多くのことが変化した。時間は移ろっているが、ラーマやクリシュナ神や、スワミのそれぞれから、異なった良い部分を受け入れながら、それを私たちの中に取り込んでいくことによって私たちが理想に近付いていくと思う。科学の世界でも、よく理想という言葉があるが、大抵は現実の世界では外界から別のファクターがいろいろ入ってしまって、決して理想にはならない。実験には必ず誤差がある。外から様々な邪魔が入って理想にはなりにくい。本当に私たちが神というものを一番優先順位が高いものとして据えるのであれば、理想の社会に変わっていくだろうと思う。」
「ラーマは非常に善良で皆から神として崇拝されていたが、その一方で決して神様のように生きられた方ではなかった。ラーマは決して何か多くの奇跡を行ったりだとか、超常現象的なことを起こしたり、自分の神性を示すためにそういったことを一切されなかった方だった。自分は正直に言うと、ラーマのことを神だと感じるのではなく、理想の人間だと感じている。人間社会において、その王国を上手く統治することができるのは、本当にその統治者の神なる性質によってのみ、そうすることができるものだと思う。ラーマが他者の意見を尊重すれば、王がそうするとすべての人々も他者のことを尊重するようになっていった。私たちは、私たちが称賛するものに等しくなっていく。」
… ③ 神の愛を求めて正しい行いをするのであれば、行動の見返りを求めることにはならないのか?
「私たちは神の愛を求めて行動するのではなく、ただ人々が幸せであることを望んで行動すべきだと思う。それは人への奉仕が神への奉仕ということだから。もし私たちの行動が人々を喜ばせるのであればそれは神様が幸せでいらっしゃることを保証してくれると思う。私たちの良心に従うことがさらに大事なこと。正しいことを行っていれば必ず神様が幸せでいてくださるということは保証されると思う。」
「人間にとっての最大の達成というのは神への愛をもつことだと思う。自分の場合にはいろんな行動を神の愛が欲しいと思ってすることは大いにある。例えば、もし自分の行動を神様はそれをお好きだろうか、それを嫌うだろうかと考えることが、自分自身の行動に対しての指標になっていると思う。神の愛を得るということは、どんな人間にとっても最大の達成だと思う。そしてそれが人生の目的でもあると思う。だから神の愛が欲しいから行動することは何も間違ってはいないと思う。そのように考えて社会に良い行いをしていくのなら非常に良いこと。」
「神の愛を求めて正しい行いをすることは間違っていないし、自分もそうしてきた。それに加えて、本当に神様とは一体誰でいらっしゃるのかという理解が、私たちにとてもインパクトを与えることだと思う。もし神様という存在が写真の中だけの存在だと思ってしまうのなら、そこに納まっているだけの神様の愛をいただいてもあまり嬉しいことではなくなってしまうかもしれない。神様と私自身や他のすべての人々を同じく等しいものと考えるのなら、神様の愛を求めることは決して間違っていないと思う。神様をどう理解するかによって、そして神の愛というものの理解がポイントだと思う。」
<ババ様の御言葉>
「あなたは神から来ました。あなたは神の栄光の火花です。あなたは至福の海の波の一つです。あなたは、再び神に帰融する時、初めて平安を手に入れるでしょう。道に迷った子供のように、あなたは母と再会した時、初めて喜びを得ることができるのです。海の滴は、蒸発して上昇し、雲と呼ばれる集合体と一つになって地上に降り、谷に沿って流れ、最終的に海へと辿(たど)り着きます。それと同じように、あなたが見失ってしまった海へ辿り着きなさい。その旅を始め、早く、軽快に旅をしなさい。」
1966年10月17日
※1ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ギーター(バガヴァットギーター):インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※4パルティ:プッタパルティのこと。スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※5アートマダルマ:神我のダルマ、神のダルマ「真のダルマとは、アートマの至福、内的ヴィジョン、自分の本質は絶対者と同じであるという揺るぎない信仰、そして、すべてはブラフマンであるという認識に包まれていることです。この四つこそ正真正銘のダルマです。特定の個人という身体としての存在に対し、実践の便宜上、この四つには名前がつけられています。(しかしそれでもなお、内に秘められた、アートマの実在というダルマに満たされています)。その名前とは真理、平安、愛、非暴力です。絶対実在が人格化されたものである個人は、日常生活の中でこれらに従うことができます。過去も現在も、ダルマの追求方法とは、何をするときも、何を考えるときも、この崇高な原則を堅く守ることです。今日の真理、平安、非暴力、愛とは、絶えずアートマに浸ることであり、内的真理を捉えて離さないヴィジョン、自己の本質への瞑想、すべては唯一無二のブラフマンであるという認識に間断なく浸ることに他なりません。根本的なものと派生的なものを統合し、調和させなければなりません。そのときにのみ、それをアートマダルマと呼ぶことができるのです」『生きる道 ダルマヴァヒニ』p26
※6アーチャーラダルマ:実践的なダルマ。「一時的な 、身体的必要性に関係しています 。つまり人間と 現実世界との束の間の関わり合いに関係するものです。これらの規律を守るための実際の道具である人間の身体は不変のものではありません 。それなら実践的ダルマはどうして永遠でありえるのでしょう ?そのようなダルマの本質がどうして真理であると言えるのでしょう?消え去っていくものに永遠のものは表せません。」『生きる道 ダルマヴァヒニ』P18
※7六つの敵:カーマ〔欲望/情欲〕、クローダ〔怒り〕、ローバ〔貪欲(どんよく)〕、モーハ〔愛執(あいしゅう)・妄想・執着〕、マダ〔高慢(こうまん)・自惚れ〕、マーッツァルヤ〔嫉妬(しっと)あるいは憎しみ〕。
六つの敵:カーマ〔欲望/情欲〕、クローダ〔怒り〕、ローバ〔貪欲(どんよく)〕、モーハ〔愛執(あいしゅう)・妄想・執着〕、マダ〔高慢(こうまん)・自惚れ〕、マーッツァルヤ〔嫉妬(しっと)あるいは憎しみ〕。
※8クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現
開催日:2022年3月9日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第45節、第46節「一途な信愛と心の平静を実践しなさい」、「自惚れと疑念を避けなさい」
参加者:51名
質問:
① 一点集中と平静さは、どのように好き嫌いからの脱却につながるか?
②「もし世界に不和があるように見えるのであれば、それはあなたの中にある欠点のせいなのです。もしすべてが一つの愛(プレーマ)として見えるのであれば、それもまたあなたの愛ゆえです」この原理を最大限活かすには、どうすれば良いか?
③ 疑念に苛まれるときにも、自分の実在のなかにしっかり留まるには何が必要か?
<参加者のコメント>
… ① 一点集中と平静さは、どのように好き嫌いからの脱却につながるか?
「好き嫌いの原因は、自分が世の中の方に向いて、外側の世界に惹かれると、そこに何か好きなものができてしまい、逆に嫌いなものができたりする。周囲の世界ではなく、スワミ※1に一点集中することによって一貫性が得られ、好き嫌いからの脱却につながるのではないかと思う。」
「一点集中により自分の心が穏やかなときは自我意識がほとんどなくなり、対象に集中することによって私というものを忘れるので、自我意識から出てくる好き嫌いはなくなっていくと思う。」
「つい先日、務めている鉄道会社で一日に2回人身事故があり、2回目はなかなか電車の運転が回復せず、騒々しい状況だった。列車の運転を司っている運輸指令があり、私の上司が今日の指令は下手くそだなどと文句を言い始め、その司令と運転手のやり取りが聞こえ、指令側が運転者に怒っているなど、混乱した状況におかれていた。その時に、ふと、この状況もスワミが作りだしているのだと思ってスワミに集中すると、その途端にちょうど改札口に立っている方から『すみません、定期の買い方が分からないので教えてください』と言われ、その場を離れて、そのお客さんに定期の買い方を教えた。そういう騒々しい状況においても神に集中していれば、奉仕の機会を与えていただけた。騒々しい状況でも神に一点集中することによって切り抜けられるのかなと思った。」
… ② 「もし世界に不和があるように見えるのであれば、それはあなたの中にある欠点のせいなのです。もしすべてが一つの愛(プレーマ)として見えるのであれば、それもまたあなたの愛ゆえです」この原理を最大限活かすには、どうすれば良いか?
