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​第 61 回
(最終回)

 バガヴァン ババによると、実行に移されることのない知識は無駄です。実践によってのみ、人は知識の恩恵を受けます。ババはお尋ねになります。

「明かりに関する知識だけで暗闇をなくすことができますか? 料理の本が空腹をなくしてくれますか? 経済学の論文が貧しい人の苦しみを和らげますか? ただ薬の効能を聞いただけで自分の病気を治せますか? 聖典の学識だけで自分の無知を取り除けますか?」

そして、ババ自身が答えておられます。

「実践されることのない知識を手にして得られるものは、大きなゼロです」。

 

 実行力は、ババの教えの中でとても重要な要素です。1985年11月に行われたシュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの第4回世界大会のしめくくりに、ババは「神へと至る10の道」を世に示されました。
 

1.母国を愛し、母国に仕えなさい。他者の国を憎んだり、傷つけたりしないこと。

 

2.あらゆる宗教を敬いなさい。すべての宗教は、同一の神に到達する道です。

 

3.一切の差別をせずに、万人を愛しなさい。全人類が一つの共同体であると知りなさい。

 

4.自分の家と周囲の環境を清潔に保ちなさい。あなたと社会に健康と幸福が約束されます。

 

5.物乞いが手を伸ばしても、金銭を与えないこと。彼等の自立を助けなさい。病気や老齢で苦しんでいる人々に、食物、寝場所、愛、親切等を施しなさい。

 

6.賄賂によって他者を惑わせたり、それを受け取って自分をおとしめたりしないこと。

 

7.いかなるときにも、妬みや憎しみを持たないこと。

 

8.自分の必要は自分で満たし、他人に頼らないこと。他者への奉仕を手がける前に、先ず自分自身の召し使いとなりなさい。

 

9.国家の法律を守り、模範的な市民となりなさい。

10.神を愛し、罪を恐れなさい。
 

 1985年12月29日、ブリンダーヴァンで、シュリ・サティヤ・サイ・高等教育機関の学生たちに向かってバガヴァンはおっしゃいました。

 「自分の道徳的、霊的な強さを伸ばすためには、マインドを律するサーダナを実践すべきです。この目的のために、10種の清浄を促進しなければなりません」

 

その10の指示は、すべての若者にとって重要な指針です。それらは以下のとおりです。

 

1.一番目はあなたが住む場所の浄性です。部屋は清潔にして、不潔なものがないようにすべきです。目に入る絵や写真や他の物は、それを目にする人が平安と清らかな思いで満たされるものであるべきです。悪い思いや興奮をかき立てる物を置くべきではありません。生活する場所、勉強する場所には、サットウィックな(浄性の)空気があるべきです。

 

2.家族の間に、和の空気を作り出すよう努めるべきです。家族の不和は、生活したり勉強したりするのに不適切な、ふさわしくない空気を作り出します。

 

3.タマシックやラジャシックな(鈍性や激性の)食物を食べないようにしなさい。すなわち、過度に酸っぱいもの、刺激物や激辛のものは食べるべきではないということです。非菜食の食べ物も避けるべきです。善良で敬虔な生活には、サットウィック(浄性)で菜食の食べ物が最も適しています。

 

4.飲み物は清らかで浄性であるべきです。決してアルコール類を摂取してはいけません。

 

5.善い感情と善い思考を育てるように努め、悪い感情や思考は締め出しなさい。

 

6.もしあなたが善い感情と善い思考を培いたいのであれば、その助けとなるようなものだけを見るようにすることが大切です。悪いものを見ると悪い思いが湧いてきます。スリシティ〔創造世界〕はドリシティ〔見るもの〕に左右されます。年上の女性は誰もが自分の母親であると見なし、年下の女性は自分の妹であると見なさなければいけません。

 

7.読む書物は、あなたの生活の清浄を育てるのに役立つものであるべきです。あなたに間違った感情を抱かせるような本は避けなさい。文学以外の学科の本があなたの人格に影響を与えることはありませんが、文学の書物を学ぶときには細心の注意を払いなさい。もし学習ということで不適切な本が提示されたら、人生の指針としてではなく、単なる教材としてのみ扱いなさい。

8.自分が関わる奉仕活動は注意深く選びなさい。それらの活動はあなたが清浄を育てる助けとなるべきもの、あなたに喜びを与えるものでなければなりません。また、あなたが行う奉仕活動によって、それを受け取る側の人たちが幸せになるようなものでなければなりません。そのためには、あなたが奉仕をする相手を神の化身と見なすべきです。ダリドラ・ナーラーヤナ〔貧者の姿をとった神〕、すなわち、貧しく、困窮している人々に奉仕することを選びなさい。彼らもまた神の現れだからです。

 

9.サーダナすなわち霊性修行を、規則的に実践するようにしなさい。そうして初めて、清浄なマインド(心)を保持することができます。すべてのサーダナの真髄は、どんな人に対しても清らかな無私の愛を持つこと、すべての人、すべてのものの中に神を見ることです。

 

10.自分に合った、正しい職業を選ぶようにしなさい。あなたが生計を立てる助けとなる存在は、国家や共同体です。ですから、社会のためになる機会を探さなければいけません。自分の義務を果たす際には、常に公正で、公平で、正直で、正しくあるよう気を付けなければいけません。」

 

 人類全体に当てはまる、幸福で目的のある生活のための一般的な見解とは別に、バガヴァンは、真剣に大望を抱く人々に対して、状況に応じた非常に実用的な指針も与えてくださっています。その例を挙げてみましょう。

 

 「怒りがこみ上げてくるのを感じたら、その場から立ち去って、気持ちを静めるための時間をとるとよいでしょう。あるいは、コップ一杯の水を飲んで静かに座る、あるいは、怒りを克服するために1マイルほど足早に散歩する、あるいは、鏡の前に立って自分の顔を見る、あるいは、主を讃える歌をいくつか歌い始めるのもよいでしょう」

 

 バガヴァンは名シンセサイザー(統合する人)です。私たちは「サルヴァ ダルマ サマンヴァヤとサルヴァ ヨーガ サマンヴァヤ、すなわち、すべての宗教とすべての道が調和して溶け合っているのを見いだします。宗教上の異なる原理原則や習わしに見られる明らかな矛盾は、ババが無私の愛という共通の糸と、それらすべてに共通して流れている統合的な英知を指摘するとき、消え去ってしまいます。さまざまな道の一見違って見えるアプローチは、バガヴァンが人々の前で、ありとあらゆる人に伝えている、「一つである」という直観的に感じ取ることのできる体験という、目もくらむような光輝の中に消えてしまいます。バガヴァンにとって、人の生活における物質的な側面と霊的な側面は、別々のものではありません。双方が溶け合うことで、神の計画の中に存在する喜びを分かち合う人生への統合的アプローチという天のシンフォニー(交響曲)が生まれるのです。バガヴァンによって示された黄金の道においては、科学と霊性の間にある幻の障壁は崩れ去り、真理という統一された探究へと道を譲ります。

 

 バガヴァン・ババの究極の教えは、「私の人生が私のメッセージです」というものです。ババの模範的な人生という爽快な本は、私たちの時代に日々ページがめくられており、すべての人々に永遠に開かれています。

 

 すべてのサーダナの真髄は、すべてのものに奉仕し、すべてのものを愛することです。

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​第 60 回

 神なる主は、成就させるために来られたのであって、破壊するために来られたのではありません。異なる諸宗教の経典は、異なる時代に異なる国々の人々に合わせて作られた、同じ主の啓示書以外の何物でもありません。ですが、時が経つに連れ、経典は繰りかえし解釈し直され、霊的な体験のない上辺だけの学者や既得権者によって、何度も曲解されてきました。そのような誤った解釈のせいで、諸経典の教えの真の意味は、あまたの塵や埃で覆われてしまいました。それらは、主が再びこの世界に現れて永遠の真理を語られるとき、本来の明瞭さの中で明るい光を放ちます。主は古来の経典に新たな光を投げかけて、それらの真の精神を明らかになさるのです。

 

 バガヴァンは、バガヴァッド・ギーターの真髄は、最初の句の一行目の前半、「ダルマクシェートレー クルクシェートレー」に示されていると指摘なさっています。この句に少しアレンジを加えて、バガヴァンは、ギーターは人に「クシェートレー クシェートレー ダルマムクル」――人生のどんな局面、場面においても正しい行いをする――ということを強く勧めていると明言なさっています。さらに、ギーターの最初の句の最初の単語と、最後の句の最後の単語をつなげて、この聖典の真髄は「ママ ダルマ」――「私のダルマ」であるともおっしゃっています。

 

 「誰であろうと、信愛を持って私に、パトラム――葉や、プシパム――花や、パラム――果実や、トーヤム――水を捧げるならば、私はそれを受け取ろう」と、主はギーターの中で宣言なさっています。捧げるときに大切なのは信愛の気持ちであって、品物ではありません。品物は単なる象徴にすぎません。バガヴァン・ババは、さらにこう付け加えておられます。

 

 「パトラムとは何ですか? それはあなた方の周りにある普通の葉っぱのことではありません。パトラムの内なる意味は、あなたの体です。プシパムとは、あなたのフリダヤ・プシパム――ハートの花のことです。パラムとはあなたのマノー・パラム――あなたの心(マインド、マナス)という果実です。トーヤムとは蛇口や川から流れ出る水のことではありません。それは、アーナンダ・バシパム――誠実で信心深いハートからあふれ出る、喜びの涙のことです」。

 

 「アーディヤートマ・ラーマーヤナ」には、ラーマは14歳の時に人生への興味をすべて失い、そのため、両親や他の者たちは頭が混乱し、狼狽したと書かれています。ババはそのことを次のように明かしておられます。

 

 「国内の数々の寺院や聖地へ巡礼の旅をした後、ラーマは14歳になるまでの数年を、人里離れた場所で、あたかも内省しているかのようにして過ごしました。ラーマは食物を摂ることや、王族らしい服装を嫌がりました。ラーマは人にも物にも関心がありませんでした。ラーマは、指や手を振ったり、何も明らかな理由がないのに笑ったりしました。ラーマは指で空中に何かを書いたりしました! ラーマは理由もなく笑い出しました。要するに、ラーマの振る舞いや動作は、私の10代前半のころとまったく同じだったのです。ヴァシシュタ仙は、ラーマの頭を正常な状態に戻そうとしました。しかし、それはすべてのアヴァターたちが自らの降臨した目的である務めに乗り出す前に通らなければならない、段階にすぎませんでした。その期間に、アヴァターは自らのマスター・プランを描いているのです。その期間が終わったころ、ヴァシシュタ仙が登場し、ヴェーダの儀式を汚した羅刹たちからアシュラムを救うためにラーマを私と共に遣わしてほしい、とダシャラタ王に願い出ました。そうして、神の計画が繰り広げられることになりました」

 

 唯一、アヴァターだけが、他のアヴァターを理解することができます。他の誰がラーマの奇妙な振る舞いに以上のような説明をすることができたでしょうか?

 

 プルシャ・スークタムには、ヴィシュワ・ヴィラート・プルシャ――宇宙に遍在する神人――には千の頭と、千の目と、千の足があると述べられています。ババはこのように説明なさっています。

 

 「ヴィシュワ・ヴィラート・プルシャは、画家のラヴィ・ヴァルマーや、詩人によって描かれているような姿をしているわけではありません。彼は、宇宙全体に遍満している宇宙の神人です。幾千もの姿をとって現れる者です。それはまた、全世界はその神の顕現にほかならないということも意味しています」

 

 ウパニシャッドは、「不滅は、ティヤーガすなわち犠牲によってのみ手にすることができるのであり、富や子孫や供犠によって手にすることはできない」と宣言しています。真のティヤーガとは何でしょうか? バガヴァンは答えておられます。

 

 「ティヤーガ、あるいは捨離とは、家庭を捨てて森へ入ることではありません。卑しい、利己的な欲望を手放すことが真のティヤーガであり、それは人をヨーガへと導きます。つまり、人はすべての思いと言葉と行いを神への捧げものとして昇華させなければならないということです。そうするためには、人はプレーマ〔愛〕を培わなければなりません。プレーマはティヤーガで育ちます」

 

 動物の生贄という悪習に関してですが、それは一部の人々が宗教上のしきたりを誤って関連付けたことに起因しています。ババはおっしゃいます。

 

 「生贄にされるべきは、不運なパシュ、動物ではなく、パシュトヴァム、あなたの中にある動物的な性質です」

 

 アシュワメーダ・ヤーガ――馬供犠――についての詳細を語りながら、ババはこう明言しておられます。

 

 「アシュワメーダ・ヤーガとは、馬を殺す儀式を意味するのではありません。このヤーガの意味しているのは、馬の足や尻尾や耳のように一時もじっとしていられない、落ち着かないマインド〔心〕のことです。真のアシュワメーダの意味するところは、気まぐれなマインドを生贄にして神に捧げ、そうすることで、マインドは安定した、静かなものになる、というものです。経典で使われている言葉には多くの意味があります。それらに含まれる内的な意味を理解するのは難しいことです。あなた方は、真理、正義、平安、愛と非暴力といった、サナータナ・ダルマの崇高な原理に基づいたとき、初めてその正しい意味を理解することができます。私心のない、清らかで、喜びに満ちた集中をもって、ヴェーダの格言や儀式や聖典の訓令に含まれる深い意味に耳を傾けなさい。日常の生活の中で実践するために、そして、他の真面目な魂たちと分かち合うために、それらをハートの中に大切にしまっておきなさい」

59

​第 59 回

 時折、ババはある概念を説明なさるのに、語呂合わせや言葉遊びによって深い意味を持たせることがあります。そのような事例をいくつかあげてみましょう。

 

 「自己中心的な人は至高なるものに到達することはできません。それゆえ、私たちは広い心を養い、私心なく人類同胞に奉仕するよう努力しなければなりません。ムクティすなわち解脱を追求するときでも、自分のことだけを考えていてはいけません。テルグ語のナー ムクティ、私の解脱、にしか関心のない人は、サンスクリット語のナー ムクティつまり解脱のない状態、へと導かれるだけです!」

 

 現代人は原子を核分裂させることは知っていてもハートに愛がないという事実に言及し、ババはこうおっしゃっています。

 

 「今、私たちには、愛を増幅するような科学が必要です。ところが、今、私たちが目にするのは、愛のスピリット(精神)ではなく、愛のスプリット(分裂)だけです! 前の時代には考えも及ばなかったほど科学や文明が発達した時代において人間の状態はどのようなものであるべきか、考えてごらんなさい。科学や技術工学の知識など何もなかった、暗黒時代と呼ばれていた時の方が、人間は幸せで気高い人生を送っていました。今、人間は動物よりもひどい残酷さに陥っています。人間は生命への敬意を失ってしまいました。そうであるなら、私たちがたいそう自慢している文明の進化など、どこにあるというのでしょうか?」

 

 誰もが心(マインド)の平安を声高に求めていますが、ほとんどの人はそれをどうやって手に入れるのか知りません。バガヴァンは、実に簡単な方法で平安の秘訣を教えてくださっています。

 

 「人々は、私は平安がほしい、I want peaceと言います。この言葉から最初の2つの単語(I・私、want・欲しい)を取り除くと、そこには平安が残ります。ですが、誰一人としてI(私)すなわちエゴ(我執)、やwant(欲しい)すなわち欲望を捨てようとはしません。それでどうしてpeace(平安)を手に入れることができますか? 人々はpieces(粉々の断片)に砕けてしまうしかありません!」

 

 人生における、クシャマ、すなわち「不屈の精神」あるいは「堪忍寛容」の重要性を強調して、ババはおっしゃっています。

 

 「クシャマは、経典によると、真理、正義、英知、自己犠牲、そして、喜びと同一のものです。クシャマなしには、人は、クシャナ、つまり一瞬たりとも、幸せではいられません。クシャマは神の特質を促進します。クシャマは内なる神性を顕現させます」

 

 私たちは、自分の富や地位、あるいは肉体的な武勇によって神に印象づけることはできません。バガヴァンは宣言なさっています。

 

 「主が考慮するのは、あなたのバクティ、信愛であって、シャクティ、力ではありません。神が好ましく思うのはあなたのグナ、徳であって、クラ、カーストではありません。神が見ているのはあなたのチッタム、ハートであって、ヴィッタム、財産ではありません」

 

 バガヴァンは説明なさっています。

 「いかなる目標も、それを達成するためには、クリシ、努力と、クリパ、神の恩寵、の両方が必要です。両者はちょうど磁石の陰極と陽極のようなものです。人は恩寵を信じて祈るべきです。神の恩寵を心から求めるなら、誰であろうとそれを手にすることになります」

 

 バガヴァンは、次のような言葉で現代における信愛の浅さと中身のなさを嘲笑なさっています。

 

 「主はいつも帰依者たちの祈りに応えようと待ち構えています。しかし、近ごろの信愛(ディヴォーション)が浸るのは深海(ディープ オーシャン)、つまり、世俗的な生活という大海だけで、人々はどっぷりとそこに浸かっています。人々はディヴァイン(神)について語りますが、興味があるのはディープ ワイン(濃い酒)だけです。人々はコンパッション(思いやり)について語りますが、関心があるのはファッションだけです。人々はコーポレーション(協力)について話しますが、オペレーション(作業)にふけっているだけです! 近ごろでは、信愛は仰々しい見世物に成り下がってしまいました」

 

 バガヴァンの深遠な発言はもっとあります。その中には機知に富んだ言葉遊びや語呂合わせが含まれています。

 

 「愛は、ギヴィング(与えること)とフォーギヴィング(許すこと)によって生きています。エゴは、ゲッティング(手に入れること)とフォーゲッティング(忘れること)によって生きています」

 

 「プロパーティーズ(財産)は、プロパー(適切な)タイズ(縛り)ではありません」

 

 「ダイ マインド(マインドを滅すること)は、ダイヤモンドよりも価値があります」

 

 「フィロソフィー(哲学)は、知的な頭の体操へと堕落すると、フル ロス オフィー(知性の完全なる喪失)となります!」

 

 「真のセーヴァカ(仕える者)だけが、良きナーヤカ(リーダー)となることができます」

 

 「あなたは、真のキンカラ(召し使い)であるときにだけ、シャンカラ(神)になることを目指すことができます」

58

​第 58 回

 きわめて興味を引き、かつ効果的な例え話は、どの師の教えの中でも重要な部分です。ババは熟練の語り手です。ババの例え話を聞くのはとても愉快で、有意義です。同じ話でも、ババの口から別の機会に語られると、ババがいつも新しい見方やバリエーションを加えられるために、新しく、違った風に聞こえます。そうしたババの「チンナ・カター」〔小話〕の数々は、とても心を引きつけられる読み物となります。

 

 上辺だけの学識や単に口達者なだけでは、神の恩寵を得る助けにはなりません。神に対する子供のように純真な信仰心があるならば、驚くべき果報を手にするでしょう。1982年1月23日、マドラスでの御講話において、バガヴァンはこのことについて適切な例え話を使って説明なさっています。

 

 「あるとき、バーガヴァタムに精通している偉大な学者が、ブリンダーヴァンの牧童たちの幼子クリシュナへの信愛を称賛していました。聴衆の中に一人の泥棒がいて、宝石を身に着けた美しいクリシュナという描写に引き付けられました。泥棒は幼子クリシュナが身に着けている宝飾品を盗みたいという衝動に駆られました! 講話が終わると、泥棒はその学者に近づいて、どこに行けばクリシュナに会えるのかと尋ねました。学者は幾分そっけなく答えました。『ブリンダーヴァンだよ。ヤムナー川の土手の上だ。夜にね』

 泥棒はすぐにそこへ行きました。すると、主がたくさんのきらびやかな宝石を身に着けた12才の少年の姿で泥棒の前に現れました。けれど、それほどに愛らしい者から一体どうやって宝石を奪うことなどできるでしょう? 泥棒は何時間もの間、法悦に我を忘れてその姿を眺めていました。宝石を欲しいとは思わず、欲しがったことを恥じました。しかし、クリシュナは彼が宝石を欲しがっていたことを知っていました。クリシュナは、自分が身に着けていた宝石を一つひとつ外して驚いている泥棒に手渡し、消えてしまいました!」

 

 またある時には、ババは第二次世界大戦の歴史のページから、信じる心の力を示す、ある興味深い実話を語られています。

 

 「第二次世界大戦中、インドの兵士たちを運んでいた蒸気船が日本軍によって爆撃され、沈められました。多くの兵士が命を落としました。わずかに五人だけが生き残り、波がうねり寄せる海の中、何とか陸にたどり着きたいという希望を胸に、ライフボートを漕いでいました。彼らは何時間も海の波に揉まれていました。

 ある者は絶望的になり、叫び出しました。『海に飲み込まれそうだ。サメの餌にされてしまう』パニックに陥ったその兵士は、海へ落ちてしまいました。

 別の兵士は、『家族が悲惨な目に合うと思うと心配でたまらない。俺は家族の将来のために何もしてやれないまま死んでいくんだ』と、嘆き悲しみました。彼も信じる心を失い、恐怖心に負けてしまいました。

 三人目の男が言いました。『ああ! 俺の生命保険の証書は俺が持ったままだ。俺は死にかけているのに、妻はどうやってお金を受け取れるのだろう?』

 そして、彼も海に飲み込まれてしまいました。

 

 他の二人は互いに神への信心をより強固なものにしました。二人は言いました。『俺たちは恐怖に負けはしない。神の全能と慈悲を信じる心を捨てたりしない』

 二人は水漏れしているボートを捨てなければなりませんでした。それでも、あきらめませんでした。二人は海岸に向かって泳ぎはじめました。数分すると、湾岸船から送られた一機のヘリコプターがやって来ました。湾岸船は沈みかけた汽船から信号を受信していたのです。ヘリは二人を見つけて安全な所へ運びました。後に、二人は互いに言い合いました。『たった五分が生死を分けた!』

 二人に勝利をもたらしたのは信心です。信心が欠けていたために、他の三人には敗北と死がもたらされたのでした」

 

 すべての仕事は神の仕事だと信じるべきです。その信心は、私たちの仕事を礼拝へと変えるだけでなく、どんな仕事に力を尽くそうが、私たちの最高の能力を引き出してくれます。バガヴァンはこの真理を、ムガール帝国の偉大な皇帝アクバルの生涯から、興味深い出来事を引き合いに出して説明してくださいました。

 

 「ある夜のこと、アクバルは宮廷音楽家のターンセンを連れて首都を巡回していました。二人は、神を讃える歌を口ずさんでいる老人に出くわしました。アクバルは馬車を止めてその見知らぬ老人の歌に聞き入りました。その歌は心の琴線に触れ、アクバルを感動させました。時間は止まり、目から涙が流れていました。歌が止み、アクバルは夢から覚めたかのように思いました。アクバルはターンセンに、当代、誰が最高の歌い手だと思うかと尋ねました。

 『私は長い間そなたの歌を聞いてきたが、それらは間違いなく、耳に心地よく、心が癒されるものだ。だが、この老人が歌うと、私は天上の至福のような歓喜へと導かれ、私の魂は純粋な喜びという天国へと舞い上がるのだ。そなたの音楽では、このようなことは一度も起こらなかった。どうしてなのか私には理解できない!』

 ターンセンはうやうやしく答えました。

 『陛下! 私はあなたを喜ばせようと歌ってきました。けれど、この帰依者は神を喜ばせようと歌っているのです。それがすべての違いです!』

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クリシュナの物語を語るサイ クリシュナ

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神に捧げられた音楽は私たちの魂を揺さぶって神のもとへと引き上げる

​第 57 回

 バガヴァンは、深遠で崇高で真理の数々を、聞き手の心をつかむ例を挙げて理解させてくださいます。「カルマとダルマとブラフマン」は、インド哲学においておおいに論じられているテーマです。カルマとは、この世での日常的な行為のことです。ダルマは、私たちの行為を制御する規範を定めるものです。ブラフマンは、人の生涯における究極の目標です。バガヴァンは、これら三者の間の関係を主婦の日常生活の中から簡単な例を挙げて分かりやすく語っておられます。

 「家庭で作るココナッツのチャツネには、塩、唐辛子、タマリンド、ナッツという四つの材料が要ります。これらをすべて、必要な量、清潔で純正のものを調達することが、カルマ、すなわち行いの道です。それらを混ぜて潰してペースト状にすることもカルマであり、行いの道の一部です。次に、それをほんの少し舌の上に載せ、正当なチャツネの味がするかどうかを調べます。これがダルマの道です。もしほんの少し塩をかければ正当な味になるとわかったら、この段階で塩を加えます。反対に、塩気が多いとわかったら、塩を加えていないペーストをいくらか混ぜて、ちょうどいい塩加減になるまで加えます。すると、あなたはその報酬として喜びを得ます。これは喜びの段階、満足の段階であり、欲望の終焉、ブラフマンです。行動し、微調整をし、崇める――これが清らかな意識を手に入れるための方法です」

 

 神性は宇宙に内在しています。「おお、パールタ〔クンティーの子アルジュナ〕よ! 我は存在するすべてに内在するいにしえの種子であることを知れ」と、主はバガヴァド・ギーターの中で明言なさっています。ババは分かりやすい例を用いてそれを説明なさっています。

 「一粒の小さな種を撒いたとします。その種は大木へと成長します。木は何千もの実をつけ、その実の一つひとつには木の種が入っています。たとえそうであっても、この大宇宙に神性という種が植えられたとき、私たちは人間性という木がつける実の中に入っている神性という種を探し出す必要があります。木の実には種が入っていて、その種から木が成長するように、この宇宙は創造主の種を含有しているのです。ウパニシャッドにはこうあります。イーシャーヴァースヤム イダム サルヴァム(主はすべての生きものに宿っている)。人が自分の人間的性質を敬い、自分にある神の性質を見出すという義務を自覚するなら、人の内なる神は顕現するでしょう」

 

 バガヴァンによると、神が本体であり、世界はその影です。ババはおっしゃいます。

 「たくさんの実をつけたココナツの木を想像してごらんなさい。木は地面に長い影を落とします。その木に登って実をもぎとると、その人の影も同じように実をもぎとります。ですが、もし影の実だけに手を置いたとしたら、何も手に入れることはできません。もし神を知ろうと努力して、それに成功すれば、その人はこの世でも勝利するのです」

 

 カルマ、バクティ(信愛)、グニャーナ(英知)という三つの道は、真我顕現という同じ目的地へと導いてくれます。旅路の形態が少し違うかもしれないだけです。この主旨を説明するために、ババはこれら三つの道を、同じ目的地へ向かう列車の旅の三つのタイプに例えておられます。カルマ・ヨーガは、目的地に着くのに乗客は途中で列車を降りて2回か3回乗り換えが必要な旅です。バクティ・ヨーガは、乗客を乗せている客車が連絡駅で切り離されて別の列車に繋がれるような旅で、乗客は降りる必要はありません。グニャーナ・ヨーガは、出発地から目的地まで一本の直通列車で旅をするようなものです。バガヴァンは、これを少し変えた例も挙げておられます。

  「カルマ・ヨーガは歩いて旅をするようなもの、バクティ・ヨーガは牛車に乗って旅をするようなもの、グニャーナ・ヨーガは飛行機で旅をするようなものです」

 

 瞑想についてはバガヴァンはこうおっしゃっています。

 「多くの人々が、ディヤーナ(瞑想)はエーカーグラター(集中)と同じであると誤って考えています。瞑想は五感を超えた所で行われるプロセスであるのに対して、集中は五感のレベルでのプロセスです。両者の間には、チンタナ(黙想)と呼ばれる境界域があります」

 

 ババは分かりやすく説明なさっています。

 「バラの植木には、枝や葉っぱ、花やとげが付いています。とげで怪我をしないでバラを摘むには集中が必要です。そうして摘んだバラを手に取って、あなたはその美しさや香りを楽しみます。それは黙想に例えることができます。最終的に、あなたはそのバラを、愛を込めて神に捧げます。それが瞑想です」

 

 ババは、心(マインド)は人の輪廻と解脱の両方を招くとおっしゃっています。ですから、心をコントロールすることが霊性の道を行く鍵となるのです。では、私たちはどうやって心をコントロールすればよいのでしょうか? バガヴァンははっきりと説明なさっています。

 「マインドは熊蜂のようなものです。熊蜂は確かにとても強力で、最も固い木にさえ容易に穴を開けることができます。それほど強力な蜂でも、夕方、蓮の花の蜜を吸っている最中に花が閉じていくと、その柔らかな花の中に閉じ込められてしまいます。それと同じように、心はさまざまな手を使っていたずらをしかけ、休む間もなくあちこち飛び回っていますが、心が思いを神に定めると、さまよう力を失ってしまうのです」

このように、唯一、神への信愛だけが、心をコントロールする助けとなり得るのです。

 

 私たちがこの世の日常的な活動にいそしんでいるとき、世俗的なものへの執着や渇望によって汚されないままでいることは可能なのでしょうか? ババは、それは可能だと断言なさっています。1983年6月16日、シュリ・サティヤ・サイ高等教育機関の学生に向けたお話の中で、ババは学生たちに強くお求めになりました。

 「親愛なる学生諸君! 時は計り知れないほど貴重です。人の生涯において、学生時代は最も貴重で、神聖なものです。あなた方はそれを最大限に活用すべきです。水と混じり合ったミルクは、どれほど懸命に分離させようとしても、元あった純粋さを取り戻すことはできません。ですが、ミルクをバターに変えてしまえば、水と接触しても影響されることはなくなります。バターは水の上に浮かび、その独自の性質を保つでしょう。サムサーラ(世俗的な欲望や執着心)は水のようなものです。人の心(マインド)はミルクのようなものです。その清らかで神聖な、汚れなき心が世俗的な欲望と混じり合ってしまうと、元々の清らかさを取り戻すのは困難です。ですが、学生期という神聖な時期に、汚されていないあなたの心から、知識と英知と正しい行いというバターを取り出せたなら、たとえあなたが世の中にいたとしても、それらによって汚されることはないでしょう」

 

 最高の英知を獲得するには、肉体やエゴ〔我執〕と自分との同一視を取り除かなければなりません。それはどうやったらできるのでしょうか? バガヴァンはぴったりの比喩を使ってこの質問に答えてくださっています。

 「体におできができたら、軟膏を塗って、おできが治るまで絆創膏で覆います。もし軟膏を塗らずに絆創膏だけをしたら、感染症を引き起こして、ひどい目に合うかもしれません。おできは、きれいな水で洗って、こまめに傷口の手当てをすることも必要です。それと同じように、人生においては、私たちの人格にエゴという形をとったおできができます。このエゴというおできを治すには、純粋な愛という水で毎日洗い、その上に信仰という軟膏を塗って、謙虚さという絆創膏を貼らなければなりません。そうしなければ、あなたはその痛みや苦しみから逃れることはできないのです」

56

​第 56 回

 人類を「肉体による暴政」から「魂の解放」へと救い出すためにこの世に降臨された、神なる導師の最も確かな証しの一つは、最高の真理を最も単純な形にする、という驚くべき手腕にあります。神の比類なき英知は、明らかに矛盾した求道者たちのアプローチを統合し、究極のゴールへといざないます。この見事な超人的巧みさには、現代の一般人の日常生活から適切な例を上げて崇高な原理を理解させる、ぴったりの比喩を使って要点を具体的に説明することですべての人の注意を引き付ける、人生を支配している深遠な法則を語呂合わせや言葉遊びを用いて認識させる、といった能力が含まれています。そうすることで、自然とインスピレーションが湧き上がり、知性的認識と直感的体験との間にある大きな隔たりに橋を架けるようにして、古代の経典といったものに新しい光を投げかけるのです。

 

 導師のこうした教えは、まさしくハートの中から、そして、すべての英知の根源から生まれたものであり、それゆえ、すべての人のハートの中にすんなりと入っていきます。それらは、単純で理解しやすく、容易に実践できるものです。もし私たちがそれらを真剣に実践するなら、必ずや人生の究極のゴールに到達できるでしょう。愛に満たされた蜜のような言葉に耳を傾けていると、学者も無学の人も、ほっと安心した気持ちになります。言葉といっしょに喜びと平安が聞き手のハートにもたらされるのです。

 

 この章では、本書で扱っている時期にバガヴァン・ババがなされた御講話の内容、手法、要旨、表現方法について、考察を加えたいと思います。1980年から1982年までの最初の三年間の主要なテーマは、教育でした。1980年にはプラシャーンティ・ニラヤムにカレッジが創設され、1981年には大学が開設されました。1983年には、すべての宗教は一つであること、人として生まれたことの特別な意味、そして、アヴァターの意義といったことにアクセントが置かれました。1984年になされた御講話では、人が自らを変容させて、自らの由来が神であることを理解し、自らが神としての運命を悟るようにと、バガヴァンが強く勧めておられるのが分かります。1985年の主な焦点は、セヴァ(奉仕)とサーダナ(霊性修行)に置かれていました。シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの第四回世界大会は、その年、ババの60歳の御降誕祭に合わせて行われました。もちろん、ババのメッセージの底に流れているものは、いつものように、「人の霊的な変容と社会の福祉」でした。

 

 バガヴァンは、ヴェーダーンタ哲学の最高の真理の数々を、非常に単純な言葉で表現していらっしゃいます。バガヴァンの「ブラマ――幻想――が消え去るとき、ブラフマン――神――に到達する」という言葉は、ヴェーダーンタの真髄を表しています。人の生涯の最高のゴールは、ブラフマンに到達することです。それによってのみ、人は永遠の至福を手にすることができ、すべての悲しみと苦しみに終止符を打つことができるのです。

 「サルヴァム カルヴィダム ブランマー」

――存在するものすべてはブラフマンのみである。

 しかし、人は、マインド(頭、思考)によってもたらされた肉体意識すなわちエゴというブラマ(幻想)のせいで、多様性や違いを見ます。これと同じ真理が、バガヴァンによって別の単純な形で語られています。

 「霊的な数学においては、3-1=1なのです!」
 

 ここでバガヴァンが語っておられるのは、パラマートマ――神、プラクリティ――自然、ジーヴァートマ――個々の魂、の三位一体についてです。プラクリティは鏡であり、パラマートマは対象物、ジーヴァトマ(個我)はその映しです。鏡を取り除けば、そこに残るのは本体のみです。映っていたものは鏡の消滅とともに消えてしまいます。肉体意識によって生じたプラクリティという幻影が取り除かれたとき、すなわち、マインドが消滅したとき、ジーヴァートマはパラマートマとなるのです。

 

 幻想を取り除く方法は何でしょうか?バガヴァンはおっしゃいます。

 「ドリシティ――見る目が、プレーママヤムとなるとき、スリシティ――創造物――は、ブラフママヤムとなります。」

 

 愛の眼鏡を通して世界を見ると、あなたは神のみを見るでしょう。このように、愛は万能薬です。さらに、ババはサーダナのエッセンスを次のように簡潔に述べられています。

 

信あるところには愛あり。

愛があるところには平安あり。

平安があるところには真実あり。

真実があるところには至福あり。

至福があるところには神あり。

 

 すべての価値の源である根本的な価値は、愛です。バガヴァンはこう宣言なさっています。

 

語る愛は真実。

行う愛は正義。

感じる愛は平安。

理解する愛は非暴力。

 

 霊的な道における成功の基本的な必要条件と何でしょうか?

