SRI SATHYA SAI RAM NEWS

スタディーサークル
活動報告
開催日:2022年6月12日(日)
テーマ:ルチル・デサイ先生(サティヤ・サイ大学)の一周忌にあたって、同先生の故郷のムンバイのアシュラム※1(ダルマクシェートラ※2)で行われたご講演を聞いていただきました。
参加者:29名
質問:
① 本エピソードでスワミ※3が示されたユーモアにはどんな意味があるのか?
② スワミを祭壇に祀られた方としてではなく、最も身近な友人とするためにはどのような取り組みが必要か?
<参加者のコメント>
① 本エピソードでスワミ※3が示されたユーモアにはどんな意味があるのか?
「『アニャーター・シャラナム・ナスティ―あなただけが私の救い主です』の本を読んで、スワミがいたずらだったエピソードが書かれているのを読むと、スワミに親しみを感じたり、時にはいたずらなのにひどいことをするなあと思ったりした。神のリーラー(奇跡的な御業)はそれによって幸せにしてくれる部分があると思う。」
「ルチル先生の動画を見て、先生は本当に信仰心の塊でいらっしゃり、強く強く神を求めていらっしゃるその眼差しが印象深い。スワミは戯れたいと思われてルチル先生と戯れたのではないか。アナンタプル※4校の卒業生のSis. Sのお話でも、『スワミは本当に戯れたいんですよね』とおっしゃっていた。神聖な魂たちがスワミの周りに集まってきていて、選ばれたその人たちをスワミが楽しみながら教えられる。その人自身の鏡を見るように、スワミはその人の反射反映であるように、楽しみながらも傷つけることはなく、悪ふざけのように見える部分があっても教えられ、気づかされる。以前のスタディーサークルでも、 たくさん話しすぎている世話人の口に甘いキャンディを入れられたというエピソードがあった。愛された魂とのやり取りによって私も教えられるところがあると思う。」
「お話を聞きながら、(スワミのいたずらが)少しそれはひどいと思ったが、多分ルチル先生はすごくまじめだった。スワミからするとかわいい生徒で、皆に紹介したい気持ちがあったと思う。ルチル先生にはもう少し力を抜いてリラックスすることを教えながら、周りの人にもあまり優等生だと煙たがれることがあるかもしれないけれども、彼はこんなに純粋な青年なのだとお披露目したと思う。また、テルグ語も勉強した方がいいよということを、ユーモアを交えながら教え、他の学生たちとルチル先生が友人になれるように仕向けたような気がする。」
「私は本当に何回もいたずらな奇跡を何回も味合わせていただいた。何と身近な神様なのだろうと感じてきた。例えば、東京センターで3人ぐらいでスワミの若い時の写真を見て話をしていた。ある方が『スワミの髪の毛すごいね。もうグジャグジャしていてすごいね』と言い、『スワミは髪の毛を切ったことがあるのかしらね、切ったことないのでは、いや誰かが切っているのではないか』という話をしていた。すると、ある方がスワミの御講話のコピーを配り、それを見たら、『私は髪の毛は一回も切ったことがありません』とその御講話の中にあったので、皆ですごく笑ってしまった。そういう、いたずらっぽい奇跡を何回も何回も今まで体験してきたので、身近な神様だといつも感じていた。」
② スワミを祭壇に祀られた方としてではなく、最も身近な友人とするためにはどのような取り組みが必要か?
「本当にスワミはいたずらっぽい。何か自分の行いが良いときには、『ああスワミ助けられた、本当にありがとうスワミ』と思う。自分が間違いがあった時には、『してやられた、スワミにやられてしまった』と思うが、本当にいたずらで、チャーミングな感じで反応してくださる。例えば私がメロンが食べたいと思ったら、メロンがぱっと出てきたりする。私はスワミがスイカがお好きなので、スイカを今日も祭壇に捧げたが、心に思ったことをスワミがちゃんと分かってくださっていて、良いものであればすぐに与えてくださる。私もスワミのお好きなものを本当に捧げたいと思う。」
「今日、お話を聞いて、私もちょっと力を抜いて、もっとスワミにからかってもらえるようになれたら良いなと思った。以前、スワミの御姿を知って信仰し始めた頃、よく夢の中でスワミがサーカスをして、芸をしてくれる夢を何回か見たことがあったが、もしかしたら、もうちょっと楽しく生きなさいと教えてくれてたのかな、と思う。もっと心の中で、悠然として、もっと楽しく、身近な親友になれるようにスワミに話しかけていきたいと思った。」
<際の学生のコメント>
① 本エピソードでスワミ※3が示されたユーモアにはどんな意味があるのか?
「ユーモアは楽しみのために人間に与えられたもので、合理的な考えがなければ生まれてこないと思う。そしてスワミは人間の姿をとられた神様で、皆さんにもそのようなユーモアの一部になり、そこにいる皆さんに神様と共にいることを心地よく思ってほしかったのだと思う。スワミはすべてのことをシリアスに捉えすぎないようにと、そして人々と神との間にそれほど壁がないようにと意識されて、こんなことをされたのではないかと思う。またスワミは喜びや笑いを伴った体験を神と共有し、こういったことを通して周囲の人に神とつながったことを感じてほしかったのではないか。ルチル先生にもスワミを友人であると感じてほしかったのだと思う。スワミはこういった振る舞いを通していつも私たちの側にいて、私たちに親密な方であると感じさせたかったのだと思う。」
「まずはこのような体験をスワミが与えた一つの理由は、やはりルチル先生が本当に一生忘れないような、心に残る体験を与えることだっただろうと思う。すごく親しい人には、親しく話すように、スワミはルチル先生に親しさを感じてほしかったのではないか。スワミがルチル先生にきっと伝えたかったのは、人間だけが神様と親しくなりたいと思っているのではなく、神様のほうもこのように人と親しくありたいのだと教えたかったのではないか?」
「スワミと親友になるためには、親しい友人になるためには、神と一緒に良い時間を過ごす必要があると思う。また、ハートから神に話しかけることだと思う。そしてスワミが言っていることにしっかりと耳を傾けて、またそれにスワミがどのように反応してくださるのかということにちゃんと注意を払うことだと思う。どのようにスワミが反応してくださるのかということにしっかり注目した上で、それに基づいていろいろなことを修正して行くことだと思う。そして、やはり純粋性を高めること、いつも至福に満ちて話すこと、それが私たちをより神に親しくさせてくれると思う。そのようにすると私たちの愛が増していくと思うが、その時だけではなくて、コンスタントにそうしていくことがとても大事。そうすれば愛がより揺るぎないものになっていくと思う。そして、それがどのように神に親しくなるかということだと思うし、そういった努力を続けていくのであれば、決して神様が私たちを手放して、どこかに行かせるということはないと思う。」
「友情に関しては、どのようにスワミを受け取るかが、とても大きな違いを生むところになってくると思う。アナンタプル校時代の友人の中には、本当にスワミを普通の友人と同じようにして、友人として捉えている友人がいた。友人の一人は、とにかくスワミに毎日手紙を書いて、その日の一日がどうだったかということを、毎日毎日手紙にしたためて書いていた。別な友人は、スワミは私たちの内側に居ると固く信じていた。その友人にとっては、ただ本当に静かに座っていることが、友人であるスワミへのアプローチだった。それは両方とも神と友情を築くための二つの異なった方法だと思う。どちらのタイプの友情であったとしても、そのように築いた友情は、真実の友情であり、また長く持続するものだろうと思う。実際に神と友情を築くというコンセプトはとても美しいと思う。自分がバールヴィカス(子どもの開花教室)の生徒の頃、その時のグル(霊性の師)の方が、いつも『神様と友人になりなさい、友人になりなさい!』と言ってくださっていたことが自分に大変印象に残って、今でもいろいろなことが起こると、やはりまずスワミにシェアして、『スワミ、今こんなことが起こっているんですよ』とスワミに話しかけている。」
ババ様の御⾔葉
神があなたの唯一の真の友です。神以外の友だちは皆、あなたが財産を持っている間はあなたにくっついていますが、あなたが一切を失ってしまうやいなや、立ち去って行くでしょう。神のみが、いかなる時にもあなたと共にいる唯一の友です。神はつねにあなたと共にあり、あなたの内にあり、あなたのそばにいます。ですから、豊かに栄えるための唯一の方法は、神との友情を育てることです。
1994年1月1日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19940101.html
※1アシュラム:修行場、道場、隠遁所、行者の住処、隠遁者や引退した聖者の独居所。スワミのダルシャンを授かり、修行するための居住施設。
※2「ダルマクシェートラ」はマハーラーシュトラ州のSSOの本部およびスワミの住居のある建物の名称。ボンベイの北にある。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
開催日:2022年6月2日(木)
テーマ:ダルマヴァーヒニー『生きる道』7~10ページ
参加者:38名
質問:
① ダルマとは具体的にはどのような振る舞いか?
② 無分別をどのように取り除くことができるのか?(9ページ)
③『その高さに等しい梯子(はしご)』をどのように得るのか? (10ページ)
<参加者のコメント>
① ダルマとは具体的にはどのような振る舞いか?
「愛から出た言葉は真実で、愛に満ちた心の思いは平安で、愛に満ちた心で行う行為が正義であるというスワミ※1の御教えがある。したがって義務感からではなく、愛の思いから行うのがダルマの振る舞いだと思う。」
「ワカチンナカタ(小話)で、金品を差し出された時に僧侶は受け取ってはいけないが、踊り子は受け取って良いという例があった。つまりダルマとは生まれてきた役割、自分の役割に徹していくことだと思った。」
② 無分別をどのように取り除くことができるのか?(9ページ)
「感覚のコントロールの仕方が間違っていると思った時点で、ストップできる力も必要だ。そのために『良心の声』を聴くことのできる識別力も大切だと思う。また、今の時代(カリユガ※2の時代)には神の御名を唱えることが一番有効であると、スワミがおっしゃっているので、御名を唱えることが一番良いのかなと思う。」
「無分別を取り去るには識別することだと思った。行おうとしている行為の目的や、それによって誰が喜んで、誰が得をするのかと考えつつ、行為をスワミに捧げて全託していくことは大切。一方、悪徳だったら、気付いた時にはなおさらスワミに捧げるようにしていく。それで少しずつ良い行為だけが残っていき、自分の思っているダルマができるようになっていくと思う。」
③『その高さに等しい梯子(はしご)』をどのように得るのか? (10ページ)
「真理に立脚したカルマ(行為)とダルマを固く守っていくことが、この梯子になる、ということだと思った。また、より高い境地に達した人の力を借りることによって登っていくことができるという意味とも思った。これを現代にあてはめた場合、サットサング(善い仲間に加わること)の力を借りるという意味だと思った。」
「前の方が言われたように、このスタディーサークルで本当にたくさんのことを教えていただいて、やはりサットサングの力はすごいものだと思う。それと、自分の気づきで欠点を一つずつなくしていく努力、スワミの御教えを一つずつ守っていくこと、スワミの本などを読んで正しい知識を入れていくことも梯子になっていく気がする。」
<サイの学生のコメント>
① ダルマとは具体的にはどのような振る舞いか?
「ダルマは神を意味し、ダルマを行うことは愛するスワミへの入り口になると思う。良い振る舞いとしてのダルマは時とともに変化するものではない。私たちの振る舞いは慈愛に満ちたものである必要があり、正直で真実なものがダルマだと思う。そして他者を助けるものであり、何をもひけらかしたりせず、誰をもがっかりさせたりしないことだと思う。いろいろな状況に対して反応しないで、平静を保つこともダルマ。振る舞いにおいてダルマができれば、非常に平安な人間になれると思う。」
「自分の責任を果たす振る舞いがダルマだと思う。例えば親としての義務だとか、子供が親に仕えること、職業的な義務、そういった振る舞いのこと。それに加えて、他者を傷つけず自分の良心に従うこと。また人生の真実のために人生を理解することもダルマだと思う。ダルマに従っているのかどうか、自己判断するためには、自分が良心に従っているか、あるいはそれに背いて自分をだましているのかを見ていくことだ。」
② 無分別をどのように取り除くことができるのか?(9ページ)
「無分別さ、ブラインドネスというのは私たち自身のエゴのことではないかと思う。私たちの中のいろいろなネガティブなもの、無分別さ、エゴというものは、私たちの成長過程で、次第に作り上げられると思う。そして、それを完全に取り除くことは決して簡単なことではないと思う。私たちは常に自己内省を続けていきながら、自分の振る舞いを見ていく必要があると思う。例えば二人の間で喧嘩や争い事がある場合には、お互いに過ちは、相手の人だけにあると思っている。でも、そういった場合には、それぞれの人が喧嘩の原因に絡んでいる部分が必ずあるということを理解する必要がある。そして、サティヤ・サイ・オーガニゼーションの活動は、いつも謙虚でいることの重要性を教えてくれたり、エゴから離れていることの大切さを教えてくれる。自分自身を内省すること、自分の内側を見ようとすることが、無分別、ブラインドネスを取り除くために一番大事なことではないかと思う。」
「スワミがおっしゃっているが、世俗的な特質、獣性、いろいろな欲望などを取り除いていく必要がある。肉欲、怒り、貪欲、錯覚、高慢、憎悪。そういったものを滅ぼす必要がある。これを除くための自己分析が大事だ。スワミの御教えを学び、理解して、従う時に、それらを取り除くことができると思う。自己分析によって、私たちは皆同じなのだということを理解することで、盲目さ、無分別を取り除くことができ、神により近づけると思う。そして、バガヴァットギーター※3にもあるが、私たちは常に邪悪な性質と戦い続けていかなければならない。それが正義を確立するために必要なこと。そして、実践していくことで、神の意志が私たちの中に行き届くようになる。それは私たちの一歩のステップをご覧になった神が、千歩近づいてくださるということだと思う。」
③『その高さに等しい梯子(はしご)』をどのように得るのか? (10ページ)
「時々、いろいろな聖典や文献に書いていることを誤解することが起こるが、その誤解によって自分たちのグル(霊性の導師)をも誤解してしまい、誤った方向へ進んでしまうということが起こる。一方、学生にとっては良い先生がいることが当然だが、もしグルがちゃんと霊性のことを理解できていなかったら、自ずと学生たちも同じように間違った方角へと進んでいってしまうことになる。それはそれとして、幸運なことに私たちは今、神ご自身が書かれた文献(ヴァーヒニ シリーズ※4)を手にしている。スワミが書かれたすべての文献においては、正確な情報が書かれている。『その高さに等しい梯子』をどうやって得ることができるのかという問いに対する答えは、スワミがくださった文献があるので、その高さに等しい梯子を私たちはもうすでにもっているのはないかと思う。そして私たちはその宝物を支えとしていくことができる。」
「この梯子とは、私たちがもっているモチベーションのようなものなのではないか。やはりモチベーションを高く保っている人は、文献を学んでどうすれば良いかを見出していける人ではないかと思う。一方でモチベーションが低い人は、いろいろな御講話や文献を読んでいても、そうした振りをしているだけになってしまうのではないかと思う。『梯子の高さ』がどれくらいであるのかということは、モチベーションの高さによると思う。そのモチベーションが高ければ高いほど霊性の高みに登っていくことができると思う。帰依者の体験などを聴いて、シュラヴァナム(神の栄光を聴くこと)を続けていくことがモチベーションという梯子を得ることにつながると思う。」
サティヤ・サイ・ババ様の御言葉
愛の化身である皆さん!
火から生じる火花は、火と異なるものでもなければ、火と同一でもありません。それと同じように、ジーヴァ(個我)はブラフマン(神)と異なるものでもなければ、ブラフマンと同一でもありません。生まれたときに人間だった者は何人いるでしょう? 生まれた後に成長して人間の地位にふさわしくなった者は何人いるでしょう? 人間として生きている者で、正しい生活、正しい行動の鍵を知っている者が、何人いるでしょう? 人間は外見で人間と識別されるのではありません。綿はマンゴーに似た長い緑色の果実をつけます。野生のキビには多くの種類がありますが、そのすべてがサトウキビなわけではありません。石英(クォーツ)は氷砂糖に似ているかもしれませんが、食べることはできません。姿形に騙(だま)されるべきではありません。中味こそが重要な基準であり、中味が神なのです。
1981年11月23日
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2カリユガ:法の力が4分の3失われた闘争の時代
※3バガヴァッドギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※4ヴァーヒニシリーズ:インド発行の月刊誌、サナータナ サーラティ誌にテルグ語と英訳で連載されたサティヤ・サイ・ババ様の著作。
開催日:2022年5月25日(日)
テーマ:ラーマカター ラサ ヴァーヒニー(ラーマ物語・上・第一章P20)
参加者:37名
質問:
① 神の行動がありきたりに見えるとき、それは何が原因か?どのように見方を変えるべきか?
② 神の行動はなぜマーヤー(幻)の覆いを取り去ることができるのか?『ラーマの物語』は現代社会ではどのように演じられているか?
<参加者のコメント>
① 神の行動がありきたりに見えるとき、それは何が原因か?どのように見方を変えるべきか?
「スワミ※1が人間の姿をまとっていることが、一人の人間として見てしまう原因ではないか。その振る舞いの一つひとつに意味があるということを、深いところで見ていかなければならないと思っている。」
「私はスワミの写真をずっと見ていたりする。ある時、サットサング(善人との親交)でスワミの顔をずっと見ていて、その中で自分の心が震えた時があった。自分一人で霊性修行をするのと違って、サットサングの仲間の中でマンネリを壊していけるのではないかと思う。」
「いろいろな神の御業をいろいろな形で見ること。それによって神が実在しているということを体感すれば、マーヤーから引き離される。」
② 神の行動はなぜマーヤー(幻)の覆いを取り去ることができるのか?『ラーマの物語』は現代社会ではどのように演じられているか?
「ラーマ※2物語の中では、お父様の言うことを守るために、即座にすべてを捨てて森に入った。ラーマの行動は何が本当の正しい行動かということが現れているので、迷いが出た時に、ラーマやスワミだったらどうしただろうと頭に思い浮かべるだけで、随分自分の汚れたところが分かったり、迷いを取ることができるような気がする。」
「ラーマの物語は、あらゆるもの、皆の心や良心の中にいて、何が正しいのかを分からせてくれるもの。時代に関係なく、善いもの、正しいものというのはいつの時代でも感動する。そういう永遠に変わらないものを指し示してくれていると思う。現代においても、何が正しいのかということを、一人ひとりの中でラーマ物語というのを上演しつつ、何が正しいのかということを私たちに見えない力で教えてくれているのではないかと思った。」
「シーター※3が金の鹿を欲しがったことで大きなドラマが始まったということを思った時に、自分自身でも、あれもこれも欲しいと思っているように感じる。コロナ禍でそれが少し休止され、本当は何が大切かということを問いかけられている。それぞれが生きていく上で本当は何が大切なのかを考えることができる機会も与えられているような気がする。」
<サイの学生のコメント>
① 神の行動がありきたりに見えるとき、それは何が原因か?どのように見方を変えるべきか?
「神様は生きとし生けるもの、あるいは命のないものさえも含めて、すべてのものを導くために高いレベルから降りてきてくださった存在。これまでアヴァター(神の化身)はナラシンハ※4のようなライオンなどいろいろな動物に化身し、その後は人間の姿の化身として降臨されたが、なぜかというと、すべてのものの中に神はいると教えるため。そういう姿をとりながらダルマ(本分)に従って、私たちにダルマに従う余地を与えてくださっている。そうした姿を取ってくださる時には 神様とコミュニケーションを取ることがとても簡単になる。サイ・ クルワント・ホール※5にスワミがいらっしゃる時はいつもスワミに注目し、スワミの一つひとつの動きから学んだり、スワミに従ってその振る舞いを実生活において実践できるようになっている。神様が来てくださることで、神様は必ずしもいと高きところにただ座っていらっしゃるのではなく、神様でさえも苦しんだり、時には痛みを感じられていて、そういう姿を見ることによって本来の神の姿は永遠のものであると分かるようになる。姿をもっている神がどのように皆に話しかけてくださり、神とどのように関係をもってコミュニケーションをとれるのかが分かると思う。」
「神が人間の姿をとって降臨してくださった時には、普通の人がいかに生きていくのかという模範を示してくださり、また自然界のルールやダルマに従うことを教えてくださる。ある意味、姿をとった神は普通の人のように振る舞う。人間の心には知性の限界もあるため、疑いを抱いたりしてしまう。でもそういった時に私たちは、神を理解することはできないことを理解する必要がある。もう一つ考えなければいけないことは、もし私たちが人の姿の神を理解できないならば、なぜ姿のない神を理解することができるだろうかということ。人間のマインドにはそういった限界があるが、神は感覚を超越した存在。だから、私たちも神を理解するために霊的な旅路において向上していくべき。質問の後半のどのように見方を変えるべきか、という点では、やはり神が人の姿をとって来てくださるのは私たちの誤った考えを取り除いてくださるため。私たちの霊的なレベルを向上させるために来てくださったという見方をしなければならない。小さな子供を母親が腕に抱えてベッドに連れていってくださるのと同じように、神様のアヴァターが降りてこられて私たちを導いてくださるということ。そのように神へ近づいていくためには、神への友情を培っていくことが必要。そして蓮華の御足に全託する必要がある。」
「サナータナ ダルマ(古来永遠の法)の中では、シヴァ※6というものは英知であると考えられている。母であるパールヴァティー※7には、最も大きなマーヤーという意味のマハーマーヤーという名前がある。マーヤーを取り除くためには、まずシヴァの恩寵を得る必要がある。このことに関連してスワミがよくおっしゃっていたのは、私のことを理解しようとしてはいけない、体験しなさいということ。実際に神の振る舞いを理解しようとすることは、非常に難しい。神の振る舞いによってマーヤーを取り除くことができるのか、あるいはその振る舞いを理解することがマーヤーを取り除くのか、それはよく分からない。文献には、何であれラーマが行なったようにやりなさい、クリシュナ※8が言ったことだけを行いなさいと書かれている。宇宙の歴史でいえば、ラーマとクリシュナは宇宙の別の時代に属したアヴァターだったが、その生きた時代によって、どのような振る舞いが求められるか、その時代の文化も違っていた。神の物語をただ読んだだけで、その振る舞いを理解できるようになるかどうかは分からない。それを理解すること自体が、まさに英知ということではないかと思う。そして英知がそこに有るのであれば、マーヤーの影響というものは無いと思う。そのアヴァターの人生が示しているような、その背後にある意図や哲学、それを理解しなければならないと思う。そして実際に、それらの文献に書いてあるような、人生におけるレッスンというものを、自分だったらどうするだろうかとシミュレートしていく必要があると思う。」
「マーヤーに関しては、ポジティブなエネルギーとネガティブなエネルギーの両方があると思う。憎しみや妬みなどは全部マーヤーのネガティブな側面。一方で愛や犠牲などは、ある意味マーヤーの中のポジティブな側面。実際にマーヤーを取り除こうということは正しいことだが、私たちが生きている限り、本当にマーヤーを完全に取り除くことはできない。でも神様の振る舞いは、あらゆる意味において、私たちがポジティブな側面のマーヤーを得ることを助けてくれると思う。例えば YouTube のビデオの中で、スワミが帰依者に何かをあげたり、そういった様子を見ると必ずそれを通して何かポジティブなエネルギーをいただくことができ、本当にそういう振る舞いをしたいと思えたりする。そのようなやり方で、スワミの振る舞いが自分に影響を与えて、私たちがよりポジティブな形態のマーヤーを得ることを助けてくれる。それが神の行動が、実際に私たちに影響を与えている例。」
② 神の行動はなぜマーヤー(幻)の覆いを取り去ることができるのか?『ラーマの物語』は現代社会ではどのように演じられているか?
「家庭に重きをおくのか、仕事に重きをおくのか、というように、ラーマーヤナ※9で示されているように、私たちが生活の中で色々なジレンマに遭遇するということは今も起きている。ラーマがよく考えていたように、何が正しくて何が正しくないかということを、今も私たちが考える状況におかれ続けている。またシュールパナカー※10やラーヴァナ※11といった人々も、今私たちの人生の中でもそういうカテゴリーの人々に遭遇することもあり得る。実際に、私たちが人生の中でいわゆる成功を得ようと思った場合には、いろいろな人に遭遇したり、いろいろなハードルを乗り越えてうまくやらなければならない点も似たところだと思う。もちろんラーマーヤナでまさに起こったこととまったく同じことは起こらないが、その本質においては同じようなことが繰り返されていると思う。一つの例をあげると、例えばラーヴァナはラーマやシーターに対してたくさんの恐ろしいことをしたが、ラーマが一度ラーヴァナを殺した後にはラーヴァナの葬式においてヴェーダ※12が定める様々な儀式をちゃんと執り行うようにとラーマが処方した。そしてラーマが言うには、彼がした行いは良くないので罰が与えられるべきだが、それが終わった後にさらなる罰が加えられるべきではないということだった。果たして私たちがそのような純粋なハートをもつことができるのかどうかということ。これで罰は終わったのだと頭を切り替えることができるかということ。もしそのように切り替えることができるのなら、私たちの人生を向上させていくことができると思う。例えばいろいろな学者やスワミ・ヴィヴェーカーナンダ※13のような著名な人々も、人生の中でそのような難しい局面に直面することがあった。彼らは非常に神に近しい人々だった。なぜなら、ラーマーヤナなどに示された原理にちゃんと従うことができた人々だったから。ラーマーヤナの物語はとても感銘を与えるものであり、とても甘いもので、それを読む人には幾分なりともその原理に従いたいと思わせる力をもつものだと思う。ブラフマー※14やヴァールミーキ※15も言ったことには、川に砂があり、山がそこにある限り、ラーマーヤナはずっと続くということだった。そしてこの物語がそこにある限り、人々に感銘を与え続け、正しい道へ誘い続けるということ。より多くの正義の道を歩む人々が将来にも現れ続けるということだと思う。
サティヤ・サイ・ババ様の御言葉
愛の化身である皆さん!
ラーマの物語は、神秘的で、神聖で、至福に満ちています。ラーマの物語はただの古いにしえの物語ではありません。ラーマの物語は不滅であり永遠に新しいものです。それは吉兆に満ち溢れています。皆さんが心を『ラーマーヤナ』の聖なる理想で満たしますように! 皆さんが嫌悪とあらゆる差別 を捨て去りますように! 皆さんが平和に仲良く暮らすことができますように! 絶えることなくラーマを憶念すれば、至福と歓喜を味わいます。ラーマの物語を心に刻みつけなさい。
2003年4月11日
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※3シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※4ナラシンハ/ナラスィンハ:ヴィシュヌ神の第四の化身。人獅子。
※5サイ・ クルワント・ホール:プラシャーンティ・ニラヤム(プッタパルティにあるサイ ババの住まいとアシュラムの総称)のダルシャン・ホール
※6シヴァ(神):破壊を司る神。
※7パールヴァティー:山の娘の意、シヴァ神の妃である女神
※8クリシュナ(神):ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※9ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※10シュールパナカー:扇のような爪を持つ女の意。ラーヴァナの妹。ラーマとラクシュマナに結婚を申し込んでラクシュマナに鼻と耳を切り落とされる。
※11ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※12ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※13ヴィヴェーカーナンダ:インドの宗教家。ヨーガとヴェーダーンタ哲学の霊的指導者としてインドを中心として、アジア諸国、西側諸国の人々に影響を及ぼした。
(日本ヴェーダンタ教会HPよりhttps://www.vedantajp.com/%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E4%B8%89%E4%BD%8D/ )
※14ブラフマー(神):梵天、創造を司る神。
※15ヴァールミーキ:ラーマの存命中に記されたインドの大叙事詩『ラーマーヤナ』(ラーマの歩みという意味の神の化身ラーマの物語)の述者。
開催日:2022年5月15日(日)
テーマ:フィリス・クリスタル女史※1へのインタビュー(通訳含め約40分)
参加者:41名
質問:
① スワミ※2はなぜ女史に「私は神である」と大声で宣言することを求められたのか?
② 死に対するネガティブな意識を取り去っていくためにどうすれば良いか?
<参加者のコメント>
① スワミ※2はなぜ女史に「私は神である」と大声で宣言することを求められたのか?
「これは私の想像でしかないが、クリスタル女史はシャイで内気だとも言われていたし、とても謙虚な方なのだろうと思った。スワミの御教えで聞いたことであっても、大それたことは自分には言えないという壁をもっていらっしゃった。そこをスワミは『打ち破りなさい』という意味で『大きな声で自分は神であると言いなさい』とおっしゃったのかなと思った。」
「言えないということにも自分の意識、自我意識があると思う。すべてスワミがおっしゃることにYes、Yes、Yesと言えるようになれればいい。自分の意見や意識をもっていることに気づかせるためにも、スワミはそのようなことをおっしゃったと思う。」
「世間的には私は神だと言えば高慢に聞こえる。そういうイメージもあったのかなと思った。」
② 死に対するネガティブな意識を取り去っていくためにどうすれば良いか?
「いつも神の御名を唱えているとハートには神が根付く。常に神と共にいることになり、奇跡というよりは、喜びや幸せ、『神と一緒であれば大丈夫』という安心を感じる。」
「肉体意識が死に対する恐れの原因だと思う。根本的には、アートマ意識(神我)に根差すために絶えずそういう訓練をしておくことが大事と思う。なかなか私たちはそうは言いながら肉体意識をすぐ簡単には取り除けないという事実もある。そういうときの助けとしては、やはりスワミの御言葉を信じる。それは何かというと、スワミがおっしゃっているのは死というのは光の体験、喜びの体験であるということ。それを信じるとすれば、本当に死そのものは決してネガティブなものではなくて、喜びに満ちたもの。そのように思えば心配や恐れが少しは減じていくのではないかと思った。」
「私自身が若い時、なぜか死というものに対して恐怖を感じていた。自分もいつか死ぬと思うとすごく怖かった。それが、スワミを知ってから、なぜか分からないが徐々に徐々に、死に対する恐怖はまだあるものの薄れてきた。自分が肉体意識から抜け出すことができているのかというと、まだまだ肉体意識をもったままだが、でも霊性修行を少しずつ積み重ねていくことによって、本当に死に関する恐怖が少しずつ薄れていく。その中で非常に大きなものは、ずっとスワミが助けてくれているということを繰り返し体験してきたこと。これはすごく怖いと思っても、必ずスワミが助けてくれた。あの時も助けてくれたということが、ずっと積み重なっているので、多分、死という大変な恐怖の時にもスワミが助けてくれるのだろう、という確信が自分の中で大きくなってきた。それが非常に大きいと思う。」
「ヴェーダ※3によると、人間は生まれてくる時に、すでに死期が刻まれているらしい。そしてスワミの御言葉によると、起こることはすべて自分にとって良いこと。本当に深い信仰をもってスワミに委ね、死ぬ時が来てもこれはピッタリの時に死ぬのだと、神が呼んでいるのだと感じて行くべきなのではないかと思う。」
サティヤ・サイ・ババ様の御言葉
タット トワム アスィ(それは汝なり)、アハム ブラフマースミ(我は神なり)、プラグニャーナム ブラフマー(覚醒意識は至高者なり)。これらの深遠な真理がヴェーダによって公言されているにもかかわらず、人々はそれらを信用しようとしません。人々は「自信」について語りますが、実際には、「自己」(真我(アートマ)、本当の自分)を信じていません。万人にとって、自己への信頼(アートマ ヴィシュワーサ)を有していることは最も重要です。自己への信頼は人生という館の土台であり、自己を満足させることが壁、自己への犠牲が屋根、自己を悟ることが住居です。自己(真我(アートマ))がすべての根底にあるのです。自己への信頼がなければ、人生はまったく無意味なものとなります。
1999年11月5日の御講話
※1フィリス・クリスタル女史:『節制のプログラム』の著者
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
開催日:2022年5月11日(水)
テーマ:生きる道(ダルマヴァーヒニ)P5-P7
参加者:37名
質問:
① ダルマとは何を意味するのか?
② 平安や幸福はなぜダルマと結びついているのか?
③ 世の人々(私たちを含む)がダルマへの疑念を解くためには何が必要か?
<参加者のコメント>
① ダルマとは何を意味するのか?
「ダルマという言葉自体、スワミ※1を知ってから知った。本の中で『正しい行い』とか『正義』とか書かれているので、正しい行いや本分という意味合いで理解している。」
「スワミの本を読むと、青年のダルマや家庭においてのダルマ、カースト※2のダルマなどが書いてあり、今まで『正しい行為』と理解していた。ダルマをどう捉えるかを考えると、スワミは『愛に満ちた心で行う行為がダルマ(正義)である』とおっしゃっているので、愛を基にしていかなければと思う。今後、ダルマへの認識を変え、愛に満ちた心を基にしたものでありたいと思う。」
② 平安や幸福はなぜダルマと結びついているのか?
「自然界の役割も、その根底にある神様が創られた自然法則もダルマ。法則にフォーカスしていくことで、一番自然な生き方ができ、それによって平安とか至福が得られるのではないかと思った。」
「二つぐらいの側面で考えてみたい。一つは心の側面。もう一つは霊的な側面。先ほどの話にあったがダルマとは本来の性質を発揮して生きることがダルマ。自分たちに与えられた役割、性質、あるいは本質など、自分に与えられたものを満たして、行為すること。そこからきっと心の満足感、充足感のようなものがきっと生まれてくる。そしてもう一つは、今日読まれた部分に『神はダルマの権化』、ダルマの化身であるとあり、これは、神はダルマであると言っていると思う。一つの言い方として愛。行う愛がダルマであると言われているので、そこに結び付くと幸福や平安になっていくと思う。反対にアダルマは、エゴに結び付いていると苦しみ、不幸、幸福になれないものを呼び寄せてしまい、そのような原因になると思う。」
「世の中の人々の価値観が損得に置かれているのではないかと思う。自分自身もスワミにそうではないということを教えられて、改善したとは思うが、どこかに損得に価値観を置いているところはあると思う。プッタパルティ※3に私たちが行くと、よくなぜハワイにいかないの?と疑問をもたれたり、どこがいいの?と言われることもあった。外側から見ると景色もよくなかったり狭かったりどこが良いだろうと思うかもしれないが、その中に平安や喜びや幸せがある。皆さんや私自身も体験してわかったこと。だから損得やきらびやかさとかそういうものではない。それを越えたところに本当にダルマがあり、その中に平安と喜びがあるという価値観がわかってくると世界が変わってくるのではないか。」
③ 世の人々(私たちを含む)がダルマへの疑念を解くためには何が必要か?
「結局ダルマへの疑念は、普遍的真理や神への疑念になると思う。神への疑念を解くためには、大自然の中に身を置くことによって神の衣である自然を見るということから始めると良いと思う。神聖な優しさ、栄光をたくさんの人と分かち合ったり、大自然に親しむ、自然の中にいるようにする。」
<サイの学生のコメント>
① ダルマとは何を意味するのか?
「本当にヒンドゥーの宗教的な背景で言えば、一人ひとりの行いの中の道徳的な側面のこと。宗教の中にポジティブな秩序をもたらしているものがダルマ。そしてヒンドゥーでは至高の神とかヴェーダ※4を信じる。それに従おうとする人々がダルマに従うことになる。もちろん、行い(カルマ)が一人ひとりの運命を決定づける最大の影響力をもつ。なので一人ひとりが自分のカルマに強力な影響力をもつダルマを行う必要がある。ダルマは宗教とか義務とか正義などの意味を含んでいると思う。ダルマには『掲げるもの』、『捧げるもの』という意味がサンスクリットではある。例えば私たちのコミュニティや国、地球はその平安を維持するために秩序を必要としている。ダルマが何であるのかは社会的な要求、期待によっても変わることがある。例えば、子供のダルマは、その子供の能力、才能、どのように期待されるかということによって変わってくる。子供たちは親にちゃんと従って、立派に育つことが期待されている。それが子供たちのダルマ。親のダルマはしっかりと子供の面倒を見ること。それが両親のダルマ。そのように一人ひとりが自分のダルマをちゃんと果たすのであれば、社会や国がしっかりとダルマを果たすことができる可能性が高くなる。もし人々、個人がそういったダルマをしっかり果たさないと社会は堕落してしまう。ダルマは社会を支えている私たちの義務で、それは宇宙を支えるものでもある。例えばヒンドゥーにおけるカーストなどの社会制度も人々のダルマの一部だと考えられている。インドではどういう社会環境で生まれたかによって、かなりダルマが制約される。例えばどういう人たちと結婚するのか制約があったりするが、そういったこともダルマに関係していると考えられている。一つひとつの階級の人たちが、属している階級のいろいろな慣習やダルマに従っていく必要があり、それがその人々なりに霊性を高めていくことに繋がると信じられている。」
「ダルマという言葉のサンスクリット語の意味は、堅持するとか、維持、支えるという意味。創造物の間のバランスを保ったり、維持すること。自分にとってのダルマとはしかるべき状況で正しい行為をすることだと考えている。私たちの生活の中で状況が変わったら、それに応じて役割を果たそうとし、その一つひとつの役割に私たちの責任が伴う。一人ひとりの能力に応じて、その最善を尽くして、その責任を果たすことが大事になってくる。もし一人ひとりが自分自身の義務に最善を尽くすことができるのであれば、社会、宇宙にも平安や幸せがあるだろうと思う。バガヴァッドギーター※5の中でクリシュナ神※6は『時には私たちがダルマを果たすべきではないと考える状況も訪れることがあるかもしれない』と言っている。私たちが自分の義務を果たすと、それによって誰かを傷つけることになるかもしれないと思うケースもあると思う。でもクリシュナ神は『たとえどんな状況であっても自分の義務、責任を放棄してはいけない』と教えた。同時にクリシュナ神は『本当に問題なのは誰かを傷つけることではなくて、一番問題になるのは自分自身の義務を放棄してしまうことだ』とおっしゃった。いかなる状況においても私たちの最善を尽くして、可能な限りの責任を果たすことがダルマであり、クリシュナ神が言ったように、状況に応じて考えが変わってしまうものでなく、毅然としてそれを行うということ。日常生活の中でそのような責任においてダルマを最善の努力を尽くして実行すること。そして行動の結果について考えることをやめることだと思う。」
② 平安や幸福はなぜダルマと結びついているのか?
「いろいろな文献で、例えばラーマ※7やパーンダヴァ五兄弟※8などダルマに従った人を見ると、人生の中で本当にたくさんの困難に直面しなければならなかった。その一方でダルマに従わないで生きたラーヴァナ※9やドゥルヨーダナ※10はとても贅の限りを尽くした人生を歩んだ。もし一般的な世俗の人が彼らのこういった生き方の例を見ると、ダルマに従えはそのような困難に直面することになってしまうと誤解してしまうのでとても繊細な質問だと思う。マハーバーラタ※11の中でもダルマラージャ※12がクリシュナにこのような質問をし、『ダルマに従っているからこういうたくさんの困難に直面しなければならないのではないでしょうか?』とクリシュナに尋ねる場面があった。その文献の本当の意味を理解しようとすると分かるのは、本当の平安や幸せは、私たちに与えられている状況を超越したものなので、私たちが直面する困難とはまったく関係がないといえる。平安と幸せは私たちの得る満足と関係している。ダルマに従っている人には、どれほど苦労しようとも神様が必ず付いている。パーンダヴァ兄弟はいつもダルマに従っていたので、彼らを守護するためにクリシュナがいつもそこにいた。そしてヴェーダにも書いてあるが、もしダルマを掲げるのであれば、ヴェーダが間違いなく皆さんを守護するということ。ダルマのことを知るだけで、ダルマ的な人になるというわけではない。ダルマに従ってダルマを実践し、初めてダルマ的な人になる。ダルマはいつもカルマと関係していて、日々それが実践されなければならない。そのダルマというものは私たちの満足に依存していて、平安とか幸せとは状況によらずに得られる心の状態、満足のこと。ダルマというものは、私たちが従わなければいけない、全般的なルールのようなもの。ダルマを運転免許の例になぞらえれば、運転免許を取ろうと思ったら、一生懸命本を読んでルールを学ばなければいけない。運転免許の試験に合格できるのは、ルールを知っていて、なおかつそれに従う時だけだ。それがうまくできなかったら、他の車に衝突して事故を起こしてしまう。サナータナ ダルマ(古来永遠の法)に述べられているのは、ダルマの原理を学ぶために参照しなければならないのはヴェーダ文献であるということ。そしてカリの時代※13においては、ヴェーダなどの本当の正確な意味を理解することさえも非常に難しい時代に置かれている。そして、それをより容易に理解するためにスワミご自身が本当に労をとられて、このダルマヴァーヒニを書いてくださった。そのような背景のもと、ダルマヴァーヒニのスタディーサークルに参加して学ぶことは、すべての人にとって重要なことで、これを学ぶことが皆さんを非常に助けてくれると思う。」
「自分が何か欲しいものを手に入れたから、これで幸せなのだろうかと自分の感情を分析すると、何か欲しいものが手に入ることは本当の幸せではないということが分かってくる。最終的には結局必要なものは満足なのだと分かってくる。言葉でいうことは簡単で、時に困難に直面し、難しい時もあると思うが、文献などを頼りに、模範を探し出していく必要がある。文献に出てくるような、多くの素晴らしい事例が私たちにモチベーションを与え、私たちがそれに従って満足を得て幸せや幸福を得ていくことができるのだろうと思う。」
③ 世の人々(私たちを含む)がダルマへの疑念を解くためには何が必要か?
「最初にダルマが何であるかを知る必要がある。ダルマは私たちの中に存在している基準のようなもの。もし私たちが、何がルールであるかということを確信がもてなくなったら混乱に陥ると思う。例えば、一か月おきに新しい携帯電話を買っているような人もいる一方で、同じ携帯電話を何年も使っている人もいる。どちらかのタイプが幸せでどちらかがそうではないと言っているわけではなく、両方とも満足して幸せでいると思う。それは自分自身でどのように価値観を設定しているかということ。ただ、他の人の価値観を自分の価値観と比べ始めると自分の価値観に対して急に確信がもてなくなってしまう。そのように他の人の価値観と比べるのではなく、自分自身の価値観に確信をもったのであれば、もっと幸せでそのような疑いがなくなっていくだろうと思う。私たちは自分がもっている価値を実践し続けていけば、必ず良い結果が私たちのもとに訪れると思う。そうするのであれば、自分が設定してきた価値観にさらに確信がもてるようになるだろう。そのような結果が得られたのであれば、自分で設定した価値の重要性がわかるだろうと思う。」
「ダルマに疑問を投げかけるよりも従うことが最善。例えばサイオーガニゼーションで疑問やわからないことが生じたら、私たちはその疑問をスワミに投げかけるべき。実際に多くの御講話でスワミはダルマについて、多くの事例を教えてくださっている。私たちがいかなる時にも何かに対する疑念を得た時には、最善の方法は御講話やヴァーヒニ※14を当たることだと思う。」
サティヤ・サイ・ババ様の御言葉
道徳的に正しいこと、すなわち、ダルマは、決して裏切らないということを信じなさい。ダルマは、他のいかなる手段を通じて得られる喜びよりも大きな喜びを保証してくれます。
1964年2月19日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19640219.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2カースト:カーストには、大枠を示す四氏姓(ブラフミン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)で区分するヴァルナと、職業で細かく区分するジャーティがある。各カーストはそれぞれの浄性を保つために、婚姻や職業に関する厳しい規制を設けている。カーストの高低と貧富は必ずしも一致しない。
※3プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※4ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※5バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※6クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※7ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※8パーンダヴァ(兄弟):「パーンドゥの息子たち」の意。『マハーバーラタ』に出てくるパーンドゥ王の五人の息子、ユディシュティラ(ダルマジャ)、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァのご兄弟の総称。ダルマジャとビーマとアルジュナはクンティ妃の息子で、ナクラとサハデーヴァはマードリー妃の息子。
※9ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※10ドゥルヨーダナ:『マハーバーラタ』の悪役。カウラヴァの百人兄弟の長男。
※11マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※12ダルマラージャ:パーンダヴァ兄弟の長兄、ダルマの王の意、ユディシティラの別名。
※13カリの時代(カリユガ):法の力が4分の3失われた闘争の時代。
※14ヴァーヒニ (シリーズ):インド発行の月刊誌、サナータナ サーラティ誌にテルグ語と英訳で連載されたサティヤ サイババの著作。
開催日:2022年5月5日(金)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第58節「真理の発見に専念し、永遠なるものを熟考しなさい」
参加者:34名
質問:
①「永遠に存続し、永遠に真実である神を熟考し、真理を見出すことにすべての時間を捧げなさい」との御言葉に関して、日常生活でどう実践するか?
②「いかなる迷妄の中に投げ込まれようとも、真理はよりまばゆく輝くばかり」であることを、どのように実感できるか?
③「このかりそめの世界においては、真の生き方はあり得ません」との御言葉に関して、かりそめの世界をどのように活用して神を悟るべきか?
<参加者のコメント>
… ①「永遠に存続し、永遠に真実である神を熟考し、真理を見出すことにすべての時間を捧げなさい」との御言葉に関して、日常生活でどう実践するか?
「スワミ※1が教えている朝の祈りで、『今日一日すべての行いを神への捧げものとして行います』という祈りがある。この祈りを始めた時に、最初朝の祈りができなかった。とてもではないが、良いことも悪いこともするので、一日を神への捧げものとしますとはなかなか言えなかった。最初は一日終わった後に捧げることはできるだろうと思い、夜の祈りから初めた。その後、せめて一日を神聖で煌めくものにしたい、朝も祈ろうと思い、もう一回朝の祈りを見てみると、そのように書いてあり、だんだん祈りと一致してきた。祈りは非常に重要だと思った。」
「すべての時間を捧げることができたら最高に良いと思う。この世に生きているといろいろな誘惑があって、すべてを捧げるには難しい部分がある。私の場合はなるべくスワミの写真を部屋に飾ったり、スワミの御言葉を飾ったり、スワミを忘れないようにしている。」
… ②「いかなる迷妄の中に投げ込まれようとも、真理はよりまばゆく輝くばかり」であることを、どのように実感できるか?
「今までで自分の執着とかエゴで苦しみや悲しみが一杯になってしまった時でも、空を見て『美しき』と心が動くというか、この美しい空を見られるだけでもう一日頑張ろうと思えたり、自然を神々しいと思ったり、道端の花が美しいと思えたり、赤ちゃんが本当に愛しいと思ったり、歳をとっている人に席を譲る姿を見て『ああ、なんて素敵なことだろう』ということに触れると、何かほっとする。そのように気持ちが動くのは、自分の中に光のような、そういうものが存在しているのだと思った。」
… ③「このかりそめの世界においては、真の生き方はあり得ません」との御言葉に関して、かりそめの世界をどのように活用して神を悟るべきか?
「外側の事象に対して反応しても、そこに引っ張られて苦しみが大きくなり、やはり自分の内側に向かって、その至福を体験していく方が自分にとっては本当に大切。常に神を黙想していくことで実感していけると思う。」
「私はスワミのことを知る前から『人事を尽くして天命を待つ』という言葉が非常に好きで、仕事や勉強などいろいろなところで目標を立てて、『人事を尽くして天命を待つ』という言葉を自分に言い聞かせながらやってきたところがある。仕事の目標にしても勉強の目標にしても、本当は意味のないことなのかもしれないが、目標を立てて一生懸命やる中で自分自身が成長できるし、その中で瞬間的に真理を見るということもあった。そのように、かりそめの世界を活用しながら自分を成長させていくことができるのではないかと思う。」
「スワミはいつも私は至福ですとおっしゃっていたので、私たちも自分の中のアートマ(神我)の部分が光り輝くと、どんどん幸福なって、『私』というエゴが減るとどんどん幸せになっていくのかなと思う。そしてスワミがおっしゃっている、『人生はゲームです。楽しみなさい。人生は挑戦です。立ち向かいなさい。人生は愛です。分かち合いなさい。人生は夢です。実現しなさい』という言葉のように生きていけたら良いと思っている。」
<サイの学生のコメント>
… ①「永遠に存続し、永遠に真実である神を熟考し、真理を見出すことにすべての時間を捧げなさい」との御言葉に関して、日常生活でどう実践するか?
「一つ大事なことは朝起きてから夜寝るまで常にスワミに照らして正しいことを考え続けるということかと思う。その一日にあたってダルマ(正義)、平安、愛、非暴力に関して従ってきたのかどうかを考えることが必要と思う。スワミがおっしゃっている、どの御言葉でも良いが、決めたことを一つ、一日しっかりと従う努力をしていくことが必要と思う。一つひとつのスワミの御言葉の引用を実践するには大変な努力を要する。プッタパルティ※2で刊行しているダイアリーがあるが、そのようなものに示されている御言葉をその日の終わりに至るまでしっかりと沿うようにできたかどうか検証していくことが大事。そういったことを毎日行っていると人生の真の目的を気づくことになると思う。」
「『永遠に真実の神を熟考する』ということと関連したことは、私たちが毎日過ごすことにおいて道を逸れて時間を無駄にしないことが大事だと思う。この世のすべての人間に魂の目的があり、それは神にかなった人生の目的だと思う。時が経つと共に人間には世俗的な執着が生じていく。世俗的なことに執着しないように心掛けながら、自分は神であるということに、心の中で常にフォーカスしていかなければいけない。いつも私たちが神だと考え続けていくのならば、神が私にどうして欲しいのだろうかと考えることになると思う。」
… ② 「いかなる迷妄の中に投げ込まれようとも、真理はよりまばゆく輝くばかり」であることを、どのように実感できるか?
「最初に理解しなければいけないことは、やはり物質的なことは幻影であるということ。移ろい行くものに執着してしまうと決して幸せにはなることができない。そういったことを常に黙想することによって、物質的なことは移ろい行くことを知り、より真実の方にシフトして行く必要がある。そして真理の性質を理解するためには、霊性の基本的な側面をまず理解しなければならず、そうして初めて、真理の道をしっかり歩き始めることができるだろうと思う。」
… ③「このかりそめの世界においては、真の生き方はあり得ません」との御言葉に関して、かりそめの世界をどのように活用して神を悟るべきか?
「シュリーマド・バガヴァータム※3に書いてあるが、例えば貧しさも大変な祝福であるということ。自分が貧しいのであれば、他の人にそれが起こったときに、それがどういうことなのかを知ることができるから祝福であるのだと書いてある。実際に貧しい人にとっては、あまりにも苦しみが大きくて、ダルマの道からも外れてしまう程の苦しさがそこにある。そのように、貧しくない人が貧しさについて見るときと、本当に貧しい人自身とでは、見え方がまったく違う。暗闇というものは、過去にも今にも常に存在しているが、過去にも今にも、暗闇もあれば、そこを灯すキャンドル、灯との両方が常に存在している。暗闇があれば、それを照らすキャンドルが常に存在しているので、私たちがそのキャンドルを灯す側になれるように努めていかなければならない。ヴェーダ※4の伝統に従うことができれば、すべての暗闇、悲しみ、そういったものはすべてどこかに行ってしまう。そういう種類の光であると思う。毎朝太陽が昇れば、夜はどこかに行ってしまう。太陽が昇る時間と、夜の暗闇の時間が繰り返されているが、私たちは夜は眠って休み、日が昇ればその時間を楽しむように、その両方の時を楽しんで生きていくことができると思う。そして調和という価値や平安という価値に従って、その中で生きていくことができると思う。」
「自己実現だけがこの世界の唯一の真実。自己実現ということは自分自身の潜在力を実現すること。そのために私たちができる唯一のことは熱意を持って霊性修行を行うことだと思う。単純に言えば、価値に従って生き、悟りを得る時まで続けること。それだけが唯一の真実でゴール。そしてゴールはまわりのすべてのごみを捨て去ることによって得られる。熱意を持って霊性修行を実践することにより、私たちの潜在性の周りにあるすべての幻影を捨てることによってそれを得ることができるだろうと思う。」
「『私』とは誰だろうかというポイントがある。そこで気づかなければならないことは、私たちの感情や思いは本当の思いではなく、肉体から発しているということ。このような思いは日々変化していく。そういったことで感情的なことに重きを置く必要はなく、『私とは誰か』という自問がより重要。これに従うためには、『今』を生きる必要がある。ガジェットを触っていたり、友人にフォーカスしていてはそのようにはなれない。一日の中で私たちは『今』に本当に短い時間しかフォーカスしていない。私たちはもっとそこに飛び込んで集中力を示し、神と融合するためにその時間を見出して、そういう努力をしていかなければならないだろうと思う。そういう自我意識が比較的少ないタイプの人は簡単にそこから抜け出すすべを見出すと思う。それを始めるためには、私たちは毎日瞑想することを始めるべき。そして毎日自己実現を果たすために時間を割いていくことが必要。自己実現は一夜のうちにやってくることはないので、時間と実践が必要。その実践を続けていけばそれが習慣になると思う。私たちが自分の人生を自分でコントロールするという感覚を得て、自分の人生は他の誰かがコントロールしているわけではなく、自分でコントロールしているのだという実感が得られるようになったとき、最終的なゴールにたどり着けるのではないかと思う。」
ババ様の御言葉
神から離れているものなどありません。神性は一つであり、万人に内在しています。この真理を知って、万人を敬い、誰に対しても痛みを与えるという手段をとらないようにしなさい。そのとき初めて、社会はあなたを尊敬するでしょう。自分が尊敬されたいなら、同じように他の人々も尊敬すべきです。
1984年1月12日
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※3シュリーマド・バガヴァータム:神(バガヴァット)のもの、神から来たもの、ヴィシュヌ神やクリシュナ神と関係する、神聖な、聖なる2)聖賢ヴィヤーサの著で、バガヴァットという名で呼ばれるヴィシュヌ神とその化身の物語集。神の本の意。
※4ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
開催日:2022年4月27日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第32節、第33節「永遠なるヴェーダの教えは、全人類の遺産である」、「バーラタの主流を占める神聖な人々」
参加者:37名
質問:
① サナータナ ダルマ(古来永遠の法)の減退の要因は何か?それを取り戻すための神の帰依者による一歩とはどのようなものか?
② 第33節には、これまで多くの偉大な支援者たちが生まれてきたにもかかわらず、永遠であるヴェーダ※1宗教に無限の不名誉が与えられていることが述べられている。なぜこのようなことが起きるのか?
③ 永遠なるヴェーダ宗教に栄光をもたらすためには何が必要か?
④ 第33節にある「発展は腐敗するのみ」という記述について、どのような見解をもつか?
<参加者のコメント>
… ① サナータナ ダルマ(古来永遠の法)の減退の要因は何か?それを取り戻すための神の帰依者による一歩とはどのようなものか?
「私たちサイの帰依者にはスワミ※2が本当に分かりやすい形で規律、九つの行動規定※3などを示してくださっている。先日、Sis. Aにサティヤ・サイ・プライマリー・スクール(初等学校)についてのスピーチをいただき、プライマリー・スクールの先生方は規律のある信愛で子供たちに接しているという話があった。毎日の祈りと瞑想は九つの行動規定の一つ目で、そういうところから初めて、継続していくことが大事。」
「いろいろな文明が発達して、サナータナ ダルマの本来の部分を見落とし、表面的な捉え方になってしまった。段々と本来の根本的な要素や知識が薄れてしまった。それを取り戻すためには、根本的なところを古代と同じように取り入れていくべきだ。」
… ② 第33節には、これまで多くの偉大な支援者たちが生まれてきたにもかかわらず、永遠であるヴェーダ※1宗教に無限の不名誉が与えられていることが述べられている。なぜこのようなことが起きるのか?
「今の世の中が目に見えるものを重視して、目に見えないものをないがしろにする傾向があり、そういう傾向がヴェータから、どんどん離れていってしまっているということ。姿形ではなく、思いやりなど心の目に見えない真理に皆がどれだけ気付いていけるのかということだと思う。」
… ③ 永遠なるヴェーダ宗教に栄光をもたらすためには何が必要か?
「スワミの御講話の中に、犠牲を払わずして不死を得るチャンスはないとヴェーダは述べているというものがあった。サイの帰依者は神に仕えるために行為そのものに喜びを感じて、愛の有る努力をする。そして結果というのは求めないのが特徴。永遠なるヴェーダ宗教に栄光をもたらすためには、犠牲をいとわないと考えなければならないと思う。」
… ④ 第33節にある「発展は腐敗するのみ」という記述について、どのような見解をもつか?
「真実はそれ自体が完璧なので、発展する必要はなく、発展するというのは時代によって好みが変化していくということ。」
「世界の文明が発達したが、本当に表面的なことだけを快適な生活のために取り込んでしまった。人としての余裕がなくなり、欲望が積み重なった。じっくりものを考えるとか内に向かうということがどんどんなくなってきている。ニュースでも悲しいことがたくさんあり、外の世界がどんどん崩壊しており、人間的な精神が崩れているという形で表れていると思う。それが発展は腐敗するということ。将来的にはこのことから学んで、スワミの意図のもとで発展していければ良いという希望も祈りとしてもっている。」
「ある新興宗教の勧誘をしていた方は、仏教系の創始者の方を非難するようなことを言っていた。利己心に染まると、間違った解釈を真理に加えてしまい、枝分かれして間違った道に至っているのかなと思った。スワミがよく、様々な名前で呼んでも真理は一つ、賢者はそれを様々な名前で呼ぶとおっしゃっている。そして違う名前であってもそれを非難してはいけないと思う。利己心やエゴに染まっている方は盲目になって違った方向に向かって進んで、そこで発展していこうという道に進んでいるがゆえに、それが腐敗に向かって進んでしまっていると思った。」
<サイの学生のコメント>
… ① サナータナ ダルマ(古来永遠の法)の減退の要因は何か?それを取り戻すための神の帰依者による一歩とはどのようなものか?
「サナータナ ダルマという言葉自体は永遠のダルマいう意味で、それは創造者によって敷いていただいた道。サナータナ ダルマは永遠のものなので、決して薄まったりすることがないが、ただ私たちの理解が薄まってしまうことだと思う。私たち個人はそのサナータナ ダルマに心をしっかりとフォーカスし、見るものに様々な違いがあっても、絶えず神に全託していかなければならないということだと思う。そして何かの奉仕に従事することや、神聖な御名を唱えることなど、ダルマにしっかりとつかまっていることが助けてくれると思う。自分よりも若い世代に教えるためにバガヴァッドギーター※4を読んだりすることが必要だと思う。サナータナ ダルマにしっかりフォーカスしていくならば、何の罰もない。私たちが交通ルールを理解して、その上でしっかり車を運転するのであれば、他に誰も導いてくれなくても大丈夫。そのようにサナータナ ダルマは私たちが喜びに満ちて生きたり、私たちが能力の限り生きていくのを助けてくれる。」
「私たちがエゴとかプライドを捨てて世俗に関わるときに、行為者意識を捨てることができるのだと思う。そして何をしようともそれを神に捧げようとすること。私たちが本来すべきことは、神の一部として神に奉仕すること。そして私たちは神への無私の奉仕者だと考えることだと思う。神様の助けがあってこそ、行為者意識を捨て去ることができると思う。例えばキッチンのトングも、それを上手く使える人が使ってこそ役立つものとなる。例えば燃えている炭を持ち上げるような困難な仕事も、そのトングという道具を使えばうまくできる。でも素手では、燃えている炭を持つことすらできない。道具をうまく使えなければ、道具はただのテーブルの上の置物になってしまう。もし神様自身が私たちの身体や心、魂を使ってくださらないなら、私たちは何もすることができない。だから、私たち自身のエゴや行為者意識を捨て去る必要性や、神様だけが私たちに行動する力をもたらしてくださると理解している必要がある。」
「パルティ(プッタパルティ)※5で最初に教育を受けた時に、ある先生からダルマがそんなに複雑だと考える必要は全然ないと教わった。普通の人間は3つの基本的なポイントで理解することができる。人生でどのような野望・目標をもっているのか?どうしてそういったことを目指すのか?そして、実際にそれを達成するためにどういった手法を取る必要があるのかということ。もし人がその3つのことを明確に考え、自分なりの確信を得ているのなら、自分のダルマの道を歩いていける人だと思う。サナータナとは永遠という意味。いついかなる時にもそれに従えば良いという知識が得られる。どうして薄まったかというと、先ほどの3つのポイントが欠けるようになってしまったから。一つ目はどういう願いをもっているかということに関して、本来願うべきものからずれたものを願っている。生まれた時から人間というものは、両親に対する義務、兄弟、親戚、あるいは社会に対する義務など、何かしらの責任をもってそこにいる。サナータナ ダルマでは、そういった人々に対する自分の責任義務を果たしていきたいと願うことが目的であるべきだと言っている。私たちの責任が果たされないのであれば、当然のことながら社会が混乱に陥いる。サイの帰依者として、いろいろな願いとともにいろいろな責任を果たしていくようにしなければならない。家族とか社会の責任を果せるように御教えに従い、そういった責任をしっかりと行うこと。スワミもこれまでたくさんの御講話をされてきて、その中でバガヴァットギーターや叙事詩の深みを教えてくださっている。私たちの義務を果たすことを助けてくれるようになっている。私たちが義務を果たしていけるようにと、それが私たちの願いであるようにということ。」
… ② 第33節には、これまで多くの偉大な支援者たちが生まれてきたにもかかわらず、永遠であるヴェーダ※1宗教に無限の不名誉が与えられていることが述べられている。なぜこのようなことが起きるのか?
「ここでスワミが何回も述べていらっしゃるように、本当は永遠のヴェーダの宗教に非常に不名誉が与えられてしまっている。同時にインドでも世界でも、ダルマ的な生き方を改善しようと努めている多くの方々がいらっしゃる。また、いろいろな文献では、例えばブラフマー(創造を司る神)の子孫はラーヴァナ※6だったように、ヴェーダに強く従ってきた人々の直接の子供が大変良くない振る舞いをした例さえもよく出てくる。時にダルマについて良く知る非常に多くの人々もいる。しかし、よく知っていることが、必ずしもダルマ的な人々であるということにはならない。サンスクリット語でのダルマの意味は、従われるものという意味。単にダルマを知っているだけでは、知識にあふれた人にはなるかもしれないが、必ずしもダルマ的になるというわけではない。本当の大事な基本的な原則は、スワミが言われたように、そのダルマに従うということ。スタディーサークルでは、いろいろなことをたくさん話し合うが、ここに参加したり話したりするだけでダルマ的になるわけではなく、スワミがおっしゃった生き方ができるのであれば、それをとおしてダルマ的になることができると思う。最も基盤的な原理に従っていくことが必要だと思う。そして、永遠の宗教に栄光を与えることはダルマに従うこと、ただそれだけだと思う。ダルマが減衰した時にはクリシュナ神※7のようなアヴァター(神の化身)が来て、ダルマを掲げてくださる。それは本当にアヴァターのダルマで、失墜したように見えるものを取り戻して掲げることは、本当にアヴァターのダルマだと思う。」
「サナータナ ダルマというのは、正に生き方ということで、それを一種の宗教として見なすことは適切ではないと思う。どういう生活様式で生きていくかという指針のようなもの。今日の人々が不名誉に陥っているのは、やはり一時的な喜びを追い求めてしまっているからだとスワミはおっしゃっていて、あまり良い生活の仕方にはなっていない。なぜそうなってしまうのかは、罪への恐れがないことと、神への恐れがないからだとスワミがおっしゃっている。人々は他者の意見をちゃんと聴かなくなり、どんどん利己的になっていて、自分自身のポイントだけから見るようになってきている。そして社会に不調和が起きている。そうすると人々が真の幸福を楽しむことができなくなってくる。私たちは皆、人生における第一の目的は、幸せになることだと思っているが、良くない行いが原因で、そのような幸福を得ることができず、社会というものに不名誉を与えてしまっている。」
… ④ 第33節にある「発展は腐敗するのみ」という記述について、どのような見解をもつか?