「まず自分の欠点を見つけ、きちんとそれを把握し、それを取り除きたいと思うことが大事。全託をしていると、何もかもババがご存知で、進んで行くべき道、やるべきことなどを知らず知らずに歩ませていただけるような気がする。愛を拡大したり、愛に生きるということを本当に生活の中で実践していけるようになることだと思う。最初、東京センターに行った帰りにお弁当をいただいた。無料と知らず驚き、このお弁当をどのように作って、たくさんの人々に配っているのだろうと過程のことを考えた。やがて大阪センターでナーラーヤナ セヴァ※2に参加するようになった際、おにぎりを作って、ナーラーヤナ様(ホームレスの方々)のところに持っていって配ることをいざやってみると、幸せで、上下で考えるような気持ちがどんどん無くなり、純粋になれる気がした。セヴァを神に捧げ、集中していると自然に浄化されていくのではないかと思う。」
「自分の五感やマインドに指示を出せるほどの強い知性と意志の強さをもたなくてはならないと思う。純粋な意識を培うという準備が常に必要だと思う。そのためには理想的な生活の技法、真理、正義、平安、愛、非暴力というものに満ちた生活を日頃から心がけて守っていくということ。また暴力的な傾向や、そそのかしたりする先導的な方法を避ける知性も必要だと思う。今日のスライドの中にあったプンダリーカ※3のように、心のなかの美しさを求めるべきで、外界の華やかさを追い求めてはいけないと思う。」
… ③ 疑念に苛まれるときにも、自分の実在のなかにしっかり留まるには何が必要か?
「疑念に苛まれるということは、自分が思ってもいない意外な反応が返ってきたりすること。良いことや愛だと思って行っていたことが、この世的な偽りの愛の取り引きを経て、思ってもみなかったものが返ってきたときに、どうしてかなと思う。平静さがあるときに、純粋な愛ではなかったかもしれないと気づくことができるのかなと思った。」
<サイの学生のコメント>
… ① 一点集中と平静さは、どのように好き嫌いからの脱却につながるか?
「自分の意見では平静であるということと好き嫌いがないということは、同じこと。その一歩手前の一点集中がなぜ平静さに繋がるのかという部分について考えたい。それに関してもスワミが話してくださった。ある時ナーラダ※4がヴィシュヌ神※5に『あなたから見て偉大な帰依者とは誰か?』と聞いたときに、ヴィシュヌ神がある農夫を指さして『彼が最高の帰依者だ』とおっしゃった。それでしばらくナーラダはその農夫の様子を見ていたが、その後でヴィシュヌ神のところに戻ってきて、『見ている限りその農夫はまったくあなたの御名を唱えていない。その間、私はあなたの御名をずっと唱えていました。なぜ農夫が私より良い帰依者であると言い切れるのでしょうか?』と言った。そうするとヴィシュヌはナーラダにすべき仕事を与えた。仕事とはナーラダの頭の上に水瓶を置いて一滴も水をこぼさないで宇宙を一周歩いてくるというものだった。ナーラダはその仕事を終えてヴィシュヌのもとへ帰ってきた。その時にヴィシュヌがナーラダに『行って帰ってくるまでの間に何回御名を唱えたか?』と聞くと『今日はまったく唱えることができませんでした。なぜなら一日ずっとその水瓶に集中していたからです。』とナーラダは答えた。このことが何を示しているかというと、私たちが何かにフォーカスして集中している間は他のすべてのことを忘れてしまっているということ。もし私たちが一点集中をもって自分の人生の中で職業的なことや霊的なことなど、何か一つの側面に一点集中したのであれば、それ以外のことに気持ちが流れることを止めることができるということ。私たちが本来あるべき道筋から逸れた時にそういった好き嫌いが生じてくる。一点集中を身に着けることができれば、好きとか嫌いなど霊性から逸れることを防ぐことができる。」
「スワミは『本当の帰依者とはどういうことか?』と聞いていらっしゃる。幸せであろうと良くないとき、勝利のとき、敗北のときであろうと、同じ気持ちでいられるならば真の帰依者であるとスワミがおっしゃっている。バガヴァッドギーター※6の中でも平静でいることができる人がゴールに早く到達できると言っている。ではどうやって平静を達成するのか。一つの平静の形は、良いものだけでなく、悪いものを含めてすべてを神様に捧げることだとスワミはおっしゃっている。神様は悪いものは底の方にしまって、そこから良いものを引き出すことができる鞄のようなもの。スワミのたとえによれば、悪いものはすべて預けてしまって、代わりに良いものをいただくことができ、そうすればゴールに近づく旅ができる。でも悪い特質のすべてを神様に捧げることは可能だろうか?それをするには悪い性質とは何なのか理解し、まず、これは自分の悪い性質なのだと理解して受け入れなければならない。自分にはこういうエゴがあっても良いのだと思ってしまうと、それが悪いものであると認識して神様に預けることができなくなってしまう。では、エゴをどうやって減らすかというと行為者意識を減らすことによって。どうやって行為者意識を減らせるのだろうか?それは私たち自身が既に神の一部なのだと『ソーハム※7』と絶えず思い出していることによって。私たちは身体でもなく心でもなく、 『ソーハム』、私は神であると覚えておくための集中力が必要になる。スワミは瞑想は真実を知るための一つの方法であるとおっしゃる。瞑想は一点集中的な神への集中に他ならない。一点集中的に私は神であると集中できたならば、そのようなやり方でエゴを減らすこと、自分の行為者意識を減らすことができて、平静に繋がっていくだろうと思う。」
… ① 一点集中と平静さは、どのように好き嫌いからの脱却につながるか?
… ② 「もし世界に不和があるように見えるのであれば、それはあなたの中にある欠点のせいなのです。もしすべてが一つの愛(プレーマ)として見えるのであれば、それもまたあなたの愛ゆえです」この原理を最大限活かすには、どうすれば良いか?
「誰に対してもいかなる偏見ももつべきではない。まず霊的な求道者としては誰に対しても心を開いていること。霊性においては、私たちは自分自身の色々な言葉や行動を識別して行動しなければならない。もし偏見をもっていたなら、何も自分自身の欠点を見つけることができないし、自分自身が成長していくことができない。そして私たちは誰に対しても判断したり、他者の欠点を見つけたりしてはいけないと思う。オープンマインドというものが、他者を受け入れることにおいて役立っていくと思う。今日、一番目の質問において学んだ平静というものが、他者の中に欠点を見つけた時にも冷静でいることを助けてくれるだろうと思う。他者の中に欠点を見た時に、では自分のどこに欠点があるから、それを見つけたのかを考えることが私たちを助け、また利益のあることだと思う。そして自分自身の欠点を見つけることが霊性修行者にとって、かなり優先順位の高い動機であるべき。二つ目に、誰かが間違いを犯した場合、私たちがすでに設定したルールに誰かが違反した時には、それを受け入れるべきではないと思う。2つのシナリオのもと、単純に欠点を見るかどうかという所においてはオープンマインドであるべきで、既に設定してあるルールを破る人がいる場合には見過ごしてはいけないと思う。」
… ② 「もし世界に不和があるように見えるのであれば、それはあなたの中にある欠点のせいなのです。もしすべてが一つの愛(プレーマ)として見えるのであれば、それもまたあなたの愛ゆえです」この原理を最大限活かすには、どうすれば良いか?
「私たちは物事を異なった視点から見る。例えばラーマーヤナ※8では、ハヌマーン※9がシーター※10を探しにランカー※11に行った時に、ハヌマーンはその時非常に怒っていたため、ランカーは黄金の街だったが、それを観ても美しさを味わったりすることができなかった。どれほどランカーの街が美しかったとしても、それはどのような見方をするかにかかっている。もし美しいものであったとしても、そのことにケチをつける理由を探すことになってしまう。つまり私たちがどのように物を見るのかということ。それは日常生活からも理解することができる。もし何かに間違いがあるなら、または何か良くないことが起きたなら、一度そこを離れてみることができる。そこから学ぶことができれば私たちは成長することができる。決して世界が悪いところだと考えるべきではない。世の中にある良いものを探すべきだと思う。それが、私たちがより良い人間になれるのかどうかということだと思う。確かに世の中でたくさん良くないことが起こっているのを目にすることができるが、世界では同時に良いこともたくさん起きている。だから、良いものを見るべきで、私たち自身にインスピレーションを与えていくべきだと思う。そして悪いものを見ないように。それがどのように成長していけるかということだと思う。」
… ③ 疑念に苛まれるときにも、自分の実在のなかにしっかり留まるには何が必要か?