 「不道徳な行いをやめることが、不死への唯一の方法です。」

とババはおっしゃっています。純粋なハートと非の打ちどころのない人格が、霊的な生活の基本となります。同様に、ババは簡潔にこう述べられています。

 「チッタシュッディがグニャーナシッディへと導く。」

 つまり、マインド(心)の純粋さが霊的英知へと導くのです。では、マインドの清らかさはどうやって手に入れたらよいのでしょうか? ババによれば、

 「チッタ シュッディはニシカーマカルマ〔離欲の行為〕によって得ることができる。」

 つまり、無私の奉仕こそが、世俗的な欲望や執着心という不純さを取り除いて、マインドをきれいにすることができるということです。ゆえに、バガヴァンはこうおっしゃっています。

 

 「セヴァサーダナ(奉仕という修行)は最高のタパス(苦行)です。」

 ババが簡略に述べられた次の言葉の中に、霊性の道の土台となっている真髄を見ることができます。

 「行いは、愛を込めて神に捧げられると、礼拝へと変わります。礼拝としてなされた行いは、英知へとつながります」

 

 すなわち、霊性の道の第一歩は、神への信仰と愛なのです。次の一歩は、人類同胞への無私の奉仕です。

 

 世界が抱えている数々の問題へのバガヴァンの解決策は、実に単純です。世界の福祉への鍵となるのは、個々人の変容です。バガヴァンによれば、

 「ハートに正義があれば、人格に美しさがもたらされます。人格に美しさがあれば、家庭に和がもたらされます。家庭に調和があれば国家に秩序がもたらされます。国家に秩序がもたらされれば、世界が平和になります。」

 個々人の不正は社会不安を作り出します。では、人々のハートにしっかりと正義を据え付けるにはどうしたらよいのでしょうか? ババは宣言なさっています。

 「神への信心を欠いた人間社会は、獣たちのジャングルへと退化しました。」

 正しき人間社会は、人が霊的に変容して初めて繁栄することができるのです。

人々のハートの霊的な変容はどのようにして始まるのでしょうか? バガヴァンはこう答えておられます。

 「主に従い(Follow)、悪魔に立ち向かい(Face)、最後まで戦い(Fight)、ゲームを終わらせなさい(Finish)。」

 これら四つのF(従うFollow・立ち向かうFace・Fight戦う・Finish終わらせる)に添って道を行くことで、人々のハートの中に隠れている主を、無知という偽りの覆いから解き放つことができるのです。生活の中で戦い続けるというのは、内なる主の声である良心の呼びかけに応えて五感の罠から目をそむける、というマインドの戦いのことです。ババはおっしゃいます。

 「インドリヤ(五感)に従う人は、パシュすなわち動物になります。ブッディ(知性)に従う人は、パシュパティ(動物の主)すなわち神となります。」

 この戦いをするために、社会から離れて森へ入る必要はありません。その解決策をバガヴァンは独特のスタイルで述べておられます。

 「頭は森の中に、手は社会の中に!――両手を使って社会で働きなさい。けれども、頭は神に定めていなさい。」

 

 ですから、人のハートにおわす神を信じることが、幸福な世界の土台なのです。

55

​第 55 回

 23日、朝日が昇ると、ヒル・ビュー・スタジアムは、四方八方から人が流れ込んでいく、人の海のように見えました。至る所に人がいて、誰もがその輝かしい朝にアヴァターを一目見ようと固唾を呑んで待っていましたが、太陽は雲に覆われていて、雲の背後に身を隠し、式典が終わるまでずっと一度も姿を現すことはありませんでした。その涼しくて心地よい天候が、プラシャーンティ・ニラヤムに集まった50万人の帰依者たちの内なる喜びに期待を添えました。そうした幸運な人々の何人かにその朝のことを聞いてみることにしましょう。

 

 マンディルからスタジアムへと続く行進の列では、バガヴァンの学校から来た約60名の男子学生が、バガヴァンのチャリオット(二輪馬車)の前を行くバングラとナーガの踊り手として参加するという特権を与えられました。彼らの喜びに満ちた体験は次のようなものでした。

 

 「私たちは朝5時にマンディルへ行って、衣装を着け、化粧をしました。行進は7時半に始まることになっていました。バガヴァンがインタビュールームから午前6時45分に出てこられたときには、私たちはバジャン・ホールにいました。私たちはスワミがホールに入ってこられるのを見てわくわくしました。おそらく私たちは、その極めて大きな意義のある日にスワミのダルシャンを受けられる最初の者たちだったと思います。スワミは私たち全員をじっと見つめて、喜んでおられるようでした。スワミは、何人かの男子生徒たちの頭飾りを、もっとよく見えるように直してくださいました。そして私たちに、『少年たち、朝食は食べましたか?』とお尋ねになりました。私たちはまだ朝食をとっていなかったのですが、本当のことを言ったらスワミは悲しむと分かっていたので黙っていました。

 ババは微笑んで言いました。

 『分かっています、分かっていますよ! 君たちはまだ何も食べていませんね。それでどうやってダンスを踊って、式典の最後まで体をもたせるつもりですか? 終わるのはだいぶ遅い時間になるでしょう。心配いりません。私が君たちに朝食を用意しましょう』

 スワミはボランティアを数人呼ぶと、朝食を持って来るようにとおっしゃいました。私たちは母親のようなスワミの気づかいにとても感激し、涙を流す者もいました。それが、スワミの60歳の御降誕祭で、スワミが最初になされたことでした。朝食が出されると、すぐにスワミはホールを出て行かれました。私たちが行進でスワミのチャリオットの前で踊ることができたのは、大いなる幸運でした。行進を終えた後に疲れを感じた学生は一人もいませんでした。反対に、終わってしまったことが悲しく思えたくらいでした!」

 マイソール出身のナーマギリアンマ夫人はバガヴァンの古くからの帰依者でした。彼女はプッタパルティの「旧マンディル」に何年も住んでいました。バガヴァンの60歳の御降誕祭が終わった後、彼女はこのように言いました。

 

 「1950年以前の『旧マンディル』時代には、スワミは私たちだけのものでした。スワミはいつも私たちと共に過ごしていました。時には、ただ楽しく、はしゃいでいただけのこともありました。そんなある日のこと、スワミがサカンマ夫人と私におっしゃいました。

 『私の60歳の誕生日には、何十万という帰依者たちがこの村にいることでしょう。そのころには、私は自分の大学を持っており、白馬に牽かれた黄金のチャリオットに乗って行進をしているでしょう!』

 そのとき、スワミはとても真剣なご様子でした。

 当時、スワミの周りには100人もいないくらいでした。私たちは二人ともスワミは冗談を言っておられるのだと思い、笑い出さずにはいられませんでした。スワミは私たちに真面目な口調でおっしゃいました。

 『私の言うことを信じていないようだね! サカンマはそれを見るころにはいないでしょう』

それから、私のほうを向いておっしゃいました。

 『でも、あなたは見ることになります! ですが、その時には、これほど私の近くにいることはないでしょう!』

 スワミがそうおっしゃったのは40年も前のことですが、今日、それが実現したのだと言わざるを得ません! 23日の朝、私はスワミを一目見ようと、巨大な群衆の中、ガネーシャ ゲートの外の道路際に立っていました。遠くからスワミのチャリオットが見えたとき、あの予言めいた言葉が思い出されて涙が出ました。スワミは私を見過ごすことなく、チャリオットが私のそばを通り過ぎる時、意味ありげに微笑んでおられました。スワミは私に

 『ごらん、あの時あなたは私の言ったことを信じていなかったね!』

とおっしゃっているような気がしました。今日、生きてスワミの栄光を見ることができ本当にうれしい限りです!」

 

 ナイポール・スクデオ氏は、トリニダード・トバゴ共和国から世界大会の代表として、1985年の11月に初めてプラシャーンティ・ニラヤムへやって来ました。もちろん、彼は長年の間バガヴァンの帰依者でしたし、自国でたくさんのリーラーを目にしていました。彼は23日にスタジアムで見たことを語ってくれました。

 

 「バガヴァンは黄金のチャリオットに乗ってスタジアムに現れました。クルクシェートラの戦場でシュリ・クリシュナによって操られたのと同じ、その昔ながらの形を模したチャリオットは、立派な四頭の白馬に牽かれていました。チャリオットは、ナーダスワラム隊、学生たちの楽団、華麗な衣装を着けた踊り手たちに続いて、壮大な行列の中を進んで来ました。チャリオットが私たちのそばを通り過ぎるとき、私は思わず、『これこそ、カリ・ユガのアヴァターだ!』と声を上げていました。私たちははっきりと、甘く微笑むババの顔を見ることができました。ババの黄金色のお顔は、冠のような黒いいカーリーヘアと、百合のように白い歯とのコントラストで、純然たる光輝を発していました。ババの両手は高く掲げられて振られ、巨大な群衆を祝福していました。

 私は自分の目で神を見ていました! ババは私のラーマであり、クリシュナであり、シヴァ、ドゥルガー、イエス、アラー、私のすべてでした! スワミが美しい装飾を施されたシャーンティ・ヴェーディカの演壇に上がられると、何十万という帰依者たちが『バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババジ・キ・ジェイ!』と、誕生日を祝って叫びました。その勝利と称賛の声は大空を震わせたかと思われました。急に雲が分厚くなり、空を覆い始めたのです。私たちの多くが、サイクロンに関する天気予報を思い出しました。それはアーンドラ・プラデーシュ州の沿岸を横断するという予報で、この地域に大雨をもたらすというものでした。ですが、神様がおられるというのに何を恐れることがありましょうか? 小雨さえ降りませんでした。それどころか、雲は太陽を遮ってくれる喜ばしい覆いとなったのでした!

 バガヴァンは、その御降誕祭の御講話で、サイクロンの不思議な消滅についても言及しました。バガヴァンは次のように明かされました。

 

 『まさに祭典が始まろうとしていたとき、カストゥーリがラジオで聞いたことを私に何度も言ってきました。サイクロンが沿岸地域を横断しようとしており、ネッローレやオンゴールにやって来ること、そして、ラヤラシーマ地方にも大雨を降らせる、と。ですが、そうはなりませんでした。どうしてもこの日この場所にいたいという人々の信愛が、サイクロンを追い払う楯となったのです。もしサイクロンが来ていたら、帰依者たちは大変な目に合っていたことでしょう。彼らの帰依心が私の心の琴線に触れ、私は決して彼らが不都合な目に合うことはないと意志しました。私はバターのように柔らかいハートを持っていますが、バターを溶かすにはバターを温める必要があります。あなた方の帰依心がその温かさでした。サイクロンはいったいどこへ行ってしまったのか、まだ誰も発表していません! いったい誰がこのような奇跡を予測することができたでしょうか?』

 

 言うまでもなく、明らかにされたこの事実は、とどろきのような歓声で迎えられました。『サイ・サンカルパ』(サイの意志)の驚くべき力を明かし、いつ何時も帰依者たちを完全に守ることを保証してくださった御降誕祭のメッセージは、私たちの存在をより高く、至福に満ちたレベルへと高めてくれました。

 仲間の帰依者や代表たちと一緒に座っていたとき、私は、カリ・アヴァターラ(カリユガの時代の神の化身)としてのサイの降臨の60回目の祝典にその御足のもとにいるなんて、私たちはなんと幸運なのだろう! と驚異の念を抱かずにはいられませんでした」

 

 御降誕祭での画期的な御講話は90分に及び、バガヴァンは人と神との間にある必要不可欠な関係について説き、帰依者たちの多くの疑念を晴らしてくださいました。人類への限りない愛を込めて、バガヴァンははっきりと、いかに「サイ・サンカルパ」がこの世のために働いているのかということを明らかにし、また、無私の愛、普遍的な愛という最高の宝を有しているがゆえに、バガヴァンはこの世で最も裕福な者であることを明言なさいました。バガヴァンの歴史的な御講話の中からいくつか抜粋してみましょう。

 

 「神こそが唯一、人の生命を――その基盤、その構造、その完成を――維持している者です。お金は、人が神聖さを育てて源である神に融合するのを助けることはできません。学識も同様に無力です。人にできる唯一の方法は、切なる思いや必死な努力を神へと向けることによって、探究心を深めることです。切なる思いが研ぎ澄まされればされるほど、深くなればなるほど、それは人が感覚の領域や、理性の脆弱な力を超え、星々や宇宙空間を超えて、限りない至福の大海へと深く潜る助けとなります。反対に、もし、切なる思いがこの世の欲望や気を散らすものへと向かっていくなら、それは人を奈落の底へと突き落とすでしょう。この運命から逃れる一番の方法は、善良な人々や神聖な人々の仲間の中へ避難して、彼らと共に旅路を歩むことです」

 

 「人は自分を維持してくれている神なしには存在できません。神もまた、自らの存在を知らしめるために人を必要とします。『ナラ』という言葉は『ナーラーヤナ』の概念を伝えています。人はサーダナの強度によって神を自分のイメージどおりに創造し、神はそうなるようにと意志することで自分のイメージどおりに人を創造します。たいていの人は、知性や想像力が乏しいために、主なる神を心に描くことができません。エゴは、サーダナを妨げ、知性を悪用することによって、頑固さや無知を助長します」

 「人は皆、対立する者、すなわち敵と対峙しなければならないのが、この世の習わしです。全世界に一人の敵すら見いだすことができないのは、サイだけです。中には、自分勝手な空想をして私が彼らのことを嫌っていると思う人たちもいます。ですが、私に言わせるなら、私が愛していない人は一人もいません。私にはすべての者が愛おしいのです。今、この世で私ほどの富や財産や宝を持っている人は他にいません。世界銀行でさえ、最も裕福な王でさえも、です。その富や財産や宝とは何でしょう? それは、私の普遍的な無私の愛です。私の全くの私心のなさ、奉仕して救いたいという熱意に満ちた私の慈悲深いハート、平和と繁栄を築き上げようという私の決意、世界に至福の雨を降らせようという私の決心――これらは日を増すごとにどんどん形となって現れつつあり、私はいつも計り知れない至福で満たされています。私は一瞬でさえ不安がよぎることはありません。これらを考えてみるなら、こうした声明をすることができる人が、誰かこの世にいるでしょうか?」

 

 「私が一つのプロジェクトを決めると、資金集めの運動など何もしなくとも、それを成し遂げるために必要な資金はすぐに手に入ります。私の意志には、私の計画を具体化する力があるのです。私はプッタパルティにカレッジができるよう意志しました。すると、ナワナガルのラージャマータ(藩王女)がそれを建てました。しつけの行き届いた学生のいるカレッジを提供するために、私はハイヤー・セコンダリー・スクール(中・高等学校)を設立することを意志しました。すると、アメリカのボッザーニがそれを建てる機会をくださいと懇願してきましたバンガロールで、私がカレッジと学生寮の計画について意志した時には、エルシー・コーワン夫人がそれを完成させる栄誉を与えてほしいと頼んできました。これが、私のサンカルパ(意志)の力です」

 

 「あなた方の規律ある信愛、あなた方の愛、あなた方の不屈の精神は、手本とすべきものです。ここで私が身内を称賛するのは適切なことではありません。西洋人たちは、多くの不快な思いや不便をものともせずに、大勢でやって来ました。それは彼ら一人ひとりにとって、本当のタパス(苦行)です。あなた方は、自分たちをダルマとカルマの英雄的なメッセンジャーへと変えるために、あなた方の毎日と、行いと、知性と、技能を捧げなければなりません」

 

 「私はあなた方に一つ望みがあります。すべての人に対して兄弟感覚を持ちなさい。常に正しい行いを選びなさい。自己中心的な行いをやめなさい。貧しい人たちや虐げられた人のために働くどんな機会も歓迎しなさい」

 

 「60回目の誕生日の祝祭の一環として、私はあなた方にあるテストを処方します。あなた方はそれを受け入れなければなりません。農夫は、畑を耕し、種を蒔き、その作物の成長を穀物が収穫されるまで見守ります。次のプロセスは、それをふるいにかけることです。その時、もみ殻は風に飛ばされ、しっかりとした実だけが残ります。私は今から、ふるいにかけます。このテストで、もみ殻は取り除かれるでしょう」

 「もう一つ明らかにしたいことがあります。ある疑念が広まっていて、それが人々の心に混乱を招いています。それは、60歳の誕生日の後、スワミは一般の人々から遠い存在になる、スワミに変化が生じる、という懸念です。私の天性は変化するようなものではありません。私は決して帰依者たちから自分を遠ざけるようなことはしません。今後、私はより一層、帰依者たちにとって手の届く存在となるでしょう。サティヤ・サイは、サティヤ――真実(真理)です。どうやってサティヤが変わることなどできるでしょうか?」

 

 「サティヤ・サイ・プラブ(主であるサティヤ・サイ)とサティヤ・サイ・セーヴァカ(サティヤ・サイの奉仕者)は、愛と忠誠心によって固く結ばれています。サイはあなた方のために存在しており、あなた方はサイのために存在しているのです。私たちはお互い離れることはできないのです!」

 

 私たちは神が私たちの間で行動しておられる時代に生きている、ということを私たちが忘れることがありませんように! 二千年前にこの地上を歩いておられた救世主について、ハリール・ジブラーン(レバノンの詩人)が次のように書いています。

 

 「私たちは流れゆく川と共に流れ去り、名もなき者となるでしょう。流れの途中で主を磔にした者たちは、神の流れの途中で主を磔にした者として記憶に留められるでしょう!」

 

 私たちは流れの途中で主を磔にした者として人々の記憶に残らないようにしましょう。私たちにとって、そして、後世の人々にとって、この世界をより良い場所にするために、主と手を取り合いましょう。

54

​第 54 回

 バガヴァン・ババの60歳の御降誕祭の後、そのすばらしい祝典の陣頭指揮を執って働いていた者がこう述べました。

 「このように大規模で、また、三年という時を費やして企画された御降誕祭は、世界中、他のどこにも見当たりません。大切なのは、すべての活動が、その大小にかかわらず、サイ・オーガニゼーションによって行われたということです。社会の福祉と幸福を促進するための新しい活動への種子、拡大し続ける神性への信念を支えるための種子が蒔かれました。ババの60歳の御降誕祭をお祝いする際に生まれた情熱は、祝典が終わったからといって消えてしまうものではなく、それどころか、本当の仕事はたった今始まったばかりだというのが、アクティブ・ワーカーたちの心情です。

 この体験から生じた注目すべき教訓は、このような祝典の成功、あるいは成果の本当の指標は、催し物や行われたプログラムの数で計られるべきものではなく、人々の福祉、健康や幸福への貢献の度合い、また、奉仕を捧げたすべての活動における神への愛、信仰の深さという観点から計られるべきです」

 

 1985年11月14日にプラシャーンティ・ニラヤムで始まった10日間の御降誕祭は、それまでの3年間に世界中のサティヤ・サイ・オーガニゼーションで行われていた祭事の頂点を極めるものでした。それは光と歓びの比類なき祭典でした。その10日間にプラシャーンティ・ニラヤムで起こったことは、驚くほどすばらしい奇跡でした。最終日の23日には、少なくとも40万もの人がいました。その全員が、10日の間、日に4度の食事を完全に無料で与えられました。祝典の間に出された食事の数は合計で800万食以上におよびました! さまざまな種類の菜食の料理が作られ、さまざまな国からやって来た人に振る舞われました。巨大な厨房や配膳用の会場で働いたボランティアの数は、男女合わせて2000人を超えていました。集まった大勢の人々のため、祭典を喜びに満ちたものにするために、少なくとも1万人のボランティアが夜を徹して働きました。

 

 その祝典での活動の幅と質は驚くべきものでした。14日から16日まで、シュリ・サティヤ・サイ行政区の村々に医療キャンプが設営されました。そこではインドのあらゆる地域、そして海外の数か国からやって来た数百人の医師が、健康を必要とする何千人という村人たちのために働きました。医療キャンプのうちの10のセンターは、プラシャーンティ・ニラヤムで10日間昼夜問わず開いていました。26日にはナーラーヤナ・セヴァがあり、スタジアムに集まった1万人の貧しい村人に食事が出され、衣服が提供されました。バガヴァンご自身がその幾人かに食事を給仕なさり、衣服を与えて、その奉仕活動を開始なさいました。16日には、60の小屋からなるカラナム・スッバンマ・ナガルと名付けられた居住区がバガヴァン・ババによって開設されました。それは、ババが神であることをプッタパルティ村で最初に悟った信心深い女性を記念したものでした。その居住区の家屋は、それを必要とする、あるいは、それにふさわしい家族に寄贈されました。17日の朝には、マンディルで100人を超えるルットウィック(ヴェーダを唱える僧侶)によるヴェーダの詠唱が始まりました。詠唱は祝典の最後まで続けられました。

 

 バガヴァンは90冊以上もの出版物の封を切られました。それらは、プールナチャンドラ講堂での第四回世界大会の開会式において、ババの60歳の御降誕祭の奉納物として17日の朝、出版されたものです。世界大会の代表者たちは、バガヴァン・ババの大歓迎会を19日の午後にスタジアムで行う計画を立てていました。20年から30年という長年にわたってバガヴァンと行動を共にしてきた帰依者が何人か選ばれ、バガヴァンに祝辞を述べることになりました。その中には、インドのR・P・ラヤニンガル氏、G・K・ダモーダル・ラーオ氏、カマラ・サーラティ女史、A・ムケールジー女史、M・M・ピンゲー氏、シンガポールのウィー・リン氏、日本の津山千鶴子女史、アメリカ合衆国のロバート・ボッザーニ氏、マレーシアのジャガディーサン氏がいました。それと同時に、80歳代の5人の帰依者、N・カストゥーリ博士、N・S・クリシュナッパ氏、B・シーターラーマイアー博士、T・クリシュナンマ女史、コーナンマ女史という、多方面にわたってバガヴァンに仕えてきた人たちも、記念品の栄誉にあずかりました。翌朝、各国からの観衆は、唯一無二のゴーダーン(牛の贈り物)プログラムをスタジアムで目にしました。彼らの主であるサイ・ゴーパーラが60頭の乳牛と、その牛たちから最初に生まれた子牛を60人の幸運な村人たちに直々にお贈りになったのです。

 

 11月22日、シュリ・サティヤ・サイ高等教育機関は、インドで唯一、教育的な目的として近代的なスペースシアターすなわちプラネタリウムを備える大学、という無類の名声を手にしました。その独特な外観をしたスペースシアターは、ババ自らの絶え間ない直接的な指揮の下、記録的な速さで建てられ、その日の朝にオープンしました。午後には、巨大なサティヤ・サイ・ヒル・ビュー・スタジアムで、40万人以上が見守る中、大学の第四回学位授与式が行われました。

 

 どの高等教育機関の年代史にも、これほど大勢の熱烈な参列者の前で、絵のように美しい場で執り行われた授与式はありません。高名な科学者であった、E・C・G・スダルシャン博士が卒業式のスピーチをし、バガヴァンがお祝いのメッセージを述べて、その巨大なコンコースを祝福なさいました。

 

 ヒル・ビュー・スタジアムの「シャーンティ・ヴェーディカ」〔平安の座〕というぴったりの名前を付けられた壮大なステージは、バガヴァンがダルシャンを与え、記念すべき御講話を述べられる演壇としての役割を果たしただけでなく、17日から24日までの8日間におよぶ文化祭のためのステージとしての役割も果たしました。文化プログラムでは、インドの国立団体によって準備された一連の絶妙な民族舞踊やダンス、有名な音楽家たちによるコンサート、それから、バガヴァンの学生たちによる三つの劇が上演されました。11月20日には、アナンタプル大学の女学生たちが、「イーシュワラ サルヴァブーターナーム」〔主はすべての生類に宿っている〕という劇を上演しました。21日と22日には、プラシャーンティ・ニラヤム・キャンパスの男子学生たちによって、テルグ語の劇「ラーダー クリシュナ」と、英語の劇「こちらとあちら」が演じられました。どちらもバガヴァン御自身の監督によるものでした。前月の間中ずっと、ババはこの二つのお芝居の稽古に非常な関心を持っておられ、学生たちに楽曲の演出、対話の仕方、そして、それぞれの役の演じ方まで教えてくださっていました!