「スワミが美しくおっしゃったのは、発展して成長していくということは最後には衰えることにつながらざるを得ないとおっしゃっている。バーラタ(インドの正式な国名)では大人になってそれぞれがいろいろな道を歩むようになるが、それぞれが純粋な思いをもって歩んでいかなければならないとおっしゃっている。日々自己コントロールしながら歩んでいかなければならない。人生の早い段階では、いろいろな文献や経典、シャーストラ(法典)、ウパニシャッド※8、ヴェーダなどとともに歩んでいかなければならない。そして私たちは自分の国の中のあらゆる階層を助けていくように努める必要がある。そういった道が現代社会のシナリオでは従われていない。むしろ人々はそれよりも力を信じたり、より利己的になってそういった道に従っていない。また、自分たちの兄弟姉妹に対しても嫉妬を抱いたりする。そういったことのすべてが良くない特質につながっていく。そして心に平安がないことにつながっていく。成長してもやがて減衰するという言葉があるが、そういったことがないようにセルフコントロールをしっかりする必要がある。そしてサナータナ ダルマが従われないと、人々が堕落して非常に悪い特質に陥ってしまうということを言っている部分だと思う。これらのすべてがどうして起こってしまうかというと、神がそこにいるという恐れがないことによる。私たちにとって必要な責任というのは、若い世代にサナータナ ダルマを取り入れていくこと。そういったバックグラウンドで育った人々が大人になれば他者を愛することができて利己心がなくなっているだろうと思う。」
ババ様の御言葉
バーラタ〔インドの正式名〕は、長い間、人間の教師、永続する喜びを求めるすべての国民の教師として、尊敬されてきましたが、今、その本来の役割を忘れ、他の国のドアの前に立って頭を下げて手を伸ばし、施しを乞うています。「母親を神として敬いなさい」というヴェーダの教えが、どの家でも無視されています。その結果、「母国」は自分の子供たちに豊かさと平安を恵んでいないのです。両親を敬い、教師を敬いなさい。これはサナータナ ダルマ〔古よりの永遠の法〕の教えです。兄弟には兄弟にふさわしい愛情を持って接しなければなりません。兄弟を忌み嫌う人の運命は、完全なる破滅です。これは、第五のヴェーダとして無数の人に崇敬されている古代の叙事詩、マハーバーラタが説いている教訓です。
1968年3月29日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19680329.html
※1ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3九つの行動規定:ババが定めた帰依者のための行動規定。
※4バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※5プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※6ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※7クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※8ウパニシャッド:ヴェーダ聖典群の中の哲学的部門の総称で、ブラフマンの探求を主な主題としている。
※9アーラーダナ・マホーッツァヴァム:ババに感謝を捧げる「感謝大祭」。2011年4月24日(日)日本時間11時10分に肉体を離れたババに感謝を捧げる日。マハーサマーディの日とも呼ばれる。
開催日:2022年4月20日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第72節、第73節「瞑想と唱名によって心を清めなさい」、「神の降臨を求めて祈りなさい」
参加者:38名
質問:
① 日々の行動を行いながら、どのように「非行為者」でいることができるのか?
② 「カースト※1も、僧侶の身分も、儀式も、経典を学ぶことによって得られた学識も、このアートマ(神我)の知識という悟りを得る基準にはなりません。揺るぎないブラフマン(宇宙の根本原理)瞑想だけが唯一の基準です」という御言葉をどのように理解するか?
③ なぜ私たちは神の降臨を願い求めるべきなのか?
<参加者のコメント>
… ① 日々の行動を行いながら、どのように「非行為者」でいることができるのか?
「日々、仕事や食事やいろいろなことをしている中で自分の行為を俯瞰して見ているようなもう一人の大きな存在の自分に気づいていられるようになれば、非行為者になるのではないのかと思う。そのために、世俗の色に染まらずに崇高な御教えに従って生活することも大事。そのために瞑想したり、神の御名を唱えたり、様々な霊性修行のやり方があると思うが、自分に合ったものを見つけていくのも大事だと思う。」
「達観した感覚をもった世界的に偉大な音楽家の方は、『自分が演奏しながら、自分が演奏したのではない』とおっしゃっている。私も同感で、本当に神様と一つになってできた場合には無我の境地というか自分がなくなって、神様によって行為がなされているという感覚。そのような時に非行為者でいることができるのではないか。」
… ② 「カースト※1も、僧侶の身分も、儀式も、経典を学ぶことによって得られた学識も、このアートマ(神我)の知識という悟りを得る基準にはなりません。揺るぎないブラフマン(宇宙の根本原理)瞑想だけが唯一の基準です」という御言葉をどのように理解するか?
「神聖な思いで心を育もうと努力しない人のハートは、必ずや不正と邪悪の楽園となる。心を育む努力をしないといけない。それがブラフマン瞑想をすることになるのでは。そのための方向として御言葉を読むとか、バジャン(信愛の歌)、ヴェーダ※2とかいろいろなサーダナ(霊性修行)があると思う。」
「この御言葉に、最後に揺るぎないブラフマン瞑想だけが唯一の基準ですと書かれている。その意味はきっと、私たちの行為の動機に神が不在であれば意味がないことになるということではないか。反対に言うと、一番目の問いにも関係しているのかもしれないが、その神を意識して、神に喜んでいただき、神に満たされた心で行うことが、やはり大事になってくるのではないかと感じた。」
… ③ なぜ私たちは神の降臨を願い求めるべきなのか?
「一人ひとりの人生を考えると、神に守られてきていると感じる。しかし世界全体を見てみると、戦争が起こっている。世界の平和や平安について考える時、神の降臨というものが一番大きなものになるのではないかと思う。だから神の降臨を願うことは世界の平和のために必要だと思う。」
「私がこの質問を読んで思ったことは、例えばスワミ※3を知る前にも私なりに信仰はあったが、やはりスワミの肉体を見て、スワミの行動を見て、本当に神様というのはこういうものなのだという確信が得られた。スワミが直接書かれた本を読んでわかったことは全然違った。やはり肉体の神様が降臨してくださって知ることと、その前に知っていたことは全然違い、その差は大きいということ。もう一つは、私自身が肉体を去るときにスワミご自身が現れてくれたら、迎えにきてくれたらいいなという願い。その二つの意味を考えた。」
<サイの学生のコメント>
… ① 日々の行動を行いながら、どのように「非行為者」でいることができるのか?
「とても美しくバガヴァッドギーター※4に書かれているが、クリシュナ神※5は二通りのヨーガ(神との合一のための行)を教えてくださっていて、それらはサンニャーシヨーガとカルマヨーガ(行為の道)。バガヴァッドギーター※の5章に書かれている放棄のヨーガともう一つは行いをとおした道に関すること。カルマサンニャーシヨーガとは行いの結果を放棄するヨーガ。カルマヨーガは行為の道。クリシュナ神は、誰でも二つの道のいずれかを選ぶことができ、そのいずれも最終的には解脱のゴールにたどり着くと教えてくださっている。しかしカルマサンニャーシヨーガ(行為の果実を放棄するヨーガ)は解脱を得るための第一の道のりとしてはとても難しいもの。カルマヨーガを辿る方々にとっては、世俗の仕事をすることによって同時に知性を磨くことができるようになっている。そしてすべての行為を神に捧げて、結果もいただける。しかし、そこで私たちはすべての結果を楽しもうとする行為者とならないように努めなければならない。この世的な喜びを捨てることによって、非行為者の立場を得ることができる。神の御名を唱えることによって、神の至福を得ることができる。外側の楽しみを克服して、欲望や怒りを克服し、そのような道を辿ることができる。」
「私たちがエゴとかプライドを捨てて世俗に関わるときに、行為者意識を捨てることができるのだと思う。そして何をしようともそれを神に捧げようとすること。私たちが本来すべきことは、神の一部として神に奉仕すること。そして私たちは神への無私の奉仕者だと考えることだと思う。神様の助けがあってこそ、行為者意識を捨て去ることができると思う。例えばキッチンのトングも、それを上手く使える人が使ってこそ役立つものとなる。例えば燃えている炭を持ち上げるような困難な仕事も、そのトングという道具を使えばうまくできる。でも素手では、燃えている炭を持つことすらできない。道具をうまく使えなければ、道具はただのテーブルの上の置物になってしまう。もし神様自身が私たちの身体や心、魂を使ってくださらないなら、私たちは何もすることができない。だから、私たち自身のエゴや行為者意識を捨て去る必要性や、神様だけが私たちに行動する力をもたらしてくださると理解している必要がある。」
「私たちがどれだけ霊的な実践(サーダナ)をしても、それを神に捧げなければ何の意味もない。そして、この世の中の知識、あらゆることを知っていたとしても、それを実践しなかったら意味がない。例えば、試験のためにあらゆることを勉強しても、答案用紙にその答えをまったく書かなかったら、やはり試験に失敗する。であればこそ、私たちが実際にやっている仕事というものに、よりフォーカスすべきだと思う。そして日々行っている私たちの行動に対して、より意識的であるべきだと思う。そしていつも、私たちのやっていることは、神への捧げ物なのだということを、思い出すようにしていくこと。そして私たちが何をしようとも、それは神への奉仕であり、それを神に捧げるべきであるということを覚えていること。そして日々働いている時にも、神にフォーカスし続けることだと思う。」
… ② 「カースト※1も、僧侶の身分も、儀式も、経典を学ぶことによって得られた学識も、このアートマ(神我)の知識という悟りを得る基準にはなりません。揺るぎないブラフマン(宇宙の根本原理)瞑想だけが唯一の基準です」という御言葉をどのように理解するか?
「マハーバーラタ※6から一つのお話がある。大変な苦行をした賢者が、朝の修行の儀式をしていたら、鳥がフンを落としてきた。それで怒った賢者が、怒りの力でその鳥を灰に変えてしまった。一部始終を見ていた他の賢者が、鳥を燃やした賢者にアドバイスをし、別な修行をするように命じた。それは自分の持ち物は何も持たずに他の村々を回って、托鉢などの修行をすることだった。そしてある時、村に行って何かを恵んでもらうため、ある家を訪ねた。そうすると、施しをしてくださるはずだったご婦人が出てくるのがすごく遅かった。すると再びその賢者はとても腹を立てた。ご婦人が言うには、『私のことはそのように見ないでください。私はあなたが燃やしてしまった鳥のようなものではありません』と言った。その賢者はとてもショックを受け、一体どうしてご婦人が鳥を灰にしてしまった出来事を知っているのだろうかと思った。そうすると、ご婦人が答えたのは、別に自分はそういう能力を得るために特段の苦行をしたのではなく、霊的な文献を学ぶということも一切していないけれども、ただ日々の家事を完全にしようとしてきただけで、そのようなことが分かるようになったとのことだった。賢者は赦しを請い、そのご婦人にダルマ※7について教えてくれるようにお願いした。ご婦人は、彼にダルマについて教えることができる、もう一人の適任な者がいると言って、その人の名前を教えてくれた。その方、ダルマ・ヴァーダという人を探して会いに行った。ダルマ・ヴァーダという名前からするとすごく偉大な聖者なのだろうと思われたが、実際にそのダルマ・ヴァーダという人を探し当てて、その人のもとに着くと、実際にはその人は肉屋さんだった。そしてまたショックを受けた。その肉屋さんに次のように尋ねた。『どうしてあのご婦人がダルマについてあなたから学ぶように言っているのでしょうか?自分は本当にこれまで文献をたくさん学んできたのに、どうしてあなたのような肉を切って売っている者から、私がダルマについて学ばなければならないのでしょうか?』。そうすると肉屋さんは、『自分は別にダルマや、何かの文献については何も知らない。どうしてまた、そのご婦人があなたにそういうことを言ったかも分からない。自分には、どうして肉を売ることが罪であるのかも分からない。何故なら自分にはそれ以外の知識がないからです。何であれ自分がもっているわずかな知識だけをもって、自分は両親に仕え、自分の家族に仕えているのです』と言った。そして『自分は何も動物に対して残酷なことをしたいとかいう意図は一切なく、その代わりにただ自分の家族に対する義務を果たしたいと考えているだけなのだ』ということだった。そして日々彼が行っているそのような行動はすべて神に捧げられているということだった。そのことをとおしてその賢者が悟ったことは、どれだけのことを知っているか、どれだけ物理的に神の近くにいるかということが全然大事なわけではなく、神のことを考えて黙想している時間の方が大事なことであるのだということ。そしてまた、肉屋さんもご婦人も、そのようにしながら、神の道から逸れるような悪いことを一切してこなかった。そういった点において、この鳥を燃やしてしまった賢者よりも優れた存在であるということが分かった。その一方で、この賢者の霊的知識は豊富だったけれども、いつも怒りに苛まれていた。私たちがどんな仕事をしていようが、どんな状況にいようが決して神の道から逸れてはいけない、そのようなことをして私たちの霊的な進歩を無駄にしてはいけないと学んだということだった。」
… ③ なぜ私たちは神の降臨を願い求めるべきなのか?
「これまで多くの僧侶や全世界のそのような方々が降臨を祈ってきたと思う。そしてそのような方が行ってきた祈りはすべての方の幸福に関するものであり、それはサマスタローカー スキノー バヴァントゥ(すべての世界が幸せでありますように)だった。バガヴァッドギーターの中でも、クリシュナ神はダルマが減退した時にはいつでも自分が人間の姿をとってもとの道へ彼らを戻すと語っていた。サイ・ババの降臨の場合にも、世界の中で大変な困難があった時期だった。お生まれになったプッタパルティ※8も当時は非常にアダルマ(不正)な活動に満ちていた。本来そのような土地であったプッタパルティ全体を完全に変容させ、さらに誰もがそこに行きたいと思うような聖地に変容させた。それが、神聖で偉大な魂が来られた時に、どのようなオーラをもって来られるかということではないかと思う。」
「皆さんは、どのような時に神の降臨の必要性があるかということはよくご存じだと思う。世界のダルマが減退したときには、再び人類の霊性を持ち上げるお方が、再びダルマを復興させるお方が来てくださらなければならない。そのような神聖な魂は邪悪な人々をも変えることができる。そして彼らを霊的に助けてくれる。それが神聖な魂の降臨が本当に必要である理由ではないかと思う。」
ババ様の御言葉
体に従ってはなりません。心とアートマに従いなさい。アートマに従う者が、真の霊性の求道者です。ハートのすべてで神を黙想し、神の御名を唱え、神に全託して、あなたの人生を救いなさい。神の名声と高名は、外から得られるものではありません。新聞やパンフレットが作り出すものではありません。状況によって変わるものではありません。主の名声と高名は、その神聖さと愛によって大きくなるのです。ですから、何についても思い悩むことはありません。あなたの愛を現しなさい。あなたの神性な本質を促進しなさい。犠牲の精神を育てなさい。
1993年8月30日
※1カースト:カーストには、大枠を示す四氏姓(ブラフミン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)で区分するヴァルナと、職業で細かく区分するジャーティがある。各カーストはそれぞれの浄性を保つために、婚姻や職業に関する厳しい規制を設けている。カーストの高低と貧富は必ずしも一致しない。
※2ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※4バガヴァッドギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※5クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※6マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※7ダルマ:本分、正しい行い、法、正義、規範、権利、義務、慣習、宗教という意味をもつ。ダル(保つ)を語源とする。
※8プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
開催日:2022年4月10日(日)
テーマ:『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』※1の意義
参加者:29名
質問:
① スワミ※2ご自身が書かれたラーマーヤナ※3から何を得ようとフォーカスしたいか?
② 善悪の様々な物語が混合したラーマーヤナが私たちにとって甘露のようなジュースであるためには、どのような姿勢でこれを聴く必要があるか?
<参加者のコメント>
… ① スワミ※2ご自身が書かれたラーマーヤナ※3から何を得ようとフォーカスしたいか?
「この『ラーマ物語』を上中下と読んだ。裏話のような『ラーマ※4が怒ったふりをした』というような、あえて神の視点から見た表現がある。いろいろな喜怒哀楽があり、いろいろなことが起こるが、結局すべては芝居で、神のリーラー(奇跡的な御業)なのだと、所々で気づかせてくれることが私には一番大きいと思った。」
「物語に夢中になっていると、時々スワミが裏話を解説してくださることがすごいと思う。全部スワミが脚本を書かれ、すべて劇の中で起こったこと。後書きにも書かれていたが、ラーヴァナ※5は一応悪役だが、本当は神と早く融合するために善人として7回生まれてくるよりもむしろ悪役として3回生まれてくることを選んだという、非常に帰依のある崇高な魂だった。世の中に起こる出来事は、何がどうなっているか私の目からは分からないが、本当にすべては神のリーラーで愛の中の劇なのだと思う。」
… ② 善悪の様々な物語が混合したラーマーヤナが私たちにとって甘露のようなジュースであるためには、どのような姿勢でこれを聴く必要があるか?
「ラーマーヤナはハッピーエンドではなく、最後は流れていく。この世的な幸せが最終的な目的というのではなく、良いこともあり、悪いこともあり、それを乗り越えて、また元に戻ったり。そういう流れを教えてくださる。それを超越したような気持ちで読んでいくことが必要。それが甘露、甘いということなのかなと思った。」
「一つひとつの場面で、男の兄弟の愛情とか、夫と妻との夫婦の関係などの生き方が人間としてのダルマ(正しい行い)にかなっている。特に私が好きなのは2つあるが、一つはラーマが戻ってきた時に、バラタ(ラーマの異母兄弟)がずっとラーマのことを想っていたために、どちらがラーマでどちらがバラタか分からないくらい、肌の色まで変わっていたということ。一生懸命御名を唱えて想うと肌の色も変わるくらい同じようになるという姿もとても感動的。また、ハヌマーン※6が純粋にラーマのことばかり考えていて、髪の毛一本一本から御名が聞こえて、もう最後にはラーマ自身がハヌマーンを抱きしめてくれるという場面は本当に憧れる最上の帰依の形だと思う。そのように物語の一つひとつの場面に大変な甘さがあると思うので、一個一個を深く味わいたいと思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① スワミ※2ご自身が書かれたラーマーヤナ※3から何を得ようとフォーカスしたいか?
「ラーマーヤナに関しては当時生きていたヴァールミーキ※7や他のたくさんの賢者が書かれた、本当にたくさんのバージョンがある。特にヴァールミーキはラーマ神の人間的な側面に重きを置き、そこではすべての出来事においてラーマのことを人間として扱っている。でもトゥルシー(トゥルシーダース・ゴースワーミー※8)のラーマーヤナは帰依者と神との関係から書かれている。スワミの書かれたラーマーヤナは神から見た視点で書かれている。なので、ラーマーヤナに興味のある方は誰でも『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』を読むことによって、本当に全体的なものの見方が完結してすべてのレッスンを得ることができると思う。この『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』では、何か学びを得るべきポイントが訪れた時には、その中で必ずスワミが学びを得るべき御教えを合わせて教えてくださっている。そしてもう一つ恩寵深いポイントは、ヴァールミーキや他のバージョンでは議論されていない出来事も含めて取り込まれている。この『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』を読むことで、レッスンを得るという側面からも楽しんで学ぶことができるということと、帰依の側面から楽しめる、その両方にここでフォーカスできるということ。」
「いろいろなトラブルがたくさん起こるが、そんな中でもラーマが首尾一貫して善良さに固執されてきたこと。一つひとつの章のすべてに学ぶべき点が含まれている。また、ラーマーヤナは同時にシーター※9の立場から読むこともできる。シーターは子供の頃から王宮に住んでいたが、結婚を経た後でまったく想像をしたことがないようないろいろな問題に直面することになった。どのようにシーターのように非常に強く人間性や謙虚さを様々な状況の中で維持できるのかという側面を学ぶことができる。同時にこの物語をとおしてシーターが、女性がいかにして幸せでまた強くいられるのかという人間として非常に素晴らしい例を示している。シーターはこの時どのように考えていたのだろうとか、ラーマ中心の見方とは異なった見方で読んでみることが違う楽しみ方になってくると思う。」
… ② 善悪の様々な物語が混合したラーマーヤナが私たちにとって甘露のようなジュースであるためには、どのような姿勢でこれを聴く必要があるか?
「皆さんに、神聖なラーマ・ナヴァミ(ラーマ神のご降誕祭)の日をおめでとうございますと申し上げます。オレンジの実の中にはいろいろな繊維質の物が入っているが、それを取り去ってジュースを得るのと同じように、物語の中にも良いもの・悪いものが両方含まれている。やはり悪いものとしてはカイケーイー※10が示した嫉妬や、ラーヴァナが示したエゴ。そういったものを繊維質と思って取り除くなど、そういう姿勢で学んでいけば良い。でも、ここで学べる非常に素晴らしい多くの良いことに比べれば、そこに混ざっている悪いことは着目するに値しないということだと思う。またラーマーヤナというのは素晴らしい人間関係のためのガイドブックでもあると思う。この物語をとおしてスワミが示された理想の人間関係は、例えば理想の母と子供の関係であったり、理想の夫と妻の関係であったり、理想の兄弟、親戚関係であったり。それらの理想の人間関係をこの物語をとおしてスワミが教えてくださっていると思う。そして同時に人間関係だけではなく、ジャターユ※11との関係や、いろいろな動物たちとの関係、さらに動物だけではなくて石や物との関係においてさえもそうだった。そして、これらの悪いものを乗り越えた後で、初めて良い特質がやって来る。私たちがいかに悪いことを克服して、良いものを得ることを学ぶことができるのか、その学びが得られるように祈りたい。」
「人間が体験していくことは、すべて悪いものと良いものが交互に続いていく。もし私たちが幸せな体験だけを送っていたならば、悲しみが何を意味するのかも分からないまま。そして悪い出来事も良いことも同様にレッスンを与えてくれる。もし悪い出来事もすべて神様がそのように演技をされているということを理解しなければ、物語を楽しむことができなくなってしまうのではないかと思う。また、これらの物語を読む時に、本当にこれは普通の人間の身に起こっていることだと考えて、そのような観点でこれを捉えていくことができれば、これは神様なのだからという冷めた目で見ずに、そのレッスンが得られていくだろうと思う。」
ババ様の御言葉
「ラーマーヤナは、人の本当の正体、家庭が真に意味するもの、社会の神聖さについて述べています。ラーマーヤナは、人間的価値の重要性を教えています。現代では、ビジネス、教育、政治といったあらゆる分野において腐敗が横行しています。このような状態ですから、ラーマーヤナの行動規範は非常に重要なのです。ラーマーヤナの行動規範は、兄弟の間、父と息子の間、師と弟子の間に存在すべき関係について、詳しく説いています。」
1999年3月25日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19990325.html
※1『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー』:『ラーマ物語』 ラーマカター ラサ ヴァーヒニー ~ラーマーヤナの甘露の流れ~ サティヤサイ出版協会
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※4ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※5ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※6ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。風の神の子で空が飛べたため、飛んで薬草をとりに行ったり、海の上を飛んでランカを偵察に行ったりと、多大な貢献をした。
※7ヴァールミーキ:ラーマの存命中に記されたインドの大叙事詩『ラーマーヤナ』(ラーマの歩みという意味の神の化身ラーマの物語)の述者。
※8トゥルスィーダース・ゴースワーミー:北インドの聖者。ラーマ神の偉大な帰依者にして大賢人。16世紀にラーマーヤナをアワディー語で再編集した。
※9シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※10カイケーイー:ダシャラタ王の第三王妃。バラタの母親。
※11ジャターユ:『ラーマーヤナ』に登場する年老いた禿鷲(はげわし)、ヴィシュヌ神の乗り物である聖鳥ガルダの子といわれる。ラーヴァナがシーターを連れ去ろうとしたとき、衰えた身であるにもかかわらずシーターを守ろうとして戦うが、ラーヴァナに倒された。ラーマはジャターユの頭を膝に載せ、自らの手で死に水を飲ませた。ジャターユはラーマの御名を口にしつつ息を引き取り、ラーマそのなきがら亡骸をとむら弔った。
開催日:2022年4月7日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第55節、第67節「神に献身しながらあらゆる活動に取り組みなさい」、「ブラフマン瞑想を行う昔の聖賢たちを模範としなさい」
参加者:43名
質問:
① もし解脱が最終的な目的であれば、なぜ苦行をする代わりに様々な職業に就くのでしょう?
② 神聖な想いという燃料が欠けている理由はなぜでしょうか?
③「一人離れた場所でひたすら神の瞑想に勤しむ偉大なる魂の数が減ると、世界はより多くの苦しみに襲われます」と第67節にありますが、偉大な魂の減少はどのように世界の苦しみにつながるのでしょうか?
<参加者のコメント>
… ① もし解脱が最終的な目的であれば、なぜ苦行をする代わりに様々な職業に就くのでしょう?
「様々な職業に就いていくのも苦行だと思う。様々な人間関係などに悩みながらもスワミ※1に祈りながら、その経験の中で成長していける。まさに苦行であると思う。」
… ② 神聖な想いという燃料が欠けている理由はなぜでしょうか?
「神聖な想いというのは、やはり神への想い。それをハートに据えてこそ愛がどんどん拡がっていく。そうすると愛のエネルギーがあふれてきて、ずっとそれが消えることがなくなっていくと思う。教育機関でも、神の教えや、正しいことなど根本的なことを教えてくれる所が本当に少ない。私も学校でそういうことを習ってこなかった。皆が自然の成り行きで内面に神聖な思いを抱けたらいいが、やはり世の中には神聖な想いを遠ざけるようないろいろな情報が多い。そういうものに目を取られてしまって、大事な部分を忘れてしまう。子供のうちから神への信愛を育むこともできず、それは大人になってからも変わらない。だから皆が神聖な想いという燃料に満たされる訳ではない。やはり正しく導いてくれる教師が必要だと思う。学校でも忍耐とか、無私の行為など根本的な、ババのおっしゃるような真理が教えられる状態になると良いと思う。」
「私たちは食事もヤグニャ(供犠)だと教わっており、食前にフードマントラを唱えている。そのように一つひとつの行為を神聖なものにしていく思いが欠けていることが原因かと思った。」
「昨日、世界のお金持ちランキングというものを見た。上位の人たちの個人所得が何十兆円などと書いてあったが、そんな大金は一生かかっても使いきれないだろうが、さらに蓄えよう、もっと稼ごうとしているようで、そんなに稼いでどうするのだろうと思った。そのように皆が欲望に際限を設けていない。昔は世界がシンプルで霊性修行がしやすい環境だったと思うが、どんどん欲望が拡がってそこから世界の苦しみが生まれていると思った。」
… ③「一人離れた場所でひたすら神の瞑想に勤しむ偉大なる魂の数が減ると、世界はより多くの苦しみに襲われます」と第67節にありますが、偉大な魂の減少はどのように世界の苦しみにつながるのでしょうか?
「私の想像だが、そういう偉大な魂の方々は、その方々の周りのすべてが浄化されているような気がした。空気や五大元素が浄化され、そこから良い波動が広まって、地球に影響しているような気がする。一人の偉大な魂の祈りはとても大きな影響を与えていると思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① もし解脱が最終的な目的であれば、なぜ苦行をする代わりに様々な職業に就くのでしょう?
「サナータナ ダルマ※2では人生を年齢に応じて4つの時期に分類する。一つ目は学生期、その後に家長期が続く。その後は老年期。最後はサンニャースィン※3としての世を捨てた者の時期。その4つの段階がそれぞれの時期に果たすべき役割に相当している。誰もが4つの時期を通ることが想定されている。したがって一つひとつの段階が最終的なゴールにたどり着くための道具になっている。これがどういうことを意味しているかというと、すべてを神聖な活動として昇華されなければならないということ。ギーターヴァーヒニー(ヴァーヒニ シリーズ※4の1冊)の中でスワミがおっしゃっていることだが、その一つの方法は、私たちが何を行うときにおいてもスワミ、神様が私たちのことを見ていらっしゃると考えて、その義務を果たすことであるといわれている。そのように考えることが、神様が常に私たちと共にいると思いを与えてくれる。このように、神が私たちと常に共にいると考えていくことは、すべての中に神がいるように、すべての人を見ていくということに繋がっていく。すなわち、すべての人の中に神を見ることができる段階にたどり着いて初めて、世を放棄した人のようなステージにたどり着くことができるということを意味していると思う。最初の学生期や家長期のステージを通して平静さを学んだり、あるいは二重性を見ないということを学ぶことになっている。たとえ最終的なゴールが解脱だったとしても、その前の段階で行っていく一つひとつのことが、そこに至るための試金石になっている。であればこそ、その以前の段階においても私たちの職業的なことを献身的に行っていく必要があるということだと思う。」
「私たちがいろいろな職業に就いているのは、五大価値(真理、正義、平安、愛、非暴力)について学ぶこと。いろいろな職業をとおして、日々の生活の中で最終的に解脱を得るために五大価値を実践していかなければならない。よくスワミが教育の目的は生計を立てるためではなく、人生のためのものであるとおっしゃっている。それと同じでいろいろな仕事をしていくのも生計を得るためでなくて、最終的に解脱を得るためにそうしている。私たちの職業はそれぞれ違っていて、危険な仕事をしている人、普通の仕事をしている人、さまざまだが、一人ひとりが同じ原理を見るようにしていけるように仕事をしている。これが自分の理解。」
… ② 神聖な想いという燃料が欠けている理由はなぜでしょうか?
「私たちが人生の主なゴールを忘れてしまったことが原因。私たちは、例えばキャリアや、いろいろなことに重きを置き過ぎているため、何が中心的な目標なのかが分からなくなってきてしまっている。人間には五つの神聖な特質が備わっている。しかしいろいろな執着に縛られ利己的になることで本来備わっている神聖な性質の活かし方が分からなくなってしまっている。いつも私たちの中には良い思いや悪い思いの間の葛藤がある。そこで少しの時間を取って、どちらの思いを自分が励まして伸ばしていかなければならないのかを考えることが大事になっている。私たちが、良い思いの方を選ぶなら、それが習慣になり、いつも良い思いをもつようになり、悪い思いの方を選んでも、それが習慣化されてしまう。」
「ここでスワミが述べていらっしゃるのが、放棄、平安、真理、慈悲深さ、忍耐、無私の奉仕これらは元々の人間の性質であるということ。これらを燃料としていつもくべていなければならないとおっしゃっている。私たちがこれらの反対のこと、例えば嘘や、人を傷つけたり、良くない話し方など、そういったことは神聖な想いという燃料をくべることに繋がっていかない。スワミがおっしゃっているいろいろな特質というものは、私たちが常に神に献身的に捧げているのであれば、すべては自然にやってくるような特質ばかり。もし燃料が足りなくなるようなことがあるのであれば、それはスワミがよくおっしゃるようなパートタイムな帰依であるということになってしまう。そういった場合には望ましい結果にならないと思う。」
… ③「一人離れた場所でひたすら神の瞑想に勤しむ偉大なる魂の数が減ると、世界はより多くの苦しみに襲われます」と第67節にありますが、偉大な魂の減少はどのように世界の苦しみにつながるのでしょうか?
「サナータナ ダルマにおいては、生徒とグル(霊性の導師)の関係においてサナータナ ダルマが守られなければならないといわれている。体系的なやり方で師から弟子へ知識や英知が伝授されることになる。そのようにして多くの人がダルマの道を歩んでいくことを非常に助けてくれると思う。そのようなグルの数が減っていくとそのような体系的な知識が次の世代へ引き継がれることが難しくなると思う。そのような問題が起きると、やはりダルマ(正義)が減衰して、人々の行いもアダルマ(不正義)なものに変わってしまって、それが苦しみにつながると思う。グルの数が減っていくとアヴァターが降臨して、再び偉大な人々が力を取り戻せるようにしてくださると思う。」
「偉大なグルであるマハープルシャと呼ばれる人々は、単に自分の問いの答えを得るために瞑想しているのではなく、その人生において、完全に思いを世の中から切り離して瞑想しているのだと思う。彼らのとてもシャープな瞑想の能力によって一つのものに一点集中することができる。そのような彼らの自然とつながる能力のために自然を理解することができ、彼らはどのようにも自然を傷つけることがない。それに対して私たちは自然が一体何を必要としているのかということをまったく感じることができないし、自然を癒すためにどうすればよいのかもわからずに自分たちのことを中心に考えている。これがそのような偉大な魂の数が減るとなぜ世の中に苦しみが増えるのかということの背景だと思う。」
ババ様の御言葉
火には本来、光をもたらす力がありますが、それには燃料が必要です。霊性修行者の知性(ブッディ)という火の中に、放棄、平穏、真理、慈悲深さ、忍耐、無私の奉仕という燃料を常時くべなければなりません。その火が英知の光を放つのです。
プレーマヴァーヒニー第67節
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2サナータナ ダルマ:古来永遠の法
※3サンニャースィン:世捨て人、放棄者、隠遁者、隠者、苦行者、出家、出家行者、托鉢、生涯独身を貫く行者、遊行者、遊行期にあるブラフミン
※4ヴァーヒニ シリーズ:インド発行の月刊誌、サナータナ サーラティ誌にテルグ語と英訳で連載されたサティヤ サイババの著作。
開催日:2022年3月13日(日)
テーマ:ヒンドゥー新年
参加者:35名
質問:
①スワミ※1は良いことも悪いことも人間の思いの結果であるとおっしゃいる。思いが運命を形づくらないようにするには、どうすればよいか?
②人々は新年の誓いを立てるが、より良い自分になるには、どのような決意が有益か?
③スワミが教えて下さったUGADI(ウガーディ※2・テルグ正月)にまつわる5つのマハースートラ(簡明な規則)の中で、特にどれを自分のフォーカスにしたいか?また、それはなぜか?
UGADI(ウガーディ・テルグ正月)にまつわる5つのマハースートラ(簡明な規則)
U: Unity of Thought, Word and Deed (思いと言葉と行動の一致)
G: God is Now Here (神は今ここにいる)
A: As you sow, so you reap (蒔いたとおりに刈り取る)
D: Dedicate all your actions to lord (すべての行いを神に捧げる)
I : I want peace (私は平安が欲しい)
<参加者のコメント>
… ①スワミは良いことも悪いことも人間の思いの結果であるとおっしゃいる。思いが運命を形づくらないようにするには、どうすればよいか?
「今、ウクライナ問題や戦争が起こっている。サイセンターで一日3回世界平和に祈ることとなり、今までそういったことをしてこなかった私だが、日々流れてくる悲惨な状況を目の前にして、初めて世界平和を祈ることができた。しかし子供の病院が爆撃されたというニュースを聞いてすごい怒りにまみれてしまった。そしてその日の二つのサットサング(善人との親交)で聴いた話から教わることがあった。一つはビーシュマ※3が子供を殺されて怒ったときに、ドラウパディー※4から憎しみをもつものではないと諭されたというお話で、もう一つは、バガヴァッドギーター※5の中のお話。すべて敵も味方もなく、憎しみも一切なくすべてを平静に見るという教え。まさにいろいろなことが起きた中でも、平静を保っていく。そして世界への祈りをもつということを教えられたように思った。敵と味方とか、これが良いとか悪いとか、善悪を判断しないのはなかなか難しいが、本当に平静に見ながら祈っていくということではないかと思う。」
「思いどおりにいかないとき、ストレスや、反感、反発の思いが沸きあがってきたりする。そういう自分の感情と離れて、常に平安とか幸福でいられるように、それを持続できるように、自分を制御できるようにならないといけないと思う。職場でも一時的にストレスフルの時は、まるで戦場みたいだ。そういうときに平安、平安、シャンティ、シャンティと思うようにしていると、心も落ち着いてくる。とにかくどんな状況でも自分が一番落ち着いて、悪い感情が出ないようにしていれば悪い種を撒くこともないので、そのように努めたい。」
… ②人々は新年の誓いを立てるが、より良い自分になるには、どのような決意が有益か?
「しっかりとした強い決意が大切。それが持続できる人は良いが、私の場合は以前スタディーサークルで教わった、習慣を作るためのノートを書いている。毎日ノートに書いた『することリスト』をチェックして続けている。やはり毎日毎日、決意を新たに持続していくことが私の場合は大切。」
… ③スワミが教えて下さったUGADI(ウガーディ・テルグ正月)にまつわる5つのマハースートラ(簡明な規則)の中で、特にどれを自分のフォーカスにしたいか?また、それはなぜか?
「現在、コロナの蔓延や戦争、いろいろな悪いことがいっぱい起こっていて、良いことを見つけるのは非常に難しい。だが、こういう時こそいろいろなサーダナをとおして自分を常に冷静にし、静かに平静でいることではないかと思う。」
「私は5つのUGADIのマハースートラのD『Dedicate all your actions to lord』の『すべての行いを神に捧げる』にフォーカスしたいと思った。なぜかというと、自分の行いの良し悪しを見直して、神に捧げるため良いものにしたいから。しかしもし間違えや、悪い感情が出てしまっても、それすらも、ごめんなさい、今間違えてしまいましたと捧げて見直す。そのようにして、間違えも次へのステップとなると思ったので、Dを選びたい。」
「私は前回のスタディーサークルの平静さをテーマにしたサットサングの紹介動画でのBro.アラヴィンドのお話にとても感動した。そのようにすべては自分のために良いことであると思えるように、G『God is now here』の神は今ここにいるというのを特に留意して、これは自分のために良いことだと、ただ起こることを淡々と見ていけるようになれたらよいと願っている。」
<サイの学生のコメント>
… ①スワミは良いことも悪いことも人間の思いの結果であるとおっしゃいる。思いが運命を形づくらないようにするには、どうすればよいか?
「サイスクールの高校2年生の時に先生から学んだのは、自分で考えたことは良いことであっても悪いことであってもすべて神様は祝福してくださっているということ。そしてスワミは、良くないことがあっても、他の良かったことを常に思うことの重要性をおっしゃってきた。だから私たちは意図として他人の良い点だけを考えるべき。皆で集まってバジャン(神への讃歌)をする理由の一つは、人々の善良な思いを形にすることができるから。例えば、私がサイ大学の在籍時にインドでサイクロンが発生していたときのこと。サイクロンが沿岸部に到達しようかという時期だった。サイ・ クルワント・ホール※6で年長者が、サイクロンが到達することを妨げるために、皆で一緒に祈りましょうと言った。実際にサイクロンは到達したが、その時の被害は人々が思っていたよりもずっとずっと少ないもので済んだ。このように皆さんの心を合わせた祈りや思いが集合すると、良い結果に繋がるという例だった。」
「私たちの人生は思いをどう理解するのかにかかっている。何か思いが沸いてきたときに、ずっとそれを考えているとそれが大きくなってくる。例えば、自分が何か劣っているという思いにずっと囚われていると、落ち込んだり、そういった影響をずっと受けることになる。その一方で自分を強くするような思いを持ち続けるならば、私たちの自信やポジティブな部分を増強すると思う。それは思いに応じてどのように私たちの身体が反応するのかということ。ポジティブな思考が良いエネルギーをもたらす。同時に自信過剰にならないようにしていかなければならない。もし私たちがポジティブさをもっていればポジティブになり、ネガティブな思いをもち続ければそれが付いて回ることになる。」
… ②人々は新年の誓いを立てるが、より良い自分になるには、どのような決意が有益か?
「絶えず他者から学び続け、他者からいろいろな教訓を受け入れ続けることが、絶えずより良い自分になっていくために大事なこと。他者の意見から影響をあまり受けすぎることも良いことではないが、少なくとも他者の意見に一定以上の重きを置いて、その中で役に立つことを選んで受け入れていくことが大切。つまり同時に、他者の意見に過剰な重要性を置くことも避ける必要はある。本当に自分が理解している範囲では、新年の決意などにおいても、他者から学んでいくことができる。」
「次の2つのことについて、考える必要があると思う。一つは、より良い人間になるという目的地に辿り着くためにどんな行動が必要かということ。より成長していこう、前に進んでいくための努力。ときには道を下る場合もある。この新年の決意において大事なのは、私たちが実践可能な決意を設定することが非常に大事だと思う。そして、それを実践するうえでは、一人ひとりの旅の道のりはユニークであり異なるので、当然決意も違うし他者の真似をする必要はない。そして願いが必ずしも叶えられるとは限らないということも念頭に置く必要がある。また、このように立ち向かって行こうと決意をする時に、自分自身が今何処に立ち位置として立っているのかを、一人ひとりが自分自身を評価して、それを知ることから始めていく必要がある。今の自分自身の必要性と自分が置かれている状況をしっかりと分析して評価した後で、この状況にいる自分に必要なことの優先順位は何なのかを考える必要がある。それらのことをすべて考慮に入れたうえで、より良い自分になっていくために、前に向かっていくステップは何であるのかを考えていく必要がある。そして、もう一つ非常に大事なことは、このような決意をすることは、必ずしも新年だけに行わなければならないことではないということ。スワミは一瞬一瞬がすべて新しいものであり、遍在であるとおっしゃっている。自分が旅路において少し遅れをとったと感じたときには、いつでも新たな決意をして、どうやって自分がより良くなれるのかという決意をいつでも随時行っていくべき。そして一人ひとりが自分自身のために、それを決意していくことができる。」
… ③スワミが教えて下さったUGADI(ウガーディ・テルグ正月)にまつわる5つのマハースートラ(簡明な規則)の中で、特にどれを自分のフォーカスにしたいか?また、それはなぜか?
「個人的には、A:『As you sow, so you reap』、蒔いたとおりに刈り取るという点にフォーカスしてみたい。すべての行動には等しくそれと逆もあり得るということを思い起こさせてくれる。私たちは良い行いで悪い行いをキャンセルできるかと考えがち。しかし実際には悪いことをすればその報いが起きるし、良いことをすればそれは同じこと。常に絶えずコンスタントに行動しなければならない。私たちがもし絶えず良い思いをもっているのなら、それを実践に移して良い結果を得ることができる。それがスワミのおっしゃることで、『自分が思うようになる』という言葉があるが、そういったことなのではないかと思う。いつも私たちは良い思いをもって良い行動をして良い結果を得られるようにしていく必要があると思う。」
ババ様の御言葉
あなたの意識には二つの目があります。すなわち、サティヤ〔真理、真実〕と非暴力(アヒムサー)です。これらはあなたを目的地へと、二つの光へと、内なる空にある太陽と月へと連れて行ってくれる道案内です。もし自分の発言においてサティヤすなわち真実を守る方法を知りたければ、『バガヴァッドギーター』を見てみなさい。ギーターは最良の発言は、「アヌドヴェーガカラム ヴァーキャム」(他人に痛みや怒りや悲しみを生じさせない発言)であると述べています。シャーストラも、同様にこう述べています。「サッティヤム ブルーヤーット、プリヤム ブルーヤーット、ナ ブルーヤーット サッティヤム アプリヤム」――真実を語りなさい。喜ばしく語りなさい。こう言えば聞き手に歓迎されるからという理由だけで、聞き手の支持を勝ち得るために真実でないことを語ってはなりません。もし真実を語れば悲しみや痛みをもたらすことになるなら、黙っていなさい、ということです。これは日常生活における真実の誓いです。
1967年12月20日
ケーララ州サティヤ・サイ・オーガニゼーション役員大会の御講話より
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ウガーディ:テルグ正月。テルグ語、カンナダ語圏地方のお正月。ユガの始まり、世界の始まりという意味のサンスクリット語のユガーディYugadi(yugAdi)に由来する。
※3ビーシュマ:『マハーバーラタ』の英雄でシャーンタヌ王とガンガー女神との間の子。カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の大叔父。
※4ドラウパディー:夫の前で辱めを受けてクリシュナ神に救済を求め救われたパーンダヴァ兄弟の共通の妻。
※5バガヴァッドギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※6サイ・ クルワント・ホール:プラシャーンティ・ニラヤムのダルシャン・ホール
開催日:2022年3月23日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第30節、第31節「サナータナ ダルマ~人類の母なる神」、「バーラタはサナータナ ダルマの故郷である」
参加者:52名
質問:
①なぜこのような原理は古来永遠の法であると言われるのか?なぜすべての宗教の母であるとスワミ※1がおっしゃるのか?
②すべての宗教のゴールは一つである一方で、なぜ人々はある宗教を敬い、別の宗教を見下すのか?
③バーラタ※2人たちが得た心的傾向(サムスカーラ)を他国の人々がまだ獲得していないとスワミがおっしゃるのは、どのような点であると思うか?
<参加者のコメント>
… ①なぜこのような原理は古来永遠の法であると言われるのか?なぜすべての宗教の母であるとスワミがおっしゃるのか?
「サナータナ ダルマ(古来永遠の法)という言葉について、私自身はきちんと理解できていないと思うが、若いころからヴェーダ※3に触れて、学び、真理がすべてに遍満しているという教えは他にはないと思った。学ぶには膨大すぎて、とても大変だが、なにか一つ本当に理解すると、スピードがついて、子供が母親に駆け寄ってくるようにどんどん引き寄せられる。母のように感じる。たくさん体験して実践して、そのものになれたらいいと思う。」
「サナータナ ダルマというと宗教自体を超えて人間の五つの鞘※4や呼吸などの人間の原理。」
… ②すべての宗教のゴールは一つである一方で、なぜ人々はある宗教を敬い、別の宗教を見下すのか
「宗教は、生命原理を説いているサナータナ ダルマの一部分。いろいろな角度から教えてくれている宗教そのものは純粋なものだと思う。しかし、そこに人間が絡んでくると、私の宗教とか、私が信じているものだからとか、私の正しさという自分のエゴが出てきてしまうのではないかと思う。そうすると大きな見方ができなくなってくるのではないか。」
「本当は一つひとつすべての宗教を学んで、味わって深く突き止めると、すべては同じものであることがきっと分かると思う。自分が選んだものが一番良いものと考えたり、少ししか知らない他のものを、一部見ただけで判断してしまったりする行為は無知であり、一部しか見ていないことが一番の原因であると思う。」
… ③バーラタ人たちが得た心的傾向(サムスカーラ)を他国の人々がまだ獲得していないとスワミがおっしゃるのは、どのような点であると思うか?
「バーラタにおいては悟った聖者や賢者が最古の知識を正しくそのままの形で守り続け、語り継がれていて、人々の魂にも浸透していると思う。そこから拡がっていったことを考えると、人々が自分のものにしようという思いが出て、少しずつ形が変わっていったり、普遍的なものが少しずつ変化して枝分かれしてしまったと思う。そういう点で真理が純粋に守られてきたバーラタにおいては他国と異なる点があるのではと思った。」
<サイの学生のコメント>
… ①なぜこのような原理は古来永遠の法であると言われるのか?なぜすべての宗教の母であるとスワミがおっしゃるのか?
「それは神と同じぐらい古くて、そこからすべての宗教や一切のものが生じた源であるからこそ、それが古来永遠であると言われているのだと思う。一つひとつの宗教は、それぞれが少し異なったタイプのダルマ(本分)にフォーカスしているところがある。いろいろな宗教が示しているダルマを組み合わせれば、それらを統合したものがサナータナ ダルマになっていくのではないかと思う。すべての宗教はこのサナータナ ダルマに従うべきであると思う。すべての宗教がその同じ源に従うならば、それがサナータナ ダルマだと思う。サナータナ ダルマはいろいろと枝分かれして多様な宗教に変わった。スワミはサナータナ ダルマのことをすべての宗教の母であるとおっしゃっている。」
「サナータナ ダルマとは永遠の宗教であるという意味。それが絶対的な義務であると示す法であるから、文字通りサナータナ ダルマと呼ばれる。そしてサナータナ ダルマはいろいろなサーダナ(霊性修行)をその中に構成しており、すべての人間たちが実践していくべきものとなっている。異なった書物は異なったダルマや義務を示している。でもサナータナ ダルマとは美徳そのもののこと。例えば、正直で誠実であることや、他者を傷つけないことであったり、純粋であったり、行いにおいても純粋であったりすること。そういったことをすべて含んでいる。サナータナ ダルマは自然でかつ永遠なもの。サナータナ ダルマはすべての人々の行動を支配する法則になっている。それがあらゆる宗教の母であるといわれる所以。このサナータナ ダルマの役割は、私たちを一番太古の聖典に導き戻すことにあるのではないかと思う。そしてヴェーダも神ご自身が直接姿を現したものといわれている。それらの法の著者は神ご自身に他ならない。」
… ②すべての宗教のゴールは一つである一方で、なぜ人々はある宗教を敬い、別の宗教を見下すのか?
「多くの人が自分の宗教を実践することよりも、自分の宗教が正しいことを証明しようとすることにフォーカスするので問題が起きる。基本的にはすべての宗教の神髄の真実は、まったく同じだが、真実がどのように説かれているか、その説明の仕方が宗教によって異なっているだけであると理解している。どういうことを実践するかということを、一番母なるおおもとの宗教から引き出して、実践していくということが良いのではないかと思う。例えば、瞑想という霊性修行を仏教徒も採用しているし、一部のクリスチャンも採用している。バジャン(神への讃歌)を歌うことも、ヒンドゥー教にもシク教※5にも共通している。おおもとの母なる宗教であるサナータナ ダルマから引き出してサーダナを実践することは、どの宗教においてもできる。その一方で、他の宗教を見下ろすことは決して推奨できることではない。もし誰かが他の宗教を見下ろすならば、宗教とはどういうものであるか、自分の宗教も含めて、それを理解していないということになる。」
「現代社会の中で、この2番目の質問が一番大事な点であり、この問題によって、今日世界の多くの場所で戦争が起こり、血が流されている。すべての人が、すべての宗教というものは同じ一つの真実を言っていることを理解しなければならないと思う。大半の人は自分が信じている宗教がより優れたものであると思い込んでいるから。そのような考え方は、ほんの一部の人の利益にしかならない。一度プラシャーンティ・ニラヤム※6で、宗教間の一体性と、宗教間の調和という会議が開かれ、様々な宗教の人々がそこでスピーチする中で、ある一人のグル(霊性の師)、特にサナータナ ダルマに従っているというグルが発言した。その方が述べたのは、『今日の構造の中で大きな問題というものは、たった一人の神しかいないと思われていることです。それは間違っています』ということだった。そのグルによれば、正しいコンセプトはただ神がいるということであって、唯一の神でなければならないわけではないということ。大半の宗教は唯一の神様だけを強調しており、一つの神だけにスポットを当てたものにすぎない。もし、神がいるというだけで、そこに普遍意識があると考えると、その論争は終わる。これが今日世界で起こっているすべての宗教の問題の根源にあると思う。」
… ③バーラタ人たちが得た心的傾向(サムスカーラ)を他国の人々がまだ獲得していないとスワミがおっしゃるのは、どのような点であると思うか?
「バーラタの国では兄弟同朋という考え方がある。他のいくつかの文化ではそういった点が欠けているところがあるかもしれない。インドには多様な言語があり、色々な祝祭があるが、たとえインドの中にどれほどたくさんの言語や祝祭があったとしても、人々の中には兄弟同朋意識がある。それに関して私たちが理解しなければならないのは、得るべきサムスカーラ、心的傾向というのは、私たちがその文化において、ある一括りの価値に従っていかなければならないこと。それが本当の文化であり心的傾向だと理解することが大事だと思う。なぜなら私たちがもっている一括りの価値がどんなものであるかによって、毎日の生活の中でそれに基づいた幸せや悲しみを得ていくことになり、私たちが日々成長していくことができるかどうかを左右するからだ。」
「この世の中のあらゆるものは互いに関係している。一体性の感覚から、愛や思いやり、規律などがすべてが来ると思う。しかし多くの人が何らかの心的傾向によって十分な愛や思いやりなどを得ることができずにいる。すべての人々には幾分の兄弟同朋心もあれば、幾分の邪悪な性質、何らかの心的傾向を必ずもっている。どの程度のサムスカーラをもっているかということは、どの程度その人が心的傾向を外部から受け取って自分のものにしたのかということに依存していると思う。」
「スワミがバーラタ人に関連して話されたご講話で、時に人々がそのような良くない心的傾向をもつことがあると述べられたことがあった。例えば、太古の昔のヨーギ(ヨーガ行者)の人間性を見ていると、常に内側の真の自分自身の近くにいるような心的傾向があった。そして多くのヨーギは森に棲んで、人里離れたところで瞑想したりする人生を歩んできた。祈りというものは何かを願い求めるものではなかった。ヨーギが神に祈っていたのは、何かが欲しいというのではなく、執着を捨てて神に近づけるようにと祈ってきた。一方で、今日の人々はより快適さが欲しい、お金が欲しいという逆の方向の祈りをもっており、結果として、どこに限界があるのかということさえもわからなくなっている。ヨーギが古来にもっていたような常に無執着でいようとする心的傾向をより学んでいかなければならないと思っている。」
<ババ様の御言葉>
「怒りの炎、慢心の炎、憎悪の炎、妬みの炎は、他の炎よりも壊滅的です。これらの炎は、心の中で密かにめらめらと燃え上がります。そしてつねに、もっともっと油を注げと要求します。ギーターの中で、炎はアナラと呼ばれています。なぜなら、「アナラ」には「不十分」という意味があるからです! 炎は決して「もう十分だ」とか「満足だ」とは言いません。あなたは遠くで炎が燃え上がっても怖がります。そうであれば、あなた自身の中で炎が燃え上がったらどうでしょう? あなたはどうやってその恐ろしい炎を消すのでしょうか? サナータナ ダルマ〔古来永遠の霊的な法〕には、経験によってテストされ、聖仙たちによって保証された、いくつかの消火剤があります。それらは、真理(サティヤ/真実)、ダルマ、平安(シャーンティ)、愛(プレーマ)です。それらをあなたのハートに染み込ませなさい。そうすれば、炎を遮断することができます。」
1965年3月1日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19650301am.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2バーラタ:インドの正式な国名。バラタの子孫の意、「神を愛するもの」の意。
※3ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※4五つの鞘:パンチャコーシャ。食物鞘(アンナマヤ コーシャ)、生気鞘(プラーナマヤ コーシャ)、心理鞘(マノーマヤ コーシャ)、理智鞘(ヴィグニャーナマヤ コーシャ)、歓喜鞘(アーナンダマヤ コーシャ)。ヴェーダによれば、人間に内在するアートマは五つの鞘(コーシャ)に覆われている。
※5シク教:総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルにあるハリマンディル(黄金寺院)。グル・ナーナクを開祖とし、教典は『グル・グラント・サーヒブ』(原型は『アーディ・グラント』)。シク教寺院はグルドワーラーと呼ばれる。一方小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。宗教改革者カビールとイスラーム神秘主義スーフィズムの影響を受けている。スィクとはサンスクリット語の「シシヤ」に由来する語で、弟子を意味する教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している。グルとは師匠という意味である。
※6プラシャーンティ・ニラヤム:プッタパルティにあるサイ ババの住まいとアシュラムの総称、至高の平安の館の意。
OM SRI SAI RAM
スタディーサークルチームの活動報告のとりまとめ凝縮版は下記になります。
全文版はダウンロードボタン(pdfボタン)からご確認ください。
開催日:2022年2月16日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第17節、第23節「疑い深い人々と無知な人々を避けなさい」、「サンスクリット語とヴェーダ文化の学習を冷笑してはならない」
参加者:41名
質問:
① 霊的求道者として(第17節に記述されているような)霊的向上への障害を避けるために、どのように振る舞えばよいか?
② 帰依の道を歩もうとする求道者へのあざけりや批判から遠ざかっているにはどのようにすれば良いか?
③ サンスクリットやヴェーダ※1文化の知識と実生活の体験はどのような関係にあるか?
<参加者のコメント>
… ① 霊的求道者として(第17節に記述されているような)霊的向上への障害を避けるために、どのように振る舞えばよいか?
「何かに夢中になっていれば、周りの人もその人が何か没頭していると分かって周囲も整ってくると思う。小さい例だが、昨年のスタディーサークルで節制のプログラムに関して、缶ジュースを買うのをやめれば、その分お金が節制できると聞いた直後に、私は缶ジュースを買うのをやめたことを職場で言うと、『缶コーヒーでなくてジュースとかならいいの?』と周りが逆にそう言ってくれた。」
… ② 帰依の道を歩もうとする求道者へのあざけりや批判から遠ざかっているにはどのようにすれば良いか?
「日蓮上人はいろいろな人から誤解を受けたり、嫌なことを言われていたが、惑わされないで純粋な信念をもち続けて貫き通すと、必ずそれは分かってもらえる時がくる、という内容のテレビ番組を見た。純粋に貫き通すということが必要なのだろうと思った。」
「信仰というものは他人に見せるためのものではないと思うので、周りに言う必要はないが、一緒に暮らす人や、身近な人には、説明する必要があると思う。相手と状況を見てそれを話すのが一番良いと思う。また、本当に熱心なスワミ※2の帰依者だった方が途中でいろいろな情報から疑いをもち、出ていった時、その人は善意のつもりで、私に一生懸命いろいろなことを言って説得しようとした。私自身は、まず他の方の生き方や考えも尊重する必要が必ずあると思っている。私の中の神様はサイ・ババと呼ばれることを全然嫌がっていないし、喜んでいるから、私は今のままでいようと思うと答えると、その方は自分も否定されていないし、私の行動を尊重してくれるようになった。まずはあまり周りに言う必要はないということと、信仰が違う方への批判をこちらからもしないということがとても大切なことのような気がする。」
「まず、いろいろな批判とか嘲りなどの反応はずっとあるものだと思う。反対に称賛とか感謝もある。それらの思いは、それを発している側の方で、自分のものではない。それらの言葉は、それを発している人、称賛や非難を発している人を証明している言葉になると思う。そして、その言葉に反応している自分が、どういう反応をしているのかということも、一つの自分を知るきっかけにもなる。その人の言葉はいずれにしても、非常に役に立つ。私たちはまだまだ、霊性の途上を歩いている段階だと思うので、やはりそういう批判に対しては心が反応してしまうことがあるが、そのときにこそ、神と共に生きているという、あるいは神と手を繋いで生きているとか、自分の神の方にフォーカスすることによって、周りの現象がどうであれ、それをまた違った目で見ることができるのではないかと思う。少し俯瞰したり、自分の中に愛が満ちていれば、周りにどういう嘲りや批判があったとしても、それに巻き込まれないのではないかと感じた。」
… ③ サンスクリットやヴェーダ※1文化の知識と実生活の体験はどのような関係にあるか?
「私は日蓮宗の家庭で育ち法華経を学んできて、日蓮宗のバールヴィカスクラス(子どもの開花教室)のようなところで子供の頃お経を唱えていた。法華経では、法華経を信じて布教するものは本当に苦労してこの世の中では非難されるだろうと予見されていた。しかし弟子たちは『それでも構わない、信じることこそ最上の功徳である』と理解していて今日まで続いている。法華経の学びがあったおかげで、スワミに導かれてヴェーダに出会ったと思っている。ヴェーダのパワーというのが本当にすごいということは分かるし、帰依者の方の息子さんやお嬢さんの病気が治るなどのたくさんの奇跡が起きていて、本当にヴェーダは大事だなと思った。」
「例えばおもしろいテレビを見た後やおいしいものを食べた後など、この世的に楽しい経験をしたときには、後には空虚さが残る。その空虚さを埋め合わせるためにまた見たい、もっと食べたいと思うようになってしまう。今私が実践しているのが、空虚さを感じたときにヴェーダを唱えたりマントラ(真言)を唱えたりすると、その埋め合わせが必ずできると感じている。」
<サイの学生のコメント>
… ① 霊的求道者として(第17節に記述されているような)霊的向上への障害を避けるために、どのように振る舞えばよいか?
「霊的な道においては、自分自身が障害になっていることが多いと思う。外側のものが影響しているように見えるのは、自分自身が十分に強くないときなのではないだろうか。もちろんスワミは悪い仲間を避け善い仲間といなさいとおっしゃるが、それ以前に私たち自身が強くあってポジティブな態度を環境に関わらずに貫けるようになることが大事だと思う。私たちが直面するほとんどの問題の理由は、私たちの中に六つの悪い性質(六つの
敵)※3が混在しているということ。私たちと一緒に働いている人や家族などを私たちは変えることができない。私たちができる唯一のことは私たちの中にある六つの性質に対処して、自分自身がより良くなること。たとえ環境を変えてみたり、周りの人を変えてみても、別のところに行ったらもう一度同じ問題に出くわしてしまう。それは周りが原因ではなく、自分の内側のことが原因だったということになる。もし周りのことが非常にネガティブに見えると、一体何がネガティブさを作り出しているのだろうかと、自分の中の何がそのように見ているのだろうかとフォーカスしていくことで変えていくことができる。例えばスワミがおっしゃっているが、帰依者の皆さんが(プッタ)パルティ※4に来られる時に、何かを期待して来られる。ダルシャン※5を得たいとかパーダナマスカール※6したいとか、何かを物質化して欲しいとか。その一方で、もしスワミが一瞥もくれなかったなら、いや彼は神でないとか、スワミはお金や地位のある人にしか見向きもしないとか、そんなことを言うようになり、スワミを責めたり、ネガティブになってプッタパルティに来なくなり、心も落ち着きがなくなってしまう。フォーカスが外側の環境の方に向いているから、スワミが全然見てくれないととても悲しくなる。それはこうして欲しいと期待をもっているからで、期待がなくなれば全然問題がなくなる。そういった自分の内側の期待が原因であると探し当てて、それを変えるということ。スワミがおっしゃるように外側にあるものは何も影響しえないということ。私たちが霊的にいかに内側で強くいられるのかということ。私たち自身が最大の霊的な旅路の障害で、私たちが障害だということ。」
「特定の人々に自分とは違うところがあると、避けるようになったりすることがある。しばしば他の人がどのように振る舞っているか、関心をもって眺めることがあると思うが、考えていたのと違う振る舞いがあれば批判するようになったりしてしまう。自分自身も多かれ少なかれ、他の人々が振る舞っていることに干渉をしないようにしたり、他の人がどう振る舞っているかということに対して、過大な関心をもたないようにと思っている。他人ではなく、自分自身がどのように義務を果たしているのかということに焦点を当てていきたい。そして他人のことを嘲ったりする人は誰でもその人の時間を無駄にしていると思う。その一方で霊的な求道者たちは、時間を最も効果的に使っている人々だと思う。そういった意味で、霊性修行を行うということこそがすべきことで、他人を嘲たり批判したりするのは最もすべきことでない。霊的求道者も、何かゴールに辿り着こうとして一生懸命努力をするが、そのプロセスにおいては、非常に多くの批判などにも直面していくことになる。でも、そういった状況においても求道者は自分自身の義務だけを考えていくべきだと思う。」
… ② 帰依の道を歩もうとする求道者へのあざけりや批判から遠ざかっているにはどのようにすれば良いか?
「実践していることの不履行を避けることだと思う。善良であることと、神にフォーカスしていく必要がある。周りの称賛や批判を気にも留めないことが大事。幸せなときとそうでないときとの揺らぎを小さくしていくこと。嫌なことや、善くないことがあっても悲しんだり、揺らぎを避け、不動心をもっていることが必要。過去を思いわずらったり未来を心配することを避ける必要がある。今この瞬間だけを霊的求道者として考えている必要がある。そしてネガティブに考えることを避け、霊的なことに取り組み、ポジティブさを作り上げていく必要がある。世俗的楽しみをさし控える必要がある。世俗的なことにおいても不注意を避けていかなければならない。」
「一体どうやって他の人の嘲りや批判とか、そういうものを避けることなどができるだろうかということ。もう一つは、実際に、その嘲りとか批判が行われたときに、どうやってそれを無視することができるだろうかということ。これらの二つの状況に対して何か対応しよう、何か反応しようと考えるのは求道者にとって良くないことだと思う。例えば、もし私たちが誰かよりも優れていると感じるのであれば、あるいはもし自分たちの方が他者よりも道徳的で倫理的であると思うのであれば、自分の実践が他者と比べてずっと良いと考えるだろうと思う。そのような思いが他者を非難する元になる。そして、それが嘲りだとか批判ということになってくる。そのような思いが生じる原因はエゴ。一つ目は他人を判断したり責めたり嘲ったり批判したりしないということ。また、もし何かのメッセージを批判的に伝えなければならない状況があったとするならば、それをスワミがおっしゃるように可能な限り親切に伝える必要があるだろうと思う。そして、誰かが嘲ったり批判したりしたときに、他者から批判をされた場合には、その過ちが自分の中に有るのか無いのかということを考える必要がある。間違いが自分にあるならば、その間違いを正すことができる。もし、間違いが自分にないのであれば、それを問題にする必要はない。」
… ③ サンスクリットやヴェーダ※1文化の知識と実生活の体験はどのような関係にあるか?