「何か疑念に苛まれた時どうやって幸せでいることができるのか、そういう観点から答えてみたい。人生のいかなる段階においても何かの疑いをもつことは人間としてとても自然なこと。ただ、深く考えたときにだけそのような疑念をもつことがある。たくさんの疑念をもつことは良いことではないが、疑念をとおして明らかにすることができることがある。霊性においても多くの種類の疑念をもつことがあるだろうと思う。ある時には疑念をとおして神の恩寵がもたらされることがあるが、疑念に対して多大な力を与えないようにする必要がある。また、やはり疑念は信仰によって解決することができ、私たちはまた人生において幸せになっていくことができると思う。」
<ババ様の御言葉>
「創造世界のすべてのものを、善と見なしなさい。苦しみや痛みも善です!期せずして痛みや苦しみを経験したら、「これは私にとって善いことだ、これは私にとって善いことだ」と自分に言い聞かせなさい。称賛も非難も同じように扱い、たとえ人から罵倒されても平気でいなさい。これが推奨されるヨーガであり、犠牲を払うことが推奨される道です。平静に優るヨーガはなく、犠牲に優る道はありません。これは、純粋さと神聖さを得るための最良の道です。」
2000年5月15日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_20000515pm.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ナーラーヤナ セヴァ:人の姿をとった神たちに食事を施す奉仕。
※3プンダリーカ:両親を神として献身的に仕え、訪ねてこられたパーンドゥランガ神を待たせてまで、両親に奉仕した青年。
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19870506.html
※4ナーラダ(仙):世界に信愛を広めるためにブラフマーが創った聖者。ナーラは「知識」、「ダ」は「与える者」の意。いつも神の御名と栄光を歌っていたことで知られる。ヴィーナの創作者でもあり、ヴィーナを携えて三界を自由に行き来する。
※5ヴィシュヌ神:宇宙を維持し守護する役割を担っている神。
※6バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※7ソーハム:so=神である、それである aham=私は。 私は神である。我は神なり我はそれなり。
※8ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※9ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。風の神の子で空が飛べたため、飛んで薬草をとりに行ったり、海の上を飛んでランカを偵察に行ったりと、多大な貢献をした。
※10シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※11ランカー:『ラーマーヤナ』の悪鬼ラーヴァナの王国。
OM SRI SAI RAM
スタディーサークルチームの活動報告のとりまとめ凝縮版は下記になります。
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開催日:2022年1月16日(日)
テーマ:「マカラ・サンクラーンティ※1」
参加者:37名
質問:
① エデュケア※2を追求するとはどのようなことか?
② 内なる声、良心からの声を明確に識別するにはどうすれば良いか?
<参加者のコメント>
… ① エデュケアを追求するとはどのようなことか?
「エデュケアは内なる良心の声に従うこと。その声が聴こえるように努力することだと思う。」
「エデュケーション(教育)と比較してみれば分かりやすい。エデュケーションは本の知識、外面的な知識に関わること。一方でエデュケアは内側にある霊性の知識。つまり内なる本質から湧き出すものだと思う。」
… ② 内なる声、良心からの声を明確に識別するにはどうすれば良いか?
「スワミ※3と出会った頃は、自分はの中で内なる良心の声なのか、エゴの声なのか分からないことが多々あった。その頃と比べて、段々と分かるようになってきたと思う。同じように『黄金の宇宙卵』を何年か経って再び読むと、こういうことなのかと非常に感動したことがあった。霊性修行を積重ねることによって、自分の内側は成長して、識別心というものも少しずつ得られると思う。」
「マインドが活発になると良心の声が分からなくなってしまう。マインドを静めるためには、真実の知識、すなわち、すべては一つで、生まれる前から私たちは愛で、ずっと愛によって支えられているという知識が必要。」
「人は内なる声が良心なのかエゴなのかを聞き分ける直感的な力があるという気がしている。例えば、自分のエゴの声であれば何かしら引っかかりがあるが、良心の声の場合は、その引っかかりがなく、ストンと入ってくる。理屈ではなく、直感的に分かるようになっている気がする。」
<サイの学生のコメント>
… ① エデュケアを追求するとはどのようなことか?
「エデュケアの意味は内なる声に従うこと。エデュケーションは単に書物の知識だが、否定するのではなく、むしろエデュケーションとエデュケアの両方とも必要だと思う。エデュケーションによって教育を受け、そこで得た知識を使い,学位などの証明書が成果として得られる。しかしエデュケアは人生そのものの目的と関係している。私たちが日々体験するすべてが、自分の思い、言葉、行動に基づいた反射・反映・反響であるという真理に従うならば、自分の体験に関しては他者には責任がないことになる。だから日々の行動を私たちは純粋なハートで行わなければならない。そしていつも心に留めておかなくてはならないのは常に助け、決して傷つけないということだと思う。」
「スワミが教えてくださっている5つのヒューマンバリューズ(人間的価値)がある。真理・正義・平安・愛・非暴力。これらがヒューマンバリューズと呼ばれる理由は、これらの特質がとりわけ人間においてみられるからだ。だから人間は、人間的価値を示している必要がある。エデュケアを追求することは私たちの内側にある価値を顕現すること。それを顕すためには訓練が必要。そして私たちの人生においてそれらを顕現していく必要がある。それがエデュケアを追求するという意味ではないかと思う。」
… ② 内なる声、良心からの声を明確に識別するにはどうすれば良いか?
「この世のすべての生きとし生けるものは、それぞれに内なる声をもっていると思う。そしてその声を聞くためには、安定した心が必要だと思う。スワミがおっしゃっているのは、私たちが行うすべてに、反射・反映・反響があるということだ。その反射・反映・反響により、様々な思いが再び生じる中で、本当の内なる声を見つけることは結構難しい。内なる声の中には良いもの悪いものもあり、その中で正しいものを選択できたとき、内なる声を正しく聴けたことになるだろうと思う。しかし内なる声を聞くことは本当は簡単で、安定した心の状態で神にフォーカスしていればできることだと思う。」
「内なる声の特質には2通りある。一つは人間的特質ともう一つは動物的特質だ。動物的特質からは動物の声が聞こえてくる。私たち人間は、人間的特質からの声を聞くことを目的にすべきで動物的性質と区別できるようになる必要がある。人間的特質とは、決して誰も傷つけないことや、きつい言葉を使わないことや、そして五大価値としての真理、正義、平安、愛、非暴力などに現わされるものだ。人間的特質からの声を受け取った時に、それを自分の行動の中に反映していくことができる。そして、そのような行いをした後には平安がある。すべての人は平安を求めている。そのようにして私たちの内側の声から良いものを拾い上げることができる。」
「スワミもよくおっしゃっているように、あらゆる怒りから来る行為は、私たち自身にとって非常に良くない。その一方で正義というものから来るあらゆる行為は非常に良い。それが良いものであるか悪いものであるかは、その声を得た時の私たちの心の状態に拠っている。学生時代に瞑想の授業を受けた時のこと。その時の先生がスワミから瞑想の間にどのようにしているべきかを教わってきた。その先生に学生たちが、今日の質問2と同じような質問をした。『内なる声が聞こえた時に、自分の心の中に怒りや憎しみがあれば、それは間違いなく良心の声ではない。いかなる人間の基本的な属性は人間的五大価値だ』というお話だった。私たちが内側から得るいかなる声も、この五つの人間的価値に基づいた声であるべきだということ。内側から聞こえてくる声に愛があるか、あるいは正義や非暴力があるかどうか、それが判断軸となる。そしてまた、神の声というものは、静寂の深みの中においてのみ聞こえてくるものだと言われている。そして静寂とは、外側の静寂と内側の静寂の両方を意味している。良心の声を聴こうとするときには、いつでも外側と内側の静寂を確保しておくことが大事になると思う。」
<ババ様の御言葉>
オームのアカーラ(A)とウカーラ(U)とマカーラ(M)は、「オーム タット サット」の原理、すなわち、「タットは真理」、「私は真理」、「真理は一つ」という原理を象徴しています。オームは常に存在している内なる声であり、ハートの空洞からの神の呼び声のこだまです。それに耳を傾け、それに感動しなさい。そうすることは内なる礼拝です。さまざまな礼拝のうち、外でのプージャー(儀式礼拝)は外的な象徴です。エゴが猛威を振るってはびこっているとき、どうやって心が落ち着くこと、信仰が定まることができますか? 目覚めている時、夢を見ている薄明かりの時、そして、夜に熟睡している時を通じて、ずっと光り輝いている、内なる炎の象徴、オームを黙想しなさい。こうすることによって、豊富に恩寵を得ることができます。
1970年11月22日
※1マカラ・サンクラーンティ:太陽暦の元旦。単にサンクラーンティともいう。インドの冬至。日本をはじめとする多くの国々の冬至が日の出から日の入りまでの時間が一年で一番短い日を指すのに対して、インドの冬至は日の出の時間が一年で一番遅い日を指す。太陽がマカラ(磨羯宮)にサンクラーンティ(移転)し、黄道上で南から北に移る日としてインド各地で祝われる。南インドのタミルナードゥ州、アーンドラ・プラデーシュ州ではポンガルという名の収穫祭として祝う。
※2エデュケア:ババの教育法。語源は「引き出す」という意味をもつラテン語のエデュカーレ。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
開催日:2022年1月19日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第14節、62節「真理として、愛として、神を瞑想しなさい」、「神の御名を息吹と見なしなさい」
参加者:51名
質問:
① プラフラーダ※1やドゥルヴァ※2は神の御名を繰り返し唱えるだけで神を見て、神に触れ、神と会話することができたが、なぜ神の御名を唱えることはこれらのすべてを可能にするのか?