 

 23日の午後には、見事に飾り付けられたジューラー(ブランコ)に乗られるバガヴァン、という喜ばしい光景をながめて、帰依者の大集団が自らの目を楽しませている中、プラシャーンティ・ニラヤム・キャンパスの上級生が、この時のために特別にこしらえたテルグ語とヒンディー語と英語の歌を、心を込めて歌いました。

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プラシャーンティ・ニラヤムのプラネタリウムの礎石を据えるババ。
プラネタリウムはそれから一年もかからずに誕生した。

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​無類の建築

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​色彩豊かな文化プログラム

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​色彩豊かな文化プログラム

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​第 53 回

 1982年に、シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの世界評議会のメンバーは、1985年11月にババの60歳の御降誕祭を世界的な規模で祝う許しを求めてバガヴァン・ババに祈りを捧げました。ババは乗り気ではありませんでしたが、最終的に、その祝典は拡大し続ける奉仕活動の流れの支流という性質を伴ったものであり、帰依者のためにも世界のためにもなるということを認めて、譲歩してくださいました。

 1970年の第4回全インド大会では、シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの主要な目的を明確にするべく、バガヴァン・ババはおっしゃいました。

 「雨粒は、水の流れや川にならないかぎり、自らの源であり目的地でもある海にはたどり着きません。それと同じように、神の帰依者たちはアーナンダ〔至福〕の海の雨粒です。それゆえ、帰依者自身が流れや川となって自らの源へと戻らなければなりません。サティヤ・サイ・セヴァ・オーガニゼーションは、世界のさまざまな所からやって来る帰依者たちを、言語、宗教、カースト、肌の色、国籍など関係なく一つにし、サイのセーヴァカ〔奉仕者〕一人ひとりを神へと戻す、流れです」

 人生の究極のゴールへと皆で共に到達するという概念は、モークシャ〔解脱〕に対する昔ながらの個人主義者的な手法に照らし合わせると、とりわけインドにおいては革命的な概念です。人は、自らの救済を追求する中で、社会のためになることを無視することはできません。この二つは互いに補い合っていますし、手に手を取って進んでいかなければなりません。社会奉仕の霊的な目的が、これほど強調されたことはありませんでした。共に協力して、救済の道を進んでいきなさいという、ババから帰依者たちへの明快な呼びかけは、そのころまだ5歳だったサティヤ・サイ・オーガニゼーションに大きな刺激を与えました。

 それから15年で世界中のオーガニゼーションが驚異的な成長を遂げたことは、1985年11月にプラシャーンティ・ニラヤムで開かれた第4回世界大会ではっきりしました。大会には、46か国から、1万3千人の代表と40万人の帰依者が参加しました。大会のテーマは「国際社会の統合」でした。バガヴァンが14歳で世界に向かって自らの使命を宣言なさった時に人類のハートの中に蒔かれた種が、45年後に巨大な木へと成長を遂げたのです。

 プールナ・チャンドラ講堂の収容人数の限界と、世界大会と御降誕祭に必死で詰めかけてくる大勢の帰依者たちを考慮して、開会式以外のすべての式典はヒル・ビュー・スタジアムで行われました。1984年のセヴァダル大会以来、ずっとバガヴァン自らが、ヒル・ビュー・スタジアムを世界大会と御降誕祭に向けて整えることに強い関心を示してこられました。というのも、予想される何十万人という帰依者をスタジアムだけで収容することができるからです。スタジアムの地ならしや清掃、ステージ「シャーンティ・ヴェーディカ」の建設、丘陵斜面の観覧席の拡張といった、準備に関する詳細の一切をバガヴァンが手ほどきされ、指揮されました。

 40年近くババの側に仕える機会に恵まれ、サイ・ムーブメントが幼い苗木からすべての大陸に根を下ろす力強い世界的な大木へと成長したのを見守ってきたシュリ・N・カストゥーリは、17日の朝、プールナ・チャンドラ講堂に集まった世界大会の代表者たちを迎える際、感極まった、声にならない声で言いました。

 「1968年の第一回世界大会の時、スワミは、アヴァターの呼び声に応じて地球の平和と人類の友好を求めてやって来た群衆に、私は人が神と崇めてきたあらゆる御名と御姿の内にいる、と宣言なさいました。今回は四回目の大会であり、すべての大陸からやって来た莫大な数の代表者たちは、貪欲や傲慢や憎悪という毒に対する唯一の処方箋は愛と奉仕と平静である、というサイのメッセージを何百万という人々が受け入れたことを立証しました。今大会のテーマは『国際社会の統合』です。実に、私たちは、その御心によってすべての人類を一つにすることができるお方の面前にいるのです!」

 1967年から1975年にかけてサティヤ サイ オーガニゼーションの初代全インド会長を務めた、1975年発足の世界評議会の初代委員長は、創設から20年におよぶ世界中のサティヤ・サイ・オーガニゼーションの成長を振り返って、こう宣言しました。

 「この20年で、サティヤ・サイ・オーガニゼーションはバガヴァン・ババの使命のほんの一部でしかないということが明確になりました。ババは、私たちが思いもよらない、ババご自身のやり方で、100におよぶ段階や層で働き続けておられます。サイ・オーガニゼーションはバガヴァン・ババであると見なされますが、逆はそうではありません」

 大会の開会式にあたって、バガヴァンは、無私の奉仕のみがサイを喜ばせると明言なさいました。セヴァは至高のサーダナであると宣言し、バガヴァンはこうおっしゃいました。

 「カルマのゴールはグニャーナ〔英知〕であり、グニャーナにとってカルマは基盤です。実践において二つを組み合わせることが、セヴァ――無私の奉仕です。セヴァより偉大な霊性修行はありません。三界を統べる至高の主、シュリ・クリシュナは、人類の運命を宣言するためにやって来たとき、自ら動物や鳥に仕えました。クリシュナは愛をもって馬や牛に仕えました。クルクシェートラの大戦では、クリシュナは剣を振おうとせず、単なる御者となることに満足しました。そうすることで、クリシュナは無私の奉仕の理想を示して見せたのです。

 サイの哲学は、部屋の片隅に座って息を整え、『ソーハム! ソーハム!』と唱え続けるよう帰依者を鼓舞するためにあるのではありません。『ああ、サーダカよ! 立ち上がりなさい! 気を引き締めて! 社会奉仕に身を投じるのです!』――これがサイのメッセージです。五感を制して、社会奉仕に没頭すべきです。セヴァのない人生は、闇に覆われた寺院と同じです。そこは悪霊たちの住みかです。セヴァの光だけが、霊性の求道者を明るく照らすことができるのです。

 あなた方はここに、世界中の遠い所から、多額の費用をかけて、大変な思いをしてやって来ました。やって来たからには、善い考えや気高い思いを吸収するよう努力すべきです。そうすれば、自分は人の模範となるような人生を送るのだ、人生を崇高なものにしてくれる価値のある行いに従事するのだ、という決意を携えて帰途に就くことができます。これは私からあなた方皆への祝福の言葉です」

 御講話を終えるに当たって、バガヴァンはこうアドバイスなさいました。

 「おしまいに、あなた方に二つの指示を与えたいと思います。それは、あなた方にこの大会の意義を理解させてくれるでしょう。一つは、『自分が人に説くことを自分が実行していること』、もう一つは、『自分が実行していないことを人に説かないこと』です。もし、あなたが何かを語り、それを自分で実行していないなら、それはペテンです。もし、自分が語っていることを実行しているならば、それは偉大さを示すものとなります!」

 その後の三日間、参加者たちは、国際社会の統合を促すという目標にのっとってサイ・オーガニゼーションの活動をさまざまな側面から考えるために、いくつかの分科会に分かれました。分科会では、霊性修行、人間的価値教育、バルヴィカス、セヴァダル、地方の発展、慈善トラストや財団の設立といったテーマについてじっくりと話し合いがなされました。

 

 大会の閉会式は、21日の朝、ヒル・ビュー・スタジアムで行われました。世界評議会のメンバーである合衆国の博士が、歓迎の挨拶で、世界中の帰依者すべての大望をバガヴァンに提起しました。

 「親愛なるバガヴァン、数多くの遥かなる地、人の住む地上のすべての大陸、46の国からやって来た、あなたのつつましやかな帰依者たちは、人生とは貴いものであり、あなたが与えてくださった意識の続く期間であることを、認識しています。私たちは、このきわめて貴重で神聖な宝を浪費しないことを、固く誓います。私たちは、今日ここでなされた決定事項を実行できるよう懸命に努力すること、そして、我々自身に対し、それぞれの参加国の兄弟姉妹たちに対し、また、世界全体に対して、サイの帰依者としての自分の務めを果たすことを、誓います。どうか私たちが、あなたの慈悲の中で、いつも、誠実に、そして効果的に、神の大義のために働くことをあなたが許してくださるよう祈ります」

 世界評議会の副会長が、大会の決定事項と提言のレジュメを提出しました。今大会においては、まずサイ・オーガニゼーションの内部の統合を望みました。国際社会の統合へ向けての第一歩として、大会では、次の四つの目標の下に各国でいくつかの共通プログラムを始めることが指示されました。

 

1)国民の健康と福祉

2)霊的な基盤の強化

3)サティヤ・サイ・アヴァターのメッセージを広めること

4)欲望に限度を設けること

 

 大会の閉会式の歴史的な御講話で、バガヴァンはこう明言なさいました。

 「私はこの世から一つの捧げものだけを受け取ります。それは愛です。それは、奉仕として、兄弟愛として、心の優しさとして、思いやりとして現れた、神聖な無私の愛です」

 現代における世界の危機的な状況について、バガヴァンはこうおっしゃいました。

 「多国からここに集まった世界大会の代表者たちは、異なる文化、伝統、言葉、衣服のスタイル、食べ物等々を有しています。しかし、この多様性が、私たちのヴィジョンである、皆さん方すべての中に本来備わっている神性という一体性を隠すようであってはなりません。今の世界は、手ごわい問題や、急速に広がりつつある恐れにさいなまれています。戦争への恐れ、飢饉への恐れ、悪魔のようなテロリストへの恐れ、民族的、宗教的、地域的争いという問題、経済復興、経済存続の問題、学生たちのしつけの問題、教義の衝突の問題、狂乱や狂信の問題、権力の横領と極端な利己主義の問題。徐々に広まりつつあるこうした恐れへの救済策は、ヴァイラーギャ(霊的な眼識に基づいた無執着)という態度です。体と心から成るものと、『私』と『私のもの』という制限に執着するなら、恐れは回避できません。アドワイタ(不二一元論)的な意識、すなわち、自分が目撃しているものは実在の上にある自分の心に焼き付いているものにほかならないという意識こそが、最良の治療薬であり、奉仕はもっとも効果的なサーダナ(霊性修行)です」

 

 御講話の最後に、ババはオーガニゼーションの会員やワーカー、そして、すべての帰依者たちに、人生で実践すべき10の指針を与えてくださいました。その「神へと至る10の道」〔10の訓令〕は、本書の最終章、「世界教師」の中に掲載されています。

 第四回世界大会は、地球規模での、霊性、教育、奉仕活動の成長、という点で画期的なものとなり、それらの活動はその後の10年で100ケ国以上に広まっていきました。合衆国の夫人いわく、「それは本当に、けた違いに大きな、国際的な出来事であり、バガヴァンへの愛によってつながれた魂たちの霊的な大会でした」。ニューヨークの心理学博士は、この世界大会を、「人類の霊的進化における記念すべき第一歩、転換期であり、重要な過渡期」であったと感じました。

 大会の一年ほど前に、インド国内外のサイのセンター、ユニット、慈善信託団体や教育機関に関するすべての関連データが、バガヴァンに提出されていました。誰が世界大会への出席が認められるべきか、バガヴァンに意見が求められました。各ユニットから一人の役員が代表として大会に出席が認められたとして、その場合でさえ優に一万人以上になるということが、その時、明らかになりました。霊性団体の役員の大会が、アヴァターがおられる中で開催されるなどというのは歴史上どこにも見当たらないことです。偉大なる霊的革命を告げようとしている、私たちのオーガニゼーションの驚異的な規模には驚くばかりでした。

​第 52 回

52

 1983年10月30日と31日にローマで開かれたシュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーション国際会議でのスピーチの中で、第二のノーベル賞と呼ばれる賞〔ライト・ライブリフッド賞〕の受賞者であり、英国のレキン・トラスト社の社長である、ジョージ・トレヴェリアン卿は、一体性へと向かう人類の行進について、極めて楽観的な意見を表明し、「神にはご計画があり、それを今、実行に移されています!」と宣言しました。

 

 その会議には、1200名を超えるイタリアの代表団、遠く南アメリカのアルゼンチンやチリ、そして、地球の裏側に当たるオーストラリアやニュージーランドなど、34の国からやって来た800名の代表団、さらには、イタリア全土から集まったおよそ3000人ものオブザーバーが参加していました。ジョージ卿は、ババが人類に与えた保証を思い起こさせ、それが実現するという希望をあふれさせました。

 「アヴァターの言葉に耳を傾けてください。『私は神へと至る古来の高速道路を修理しにやって来ました。アヴァターは決して失敗しません。アヴァターが意志することは必ず起こり、アヴァターが計画することは必ず実現するのです』そして、こうもおっしゃっています。『私は人類の歴史に黄金の一章を記すためにやって来ました。そこでは虚偽は廃れ、真理が勝利し、美徳が栄えるでしょう。そのとき、知識や独創に富んだ技術や富ではなく、人格が力を与えてくれるでしょう。英知が国の会議の場で敬意を得るでしょう』

 

 それから二年後、ロンドンのウェストミンスターの中央ホールで行われた会議で、ジョージ・トレヴェリアン卿は、身震いするような言明をしました。

 「私たちは現在、極めて尋常ならざる現象を目の当たりにしています。私たちが暮らす世界では、ありとあらゆる闇の勢力が猛威を振るい、危害を加え、恐怖を作り出し、実にたくさんの人々の生活が脅かされ、絶望さえしているありさまです。そして、そのような時、現代という混乱のさなかに、神が私たちと共に働いておられるという至高の希望、すばらしい出来事が起こっているのです。そこには、愛の力による救済という可能性があるのです」

 トレヴェリアン卿は、さらにバガヴァン・ババの言葉を引用して続けました。

 「『私はいつもあなた方と共にいます。あなた方のハートが私の家です。世界は私の屋敷です。私を否定する人々でさえ、私のものです。どんな名前ででも私を呼びなさい。私はそれに返事をします。どんな姿ででも私を思い描きなさい。私はあなたの前に姿を現します。誰をも傷つけたり悪口を言ったりしてはいけません。あなたはその相手の中にいる私を非難していることになるのです』。」

 

 1983年10月30日、ローマでの会議の開会式を行ったシュリ・サティヤ・サイ大学の当時の副学長、V.K.ゴーカク博士によって、その会議に向けられたバガヴァン・ババからのメッセージが読み上げられました。次にあげるのがそのメッセージです。そこには、現代という時代に悩み苦しむ人類の病を癒す、バガヴァンの処方箋が記されています。

 

 「神聖アートマの具現たちよ! 『すべての道はローマに通ず』という古くからのことわざが、今日、ここで立証されています。人々が多くの国からこの歴史的な都市に集まったことに、大きな意味がないわけがありません。あなた方は、今まで聞いたことがないことを学ぶため、そして、人間の冒険に関する新たな理想からインスピレーションを得るためにここに来た、ということを認識する必要があります。

 

 この大会は、どれか一つの宗教、国家、人種、カースト、個人と関係のあるものではありません。この大会は、あらゆる経典の根底にある本質的な真理を明らかにし、真理と正義を確立することを通してすべての人の平和と福祉のために努力することを意図しています。

 

 全人類は、一つの宗教――人間という宗教に属しています。すべての人にとって、神は父です。一なる神の子として、すべての人は兄弟です。したがって、この大会は家族の集まりです。この大会はさまざまな民族や宗教の集まりなのではありません。この大会はさまざまな心の集まりです。この大会はどれか一つの文化や哲学と関係のあるものではありません。この大会はあらゆる宗教の教えの中に存在する神聖な生き方に関係するものです。この大会の目的は、神性の中のユニティ〔単一性/一元性/一体性〕を見ることです。

 

 国や人種に関係なく、すべての宗教の基本的な真理はまったく同一です。哲学的な見解や修行やアプローチの方法は異なるかもしれません。けれども、最終的な目標とゴールはただ一つです。すべての宗教は神性のユニティを宣言し、カースト、信条、国、肌の色に関わらず普遍的な愛を養うことを説いています。この基本的な真理を知らない人は、自分の宗教を理由に慢心とエゴ〔自我意識/我執〕を膨らませます。そのような人たちは、神性を断片化することによって、大きな混乱とカオスを生み出しています。無限の神性をそのような狭いところに閉じ込めて分割することは、神性に対する反逆です。霊的な生活、神をベースにした生活の基盤は、内在の神霊すなわちアートマン(神の魂/アートマ)です。体は神霊の家です。

 

 社会生活も、この霊的基盤に従うべきです。ところが人は、実在するのは体だけ、という信念に生活の基盤を置いています。この誤りをなくすには、神霊について教わる必要があります。個人も社会も両方とも神の意志の現れであるということ、そして、神は宇宙に浸透しているということを認識する必要があります。この真理を認識することによってのみ、人は自分のエゴを手放して、義務に献身する生活を送ることができます。社会は自分本位な個々人の戦場になるのではなく、神に導かれる個々人の共同体になるべきです。

 

 科学の進歩に伴って、人は自分が宇宙の主であると思い、神を忘れる傾向に陥っています。現代人は、月に行き、宇宙を探検していますが、もし自分たちは創造における無数の謎と不思議をまだ知らないということを考えるなら、それらは心と知性の限られた能力をはるかに超えていることに気付くでしょう。宇宙の神秘と謎を発見すればするほど、人は、神がすべての創造物の創造者であり、動機を与える者であることに気付くでしょう。すべての宗教はこの真実を認めています。人にできることは、目には見えない無限の神を理解するために自分の限られた知性と知識を使って尽力し、神を礼拝し崇めることを身に付けることだけです。

 

 生まれ持っている神性を示す代わりに、人は自分自身の物質的な達成という牢屋に囚われています。人間のあらゆる科学や技術の進歩よりも偉大なのは、神の意識が授けられている存在としての人間自身です。物質世界のみを現実と見なすという選択をすることで、当分の間は、科学的、技術的、物質的な社会の繁栄をもたらすことができるかもしれません。けれども、もしその過程で人間の利己心や貪欲や憎悪が増すならば、人々が通常しているのと同じように、社会が社会を破壊してしまうでしょう。反対に、もし人間の本質をなす神性が示されるなら、人類はユニティに基づいた、そして、愛という神聖原理の順守に基づいた、立派な社会を築くことができます。この重大な変化は、個々人の心から始まらなければなりません。個人が変わると、社会が変わります。そして、社会が変わると、世界全体が変わります。ユニティは社会の進歩の秘訣であり、社会への奉仕はユニティを促進する手段です。ですから、誰もが献身の精神で社会への奉仕に身を捧げるべきです。

 

 物質的な快適さは社会生活の唯一の目的ではない、ということを悟るべきです。個々人が物質的な福利のみに関心を寄せる社会では、和合や平和を達成することは不可能です。たとえ達成されたとしても、それは継ぎはぎだらけの和合でしかないでしょう。なぜなら、そのような社会では強者が弱者を抑圧するからです。自然の恵みを平等に分配しても、名ばかりの平等以外は何も保証されないでしょう。物質で出来た品物を平等に分配することで、どうやって欲望と能力に関連する平等を達成できますか? ですから、霊的なアプローチを明らかにすること、そして、心を物質的なものから各人のハートの中に鎮座している神に向き直させることによって、欲望を支配する必要があるのです。

 

 ひとたび内在の神霊の真理を知ると、世界は一つの家族であるという意識のあけぼのがやって来ます。すると、人はその人のあらゆる行いの原動力となる神の愛で満たされます。人は終わりのない欲望の追求に背を向けて、平和と平静の探求へと向かいます。物質的なものへの愛を神への愛に転換することによって、人は神を体験します。その体験は人間を凌ぐものではありません。実際、それは人間に固有の性質の一部です。それは人の人間性と神性の神秘です。

 

 自分の宗教が何であれ、誰もが他の信仰への敬意を培うべきです。他の宗教への寛容と尊敬の態度を持たない人は、自分の宗教の真の信徒ではありません。単に自分の宗教の慣行を厳守するだけでは十分ではありません。すべての宗教の本質をなすユニティを見ようとも努めるべきです。そうして初めて、神性は一つであるということを体験できるようになります。宗教の分野では、いかなる類の強制も強要もありません。宗教的な問題は、穏やかに、そして、冷静に議論するべきです。ある人の宗教は優れていて、別の人の宗教は劣っている、といった感情を抱いてはなりません。宗教に基づく対立は完全に排除するべきです。宗教に基づいて人を分けるのは、人道に反する罪です。

 

 現代人は、自然と宇宙に関するすべてを知っていると思っています。ですが、もし人間が自分自身を知らないなら、その知識の一切は何の役に立ちますか? 自分自身を理解したとき、初めて外の世界についての真実を知ることができるようになるのです。人の内なる実在を、外の世界を探索することによって知ることはできません。目を内に向け、自分の本質をなす神性を悟るとき、人は万物への平等心を手に入れます。その、一つであるという気持ちによって、人は理解を超える至福を体験するでしょう」

〔Sathya Sai Speaks Vol.16 C29〕

 

 ローマでのこの画期的な会議において、ジョージ・トレヴェリン卿は三人のゲスト・スピーカーのうちの一人でした。彼は、「人類の一体性に向けて」というテーマで講演をしました。二人目のスピーカーは、アメリカのジョージア州レイクマウントにあるセンター・オブ・スピリチュアル・アウェアネスの設立者であり会長の、ユージーン・ロイ・デイヴィス氏でした。氏の話は、「急速に目覚めつつある世界における霊的責任」についてでした。三人目のスピーカーは、在英国シエラレオネ大使館や他の国々で大使を務めたヴィクター・カヌー氏でした。氏の題目は「シュリ・サティヤ・サイ・ババ、人類の希望」でした。

 

 会議では五つのグループに分かれてテーマを話し合い、話し合った内容を各代表が発表しました。

 

1.「人類の一体性」シュリ・V.K.ナラスィンハン氏

2.「日常生活におけるサイの理想」ジョン・ヒスロップ博士

3.「科学と霊性」サミュエル・サンドワイズ博士

4.「すべての宗教の真髄」ハワード・マーフェット氏

5.「人間的な特質と神性」シュリ・V.シュリーニヴァーサン氏

 

 Ⅴ.K.ゴーカク博士とインドからローマへの旅を共にした、当時サナータナ サーラティ誌の共同編集者であったシュリ・Ⅴ.K.ナラスィンハンは、ローマでバガヴァン・ババの遍在を裏付ける奇跡的な体験をしました。その奇跡は会議の中で帰依者たちの話題になりました。その奇跡を目撃したオーストラリアのサラ・パヴァン博士に、その心躍る出来事を聞いてみることにしましょう。

 

 「そのすべてはローマで起こりました。10月27日に、私はエルジェフ・ホテルでシュリ・V.K.ナラスィンハンに会い、オーストラリアのサティヤ・サイ年鑑の出版前の原稿に目を通してくださいとお願いしました。それは私が編集したもので、規定に合っているかどうか確かめてもらうためでした。ナラスィンハンはそれを読もうとして老眼鏡を探しました。やっきになってメガネを探しましたが、いつもメガネを入れている赤いメガネケースが見つかっただけでした。ナラスィンハンは、ホワイトフィールドのブリンダーヴァンにある自分のアパートにメガネを置き忘れたのではと不安になりました。彼は、出発の日に二度も領事館に行かなければならなかったため、大あわてでブリンダーヴァンを出ていたのです。ナラスィンハンは、私が彼に渡した原稿の件はもちろんですが、メガネなしでどう会議をやり過ごしたらよいものかと戸惑いました。

 

 私は翌朝、ホテルに彼を尋ねました。私たちはソファーに座り、お互いどんなふうにスワミのもとへとやって来ることになったのかを話していました。突然、私たちの間のクッションの上に何かが落ちてきた音が聞こえました。そこに黒縁のメガネを見て、私たちは大変驚きました。ナラスィンハンはクッションの上のそのメガネを二度見して叫びました。『私のメガネだ! スワミがここにいらっしゃったのだ!』この言葉が発せられるよりも前に、私も何か『普通じゃないこと』が起こったのだという気がしていました。ナラスィンハンは、自分の老眼鏡が奇跡的に出現したことに圧倒されていました。スワミへの感謝の思いで彼は涙ぐみました。ローマ滞在中に自分の目の前で起こったこの奇跡によって、私はスワミの遍在を確信しました。

 

 ナラスィンハンがプラシャーンティ・ニラヤムへ戻ってからスワミが最初にお尋ねになった質問は、『ナラスィンハン、あなたのメガネに何かありましたか?』でした。ナラスィンハンはスワミに、誰かが自分のところにメガネを運んでくれたように感じましたと言いました。スワミは、『私がそのメガネをバンガロールからローマのあなたの所へ届けたのですよ』とおっしゃいました」

 

 ローマでの国際会議は、サイ・ムーブメントが地球規模で飛躍した画期的な出来事でした。それはある意味、シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの第四回世界大会の先駆けでした。世界大会は、バガヴァン・ババの60回目の誕生を祝う式典の一環として、1985年11月17日から21日まで、プラシャーンティ・ニラヤムで開催されたのでした。

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​第 51 回

 月刊誌サナータナ サーラティの1983年6月号の内表紙に、短いお知らせが掲載されました。見出しは「ブリンダーヴァンに新しいマンディル」でした。そこにはこう書かれていました。

 

 「ブリンダーヴァンを訪れる人は、100年の歴史のあったその建物を懐かしく思うことでしょう。そこは数々の増築や改築を施しつつ、およそ20年間バガヴァンの住まいだった場所でした。バガヴァンは1983年5月17日に、その古い敷地に新しいマンディルの礎石を据えられました」

 この知らせは、たくさんの人たちに懐かしい思い出の数々をよみがえらせました。彼らは神さまとの楽しい交流や人々の変容を目撃してきたその幸運な建物が取り壊されることをさみしく思いました。けれど、その場所に新たに現れた新しいマンディルは、一年もしないうちにそんな哀愁を吹き消してしまいました。

 

 その新しい住まいのためにバガヴァンがお選びになった名前、「トライー ブリンダーヴァン」〔トライーは「三つ組みの」を意味する〕には、何重もの意味があります。その根本にある意味は、神性の三つの側面を表している、「サッティヤム・シヴァム・スンダラム」です。「サッティヤム」(サティヤム)はボンベイにあるバガヴァンの住まいの名前です。ハイデラバードにある住まいは「シヴァム」で、マドラス(チェンナイ)の住まいは「スンダラム」です。しかしながら、この三つを合わせた名前は長すぎるため選ばれませんでした。「トライー」にはこの三つすべてが含まれています。

 

 さらに、「トライー」は、サナータナ・ダルマ(永遠の法)の根源を成す三つのヴェーダ、すなわち、リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダを表す合成語でもあります。加えて、「トライー」は、絶対者(神)の三つの属性、サット・チット・アーナンダも表しています。「トライー」は、シュリー・ラリター・サハッスラナーマ・シュトートラム〔ラリター女神の千の御名を称える讃歌〕に謳われている千の御名のうちの一つでもあります。「トライー」はまた、主だった宗教に見られる三位一体も表しており、霊的大望を抱く人にとって、「トリカラナ・シュッディ」〔三つの清浄〕すなわち、思いと言葉と行いの清らかさを、繰り返し思い出させるものです。「トライー」はさらに、「トリカーラ」〔三つの時間〕すなわち、過去・現在・未来も表しています。

 

 建物は、西正門のドア、北側のインタビュールームのドア、そして、南西の通用口というように、入り口が三つあり、二階建てで、蓮の花の形をしています。建物のどの面にも蓮の形があしらわれていますが、それはブラフマ・サーンキヤ〔神を表す数字〕である神秘の数9およびその倍数と密接な関係があります。

 

 建物の設計図には二つの同心円が記されています。直径が36フィート〔約11メートル〕ある内側の円は、高さが床上36フィートの荘厳な丸天井のホールで構成されており、外側の円は直径が72フィート〔約22メートル〕あります。その二つの円の間のエリアは両フロアとも各部屋と廊下で区切られています。円形のホールに立って見ると、一階にある9つの部屋のドアが見えます。それぞれのフロアの高さは144インチ〔約3メートル半〕あります。内側の円には円周に沿った9本の柱があり、外側の円には18本の柱があります。建物の18枚の蓮の花びらは、コンクリート製の日よけになっており、一階の外側にある18の窓を見下ろしています。屋内の丸いホールには満開の9つの蓮の花が施された欄干付きのバルコニーがあり、それぞれの花の中心にはナヴァグラハ(9つの惑星)が一つずつ飾られています。荘厳な円天井には、27フィート〔約8メートル〕の巨大なピンクの蓮の花が光沢を放っています。さらには、建物全体を蓮の花の形をした池が取り囲んでいます。蓮の花といえば、人のハートの霊的な開花という象徴的な姿形が思い出されます。蓮はバガヴァンのお気に入りの花でもあります。

 

 入口の重厚な扉には、ラーマーヤナの場面をモチーフにした2枚のパネルと、シヴァ・シャクティをテーマにした見事な木工細工が施されており、邸宅の美観をより一層を引き立たせています。玄関を通ると、屋内の円いホールへと導くアンティーク調のウッドローズの木の扉が人々を出迎えてくれます。扉を開けると、ガネーシャ神の大きな像に両手を合わせて挨拶することになります。その両脇にはナタラージャとヴェーヌ・ゴーパーラの神像が安置されています。

 

 バガヴァンにより、1984年4月26日にトライー・ブリンダーヴァンの落成式が執り行われました。その日は、あらゆる場所から集まってきた何千という帰依者たちにとって、思い出深い日となりました。その日の朝、帰依者と招待客、そして、大勢の群集が、サイラム・マンタップとその新しい建物の近くのテントに集まりました。ババは、ブリンダーヴァンに隣接する敷地にある仮住まい「デーヴィー・ニヴァーサ」〔女神の館〕からお出ましになり、先頭にブラスバンド、それから、ヴェーダを詠唱する学生、バジャンを歌う学生という、見応えのあるすばらしい行列を率いられました。行列の中には華やかな衣装を着けたゴークラムの雌牛が数頭おり、バーガヴァタムの一場面を思い出させました。

 

 バガヴァンがトライー・ブリンダーヴァンの門をくぐられると、バガヴァンが到着する前から伝統的なホーマ〔護摩焚〕を行っていた僧侶たちがバガヴァンにプールナ・クンバ・スワガタム〔歓迎の挨拶〕を捧げました。落成式に先立って、ババはその新しい寺院の建設に関った人たち全員に贈り物をしておられました。その中でも目立っていたのが、ボンベイ出身の建築家シュリ・アタレー、そして、建設現場を監督したシュリ・ブリガディエール・ボースとシュリ・ヴィマラナータン、古美術品や見事な木工細工という形で貢献したシュリ・ナテーサンとシュリ・スクマランでした。それから、バガヴァンはテープカットをなさり、「トライー・ブリンダーヴァン」と刻まれた銘板の覆いを外し、建物の落成を行われました。バガヴァンがマンディルに入られると、辺り一面に歓喜がみなぎりました。その場にいたジャーナリストの一団がバガヴァンにメッセージを求めると、バガヴァンはテルグ語で「あなた方の喜びは私の喜びです」とおっしゃいました。バガヴァンは彼らに、この建物は、数えきれないほどの帰依者たちの愛と帰依心がもたらした結果であると述べられました。それによって、バガヴァンは猿やリスやその他のものたちがどのようにしてラーマがランカーに橋を架けるのを手伝ったかを思い出させてくださいました。

 

 そこに集った何千という人々は、豪華な食事を振る舞われ、さらに、大勢の老人たち、障害のある人たちに衣類が配られました。その日の午後、マンディルの建物とサイラム・マンタップの間にある野外の公会堂は帰依者たちであふれました。名高い音楽家たちによる、魂を揺さぶられるような神への讃歌がその場の空気を満たす中、彼らは主の蜜のように甘いダルシャンを享受しました。シュリーマト・M・S・スッバラクシュミー、シュリーマト・S・ジャーナキー、シュリーマト・P・リーラー女史らは、人の姿をとった主に心からの歌を捧げるという幸運にあずかり、その崇高な雰囲気の中、パンディト・ジョグ氏が最高のバイオリン演奏をしました。

 

 こうして、多くの人々のハートの花を咲かせた新しい「蓮の花」が開花したのでした。

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50

​第 50 回

 ブリンダーヴァンのこの上なく素晴らしい魅力は、シュリ・ラーマブラフマンの人生における、興味深い、驚くべきたくさんの出来事によく表れています。彼はアシュラムの管理責任者になってから亡くなるまで、約30年にわたりずっとバガヴァンの祝福を受けてきました。バガヴァン自らがプラシャーンティ・ニラヤムや他の場所から900通以上の手紙を出されてラーマブラフマンにアシュラムの維持に関するガイダンスや指示を事細かに記したという事実は、バガヴァンのハートの中でいかにブリンダーヴァンという場所が尊ばれているかを示唆しています。ババからの手紙には、ラーマブラフマンへの限りない愛と思いやり、そして、ラーマブラフマンの身体的および霊的な安寧に寄せる気遣いが表されているものも数多くありました。それらの手紙には、母の愛情、父の厳しさ、そして、師であるアヴァターの英知が映し出されていました。ここに、バガヴァンがラーマブラフマンに宛てた、甘露のごとき神の愛に満ちた、詩歌のような手紙があります。

 

 「私は、私に会いたいと焦がれる寡婦、サックバーイーが流した切ない涙を、一度たりとも忘れたことがあっただろうか? 私を崇拝することより他には何も望まなかった私の帰依者、ナンダナールが味わった試練の数々を覚えていないことなどあろうか? ただ私のダルシャンにあずかりたいと、不用意に泣きながら懇願した王妃、ミーラーバーイーが一度でも私の記憶から色あせたことがあっただろうか? ラーマ、ラーマと絶え間なく呟きながら気が狂ったように神を求め、あちらこちらとさまよい歩いた詩人、ティヤーガラージャの祈りを一度たりとも無視したことがあっただろうか?

 

 おお、ラーマブラフマン! これらすべてをいつも覚えているあなたのサイが、私を求めて今泣き叫ぶあなたの涙ながらの訴えに耳を貸さないことがあるだろうか? どうしてあなたに彼の慈悲が降り注がれないことがあろうか? 心しておきなさい、彼はどんな時も必ずやあなたを守ります。

 

 ラーマブラフマン! サイはあなたがどこにいようとも、決してあなたを忘れません。あなたが森にいようと空にいようと山にいようと、村に行こうと町に行こうと、サイには問題ではありません。サイがあなたを忘れることは決してありません!