「もちろんサンスクリットやヴェーダの知識を知っているだけでは十分ではなく、日々の実践の中にそれを持ち込むことができなければならないだろうと思う。そして皆さんおっしゃっているように、ヴェーダやサンスクリットの知識というのは非常に高次の知識だが、ただそれを覚えるというだけではそこからエッセンスを引き出すことはできないだろうと思う。例えば、皆スタディーサークルに定期的に参加し、その日に話し合われている章についていろいろな人が話している意見を聞いたりする。そのように学んだことが実践に移されなければ、学ぶことのすべてに感謝の念を抱くことには至らないと思う。先ほど言ったように、他者がいろいろな行為をしているときにそれに干渉しないとか、一歩ひいてそれを見ることはとても必要なことだと思った。今日このようなスタディーサークルをしても、なお他人を嘲ったり批判したりすることがあるなら、こういったスタディーサークルで学んだことを生かせていないということになる。いろいろな文献のテキストを覚えても、それを実践しなければ意味がないということになる。」
「あるところに僧侶がいて毎日バガヴァッドギーター※7を唱えていた。そのシローカ※8の意味は『いつも困難に陥ったときには神の御名を唱えなさい。そうすれば間違いなく神様が助けてくれることでしょう』という意味だった。牛乳配達人が牛乳を届けにやってくると僧侶はすぐに怒りだして、配達人に『なぜ今日は遅れたのか』と𠮟りつけた。配達人は『来る途中に渡ってくる川に大きな石が落ちていたから、それで遅れました』と言った。僧侶はまだ怒っていたが、『それならわかった。明日はもっと早く来なさい』と言った。次の日、配達人は早く家を出たが、また川に石が落ちていた。牛乳配達人は前の日に怒られたことを思い出して怖くなった。その時、前日に僧侶の家で聞いたシローカを思い出した。それは、困難があったときには神の御名を唱えれば間違いなく助けてくれるというシローカだった。彼はそれから神の御名を唱え始めると時間通りに僧侶の家に着くことができた。すると僧侶が『今日も同じように川の中に石があっただろうに、どうして今日は時間通りに来られたのか?』と聞いた。配達人は『今日は神の御名を唱えたおかげでちょうど時間通りに着くことができたのです』と答えた。僧侶はそれを聞いてショックを受けた。そんなことが本当に可能なら自分自身で試してみたいと思った。でも実際に僧侶がそれを試してみようとしたところ、水が冷たすぎてうまく歩くことができず、滑って転びひどいけがを負ってしまった。その様子を見ていた牛乳配達人は、『ただ唱えることはまったく重要ではない、そのシローカの言っていることをちゃんと信じて実際に実践することが大事なのだ』と理解した。」
<ババ様の御言葉>
「バガヴァッド ギーターも、この宇宙のすべてのものに神性が浸透していると明言しています。バガヴァッド ギーターは、霊性の本質は唯一性であると宣言しています。それを認識する代わりに、人々は他人を批判することにふけっています。神性はすべてのものの中に隠れているのですから、他人を批判することは神を批判することに等しいのです。」
2000年10月1日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_20001001.html
※1ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3六つの敵:カーマ〔欲望/情欲〕、クローダ〔怒り〕、ローバ〔貪欲(どんよく)〕、モーハ〔愛執(あいしゅう)・妄想・執着〕、マダ〔高慢(こうまん)・自惚れ〕、マーッツァルヤ〔嫉妬(しっと)あるいは憎しみ〕。
※4プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※5ダルシャン:聖者や神を拝見すること。
※6パーダナマスカール:御足への礼拝、帰命頂礼(きみょうちょうらい)。聖者や両親などの足に平伏して行う礼拝。
※7バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※8シローカ:詩節、心を楽しませる同じ音節をもつ四つの句で組み立てられた詩節。
開催日:2022年3月3日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第34節、第42節「立ち上がり、目覚め、愛と信愛の道を歩みなさい」、「霊性と解脱の道を歩みなさい」
参加者:39名
質問:
① 真実、寛容、道徳性、規律等の価値を受け入れるために必要なステップは何であり、どのようにそれらを受け入れることができるのか?
② ラーマラージャ(ラーマ※1の王政)とスワミ※2がおっしゃる理想の社会を、闘争と論争のさなかの時代にいながら、どの程度までそれが可能か?
③ 神の愛を求めて正しい行いをするのであれば、行動の見返りを求めることにはならないのか?
<参加者のコメント>
… ① 真実、寛容、道徳性、規律等の価値を受け入れるために必要なステップは何であり、どのようにそれらを受け入れることができるのか?
「私の場合はとても悩み苦しんだりして、生きづらさを感じてから本当の真実とは何かを考えるようになった。そしてスワミを知って、スワミの本を読んで、少しずつ真実、寛容、道徳、規律を学び、 行動していった。すると徐々に幸福感が増えていった。だから最初は自分が迷っていて、暗闇にいるという自覚から始まると思う。」
「自分自身が少しでも良くなりたいという気持ちが起きてきたときに、気づかされるような経験があると思う。ババの本を読む前に『あるヨギの自叙伝』という本に出会った。その本にはものすごい磁力のようなものを感じた。そこには真実が書かれていると思い、それをきっかけにギーター※3を読んだり、ババご自身が書かれた本も読むようになった。真実や寛容、道徳性や規律は、最初はおぼろげで、入りきれない感覚はあったが、向上心が目覚めてきた時に自分の中で決心のような思いが強く出た。やはり自分が決心したときがすごく大事だったような気がする。」
… ② ラーマラージャ(ラーマ※1の王政)とスワミ※2がおっしゃる理想の社会を、闘争と論争のさなかの時代にいながら、どの程度までそれが可能か?
「スワミは御自身の講話の中で『全人類の幸せと繁栄を祈って欲しい』、『人類同朋に慈悲を注ぐことのできる者だけが神の恩寵の中に自分の場所を要求することができます』とおっしゃっていた。だから私や私の国とかではなくて、私たちの社会、私たちの世界は全て神のもので、分け隔てないと思う。私が実際にパルティ※4で見た、スワミの帰依者たちの献身的にセヴァ(奉仕)をされていてる姿は、本当にプレマ(愛)を体現されていたように思う。スワミ同様に、帰依者がとにかくすばらしいと私はパルティに行く前から友人に聞かされていた。スワミのご意志のあるところと思うまで、スワミの道具として真面目にやらなければならないと思う。」
「今ウクライナが攻められている。こんな戦争が起こっている大変な状況だが、それでも世界中で、平和を願ってデモが行われている。大変な戦いの中でも人類愛のような、人間の本当に底に大きな愛があるのだといろいろなところで感じる。いかに愛を信じられるのかという点は、もちろんそこには信仰があると思うが、本当に愛を信じる力が支えになっていくと思った。」
… ③ 神の愛を求めて正しい行いをするのであれば、行動の見返りを求めることにはならないのか?
「正しい行い自体がダルマ(正義)でダルマにはアートマダルマ※5とアーチャーラダルマ※6という二つの種類があって、内側からの促しが良心そのもので、それ自体が神だと思うし、そのうえで行動することが大事だと思った。」
「神の愛を求めて行動するのなら、それが見返りを求めているのかどうかはわからないが、全然良いと思う。それはスワミも喜ばれると思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① 真実、寛容、道徳性、規律等の価値を受け入れるために必要なステップは何であり、どのようにそれらを受け入れることができるのか?
「基本的に真実、寛容性、道徳性、規律はもともと人間に備わっている。言葉を覚えたばかりの子供は決して嘘をつかないのは、幼い子供でも彼らなりに逸れないような規律をもっているからだ。もし不道徳性があるなら、外から入ってくるということ。私たちは誰かを喜ばせるために嘘をついたり、あるいは何かの幸せや一時的な幸せを得るために、良くない行いをしてしまうかも知れない。それによって友人や家族が喜ぶことがあるかもしれないが、決して神様はハッピーではない。真実、寛容、道徳性、規律などの価値すべての実践において同じことがいえる。道から逸れることの唯一の解決は、やはりこういった道を辿ろうと決意すること。それが解決法だと思う。何らかの状況や事情によってこれらの道に従っていくことができない場合は、スワミにこれらの道を実際に辿っていけるようにお祈りすることが大切。自分の理解ではそういった決意がこれらの道に従って行くために必要だと思う。」
「これらの特質はもともと人間に備わっていて、それらは神の性質であるとスワミはおっしゃっている。これらの神聖な特質は社会が進んでいくうちに失われてしまった。なぜかというと神への愛と罪への恐れを失ってしまったからだとスワミがおっしゃっている。その代わり人間は神を恐れて罪を好むようになってしまった。また気を付けなければいけないのは、真実、寛容、道徳、規律は、ともすると邪悪な六つの性質(6つの敵)※7の一つひとつに置き換えられてしまう危険があるということ。それらの悪い特質を抜き取っていく方法は、神の御名を唱えたり、サットサング(善人との親交)の中にいるようにすること。始めるのに決して遅すぎることはない。早く出発して、ゆっくり運転して、安全に到達しなさいとおっしゃっている。サーダナ(霊性修行)をとおしてのみこれらの性質を培っていくことができる。」
… ② ラーマラージャ(ラーマ※1の王政)とスワミ※2がおっしゃる理想の社会を、闘争と論争のさなかの時代にいながら、どの程度までそれが可能か?
「もちろんラーマラージャというのは本当の理想。どんな個人であれ社会であれ、もし神がその中心であったのなら、理想に近付いていくと思う。それは決して文字通り本当にラーマがやってきて統治してくれるという訳ではないが、私たちが内側においてラーマからいつも導きをいただくことによって、その理想に近付いていくということだと思う。これまでもたくさんのアヴァター(神の化身)が降臨されたが、正にスワミはこの時代にやって来られて、この時代に適したルールというものを、道を敷いてくださった。時も移ろい、人々の生活様式や、人々の考え方のプロセスもすべて変わってしまった。ラーマの時代から、クリシュナ神※8の時代、スワミの時代へと非常に多くのことが変化した。時間は移ろっているが、ラーマやクリシュナ神や、スワミのそれぞれから、異なった良い部分を受け入れながら、それを私たちの中に取り込んでいくことによって私たちが理想に近付いていくと思う。科学の世界でも、よく理想という言葉があるが、大抵は現実の世界では外界から別のファクターがいろいろ入ってしまって、決して理想にはならない。実験には必ず誤差がある。外から様々な邪魔が入って理想にはなりにくい。本当に私たちが神というものを一番優先順位が高いものとして据えるのであれば、理想の社会に変わっていくだろうと思う。」
「ラーマは非常に善良で皆から神として崇拝されていたが、その一方で決して神様のように生きられた方ではなかった。ラーマは決して何か多くの奇跡を行ったりだとか、超常現象的なことを起こしたり、自分の神性を示すためにそういったことを一切されなかった方だった。自分は正直に言うと、ラーマのことを神だと感じるのではなく、理想の人間だと感じている。人間社会において、その王国を上手く統治することができるのは、本当にその統治者の神なる性質によってのみ、そうすることができるものだと思う。ラーマが他者の意見を尊重すれば、王がそうするとすべての人々も他者のことを尊重するようになっていった。私たちは、私たちが称賛するものに等しくなっていく。」
… ③ 神の愛を求めて正しい行いをするのであれば、行動の見返りを求めることにはならないのか?
「私たちは神の愛を求めて行動するのではなく、ただ人々が幸せであることを望んで行動すべきだと思う。それは人への奉仕が神への奉仕ということだから。もし私たちの行動が人々を喜ばせるのであればそれは神様が幸せでいらっしゃることを保証してくれると思う。私たちの良心に従うことがさらに大事なこと。正しいことを行っていれば必ず神様が幸せでいてくださるということは保証されると思う。」
「人間にとっての最大の達成というのは神への愛をもつことだと思う。自分の場合にはいろんな行動を神の愛が欲しいと思ってすることは大いにある。例えば、もし自分の行動を神様はそれをお好きだろうか、それを嫌うだろうかと考えることが、自分自身の行動に対しての指標になっていると思う。神の愛を得るということは、どんな人間にとっても最大の達成だと思う。そしてそれが人生の目的でもあると思う。だから神の愛が欲しいから行動することは何も間違ってはいないと思う。そのように考えて社会に良い行いをしていくのなら非常に良いこと。」
「神の愛を求めて正しい行いをすることは間違っていないし、自分もそうしてきた。それに加えて、本当に神様とは一体誰でいらっしゃるのかという理解が、私たちにとてもインパクトを与えることだと思う。もし神様という存在が写真の中だけの存在だと思ってしまうのなら、そこに納まっているだけの神様の愛をいただいてもあまり嬉しいことではなくなってしまうかもしれない。神様と私自身や他のすべての人々を同じく等しいものと考えるのなら、神様の愛を求めることは決して間違っていないと思う。神様をどう理解するかによって、そして神の愛というものの理解がポイントだと思う。」
<ババ様の御言葉>
「あなたは神から来ました。あなたは神の栄光の火花です。あなたは至福の海の波の一つです。あなたは、再び神に帰融する時、初めて平安を手に入れるでしょう。道に迷った子供のように、あなたは母と再会した時、初めて喜びを得ることができるのです。海の滴は、蒸発して上昇し、雲と呼ばれる集合体と一つになって地上に降り、谷に沿って流れ、最終的に海へと辿(たど)り着きます。それと同じように、あなたが見失ってしまった海へ辿り着きなさい。その旅を始め、早く、軽快に旅をしなさい。」
1966年10月17日
※1ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ギーター(バガヴァットギーター):インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※4パルティ:プッタパルティのこと。スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※5アートマダルマ:神我のダルマ、神のダルマ「真のダルマとは、アートマの至福、内的ヴィジョン、自分の本質は絶対者と同じであるという揺るぎない信仰、そして、すべてはブラフマンであるという認識に包まれていることです。この四つこそ正真正銘のダルマです。特定の個人という身体としての存在に対し、実践の便宜上、この四つには名前がつけられています。(しかしそれでもなお、内に秘められた、アートマの実在というダルマに満たされています)。その名前とは真理、平安、愛、非暴力です。絶対実在が人格化されたものである個人は、日常生活の中でこれらに従うことができます。過去も現在も、ダルマの追求方法とは、何をするときも、何を考えるときも、この崇高な原則を堅く守ることです。今日の真理、平安、非暴力、愛とは、絶えずアートマに浸ることであり、内的真理を捉えて離さないヴィジョン、自己の本質への瞑想、すべては唯一無二のブラフマンであるという認識に間断なく浸ることに他なりません。根本的なものと派生的なものを統合し、調和させなければなりません。そのときにのみ、それをアートマダルマと呼ぶことができるのです」『生きる道 ダルマヴァヒニ』p26
※6アーチャーラダルマ:実践的なダルマ。「一時的な 、身体的必要性に関係しています 。つまり人間と 現実世界との束の間の関わり合いに関係するものです。これらの規律を守るための実際の道具である人間の身体は不変のものではありません 。それなら実践的ダルマはどうして永遠でありえるのでしょう ?そのようなダルマの本質がどうして真理であると言えるのでしょう?消え去っていくものに永遠のものは表せません。」『生きる道 ダルマヴァヒニ』P18
※7六つの敵:カーマ〔欲望/情欲〕、クローダ〔怒り〕、ローバ〔貪欲(どんよく)〕、モーハ〔愛執(あいしゅう)・妄想・執着〕、マダ〔高慢(こうまん)・自惚れ〕、マーッツァルヤ〔嫉妬(しっと)あるいは憎しみ〕。
六つの敵:カーマ〔欲望/情欲〕、クローダ〔怒り〕、ローバ〔貪欲(どんよく)〕、モーハ〔愛執(あいしゅう)・妄想・執着〕、マダ〔高慢(こうまん)・自惚れ〕、マーッツァルヤ〔嫉妬(しっと)あるいは憎しみ〕。
※8クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現
開催日:2022年3月9日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第45節、第46節「一途な信愛と心の平静を実践しなさい」、「自惚れと疑念を避けなさい」
参加者:51名
質問:
① 一点集中と平静さは、どのように好き嫌いからの脱却につながるか?
②「もし世界に不和があるように見えるのであれば、それはあなたの中にある欠点のせいなのです。もしすべてが一つの愛(プレーマ)として見えるのであれば、それもまたあなたの愛ゆえです」この原理を最大限活かすには、どうすれば良いか?
③ 疑念に苛まれるときにも、自分の実在のなかにしっかり留まるには何が必要か?
<参加者のコメント>
… ① 一点集中と平静さは、どのように好き嫌いからの脱却につながるか?
「好き嫌いの原因は、自分が世の中の方に向いて、外側の世界に惹かれると、そこに何か好きなものができてしまい、逆に嫌いなものができたりする。周囲の世界ではなく、スワミ※1に一点集中することによって一貫性が得られ、好き嫌いからの脱却につながるのではないかと思う。」
「一点集中により自分の心が穏やかなときは自我意識がほとんどなくなり、対象に集中することによって私というものを忘れるので、自我意識から出てくる好き嫌いはなくなっていくと思う。」
「つい先日、務めている鉄道会社で一日に2回人身事故があり、2回目はなかなか電車の運転が回復せず、騒々しい状況だった。列車の運転を司っている運輸指令があり、私の上司が今日の指令は下手くそだなどと文句を言い始め、その司令と運転手のやり取りが聞こえ、指令側が運転者に怒っているなど、混乱した状況におかれていた。その時に、ふと、この状況もスワミが作りだしているのだと思ってスワミに集中すると、その途端にちょうど改札口に立っている方から『すみません、定期の買い方が分からないので教えてください』と言われ、その場を離れて、そのお客さんに定期の買い方を教えた。そういう騒々しい状況においても神に集中していれば、奉仕の機会を与えていただけた。騒々しい状況でも神に一点集中することによって切り抜けられるのかなと思った。」
… ② 「もし世界に不和があるように見えるのであれば、それはあなたの中にある欠点のせいなのです。もしすべてが一つの愛(プレーマ)として見えるのであれば、それもまたあなたの愛ゆえです」この原理を最大限活かすには、どうすれば良いか?
「まず自分の欠点を見つけ、きちんとそれを把握し、それを取り除きたいと思うことが大事。全託をしていると、何もかもババがご存知で、進んで行くべき道、やるべきことなどを知らず知らずに歩ませていただけるような気がする。愛を拡大したり、愛に生きるということを本当に生活の中で実践していけるようになることだと思う。最初、東京センターに行った帰りにお弁当をいただいた。無料と知らず驚き、このお弁当をどのように作って、たくさんの人々に配っているのだろうと過程のことを考えた。やがて大阪センターでナーラーヤナ セヴァ※2に参加するようになった際、おにぎりを作って、ナーラーヤナ様(ホームレスの方々)のところに持っていって配ることをいざやってみると、幸せで、上下で考えるような気持ちがどんどん無くなり、純粋になれる気がした。セヴァを神に捧げ、集中していると自然に浄化されていくのではないかと思う。」
「自分の五感やマインドに指示を出せるほどの強い知性と意志の強さをもたなくてはならないと思う。純粋な意識を培うという準備が常に必要だと思う。そのためには理想的な生活の技法、真理、正義、平安、愛、非暴力というものに満ちた生活を日頃から心がけて守っていくということ。また暴力的な傾向や、そそのかしたりする先導的な方法を避ける知性も必要だと思う。今日のスライドの中にあったプンダリーカ※3のように、心のなかの美しさを求めるべきで、外界の華やかさを追い求めてはいけないと思う。」
… ③ 疑念に苛まれるときにも、自分の実在のなかにしっかり留まるには何が必要か?
「疑念に苛まれるということは、自分が思ってもいない意外な反応が返ってきたりすること。良いことや愛だと思って行っていたことが、この世的な偽りの愛の取り引きを経て、思ってもみなかったものが返ってきたときに、どうしてかなと思う。平静さがあるときに、純粋な愛ではなかったかもしれないと気づくことができるのかなと思った。」
<サイの学生のコメント>
… ① 一点集中と平静さは、どのように好き嫌いからの脱却につながるか?
「自分の意見では平静であるということと好き嫌いがないということは、同じこと。その一歩手前の一点集中がなぜ平静さに繋がるのかという部分について考えたい。それに関してもスワミが話してくださった。ある時ナーラダ※4がヴィシュヌ神※5に『あなたから見て偉大な帰依者とは誰か?』と聞いたときに、ヴィシュヌ神がある農夫を指さして『彼が最高の帰依者だ』とおっしゃった。それでしばらくナーラダはその農夫の様子を見ていたが、その後でヴィシュヌ神のところに戻ってきて、『見ている限りその農夫はまったくあなたの御名を唱えていない。その間、私はあなたの御名をずっと唱えていました。なぜ農夫が私より良い帰依者であると言い切れるのでしょうか?』と言った。そうするとヴィシュヌはナーラダにすべき仕事を与えた。仕事とはナーラダの頭の上に水瓶を置いて一滴も水をこぼさないで宇宙を一周歩いてくるというものだった。ナーラダはその仕事を終えてヴィシュヌのもとへ帰ってきた。その時にヴィシュヌがナーラダに『行って帰ってくるまでの間に何回御名を唱えたか?』と聞くと『今日はまったく唱えることができませんでした。なぜなら一日ずっとその水瓶に集中していたからです。』とナーラダは答えた。このことが何を示しているかというと、私たちが何かにフォーカスして集中している間は他のすべてのことを忘れてしまっているということ。もし私たちが一点集中をもって自分の人生の中で職業的なことや霊的なことなど、何か一つの側面に一点集中したのであれば、それ以外のことに気持ちが流れることを止めることができるということ。私たちが本来あるべき道筋から逸れた時にそういった好き嫌いが生じてくる。一点集中を身に着けることができれば、好きとか嫌いなど霊性から逸れることを防ぐことができる。」
「スワミは『本当の帰依者とはどういうことか?』と聞いていらっしゃる。幸せであろうと良くないとき、勝利のとき、敗北のときであろうと、同じ気持ちでいられるならば真の帰依者であるとスワミがおっしゃっている。バガヴァッドギーター※6の中でも平静でいることができる人がゴールに早く到達できると言っている。ではどうやって平静を達成するのか。一つの平静の形は、良いものだけでなく、悪いものを含めてすべてを神様に捧げることだとスワミはおっしゃっている。神様は悪いものは底の方にしまって、そこから良いものを引き出すことができる鞄のようなもの。スワミのたとえによれば、悪いものはすべて預けてしまって、代わりに良いものをいただくことができ、そうすればゴールに近づく旅ができる。でも悪い特質のすべてを神様に捧げることは可能だろうか?それをするには悪い性質とは何なのか理解し、まず、これは自分の悪い性質なのだと理解して受け入れなければならない。自分にはこういうエゴがあっても良いのだと思ってしまうと、それが悪いものであると認識して神様に預けることができなくなってしまう。では、エゴをどうやって減らすかというと行為者意識を減らすことによって。どうやって行為者意識を減らせるのだろうか?それは私たち自身が既に神の一部なのだと『ソーハム※7』と絶えず思い出していることによって。私たちは身体でもなく心でもなく、 『ソーハム』、私は神であると覚えておくための集中力が必要になる。スワミは瞑想は真実を知るための一つの方法であるとおっしゃる。瞑想は一点集中的な神への集中に他ならない。一点集中的に私は神であると集中できたならば、そのようなやり方でエゴを減らすこと、自分の行為者意識を減らすことができて、平静に繋がっていくだろうと思う。」
… ① 一点集中と平静さは、どのように好き嫌いからの脱却につながるか?
… ② 「もし世界に不和があるように見えるのであれば、それはあなたの中にある欠点のせいなのです。もしすべてが一つの愛(プレーマ)として見えるのであれば、それもまたあなたの愛ゆえです」この原理を最大限活かすには、どうすれば良いか?
「誰に対してもいかなる偏見ももつべきではない。まず霊的な求道者としては誰に対しても心を開いていること。霊性においては、私たちは自分自身の色々な言葉や行動を識別して行動しなければならない。もし偏見をもっていたなら、何も自分自身の欠点を見つけることができないし、自分自身が成長していくことができない。そして私たちは誰に対しても判断したり、他者の欠点を見つけたりしてはいけないと思う。オープンマインドというものが、他者を受け入れることにおいて役立っていくと思う。今日、一番目の質問において学んだ平静というものが、他者の中に欠点を見つけた時にも冷静でいることを助けてくれるだろうと思う。他者の中に欠点を見た時に、では自分のどこに欠点があるから、それを見つけたのかを考えることが私たちを助け、また利益のあることだと思う。そして自分自身の欠点を見つけることが霊性修行者にとって、かなり優先順位の高い動機であるべき。二つ目に、誰かが間違いを犯した場合、私たちがすでに設定したルールに誰かが違反した時には、それを受け入れるべきではないと思う。2つのシナリオのもと、単純に欠点を見るかどうかという所においてはオープンマインドであるべきで、既に設定してあるルールを破る人がいる場合には見過ごしてはいけないと思う。」
… ② 「もし世界に不和があるように見えるのであれば、それはあなたの中にある欠点のせいなのです。もしすべてが一つの愛(プレーマ)として見えるのであれば、それもまたあなたの愛ゆえです」この原理を最大限活かすには、どうすれば良いか?
「私たちは物事を異なった視点から見る。例えばラーマーヤナ※8では、ハヌマーン※9がシーター※10を探しにランカー※11に行った時に、ハヌマーンはその時非常に怒っていたため、ランカーは黄金の街だったが、それを観ても美しさを味わったりすることができなかった。どれほどランカーの街が美しかったとしても、それはどのような見方をするかにかかっている。もし美しいものであったとしても、そのことにケチをつける理由を探すことになってしまう。つまり私たちがどのように物を見るのかということ。それは日常生活からも理解することができる。もし何かに間違いがあるなら、または何か良くないことが起きたなら、一度そこを離れてみることができる。そこから学ぶことができれば私たちは成長することができる。決して世界が悪いところだと考えるべきではない。世の中にある良いものを探すべきだと思う。それが、私たちがより良い人間になれるのかどうかということだと思う。確かに世の中でたくさん良くないことが起こっているのを目にすることができるが、世界では同時に良いこともたくさん起きている。だから、良いものを見るべきで、私たち自身にインスピレーションを与えていくべきだと思う。そして悪いものを見ないように。それがどのように成長していけるかということだと思う。」
… ③ 疑念に苛まれるときにも、自分の実在のなかにしっかり留まるには何が必要か?
「何か疑念に苛まれた時どうやって幸せでいることができるのか、そういう観点から答えてみたい。人生のいかなる段階においても何かの疑いをもつことは人間としてとても自然なこと。ただ、深く考えたときにだけそのような疑念をもつことがある。たくさんの疑念をもつことは良いことではないが、疑念をとおして明らかにすることができることがある。霊性においても多くの種類の疑念をもつことがあるだろうと思う。ある時には疑念をとおして神の恩寵がもたらされることがあるが、疑念に対して多大な力を与えないようにする必要がある。また、やはり疑念は信仰によって解決することができ、私たちはまた人生において幸せになっていくことができると思う。」
<ババ様の御言葉>
「創造世界のすべてのものを、善と見なしなさい。苦しみや痛みも善です!期せずして痛みや苦しみを経験したら、「これは私にとって善いことだ、これは私にとって善いことだ」と自分に言い聞かせなさい。称賛も非難も同じように扱い、たとえ人から罵倒されても平気でいなさい。これが推奨されるヨーガであり、犠牲を払うことが推奨される道です。平静に優るヨーガはなく、犠牲に優る道はありません。これは、純粋さと神聖さを得るための最良の道です。」
2000年5月15日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_20000515pm.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ナーラーヤナ セヴァ:人の姿をとった神たちに食事を施す奉仕。
※3プンダリーカ:両親を神として献身的に仕え、訪ねてこられたパーンドゥランガ神を待たせてまで、両親に奉仕した青年。
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19870506.html
※4ナーラダ(仙):世界に信愛を広めるためにブラフマーが創った聖者。ナーラは「知識」、「ダ」は「与える者」の意。いつも神の御名と栄光を歌っていたことで知られる。ヴィーナの創作者でもあり、ヴィーナを携えて三界を自由に行き来する。
※5ヴィシュヌ神:宇宙を維持し守護する役割を担っている神。
※6バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※7ソーハム:so=神である、それである aham=私は。 私は神である。我は神なり我はそれなり。
※8ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※9ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。風の神の子で空が飛べたため、飛んで薬草をとりに行ったり、海の上を飛んでランカを偵察に行ったりと、多大な貢献をした。
※10シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※11ランカー:『ラーマーヤナ』の悪鬼ラーヴァナの王国。
OM SRI SAI RAM
スタディーサークルチームの活動報告のとりまとめ凝縮版は下記になります。
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開催日:2022年1月16日(日)
テーマ:「マカラ・サンクラーンティ※1」
参加者:37名
質問:
① エデュケア※2を追求するとはどのようなことか?
② 内なる声、良心からの声を明確に識別するにはどうすれば良いか?
<参加者のコメント>
… ① エデュケアを追求するとはどのようなことか?
「エデュケアは内なる良心の声に従うこと。その声が聴こえるように努力することだと思う。」
「エデュケーション(教育)と比較してみれば分かりやすい。エデュケーションは本の知識、外面的な知識に関わること。一方でエデュケアは内側にある霊性の知識。つまり内なる本質から湧き出すものだと思う。」
… ② 内なる声、良心からの声を明確に識別するにはどうすれば良いか?
「スワミ※3と出会った頃は、自分はの中で内なる良心の声なのか、エゴの声なのか分からないことが多々あった。その頃と比べて、段々と分かるようになってきたと思う。同じように『黄金の宇宙卵』を何年か経って再び読むと、こういうことなのかと非常に感動したことがあった。霊性修行を積重ねることによって、自分の内側は成長して、識別心というものも少しずつ得られると思う。」
「マインドが活発になると良心の声が分からなくなってしまう。マインドを静めるためには、真実の知識、すなわち、すべては一つで、生まれる前から私たちは愛で、ずっと愛によって支えられているという知識が必要。」
「人は内なる声が良心なのかエゴなのかを聞き分ける直感的な力があるという気がしている。例えば、自分のエゴの声であれば何かしら引っかかりがあるが、良心の声の場合は、その引っかかりがなく、ストンと入ってくる。理屈ではなく、直感的に分かるようになっている気がする。」
<サイの学生のコメント>
… ① エデュケアを追求するとはどのようなことか?
「エデュケアの意味は内なる声に従うこと。エデュケーションは単に書物の知識だが、否定するのではなく、むしろエデュケーションとエデュケアの両方とも必要だと思う。エデュケーションによって教育を受け、そこで得た知識を使い,学位などの証明書が成果として得られる。しかしエデュケアは人生そのものの目的と関係している。私たちが日々体験するすべてが、自分の思い、言葉、行動に基づいた反射・反映・反響であるという真理に従うならば、自分の体験に関しては他者には責任がないことになる。だから日々の行動を私たちは純粋なハートで行わなければならない。そしていつも心に留めておかなくてはならないのは常に助け、決して傷つけないということだと思う。」
「スワミが教えてくださっている5つのヒューマンバリューズ(人間的価値)がある。真理・正義・平安・愛・非暴力。これらがヒューマンバリューズと呼ばれる理由は、これらの特質がとりわけ人間においてみられるからだ。だから人間は、人間的価値を示している必要がある。エデュケアを追求することは私たちの内側にある価値を顕現すること。それを顕すためには訓練が必要。そして私たちの人生においてそれらを顕現していく必要がある。それがエデュケアを追求するという意味ではないかと思う。」
… ② 内なる声、良心からの声を明確に識別するにはどうすれば良いか?
「この世のすべての生きとし生けるものは、それぞれに内なる声をもっていると思う。そしてその声を聞くためには、安定した心が必要だと思う。スワミがおっしゃっているのは、私たちが行うすべてに、反射・反映・反響があるということだ。その反射・反映・反響により、様々な思いが再び生じる中で、本当の内なる声を見つけることは結構難しい。内なる声の中には良いもの悪いものもあり、その中で正しいものを選択できたとき、内なる声を正しく聴けたことになるだろうと思う。しかし内なる声を聞くことは本当は簡単で、安定した心の状態で神にフォーカスしていればできることだと思う。」
「内なる声の特質には2通りある。一つは人間的特質ともう一つは動物的特質だ。動物的特質からは動物の声が聞こえてくる。私たち人間は、人間的特質からの声を聞くことを目的にすべきで動物的性質と区別できるようになる必要がある。人間的特質とは、決して誰も傷つけないことや、きつい言葉を使わないことや、そして五大価値としての真理、正義、平安、愛、非暴力などに現わされるものだ。人間的特質からの声を受け取った時に、それを自分の行動の中に反映していくことができる。そして、そのような行いをした後には平安がある。すべての人は平安を求めている。そのようにして私たちの内側の声から良いものを拾い上げることができる。」
「スワミもよくおっしゃっているように、あらゆる怒りから来る行為は、私たち自身にとって非常に良くない。その一方で正義というものから来るあらゆる行為は非常に良い。それが良いものであるか悪いものであるかは、その声を得た時の私たちの心の状態に拠っている。学生時代に瞑想の授業を受けた時のこと。その時の先生がスワミから瞑想の間にどのようにしているべきかを教わってきた。その先生に学生たちが、今日の質問2と同じような質問をした。『内なる声が聞こえた時に、自分の心の中に怒りや憎しみがあれば、それは間違いなく良心の声ではない。いかなる人間の基本的な属性は人間的五大価値だ』というお話だった。私たちが内側から得るいかなる声も、この五つの人間的価値に基づいた声であるべきだということ。内側から聞こえてくる声に愛があるか、あるいは正義や非暴力があるかどうか、それが判断軸となる。そしてまた、神の声というものは、静寂の深みの中においてのみ聞こえてくるものだと言われている。そして静寂とは、外側の静寂と内側の静寂の両方を意味している。良心の声を聴こうとするときには、いつでも外側と内側の静寂を確保しておくことが大事になると思う。」
<ババ様の御言葉>
オームのアカーラ(A)とウカーラ(U)とマカーラ(M)は、「オーム タット サット」の原理、すなわち、「タットは真理」、「私は真理」、「真理は一つ」という原理を象徴しています。オームは常に存在している内なる声であり、ハートの空洞からの神の呼び声のこだまです。それに耳を傾け、それに感動しなさい。そうすることは内なる礼拝です。さまざまな礼拝のうち、外でのプージャー(儀式礼拝)は外的な象徴です。エゴが猛威を振るってはびこっているとき、どうやって心が落ち着くこと、信仰が定まることができますか? 目覚めている時、夢を見ている薄明かりの時、そして、夜に熟睡している時を通じて、ずっと光り輝いている、内なる炎の象徴、オームを黙想しなさい。こうすることによって、豊富に恩寵を得ることができます。
1970年11月22日
※1マカラ・サンクラーンティ:太陽暦の元旦。単にサンクラーンティともいう。インドの冬至。日本をはじめとする多くの国々の冬至が日の出から日の入りまでの時間が一年で一番短い日を指すのに対して、インドの冬至は日の出の時間が一年で一番遅い日を指す。太陽がマカラ(磨羯宮)にサンクラーンティ(移転)し、黄道上で南から北に移る日としてインド各地で祝われる。南インドのタミルナードゥ州、アーンドラ・プラデーシュ州ではポンガルという名の収穫祭として祝う。
※2エデュケア:ババの教育法。語源は「引き出す」という意味をもつラテン語のエデュカーレ。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
開催日:2022年1月19日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第14節、62節「真理として、愛として、神を瞑想しなさい」、「神の御名を息吹と見なしなさい」
参加者:51名
質問:
① プラフラーダ※1やドゥルヴァ※2は神の御名を繰り返し唱えるだけで神を見て、神に触れ、神と会話することができたが、なぜ神の御名を唱えることはこれらのすべてを可能にするのか?
② 神の帰依者の仲間と共にいることは、どのように私たちに識別や放棄をもたらすのか?
③「あなたが与えられたすべての強さと才能を用いて、誠実に話し、行動しなさい」という御言葉を通してスワミ※3が何を求めているか?
<参加者のコメント>
… ① プラフラーダ※1やドゥルヴァ※2は神の御名を繰り返し唱えるだけで神を見て、神に触れ、神と会話することができたが、なぜ神の御名を唱えることはこれらのすべてを可能にするのか?
「神の御名を繰り返すことの良さは、前にSis. Aがガーヤトリーマントラ※4のセッションで話してくれた。正しく唱えるとブラフマプラカーシャ※5が降りてきて、この世のものとは全然違うバイブレーションで守り、正しい道を照らしてくれる。健康にも良いことが実体験として分かる。2000年にダルシャン※6会場にババ様が一時間たっても出て来られず、みんなで待っていたが、これはもう来てくださらないという雰囲気になった。その時にガーヤトリーマントラを一時間以上唱え続けて、喉もカラカラになってしまった。ダルシャン会場の後方だったにもかかわらずスワミが来てくださって、目の前に止まって、ものすごく爽やかな笑顔で見てくださった時に、やはりガーヤトリーマントラと神の御名をババ様は聞いてくださっていたと実体験した。それ以来ガーヤトリーマントラや神の御名はいかにババと繋がっていて、ババが喜んでくださるのか体験として分かった。」
「私もインドに行った時にババの御名を唱えて、ナーマスマラナ(神の御名の憶持)をしていて、神の御名の力を実感したことがある。清らかな心で唱えなかったときにババ様が目の前にいらっしゃってきつく叱られたので、清らかな心で唱えることが大事だと思った。」
… ② 神の帰依者の仲間と共にいることは、どのように私たちに識別や放棄をもたらすのか?
「本来、霊性修行は一人で行うもだが、オーガニゼーションでは仲間がいて霊性修行がさらに進んでいくだろうと思う。“My life is my message, Our life is my message”という言葉もあるが、良き仲間の生き方、神のメッセージを生きている姿を通して、肯定的な影響が与えられる。自己を放棄したり、あるいは真実と非真実とを区別して、揺るぎないものに立脚して生きている姿を見ることができる。そのこと自体がやはり一人ではできない。一人ではできないことを、良き仲間がいることで達成でき、仲間の姿から勇気を与えられたり、識別、放棄などの価値を共有して、一緒に進んでいくことができるのではないかと感じた。」
「あなたの仲間がどういう人々であるのかによって、あなた自身がどういう人であるのかが分かるというスワミの御言葉があったと思う。悪い仲間の中に自分がいると悪く染められてしまう。周りの環境に自分が染められていってしまう影響はとても大きいと思う。一方、サットサング(善い仲間)と共にいることは、最高の仲間と神に向かって行くことになる。私もスワミを知って20年ぐらいになるが、とても一人では、多分続けてこられなかった。サットサングの中にいるからこそ続けられた。常に周りから良い情報を与えられ、自分自身が成長していける点があると思う。」
… ③ 「あなたが与えられたすべての強さと才能を用いて、誠実に話し、行動しなさい」という御言葉を通してスワミ※3が何を求めているか?
「私たち一人ひとりすべてが、神から強さと才能を与えられている。そしてすべての人の中に神様がちゃんといらっしゃって導いているので、自信と勇気をもって誠実に話し、生きていきなさいと言われているような気がする。」
「この言葉どおりで、真心というか真理に生きなさいということだと思う。誠実に話し、というところでは耳が痛い。私は悪い癖で、本当に誠実に毎回話しているかというと怪しい部分があると、この御言葉を見て反省していた。もっと真心を込めて話すようにしたいと思う。2番の質問について、2000年ごろスワミのダルシャンによく行っていた。そんなある時『皆から離れて一人でダルシャンの列に並んだ方が、スワミの近くにいけるのではないか』という思いが浮かび、日本人グループと離れて一人で並んでみた。するとダルシャン会場のすごく後ろになってしまって、日本人グループがダルシャン会場の前の方でスワミの祝福を受けている姿を私は一人で後ろから見ていたことがあった。その後スワミの御言葉おみくじを引いたら、『あなたはサイ・オーガニゼーションにいるからこそ、スワミの近くに来られるのです』という御言葉だった。それ以来、私はやはりサイ・オーガニゼーションにいることによってスワミの近くに行けるのだと本当に思うようになり、それ以来一人で並ぶことはなくなった。」
<サイの学生のコメント>
… ① プラフラーダ※1やドゥルヴァ※2は神の御名を繰り返し唱えるだけで神を見て、神に触れ、神と会話することができたが、なぜ神の御名を唱えることはこれらのすべてを可能にするのか?
「神の御名を繰り返し唱えることは、自分にとって一種のリラクゼーションのようなもの。歩いている時にもバジャン(神への讃歌)を歌ことなどが、自分に非常に多くのリラクゼーションを与えてくれている。アナンタプル※7でも多くの学生さんは時間があればノートにオーム サイ ラム※8とたくさん書き連ねたりして。時間があるとサーダナ(霊性修行)をしていた。自分がいたサミティ(サイセンター)のある年配の帰依者がリキタ ジャパム※9・ブックにオーム サイ ラムの文字をずっと書いていらっしゃった。その方は大変忙しい時でも常に、体調が悪い時でも、変わらずオーム サイ ラムをずっと書き続けていた。ある時、あまりにも具合が悪くて書くこともできず、そのまま眠りに落ちてしまった。でも、朝に目覚めるとそこに置いてあったノート全部に御名が書いてあった。その人は一人で住んでいて、どなたもそこに来ることができなかったのに、ノートにはそのように書かれていた。バガヴァン(尊神)だけがそのようなことをおできになるとその方は思った。神の御名をリキタ ジャパム・ブックに書くだけでなく瞑想の中でも唱えるとか、どのようなやり方でも神の御名を覚えておくことが重要だと思う。今日の節では、プラフラーダが御名を唱えることだけによって神を見ること、神に触れること、神と対話すること、それらのすべてを得ることができたと書かれている。もう一つの章ではサットサングがどのようにして私たちに識別力や放棄を促すかが書かれている。本当にスタディーサークルもサットサングの一例だと思う。このスタディーサークルが始まってから御教えの理解において非常に多くの進歩があり、意義深いものになっていると思う。同時に、今回の節の別の場所には、いつも誠実に真実を語るとか、私たちのすべての才能をかけて真実を語ることを実践しなさいと書かれている。バガヴァンがそのようにおっしゃる理由は、もし私たちがいつも真実に基づいて誠実であれば、いついかなる状況においても私たちは罪悪感を感じながら生きなければならないことはないだろうということ。罪悪感なしに生きていくことができるのであれば、私たちはいつもありのままの自分自身を受け入れていくことができると思う。今日はぜひそのような点をこれらの章について話し合って、理解を深めることを楽しんでいきたい。」
「日々御名を唱えることだけではなく、神様へ捧げる様々な仕事をとおしてこれらのすべてのことが得られるのではないかと思っている。そして自分の口で唱えることだけに限らずに、いつもバジャンやヴェーダ※10を聞いているとか、耳をとおしてもこういった体験が得られるのではないかと思う。最初は朝早く起きることに自分も怠惰な時があった。でも、ある段階で朝早く起きてバジャンをするようになり、聞こえてくる神の御名が自分のモチベーションを高めてくれるようになった。朝早くからバジャンをかけることから始めるようになり、その日をアクティブに過ごすことを助けてくれるようになった。今はスワミの身体が遍在の状況でいらっしゃるので、文字通りに神に触れ神と会話をすることが今はできないが、様々な体験を可能にしてくれるだろうと思う。」
「聖典に書いてあることは、カリの時代※11では神の御名を唱えることが解脱をもたらすということ。個人的には神の御名を唱えることによって本当に幸せになる。神の御名を唱えている時は、その神の御姿を思い浮かべたりする。自分が誠実に神の御名を唱えている時は、その神と共にいるように感じる。ミーラー・バーイー※12もクリシュナ※13の御名をいつも唱えていたが、ハートにクリシュナの御姿を浮かべながら唱え、唱える度にミーラー・バーイーのハートの中でクリシュナのイメージが刻み付けられていた。それはダルシャンだったのではないかと思う。そのようなやり方で神の御名を唱えることができれば、ハートにイメージが植えつけられて神と繋がることができる。神の御名を唱えれば私たちのエゴが最小化すると思う。神の御名を唱えながら何かを行うのであれば、その行為の結果を求めなくなると思う。マインドは神の御名を唱えることに忙しくなるので、その間はマインドが外の世界をうろつき歩くことがなくなる。そして心が内側を見るように訓練することができるようになると思う。神の御名を唱えることによって行為の結果を求めることがなくなれば、ダルシャンに繋がり、それがカルマ(行為の結果)を取り除いてくれる。最後の神との会話に至るという点に関しては、御名で心を清めることができるとそれによって神と会話することができるようになると思う。例えば、歩いていていろんなゴミが落ちているのを見ては、ハートの中のスワミがゴミを拾ってゴミ箱に入れなさいとおっしゃっていると思ってそのように振る舞うことができると思う。神の御名を唱えていくことは、神を達成することであったり、神の祝福を受ける資格を与えてくれるということだと思う。」
「本当に人間が進歩することの一番のカギになるのは、いかにして適応するかということだと思う。肉体的にも、精神的にもいろんな状況に対して適応しなければならない。もう一つ人間がもっている特質は、いろいろと物事を比べてしまうこと。よく私たちは自分のことを、自分に近しい他の人たちと比べて、自分の立ち位置がどのようになっているのかを見ようとしたりする。例えばプラシャーンティ・ニラヤム※14で学生がダルシャンに行く時にはいつでも、可能な限りスワミの近くに行き、一列目に座りたいと考え、他の学生たちと競争して、マンディール(礼拝堂)に一歩でも早く着こうとする。そして何かの理由でスワミからすごく遠い所に座らなければならないと、ちょっと気分を害したりする。そうすることによって、少しでもスワミの注目を引いたりしたいと思う。実はラーヴァナ※15の時代においてさえも、ランカー※16に住んでいる人々は少しでもラーヴァナの近くに行って、ラーヴァナの気を引こうとしていた。プラシャーンティ・ニラヤムに住んでいる人々は、あくまでもスワミの注目を引きたいと思っていることが唯一の違い。そして、そこにはグループとしての活動というものがあることによって、人々が様々なバジャン、ヴェーダやいろいろなグループとしてのアクティビティに従事することができるようになっている。同じように当時ランカーにいた人々もグループで様々な活動に従事することによって、それを通してラーヴァナの気を引こうとしていた。どういう人々と共にいるのかということが、ラーヴァナの場合でさえも非常に重要だった。私たちの場合にはスワミの帰依者の仲間ということになる。スワミの帰依者としての活動の中で、識別や放棄を培っていこうと思うのであれば、そういったことは自然にやってくるだろうと思う。」
「サットサング(善人との親交)とは、神を愛する人々と近しくいること。本当に神を愛する人々が近しく集まって、いろいろなことを話したり、議論したりすると、本当にすべての話題が神の周りのことになる。どういう議論をしても、幾分かの神の話題が伴う。サットサングの中にいることによって、さらに私たちは神のことを聴いたり話したりするようになり、他の人がそうしているところを見ることになる。そして自分自身のいろいろな行動を他の神を愛する人々の行動と比べるようになって、それを通して識別もできるようになっていく。そして、神に近づきたいと思っている人々にとっては、そのようなサットサングに加わることは、自分自身が変容するための大変良いチャンスとなる。そして今日のこの質問への答えは、アーディ・シャンカラ(初代シャンカラ)のバジャ ゴーヴィンダム※17の詩の中にもあると思う。2番目の質問だけではなく、1番目の質問に関しても、バジャ ゴーヴィンダムの歌詞の中にほとんどの答えが書いてある。良い仲間の中にいることによって、無執着が得られ、無執着があることによって、マーヤーという幻影から自由になることができると歌詞が続く。マーヤーから自由になることによって、それが一点集中と堅忍不抜につながる。それらがやって来るのなら、解脱がやって来るという順番になる。一度、今説明したような一つひとつの点が、どのように互いに繋がっているのかを理解することが大事だと思う。」
… ③ 「あなたが与えられたすべての強さと才能を用いて、誠実に話し、行動しなさい」という御言葉を通してスワミ※3が何を求めているか?
「自分自身に対して真実であるということをスワミは強調されたいのだと思った。誰もが知っているように、真実を話すことは勇気が必要なこともある。そのようなときにも自分に正直であるということだと思う。真実を話すことが、自分自身に対して真実であるための重要なステップだと思う。時には私たちは何が一体何が正しいことで、何が間違っていて、何が本当で、何が本当ではないのだろうと思う場面もあると思う。そういう場面で識別力を行使していかなければならないと思う。そして、もし何が正しいかを見分けることが難しいときには、ただどちらの方がスワミをハッピーにするだろうかという思いをとおして判断すること。それが、何が正しくて何が間違っているかを見分けるための一つの方法で、それに従って行動すれば良いと思う。そうして真実を見分けていくことが、私たちにとって正しいことを話すモチベーションを与えてくれると思う。」
「まず自分自身に対して正直である必要がある。自分に正直ということは思いと言葉と行動が一致しているということ。そして人々に対して良い行いをするためにすべての力を活用することだと思う。スワミはいつも善良でありなさいとおっしゃっているが、私たちはすべてのエネルギーを他者への奉仕に使っていくべきだと思う。最初はそうしようとすると色々な問題に出くわすでしょうとスワミもおっしゃっている。たとえそのような問題に直面したとしても、私たちがそこで正しい意図を持ち続けることができれば、間違いなくそれに成功すると思う。そのことが私たちをより善い人間にしてくれると思う。実際にその試みに成功したときには、それが私たちに喜びを与えてくれ、さらに良い行いをしたくなる。繰り返すと、自分自身に正直であることと、自分自身の思い・言葉・行動を一致させる自分の中の一体性が必要になる。そして、そのように歩みを進めていくと神実現に近づいていくと思う。」
<ババ様の御言葉>
あなたにも他の人々にも苦痛を与えないもの、それが正しいものであり、それがダルマです。ですから、あなたが喜びを手に入れ、他の人々も喜びを手に入れるような方法で行動しなさい。あるいは、あなたの行為に別の基準を設けなさい。マナス〔心〕とヴァーク〔発言〕とカーヤム〔体〕(思いと言葉と行動)を一致させなさい。言い換えれば、話すとおりに行動し、感じたとおりに話しなさい。あなたの内なる良心を裏切ってはなりません。嘘というマントであなたの思いを覆い隠してはなりません。あなたの内なる良心を強引に隷属させて抑圧したり、良心が認めない行動に着手したりしてはなりません。それがダルマにかなった生き方です。何度も正しいことを行っていれば、それはますます容易になり、習慣は成長して良心となります。ひとたび自らを正しい行為に定めれば、あなたは自動的に正しいことに従うようになります。あなたが何をするかは、あなたがどういう人であるかによって決まります。あなたがどういう人であるかは、あなたが何をするかによって決まります。
1962年10月5日
※1プラフラーダ:ヴィシュヌ神をナラシンハ(人獅子)として化身させた偉大な少年。さまざまな拷問にあいながら神への信仰を捨てなかった。
※2ドゥルヴァ:父親の愛を得るために一心に神を念じた少年、マヌ法典を記したマヌの長男ウッターナパーダ王の息子。ババの御講話によると、ウッターナパーダにはスニーティとスルチという二人の妻があり、スニーティはドゥルヴァを産み、スルチはその半年後にウッタマを産んだ。王は若いスルチを寵愛し、スニーティをおろそかにしていた。ドゥルヴァが五歳のとき、ウッタマと同じように父である王のひざの上に座ろうとしたところ、王のひざに乗れるのはスルチから生まれた息子だけであるとスルチにののしられた。その後、ドゥルヴァは母スニーティの助言に従って、神の恩寵を得るために森に入り、聖者ナーラダに授けられた「オーム ナモー バガヴァテー ヴァースデーヴァーヤ」というマントラをひたすら唱え続け、ナーラーヤナ神の姿を念じた。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※4ガーヤトリーマントラ:太陽神に捧げられる讃歌。https://veda.sathyasai.or.jp/gayatri
※5ブラフマプラカーシャ:ブラフマの光輝
※6ダルシャン:聖者や神を拝見すること。
※7アナンタプル:サイ大学の女子大のあるアナンタプル県の町。アナントプル。
※8オーム シュリー サイ ラム:サイ ババの信者が改まった席での挨拶などとして使う文言。オームは原初の音なる聖音、シュリーは男性につける敬称、サイはサイ ババのサイ、ラムはラーマ神の意。(この文ではシュリーが省略されている。)
※9リキタ ジャパ:書くことによるジャパ。霊性修行の一つで、繰り返し神の御名を書くこと。修行者の心と神の心を一つにするための行。ジャパム(テルグ語)
※10ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※11カリの時代(カリユガ):法の力が4分の3失われた闘争の時代
※12ミーラー・バーイー:ミーラ・バーイ ミラ・バイ1547-1614あるいは1498-1563 メワール王国の都チットール(ウダイプルに遷都される前の都)のマハーラナ(藩主)の妃で、クリシュナ神の偉大な帰依者。王家を出てからは吟遊詩人となり神への歌を歌って徘徊した。
※13クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※14プラシャーンティ・ニラヤム:プッタパルティにあるサイ ババの住まいとアシュラムの総称、至高の平安の館の意。
※15ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※16ランカー:『ラーマーヤナ』の悪鬼ラーヴァナの王国。
※17バジャ ゴーヴィンダム:アーディ・シャンカラがサンスクリット語で著した神への讃歌。優れた不二一元論の網要とされる。
開催日:2022年2月3日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第13節、22節「真理と識別心という道によって神に到達しなさい」、「永遠の真理という知識を追い求めなさい」
参加者:39名
質問:
① 真の知識(ヴィッディヤー)をどのように絶えず覚えていることができるのか、どのように神へ至る規律ある生活を送ることができるのか?
② 今日の人々が霊性教育を学ぶことを恥ずかしく思う原因はどこにあるのか?予見者たちが示した堂々とした姿勢はどのようにして得られるのか?
<参加者のコメント>
… ① 真の知識(ヴィッディヤー)をどのように絶えず覚えていることができるのか、どのように神へ至る規律ある生活を送ることができるのか?
「世俗の知識は実生活で役立ったり、知らないと恥をかいたりもするので常に意識している状態。一方で霊性の知識こそは大切なものだが、目に見えないのでどうしても意識の外に置かれてしまうのではないか。例えばスタディーサークルでもヴェーダ※1でもあえて努力をして、意識することによって内面の幸せを感じる。そういう内面の幸せを求めることによって内面の知識を覚えていることができるのではないかと思う。」
「1年ぐらい前からテレビを見なくなり、その結果すごく平安を感じられる様になった。そしてコロナ禍でスワミの御教えの朗読会が始まった。しかし私は朗読が下手なので、練習するのに録音を取っている。スワミ※2のヴァーヒニ シリーズ※3を夜眠れない時に聞くようにした。その時にすごくスワミの御講話が頭に入って『そうだな』と思いながら眠る。このような方法も良いと思う。」
「私の場合、スタディーサークルに参加すると、必ず何かの新しい規律や新たに気付きが必ずある。しかもそれがその時の自分にとって適切なものであることが多い。それは神が提供してくださったものなのだと思う。つまり、サットサング※4で神からのインスピレーションを受けながら、新たな規律に自分で気付いて、それに沿って日々を送ることが一番大切ではないかと思う。」
… ② 今日の人々が霊性教育を学ぶことを恥ずかしく思う原因はどこにあるのか?予見者たちが示した堂々とした姿勢はどのようにして得られるのか?
「霊性修行をすると自分の内面に目が向くようになる。私もそうだが人に対してこうやったらいいと目が外に向いてしまい、親の立場だと上からものを見てしまう。しかし霊性修行は自分のことを見るので、いざやると自分はこうだったので、悪かった、ごめんなさいと恥ずかしく感じる。予見者たちというのは自分に非がないので、自分を見ても恥ずかしいところがないので堂々としていられるのかなと思った。」
「私の近しい人は私がサイ・ババを尊敬していることを100%知っている。彼らと話しているとき、サイ・ババのことを話した方がスムーズに話が流れるときにはそのようにしている。恥ずかしいというのは、スワミの御教えを学んでいるのに、自分ができていないものを言葉だけを言うと、結局スワミの価値を下げてしまう気がする。」
<サイの学生のコメント>
… ① 真の知識(ヴィッディヤー)をどのように絶えず覚えていることができるのか、どのように神へ至る規律ある生活を送ることができるのか?
「もし私たちが霊的な活動を行った後で得られるインセンティブがはっきりと分からないなら、スワミが語っていることしっかり読むことだと思う。スワミは『何も疑問を抱いてはいけません』、『何もインセンティブを求めてはいけません』、『少なくとも一つの指示にしっかりと従ってトライしてください』とはっきりとおっしゃっている。数えきれないほど何百万回失敗しても決して諦めないでトライしてくださいと。霊的な活動のインセンティブはそれを実践する人が得ることができる。(中略)霊的な教育の効果は体験することによって得られるもので、他の人がそれを見て得られるかといえば“NO”だと思う。皆が自分自身を評価して、どれぐらいの時間を霊性修行に費して献身しているのかを評価すれば、霊的な教育へのコミットメントが増えていくだろうと思う」
「本当のヴィッディヤーは何なのか自分の考えを少し述べたい。この世界では、大抵興味をもっていることを得るのには、多くの努力を必要としない。しかし、ヴィッディヤーを得るには単に興味をもって行うより、もう少し違うことをしなければならない。それには霊性修行をしなければならない。本当のヴィッディヤーとは、神を知って融合していくこと。神の方に向かい、神になることに対して努力を注がなくてはならない。世俗的な努力とは違う種類の努力になる。それは瞑想やバジャン(神への讃歌)、誰かを助けることや奉仕など。真の知識を得るためには継続的に自己研鑽しなくてはならない。そうして初めて本当のヴィッディヤーが自然に意識の中に植えつけられると思う。この世の知識を得ることと違い、真の知識を得るためには特別な努力の必要が生じてくる。」
「スワミがおっしゃっているのは、食物はすべての感覚と関係していており、さらには見るもの、聴くもの、感覚器から取り入れるものもまた、食物といえるということ。私たちが霊的成長のための活動に取り組んだとしとも、そこかから100%の利益を得られないのだとしたら、それは私たちの感覚器の誤用に原因がある場合が考えられる。だからまず感覚から取り入れているものを、すべて清めていく必要がある。(中略)皆一人ひとり生活環境が違うので、必ずしもすべての霊的な活動に関わることができるわけではないと思う。ある帰依者の方はバジャンが非常に上手で、それを通して神と繋がれる人であったりするかもしれない。ある人は瞑想をとおしてだったり、あるいはナーマスマラナ(神の御名の憶持)をとおしてという人がいると思う。自分の場合は例えばナーマスマラナをしているが、自分のバックグラウンドとして何故ナーマスマラナをしているのかということを明らかにして、理解する必要がある。本当に一度やることを決めて、それを続けていったなら、自分が選んだ活動を続けていくことによって、より良い習慣を培うことに繋がり、成果に繋がっていくと思う。それが神を達成するために取るべき方法ではないかと思う。」
「人生の中で何を達成するにも規律がとても大事。ライフスタイルは習慣によって決まるとスワミはおっしゃっているが、そこで大事なことは、どのように良い習慣を培って、どのように悪い習慣を止めるかということ。心理学が教えていることは、どんなことであれ21日間続けたら習慣になるといわれている。新たな習慣を身に着けるには、小さな小さなステップから始めていくことが実践的には大事。私たちはどんな言語も一日で喋れるようになることはない。最初はアルファベットから学ぶ必要がある。それと同じように意識的な努力を毎日することが大事。毎日の努力の継続により、それが習慣に変わっていくと思う。そして、そのようにして得られた良い習慣が、良い方向へと繋がっていく。この様な背景のもと、スワミはヴィヴェーカ(識別)が非常に重要とおっしゃっている。自分の習慣について、これは良い習慣か、悪い習慣なのだろうかと自分自身に問いなさいということ。また同様に、良い方向へ向かっているか、何が悪い方向性なのだろうか問うことも大切。良い方向というのは、スワミの方へ連れて行ってくれる方向。当然、その方向性は私たちに幸せを与えてくれる。それは一時的な幸せではなく、最終的な目的地へと繋がっていく、永続的な意味での幸せ。もし私たちの努力が正しい方向であることを識別をとおして分かったのなら、その努力を規則正しいものにしていくことができる。そして、努力が規則正しいものとなれば、それが習慣になる。それが習慣になれば、それは規律に変わる。それを実践して初めて、これが良いとか悪いとか、体験して理解し、それが実際に自分をどこに連れていってくれるものなのかが分かる。そういった理解が私たちがさらなる良い習慣を手にすることに繋がっていく。」
… ② 今日の人々が霊性教育を学ぶことを恥ずかしく思う原因はどこにあるのか?予見者たちが示した堂々とした姿勢はどのようにして得られるのか?
「霊性という言葉の意味や情報が、世の中に間違って伝わっていたり誤解があると思う。例えば霊的なことに関して、神様の超常現象を信じますか?などと問われたりする。霊的なことを信じない人々は、目に見えないものに対してなぜ従っていくのだろうと思ったりする。同じような誤解として、神様を信じる理由は自分に自信がないから、神様を信じて頼ったりするのだろうと考える人々がいる。しかし現実には、霊的求道者と呼ばれている人々は、霊的でないどんな人よりも自信にあふれている。一番初めに大事なことは、霊的な求道者たち自身が、霊的であるとはどういうことかという知識をしっかり得ることだと思う。霊的求道者が気づいて理解しなければならないことは、本当の霊性とは自分自身のことをより良く理解するということ。神を信じない人から見ると求道者たちは皆、神を探しているように見えるが、実際には求道者たちは神を探しているのではなくて、どこにでも神を体験している。一度その違いを真に理解したのなら、自ずと態度も大胆なものになっていくだろうと思う。それは自然にそうなると思う。また、科学的に言っても、霊性を理解する人々の方が、理解しない人々よりも幸せであるという事実がある。だから何か問題がやってきたとしてもそれによって落ち込んだりするのはなく、それもまた神からのギフトであると考えて楽しむことができるようになる。真の霊性求道者としての立場を理解したのなら、何も恥ずかしがることはなくなると思う。」
「(世の中において霊的なことを)なぜ恥ずかしく思うかというと、霊性が一番大事なものだと思っていないのでそう思うのだと思う。同時に霊性というのは実践するのが大変なもので、大変な規律を必要とするかのように理解されている。実際に霊性を理解したり体験しようとするのであれば、何もそのような複雑なものではない。霊性の唯一の目的は私たちがもともともっているような内なる善良さを目覚めさせるものにすぎない。霊性というものはまったく複雑なものではなく、日常生活の中でシンプルに実践していけるものだと考えるのであれば、より堂々とした姿勢でそうしていくことが可能になると思う。」
<ババ様の御言葉>
現代人は、世の中のさまざまな側面を研究したり調査したりしています。しかし、神性は研究や調査では体験できません。あなたの好む神の御姿を一つ選び、その御姿を憶念しなさい。その神の御姿に心を集中させる時、あなたの心は完全な変容を遂げて神性と一つになります。今、人の心は一瞬ごとに迷い続けています。揺れ動く心に頼ってはなりません。そうする代わりに、しっかりと安定している不変なる神性を信頼しなさい。ひとたびあなたが自分の選んだ神の一つの御姿に心を向けたなら、決してそれを変えてはなりません。目を閉じて、その御姿を憶念しなさい。そうして初めて、あなたは神性を体験できるのです。
2004年11月22日
※1ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ヴァーヒニ シリーズ:インド発行の月刊誌、サナータナ サーラティ誌にテルグ語と英訳で連載されたサティヤ サイババの著作。
※4サットサング:善人との親交、神との親交、善い仲間と共に過ごすこと、善い仲間に加わること。
OM SRI SAI RAM
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全文版はダウンロードボタン(pdfボタン)からご確認ください。
開催日:2022年1月6日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第70節「神の化身を求めて祈りなさい」
参加者:46名
質問:
① 神はいつアヴァター(神の化身)が降臨すべきかをご存じだが、なぜ神の降臨を求めて祈る必要があるのか?
② 神の降臨と、内在の神への気づきのいずれを願い求めるべきか?
③ アヴァターが降臨した場合、どのように判別できるのか?
<参加者のコメント>
… ① 神はいつアヴァター(神の化身)が降臨すべきかをご存じだが、なぜ神の降臨を求めて祈る必要があるのか?