② 神の帰依者の仲間と共にいることは、どのように私たちに識別や放棄をもたらすのか?
③「あなたが与えられたすべての強さと才能を用いて、誠実に話し、行動しなさい」という御言葉を通してスワミ※3が何を求めているか?
<参加者のコメント>
… ① プラフラーダ※1やドゥルヴァ※2は神の御名を繰り返し唱えるだけで神を見て、神に触れ、神と会話することができたが、なぜ神の御名を唱えることはこれらのすべてを可能にするのか?
「神の御名を繰り返すことの良さは、前にSis. Aがガーヤトリーマントラ※4のセッションで話してくれた。正しく唱えるとブラフマプラカーシャ※5が降りてきて、この世のものとは全然違うバイブレーションで守り、正しい道を照らしてくれる。健康にも良いことが実体験として分かる。2000年にダルシャン※6会場にババ様が一時間たっても出て来られず、みんなで待っていたが、これはもう来てくださらないという雰囲気になった。その時にガーヤトリーマントラを一時間以上唱え続けて、喉もカラカラになってしまった。ダルシャン会場の後方だったにもかかわらずスワミが来てくださって、目の前に止まって、ものすごく爽やかな笑顔で見てくださった時に、やはりガーヤトリーマントラと神の御名をババ様は聞いてくださっていたと実体験した。それ以来ガーヤトリーマントラや神の御名はいかにババと繋がっていて、ババが喜んでくださるのか体験として分かった。」
「私もインドに行った時にババの御名を唱えて、ナーマスマラナ(神の御名の憶持)をしていて、神の御名の力を実感したことがある。清らかな心で唱えなかったときにババ様が目の前にいらっしゃってきつく叱られたので、清らかな心で唱えることが大事だと思った。」
… ② 神の帰依者の仲間と共にいることは、どのように私たちに識別や放棄をもたらすのか?
「本来、霊性修行は一人で行うもだが、オーガニゼーションでは仲間がいて霊性修行がさらに進んでいくだろうと思う。“My life is my message, Our life is my message”という言葉もあるが、良き仲間の生き方、神のメッセージを生きている姿を通して、肯定的な影響が与えられる。自己を放棄したり、あるいは真実と非真実とを区別して、揺るぎないものに立脚して生きている姿を見ることができる。そのこと自体がやはり一人ではできない。一人ではできないことを、良き仲間がいることで達成でき、仲間の姿から勇気を与えられたり、識別、放棄などの価値を共有して、一緒に進んでいくことができるのではないかと感じた。」
「あなたの仲間がどういう人々であるのかによって、あなた自身がどういう人であるのかが分かるというスワミの御言葉があったと思う。悪い仲間の中に自分がいると悪く染められてしまう。周りの環境に自分が染められていってしまう影響はとても大きいと思う。一方、サットサング(善い仲間)と共にいることは、最高の仲間と神に向かって行くことになる。私もスワミを知って20年ぐらいになるが、とても一人では、多分続けてこられなかった。サットサングの中にいるからこそ続けられた。常に周りから良い情報を与えられ、自分自身が成長していける点があると思う。」
… ③ 「あなたが与えられたすべての強さと才能を用いて、誠実に話し、行動しなさい」という御言葉を通してスワミ※3が何を求めているか?
「私たち一人ひとりすべてが、神から強さと才能を与えられている。そしてすべての人の中に神様がちゃんといらっしゃって導いているので、自信と勇気をもって誠実に話し、生きていきなさいと言われているような気がする。」
「この言葉どおりで、真心というか真理に生きなさいということだと思う。誠実に話し、というところでは耳が痛い。私は悪い癖で、本当に誠実に毎回話しているかというと怪しい部分があると、この御言葉を見て反省していた。もっと真心を込めて話すようにしたいと思う。2番の質問について、2000年ごろスワミのダルシャンによく行っていた。そんなある時『皆から離れて一人でダルシャンの列に並んだ方が、スワミの近くにいけるのではないか』という思いが浮かび、日本人グループと離れて一人で並んでみた。するとダルシャン会場のすごく後ろになってしまって、日本人グループがダルシャン会場の前の方でスワミの祝福を受けている姿を私は一人で後ろから見ていたことがあった。その後スワミの御言葉おみくじを引いたら、『あなたはサイ・オーガニゼーションにいるからこそ、スワミの近くに来られるのです』という御言葉だった。それ以来、私はやはりサイ・オーガニゼーションにいることによってスワミの近くに行けるのだと本当に思うようになり、それ以来一人で並ぶことはなくなった。」
<サイの学生のコメント>
… ① プラフラーダ※1やドゥルヴァ※2は神の御名を繰り返し唱えるだけで神を見て、神に触れ、神と会話することができたが、なぜ神の御名を唱えることはこれらのすべてを可能にするのか?