あなたのババより」

 

 ラーマブラフマンは、ヴィジャヤワダ市近郊の村の出身で、裕福な農学者であり、ビジネスマンでした。1945年からシルディ・ババの帰依者でしたが、1953年、51歳の時、初めてプラシャーンティ・ニラヤムでババのダルシャンにあずかりました。プラシャーンティ・ニラヤムでの最初の日、彼はバガヴァンから声をかけられ、「ラーマブラフマン、How are you?」と尋ねられ、たいそう驚きました。どうしてババに自分の名前が分かったのか、ラーマブラフマンは不思議に思いました。滞在三日目、ババはパーダプージャー〔御足への礼拝〕を捧げる機会を与えて彼を祝福なさいました。パーダプージャーをしていた時、彼にはサティヤ・サイ・ババの代わりにシルディ・サイ・ババが椅子に座っておられるのが見えました! こうしてババは、彼に信仰心という最も大切な贈り物をお与えになったのです。ラーマブラフマンはその時から二度と後ろを振り返ることはありませんでした。彼はプッタパルティを頻繁に訪れるようになりました。時折、妻や二人の娘や三人の息子など、家族の何人かと一緒に行くこともありました。

 

 1953年に初めてプッタパルティを訪れた後、ラーマブラフマンはグントゥールでたばこの輸出業に乗り出しました。勤勉さと誠実さのおかげで、事業はすぐに成功しました。そのことでババへの帰依心はより一層深まりました。1955年まではすべてが順調でした。しかし、そこから試練が始まりました。後に彼は、その時期は、ブリンダーヴァンでバガヴァンに仕える者としてふさわしい価値を備えた人物になれるよう、精神面を強くするためにバガヴァンが鍛えてくださった時期だったと告白しています。1955年の終わりごろ、ラーマブラフマンは重病を患い、1956年まで誰もその病気を正確に診断することができませんでした。その上、いつプラシャーンティ・ニラヤムへ行っても、バガヴァンから無視されました。最終的に、その病気は重篤な肺感染症であると診断され、カルナータカ州のマイソールへ治療と休養に行くようにと勧められました。ラーマブラフマンは1956年6月から1957年の3月までマイソールに滞在しました。事業は失敗し、負債を清算するために、ほとんどすべての財産と土地を売り払うしかありませんでした。ラーマブラフマンは一年もしないうちに百万長者から困窮者へと身を落としてしまいました。ババへの信心は厳しい試練にさらされました。しかし、彼は成功を収めました。幸運なことに、親戚や友人が皆彼を見捨てても、バガヴァンは限りない愛を注いて彼に寄り添ってくださったのです。信愛の絆はさらに強くなりました。

 

 それから5年間、ラーマブラフマンの内面は厳しい鍛錬と研磨にさらされ、神への思慕はさらに強いものとなっていきました。1963年、彼にとって決定的な瞬間が訪れました。それはブリンダーヴァンにおられたババの所へ末娘の結婚を祝福してもらおうと赴いた時のことでした。末娘の結婚式はまだ先でしたが、彼の魂が神と結ばれる時が来たのです。バガヴァンは末娘の結婚を決めることと式を挙げることを請け合い、彼に妻と末娘を連れてブリンダーヴァンへ来るように、そして、アシュラムの管理人として定住するようにとおっしゃいました。ラーマブラフマンは、その贈り物を何生にもわたった苦行への褒美としてありがたく受け取りました。その日、彼は永遠なるものを追い求めたこの世での探求が成就したことを知りました。

 

 ラーマブラフマンは年下の同僚たちにとても親切でしたが、必要とあらば、ためらうことなくアドバイスをしていました。彼自身がバガヴァンとの体験で学んだことを例に挙げてアドバイスをすることもありました。ラーマブラフマンの最初のアドバイスはこうでした。

 「ここには職のために来たのだと思わないことだ。ここは自分の所有物だと思って、責任感を持って管理すべきだ」

 

 二番目の忠告はこうでした。

 「バガヴァンにはどんな個人的なお願い事もしないことだ。あなたがバガヴァンの仕事をすれば、バガヴァンはあなたの仕事をし、あなたが必要とするすべての面倒を見てくださる。あなたが何もお願いしなくても、バガヴァンはあなたに相応しいもの以上のものを与えてくださる」

 

 三番目はこうでした。

 「バガヴァンの指示には徹底的に文字どおりに従い、守ることだ。どんなことであろうとも、あなたに選択の自由は一切ない。バガヴァンが命じたことを、あなたの論理や都合に合わせて解釈してはならない」

 そして最後に、彼はよくこう言ったものです。

 「ババは神様だ。いつも彼を神様として敬うことだ。時たま、バガヴァンは軽い調子で話したり、冗談さえ言ったりするかもしれない。しかし、決してバガヴァンを軽く扱ってはならない。もしあなたがこのチャンスを失ってしまったら、それを再び手に入れるには何度も生まれてこなければならないかもしれない。今生であなたが最優先すべきはバガヴァンだ。他の人や他の事は二の次だ」

 

 ある時、ババはラーマブラフマンを呼んでおっしゃいました。

 「あなたの奥さんはしゃべりすぎです。それに、大きな声で話すので、アシュラムにいる誰にもその声が聞こえるほどです。彼女の話し声はマンディルにいた私にも聞こえました」

 その翌日、ラーマブラフマンは15時間以上かけて奥さんを自分の村に連れていき、彼女を置いて戻ってきました。バガヴァンか妻かどちらを選ぶかという選択に、ラーマブラフマンはバガヴァンを選んだのです! 彼は戻ってからババに報告しました。

 「スワミ、もう私の妻がここで誰かをわずらわせることはありません。妻のことで私と妻がこれまでご迷惑をおかけしていたことを、どうかお許しください」

 ババは言いました。

 「私は、奥さんをここから追い出しなさいとは一度も言っていません」

 ラーマブラフマンは黙り込んでしまいました。

 

 一週間後、ババは尋ねました。

 「奥さんはいつ戻ってくるのですか?」

 ラーマブラフマンは言いました。

 「スワミ、分かりません」

 それからいく日か毎日同じ質問がなされ、同じ答えが続きました。とうとうババはしびれを切らして言われました。

 「ラーマブラフマン、もし奥さんが一週間以内にここに戻ってこなかったら、あなたも奥さんと二人でそこに住むことにしなさい」

 その時、ラーマブラフマンは事の重大さを理解し、三日も経たずに奥さんをブリンダーヴァンに連れ戻しました!

 

 グントゥールでラーマブラフマンの孫娘の結婚式が行われることになった時のことです。家族から招待状を受け取ったのは、式の二週間前のことでした。彼はバガヴァンにその招待状を捧げましたが、結婚式に出席するための許しを請うことはしませんでした。黙って立ち上がろうとしたとき、ババが自らおっしゃいました。

 「行って結婚式に出席してかまいません」

結婚式の日が近くなったある日、彼はババから式の二、三日前にはグントゥールへ出発するようにと言われるのを期待していました。しかし、バガヴァンはそのことには触れようとしませんでした。ラーマブラフマンもそれを口にはしませんでした。結婚式が終わった次の日、ババは尋ねました。

 「ラーマブラフマン、どうして結婚式に行かなかったのですか?」

 ラーマブラフマンは平然と答えました。

 「スワミは私に出席してほしくないのだと思ったのです。そうでなければ、当然あなたは私に行きなさいとおっしゃったはずです」

 バガヴァンは大いに満足し、もうすぐ75歳になろうとしていたラーマブラフマンにこうおっしゃいました。

 「Good boy(いい子だ)! それぞ真の帰依者の証しです」

 

 ラーマブラフマンにとって、思いと言葉と行動でババを喜ばせることよりも大切なことは、何もありませんでした。まさしく、彼はずば抜けた帰依者でした。

 

 ラーマブラフマンの次男、シュリ・ナーガブーシャンが、1964年6月3日、ヴィジャヤワダで急死しました。その日は猛烈なサイクロンのせいでヴィジャワダとブリンダーヴァンの間の通信回線はすべて切断されていましたが、その夜、バガヴァンはラーマブラフマンにおっしゃいました。

 「あなたの息子、ナーガブーシャンが亡くなりました。すぐに奥さんを連れて家に帰りなさい。でも、奥さんには家に着くまでそのことを知らせてはいけません」

 ラーマブラフマンは黙ってその言いつけに従いました。17時間の移動中、ババがある重要な用事のために自分をヴィジャヤワダに遣わせたのだということ以外、妻には何も明かしませんでした。家に着いて妻が目にしたのは、愛おしい息子の亡骸(なきがら)でした。妻は自分たちを襲った悲劇のことを急いでバガヴァンに知らせようと思いました。その時初めてラーマブラフマンは妻に真実を告げました。彼は慰めるように言いました。

 「おまえに対する限りない御慈悲から、スワミは私がブリンダーヴァンでこの子の死をおまえに知らせることを望まれなかった。母として、おまえは悲しみに耐えながら長旅をすることなど不可能だっただろう」

 

 最後の儀式〔葬儀〕が終わるまで、二人は二週間ヴィジャヤワダに滞在しました。その間、バガヴァンはラーマブラフマンと妻に長い手紙を書かれ、生死に関する英知の言葉で二人を慰めました。ですが、息子を失った母の心中にあった苦悩の炎はそう容易く消し去ることができませんでした。ブリンダーヴァンへ戻ると、妻は胸が張り裂ける思いでバガヴァンに泣きついて、嘆き悲しみました。

 「ババ、私は息子を亡くしてしまいました」

 ババはおっしゃいました。

 「彼はどこかに行ってしまったのではありません。彼は私と一緒にいます」

 「あなたと一緒に? 本当ですか?」

と、悲しみに打ちひしがれた母は尋ねました。バガヴァンは夫妻をインタビュールームに連れていきました。そこで二人が見たものは、二週間前に何百マイルも離れた場所で葬ったはずの息子でした。息子はブリンダーヴァンのインタビュールームに座っていたのです! ババは、嘆き悲しむ母の焼け付くような痛みを和らげるために必要なことをすべてなさり、一日のうちにそれを成功させたのでした。

 

 次に挙げるラーマブラフマンの三つの体験談は、ババに仕える者に必要な、大切な教えを説いています。

 

 ラーマブラフマンは背が高く、骨格もがっしりとして、体重もありました。ある日のこと、ババは彼にご自分のオレンジのローブを渡し、それを着るようにとおっしゃいました! 他の人なら誰もが冗談だと思ったことでしょう。ですが、ラーマブラフマンはそのローブを手にしてババを見ました。ババはおっしゃいました。

 「そうです、着てみなさい」

 ラーマブラフマンは真面目に言いました。

 「スワミ、着てはみますが、これが私の大きな頭や長い腕に合うかどうかは分かりません」

 バガヴァンは動じませんでした。ラーマブラフマンは大変な思いをしてローブに頭を入れようとしましたが、息もできないほどになってしまいました。それでも彼はあきらめませんでした。ラーマブラフマンが大いに驚き、また喜んだことに、ローブは彼にちょうどぴったりの大きさになるまで大きくなりはじめたのです! ラーマブラフマンはその経験から良い教えを学びました。彼はよくこう言っていました。

 「あなたがババに言われたことを誠実にやろうとするとき、ババは必ずあなたがその仕事を首尾よくやり遂げられるよう助けてくださるのだ」

 

 ラーマブラフマンがマンディルの一階にいたときのことです。二階からバガヴァンが大きな声で自分を呼んでいるのが聞こえました。ラーマブラフマンは手に魔法瓶を持っていて、それを持ったままババに会いにいくのは適切ではないと思いました。そのため、彼は台所に魔法びんを置きに行き、それから二階へ上がりました。バガヴァンの所へ行くと、バガヴァンは鋭い目を向けて彼に尋ねました。

 「なぜ来たのですか?」

 「スワミ、あなたがお呼びになったのです」

と、ラーマブラフマンは答えました。ババは少々厳しくおっしゃいました。

 「私があなたを呼んだのは数分前で、今ではありません」

 こうしてラーマブラフマンは神の御前から退出させられました。

 さほど問題ない出来事のように思えたその件から一月後、ラーマブラフマンの指揮の下、ブリンダーヴァンの農場に井戸が設置されました。彼はバガヴァンから、そこで作業をしていたセヴァダルや労働者たちのためにと、お菓子を預かっていました。お菓子を配り終え、畑を通ってマンディルへ歩いて帰る最中、彼は時計を見て、ババが自分を待っておられるかもしれないと思いました。彼は速歩きを始めました。けれど、急ぐあまり足を滑らせて転んでしまいました。地面に倒れる直前に、ラーマブラフマンは「サイラム」と叫びました。ひどい転び方をしたにもかかわらず、白い服が汚れただけで、まったく難儀を感じませんでした。バガヴァンのもとに着くと、バガヴァンは彼におっしゃいました。

 

 「ラーマブラフマン、あなたが私の名前を呼ぶや、すぐに私は農場のあなたが転んだ場所へと駆けつけて、あなたがひどい怪我を負わないよう守りました。さもなければ、あなたは骨を何本か折っていたことでしょう。あなたが私を呼んだ時、すぐに私がその場に駆けつけなかったら、どうなっていたでしょう? 一方、あなたは私があなたを呼んだ時、私のもとに来るのに時間をかけました。それでよいのですか?」

 ラーマブラフマンはババの御足にひれ伏して許しを願いました。

 

 ある日、当時のインドの副大統領、シュリ・B・D・ジャッティが、国の重要事項に関してバガヴァンの祝福を得るために、夕方6時にブリンダーヴァンへやって来ました。副大統領は主要な大臣数人とカルナータカ州の首相を連れていました。しかし、その日ババはすでに自室へ戻っておられました。ババの許しがない限りどんなゲストも訪問者もマンディルの敷地に入ることはできなかったため、ラーマブラフマンは副大統領とお歴々を「サイラム・マンタップ」で出迎えました。彼は恭しくあいさつをして、翌朝来てくださいと頼みました。副大統領は彼に懇願しました。

 「私はこの件について、夜が明ける前に首相に話をしなければならないのだ。どうかババに、私はここでお会いできるのを待っていると伝えてくれないか」

 ラーマブラフマンは丁寧に、しかし、きっぱりと言いました。

 「閣下、スワミが部屋へ戻られてからは、誰もスワミの部屋のドアをノックすることはできないのです。どうかお許しください」

 「それではどうすればよいのだ? どうか助言を与えてはくれないか?」

と、当惑した副大統領は尋ねました。

 「私の経験に基づいて言わせていただくなら、一つだけ方法があります。どうぞここにお座りください。そして、サイラムと唱え、ババに祈ってください。ババはすべてご存じです。あなた方の祈りに応えてくださることでしょう」

と、老練な帰依者である彼は答えました。

 シュリ・ジャッティはそのアドバイスを受け入れて、座って祈りました。ラーマブラフマンはマンディルへ戻っていきました。数分もしないうちに、バガヴァンが部屋から姿を現し、ラーマブラフマンに副大統領を中へ入れるようにと指示なさいました。バガヴァンは副大統領と三十分以上話をなさいました。

 

 ラーマブラフマンはそのことに驚きませんでした。ですが、他の者たちにとって、それは意義深い体験でした。こういった数多くの経験に基づいて、ラーマブラフマンが年下の同僚たちに与えるアドバイスはこうです。

 「私たちは、スワミを喜ばせることができるよう、物事を正しく行うための適切な働きかけの方法をスワミに絶えず祈り続けているべきなのだ。もし自分の知力や考えで判断すれば、十中八九間違えることになるだろう」

 ラーマブラフマンは神の人でした。彼は神のために生き、神のために働きました。

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神のために生き、神のために働いたラーマブラフマン

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東アフリカからラーマブラフマンに宛てて書かれた

ババの手紙

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ブリンダーヴァンのゴークラムの落成式

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​第 49 

 時が経つにつれ、バガヴァンのところに集まる会衆はとても多くなり、どんな帰依者の家でもバガヴァンのダルシャンを求めて訪れる群衆を収容することができなくなりました。大勢の帰依者たちは、日差しや雨をものともせず、バガヴァンが滞在なさる家の外の道路に集まりました。その光景はバガヴァンの優しい心を動かし、バガヴァンは町の郊外にある静かで落ち着いた場所にアシュラムを作ることを決意なさったのです。

 

 1958年1月1日、ババは、町の東方20キロにある小さな町、ホワイトフィールドを訪れ、何人かの帰依者たちと共に、たわわに実った果樹園で丸一日を過ごされました。

 

 ホワイトフィールド周辺にアシュラムを設けるというババのサンカルパ〔意志〕は、1959年7月23日に現実となりました。バガヴァンは、町の北方まで伸びている幹線道路の東側に20エーカーの屋敷を購入なさいました。バガヴァンは、1960年7月25日に正式にその場所に入られ、そこを「ナンダナ・ヴァナム」と名付けました。その名のとおり、そのアシュラムは「喜びの庭」であり、「ナンダの神なる息子の庭」でした。何百本もの木に飾られた長方形の土地には、おびただしい数の鳥のさえずりが響き渡っていました。北側には木々に覆われた小丘があり、まるで天国のような所でした。その庭の中央には、小さいけれども魅力的なバンガローがありました。他には、その敷地にある建物は、南西の角に位置する正門に隣接した離れだけでした。ババは1961年の終わりまでずっと、その町を短期間訪れた際には「ナンダナ・ヴァナム」に滞在なさっていました。

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主が滞在された「ナンダナ・ヴァナム」のコテージ

 アーンドラ・プラデーシュ州の雲母王として知られていた、シュリ・ゴーギネーニ・ヴェーンカタ・スッバイフ・ナイドゥと彼の家族は、「ナンダナ・ヴァナム」の北方5キロにある13エーカーの土地、「モーハン・パレス」を所有していました。そこは鉄道のホワイトフィールド駅のそばに位置する良く計画されたエリアで、広大なバンガローがあり、たくさんの泉や池、手入れの行き届いた植物園の数々に囲まれていました。曲がりくねった一本の並木道がバンガローから敷地の北西角地の正門まで続いていて、道の両脇にはたくさんの花を咲かせる木々が立ち並んでいました。敷地に入ると、右手に巨大なインド菩提樹、左手に屋根付きの通廊で繋げられた瓦屋根の二つのコテージが目に入ってきます。その場所全体が、畏敬の念を抱かせるような所でした。バガヴァン・ババという神聖で力強な磁石は、そのアーンドラ・プラデーシュ州出身の有名な雲母産業の有力者をナンダナ・ヴァナムへと引き付けました。父親と、その三人の息子、シュリ・ヴェーンカテーシュワラ・ラーオ、シュリ・セーシャギリ・ラーオ、シュリ・モーハナ・ラーオは、ババの帰依者となりました。ババも彼らの家を何度か訪問なさいました。三兄弟は、1961年9月に父親が逝去すると、プッタパルティを訪れて、バガヴァンがバンガロールに来るときは必ず自分たちといっしょに「モーハン・パレス」に滞在してくださいとお願いしました。ババは彼らの愛に満ちた申し出を受け入れ、1962年の夏を三兄弟と共に過ごされました。並木道の木々の下でのダルシャンのために、素晴らしい準備がなされました。三兄弟から帰依者たちに提供された愛情のこもったもてなしは、バクタヴァッツァラー〔バクタを愛する者〕であるバガヴァンを喜ばせました。ババへの信愛とババの帰依者への愛情によって強く促された三兄弟が「モーハン・パレス」をババに捧げたいと言ったとき、ババはそれを受け入れられました。その一方で、ババは三兄弟に「ナンダナ・ヴァナム」を受け取るようにと強く主張なさいました。それはババから三兄弟への愛のこもった贈り物でした。サイ・ゴーパーラは、その新しいアシュラムを「ブリンダーヴァン」と命名なさいました。それは人々に、バーラ・ゴーパーラ、神なる牧童の、聖なるリーラー・ブーミ〔神聖遊戯がなされた土地〕を思い起こさせるものでした。

 三日間に及ぶ式典は、1964年4月13日のアシュラムの落成式で幕を開けました。そこには景観に配慮した18か月かけた改築が多数施されていました。その日は、クローディという新年の始まりと、ヴァサンタ・ナヴァラートリ〔春の九夜祭〕の初日という、二重におめでたい日でした。落成式には、インド国内外からの何千人という帰依者以外にも、卓越したヴェーダ学者たちや有名な芸術家たちなど、大勢のお歴々が出席しました。その時から、ブリンダーヴァンはアヴァターが半年間ほどを過ごされる第二の家となりました。当初、ブリンダーヴァンの主、サイ・クリシュナは、男女が別れて並木道の両側に座っている所を行ったり来たりしながら、ダルシャンを与えておられました。後に、生い茂った菩提樹の木の下で、毎週日曜日と木曜日にバジャン会が行われるようになりました。有名なトリバンギ〔首、腰、膝の三箇所をそれぞれ違った方向にS字に曲げる姿〕のポーズでたたずむ美しいヴェーヌゴーパーラの大理石の像の前にある大木の巨大な幹を囲むように設けられた円形の台の上に、バガヴァンは座られました。ブリンダーヴァンを訪れる帰依者の数が増えると、その木の下に金属製の薄板の屋根が付いた円形のマンタップ〔祭場〕が作られました。それは、「サイラム・シェッド」とか「サイラム・マンタップ」などと呼ばれました。そのアシュラムには、徐々にさらに多くの設備が帰依者たちのために付け加えられていきました。

 

 ブリンダーヴァンの黄金時代は、男子大学である、シュリ・サティヤ・サイ・カレッジ・オブ・アート・サイエンス・アンド・コマースの開校と共に始まりました。ブリンダーヴァンの地は、バガヴァンとバガヴァンの学生たちの間にある何よりも美しく甘美な間柄によってもたらされた、新しいオーラを得ました。そこは現代におけるグルクラ〔師と弟子たちが共に暮らし学ぶ学びや〕となりました。そこにはクラパティ〔クラの主〕の近くで愛に満ちた生活を共にする学生たちがいました。1970年から1980年の10年間、バガヴァンは一年の大半をブリンダーヴァンで過ごされ、自らの「青年男子たち」を親身になって育て上げられました。その幸運な学生たちは、バガヴァンから顕示される素晴らしい神の力に畏敬の念を覚え、バガヴァンから注がれるあふれんばかりの蜜のような愛によって心を動かされ、変容したのでした。ブリンダーヴァンの夏は、「インド文化と霊性に関する夏期講習」に参加しようと国中から押し寄せる何千人という大学生たちであふれ、忙しさが増しました。プラシャーンティ・ニラヤムとブリンダーヴァンの双方でバガヴァンの近くにいる機会を享受した帰依者たちは、「プラシャーンティ・ニラヤムはババの仕事場、ブリンダーヴァンはババの家庭。ババは、プラシャーンティ・ニラヤムではシヴァ神で、ブリンダーヴァンではクリシュナ神だ」と言っていました。

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ブリンダーヴァンの旧マンディールにて

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​第 48 

 バガヴァンの限りない愛と慈悲は、その時期〔1944年~1958年〕、バンガロールのたくさんの人々のハートに届き、そのハートをつかみました。バガヴァンの愛に触れ、変容したハートの絹のごとき物語をすべて記録しつくすことはできません。ですが、バガヴァンの慈悲が示された件を二、三、垣間見てみることにしましょう。

 

 ケーシャヴ・ヴィッタルの娘、ジャヤラクシュミーが初めてバンガロールでババを見たのは、まだ10代の時でした。信仰深い家に生まれ育ったため、彼女はすぐにババへの信仰心を抱くようになりました。バガヴァンがウィルソン・ガーデンの彼らの家にやって来て滞在なさると、ジャヤラクシュミーのみずみずしいハートは喜びであふれ、ババをもてなすため、そして、家に詰めかけたたくさんの帰依者たちのダルシャンがスムーズに運ぶようにするために必要な仕事は、何であれ一生懸命に手伝いました。

 ジャヤラクシュミーは、自分の家でババの神聖な力や愛が示されるのを数多く目にしました。その一つに、ババが地上での母に対して愛すべき息子の役を完璧に演じられた出来事がありました。その体験は、彼女の若き心に忘れることのできない印象を残し、彼女の人格に強い衝撃を与えました。彼女は後に、女性教育の分野におけるバガヴァンの使命を果たす、疲れ知らずの働き手であるリーダーとなりました。彼女はすでに本書の中に「選ばれし教師たち」の一人として登場しています〔サイラムニュース197号に掲載〕。彼女自身の言葉でその物語を聞いてみることにしましょう。

〜・​〜・​〜・​〜・​〜

 「ある朝、ババはイーシュワランマお母様を、二人の女性帰依者と一緒にバンガロールを見て回るようにと送り出されました。三人はお昼過ぎに戻ってきたのですが、イーシュワランマ様は両脇を二人の女性に抱えられて、やっとのことで家に入ってきました。イーシュワランマ様は真っ直ぐにスワミの所へ行くと、右手を見せながら、目に涙を浮かべて言いました。

 『スワミ、右手がひどく痛むの』

 乗っていた車が渋滞していた市街地の急な坂道を走り下りていた時、運転手が急ブレーキをかけ、肘を前の座席にぶつけてしまいました。スワミはヴィブーティを物質化して肘と手に塗り、優しくおっしゃいました。

 『心配しないで。よくなりますよ』

 スワミのアドバイスで、彼女は部屋にあった椅子に座って休みました。私は、その日の午後、イーシュワランマ様のお世話をするという幸運にあずかりました。他の人たちは、ダルシャンにやって来る帰依者たちを迎えるための準備で忙しくしていました。

 

 帰依者たちが去った後、すぐにスワミは戻ってきて、尋ねられました。

 『痛みは治まりましたか?』

 

イーシュワランマ様は子供のように無垢な声で言いました。

 『いいえ、スワミ。ひどい痛みだわ』

母親のような愛情で――それはババにとってはとても自然なことですが――ババはこうおっしゃいました。

 

 『痛いのはほんの短い間だけです。明日の朝には、痛みは消えているでしょう。心配しないで』

 

 それから、ババは手を回されました。たくさんのヴィブーティが現れました。ババはそれをイーシュワランマ様の肘に丹念に塗られました。夜が更けると痛みが増して、イーシュワランマ様はうめき声を上げるようになりました。私はそばに付いていましたが、痛みを和らげることはほとんどできませんでした。もう10時を回っていて、皆、退室していました。けれど、息子のババはその痛みを感じとっておられました。地上の母の苦しみは息子を眠らせませんでした。ババはそっと部屋に入って来られました。イーシュワランマ様は、スワミを見ると上半身を起こしました。母は自分を抑えることができませんでした。彼女は声を上げました。

 『スワミ、とってもひどい痛みなの』

スワミは彼女の手を優しくなでて、慰めるように言いました。

 『一時間もしないうちに痛みは減りますよ』

スワミは右手をゆっくり動かして円を描きながら、すっと部屋を出ていかれました。

 

 お母様は横になりましたが、ひどい痛みのために眠ることはできませんでした。私が思ったとおり、一時間かそこいらでババがまたやって来られ、彼女に、

 『痛みはどうですか?』

と尋ねられました。彼女は、

 

 『スワミ、少し良くなりました』

と答えました。スワミは満足されたようでした。

 『言ったでしょう? 朝までに、痛みはすっかり無くなってしまうでしょう』

 

 スワミはご自分の手をそっと彼女の手と頭の上に置き、ヴィブーティを物質化して肘に塗られました。少しして、スワミは部屋を出ていかれました。お母様はホッとしてぐっすりと眠りました。でも、私は一晩中眠れませんでした。どうして眠れましょうか? 私は幸運にも、ダルマに忠実な神なる息子が、自分の母に対して神なる母の役を果たされるという、魂が揺さぶられるような光景を目撃したのですから。

 

 時計が4時を打つと、イーシュワランマお母様はベッドの上で上半身を起こしました。いとおしい息子のスワミがそっと部屋へ入って来られました。私はあふれるほどの感謝の念を胸に、立ち上がりました。私は、ブラフマ・ムフールタ〔神の刻。日の出の96分前から48分前までの神聖な時間帯〕に、神のダルシャンにあずかったのです。スワミはとても優しく尋ねられました。

 『調子はどうですか?』

 『ほとんど大丈夫です。痛みはとても少ないです』

と、彼女は答え、スワミのすばらしく慈愛に満ちた顔を子供のように見上げました。ババは彼女の頭をなでられ、こう請け合われました。

 『日の出までにはすっかりよくなりますよ。よく休みなさい』

 

 立ち去る時、ババの顔に美しい微笑みが浮かびました。以来、この天国のような体験は、お金に換えられない、私の心の大切な宝物になっています」

〜・​〜・​〜・​〜・​〜

47

​第 47 

 わが生命の主なる生命よ、〔中略〕

わたしはつねに、わたしの心から

いっさいの悪意を追い払い、

わたしの愛を花咲かせておくよう

つとめましょう

――わたしのこころの内なる聖堂(みや)に

おんみがいますことを知っているからです

〔R・タゴール著『ギタンジャリ』、レグルス文庫p.32より〕

 グルデーヴ・ラビンドラナート・タゴールはこう詠みました。帰依者がバガヴァン・ババに、自分の地元にババのマンディルを建てる計画を祝福してくださいと懇願すると、ババはよくこうおっしゃいます。

 「あなたのハートが私のマンディルです。いつも清潔に、きれいにしておきなさい。レンガやモルタルでできたお寺は、私には何の慰めにもなりません」

 時折、ババは帰依者にこうもお尋ねになります。

 「いったいどうやってあなたは、この全宇宙を満たしている者の寺院を建てることなどできるのですか?」

 けれどもやはり、「ババは自分の家族の見えざる師である」と信じている大勢の帰依者たちは、ババへの愛から、自分の家にババの聖堂を建ててきました。私たちは貧しい人のあばら屋にも、大金持ちの大邸宅にも、地球上の至る所に、そうした聖堂を目にすることができます。さらに、ババに捧げられた何百という寺院が、村にも町にも都市にも、次々に現れてきました。そういった、生身の人間を存命中に崇めようと建てられた寺院の数としては、歴史上、並ぶものがありません。こうした寺院の多くにババの全能の恩寵の印が現れて、さらに多くの無垢なハートに信仰の種を蒔いています。

 一方、帰依者によって建てられた愛の殿堂もわずかに存在します。それらは、ババの生身の体に住んでいただくという幸運によって祝福されています。その中で最もよく知られているのが、プッタパルティのプラシャーンティ・ニラヤムのマンディル、バンガロールのブリンダーヴァンのマンディルです。この二つのアシュラムは、ババは一年の大半を過ごされる場所です。

 ここで私たちは、ブリンダーヴァンの新しいマンディルの話を語るとしましょう。それは1984年に日の目を見ました。ブリンダーヴァンのアシュラムの発端を知る良い機会でもあります。

 バンガロールはプッタパルティから南へ150キロ下った場所に位置しています。バガヴァンがプッタパルティに次ぐ二番目の住まいとしてお選びになったことにより、その最高の恩寵にあずかっています。

 バガヴァンが初めてバンガロールにいらしたのは1944年2月、バガヴァンがまだ18歳の若者でいらした時です。シュリーマト・カラナム・スッバンマ夫人、彼女の兄のシュリ・パップル・サッティヤナーラーヤナ、そして、シュリーマト・カマランマ夫人と共に、スワミは、牛車に乗ってペンヌコンダの鉄道の駅までやって来て、それから列車でバンガロールに到着されました。

 一行は、ラールバーグ近くのシュリ・マヴァッリ・ラーマ・ラーオの小さな家に10日ほど滞在しました。当時、そこにはカマランマの親戚とその友人が何人かいただけでした。自分はサイ・ババであると宣言し、何もない所から品物を物質化したり、薬を使わずに病気を治したりしていた少年ラージュに会うために、彼らはプッタパルティを訪れていました。彼らはラーオの家に押し寄せましたが、そこにはババを拝見するための電灯すらありませんでした。彼らもババを自宅に招待しました。

 1944年の間に、ババはさらに4度、その町を訪問なさいました。ババの神々しくも美しい姿でのダルシャンに一度でもあずかった者は、何度でも、ババがどこにいようとも、会いに行かずにはいられませんでした。ババがバンガロールを訪問される時はいつも、彼らの家はまるでお祭りのような雰囲気になって、彼らの心に新たな喜びが湧いてきました。ババはさらに頻繁にその町を訪問されるようになりました。ババはほとんどのお祭りが終わるたびにバンガロールへやって来られました。さらには、マドラスへの行き帰りにもいらしていました。

 小さな家では、ババとババのもとに押し寄せる帰依者たちを収容することができなくなっていました。バンガロールの帰依者の中には、もっとたくさんの人がババのダルシャンにあずかれるよう、そして、木曜ごとのバジャンに参加できるようにと、ババに自分のバンガロー〔別荘〕に滞在してもらいたいと懇願する人たちがいました。

 1944年の次の訪問の際、バガヴァンはチャーマラージャペートのシュリ・ナラシンハ・ラーオ・ナイドゥと、シュリ・ナヴァニータム・ナイドゥの邸宅に滞在されました。

 1945年から1946年には、セント・ジョセフ・ロード沿いのシュリ・ティルマラ・ラーオのバンガローの広々とした屋敷が帰依者たちの安息所となりました。1946年から1948年には、バサヴァナ・グディの警視総監、シュリ・ランジョート・シンの邸宅がそうなりました。

 1947年から1950年には、ブル・テンプル・ロード沿いのシュリーマト・サカンマ夫人の屋敷が祝福されました。1949年から1953年には、リッチモンド・ロード沿いのシュリーマト・ナーガマニ・プールナイアフ夫人の邸宅が、1949年から1953年は、ウィルソン・ガーデンにあるシュリ・ケーシャヴ・ヴィッタルの邸宅が、比類なき幸運にあずかりました。