「自分の心の中に神聖な愛、真理、神様の性質が顕れるように祈ることが、神様の降臨を求めて祈ることに繋がるのかなと思った。」
… ②神の降臨と、内在の神への気づきのいずれを願い求めるべきか?
「私たちも神の子だが、光の大きさは神の化身そのものとは違うものがある。肉体を持った神様の御姿を拝見して、お手本にすることで、私たちも全世界も力をいただける。この世はゲームでありドラマであると思うが、素晴らしいお芝居ができる。」
「Bro. Rのお話の中で、神の降臨というのは肉体を持った神が地上に降臨する場合と、自分の内在の神としての降臨と2種類あるというお話があった。肉体を持った神が地上に降臨するためには、英知のある人々が願い求めて初めて神の降臨につながるのではないかと、いろいろなお話の中からそう感じた。内在の神への気づきは、自分たちで本当に求めることができる身近なもの。でも本質的にはやはり両方とも同じなのではないかと思う。」
「内在の神は自分自身のことだが、神の降臨となると本当に宇宙や世界のすべてのものに対して恩寵が注がれると思う。」
… ③アヴァターが降臨した場合、どのように判別できるのか?
「一番自分がスワミ※1に会ってびっくりしたのは、同じ時間に別々の場所に出現されていたという話があったことと、宝石のような美しいスワミの御教え、犠牲の精神、スワミの示された無私の生き方がまったく次元が違うということに感動した。普遍性があり、分け隔てない。」
「私が、スワミを神の化身だと思った理由は、無条件で自分の心を変容させてくれた、無条件で引き付けられたということだ。例えばお坊さんの良い話を聞いて理論を理解して素晴らしいと思うようなこととは全然違う、まったく頭で考えることがなく、自分で判断することもなく、無条件で引き付けられて自分の心が変容してしまった。このことが一番驚きで、これは本物だなと思い、そこが一番だなと思った。」
<サイの学生のコメント>
… ① 神はいつアヴァター(神の化身)が降臨すべきかをご存じだが、なぜ神の降臨を求めて祈る必要があるのか?
「スワミは非常に明確におっしゃっている。私たちが親切心とか同情心を十分に培うまでは、ずっと祈り続けなければならない。祈りには単にお願いするだけではなく様々なものがある。例えば赤ん坊がお腹が空いたらミルクを求めて泣くのは、それが子供の祈りだから。もちろん赤ん坊が単に泣くだけでは普通に定義されるところの祈りとは違うが、実際には同じ。そして私たちも神様を必要とするとき、何か自分の願望があるときにお願いする。赤ん坊にとっては泣くこと、私たちにとっては祈ること。それは私たちにとってのご利益になる。霊性修行者は永遠の幸福を求めて祈る。すべての語る言葉や行動は祈りが表現されたものであり、そして神との一体性に到達する時に祈りは叶えられたということ。私たちは自分自身を単なる人間だと思うことをやめて、内在する神性を悟るなら、それがまさにアヴァターではないのかと思う。もし私たちが身体でもなく心でもなく宇宙に存在する神聖なエネルギーそのものであると悟ったときには自分自身がアヴァターになるのだと理解すべき。サンジェイ マハリンガム先生がスワミに面白い質問をされた。『スワミは人間の姿で来られたならば、あなたも祈るのでしょうか?』と質問された。『なぜ祈らないことがあるでしょうか?もちろん私は祈ります』とスワミはおっしゃった。『私はあなたと一体何か違うのでしょうか?何も違いません』と本当に何も違わないことを強調されました。『至高のエネルギーが人間の姿を取り、マーヤー(まぼろし)の影響をまったく受けずに振る舞います。それが、私が幼い時からバジャン(神への讃歌)を始め、バジャングループを作り、ヴェーダ※2を始め、マーナサ・バジャレー※3を歌い始めた理由です』。スワミの一連の行動が、祈りは私たちにとって欠くことのできないものであるという証拠を見せてくださっている。例えば『神を信じない人は祈るのでしょうか?』という質問がある。『神を信じない人でも祈るのです』とスワミはおっしゃる。神の存在を否定するのも一つの祈りの形態。神を信じていようといまいと、すべての人が祈っている。」
「全能で遍在である神は創造物のすべてを強く愛してくださっている。そして神と繋がるためには祈る必要がある。神への祈りの中にいることが非常に恩寵深いことだと思う。なぜ神に祈るのか?それは神だけが唯一の拠りどころだから。神様が私たちをいかなる状況にあっても面倒を見てくださっている。また、祈りはどのように神にたどり着けるのかという原理・原則を教えてくれるものでもある。私たちが誠実に祈りを行うときに、必ず神様はその祈りに応えてくださる。私たちは祈り、神を覚えていることで繋がり続けている必要がある。」
… ② 神の降臨と、内在の神への気づきのいずれを願い求めるべきか?
「神がアヴァターとして降臨される目的は、人間の内なる神性に気づかせること。これまでいろんなアヴァターが降臨されたが、ラーマ※4、クリシュナ神※5、シルディ サイ※6、サティヤ サイは、御教えをとおして人間の内側に神性があるということを教えて体験させてくださった。質問について自分の意見では、外側の神の降臨が、私たちの内側の神への気づきを促進してくれる。つまり神の降臨、内在の神への気づき、この2つが違うことだとは思わない。まず一つ小さな例をあげたい。南インドにラマナ・マハルシと呼ばれる聖者がいる。普通の一般的な家庭に生まれたが、非常に強力な霊性修行を行った。後には多くの人々が彼のことを神ご自身として呼ぶようにまでなった。なぜ彼が神ご自身であると多くの人が考えているかというと、強力な修行によって神を理解するに至ったから。多くのヒンドゥー教の聖典には神を理解したものは神になると書かれている。普通の人間として生まれても、様々なアヴァターの御教えを取り入れて大変な修行して、それをとおして成長することによって、神と同じレベルに至ることが可能であることを示してくれた。このことから神の降臨と内在の神の気づきは、二つの違ったことではないと理解している。」
… ③ アヴァターが降臨した場合、どのように判別できるのか?
「アヴァターが来られたということは、彼が方向を示す星(北極星のように)であること。すべての人がその方向に向かって辿りつくことを教えてくれる、そして人間に変容をもたらし、導く星のようなものだと思う。ハートの中に神が降臨することは、単に外側に神が降臨する以上に大事なこと。たとえ神様がアヴァターとして降臨しても、もし私たちが彼と同じ道を辿ろうとしなかったり、真剣にとらえようとしなかったり、彼を愛そうとしなかったり、変容しようとしなければ、どんな神様が来ても、それは無駄になってしまう。
バガヴァットギーター※7の最終章に、あるシローカ(詩節)※8がある。ビーシュマ※9が矢に倒れて、死の床に伏しているときに関するもの。そのときにクリシュナがダルマラージャ※10にビーシュマの所に行って彼からダルマ(正しい行い・正義)のことについて学んでくるようにと命じた。真のダルマが地上に確立された時には、本当に皆がダルマを守り、その時には地上には統治者が必要なくなり、王とか大統領はいなくてもよくなるという話があった。神のような守護者も必要なくなる。なぜなら私たちがお互いを守るようになるから。そのときに人々の間にある関係は、ただ愛であるということ。世の中がそのような理想的なダルマ的な状態を達成するまでは、私たちの中にこのような祈りが内側で常に必要になってくる。」
「この質問に関して帰依者がスワミに同じ質問をしてきた。『どのようにプレーマ サイ※11を認識できるか』という質問。するとスワミは、『それなら私の人生は無駄だったのでしょうか?』とおっしゃった。この時代にはスワミが来られて私たちにいろいろなことを体験させてくれた。しかし、次のアヴァターの話をするとフォーカスがスワミではなくなってしまうのではないか。スワミの御教えを実践すればそれで十分ではないか、これはパート1、パート2、と続いていく映画のようなものではない。次のアヴァターに関する記述は、今のサティヤ サイの時代ではなく、さらに先の時代を生きる人のためにおっしゃっていると思う。時が変わり、社会も移ろいでいく中で、必要なアヴァターや御教えはまた異なったものになっていく。今この時代で目の前に何が必要であるかということが、私たちがフォーカスしなければいけないポイントだと思う。アヴァターの降臨の目的には内なる気づきを促進するということがあるが、本当に私たちが神の降臨によって内なる神への気づきを得たのであれば、どうして次の神の降臨が必要だろうか?内在の神への気づきが得られたのであれば、それがすでにゴールではないか。神様と一緒に内なる神を見て、それと一体化した時にはさらに次の外側のアヴァターの降臨を探し求める必要はなくなると思う。」
「クリシュナ神がバガヴァッドギーターで『ダルマが衰えた時には私はいつでもやってくる』とおっしゃっている。アヴァターの降臨について二つの解釈がある。一つは肉体をまとって来てくださるのか、もう一つは私たちのハートの中に来てくださるのか。サンスクリット語でのバガヴァッドギーターの言葉の解釈では両方が可能である。肉体の姿をまとってくださるアヴァターも、あるいはハートの中に祀られるアヴァターも両方とも私たちのダルマを取り戻す上でどちらも重要。『全知全能の神は、いつ私たちのところにやってきて祝福を与えるべきなのか完全にご存じなので、どうして私たちは祈る必要があるのだろうか?』という疑問が示される。その答えが非常に大事ではないのかと思う。この章を読んでいるときに、ラーマーヤナ(古代インドの叙事詩)※12で読んだことを思い出した。ダシャラタ王※13には長い間子供がいなかったので、神様に子供をくださるように祝福を祈った。多くの賢者やリシ(聖者)が出席して、ヤグニャ(供犠)を行った。その中のリシが神様に話しかける機会を得て、その儀式の中で神様がアヴァターとして来てくださるようにお願いした。そのリシは悟った魂だったが、悟ったステージにいるリシにとってさえも神ご自身が化身されることがとてもとても大事だった。この章を読んでいくことがこの点についてより深く考えていくことを助けてくれると思う。」
<ババ様の御言葉>
「もし人類が一斉に、不安や不正や混乱や虚偽が、平安や愛や助け合いに変わるようにと祈るならば、物事は確実に良くなります。それ以外の解決方法はありません。心配することは無益です。絶望している場合ではありません。強さがなく、弱いことを言い訳に使うのは、人間の根本的性質に反しています。それゆえ、他の方法を探すことを止めて、人々は祈り、他者へ奉仕し、互いを愛し尊敬しようと努めなければなりません。これ以上先延ばしにしてはなりません。満足と喜びはすぐに得られるのですから!」
プレーマヴァーヒニー70章
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※3マーナサ・バジャレー・グルチャラナン:「心の内で神を崇めなさい」という意。1940年10月20日、御自身が14歳の時に、自分はサイ・ババである、自分はアヴァター(神人)であると宣言した際の人類に対する最初のメッセージ。
※4ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※5クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※6シルディ サイ:1838年9月27日に降臨した神の化身。1918年(大正7年)のヴィジャヤダシャミーの日(10月15日)午後2時30分に肉体を離れた。
※7バガヴァットギーター:マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※8シローカ(詩節):心を楽しませる同じ音節をもつ四つの句で組み立てられた詩節。
※9ビーシュマ:『マハーバーラタ』の英雄でシャーンタヌ王とガンガー女神との間の子。カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の大叔父。
※10ダルマラージャ:パーンダヴァ兄弟の長兄、ダルマの王の意、ユディシティラの別名。
※11プレーマ サイ:サティヤ サイ ババの来世である神の化身プレーマ サイ ババの略称。
※12ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※13ダシャラタ:ラーマの父、10の戦車、10の馬車、10(ダシャ)のインドリヤ(感覚器官)という馬にひかれる馬車(ラタ)、あるいは、10人力の御者の馬車の意。
開催日:2022年1月12日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第68節「一人離れた場所を探し、瞑想して一点集中を獲得しなさい」
参加者:52名
質問:
① 日常生活において一点集中を高めるためにどのような取り組みが有効か?
② 行動の成果に対する欲望を捨てるためには、どのような考え方、取り組みが有効か?
③ 世界に幸福を確立していくためには、どのように願望を方向づけ、行動すると良いのか?
<参加者のコメント>
… ① 日常生活において一点集中を高めるためにどのような取り組みが有効か?
「そのことに対し一点集中したいと思う真剣度が必要。そのためには一つひとつの物事に小さな目標に設定して期限を決めていくと良いと思う。」
… ②行動の成果に対する欲望を捨てるためには、どのような考え方、取り組みが有効か?
「できれば静かなところに行く。ハヌマーン※1をお手本として自分の身体をすべて、さらに地球や宇宙すべてが『オーム サイ ラム※2』の文字で満たされるようなイメージをもつ。」
「昨年亡くなられたとても素晴らしい帰依者でBro. Kという方がいらっしゃったが、もし生きていらっしゃれば、今日は89歳の誕生日だった。Bro. Kは達筆で、書かれたスワミ※3の御言葉に『欲望のコントロールなしに幸福がもたらされることはありません』とあった。自己コントロール、欲望をコントロールすることによって本来はあまり良くない欲望もポジティブな方向性にもっていくことができ、欲望が捨てられることになると思う。Bro. Kは菜食の大切さについてもよくおっしゃっていた。感情、マインドや精神的な清らかさ、健康に結びついていく。菜食によって欲望をコントロールすることがとても楽にできるのかなと思う。」
「すべてを神に捧げることを忘れないこと。例えばイベントを計画する際、他人の評価を考え、人が集まるだろうか、盛大にできるだろうか、どう思われるだろうかと考えたりすると、いろいろな欲望が生じてきてしまう。でも、本当にすべてのことを神に捧げるつもりで行うことが、捧げるということ。その原点を常に忘れなければ欲望は抑えられるか、湧いてこないと思う。」
… ③ 世界に幸福を確立していくためには、どのように願望を方向づけ、行動すると良いのか?
「行動の成果を求めず、世界の平和を確立することに携わることも、結果を求めるのではなく、神の道具として働く(神への奉仕)、神に喜んでもらうためにという欲望に置き換えるという意識のもとに行動することが大事なのかなと思う。私たちが神の道具として世界の平安のために何らかの奉仕に関わっていくということが、自らの内なる世界を平安にする。世界への奉仕のために行動できるチャンスを与えていただいているという気持ちで行動することが大事なのかなと思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① 日常生活において一点集中を高めるためにどのような取り組みが有効か?
「いろいろな文献に書かれていることや他のアヴァター(神の化身)がおっしゃった情報を、どのくらい日常生活で応用していく能力が私たちにあるのかということだと思う。バールヴィカスで自分と年が同じ友達がいた。お行儀が悪い友達で、心がいつも定まらず不安定で多動で、瞑想や勉強も5分間しか座っていられなかった。それくらいの年齢の子供たちは皆同じような問題を抱えていた。その落ち着きがない生徒も、バジャン(神への讃歌)だけは好きで、夕刻の時間にバジャンの時だけ30分間座っていることができた。そして他の人が彼に何も指図したわけではないのに、自然とバジャンの時間になるとやって来て、バジャンが終わると帰っていた。両親に対してバールヴィカスの先生は『彼はバジャンに傾倒しているから、彼にはこれをやらせておきましょう。他のことを彼には無理に強制しないようにしましょう』ということだった。バジャンをずっと続けていくことが一種の薬のようなものだった。それをずっと続けていけば自然に彼のいろいろな特質を変えていき、それ以上に何かを意図しなくてもそれが薬となって、時と共に彼を変容させることができた。その彼も今は25~6歳の年齢になっているが、とても落ち着いていて、話し方も穏やかで、本当に子供の頃の振る舞いとはまったく対照的。バジャンという、彼ができることを自然にやってきたことが、そういう特質を培わせることになった。中学、高校に行った時、次第に変化が自然に起こり、中学の時にはまだそれほど長く勉強できなくても高校に行くと普通に日に3~4時間勉強できるようになっていた。このような例にならうのであれば、私たちが無理をしなくてもできるような自然にできる活動を一つでも見つけて、その活動を絶え間なく行っていけば、それによって変容していくことができるのではないか?それによって穏やかで余計な思いを伴わないような特質になっていくのではないかと思う。」
「マインドフルネス(現在に集中すること)が一点集中を高めるために必要。私たち自身のことをマインドフルネス的な姿勢で知ることができれば、より善くなって、より健康になって、より幸せでいることができるだろうと思う。もし私たちのエネルギーや心をポジティブな要素により集中できるようになれば一点集中に繋り、ポジティブさをもたらす美徳をとおして一点集中がもたらされると思う。一点集中を得るためには、ただ神のことだけを考えていく。そうして初めて私たちのビジョンがハートの中におわす神に固定される。座っていようと仕事をしていようと、くつろいでいようと、私たちの身体やエネルギーは生活の中のポジティブな面の真ん中に集中していなければならない。それを、忍耐をもってコンスタントにやっていくことが必要。一点集中とは過去でも未来でもなく現在に一点集中すること。」
… ② 行動の成果に対する欲望を捨てるためには、どのような考え方、取り組みが有効か?
「日常生活では完全に結果を期待しないことはとても難しいことではある。私たちは人生においてはいろいろなゴールや、後のキャリアなども心に留めながらいろいろなことをやっている。でも、少しずつスワミが期待されているような境地へと至って行けるように自分自身をトレーニングしていく必要があると思う。サーダナを通して自然にそうなっていくことが大事なポイントではないかと思う。自分自身をトレーニングしていく方法の一つは平等心をもっているということ。満足を得るために何かの結果を期待して、予想したような結果が得られないと、がっかりしたりすることになる。そして期待どおりになると、また舞い上がったりする。平等心を培っていくと、ゆっくりと結果を求める態度から抜け出していくことができるだろうと思う。そして二つ目は自分自身を神ご自身の道具であると考えること。そしてその際には、行動することだけが自分たちの唯一の義務であると考えることだと思う。このような振る舞いや心のもちようが、より期待が少ない人生につながると思う。」
「もし私たちが何らかの結果を期待していて、何かの果実を求めて、それを得らなかったら悲しくなる。より良い方法は、もっと旅の道そのものにフォーカスを置くことだと思う。そして、どのようにゴールに辿りつくのか、その全体のプロセスによりフォーカスすることだと思う。どういう行動を行うにしても、それを奉仕的な観点から考えること。一つひとつの奉仕の活動が、私たちが成長していくための機会。その結果が何であれ、私たちはその結果を含めて神に捧げることができる。そして私たち自身をより良い人間へと形づくっていくことができるだろう。そして、そのようなプロセスは、結果にも自然につながってくるだろう。それが、ゆっくりと、行動の果実への欲望を取り除いていくことにつながると思う。」
… ③ 世界に幸福を確立していくためには、どのように願望を方向づけ、行動すると良いのか?
「世界中の人々、人間も動物もすべての物が皆いつも幸せになりたいと思っている。多くの人はエンターテインメントを見たり、本を読んだり、一人ひとりが異なる活動に従事して幸せになりたいと願っている。自分の周りにいる人たちすべてが幸せになるように、まず自分自身から幸せでいようと考えることが大事ではないか。たとえ自分が幸せでも、周りの人たちが幸せでないなら、それは自分の幸せに影響を与えると思う。周囲のすべての人が、自分が幸せであるのと同じように幸せであるべきだと思う。そのように自分が幸せでいることができるのなら、それは世の中の幸福に対するとても大きな貢献になるのではないかと思う。例えばコロナウイルスを例に考えると、仮に自分がコロナウイルスにかかっていなくて、一方で周りの人が皆コロナウイルスにかかっていたら、それは当然自分にも影響する。だからこそ周囲の人も自分自身も常に誰もが健康でいられるように祈っていく必要がある。これも一例だと思う。」
<ババ様の御言葉>
「サムサーラ(世俗の生活)の荒波を安全に渡りなさい。照覧者となり、行為の果実を望まず、行為の結果をすべて神の意志に任せなさい。神が行為者です。あなたは道具にすぎません。」
1968年7月4日
※1ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。風の神の子で空が飛べたため、飛んで薬草をとりに行ったり、海の上を飛んでランカを偵察に行ったりと、多大な貢献をした。
※2オーム (シュリー) サイ ラム:サイ ババの信者が改まった席での挨拶などとして使う文言。オームは原初の音なる聖音、シュリーは男性につける敬称、サイはサイ ババのサイ、ラムはラーマ神の意。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
OM SRI SAI RAM
スタディーサークルチームの活動報告のとりまとめ凝縮版は下記になります。
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開催日:2021年12月2日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第12節、第18節「善良な人格、美徳は英知である」、「信愛と信仰を育みなさい」
参加者:43名
質問:
① 私たちの日常の活動から英知を引き出すことができる例は?
② 第12節にある「神を礼拝するために万物を活用すること、社会の中に正義と平和を確立すること、肉体機能を制御して調和させること」をどのように生活の中に植え付けられるか?
③ 神とのつながりにより得られる甘さにフォーカスすることと、最終的なゴールにフォーカスすることはどちらが大切であると考えるか?
<参加者のコメント>
… ① 私たちの日常の活動から英知を引き出すことができる例は?
「神聖な人と交流したり神聖な話を聞いたり、サットサング(善人との親交)に参加する機会があれば喜んで参加すること。スワミ※1の『サイのセヴァ(奉仕)を通じてこそ、私を知ることができる』という御言葉があったので参加した。神聖な環境にあって働くことが霊的成長になる。私はサービス業をしているので、いろいろな人たちと話し、クレームをおっしゃるお客様でも、よくよく話を聞いているとその人なりの真理を話しているということに行き着く。孤独がもともと好きなタイプなので、スワミから社会で働くことを通して成長するように導かれていると思う。人は神であり、人と交わることによって英知に向かっていけるのかなと思う。」
… ① 私たちの日常の活動から英知を引き出すことができる例は?
「ある時に皆の前で話をする機会があった。直前まで非常に難しい状況にあり、何を話していいのかまったく直前まで分からず、皆の前に立っても分からない状況で、『スワミ!!サイラ ム※2!サイ ラム!サイ ラム!』と心の中で叫んで助けを求めていたら、全然自分が考えもしない言葉がどんどん出てきて、終わった後で『すごく良かった』、『感動した』と言われた。これは絶対に自分が話したのではないと確信があって、スワミが話してくれたと思った。全託することからスワミの英知を内側から引き出してもらったのかなと思った。」
… ② 第12節にある「神を礼拝するために万物を活用すること、社会の中に正義と平和を確立すること、肉体機能を制御して調和させること」をどのように生活の中に植え付けられるか?
「一瞬一瞬を神様からの贈り物と思って最大限に集中することが私には必要だと思った。そして社会の中に正義と平和を確立するためには、やはり自分に与えられた役割とかダルマ(正しい行い)を誠実に行なうことと、肉体機能を制御して調和をさせること。自分の身体の声も聞きながらバランスをとっていくことが大切だなと思った。」
… ③ 神とのつながりにより得られる甘さにフォーカスすることと、最終的なゴールにフォーカスすることはどちらが大切であると考えるか?
「神とつながっているという甘さが最高に幸せで、それはバジャン(神への讃歌)を歌った後や瞑想をした後、ダルシャン※3を受けた後などに、たまにそのような境地に浸れる。それが最高に幸せなとき。そういうのが得られないときに、このままではだめだと思ったときに自己実現をしていくなどの目標、ゴールを自分で定め、幸せな状態に自分が到達したいという希望があるから、目標を立ててそこに向かっていこうと思う。」
… ③ 神とのつながりにより得られる甘さにフォーカスすることと、最終的なゴールにフォーカスすることはどちらが大切であると考えるか?
「いつかは神様から得られる甘さは捨て、最終的なゴールの方が大事なのかなと思っている。スワミから『私の姿を見てはいけない』と言われて、目はつぶったままで、目で見える神様ではなくて自分の内側に集中しなさいと言われた方のお話を思い出した。やはり自己実現の方を大切にしていかなければならないのかなと思った。」
<サイの学生のコメント>
… ① 私たちの日常の活動から英知を引き出すことができる例は?
「日常生活の中で英知を得ようとして、自分の中の良心をしっかり聞くことを最近、実践し始めている。例えば何かが起こった時に、少し時間をとって反響を聞き、過去の行動の間違いがあるとすぐに内側から罪悪感の声がするのでそれを聞こうとする。さらに私たちはまったく安らぐことのないモンキーマインド(猿の心)をもっていて、心はせわしないので、時間をとって座って、なぜ自分はそういう間違いをしたのだろうか?と考える。でもたいていの場合はそういう声が聞こえてきても無視をする。人々はスワミに『どうしたら来てくださいますか?』、『どうしたら私たちに話しかけてくださいますか?』と言うが、そのようなとき、スワミは、『いつものあなたのところに行って、いつも話しかけているのにあなた方は私のことを無視しているのではないですか?』とおっしゃっている。スワミはいつも私たちの内側のフィードバックシステムとして働いていて、いつも話しかけてくださっている。私たちがすべきサーダナ(霊性修行)は、内側の声をより大きくすること。それには静寂が重要なツールであるとおっしゃっており、静寂があれば非常に助けになる。なぜなら、静寂時には少なくとも外側の世界とのチャンネルを閉じているので、自分の思いを言葉に変換することが起こらない。静寂でいるときは、内側の声がエコーを伴って聞こえてくるチャンス。同時に、私たちは他の人が話しているときに耳を傾けないで、より多く話してしまう傾向があるが、話を多くせずに他の人の話をよく聞くことが私たちの助けになる。静寂を保ったり、より少なく話すことは霊的な成長を助けてくれると共に、仕事においても周囲の人々との関係をより良くしてくれる。三つの美徳を実践していくことが英知につながり、どのように行動していけば良いかということにつながっていくと思う。」
… ① 私たちの日常の活動から英知を引き出すことができる例は?
「自分自身の間違いから、責任をもつことを学んでいく。それが自分自身に自信をもち、より良く変容させていくこと、より謙虚にしていくことにつながると思う。2回目の間違いを防いで意図を改善もするし、間違いから学ぶことが他の人たちとつながっていくことになる。人生はカルマ※4と自由意志の組み合わせで成り立っており、カルマは私たちにいつも付きまとってくる。現在だけは少なくとも私たちの手の内にあるので、間違いから学んでいくことによって、世俗的な意味でも霊的な意味においてもより堅実になっていくと思う。」
… ② 第12節にある「神を礼拝するために万物を活用すること、社会の中に正義と平和を確立すること、肉体機能を制御して調和させること」をどのように生活の中に植え付けられるか?
「神を礼拝するという部分を実践するために実生活でできるのは、ナーマスマラナ(神の御名の憶持)だと思う。ナーマスマラナの先にある、さらに進歩した活動としては、すべての人の中に神を見ることだと思う。もちろんすべての人の中に神を見ることは簡単ではなくて、少し時間もかかると思う。出発地点としてナーマスマラナはいつの時点でも簡単に始められることだと思う。2番目は社会の中の正義と平和を確立するという部分。社会の中に正義と平和を確立する第一歩は、個人の行動の中で正義を行っていくことから始まると思う。他の人に良い行いをさせようと考える前に、自分がまずそうするべきだということが、スワミの御教え。そして自分自身が正義の伴った行いをするようになって、しかる後に他の人も平安な生活の中に入って来られるように助けることができるものだと思う。例えば知識をもっている人がいたとしたら、その知識を分かち合い、お金持ちの人は寄付をして必要としている人々に分かち合えるようにするなど、自分の強みを他の人々にシェアし、利益を与えることによって自分自身も霊的な利益を得るということだと思う。何も持っていなくても、ただ人々に良いことを話してあげるだけでも非常に大事。3つ目が肉体機能を制御して調和させるという点。多くの御講話などでスワミは、私たちは霊的な進歩のためにこそ、身体の面倒もちゃんとみるべきであるとおっしゃっている。いつも浄性な食物を食べたり、住んでいる場所の衛生状況を良くしたりし、身体を制御することは、ネガティブな考え方を避け、心の制御にも繋がる。これらのすべてが、このパラグラフの最後に書かれている犠牲、慈善、苦行に非常に関係して繋がっていると思った。」
… ② 第12節にある「神を礼拝するために万物を活用すること、社会の中に正義と平和を確立すること、肉体機能を制御して調和させること」をどのように生活の中に植え付けられるか?
「インドでは、ヤグニャ(供犠)、慈善、苦行などは全部ヒンドゥー教の観点から考えられている。でもスワミは、これらの3点は霊性ではあるけれども、宗教とは必ずしも関係ないとおっしゃっており、犠牲とは3つのゴールに結び付いていく、とおっしゃっている。そして3つのゴールに繋がっていく行為は、いずれも犠牲と呼ばれている。例えば神を礼拝すること、社会の中に正義と平和を確立することは、特にハートと心に関係していると思う。スワミがおっしゃるのは、社会の一部でありなさいということ。その代わり社会をあなたの一部であらせてはなりませんとおっしゃっている。世界がもたらす様々なもの、例えば名声、プライド、お金、そういったものに執着してはいけない、世界の側に自分をコントロールさせてはいけないと教えていらっしゃる。2番目の社会の正義と平和に関して、ほとんどの人間は、自分は他の人よりも大事だと考えているが、犠牲とは、私たちが他者のために何かとても大事なものを犠牲にするということを意味しているので、もし平安が欲しければ、他者を傷つけてもいけないし、何か他の人の何かの権利を奪うようなことをしてもいけない。いつも私たちは平安が欲しいし、他の人の邪魔をしてはいけないと考えるので、常に周囲に、平和や正義をより助長する行為を企てていかなければならない。住んでいる場所のルールなどに厳格に従っていく必要がある。そのように生活していれば、他者を傷つけることもない。3つ目が肉体機能をコントロールするという点。それは皆さんにとって最も難しいことの一つでもあると思う。例えば自分の場合、特に時には舌のコントロールが難しいときがある。同じ節でスワミがおっしゃっているのが、食べ物を食べるのもヤグニャのように考えて、味わいのためであるとは考えないようにというものがあった。肉体にはいつも六種類の楽しみがある。そして、もし肉体がそのような楽しみを味わうときには、それにより肉体意識への執着が生まれる。そして私たちの人生の中で、スワミがおっしゃるように感覚のコントロールが非常に大切な一つの側面になっている。」
… ③ 神とのつながりにより得られる甘さにフォーカスすることと、最終的なゴールにフォーカスすることはどちらが大切であると考えるか?
「帰依と信仰と自己実現の三つのものを区別すべきでないと思った。自己実現とは究極的なもので、帰依や信仰は、自己実現に至るための最初の二つのステップ。自己実現に至るためには私たちは帰依し、信仰深くなければならない。もし私たちが帰依しているのなら、私たちはそれを通して信仰深くあると思う。シャバリー※5の例を挙げると、シャバリーには帰依があって、なおかつ信仰深くあったので、その結果として自己実現を得た。この三つを区別する前に、まず信仰深く、より良く帰依しているようにする必要があると思う。」
… ② 第12節にある「神を礼拝するために万物を活用すること、社会の中に正義と平和を確立すること、肉体機能を制御して調和させること」をどのように生活の中に植え付けられるか?
「まず神への愛を培って、神への愛をもっていれば生活の中で道徳が芽生える。個人がそのようにして道徳を得れば、それがやがては社会の道徳につながるというシナリオだと思う。社会に道徳があるときには逆に私たちは罪への恐れを抱き、罪への恐れがあれば私たちはダルマに従うようになる。そして私たちがダルマに従うなら、世の中にいても世の中に影響を受けないような人になることができる。そのようなやり方で神を実現していくことができる。今申し上げたようないろいろな特質の中で一つでも実践することができれば、それが自己実現に至っていくと思う。」
… ③ 神とのつながりにより得られる甘さにフォーカスすることと、最終的なゴールにフォーカスすることはどちらが大切であると考えるか?
「自己実現はゴールで、途中の信仰や帰依はそれに至る道だと思う。なので、ゴールが大事なのかそれに至る道が大事なのかという問いだと考えれば、その両方が大事だと思う。そして自分の意見では、今の私たちにより影響を与えるのは、道の方だと思う。それぞれの体験の中で私たちが愛や信仰や帰依を通して神とうまくコミュニケーションを取れるようになったときに初めて、ゴールである自己実現へと進むことができると思うので、私たちは皆その両方にフォーカスしていくべきではないかと思う。」
<ババ様の御言葉>
何よりもまず、神への揺るぎない信仰を持たなければなりません。まず自信(真我を信頼すること)、次に自己充足、それから自己犠牲が来ます。これら3つを兼ね備えた時に、自己実現(解脱)への道程において前進することができるのです。
2008年7月18日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_20080718.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2サイ ラム:サイ・ババとラーマの意。挨拶等に用いる言葉。
※3ダルシャン:聖者や神を拝見すること。
※4カルマ:「行為」(業=ごう)そのものと、「行為の結果」や「カルマの法則」(因果応報)の両方を意味する。善因楽果、悪因悪果を原則とする。
※5シャバリー:『ラーマーヤナ』の登場人物で、低いカースト出身の貧しい女性。聖者マータンガをグルと仰いでいたが、女性の身であるため弟子になることを許されなかった。そのため、日々グルが通る道のイバラや石を除くことでマータンガに仕えつつ木陰に隠れてその教えを聞いていたところ、マータンガから特別に弟子となる許可を得て、マータンガの死後もラーマが来るまでマータンガの庵に住むよう指示を受けた。そのためシャバリーはラーマがいつ来てもよいよう毎日道を整え、果実を集めてきれいに洗い、ラーマが来ない日はそれをプラサードとして食していた。長い年月が経ち体が不自由な老女となったころ、ついにシーターを探しに行く途中のラーマがやって来て庵を祝福した。するとシャバリーは体力を取り戻し、小川の水と森の果実でラーマをもてなした。ラーマはその果実を喜んで食し、シャバリーが九つの信愛の道をすべて実践したこと、夢においてさえだれかに悪意をもったことがなかったことを褒め称えた。信愛に満ちていた純粋なシャバリーはラーマの御足のもとで自らの体を燃やして灰とし、ラーマはシャバリーの魂を至福で満たした。
開催日:2021年12月12日(日)
テーマ:「内へ向かいなさい;Go within」
参加者:39名
質問:
① 私(I)への意識のフォーカスを難しくしている要因は?
② 内へ向かうことをどう理解しているか?その実践方法は?
<参加者のコメント>
… ① 私(I)への意識のフォーカスを難しくしている要因は?
「今日のウェビナー(オンラインセミナー)を聞いていて思ったが、私の主人は全然帰依者ではない。何回かインドに行って、サイ・ババが神だとは分かるが、自分は人生幸せだから必要ないという感じ。でも主人は全然信仰していないのにすぐそのような本質的なことにフォーカスできてしまうし、6歳ぐらいの子供のようで、すごく単純で、何でもすごく喜び、あまり余計なことを考えない人だ。一方で私のほうはいろいろと余計なことを考えているなと思う。(自己探求に)資格が要らないという意味もそういうことなのかなと分かった。よくスワミ※1が『子供のようでありなさい』とおっしゃるように、とても単純なことなのだろうと思うが、私はシンプルなものを複雑化してしまっており、そして難しく
してしまっているのではないのかなと思った。」
… ① 私(I)への意識のフォーカスを難しくしている要因は?
「私自身も勝手に自己探求に資格というものがあるような気がして。自分はそんなものになれる資格がないとか、悪いことをいっぱいしているとか思い込んでいるのが一つの大きな原因だと今日は思った。」
… ② 内へ向かうことをどう理解しているか?その実践方法は?
「自分の内側ということに関しては、『私は、本当は誰なのか?』という、真の自己に向かうことだと理解をしている。実践方法としては、普段のサーダナ(霊性修行)のルーチンを守っていくこと。例えば朝、会社への出勤前にヴェーダ※2を唱えられなかったり、ヘッドフォンを忘れて通勤中にヴェーダとかバジャン(神への讃歌)を聴くなどのルーチンができていないときは、仕事が始まってから、以前考えていたような外側に対する執着がすごく出てくることがある。そのような経験をすると、普段のサーダナのルーチンはいかに自分自身を守ってくれているのかということが分かるし大事だと思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① 私(I)への意識のフォーカスを難しくしている要因は?
「例えば、アイスクリームを食べたことのない小さな子供がいて、お母さんが子供にそれがどういうものか教えれば、食べていなくてもアイスクリームを理解できるだろうが、しかし体験抜きにしてその甘さはわからない。スワミの御教えを読んでいる多くのサイの帰依者に関しても同じようなことが言えると思う。どれほど霊的な愛に関する知識があっても、それをどういうふうに体験するかという問題を抱える。質問のフレーズを変えてみると一体何が、自分が体験することを妨げているのだろうと問いを感じる。今日のサンジェイ マハリンガム先生の講演にもあったように、太陽が照っていたら影が自分の目の前にあるとおっしゃっていた。影が見えているときに影に対して何かができるというわけではないが、影の方を見ないで直接太陽の方を見れば自然と影が見えなくなる。その意味は神のことを直接瞑想する、直接神の方を向くということ。では一体何が直接神を見るのを妨げているのだろうか?神のことを考えていろいろな活動をしているが、私たちは世俗の方と神の方を向くことの、行ったり来たりを繰り返してしまっている。大事なことは私たちの意識的な努力。例えば、ヴェーダやスタディーサークル、各センター活動の時間がある。そういうものがあれば私は参加する。想像してみてください。もしスワミがいなくて、サティヤ サイ オーガニゼーションの活動が何もなかったとしたら、4時から6時までスタディーサークルをしようとか、9時以降にヴェーダを唱えようとか、バールヴィカス(子供の開花教室)に関わろうとか一切考えないだろう。もしサイの活動が一切なかったなら、その時間はショッピングや映画、他の活動に使われてしまうかも知れない。私たちのほとんどは活動を意識して行うということが欠けていて、そういったことが現実世界で神にフォーカスしていくことの妨げになっているのかもしれない。例えば職場で誰かと話すとき、自分はスワミに促されて話していて、相手の人はスワミとして自分に話してくれている、などと神へのフォーカスや自分の行為の意識の根底を流れている神との関係をずっと意識している人が一体どれぐらいいるだろうか?もし私たちが毎日の生活の中で絶えずソース(源泉)からコンスタントにつながっていることができるのであれば、意識的にフォーカスする必要がなくなっていくと思う。」
… ① 私(I)への意識のフォーカスを難しくしている要因は?
「私たちの五感はどうしても外側を向いている。内側に向かうことは、私たちの内側にある光に向かうこと。本当の愛は五感を超越したもの。五感とそれに対する執着が、私たちが愛を認識することを妨げている。愛が私たちを内側の光へといざなってくれるものだと思う。愛はマーヤー(まぼろし)のベールに覆われてしまっている。そして本当の愛は主観と客観の分離がそこにはない。自分自身のものの見方が明確であるかどうか。知性を使った識別がなされていないことが愛へのフォーカスを難しくしているポイントだと思う。」
… ② 内へ向かうことをどう理解しているか?その実践方法は?
「内に向かうことは、自分自身に備わった潜在的な能力を認識することだと思う。スワミがいつもおっしゃっているように、神性は私たちの中に潜在的に備わっている。本当は、神性は遍在のはずだが、私たちがそれを探そうとすると、心が様々な妨げをする。妨げられないようにしていくためには、世界からの影響を遮断して、私たち自身の自己に頼るようにしていくこと。自分自身の源泉の自己に頼るためには『Who am I?(私は誰であるか)』という問いによって、源泉とつながって世界の影響から逃れていく必要がある。それを達成するための一つの方法は、世俗的なものから得られるいろいろな影響を、いつも平等心をもって受け止めるということ。それによって、外部からの影響を減らしていくことができる。そして外側から妨げられる度合をより減らしていけば、私たち自身への集中力が高まっていくと思う。今日のサンジェイ先生のウェビナーでもあったように、まず私たちが、霊的に成長したいという意欲を培っていくことが大事だと思う。そして、世界からもたらさせるいろいろな結果に対する影響を削っていく必要がある。それは世俗の義務を避けるのではなく、それによって得られる結果に執着しないこと。そのようなやり方で、内側へのフォーカスを妨げる心の傾向を静めることができると思う。心さえ静寂を得ることができれば、それをとおして様々な自己探求や、ヴェーダや瞑想、いろいろな活動を行っていくことができるだろう。このようなやり方で私たちの内にある神性を理解していくことができるのではないかと思う。」
<ババ様の御言葉>
来なさい。私は傷を負ったアンタッカラナ〔内なる器官であるマナス、ブッディ、チッタ、アハンカーラの総称〕の壊れたハートを修復する者です。私は、溶接し、修復し、矯正する鍛冶屋のようなものです。十年前、ある帰依者が私に歌で祈りました。「私のハートは乾いています。私の灯火は消えてしまいました。私の行く道は暗く、私の頭は混乱しています。ああ神様、私がもう一度、人生の辛い旅に出られるようにしてください」と。神は、帰依者の祈りの部屋のドアの外で、帰依者の祈りを叶えたいと思いながら待っています! まことに、神を自分の召し使いにする者こそが、真の主(プラブ)なのです。
1961年10月17日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19611017.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
開催日:2021年12月15日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第52節「林住期」
参加者:42名
質問:
① 林住期に奨励される修行の中からどのような側面を取り入れることが可能か?
② 社会に身を置いて義務を果たしながら林住期としての生活を送ることは可能か?
③ 世界への執着を少しずつ減らしていくためには?
<参加者のコメント>
… ① 林住期に奨励される修行の中からどのような側面を取り入れることが可能か?
「この章を読んだときにすごいショックを受けたが、訳者の注意書きに無理してやらないようにと、ちょっとしたことが書いてありホッとした。このままは実行できないが、たとえば食事を少し減らすことを少しずつ行うことがより容易だと思う。身が引き締まるような思いがした。」
… ① 林住期に奨励される修行の中からどのような側面を取り入れることが可能か?
「取り入れることが可能な点は、五感からのことへのフォーカスをできるだけ減らし、内側にもっともっと関心をもてるとよいと思った。」
… ② 社会に身を置いて義務を果たしながら林住期としての生活を送ることは可能か?
「社会において自分のダルマ(正しい行い)を果たしながらも、本当の自分に興味をもって、私は誰か?私は誰か?と自分に問いかけることで、結果として、こういう林住期のような生活になるのではないかと思った。自分だったら家事をしたり、仕事をしたりしながら、そうしている私は誰だろうと、考えるようにしている。そうしていると、もしかしたらスワミ※1がおっしゃる林住期に近くなっていくのかもしれないと思った。」
… ② 社会に身を置いて義務を果たしながら林住期としての生活を送ることは可能か?
「なかなか難しいと思うが、その中で部分的に近い生活を送るというのは可能ではないかと思う。例えば、サーダナ(霊性修行)キャンプなど。プッタパルティ※2に行った時も、水のシャワーだったり、本当に何もない中でそれに近い生活を送るのに、でもその中で幸せを感じる。私はちょっと世間からも離れるような感じで、一週間ぐらいニュースを見ない、新聞も見ない、ネットも見ないという生活を送ったとき、それだけでもすごく心の平安が得られた。あるいは、人と話をしていて何か誰かの悪口が聞こえてきたら、その場から立ち去る。いろいろな工夫によって、全面的に森の中に住むことはできないが、部分的に近い生活はできるのではないかと思う。」
… ② 社会に身を置いて義務を果たしながら林住期としての生活を送ることは可能か?
「私が生まれ育ったのは山奥で大自然の中に囲まれ、本当に林住期のような生活をしていた。医者はいないが、皆野菜食なのでピンピンしていた。悩みがあまりなく、平安で満たされている生活だったので、その時は執着がまったくなくストレスがなかった。都会に出てきていろいろなストレスがあることに気づいた。世界の執着を減らしていくためには、やはり外へ向けた目を内なる自分と神に向けて、神の御名を唱和していくと、神と私が一つになって、常に神と共にあるという状態になっていくと思う。本当に大自然の中に身を置くということが、神と共にいるという気持ちにさせてくれると思う。」
… ③ 世界への執着を少しずつ減らしていくためには?
「コロナ禍になって家にいる時間がとても増え、外へ出る機会が減ったため、外のことよりずいぶんと内側に心を向けるようになったと思う。この2年近くで生活がシンプルになってよかったが、それでも家の中に物が多い。まずは物を減らすことから始めて、自分が何を望んでいるのかとか自分の内側も見ていきたいと思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① 林住期に奨励される修行の中からどのような側面を取り入れることが可能か?
「もともと森の生活は私たちの生活の一部だったが文明化された社会では人々が間違った生活を送っている。例えば森のような生活を取り入れようと思ったら、私たちも家の裏で野菜を育てたり、良くない農薬を使わないで育てたりすると、一面を取り入れることができると思う。私たちは必要なら森の中でもお互いに助け合い、互いに必要なものをシェアしあって、お互いにケアする。森の中ではいろいろな動物が非常に調和して暮らしている。森のような生活習慣を育むことができれば、より良い人間になっていく。そしてより良い神への帰依をもった人間へと変わっていくのではないかと思う。」
… ① 林住期に奨励される修行の中からどのような側面を取り入れることが可能か?
「森の住民はすべての執着を捨てた方々で、世俗を去って自然の中に身を置き、浄性な生活をしている。彼らの生活はとても規律正しく執着もない。すべてのもの、皆に対して同じような愛を抱いている。そのような実践が、彼らが真の知識を得ることの助けになっている。そのようなすべての性質を取り入れていくように努力できればよいと思う。私たちは自然の近くにいて、いつも自然と触れ合うと同時に、自然を保全することが非常に大事。そして二重性を手放し、すべての人々、すべての生き物に対する愛を学んでいかなければならない。一言でいうのであれば私たちは世界の中にいても良いが、世界に所属してはならないと要約することができると思う。」
… ① 林住期に奨励される修行の中からどのような側面を取り入れることが可能か?
「以前スワミが二つの重要な側面について述べられた。一つは食習慣。二つ目は生活様式で、どんなものを着るべきとか。本当に私たちの生活のなかでは森の住人のような人に会う機会もない。一方、多くの富をもち、世俗的なものに対して執着をもった人々がたくさんいらっしゃると思う。私たちも働いているものに対して、多くの執着をもっていると思う。執着から逃れるために45歳などの年齢で森に行かなければならないということが書かれているが、当時は人生におけるいろいろな責任が終わる時期だったからだろうと思う。でも現代社会では、もっと上の年齢の皆さんでも、いろいろな義務や責任をもっていて、多くの世俗における責任を担っていらっしゃると思う。今この時代において大事なことは、心の中では無執着を培いながら、同時に義務を果たしていく方法を見出すことだと思う。現代では実際に森に住むということは不可能だが、森の隠遁者のような特質を私たちの中に取り込む方向で努力することが可能なのだろうと思う。そして、もう一つ挙げられる例がシーター※3のお父様であったジャナカ王。シンプルに暮らし、王でありながら、同時に賢者・聖者のような方であったと書かれている。様々な賢者、聖者たちが知識を得るためにジャナカ王に面会しにやって来るくらいの方だった。スワミがおっしゃっているように、世俗の義務を果たしながら、シンプルに賢者のように振舞う生活様式が可能だということを教えてくださっていると思う。」
… ② 社会に身を置いて義務を果たしながら林住期としての生活を送ることは可能か?
「この社会において色々な義務を果たし、家族と一緒に共に時間を過ごしながら、同時に林住期として森の隠遁者のような生活を送ることは大いに可能だと考えている。森の隠遁者の生活は調和に基づいている。森の隠遁者の生活では、家族に対するように他者に対してケアをして、問題に対処して、それを解決していくことができるだろうと思う。」
… ③ 世界への執着を少しずつ減らしていくためには?
「執着を減らすことはとても簡単だと思う。神に対する絶え間のない帰依が大事になる。いつも神のことを絶え間なく考えて、世俗的な執着を減らすことだと思う。同時にスワミがおっしゃったことは、手は社会の中に頭は森の中にということ。それは節制のプログラム※4の実践によって感覚をコントロールすることで達成できる。私たちは、何が私たちのニーズで、何が欲望なのかを識別していく必要がある。」
… ③ 世界への執着を少しずつ減らしていくためには?
「スタディーサークル、ヴェーダ※5、バジャン(神への讃歌)など各(サイ)センターの活動はすべてこのためにあると言ってもよいと思う。どのように執着を少しずつ減らしていけるかということは、どれだけ私たちがコンスタントに誠実にその努力を続けることができるのかということにかかっていると思う。誠実さというポイントにおいては、グループで行うことによって誠実さが増して、いつもそのことを考えることができるようになると思う。でも私たちの多くにとってはそのような誠実さやコンスタントさを長い間保つことが難しいのだと思う。スワミが学生にダルシャン※6をくださっていた時、スワミが話してくれるからといって皆が顔を洗ったりひげを剃ったりしていたために、遅れてしまったことがあった。いつもスワミは何人かのグループの学生を呼んで話しかけ、また別の機会には別のグループを呼んで話しかけてくださった。スワミとの交流が終わると皆、寮に戻っていく。スワミと交流していた時期には、スワミに呼んで欲しくて、スップラバータム※7、瞑想、バジャンやヴェーダをとても誠実にやっていた。自然な成り行きとして、皆がとても誠実にやっていたが、時間が経つと、すべての誠実さの度合いが次第にフェードアウトしてしまうことを揶揄した言葉で、AIDSという良くない言葉がある。Aは身につけた(acquired)、Iは強力に(intensely)、Dは帰依 (devotion)、Sは急に(suddenly)という意味で、急に突然身につけた強力な帰依という意味。これをAIDS(エイズ)症候群と学生たちが呼んでいた。やはりどれくらいコンスタントにできるかということが問題で、それを続けて持続的なものにする必要がある。世界との交流によってそういったフォーカスが失われていく。帰依者たちがスワミに会いたいとかダルシャンを得たいとかプッタパルティに行きたいと思うのは、スワミからエネルギーが欲しいから。ただプッタパルティに行って充電したいと思うこともAIDSシンドロームになりがちで、充電したときはいいが、また帰ってきて時間が経つとすべてのものが失われてしまうことがある。繰り返しになるが、霊的な探究においては、首尾一貫して絶え間なく継続することが大事。それが執着を減らすことにつながると思う。」
<ババ様の御⾔葉>
賢い人は、自分に課せられた義務を、識別心をもって、勤勉に、執着することなく行わなければなりません。役割を果たしなさい。しかし、真のあなたはその影響を受けずにいなさい。あなたの頭は森のアシュラム※8に置いて、目的もなく急ぐだけの世の中に影響されずにいなさい。
1975年11月23日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19751123.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※3シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※4節制のプログラム:しゃべりすぎを控える、過度の欲望と出費を抑える、食物の摂取を自制する、エネルギーの無駄を阻止するというもの。
※5ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※6ダルシャン:聖者や神を拝見すること。
※7スップラバータム(テルグ語): 美しい夜明け、善い朝夜明けの意。朝の祈り。スップラバータ(サンスクリット語)
※8アシュラム:修行場、道場、隠遁所、行者の住処、隠遁者や引退した聖者の独居所。
スワミのダルシャンを授かり、修行するための居住施設。
OM SRI SAI RAM
スタディーサークルチームの活動報告のとりまとめ凝縮版は下記になります。
全文版はダウンロードボタン(pdfボタン)からご確認ください。
開催日:2021年11月17日(水)
テーマ:テーマ:プレーマヴァーヒニー第40節、第41節「できるだけ早く霊性修行を始めなさい」、「死神でなく、神のダルシャン※1を求めなさい」
参加者:37名
質問:
① なぜバガヴァン(尊神。ここではサイ・ババ様のこと)はヤマ(死の神)ではなくシヴァ(破壊を司る神)に重要性を置くようにとおっしゃるのか?
② バガヴァンは一瞬も遅らせることなく直ちに霊性修行を始めることを勧められているが、どうすれば可能か?
③ バガヴァンが人間としての人生をダイヤモンドのようにかけがえのないものであるとおっしゃる理由とは?
<参加者のコメント>
… ① なぜバガヴァン(尊神。ここではサイ・ババ様のこと)はヤマ(死の神)ではなくシヴァ(破壊を司る神)に重要性を置くようにとおっしゃるのか?
「ヤマは肉体が滅びる時に来る死神で、シヴァは永遠の神様。肉体が死んでも心は神様の方へと行けるように、肉体より魂の方を注視しなさいということだと思った。」
… ① なぜバガヴァン(尊神。ここではサイ・ババ様のこと)はヤマ(死の神)ではなくシヴァ(破壊を司る神)に重要性を置くようにとおっしゃるのか?
「肉体と個我の象徴として、それぞれヤマとシヴァという神様がいると思う。ヤマが見ている肉体は神を悟るための道具に違いないが、それは一時的なもの。シヴァの重要性は私たちの本質であるサット チット アーナンダ(絶対実在・純粋意識・至福)という永遠なもの。私たちは絶えず永遠の不滅に導いてくださるシヴァに意識を向けていかなければいけ
ないので、シヴァに忠誠をもつようにとおっしゃっているのではないか。」
… ② バガヴァンは一瞬も遅らせることなく直ちに霊性修行を始めることを勧められているが、どうすれば可能か?
「霊性修行というのは歳を取ってからでもよいと思っている人も多いが、人生は葉の上の水滴のように儚くて、神様の目から見ると本当に短い時間。自分の神性を一刻も早く悟るためには、この世的な物を愛する方向性ではなく、神を愛して、神の愛を体験したいという想いをもって、欲とか憎しみを浄化することが大事だと思う。」
… ① なぜバガヴァン(尊神。ここではサイ・ババ様のこと)はヤマ(死の神)ではなくシヴァ(破壊を司る神)に重要性を置くようにとおっしゃるのか?
「人間は誰でも、死ぬのが怖いという思いがどこかにある。それがヤマに取りつかれているということなのだろう。『死を越えて不滅へと』という日々の祈りの、死を越えてという意味は、それが怖くなくなること。それがシヴァにフォーカスできた時だと思う。でも怖いから、この世の束の間の世俗的な楽しみ、喜びに浸って忘れるようにしていると思う。そこから抜け出すのは一人では大変なので、サットサング※2がいると仲間と一緒に学びながら、一つひとつクリアして行けるのかなと思った。」
… ③バガヴァンが人間としての人生をダイヤモンドのようにかけがえのないものであるとおっしゃる理由とは?
「スワミ※3は霊性修行者が神に近づけば近づくほどダイヤモンドをカットして、より輝きが増すダイヤモンドにしていく。スワミが彫刻の彫り師であるような御言葉があったが、ちょっと怖いな、あまりカットされたくないなと思っていた。今Sis. Sが話したように、楽しんで神様の方向に行ければ、あまり痛くなくカットされて神様の方に行けると思った」
… ② バガヴァンは一瞬も遅らせることなく直ちに霊性修行を始めることを勧められているが、どうすれば可能か?
「私たちの肉体には限界があり、いずれどなたでも死を迎えて肉体を離れなければならない時が必ず来る。もし人生の最大の目標である神を悟るという点で自分の人生が成功したのか失敗したのか問うとして、神を悟れなければ失敗だというポイントに基準を置いたとすれば、ほとんど多くの方が失敗の人生になってしまう。しかし成功か失敗かという目標の設定ではなく、少なくとも自分の人生が一歩でも神の方に近づいた道だったかどうか。ゲームに例えれば将棋は王様がとられたら負けだが、囲碁は勝ち負けではなく、何対何という囲碁の数比が問われる。私たちの人生も将棋でなく、囲碁的な人生の目標の作り方をすれば、半歩でもいいから神に近づいた人生だったと思えるようになれば、失敗にはならない。どのタイミングで死が訪れるか分からないので、そういう心持ちであればそれも受け入れやすいのではないかと感じた。」
<サイの学生のコメント>
… ① なぜバガヴァン(尊神。ここではサイ・ババ様のこと)はヤマ(死の神)ではなくシヴァ(破壊を司る神)に重要性を置くようにとおっしゃるのか?
「形が存在しているものすべてがヤマに結びついていると思う。そしてシヴァは実在しているすべてのものに内在しているエネルギーの原理のようなもの。そう考えると人間の身体はもれなくヤマとシヴァの両方で成り立っている。幸福とか満足で満ちた美しい人生を送ったスワミご自身の身体もヤマとシヴァの両方が混ざったものだった。肉体の両親がいて、仕事の仲間がいて、所属する国があるから、世界と物理的に相互作用を止めることはとても困難なことだが、自分たちのフォーカスをどこに置いているのかがとても大事。スワミにとっては、スワミの周りにあるものがすべてシヴァであることがフォーカスになっている。スワミは自信をもって『あなた方も神なのですよ。周りにあるものはすべて神なのですよ。石ころでさえ神なのですよ』とおっしゃっていて、無条件の愛の起源になる物事の見方をされている。スワミはあらゆるバックグラウンドをもった人、あらゆる国にいる人々、どんな人をも愛されて受け入れる。私たちはフォーカスが少しヤマの方になっており、受け入れる対象を制限し、人と議論をしたり論争に陥いる。スワミは『例えば、もし家庭に不和があるとき、家長期にある妻か夫のどちらかでもフォーカスがシヴァに向くならばすぐに治るだろう』とおっしゃっている。どのように議論を終わらせることができるかというと、スワミは『例えばもし妻の方が夫の中にシヴァを見ることができて、夫が神なのだと理解すると、たとえその夫が間違っていても、その中にシヴァを見ることができて丁寧に矛を収めることができる』とおっしゃっている。シヴァの原理を夫の中に見ることができるとその議論を辞めて状況を受け入れることができる。私たちのフォーカスがシヴァになっていくのであれば、どんな問題もすぐに溶けてなくなっていくが、ヤマにフォーカスするなら、どんな小さな問題も大きくなってしまい、私たちの行く手を妨げることになる。シヴァの原理を他者の中に見るということが、無条件の愛、許すこと、親切心、同情心など、すべてのポジティブな性質につながっている。」
… ① なぜバガヴァン(尊神。ここではサイ・ババ様のこと)はヤマ(死の神)ではなくシヴァ(破壊を司る神)に重要性を置くようにとおっしゃるのか?
「ヤマというのは肉体の方と関連していて魂の方には影響できず、シヴァは個我、アートマ※4に関係しているという説明があった。私たちの肉体は必ず滅びるが、その一方でアートマは決して滅びることがない。ヤマは死の後で私たちの記録をすべて持ち、私たちのダルマ(正しい行い)やカルマ(行為・行為の結果)がどうだったかを裁定する。でもその一方でシヴァはダルマの守護神。シヴァは邪悪なものを滅ぼして善を守護する。もし私たちがシヴァを崇拝しているときには自然に良いカルマに従っていく。シヴァの方に付いていくと同時に霊的にも成長していく。もし私たちが、人生が終わった後でヤマにどんな裁定をされてしまうのか、地獄にいくのか、それ以外のところに行かなければならないのか、ヤマの方に付いていくと、その後ずっと恐れながら生きていかなければならなくなる。もしシヴァの方にフォーカスして霊的な視点からニシカーマ カルマ(無私の奉仕)を行っていくなら、自分たちの行動の果実をまったく気にしなくてもよくなる。内側に住んでいらっしゃるシヴァにフォーカスして生きていくならば、間違いなく良いカルマが私たちに付いてくる。」
… ② バガヴァンは一瞬も遅らせることなく直ちに霊性修行を始めることを勧められているが、どうすれば可能か?
「テルグ語での言い伝えで、『鉄は熱いうちに形作られなければならない』というものがあるが、鉄は、熱い間はいろいろと形を変えることができるが、冷えた後は、もう形を変えることができない。従って、グル(霊性の師)からいろいろな指示をいただいたときにはできるだけ早くそれに取り掛かることがコツではないか。せっかく何かの御教えを聞いたとしても、実践するまでにすごく時間が経ってしまうと、実践に向かうまでに、聞いたことの影響や効果はどんどん減ってしまう。私たちが物事の実践を遅らせてしまいがちなのは、実践したい物事の好き嫌いがあるからではないか。いろいろなものへ執着があり、執着が実践を疎外してしまう。好き嫌いをなくしていくことが、私たちが与えられた実践をすぐに進めていくための唯一の方法ではないかと思う。ウェブニュースの記事で、一日一定量のアルコールをとることが身体に良いというものがあった。しかし、アルコールをその量だけで止めるという人を聞いたことがない。飲む過程で、執着がたくさん培われ、途中で止めるということができなくなってしまうということだと思う。スワミも例え話をされるが、例えば暗闇の中で何かを手に取ってつかみ、それがヘビだと途中で分かると、すぐにそれをどこかへ驚いて投げ捨てる。なぜなら、私たちはヘビを手に握っていると危ないと知っているから。それと同じように、私たちは何かするべきことがあれば、すぐに実践しなければならない。」
… ② バガヴァンは一瞬も遅らせることなく直ちに霊性修行を始めることを勧められているが、どうすれば可能か?
「早く霊性修行を始めることはすごく大事なことだと思う。スタディーサークルの中でたくさんのことを聞いているが、それを日常生活の中で実際に実践しようとすると、聞くことと実際に実践することの間には、とても大きなギャップがそこにある。単なる理論と実践の間にあるギャップを取り除くには、話し合っていることの本質の部分を理解することが一番それを簡単に実践する近道につながっていく。自分の小さな例をあげると、いつもヴェーダ※5を毎日唱えたいと考えていたが、その時間をうまく見つけることができない状況にあった。でも、ヴェーダのクラスが始まってから(Sis. Sはレディースでヴェーダを教えている)、毎日一時間ヴェーダを唱える習慣になり、非常にシンプルにそれを実践できるように変わった。どんな種類の霊性修行も重荷ではなく、楽しんでやっていくことができる。サーダナを楽しむことができるようになってくると、私たちの霊的な進歩を非常に強く促してくれるものに変わってくる。楽しむことがその進化を早めてくれると思う。」
… ③バガヴァンが人間としての人生をダイヤモンドのようにかけがえのないものであるとおっしゃる理由とは?
「すべての生きとし生けるものの中で人間がとりわけ祝福されているのは、識別力を与えられていること。ライオンなどの動物の人生では衝動に支配されて生きているが、狩りをした後で、肉が残ったとしてもその肉をどこかに保存するという識別力ももっていない。残った肉はどこにも保管されず、動物たちはそこから立ち去り、お腹が空いたらまた狩りをすることになる。識別力が、人間を動物とは異なるものにしている。進化していこうとする本能には、外側の要素と内側の要素がある。外面的には、狩りをしていた状況から自分たちで農作業をするように変わり、そのあと冷蔵庫を発明して物を保存できるようになった。内側の進化を見ると、なぜ自分は生まれたのか?人生の意味ってなんだろう?自分の手がこのような動き方をしていることには何か理由があるのだろうか?などを問うが、それが進化の過程で最初に起きた自己探求。そのように人間は外面的にも内面的にも進化を続けてきた。動物にはそれができない。それがなぜ人間の人生はダイヤモンドのようであり、内側に向かっていくことができることには価値があるということ。もう一つ付け加えると、動物は自分の本能に忠実であり、お腹がすくから狩りをし、飲まなければならない時に飲んで、眠らなければならないときに眠る、といった自然の本能からまったく逸れることがない。人間の場合は神様が心を与え識別力も与えたので、心の働きによって本来の動物の性質から逸れるという性質がある。その結果、人間は狩りを喜びのためにしたり、飲み物を飲むことも喜びのため飲んだり、あらゆることを自分の楽しみのためにする習性を身に付けてしまっている。私たちの本来的な特性からずれることがなぜ起きるかというと、それは六つの敵※6が存在しているから。それはある意味においては神が与えられた課題であり、同時に解決方法も与えられている。それは神聖なる遊戯。不純物を含んだ人間がどのようにそれを取り除いて真の自分の性質に戻っていくのかということが神聖遊戯。六つの敵を克服し、私たち自身の本当の性質に戻っていくことが私たちのチャレンジングな課題になっている。」
… ③バガヴァンが人間としての人生をダイヤモンドのようにかけがえのないものであるとおっしゃる理由とは?