「神の御名を繰り返し唱えることは、自分にとって一種のリラクゼーションのようなもの。歩いている時にもバジャン(神への讃歌)を歌ことなどが、自分に非常に多くのリラクゼーションを与えてくれている。アナンタプル※7でも多くの学生さんは時間があればノートにオーム サイ ラム※8とたくさん書き連ねたりして。時間があるとサーダナ(霊性修行)をしていた。自分がいたサミティ(サイセンター)のある年配の帰依者がリキタ ジャパム※9・ブックにオーム サイ ラムの文字をずっと書いていらっしゃった。その方は大変忙しい時でも常に、体調が悪い時でも、変わらずオーム サイ ラムをずっと書き続けていた。ある時、あまりにも具合が悪くて書くこともできず、そのまま眠りに落ちてしまった。でも、朝に目覚めるとそこに置いてあったノート全部に御名が書いてあった。その人は一人で住んでいて、どなたもそこに来ることができなかったのに、ノートにはそのように書かれていた。バガヴァン(尊神)だけがそのようなことをおできになるとその方は思った。神の御名をリキタ ジャパム・ブックに書くだけでなく瞑想の中でも唱えるとか、どのようなやり方でも神の御名を覚えておくことが重要だと思う。今日の節では、プラフラーダが御名を唱えることだけによって神を見ること、神に触れること、神と対話すること、それらのすべてを得ることができたと書かれている。もう一つの章ではサットサングがどのようにして私たちに識別力や放棄を促すかが書かれている。本当にスタディーサークルもサットサングの一例だと思う。このスタディーサークルが始まってから御教えの理解において非常に多くの進歩があり、意義深いものになっていると思う。同時に、今回の節の別の場所には、いつも誠実に真実を語るとか、私たちのすべての才能をかけて真実を語ることを実践しなさいと書かれている。バガヴァンがそのようにおっしゃる理由は、もし私たちがいつも真実に基づいて誠実であれば、いついかなる状況においても私たちは罪悪感を感じながら生きなければならないことはないだろうということ。罪悪感なしに生きていくことができるのであれば、私たちはいつもありのままの自分自身を受け入れていくことができると思う。今日はぜひそのような点をこれらの章について話し合って、理解を深めることを楽しんでいきたい。」
「日々御名を唱えることだけではなく、神様へ捧げる様々な仕事をとおしてこれらのすべてのことが得られるのではないかと思っている。そして自分の口で唱えることだけに限らずに、いつもバジャンやヴェーダ※10を聞いているとか、耳をとおしてもこういった体験が得られるのではないかと思う。最初は朝早く起きることに自分も怠惰な時があった。でも、ある段階で朝早く起きてバジャンをするようになり、聞こえてくる神の御名が自分のモチベーションを高めてくれるようになった。朝早くからバジャンをかけることから始めるようになり、その日をアクティブに過ごすことを助けてくれるようになった。今はスワミの身体が遍在の状況でいらっしゃるので、文字通りに神に触れ神と会話をすることが今はできないが、様々な体験を可能にしてくれるだろうと思う。」
「聖典に書いてあることは、カリの時代※11では神の御名を唱えることが解脱をもたらすということ。個人的には神の御名を唱えることによって本当に幸せになる。神の御名を唱えている時は、その神の御姿を思い浮かべたりする。自分が誠実に神の御名を唱えている時は、その神と共にいるように感じる。ミーラー・バーイー※12もクリシュナ※13の御名をいつも唱えていたが、ハートにクリシュナの御姿を浮かべながら唱え、唱える度にミーラー・バーイーのハートの中でクリシュナのイメージが刻み付けられていた。それはダルシャンだったのではないかと思う。そのようなやり方で神の御名を唱えることができれば、ハートにイメージが植えつけられて神と繋がることができる。神の御名を唱えれば私たちのエゴが最小化すると思う。神の御名を唱えながら何かを行うのであれば、その行為の結果を求めなくなると思う。マインドは神の御名を唱えることに忙しくなるので、その間はマインドが外の世界をうろつき歩くことがなくなる。そして心が内側を見るように訓練することができるようになると思う。神の御名を唱えることによって行為の結果を求めることがなくなれば、ダルシャンに繋がり、それがカルマ(行為の結果)を取り除いてくれる。最後の神との会話に至るという点に関しては、御名で心を清めることができるとそれによって神と会話することができるようになると思う。例えば、歩いていていろんなゴミが落ちているのを見ては、ハートの中のスワミがゴミを拾ってゴミ箱に入れなさいとおっしゃっていると思ってそのように振る舞うことができると思う。神の御名を唱えていくことは、神を達成することであったり、神の祝福を受ける資格を与えてくれるということだと思う。」
「本当に人間が進歩することの一番のカギになるのは、いかにして適応するかということだと思う。肉体的にも、精神的にもいろんな状況に対して適応しなければならない。もう一つ人間がもっている特質は、いろいろと物事を比べてしまうこと。よく私たちは自分のことを、自分に近しい他の人たちと比べて、自分の立ち位置がどのようになっているのかを見ようとしたりする。例えばプラシャーンティ・ニラヤム※14で学生がダルシャンに行く時にはいつでも、可能な限りスワミの近くに行き、一列目に座りたいと考え、他の学生たちと競争して、マンディール(礼拝堂)に一歩でも早く着こうとする。そして何かの理由でスワミからすごく遠い所に座らなければならないと、ちょっと気分を害したりする。そうすることによって、少しでもスワミの注目を引いたりしたいと思う。実はラーヴァナ※15の時代においてさえも、ランカー※16に住んでいる人々は少しでもラーヴァナの近くに行って、ラーヴァナの気を引こうとしていた。プラシャーンティ・ニラヤムに住んでいる人々は、あくまでもスワミの注目を引きたいと思っていることが唯一の違い。そして、そこにはグループとしての活動というものがあることによって、人々が様々なバジャン、ヴェーダやいろいろなグループとしてのアクティビティに従事することができるようになっている。同じように当時ランカーにいた人々もグループで様々な活動に従事することによって、それを通してラーヴァナの気を引こうとしていた。どういう人々と共にいるのかということが、ラーヴァナの場合でさえも非常に重要だった。私たちの場合にはスワミの帰依者の仲間ということになる。スワミの帰依者としての活動の中で、識別や放棄を培っていこうと思うのであれば、そういったことは自然にやってくるだろうと思う。」
「サットサング(善人との親交)とは、神を愛する人々と近しくいること。本当に神を愛する人々が近しく集まって、いろいろなことを話したり、議論したりすると、本当にすべての話題が神の周りのことになる。どういう議論をしても、幾分かの神の話題が伴う。サットサングの中にいることによって、さらに私たちは神のことを聴いたり話したりするようになり、他の人がそうしているところを見ることになる。そして自分自身のいろいろな行動を他の神を愛する人々の行動と比べるようになって、それを通して識別もできるようになっていく。そして、神に近づきたいと思っている人々にとっては、そのようなサットサングに加わることは、自分自身が変容するための大変良いチャンスとなる。そして今日のこの質問への答えは、アーディ・シャンカラ(初代シャンカラ)のバジャ ゴーヴィンダム※17の詩の中にもあると思う。2番目の質問だけではなく、1番目の質問に関しても、バジャ ゴーヴィンダムの歌詞の中にほとんどの答えが書いてある。良い仲間の中にいることによって、無執着が得られ、無執着があることによって、マーヤーという幻影から自由になることができると歌詞が続く。マーヤーから自由になることによって、それが一点集中と堅忍不抜につながる。それらがやって来るのなら、解脱がやって来るという順番になる。一度、今説明したような一つひとつの点が、どのように互いに繋がっているのかを理解することが大事だと思う。」
… ③ 「あなたが与えられたすべての強さと才能を用いて、誠実に話し、行動しなさい」という御言葉を通してスワミ※3が何を求めているか?