 

 1954年から1958年の間には、シュリ・ヴェーンカタラーマンとシュリ・シュリーニヴァーサンという、バンガロールで評判の二人の会計監査官が、バガヴァンを接待する機会に恵まれました。二人の住まいはどちらもクマーラ・パークにありました。

第46回

​第 46 

 ババの帰依者のシュリニヴァーサンとヴェンカタラーマンが始めた監査・所得税務専門会社で働く、シュリ K.R.シャーストリーという若者がいました。彼は、ビジネス街チンターマニ近郊の、小さな村の出身でした。彼が初めてバガヴァン ババのダルシャンを受けたのは、1954年7月、バンガロールのヴェンカタラーマン邸でした。主なるシュリ ラーマを深く信仰していた若者、シャーストリーは、ババはこの世にダルマを確立させるために再臨したシュリ ラーマだと信じていました。バンガロールへ来た時はいつも、シャーストリーはどんな機会でも利用して自らの主のもとへ参じていました。ババに対する彼の忠誠心と帰依心を嬉しく思っていた雇い主たちは、自宅に主をお迎えする準備を手伝ってもらおうと、バガヴァンが到着する数日前にシャーストリーをバンガロールに呼びました。ババがバンガロールを訪れている間、個人的な従者としてのシャーストリーと主との絆は、日に日に大きく強くなっていきました。彼の誠実さは、背の低さと相まって、ババから「ラール バハードゥル シャーストリー」〔訳注:インド第2代首相〕というあだ名を授かるほどでした! ここに、その若き帰依者がバガヴァン ババは全知であるという信念をますます深めることになった体験談があります。

 

 1959年4月、シャーストリーは、会計士の試験を受けるために、プネー〔マハーラーシュトラ州で二番目に大きな都市〕へ行かなければなりませんでした。幸いなことに、ババはその時バンガロールにいらっしゃいました。シャーストリーは、プネーへ発つ前に主の祝福を受けたいと思いました。バガヴァンは彼におっしゃいました。

 

 「あなたは私の有り余るほどの祝福に与っています。私はこれからもずっとあなたと一緒です」

 

 ヴェンカタラーマンは、シャーストリーがプネーにいる義理の兄弟の家に泊まれるように手配していました。その家の家族全員がババの帰依者だったので、そこでの滞在はとても心地よく、シャーストリーの心の拠り所と重なるものでした。ヴェンカタラーマンの甥、シュリ ランガラージャンはババが大好きでした。彼は、シャーストリーをダースヤ バクティ〔神に仕える従者の信愛〕の理想的な模範として敬意を表しました。

 

 シャーストリーは、一番に答案用紙を書き終えると、バンガロールへ戻るチケットを予約するために、夕方、ランガラージャンと一緒に列車の駅へ出かけました。家に帰る途中、二人は近くの公園、ヴィクトリア ガーデンを散策し、石のベンチに腰を下ろしました。公園にはそれほどたくさんの人はいませんでした。ランガラージャンはババについてもっともっとたくさんのことを知りたがり、シャーストリーもそれと同じくらい自分の体験を分かち合うことに熱中しました。近くの時計台が6時を打ったとき、70歳くらいの老人がやって来て、彼らのベンチに腰掛けました。老人は背が高く、きれいな顔立ちで、頭髪は短く白髪まじりで、古い靴を履いていました。老人は長袖のシャツとズボンを身に着けていましたが、どちらも着古したものに見えました。老人はシャーストリーにこう尋ね、会話を始めました。

 「君たちはどこから来たのかね?」

 シャーストリーは手短に答えました。老人は続けて言いました。

 「わしもバンガロールへはよく行く。チャマラージペート、バサヴァナ グディ、クマラ パークは、よく知っている。わしは世界中を回ったことがある。じゃが、インドのような国は他にない。わしはインドをとても愛している。この国は、世界の霊的叡智の宝庫じゃよ」

 

 完璧な誠実さが響くその老人の言葉に、二人の若者は魅了されてしまいました。二人は、人と社会の福祉に果てしない関心を持って話す、この賢明な見知らぬ老人の話を聞き続けました。その老人は、インド文化における偉大な真理や価値について、また、現代という時代に、全人類に対するそれらの関連性について詳しく語り、二人は時間の感覚を失ってしまいました。老人は、美しい文章をヒンディー語と英語の双方で流暢に引用しました。最後に老人は、インド人は時代を超えたそうした美徳を生活の中で実践することを放棄してしまったという失望を顕わにしました。老人は、その主張を裏付けるように言いました。

 「2、3年前、わしは友人数人とリシケーシュ〔リシケシ〕へ行ったのじゃが、黄土色の衣をまとったサードゥー〔行者〕が大勢、ジャパマーラー〔数珠〕を手に持って一つずつ数珠を繰っているのを目にした。だが、サードゥたちの心はあちらこちらとさまよっていた。わしには自分のものであると言えるような者〔家族〕は誰もいないが、私はすべての人を愛しておる」

 

 老人が話し終えると、時計が7時を打ちました。老人は立ち上がり、言いました。

 「君たちは好きなだけここでゆっくり座っていてかまわない。仕事も何もないだろうから。だが、わしはもう行かなければならない。たくさんの人が私を待っているのじゃ」

 そして、老人は歩きだしました。すっかり魅了された二人の若者は、老人のあとについて公園の外の道に出ました。老人は最後に二人にこう言いました。

 「両親への務めを決して忘れてはならぬ。たとえどんなに忙しくとも、決して神を忘れてはならぬ。神への信仰心が少しでもあれば、それが君たちを恐ろしい災難から救ってくれるじゃろう」

 そう言い残すと、老人は手を挙げて、後ろにあったタワーの時計を指さしました。二人が振り返って時計を見ると、7時を15分過ぎていました。二人がくるりと向き直ると、老人はもうそこにはいませんでした。老人は宙に消えてしまったのです! 二人は大変驚きました。シャーストリーが叫びました。

 「あれは僕たちのババだったんだ! 自分が誰なのかたくさんのヒントを与えてくれていたのに、僕たちは気づくことができなかった。僕たちの頭はどうかしてる! 7時というのは、プラシャーンティ ニラヤムのマンディールでバジャンが始まった時間だ。それでババはお戻りになったんだ」

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 K.R.シャーストリーがバンガロールへ戻ると、クールグ地区のマディケーリに行ってバガヴァン ババを迎える準備をするようにと言われました。ババはマディケーリでシャーストリーを見ると、こうお尋ねになりました。

 「プネーでは、何がありましたか?」

 そう問われると、プネーの公園でのあの老人の記憶が頭をよぎりましたが、シャーストリーは呆然として、黙り込んでしまいました。すると、ババは自ら、プネーのヴィクトリア ガーデンで起こったことのすべてを、シュリ N.カストゥーリに説明されました。そしてこう付け加えられました。

 「パーパム〔過ち〕! 彼らは私に気づかなかったのです!」

 

 K.R.シャーストリーは、成長すると、地元の卓越した会計検査官として活躍しました。彼は、親愛なる主のメッセージを、シュリ サティヤ サイ オーガニゼーションの地区の会長として地元に伝え、また多くの求道者たちの魂を神のもとへと導きました。彼は今、チクバッラプル町でババが大切にされている価値を重んじる学校を運営しています。

第45回

​第 45 

 バガヴァン・ババは、1976年、ブリンダーヴァンのアシュラムから3キロ離れたホワイトフィールドに二番目の病院を設立なさいました。ネータージー〔指導者の意の敬称〕・スバスチャンドラ・ボース〔インド独立運動の偉人〕の盟友、シュリ・N・G・ガンプレイは、ドイツに30年間滞在した後インドに戻り、1969年にホワイトフィールドに落ち着きました。愛国心に促され、同じような志を持った医療スタッフたちの助けを借りて、彼は「ヘルス・アンド・エデュケーション・ソサエティー」という名前の小さなクリニックを始めました。約4万平方メートルの広大な土地にあるシェッド〔平屋の小屋〕の中に設置された約9平米のクリニックは、無料で村人たちに薬を調剤していました。1970年、健康増進という気高い大義をさらに推し進めるために、ガンプレイはその土地とクリニックを、シュリ・サティヤ・サイ・ヘルス・アンド・ン・トラストに委譲しました。

 1976年8月28日、ヴィナーヤカ・チャトゥルティの吉祥な日、ホワイトフィールドのシュリ・サティヤ・サイ病院の落成式において、バガヴァン・ババはヘルスケアに関するご自身の構想について表明なさいました。

 「人は、体の病と心(マインド)の病という二つの種類の病気に苦しんでいます。この二種類の病気に関して大切なことがあります。それは、どちらも美徳を培うことによって癒されるということです。体の健康は心の健康に必要な条件であり、心の健康は体の健康を確実なものにします。体と心は密接に関わりあっています。健康な体は、健康な心の最良の入れ物です。

 物質的な生活と霊的な生活は、天秤の二つの皿のようなものです。二つのバランスは、ある程度の霊的な進歩が得られるまでは、等しく保たれるように注意する必要があります。霊的な識見を培うことは、人に寛大さ、逆境における不屈の精神、善をなそうという熱意、そして、自分の能力を最大限に発揮して奉仕をするという精神を与えます。これらの美徳は、心と体の両方を強くさせます」

 ババから医師たちへのアドバイスは次のようなものでした。

 「ここで働く医師の皆さんに指摘しておかなければならないことがあります。医師が処方する薬以上に効果があるのは、医師が話す甘く優しい言葉であり、医師が示す愛と思いやりは、患者の病気をより効果的に速く治すことができるということです。医師は患者を自分の親類縁者と見なし、愛と常に変わらぬ配慮を持って患者に寄り添わなければなりません。医師は治癒に影響を及ぼすということ、そして、病気が治ったら患者は医師に満足と喜びをもたらしてくれるのだから患者と医師は連携する必要があるということを、覚えておかなければなりません。ですから、医師は患者に感謝しなければなりません」

 そして、ババは患者には次のアドバイスをなさいました。

 「神の恩寵を頼みとするのは、どんな病気にも最高の治療薬です。薬に対して抱いている信心を神への信心に変えなさい。あなたの信頼を、薬にではなく神に置きなさい。私は、たくさんの人たちが錠剤や強壮剤に頼っていることに、大変驚いています。祈り、霊的な規律、瞑想という手段に訴えなさい。これらはあなた方に必要なビタミン剤であり、あなた方を回復させてくれるでしょう。神の恩寵なくして、薬や医師に何ができますか? 神の御名ほど効き目のある薬はありません!」

 バガヴァンは、ホワイトフィールドの病院を築き上げて管理するための自身の道具として、ラージェーシュワリー医師をお選びになりました。学問的にも、彼女は産科婦人科の専門医として最適任者でした。さらに、彼女は自分の職業に対する情熱を持っている医師でした。彼女は一日12時間以上も仕事に費やしていました。神のことはそれなりに信愛していましたが、1972年にブリンダーヴァンでバガヴァン・ババに会うまでは、サードゥやサンニャースィン〔出家行者〕には、さほど尊敬の念は持っていませんでした。実際、ラージェーシュワリー医師がブリンダーヴァンへやって来たのは、シュリ・サティヤ・サイ・カレッジで学んでいる一人息子に会うためで、たまたまその時、ババがそこに居合わせたのでした。

 初めてブリンダーヴァンに来た時には、その後の出来事の予感などまったくなく、もちろん、自分が神の計画における最終目的地に到達したということには気がついていませんでした。その後も何度かブリンダーヴァンを訪れましたが、そのうちの一つの訪問の際、ババからホワイトフィールドの病院で働かないかと招かれた時でさえ、ラージェーシュワリー医師の答えは丁重な「ノー!」だったのです。49歳という年齢でガーナの都市クマシで450の病床を抱えるコンフォ・アノキエ総合病院の最高責任者として働いていたラージェーシュワリー医師は、キャリアの全盛期にありました。当然ながら、約9平米の広さしかないクリニックを引き受けるなど、彼女にとって面白いことではありませんでした! ラージェーシュワリー医師は、より良い将来を求めてガーナから英国へと移る計画をまとめようとしているところでした。彼女の「ノー」に対するババの返答は、すべてをご存知の優しい微笑みでした! もちろん、ババはすでに彼女のハートの中に入り込んでいて、彼女のハートは自分では気づかないうちに、本当の故郷を求めていました。

 ババは、前回のシルディでのアヴァター時代に、よくこうおっしゃっていました。

 「たとえ私の帰依者がどんなに遠くにいようと、何千マイルも離れていようとも、私のもとへ来るようにと私が望めば、その帰依者は足に糸を結びつけられた雀のように引き戻されてくるでしょう!」

 それはまさしく、定めの時にラージェーシュワリー医師に起こったことでした。彼女はホワイトフィールドの病院が落成する数か月前にブリンダーヴァンへやって来て、定住したのです。ラージェーシュワリー医師は心底、仕事に没頭しました。それは彼女が知っている唯一のやり方でした。新しい持ち場で、彼女は病院を築き上げるための才量を存分に発揮しました。彼女は、好んでチャレンジを引き受けるリーダーであり、ファイターでした。彼女は行く手を阻む障害を乗り越えることを楽しみました。バガヴァンの恩寵と指示の下、彼女は、医師、そして、病院へ押し寄せる地方の村人たちのために働く職員から成る、専任チームを立ち上げました。

 病院経営におけるささいな事柄への彼女の気配りは、賞賛に値する見事なものでした。彼女にとっては、清潔さが第一で、次が信心深さでした! ラージェーシュワリー医師はよく、掃除人たちが来る前の早朝に、ほうきを手に病院の敷地を掃除していました。彼女はこよなく愛する同僚たちにこう言っていました。

 「ある種の仕事をほめそやして、別の仕事を卑しいと決めつけるのは無意味です。シーツを洗うことと外科医がナイフで腕を振るうことは等しく神聖で、やりがいのあることです。どんな仕事であっても、バガヴァンへの捧げものとして行うなら、その行為者はカルマ ヨーギ〔行いを通して神との合一を得る行者〕という気高い位にまで高められ、神の恩寵はまさに命を支える呼吸となるのです。神の全知を信じ、自分は行為者であるという主張と自分の行為の報いへの期待を手放すことは、神と一つになるという究極の目標だけでなく、永続的な神の臨在という豊かな喜びも約束してくれるのです」

 実際、ラージェーシュワリー医師は、永続的な神の臨在を物理的にも体験していた、ずば抜けたカルマ・ヨーギでした。

 それは、1980年11月9日、日曜の朝の極めて早い時間に起こりました。バガヴァンはプラシャーンティ・ニラヤムにおられました。ブリンダーヴァンの大学で働いていた彼女の息子は、土曜日の午後に始まった24時間のグローバル・アカンダ・バジャンに参加するために学生たちと一緒にプラシャーンティ・ニラヤムに行っていました。ラージェーシュワリーはアシュラムの自宅に一人でいました。いつものように、彼女は午前3時に起床して沐浴をした後、4時ごろに日課の礼拝を始めました。

 プージャー〔供養礼拝〕の半ばに、誰かが大きな声で「ドクター・アンマ! ドクター・アンマ!」〔アンマは母の意〕と彼女を呼ぶのが聞こえました。ラージェーシュワリーは、病院での看護を必要とするような緊急事態が起きたに違いないと推測しました。再度、「ドクター・アンマ! ドクター・アンマ!」という同じ声が聞こえました。誰だろうと窓の外をのぞいてみましたが、遠くて暗かったのでよく見えませんでした。三度目に声がした時、彼女は外へ歩いていって、正面玄関のドアを開けました。彼女の心は歓喜の衝撃波を受けました。生身のバガヴァンがドアの外に立っておられたのです! 彼女は言葉を失い、その神聖な時間帯〔ブラフマ・ムフールタ。日の出から翌日の日の出までを30等分した29番目の刻。だいたい午前3時から6時あるいは5時の間〕に突然神様が自分の家の戸口に姿を現されるという予想外の出来事への畏怖の念に打たれました。

 

 バガヴァンは沈黙を破り、

 「プージャーをしていたのですか?」

と、歌うような美しい声で尋ねられました。

 ラージェーシュワリーがパーダナマスカール〔御足への礼拝〕をしようとして身を屈めると、ババがおっしゃいました。

 「しなさい、ナマスカールをしなさい!」

ナマスカールをした後、彼女はあまりの喜びで一瞬目を閉じ、それから、感謝の気持ちいっぱいに「スワミ!」と言って目を開けました。再び目を開けた時、ババは消えていました!

 ラージェーシュワリーが応接室を通ってプージャーの部屋に戻る時、鏡に自分の姿が映っているのが見えました。顔からヴィブーティが噴き出ていました!

 その朝、プラシャーンティ・ニラヤムではアカンダ・バジャンが行われていたので、彼女の息子はマンディルのベランダに座っていました。午前6時半ごろ、ババは彼を室内に呼び入れられました。ババは光り輝く顔に子供のような微笑みを浮かべておっしゃいました。

 「私はブリンダーヴァンへ行って、あなたのお母さんに会いましたよ!」

 

 ラージェーシュワリーは、奇跡的な治癒や救助活動といった形をとった、さらに多くの神の恩寵の驚異を病院で目撃しました。しかし、その全ての中で一番驚異的だったのは、才気あふれる医療専門家たちを引き付け、変容させ、神の使命における優れた治療の道具へと変えてしまうバガヴァンの名人芸でした。そのうち何人かはプラシャーンティ・ニラヤムかホワイトフィールドのババの病院に常勤の内科医や外科医として加わり、他の多くは客員医師として奉仕を捧げました。彼らの話はもちろん、この章で彼らの名前を挙げ連ねることさえ、とうてい不可能です。その中でも、ホワイトフィールドの病院でのP・V・ヘッジ医師、バラスッブラマニアン医師、ナラサッパ医師、サロージャンマ医師、プラバ医師の献身的な働きぶりは注目に値します。1983年に加わったサーヴィトリー医師は、私心のない、疲れを知らない奉仕において群を抜いています。一人ひとりの人生のすばらしい英雄伝をつづるには、丸々一冊を要することでしょう。彼らの仲間が増えますように!

 ホワイトフィールドの病院は、すでに産科病院として認知と名声を獲得していましたが、さらにプライマリー・ヘルスケアにおけるほとんどすべての設備を備えた無類の治療センターとなるべく、着実に成長してきました。1980年11月の手術室の開設と総合外科治療の開始は、その発展において重要で画期的な出来事となりました。

 現代において医学という気高い職業に目標を定めたのは、かのウイリアム・オスラー医師ですが、彼は「病気を予防すること、苦しみを和らげること、病人を治すこと、これが我々の仕事である」と宣言しています。

 ガレノス〔古代ローマの医学者〕は、「私が薬を与え、神が癒す」と世間に表明して、治療という仕事に最も効能のある方法を示しました。商売が医療の分野を侵略し、医療の目標と方法が歪められ、医療がますます多くの人々にとって、ますます手に入りにくいものとなりつつある社会において、門をくぐるすべての人に質の高い医療を完全に無料で提供している、ババの設立されたプラシャーンティ・ニラヤムとホワイトフィールドの病院は、あらゆる医療専門家にこの職業の気高さと栄光を思い出させる標識灯として光り輝いています。

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ホワイトフィールドの病院の落成式でヴェーダの祈りを詠唱するシュリ・カマヴァダニ

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ホワイトフィールドのシュリ・サティヤ・サイ総合病院

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ラージェーシュワリー医師を祝福するバガヴァン

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「私はここにも、そこにもいることができます!」

第44回

​第 44 

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 病院は時が経つにつれ大きくなり、多くの献身的な医師と、医師以外の医療従事者、非医療従事者たちが、人々の体を治して魂を浄化するという使命を持って、病院に加わりました。毎年、さらに多くの設備機器が加わり、特に1979年以降、顕著になりました。1984年2月29日、マハーシヴァラートリの日、病院の南側の広い敷地に、新たに大きな建物が竣工し、病院に一般的な外科処置が導入されました。

 ここで、この病院で死からよみがえり、寮監も目撃した驚異的な事例を紹介しましょう。1985年の早朝、プラシャーンティ・ニラヤムの学生寮に住むナーラーヤナ・シャルマという研究生が、急性のぜんそくの発作で入院しました。病院長のチャーリ医師は衰弱ぶりを見て危機感を募らせました。麻酔医は酸素マスクを使って助けようとしました。シャーンター医師もその場に駆けつけましたが、心臓の鼓動はなく、体はすでに青くなっていました。チャーリ医師は、シャーンター医師に「もうだめだ」と言って、マンディルのババの所へ報告に行きました。15分もしないうちに、彼はバガヴァンからのヴィブーティの包みを2つ持って戻ってきて、ババの指示どおりに研究生の胸に塗り、背中にはお湯を入れた湯たんぽを当てました。

 研究生の様子を見るために病院にやって来た寮監は、起こったことを知ると絶望し、マンディルに行きました。バガヴァンは断言なさいました。

 

 「あの子は良くなります。何も心配する必要はありません」

 

 それから、寮監に熱いコーヒーの入った魔法瓶を手渡して、「彼に少しずつコーヒーをすすらせなさい」と、指示なさいました。寮監は病院に戻り、シャーンター医師にコーヒーを手渡しました。彼女は無表情で魔法瓶を受け取りました。後に本人が語ったことですが、彼女は心の中で、「死んだ子がどうやってコーヒーを飲めるのか?」と思っていました。

 心の中で祈りながら、なす術もなく遺体を見つめていると、研究生の足の親指が微かに動きました! 私たちは心臓が止まるかと思いました! シャーンター医師が研究生の酸素マスクを外し、耳元でささやきました。「スワミがあなたのためにコーヒーを用意してくださったのよ。どうか飲んでちょうだい」彼女がコーヒーをスプーンで一口、研究生に含ませると、嬉しいことに、そして、驚いたことに、研究生は少しずつ飲み込みました。

 シャーンター医師が研究生の腕に血圧測定の布を巻き付けていると、バガヴァンが病室に入ってこられました。バガヴァンは微笑んで、医師にお尋ねになりました。

 

 「彼は死んだのではないですか? なのに、どうして血圧測定の布を巻こうとしているのですか?」

 バガヴァンの声を聞いて、研究生はどうにかこうにか自分の目を開きました! ババは彼のそばに行かれ、からかわれました。「君はまだ生きているのですか? みんなは君が死んだと言っていますよ!」ババはチャーリ医師を見て、「彼が死んでいたというのは本当ですか?」と、お尋ねになりました。「はい、スワミ」と、チャーリ医師は答えました。

 

 シャーンター医師が付け加えました。「スワミ、脈もなければ、まったく呼吸もしていませんでした。心臓の鼓動も聞こえず、血圧も感じ取ることができませんでした。それで私たちは、彼は死んだという結論を下したのです!」

 バガヴァンは微笑んで手を回されました。四角く茶色っぽい、チョコレートのように見えるものが手の中に出現しました。バガヴァンはそれを研究生の口に入れ、かむようにと言われました。

 

 ババは医師に脈と血圧を測るようにとおっしゃいました。どちらも普通の状態に戻っていました。ババは寮監たちの方を向いて、「あなた方は信じますか? 死んだ子が生き返ったのです!」と、おっしゃいました。寮監たちは、「はい、スワミ」と、言いました。ババは医師たちにも同じ質問をなさいました。全員が、「はい、スワミ」と、答えました。医師の一人が、「ババ、あなたは神様です。あなたは何でもおできになります!」と、言いました。「あなた方には、そう思うほどの信心がありますか?」と、バガヴァンがお尋ねになりました。「はい、スワミ!」と、皆、一斉に答えました。「そうです。彼は死にました。私は彼に第二の人生を与えました!」と、ババはさらりと明かされました。

 大勢の男子学生が心配して外で待っていました。ババは寮監に、自分が見たことを説明するようにとおっしゃいました。学生たちは、良い知らせを聞いて喜び、嬉しそうに寮に帰っていきました。

 ババは、ヒドロコルチゾンの点滴を打つようにと医師たちに言い、マンディルへ戻られました。しばらくすると、ババは、適量を服用させるようにと、ご自分が物質化なさった錠剤の瓶を3つ届けさせました。研究生の青年は夕方には回復し、ババの指示により、退院しました。

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プラシャーンティ・ニラヤムのジェネラル・ホスピタル〔総合病院〕の新しい建物

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ババとジェネラル・ホスピタルの医師たち

第43回

​第 43 

 ナローッタム・メーングラ・アルレージャ医師は、1975年にババの病院の院長になり、さまざまな才能をもとに、完全なる献身をもって30年にわたり病院に奉仕してきました。アルレージャは、ボンベイ〔現ムンバイ〕出身の真面目で誠実な霊性の求道者でした。彼は、140歳という高齢で肉体を去った、あるスィッダ・プルシャ〔覚者〕によって示された自分のグルを捜し求めていました。アルレージャがその聖者にマントラを授けてくださいと懇願した時、その聖者は、自分はまもなくこの世を去るのでお前のグルになることはできないと答えました。しかし、その聖者はアルレージャに、いずれお前はマハー・グル〔大師〕に出会うだろうと断言しました。

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 アルレージャはグルを探し求めて1965年にブリンダーヴァンへやって来ました。ババがアルレージャにお掛けになった最初の言葉はこうでした。

 「ドクター、あなたはいつボンベイから来ましたか?」

アルレージャは、どうしてババが自分の職業や、どこから来たのかご存知なのかと不思議に思っていたその時、バガヴァンは彼をインタビューに呼びました。ババはお尋ねになりました。

 「あなたは何が欲しいですか?」

 「神の恩寵により、私は、自分が欲しいと思っていたものはすべて手に入れました。私にはこれ以上望むものは何もありません」と、アルレージャは答えました。

 「ですが、あなたにはまだ欲しいと思っているものがあるはずです。私はあなたが望むものは何でもあげましょう」

 「ババ、私のブッディ〔知性〕が、私に物質的なものは何も求めないようにと促しているのです」

 「そうです、分かっています。あなたはパリパヴカ・ブッディ〔成熟した知性〕を持っています。大変よろしい。あなたは何が欲しいですか?」

 「私にバクティ〔神への愛/信愛〕とシュラッダー〔固い信心〕をお与えください」

 

 バガヴァンは彼の頭に触れて祝福を与えるような仕草をなさり、アルレージャはバガヴァンの御足に触れようとひざまずきました。彼はババの小さな輝く御足が大きな御足へと変わっていくのを見て、大変驚き、大いに喜びました。その大きな御足は、彼にマントラを授けることを拒んだスィッダ・プルシャの御足でした。マハー・グルを探し求める彼の探求は、この日、ブリンダーヴァンで終わりを告げたのでした。

 それから10年にわたって引き続き起こったたくさんの不可思議な体験によって、とうとうアルレージャ医師は、ボンベイからプラシャーンティ・ニラヤムへと引き寄せられました。それらの中でも最も驚いたのが次の体験でした。

 

 アルレージャがボンベイで認定医として働いていた時のことです。ジョセフという名の男が溺れ死に、その遺体が彼の所に解剖のために運ばれてきました。アルレージャは遺体を調べ、死因は溺死であるという証明書を発行しました。いつもの習慣に従って、警察にもその書類の写しを送りました。数日後、ジョセフの親戚たちの心に、あれは溺死ではなく殺人事件ではないかという疑念が湧き上がりました。その時初めて、職務に対するアルレージャの誠実さに疑いがかかりました。彼は助けを求めてババに祈りました。

 裁判所の命令により、遺体を掘り起こして調べ直すことになりました。死体解剖から33日後のことでした! 警察本部長のジョン・クロフトがアルレージャ医師を墓地に連れていきました。棺の蓋が開けられた時、遺体はまるでたった今埋められたかのような生々しい状態でした。本部長は遺体の手足を持ち上げて調べ、遺体には何の損傷も骨折もないと納得しました。

 警官たちがその場所を去った後、アルレージャが自分の車に向かって歩いていた時、ふと、「どうして一ヶ月も経った遺体があれほど新鮮なままなのだろうか?」という思いが浮かびました。戻って棺の蓋をもう一度開けてみると、遺体はすっかり壊変していました。アルレージャは大変驚きました。そこにあったのは朽ちかけた肉の塊でした!