「人間としての人生は、神のことを知り、悟るための可能性が人生。人生がダイヤモンドのようなかけがえのないものであるのは、それが私たちにギフトとして贈られたものなので、値段のつけようがない。その与えられた人生を世俗的なものに執着してそれを無駄にしてはいけない。そして神様の愛に浸ることによって、意義ある人生にしていくことができる。神の愛にふさわしいものとして資格を得るためには、愛や謙虚さなどの様々な価値を実践しなければならない。無私の心で謙虚さの伴った人生を歩んでいく必要がある。私たちは、神は人間や動物や植物やすべてのもののなかにおわすということを知っている。しかし人間だけが私たちの感覚の罠に落ちてしまう存在。しかし同時に人間はそれを克服する能力をもっていて、人間だけが悟る能力をも与えられている。私たちはダルマの道を歩むことによって人間として生きることを正当化することができる。瞑想の仕方を学ぶことも私たちが神とつながり、心を手なづけることを学ぶことによって神とつながることができるようになっていくと思う。」
<ババ様の御言葉>
「ヤマ〔死神〕の使いがやって来て、あなたにロープを掛けて引っ張って、「あなたの時間は終わったのだから、早くいっしょに来るように」と言うと、親族たちは、「望みはなくなった。死体を家の外に移そう」と言います。あなたの妻や子供たちはただ泣くばかりで、「すべてが終わってしまった。何の望みもない」と言います。そのような状況の中で、あなたは神の御名を唱えて、あなたの信愛を神に捧げることなどできますか? ですから、今の若い時期に瞑想の意義を理解して、瞑想を始め、この国の人々にとって理想的な模範となることを、私は心から願います。」
Summer Showers in Brindavan 1972 C10
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19720000_1.html
※1ダルシャン:聖者や神を拝見すること。
※2サットサング:善人との親交、神との親交、善い仲間と共に過ごすこと、善い仲間に加わること。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※4アートマ(テルグ語):神我。神性。魂。自己。心霊。内在する神の火花。本当の自分。同一の魂。アートマン(サンスクリット語)
※5ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※6六つの敵:カーマ〔欲望/情欲〕、クローダ〔怒り〕、ローバ〔貪欲(どんよく)〕、モーハ〔愛執(あいしゅう)・妄想・執着〕、マダ〔高慢(こうまん)・自惚れ〕、マーッツァルヤ〔嫉妬(しっと)あるいは憎しみ〕。
開催日:2021年11月21日(日)
テーマ:「神と直接つながる」
参加者:37名
質問:
① どのようなときに神とのつながりを感じますか?
② 多忙な生活においてどのように神の御名を唱え、想い起こす機会を増やすことができますか?
③ 日常生活において、愛を表現するためには、どのような多様な方法がありますか?
<参加者のコメント>
… ① どのようなときに神とのつながりを感じますか?
「振り返ってみると、あの時スワミ※1が私を使ってくださったと思えた体験がある。それは、いつもは行くこともないデパートの中の英会話教室での事。その日はアメリカ人の先生で、日本人の生徒たちに食べ物のことを話していた。その先生は 『日本人にはベジタリアンは誰もいませんよ。ベジタリアンは身体に良くないからすぐに止めた方がいいですよ』と言っていた。そこに私が『自分もベジタリアンですよ。宮沢賢治などもベジタリアンでしたよ』とお話ししたところ、後になって先生からとても感謝された。その時、スワミに私を使っていただいたと感じた。」
… ① どのようなときに神とのつながりを感じますか?
「やっぱり苦しいとき。何か浮かれて楽しいときにはなかなか神を身近に感じづらい。苦しい時は祈るしかない。神との内側でのつながりを感じられたことは本当に良かったと思う。しかし苦しいときばかり祈っていてもしょうがないので、毎日の祈りを習慣化していく。祭壇の前に座ったときに神とつながれていると思う。自分自身の人生の過去を振り返ると、やっぱり自分は神に守られてきたのだと感じることができる。」
… ② 多忙な生活においてどのように神の御名を唱え、想い起こす機会を増やすことができますか?
「仕事の時は結構スワミに集中している。例えば、鉄道の仕事なので接客するとき。身構えているわけではないが、いろんなお客様がいらっしゃる。きちっと集中しなければいけないが、ずっと御名を唱えている。」
… ③ 日常生活において、愛を表現するためには、どのような多様な方法がありますか?
「コロナ禍になってセンターに行く機会がなくなったので、家の祭壇の前にスワミの椅子を置き、クッションの上に、スワミの御足の大きな写真を置いて、毎日パーダナマスカール(御足への礼拝)をしている。そして朝のお祈りとか、108の御名を唱えることを毎日の習慣にすることができている。家にいて作業しているときにはいつもスワミが椅子に座って観てくださっているという感覚があるので、スワミの椅子を置くのはとても良かったと思う。何かセヴァ(奉仕)の作業しているとき、できるだけ良い波動が出るようにと思ってスワミの声のガーヤトリーマントラ(太陽神に捧げられる讃歌)の
CDをずっとかけながら作業しているが、それもとても気持ちが良くなり、とても良かったと思う。」
… ③ 日常生活において、愛を表現するためには、どのような多様な方法がありますか?
「日々の仕事がすごく忙しかったり、疲れたり、人混みが苦手でしんどくなりやすかったりもする。だから神の御名を常に想っていようと思うことが多い。出勤前に起きたら『真我の響き』(祈りの音源)をかけて一緒に唱えたり、またヴェーダ※2を唱えてから家を出るようにしている。ヴェーダが唱えられたときと、時間がなくてできなかったときでは何かが違うと感じる。愛からの行動ができた時というのは、神の御名とか、スワミの御名を唱えた時に何か違いがあるのかなと思う。常に純粋な愛の行動ができるように勉強中と思いながら日々を過ごしている。」
… ② 多忙な生活においてどのように神の御名を唱え、想い起こす機会を増やすことができますか?
「自分の場合、毎朝の霊性ルーティーンを行うこと。朝起きてからの一連の習慣でスワミの写真に向かって祈り、マントラ(真言)を唱えたりしている。その時には御姿と御名を思い出す。それは習慣として思い出すことができるようになっている。」
… ③ 日常生活において、愛を表現するためには、どのような多様な方法がありますか?
「すべてが愛であり、愛を表現していない存在や人はいないと思っている。なので、誰のこともお互いに悪いように考えると損。お互いにすべてが愛だと捉え、すべてをポジティブに考え、自分にとって神に近づいていくためのものと捉えていった方がいいと思う。」
… ③ 日常生活において、愛を表現するためには、どのような多様な方法がありますか?
「私は子供の時に引っ込み思案だった。そのためか人から無視される悲しみを体験してきた。しかしそれはスワミに出会って解決された。私は今、地域活動をしている。そこにも大人しく目立たない方々がいる。私は悲しい子供時代の体験から、その方たちに関心をもつということが重要だと思っていて、彼らを気遣うようにしている。マザーテレサの言葉に『愛の反対は無関心』という言葉があるが、とてもよくわかる。目立たないところや皆が関心をもたないところに関心をもっていくことが愛の一つの表現だと思っている。」
… ③ 日常生活において、愛を表現するためには、どのような多様な方法がありますか?
「96周年(ババ様の御降誕)に関連して『愛があるところに神がいる』ということだと思う。私たちは愛をとおして直接に神とつながることができる。ではどうように愛を得ることができるだろうか?それは奉仕、周りの人に仕えることによって。何かを与える、与えないということに関係なく、他者を愛し続けること。他者を愛することによって直接神とつながることができるのは、神ご自身が愛にほかならないから。ナーラーヤナ神※3は、あらゆる人の中に神がいらっしゃることを意味する。すべての人の中におわす神を愛することによって神とつながることができる。」
<サイの学生のコメント>
… ① どのようなときに神とのつながりを感じますか?
「自分の心が愛で満たされたときに神とつながったように感じる。自分の周りの人を助けたり、奉仕したとき、自然を体験するとき、そして帰依者の体験談を聴くときにも神とにつながったと感じる。そして帰依者の体験談が今の自分の人生に方向性を示してくれることがある。そのように日常生活の中でスワミとつながったように感じている。自分の体験を一つお話しする。アナンタプル校※4に入学した時の学生証の番号が092235だった。そしてアナンタプル校を卒業して1年ぐらいたって、両親とプッタパルティ※5のアシュラム(修行場)を訪れた。健康診断をするためにスーパースペシャリティホスピタル(シュリ・サティヤ・サイ高度専門病院)にも訪れた。順番待ちのトークンの番号が35番だった。アナンタプル校の学生証番号で、09は入学年で、22は理学部の番号。自分のアナンタプルでの学生証と同じ末尾の35の番号を再びもらった。35番の番号をもらって神とつながったように感じてすごくうれしく思った。学生証と同じ番号をもらって、自分は卒業してもまだスワミの学生なのだと感じた。」
… ② 多忙な生活においてどのように神の御名を唱え、想い起こす機会を増やすことができますか?
「スワミがいつも強調されるのは量でなくて質であるということ。神は想いに対して喜ばれる『バーヴァ プリヤ(気持ちを喜ぶ者)』であって、私たちの行動の背後にある意図をとても大事にされる。何回唱えるかではなく、どのようにスワミの御名を唱えるのか。そこが非常に大事ではないかと思う。例えば子供の例をとると、母親はいつも子供の周りにいる。子供が母親を呼ぶと、すぐに返事してくれることもあるが、ときにはそうでないこともある。でも、もし子供がより熱心に母親を呼べば、直ちに来てくれるだろうと思う。スワミがおっしゃるのは、スワミはいつも私たちの側で、私たちを助けるチャンスをスワミご自身が待っていらっしゃるのだということ。そのためにすべきことは、声に出してスワミのことを呼ぶこと。例えばバガヴァッタム※6の中にガジェーンドラのエピソードがある。例えばガジェーンドラはヴィシュヌ神※7をいろいろな間違った呼び方で呼んだ。最初は、神を呼んでも神は反応しなかった。でも最後にガジェーンドラは『神様、あなた以外に頼る方はいません。本当にあなたの方しか向くところがないのです』と言ったところ、直ちにヴィシュヌ神が助けにやって来た。同じように強さをもって神を呼ぶのであれば、直ちに神様はそれに対して反応してくださる。そのような神への想いの強さは、決して一夜にして成せるものではない。スワミがおっしゃるには、少なくとも5分間は座ってスワミのことを考えることから始めるということ。それからすべてのものを神様に捧げ続けるということを始める。サイを人生の一部にして、サイを日常の活動の一部にする。皆すごく忙しい生活を送っているが、幾分かの時間を見つけることはできる。例えば自分の場合、職場からの帰宅途中は、ガーヤトリーマントラかサイガーヤトリーを唱えている。仕事を始める前には、『スワミ、この仕事をとおして適切にその結果がきますように』とお願いする。そして一日の仕事が終わる時には、『明日然るべきやり方で仕事を続けることができますように』と祈る。サイ大学の学生寮のスケジュールにおいても、いろいろなお祈りを一日の様々な場面で唱える。例えば起きた途端にお祈りをする。食事の際にはフードマントラを唱え、そして大学に着くとそこでも最初にお祈りがある。そして夕方になるとヴェーダやバジャン(神への讃歌)※8がある。お昼や夕飯の時にもフードマントラ(食事の真言)がある。そして寮での夜のお祈りもある。そのようにスワミのご計画で、一日に非常にたくさんスワミのことを思い出す機会がある。でも皆さんの多くにとっては、例えばヴェーダやバジャンを必ずしも毎日行うことは実践的ではないかもしれない。そういったときにはスワミはどんな物語でも良いから、エピソードでも良いから、それを思い出してくださいとおっしゃっている。例えばインドでは、どんな家でも小さい子供がいると、その家のおばあちゃんが夜に子供たちに10分ぐらいの神のお話を必ず聴かせる習慣がある。それはラーマ※9のお話だったり、クリシュナ※10のお話だったり、あるいはスワミのチンナカタ(小話)だったりもする。そのようにいつでも必要な時には神の物語を思い出せるように私たちを鍛えていく必要がある。そして、そのように心を訓練していくことができると、それがスワミを呼ぶときの強さというものに繋がっていくと思う。毎日の生活の中で、私たちがぜひ実践して練習するべきなのは、本当に必要な時に、強さをもって神を呼ぶ強さを身につけられるように訓練していくこと。」
… ② 多忙な生活においてどのように神の御名を唱え、想い起こす機会を増やすことができますか?
「日常生活の中で神の御名を思い出して唱えることは簡単だと思う。神の御名を唱えるために特別な時間を捻出する必要はないと思う。一日の中のどの時点においても、神の御名を唱えるナーマスマラナはできるだろうと思う。集合的に皆が集まってバジャンなどのナーマスマラナによって、増幅された効果が得られるぜひいろいろな機会をとらえて、そのようなセッションがあれば参加した方が良いと思う。」
… ③ 日常生活において、愛を表現するためには、どのような多様な方法がありますか?
「スワミがシンプルに実践できる4つのことを教えてくださっている。一つは話すことにおける愛の実践、すなわちサティヤ(真実)を話すことを実践すること。二つ目は行動における愛・正義を行うこと。三つ目は思いにおいて愛を実践すること、すなわち平安であるということ。四つ目は理解における愛で、アヒムサー(非暴力)を実践すること。これらの四つを日常生活で実践するのであればその愛をとおして神につながることができる。」
<ババ様の御言葉>
自分というものを覚るには固い信心が不可欠です。信心は自信〔神我である本当の自分を信じること〕の基盤であり、それがなければ何も達成できません。「マーナヴァ」(人間)という語それ自体に「信心を持っている者」という意味があります。信心に従って行動するとき、人は安らぎと満足感を味わいます。愛は手段であり、それを通して信心が強まります。
1989年3月6日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19890306.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化
された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※3ナーラーヤナ神:水の中で動く者の意、ヴィシュヌ神の別名、水の上で動く者の意、ブラフマー神の別名、宇宙をすみかとする者の意、原人の息子の意。
※4アナンタプル校::サイ大学の女子大。アナンタプル県の町。アナントプル。
※5プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※6バガヴァッタム:1)神(バガヴァット)のもの、神から来たもの、ヴィシュヌ神やクリシュナ神と関係する、神聖な、聖なる、2)聖賢ヴィヤーサの著で、バガヴァットという名で呼ばれるヴィシュヌ神とその化身の物語集。神の本の意。『バーガヴァタ・プラーナ』『シュリーマド・バーガヴァタム』とも呼ばれる。
※7ヴィシュヌ神:宇宙を維持し守護する役割を担っている神。
※8バジャン:神への讃歌
※9ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※10クリシュナ:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※11ナーラダ仙:世界に信愛を広めるためにブラフマーが創った聖者。ナーラは「知識」、「ダ」は「与える者」の意。いつも神の御名と栄光を歌っていたことで知られる。ヴィーナの創作者でもあり、ヴィーナを携えて三界を自由に行き来する。
開催日:2021年11月24日(木)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第49節、第50節「完全に全託しなさい」、「信愛の9つの道」
参加者:44名
質問:
① 自分自身を頼ること(自信をもつこと)と全託することの間には矛盾は生じないか?
② 全託の例としてスワミ※1がとりわけシャバリー※2の例を挙げられたのはなぜか?
③ 他に模範とすべき全託の例は?
④ 選んだ道を継続して積み重ねるためには何が必要か?
<参加者のコメント>
… ① 自分自身を頼ること(自信をもつこと)と全託することの間には矛盾は生じないか?
「自信をもつということは自分の中に神様がおられるということ。自分の良心に従って自分の欲望を手放し、本当に後で幸せになるような小さな体験を一つひとつしていくこと。それによって自分の中の神をちゃんとつながっている確信をもち、自信につながっていくと思う。その自信をもつことを一つひとつ積み重ねると全託になっていくと思うので、自信と全託に矛盾はないと思う。」
… ① 自分自身を頼ること(自信をもつこと)と全託することの間には矛盾は生じないか?
「自分自身の内なる神とのつながりをもてるかどうかが自信をもつこと。そこからかけ離れた自分がエゴ。」
… ② 全託の例としてスワミがとりわけシャバリーの例を挙げられたのはなぜか?
「なぜスワミはシャバリーの例をあげられたかというと、何よりも大切なのは、やはり神への信愛ではないかと教えられたのではないか。九つの信愛※3の中に、いろいろな信愛の道がある。どの道においても、無学であっても、身分が低くても、女性であっても、それらは関係なく、実際に信愛の道を行なっているモデルとしてスワミが挙げられたと思う。」
… ③ 全託の例としてスワミがとりわけシャバリーの例を挙げられたのはなぜか? 他に模範とすべき全託の例は?
「九つの帰依の中でヴァンダナムという崇敬する道があった。ラーマ※4を崇敬する以前のシャバリーは、命を崇敬する道を選んでいた。自分の結婚式の時に生贄になるヤギを助けて欲しいと両親に頼んだが、父親はシャバリーの気持ちを汲むことなく、ヤギが生贄になった。命が苦しんで悲しむことから始まる結婚は良いものではないとシャバリーは分かっていて、その結婚を放棄して両親から離れ、一人で生きて行くことになり、それによってラーマを憶念するに至った。それでラーマがそれに応えてくれた。本当にシャバリーには心の優しさがあり、命というものを崇敬する思いがあった。私が全託の例の模範としたいのは、日本人でいうと杉原千畝(第二次世界大戦にナチスドイツから逃れてきたユダヤ人の命を救うために大量のビザを発行したエピソードが全託の例として紹介されました)。」
… ④ 選んだ道を継続して積み重ねるためには何が必要か?
「私は自分の体験からの気づきを日記に書いている。そのときは分かったと思うのだが、後で見直してみるとまったく忘れてしまったり、全然できていないことが何度もあった。シャバリーが実を集めてラーマを待ち続けたように、たった一つのことでもずっとやり続けることで到達するという熱意のある信仰心が一番大切だと思う。」
<サイの学生のコメント>
… ① 自分自身を頼ること(自信をもつこと)と全託することの間には矛盾は生じないか?
「イタリアからコロナ禍のなか、やっと日本に帰ってきた体験があった。それを自分のバールヴィカス(子どもの開花教室)の先生に、この時に学んだ祈りと全託について話した。自分を助けてくれる人が誰もいないときには神の方に向くしかない、というサバイバルの体験だった。でも先生は『それは全託でなくて、ただ必要な時にスワミに助けを求めたということではないですか?自分の心と自分のエゴと自分の良心の三つがあって、これらの心とエゴと良心が互いに矛盾するときに良心の声をちゃんと聴き分けて従うことが全詫です』とおっしゃった。『ちゃんと良心に従って行動を始めたとき、そして自分が良心の声に従って行動していると自信を得たときに初めて自分は全託しているということができる』ということだった。スワミは究極的に良心に従われ、同時に十分に自分自身に頼ってこられ、そういうことができると示してこられた。自分自身を頼ること、自信をもつことは決して全託と矛盾することではなく、全託した結果の素晴らしい産物が自分自身を頼れることであり、自信をもつことができる。」
… ① 自分自身を頼ること(自信をもつこと)と全託することの間には矛盾は生じないか?
「帰依とか信仰をもつ者にとってとても大事な質問だと思う。バガヴァットギーター※5には『カルマ、行動を行うことは私たちの手の中にあるが、その結果は私たちの手の中にはない』と書かれてある。自分自身を頼ることは自分の努力や能力に対して、また自分自身に信仰をもっていることが自信をもっていることだと思う。私たちはそのことをとおして最善の努力を行って、その結果をバガヴァン(尊神。ここではサイ・ババ様のこと)へ捧げていかなければならない。そうすることができれば、行動の結果にまったく執着がない。なぜならそうした行動は結果を求めてではなく、神への捧げものとして動機づけられているからだ。全託と自信の両者が相まったものであれば、神への捧げものとしてよりふさわしくなる。全託と信仰は互いを必要としている。神に全託することは忍耐と信仰を必要とする。」
… ② 全託の例としてスワミがとりわけシャバリーの例を挙げられたのはなぜか? 他に模範とすべき全託の例は?
「シャバリーは大変ラーマによく帰依していたご婦人だった。果物の果実を取った時に神様に捧げる前に一つひとつをちゃんと味見して試したエピソードがあるが、酸っぱい果実は捨てて、甘いものだけを見つけて捧げようとしていた。神には最善のものだけを捧げたいと彼女が思っていたからだ。そのような彼女の帰依にラーマが報いて彼女の庵を訪問した。ラーマがシャバリーのもとを訪れたのは、シャバリーにはラーマに捧げるためのハートがあるからとラーマがおっしゃった。そして、その時までにシャバリーが集めていた果実を、それは既に味見されたものではあってもラーマは喜んで受け取った。ラーマは捧げ物の背後にある帰依だけを見て、それを受け取られ、彼女の帰依に対して、ラーマがご自身のビジョンを与えるに至った。シャバリーは完全に献身的に全託した魂であったので、果実だけではなく、自分のハートもすべてそのように捧げていた。またドラウパディー※6も本当に全託の典型的な例。ドラウパティーは、クリシュナ※7を友人であり、なおかつ神であると見なしていた。ドラウパディーは人生の中で非常にたくさんの試練に直面したが、それをしっかりと助けてくれたのはクリシュナだけだった。ドラウパディーがカウラヴァ※8側の宮廷で侮辱されそうになった時にも、クリシュナが助けに来て守護を差し伸べた。私たちが神の御足に全託するのであれば、正しいやり方で守護を差し伸べてくださると思う。」
… ② 全託の例としてスワミがとりわけシャバリーの例を挙げられたのはなぜか? 他に模範とすべき全託の例は?
「全託に関して2004年にスワミが学生に教えてくださる機会があった。人間は自分の周囲の状況が、幸福な状況から悲しみに変ってしまう時、あるいはその逆に悲しみの状態から幸福に変わってしまう変化の時に、問題を感じるということだった。例えば、とても幸福な状態から悲しい出来事が起こると、とても落ち込む。一方で悲しい状態の時に喜びの出来事が起こると、逆に舞い上がってしまう。スワミは、嬉しいことがあっても、あるいは悲しいことがあっても、両方を平等に受け入れることができれば、それを全託と呼べるとおっしゃっている。シャバリーは毎日毎日ラーマが来るのを待ち、本当にラーマが来ようが来まいが、どちらにしてもシャバリーは勤勉にラーマが来ることを待ち続けた。ベリーの実を集めてラーマを待つことがシャバリーの霊性修行だった。そのような全託のためにシャバリーは解脱を得るに至った。そのような道を辿ったのでシャバリーが、とりわけ全託の例として挙げられたと思う。もう一人全託の例として挙げられる帰依者として、あるテルグ語圏の詩人の方がいる。ポータナ※9というバーガヴァタム※10の物語をテルグ語で書いた詩人。その方の職業は詩人ではなく、農夫だった。彼がその詩を書いていたが、なぜ農夫なのにそれを書いたかというと、自分にそれを書くように促しているのがラーマだからと考えていた。ある時、テルグ語でバーガヴァタムを書いている時に、急に筆が止まって書き進まなくなってしまう場所に行き当たった。それで少し休憩して外を歩くことにした。散歩で外に出て行く前に、自分の妻に『自分はこういうエピソードを書いているところだが、筆が止まってしまっているのだよ』と話していた。その詩人の方が、もうここは書けないと言って、外に散歩に出かけた。その時、家にいた妻は、その夫が普通に家にいて、エピソードを書いている姿を目撃していた。それは、もう書き進められないと言って、行ってしまった本人に代わって、ラーマが夫の姿でやって来て、自分でそのエピソードを書いてくださったというお話。そしてラーマ神は詩人の姿で、その部分の全体のエピソードを自ら書かれて去って行かれた。そして散歩から夫が家に戻った時、ノートに全体のエピソードが書かれているのを見て、大変驚き、自分自身の全託によってラーマが来てくださり、書いてくださったのだということを理解した。これがカリユガ(法の力が4分の3失われた闘争の時代)の時代の帰依者の全託の例。」
… ③ 全託の例としてスワミがとりわけシャバリーの例を挙げられたのはなぜか?
「シャバリーが最初のグル(霊性の師)に仕え始めた時、彼女はとても若かった。グルは『私はいずれ肉体を離れます。でもあなたは私が肉体を去った後も、私が告げたこの修行を続けていかなければならない』と言った。そこでシャバリーはグルに、『では私は一体いつまであなたがおっしゃった修行を続けていけばよいのでしょうか?』と聞いた。するとグルは、『ラーマご自身が来てくださる時までその修行を続けるように』と言った。シャバリーがその修行を始めた時には、まだラーマは生まれてもいなかった。その時グルが告げたことには、『ある時が来たら、ラーマは自分の妻を探してこの地域へやって来るでしょう。その時あなたはラーマに休憩を与え、フルーツを与えなさい。それがあなたにとっての最後のゴールで、その時にあなたは肉体を離れることができるでしょう』と言った。実際にラーマが来た時にはシャバリーは大変年をとっていて、かろうじて歩けるくらいの年代になっていた。どうしてシャバリーがそれほど年老いた状態になるまで継続して大変な忍耐のもとにサーダナ(霊性修行)を続けることができたかというと、その理由はひとえにシャバリーが自分の最初のグルの言葉への揺るぎない信仰をもっていたから。もう一つ大事なことは、彼女がどこかに行くとか探しに行くということではなく、神様の方が彼女を探しに会いに来てくれるという信仰だった。シャバリーは自分自身のアートマ※11に完全な自信をもっていて、神様の方が彼女に会いに来てくれるという確信をもっており、いくら年老いてもシャバリーは決して信仰やグルの言葉に対する確信を失うことはなかった。これと関連してシルディ サイ※12がおっしゃっている『シュラッダとシャブリ(信仰と忍耐)』という有名なスローガンがあるが、これらがまさにゴールに到達するうえで非常に重要だということを示してくれたエピソードでもある。信仰と忍耐が大事だと言葉でいうのは簡単だが、私たちは例えば今日はちょっと頭が痛いという理由で簡単にスタディーサークルやバジャン※13などの霊性修行を休んだりするので、ゴールに対する献身が大事だということをシャバリーが教えてくれていると思う。」
… ④ 選んだ道を継続して積み重ねるためには何が必要か?
「私たちは霊性のアプローチにおいてとても首尾一貫性のあるアプローチをしていく必要がある。いつも決意し、忍耐強くあるべき。これらはすべて、シャバリーの中にある特質。シャバリーはすぐには結果を期待しなかった。シャバリーはずっと謙虚で、いつか必ずラーマに会うということを決意していた。私たちも謙虚で忍耐強くあるべき。
自分たちがもっているもの、与えられたものに絶えず感謝していること。私たちが継続的にあくなき努力をゴールまで続けていけるかということには、そういった特質が必要だと思う。」
… ④ 選んだ道を継続して積み重ねるためには何が必要か?
「どういう仲間とそれをするかということがすごく大事だと思う。例えばSSIOJ(サティヤ・サイ・インターナショナル・オーガニゼーション・ジャパン)に所属していると、バジャンやスタディーサークルに時には参加したくないことがあったとしても、私たちにはこのような仲間がいるので参加するという状況もあると思う。どういうきっかけであれ、霊的な活動に参加した後には必ず至福があって心が落ち着いた状態になる。仲間が善いものであれば、それが私たちを良いものにつなげていてくれる。自分の地元では、最初は何か自分の個人的な欲望や願望を叶えたくて、地方のサイセンターに入ってくる人々がいる。しかし、そういう方も善い仲間と共に活動していると、変容して、長い間続けていける卓越した帰依者に変わっていく。自分自身の体験を振り返っても、少し誤った道を行きそうになったときも、いつもバールヴィカスやサイ・オーガニゼーションが正しい道に戻ることを助けてくれている。もう一つ言いたいことは、帰依していくことのプロセスを楽しむこと。シャバリーの場合もそのプロセスをとても愛していた。ラーマを愛し、ラーマを待つというプロセス自体を楽しんでいたので、それを長い間待つことができた。最初はそのプロセスを楽しむということに困難があるかもしれないが、時間が経てばプロセスを楽しむことができるようになると思う。私たち自身がそれを楽しむことができて、それをすると幸せになって至福になるという活動をしていれば、決して疲れたりすることはないと思う。」
<ババ様の御言葉>
「シャバリーは、道を掃き清めるのと同時に自分のハートも清めました。その努力によって、石ころと茨が道とハートの両方から消え去りました。シャバリーは森を通って歩き、頭の上にかかる蔓草と茨の枝を取り払いました。おそらくラーマは髪を梳かしていないので、それらが髪に絡みつくだろうと想像したのです。また、塊になった土を砕いたのは、もしシーターがその上を歩いたら、柔らかな足の裏が傷つくだろうと恐れたからです。シャバリーは、毎日、密林の木や植物の果実と根菜を集め、その日の分をとっておきました。ラーマがいつやって来るか誰も知りはしなかったからです!
さらにシャバリーは、もしものことも考えました。集めた果物を一つひとつ味見して、苦いか、酸っぱいか、甘いかを調べ、ラーマが一番おいしい果実を食べることができるようにしたのです。シャバリーは、密林の小道の脇に横たわる全部の石の表面を磨きました。ラーマかラクシュマナかシーターが歩き疲れた時に、そのどれかの石の上に腰を下ろすかもしれないと考えたからです。シャバリーは、自分が丹精込めて磨き上げたどれかの石の上で、三人のうちの誰かがしばらくの間でも憩ってくれることを願いました。このようにして、シャバリーのハートはラーマのハートとなりました!」
1971年1月3日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19710103.html
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2シャバリー:『ラーマーヤナ』の登場人物で、低いカースト出身の貧しい女性。聖者マータンガをグルと仰いでいたが、女性の身であるため弟子になることを許されなかった。そのため、日々グルが通る道のイバラや石を除くことでマータンガに仕えつつ木陰に隠れてその教えを聞いていたところ、マータンガから特別に弟子となる許可を得て、マータンガの死後もラーマが来るまでマータンガの庵に住むよう指示を受けた。そのためシャバリーはラーマがいつ来てもよいよう毎日道を整え、果実を集めてきれいに洗い、ラーマが来ない日はそれをプラサードとして食していた。長い年月が経ち体が不自由な老女となったころ、ついにシーターを探しに行く途中のラーマがやって来て庵を祝福した。するとシャバリーは体力を取り戻し、小川の水と森の果実でラーマをもてなした。ラーマはその果実を喜んで食し、シャバリーが九つの信愛の道をすべて実践したこと、夢においてさえだれかに悪意をもったことがなかったことを褒め称えた。信愛に満ちていた純粋なシャバリーはラーマの御足のもとで自らの体を燃やして灰とし、ラーマはシャバリーの魂を至福で満たした。
※3九つの信愛/帰依(の道):バクティマールガ(テルグ語)。1.シュラヴァナム(神の栄光を聴くこと)、2.キールタナム(神の栄光を歌うこと)、3.ヴィシュヌ・スマラナム(神を憶念すること)、4.パーダセーヴァナム(蓮華の御足に奉仕すること)、5.アルチャナム(神仏の像を礼拝すること)、6.ヴァンダナム(神を崇敬すること)、7.ダースヤム(神の召使として奉仕すること)、8.サキーヤムもしくはスネーハム(神の親しい友人となること)、9.ニヴェーダナム(全託)もしくはアートマ ニヴェーダナム(神我への全託)
※4ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※5バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※6ドラウパディー:夫の前で辱めを受けてクリシュナ神に救済を求め救われたパーンダヴァ兄弟の共通の妻。
※7クリシュナ(神):ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※8カウラヴァ:クルの息子たちの意、『マハーバーラタ』に出てくる百人兄弟
※9ポータナ:(1450-1510) 南インドの詩人。ヴィヤーサがサンスクリット語で記した『バーガヴァタ』をテルグ語に翻訳した。ポータラージュ。
※10バーガヴァタ、またはバーガヴァタム:聖賢ヴィヤーサの著で、バガヴァットという名で呼ばれるヴィシュヌ神とその化身の物語集。
※11アートマ(テルグ語)アートマン(サンスクリット語):神我。神性。魂。自己。心霊。内在する神の火花。本当の自分。同一の魂。
※12シルディ サイ:1838年9月27日に降臨した神の化身。1918年(大正7年)のヴィジャヤダシャミーの日(10月15日)午後2時30分に肉体を離れた。
※13バジャン:神への讃歌。ヒンドゥー教の聖歌、礼拝、神の栄光を歌うこと。
OM SRI SAI RAM
スタディーサークルチームの活動報告のとりまとめ凝縮版は下記になります。
全文版はダウンロードボタン(pdfボタン)からご確認ください。
開催日:2021年11月4日(木)
テーマ:「ディーワリ祭の意義及び光明瞑想」
参加者:52名
質問:
①インドではディーワリ祭※1をどのように祝ってきたか?(学生たちへの質問)
②光が偉大な力をもつのはなぜか?
③光明瞑想から恩恵を感じた体験は?
<参加者のコメント>
… ②光が偉大な力をもつのはなぜか?
「先ほどのお話で、この日には聖なるエネルギー、ポジティブなエネルギー、美しくて神聖なエネルギーが悪を滅ぼしたエピソードがたくさんあることが分かった。阿修羅がこの日にクリシュナ※2によって滅ぼされたという御講話にもあるように、人々が神の性質である真善美を思い起こして、六つの敵を滅ぼし、よりいっそう神聖な道をたどり、暗闇を隅から隅まで消す日だと思う。神の話をすると抵抗のある人でも、光というとほとんどの人が受け入れやすいといろいろな人と話していて感じる。」
… ③光明瞑想から恩恵を感じた体験は?
「日々の短い光明瞑想でも落ち着いたり、心の動きを止めてくれたり、至福や平安が感じられる。」
「光明瞑想は光自体を思い出させてくれるので、疲れたときにハートが温かくなるような感じが得られ、自分の身体は光の点の集合なのだと思わせてくれる。やっていないときと、やっているときとでは違うので、時間のないときでも数分でも続けている。最近のどを痛めたり、呼吸のバランスを崩していたが、光明瞑想を続けていると少し楽に感じることがある。今日はディーワリの光の祭典ということで、これまで私もラクシュミー※3のお祭りとしてこの祝祭を過ごしてきたが、今日は嬉しいことがあった。以前職場で落としてしまった指輪があって、それは太陽を意味する指輪だったが、まったく見つからなかった。それが半年以上経って、(中略)自分のもとに半年以上ぶりに戻ってきてくれた。今日の話は太陽や光の話が中心だったが、失くしていた指輪も光とつながって見つかったのではないかと思った。」
<サイの学生のコメント>
… ①インドではディーワリ祭※1をどのように祝ってきたか?
「サイ大学に入る前、まだ家にいた頃は、このディーワリの祝祭はダサラー祭※4が終わった時から始まっているという感じだった。ディーワリはインドで一番大きな祭りになっていて、すべての人が休みを取る。ディーワリの祝祭の時には、いつも父は5日間休みを取って祖母の家を訪れた。祖母の家にはすべての親戚、兄弟姉妹が皆集まって、一緒に祝祭を祝っていた。集まるとまず皆で家の掃除を始める。そして光(ランプ)を装飾をする。幼い頃はこのディーワリがそれほど好きではなかった。なぜなら母とか年長の人たちから、『若い人たちは掃除をしなさい』と言われていたから。勿論その後はディーワリのことをとても好きになった。なぜならディーワリの日には仕事はなく、皆でごちそうを食べて、贈り物を交換し合い、花火があったりした。この日の意義について両親から教わったことは、(当時はバールヴィカスの子供だったが) 『この日は本当に神聖な光のように他の人に話をしなければならない』ということ。サイ大学に入ってからは、このディーワリがさらに霊的なイベントになった。学生寮では一人ひとりが部屋を掃除し、スワミ※5に祈った。『しっかり勉強します』、『試験で良い点数を取ります』、『しっかり働きます』、そういったことをスワミに約束した。ときには大学で秋休みがあり、ディーワリが秋休みの一部になっていた。その時には、私たちは皆実家に帰らなくてはならなかった。大学ではいつも一生懸命勉強していたので、実家に帰ると喜んで寝ていた。そうしていると両親がやってきて『掃除をするように』などいろいろとお願いされた。何年か過ぎて、親に言われて掃除をするのではなく、自発的に掃除をするように変わっていった。そのような変化はサイ大学での生活で得られた、自分自身に頼る習慣の賜物であった。いろいろな仕事を他人に頼らずに自分自身に頼ることで、自分自身だけではなく両親をも幸せにすることになった。」
「皆さんがご存知のようにディーワリの日はラーマ※6がラーヴァナ※7を殺してからアヨーディヤ(ラーマの生誕地)に帰ってきた日。またこのディーワリの日はラクシュミー女神が生まれた日とも考えられている。同時に、この日は12年間パーンダヴァ兄弟※8たちが森で過ごした後に王国に帰ってきた日であるとも言われている。またある有名なグルが牢獄から解放された日とも言われている。さらには、マハーヴィーラー※9が涅槃を達成した日でもある。自分の出身の西ベンガル地域では、ある怒った女神様がすべての邪悪な悪魔を倒した日であると信じられていた。これらすべての物語では『善が悪を倒した日』と捉えることができる。私の出身地では、ディーワリを5日間続けて祝う風習がある。最初の日には、金などの装飾品を購入する習慣があり、その日にカラスや鳥たちを敬う習慣があった。食べ物を与えて花輪を作って、そこにマリーゴールドの花を飾った。カラスを敬う理由は、カラスは死神の使いだと考えられているからで、彼らを敬うことにより長寿を得ようとする意義があった。次の日は犬を敬う日で、前日と同じように犬にも食べ物を与えて、花輪を用意して、マリーゴールドを付けて、犬に対して感謝する。なぜなら犬は私たちに対して非常に忠実でいてくれるから。そしてディーワリの日には家に礼拝を捧げる。また牛にも同じように花輪とかマリーゴールドの花をつけて、家にもマリーゴールドの花をつけて光(ランプ)で装飾する。その日には女性たちは伝統の衣装を着て集まり、民族の歌を歌ったりする。ディーワリが終わった次の日には男性たちが集まり、今度は彼らが歌を歌ったりする。ディーワリの後日には兄弟姉妹の間の繋がりを祝っていた。最初にシスター(姉妹)たちが歌を歌い、『男性たちが良い繁栄した人生を送るように』と祈っていた。その日には女性が額に何かをつけて、お寺へ行っては帰ってきて、3回巡礼していた。シスターたちが祈ってくれたお返しに、次は男性たちがシスターたちに贈り物をした。そのようにディーワリの祝祭は非常に美しく、皆の関係にポジティブさをもたらし、そのポジティブさを近隣の人々すべてにもたらしてくれた。同時に、内的な意義として私たちの内なる暗闇を追い出してくれた。」
… ②光が偉大な力をもつのはなぜか?
「御講話でスワミが光明瞑想について説明してくださっているが、その中でも、なぜ光がそれほどにパワフルであるのかを説明してくださっている。スワミは小さなランプの例を挙げられる。例えば水を入れる水がめの中から少しずつ水を取り出し続けると、いつしか水がめは完全に空っぽになる。それに対して、隣にあるランプに灯を移して灯し続けると、ランプの場合には1000ものランプを照らしたとしても、最初のランプの輝きは全然変わらない。それがなぜ光明瞑想がそこまで大事であるのかという理由。なぜなら、常にそのようにエネルギーを与え続けることができるから。スワミは至高神であるパラマートマが光であるとおっしゃっている。本当に永遠の光というものが私たち一人ひとりのアートマ(神我)に光を灯してくれるのであれば、私たちが社会に対して愛を広げることによって、社会に愛の灯を灯すことができるということ。灯の輝きは、愛と同じでどれほど広がって行っても、決して衰えることがない。」
… ③光明瞑想から恩恵を感じた体験は?
「自分のバールヴィカス(子供の開花教室)の先生だった方も毎日光明瞑想をしてきた方だった。その先生がおっしゃるのは、最初プッタパルティ※10に行ったときは、パルティの場所の影響で心のなかの落ち着きのなさが去ったり、良い効果があった。しばらくそこに留まっていると次第に元の状態に戻ってくるが、ずっと光明瞑想を続けているとパルティにいなくても落ち着きのなさが消えていって、プッタパルティが心の中にある状態になり、パルティにいなくても心の落ち着きのなさが去っていったとのこと。その先生は人生のいかなる難しい状況も顔に微笑みを浮かべながら対処することができる方だった。今思い返すとこの光明瞑想のことを思い出して、なぜ彼がそのように振舞うことができるのかということを思い出した。これが光の重要性。どんな文化でも国でも光が力をもったものとして描かれていて、そのように理解できるのだと思う。」
「ドイツに移住したあるインド人の家族がいた。長年のスワミの帰依者だった。男の子と女の子と二人の子供がいた。男の子のほうが深刻な健康上の問題をもっていて、特に眠っているときにも痛みを感じていた。その時に女の子のほうは教育を受けるために家から離れたところで過ごさなければならなかった。彼女には毎日20分スワミに瞑想する習慣があった。瞑想していた時に、男の子の病気が深刻になってきたので、スワミに『どうか私の祈りも聞いていただけませんか』とうかがいを立てた。その翌日、父親から彼女に電話がかかってきて、長いローブを着た人が寝室に入ってきたとのこと。とても暗かったので父親には誰が部屋に入ってきたのか見えなかった。父親は起き上がって誰が来たのかを確かめようとしたが、そのローブを着た人は『私は沐浴に来たのですから、私の邪魔をしないでください』と答えた。この家族は長年の帰依者だったので、それがスワミだということはすぐに分かった。スワミが病気の男の子に何かをしてくれて、そのおかげで男の子の病気は翌日には治っていた。この話から分かることは、とりわけ瞑想をしているときには、神への強い集中力によって、その中で祈りをしたことに対して神様が答えてくださったということ。」
<ババ様の御言葉>
「聖日を祝うことはご馳走を食べることを意味しているのではありません。アヴァターたちの御教えを、自分の生活の一部にするよう努めるべきです。アヴァターたちによって敷かれた道をたどるべきです。そのとき初めて祝祭は意味を持ち、人生も聖化されます。あらゆる学習も、吟唱も、講話を聴くことも、教えの後に実践が伴わないのであれば、何の役にも立ちません。」
ババ
1988年3月26日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19880326.html
※1ディーワリ祭:ラクシュミー女神を祀りランプが灯される。ディーパーヴァリとも呼ぶ。ヒンドゥー教三大祭の一つ。商人階級や庶民のお正月。ヒンドゥー教徒にとって新年とも言える大祭で、毎年10月下旬から11月上旬ごろのカールティカ月(ヒンドゥーの暦の7番目の月)の新月の夜に行われます。別名を「光の祭り」とも呼ばれる。
※2クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※3ラクシュミー:ヒンドゥー教の女神。ヴィシュヌ神の神妃。幸運と美を司る類いまれな美しい女神として信仰されている。
※4ダサラー祭:ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーに象徴される三つのグナを打ち破り、無知からの解放を願うヒンドゥー教の祭礼。ナヴァ ラートリー(九夜)ともいう。アーシュヴィン月の新月に始まる。通常三日ずつ各女神を礼拝する。プッタパルティではヴィジャヤ・ダシャミーまでの1週間ヴェーダ・プルシャ・サプターハ・グニャーナ・ヤグニャ(第1回1961年開催)が行われる。また、この期間、プラシャーンティ・ヴィドワン・マハー・サバが開かれて学者がスピーチを行い、学生と学校のスタッフを中心にグラマ・セヴァが行われる。ダサラー、ダシャラ、ダセラーほか、さまざまな言語の呼び名がある。
※5スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※6ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※7ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※8パーンダヴァ兄弟:「パーンドゥの息子たち」の意。『マハーバーラタ』に出てくるパーンドゥ王の五人の息子
※9マハーヴィーラー:ジャイナ教の開祖。
※10プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
開催日:2021年11月7日(日)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第10節、第11節「『私』と『あなた』が『私たち』に、『私たち』は『彼』になるべき」、「世俗的な楽しみへの執着を捨て、神への執着を育みなさい」
参加者:37名
質問:
①一体性を世界の多様性の中にどのように見出すべきか?
②日常生活において霊性修行を統合的に行うには?
③カルマ※1、ダルマ(正しい行い)と神の恩寵との間の関係とは?
<参加者のコメント>
… ①一体性を世界の多様性の中にどのように見出すべきか?
「以前サイの学生さんから、思いと言葉と行動の一体性があるときに、世界との一体性があるという御教えが紹介された。 『私』から『私たち』になる時に『私』というのが肉体の私であったとしても、『私たち』と言った時には思いと言葉が一緒になってくるのだろうかと考えた。」
「『私』という存在は肉体として見ている存在で、『私たち』になると肉体を超えたものになってくる。『私』から『私たち』になる一体性は、例えばサット チット アーナンダ(存在・意識・至福)という言い方ができるのかもしれない。すべてが命をもっていて、その命の本質は愛であり、すべての人に愛がある。自分だけでなく、すべてのものは同じ存在であると、それを通して見ることができるのかなと感じた。」
… ②日常生活において霊性修行を統合的に行うには?
「必要なのは神を思い出して、神に祈ることで、後は神が救いの手を差し伸べてくれるという言葉がすごく心に響いた。神を思い出して、神に祈れば、神様が今やるべきことやセヴァ(奉仕)などをすべて用意してくれる。」
「毎日をスワミ※2に喜んでもらえるように過ごすことができるなら、とても嬉しい。人生は、神と一つになるためという目的を常に思いつつ、スワミに喜んでもらえるようにダルマに叶った生活を送る必要がある。私の場合は一番大切なものは朝晩のお祈りで、心の中で御名を唱えられる時はできるだけ御名を唱えて、怒りが生じたり、感情が乱れた時には客観的に見て自分の何が今悪いのかと分析したりすることがとても大切だと思う。」
… ③カルマ※1、ダルマ(正しい行い)と神の恩寵との間の関係とは?
「スワミの御言葉で『神の祝福と神の恩寵は違います』というものがあった。祝福はエネルギーを与えて応援してくれるようなこと。恩寵はカルマを帳消しにする。カルマを帳消しにすることで、初めてスワミとのハートとハートとの関係ができるのではないのかなと思った。」
「日常のサーダナ(霊性修行)で例えば瞑想やジャパ※3などの儀式的なサーダナよりも、日常の中で幸せを祈ったりする行為の方を神はもっと喜んでくださるという話があった。カルマ、ダルマ、神の恩寵との関係においては、神を喜ばせるための行いがカルマ。そして自分の役割を果たしていくということがダルマ。それは自分を置いて、個人ではなくてまさにアートマ※4として神のために行うこと。そういう行為を神が喜んでくださり、私という意識をなくして行う行為により、神の恩寵をいただけることになると思う。」
<サイの学生のコメント>
… ①一体性を世界の多様性の中にどのように見出すべきか?
「自分が行っている実践の一つ目としては、すべての人はいろいろな違いがあり、それぞれの個性を受け入れるということ。個性、独自性が存在するのはそれが創造されたから。その創造による性質は他の人が変えることができないもの。もう一つ考えなければいけない大事なことは、すべての違いにもかかわらず、最終的に到達する目標、神に到達することにおいてはすべての人がまったく同じであるという点。もう一つさらに大事なことは、日常生活の中でどのように真実を心に留めておいて、どのように世界と関わるべきか、ということ。例えば職場や家庭で何かしら議論が起こったり、誰かの行動、思い、振る舞いが好きでなかったり、他の人たちも私たちの思い、振る舞い、行動を好きではないということも起こる。こういったことが起こると、怒ったり落胆を感じたりするが、その相違はあくまで旅の途中の過程にすぎないと分析をして知ることができていないから。そこで分析して分かってくるのが、過去は過去だと忘れることの重要性。なぜなら他者の道のりをすべて知らず、他者と共通しているのはただ目的地が同じということだけ。その人は私自身なのだと思うことで問題が解けて消えてなくなっていくのではないかと思う。心の状況を整えるということがポイントだと思う。しかし、ネガティブに捉えると状況を整えることが難しくなっていく。ゆっくりと実践していくことによって、次第に私たち自身を他の人たちの中に見ることができる。そのサイクルの中で、周囲のものの中に私たちを見る度合いが深まり増えていくのではないのかと思う。インド文化の中で『世界が家族であり、私たちがみなその子供である』という言い伝えがある。どのようにして『私』が次第に『私たち』になっていくことができるのか。それが多様性の中に一体性を見ることだと思う。」
「ワンネス、全一性をもった人が真の人間であるとスワミはおっしゃっている。様々な相違のおかげで、私たちはいろいろな悲しみに直面する。もし私たちが他の人たちの良い傾向にもっとフォーカスしていくことができるのであれば、彼らともっと上手にやっていくことができるのではないかと思う。そして、もし私たちがハートの中に神聖原理を植え付けることができるのであれば、より良い創造物になれる。私たちは皆が単に神の創造物であるので、同時に他の神の創造物を破壊したりする権利は有していない。すべての行動は神への捧げもので、神を喜ばせるためだけのもの。例えばハヌマーン※5が海を渡った時に、ラーマの御名を唱えながら海を渡った。ハヌマーンがランカー※6への石橋を作りあげた時、ある石にはラーマ※7の『ラ』を書いて別の石には『マ』を書くようにと指示をした。そうすると『ラ』と書かれた石と『マ』と書かれた石とがつながって、橋が形作られた。そのようにして橋をうまく作ることができて、一体性の原理と神の原理で橋が出来上がった。同じようにもし私たちがお互いの中に神としての性質を見ることができるのであれば、同じように橋を作ることができて、神聖へと到達することができるのではないかと思う。」
… ②日常生活において霊性修行を統合的に行うには?
「65回目のスワミの御降誕祭で、スワミが日々のサーダナについて話してくださった時があった。スワミは瞑想とは私たちの心の一点集中であると説明された。そして私たちが世俗的な仕事や、他の人と話をしていたり、あるいは車を運転していたりすることは、一種の一点集中を伴った瞑想であるとスワミがおっしゃっている。必ずしもジャパマーラー※8を持ってナーマスマラナ(唱名)をするとか、そういったことがサーダナという訳ではないということだった。例えば誰かに話す時、その時に愛をもって話しかけるのであれば、ただそれだけをもってスワミにつながることができる。そして、同じ御講話の中でスワミは、”I to we to he(私から私たちへ、私たちから彼へ)”ということに関して、ロケットの例を出され、一つひとつのネジとナットとかボルト、金具の一つひとつ、そのすべてがエンジンと等しく大事なのであり、すべてのロケットの部品が、それらの義務を果たして、初めてこのロケットのミッションが成功するゆえに、宇宙のすべては神の一部であると説明されている。それと同様に、この宇宙のミッションが進化していくためには、すべての構成する人々が、一人ひとりの義務を適切に行なった時に初めて、その宇宙の使命が進歩していくことができる。同じ神が、宇宙の中のすべての原子の中に顕れていると、それがヴィシュワルーパ※9。そして世界の幸せというものは、一人ひとりの幸せに大きく依存している。なので、私たちは一人ひとりの幸せや義務にしっかりフォーカスをしていけば、その世界の幸福は自ずとやって来る。」
「私たちはこの日々のサーダナを3つの違う道として、また一方では統合的に行なっていくことができると思う。帰依の道と、行為の道と、英知の道。その3つの道を統合して日常で実践できると思う。そして、この3つの道がいかなる帰依者によって実践される時にも、その3つの道の中のどれか一つが、その帰依者にとって主要な道になっているとスワミは指摘されている。例えば、帰依の道の例を考えてみると、インドでは皆、自分の両親も、まずお祈りから一日を始め、朝に必ずお祈りを行なってからその日を始める習慣を人々がもっている。そして夕方にもランプを灯してお祈りをしている。それが帰依の道を日常生活の中に統合していくための一つの方法。カルマの道について考えると、私たちは常に他の人に対して助けを差し伸べることができ、それが私たちにカルマの道を与えてくれる。そして私たちが行動する時に、その思いの背後にあるべきなのは、私たちが行なっているいかなる行動も、それはあなたがそれを行なっているのですという思い。私たちがそのような神への想いで行動できているのかどうかということが、私たちがカルマの道を歩むことができているかどうかという指標になると思う。(ナーラダ※10、ヴィシュヌ※11、農夫の間のエピソードのご紹介がありました;日に3度のみ神の御名を唱える農夫をヴィシュヌ神が賞賛したエピソード)。私たちも忙しい日々の中で、義務を適切に果たしながらも本当に可能な限り、時折でも神の御名を唱えて、その恩寵を想うことが必ず神を大いに喜ばせると思う。そして英知の道を日常において行っていくための方法としては、毎日少しだけでもサイ文献を読んだり、あるいは帰依者の体験を読んだり、そして読んだことを自分なりに分析し、それを自分の生活の中で応用していくことができれば、それが英知の道の送り方になると思う。」
… ③カルマ※1、ダルマ(正しい行い)と神の恩寵との間の関係とは?
「カルマがダルマの示すことを行っていくなら、恩寵は自動的にやってくる。スポーツ祭のために、オートバイで空中スタントをしていた学生が、スワミが帰られる様子を横目で見た。スワミがそれを見ていらっしゃり、マンディール※12に帰られた時にそこにいた学生を全員インタビューに呼んだ。その時にスワミは皆に『オートバイを運転している時には、決して私の方などを見てはいけない。その時には皆さんはオートバイを安全に運転することに十分にフォーカスしていなければなりません。でも皆さん、そういうことをしている間、ずっと私の方を見ていますね』とおっしゃった。スワミがおっしゃったことを考えると、それはまさにカルマとダルマと神の恩寵との関係について教えてくださったのではないかと思う。私たちが行っている仕事に完全なフォーカスが必要である。そして神を心の中の背景として、その行いの背後の行為者として心に抱きながらそれを行う。そうすればすべてのことを神が面倒を見てくださる。すべての行いにおいて、私たちは心の裏側では、完全な神への集中を基にして行うことができる。マハーバーラタ※13でパーンダヴァ兄弟※14が行ったすべてのことは、単にクリシュナ※15のためではなく、すべてのことをダルマのために行った。ダルマのために行ったので、クリシュナは彼らのそばに付いてくださった。ダルマがあるところにはクリシュナがいて、クリシュナがいるところに勝利があるということ。」
<ババ様の御言葉>
「神の恵みを確保するには、正しい行い〔ダルマ〕を固守し、思いと言葉と行いの清らかさを維持しなければいけません。親切と慈悲は本当の人間の印です。今の若い人たちは、千の嘘に耳を傾けることを躊躇しませんが、一つの真実を心に留める忍耐力がありません。調子のいいことを言ってこびへつらう百人の人よりも、愛をもって語る一人の正直者のほうが良いのです。」
ババ
1984年2月9日
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_19840209.html
※1カルマ:「行為」(業=ごう)そのものと、「行為の結果」や「カルマの法則」(因果応報)の両方を意味する。善因楽果、悪因悪果を原則とする。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ジャパ:マントラや神の御名を繰り返し唱えること、唱名(御名の場合)。
※4アートマ(テルグ語):神我。神性。魂。自己。心霊。内在する神の火花。本当の自分。同一の魂。アートマ(サンスクリット)。
※5ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。風の神の子で空が飛べたため、飛んで薬草をとりに行ったり、海の上を飛んでランカを偵察に行ったりと、多大な貢献をした。
※6ランカー:『ラーマーヤナ』の悪鬼ラーヴァナの王国。
※7ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※8ジャパマーラー(サンスクリット語)ジャパマーラ(テルグ語):ジャパをするための数珠。マーラーは数珠、花輪、王冠、ネックレスの意。
※9ヴィシュワルーパ:一切相。全宇宙としての姿。一切の姿形を有する者、普遍なる者、全知全能者、一切普遍相、あらゆる形態を持つ者、全知全能者の意、ヴィシュヌ神の別名。クリシュナがアルジュナに見せたことで知られる神の姿。ヴィシュワはすべて、ルーパは姿形の意。
※10ナーラダ(仙):世界に信愛を広めるためにブラフマーが創った聖者。ナーラは「知識」、「ダ」は「与える者」の意。いつも神の御名と栄光を歌っていたことで知られる。ヴィーナの創作者でもあり、ヴィーナを携えて三界を自由に行き来する
※11ヴィシュヌ(神):宇宙を維持し守護する役割を担っている神。
※12マンディール(英語):礼拝堂、神殿、寺院、待合所、滞在所、家、宮殿、寺、町、キャンプ、会場。マンディラ、マンディル(サンスクリット語)マンディラム(テルグ語)
※13マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※14パーンダヴァ(兄弟):「パーンドゥの息子たち」の意。『マハーバーラタ』に出てくるパーンドゥ王の五人の息子、ユディシュティラ(ダルマジャ)、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァのご兄弟の総称。ダルマジャとビーマとアルジュナはクンティ妃の息子で、ナクラとサハデーヴァはマードリー妃の息子。
※15クリシュナ(神):ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
開催日:2021年11月10日(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第20節、21節「小宇宙の中に大宇宙を見なさい」「神の御名を聞き、熟考し、歌いなさい」について
参加者:46名
質問:
①自分自身の内的な意識による恩寵をどのように得ることができるか?
②神の悟りを得るか、悪事を働くかは光(御名)をどのように使うかにかかっているという御教えから、どんな実践が必要か?
③内側からの霊的教育への渇望をどのように甦らせ、若返らせることができるか?
<参加者のコメント>
… ①自分自身の内的な意識による恩寵をどのように得ることができるか?
「まず外的なことを自分の中で手放していく。手放して内なる神性に目覚めていくことが必要なのかなと思う。」
「スワミ※1が生きていらっしゃった時にパーダナマスカール(御足への礼拝)をした時にすごい恩寵を感じた。その恩寵を今はスワミがいらっしゃらない状態で心の中で感じることができるかというと、すごく難しいことだなと思う。」
「1番目と2番目の質問は関連しているのかなと思う。この内なる意識、確かアンターカラナ※2と言われているものだと思う。記憶では2015年のサーダナ(霊性修行)キャンプで、アンターカラナの恩寵を得なければ、とんでもないことになるような話を聞いていて、本当に驚いた。これを一生懸命に調べた記憶がある。恩寵を得るとはどういうことだろうと調べた。改めて今日の質問の中に出てきたが、恩寵は、神の恩寵にしても、グルの恩寵にしても、あるいは帰依者の恩寵にしても、実は目の前に、私たちの周りに溢れていると思う。けれども、それが自分のものになるかどうかというのは、また別の話。例えばマンゴーとか果物に例えると、マンゴーはいっぱいあるが、それを自分が得るためには、手を伸ばして、そして皮を向いて食べないと味わえない。そういう意味できっとアンターカラナの恩寵、内的意識の恩寵とは、神の方を向く努力をするとか、澄んだ状態で、正しい在り方で初めて得られると思う。内的意識という道具の使い方が、内部に向けることによって正しい使い方になる。その結果として、恩寵を自分のものにする、手を伸ばすということになるのではないかと思った。」
… ②神の悟りを得るか、悪事を働くかは光(御名)をどのように使うかにかかっているという御教えから、どんな実践が必要か?
「前々回のスタディーサークルで、忍耐というのは武器に等しいという御言葉があった。だから結局は、霊性修行や、神の御名は武器ということだろうと思った。武器を使うのは自分たちであるので、自分自身の内面を探求して武器を良い方向に使っていかなければならないと思った。」
… ③内側からの霊的教育への渇望をどのように甦らせ、若返らせることができるか?
「私には二つのケースがある。一つは、スワミの帰依者の行為の素晴らしさに、心が洗われるときに、私も一緒に頑張りたいという思いが湧く。もう一つは、自分が困ったり間違ったり、人を傷つけたりしてとても自分が未熟と感じ、後悔したときに、霊的にもっと良い人間になりたいと渇望する。この2つのケースがとてもリフレッシュさせてくれることが多い。」
「サーダナを続けていて、自分なりに内なる神というものが少しずつ顕れてくると、そういった体験がより自分自身を内へ内へと導く。もっとそういう体験をしたいという思いが神への渇望になっていくのかなと思う。」
<サイの学生のコメント>
… ①自分自身の内的な意識による恩寵をどのように得ることができるか?
「今年の国際オーガニゼーションの御降誕祭に向けたテーマは『神聖なる愛』。世界中の青年たちが10分のビデオを『神聖な愛』というテーマに関して作り上げ、それも『内なる意識』に関係したもの。そのビデオの中で言っているのは、日常生活の様々な葛藤が職場や家で起こった時に、数秒間待ってみましょうということだった。集中して自分の内側から何かを聞こうとすることが必要。直ちに何が正しい行いなのか、正しい選択が見えてくる。どうするべきかに対して黙想せずに次のステップに移ってしまうと、それは私たちのエゴ(自我意識)を満たすことになってしまうかもしれない。内なる意識に対して黙想した後では、間違いなく至福や幸福を得ることができるようになる。それらの行動を一日中行うことができれば、神と共に暮らすことができる。そして行動が神聖になっていく。それが私たちの内なる意識による恩寵というものではないかと思う。」
「スワミがおっしゃっていることは、恩寵を得るためには内なる声をよく聴かなければならないということ。なぜならそれが上手くできないときは欲望の方によりフォーカスしてしまい結果として欲望を満たそうとしてしまうから。つまり内なる声の導きを欲望は遠ざけようとする。だから自分の欲望を精査するとともに、内なる声を聴こうとしなければならない。内なる声を聴くことができれば、そこから正しい判断ができるようになると思う。でも欲望に主導権を握らせてしまうと欲望の向かう方向に委ねてしまうことになるから、私たちは自分の内側の意識を訓練して、内的なる声を聴くことによって内的恩寵を得ていく必要があると思う。
… ②神の悟りを得るか、悪事を働くかは光(御名)をどのように使うかにかかっているという御教えから、どんな実践が必要か?
「光を上手く使うことを実践するためには、神の御名を唱えたり、困っている人を助ける。特に貧しい人、助けを必要としている人への奉仕が最善の実践ではないかと思う。そういう貧しい人を目にした時に、私たちにできることが2つある。一つは私たちの能力の範囲内でできるのであれば、私たちの手で直接何かをして差し上げる。もう一つは、もし自分たちではできない場合には、やはり神に祈り、神様が間接的に助けてくださるように祈る。その二つができると思う。そして、「サイラム、サイラム」と神の御名を唱えることや、神のお話を聞いて、サイ文献を読むことで神とつながることができる。」
「ある種の人々は神の御名を唱えることによって霊的に成長していく人々もいれば、一方で神の御名を唱えながら、他者と喧嘩する人々もいる。単に神の御名を唱えるというだけではなく、様々な行いをする時に、他者を愛することや真実を守ることなどの実践を確かなものとしていくことが必要。」
… ③内側からの霊的教育への渇望をどのように甦らせ、若返らせることができるか?