「自分自身に対して真実であるということをスワミは強調されたいのだと思った。誰もが知っているように、真実を話すことは勇気が必要なこともある。そのようなときにも自分に正直であるということだと思う。真実を話すことが、自分自身に対して真実であるための重要なステップだと思う。時には私たちは何が一体何が正しいことで、何が間違っていて、何が本当で、何が本当ではないのだろうと思う場面もあると思う。そういう場面で識別力を行使していかなければならないと思う。そして、もし何が正しいかを見分けることが難しいときには、ただどちらの方がスワミをハッピーにするだろうかという思いをとおして判断すること。それが、何が正しくて何が間違っているかを見分けるための一つの方法で、それに従って行動すれば良いと思う。そうして真実を見分けていくことが、私たちにとって正しいことを話すモチベーションを与えてくれると思う。」
「まず自分自身に対して正直である必要がある。自分に正直ということは思いと言葉と行動が一致しているということ。そして人々に対して良い行いをするためにすべての力を活用することだと思う。スワミはいつも善良でありなさいとおっしゃっているが、私たちはすべてのエネルギーを他者への奉仕に使っていくべきだと思う。最初はそうしようとすると色々な問題に出くわすでしょうとスワミもおっしゃっている。たとえそのような問題に直面したとしても、私たちがそこで正しい意図を持ち続けることができれば、間違いなくそれに成功すると思う。そのことが私たちをより善い人間にしてくれると思う。実際にその試みに成功したときには、それが私たちに喜びを与えてくれ、さらに良い行いをしたくなる。繰り返すと、自分自身に正直であることと、自分自身の思い・言葉・行動を一致させる自分の中の一体性が必要になる。そして、そのように歩みを進めていくと神実現に近づいていくと思う。」
<ババ様の御言葉>
あなたにも他の人々にも苦痛を与えないもの、それが正しいものであり、それがダルマです。ですから、あなたが喜びを手に入れ、他の人々も喜びを手に入れるような方法で行動しなさい。あるいは、あなたの行為に別の基準を設けなさい。マナス〔心〕とヴァーク〔発言〕とカーヤム〔体〕(思いと言葉と行動)を一致させなさい。言い換えれば、話すとおりに行動し、感じたとおりに話しなさい。あなたの内なる良心を裏切ってはなりません。嘘というマントであなたの思いを覆い隠してはなりません。あなたの内なる良心を強引に隷属させて抑圧したり、良心が認めない行動に着手したりしてはなりません。それがダルマにかなった生き方です。何度も正しいことを行っていれば、それはますます容易になり、習慣は成長して良心となります。ひとたび自らを正しい行為に定めれば、あなたは自動的に正しいことに従うようになります。あなたが何をするかは、あなたがどういう人であるかによって決まります。あなたがどういう人であるかは、あなたが何をするかによって決まります。
1962年10月5日
※1プラフラーダ:ヴィシュヌ神をナラシンハ(人獅子)として化身させた偉大な少年。さまざまな拷問にあいながら神への信仰を捨てなかった。
※2ドゥルヴァ:父親の愛を得るために一心に神を念じた少年、マヌ法典を記したマヌの長男ウッターナパーダ王の息子。ババの御講話によると、ウッターナパーダにはスニーティとスルチという二人の妻があり、スニーティはドゥルヴァを産み、スルチはその半年後にウッタマを産んだ。王は若いスルチを寵愛し、スニーティをおろそかにしていた。ドゥルヴァが五歳のとき、ウッタマと同じように父である王のひざの上に座ろうとしたところ、王のひざに乗れるのはスルチから生まれた息子だけであるとスルチにののしられた。その後、ドゥルヴァは母スニーティの助言に従って、神の恩寵を得るために森に入り、聖者ナーラダに授けられた「オーム ナモー バガヴァテー ヴァースデーヴァーヤ」というマントラをひたすら唱え続け、ナーラーヤナ神の姿を念じた。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※4ガーヤトリーマントラ:太陽神に捧げられる讃歌。https://veda.sathyasai.or.jp/gayatri
※5ブラフマプラカーシャ:ブラフマの光輝
※6ダルシャン:聖者や神を拝見すること。
※7アナンタプル:サイ大学の女子大のあるアナンタプル県の町。アナントプル。
※8オーム シュリー サイ ラム:サイ ババの信者が改まった席での挨拶などとして使う文言。オームは原初の音なる聖音、シュリーは男性につける敬称、サイはサイ ババのサイ、ラムはラーマ神の意。(この文ではシュリーが省略されている。)
※9リキタ ジャパ:書くことによるジャパ。霊性修行の一つで、繰り返し神の御名を書くこと。修行者の心と神の心を一つにするための行。ジャパム(テルグ語)
※10ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※11カリの時代(カリユガ):法の力が4分の3失われた闘争の時代
※12ミーラー・バーイー:ミーラ・バーイ ミラ・バイ1547-1614あるいは1498-1563 メワール王国の都チットール(ウダイプルに遷都される前の都)のマハーラナ(藩主)の妃で、クリシュナ神の偉大な帰依者。王家を出てからは吟遊詩人となり神への歌を歌って徘徊した。
※13クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※14プラシャーンティ・ニラヤム:プッタパルティにあるサイ ババの住まいとアシュラムの総称、至高の平安の館の意。
※15ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※16ランカー:『ラーマーヤナ』の悪鬼ラーヴァナの王国。
※17バジャ ゴーヴィンダム:アーディ・シャンカラがサンスクリット語で著した神への讃歌。優れた不二一元論の網要とされる。
開催日:2022年2月3日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第13節、22節「真理と識別心という道によって神に到達しなさい」、「永遠の真理という知識を追い求めなさい」
参加者:39名
質問:
① 真の知識(ヴィッディヤー)をどのように絶えず覚えていることができるのか、どのように神へ至る規律ある生活を送ることができるのか?
② 今日の人々が霊性教育を学ぶことを恥ずかしく思う原因はどこにあるのか?予見者たちが示した堂々とした姿勢はどのようにして得られるのか?
<参加者のコメント>
… ① 真の知識(ヴィッディヤー)をどのように絶えず覚えていることができるのか、どのように神へ至る規律ある生活を送ることができるのか?
「世俗の知識は実生活で役立ったり、知らないと恥をかいたりもするので常に意識している状態。一方で霊性の知識こそは大切なものだが、目に見えないのでどうしても意識の外に置かれてしまうのではないか。例えばスタディーサークルでもヴェーダ※1でもあえて努力をして、意識することによって内面の幸せを感じる。そういう内面の幸せを求めることによって内面の知識を覚えていることができるのではないかと思う。」
「1年ぐらい前からテレビを見なくなり、その結果すごく平安を感じられる様になった。そしてコロナ禍でスワミの御教えの朗読会が始まった。しかし私は朗読が下手なので、練習するのに録音を取っている。スワミ※2のヴァーヒニ シリーズ※3を夜眠れない時に聞くようにした。その時にすごくスワミの御講話が頭に入って『そうだな』と思いながら眠る。このような方法も良いと思う。」
「私の場合、スタディーサークルに参加すると、必ず何かの新しい規律や新たに気付きが必ずある。しかもそれがその時の自分にとって適切なものであることが多い。それは神が提供してくださったものなのだと思う。つまり、サットサング※4で神からのインスピレーションを受けながら、新たな規律に自分で気付いて、それに沿って日々を送ることが一番大切ではないかと思う。」
… ② 今日の人々が霊性教育を学ぶことを恥ずかしく思う原因はどこにあるのか?予見者たちが示した堂々とした姿勢はどのようにして得られるのか?
「霊性修行をすると自分の内面に目が向くようになる。私もそうだが人に対してこうやったらいいと目が外に向いてしまい、親の立場だと上からものを見てしまう。しかし霊性修行は自分のことを見るので、いざやると自分はこうだったので、悪かった、ごめんなさいと恥ずかしく感じる。予見者たちというのは自分に非がないので、自分を見ても恥ずかしいところがないので堂々としていられるのかなと思った。」
「私の近しい人は私がサイ・ババを尊敬していることを100%知っている。彼らと話しているとき、サイ・ババのことを話した方がスムーズに話が流れるときにはそのようにしている。恥ずかしいというのは、スワミの御教えを学んでいるのに、自分ができていないものを言葉だけを言うと、結局スワミの価値を下げてしまう気がする。」
<サイの学生のコメント>
… ① 真の知識(ヴィッディヤー)をどのように絶えず覚えていることができるのか、どのように神へ至る規律ある生活を送ることができるのか?