 

 驚きで呆然としたまま家に帰ると、彼は妻からぞくっとするような話を聞かされました。家の敷地の中で、バガヴァンが一匹の大きな魚を手に持って、ぶらぶら揺らしているのを見たというのです! その光景は妻の心配を完全に払拭してくれていました。

 夫妻は急いでプラシャーンティ・ニラヤムへ行き、自分たちの救世主に感謝しました。ババは我を忘れて喜んでいる夫婦にこうおっしゃいました。

 「そうです、私があの遺体をそっくりそのまま、新鮮な状態にしておきました。そうしなければ、あなた方は困ったことになっていたでしょう!」

 夫妻は感謝に満ちてババの御足にひれ伏しました。

 

 バガヴァンのすぐそばで長年仕えていた間、アルレージャ医師には驚くべき神の力と英知を体験する機会が数多く与えられました。そのうちのいくつかがここに記されています。

 

 バガヴァンのダルシャンを求めてプラシャーンティ・ニラヤムへ来ていたカルカッタ〔現コルカタ〕出身の教授、ゴーシュ博士が、心臓発作に見舞われたことがありました。博士はアシュラム内のイースト・プラシャーンティ・ブロックのアパートの一部屋に滞在していました。バガヴァンはゴーシュ博士の治療をさせるためにアルレージャをその部屋に送られました。癌や心臓病といった重篤な疾患を患っている患者の場合、ババの通常のアドバイスはこうです。

 

 「痛みや不快感の原因を告げるのを急いではなりません。なぜなら、それは患者にさらにショックを与えることになり、患者を半分死んだも同然にしてしまうからです。可能な限り、精一杯治療をして、それから徐々に、段階的に真実を明らかにしていくようにしなさい。心臓発作の場合、呼吸不全という問題がないかぎり、患者をすぐに病院へ搬送してはいけません。まず、家で治療して、それから病院へ移したほうがよいでしょう」

 

 アルレージャはゴーシュ博士の部屋へ行き、診察をしました。明らかに心臓発作の徴候がいくつかありました。患者もそれを疑っていました。しかし、アルレージャは不安を抑えて、いくつかの基本的な処置を施し、さらに、ババから送られたヴィブーティも与えました。バガヴァンの指示どおり、患者は翌朝、病院へ搬送されました。一日が過ぎましたが、様態にあまり改善は見られませんでした。三日目に、アルレージャが病院へ行くと、ゴーシュ博士は喜びに顔を輝かせていました。完全に健康な様子でした。アルレージャは神が介入されたという確信を持ちました。そうでなければ、このようなことはあり得なかったからです。アルレージャが病室のババの写真に目をやると、ゴーシュ博士が言いました。

 

 「先生、私は昨夜、不安で眠れませんでした。それで、スワミの写真を見ていたら、スワミが写真から出てこられ、私をヴィブーティで祝福してくださったのです。それから、私の肩を叩いて〔写真の中に〕戻っていかれました!」

 

 それから数日後、ゴーシュ博士はあふれんばかりの健康と幸福に満たされて、カルカッタへ帰っていきました。

 あるとき、アルレージャ医師は掘削用具で井戸を掘っている夢を見ました。脇にはババが立っておられました。アルレージャが三度虚しい試みをし、四度目を行おうとした時、バガヴァンがお尋ねになりました。

 

 「あなたは何をしているのですか?」

 「水を探しているのです」と、アルレージャが答えました。

 「あなたは時間と労力を無駄にしています。あなたは三度失敗し、またそれをやろうとしています」

 「バガヴァン、お願いです、どうか私がなぜ失敗したのか教えてください。私には何が欠けているのですか?」

 「あなたにはタットパラタが欠けているのです」と、ババは言い、消えてしまいました。夢はそこで終わりました。

 

 翌朝、アルレージャはいつものように病院へ行きました。午後一時半にババに自室へ呼ばれるまで、夢のことはすっかり忘れていました。バガヴァンは会話を始めました。

 「あなたは昨日、夢で何を見ましたか?」

 アルレージャが夢の内容を話すと、ババはおっしゃいました。

 「そうです、あなたにはタットパラタ(tatparata)が欠けているのです」

 「スワミ。タットパラタとはどういう意味ですか?」

 「自分で考えて、私に言ってごらんなさい」

 アルレージャは、バガヴァド・ギーターの中から「タットパラハ」(tatparah)という言葉が出てくる節を唱えました。それは第4の39節でした。ババはお尋ねになりました。

 「その節の意味は?」

 「信仰心があり、決意を持ち、感官を制御する者は、英知を得る。その英知はその者に至高の平安を与える、という意味です」

 「では、タットパラタは何を意味していますか?」

 「決意、注意力、正しいことをすみやかに行う姿勢です」

 「そのシュローカ〔詩節〕の文脈では、それは正しい。あなたは何か他の意味を思いつきませんか?」

と、ババは探りを入れられました。

 「ババ、私には分かりません。私に教え諭してください」

 バガヴァンは説明なさいました。

 「タットはブラフマン、パラタは立脚しているという意味です。ですから、タットパラタとは、ブラフマンに立脚している、ということです。さあ、理解しましたか?」

 「理解しました。ですが、私にはブラフマンの体験などないのに、それを理解して何になるのですか?」

 「それはそんなに簡単なことでしょうか?」

 「スワミ、それは分かっています。人間には至高の体験など得られるものではありません。たとえどんなに頑張っても――。ダイヴァクリパー〔神の慈悲〕やグルクリパー〔グルの慈悲〕を享受しないかぎり、無理です!」

 「すべてはふさわしい時に起こります。人は信仰心と忍耐を培わねばなりません。しかし今、もしあなたが望むなら、私にいくつか質問してもかまいません」

 「ババ、あなたは以前おっしゃいました。聖者アシュターヴァクラは、ジャナカ王の耳元でマントラをささやくことによって、王に至高の体験を与えたと。そのマントラは何ですか? 私の知るかぎり、それはどんな本にも載っていません」

 

 「そのマントラを知りたいのですか?」

 「はい、スワミ」と、アルレージャは熱意を込めて言いました。

ババは椅子から立ち上がり、アルレージャの耳元まで身を屈め、おっしゃいました。

 「タット トワム アスィ!」〔タットワマスィ/汝はそれなり〕

たちまち、アルレージャは一切の分離感を失いました。そこにはババが、ババのみが存在していました。

ババが「さあ、もう理解しましたか?」とアルレージャにお尋ねになると、アルレージャはやっと我に返りました。

 

 アルレージャは答えました。

 「はい、スワミ。すべてはブラフマンです!」

 そして、彼はスワミの御足にひれ伏しました。

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タット トワム アスィ

〔タットワマスィ/汝はそれなり〕

 ボンベイにいるアルレージャ医師の姉は、乳がんと診断されていました。彼女の夫はタタ基礎研究所の核科学者で、ババを信じていませんでした。さらに言えば、どんな聖者もサードゥ〔出家行者〕も信じていませんでした。彼女は神を信じていましたが、ババに対してはどんな感情も持ったことはありませんでした。姉は癌であると診断したアルレージャの弟は、アルレージャに、姉の手術のことでタタ記念病院の外科部長であるラームダース医師に話をしてほしいと頼みました。アルレージャはボンベイへ行き、ラームダース医師と話をして、手術の日取りを決めました。

 

 その時、ババはボンベイにいたので、アルレージャは姉のためにババの祝福を得ようと、ダルマクシェートラ〔ボンベイにあるババのアシュラム〕に行きました。アルレージャがババにプラサード〔神から流れ出る恩寵としての食べ物や薬〕を懇願すると、ババはアルレージャにお尋ねになりました。

 「彼女は私を信じていますか?」

 アルレージャはババに言いました。

 「スワミ、分かりません。あなただけがご存知です。それに、たとえもし彼女があなたを信じていないとしても、あなたは彼女に信仰心を与えることも、彼女を治すこともおできになります!」

 ババはヴィブーティを物質化してアルレージャに与え、これを7日間彼女の左胸に塗るようにと指示なさいました。アルレージャは、手術は2日後に行われるのに、どうしてそのプラサードを7日間塗ることができるのかと、不思議に思いました。けれど、すぐに彼はその手術が一週間延期になったことを知らされました。ラームダース医師は緊急手術のためにマドラスへ出向かなければならなくなったのです。

 アルレージャは、ババのプラサードが「癌を消滅させてくれる」と信じていました。アルレージャがそう信じていることを義理の兄に打ち明けると、彼はこう言われました。

 「君は愚かだ。どうやってヴィブーティで癌を治すことなどできるのだ?」

 そして、義理の兄は手術がスケジュールどおり行われることを望みました。アルレージャの姉は、心がぐらついて迷っていましたが、夫に説得されて手術を受けることにしました。ラームダース医師が手術をするのを、アルレージャ医師は立って見ていました。

 

 取り除かれた腫瘍の3つの組織が再度、生体検査に送られました。そのどれもが癌ではありませんでした!二人は当惑しました。義理の兄は、確認のために4枚のスライド全部を著名な癌専門医であるプランダレ医師に送ることを提案しました。1枚目のスライドは手術前の状態、後の3枚は手術後の状態が映っていました。スライドを見ると、プランダレ医師は、最初のスライドは極めて重い悪性腫瘍の相を呈しているが、他の3枚には癌の様相が何も見られないという見解を述べました! この出来事は、アルレージャ医師の家族に計り知れない衝撃を与えました。ババは、「癌の消滅」という喜びとは別に、信仰心という最も貴重な贈り物を彼らに与えてくださったのです。一方、アルレージャの姉は、手術をする前に弟の言葉を完全には信じていなかったことを後悔しました。彼女は、せめて手術の前に腫瘍の再検査を主張すべきだったと思いました。

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第42回

​第 42 

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 1956年から1975年にかけて初代病院長として働いていた幸運な外科医、B・シーターラーマイアフ医師は、こう書いています。
 

 「まさに始まりの時から、ババは私に、ババの指示の下で奉仕するという二つとない機会を与えてくださいました。私はしばしばバガヴァンに、寄る年波には勝てませんので私はこの務めから解かれたほうがよいかもしれませんと、お願いしていました。ですが、その度に、きっぱりと要求を払いのけられ、仕事を続けるようにと力強く励まされました。

 

 『恐れてはいけません。ただ道具でいなさい。私があなたのためにすべてを行います!』

 

 時折、病院で働く医師が何か月も私一人ということもありました。そんな大変な時期、私はババの恩寵によって毎日200人から300人の外来患者を診察し、薬を処方し、その上さらに、相当数の手に負えない内科の患者たちを診ることができていました。バガヴァンは、恩寵を目に見える形でも、見えない形でも与えてくださる方でしたので、そこには失敗という事例は一つとしてありませんでした」

 一方、病院の二周年記念式典においてシーターラーマイアフ医師が大きな声で読み上げたすばらしい奉仕活動の成功記録の報告に関して、ババはこう明言していらっしゃいます。

 「無私の奉仕の精神が帰依者たちを動かして病院の建設中にシラマダーン〔無償で労働力を提供すること〕を行い、それがここにいる医師たちを動かしたことが、この病院が成功している主な理由です」

 病院での体験について、シーターラーマイアフ医師はこのように語っています。


 「この病院で患者たちが体験する説明のつかない一連の回復に、私たちは医師として驚かされました。特に、国内あるいは海外で、すべての主要な病院施設から治療不可能な患者として拒否されたあげく、ここへたどり着いた患者たちの場合がそうです。バガヴァンは、苦しんでいる人、人生という競争においてハンディを持っている人に、より多くの愛を降り注がれます。バガヴァンは、健康という贈り物を、有益な目的のために活用するように、と授けてくださるのです」帰依者たちは、数えきれないほどの奇跡的な治癒や健康が回復したいくつもの事例を、よく知っています。それらはバガヴァンへの帰依心が引き起こしたものです。起こる場所はバガヴァンのすぐそばのこともあれば、世界中のどこか遠い所のこともあります。バガヴァンは、助言を求める医師たちの聖なる相談相手として何度も振る舞ってこられました。医師たちが真っ暗闇で手探りしているときには、特にそうでした。たびたび、バガヴァン自身が、病気を適確に診察したり、適確な薬を処方したりする医者となり、時には緊急の外科手術を行って、帰依者の生命を救ってこられました! また、ババが死んだ人を生き返らせたという事例もいくつか記録に残っています。

 

 ある時、ババは、なぜ病院建設という仕事を手掛けられたのかという理由を明らかにました。

 

 「私は、病院で治療を受けて初めて心の平安や満足を得るような人々のために、病院を建てました。彼らは、常に健康な存在であるアートマへの信心が最高の気付け薬であり、最高の薬であるということを知りません。彼らはこのような病院を訪れて、神の恩寵はあらゆる薬よりも効能があるということを理解することでしょう。彼らは神の方へと向きを変え、真我の悟りの道を歩くようになるでしょう」


 奇跡的な治癒の神秘について尋ねられた時、ババはこのようにお答えになっています。


 「それは、生類も生類以外のものも、すべては私と一つであるという、私の体験です。私の愛はすべての人に注がれています。というのも、私はすべての人を自分として見ているからです。もし心の底から私の愛に報いるならば、私の愛とその人の愛が一つになって、その人の苦痛は癒されます。相互依存の関係がない所には、治癒は起こりません」

 

 もちろん、神の意志のみが及ぼす治癒もあります。ヒスロップ博士がババに尋ねたことがあります。

 

 「スワミが人を癒やされるのは、カルマ〔その人の行為の結果〕がそれにかなっていると思われるときのみですか?」

 

 ババは答えました。


 「いいえ。もしスワミがその人に満足していたら、スワミはすぐさまその人を治します。そこにカルマが入り込む余地はありません。もしその人が清らかなハートを持ち、スワミの教えを生きているなら、スワミの恩寵は自動的にその人のもとへやって来ます」

 ここで、シーターラーマイアフ医師がプラシャーンティ・ニラヤムで目撃した奇跡の治療をいくつかご紹介しましょう。

 

 マイソール藩王国のマレナードゥ出身のコーヒー農園主がいました。彼は30年以上もリューマチ性関節炎のさまざまな症状に苦しんでいました。高熱で病院へ運ばれてきた時には、腎臓もやられていました。バガヴァンはシーターラーマイアフ医師に、彼を診察して何本か注射をするようにと指示を出しました。けれど、その極度に憔悴しきった寝たきりの患者は、医療の専門家に何かをさせることを一切拒否しました。彼はこれまで、アロパシー〔西洋医学/対処療法〕、アーユルヴェーダ、ホメオパシー〔代替療法〕、その他もろもろを受けてきて、もう、うんざりしていたのです。彼は、バガヴァンだけに治療をして欲しかったのです! バガヴァンは丁寧に応じました。バガヴァンはその患者のために小さな液体の入った瓶を物質化し、その液体を2滴、水に混ぜて一日二回飲むようにと言いました。10日もすると、彼はマンディルのベランダまで一人で歩いていけるようになり、一ヶ月もしないうちに、マンディルへ行ってバジャンを歌うようになりました。それから15日もしないうちに、彼はすっかり元気になりました!

 デリー近くのムラーダーバードに、舌の癌で苦しんでいる人がいました。彼は2年間デリーの病院に入院して優れた医師たちの治療を受けていましたが、効果はありませんでした。あらゆる医療の専門家に見放された彼は、最後の手段としてプラシャーンティ ニラヤムへとやって来ました。ある朝、バガヴァンのダルシャンを受けた後、彼は何気なく病院に足を踏み入れ、シーターラーマイアフ医師に自らの苦悩をとうとうと訴えました。医師は、希望を捨てないようにと言い、ホウ素グリセリンを舌に塗り、ビタミンB群の錠剤を飲む ようにと何錠か渡しました。もちろん、医師はその患者に、ババに助けを求めて祈るようにとも助言しました。その二日後、その患者は、バガヴァンに祝福されたヴィブーティの包みをいくつか持ってプラシャーンティ・ニラヤムを出ていきました! いまや、それが彼の唯一の薬でした。彼は、家で礼拝するために、ババの写真も一枚持って帰りました。一年後、彼はプラシャーンティ ニラヤムへ戻ってきましたが、癌は完全に治っていました! 彼はシーターラーマイアフ医師に、いかにしてババが彼の家で、そばにいる証しを示してくださったかを明かしました。バガヴァンの写真を含め、額に入ったさまざまな神様の絵姿から、ヴィブーティがあふれ出したのです。
 

 タンガヴェルは、ボンベイの繊維工場で働いていました。彼は40歳の時、直腸癌に苦しめられました。雇い主がしばしば彼をスイスへ連れていき、医師たちに彼の疾患を診てもらっていました。タンガヴェルは、ババのことを耳にして、急いで恩寵を求めてプラシャーンティ ニラヤムへと出かけていきました。病院で、シーターラーマイアフ医師が彼に出してあげられたのは、いくらかの緩和剤だけでした。ところが、夜になってタンガヴェルがプラシャーンティ ニラヤムのシェッド〔簡易宿泊所〕で眠っていると、鋭い器具を手に持ったババが夢に出てきて、彼に手術をなさったのです! 目が覚めると、彼の体と衣服に血の痕が付いていました。けれど、彼はすこぶる安堵していました。後に、タンガヴェルは、シーターラーマイアフ医師に、「夢の中での外科手術」によって自分は奇跡的に治ったという手紙を書きました!

 

 シーターラーマイアフ医師は、こう締めくくります。


 「胆石は、『そんなものは想像の中にしか存在しません』とババが軽くおっしゃると、消えてなくなります。心臓の発作は、不思議にもおさまり、喘息の苦しみは、もはやなくなり、腫瘍は、ババの命令を受けて消滅します。実際、一切は、ババが住まわれる肉体でのババの御心の戯れなのです。バガヴァンは、私のような医師たちを教育するために、そして、神の恩寵という治癒の力を伴わない単なる医療行為は役に立たないということを私たちに確信させるために、この病院を設立なさったのだと、私は固く信じています。その治癒の力は、心からの祈りによって容易に手に入れることができるのです」

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​第 41 

第41回

 主の根本的な使命は、人間の心(マインド)をはかない肉体への執念から切り離して、永遠なる魂へと導くことです。そこには人と社会双方にとっての救いがあります。人間社会は、人が霊的な目標を追求するときにのみ、完全なる幸福と調和という理想に向かって前進することができます。バガヴァンは、おもに人が霊性を取り戻すことに携わっておられますが、人の物質的な幸福を無視されることはありません。つまるところ、人間は天の子であるのと同じく、地の子でもあるのです。ババが理想とされる、人間にとっての霊的な天国は、地上に根差したものです。ババは人間にその人自身、同胞、そして自然と調和して生きることを教えることと同様に、人間の基本的、物質的な必要を満たすことにも従事なさっています。この両方が達成されたとき、初めて黄金時代は幕を開けることができるのです。

 

 魂に付いた傷を癒すためにやって来られたアヴァターによって設立された最初の施設は、体を治すための病院でした。バガヴァンは1954年、ご自身の29回目の誕生日に、自らの住まいの後ろにある小さな丘の上に病院を建設するための礎石を据えられました。

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バガヴァンの29回目の誕生日にプラシャーンティ・ニラヤムで病院の礎石を据える

 その建設は帰依者たちへの愛、またそれと同じくらいに、帰依者たちの神への愛を示す作業となりました。バガヴァンはほとんど毎日のように建設現場に出かけていき、老いも若きも喜びと熱意を持って働く帰依者とともに数時間を過ごされました。

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建設予定地でのババとボランティアの帰依者たち

 帰依者はそれぞれ応分の働きを捧げつつ、バジャンを歌いました。建物に使われる石やレンガの一つひとつが、神に対する彼らの愛で満たされていました。バガヴァンは、そのうっとりするようなすばらしい現場を司る主として、岩の上に座っておられました。その忘れがたき時代の一端であった帰依者たちは、ババが月明かりの夜に果物のジュースの大きな瓶を一つ手に持ってやって来られ、いかにしてその神の飲み物をコップに注いで自分たち一人ひとりに手渡してくださったかを鮮明に覚えています。

 

 東に面したその建物は、毎朝、朝日の黄金の輝きを浴びて丘の上に姿を見せて、主とその信徒の一群との蜜のような愛を味わっていました。そのころは視界を遮るような物は何もなかったので、背景にそびえ立つ雄大な丘陵に沿って流れるチットラーヴァティー川をそこから見ることができました。シュリ・サティヤ・サイの名を冠した最初の施設であるその病院は、1956年10月4日、ナヴァラートリ祭において、当時のアーンドラ・プラデーシュ州首相、シュリ・B・ゴーパーラレッディによって落成されました。病院には5つの部屋があり、2部屋が病室として使われ、もう1部屋は分娩室、そして他の2部屋は、診察室、および、薬の調剤や着替えをする場所として使われました。

バガヴァンは当時、多くの時間を病院で過ごし、病める人々を励まし、慰め、医師やそのチームにいる医療以外のボランティアを激励しておられました。最初の年は、毎日200人ほどの患者が近隣の村々から病院へと集まってきました。当時、病院の医師は一人だけで、退職した外科医だったのですが、彼が疲れていると、ババは彼に休憩するようにとおっしゃり、患者をご自分で診ておられました! 病院の百薬の長は、バガヴァンの恩寵でした。言うまでもなく、それは絶対に信頼できる確実な薬でした。年が経つにつれ、病院で働く医師の数は増えましたが、バガヴァンの直接的、物理的な関わりは徐々に減っていきました。それでも、目には見えないバガヴァンの臨在が、彼らの治療をする手を導き続けました。

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病院での神なる医師

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​第 40 

第40回

 ここで、地上の女王からメロディーの女王へと話を移しましょう。世間では「MS」と呼ばれている、バーラタ・ラトナ〔インドの宝石〕・シュリーマト〔女性に付ける敬称〕・M・S・スッブラクシュミーです。彼女は、ヒンドゥスタン音楽の巨匠ウスタード〔マエストロの意〕・バデー・グラーム・アリー・カーンから、「スワラ・ラクシュミー」(甘い声の女神)と呼ばれていました。かつて、マハートマ・ガンディーは彼女のことをこう語っています。

 「彼女の声はことのほか甘い。彼女は我を忘れてバジャンに没頭する。祈っている時には、我を忘れて神に没頭しなければならない。バジャンを歌うのと、我を忘れて神に没頭してバジャンを歌うのとでは、まったく違う」

 これこそまさに、彼女の音楽の顕著な特徴です。彼女は、ナドーパーサナ〔音楽を通じた礼拝/ナーダ・ウパーサナ〕に専念することによって、カルナーティック音楽の霊的なエッセンスを現代音楽の中に取り戻しました。ナドーパーサナでは、バクティ〔神への愛/信愛〕に満ちた音楽が人をモークシャ〔解脱〕へと導く道となっています。

 

 ジャワハルラール・ネルー〔インド初代首相〕からMSへ繰り返し贈られた賛辞があります。

 「私が誰だというのでしょう? 私は歌の女王の前では、しがない一人の首相にすぎません!」

 これは、当時のネルーの常套句になりました。ネルーは、慈善的な目的で催される彼女の音楽会でスピーチをする時はいつも、この自らの有名な賛辞の言葉を繰り返すことを好みました。

 「私は人前でのスピーチに慣れてはいますが、このような機会に話をするのは決して容易なことではありません。スッブラクシュミーの音楽には人の心を揺さぶる特質があり、彼女がデリーを訪れるといつも、聴衆は彼女のメロディーに心奪われて、身震いするような感動を覚えるのです!」

 

 MSは、たくさんの慈善運動や慈善団体のゴッドマザー〔後見人〕でした。その中でも最も有名なのは、マハートマ・ガンディーに関わりのあるカストゥルバ・メモリアル・トラストの資金を集めるために開かれた彼女のコンサートでした。実際、お金は決して彼女が歌を歌う動機にはなりませんでした。彼女は偉人でした。彼女の実直さ、謙虚さ、寛大さは、伝説的です。彼女はインド大統領から「バーラタ・ラトナ賞」〔インドにおける民間人への最上の褒章で“インドの宝石”を意味する〕という最高の栄誉を与えられましたが、それは、音楽の霊的な力に対して払われた敬意であり、彼女という形で具象化されたインドの理想の女性像への賛辞でした。

 

 MSにとってのバガヴァン・ババは、「カリの時代〔カリユガ〕に人類を救うために来られたシュリ・クリシュナ・パラマートマの化身」であると、彼女は自らの言葉で語っています。彼女はしばしばこのようにも述べていました。

 「ババは真理と善の化身です。彼を信じることは、この困難な時代に倒れることのない支えを持つことなのです」

 多くの人にとって、メロディーの女王が人生において私たちと同じように困難を抱え、逆境に遭っていたと知るのは、驚きかもしれません。事実、逆境は彼女の音楽に最高のものをもたらしました。「最も甘く美しい歌は、最も悲しい思いを語る歌である」とシェリー〔英国の詩人〕は書いています。神は大切な帰依者を故意に数えきれないほどの困難に置いて、神との合一という最終的な無上の至福へと向かう準備をさせるというのは、インドで一般的に信じられている概念です。この脈絡からすれば、タミル語とヒンディー語で制作されて40年代に人気を博した映画の中でMSが演じたミーラー〔藩王女から吟遊詩人となった16世紀の偉大な信者〕の役は、彼女の私生活と重なっていたのでしょう。

 

 MSは1975年にブリンダーヴァンで初めてババのダルシャンを受けました。MS夫妻にとって、そのころは大変な時期でした。彼女が初めてババの御足にひれ伏し、体中が震えて目に涙があふれた時、夫、シュリ・サダーシヴァムはいつものように彼女に付き添っていました。バガヴァンは微笑んでおっしゃいました。

 「いらっしゃい、何年もお預けになっていたナマスカールを捧げなさい!」

 バガヴァンは夫妻を個人的な集まりに呼び、夫妻の苦難を順を追って語られました。それは夫妻の心中どおりに語られたので、バガヴァンこそは自分たちのアンタラヤーミ〔ハートの中に住まう神〕であると、夫妻は確信したのでした。バガヴァンとの最初のインタビューを思い出しながら、MSは後によくこう語っていました。

 「何年もの歳月を経て、やっと私たちはババが生身の姿で目の前におられるという至福を体験したのです」

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ブリンダーヴァンでのババと夫妻

 MSは10年前、家族ぐるみの友人であり、夫妻の幸せを祈ってくれるババの帰依者たちからバガヴァン・ババのことを聞いていました。ぜひともダルシャンを授かりたいと切望していましたが、1975年までそれはできませんでした。サダーシヴァムがババの所へ行きたがらず、理想的で忠実なインド妻であるゆえに、MSは夫の付き添いなしにはどこへも旅に出ようとはしなかったのです。バンガロールを訪れた時、MSはヴェーンカタチャラム夫妻と共に滞在していました。シュリ・S・R・ヴェーンカタチャラムはババの帰依者で、よくブリンダーヴァンを訪れていました。あるとき、MSはヴェーンカタチャラムに私のプラーナム〔合掌〕をバガヴァンに捧げてくださいとお願いし、バガヴァンに私のためにプラサーダム〔神から流れ出る恩寵を意味する食べ物やヴィブーティなど口に入れることのできる物〕をくださいと祈りました。ヴェーンカタチャラムが彼女の祈りをババに捧げた時、ババがおっしゃいました。

 「MS? 知っていますよ。彼女の夫、サダーシヴァムはここに来ようとしません。でも、いずれ彼はやって来ます」

そして、彼女のためのプラサーダムをお与えになりました。

 MSはヴェーンカタチャラムから、彼が慢性の偏頭痛で苦しんでいた時に初めてブリンダーヴァンを訪れた際の興味深い話を聞いたことがありました。ブリンダーヴァンへの旅の最中に、彼は心の中で「サイ・ババは私の頭痛を治すことができるだろうか?」と考えていました。ダルシャンの時、バガヴァンは彼の前を通りすぎていかれました。しかし、きびすを返してヴェーンカタチャラムの前に立ち、こうおっしゃいました。

 「あなたは何がほしいですか?」

 「ババ、私はあなたからの祝福を懇願します」

と、ヴェーンカタチャラムは申し出ました。

 

 バガヴァンはヴェーンカタチャラムの頭に手を置いて彼を祝福されました。何年もの間彼を悩まし続けてきた頭痛は、その瞬間に消え去り、二度と頭が痛くなることはありませんでした!

 

 MSはどのようにしてババの帰依者になったのかと尋ねると、答えは実にシンプルでした。

 

 「人々はババの偉大さについて語り、また、ババが人々の問題を解決される驚くべきやり方について教えてくれました。最大の奇跡は、もちろん、ババの愛に満ちた優しい眼差しが降り注がれる時に体験するシャーンティ〔平安〕です。ババがおられるということ以外すべてを忘れてババに全托する時の、守られているという感覚のなんとすばらしいことか! ババの言葉はいつも真理に満ちています。それは神の言葉です!」

 

 MSとサダーシヴァムはプラシャーンティ・ニラヤムとブリンダーヴァンを定期的に訪れるようになり、MSは機会さえあればいつでもバガヴァンのために心から歌いました。バガヴァンの御前での初めてのコンサートは、1977年5月、ブリンダーヴァンでのインド文化と霊性に関する夏季講習の時でした。当時の外務大臣だったシュリ・アタル・ビハーリー・ヴァージパイー〔第13代および16代インド首相〕が、その日の午後の、人であふれかえった大学の公会堂での主賓でした。MSが我を忘れるほどのバクティで恍惚としてミーラーのバジャンを歌うと、バガヴァンは立ち上がって美しい金のネックレスを物質化し、彼女にお与えになりました。バガヴァンからそれを受け取って、彼女はいたく感動していました。その贈り物は彼女の霊的な人生において深い意味があったのでしょう。

 

 MSはよくこう言っていました。

 「夫と私は何度もプラシャーンティ・ニラヤムやブリンダーヴァンへ行きました。そして、ババがチェンナイ〔MSの地元〕を訪れる時はいつもスンダラム〔ババのチェンナイのアシュラム〕にも行っていました。ババが帰依者たちの間を歩いて回られるダルシャン以外、何も期待してはいませんでした」

 ですが、ババはよくMSの前で足を止め、二言三言、祝福の言葉をかけ、彼女のためにヴィブーティを物質化されていました。夫妻を個人的な会に呼ばれることもよくありました。さらにバガヴァンは、チェンナイにある夫妻の住まいを訪れられたことも何度かありました。1982年に夫妻の娘ラーダーが重篤な病に倒れた時には、バガヴァンは打ちひしがれた夫妻と娘をブリンダーヴァンに一月以上も留めおき、限りない慈悲を降り注がれました。

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プラシャーンティ・ニラヤムでM.S.スッブラクシュミーを祝福するバガヴァン

 MSはサダーシヴァムの指揮下、インドのさまざまな言語でサイ・バジャンのアルバムを発表しました。その中には、ババ自らが若いころに作曲された「サイラーマ・チルカ」〔ラーマであるサイの鸚鵡〕という曲が含まれていました。少数の幸運な者は、MSがその歌を歌うのをババがこの上なく幸せそうに聴かれているのを目にしました。ババは手で拍子をとったり、一緒に歌ったりもされていました。他の曲はMSのレパートリーからの曲がほんの数曲で、何曲かはそのアルバムのために覚えたり作ったりした曲でした。その胸の高鳴る瞬間に思いを馳せながら、MSは思い返します。

 「それぞれの歌を歌いながら、私はカルナムールティ〔慈悲の権化〕であられるババへの深い思いに我を忘れました」

それから彼女はうやうやしくこう付け加えました。

 「神が私たちと共に生きている時代に生きられるなんて、私たちはなんと幸運なのでしょう!」

 

 あるバガヴァンの側近の従者が、MSが亡くなる数週間前にチェンナイの彼女のもとを訪れました。彼女にいとま乞いをする時、彼はこう尋ねました。

 「アンマー〔母上〕、私は明日プラシャーンティ・ニラヤムにまいります。スワミに何かお伝えになりたいことはありますか?」

 彼女は両手を合わせ、一瞬上を向いて部屋にあるババの写真に目をやりました。そして、込み上げる思いで息を詰まらせながら言いました。

 「神に何を伝える必要がありましょう? 神は、私の願いを、それが私の心の中に湧く前に、もう叶えてくださるのに!」

 彼女の聖人のような答えは、バガヴァンとのすべてにわたる絶え間ない心の交流を示しており、その従者は彼女にそんな質問をしたことを恥ずかしく思いました! けれど、彼女の答えを聞いた時に彼が覚えた崇高な気持ちは、この質問をしたのは正しかったと感じさせてくれたのでした。

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私たちのハートが奏でる音楽に合わせて拍子をとるガーナローラ〔歌を愛する者/音楽に魅せられる者〕
シュリ・サティヤ・サイ

​第 39 

第39回

 ナワナガル藩王国のマハーラージャ〔藩王〕であった故シュリ・ランジット・シンジーの王位継承者である、マハーラージャ、シュリ・ディグヴィジャイ・シンジーは、「ジャム・サーヘーブ」〔君主や王子の称号/サーヒブ〕と呼ばれて広く知られていました。

 

 1965年2月、ジャム・サーヘーブは、ジャームナガル〔グジャラート州の都市〕の宮殿で危篤状態にあり、胆のう結石症による激痛に苦しんでいました。彼は糖尿病で、さらに、緑内障のせいで目もかすんでいました。強い意志の持ち主でしたが、ここ数年は絶え間なく病気を患い、全くどうすることもできない状態にまで陥っていました。彼は自らの惨状から救われる唯一の方法として、死を待ち望んでいました。ジャム・サーヘーブの手当てを担当する高名な医療専門家たちも、同様になす術がありませんでした。彼らは止むを得ず外科手術を提案しましたが、彼の弱った身体が持ちこたえられそうにないということは承知していました。マハーラーニー〔藩王女/藩王夫人〕であるグラブ・クンワルバは、夫を手術が行われるボンベイ〔現ムンバイ〕に移すのは賢明ではないと思いました。ジャム・サーヘーブは、何としても自分のグル〔導師〕であるシュリ・アゴーラナンダジー・マハーラージに会わなくてはと、躍起になっていました。そのグルは、その地域では偉大なヨーギであり、神の子として知られていました。二日後、グルがジャム・サーヘーブの寝床までやって来ました。藩王家の弟子〔ジャム・サーヘーブ〕は自らの師に懇願しました。

 「マハーラージ、私はもうこれ以上この痛みに耐えられません。お願いですから、医者たちに私を眠らせてくれるよう助言してください」

 グルは心を動かされましたが、強(こわ)い外見でその優しい心を隠していました。グルは言いました。

 「そんなことを言うとは、君はジャム・サーヘーブかね、それとも誰か他の者かね? 私は君がそんなことを言うのを二度と聞きたくない!」

 「では、私はどうすればいいのですか?」

 グルは鞄の中から一枚の写真を取り出すと、それをジャム・サーヘーブに見せて、「この方を知っているかね?」と尋ねました。ジャム・サーヘーブは写真を見る気力さえありませんでした。彼は言いました。

 「私には誰も分かりません。まず元気にならなければ、私は誰かを見ることも知ることもできません!」

 「弟子を神のもとへ導くのはグルの務めだ。この写真のお方は人の姿をとった神である。彼を見て、彼に祈りなさい」

 グルはそう命じ、藩王〔ジャム・サーヘーブ〕が見ることができるようにと、その写真をランプの下に持っていきました。

 ジャム・サーヘーブはやっとの思いでその写真を見ると、「それはサイ・ババです」と、かぼそい声で言いました。

 「そうです。バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババです。君の心を、痛みから彼の方に向け変えなさい。彼には君の痛みを取り除く力がある。君はただ、彼に心の底から祈るだけでよいのだよ」

 