「これは今日まで行ってきたすべてのスタディーサークルに関連した質問だと思う。まず第一のステップはサットサング(善い仲間に加わること)※3の重要性。同時にABCの中で悪い仲間を避けなさい(Avoid Bad Company)という点があった。ラーマーヤナ※4でもマハーバーラタ※5などの文献で言われていることだが、一度善い仲間を得たのなら、それによってより善い行いをしていく熱意が増していくということである。そしてサットサングの相乗効果が起こる。また日常の中で何か行っていることに問題が起きて落胆した時、自分たちが毎日行っていることが正真正銘正しいことなのかという疑問が生じることが時にある。そういった時にこそ、自己探求と自分にモチベーションを与えることがこの道を続ける上で非常に大切になる。今日の時代背景を見ると、皆が非常に忙しい毎日を送っている。このような人生において、皆にとって大事なことは心の平安を得るために時間を確保することの必要性。そういった中で本当にシンプルなサーダナ(霊性修行)であってもバジャン(神への讃歌)※6を歌ったりヴェーダ※7を唱えたり、神の御名やガーヤトリーマントラ(太陽神に捧げられる讃歌)を唱えたりすることの継続が、私たちが地に足をつけて根差していくことを可能にしてくれる。そういうサーダナを日々行うことが私たちの心の波立ちを抑え、助けてくれると思う。」
「神のことをバーヴァプリヤ(気持ちを愛する者)と呼ぶ言葉があるが、神のことを想う時にどういう想いで描くかが非常に重要。それはスワミがおっしゃるところの幸福の体験とも結びつく。もちろん一人ひとりの捉え方によって、その人によってどうすれば渇望が甦るのか、若返るのかというのはそれぞれ違うと思う。人によってバジャンだったりセヴァ(奉仕活動)だったりヴェーダだったりそれぞれだと思う。それ以上に最も大事なことはどういう方向に向かっていくのが正しい道であるのかということ。例えばラーマ※8もラーヴァナ※9も二人ともシヴァ神に対するプージャー(礼拝供養)※10を行っていた。彼らが戦争で戦う前には、二人とも同じシヴァ神※11に対して祈っていた。でもそこで勝利を得られるのは正しい道を選んだ人であり、決して間違った道を選んだ人ではない。今日の霊性の道においても、正しい道を選んでいくことが非常に大事になる。初めてブリンダーヴァン※12に入学した時に、少し霊的なことを学んだ時、自分はもうこれで分かったと思っていた。でも卒業して実社会に出てから初めて自分の知識の深みがどの程度だったのかということを知ることになる。そういった意味で実践ということが非常に大事だと思う。」
「他者を傷つけないようにしていくことだと思う。多様性の世界の中では人々は様々な考えをもっており、善人も悪人もいる。霊的教育とは、私たちが何が良くて何が悪いのかを識別することを助けてくれるものだと思う。また、霊的教育だけが私たちを自己探求の道に導いてくれる。私たちがより幸せになるために、霊的教育とつながっていくことが今日の教育の中で非常に大事。」
「霊的教育は単に何か本を読むことで簡単に得られるものではない。それはずっと継続的に行われていくべきプロセスで、それには常に自己分析が伴っているべきだと思う。例えばスワミの御教えで、お祈りをすれば心が浄化されるとあったとしても、ただお祈りをすれば心が単純に浄化されるものではなく、献身的にお祈りをすることによって初めて心が浄化される。例えば、私はこれを学んだからお祈りの仕方がわかったとか、瞑想の仕方がわかったというものが霊的教育ではない。そうではなくて、それをとおして、私は昨日よりも今日の方が善い人間になれたと言えることが霊的教育を受けていくことだと理解している。」
<ババ様の御言葉>
「神の恩寵は容易には得られません。「私が行為者である」と言わせる「私が」という自我意識は、ハートから根こそぎ摘み取らなければなりません 。誰もが、教育があろうとなかろうと、神を知りたいという圧倒的な衝動に駆られるはずです 。神は己の子供たちすべてに対して同等の愛情を抱いています。 明るくすることが光の本性です。その光を利用して、ある人は良書を読むことができ、ある人は日々の業務を何でもこなすことができます。同様に、神の御名を口にしながら、ある人は神の悟りへと近づくことができ、ある人は悪事を働くことさえできるのです!それはすべて、あなたがどのように光を使うかにかかっています。しかし神の御名に傷が付くことはありません。常に、そして永遠に。」
ババ
プレーマヴァーヒニー第21節
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2アンターカラナ:内面の道具。考え、感じ、欲望を抱く心(マナス)、理解し、推論し、決断する知性(ブッディ)、記憶(チッタ)、自我意識(アハンカーラ)という四つの心理的機能。
※3サットサング:善人との親交、神との親交、善い仲間と共に過ごすこと、善い仲間に加わること。
※4ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※5マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※6バジャン:神への讃歌。ヒンドゥー教の聖歌、礼拝、神の栄光を歌うこと。
※7ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※8ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※9ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※10プージャー:礼拝、礼拝供養、供物を直接神の像に捧げて礼拝する儀式、花や果物その他の食べ物を捧げて神像や肖像画の神を招き寄せ、特定のマントラを唱え特定の身振りをしながら神をこの上ない客人としてもてなし神の機嫌をとる、儀式礼拝、詩を吟唱したり歌を歌いながら一定の時間に行うあらたまった礼拝、供養、崇拝、尊敬、奉献(尊敬をもってもてなすことが原意)、何らかのものを供えて神々に礼拝すること。プージャーは家長の大切な務めとされる。
※11シヴァ神:破壊を司る神。
※12ブリンダーヴァン:ババの別荘と大学があるホワイトフィールドの別称。
OM SRI SAI RAM
スタディーサークルチームの活動報告のとりまとめ凝縮版は下記になります。
全文版はダウンロードボタン(pdfボタン)からご確認ください。
開催日:2021年10月13日(水)
テーマ:「自己探求 ~ Who am I ~ I am I ~」
参加者:66名
質問:
①なぜ自己探求が必要であるのか?皆さんにとっての自己探求とは?
②“Who am I”「私は誰であるのか」の問いがもたらす「内向きさ」はなぜ重要か?
③“I am I”「私は私である」という金言をどのように理解すべきか?
<参加者のコメント>
「スワミ※1は本当の自分を悟るために自己探求をしなさいとおっしゃっているとのことだった。何のために生きているのかという真理を探究するために、自己探求は必要だと思う。」
「悟りに至る道、神と一つになる道中の過程も、スワミに戻る道だと思う。」
「20歳を過ぎた時からいろいろな不安とストレスが積もり、あらゆることに不安になって体調を崩していた。どんどん状況が悪くなっていくうちにスワミに導かれた。生きていると外的なものに捕らわれてしまい失うのが怖かったが、自分自身の外側に意識を向けるのではなく、内側に向けるようになり、それが自己探求に繋がっていったと思う。」
「自分が何かにこだわっているときとか、何かこうしたいとか、したくないと思っているときに、自分の動機を調べる。そうすると結局、自分は何をしたいのか、つまらないことを思っていたと気付いたりする。」
「疑問ばかりで右往左往してしまうときに、内向きに心を制御することがとても大切。心の中に静けさをもたらすことで、客観的に自分の心や現実を観られるようになっていき、そのうちに静かなところからインスピレーションが湧いてくる。少しずつでも源に向かいやすくなるというのが、内向きさであり、自己探求をする上で大切なところだと思う。」
「『私は誰か』と考えると、まず私という存在が肉体を持っていて、肉体が朽ちていくことが不思議であるという気持ちが生じ、『では私は誰なのか』という疑問が自然に湧いてくる。頭で考えても分からない。一人で居るときは『私』だが、人と出会うと『私とあなた』となり、『私』というものがエゴの『私』に変わるかもしれない。『私』というエゴと、『私は私』の私は、同じではないと思う」
「 “Who am I?”と自分が自分に質問する場合の答えとして“I am I”があるのではないか。それは言い換えれば、『アハムブラフマースミー(我は神なり)』と言えるのではないかなと思う。つまり、私は身体でも心でもなく、思いでも名前でもなくて、というように3人の自分がいるということになる。他人から見る自分と、自分で思っている自分と、本当の自分。本当の私が『ブラフマースミー』。このような金言をいつも覚えていることで、自分がどのような存在であるかという意識をもつことができる。ババはこの世界は幻想で、この宇宙も幻想だと言われている。つまり、そういう幻想の中で人生を送っているが、幻想だと認識できる立場で、今の私たちが生きている世界を見ることができるようになるのではないかと思う。映画の役者に成りきって観客である自分を忘れ、いろいろな悲劇や喜劇に巻き込まれてしまい、その渦の中でいろいろな体験をする。しかしそれを幻想として見ることができるようになると、ババがおっしゃっているように、“Life is Game, Play it.(人生はゲーム、プレイしなさい。)”というように人生を一つのゲームとして見る境地になるのではないかと思う。やはり“I am I”という金言をいつも自分の中にもって、内側に向いていくということは幻想の社会に巻き込まれずに、幻想社会と知りながらも自分の役割を果たしていくことができるようになるのではないかと思う。」
「『私は私』という答えを目標としないと終着点に着かないと思う。そういう意味で、まず答えがあってその道中を歩んでいるという感覚でいる。」
<サイの学生のコメント>
「どのように思いと言葉と行動が内なる基準と適合しているのかと吟味することが、自己探究ではないかと思う。自分自身のいろいろな行動や感情、振舞いがスワミのおっしゃっている価値に適合するかを評価すること。また、内なる愛に注意を払うこと。ラマナ・マハルシ※2が自己探求に関して教えてくれたのは、そのような意識は努力を必要としない本来の状態だということ。そして、解脱を得るためには自己探求を通して自己に対する本当の知識を得なければならない。それをコンスタントに行い、我々のネガティブな性質を取り去って自分自身の壁を破ることが自己探求だと思う。」
「霊的な意味においても自己探求は至高の創造について理解することを助けてくれる。1993年のウガーディ※3のときのブリンダーヴァン※4での御講話で、スワミは『人間は動物と違って考える能力を与えられている』とおっしゃった。本当に人間として生まれたことを最大限に活用するのであれば、自分自身の存在について考え続けることによってその能力を最大に生かすことができる。成功や失敗が起こると幸せになったり悲しくなったりするが、それはエゴに基づいている。そういったことに捕らわれると人生が目的から離れたものになる。私たちが行っている様々なことも、実は神によって行われているということ。そう考えるとネガティブなことも減じていく。同時に、同じ御講話でスワミは『至高の原理は外側からは理解できない』とおっしゃった。それは自分自身の中で自己探求することによってのみ理解することができる。コンスタントに自己探求を実践することによって至高の原理を理解することができ、自分に恩恵を与えることができる。それについてシャンカラーチャーリヤ※5がストートラ※6を書いた。そのシャンカラーチャーリヤが書いたストートラは『私はこれではない。これではない。あれでもないのだ』というものだった。このストートラを思い出すことがより良い時間に繋がっていくのではないかと思う」
「スワミが他の御講話でもおっしゃっているが、外側に向かう道は悲しみの道。一方、内へ向かう道は不滅への道で、神への道。なぜ内に向かって旅をするのかが重要。スワミが単純におっしゃるのは、それが、神がいらっしゃる方角であるから。私たちすべての最終目的地は、神に到達することなので、その方向に向かって行くことが大事。スワミが1950年にヴェーンカタギリ※7の王様の所に行かれた。そこをスワミが訪れたとき、その集まりの中には神のことを信じていない方もいて、その方にお話をするようにスワミがわざわざ指名した。そのとき指名された人は、神が存在するような根拠について大いに議論をするようなお話を展開した。そのお話が終わったときに、スワミがもう一回群衆の方へ行って、もう一人別な人を指名した。その人にスワミは、『どうしてあなたは今日ここに居るのですか』と聞いた。『スワミ、今日の朝起きたら幸せではなかったのです。どうして幸せではなかったかというと、自分の家族にちょっとした問題があったからです。家に居ても幸せではなかったので、どこか遠くに行きたいと思って家を離れてここに来たのです。そして、あなたの声がこちらから聞こえてきたので、私はこちらへ来ました』。その人は自分の内側からその声が聞こえてきたので、ここへ来ましたと言った。その答えを聞いてスワミは、『私が彼の内側に話しかけたのですよ』とおっしゃった。なぜなら神はいつも人のハートの中にお住まいだから。この出来事を通して、スワミは一人ひとりの内側にスワミがいらっしゃることを宣言された。神の方に向かうためには、外側のどこを巡礼するのでもなく、本当に内側へ行かなければならない。それは、自分が誰であるのかという自己探求によってしか起こらない。この御講話の中で、スワミはアーディ シャンカラーチャーリヤが教えてくださっているシローカ※8についても述べていらっしゃる。『神だけが真実です。そして世界全体は単なる影にすぎません』。このことを真に理解するためには、体験がとても大事になってくる。本当に私が誰であるかという問いを繰り返すことによってのみ、『私は私である』ということの理解に至る。本当に、私とは誰かという問いを繰り返すとき、神は内側にしかおらず、他のどこにもいないことが明らかになっていく。」
「2001年の学生達の卒業式の御講話でも、このトピックについてスワミがお話ししてくださった。現代の人々は外側にあるあらゆる物を征服した。月にまで行って、多くの想像もつかないことを成し遂げた。でも、スワミはそれらの多くの教育には体験が伴っていないとおっしゃっている。体験を伴った知識なしには、私たちは自分自身の本当の性質を知ることができない。体験を伴った知識だけが私たちを本当に内側へ連れて行くことができるということ。そして、スタディーサークルもすべての人を内側へ連れて行くための試みなのだと理解している。また同様にスワミがおっしゃっているのは、私たちは外側にいるものを征服しようとしているが私たち自身の感覚をコントロールすることができないでいるということ。自分の感覚をコントロールすることなしには、他のどんな教育も何の意味もなさない。外側に向かうことはただ悲しみをもたらすだけであり、本当の幸せは、内側へ向かうことによってのみ得ることができる。ラーマーヤナ※9では、例えばハヌマーン※10がシーター※11を探しに行ったときに、本当に外に向かってシーターを探しに行った。でも、そのときハヌマーンは内側では『自分自身は誰なのか』と探求しながらシーターを探しに行った。そのときハヌマーンが内側へ向かって得た最も大事なことは、自分が誰であるのかを知ったことだった。自分自身とのワンネス、全一性というステージに達することができた。ラーマーヤナの中で、そのハヌマーンが到達したステージをグニャーニ、英知を得た人と呼んでいる。実際にそれを体験した人は平静心をもっている。そういう人にとっては、二重性というものはなく、すべてが全一性だけになる。そうすれば、勇気をもつことができ、とても自信があり、完全に平安がある。このラーマーヤナのエピソードが教えてくれること、授けてくれることは、本当に同じことを理解すれば誰でもハヌマーンが到達したようなステージに達することができるということだと思う。」
「もし瞑想の中におらずに、普通の状況にいると自分はこの身体や心や感覚であると捉えがちだと思う。その一方で、しっかり静寂のうちに瞑想すれば、自分の身体や心や感覚のどれも永続しないと理解できると思う。そうしていても心の落ち着きのなさは残っている。いつかそのような落ち着きのなさを完全に取り除けるとしたら、この“Who am I”に対してしっかりと瞑想することができたときにそうなるのではないかと思う。一度か二度だけ体験することができたのは、この“Who am I”とは肉体レベルではなくてアートマ※12レベルのことなのだということ。いろいろなジレンマや状況が、同じ状況に自分がとどまっていることを決して許してくれないが、いつかアートマの状態に留まれることを望んでいる。」
「“I am I”を理解する方法は必ずしも簡単ではない。そのための一番簡単な方法は二重性を捨てることだと思う。この“I am I”には二つのIが含まれているが、一つ目のIは自分のことかもしれないが、二つ目のIは神のこと。私たちはいつも何か完全なるものと一緒にいるように心がけている必要がある。神とまではいかなくても、完全ではない他の人たちともよりしっかりと強くつながっていくことができたとき、“I am I”をより理解することに近づくと思う。私たちは皆、ゴータマ・ブッダ※13の物語を知っている。彼は王子だったので、かつてはいろいろな贅沢を体験した。ゴータマ・ブッダの両親は、彼はいずれサンニャースィン※14になって家を去りたがっているのを知っていたが、彼がそうすることを許さなかった。実際にゴータマ・ブッダが王宮を離れたとき、人々の惨状を眼にして他の人々に心を寄せて一つになったことが彼の後の悟りへとつながっていった。ゴータマ・ブッダが普通の人々との間の二重性を取り除いたことから彼の悟りが始まった。それが、私たちが始めなければならない場所ではないかと思う。」
<ババ様の御言葉>
「外に神を探す代わりに、自分に内在する神を実感認識するよう努めなさい。自分の中で、自分は誰かを探しなさい。肉体意識は脇へ置いておきなさい。自分を体と同一視してはなりません。「私」と「あなた」という問題が起こるのは、自分を体と同一視しているときだけです。「私」と「あなた」が一つに融合すれば、一体性が生じます。しかし、不幸なことに、現代の人々は利己的な「私」を忘れられずにいます。どこを見ても、「私」の原理〔アートマタットワ〕があるのみであり、それはすべてに存在しています。ひとたび、同一のアートマ〔真我〕がすべての人の体に遍満していることを実感認識すれば、「私」と「あなた」の違いは消え去ります。ところが、皆さんは体との偽りの同一視を手放すことができずにいます。生まれたときから自分を体と同一視することに慣れてしまっているのです。」
ババ
2004年3月21日
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ラマナ・マハルシ:南インドの聖者。ラマナ・マハリシ(英語表記)
※3ウガーディ:テルグ正月。テルグ語、カンナダ語圏地方のお正月。ユガの始まり、世界の始まりという意味のサンスクリット語のユガーディYugadi(yugAdi)に由来する。
※4ブリンダーヴァン:ババの別荘と大学があるホワイトフィールドの別称。
※5(アーディ・)シャンカラーチャーリヤ:インドのヴェーダーンタ学派の哲学者。南インドのケララ地方に生れ,ヴェーダを学習したのち各地を遊行し,シュリンゲーリなどに僧院を建てた。伝説によると,彼は多くの奇跡を行なったという。多くの著作を残して北インドで没した。その思想の特徴は,ウパニシャッドの伝統を維持し,宇宙の最高原理であるブラフマンは現実世界にお
いて個々の個我として現れているが,それらは無知によるもので,絶対的存在ではない。実在するのは,唯一不二のブラフマンだけであるとする。大乗仏教の影響を受けているので,ときに「仮面の仏教徒」と呼ばれることがある。主著『ブラフマ・スートラ注解』『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド注解』『バガバッド・ギーター注解』『アートマボーダ (自覚) 』など。
コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典小項目辞典 )より
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A9-76532
※6ストートラ:讃歌。ストートラム。
※7ヴェーンカタギリ:学者のラーマ・シャルマの住んでいた村。
※8シローカ:詩節、心を楽しませる同じ音節をもつ四つの句で組み立てられた詩節。シュローカ。
※9ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※10ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。風の神の子で空が飛べたため、飛んで薬草をとりに行ったり、海の上を飛んでランカを偵察に行ったりと、多大な貢献をした。
※11シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※12アートマ:神我。神性。魂。自己。心霊。内在する神の火花。本当の自分。同一の魂。アートマン。アートマ(テルグ語)
※13ゴータマ・ブッダ:覚、目覚めた者、お釈迦様、ゴータマ、シッダールタ。ヴィシュヌ神第七の化身。
※14サンニャースィン:世捨て人、放棄者、隠遁者、隠者、苦行者、出家、出家行者、托鉢、生涯独身を貫く行者、遊行者、遊行期にあるブラフミン。
開催日:2021年10月21日(木)
テーマ:「プレーマヴァーヒニー第35節「普遍的魂は一つであり唯一である」
参加者:45名
質問:
①奉仕される者、奉仕する者、奉仕の手段との関係とは?
②神を探す帰依者のために、神はどのように姿を顕すか?
③姿なき者への意識は、どのように姿あるものを通して培われるのか?
<参加者のコメント>
「一番今までで良いときは、奉仕される者も奉仕する者も神で、奉仕の手段は愛であると感じたこと。一番悪いときは、奉仕されるのが困った人で奉仕するのが『私』という行為者意識で、奉仕の手段が義務感。その間を行ったり来たりしている感じのとき。」
「奉仕の機会は、スワミ※1から授かっていると考えている。同様に奉仕される者も、その機会を与えられていると思う。奉仕の手段に関しても、自分自身の能力や力量も神から授かったものと考えている。」
「周りの人の話などから、自分の必要としている言葉や、真実の言葉が聞かれたり、もしくは後で心の底から内なる声が聞こえたりする時に真実という形が姿を顕すことがあると思う。」
「周りの人の話などから、その時の自分に必要としている言葉や、真実の言葉が聞かれたり、もしくは後で心の底から内なる声が聞こえたりする時に『真実』という形が姿を顕すことがあると思う。」
「神と帰依者というのは、まだ二元性なので、神は帰依者の想いに応じて姿を顕すと思う。つまり、ラーマ※2の帰依者にはラーマとして、クリシュナ神の帰依者にはクリシュナ神※3として、イエスの帰依者にはイエス、仏陀の帰依者には仏陀として。あるいは光を神だと思っている人には光として、そのように姿を顕すと思う。しかし、名と姿がある状態というのは、これは永遠のものではなく二元性だと思う。神が本当に慈悲深く帰依者の求めに応じて名と姿を持って現れてくれるのだと思う。神は一なる存在でいろいろな姿形をこの世に顕してくださるが、その存在は一なる存在。」
「スワミのことを考えた時、本当は姿のない神だが、私はスワミの姿を通して信仰心が培われたと思う。例えば、プッタパルティ※4で、偶然にスワミと身近に出会って、スワミの目を見た時に神聖な慈愛にあふれた目の輝きに胸を打たれたりした。人間の姿を通した神によって感動などを味わいながら、スワミが肉体を去られた時に姿のない神へと徐々に移動しているところ。」
「本来無想の神であるスワミについて、私はスワミの姿を通して信仰心が培われたと思う。プッタパルティ※4で偶然にも身近にスワミの目を見たことがあるが、その神聖な慈愛にあふれた目の輝きに胸を打たれた。スワミは肉体を去られたが、人の姿をまとった神に感動を味わいながら、姿のない神へと徐々に移動しているところ。」
「例えばセンターで皆さんと一緒にバジャン(神への讃歌)※5を歌っているときは、祭壇の椅子にスワミが座って聞いていらっしゃると思って歌っている。実際にスワミの前でクワイアーに参加したことあり、練習段階では審査がいろいろあって厳しいが、気持ちとしては、センターで歌っていてもパルティでも同じ。しかし、台所でバジャンを口ずさんでいるときは、その時の気持ちとは差があると思う。真剣にそこにスワミがいらっしゃると思って行動するかどうかは、信仰心によって差があると思う。」
<サイの学生のコメント>
「スワミは奉仕に非常に多くの重要性を置かれている。そしてスワミは『奉仕は愛を表現する一つの形態です』とおしゃっている。また、スワミは『私たちの真の性質は愛である』とおっしゃっている。無私の奉仕のプロセスの中で私たちは他者へ愛を表現することができる。他者と自分を分離した個々の存在と認識しなくなる。私たちは他者の幸せを私たちの幸せとして感じることができる。スワミは『無私の奉仕が真に行われ、奉仕する者、奉仕される者、奉仕の手段がすべて無私の奉仕に携わる時、その奉仕が神なるものになる』とおっしゃっている。」
「奉仕される者と奉仕する者の関係は神と帰依者の関係に似ている。奉仕を受ける人が神。ナーラーヤナ セヴァ※6では困窮した人がナーラーヤナ様になっている。またセヴァ(奉仕)に従事することは、私たちのエゴを取り去っていく簡単な方法でもある。もし他者に奉仕する機会を私たちが得たのであれば、この奉仕は神への奉仕だということを認識すべきだ。本当に数秒の間、そのことを考えることにより、奉仕に対する態度を変えることができる。スワミは『実にナーラーヤナ セヴァやグラマ セヴァ(村落への奉仕)に出かけては必要としている人に奉仕をすることは非常に簡単なことです』とおっしゃっている。私たちの心は、困窮している人に同情心を感じるようになっている。同情心により相手の人の中に神を見ることが簡単になる。例えば、スワミがよく『帰依者の皆さんは困窮した人をナーラーヤナ様と呼んで食事を差し出してサイラムと言いますね』と笑いながらおっしゃる。続けて、『ところが皆さんは職場に行ってある人のことを助けないかと言われたなら、どうして私は彼らを助けなければいけないのですか?彼らは自分で何でもできるでしょう? 彼は私のことを傷つけたのですよなどといろいろと言います』。それが日常生活で起きていることで、皆さんが日常で目にしていること。母が家で教えてくれたスワミの御言葉は『奉仕は家庭から始まる』という言葉だった。ご主人は奥さんを助けるべきで、奥さんはご主人を助けるべきで、子供たちは親の手伝いをよくするべき。各々の義務を家でちゃんと果たして、しかる後に外でセヴァができると言っていた。」
「神が現れるための必要条件としては、まず神に対する信仰をもっていなければならない。ではどのように神を探すのだろう?スワミは人生を送る二通りのやり方があるとおっしゃる。一つ目は本当に一瞬一瞬が神の奇跡だと考える生き方。もう一つの捉え方は、すべてのものはただの偶然で何の関連もないと考える生き方。もし、すべての瞬間が神の奇跡で満たされていると考えた場合は、本当に一つひとつの瞬間に神を見始めることになる。このような背景のもとで、プラフラーダ※7に関してスワミが読まれた詩にとても大事なものがある。プラフラーダの父、ヒランニャカシプ※8は、いつもプラフラーダのヴィシュヌ神※9への信仰に対して疑問を投げかけてばかりだった。それに対してプラフラーダは、『神はこの宇宙の一つひとつの原子の中にいます、それを疑ってはなりません』と言っていた。ヒランニャカシプが、『では神はこの柱の中にでもいるというのか』と言えば、プラフラーダは本当に最高の信仰をもって『はい』と答えた。そうするとヴィシュヌ神ご自身がナラシンハ※10の姿を取って現れた。それが、まさにプラフラーダの信仰の賜物。もう一つ本で読んだお話を共有したい。あるとき、プラシャーンティ・ニラヤム※11でスワミが学生にインタビューを与えていた時、学生達がスワミに、『私たちと神との距離というのは、どのくらいの距離ですか?』と学生が尋ねた。スワミがそれに対して答えたのは、『私とあなたの距離は、あなたが考えているかに等しいとおっしゃった。神様はまったく離れている必要もなければ、どれくらい離れていると明らかに決める必要もないと述べられたということ。そしてまた、スワミが自分のハートを触れられて、『神はいつもここにいるのですよ』と学生たちに話された。本当に私たちのすべてに内在していらっしゃるので、あとは私たちが最大の信仰をもって、それを求めれば、本当にいかなる場所にも時の中にも彼を見出すことができる。個人的な神の顕現の体験は、自分以外の誰か他の人に理解されることは難しいかも知れない。でも、そういった状況に関わらず、いつも神が顕現してくださっている小さなサイン、印をずっと探している人にとっては、その小さなサインをもってしても神の顕現をしっかりと捉えることができる。『サッティヤム シヴァム スンダラム』の伝記を読んでいると、本当にいろいろな場面でスワミがご自身の肉体をもって帰依者たちの前に現れた事例がたくさんある。私たちの日常生活の中でも、もしスワミのことを考えていて、スワミのことを本当に探し続けているのであれば、本当に極々小さな出来事だったりするかもしれないが、またそういう小さな出来事は、他の人には理解されないかもしれないが、私たち自身によって、これが神の現れであると考えることができる瞬間が確かにたくさん見つかると思う。」
「この質問を見た時、ある御言葉の引用を思い出した。『すべてを神の手の中に任せている人にとっては、そういう帰依者は、至るところに神の御手を見ることになります』という御言葉。神はどこにでもいらっしゃるので、本当にどこにでも現れる。それはただ、私たちの見方が変わらなければならないだけ。例えば、他の人が少し小さなことを手伝ってくれたときには、自分には神様の現れに見える。他の人にとっては、それは他者からのほんの小さな助けに見えるかもしれない。なので私たちが心を清めて、いかなる瞬間にも神の現れを見るように、心を清めていく必要があるのだろうと思う。ときにそれは難しいことでもある。たとえ、それが難しいことであったとしても、スワミは私たちにそのような見方をして欲しいと思っていらっしゃるはず。なぜなら帰依者にとって最終的な目標というのは、すべてのものの中に神を見ることだから。」
「これまで神はいろいろな姿形を取られ、ユガ(時代)に応じてラーマやクリシュナなどの姿を取ってこられた。その目的は私たちにアートマの意識について教えてくださるためだと思う。様々な宗教があるが、一つひとつの宗教によって神様が違う姿を取られているだけにすぎない。神様がいかなる姿形を取られても、その一つひとつの神様が私たちに深いメッセージを伝えていらっしゃると思う。形のない意識に目覚めるためには、そのために処方されているサーダナ(霊性修行)をしなければならないと思う。それは一人ひとりが確信をもって信頼しているいかなる形態のサーダナであっても構わないと思う。例えば、バジャンが好きな人なら、いつもバジャンをとおして心を神に向けていることによって、姿にとらわれない意識に到達できると思う。しかし、誰もそれがいつかを自分で決めることはできない。ただ処方されたサーダナを誠実に行うことを決意することができる。神の姿は去ったのだということを意識することも、姿形にとらわれない意識を目覚めさせることを助けてくれると思う。」
<ババ様の御言葉>
「霊性の活字(入門書)を修得したサーダカ(求道者)は、象徴や御姿や儀式を必要とします。人は自らを名と姿を持たない神に変容させるまで、名と姿を捨てることはできません。魚は水中生物の性質を捨てて陸上動物に変じない限り水を必要とし、水の上の大気中に出て行くことができないのと同じです。名と姿を持たない神が、しばしば名と姿をまとい、神自らの意志によって課された制限付きで人類の前に降臨するのは、これが理由です。そうすれば、人は神を愛し、尊敬し、礼拝し、話に耳を傾け、手本とすることができるからです。そうすれば、人類の目的が達成できるからです。」
1962年3月4日
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※3クリシュナ神::ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※4プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※5バジャン:神への讃歌。ヒンドゥー教の聖歌、礼拝、神の栄光を歌うこと。
※6ナーラーヤナ セヴァ:人の姿をとった神たちに食事を施す奉仕。
※7プラフラーダ:ヴィシュヌ神をナラシンハ(人獅子)として化身させた偉大な少年。さまざまな拷問にあいながら神への信仰を捨てなかった。
※8ヒランニャカシプ:ヴィシュヌ神を信仰する息子プラフラーダを殺そうとしたところ、人獅子の姿で現れたヴィシュヌ神に滅ぼされた羅刹の王。ヒランニャークシャの双子の兄。
※9ヴィシュヌ神:宇宙を維持し守護する役割を担っている神。
※10ナラシンハ:ヴィシュヌ神の第四の化身。人獅子。
※11プラシャーンティ・ニラヤム:プッタパルティにあるサイ ババの住まいとアシュラムの総称、至高の平安の館の意。
開催日:2021年10月27日(水)
テーマ:「プレーマヴァーヒニー第60節「霊性修行者の収穫」
参加者:49名
<参加者のコメント>
「この世の逆境に対してでなく、喜びに対しても、(楽しみや喜びはものすごい誘惑だが)、それに対して耐え忍んで、そこへ向かわないようにすることが神への道。逆境はもちろんだが、この世のいろいろなマーヤー(幻)に対して耐え忍ぶことがない限り、そこから先へは進まないということだと思う。」
「堅忍に関しては、大きな逆境に耐え忍ぶことが大きくなればなるほど、頼りになるのは神様だけになっていく。やはり信仰というものが一番大きなポイントになると思う。一番頼りになるのは神様ということが忍耐を通して分かる。信仰という大切なものが試されて、神との繋がりが強くなるものだと思う。」
「いつも夜勤明けで、午前中に家に帰ってきて、夕方からサーダナ(霊性修行)をする。その間に一息ついてしまうが、(もちろん体を休める上での一息でもあるが)、何かスワミ※1との関係も一息ついてしまい、何か鈍性が出てくる。鈍性が出てくると、あらぬことを考えたり、色んな衝動に駆られたりする。この前のナヴァラートリー※2の7日目、夕方にヴェーダ※3を唱えようとしたら、何か妙にバジャン※4を歌いたくなり、バジャンを歌ったらすごく良くて、その次の休み明けの日にも、帰ってきてから1曲バジャンでも歌うようにしたところ、夜勤明けでもその日は寝ることなく、霊的なエネルギーを保って、その一日を過ごした。バジャンのエネルギーを改めて感じ、それが丁度、ヴィジャヤ・ダシャミー※5の日だった。ヴィジャヤ・ダシャミーの日に何かを始めると、非常に良いと言われているので、これをずっと続けていこうと思っている。そのように自分の霊性修行を調整していくことで、堅忍の仕方を改善できるのかなと改めて思った。」
「堅忍(fortitude)という言葉が、逆境に対しての忍耐という意味であると先ほど教わった。キリスト教でも、堪えられない困難は与えられないという言葉が確かあったと思う。自分にとって神から与えられたことを、消極的な意味で我慢しようとするなら困難を感じるということになると思う。逆境のような状況を単に我慢して、じっと耐え忍ぶということではなく、これは神が私たちに与えられたテストとか、あるいはこれを乗り越えてみなさいという意味に受け止めることによって霊的な強さが強化され、むしろ積極的にこの状況に対してチャレンジしようと考えることができると思う。なので、むしろチャレンジしていこうというスタンスに切り替えた方が堅忍という自分の心の姿勢を改善することができるのではないかと思う。」
「人間的五大価値という本の中に、忍耐強い求道者は必ず英知を得るということが、スワミの言葉として書いてある。英知はもちろん恩寵によって得られるもので、神の恩寵という武器につながる。それで、忍耐は武器に等しいとおっしゃっていると思う。求道者の皆さんは必ず忍耐している部分があるように思うので、それは英知があるからできることなのかなと思う。」
「いろいろな困難や壁があるが、その時にいつもスワミの御言葉や御教えに触れて、勇気をいただきその壁を乗り越えていくということができている。信仰があれば本当に何でも乗り越えられるという、まさに武器であるということかなと思った。」
<サイの学生のコメント>
「堅忍(fortitude)はBro. Rの冒頭説明のように、いろいろな背景に基づいた意味があると思う。文字通りの意味は、逆境の時にそれに対峙する勇気という意味。自分の人生では、とりわけ霊性修行において、例えば自分の間違いを他の人に対して認めるとか、自分に対して認めるなど、何か間違いをしてしまい、それを受容しなければいけない時に勇気が必要な場面があり、自分のエゴを取り除いて謙虚になる。それを行うときに、私という意識が自分のエゴを守ろうとするから、自分を守るような議論が起こったりする。そのようなケースでは誤解であったり、人間関係をダメにしてしまったりということも起きやすい。間違いを認めることができるかどうかが、霊性の進化を図るベンチマーク(尺度)になってくるのではないかと思う。スワミが『過ちを認めることは素晴らしいこと』とおっしゃるが、ただ過ちを認めた後にはそれを悔いることもしなければならない。そして、『自分の間違いを悔いることがあっても自信を失ってはならない』ともおっしゃっている。『ハードワークをするということよりも霊的な求道者としてより善くなりなさい』とスワミはおっしゃっている。この堅忍とは霊的な求道者の霊的な旅路において非常に大切なもの。」
「苦行は一種の帰依。何か自分が行ったことを後悔すること、それを残念に思うことを表明することも一種の苦行だと思う。間違いがあったのならば、決して将来においては行わないように決意しなければならない。それは私たちにとって難しい時でもあるが、堅忍とは私たちがその難しい時を過ごしていく勇気だと思う。堅忍が霊的に歩んでいくことを助けてくれる。堅忍は私たちがすることが正しいことなのか間違っていることなのかを分からせてくれる。この堅忍をうまく調整できるのであれば、神との関係が非常に強まると思う。堅忍があれば難しい状況の中でも正しい判断ができるようになる。堅忍が非常に固い信仰を持っていろいろなことに対峙することを助けてくれる。神へと近づいていくほど、妨げるいろいろな誘惑に対してこの堅忍が助けてくれると思う。もしこの堅忍をいつもできているのであれば、人生の可能性を真に発見できるのではないかと思う。」
「堅忍とはいろいろな難しい状況に直面するための勇気ということだと思う。そして霊性修行者にとって必要不可欠な要素だと思う。私たちは、霊性修行者としてゴールにたどり着く前には、そういう困難やチャレンジに直面するもの。個人的な、霊的な利益などを得るためにも、どれほど状況が困難であったとしても、やはり困難な状況の中で前向きに直面していかなければならない。どのように、そのような勇気を得るのか?その源(リソース)になるのは、やっぱり帰依者にとってはスワミがいつも見ていてくださっているということだと思う。ある御講話の中で、ある子供が家の外に一人でいて、寂しく思わないのかどうかと誰かが尋ねると、全然そう思わないということだった。なぜなら、家に帰ればいつも両親が居て、少年の面倒をみてくれるからだということだった。これと同じように、いかなる状況にあってもスワミは自分たちのハートの中にいると、そういう意識をもって勇気を得る必要がある。これが、帰依者がもつべき一つの確信であるべきであるとスワミがおっしゃっている。これと同じように、トライー・ブリンダーヴァン※6でサンジェイ・サハニ先生がスピーチをした時のこと。スピーチを締める言葉として、『神を批判したとしても神様は赦してくれますが、帰依者を傷つけるようなことをすると神様はお許しにならない』と先生がおっしゃると、スワミはサンジェイ・サハニ先生にその言葉をもう一回繰り返して話すようにとリクエストされた。これは本当にスワミがこの点を強調されたかったのだと思う。この例をとっても、困難な状況においてもスワミが私たちを常に助けてくださるということを示していらっしゃると思う。どれほど状況がチャレンジングな困難に満ちたものであったとしても、私たちはゴールを目指して、最善を尽くして行くべきだと思う。」
「神様が何か私たちに難しい仕事をくださる時には、それは同時にそれを成し遂げるための強さを同時に与えてくださっていると思うことだと思う。そして、そのことを完全に信じるのであれば、堅忍というものを改善していけると思う。」
「武器というものは、いつも人を殺したり傷つけることに使われる。ではスワミはどうして忍耐を武器に例えられたのか?自分が解釈したのは、この敵とは自分の中の六つの敵をすべて殺すための武器なのではないかと考えた。そして、同時に忍耐を通して他の非常に多くの良い性質を培うことができる。一年半前に忍耐のスタディーサークルをしたときに、シャバリー※7の話をした。シャバリーの物語の中では、ラーマ※8が来るかもしれない道をシャバリーがお花で飾って、道の状況によってラーマの御足が傷つかないようにと花を敷いていたというお話があった。シャバリーが来る日も来る日もずっと道を飾り付けしていたところを、あなたは毎日そうしているけど、ラーマは来るはずがないと嘲るような周囲の人たちがいた。それに対してシャバリーは、嘲られても決して反論せず、怒ったりすることも決してなく、きつく言い返したりすることもなく、常に落ち着いていて、いつもただ自分は来てくださるのを待っていると言っていた。この小さなエピソードが今日までたくさん語られていることが、この忍耐ということがどれほど多くの特質を私たちに与えてくれるのかということを表している。だからこそ、スワミは忍耐は武器と等しいと例えられたのだと思う。」
「この部分を読んだ時に、なぜスワミが忍耐を武器に例えられるのか不思議に思って、その答えを知りたいと思っていた。今話し合いを聞いていて、一つのものの見方がそれと関連するのではないかと思ったことがある。誰かが傷つけたとか怒りを示したときに、私たちはただちに彼らに対して何かの行動をとってそれに対して何か反応しようとしてしまう。時には少しきつく当たりながら忍耐を示すこともあるが、後に時が経てば、長い人生というものによって、怒っている人が正しいのか、それとも私たちが正しいのか、答えがいずれ与えられるようになっている。もし私たちが正しいのであれば、怒っている人に対して、人生というものがその人に教訓を与えるだろう。以前も学んだが、カルマ※9はそれほどすぐに結果が出るとは限らず、行動の結果というものは時を経て実を結ぶことになる。ラーマーヤナ※10の最後の方で、マンドーダリー妃というラーヴァナ※11の妃がラーヴァナの遺体と対面する場面がある。彼女はラーヴァナの遺体に向かって話しかけた。『皆が、ラーマがラーヴァナのことを殺したと言っているが、でも私が理解しているのはラーマではなく、あなた自身の悪い行いがあなたを殺したのですよ』。別の見方をすれば、シーター※12の忍耐がラーヴァナを殺したとも言える。もしシーター以外の他の人が同じ状況にあったら、自殺したかもしれない。なのでシーターの場合には忍耐が非常に強力な武器だったといえる。そして、そのような忍耐が私たちの多くの問題を解決することを助けてくれる。いろいろな人にきつい態度を与えなくてもすむようになる。」
<ババ様の御言葉>
「感覚器官を支配することで生じる力、および、衝動と情動と激情を征服することによって勝ち取った堅忍や平静は、共にダルマにとってブラフマンの砦を登るための貴重な援軍なのです。」
ババ
Sathya Sai Speaks Vol.10 C36
https://sathyasai.jp/discourses/discourses/d_197011Yajna.html
1962年3月4日
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ナヴァラートリー:九夜。ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーに象徴される三つのグナを打ち破り、無知からの解放を願うインドゥー教の祭礼。ダシャラー祭。
※3ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※4バジャン:神への讃歌。ヒンドゥー教の聖歌、礼拝、神の栄光を歌うこと。
※5ヴィジャヤ・ダシャミー:ダシャラー祭の10日目のお祝い。10日目の勝利(ヴィジャヤ)という意味。
※6トライー・ブリンダーヴァン:ブリンダーヴァンのスワミのお住まい。蓮の花の形をしている。1984年4月26日完成。
※7シャバリー:『ラーマーヤナ』の登場人物で、低いカースト出身の貧しい女性。聖者マータンガをグルと仰いでいたが、女性の身であるため弟子になることを許されなかった。そのため、日々グルが通る道のイバラや石を除くことでマータンガに仕えつつ木陰に隠れてその教えを聞いていたところ、マータンガから特別に弟子となる許可を得て、マータンガの死後もラーマが来るまでマータンガの庵に住むよう指示を受けた。そのためシャバリーはラーマがいつ来てもよいよう毎日道を整え、果実を集めてきれいに洗い、ラーマが来ない日はそれをプラサードとして食していた。長い年月が経ち体が不自由な老女となったころ、ついにシーターを探しに行く途中のラーマがやって来て庵を祝福した。するとシャバリーは体力を取り戻し、小川の水と森の果実でラーマをもてなした。ラーマはその果実を喜んで食し、シャバリーが九つの信愛の道をすべて実践したこと、夢においてさえだれかに悪意をもったことがなかったことを褒め称えた。信愛に満ちていた純粋なシャバリーはラーマの御足のもとで自らの体を燃やして灰とし、ラーマはシャバリーの魂を至福で満たした。
※8ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※9カルマ:「行為」(業=ごう)そのものと、「行為の結果」や「カルマの法則」(因果応報)の両方を意味する。善因楽果、悪因悪果を原則とする。
※10ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※11ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王、叫びをもたらすものの意。
※12シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
開催日:2021年10月3日(日)
テーマ:「霊的求道者の4種類の態度」
参加者:40名
質問:
①すべての行動や結果が神のおかげであるという全託と、行動の責任を回避する回避主義とをどう区別して全託に向かえば良いのか?
②行動を実行する前に主の祝福と承認を求めるために、どのようなステップを踏むべきか?
③全託が最善の策であると実感した体験は?どんな気づきが得られたか?
導入スピーチ:
スワミ※1は、カリユガ※2である現代において、神に到達するための最も簡単でシンプルな方法は、ナーマスマラナ(神の御名の憶持)であると宣言されました。それは、帰依をもって主の甘露のような御名を唱えることです。では、帰依とは何であり、帰依者とは誰のことでしょうか?
スワミは、「bhakthi・バクティ」は「bhaj・バジ」という語源に由来しているとおっしゃいます。それは奉仕の精神を意味します。それは愛の主要な原則を示しています。バジという語源には多くの意味がありますが、他の意味は「歌う」、「賛美する」ということです。
では誰が帰依者であるのでしょうか?スワミは兄のシェーシャマ・ラージュ※3に宛てた手紙の中で、真の帰依者とは喜びにも苦しみにも平然としている人のことであると宣言しています。これは、神に完全に全託することによってのみ達成されるものです。ラクシュマナ※4は、主への完全な全託の一例です。ラーマ※5、シーター※6、ラクシュマナが森にいたとき、ラーマはラクシュマナに小屋を建てるように頼みます。ラーマはラクシュマナに、自分の好きな場所に小屋を建てるように言いました。これを聞いたラクシュマナは泣き崩れ、ラーマに「なぜ私にそんな厳しいことを言うのですか?私はあなたに全託しているので、自分では何も選べません」と言いました。(Sri Sathya Sai Speaks, Vol 31 (1998))しかし、どうすればこのような全託の状態を達成できるのでしょうか?バガヴァッドギーター※7では、4つのタイプの帰依者について書かれています。
1. アルタ※8
2. アルタールティ※9
3. ジッグニャース※10
4. グニャーニ※11
です。これらの4つのタイプの帰依者は、祈りにおいて、「なぜ」「何を」「いつ」「誰を中心とした行動なのか」を考えることで分類されます。
4つの帰依者のタイプの分類
1、アルタの帰依者
アルタの帰依者とは、痛みや苦悩があるときにだけ主に祈る人のことです。このタイプの帰依者にとっては、なぜ祈るのかというと、自分が痛みや困難を経験しているからです。何のために祈るのかというと、救済のためです。いつ祈るかというと、困難を経験しているときだけです。そして、行動もまた、自分の幸福だけを中心にしています。
2、アルタールティの帰依者
アルタールティの帰依者とは、物質的な富や名声などの欲望を満たすために主に祈る人のことです。彼らは主と取引をしているようなものです。この欲望を満たされたのなら、このプージャ(供養)やサーダナ(霊性修行)を行うと言います。このタイプの帰依者は、なぜ祈るのかというと、自分の物質的な欲望が満たされることを望んでいるからです。彼らが何のために祈るのかというと、物質的な欲望のためです。いつ祈るのかというと、主に何かを求めているときだけです。そして、その行動もまた、自分の肉体的な幸福だけを中心にしています。上記の2つのタイプの帰依者は、サムサヤートマ、つまり疑いをもっている人と呼ぶことができます。彼らの信仰は、彼らの願いが叶うことに比例して強化されます。もしそれが実現しなければ、彼らは主の力を疑うのです。
3、ジッグニャースの帰依者
ジッグニャースの帰依者は、どちらかというと探検家に近い人々です。主への信仰を持ち、神についてもっと知りたいと思っています。いつも聖なる人たちと共にいて、主をもっと知りたいと思っています。このタイプの帰依者は、なぜ祈るのかというと、もっと知りたいと思うからです。何のために祈るのかというと、神を体験するためです。いつ祈るのかというと、自己を体験しているときです。そして、その行動は、世界の幸福と主を喜ばせることを中心としています。
4、グニャーニのタイプの帰依者
グニャーニのタイプの帰依者は、完全に自己実現している人々です。彼らは至高の自己の知識を持ち、サット チット アーナンダ(絶対実在・純粋意識・至福)の原理を理解しています。このタイプの帰依者は、なぜ、何を、いつ、祈るのかというと、主に完全に全託した状態で至福を経験し、その中に留まりたいと思っているからです。そして、主を喜ばせることを中心に行動します。「ラーマーヤナ※12」には、帰依者のタイプの違いを表した美しいエピソードがあります。さまざまな戦士たちが母なるシータを探しに行くとき、ラーマはハヌマーン※13に指輪を与え、彼がラーマの信頼できる戦士であることを示しました。インド洋のほとりで、ニラ(インドとランカーの間に橋を架けるのに貢献した技術者)、ジャーンバヴァン(熊の戦士)、ハヌマーンが座って会話をしていました。ニラはハヌマーンに尋ねました 。なぜラーマはあなたに指輪を与えたのか、そしてなぜあなたはそれを受け取ったのか? 母なるシーターがどこにいるかもわからなかったのではないだろうか?でも、なぜ指輪を受け取ったのか?ジャンバワンは、ジャターユ※14が話したこととシーターの宝石の痕跡から、シーターが南の方角に連れて行かれたことがわかっていると言います。これが、主が我々のグループに指輪を与え、かつハヌマーンが主が信頼する帰依者であったために、その恩恵を受けた理由かもしれません。一方、ハヌマーンは、もし主が私に指輪を与えてくれたのなら、主が私を選んでくれたのだから、私は成功するだろうし、任務を完了するための力も授けてくれるだろうと言います。ここでニラは、最初の2つのタイプの帰依者、またはサムサヤートマ(疑いをもつ者)に分類されます。ジャンバワンはジッグニャース、つまり主を見つけるために探求し、理性を働かせようとする帰依者に分類されます。ハヌマーンはグニャーニの象徴です。彼は主に完全に主に全託しており、疑いをもっていません。「マハーバーラタ※15」や「バガヴァットギーター※16」の中においてさえも、アルジュナ※17は帰依者としての最初の段階から最後の段階への移行と上昇を表現しています。まず、主に来てください、困難から救ってくださいと祈ります。そして、主に勝利を得て王国を獲得できるように導いて欲しいと祈ります。疑問が生まれたとき、彼は質問を始め、行動と結果の概念を理解しようとします。最終的に、彼は神なるアートマに関する至高の知識を得て、「Karishye vachanam Tava」(あなたの言葉は私にとっての命令なのです)と言って主に完全に全託します。私たちが揺るぎない信仰をもち、スワミの真の帰依者となれるように、スワミに祈りましょう。
<参加者のコメント>
「全託と怠惰と、どちらの状態であるのか迷うことも多いが、全託できた時は必ず至福がある。センターでセヴァ(奉仕)をする時、私は時間がないのでスワミに全託して行うことが多い。すると必ず自分で考えたりするよりも素晴らしい結果に導かれるという経験を幾度もいただいている。体験を通じて、少しずつ身体で分かってきたように思う。まだ全然ダメだが、ちょっとずつセヴァをとおして導かれていると思う。」
「その時々、自分ができることに最善と努力を尽くして、その結果はスワミに委ねるのが全託だと思う。自分の考えを押し通すのではなく、周りの人の意見をよく聴くこと。例えば10人の仲間がいれば全員の意見を聞いて収まったことが良い結果になる。そういった時にスワミの御心と一致したと感じることがよくある。」
「何か行動する前に神様の祝福とか承認を求めることがあまりなく、悪い行いはそれに応じた結果が得られるだろうと思うので避ける。良い行いはまた然り、当然祝福をしてくれると思っている。」
「以前、テレビ番組でヒマラヤに住んでいる少数部族を現地取材した番組を観た。ものすごく厳しい環境の中でチベット族があらゆることを神を中心に行い、生活している。そこの人々が本当に明るく純粋で笑顔が絶えない。そして自分たちは最高に幸せだと話している。それを見て、ここの人々は神への全託の中で生活しているからこんなに幸せなのだ、厳しい環境の中でもこんなに幸せなのだと感じた。常に神が自分の傍にいて、忘れることがない。そういう日々を送れたならば全託した生活になると思った。」
「スワミを知って30年近く経つ。大きな出来事はスワミに決めてもらうことにしている。大きな決断ほど、自分の考えが正しいかどうかわからなくなる。スワミのからの答えは、たいていは夢の中や朝起きた時にやってくることが多い。また家族や周りの人に相談して、誰か一人でも反対意見があれば、私は今はそれをしない方が良いと思って行動に移さないことにしている。」
「コロナ以前、不登校の子供が二人いた。学校が今日で最後かもしれないよ、だから今日くらい行っておいで、と言って、子供を送り出していした。これまでありがちな回避主義で何も考えずいろいろやってきた。センターにも15年も行っていなかった。本当にいろいろと毎日大変だったが、私にとっての全託は、一切の世俗の悩みを忘れてヴェーダ※18を唱えたり、バジャン(神への讃歌)やスタディーサークルに参加したりヴァーヒニ※19を読んだりすることが自分にとっての全託で、そうすることで自分の中のネガティブなものがなくなって、状況が徐々に変わっていくのではないかという気がしている。」
<サイの学生のコメント>
「全託とか回避主義には、それぞれに面白い起源がある。例えばスワミは『人々が少し間違った行いをしてから面倒をみてくださいと祈ることは、人々はそれを全託と呼ぶかもしれませんがそれは違います』とおっしゃっている。インドのバールヴィカス(子供の開花教室)の授業ではまず行動についての判断基準を学び、しかる後に全託を学ぶ。行動のための4項目チェックリストがある。1番目の項目は『自分がやろうとしていることが国の法律に違反しないか。』2番目は『倫理とか社会の共通認識に反しないか。』3番目は『誰かを傷つけたり、調和を乱すことにならないかどうか。』4番目は『自分の両親を喜ばせるかどうか。自分の行動が家族や親戚に影響を及ぼさないだろうか。』これらの項目に照らし合わせ、正しい判断基準で行った後、全託をするといった順番になっている。行動自体のために全託をするのではないということを理解するのが大切。逆に回避主義は、行動する前に何の祈りも必要としていない。回避主義者は自分がどんな行動をしても、その結果についても責任はないという主義であること。行動の結果を負いたくない人は回避主義に陥る。全託と回避主義はそれぞれに関連している。人間の性質として、何か悪いことをしてしまうと反省して、今度は神に全託しますと言って良い方向に向かうことがあるからだ。回避主義が多くの人間の性質となっている。悪い思いを抱くとその人に悪いことが起こったりすることがあるが、それは自分のせいではないと回避したくなる。そのように回避主義は思いの中でも行われる。」
「全託について、スワミと学生のエピソードをお伝えしたい。2007年のアティ・ルッドラ マハーヤグニャ(アティ・ルッドラ大供犠祭)※20の時にスワミが『全託の本当の意味とは何なのか?』と尋ねられ,その答えとして『喜びも悲しみも神からのギフトとして受け取る人が本当に全託した人です』とおっしゃった。スワミ ヴィヴェーカーナンダ※21の例を挙げる。スワミ ヴィヴェーカーナンダがシカゴで神の栄光を語る機会があった。しかし彼にはシカゴ行きの旅費がなかった。それでもどうにかして他の帰依者がお金を工面してくれ、シカゴに着いたが、そこに知人は誰もおらず、宿泊所を見つけることも難しかった。また3日間、何も買うこともできなかった。それでもスワミ ヴィヴェーカーナンダは自分自身の成すべき義務にフォーカスしていた。すると、食事の提供者が現れた。その人が言うには、夢の中にラーマ神が現れ『私の帰依者がお腹を空かせているから食べ物を与えるように』と告げたということだった。スワミ ヴィヴェーカーナンダが状況に全託していたので、恩寵により神の栄光を広げることが出来て、神の祝福も得ることが出来た。全託とはいかなる行動も神が面倒みてくださると信じてそれを行うこと。」
「常に神様との関係によって、相互交流が築かれなければならない。それは『九つの帰依の道』のどれを実践しても良いと思う。そして、然る後にスワミの御教えに従って、思いや行動がそこにあるべきで識別力が鍵だと思う。そしてスワミの原則に従って発展していく。それから私たちの行動に応じて、スワミが幸せであるかを考える。結果にとらわれることなく行動すれば、結果を平静に受け止めることができる。またもう一つのポイントは、『選択』や『決意』に基づいた全託。時にどれほどいろいろ考えを巡らせた後でも、実際にそれを行うべきかどうか分からない場合もある。また、別の状況においては、結果が私たちのコントロールを完全に超えていることもある。この二つのような場合では、全託が最善の策だと思う。どのような選択をするにしても、スワミへの完全な信仰が大事。多くの学生が、自分の進路をスワミに直接伺ったことがあった。そういう質問をすることは完全な全託。スワミがおっしゃるすべてを受け入れる必要がある。また『自分は博士課程に進むべきでしょうか、進まないべきでしょうか?』という質問をしたケースでは、スワミの『博士課程に進みなさい』の指示に従ったが、実際には自分には続けられないと感じたりした学生もあった。同様に、実際にスワミから同意を得た後でも、違う道に変更してしまったケースもあった。そういう場合でも、後になってから学生がスワミを訪ね『自分はやはり博士課程へ行きたいので、祝福してください』と嘆願した。自分たちが決断してスワミに祝福をいただく場合でも、あるいはスワミに最初から全託する場合でも、どちらもスワミは祝福をしてくださる。スワミはどちらにしても、その時点での決意というものを尊重してくださる。」
「神様は全知全能で遍在でいらっしゃるので、どこにいてもうかがいを立てることができる。誰もがそのようにできる。どのような仕事をする前にも、神様に質問することができる。例えば、セヴァの場合なら、それをしないような促しがあれば、それをするなということ。セヴァであれば、その行いをすることによって霊的な活動に従事することになる。その時、どんなセヴァを自分が行うのかはそれほど重要ではないが、実際にセヴァが自分にどんな影響を与えるかということが重要。自分が行っていることが他者の良かれのためになっているのかどうかという尺度。それがイエスであればぜひ行い、そうでないならやらないということ。」
「何かの決断を下す際におけるアナンタプル校※22の先生と仲間の実例を紹介する。5~6枚の紙に、こうすれば良いのではないかと思われる選択肢を紙に書いて折りたたみ、それをスワミに皆でよく祈ってから紙を一枚引いて開く。そしてそれを実行する。まだスワミが肉体を纏われていた頃の学生の世代では、直接うかがうことができたが、自分たちの世代では肉体のスワミがいらっしゃらなかったので、ハートをとおして伺っていた。そのようにして決断をした友人の例がある。彼女は商学部で勉強していたが、その後の進路を迷っていた。将来の方向性に関して、いくつかの候補があったが結果は会計士への進路に導かれた。会計士の免許を取ることはインドではとても難しいが、彼女は仲間の中で最初にその試験に合格することになった。それは仲間達にとっても、とても大きな出来事だった。」
「まさに昨年は全託が最善の策であると学んだ年だった。私自身は仕事のこともコロナのこともいろいろあった。昨年の卒業にあたり会社に応募した際には、日本国内の会社からは良い反応はなかったが、運よく予想しなかった方から誘っていただいた(*彼の博士論文の審査委員の先生方の一人が、彼を気に入り、そのチームで研究員になるように熱心に誘ってくれるようになった)。これまで学生の間に行ってきた研究とはまったく違うことに関わることになったので躊躇はあった。新しいことを自分が上手にできるかわからなかった。ただ、どこからともなくこのチャンスがやってきたので、自分はこのチャンスを活かすべきだと思った。何であれスワミが意図してくださるのであれば、私はそれを受け入れようと思った。そのようにして新しい先生の下で研究員として働いている。先生は非常に親切で良い方で、自分をとても成長させてくださる方に出会えていると思う。神の意志を受け入れるということが霊的に成長していくためにも最善のポリシーで、それが全託を形にしていくことだと思う。人間であるゆえに、心の傾向的にも全託が難しいこともあるが、そのような体験を重ねていくと確信が得られるようになっていくのではないか。」
<ババの御言葉>
「霊性の領域に近道はありません。実際、バクティ〔信愛〕はグニャーナ〔英知〕よりももっと難しいのです。なぜなら、「私」ではなく「貴方」という態度を身につけるには、神として人格化された高次の力に完全に全託しなければならないからです。エゴ〔自我意識、アハンカーラ〕は完全に砕かれなければなりません。「神に気づかれずして、そして、神がそれを引き起こすことなくして、草の葉一枚、風にそよぐことはない」という信心が、心に植え付けられなければなりません。バクティは暇な時にする仕事ではありません。感覚の欲望を消し去り、ハートの汚れをすべて取り除きなさい。そうすれば、ハートは鏡のように神を映し出すでしょう。」
1965年3月26日
ヴィッドワン マハーサバーの御講話より
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2カリユガ:法の力が4分の3失われた闘争の時代
※3シェーシャマ・ラージュ:1911年~1958年。ババの兄でババより15歳年上。
※4ラクシュマナ:ラーマ神の弟
※5ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※6シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※7バガヴァッド ギーター:ギーター:マハーバーラタの戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※8アルタ:財産、富、金銭、利得、追求、欲求、仕事、目的、原因、動機、意味、利用、事物、事件、場合、訴訟
※9アルタールティ:富を手に入れたいという欲「富(アルタ)あるいは霊力を望み、そのために神を礼拝し、恩恵を求めて祈る人々」
※10ジッグニャース:絶えず強く解脱を求める人、絶対者を捜し求める人。
※11グニャーニ:智者、霊性の賢人、悟りを得た魂、霊的英知を知る者。二元意識(ドヴァンドヴァ バーヴァ)から逃れた人、自分が宇宙の基盤である真理と一体であると知った人々
※12ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※13ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。風の神の子で空が飛べたため、飛んで薬草をとりに行ったり、海の上を飛んでランカを偵察に行ったりと、多大な貢献をした。
※14ジャターユ:『ラーマーヤナ』に登場する年老いた禿鷲(はげわし)、ヴィシュヌ神の乗り物である聖鳥ガルダの子といわれる。ラーヴァナがシーターを連れ去ろうとしたとき、衰えた身であるにもかかわらずシーターを守ろうとして戦うが、ラーヴァナに倒された。ラーマはジャターユの頭を膝に載せ、自らの手で死に水を飲ませた。ジャターユはラーマの御名を口にしつつ息を引き取り、ラーマそのなきがら亡骸をとむら弔った。
※15マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※16バガヴァットギーター:インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の詩。マハーバーラタの
戦いの前にマーヤーによって戦う意気を失ったアルジュナにクリシュナが説いた御教え。
※17アルジュナ:『マハーバーラタ』の主人公とも言える英雄。パーンダヴァ兄弟の三男。
※18ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※19ヴァーヒニ(ヴァーヒニ シリーズ):インド発行の月刊誌、サナータナ サーラティ誌にテルグ語と英訳で連載されたサティヤ サイババの著作。
※20アティ・ルッドラ マハーヤグニャ:ルッドラムの詠唱方法には「ルッドラ」、「エーカーダシャ(「11の」という意味)ルッドラ」、「マハー ルッドラ」、そして「アティ ルッドラ」の4つの段階がある。ナマカムを11回とチャマカムを1回唱えると「ルッドラ」になり、「ルッドラ」に11をかけると「エーカーダシャ ルッドラ」になり、「エーカーダシャ ルッドラ」に11をかけると「マハー ルッドラ」となり、「マハー ルッドラ」に11をかけると「アティ ルッドラ」になる。このアティ ルッドラを唱え、催される大規模の供犠のこと。
※21スワミヴィヴェーカーナンダ:インドのヒンドゥー教の出家者、ヨーガ指導者、社会活動家。
※22アナンタプル校:サイ大学の女子大。アナンタプル県の町。アナントプル。
開催日:2021年10月7日(木)
テーマ:「ナヴァラートリーの意義」
参加者:83名
質問:
①ダサラー祭※1のような祝祭を皆で祝う意義とは?
②今回のナヴァラートリー※2をどのような自分自身のテーマ、フォーカスを持って過ごしたいか?