「もし私たちが霊的な活動を行った後で得られるインセンティブがはっきりと分からないなら、スワミが語っていることしっかり読むことだと思う。スワミは『何も疑問を抱いてはいけません』、『何もインセンティブを求めてはいけません』、『少なくとも一つの指示にしっかりと従ってトライしてください』とはっきりとおっしゃっている。数えきれないほど何百万回失敗しても決して諦めないでトライしてくださいと。霊的な活動のインセンティブはそれを実践する人が得ることができる。(中略)霊的な教育の効果は体験することによって得られるもので、他の人がそれを見て得られるかといえば“NO”だと思う。皆が自分自身を評価して、どれぐらいの時間を霊性修行に費して献身しているのかを評価すれば、霊的な教育へのコミットメントが増えていくだろうと思う」
「本当のヴィッディヤーは何なのか自分の考えを少し述べたい。この世界では、大抵興味をもっていることを得るのには、多くの努力を必要としない。しかし、ヴィッディヤーを得るには単に興味をもって行うより、もう少し違うことをしなければならない。それには霊性修行をしなければならない。本当のヴィッディヤーとは、神を知って融合していくこと。神の方に向かい、神になることに対して努力を注がなくてはならない。世俗的な努力とは違う種類の努力になる。それは瞑想やバジャン(神への讃歌)、誰かを助けることや奉仕など。真の知識を得るためには継続的に自己研鑽しなくてはならない。そうして初めて本当のヴィッディヤーが自然に意識の中に植えつけられると思う。この世の知識を得ることと違い、真の知識を得るためには特別な努力の必要が生じてくる。」
「スワミがおっしゃっているのは、食物はすべての感覚と関係していており、さらには見るもの、聴くもの、感覚器から取り入れるものもまた、食物といえるということ。私たちが霊的成長のための活動に取り組んだとしとも、そこかから100%の利益を得られないのだとしたら、それは私たちの感覚器の誤用に原因がある場合が考えられる。だからまず感覚から取り入れているものを、すべて清めていく必要がある。(中略)皆一人ひとり生活環境が違うので、必ずしもすべての霊的な活動に関わることができるわけではないと思う。ある帰依者の方はバジャンが非常に上手で、それを通して神と繋がれる人であったりするかもしれない。ある人は瞑想をとおしてだったり、あるいはナーマスマラナ(神の御名の憶持)をとおしてという人がいると思う。自分の場合は例えばナーマスマラナをしているが、自分のバックグラウンドとして何故ナーマスマラナをしているのかということを明らかにして、理解する必要がある。本当に一度やることを決めて、それを続けていったなら、自分が選んだ活動を続けていくことによって、より良い習慣を培うことに繋がり、成果に繋がっていくと思う。それが神を達成するために取るべき方法ではないかと思う。」
「人生の中で何を達成するにも規律がとても大事。ライフスタイルは習慣によって決まるとスワミはおっしゃっているが、そこで大事なことは、どのように良い習慣を培って、どのように悪い習慣を止めるかということ。心理学が教えていることは、どんなことであれ21日間続けたら習慣になるといわれている。新たな習慣を身に着けるには、小さな小さなステップから始めていくことが実践的には大事。私たちはどんな言語も一日で喋れるようになることはない。最初はアルファベットから学ぶ必要がある。それと同じように意識的な努力を毎日することが大事。毎日の努力の継続により、それが習慣に変わっていくと思う。そして、そのようにして得られた良い習慣が、良い方向へと繋がっていく。この様な背景のもと、スワミはヴィヴェーカ(識別)が非常に重要とおっしゃっている。自分の習慣について、これは良い習慣か、悪い習慣なのだろうかと自分自身に問いなさいということ。また同様に、良い方向へ向かっているか、何が悪い方向性なのだろうか問うことも大切。良い方向というのは、スワミの方へ連れて行ってくれる方向。当然、その方向性は私たちに幸せを与えてくれる。それは一時的な幸せではなく、最終的な目的地へと繋がっていく、永続的な意味での幸せ。もし私たちの努力が正しい方向であることを識別をとおして分かったのなら、その努力を規則正しいものにしていくことができる。そして、努力が規則正しいものとなれば、それが習慣になる。それが習慣になれば、それは規律に変わる。それを実践して初めて、これが良いとか悪いとか、体験して理解し、それが実際に自分をどこに連れていってくれるものなのかが分かる。そういった理解が私たちがさらなる良い習慣を手にすることに繋がっていく。」
… ② 今日の人々が霊性教育を学ぶことを恥ずかしく思う原因はどこにあるのか?予見者たちが示した堂々とした姿勢はどのようにして得られるのか?
「霊性という言葉の意味や情報が、世の中に間違って伝わっていたり誤解があると思う。例えば霊的なことに関して、神様の超常現象を信じますか?などと問われたりする。霊的なことを信じない人々は、目に見えないものに対してなぜ従っていくのだろうと思ったりする。同じような誤解として、神様を信じる理由は自分に自信がないから、神様を信じて頼ったりするのだろうと考える人々がいる。しかし現実には、霊的求道者と呼ばれている人々は、霊的でないどんな人よりも自信にあふれている。一番初めに大事なことは、霊的な求道者たち自身が、霊的であるとはどういうことかという知識をしっかり得ることだと思う。霊的求道者が気づいて理解しなければならないことは、本当の霊性とは自分自身のことをより良く理解するということ。神を信じない人から見ると求道者たちは皆、神を探しているように見えるが、実際には求道者たちは神を探しているのではなくて、どこにでも神を体験している。一度その違いを真に理解したのなら、自ずと態度も大胆なものになっていくだろうと思う。それは自然にそうなると思う。また、科学的に言っても、霊性を理解する人々の方が、理解しない人々よりも幸せであるという事実がある。だから何か問題がやってきたとしてもそれによって落ち込んだりするのはなく、それもまた神からのギフトであると考えて楽しむことができるようになる。真の霊性求道者としての立場を理解したのなら、何も恥ずかしがることはなくなると思う。」
「(世の中において霊的なことを)なぜ恥ずかしく思うかというと、霊性が一番大事なものだと思っていないのでそう思うのだと思う。同時に霊性というのは実践するのが大変なもので、大変な規律を必要とするかのように理解されている。実際に霊性を理解したり体験しようとするのであれば、何もそのような複雑なものではない。霊性の唯一の目的は私たちがもともともっているような内なる善良さを目覚めさせるものにすぎない。霊性というものはまったく複雑なものではなく、日常生活の中でシンプルに実践していけるものだと考えるのであれば、より堂々とした姿勢でそうしていくことが可能になると思う。」
<ババ様の御言葉>
現代人は、世の中のさまざまな側面を研究したり調査したりしています。しかし、神性は研究や調査では体験できません。あなたの好む神の御姿を一つ選び、その御姿を憶念しなさい。その神の御姿に心を集中させる時、あなたの心は完全な変容を遂げて神性と一つになります。今、人の心は一瞬ごとに迷い続けています。揺れ動く心に頼ってはなりません。そうする代わりに、しっかりと安定している不変なる神性を信頼しなさい。ひとたびあなたが自分の選んだ神の一つの御姿に心を向けたなら、決してそれを変えてはなりません。目を閉じて、その御姿を憶念しなさい。そうして初めて、あなたは神性を体験できるのです。
2004年11月22日
※1ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ヴァーヒニ シリーズ:インド発行の月刊誌、サナータナ サーラティ誌にテルグ語と英訳で連載されたサティヤ サイババの著作。
※4サットサング:善人との親交、神との親交、善い仲間と共に過ごすこと、善い仲間に加わること。
OM SRI SAI RAM
スタディーサークルチームの活動報告のとりまとめ凝縮版は下記になります。
全文版はダウンロードボタン(pdfボタン)からご確認ください。
開催日:2022年1月6日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第70節「神の化身を求めて祈りなさい」
参加者:46名
質問:
① 神はいつアヴァター(神の化身)が降臨すべきかをご存じだが、なぜ神の降臨を求めて祈る必要があるのか?
② 神の降臨と、内在の神への気づきのいずれを願い求めるべきか?
③ アヴァターが降臨した場合、どのように判別できるのか?
<参加者のコメント>
… ① 神はいつアヴァター(神の化身)が降臨すべきかをご存じだが、なぜ神の降臨を求めて祈る必要があるのか?
「自分の心の中に神聖な愛、真理、神様の性質が顕れるように祈ることが、神様の降臨を求めて祈ることに繋がるのかなと思った。」
… ②神の降臨と、内在の神への気づきのいずれを願い求めるべきか?
「私たちも神の子だが、光の大きさは神の化身そのものとは違うものがある。肉体を持った神様の御姿を拝見して、お手本にすることで、私たちも全世界も力をいただける。この世はゲームでありドラマであると思うが、素晴らしいお芝居ができる。」
「Bro. Rのお話の中で、神の降臨というのは肉体を持った神が地上に降臨する場合と、自分の内在の神としての降臨と2種類あるというお話があった。肉体を持った神が地上に降臨するためには、英知のある人々が願い求めて初めて神の降臨につながるのではないかと、いろいろなお話の中からそう感じた。内在の神への気づきは、自分たちで本当に求めることができる身近なもの。でも本質的にはやはり両方とも同じなのではないかと思う。」
「内在の神は自分自身のことだが、神の降臨となると本当に宇宙や世界のすべてのものに対して恩寵が注がれると思う。」
… ③アヴァターが降臨した場合、どのように判別できるのか?
「一番自分がスワミ※1に会ってびっくりしたのは、同じ時間に別々の場所に出現されていたという話があったことと、宝石のような美しいスワミの御教え、犠牲の精神、スワミの示された無私の生き方がまったく次元が違うということに感動した。普遍性があり、分け隔てない。」
「私が、スワミを神の化身だと思った理由は、無条件で自分の心を変容させてくれた、無条件で引き付けられたということだ。例えばお坊さんの良い話を聞いて理論を理解して素晴らしいと思うようなこととは全然違う、まったく頭で考えることがなく、自分で判断することもなく、無条件で引き付けられて自分の心が変容してしまった。このことが一番驚きで、これは本物だなと思い、そこが一番だなと思った。」
<サイの学生のコメント>
… ① 神はいつアヴァター(神の化身)が降臨すべきかをご存じだが、なぜ神の降臨を求めて祈る必要があるのか?