 グルの声は信念に満ちており、忠実な弟子の心に一筋の希望をもたらしました。

 部屋の外の廊下でマハーラーニーが戸惑いながらもしっかりとした声で誰かと話しているのが聞こえたので、グルは部屋の外に出ました。マハーラーニーはグルに言いました。

 「どこかの紳士が、マハーラージャにすぐに会いたいと来ています。どうしてそんなことができましょうか? 私がマハーラージャは病気だと伝えさせると、その紳士はマハーラージャか、マハーラーニーのどちらかに会うまでは帰らないと言っているのです!」

 

 グルはマハーラーニーに言いました。

 「はるばる南からやって来た、そのかわいそうな人に、どうして会わないのですか?」

 「マハーラージ、私の夫が死の床にあるというのに、いったいどうして誰かに会うことなどできますか?」

と彼女は尋ねました。

 「彼は私たちにとって大切な人かもしれません。一緒に会いましょう」グルはそう決定を下しました。

 

 訪問者は二階に通されました。それは、英国から来たガディア医師でした。彼は元々ジャームナガルの出身でした。ガディア医師は、うやうやしく提案しました。

 「お邪魔をして申し訳ありません。私は、バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババからここへ来るようにと言われて来ました。二日前まで、私はプッタパルティにいました。ババは私に、マハーラージャの具合がよくないのでこのヴィブーティの包みを渡すようにとおっしゃいました」

 

 ガディア医師は、大きな包みをマハーラーニーに手渡しました。マハーラーニーは驚きましたが、グルは違いました。まるでグルはそのことを予期していたかのようでした。グルは子どものように無邪気に歓喜の声を上げました。

 「あなたに言ったでしょう。彼は私たちにとって大切な人かもしれないと! 私はすでにババの写真をベッドの脇に置いておきました。だから、こうして今、彼の聖なるプラサード〔神から流れ出る恩寵〕が送られてきたのです!」

 マハーラーニーはガディア医師にお礼を言い、医師はいとまごいをして出ていきました。グルはマハーラーニーを伴ってマハーラージャの部屋に入っていきました。グルは部屋の外で起こっていたことをマハーラージャに説明しました。グルはヴィブーティの包みを開けて、そのうちの少しを水に混ぜて、サーヘーブに飲むように言いました。グルはそのプラサードを患者〔サーヘーブ〕の腹部にも塗りました。彼らがその不思議な出来事について話しはじめると、ここ三日間というもの一睡もしていなかったマハーラージャが眠りにつきました。誰もが大いに安堵しました。朝、目覚めると、痛みは完全に消えていました! バガヴァン・ババは、王室の夫妻の人生に喜びと安らぎをもたらすべく、夫妻の人生に登場したのです。その恵まれたグルは、自らの弟子を神のもとへと導くという務めを果たしたのでした。

 マハーラージャの回復は、ゆっくりではありましたが、確実でした。6カ月もすると、かすんだ視力以外は、完全によくなっていました。1965年の12月、彼は初めての娘婿、ラージクマール・ナラハリ・シンジーに伴われて、プラシャーンティ・ニラヤムへと赴きました。バガヴァンは、受け取った人が何と説明してよいか分からないような甘いお菓子を物質化しました。それはクリーム色で、べとべとするでもなくパサパサしているわけでもありませんでした。その味について、後にジャム・サーヘーブは、「私は世界中を回ってきましたが、あのようなものはそれまで一度も食べたことがありませんでした!」と言っています。ババは、その相当な量の「この世のものではない」プラサードをマハーラージャに差し出すと、言いました。

 「ジャム・サーヘーブ、あなたは糖尿病ですね」

 「はい、そうです」

 「何も心配いりません。スワミはそれをあなたにプラサードとして与えているので、あなたは何もためらうことなく食べていいのですよ」

 マハーラージャがそれを食べた後、バガヴァンは尋ねました。

 「あなたは何が欲しいですか? ジャム・サーヘーブ、言ってごらんなさい」。

 「スワミ、私はただ、あなたの祝福が欲しいだけです」

 「視力が欲しいとは思いませんか?」

 「私は、何かこの世のものを見るための視力など欲しいとは思いません。私は、あなたの御姿をはっきりと見ることはできませんが、それは私の心の中に焼き付けられています。私は、最後に主ソームナート〔月の神〕のダルシャンを受けたいと願っています」

 「私はあなたをソームナートである私のもとへ連れていきましょう」と、バガヴァンは断言しました。

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ソームナート寺院でのバガァヴァン

 ジャム・サーヘーブは、満足してジャームナガルへ帰っていきました。彼は最期の時まで至福の日々を過ごしました。1966年2月2日の朝4時ごろ、それは突然やって来ました。彼は重度の心臓発作を起こしたのです。けれども、痛みはまったくありませんでした。周りにいた誰もが驚いていましたが、特に彼を看ていた医師たちは驚いていました。ジャム・サーヘーブは、脈拍がゼロにまで落ちてしまっても、一つのいすから別のいすへと移動したりしていました! 最終的に、彼はベッドの上に小高く重ねていたクッションにもたれかかり、医師たちや使用人たちにお礼を言いました。横になる前に、彼はマハーラーニーに、「ありがとう。君はずっと良い妻だった。これからもずっと神様は君のそばにいるよ!」と言いました。彼は、マハーラーニーからガンジス河の聖水を飲ませてもらった後、穏やかにこの世を去りました。

 

 ジャム・サーヘーブの死から一週間後、マハーラーニーはプラシャーンティ・ニラヤムから一通の手紙を受け取りました。それは、2月3日に、彼女の姪でクッチ藩王国の姫、ナンダ・クマーリーによって書かれたものでした。ナンダは当時、プラシャーンティ・ニラヤムで暮らしていました。ババはナンダに伯父のナワナガル藩王国のマハーラージャが死んだことを伝え、ババの代わりに伯母への手紙を書くようにと頼みました。ババはナンダ・クマーリーに言いました。

 「マハーラーニーに私の祝福を伝えなさい。彼女は、マハーラージャの魂はどうなったのかと考えて、深い悲しみで心が一杯になっています。私は最期の瞬間に彼と共にあり、彼の最後の望みどおりに、彼をソームナートのもとへ連れていき、彼にモークシャ〔解脱〕を授けました」

 

 その手紙は、嘆き悲しむマハーラーニーの心に膏薬のような働きをしました。バガヴァンはその手紙を通じて、「サークシャート・パラメーシュワラ・スワルーパ」〔目に見える至高神の化身〕としてのバガヴァンを完全に信じる心を彼女に与えました。彼女はババの周りにいた帰依者たちに、愛のこもった助言として、ためらうことなくこう言いました。

 

 「スワミはサークシャート・イーシュワラ〔目に見えるシヴァ神〕です。スワミのマーヤーの芝居に惑わされてはいけません。スワミは、お芝居をするのがすばらしく上手なのですから!」

 

 1966年4月、マハーラーニーであるグラブ・クンワルバは、息子のユヴラージ〔若き藩王〕シュリ・シャトルシャリヤ・シンジーが王位に就いたことで、ナワナガル藩王国のラージャマータ〔藩王の母〕になりました。彼女がバガヴァンに初めて会ったのは、1966年5月、彼女の従妹、ボンベイのクッチ藩王国のマハーラーニーの館でのことでした。当時、グラブ・クンワルバは息子のことで、とても頭を悩ませていました。彼女は大いなる自尊心の持ち主で、強い意志を持った女性でした。そのことに彼女が触れるまでもなく、ババは彼女に言いました。

 

 「あなたは何も心配する必要はありません。私はあなたの息子です!」

 その言葉によって、彼女は一切の悩みから永遠に解放されたのでした。ラージャマータは、アヴァターからの祝福を受けてデーヴァマータ〔神の母〕となったのです。二、三日もしないうちに、バガヴァンはグラブ・クンワルバのボンベイの住まいを訪れました。彼女の娘、ヒマンシュ・クマーリーは、ババの神性が信じられるような印を私に示してくださいと、心の中で祈っていました。慈悲深い師は、すぐにそれに答えました。ババの所〔祭壇〕に亡き愛する父の姿が見え、娘は座り込んでしまいました。心に付いていた疑いの染みが、感謝の涙で洗い流されていきました。

 ラージャマータは、主の使命という祭壇に完全に身を捧げました。1968年、80代になったラージャマータが、ブリンダーヴァンのディヴィヤ・サンニディ〔神の近くの意〕で暮らすためにやって来ました。バガヴァンが自分の館に住むようにと彼女を招いたのです。彼女は、1971年にブリンダーヴァンのアシュラムの一区画にババから「デーヴィー・ニヴァース」〔女神の住居〕という新築が贈られるまで、ずっとそこで暮らしました。1972年にシュリ・サティヤ・サイ・セントラル・トラストが設立されると、ババはラージャマータをトラストの一員に任命しました。

 1981年に総合大学が創設されると、バガヴァンはその大学のトラストにも彼女を任命しました。彼女はさらにシュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションのワールド・カウンシル〔世界評議会〕にも所属していました。バガヴァンの使命における彼女の役割は他に類を見ないものでした。

 ラージャマータの生涯で興味深い出来事を二、三紹介しましょう。それはバガヴァンと彼女の間に存在する関係の甘美さを表しています。その甘美さは、もちろん、バガヴァンの度量の大きさという味がします。

 バガヴァンは、三度目にジャームナガルを訪れた時、ラージコート〔グジャラート州の都市〕のラージクマール大学シュリ・ディグヴィジャイ・シンジー部門の開設式の後、1973年3月31日の正午にアマル・ヴィラス宮殿に到着しました。何台もの車がバガヴァンの車の後を付いてきていました。ラージャマータもその中の一人でした。あまりに几帳面な主催者であった彼女は、玄関ポーチにいる忠実なアラブ人の警備員に、すでに指示を出してありました。彼の愛称は「シェイフ」〔アラビア語で長老や賢人の意〕で、彼は、ラージャマータの主が訪問するので、宮殿の神聖さを保つために玄関ポーチと宮殿には誰も土足で入ることを許さないように、という指示を与えられていました。車が玄関ポーチに到着し、バガヴァンが車から降りると、接待係の者たちが大いなる敬意をもって出迎えようと前に進み出ました。しかし、「シェイフ」が誰よりも先にやって来て、皆が驚いたことに、バガヴァンに向かってこう言ったのです。「ババ、ジューティー ニカーリエ!」〔靴を脱いでください〕。ババは微笑むと、謙虚にも警備員の言葉どおりにしました! ババは履き物を脱ぎ、太陽の下で待っていた国防市民軍の部隊の儀仗兵たちを出迎えるために、前に進みました。

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 何秒もしないうちに、ラージャマータがそこへ到着し、彼女の警備員がやらかした不敬な振る舞いを知りました。彼女は急いで主の所へ行ってひたすら謝り、「どうか履いてください」と、自分の手で持ってきたババのサンダルを差し出して懇願しました。しかし、バガヴァンは国防市民軍の方へ足を進め、真夏の正午の炎天下、焼けつくような砂の上を、平気な顔で裸足で滑るように歩いていき、ラージャマータは肝をつぶしました! ポーチへ戻ってくると、バガヴァンは、ラージャマータが「シャイフ」を、許し難い罪を犯したとして腹立たしげに叱りつけているのを目にしました。許しを懇願するような警備員の目と、情け深い眼差しをしたバガヴァンの目が合いました。ババはこう言って彼女をなだめました。

 「ラージャマータ、あれは、まったくもって彼の過ちではありません。あなたは、私以外は、という例外を彼に指示していませんでした。私は彼の忠誠心と忠実さを高く評価します!」

 警備員の目から感謝の涙がどっと溢れ出しました。彼は、ババが血と肉をまとった神であると信じていたにもかかわらず、やむをえず女主人の指示どおりに務めを果たしていたのです。

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焼けつくような砂の上を滑るように歩くババ

 さらに、ババは謝意を表すように、優しく彼の背中を叩くと、彼にお守りを物質化しました。それは緑がかった灰色の石でした。縦横1インチ〔2.54cm〕の大きさで、アラビア語でコーランからの文字が刻まれていました。驚いた「シャイフ」は、すばらしい機会に恵まれたという感謝の眼差しでラージャマータの方を見ました。彼女が彼を叱りつけていなければ、そんなものを手にすることなどなかったからです!

 1970年12月、バンガロールからボンベイへ向かう途中、バガヴァンはプネーにあるラージャマータの「ジャームナガル・ハウス」に泊まりました。翌朝、その建物で公開の会合が開かれることになり、ありがたいことに、ババの講話がある予定でした。ラージャマータは、娘のヒマンシュ・クマーリーと一緒に厨房で昼食の準備の様子を監視していました。厨房で座っていても講話を聞くことができましたし、窓越しにババのダルシャンに与かることもできました。御講話の最後に、バガヴァンはバジャンを何曲か歌い、ラージャマータは目を閉じてそのバジャンを繰り返しました。二、三曲バジャンをリードして歌った後、ババは帰依者たちにバジャンを歌い続けるように言い、勝手口から厨房へと歩いていきました。ラージャマータは信愛に我を忘れてバジャンを歌い続けていました。バガヴァンは、娘と他の者たちに、ラージャマータの邪魔をしないようにという合図をし、彼女が歌うのを聴きながら、その後ろに立っていました。しばらくしてから、厨房の様子を見ようと後ろを振り返ったラージャマータは、ババがいるのにたいそう驚きました。ババは彼女に言いました。

 「ラージャマータ、あなたはとても上手に歌いますね。さあ、パンダル〔仮設小屋〕に行ってバジャンを何曲かリードしてもいいですよ!」

 「いいえ、スワミ、とんでもありません! 私はそんなことはしたことがありません」

と、当惑したラージャマータが言いました。

 「いいえ、あなたは私が歌うのを何度も聴いてきましたよ。今度は私が、あなたが歌うのを聞きたいのです!」

 「スワミ、どうか私を困らせないでください……どうしてここへいらっしゃったのですか?」

 「私は、あなたがここで何をしているのか見に、そして、あなたのバジャンを聞きにきたのです!……何人分の食事をこしらえたのですか?」

 「スワミ、60人分程度の食事を用意しました」と、ラージャマータは答えました。

バガヴァンは配膳室へ行き、すべての器の蓋を開け、中に何が入っているのか尋ねました。そうしてバガヴァンは、用意されたすべての品を祝福しました。それからパンダルへ戻り、アラーティーを受けました。

 ババは、数人の招待客と昼食をとっている時に、食事を出す人たちのリストを付け加え続けました。ババに命じられて、たくさんの人が次から次へと昼食に呼び入れられました。ラージャマータは、台所に用意してある食べ物の量を心配してドキドキしました。けれど、ババは彼女の狼狽を、満面の笑みを浮かべて見ていました。食事会が終わった時、全部で700人が何の問題もなく食べ終え、さらには、食べ物はまだ残っていました! その日、厨房にいた誰もが、そこにあったすべての容器がアクシャヤ・パートラ〔尽きることのない葉っぱの器〕になるという奇跡を目撃したのでした!

 

 ダルシャン・ホールに安置する新しいクリシュナの像が、ブリンダーヴァンに運び込まれました。それはこの上なく美しい芸術作品で、横笛を吹くクリシュナが、トリバンギ〔頭を一方に傾け、上半身はそれと反対方向に傾け、腰から下の部分はまたそれとは逆方向に傾けたポーズ〕の姿勢をとっていました。像は学生たちの手でトラックからマンディルの前に降ろされ、中に運び込まれました。ババはその作業をずっと監視し、その像をとても喜んでいました。ババはその像を見せようと、ラージャマータを呼びました。彼女が中へ入ってきて、顔いっぱいに喜びをあらわにして像を見ていると、バガヴァンが尋ねました。

 「ラージャマータ、このクリシュナはどうですか? とても美しい……そう思いませんか?」

彼女は崇敬に満ちた眼差しでババを見て言いました。

 「私のカナイヤ〔小さなクリシュナ〕ほど美しいお方はおりません!」

ババの光り輝く顔に、魅惑的な微笑みが浮かびました。ババはそこにいたカレッジの校長に尋ねました。

 「彼女のカナイヤというのは誰のことか分かりますか?」

学長は当惑してババを見ました。答えが分からなかったのです。バガヴァンは誇らしげにご自身を指さしながら、威厳のある頭を振ってうなずきました!

 

 9月26日はラージャマータの誕生日でした。バガヴァンは、その最後の誕生日となった日に「デーヴィー・ニヴァース」〔ババが彼女のためにブリンダーヴァンに建てた家〕を訪れました。彼女を見るや、バガヴァンは歌いはじめました。

 「ハッピー バースデイ トゥ ユー、ラージャマータ!」

 ラージャマータも、ババが歌うのをまねしながら、ババの方へ歩いていきました。彼女はババに祈りました。

 「スワミ、私は今日、あなたに誕生日の贈り物を一つお願いしたいと思っています。必ずそれを私に恵んでください!」

 「それは何ですか? 言ってごらんなさい」

と、ババが尋ねました。

 「まず、それをくださると私に約束してください。そうしたら、それが何なのか申し上げます!」

 「まず、あなたの欲しいものを言いなさい。それをあげますから!」

 神と帰依者との間で、押し問答がしばらく続きました。とうとう、バガヴァンが折れました。

 「よろしい、あなたが欲しいものは何でもあなたにあげると約束しましょう! さあ、言ってごらんなさい!」

 「バガヴァン、私に死をお与えください!」

 ババはご自分の両手をラージャマータの頭の上に5分間置きました。その貴い時間に何が起こったのかは、誰にも分かりませんでした。後に、彼女はそのことについて娘に話していました。

 「スワミは神です。スワミはその5分の間に、私が見たいと思っていたものすべてを見せてくださいました!」

 

 その日から、ラージャマータは自分がこの世を旅立った後に何をすべきか、諸事万端について、家族に詳細な指示を与え続けました。さらに、孫息子には、人が死んでいるか、いないか、どんなふうにして見極めることができるのかを教えました!

 

 ラージャマータは、6日後の午前4時に、最愛の主が歌うバジャンを聞きながら、穏やかにこの世を去りました。そのバジャンは、彼女がテープレコーダーでかけてほしいと言った歌でした。息を引き取る数時間前、ラージャマータは娘と孫息子にこう言っていました。

 

 「もう私に話しかけないでね。私はバガヴァンの声だけを聴いていたいの!」

 

 夜が明けると、バガヴァンが「デーヴィー・ニヴァース」にやって来ました。いとしい帰依者の遺体を見ながら、バガヴァンはつぶやきました。

 

 「これから私は、いったい誰とジャガダをすればいいのでしょう?」

 

 「ジャガダ」とは、ヒンディー語で口論のことです! バガヴァンとラージャマータとのチャーミングな関係のたぐいまれな一面に、バガヴァンは彼女がいろいろな事柄に関して自由に異を唱えるのを許していたことがあげられます。時には、バガヴァンと口論することさえ、彼女に許していました! ラージャマータがバガヴァンに帰融して一つになった日の朝、バガヴァンはそうした口論を「ジャガダ」と呼んだのです! 間違いなく、彼女はバガヴァンの数えきれない帰依者たちの中で、唯一無二の存在でした!

もう私に話しかけないでね
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デーヴァマータ〔神の母〕となったラージャマータ

​第 38 

第38回

 スコットランド出身のビル・リアム・マッケイ・エイトケン氏は、自分のことを「スピリチュアル・ノマド」〔霊性の流浪の民〕と称し、60年代にインド人に帰化することを選択し、インド中を旅して回りました。そのインドでの霊的な地理の学習で得た専門的な知識は、彼を数多くの人気の旅行記を書く作家にさせました。ビル・エイトケンは、バガヴァン・ババに関するすばらしい本、『Sri Sathya Sai Baba―A Life』を書いています。その本で、彼はバガヴァンの人生の霊的な真髄をとらえ、バガヴァンをゴータマ・ブッダやイエス・キリストの系列にある現代の世界教師として描いています。

 バガヴァン・ババの帰依者たちは、ビル・エイトケンがアヴァターの計り知れない神秘を知性的に探究していることについて、完全には賛成しかねるかもしれませんが、彼が次のように宣言していることには誰も異議を唱えることはできません。

 「サティヤ・サイ・ババが私の中に呼び起こすもの、それは気が狂いそうになるほど美しく、間違いなく世界中の誰もが体験してみたいと願うような感覚です」

 ビル・エイトケンは、1972年の冬、ニューデリーにある「ジンドの藩王女」の館で、初めてババを見ました。彼の第一印象はこうでした。

 「間違いなく、彼はいかなる聖者の中でも、あるいは、はっきり言って、私が今まで会ったどんな人よりも、最も衝撃的で感動的な存在です。あまりにも活力あふれるエネルギーで満ちているために、もし彼に触れたらショックを受けるかもしれないほど、超自然的な静電気がパチパチと音を立てているような感じがしました」

 彼は、ババがカシミールを旅した後の1980年の6月14日に、再び同じ場所でババに会いましたが、それはビル・エイトケンにとって、とんでもなく尋常でない体験でした。というのも、そのおかげで、彼は6週間後にヒマラヤ山脈を旅した際に命を救われることになったからです。彼の語る話はこうです。

 

 「当時、私は、ヒマラヤ山脈の中でも最も困難な行程をたどって行く聖所の一つ、ナンダ・デーヴィーへの巡礼の旅をする準備をしていました。ババに会いに行った時、私は高地用の装備で身を固めていました。高山で必要なロープ、岸壁用ロープの留め具、信頼のおけるピッケル、断崖絶壁の氷で覆われた地形を切り抜けるのに欠かせない道具類などです。

 ババは私の健康を優しくお尋ねになり、私はババに私の冒険を祝福してくださいと言いました。私の宿の女主人が、私のピッケルを祝福してもらったら、と提案してきました。ババは微笑まれ、ピッケルを手に取ると、それが作られる際に使われた鉄の組成について、いくつか鋭い質問をしはじめました。そこにいたババの学生たちは、そのことについて私以上によく知っていました。突然、ババは何もない所からヴィブーティを物質化なさいました。それには、私がみんなの前で見ていたような、手をくるくると回すような動作は一切ありませんでした。ババはそのヴィブーティをピッケルのつるはし側の部分に、かなり強くこすり付け、それから、終わったというようなしぐさをなさり、『うまくいきますよ』と言って、ピッケルを私に戻してくださいました。

 私にはどんな奇跡が行われたのかは分かりませんでしたが、それから一ヶ月後の7月26日、聖所で登山をしている時に、そのピッケルのつるはしが私の命を救ってくれたのだ、ということを知ることとなりました。ラマニで、リシ・ガンガー峡谷の上にある、岩を切り取ってできたような手ごわい岩盤をジグザグに登っている時、私は二人のとても優秀なガルワーリー〔ウッタラーカンド州ガルワール地方の人々〕のポーターたちに手助けをしてもらっていました。彼らは、とても熟練した大胆なポーターたちだったので、どんなロープも使おうとはせず、その峡谷の刃(やいば)のように急傾斜している岩盤を裸足で渡っていきました。彼らはロープを固定させながら先へ進み、それから、しゃがんで私を待っていました。私はというと、自分を引き上げるために必要なあらゆる登山用の装具一式を身に付けていました。

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 私たちは、地表が裂けてできたような狭い小峡谷を登り始めました。そこは極めて滑りやすく、油断のならない所でした。どこにも頼りになるような足場はなく、進みながら自分で足場を作っていかなければなりませんでした。私は振り返って、大きく口を開けた深淵を覗き込みました。はるか下を流れる川の急流によって刻み込まれた巨大な峡谷は、真っ直ぐに降りても1,000フィート〔約300メートル〕はあったでしょう。

 私は、じめじめした地面をつま先で蹴って足がかりとし、手を伸ばしながらピックを上部の地表に強く打ち込みました。驚いたことに、その6インチ〔約15センチ〕のつるはしは、岩にわずか3インチ〔約7.5センチ〕入っただけでガチンと音を立て、私の体重を支えるには十分ではなくなりました。その瞬間、つま先の下の地面が砕け落ち、私は自分が地表に優しく沈み込んでいくように感じたかと思うと、ピック一つで峡谷の上にぶら下がっていました。絶体絶命のその時、私の全体重がそのピックにかかっていました。私は、自分はあっという間に1,000フィート下に落ちて間違いなく死ぬだろうという恐怖よりも、むしろ自分の無能さへの嫌悪感を強く抱きました。

 どういうわけか、その3インチの鉄は、軟弱な地表を突き通すことはできなかったにもかかわらず、ポーターたちが戻ってきて私をつかまえるまでの間、持ちこたえてくれました。その後、私たちは、危機一髪を何度か切り抜けて、グルプールニマーの聖日に、我らが聖なる目的地である聖所ナンダ・デーヴィーへ無事に到達しました。帰りの旅の途中にも、身の毛がよだつような出来事がいくつかありましたが、ありがたいことに、ババの恩寵のおかげで、私たちは無事に切り抜け、私は生きて今日、この話を語っているのです」

  このように、バガヴァンは、志に燃える世界中の多くの魂たちに手を差し伸べてきました。距離のあるない、カーストや信条、あるいは国籍の違いがバガヴァンの愛と慈悲を妨げることはできません。バガヴァンはよく、「愛に理由はなく、愛には時季もない」と歌っています。

 

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 バガヴァンは、アヘートゥカ〔理由なき〕・ダヤースィンドゥ(慈悲の王)です。バガヴァンの、理由なき、絶え間ない慈愛は、シュリ・カストゥーリ博士を鼓舞し、「あなたが彼を必要とするなら、あなたは彼〔の慈悲を得る〕に値します!」と、彼に宣言させています。

 

 バガヴァンの慈悲の英雄物語は、そのようなバガヴァンを必要としている魂を探し出し、次の章へと続いていきます。

​第 37 

第37回

 シュリ・チダンバラクリシュナンは、ティルネルヴェーリ〔タミル・ナードゥ州の都市〕から、25キロ離れた町、ムックダルの裕福な若者で、南インドの「タバコ王」として知られた家の出身でした。高名な占星術師から1960年3月15日までに死ぬと予言されたために、チダンバラクリシュナンは大変な恐怖心と不安を抱えていました。その期限の一週間前のことです。彼は何人かの友人たちからババに会ってみるよう勧められました。ババはマドゥライ〔タミル・ナードゥ州の都市〕からトリヴァンドラム〔ケーララ州の州都〕へ行く途中、ティルネルヴェーリを経由することになっていました。ババはその日、ティルネルヴェーリにいる数人の帰依者たちの家を訪れ、隣町のスレンダイに泊まっていました。

 チダンバラクリシュナンには、彼を苦しめていた問題がもう一つありました。地元でとても影響力を持つ兄が、チダンバラクリシュナンが自分で選んだ相手との結婚への道をふさいでいたのです。兄は、花嫁はまだ未成年であるという理由で、法廷にその結婚に反対する禁止命令を発行させることまでしていました。翌朝、スレンダイでのダルシャン中、ババはチダンバラクリシュナンのところへまっすぐにやって来ると、彼の手を取り、家の中へ連れていきました。ババは彼の肩を叩いて言いました。

 「心配しなくていい。あなたは長生きします。占星術師が予言したように死んだりはしません。私はただあなたを救うためにここへやって来たのです!」

 チダンバラクリシュナンは耳を疑いました。言葉も出ませんでした。目から涙があふれ出しました。ババが続けました。

 「結婚はどうなりましたか?」

 「どうして何でも知っておられるのですか?」

と、チダンバラクリシュナンは思わず口にしました。

 「このもじゃもじゃ頭のババは、何でも知っています。何も心配することはありません。私があなたの結婚式をプッタパルティで執り行い、お兄さんも参列させましょう!」

チダンバラクリシュナンは信じられませんでした。彼はぶっきらぼうに言いました。

 「ババ、兄は大変な権力者です。誰の言うことにも耳を貸したりはしません」

バガヴァンは微笑み、こう言って請合いました。

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 「私に任せなさい。すべてうまくいきます!」

 チダムクリシュナンがあっけにとられていると、ババはご自分の肖像が描かれたロケットを物質化して彼に渡し、言いました。

 「これは、あなたのためのラクシャー〔腕に着けるお守り〕です。いつも身に着けていなさい」

 チダンバラクリシュナンは、その瞬間から別人になりました。全能の守護神を見いだして、彼のハートは新たな希望と勇気で満たされました。ババに言われて、彼はババの旅の一行に加わり、トリヴァンドラムとカンニャークマーリー〔インド最南端の巡礼地〕に同行しました。幸運にも、彼は海岸での数多くのリーラー(神聖遊戯)を目撃することになりました。地元の町に戻るころには、彼は占星術師の予言に対する恐怖から完全に解放されていました。ババは、こう言って彼に別れを告げました。

 「あなたがダイヴァヌグラハ〔神の恩寵〕を手にしたとき、ナヴァグラハ〔九つの惑星〕があなたに危害を加えることはできません!」

 人が神の恩寵を手に入れたとき、九つの惑星でさえその人に悪い影響を及ぼすことはできない、とは何という真理でしょうか! バガヴァンは、それから三か月もしないうちに、プラシャーンティ・ニラヤムのマンディルで結婚式を執り行いました。ババの約束どおり、彼の兄もその結婚式に参列したのでした。

ダイヴァヌグラハ
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第36回

​第 36 

 アルゼンチンのレオナルド・P・ガター氏は、1981年にブエノスアイレスの「ラージャ ヨーガ スピリチュアル協会」の会員だった一人の婦人からサイ ババのことを耳にしました。レオナルドはその協会の副会長でした。その婦人がどのようにしてババのことを知るようになったかという話は、とても心を引き付けるものでした。

 その前の月、彼女はインドに行く途中、数日ロンドンに滞在しました。現地の図書館で書棚の本を見ていた時、上の棚から一冊の本が彼女の頭の上に落ちてきました! それはババに関する本でした。その本に目を通していくうちに、ババに会いたいという強烈な欲求が湧いてきました。彼女はインドのプラシャーンティ ニラヤムを訪れ、ババにインタビューを与えられました。

 

 ブエノスアイレスに帰ってから、彼女はババのことを熱烈に、興奮しながら協会の会員たちに話しました。彼女は、ババは世界が待ち望んでいたアヴァター〔神の化身〕―救世主―であると言いました。それに感激したレオナルドは、ブエノスアイレスにあるサイの帰依者グループの会合に出席しました。けれど、彼は自分のことを帰依者だとは思っていませんでした。

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 その後しばらくして、レオナルドの夢にババが現れました。夢の中で、レオナルドは数人の友人たちと部屋にいて、ババがドアのところに現れて部屋に入ってきました。レオナルドは心の中で思いました。「もし、彼がアヴァターならば、私の近くに来た時、何か特別な感覚がするにちがいない!」そして、まさにそのとおりのことが起きたのです。バガヴァンが近づいてきた時、レオナルドは信じられないような体験をしました。以下は本人の言葉です。

 「私は、自分のサトル ボディ〔微細体〕のすべての細胞が振動するのを感じはじめました。そして、細胞の一つひとつが、至福に満ちたエネルギーで沸き立ち、爆発しはじめました。私は霊的な探究において探し求めていたアーナンダ〔至福〕を、あっという間に手にしたのです! エネルギーと至福の波が私の足元から頭まで上っていきました」

 その体験で、レオナルドは全く自分の身体をコントロールできなくなり、倒れてしまいました。しかし、意識ははっきりとしており、完全なる至福の状態にありました。ババがドアの方へ歩いていくのが見え、レオナルドは、「ババ、あなたは神です!」と心の中で繰り返しました。ババは後ろを振り返り、レオナルドの方にやってきました。ババはレオナルドを起こし、彼の頭を軽く叩いて祝福しました。そこで夢が終わり、レオナルドは目が覚めました。その夢によって、レオナルドはババに会いたいという、燃えるような思いでいっぱいになりました。そういうわけで、レオナルドはインドへ行く帰依者たちのグループに加わり、1982年1月にマドラスで初めてのダルシャンを受けたのでした。

 

 バガヴァンがプラシャーンティ ニラヤムに戻っていくと、アルゼンチンのグループもバガヴァンの後を追い、熱烈な思いでインタビューを待ちました。34日が過ぎましたが、インタビューなどまったくありませんでした。メンバーの中にはがっかりする者も何人かいましたが、レオナルドは、ババは自分の帰依者を失望させるようなことをするはずがないと信じていました。絶望する代わりに、レオナルドは自分の内面を見るようにし、自省しました。その夜、彼は思いました。