③サイの学生さんからのダサラー祭の体験の共有。
<参加者のコメント>
「『自分の中の悪を滅ぼす』ことが身近なお祭りだと思う。自分の中の執着がいっぱいあって、小さなものを手放すことも難しいと自覚している。例えば食事の後にチョコレートを少し食べる習慣のような小さなことでも手放そうと思うと『いやいや、それは楽しみだし』となる。ダサラー祭の機会に小さなことでも少しずつ手放していけたら
良いと思う。」
「ダサラー祭の9日間、集中して自分の悪い点を考えたり、女神様の恩寵を考えたり、そして母親のことを考えて過ごすのはとても意義があると思う。」
「今回のナヴァラートリーは、仕事とセヴァ(奉仕)と瞑想の3パターンとなりそう。その時間の合間にサットサング※3の皆さんとバジャン(神への讃歌)を歌うのが楽しみだったり、ヴェーダクラスに出るのが楽しみだったりしている。テーマは、自分の中の欠点を無くすために、引き続き、一なるものを突き詰められるように瞑想を深めたいと思っている。」
「イッチャー シャクティ(意志の力)にフォーカスしたい。コロナがずっと長く続いていた影響が大きく、皆がピリピリしている。自分の思考が、どんどん汚されて悪い方向に行ってしまうのではないかと感じる。だから、このダサラー祭をきっかけに、毎日このオンラインのプログラムを活用させていただいて、少しずつ自分の思考を綺麗にするように努力して、意志の力(イッチャー シャクティ)というもの強めていけたらと思っている。」
<サイの学生のコメント>
「あらゆるお祭りを祝う意義はとても多くある。一つ目は例えば、何かの出来事に起因している祝祭。ダサラー祭であれば、ラーマ※4がラーヴァナ※5を倒したという出来事に由来する。それは意義の一つの側面だが、出来事に基づいたもの。二つ目の意義は、単に王様が悪魔を倒しただけではなく、善が悪魔を倒したという意味。すべての人々が内なる邪悪な性質を打ち負かさなければならないゆえに、ダサラー祭は何千年も祝われ続けている。ドゥルガー女神※6が鬼のマヒシャースラを倒した。善良さが内なるエゴやプライドを倒すということを象徴している。9日間、そのことをよく考えて瞑想し、内なる敵に打ち勝つ強さを培わなければならない。でも悲しいことに今日の人々は、ただお祭りのランプを灯すだけで自分の内省をしなくなっている。どんな祝祭でもこういう機会に内側を見て悪い性質にフォーカスし、毎年毎年、さら良くなっていくように努力していくこと。また、これは社会的な意味においてもとても大事な祝祭。社会的には家族が皆一緒に過ごしたり、あるいはお爺さんお婆さんの家に行って共に過ごす。この時期に家族の皆さんがより愛によって結びつきを強め、良い時間を過ごすようになる。それがダサラーの祝祭の幾つかの意義。」
「スワミ※7がいろいろな国々で様々な祝祭が祝われる意義を綺麗に説明してくださったことがある。スワミは『祝祭は主に3種類のことに関して祝われる』とおっしゃっている。一つ目はアヴァター(神の化身)が降臨されたことを祝うこと。例えばディーパーヴァリ※8やクリシュナ・ジャンマーシュタミー(クリシュナ神御降誕祭)、ラーマ・ナヴァミー(ラーマ神御降誕祭)など、実際に化身が降誕され、いろいろな振る舞いをされたことに関係する。二つ目の理由は天文学的(占星学的)な理由によって吉祥であるということ。スワミは『例えばいろいろな惑星が特異的な配置をとった時に、私たちが力強くサーダナ(霊性修行)をするのを助けてくれる』とおっしゃっている。そのような吉祥の日にサーダナをすると何倍もの良い影響があるということ。(*これと関連して、スタディーサークルに先立ってあるサイの学生が教えてくれたことには、一年の真ん中は夏至であり、一日の真ん中は深夜であるとのこと。すると、秋のナヴァラートリーの時期は一日に例えるとブラフマ ムフールタ※9の時間帯に相当しており、集中的な霊性修行に適しているというサナータナダルマ(古来永遠の法)的な見解がもたれているとのこと)。三つ目のポイントはそれらのアヴァターが行ったいろいろな行いについて祝い、黙想すること。これまでのアヴァターたちのいろいろな行いでは、どれも善が悪を倒してきた。スワミはこのようなアヴァターの善い行いを私たち自身の生活に取り入れるようにとおっしゃっている。ダサラー祭を祝うことが社会に良い波動をもたらす。スワミはいつもこのような機会に帰依者にグループ・バジャンやヴェーダの吟唱などのグループ活動を促される。そして各地で帰依者が集って祝祭を祝うと、様々な異なる場所に優れた良い波動が広がる。そしてBro. Bのスピーチで教えてくれたように、ダサラー祭にはイッチャー シャクティの重要性がある。いろいろなアヴァターにまつわる祝祭を祝うことによって、良い行いだけを行う意思の力がもたらされる。このような特別な日に、人々は正しい道を歩むために一人ひとりが誓いを立てる。それが一人ひとりのサーダナを助けていくことになる。」
「ナヴァラートリーは9つの夜という意味で、夜が9回で10日間だが、先ほどの説明のように一日一日違う姿の女神を讃えることになる。その間、女神様とアヴァターに九種類の迷妄を除いて下さいと祈る。そして私たちの人生に肯定的なものを導き入れることを目的にしている。そして一度そういう肯定的なものを呼び込むことが出来れば、愛や幸せを周囲にももたらすことが出来る。また、このお祭りはラーマがラーヴァナを倒した祝祭でもある。ダス(Das)は数字の10という意味で、サラ(sara)は取り去るという意味。ラーヴァナには10の頭があったといわれるので、それらを取り去るという意味が、ダサラー(Dasara)の言葉の意味。今、カリユガ(法の力が4分の3失われた闘争の時代)において、ラーヴァナの10の頭というのは10通りの異なる迷妄を意味している。ラーマはラーヴァナからシーター※10を取り返したが、今の時代では、シーターというのは私たちの内なる意識に対応している。シーターは私たちの内なる意識で、ラーマとラーヴァナの戦いが私たちの内側にある。私たちは内側のラーマがシーターを取り戻せるようにしなければならない。従って、この時期は特に内なる善良さによりフォーカスする時期であると考える。」
「悪い事を除くという意味に加えて、この祝祭には私たちに識別力を与えてくれるという側面がある。この時期には、皆さんでセヴァをしたり、ヴェーダを唱えたり、バジャンを歌ったりひたすら霊性修行をして過ごす。そして、この時期に私たちの時間やエネルギーを良い事に使えば、心がフォーカスを得る。そして、もう一つ大事な事は、この九日間、いろいろな霊性修行に従事して、それをきっかけとして長い間続けて行くことが大事。自分はこの時期に自分の心のフォーカスを定めたいと思っている。霊的な事でも、職業的な事でも、両方においてそうしたいと思っている。そして、この九日間、(金沢のサイの学生たち)皆でヴェーダを九日間、必ず唱えたいと思っている。もし、この九日間のフォーカスをもっと長い間続けていくことが出来れば非常に良いだろうと思う。」
「今年の自分のフォーカスは、心の静寂。例えば、口が静かにしている時でも、心の中では沢山のおしゃべりが行われていると感じる。その事がいろいろなことの効率をとても下げていると思う。そして私たちの内なる思いは、他者に対する見え方にも反映して関係していると思う。この内なるおしゃべりを止めることによって、人々との関係も良くしたい。ダサラーの時の短いエピソードを一つ共有すると、村の外れに住んでいた一人の女性がいた。お子さんたちも、そのお年寄りの女性の面倒をちゃんとみておらず、一人で住んでいらっしゃった。そのような時期に、グラーマ セヴァ(村への奉仕)の時にブラザーたちが彼女の家に行った。その女性はスワミのことが大好きで何時もすごく祈っていた。でも多くの理由から、彼女はプッタパルティ※11にはなかなか行けなかった。それで学生たちがグラーマ セヴァで来てくれると、その女性が大変喜んで、自分がスワミの所に居ることが出来なくても、こうしてスワミが自分の所に来てくれるのだと言って喜んだということ。そのようなやり方で、バガヴァン※12は、一人ひとりのもとに来てくださる神様なりの方法をもっていらっしゃるから、この時期には神様が私たちに教えてくださるいろいろなことを受け取れるようにオープンな心でいよう。」
「このお祭りは良いものが悪いものを倒したという意義を教えてくれている。しかし、昔は大事にされていたいろいろな儀式の本当の意味が薄れてしまっており、祝祭は家族と肯定的な雰囲気や良い感覚を共有する時間になっていると思う。他者の悪いところを矯正しようとして指摘するのではなく、良いところを広めていくことが大事な時期だと思う。自分の体験で言うと、学生時代にダサラー祭の時期にグラーマ セヴァに行った。スワミが与えてくださるので、自分が与えているのではなく、自分は道具に過ぎないということを教えてくれた。グラーマ セヴァをすると、何か良い功徳が積めるなどと言う人は誰もいなかった。ただ私たちの神への愛によってその仕事をしていた。一人ひとりがいろいろな活動に携わって、夜通しで料理をする人もいた。プログラムをコーディネートする方もいれば、プラサーダム※13をすべての方に配るというセヴァをしている方もいた。そこですべての人に共通しているものは神への愛だったと思う。すべての人が神への愛のためにスワミのために行うのだという共通した思いをもっていた。自分にとってこの体験が教えてくれたことは、一人ひとりの違いやユニークさを神への愛のためにすべて乗り越えることができたということ。より良い人間になるため、よい行いを重ねていこうというレッスンの時期だった。もう一つは、生きとし生けるものだけでなく、すべてのものを尊重するということ。
例えば、自分の家庭では両親が仕事のオフィスにあるものや楽器などに対してもプージャー※14を行っていた。今はそういったもをすべて同じように敬うようになっている。それは単なる尊重だけでなく、感謝のため、あるいは車を止めて安全のためにも祀る。そういったことがダサラー祭を祝う上で私が体験してきたこと。」
「(プッタ)パルティでもブリンダーヴァン※15でも自分にとってダサラー祭は、特別なイベントだった。日本に来てからも、ダサラー祭の時期にグラーマ セヴァに参加するためにインドに帰ったこともある。スワミが御言葉で自分が一番引き付けられたものの一つが、“Help Ever Hurt Never(常に助け、決して傷つけない)”だった。この御言葉が、大学に入った時に初めて目に入ってきた御言葉だった。その御言葉のおかげでグラーマ セヴァから受けるインスピレーションがとても大きくなった。私たちだけではなくて、プッタパルティやアナンタプル※16にいるすべての人がこのグラーマ セヴァがとても好き。アナンタプルの女子学生たちは男子学生が配る食事を夜通し作り、パッキングしてくれる。また、小中高の若い学生たちも、食べ物ではないがサリー※17などをパックして配るためにセヴァをしてくれる。本当に一つひとつの仕事にスワミが与えてくださるエネルギーがある。近隣の人々やその環境に住まれている方、何も持っていらっしゃらない方々、そういう方々にも愛を示す時。スワミがおっしゃるのは、あなたが奉仕をしているのではなくて、奉仕はあなた方を様々な形で律してくれているということ。私たちは人を、持っている富ではなく、その人の人間性に基づいて尊敬するべきであるということ。グラーマ セヴァに行くと、皆さんはセヴァをしている学生たちをあたかもスワミのように扱ってくださる。グラーマ セヴァ以外にも多くのイベントもある。私にとってダサラー祭というのは、それを通して自分がとてもスワミに近しくなることができた行事だったと思う。それは奉仕、グラーマ セヴァを通してのみ可能だった。」
<ババの御言葉>
「ナヴァラートリーは三つの期間に分けられます。最初の三日間はドゥルガー女神への礼拝に捧げられます。次の三日間はラクシュミー女神への礼拝、最後の三日間はサラスワティー女神への礼拝に捧げられます。ヒンドゥー教の祝祭にはすべて、神聖な目的があります。不幸なことに、近年の祝祭では、内的な意味は理解されずに、外的な儀式だけが行われています。どんな形態の礼拝においても、心と体が定まっているべきです。そうして初めて、集中することができるのです。」
1992年9月27日
※1ダサラー祭:ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーに象徴される三つのグナを打ち破り、無知からの解放を願うヒンドゥー教の祭礼。ナヴァ ラートリー(九夜)ともいう。アーシュヴィン月の新月に始まる。通常三日ずつ各女神を礼拝する。プッタパルティではヴィジャヤ・ダシャミーまでの1週間ヴェーダ・プルシャ・サプターハ・グニャーナ・ヤグニャ(第1回1961年開催)が行われる。また、この期間、プラシャーンティ・ヴィドワン・マハー・サバが開かれて学者がスピーチを行い、学生と学校のスタッフを中心にグラマ・セヴァが行われる。ダシャラー、ダシャラ、ダセラーほか、さまざまな言語の呼び名がある。
※2ナヴァラートリー:九夜。上記参照。
※3サットサング:善人との親交、神との親交、善い仲間と共に過ごすこと、善い仲間に加わること。
※4ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※5ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※6ドゥルガー(女神):近付き難い女神の意、パールヴァティー女神の別名。
※7スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※8ディーパーヴァリ:ラクシュミー女神を祀りランプが灯される。ディーワリとも呼ぶ。ヒンドゥー教三大祭の一つ。商人階級や庶民のお正月。ヒンドゥー教徒にとって新年とも言える大祭で、毎年10月下旬から11月上旬ごろのカールティカ月(ヒンドゥーの暦の7番目の月)の新月の夜に行われます。別名を「光の祭り」とも呼ばれる。
※9ブラフマ ムフールタ:ブラフマンの刻。日の出から翌日の日の出までを30等分した29番目の刻。だいたい午前3時から6時あるいは5時の間。
※10シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※11プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※12バガヴァン:神や半神の呼称、尊者、尊神、至高神 絶対者。ここではサイ・ババ様のこと。
※13プラサーダム:神がなだめられたときに流れ出る恩寵。帰依者が捧げた供物を神が祝福して帰依者に恩寵として与える場合が多い。プラサード。
※14プージャー:礼拝、礼拝供養、供物を直接神の像に捧げて礼拝する儀式、花や果物その他の食べ物を捧げて神像や肖像画の神を招き寄せ、特定のマントラを唱え特定の身振りをしながら神をこの上ない客人としてもてなし神の機嫌をとる、儀式礼拝、詩を吟唱したり歌を歌いながら一定の時間に行うあらたまった礼拝、供養、崇拝、尊敬、奉献(尊敬をもってもてなすことが原意)、何らかのものを供えて神々に礼拝すること。プージャーは家長の大切な務めとされる。
※15ブリンダーヴァン:ババの別荘と大学があるホワイトフィールドの別称。
※16アナンタプル:サイ大学の女子大のあるアナンタプル県の町。アナントプル。
※17サリー:インドの女性が着用する民族衣装。約5mの1枚布で、体に巻きつけて着用する。
開催日:2021年10⽉10⽇(日)
テーマ:「ダシャラー祭※1で行われる様々な儀式の意義」について
参加者:72名
質問:
①日常においてどのように犠牲の意識を深めることができるか?
②儀式の意義を理解することが役立っている体験は?
③儀式という霊性の方法論をどのように上手に活用したいか?
「『女性たちは家庭のグリハラクシュミー※2です。』とスワミ※3がおっしゃっていたと思う。母親や祖母とか、これまでお世話になった年長の女性たちが美しいのは、喜びをもって家族や周りの人たちの皆を愛することだけに一生懸命生きたからであると思う。母親を幸せにするとか、母親への感謝とか尊敬の念が無い限り、いくらそういうヤグニャとか、そういうお祭りをお祝いしても意味がない。やはり母親を尊敬できて、年長の女性たちを尊敬できて、その女性たちから良い所を学んでいて、実践の先に女性の美しい生き方があると思っている。20年ぐらい前に東京センターでセヴァ(奉仕)をしていたとき、毎日、儀式のようにヤグニャの火は使わなかったが、本当に熱心にアクティブワーカーたちが集まってセヴァを捧げた。さらにスワミの御降誕祭にかけては、皆が大忙しだった。そうしたことで、精神的な強さというものを与えられた気がする。」
「以前、祭壇のセヴァをしていた。作法があって細かく決まっていた。例えば掃除を一つすることでも、常に儀式という感じで丁寧に行う。順番も決まっていてそれに添って行っていく。それらを学んで行うことにより、神様を敬うこと、信仰心などが培われてきた。もし何も決まってなくて、自由に掃除したり、自由に何か飾ったりしていたら、エゴが膨らみ、信仰心は培われず、ただ綺麗にするという行為となっていたと思う。」
「日常は世俗の二元性、マーヤー(まぼろし)の中にどっぷり浸っている。だからラーマ※4、クリシュナ※5、シヴァ※6などのお祭りによって、それらの準備をしたり御言葉を読んだりして、自分は何のために生まれてきたのかという命題を思い出すきっかけになっていると思う。質問②について、定例バジャン会(神への讃歌)※7でヴィブーティ(神聖灰)※8が最後に配られる。あのヴィブーティをいつも自分は漫然と今日はどんな味かなとか思いながら飲んでいた。あるときどなたかがおっしゃったが、これは自分の何十年後かの姿なのだろうと思い、まさに諸行無常というか、小さいことにとらわれても仕方がないと改めて思うきっかけになった。意義を理解するのがとても大
事だと思った。」
「なぜか昔から神様のお祭りや儀式などに惹かれてきた。偶然か必然か現在、お祭り担当(セヴァ)をしている。以前ババが聖水を撒いているビデオをお祭りで使ったとき、ものすごく浄化されて祝福されたような感覚が皆にあった。お祭りという、神々に捧げる儀式は、ものすごく事細かくあると思うが、私も学びながら少しでも日常に根差して行っていけるようにしたい。センター活動のお祭りのときに、毎年続けて、意義を伝えたり学んだりして少しずつでも深まっていけば良いと思っている。」
<サイの学生のコメント>
「行動だけではなく思いも捧げなければならず、それが犠牲。思いの場合にはコントロールできないことがあり、良くない思いや純粋でない思いでも、湧いてきたらそのまま神に捧げることがある。思いは行動に変化しないうちにどんなものであれ神に捧げられると思う。思いの段階では人々にそれほど悪い影響をまだ与えないから。でも行動になってしまうと一つひとつの行動が周りに影響を与えてしまう。従って、どういった行動を捧げられるかチェックリストを作り、実践しなければいけないと思う。霊的な成長には時間がかかるが、いつかはゴールにたどり着くと思う。ゴ―ルにたどり着いたときにカルマ(行為の結果)が自然になくなると思う。自分の言葉や行動をチェックすることによる進歩が犠牲だと思う。神に捧げ進歩することが犠牲。これが自分の中の理解になっている。」
「ヤグニャの炎は、人が捧げる供物の目撃者。捧げものの代わりに様々な繁栄を与えてくれる。日常生活においても私たちは神に捧げ、祝福を祈る必要がある。私たち自身が犠牲を捧げるために、どれぐらいの努力をしているかを自分自身は知っている。スワミによれば自己犠牲はエゴや感覚を犠牲にすることを意味している。もちろんエゴが人生の大きな一部分になっており、エゴを捧げるのがとても大事なことで、神に捧げる準備をしていなければいけないと思う。自己犠牲が愛のエッセンス。同時に動物的な性質、怒りや貪欲などの6つの敵を犠牲として捧げる。それらは有害で私たちが神に到達するのを阻害するため、日常生活において可能な限り犠牲にして、代わりに愛などを培っていきたい。犠牲を捧げた結果、平安を授けていただけると思う。」
「サイの大学のある先輩のエピソードをご紹介したい。マハーシヴァラートリ※9のときにルッドラム(シヴァ神を讃えるマントラ〔真言〕)※10を完全な集中力で11回唱えればシヴァ神が姿を表すという文献の記述があった。それには唱えているときの完全な献身が必要。その先輩の学生は、どうしてもシヴァ神のダルシャン(聖者や神を拝見すること)を得たいと思ったので、そのような完全な集中で、ルッドラムを11回唱えた。そして11回ルッドラムを唱えて、それからほぼ眠りについてしまった。実際にその11回ルッドラムを唱えた後でスワミがシヴァ神としてのダルシャンを与えに来てくださったとのこと(トライー・ブリンダーヴァン※11にスワミが戻って来てくださった通常のダルシャン中、その学生の目にはシヴァ神の姿でのダルシャンが見えていたとのこと)。このようなエピソードは、儀式の意味を理解するとこのような体験につながるということを教えてくれた。」
「儀式はそれぞれにすべて深い意味がある。儀式によって純化するというのは肉体的、精神的にも両方の面がある。そして儀式は私たちの習慣を生みだす。従ってそれが私たちの霊的な方向性を生み出すことになる。誰でもガネーシャ※12を崇める人は皆、良い知識や英知を授かる。多くの帰依者の皆さんがフードマントラ(食前に唱えるマントラ)を唱えているように、私たちはいろいろな儀式に伴って唱えられる、さまざまなマントラを知っている。以前に読んだ日本人の科学者の本で、その内容は、氷の結晶の構造が、それを見ている人の感情がどのようなものかによって形が変っていく、というものであった。その事を知ってとても驚いて、きっとマントラというものも、そういったものの多くを含んでいるのだろうと思うに至った。幾つかの言葉だけで、その氷の結晶の構造が変ってしまうのであれば、一体、マントラというものが、私たちにどれ程多くのことをもたらすのだろうと思った。カリユガ※13においては、儀式というものは、より簡素化すべきであるとスワミはおっしゃっている。国によってそれぞれ様々な儀式があると思うが、完全な信仰が伴うことで効果が得られると思う。そこでは信仰というものが鍵となり、大きな役割を果たすのだと思う。ナヴァ ラートリー(※1ダシャラー祭と同じ意味)の間に行っている特別なサーダナ(霊性修行)が、より良い信仰をもたらしてくださるようにスワミに祈って参りたいと思う。」
「儀式の背後にある精神を理解することによって、その効率性が高まるのではないかと思う。儀式(ritual)の背後にある精神(spirit)を理解することがスピリチュアリテ(spirituality)だとスワミがおっしゃっている。完全な意識をもってそれを行うことだと思う。」
<ババ様の御言葉>
人間の行いは、その人を高めるか、転落を引き起こすかします。ダルマの原則と一致する行いはすべて、ヤグニャ(供犠)という名の尊厳に値します。ヤグニャには、聖典の中で言及されている2つのタイプがあります。それは、外的なヤグニャと内的なヤグニャです。外的なヤグニャの形態はそれほど重要ではありませんし、生産的でもありません。それは、ただ捨てられるため、片付けられるために言及されるのみです。というのも、中の実がなければ殻は何の役に立ちますか? 神の御名と栄光を瞑想しながら神を礼拝することも、内的なヤグニャの一つの形態です。
1977年10月15日
ダシャラー祭の御講話より
※1ダシャラー祭:ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーに象徴される三つのグナを打ち破り、無知からの解放を願うインドゥー教の祭礼。ナヴァ ラートリー(九夜)ともいう。アーシュヴィン月の新月に始まる。通常三日ずつ各女神を礼拝する。プッタパルティではヴィジャヤ・ダシャミーまでの1週間ヴェーダ・プルシャ・サプターハ・グニャーナ・ヤグニャ(第1回1961年開催)が行われる。また、この期間、プラシャーンティ・ヴィドワン・マハー・サバが開かれて学者がスピーチを行い、学生と学校のスタッフを中心にグラマ・セヴァが行われる。ダサラー、ダシャラ、ダセラーほか、さまざまな言語の呼び名がある。
※2グリハラクシュミー:家族の富と平和と繁栄の化身そのもの、家のラクシュミー。グルハラクシュミー。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※4ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※5クリシュナ(神):ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※6シヴァ神:破壊を司る神
※7バジャン:神への讃歌。ヒンドゥー教の聖歌、礼拝、神の栄光を歌うこと。
※8ヴィブーティ:1)力の表れ、偉大な力、栄光 2)聖灰。サイババが物質化する芳しい味と香りのする灰。万物は最後には朽ち果て灰に戻るという事実の象徴。サイ ババが物質化する芳しい味と香りのする灰には、
与えられた者への特別な恵みが含まれているため、口に含んだり身体の悪いところなどに付ける。シヴァ神の象
徴でもある。
※9マハーシヴァラートリ:一年で月が一番細くなるパールグナ月黒分(満月の翌日から始まる新しい一ヶ月の前半)十四日の夜に行われる大シヴァ神祭。
※10ルッドラム :すべてのヴェーダの真髄といわれ、至高の神(シヴァ神)の一切普遍相を描写した非常に神聖なマントラ。ルッドラムはクリシュナ ヤジュル ヴェーダに収録されており、ナマカムとチャマカムという2つのパートからなる。
※11トライー・ブリンダーヴァン:ブリンダーヴァンのスワミのお住まい。蓮の花の形をしている。1984.4.26完成
※12ガネーシャ:ガナ(神群)のイーシャ(主)の意。ヒンドゥー教のシヴァ神の長男である象頭神。日本名は聖天あるいは歓喜天。
※13カリユガ:法の力が4分の3失われた闘争の時代。

開催日:2021年9⽉19⽇(日)
テーマ:Shirdi Sai Sacharitra (抄訳『カリユガ※1を生きる』 P67-70)「神の慈愛と意図を信じる」
参加者:45名
質問:
① 神の行動の背後には深い意味があるが、今回の例に似たケースや体験はあるか?
② 神は誰からも何も必要としていないのであれば、何故神への奉仕が重要であるのか?
③ 当初は困難な状況に戸惑いながら、後に信仰や神への全託によってスムーズな旅路になったことはあるか?
参加者のコメント:
「先日レディースで『カリユガを生きる』でシルディ・サイ※2が例え話をしてくださる箇所の朗読をした。親亀は子亀に食事を給仕することも何の世話もできず、ただ子亀を見つめるだけである。そして子亀はその見つめてくださる母親から十分に愛情を受け取って幸せであるという話だった。ただ見つめられただけでこの子亀は後の人生は本当に充実した愛のある生活がきっとできるのだろう。神の慈悲深さを表現した例え話で、神から愛され至福に満たされるという帰依者を思い起こさせてくれる話と思った。」
「スワミが、誰かの身代わりになって病気を引き受け、目を腫らしていらっしゃったとことがあったが、その病気を自分では治されない。それは『自分で治してしまっては利己的だからだ』とのこと。先ほどの最初の話で『自分が火傷をするのは構わない。でも子供が助かって嬉しい』とあったが、そこには犠牲というか、神であるから感覚というものはないのかなと思った。」
「神様に捧げようとする行為をとおして、自分の中の愛を再確認したり、最上のものを捧げたいという気持ちから努力したいと思った。去年、マスク作りをした時に最初にスワミに捧げようと思って、最初の一枚はスワミのために作った。とても至福で、神様におわたししようと思うと、それだけで幸せに包まれ、そういう行為が本当の至福だということを教えてもらえているような気がする。」
「神様は何も必要とされていない。神様が神様に奉仕するようにというのは、神様のためではなく、それは私たち人間のため、私たちには必要性があるということだと思う。そういう奉仕活動をとおして、そのエゴを取り除いたり、少しでも自我を克服していったり、そういうことが私たちに必要だからこそ、神様は私たちにそれを求めていらっしゃる。私たちも進歩していく中で、神様がアヴァター(神の化身)としてこの世に降臨されている理由は、私たち人間のために奉仕をするためと書かれている。それは愛であると思う。私たちもそれに倣って自分の必要性のためではなく、あらゆる必要性を克服して、愛のみに生きるということを学んでいく必要があるのではないかと思った。」
「人生の中でもっとも苦難な時期が長く続き、ババの許に、センターでバジャン会(神への讃歌)、セヴァ(奉仕)やヴェーダ※3にも参加するようになった。最初は困難で心の平安というものが失われていることが多かったが、セヴァなどをしているうちに心の平安の方が増してきて、自分の中で考え方も変わってきていると思う。ある時に家に帰ると、神様やババの写真が全部倒れており、地震でもないのに写真が倒れているというのは何か良くないことがあるのかな、と考えた。しかし今では、神様が存在を示してくださったのかなと考え方が変わり、安心して良い方向に受け止められるように変わってきたように思う。」
「困難を祈って乗り越えようと決めた場合には、必ず乗り越えられたという経験がある。そういう経験をいくつか繰り返しスワミへの確信も強くなってきたと思う。一番大きな出来事は、ある病気にかかり、医者からずっと薬を飲み続けない限り治らないと言われたこと。薬は対症的に飲むと少し良くなるが、切れるとだめになるというのを繰り返し、だんだん薬が強くなった。そんな辛い人生をこれから歩むのは嫌だと思って、真剣に祈るようになり、祈り続けて1年後に病院で調べてもらったら、まったく何も症状がなくなっていた。奇跡的に1年間でその病気を克服することができた。今考えるとそのことがあったために、食事の改善もでき、自分の中に忍耐力も培えた。その他諸々自信がついたり信仰心が強くなったり、いろいろな良い点があった。苦しかったが、その一年間というのはかけがえがないくらい貴重な一年間だった。だから、苦難というのは乗り越えることで必ずそれは素晴らしい神からの恩寵となるということを体験した」
サイの学生のコメント:
「マハーバーラタ※4から、神の意図を知るのが難しいという話を一つお話ししたい。ある悪魔はどんな敵によっても倒されることはないという恩寵を神からいただいていた。無敵なので、暴力的な振る舞いをするようになった。その頃、パーンダヴァ兄弟※5は森で隠遁していた。悪魔が暴れているので、クリシュナ※6はアルジュナ※7に『シヴァ※8の苦行をして、恩寵として武器をもらいなさい』とアドバイスをした。その武器はシヴァが「世界が終わる時に、世界を破壊するために使う」いわれる武器だった。クリシュナは『彼等との戦いになった時にはその武器はとても役に立つから手に入れなさい』とアルジュナに言った。アルジュナは修行の結果、シヴァ神を喜ばせることができてその武器を授かることができた。アルジュナがその武器を手にすると悪魔を倒すためにインドラ神※9も助けてくれた。そしてアルジュナは最も強力な武器を得たので、悪魔を倒しながら、他の神々が悪魔を倒す際にも手伝った。他の神々を助けたので、さらに神々はアルジュナを祝福して、その武器も祝福してくれた。実際にマハーバーラタの物語では、その武器を使って人間を殺すことはなかった。武器を得るというのが本当の目的だった。その武器を使って悪魔たちを倒したことで、さらに神々から祝福を得た。クリシュナの言ったとおりに武器を得たことは直接的にその武器を使って相手を倒したというよりは、間接的な意味で神の恩寵を得ることによって勝てたということ。実際にこれほど強力な武器をマハーバーラタにおけるクルクシェートラ※10の戦いでアルジュナは使用しなかった。それにもかかわらずマハーバーラタの戦いには勝つことができた。そして強力な武器は悪魔を倒すためだけに使った。このエピソードが示しているのは、私たちは必ずしも神々がいろいろおっしゃることの一つひとつの内的な意味を分かっているわけではないが、神の言うことに従っていかなければいけないということだと思う。」
「一つひとつの神の行いに非常に深い意義がある。2008年のスポーツ祭で、最終予行演習の時にはスワミが来てくださるのを皆がとても楽しみにしていた。車輪の上に立つアクロバット的なスタントの出し物の練習の際にスワミが来られて、ご覧になった。幸運にも私自身がスワミに『練習はどうでしたか?使った道具の出来栄えはどうでしたか?』と直接お尋ねする機会をいただいた。スワミは『大変素晴らしくできているね』とおっしゃったが、同時に『どういうルールで練習しているのですか?』とスワミから逆に質問された。その時にたとえ失敗して落ちても大きな怪我をしないように大きなマットを周囲に敷いていることを答えると、スワミは『マットが敷いてある外側の芝生にもさらにマットを敷くように』と指示された。スワミがおっしゃるとおりに外側の芝生のところにもさらにマットを敷くことにした。その次の日もスワミが練習を見に来てくださった。学生たちはスワミに指示されたように、さらにマットを敷いたことをお伝えすると、スワミは『はい。分かりましたよ』とおっしゃって、マンディール(神殿)の方へ向かわれた。スワミが去られて間もなく、一番高いところに上がっていた学生が高さ10mぐらいのところから落ちてしまった。その学生が落ちた場所はスワミの指示で敷いたマットに体の半分が落ちて、残りの半分は芝生に落ちてしまった。そんなところから落ちたにもかかわらず、その学生はまったく怪我がなく、少しストレッチをしただけで次の日のスタントができるようになった。その時落ちた学生は『もしスワミが指示されたマットがなかったら、かなり深刻な怪我になっていたのではないか』と言っていた。スワミのドバイスは、その意味がなかなか分からないが、後になってから分かる。スワミの言葉には表面上分からないような多くの内的な深い重要な意味がある。」
「神様が神の御名のもとに奉仕をするようにおっしゃるのは、私たちの悪い性質を除くため。心を綺麗にしたり、悪い性質を捨てるだけでなく、いつも奉仕をとおして神と共にいることの喜びを感じさせてくれる。彼への奉仕をすることに対して満足を感じ、神の遍在、全能を理解しているのなら、スワミに関わるより多くのことをするようにとさらに私たちを励ましてくれる。例えば、どんな食べ物を食べる時にも最初に私たちは神様に捧げる。そして神に捧げたどんな物でも、それはプラサーダム※11になる。もし、これは神からのプラサーダムなのだと思ったならば、そのように食べ物や物に対する私たちの見方も大きく変わる。そのように、神というものはすべてのものの中に有るのだということを理解することができる。同時に、神への奉仕は神に対する私たちの感謝を表す方法でもある。神様が無私でいろいろなことをしてくださるのは、私たちがどのように互いに助け合うべきなのかを教えてくださっている。私たちが神への奉仕に関わる時には私たちの心が揺らいでいるべきではなくて、一点集中の下にあるべきだ。それが喜びを得るためにとても不可欠な点だと思う。どんな奉仕であれ、神様が私たちに求める奉仕は私たちのために良いことのみ。」
「よく人への奉仕は神への奉仕と言われるが、逆に、神への奉仕は人への奉仕という言葉はない。献身をもって神に奉仕することが私たちをより良くしてくれる。それが私たちの人生における規律であるべきだと思う。」
「この質問はドラウパディー※12の出来事を想起させる。サリーを引っ張り取られそうになり、多数の男性陣の前で屈辱を受けそうになる出来事だった。スワミが、『皆さんはこの話を聞いたことがあると思いますが、皆さんの中の何人がこの出来事の重さがどれほどのものだったかを理解できるでしょうか?』とおっしゃった。当時、もしこういうことが起ころうものなら、当事者は怒りに襲われて、すべてを破壊しかねない状況だったと思うが、『その重みを理解していますか?』ということだった。実際にスワミが述べられたとおりに、ドラウパディーには最初に怒りが訪れ、まずその場にいた年長者に助けを求め、その後で自分の夫たちに助けを求め、自分でも強い言葉を発して、何とか状況を冷めさせようとした。そしてそのことが実際に起こるまでに、ドラウパディーは実際に剣を手にしようとして、自分に屈辱を与えるものがいたなら、本当に剣で殺すことができるようにとまで考えた。これが実際に神に祈ることをする前に、ドラウパディーが探索したすべての可能性だった。ドラウパディーも神様を罵ることから始めた。『神様、あなたは一体誰なのですか?この状態であなたが私を助けてくださらなかったら、あなたは神様なのでしょうか』そしてまさにサリーが取り去られようとした時に、最後にドラウパディーは神に全託し、その時になって初めて、クリシュナとつながることができて、その後どのようにクリシュナがドラウパディーを助けてくれたのかは皆さんがご存じのとおりだ。このことから私たちが学べる大事なレッスンは、あらゆる可能性を試した後になっても最後に残る最善の策というのは信仰と全託であるということ。それらの出来事を振り返って、ドラウパディーがすべての人々に教えてくれているのは、ドラウパディーが最初にそうしたように、『私のように最初にすべての方法を試みないでください、強い言葉を使ったり、神を罵ったり、そういうことをしないで直接最初から信仰と全託で神を頼るようにしてください』ということ。最初から信仰と全託に頼ることは簡単なことではなくて、自分自身もそうすることが難しいと思う状況に以前直面したこともある。こんな状況でどうしたら良いのだろうか?どうやってこの状況から抜け出せるだろうか?ということを考えながら、ずっとマインドが忙しくなるような状況に陥ってしまった。その時自分を助けてくれたのはやはりドラウパディーと同じ、信仰と全託だった。心には心配や緊張が最初にやってくるので、それに時間をとられてしまうが、できることならそのような時間を一切使わずに、信仰や全託を示すことができると良いと思う」
ババ様の御言葉
クリシュナと呼ばれる愛の権化を瞑想し、愛の中で成長なさい。あなたのハートが、苦悩の叫び、苦痛の痙攣、空腹のうめき声に動かされない時、あなたの愛の泉が慢心による虚飾で塞がれている時、クリシュナはあなたの耳に横笛を奏でません。あなたはクリシュナ神への奉仕のベテランかもしれません。けれども、愛の鍵がなければ、クリシュナ神の住むゴーローカに入ることはできません!
1971年8月13日
※1カリユガ:法の力が4分の3失われた闘争の時代
※2シルディ・サイ:1838年9月27日に降臨した神の化身。1918年(大正7年)のヴィジャヤダシャミーの日(10月15日)午後2時30分に肉体を離れ
※3ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※4マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※5パーンダヴァ(兄弟):「パーンドゥの息子たち」の意。『マハーバーラタ』に出てくるパーンドゥ王の五人の息子、ユディシュティラ(ダルマジャ)、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァのご兄弟の総称。ダルマジャとビーマとアルジュナはクンティ妃の息子で、ナクラとサハデーヴァはマードリー妃の息子。
※6クリシュナ(神):ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※7アルジュナ :『マハーバーラタ』の主人公とも言える英雄。パーンダヴァ兄弟の三男。
※8シヴァ(神):破壊を司る神。
※9インドラ神:武勇神、軍神、帝釈天。
※10 クルクシェートラ:マハーバーラタの戦場、ここで18日間戦いが繰り広げられた。クル族の土地の意。
※11 プラサーダム:神がなだめられたときに流れ出る恩寵。帰依者が捧げた供物を神が祝福して帰依者に恩寵として与える場合が多い。
※12 ドラウパディー:夫の前で辱めを受けてクリシュナ神に救済を求め救われたパーンダヴァ兄弟の共通の妻。
開催日:2021年9⽉22⽇(水)
テーマ:Shirdi Sai Sacharitra 9章「全能、遍在の神が与える教訓」
参加者:46名
質問:
① 神が私たちの望みを否定されるのを経験したこと、聞いたことはあるか?どのような学びが含まれているのだろうか?
② ババは『人々が信じるので、私は彼らを受け入れるのだ』とおっしゃるが、皆さんの体験では信仰と体験はどちらが先だったか?
③ どのようにして、すべてのものの中に神を見ることができるのだろうか?
参加者のコメント:
「長年叶わない望みがある。その望みは、神様と一つになる目的にとって不要なことなのだろうと思う。叶わないことからも学ばなければならない。」
「神様は私たちにとって最も必要なことを与えてくださっていると思う。だから良きこととして全託する必要がある。しかし人間なので、感情があって、なぜなのだろうと思うことも当然ある。でもそのとき否定的な思いであっても、後々『それがあったからこそ、今があるのか。やはり導きだった』と思った経験は誰しもしていると思う。神様から与えられるものは、すべてにとって良いことなのだと信じることが大切だと思う。」
「スワミ※1と出会った当初、さまざまな体験をいただき、信仰心が芽生えた。抱えていた悩みが解消されたり、望みが実現したりして、段々スワミの素晴らしさが分かった。そして信仰心を持つようになって変わったことは、そのとき来たものをありのままに受け止められるようになってくればくるほど、この世的な願いは段々としなくなってくる。」
「やはり体験を通して、ステップを一つずつ上がっていき、信仰が深まって、また次の体験があり、そしてまた信仰が深まる。私の場合はそういう繰り返しできている感じがする。ここ1か月ぐらい私の日常では勤務先でのゴタゴタや、緊急事態宣言下の影響で職場の雰囲気が悪くなっていた。私自身もその状況をプラスに考えられず、ものすごく否定的になっていた。そんな中でもスタディーサークルや、霊性のことに関わっていたが、メンタル面は安定させられず、信仰心も何かぶれているようなところがあった。そういう状況だったがここ数日、シルディ サイ※2のスタディーサークルがあり、シルディ サイ生誕祭の準備においても、かなり集中してシルディ ババに祈っていた。すると今朝になって変化を感じた。すべての人への感謝が湧き上がるようになった。そしてどんなことに対しても『ありがとう』という実践を始めると愛を強く感じられるようになった。仕事で話す人や触れる人たちに、いつもだったら『ムッ』とするようなことにも、昨日までと全然違う感情が、愛の感情が、もて始めてものすごく幸せな気持ちになった。本当にサットサング(善人との親交)に感謝をしている。」
「センターでの御言葉おみくじを準備するセヴァ(奉仕活動)がとても好き。御言葉集を選んでいる時に、その時の自分にぴったりの言葉が必ずあって、それを書くようにする。それはスワミから自分へのメッセージだと思うし、書いている時間にスワミのダルシャン(聖者や神を拝見すること)を受けているような感覚がする。周りの音などもすべて忘れて書き、スワミと御言葉に集中して内側に入れば入るほど、すべての出来事は神の御業なのだと思えるし、外側にも神を見られるような気がする。」
サイの学生のコメント:
「自分の人生の中でも『これは神様に否定されたのかな』と思ったことがたくさんあって、時を経てみると、その方が良かったと分ることがある。帰依者の体験談や文献でも同じで、スワミに否定されたように思えることが、幸せのために必要だったという話がたくさんあった。私の場合、ブリンダーヴァン※3で学部の3年生だった頃のエピソードがある。今後の進路について『修士課程2年、博士課程4年へと進み勉強を続けるよりも、MBA(経営学)に行って早く学業を終わらせたい』と思っていた。なぜならインドでは理系の学部で3年ほど勉強した後、大学院ではMBAを2年学んで、その後直接良い仕事に就くのが最近のトレンドになっていて、つまり自分も同じようにやりたかったから。SNSで他の人がどうしているか見聞きしてわかっていた。ところがスワミの大学では理系学部を卒業すると大学院でもそのまま理系を続けることが多い。ブリンダーヴァンの学生が卒業するときには両親とキャンパス長の先生や寮長の先生との面談が行われる。いよいよ私にもその時がきた。先生は私にこのまま理学の修士課程を続けた方が良いと勧めてくださったが、私はMBAへの進路希望を伝えた。その後、両親をはじめ先生方々から度々、説得されたが私の考えが変わることはなかった。その時、父親と先生との間では、何であれスワミが意図されるように必ず導かれると思うから、状況を見守ろうという結論に至っていたことを私には知る由もなかった。そして周囲の反対押し切るかたちでMBAの入学試験を受け筆記試験に合格。そして面接が最後にあった。その時の面接官サンジェイ サハニ先生は『あなたが来るのを待っていましたよ。一体どうしてMBAをやりたいんだい?』と私に訊いた。そしてサンジェイ先生がはっきりと『あなたはMBAに行ってはいけない。リストから削除するから理学の修士をやりなさい』とおっしゃった。その時、自分から説明する機会はまったく与えられず、『後で話すから』と言われただけだった。それで私は理学の修士に進むことになった。私は非常に怒っていた。しかし、後に日本に来ることになった時に、サンジェイ先生は『ほら見なさい。これはスワミがあなたのために計画されたことだよ』と言われた。起こったことはすべて神の手にあって自分の良きことのためだったと理解しつつある。何が神の意図であるかは誰にも分からないものだと。時と経験をとおして初めて自分で知ることになる。そのような気づきはとても美しいことで、それをとおして神への愛を発達させていくことができるのではないかと思う。」
「神から何かを否定されても、しっかりとした信頼があれば受け入れられるだろう。それが、何が起こっても全ては私たちにとって良いことだと信じる。それが大事だと思う。神様は私たちの日常全てをご存じで、面倒を見てくださっている。一方で神様が私たちの願いを否定するのも私たちの幸福のためである。」
「最初に神への信仰、然る後に神を体験できる。スワミが帰依者たちにたくさんの体験を通して、神の御教えを与えてくださっている。神の奇跡を目撃しなければ信仰心が芽生えない人もいれば、一方では信仰によってのみ神を求める帰依者もいる。霊性修行をしてスワミへと向かう道程には、ときに多くの疑問を抱くかもしれない。しかしそれらも神から与えられたものという信念を持っている必要がある。最も大切なポイントは、まず神に対して信仰をもつということなのだと思う。」
「まず神の遍在を体験するためには神の御教えを理解している必要があると思う。そして信仰を得るということは、時にものすごく時間がかかる。それは私がそうだった。私の場合はバールヴィカス(子供の開花教室)の頃からずっとスワミの物語をたくさん聴いて育ったが、それでもなお、他の人々の話も聞いてみたくなったり、スワミは本当に神なのだろうかと思ったりしたこともあった。でも、スワミが神なのか疑問を投げかける度に、スワミがその都度とても忍耐強く答えてくださったように思う。そして自分がもっている幾ばくかの信仰がどれ程のものであったとしても、それは今、とても強いものになっている。なぜなら、スワミは神ではないと実証することなどはできなかったから。ミーラー・バーイー※4のような帰依者でさえも、神の遍在を体験したのは非常に多くの努力をした後だった。神への信仰を確立した帰依者を、決して神は放って置くようなことはない。神の偏在性の悟りへと至る道のりにおいては、スワミへの問いかけと、その答えを受けとることが最善の方法だ。それにより神への信仰を強めていくことになると思う。」
「すべてのものの中に神を見ることは、インドの伝統である。非常に多くのお祭りがあり、そのなかではいろいろな動物を崇める。そのようなお祭りの一つは収穫祭。農場のお世話をしている方が祝祭の時に牛を連れてこられ、収穫祭の時に雄牛に花輪をかけて農作業の時に牛がやってくれる多くのハードワークを讃える。また、他のコミュニティでは、犬を使ってお祝いをするところもある。インドでは私たちの祖先がカラスの姿で私たちのもとを訪れると考えられている。特に祖先を祀るような記念祭の時は、カラスに食物を与えたりする。私たちが使う楽器を祀ることもある。ダシャラー祭※5行われているお祭りには、もともとは武器を祀るお祭りだったものもあるが、今では私たちが使っているすべての道具を祀り、それらに感謝する祭りとなっている。例えば大学であれば本やコンピュータ、建設業なら大工の道具を祀ったりする。しかし不幸なことに現代化の影響によって、そういった伝統がすべて失われつつある。こういう祝祭は、私たちが用いているすべてのものへの感謝を教えてくれていると思う。それらのものを間接的に神からの贈り物と見なし、それ自体を神と見なすということ。私たちはそういったことを覚えておき、実践していくことができると思う。」
ババ様の御言葉
クリシュナ※6とアルジュナ※7が共に立つところには、必ず勝利があるでしょう。「ダヌルダラ」とは、「弓を握っている人」のことです。その真の意味は、「信仰をしっかり握って手離さない」ということです。「アルジュナ」〔白、朝もやの色〕とは、「純粋なハートを持つ人」のことです。神があなたと共にいるならば、成功は必ずついてきます。ですから、信仰をあなたの呼吸だと考えなさい。あなた方全員が、人生において成功を勝ち取りますように。
ババ
1982年8月23日のご講話より
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2シルディ サイ:1838年9月27日に降臨した神の化身。1918年(大正7年)のヴィジャヤ・ダシャミーの日(10月15日)午後2時30分に肉体を離れた。シラディ サーイ、サーイー(バジャンの音写)。
※3ブリンダーヴァン:ババの別荘と大学があるホワイトフィールドの別称
※4ミーラー・バーイー:ミーラ・バーイ ミラ・バイ1547-1614あるいは1498-1563 メワール王国の都チットール(ウダイプルに遷都される前の都)のマハーラナ(藩主)の妃で、クリシュナ神の偉大な帰依者。王家を出てからは吟遊詩人となり神への歌を歌って徘徊した。
※5ダシャラー祭:ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーに象徴される三つのグナを打ち破り、無知からの解放を願うインドゥー教の祭礼。ナヴァ ラートリー(九夜)ともいう。アーシュヴィン月の新月に始まる。通常三日ずつ各女神を礼拝する。プッタパルティではヴィジャヤ・ダシャミーまでの1週間ヴェーダ・プルシャ・サプターハ・グニャーナ・ヤグニャ(第1回1961年開催)が行われる。また、この期間、プラシャーンティ・ヴィドワン・マハー・サバが開かれて学者がスピーチを行い、学生と学校のスタッフを中心にグラマ・セヴァが行われる。ダサラー、ダシャラ、ダセラーほか、さまざまな言語の呼び名がある。
※6クリシュナ:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※7アルジュナ:『マハーバーラタ』の主人公とも言える英雄。パーンダヴァ兄弟の三男。
開催日:2021年9⽉29⽇(水)
テーマ:Shirdi Sai Sacharitra 3章(抄訳「カリユガ※1を生きる」P25-27)「私たちの様々な役割」
参加者:42名
質問:
① 自分が与えられている役割と神のご意志との関係をどのように感じたり理解しているか?
② 神の物語に接するとき、どのような態度で聴くべきか?
③ 神の物語を読んだり聴いたりすることは私たちの霊的向上にどのように役立っているか?などについて話し合いました。
参加者のコメント:
「自分が与えられている役割がどんな役割かまだ少し分からないが、スワミ※2はきっと私たちにすごく大きな役割を与えているという感じがする。」
「私は子育てという役割をババ様からいただいた。一年ぐらい前からセンターに復帰した。子供はやはりババ様の教えを聞いて育たないと幸せになれない方向に行ってしまうような気がした。今の世の中の風潮だと教育も利己的になっているという御言葉もあるので、少しでもババ様の御教えを取り入れていかないと心の幸せが得られないのではないかと思っている。普通の流れと逆向きに行かなければならないので大変だが、ババ様から与えられた仕事と関わってくると思う。」
「②の質問に関して、ただ物語を追ったり、登場人物の心理を追うというのも違う。そのストーリーの中で神が私たちに何を導かれているのか、何を教えられているのか、ストーリーの中に隠された意図がきっとあると思う。それが何なのか探求心を持って聞くということが大切だと思う。ガネーシャ※3がネズミに乗っているという形だけを見ると何かなと思われるが、それはあっちこっちに向いてしまう心(マインド)をガネーシャが抑えている、というように、表面的になぞるのでなく、探求するという姿勢で接するということが大事だと思った。」
「頭でいろいろと考える論理的解釈よりも自分のハートに響かせる姿勢で聴いている。」
「神の物語を読んでいる時、私たちは至福に浸れる感覚がある。肉体や個我意識が自然に消滅していくと『サッチャリトラ』に書かれている。先ほど、『バガヴァタ・バヒニ』でパリークシット王※4が7日間しか残っていないときに何をしたら良いのかを尋ねた際にシュカ仙※5から『神の物語を聴きなさい』と言われたお話があったが、肉体意識が消滅していく力があると思う。だからこそ死ぬ前に神の物語を聴くことが一番効果的なのかなと思った。」
「ちょうどこの春に、大阪サイレディースで『カリユガを生きる』を朗読した。どんどん読み進めていくと、シーンが頭の中に自然に浮かんできて、とても臨場感があり、物語の中にどんどん引き込まれていくという大権が参加者に同時に起きていた。物語の出来事が常にリアルに感じられ、シルディ サイ※6と様々な神様のお話、その慈愛がとても自分の中でリアルに生み出された。そのおかげか日常で何かが起こると、神からの愛を発見しやすくなった。今も朗読会を続けているが、毎回素晴らしく、神の存在がとても明確になって、信仰も確かなものになっていくということを体験した。」
サイの学生のコメント:
「神様は私たちにより良い人間になって、正義にかなった生き方をしてほしいと思っている。私も善良で肯定的な役割を果たしたいと感じている。果たす役割においては多くの困難があるが、ちゃんと神様の導きがそこに必ずある。一度神様の意図を理解できるならば、しっかりやり遂げることができるのではないかと思う。神様がやり遂げる力を与えてくださる時にだけ可能になる。私たちは神様の導きを求めることにおいて、十分に粘り強くなくてはいけない。神様の導きを求めるためのプロセスが一番大事。そして神に与えられた役割を果たすことや粘り強く待つことによって、強さが与えられて霊的にも成長する。いかなる仕事を果たしていても、すべての役割がまさに神から与えられたものであると理解している。役割が与えられることは、私たちをカルマヨーギ※7として形作ってくださっているということ。」
「役割について理解するには、神に全託が必要。私たちが自信をもっていない時には、神様は決して役割を与えない。スワミが語ってくださった美しいお話がある。『ラーマーヤナ※8』の中でシーター※9を探しに行かせる時、ラーマ※10はハヌマーン※11を選んで行かせた。沢山の戦士たちはランカー※12に向かったハヌマーンの後をついていった。ハヌマーンがシーターを見つけてラーマのところに帰ってきた時、ハヌマーンは『あなたの恩寵によってシーターを見つけることができたのです』と言った。ラーマは『あなたは本当に海を渡ってこうして帰って来たのに、どのように私が助けたのでしょうか?』と聞いた。ハヌマーンは『ラーマ様が自分に最初に指輪を与えて祝福してくださった時に、自分はシーターを見つけて帰ってくるという祝福をいただいたのだと信じました。同時にランカーへ飛んでいく強さを与えてくださったのです。』と答えた。『分かった。その指輪の力で飛ぶことができたとして、どうやって帰ってきたのですか?』とラーマは聞いた。『帰る時にはシーターが宝石を与えて祝福してくれたので返ることができました。ラーマの恩寵があって行くことができて、シーターの恩寵があって帰って来ることができた。あなた方の祝福なしには何もすることができなかった』とハヌマーンは言った。このように神様の恩寵によって与えられるのだと理解すれば、人生においての役割をしっかり理解できるのだと思う。こういう姿勢をもっていればすべてのことが明らかになる。『サッチャリトラ』を読んでいて、ある帰依者に他の町へヴィブーティ(聖灰)を直ちに持っていくようにシルディ ババが命じられたお話があった。そこでは、ある女性が痛みに苦しんでいたので、直ちにヴィブーティを持っていくようにいうことだった。帰依者はババがおっしゃるので直ちに行かなければいけないと思ったが、そこに行こうにも適切な交通手段がまったくなかった。でも、その村の駅に行った時に電車のパスカードを持ってきてくださった方はシルディ ババご自身だった。バガヴァンのときもそうだが、帰依者にいろいろな仕事をくださると同時に、十分な力も与えてくださる。」
「スワミはどんな仕事であれ私たちに割り振られている仕事は、その仕事を通して私たちがより良い人間になるための機会を得るためにそうするのだとおっしゃっている。それに関して小さな体験をご紹介する。日本に来たばかりの時は、ルッドラム※13をちゃんと習ったことが一度もなく、唱え方をちゃんと分かっていなかった。当時、金沢のヴェーダ※14担当はBro. Rが帰省のため1~2か月インドに戻ったとき、その時残っていたサイの学生が自分ぐらいだったので、その間ヴェーダを教えるように依頼された。頼まれてから7日ぐらいでそれを唱えられるか分からなかったが、スワミがルッドラムを学ぶという十分な強さをその際に与えてくださったと思う。どんな仕事を行うにも、新しいことを学ぶ機会を与えてもらっているのだと思って、そうしている。決して勇気を失うことなく、新たな活動に取り組むことを忘れないようにやっていくことが大事だと思う。例えばスワミのお話とか、神のお話を聴く時、『サッチャリトラ』でも『サティヤム シヴァム スンダラム(真・善・美)』でも、色々な奇跡の物語が出てくる。サイ大学に入ったばかりの頃はまだスワミが神だということを信じていなかったので、アウェアネス・クラスで、『サティヤム シヴァム スンダラム』の第1巻に書いてある色々な奇跡の話を読んだとしても、すぐにはそれを消化することができていなかった。それはシルディ サイの『サッチャリットラ』を読んだ時もそうだった。その時はこれを書いた人が、何であれもっとたくさんの帰依者を増やそうと思って、こういうのを書いているのだろうという位に思って読んでいた。しかし、一度自分の人生において、スワミの御手の力を目の当たりにするようになってくると、世の中には偶然はなく、本当にすべてのものは奇跡というべきものだと考え始めるようになった。スワミの肉体があった時でさえ、それを完全に信じるようになるまで3年~4年かかった。でも一度スワミのことを信じるようになってしまうと、その後は何を読んでも一つひとつのことがすべて自分のサーダナ(霊性修行)を奨励してくれるように感じられるようになってきた。それから完全にスワミのことを信じるようになってから、同じ所をもう一回振り返って読んでみると、今度はまったく違う見方で、それを読むことができるようになっていると気付いた。それから今思うことは、その奇跡を理解しようとするのではなく、それを吸収しようとすべきだと思っている。スワミの御言葉にもあるが、本に書いてあることを理解しようとするのではなく、本に書いてあることを体験して、そこから自分が何を感じるのかということを得ていくことだと思っている。それが神について書かれている本を読むための最善の態度なのではないか。そのような読み方をすれば、自ずと信仰というものが育っていくのではないかと思う。」
「神様の物語は2タイプあり、『ラーマカター ラサ ヴァーヒニー(ラーマ物語)』のように神様の物語だけが書かれている本を通しては、どのようにして神様が理想の人間として生きたのかということを学んでいくことができる。一方で、帰依者の物語が書かれている本もとても興味深いものであり、帰依者がどのように変容して、優れた人間へと変容を遂げていくのかということを見ることができる。こういった神の物語を読むことによって感覚をコントロールできるようになり、それによって転生を逃れることができると言われている。でも、そういう物語をどれだけ多くの回数を読んだとしても、そのエッセンスを理解していなければ解脱を得ることは難しい。したがって、本に書かれている本質を理解して、それを体験することができないと、結果としてそれによって無執着を得ることができなければ、解脱を得ることもできないだろうと思う。本を読んだ後で、マナナ(熟考)と言うのだが、書かれていたことを何回も何回も思い出して、何回も何回もそれを楽しむと効果が増幅する。そのような態度こそが聴くべき態度なのではないかと思う。」
「サイ大学に入った時、私は帰依者ではなかったので、ヴェーダを習ったり、アウェアネス・クラスに出たりしたが、最初はあまり興味がなかった。興味があったのは、よく勉強して良い成績を取らなければならないということだけだった。しかし、時間が経つうちに先生方が色々な物語を語ってくれるので、それに興味をもち始めてもっと読まなければという気持ちになった。ゆっくりゆっくり最初は体験談のようなものを読むようになった。そのあと、スワミからスワミが与えてくださるものを何であれお受けできるかというテストがあった。そういった過程を通して興味を培い、色々な奇蹟や体験談を読み、さらにヴァーヒニー※15のような本に向かっていった。実際に帰依者になるまでの間は、物事の共時性、すなわち色々なことが起こることは偶然ではないということも理解できなかった。本を読んでいるうちに徐々にそれを信じるようになり、自分の人生で何が起こってもそれはスワミからの祝福によるものだということがわかってきた。最初のうちは、ただ無意識に色々なことがただ偶然に起こっていると考えていたが、後には何が起ころうともそれが祝福だと考えるようになった。その二つの考えにはどれほど大きな違いがあるだろうか?もちろん今でも何か良くないことが起こると、なぜこんなことが起こるのだろうと思うことはあるが、そういう疑問をもった時でも、状況を受け入れることが今ではもっと簡単にできるようになった。それが、私たちがより善くなっていくうえで物語が私たちを助けてくれている点ではないかと思う。もう一つ別なポイントは、こういう物語を読む時に、私たちは無意識に語られている物語を想像したり思い起こしたりする。もし物語の中である帰依者が良い行いをして、それに対してスワミが話しかけてくれるという物語があったとしたら、自分も何かそういう良いことをしたらスワミが話しかけてくれないだろうか、と想像したりする。そのように物語を読むと無意識のうちに私たちは善い行いを重ねるようになっていくと思う。しかしそうなっていくためにどのくらいの時間がかかるかというのは、私たちがどのような姿勢でそれを読むのかということにかかっていると思う。ものすごく短い間に大変大きな変容を遂げる方もいる。中にはとても時間がかかってしまう方もいると思うが、そういう方々もどこかの時点において必ずいつか変容がやってくる。」
「数学がわからなかったら数学の教科書を読むと答えがわかるのでそうするべきだし、同じように霊性においても何か疑問があるなら物語や文献をあたってその中に答えを見出すことができる。ここでプラシャーンティ・ニラヤム※16の先生がシェアしてくださった一つの重要な方法を共有したい。人生とはとても複雑なものであり、だからこそ社会に出るとたくさんの困難もある。そういう時にスワミとつながることができるということが大事になってくる。スワミとつながるためには色々な方法があって、それは瞑想だったりグル(霊性の師)と話すことだったり、他の霊性修行者と一緒に話すことだったりするが、中でも一番良いことは、文献をしっかり読むこと。それは『プレーマ ヴァヒニー(信愛)』だったり体験の物語だったりするが、そういったものを必要に応じて、ランダムに開くことによって答えを得ることができる。そのような時にページを開いてメッセージを読むと、その時の状況に応じたとても重要なメッセージを受け取れるようになっている。これは自分の人生においても実践してきたこと。」
ババ様の御言葉
私たちの歴史には神聖な内的意味が詰まっています。ところが、現代の青年は私たちの歴史に全く関心を寄せません。そして、小説や意味のない物語を読んで時間を浪費しています。そうしたカター(物語)は、ただヴャータ〔動揺、痛み、悲しみ〕だけを与えるものです。神の物語のみが理想的な道を教えてくれます。「ヒズ ストーリー」〔His Story 神の物語〕が「ヒストリー」〔History 歴史〕です。聖なる歴史を読み、理解し、実践すべきです。
2002年9月10日
※1カリユガ:法の力が4分の3失われた闘争の時代
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3ガネーシャ:ガナ(神群)のイーシャ(主)の意。ヒンドゥー教のシヴァ神の長男である象頭神。日本名は聖天あるいは歓喜天。
※4パリークシット(王):アルジュナの息子であるアビマンニュとウッタラーの息子、アルジュナの孫。
※5シュカ仙:『バーガヴァタ』の物語は、ヴィヤーサがシュカに説き、次にシュカがそれを人々に授けました。大聖賢シュカは大聖賢ヴィヤーサの息子です。シュカは父ヴィヤーサから余すところなくヴェーダを学びました。ヴェーダとヴェーダーンガはサンヒターと呼ばれる四つの部分に分けられました。シュカにその書物の神聖な物語を話していた時期に、ヴィヤーサはまた『バーガヴァタ』の物語も記していました。
※6シルディ サイ(・ババ):1838年9月27日に降臨した神の化身。1918年(大正7年)のヴィジャヤダシャミーの日(10月15日)午後2時30分に肉体を離れた。
※7カルマヨーギ:カルマ(行為)によって神と一体となるヨーガの行者。
※8ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※9シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※10 ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※11 ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。風の神の子で空が飛べたため、飛んで薬草をとりに行ったり、海の上を飛んでランカーを偵察に行ったりと、多大な貢献をした。
※12 ランカー:『ラーマーヤナ』の悪鬼ラーヴァナの王国。現在のスリランカ。ランカーは全体が金でできていた。
※13 ルッドラム:すべてのヴェーダの真髄といわれ、至高の神(シヴァ神)の一切普遍相を描写した非常に神聖なマントラ。ルッドラムはクリシュナ ヤジュル ヴェーダに収録されており、ナマカムとチャマカムという2つのパートからなる。
※14 ヴェーダ:神聖な真理の言葉、神の息吹の集成であり、古代インドの聖賢たちによって視覚化された。もとは一つだったものをヴィヤーサ仙がヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダ、サーマ ヴェーダの四つに編纂した。
※15 ヴァーヒニー:ババの著書シリーズの題名、川 。
※16 プラシャーンティ・ニラヤム:プッタパルティにあるサイ ババの住まいとアシュラムの総称、至高の平安の館の意。
開催日:2021年9⽉5⽇(日)
テーマ:1976年 夏期講習青い山の夏の薔薇 P99-101「マハーバーラタ※1は私たちのための多くの貴重な教訓を含んでいる」
参加者:47名
質問:
① 自分が行ったダルマ(正義)が自分自身を守った体験はあるか?
② 私たちが良く思っていない人々にどのようなダルマを果たしていくべきか?
③ 日常生活においてクリシュナ神※2が示した価値、御教えにどのように従うか?