「スワミは非常に明確におっしゃっている。私たちが親切心とか同情心を十分に培うまでは、ずっと祈り続けなければならない。祈りには単にお願いするだけではなく様々なものがある。例えば赤ん坊がお腹が空いたらミルクを求めて泣くのは、それが子供の祈りだから。もちろん赤ん坊が単に泣くだけでは普通に定義されるところの祈りとは違うが、実際には同じ。そして私たちも神様を必要とするとき、何か自分の願望があるときにお願いする。赤ん坊にとっては泣くこと、私たちにとっては祈ること。それは私たちにとってのご利益になる。霊性修行者は永遠の幸福を求めて祈る。すべての語る言葉や行動は祈りが表現されたものであり、そして神との一体性に到達する時に祈りは叶えられたということ。私たちは自分自身を単なる人間だと思うことをやめて、内在する神性を悟るなら、それがまさにアヴァターではないのかと思う。もし私たちが身体でもなく心でもなく宇宙に存在する神聖なエネルギーそのものであると悟ったときには自分自身がアヴァターになるのだと理解すべき。サンジェイ マハリンガム先生がスワミに面白い質問をされた。『スワミは人間の姿で来られたならば、あなたも祈るのでしょうか?』と質問された。『なぜ祈らないことがあるでしょうか?もちろん私は祈ります』とスワミはおっしゃった。『私はあなたと一体何か違うのでしょうか?何も違いません』と本当に何も違わないことを強調されました。『至高のエネルギーが人間の姿を取り、マーヤー(まぼろし)の影響をまったく受けずに振る舞います。それが、私が幼い時からバジャン(神への讃歌)を始め、バジャングループを作り、ヴェーダ※2を始め、マーナサ・バジャレー※3を歌い始めた理由です』。スワミの一連の行動が、祈りは私たちにとって欠くことのできないものであるという証拠を見せてくださっている。例えば『神を信じない人は祈るのでしょうか?』という質問がある。『神を信じない人でも祈るのです』とスワミはおっしゃる。神の存在を否定するのも一つの祈りの形態。神を信じていようといまいと、すべての人が祈っている。」
「全能で遍在である神は創造物のすべてを強く愛してくださっている。そして神と繋がるためには祈る必要がある。神への祈りの中にいることが非常に恩寵深いことだと思う。なぜ神に祈るのか?それは神だけが唯一の拠りどころだから。神様が私たちをいかなる状況にあっても面倒を見てくださっている。また、祈りはどのように神にたどり着けるのかという原理・原則を教えてくれるものでもある。私たちが誠実に祈りを行うときに、必ず神様はその祈りに応えてくださる。私たちは祈り、神を覚えていることで繋がり続けている必要がある。」
… ② 神の降臨と、内在の神への気づきのいずれを願い求めるべきか?
「神がアヴァターとして降臨される目的は、人間の内なる神性に気づかせること。これまでいろんなアヴァターが降臨されたが、ラーマ※4、クリシュナ神※5、シルディ サイ※6、サティヤ サイは、御教えをとおして人間の内側に神性があるということを教えて体験させてくださった。質問について自分の意見では、外側の神の降臨が、私たちの内側の神への気づきを促進してくれる。つまり神の降臨、内在の神への気づき、この2つが違うことだとは思わない。まず一つ小さな例をあげたい。南インドにラマナ・マハルシと呼ばれる聖者がいる。普通の一般的な家庭に生まれたが、非常に強力な霊性修行を行った。後には多くの人々が彼のことを神ご自身として呼ぶようにまでなった。なぜ彼が神ご自身であると多くの人が考えているかというと、強力な修行によって神を理解するに至ったから。多くのヒンドゥー教の聖典には神を理解したものは神になると書かれている。普通の人間として生まれても、様々なアヴァターの御教えを取り入れて大変な修行して、それをとおして成長することによって、神と同じレベルに至ることが可能であることを示してくれた。このことから神の降臨と内在の神の気づきは、二つの違ったことではないと理解している。」
… ③ アヴァターが降臨した場合、どのように判別できるのか?
「アヴァターが来られたということは、彼が方向を示す星(北極星のように)であること。すべての人がその方向に向かって辿りつくことを教えてくれる、そして人間に変容をもたらし、導く星のようなものだと思う。ハートの中に神が降臨することは、単に外側に神が降臨する以上に大事なこと。たとえ神様がアヴァターとして降臨しても、もし私たちが彼と同じ道を辿ろうとしなかったり、真剣にとらえようとしなかったり、彼を愛そうとしなかったり、変容しようとしなければ、どんな神様が来ても、それは無駄になってしまう。
バガヴァットギーター※7の最終章に、あるシローカ(詩節)※8がある。ビーシュマ※9が矢に倒れて、死の床に伏しているときに関するもの。そのときにクリシュナがダルマラージャ※10にビーシュマの所に行って彼からダルマ(正しい行い・正義)のことについて学んでくるようにと命じた。真のダルマが地上に確立された時には、本当に皆がダルマを守り、その時には地上には統治者が必要なくなり、王とか大統領はいなくてもよくなるという話があった。神のような守護者も必要なくなる。なぜなら私たちがお互いを守るようになるから。そのときに人々の間にある関係は、ただ愛であるということ。世の中がそのような理想的なダルマ的な状態を達成するまでは、私たちの中にこのような祈りが内側で常に必要になってくる。」
「この質問に関して帰依者がスワミに同じ質問をしてきた。『どのようにプレーマ サイ※11を認識できるか』という質問。するとスワミは、『それなら私の人生は無駄だったのでしょうか?』とおっしゃった。この時代にはスワミが来られて私たちにいろいろなことを体験させてくれた。しかし、次のアヴァターの話をするとフォーカスがスワミではなくなってしまうのではないか。スワミの御教えを実践すればそれで十分ではないか、これはパート1、パート2、と続いていく映画のようなものではない。次のアヴァターに関する記述は、今のサティヤ サイの時代ではなく、さらに先の時代を生きる人のためにおっしゃっていると思う。時が変わり、社会も移ろいでいく中で、必要なアヴァターや御教えはまた異なったものになっていく。今この時代で目の前に何が必要であるかということが、私たちがフォーカスしなければいけないポイントだと思う。アヴァターの降臨の目的には内なる気づきを促進するということがあるが、本当に私たちが神の降臨によって内なる神への気づきを得たのであれば、どうして次の神の降臨が必要だろうか?内在の神への気づきが得られたのであれば、それがすでにゴールではないか。神様と一緒に内なる神を見て、それと一体化した時にはさらに次の外側のアヴァターの降臨を探し求める必要はなくなると思う。」
「クリシュナ神がバガヴァッドギーターで『ダルマが衰えた時には私はいつでもやってくる』とおっしゃっている。アヴァターの降臨について二つの解釈がある。一つは肉体をまとって来てくださるのか、もう一つは私たちのハートの中に来てくださるのか。サンスクリット語でのバガヴァッドギーターの言葉の解釈では両方が可能である。肉体の姿をまとってくださるアヴァターも、あるいはハートの中に祀られるアヴァターも両方とも私たちのダルマを取り戻す上でどちらも重要。『全知全能の神は、いつ私たちのところにやってきて祝福を与えるべきなのか完全にご存じなので、どうして私たちは祈る必要があるのだろうか?』という疑問が示される。その答えが非常に大事ではないのかと思う。この章を読んでいるときに、ラーマーヤナ(古代インドの叙事詩)※12で読んだことを思い出した。ダシャラタ王※13には長い間子供がいなかったので、神様に子供をくださるように祝福を祈った。多くの賢者やリシ(聖者)が出席して、ヤグニャ(供犠)を行った。その中のリシが神様に話しかける機会を得て、その儀式の中で神様がアヴァターとして来てくださるようにお願いした。そのリシは悟った魂だったが、悟ったステージにいるリシにとってさえも神ご自身が化身されることがとてもとても大事だった。この章を読んでいくことがこの点についてより深く考えていくことを助けてくれると思う。」