参加者のコメント
「ダルマに関して、例えば真実を話すということがある。自分が実際に本当のことを言っていたが、周りの人に誤解されて『そんなことはない』という言い方をされたことがあった。周りの人が誤解をして自分がちょっと批難されるような目で見られてしまい、忍耐が必要な時期があった。その時に『霊的な教えに沿って生きていこう』と思った。そうするうちに、そういう人達との付き合いが薄れて違う環境に変わっていった。一つのステップとしてそのように導かれていくことがあったと思う」
「経験は思い出せないが、正しい行い(ダルマ)という意味で、絶えず私たちはいろいろな課題を与えられたり選択を迫られる。自分を一番にするのか、あるいは自分以外の者を大事にするのかというときに、損得の感情で言うと、自分よりも誰かを優先した方がある意味で自分が損になることがあったり、あるいは自分の主張をしなければいけないときがあったりすると思う。経験的には自分を後回しにした方が確実に心は平安になる」
「良く思ってないと人々に対して、何かしらの一致点、(折り合いがつかない場合は)それを探していくということ。それが大事なのかなと思う。何かしら食い違いがあり、どうしてもうまく折り合いがつかないのであれば、その方とは関わらない。それはやはり悪いものを見ないということにも繋がっていくと思う」
「以前ある方とお話ししたが、その方が、何を話してもすごく悲観的な所に持っていく人だった。ずっと話しているうちに、ぐったり疲れてしまったことがあった。その時に、自分もそういうところがあるかもしれないと思った。自分にとって良くないと思っている人達というのは、自分に何かを気付かせてくれる。自分にもそういうところがあるのだということを分からせてくれる。そういう存在なのだと思う」
「今回このスタディーサークルで学んだ中で一番印象に残ったのは、クリシュナ神が戦争が起こる前に無駄だと分かっていても、戦争が起こらないよう和平のための話し合いを自分の命をかけて行った場面。なぜ私がその場面が印象に残ったかを考えたところ、私自身は自分で考えて無駄だと思ったことはしないという決めつけが結構ある。でも無駄だとわかっていても、ダルマは神へ捧げるものであるということになると、行わないことがアダルマ(非正義)になる。やはりこれからは頭で考えても無駄だと思うことでも、それが真実でダルマで大切なことであれば、少しでもそれに気が付いてその行為を行うようにしたいと思った」
「マハーバーラタの物語の全般を見ていると、人間界の様々なエゴの話もあり、恨み言もあり、善と悪の戦いがあり、そこにクリシュナ神という神の存在があり、きちんとした助言を与えてくださっている。やはりその助言の部分をいかに日常生活に活かせるかということだと思う」
サイの学生のコメント
「小さな頃から両親に従うことがダルマだと学んできた。今でも自分に関わることはすべて両親と情報を共有して、ダルマを実践している。例えば日本に来てからも『これから研究室に行くところです』とか、『今日はお買い物に行くところです』とか。『今これを買ってきたところです』など小さなことを含めて両親に報告している。一つひとつそうしていくことが自分に自信を与えてくれている。実際にバールヴィカス(子供の開花教室)の頃から『小さなこと一つひとつを両親に共有して教えていく』ということが大事なダルマであると習ってきたので今でもそうしている。実際の体験としてはオンラインスタディーサークルが始まった頃に皆さんにお伝えしたエピソードがあった。ちょうどコロナが始まった頃にイタリアに短期留学をしていて、その時にイタリアで感染爆発が起こってしまった。イタリアの空港が封鎖されてしまって、なかなか帰って来られなかった。そういう時でも、何が起こっているのかを30分おきに逐一、ずっと両親に連絡していた。すると母親がずっと寝ないで自宅の祭壇でいつもスワミ※3に話しかけて祈りを捧げたり、『無事に帰って来られるように』とスワミに手紙を書いたりしていた。母親の祈りにスワミが答えてくださったのではないかと思っている。そのような意味で、母親にいろいろと伝えてアップデートしていくというダルマが、母親のエネルギーをとおして自分を守ってくれたのではないかと思っている。そのようにダルマが結果になって自分に自信を与えてくれている。スワミがおっしゃっているのは『自分の両親を幸せでいてもらう』こと。そのダルマが果たせているのであれば、本当に世界がどうであったとしてもハッピーなのだと。逆に世界が幸せであっても自分の両親が幸せでいなければ本当に問題。私たちにとって『自分の両親を幸せでいてもらう』ことが本当に大切なダルマであるとスワミはおっしゃっている」
「自分自身も娘であるので両親に対するダルマについて述べたいと思う。本当に自分は両親を愛しているので、両親にいかなる悪いものをも与えないようにしなければならないと思っている。両親に自分に対して本当に満足して幸せでいて欲しいと思っている。そのような形で両親の祝福が自分の人生の中に常にあると感じている。彼らの祝福が常に自分を祝福してくれていると思う。本当に娘としていかなる状況でも彼らが傷つかないようにするということが、その見返りとして自分を幸せにしてくれていると思う」
「(2番目の質問に関して)これは最も難しい質問だと思う。一人ひとりが心に違った感情を抱いている。例えば他の人が行った何かに対して私たちが何か好ましくない思いを抱くとき、そういったことは起こる。ときに外側の世界ではいろいろな事が起こるが、すべての出来事は内的に起こっている出来事なのだと捉えることだと思っている。そしてまた、外で起こるすべての出来事というのは、自分を肉体的にも精神的にも、そして霊的にも強くしてくれるために起こっているのだと捉えようとしている。なので、まずは他者が行なった何かの過ちを赦すことが、すべての人を赦すことの第一ステップで、すべての人を愛していくための第一ステップなのではないかと思う。この様な質問も以前に話し合ったこともあったが、一つのシンプルな答えは、毎日が新しい日だと考えていくこと。昨日起こったことは、ずっと過去のことであり続ける。本当にそれは未来のことには影響しないのだと考えることだと思う。過去の事は、どのようにこれから気を付けなければいけないのか教訓を与えてくれる。それは人々の間の関係性には影響しないのだと考えていくべきだと思う。例えば私たちは皆、火は燃えるものだということを知っている。であればこそ火の取り扱いには気をつける必要がある。例えば料理にそれを使うことができたり、日常生活をより良いものに進歩させることに役立てることができるようになっていく。同じように、もし良くないことをする人がいたなら、それが分かったならば、それ以降は気をつけなければならないが、実際には、どのようにそれを赦したり、うまくやっていくことができるかを考えていくことができる。マハーバーラタの中にも非常に多くの悪い人達が出てくるが、神様はすべての人々に関して、人々を矯正したり、正しい道に戻すことをされ続けている。そのような場面で神様はずっと愛し続けて、正しい道に戻るための機会をずっと与え続けていらっしゃる。そして神様が彼らを罰するときにおいても、それは彼らへの愛においてのみ、そうされる。クリシュナ神がマハーバーラタでお話されたことをそのように理解すべきだと思う」
「個人的には本当に誰をも嫌ってはいない。例えば異なった意見などにより他の人を好きではなくなったりするのかもしれない。もし自分とは異なった意見をもっている人や、自分とは違ったいろいろな考え、それが自分と調和しない人を見た場合には、その人はきっと自分とは異なった家庭のバックグラウンドとか、違う種類の友達がいたり、違う種類の親戚方がいるのだと理解するようにしている。それでも、その人のいろいろな態度などを含めて好きではない場合には、そういった人とは少し距離を置くようにする。もし自分が気に入った人であれば大変親密にすることはあるが、行いがあまり好きではない人に関しては、そういった行いが自分に影響を与えないように距離を置いたりする。そのようなやり方をとおして、すべての人に対する愛情を持つようにしていこうと思う。少なくとも誰をも嫌ったりする必要はまったくないと思う」
「(3番目の質問に関して)最初に決意することが一番大事ではないかと思う。もし私たちが本当に決意するなら、50%はその時点で達成したと思う。そして実践するためには、最初には自己分析が必要で、自分の実践が欠けている部分についてよく知る必要がある。そしてそれに関して自分の実践を始めることができる。例えば愛のような価値が表現されなければならない。そして最初に愛を拡げるためになされなければならないのは、すべての人に対して微笑みを投げかけるようにしていくことだと思う。それは微笑みと共に、この人が本当に良くありますようにと祈っていくことだと思う。一人ひとりの人間がとてもユニークで独自性のある存在であるがゆえ、人々の考えや思いは必ずしも一致したものではない。したがってときに意見の不一致だってある。表面的には、『あなたとは意見が違うけど分かったよ』、と理解を示すこともできるが、自分の本心と調和させることが必要だ。表面的に相手の意見に理解を示せても、内側ではずっと自分の感じたことをずっと持ったままになっていて、相手を理解できないこともある。しかしそれでは私たちの成長を助けてくれない。愛を拡げるため、最初に微笑みを投げかける。そして小さな祈りを皆に投げかける。そのような行動を無意識のうちに積み重ねていくことが大事。50%のすべきことが決意するべきことであり、残りの25%がどのようにそれを継続していくかということ。そして最後の25%は首尾一貫性。このようにしながら少しずつクリシュナ神が示してくださった価値をすべて私たちの人生の中に取り入れていくことができるようになっていくと思う。」
「インドでよく言われていることだが、ダルマに関して問題が起こるのは、人々と絡むときにだけ問題が起こる。人々と接するときにのみ、ダルマや平安などの問題が起こる。ダルマというものは所属している組織がしっかりとルールを定めている場合には、それに従いながら、職場や日常生活のいろいろなダルマを守っていくこと。それは規則によって簡単になっていくと思う。しかし組織の問題ではなくて個人の話になるとエゴの問題が関わるようになる。例えば人との関係でエゴが満たされなくなると憎悪が生じてきたりする。自分の意見としてはそういった状況の中でもすべての価値のことを日常生活の中でずっと覚えていて、思い出し続ける努力をしていくことが日常生活の中でそれを実践するために必要なことだと思う」
ババ様の御言葉
もし、ダルマが他のすべての滅びゆくものと同じように消滅できるものならば、それはダルマではありません。ダルマは、滅ぼされたり弱められたりするものではありません。ダルマが不滅のものならば、どこに「ダルマ・スターパナー」(ダルマの確立)という問題があるのでしょうか?それはダルマの実践の確立であり、ダルマそのものの確立ではないと考えるべきです。衰退しているのはダルマの実践であってダルマそのものではありません。
1976年夏期講習青い山の夏の薔薇
※1マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※2クリシュナ神:ヴィシュヌ神の化身、ドワーパラユガにおける神の化身 純粋な愛の具現。
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
開催日:2021年9⽉8⽇(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第16節「議論することと学識を誇示することを避けなさい」
参加者:56名
質問:
① 自分の人生において、もしくは知っているエピソードなどにおいて、霊的知識の誤用や議論が破壊につながった例はあるか?
② 霊性修行に没頭することはどのように世俗の心配ごとから影響を受けずにいることを助けると思うか?
③ ヴェーダやウパニシャッド※1を日常の実践に移すとき、私たちは「知っている」という意識を消し去り、本質に対して眼を開いて内省する必要があるが、スワミ※2がおっしゃっている内省とはどのようなことだと思うか?
参加者のコメント
「元々自分の感覚としては、神といった存在を枠として考えたりすることがなく、広く全体的に捉える傾向だった。身近なところでは宗教を信仰される人と話すと一つの枠の中に限った話となるので、せっかく共通性があっても何か譲らないとお互いに認められないところがあり、会話が続かなくなったことがあった。破壊に繋がったことはないが、やはり皆、人の言葉を聞くというよりも、言葉で伝えたときには満足を得たいとか認められたいという気持ちがあったりすると思う。また、言葉で論議になってしまった場合は勘違いが非常に誤解を招いてしまうので大きな問題に発展してしまうのではないのかと思うことがよくある。自分自身もそう言うところに注意したい。」
「ある方がバジャン(信愛の歌)のリードをしたいと希望されていた。ただバジャンのリードシンガーになるためにはどんなに真心がありスワミを思う気持ちがあっても、一定のクオリティが必要で、そういう観点からもう少し練習が必要な方だった。私も一員でしかないが、提案して何度か練習したことがあった。しかしその方がなかなかバジャンのリードシンガーになれないということが続いて『もうこんなことだったら、まったく役に立たない。あなたの練習も役に立たない。こんなことなら辞めた』という言葉がその方の口から出た。今となっては本当に反省している苦い思い出だが、やるべきことをやって、その結果はスワミが判断されることが正しい判断だと思っていたのでそう指摘した。自分の中には、『後はスワミに任せるしかないじゃないですか』というような怒りもひょっとして含まれていたのかもしれない。つまり自分が学ぶべきところを、ババの御教えを押し付けてしまったことがあって、その方とちょっと言い争いのようになってしまった。今となっては本当に恥ずかしくて反省するべきこと。その意味では私自身が守るべき霊的な知識を与えられたのに、他人に要求してまさに暴言を吐いてしまった。結果としては本当に気まずい思いしか残らなかった。今それを思い出しながら私が高慢だったのだなと思った。」
「例えばプッタパルティ※3に行った時やサーダナ(霊性修行)キャンプで高い山の上へ行った時など、本当に世間から隔絶したような所でしばらくの間過ごす体験を何回かしたが、霊性修行に没頭できた。そこが起点となって、霊性修行を行って世俗から離れると、世俗に帰ってきた時に、全然自分が違っていて、いろいろな影響を受けにくくなるという体験をした。」
「このコロナ禍は足の骨折から始まったが、(奉仕の)マスク作りでとても忙しくなり、そしてこのスタディーサークルのおかげでいろいろなスワミの本を読み直す機会や、内省する機会を与えてもらって、コロナよりスワミの御言葉を思うことの方が多くなった。また、大阪サイレディースで朗読会が始まり、いろんな本を朗読する練習をした。お陰様で本当にスワミの御教えを学ぶ機会をいただけて、とてもありがたい。」
「スタディーサークルの中で一人ひとり順番に当てられていく。学校では自分の受けてきた教育の中で、当てられたときに間違えると恥ずかしいので、完璧な言葉を言わなければという気持ちがあった。完璧なものにはまだまだ遠いが、いつも霊性修行をしながらゆっくりスワミに近づいていこう、自分のペースで近づいていこうと思っている。」
サイの学生のコメント
「最後にひどい破壊に繋がったというとマハーバーラタ※4のことを思い出す。次にビーシュマ※5とドローナーチャーリヤ※6と、知識をひけらかしたカルナ※7のことも思い出す。サイコロ賭博が行われた時にビーシュマとドローナーチャーリヤは元々どういう意図でパーンダヴァ兄弟※8が呼びつけられたのか知っていた。その意図を知っていたのにビーシュマはそれに対して何もしなかった。ただ、王様に対して王国を守ることを誓った。ドローナーチャーリヤは自分の息子がカウラヴァ※9一族の友人だったので、何も文句を言わなかった。ビーシュマとドローナーチャーリヤは事あるごとに様々な人と議論し、クリシュナ※10とさえも議論していた。にもかかわらずカウラヴァ側には一切何も言うことがなく、ドラウパディー※11が屈辱を受けそうになった事件に際しても何も言わなかった。彼らが亡くなる前にクリシュナから、彼らが行ったことがどのように誤っていたのかを知らされた。二人には十分な権限があったので、クリシュナは『この戦争が起こって非常に沢山の人が亡くなった。そんな酷いことが行われたのはあなた方二人のせいである。カウラヴァ側に何も言わなかったり、ドラウパディーの件がなければ、こんなひどい戦争にならなかったでしょう』とクリシュナが言った。これが『議論がどれほどの破壊に繋がるか』を示している一例だと思う。また、カルナは非常に弓使いとして優れていたが、霊的な知識を誤用した。パラシュラーマ※12のところに行って弓を習ってきた。パラシュラーマはブラフミン(僧侶)だけに知識を与え、クシャトリヤ(武士)には教えを授けない人だった。しかし、カルナは変装してパラシュラーマのところに行って知識を授かってきた。そしてカルナは学問を誤用することによってアルジュナ※13よりも秀でたいと思っていた。カルナには知識があったので、それによってドゥルヨーダナが自信を得るようになり、パーンダヴァ兄弟と戦おうということになった。クリシュナが『あなたが持っているすべての知識や力はアダルマ(非正義)に根差しているものだ。それはドゥルヨーダナ※14が行っているようなことだ』とカルナに言った。この二つの例は、いかにそのようであってはいけないかということを示している。」
「シュクラーチャーリヤ※15はヴェーダやウパニシャドに関する霊的な知識をもっている聖者だった。シュクラーチャーリヤがシヴァ※16に対して大変苦行をしたところ、シヴァ神が『死人を蘇らせることができる』という恩寵を与えてくれた。その恩寵だけでは神への国においてそれほど良いポジションを与えてもらったようにはシュクラーチャーリヤは感じていなかった。満足しなかったので怒りを感じ、神様に復讐する為に悪魔になっていった。その結果として悪魔と神との間に戦いが起こった。シュクラーチャーリヤは戦いに勝つために、悪魔が死ぬと蘇らせて、神様の方に差し向けた。当然ながらそのような行いは破壊に繋がっていく。オーナム祭※17のエピソードで、バリ王※18が小人のアヴァター(神の化身)に三歩歩いた分の土地をあげるよと約束をした物語がある。シュクラーチャーリヤはバリ王のグル(霊性の導師)だったので、『約束を破っても良いから、三歩分の土地をあげてはいけない』とアドバイスした。しかしバリ王は『自分の約束を守らないのは果たして良いのでしょうか?』と言った。シュクラーチャーリヤは『自分の命に係わる時には破っても良い』と言った。それによってバリ王とシュクラーチャーリヤが長く議論することになり、結局バリ王はグルの話を聞かなかった。本当は理想的なグルは弟子が約束を守ることを奨励するべきだが、逆のことをしてしまった。その結果として非常に苦しむことになってしまった。これは『議論は何も見い出せない』という例。」
「スワミがおっしゃっておられのは、本当に文献を読んでいるだけでは、究極の最終的な目的地に着くことはできないということ。とはいっても、文献に書いてある道には従わなければならない。このポイントに関しては、スワミ教えてくださっているのは、例えばお腹が空いているとき、ただの食べ物を目で見るだけではなく、実際皿の前に座って、それから皿の上に載っている食べ物を食べなければならない。そのご飯をほんの一口食べるだけでもダメで、それをちょっとずつちょっとずつすべて平らげていかなければならない。そして目の前のお皿の食べ物をすべて食べて初めて、お腹が空いた状態は完全に直る。それと同じように、ヴェーダや文献の学習などを、少しずつ体験していく必要があるが、実際にはこの世界はマーヤー(幻)に満ち溢れており、あらゆる困難や喜びなどはすべて非真といえる。少しずつ処方された手法を実践して続けていけば、最終的に自分は神と一つだということが分かっていく。そして、次第に悟っていくことができれば、すべての様々な困難は過ぎゆく雲にすぎないということが分かってくるのだと思う。そして、そういった霊性修行を行っていけば、最後にはもう自分は神であるということが分かるに至る。その様なサーダナを行ってゴールに達した素晴らしい例として挙げることが出来るのがナーラダ仙※19でもあり、ヴァールミーキ※20でもあると思う。
元々ヴァールミーキは狩人であり、最初はラトナーカラという盗賊だったのが、神の御名を唱え始めてヴァールミーキというラーマーヤナを書いた聖者にまでなられた。このように、ヴァールミーキは継続的なサーダナによって神に選ばれ、ラーマーヤナを全人類のためにもたらすに至った。」
「霊性修行の道というのは本当にゆっくりとした、少しずつの道であると思う。それはずっと続いて行く道だが、ゴールにいつたどり着くのかは誰も知らない。私たちがその継続的サーダナを続けていると、時々神様が試練を与えてくださる。もちろん、いつも100点が取れるわけではないが、ただここでは、試験監督が神様なのだ。世俗的な心配ではなく、そういったことがテストとして、果たしてどれだけ私たちに影響を与えるのかどうか考えていくべきだと思う。時に、困難が起こったとしても、神様がそれを助けてくれて、私たちが何も心配しなくて済むということさえあると思う。私たちが世俗の心配事の影響をどのように避けられるかは、神様が与えてくれた今の状況のテストに対して、私達は上手くやっているだろうかと考えること。心配な状況の中で少しずつ、自分の状態を自分のマインドから切り離して感じることができるようになった時に、その影響を受けなくなっていると思う。心が心配に苛まれる時には、やはりナーマスマラナ(神の御名の憶持)の実践が私たちを非常に助けてくれると思う。ナーマスマラナをすることによって、試練が来た時に、神様が与えたテストとしての側面に集中することができるようになり、心配の方にフォーカスしなくてもよくなってくると思う。」
「ヴェーダやウパニシャッドは学び続けることは決して終わることのないプロセス。同じことを繰り返し学んでいくたびに違う見方が得られていく。スワミがおっしゃっている内省というのは、新しい学びを自分に受け入れていくためにいかにオープンであるのかという部分を指しているのではないかと思う。本当に内省を通してのみそれを実践することにつながり、それが本当の教訓につながっていくと思う。例えばガラスの容器がここにあるとして、そこに藁をたくさん詰めたら中身はいっぱいだと思うかもしれない。そこにさらに小さな石を詰めることもできるだろう。一見していっぱいになったように見えても、さらに詰め込むことができそのあとも隙間に小さな砂をさらに詰め込むことができる。それでもいっぱいになっているとは言えなくて、そこにさらに水を入れることもできる。人生もいつもそのようなもの。私たちの人生も新しいことを、新しい教訓を学び続けるためにいつもオープンでいることがより良い。なぜならいつも新しいものを学んでいくべき展望というものがあるし、実際にそういう新しいことを学んでいく必要があるから。」
「実際にどのように私たちが知っている知識を実行に移すかということについて、バガヴァン※21が三つのステップを教えてくれている。一つ目は私という意識を取り除くこと。二番目は、いつもそのことについて考え続けること。それがどうように私たちの目を開いて本当の本質に目を向けるか、それがいつもどのように応用するかを考え続けるということで、それが二つ目のポイント。三つ目のステップは、何であれ文献で読んだことに対して、内省していくこと。内省していく時には、常に私たちが五大価値に反していなかったかどうかを考える必要があり、文献で読んだことを何であれ、実際にそれを応用して実践する。それをより良い人間になるために実践していく必要がある。それが内省によって起こること。」
ババ様の御言葉
神はあらゆる姿の中にいます。あらゆる名と姿は神のものです。ヴェーダは、
サハッスラシールシャー プルシャハ サハッスラークシャッ サハッスラパート
(普遍なる神は千の頭と目と足を持っている)
と宣言して、その同一の特性を述べています。さまざまな種類の宝飾品が金から作られます。同様に、神はこの世で私たちが見出すあらゆる名と姿をまとっています。ですから、皆さんは神の存在を確信すべきです。もし真摯な努力をするならば、必ず神を顕現させることができます。過去の多くの霊的求道者たちが、熱心なサーダナ〔霊性修行〕と完全な静寂に浸ることによって神を見ることができました。神を見るためには、心を消滅させなければなりません。
2004年11月22日
※1ウパニシャッド:ヴェーダ聖典群の中の哲学的部門の総称で、ブラフマンの探求を主な主題としている。
※2スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※3プッタパルティ:スワミの生誕地であり本拠地である町の名前。
※4マハーバーラタ:従兄弟の関係にあるパーンダヴァ側とカウラヴァ側の間で行われた十八日間の戦争を背景とした大叙事詩。
※5ビーシュマ:『マハーバーラタ』の英雄でシャーンタヌ王とガンガー女神との間の子。カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の大叔父。
※6ドローナーチャーリヤ:ドローナの敬称。『マハーバーラタ』の軍師。パーンダヴァ、カウラヴァ双方に弓術を教えたが、戦いにおいてはカウラヴァ側についた。(皇帝バリの霊性の師だった人物)
※16シヴァ(神):破壊を司る神
※17オーナム祭:神の化身ヴァーマナ(矮人)にその身を捧げた高徳の王バリに敬意を表する。
※18バリ(王):羅刹の皇帝バリ。プラフラーダの孫。
※19ナーラダ(仙):世界に信愛を広めるためにブラフマーが創った聖者。ナーラは「知識」、「ダ」は「与える者」の意。いつも神の御名と栄光を歌っていたことで知られる。ヴィーナの創作者でもあり、ヴィーナを携えて三界を自由に行き来する。
※20ヴァールミーキ:ラーマの存命中に記されたインドの大叙事詩『ラーマーヤナ』(ラーマの歩みという意味の神の化身ラーマの物語)の述者。
※21バガヴァン:神や半神の呼称、尊神。ここではサイ・ババ様のこと。
開催日:2021年9⽉15⽇(水)
テーマ:プレーマヴァーヒニー第47節「悪魔ではなく人間でありなさい」
参加者:56名
質問:
① 愛に満ちていることはなぜ平安や喜びを与えるのか?
② 人が悪魔的に振舞うことになる状況とはどのような場合か?
③ そのような状況にあっても人間として振る舞うには何が必要か?
④ どのように悪魔的な特質を取り除くことができるのか?
参加者のコメント
「愛を考えてみると内側から幸福感がとても満ちてくるので、その中に平安とか喜びが含まれていると思う」
「自分の心の奥底から満ち溢れる愛。これは本当に何かを求めようとする気持ちはほとんどなく、むしろ周りに奉仕する気持ちになり、それが喜びとか平安に繋がっていくのかなと思う」
「愛に満ちているというのを思い出すのが、子供が赤ちゃんの時。抱っこしたときに顔が満面の笑みだったりして。そういう時は心配とか不安が何もなくて、ただ安心感だけがあって輝いていて、周りの皆もニコニコしている」
「(前略)人間としての振る舞いには何が必要かといえば、やはり神に向かうことだと思う。神に向かうというのは、例えば、内なる神を意識すること。内側を意識しながら、自分の真我、愛、平安などがあって、何も必要とする物がなく、より自分の本質が、表に出てきて満たされた状況になること」
「本来、人間の本質は愛、平安であるので、自分の感情や欲によって、悪魔的な性質が現れてくると思う。人間的に振る舞うために、例えば私の場合は、いろいろな感情の動揺によって自分の中に嫌な性質が出てきてしまったときには、スワミ※1に手紙を書いて祈るということしかできないかなと思う」
「悪魔的に振る舞うというのは、自惚れや欲、心地よい環境を失いたくないとき、傷つけられたり奪われたりしたような錯覚をもってしまったときに起こりうる状況だと思っている。心が自分をごまかすために、その考えは正しいと信じ込ませようとするが、一日に何回か冷静になって良心の声を聞くというのが一番の対処法だと思う。スワミがある御講話で『多くの人は良心のささやきを黙殺している』と、とても厳しくおっしゃったことがある。スワミの理想を知れば知るほど、高い理想と感じ、心と身体が邪魔をしてなかなか実行できていないと思うが、良心のささやきを聞いて反省して、スワミへの祈りや感謝に変えていきたいと思う」
「やはり、慈悲によってマインド(思考)を消すということが理想的だと思う。そこに行きつくには、慈悲の心が必要になる。結局、悪魔的になるときというのは、自分の価値観と合わない場面に遭遇したり、不本意な状況に置かれているときになりやすいのかなと思う。すべては神様がいつも見ているテストだと思い、これは解脱へ向かう一歩の階段なのだと思えば、テストにパスしようという点に着目できる。所詮この世の中は自分の思い通りにならないことだらけなのだと思えば、すべて慈悲によって乗り越えるしかないのかなと思う」
サイの学生のコメント
「どのように平安というゴールを得るかということに関して、この節の始めのところでスワミが『人間としての本来の特性は幸せや平安を探し求めることが生来の特性』とおっしゃっている。私たちがもし自己分析すれば、いろいろな思いや行いのすべてが幸せや平安を探すために行われていることが分かる。幸せのタイプによってどれぐらい長く幸せが持続するのかは異なるが、それを得るためにグル(霊性の導師)や先生、アヴァター(神の化身)がやってきている。多くのグルや先生が来て教えてくれたことは、『決して私たちは一時的な幸せを探しに来ているのではない』ということ。永続する幸せを探さなければならない。スワミは『本当にすべてに対する無私で無条件の愛だけが、決して変わらず終わることのない平安や喜びを与える』とおっしゃっている。では無条件の愛とは何でしょうか?『何の期待も人にしない』ことが無条件。それは非常に難しいこと。なぜなら私たちの行動は何らかの期待のもとに行われるからだ。」
「一日一日を過ごしていくときに、相手に対して敬意や信頼、あるいは調和が生じていくようにと願っている。その日一日だけではなく、継続して実践する必要を感じている。そうすることが、内的な心地よさとか平安とかJOY(喜び)になっていくと思う。愛は忍耐するものだとか、愛は親切であり、愛は妬まないなどいろいろな言葉がある。それらを実践できればどこに行っても平安を見つけることができると思う。私たちは皆、同じものを欲している。それは内側での平安。喜びに満ちた世界と平安な社会を作るためには内なる平安が必要」
「今日の部分ではスワミが人間と悪魔との違いの鍵を述べていらっしゃる。ここでの悪魔は愛を疎かにして、その代わりに良くない性質の方をより重要であると考える人々が悪魔であるとおっしゃっている。一方で人間とは愛がとても大事な性質であると考えている人々。悪魔と人間のどんな側面に違いがあるかといえば、自分の願望をどのように叶えようとするかという点において違いがある。いつも私たちには何か着目している欲望や、必要としているポイントなど、何かの着目点がある。私たちはいつも、食物や、住む所など、必要を満たそうとしている。そこで問題は、必要な物を求めるための行動は親切な方法であるか、正義に叶った方法なのか、愛を伴った方法であるかという点。そしてときに、私たちの人生においては、その要求を満たしたいという思いがあまりにも強すぎて、残酷な方法や冷酷な方法が採用されてしまうということがあり得る。そういった残酷さ、良くない性質が悪魔の性質。それが今の世界において平安が欠けている理由。そういう悪魔的な道を行かないで人間的な道を行くことを思い出させてくれるのは、やはりスワミのメッセージであり、それに目を向けることだと思う。私たちはサイの帰依者であって霊的な求道者でもあるので、何をもってしてもスワミを幸せにするような行動をしていく必要がある。そしていろいろなサイの活動、サイセンターの活動においていろいろな人々の交流があるが、それらのすべてにおいてスワミをどう幸せにするのかという視点が大事だと思う。いつでも私たちが悪魔的な行動を行ってしまった場合には、心の中で何か良くないことを行ってしまったということが必ず心のどこかで分かるようになっている。自分の行為が神から遠ざかるものになっていないかどうかを絶えず考えていることが大切だ。そして、私たちの必要を満たす活動を、それが同時に私たちの霊的な向上にも役立つようなやり方で行なっていく必要がある」
「怒りが生じるのはエゴが傷つくから。では、どのようなときにエゴが傷つくのか。それは、私たちの欲望、とりわけ感覚から生じる欲望が満たされないときである。例えば必要な食べ物が手に入らないときや何か必要な商品とか物があって、どうにも手に入らないと、そのことに対して怒りが生じたりする。また他の人の行動によって自分が傷つけられたと感じた場合に怒りが生じたりする。スワミによれば、これが私たちが怒りを感じることになる一般的な状況。またこのような悪魔的な性質を簡単に確実に消すことができる最も良い方法はマインドそのものを消滅させることだ。
もし私たちが感覚的な欲望を追い求めれば、必ずそこから怒りが生じることになる。そしてその結果、心の平安も失われる。またスワミがおっしゃるには、そのためにはマインドを終わらせなければならないということ。そして心を消滅させること、終わらせることは霊性修行によってのみ可能。それは特別なサーダナ(霊性修行)を行なわなくとも小さなことからで構わない。例えば家を出発する前に必ずお祈りをしてから出掛けるとか、そういったことから始めていくことができる。外出前にガーヤトリーマントラを3回唱えるなどを続けていくと人生にとってとても大きなインパクトをもつようになってくる。これらのことは非常に小さな方法に思えるかもしれないが、それは本当に最も確かな方法であり、それによって愛を培うことができる方法。実際にその愛は培わなければならないのでなくて、最初からそこにあるものであるとスワミもおっしゃる。」
「完全に悪魔的な性質を取り除こうと思ったら、いつも悪魔的性質を取り除かなければならないのだということを覚えている必要がある。例えば、赤ん坊が生まれた時には、完全に神聖で悪魔的性質は持っていない。それは私たちが育っていく過程において、悪魔的性質も獲得してそれが蓄積していると思う。また、悪魔的な性質がどのように私たちを神から隔てているのかということを意識することで、この性質を取り去っていくことにつながると思う」
「悪魔的性質は成長と共に習得してしまうもの。しかしこういう悪魔的性質をもっているということに気付いて、明確にすることがとても大事だと思う。前回のスタディサークルで学んだように、新しいことを学べるようにいつもオープンでいることが大事で、そのためにはエゴを去らせることが大事だと思う。例えばラーマーヤナ※2の叙事詩において二人の非常に特筆すべき登場人物がいた。一人はラーマ※3で私たちが偶像化して崇拝しているお方。もう一人はラーヴァナ※4で悪魔的な性質をもっていて、決してそうなりたくないと皆が思う登場人物。ラーヴァナを観察すると、ラーヴァナはいつも自分は完全に正しいと思っていた。ラーヴァナの弟ヴィビーシャナや奥さんが、『あなたのやっていることは間違っている』と言っても決してそれに耳を傾けることはなかった。ラーヴァナは決して耳の聞こえない無知ではなく、あまりにも多くの知識をもっていた。そういう状況にもかかわらず、彼のエゴによって、他者のどんな助言をも受け入れることができなかった。今の時代の世界もまさに様々な形で同じような状況に直面していると思う。私たちが他者を傷つけるようなことがあったとしても、私たちがやっていることが正しくて問題がないと考えている。私たちは全て知っていて何であれ私たちがやっていることは正しいと思っているかのようだ。しかしそれがいつも正しいわけではない。なので、まずエゴを去らせて、いろいろな人からの批判をしっかりと受けいれていくことが私たちの中の悪魔的な性質を去らせる唯一の方法だと思う。耳を他者からのポジティブな批判に対して開いているということ。そのようにして改善することができる。そういった意味において、スワミや先生やグルがおっしゃっていることが大切になる。私たちはできるだけ小さな頃から目を開いて、何が正しくて何が間違っているかを分かるようにして、新たな知識に対してオープンでいることが大事だと思う」
「多くの議論はとても大事なポイントを押さえており、大事なことが話し合われたと思う。ある時の御講話でスワミがおっしゃったが、良くなりたいと思っている人と、偉大になりたいと思っている人の2種類の人々がいるということ。偉大になりたいと思っている人は、神を見てもその中に人間を見てしまう。でも善良になりたいと思っている人は、人の中にも神を見ることができる。先ほどBro. Tがラーマとラーヴァナについて話してくれたが、ラーヴァナはいつも偉大になりたかった。ラーマはいつも善良になりたかった。ラーヴァナはブラフマン(祭式の監督)の家系の出身だったが、彼は悪魔だったと考えられている。ラーマは人間であったが今日でも神と考えられている。それはまさに、彼らが人生に対してどのようなものの見方をしたのかということがその違いにつながっている。スワミはいつも執着をもっていたり、感覚への執着をもっている人は悪魔的だとおっしゃっている。またスワミは当時ラーマとラーヴァナは違う肉体として存在していたが、今日では同じ肉体の中にラーマとラーヴァナの両方が宿っているとおっしゃっている。従って、いかなる状況が現れても、私たちは自分の中から悪魔的な特質を追い出していく必要がある。その時の状況に応じて、ラーマや悪魔のような性質が生じているかを観察していかなければならないと思う」
ババ様の御言葉
人間は愛に満ちています。人間のハートは慈悲の泉です。人間には真実を語る力が授けられています。人間の心の特徴は平安です。それは心の生来の資質です。平安を探し求めて、どこか他の場所へ行く必要はありません。
プレーマヴァーヒニー
※1スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※2ラーマーヤナ:ヴィシュヌ神の化身ラーマの物語。インドを代表する大叙事詩の一つ。
※3ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※4ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。

開催日:2021年8⽉15⽇(日)
テーマ:1996年夏期講習ラーマーヤナ(サティヤ・サイ出版協会)より「ヴィッディヤーヴィッディヤールティ」(P11-13)
参加者:54名
質問:
① 知識の真の探求者とはどのような人か?
② どうすればそのような人になれるのか?
③ どのようなものが真の学びであり、そのような学びはどのように人生の見方を変えるのか?
④ 真の教育は人間性にどのような特質を与えることができるのか?
参加者のコメント
「去年からこのスタディサークルに参加して随分考え方が変わった。やはり知識の探求は、単に本を読むだけではなく、熟読して自分の中で落とし込み、探究して考えて、それを行動に移すことが大切だと思う。」
「真の知識を探究する時の動機において、(真の知識の探求者は)謙虚にひれ伏して学んでいくような人のことではないかと思った。」
「ラーマクリシュナ・パラマハムサ※1が『Who am I ?』という問いを絶えず繰り返していたというお話があったが、やはり真我の探求とは私自身の、つまり神性(霊性)を探究することだと思う。
真の学びというのは、世俗的知識だけではなく、本当の自分が誰なのかという霊的知識を得ること。そういう学びや自己探求を続けることにより、世俗的な活動を続けながらも、基盤を霊性というものに置くようになると思う。だから人生の見方という意味では本当に霊性を基盤にして、価値のある人生になっていく。」
「神を手に入れるためには信愛が一番大事だというお話があったが、神への信愛を培っていく中で神を手に入れることができる。それが真の学び、あるいは人生の目的になる。」
「私自身は、スワミに出会う前は目に見えるものが絶対的存在であり目的でもあった。しかしスワミを知って得られた体験や学びは、感覚で知覚できる世界の出来事は永続するものではないことだ。実際、現実の社会生活の中では、目の前にあるものにどうしても影響されることもある。そういったものにどこまで惑わされないのかが自分の修行なのだろうと思う。」
「今日は8月15日で、日本においては終戦記念日。今日、家族とお墓参りに行ってきて思ったが、私たちは現代に生きているけれど、私たちの先祖から伝えられているような、古から伝わる英知を引き継いで大切に守っていくべきだと思った。私の母親は戦争で親を亡くしたが、隣に住んでいた家族が母を娘として育ててくれた。母いわく、『昔はどの家の子供でも大人が見つけたら、自分の子供として育てたものよ』と、あっけらかんと言っていて、寛容性というのは大切だなと思う。スワミは真の教育を受けた人の特質は、思いと言葉と行動が一致しているとおっしゃっている。本日8月15日はインドの独立記念日で、本当に良いモデルとしてはマハトマ・ガンジー※2。あの方は、本当に偉大なる魂の持ち主で、それだけでなく、人格のみならず、教育もしっかりと受けている。この世の教育もしっかり受けて、人格も整っていたので、あれだけの大きな偉業を成し遂げ、おかげでインドがイギリスから独立した。だから人格形成とこの世の勉強の両方が大切だと思う。」
「まず、知れば知るほど自分が無知であることがわかって、最初に謙虚さが身に着く気がする。その次に、すべてに神を見るようになれば、すべてに対する平等心と不動心をもてる気がする。」
サイの学生のコメント
「自分が人生に何を求めたいのかということに則して答えたいと思う。スワミ※3が何度も『神をあらゆる人の中に見なければいけない』と教えてくださり、自分がサイの学生だった頃に知識のレベルからそのことを学んだ。もしかしたら霊性探究の世界にいない人にとって『私たちのすべては神であって、本当は私たちは皆神なのだ』という真理は、非常にショッキングなことかもしれない。なぜなら人々は自分の外側に神を探し求める傾向があるからだ。すでに得た知識を実践し体験することが重要だ。体験は『実践すること』によってのみ可能ではないか。ではどのようにして、私たちはそれを実践できるだろうか?スワミは多くの御講話のなかで、私たちが絶え間なく統合意識の中に居ることによって、それができるのだと教えてくださっている。それは『Constant Integrated Awareness(以下CIA:絶え間ない統合意識)』『同じ神が私たちのすべてに居て、私たちの内にも周りにもすべてに満ちている』ということ。例えばバギア先生は『私たちがいつも瞑想を続けていて、ある日、突然悟りが得られるわけではない』とおっしゃっている。それは突然ではなく、少しずつ覚めるのだということ。そのようにして『CIA』を実践していくのが体験に辿る手段。様々なことを急に学び取ることはできない。少しずつ学んでいくこと。」
「私たちの皆がもっている二つの性質の一つは霊的性質で、もう一つは世俗的性質。その両方が私たちの中にある。そして世俗的な性質により物事への執着、その結果、不義を行ってしまったりする。一方、神聖な性質は、『親切』、『真実』などに則しており、すべての高尚な性質は霊的な特質に繋がる。霊的な求道者とは高尚な性質を得ることにエネルギーや努力を注ぐ人だと思う。実践していけば霊的な向上が得られ、内在する神性が現れてくると思う。そのためには霊的な事柄と世俗的な事柄とを識別すること。そして心をコントロールすることが主な方法論になってくる。霊的求道者は霊性について話すことだけでなく実践する必要がある。そして一つひとつの行いは、すべてに神が内在するという確信に基づいた行動でなければならないと思う。」
「今日の御講話の中で『本当の教育は、暗闇から光明へと導く』という話があった。スワミがおっしゃっているのは『人々には目があるけれども見ておらず、耳を持っているけれども聞いておらず、心も持っているが、精神的に病んでいる人たちと同じようなものになっている』ということ。また私たちが何らかの状況において悲しみや怒りを一度覚えてしまうと、そのような感情が他の活動にも持ち越されてしまう。それは自分の行為が他者にとって役立つのか、そうでないのかを考える感覚を無視したことであり、感情の面においての知性が曇ったことを意味している。そのような状態では良い活動はできないだろう。そして同時にこの御講話でスワミがおっしゃっているのは、『真の霊的な求道者というのは社会の利益のことを考える』ということ。もし私たちの心に良くない思いや感情があれば、社会に対しては何も良いことができないだろうと思う。それが心の中の暗闇に相当する部分であり、私たちは心を暗闇から光の方へと導いていかなければならない。そして、それには心がしっかりと、何が正しくて何が間違っているか分かるようにする必要がある。そういった識別力が伴えば、私たちの仕事の効率もより良くなり、より良い仕事ができるようになってくると思う。それで持つべき学びというのは、私たちが精神を曇らせるものをしっかりと無視することができるということ。そしてそのような幻影を取り除いていくことだと思う。」
「この御講話の部分を読んで、学生や霊的求道者にとって素晴らしい指示が書かれていると思った。以前のスタディー サークルで、真の教育とはなにか?そのゴールは何か?ということについて、真の教育というものは魂を引き上げるものだということを述べられている御講話が紹介された。スワミは自信というものが霊的な求道者にとっては、最初に手にしなければならないものだとおっしゃってきた。真の教育というものは、最初に学生たちの中に自信を植えつけるものである必要がある。そして帰依することにおいても土台となるのが自信である。つまり真の教育によって自信を築き、帰依を身につけて、それによって自分が中心の人生から神が中心の人生へと、そういう見方へ変わっていかなければならないということ。」
ババ様の御言葉
「真の学識は、最も深い内側の詳細を完全な正確さで露わにするレントゲンカメラのようなものです。私たちの心は、愛というフィルムを備えたレントゲン写真のようであるべきです。そうであれば、完全な正確さで存在物のすべての特性を捕らえることができます。フィルムの入っていないレントゲン撮影機は役に立ちません。フィルムがなければ何も捕らえることができないからです。それと同様に、愛に欠けた心は役に立ちません。愛は時と共に変化することがありません。愛は持続的で永遠です。」
1996年夏期講習ラーマーヤナ
※1ラーマクリシュナ パラマハムサ:(1836~1886)バクティによって神に到った一九世紀のベンガルの聖者。カーリー女神を熱烈に信愛した偉大な聖者であり、あらゆるヨーガの大家。
※2マハトマ・ガンジー:モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー
非暴力を用いたサッティヤーグラハ運動を行う。インド独立運動の父
※3スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
開催日:2021年8月18日 (水)
テーマ:1996年夏期講習ラーマーヤナP95-98「神のために生きる」
参加人数: 56名
質問:
① ラーマ※1とシーター※2の人生のどのような理想から感銘を受けたか?
② どうすれば肉体的にも精神的にも自立できるのか?
③ 暴力的なことが必要な状況では、どのように留意して振舞うべきか?
参加者のコメント:
「シーターをさらわれたり、森で暮らすことになったり、いろいろな波風が降りかかってくる中においても、ラーマの平安を保つ生き方に感銘を受けた。」
「理想としてはラーマが森に追放されたとき、シーターが付いていって夫婦として共にいる生活を送り続けたという点が一つは挙げられると思う。苦境がたくさんあって、最後にシーターが自分の潔白を2回までも試されようとして最終的に地の中に帰ってしまい、結局離ればなれになってしまったところを、心情的に見てどうしてそうなるのかなと犠牲のような見方をしていたところがあった。今回、犠牲ということだけではなく、二人のダルマ(正しい行い)として民衆やシーターを疑っていた人々を、シーターの行動によってもう一度神を信じるところに戻したものと今回は受け止めることができた。」
「人の心は全部自分の心の反映で、人の心というのは自分の単なる想像に過ぎないというような御言葉があり、それを真理だろうと思っている。それを忘れると、相手の気持ちを予想して行動するが、結局相手に何かを期待していることがある。」
「自立するということは、自分に自信を持つということだと思う。私はセヴァ(奉仕)を今までやってきて、非常に苦手で不得手なセヴァが多くあてがわれた。お祈りをしながら行うことによって、必ずそれができるようになるという経験をしてきた。そういう経験によって、神がいらっしゃるから何でも必ずできるという自信が少しずつ出てきた。」
「ラーマにとても従順だった弟のバラタは、まったく権力を求めず、私心がないお手本だったと思う。結局罰することができるのは神ならではのこと。暴力と罰はまた別だが、暴力的なことが必要な状況というのがそれほど思い浮かばない。ラーマがシュールパナカー※3の鼻を切ったとか、ラーヴァナ※4を殺したのは人間の内面の悪い部分を消したという、ラーマ神ならではの業。カルマ(行為の結果)を解消するとか、神によって殺されたことにより、祝福されたアートマ(神我)に転じ、悪い面をなくして神によって祝福された魂になったということだと思う。」
「私の中で暴力的な状況というのは虫を殺すことを最初に思い浮かべた。例えば家の中だったらできるだけ外に逃がすとか、蚊よけを自分に撒くとか、それまでに掃除をするとか、できる限りの努力をして、それでもしなければならないときにはせめて少しでも神様のことを思い浮かべてマントラ(真言)を唱えることができたらと思う。言葉で人を傷つけたり、他者にきつい言葉や目線を投げかけたりということをきっとたくさんしてきたので、できるだけ心の中で御名を唱えたりすることが大事と思う。」
サイの学生のコメント:
「スワミ※5やラーマが理想を示されたときに、それを単純に理解するのは難しい。『彼らは普通の人間でなくて神様だからそうできるのではないか』と考えてしまうから。もしラーマがたくさん嘘をついたとか人を殺したとかだったら、人は誰も受け入れず、それについてスタディーサークルが行われることもない。ラーマやスワミは人間の姿でお生まれになったが、それにもかかわらず彼らが実践したことと、その質によって彼らが神であると認識されてきた。スワミは『人間としての卓越性は神そのものだ』とおっしゃっている。そしてラーマは人生のすべてを通して完全にダルマの実践をされてきた。ではラーマはどのような特質により、まったく恐れることなく義務を果たすことができたのだろうか?一つ目は忍耐。ラーマの人生の中には忍耐が至る所にある。例えばカイケーイー※6に対して忍耐したり、父親に対しても、森の中で鬼たちに対して、又シーターに対して忍耐を示した。次は粘り強さ。粘り強さは自制心における卓越性。例えば忍耐強さがもしラーマになければ、シーターが誘拐されてしまったときに、アヨーディヤー※7に戻って違う人と結婚することを簡単に行えた。でもそうしなかった。ラーマは非常に忍耐をもって何年もかけてシーターを探し出し見つけた。そうした特質が人間性が卓越したラーマの特質。ゆえに彼は忍耐の象徴であるのだ。3つ目が許しという特質。皆さんがご存じのとおりラーマは人生を通してすべての者を許してきた。ラーマが社会に対して行ったすべての善いことに対して、世の中の人々はラーマを批判して困難をもたらした。忍耐や粘り強さ、許しがラーマの特質だった。シーターに関しては勿論、理想の女性だった。シーターの人生を振り返ってみると、良い子供時代ではなく、ラーマと結婚してもラーマと離れることになり、誘拐されてランカー(ラーヴァナの王国)で暮らし、その後はさらに人々から非難された。シーターが示した特質としては、良くない批判は無視して、許し忘れたということ。」
「ラーマの物語ではラーマご自身がヴィシュヌ※8の化身であるということが大きな事実。ラーマが示してきたいろいろな理想を私たちが人生で適用しようと考えていることは、大変祝福されたことだと思う。ラーマの特質で思い出されるのは、ラーマは自分の母親に対して非常に従順であったこと。ラーマは『自分の両親に従順に仕える息子は祝福されている』と述べた。ラーマは許しの性質をもっていて、とても丁寧に親切に接する方であって平静の化身でもあった。ラーマがラクシュマナに『他者の福祉、幸せが私たちのダルマです』と言われた言葉があった。人生のすべてを通してラーマは自分のダルマを実践してきた。そしてラーマは犠牲を示すことにおいても模範だった。そのようなラーマの理想を学んでそれを実践していけたらと思う。シーターと聞いて最初に心に思うことは、ラーマに対しての無私の愛。正義とかダルマにも従った方だった。本当に理想の妻であり、娘であった。また多くの辛い状況に耐えたことも特筆に値する。特に感謝を捧げるという点においても、とても寛容な側面があった。最後にハヌマーン※9がシーターを救出したときには、ラーヴァナの命令で守衛をしていた女性が全員殺されそうになったところを『許して開放するように』とシーターが言った。そのように寛容を示していた。総合的にまさに理想の女性だった。」
「スワミは他者の模倣は良くないとおっしゃっている。一人ひとりが個人としての独自性を持ってなければならない。今日、流行とかトレンドを追わず、個人としての独自性に従っていくことが大切。また、他者の自分への判断を気にすることによって私たちが独自性をもって振舞えていないということが起こっている。他の人たちがどう言うとか、他の人たちがどう思っているかで決まり、私たちは完全に他者にコントロールされていると思う。こうしたことをすべて避け、自分自身の足で立つためには、しっかりとした自信を得なければならない。そして神を信じることが、大いに物事を成し遂げるための勇気や自信を強く与えてくれるものだと思う。スワミが『self-confidence』という言葉を自信という意味でおっしゃったが、セルフとは自己と訳されるが、それは神そのもののこと。まず神に信仰を持って、またその神が内にいると信じること。それが精神的にも霊的にも独立していくための第一歩。また精神的に他者に依存してしまうことは、肉体的な意味で物質的に他者に依存することよりも、もっと悪いこと。他者を批判している人々は常に絶えず変化していく。一方、ただ一つずっと変わらないもの、その方に対して私たちが応えていかなければならない。その存在は、私たちの中にいらっしゃる神様だけである。多くの人は他の人がどう思うだろう、何を言うだろうかと思って結局何もできない。多くの人が他者の奴隷になってしまっている。であればこそ神に対して信仰をもつことによって、自立性が得られる。ラーマクリシュナ・パラムハンサ※10も『愚か者に従ってはいけない』とおっしゃっていて、同時に賢い人の真似を単にしてもいけないともおっしゃっている。本当に賢い人に対して従うのではなく、私たちはただ神に対してのみ応えなければならない。」
「今日、肉体的に多くのハンディキャップや困難を持った人がたくさんいるが、それにも関わらず上手く振舞える人々がたくさんいるのを知っている。そういった人々は身体に問題があったとしても自信をもっているからそうできる。日本のお年寄りの皆さんは、自分でバスに乗ったり、自分で買物に行ったり、とても自立的に振舞っている方が多いと感じている。また、スーパーマーケットで見かける年老いた女性の方で本当にすごく腰が曲がってしまっている方も一人でスーパーマーケットを歩いていらっしゃる。とても自立されているなと思って見ている。そして、精神的にどれほど自立することができるか。それは精神的に私たちがどういう能力をもっているのかというポイントになる。何か疑いをもってしまったり、メンタルの強さを必要とする局面に私たちを助けてくれるものは、やはりサイ文献だと思う。」
「私たちは誰も皆そこまで完璧ではなく、皆何が正しくて何が間違っているかということをその人なりに判断しようとするが、ラーマの場合は完全な人なので、ただこれは正しく、これは間違っているということだけだった。私たち人間は私たち自身にたくさんの欠点がある。どうして自分たちももっている欠点を抑えるために暴力を使う必要がそもそもあるだろうか? そのような態度が私たちがより完全さに近づくのを助けてくれるだろう。ラーマの人生においても、人を傷つけたり殺す場面もあるが、私たちの場合には暴力が必要という状況に直面しても、その状況を平和裏に解決できるように、その状況が解決するのを待つということではないかと思う。」
「非暴力は私たちの進歩的な霊的な人生において何も障害にならないと思う。私たちがよりポジティブな態度で生きて行こうとするときに、非暴力を実践することがそれを邪魔することはない。一方で社会的な状況で何か平和的な状況を乱すものが社会の中にあった場合、例えば雨が降る状況で、庭から自分の家の方に虫が飛んでくるときに、非暴力的な観点からは、虫などが家の中に入ってくるべきではないが、虫がどうしても入ってきてしまったら家から出さなければならない。虫を外に出して取り除くということを可能な限り平穏な方法で行わなければならないと思う。またラーマの人生においても、世の中の平安を乱すような社会的な状況があった。そういった状況の中で世の中に平安を取り戻し確立するために、それを乱している存在を彼は取り除かなければならなかった。その部分を見るとラーマは暴力的な手法も適用したが、それは同時に社会に非暴力を確立するためだった。」
ババ様の御言葉
「『ラーマーヤナ』は、兄弟の理想的な関係とはどのようなものか、家族の成員はいかにして両親の愛を手に入れるべきか、夫と妻の理想的な関係とはどうあるべきか、特定の状況にある特定の人間の義務とは何か、などを示す素晴らしい聖典です。ラクシュマナとバラタとシャトルグナは、ラーマの道を固く守り、ラーマの指示に厳格に従って生活しました。この国のすべての家族は彼らの模範に倣うべきです。シーターは、夫のためならいかなる困難にも立ち向かう覚悟、いかなる犠牲をも払う覚悟ができていました。シーターは自分のための安楽は何も求めませんでした。シーターは人生をラーマへの奉仕に捧げました。」
1988年3月26日
※1 ラーマ:トレーターユガにおける神の化身、美徳と正しい行いにおける最高の模範。
※2 シーター:トレーターユガの神の化身ラーマ王子の妃、妻としての理想のダルマを世に示した。
※3 シュールパナカー:ラーヴァナの妹。ラーマとラクシュマナに結婚を申し込んでラクシュマナに鼻と耳を切り落とされる。
※4 ラーヴァナ:『ラーマーヤナ』に出てくるランカーの羅刹(悪鬼)の王。
※5 スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※6 カイケーイー:ダシャラタ王の第三王妃。バラタの母親。
※7 アヨーディヤー:サラユー河の岸辺にあったラーマの生誕地。古代インドのコーサラ帝国の首都。
※8 ヴィシュヌ(神):宇宙を維持し守護する役割を担っている神。
※9 ハヌマーン:『ラーマーヤナ』に登場する猿。ラーマを深く信愛し献身をささげた。
※10 ラーマクリシュナ・パラマハンサ:(1836~1886)バクティによって神に到った一九世紀のベンガルの聖者。カーリー女神を熱烈に信愛した偉大な聖者であり、あらゆるヨーガの大家。
開催日:2021年9月2日(水)
テーマ:1976年夏期講習青い山の夏の薔薇P121-P123「カリの時代への警告」
参加者:54名
質問:
① ドラウパディー※1の辛辣な質問を、なぜビーシュマ※2は良い質問であると指摘したのか?
② ビーシュマの言葉(シャーンティパルヴァ;訓戒)からカリの時代(カリユガ:暗黒の時代)の生き方へのどのような警告を受け止めるべきか?
③ なぜ死のときは誕生のときよりも重要で、それをどのように定める術があるのか?
参加者のコメント:
「①についてドラウパディーが質問しなければこの答えを私たちが知ることはできなかった。パーンダヴァ兄弟※3は口になさらない質問なので、私たちが知るためにドラウパディーが質問してくださったのだと思う。」
「①にについてビーシュマ自身も自分の中の変化を分かっていたと思う。昔、賭けに負けたときに正しい行いができていなかったことを今は分かっていた。それについて目隠しのように正しい行いを発見できなかったという点をドラウパディーがよく分かっていたので、他の人々に広く教えてあげるように指摘をしたと思う。」
「この本にはビーシュマのこと、食物のことなどがいろいろ書かれている。 『ブリンダーヴァンの慈雨』にも食物に関する記載があり、決して食べ物だけではなく、見るもの聞くものすべてにおいてスワミ※4は『良いものを見なさい。良いものを聞きなさい』とおっしゃっている。いろいろな仕事においていろいろな正しい判断を迫られることがあるが、たとえ正しいことを言うことに軋轢があっても、正しいことを押しとおしていくことではないか。」
「ビーシュマの言葉から教えていただいたことは、本人はすごく神を信じ正義も充分に分かっていたが、実際の行動の中で善であるパーンダヴァ兄弟の側に味方できなかった点だ。生活全体が悪の側に付いて生活していて、食べ物も全部悪の側から得ていたので、結果的に悪い血となって流れてしまった。それと似たことは現代にもあると思う。動物的な物を食べないということや、生活全般、付き合う人々に関して善の側にいつでも付けるようにし、常に善としての行動を行っていくことが本当に重要。」
「どのように生まれるかは自分で決められないが、死とは生き方そのものが全部現れたものだとスワミがおっしゃっている。どのような死に方をするかによって次の転生が決まるので、どのような生き方をするかによって、死に方を自分で決められると思う。」
「人生の目的は何か。目的から目を離さずに、神との合一というゴールを決して忘れないで、セヴァ(無私の奉仕)によって、祈りによって、最終的にはスワミの恩寵によりたどり着く。カリの時代(カリユガ:暗黒の時代)の邪悪な影響に関して、ハートが思いやりでいっぱいの人や、言葉が真理に満ちている人、身体が人への奉仕に使われている人は邪悪な影響力にまったく影響されないということが、サンスクリット語の詩に記されているということを知った。思いやり、真理、奉仕、祈り、恩寵が神へとの合一への道だと思う。」
サイの学生のコメント:
「ドラウパディーの質問は本当にとても良い質問だと思う。このときにはビーシュマが最期の死の床に伏していて、苦悩していた。そのことに対してドラウパディーが質問した。ダルマラージャが宮廷でギャンブルをしていたとき、そのゲームが正しく行われているかどうかを審判のように仕切っていたのがビーシュマだった。ゲーム全体を通してカウラヴァ側が非常に多くの違法なことをパーンダヴァ側に行ってきた。そのサイコロ遊びのときにダルマラージャ※5が自分自身を賭けて自分自身を失ってしまった。ゲームで失われたはずの自分自身が、次に自分の妻を賭けたが、それ自体がルール違反でダルマに反していた。でもダルマラージャがしてはいけないことを行っても、その審判をしていたビーシュマは何も指摘しなかった。その後、有名な場面であるドラウパディーがサリーを引っ張られ屈辱を受けそうになる事件が起こったときに、その場の仕切り役であったビーシュマはドゥルヨーダナ※6を殺すことさえできたはずだったが、一言も異議を述べなかった。なので、最期にビーシュマが死の床に伏しているときに、ドラウパディーは『貴方は本当にそんなことを説いているけれども、人生でダルマが一番必要な場面でそれをしなかったのではないですか?』と指摘した。このような質問はカリユガの今の時代では本当に大事になっている。なぜならば人々の間で特に権力を持った人々が悪いことや間違ったことを行っていてもそれを止めようとしていない。権力を持った人々がどのような判断をするのかということが、人々の人生を左右するぐらいの力を持っている。判断する人々は自分がどんな判断で権力を振りかざすのか、とてもとても注意していかなければならないと思う。どの組織にいたとしても、その中で行われている特定の悪いことに加わるのを止めなければいけない。今の物語の中ではドラウパディーがたくさん指摘して、それをビーシュマが良い質問だと認めて最後には受け入れた。ところが現在のカリの時代では、その間違いを犯した権力のある人々は、決して間違いを認めることがなく、さらにいろいろな指摘を受けると嘘を言ってまでそれを守ろうとする。カリの時代においてこのポイントがいかに大事であるのかということだと思う。」
「ドラウパディーが指摘したように、本当にビーシュマはそのときには権力があっていろいろな不義を止めることができる権限や能力があったが、それをしなかった。ビーシュマが本当にどうするべきだったか、本当の優先順位はどうだったのかをドラウパディーが述べた。ドラウパディーが宮廷で屈辱を受けそうなときにビーシュマは、ドラウパディーを救うことよりも、仕えていた王に仕えることを優先していた。そのとき、ビーシュマにあった選択肢は自分の王に対して忠誠を誓うのか、あるいはドラウパディーに対して正義を行うのかの二つだった。複数の選択肢があって、それらが対立することがカリの世の中において、また職場や属する組織でも起こっていることだと思うが、そういった場合にできることが二つあるのではないかと思う。一つは、ビーシュマは食事をいつもカウラヴァ側から頂いていたのでカウラヴァ側を支持しなければならなくなった。このことは、非常に多くのことがどのような仲間と共に過ごしているのかによって大勢が決まると教えている。もう一つ、誤ったことを止める権力のある人は、どのような関わりにおいても非常に注意深くいることが必要。どれほどビーシュマに知識があって戦う能力があっても、女性を救うことができなければ、持っている知力、能力は無駄になっている。とりわけ権力をもった人は非常に正しい判断を行っていくことが大事。」
「ここで大事なポイントは『黙っていることがときには悪いことに加担するよりももっと悪い』というケースがあること。何が正しいことなのかをただ知っているだけでは充分ではなく、その上でどう振舞うことができるかということ。いかなる霊的な実践に関しても、『知っていても実践しなければ意味がない』と常々言われている。そして二つ目の大事なことは、どんな仲間と共にいるかということ。私たちは直接的にも間接的にも仲間からの様々な影響のもとにいるだろうと思う。三つ目が食べ物に関すること。このことに関してスワミは食事をする前に必ずフードマントラを唱えるようにおっしゃっている。ブランマールパナムのマントラの一番大事な点は、すべてを神に捧げて、それによってすべての物がプラサーダム(供物のお下がり)に代わり、そこにある悪いものが破壊されることだと思う。如何なる状況の中でも誰でも、何か心の中で言いたいことがあると思う。物事を言うか言わないかというときに、自分の側に真実があるときはそれを言うことを恐れてはいけないということ。そしてどのようにすればいつも正しいことが影を上回るようにするのかという点に関しては、いつもスワミから学んで実践することを通して、影を上回るものをもたらすことができると思う。どんなときも、もしそこにスワミがいたらどうだろうかと考えながら、自分たちの行動を見張っていくことが大事になる。このシャーンティパルヴァ(ビーシュマによる訓戒)から学ぶことは、ただ説教するよりも実践することが大事だということだと思う。」
「マハーバーラタ全体を読んだときに一番重要な登場人物がビーシュマだと思う。本当に最初からこの物語を読んでいると、最初はカウラヴァ一族がいろいろな悪いことをしたときには、ビーシュマが彼らを叱って、より正しい道に戻そうとしていたことがあった。そしてビーシュマは元々徳高い人で、自分の言ったことを守ることにおいて有名な人だった。また、いろいろな誘惑に反して、最後まで独身を通した特質があった。シャーンティパルヴァに関して一つ言えることは、死の床についているときだったが、ビーシュマは矢に射られた非常な痛みの中で最期のときに自分の犯したすべての過ちを認めることができた。そしてこのビーシュマの場合から学ぶのであれば、 『いつも間違いを犯したら直ぐに間違いを認める』ことが大事ではないのかということ。」
「夏期講習の御講話にあるように、ビーシュマが肉体を去るまで50数日間待ち続けた。正しいときに亡くなるために、正しいときを待ったということが非常に大事なのだと思う。どんなことに死が依存しているかというと、それ以前にどのような行いをしてきたかということによってそれが決まる。亡くなった後で自分の名前がどういう評判を保っているかは、完全に私たちの側のコントロールのもとにある。私たちにできることは、どのように善良な人間でい続けることができるのか、肉体を去った後にどのような遺産があるのかということが大事だと思う。人生が与えられている今、自分の人生をより良く形作っていくことから始めていく必要があると思う」
ババ様の御言葉:
「死というものをじっくりと考えることは、まさに霊性修行の基盤です。それがなければ、人は必ず嘘偽りに陥り、五感を悦ばす対象物を追い求め、物質的、世俗的な富を積み上げようとします。死は災難ではありません。死は、その先にある吉祥なる光明へと到るステップです。」
1970年7月18日
※1ドラウパディー:夫の前で辱めを受けてクリシュナ神に救済を求め救われたパーンダヴァ兄弟の共通の妻。
※2ビーシュマ:『マハーバーラタ』の英雄でシャーンタヌ王とガンガー女神との間の子。カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の大叔父。
※3パーンダヴァ兄弟:「パーンドゥの息子たち」の意。『マハーバーラタ』に出てくるパーンドゥ王の五人の息子。
※4スワミ:聖者などの尊称、ここではサイ・ババ様のこと。
※5ダルマラージャ:パーンダヴァ兄弟の長兄、ダルマの王の意、ユディシティラの別名。
※6ドゥルヨーダナ:『マハーバーラタ』の悪役。カウラヴァの百人兄弟の長男。