 「スワミがこの時代のアヴァターであることが分かった以上、スワミにお仕えして、スワミのメッセージを広めなくては。スワミに心から全托しよう」彼はバガヴァンに、それを達成するための信仰心と意志力をお授けくださいと祈りました。次の朝、バガヴァンはダルシャンの列にいたレオナルドのところに来て、言いました。

 

 「いいでしょう。私は今日の午後、あなた方をインタビューに呼びましょう」

 その日の午後、アルゼンチンのグループはインタビューを与えられ、その時ババはレオナルドの耳元でこうささやきました。

 

 「私は自分の帰依者たちを決して失望させません!」

 そのインタビューの後、レオナルドは自分の生涯の使命――アヴァターのメッセージを自分の地で伝えること――を確信したのでした。

 1982年3月にプラシャーンティ ニラヤムを発つ前、レオナルドは9月に戻ってきてバガヴァンのダルシャンを受けたいという強い思いが心に湧き上がるのを感じました。けれど、自分の経済的状況がそれを許さないことは分かっていました。それでもレオナルドは、ババに願いをかなえてくださいと祈り、ブエノスアイレスに戻ったのでした。アルゼンチンの帰依者のグループは、少人数でしたが、とても献身的で強い意志を持っていました。彼らは国中を、時には国外までも出かけて回り、地上に神聖なる神なる主がおわすという素晴らしいニュースを広めて回りました。レオナルドは、どこであろうと、誰に対してであろうと、あらゆる機会にババの話をしました。

 1982年の7月、仕事でエクアドルに行った時のことです。レオナルドはキト〔首都〕にあるハタ ヨーガのグループに話をする機会がありました。その会合の終わりに、その国でも有名な、とても影響力のある大企業家で、エクアドルの元外交官だった人から、翌日のランチに自宅へ招待されました。ランチの間、会話はババの超自然的な癒しのパワーの話へと流れていきました。会話の最後に、その企業家は彼にこう尋ねてきました。

 「この9月に私と一緒にインドへババに会いに行ってもらえませんか? あなたさえよければ、旅行の手配はすべて私がします!」

 

 レオナルドは大喜びでそれに同意し、バガヴァンに願いをかなえてもらったことを感謝しました。二人は9月の第一週にプラシャーンティ ニラヤムにやって来ました。道中、レオナルドはその友人の旅行の目的を知ることになりました。彼は霊性の求道者ではありませんでした。彼は自分の口蓋(こうがい)がんを治してほしいとババにお願いしたかったのです。彼はアメリカで外科手術を受けていましたが、それは救いとはなりませんでした。レオナルドはババに彼の友人にお慈悲をお与えくださいと祈りました。

 9日目の午後のバジャン中、二人がマンディルの建物の中に座っていた時、奇妙なことが起こりました。その企業家が、手が付けられないほど動揺してむせび泣きはじめたのです。レオナルドは彼をなだめようとしましたが、慰めようがありませんでした。しばらくすると、企業家は叫び声を上げました。「ババはなんて親切なんだ! 彼は私のがんを治してくれた!」

 

 レオナルドはあっけにとられていました。彼はその友人に尋ねました。

 「どういう意味ですか? いつババはあなたに話しかけたのですか?」

 「数分前にババが私のところへやって来られたのを見なかったのかい?」

と企業家は尋ねました。

 「どうしてそんなことが? ババはまだ出てきておられませんよ!」

 「ババが私のところへ来られて、私の目の前に立って私に口を開けるようにと言ったんだよ。それから私の口の中に手を入れて、何かを引っぱり出したんだ。そして、『あなたは治りました!』と言ったんだ。私は自分は間違いなく治ったと思う!」

 

 友人の信じられないような体験を聞いて、レオナルドは何と言っていいのか分かりませんでした。二人はその翌日プラシャーンティ ニラヤムを発ち、エクアドルへと戻りました。主治医であるキトのがんの専門医が検査を行いましたが、がんの痕跡は何も残っていないことが確認されました! 言うまでもなく、その企業家はバガヴァンの揺るぎない帰依者となりました。彼は自身の体験を書き記し、小冊子にして一万部をエクアドル中で配ったのでした。

 10年後、レオナルド・P・ガター氏は、ラテン アメリカでのサイの活動の重要なリーダーとなりました。

ババnの囁き
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レオナルド・P・ガター氏を祝福するバガヴァン

​第 35 

第35回

 フィリップ マシュー プラサード氏は、ケーララ州のパールガートという町の非常に信仰の篤い家庭に生まれました。その町の調和に満ちた環境で育ったフィリップの若いころは、すべての宗教に共通の根源である霊的かつ道徳的な価値への理解において際立っていました。しかし、15歳の時、カレッジで学業を修めるためにトリヴァンドラム市〔州都〕へ移ると、彼の物の見方は突如として変わってしまいました。マルクス主義思想の強い風〔ケーララ州はインド共産党マルクス主義派が政権をとっている〕に煽られて足元から揺るがされた彼は、極端な無神論者となってしまいました。

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 17歳になるまでにマルクス主義の学生運動のリーダーとなり、18歳でマルクス主義の政党の党員となりました。彼は21歳の時に学業を捨て、ナクサライト運動〔極左の急進的な共産主義運動〕に参加しました。そして、1968年にカルカッタで創設された全国ナクサライト委員会の創設者の一人となりました。ほどなく、警察との武力衝突の渦に巻き込まれたり、ケーララ州の丘陵地帯の部族のために働く一方で地主から土地を略奪したりするようになりました。そして、一年もしないうちに投獄されました。

 1973年、カリカット〔ケーララ州の港湾都市〕の管区刑務所の独房に入れられたフィリップの精神は混乱状態にありました。彼は人生における根源的な問題について深く考えるようになりました。魂の霊的な飢餓感がさまざまな形で顔を出し、昼となく夜となく彼に付きまといました。彼は自分が選んだイデオロギーと道に幻滅していました。人生で最悪の暗黒の危機が立ちはだかってきた時、彼が子供のころに祈りを捧げていた神は、彼を見捨てませんでした。その地域のサティヤ サイ オーガニゼーションが、彼の独房を出てすぐの刑務所内の場所でバジャン〔神への讃歌〕を催しました。けれど、霊的なものすべてに対する否定的な考えによって心(マインド)が完全に混乱していたために、一時間に及ぶバジャンの間、彼はいらだち、立腹していました。バジャンの最後にボランティアの一人が独房にやって来て、鉄格子の隙間からプラサード〔神に供えた果報として神の恩寵が注がれた供物〕のオレンジを優しく彼に手渡しました。フィリップは激怒し、それをくれた人にそのオレンジを投げ返しました。その弾丸はボランティアの後頭部に当たり、その人は振り返ってフィリップを見ました。その人の目には怒りも恐れもありませんでした。その人はただ立ち去りました。フィリップはその出来事を思い返して深く考えるようになりました。その出来事は彼のハートの中に強い道徳的ジレンマを引き起こしたのです。

 

 ある夜のこと、突き刺すような苦悩に耐えられなくなって、彼はどうしようもないほどに泣き崩れました。とうとう、祈りたいという耐え難い欲求が爆発しました。彼は「主の祈り」――イエスが弟子たちに教えたとされるもの――を祈りました。それは子供の時に母親から教わったものでした。彼は願いをたった一つ請いました。それは眠りたいという願いでした。その願いはすぐに聞き届けられました。後悔の涙で濡れたシーツの上で、彼は静かに、夢を見ることもない甘美な眠りへと落ちていきました。

 その夜再び授かった信仰心が、彼の人生を完全に変えました。それから4年間、彼は刑務所での日々を、祈り、ナーマスマラナ〔唱名〕、黙想、そして、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、仏教の経典を学ぶことに費やしました。彼はバガヴァッドギーターのメッセージを深く探求し、永続するインド文化と多宗教のエートスの現代的なシナリオにおけるマルクス主義の哲学思想との統合を探っていきました。何年も経ってから、この探究は、近代インドにおける宗教間の調和の救世主として光を放つ、シルディ サイ ババの教えへと彼を導きました。彼のハートに、シルディ ババの慈愛に満ちた姿への親近感が自然と湧き上がってきました。

 ついに刑務所を出たフィリップは、弁護士の職に就き、政治活動家として、そして、ソーシャル ワーカーとして、虐げられた大衆を向上させる仕事に身を捧げました。彼は、スワミ アーナンダ ティールタという、大衆の擁護者であり、シュリー ナーラーヤナ グル〔1856-1928〕から直接教えを受けた最後の門弟であったサンニャースィン〔出家行者〕と接触を持つようになりました。重病を患っていたアーナンダ ティールタは、フィリップと共に過ごしていたある日、グルの生まれ故郷であるチェムパザンティに連れて行ってほしいと思いました。そこはトリヴァンドラムから数マイル離れた所にありました。アーナンダ ティールタはひどく弱っており、2、3歩歩くことさえできませんでした。ところが、車でその地に着くやいなや、沸々と活力がわいてきて、信愛の涙を流しながら嬉々としてマンディル〔お寺〕を歩いて巡礼したのです。フィリップはその姿を見て衝撃を受けました。

 フィリップはその日、グル バクティ〔導師への信愛〕の力というものを理解しました。彼のハートは真のグルを見つけたいという思いに焦がれました。アーナンダ ティールタはプラシャーンティ ニラヤムを2度訪れたことがあり、ババに大いなる畏敬の念を抱いていました。ババに対する敬意に満ちた彼の言葉は、フィリップに深い衝撃を与えました。さらに、ハワード マーフェットの『奇跡が生まれる』という本によって、彼の心の準備は整いました。

 1984年のクリスマス直後に、奇跡的な方法で神からの招集がかかりました。その2日前、彼は、弁護士が着用することになっている上着と訴訟案件の書類を入れた箱を父親の家に置き忘れ、彼の父はそれを12月26日の午後6時に彼のところに持っていきました。箱を開けると、何か金属がぶつかる音がしました。フィリップは指輪が1つ入っているのを見つけました。その指輪にはシルディ サイ ババの顔が彫られていました。それは彼の指にぴったりでした!

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フィリップの言葉です。

 「その指輪を見ただけで、私は恍惚とした気持ちに満たされました。その至福は3日間、私の全身に染み渡っていました。神はもはや知性の命題ではなくなっていました。神は即座に生きた現実となったのです」

 

 けれど、フィリップの懐疑的な心(マインド/頭)は、その3日間の後、彼がそこに安住することを許しませんでした。彼は言います。

 

 「私は、その指輪は誰かあまりに熱狂的な帰依者がババのメッセージを広めたいという必死な思いから箱の中に入れたものかもしれない、という疑念を引きずっていました。私はそういった品物が売られているようなトリヴァンドラムの店を歩き回り、同じような指輪を探しました。ですが、無駄に終わりました。情けないことに、ではなく、幸いなことに、です」

 すぐに彼はプラシャーンティ ニラヤムへ行き、師のダルシャンを受けました。しかし、彼のハートにあった罪の意識という重荷と、他人からの疑いの眼差しが、彼の平安と幸福をさまたげました。最終的に、彼は1985年のオーナム祭の時、主によって罪悪感という渦の中から救い出されました。師との初めてのインタビューは、彼の人生における決定的な瞬間でした。フィリップは純粋な喜びと共に思い返します。

 「スワミは、私に干渉することなく、ありのままの私――錠前も、中に詰まっているものも、何もかも――を受け入れてくれました。無条件に受け入れられたことによって、私は至福に満たされました。45分間続いたインタビューの中で、スワミは17回こう繰り返しました。

『あなたの良心を罪悪感で汚してはいけません!』

 

 スワミは、まるで私がたった一人の友人であるかのように、そして、この全宇宙で彼の友情に値する価値のあるたった一人の者であるかのように、私を扱ってくれました。私はどれほど誇らしく、自信を持てたことでしょう! 今まで誰もそんなふうに私を受け入れてくれた人はいませんでした。私の母親ですら。

 “世界”は私を変えたがり、そして、ただ私を受け入れました。“世界”、すなわちスワミは、ありのままの私を包み込んでくれました。そのように受け入れられたことで、涙がごうごうと止めどなく流れ出て、私の服もスワミのローブもぐっしょりと濡れてしまいました。スワミは私の涙をご自分のハンカチで拭い、ヴィブーティを物質化し、私の口の中に入れてくださいました」

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 ババはフィリップのためにエメラルドの指輪を物質化しました。それを贈りながら、バガヴァンはすでにフィリップの手に飾られていた指輪に目を向けて、目をキラキラさせながら尋ねました。

 

 「その指輪は店で手に入るものですか?」

 フィリップは、ババは自分の疑り深い性格をからかっているのだと理解しました。彼の家族全員に物質化の贈り物がありました。3歳の息子には真珠で飾られた金の十字架、娘には片面にババの写真、もう片面にキリストの肖像が描かれたロケット〔ペンダント〕、奥さんにはシルディ ババの顔が彫られたロケットで、「私がここにいるのに何を恐れるのか!」と刻まれていました。

 言うまでもなく、フィリップはケーララ州におけるサイ アヴァターの強力なメッセンジャーとなりました。演説の才能、文才、そして公共の福祉への情熱によって、彼は使命を果たしました。カリカットへ旅行した時のことです。自分の人生における真のターニングポイントは、師との最初のインタビューではなく、師の謙虚な召し使いだった人にオレンジを弾丸のように投げ返した時だったと、彼は悟りました。フィリップはその時のことを次のように語っています。

 

 「以前、私はカリカットのサティヤ サイ オーガニゼーションに招かれて、市の公会堂のぎっしりと詰まった聴衆の前でバガヴァン ババについてスピーチをするようにと依頼されたことがありました。話を進めていくうちに、不本意ながらも刑務所で囚われの身でいた際に、初めてサイ バジャンに接した時のこと、その時の私の怒りに満ちた反応について話をしました。私のスピーチが終わると、一人の老人がやって来て、近くにある自宅にどうしても来てほしいと言いました。彼の名前はシュリー シャンカラ アイヤルといい、花の卸売を営んでおり、何十年も前にババの帰依者となったということでした。彼の家で一杯のコーヒーが出され、私がそれを飲み終えると、彼は泣き崩れ、この話を語り始めました。

 シャンカラ アイヤルは、刑務所で私のオレンジの弾丸を投げつけられたボランティアその人だったのです。彼にオレンジが当たった時、彼は独房の中の怒れる若者に――私のことですが――お慈悲をと思わずにいられませんでした。彼はバガヴァンに祈りました。

 『スワミ、あなたのお慈悲をこの青年に注いでください。そして彼が幸せになれるように変容させてください。どうか、いつの日か、あなたの恩寵で、私の家で彼に一杯のコーヒーを入れてあげられますように!』

 スワミはシャンカラ アイヤルの祈りを聞き入れて、私を救いに来られたのです。そのころでした。私の人生が急展開し始め、神への信仰を取り戻したのは。彼が私にオレンジの弾丸を投げつけられた独房で、私はスワミによって振られた旗の下、長旅に終わりを告げたのです。シャンカラ アイヤルは私の旅の駅長だったのです!」

​第 34 

第34回

 サーングリーとコーラープル〔いずれもマハーラーシュトラ州の都市〕の法科大学で教えていたアブドゥル ラザーク バーブーラーオ コルブ教授は、人気のある法律教師として名声を博していました。1981年2月、彼は、プラシャーンティ ニラヤムにあるバガヴァン ババの新しい大学が14の学科で客員教授を必要としていることを知り、大喜びしました。彼はこの4年間、ババのアシュラムをよく訪れていました。けれど、ババはまったくコルブに話しかけることはありませんでした。

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 実のところ、バガヴァンは一度だけコルブを見てくれたことがありましたが、それは1977年にまで遡ります。コルブの心を永遠に捉えるにはそれで十分でした。コルブいわく、「私はババを一目見て恋に落ち、夢中になってしまった」のです。彼は、スラム暮らしのわんぱく小僧から尊敬される教授へと人生を駆け上る手助けをしてくれたのはババだった、と確信しました。

 今や、ババの教育の分野での使命に携わってババにお仕えするチャンスが目の前に開かれ、コルブはそれに飛びつきました。彼はコーラープル法科大学での教職を辞し、シュリ サティヤ サイ高等教育機関〔通称サイ大学〕の商法の客員教授職への願書を送りました。1981年3月にプッタパルティを訪れた時に学部事務所で聞いたところによると、サナータナ サーラティ誌に掲載された求人広告の14の職務に対して、著名な教授たちの応募が世界中から何千通も寄せられたということでした。コルブは、サイ大学で教えるという望みをすっかり失って、意気消沈してサーングリーへ帰ってきました。

 1981年4月の第2週に、コルブはプラシャーンティ ニラヤムから採用通知を受け取りました! 彼は事務所の椅子から立ち上がって、まっすぐに自分の寝室に行き、ドアに鍵をかけると、ベッドの上に座って子供のように泣きました。どのくらいそうしていたかも分かりませんでした。彼は、そのまたとない機会をバガヴァンに感謝しました。一度の面接さえなかったのに、どうして自分は選ばれたのかと不思議に思いました。その答えは、二日後にプラシャーンティ ニラヤムで副学長のV.K.ゴーカク博士に会った時に知らされました。

ゴーカク博士はこう説明しました。

 「それ自体、面白い話なのです。コルブ教授、一体どうやって何千人という応募者を面接することなどできたでしょうか? 私たちは選考に関してご指示をいただけるようスワミに祈りました。スワミは、折を見て事務所へ来られ、必要なことをしますとおっしゃいました。スワミは、封筒を開けたり応募者を呼んだりする必要はありませんとおっしゃいました。ある日の朝のことでした。ダルシャン後、スワミは事務所へとやって来られ、私はスワミの言うとおりにしました。

床の上に願書を全部広げるようにとスワミがおっしゃったので、私たちはそうしました。スワミは書類の山から14秒で14の封筒を拾い上げ、私たちに向かって『この人たちが選ばれました!』と言って、出ていかれました。私たちが封筒を開けると、14の学科に対してちょうどそれぞれ1名の願書が入っていたのです! その選ばれた応募者の中に、商法科に応募したあなたの名前がありました。今や、スワミの奇跡は私たちにとって日常となってしまいました。もし何か疑問に思われるなら教務係に会ってもよいですよ。その14通以外の封筒は一通も封を切られていません」

 

 コルブは自分を選んだババのやり方に示された恩寵に、何と言っていいか分からないほど感激しました。それに関して教務係と話す必要があるとは思えませんでした。彼はコーラープルへ出立しました。コルブが客員教授としてプラシャーンティ ニラヤムを初めて訪れたのは1981年6月のことでした。

 客員教授として奉仕を始めた最初の一年間、ババはコルブに一言も話しかけませんでした。ある夕暮れ、ダルシャンの時に、ババがまっすぐに彼のところへ歩いてきました。コルブは目に涙を浮かべながらババの御足に触れました。ババは彼に、「お元気ですか? 先生」と尋ねました。「元気です。ババ! 今・・・」コルブが言い終える前に、バガヴァンがふいに言葉を差し挟みました。「分かっています、後で会いましょう」コルブはとても嬉しくなりました。彼の幸福にさらに付け加えるように、副学長が翌日こう言いました。「スワミはあなたをとても愛しておられます。あなたの学生たちがあなたのことを、とてもよく教えてくれると言っているのです」

 

 その日曜の夕方、帰依者たちにダルシャンを授けた後、バガヴァンはマンディルのベランダにいたコルブのところに歩いていくと、こう尋ねました。

 「あなたのファーストネームは何ですか? 先生」

 「アブドゥル ラザークです。スワミ」

 「アブドゥルの意味は何ですか?」

 「帰依者という意味です、ババ」

 「ラザークの意味は何ですか?」

コルブは口ごもるしかありませんでした。ババが自ら言いました。

 「ラザークはアッラー〔アッラーフ/イスラム教の神〕という意味です。アッラーの意味は何ですか?」

 「神です、ババ」

 「それだけでは正しいとは言えません。アッラーは“至高”あるいは“すべてを超越したもの”という意味です。それは、パラマ イーシュワラ、すなわち、パラメーシュワラの意味でもあります。そこには何の違いもありません。アッラーとパラメーシュワラは一つです。神は自らをこのヴィシュワ〔一切/全宇宙〕として顕したのです」

14通の奇跡
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 コルブの頭は喜びで真っ白になりました。それから、ババは彼をインタビュールームへと呼び入れました。自分の守護神と初めて二人っきりになり、コルブは泣き崩れました。バガヴァンは早速、彼との親密な関係を築いて言いました。

 「楽に座りなさい。そして、泣くのはやめなさい。私がここにいるのに、なぜ恐れるのですか! あなたはアブドゥル――私のアブドゥル、そして、私はあなたのラザークです。あなたにはそれがよく分かっていますね」

 ババから与えられた2度目のインタビューはその翌日で、それはコルブの人生の節目となりました。コルブが詳しく語っています。

 

 「ババは私といっしょに9人の外国人をインタビュールームにお呼びになりました。そこでいくつか霊的な話題について語られた後、彼は私だけさらに奥の部屋にお呼びになりました。ババはおっしゃいました。

 『あなたが私のことを信じているのは分かっています。ですがあなたは、私の物質を創造する力は信じていません。そうではありませんか?』

 

 その問いかけに私は唖然としました。過去5年ずっと私の心の中に隠していた疑念を、ババは明らかにしたのです。ババご自身がその話題を取り上げられたことで、私は嬉しくなりました。私は『お許しください、ババ。あなたが言われたことは本当です』と言いました。

 

 ババはとても優しくおっしゃいました。

 『あなたが私の物質化する力を信じていないのは、嘘偽りのない気持ちです。私はあなたの率直さが好きですし、あなたを愛しています。あなたがどんなことでもあたり前だと決めてかからないのは良いことです。さあ、どんな物でも私に願ってごらんなさい、今ここでそれをあなたにあげましょう! ゆっくり考えて、あなたが望む物を、どんな物でもいいから言ってごらんなさい』

 しばらく考えた後、ババの帰依者にイスラム教徒があまりいないことがわかったので、こうお願いすることに決めました。

 『ババ、どうか、その中にこの全宇宙が入っている物、しかも私の宗教のシンボルが刻まれている物をいただきたいです!』

 

 ババは優しく微笑んで、おっしゃいました。

 『アブドゥル、あなたは私に不可能な要求をしたと思っていますか?』

 

 私は黙ってじっとババを見つめていました。

 ババはご自分の手のひらを見せながら、こうおっしゃいました。

 『私の手のひらをご覧なさい。何か見えますか? 手のひらにも甲にも何もありません。それはあなた自身で確かめられますね』

 ババは上に向けていた手のひらを下に返しました。ローブの袖は肘の上までまくられていました。私はあえてババの手に触れようとはしませんでした。けれど、ババは私の手を無理やりつかんで、ババの手のひらと手の甲に持っていきました。それから、ババは言いました。

 『アブドゥル、しばらく私の手のひらの真ん中を見ていなさい』

 私がじっとババの手の平を見ていると、数秒のうちに手のひらの真ん中の皮膚が開いて、そこから丸い大きな物が出てくるのが見えました。すぐに皮膚は元どおりになり、そこには輝く指輪があって、それが床に落ちました。

 

 ババは私におっしゃいました。

 『それを拾って、よく注意して見てみなさい。それから、それを私に手渡しなさい』

 

 私はそれをよくよく注意して調べました。金に三日月と星が刻まれていました。私はそれをババの手のひらの上に戻して置いて、『ババ、私にはこの指輪について何も理解できません。どうか説明してください』と尋ねました。

 

 ババは笑っておっしゃいました。

 『あなたはムスリム〔イスラム教徒〕として生まれただけで、イスラムについては何も知りませんね!』

 

 それは本当でした。私は自分の宗教のことをあまり知らなかったのです。しかも、私は実は宗教的な人間でもありませんでした。ババは説明してくださいました。

 『私はこの金の指輪をナヴァラトナ〔九つの宝石:ルビー・真珠・赤珊瑚・エメラルド・イエローサファイヤ・ダイヤモンド・ブルーサファイヤ・ヘソナイト・猫目石〕が埋め込まれたアシュタコーナ〔八角形〕のものにしました。どちらも宇宙を表しています。ナヴァラトナの中央に、イスラムのシンボルである三日月と星を緑色のエメラルドで配しました。これらの緑の石もあなたの宗教を表しています。さあ、この指輪をあなたの左手の薬指にはめてあげましょう。というのも、あなたの右手の指は傷ついていますから』

 

 私は驚いて、傷ついている右手の指を見ました。ババはその重くてきらきら光る指輪を私の指にそっとはめてくれました。ぴったりでした。外の部屋に戻ると、ババはそこで待っていた外国人たちに、その指輪のことや、私が信じていなかったことを語り、それから、『彼はnaughty-knottyな帰依者です!』とたしなめました。〔naughty(ノーティ)は“言うことを聞かない、手に負えない”、knotty(ノッティ)はババがおそらくknot(ノット/結び目)という語から作った造語で、“入り組んでいて複雑な”といった意味だと思われる〕

 

 私は知らなかったのですが、マンディルから出た後、その指輪を見たアメリカ人のイスラム教徒の帰依者が言うことには、ババは緑のエメラルドの石の真ん中に ‘アッラー’とアラビア語で刻んでおられたのでした!」

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​第 58 回

 きわめて興味を引き、かつ効果的な例え話は、どの師の教えの中でも重要な部分です。ババは熟練の語り手です。ババの例え話を聞くのはとても愉快で、有意義です。同じ話でも、ババの口から別の機会に語られると、ババがいつも新しい見方やバリエーションを加えられるために、新しく、違った風に聞こえます。そうしたババの「チンナ・カター」〔小話〕の数々は、とても心を引きつけられる読み物となります。

 

 上辺だけの学識や単に口達者なだけでは、神の恩寵を得る助けにはなりません。神に対する子供のように純真な信仰心があるならば、驚くべき果報を手にするでしょう。1982年1月23日、マドラスでの御講話において、バガヴァンはこのことについて適切な例え話を使って説明なさっています。

 

 「あるとき、バーガヴァタムに精通している偉大な学者が、ブリンダーヴァンの牧童たちの幼子クリシュナへの信愛を称賛していました。聴衆の中に一人の泥棒がいて、宝石を身に着けた美しいクリシュナという描写に引き付けられました。泥棒は幼子クリシュナが身に着けている宝飾品を盗みたいという衝動に駆られました! 講話が終わると、泥棒はその学者に近づいて、どこに行けばクリシュナに会えるのかと尋ねました。学者は幾分そっけなく答えました。『ブリンダーヴァンだよ。ヤムナー川の土手の上だ。夜にね』

 泥棒はすぐにそこへ行きました。すると、主がたくさんのきらびやかな宝石を身に着けた12才の少年の姿で泥棒の前に現れました。けれど、それほどに愛らしい者から一体どうやって宝石を奪うことなどできるでしょう? 泥棒は何時間もの間、法悦に我を忘れてその姿を眺めていました。宝石を欲しいとは思わず、欲しがったことを恥じました。しかし、クリシュナは彼が宝石を欲しがっていたことを知っていました。クリシュナは、自分が身に着けていた宝石を一つひとつ外して驚いている泥棒に手渡し、消えてしまいました!」

 

 またある時には、ババは第二次世界大戦の歴史のページから、信じる心の力を示す、ある興味深い実話を語られています。

 

 「第二次世界大戦中、インドの兵士たちを運んでいた蒸気船が日本軍によって爆撃され、沈められました。多くの兵士が命を落としました。わずかに五人だけが生き残り、波がうねり寄せる海の中、何とか陸にたどり着きたいという希望を胸に、ライフボートを漕いでいました。彼らは何時間も海の波に揉まれていました。

 ある者は絶望的になり、叫び出しました。『海に飲み込まれそうだ。サメの餌にされてしまう』パニックに陥ったその兵士は、海へ落ちてしまいました。

 別の兵士は、『家族が悲惨な目に合うと思うと心配でたまらない。俺は家族の将来のために何もしてやれないまま死んでいくんだ』と、嘆き悲しみました。彼も信じる心を失い、恐怖心に負けてしまいました。

 三人目の男が言いました。『ああ! 俺の生命保険の証書は俺が持ったままだ。俺は死にかけているのに、妻はどうやってお金を受け取れるのだろう?』

 そして、彼も海に飲み込まれてしまいました。

 

 他の二人は互いに神への信心をより強固なものにしました。二人は言いました。『俺たちは恐怖に負けはしない。神の全能と慈悲を信じる心を捨てたりしない』

 二人は水漏れしているボートを捨てなければなりませんでした。それでも、あきらめませんでした。二人は海岸に向かって泳ぎはじめました。数分すると、湾岸船から送られた一機のヘリコプターがやって来ました。湾岸船は沈みかけた汽船から信号を受信していたのです。ヘリは二人を見つけて安全な所へ運びました。後に、二人は互いに言い合いました。『たった五分が生死を分けた!』

 二人に勝利をもたらしたのは信心です。信心が欠けていたために、他の三人には敗北と死がもたらされたのでした」

 

 すべての仕事は神の仕事だと信じるべきです。その信心は、私たちの仕事を礼拝へと変えるだけでなく、どんな仕事に力を尽くそうが、私たちの最高の能力を引き出してくれます。バガヴァンはこの真理を、ムガール帝国の偉大な皇帝アクバルの生涯から、興味深い出来事を引き合いに出して説明してくださいました。

 

 「ある夜のこと、アクバルは宮廷音楽家のターンセンを連れて首都を巡回していました。二人は、神を讃える歌を口ずさんでいる老人に出くわしました。アクバルは馬車を止めてその見知らぬ老人の歌に聞き入りました。その歌は心の琴線に触れ、アクバルを感動させました。時間は止まり、目から涙が流れていました。歌が止み、アクバルは夢から覚めたかのように思いました。アクバルはターンセンに、当代、誰が最高の歌い手だと思うかと尋ねました。

 『私は長い間そなたの歌を聞いてきたが、それらは間違いなく、耳に心地よく、心が癒されるものだ。だが、この老人が歌うと、私は天上の至福のような歓喜へと導かれ、私の魂は純粋な喜びという天国へと舞い上がるのだ。そなたの音楽では、このようなことは一度も起こらなかった。どうしてなのか私には理解できない!』

 ターンセンはうやうやしく答えました。

 『陛下! 私はあなたを喜ばせようと歌ってきました。けれど、この帰依者は神を喜ばせようと歌っているのです。それがすべての違いです!』

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クリシュナの物語を語るサイ クリシュナ

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神に捧げられた音楽は私たちの魂を揺さぶって神のもとへと引き上げる

​第 57 回

 バガヴァンは、深遠で崇高で真理の数々を、聞き手の心をつかむ例を挙げて理解させてくださいます。「カルマとダルマとブラフマン」は、インド哲学においておおいに論じられているテーマです。カルマとは、この世での日常的な行為のことです。ダルマは、私たちの行為を制御する規範を定めるものです。ブラフマンは、人の生涯における究極の目標です。バガヴァンは、これら三者の間の関係を主婦の日常生活の中から簡単な例を挙げて分かりやすく語っておられます。

 「家庭で作るココナッツのチャツネには、塩、唐辛子、タマリンド、ナッツという四つの材料が要ります。これらをすべて、必要な量、清潔で純正のものを調達することが、カルマ、すなわち行いの道です。それらを混ぜて潰してペースト状にすることもカルマであり、行いの道の一部です。次に、それをほんの少し舌の上に載せ、正当なチャツネの味がするかどうかを調べます。これがダルマの道です。もしほんの少し塩をかければ正当な味になるとわかったら、この段階で塩を加えます。反対に、塩気が多いとわかったら、塩を加えていないペーストをいくらか混ぜて、ちょうどいい塩加減になるまで加えます。すると、あなたはその報酬として喜びを得ます。これは喜びの段階、満足の段階であり、欲望の終焉、ブラフマンです。行動し、微調整をし、崇める――これが清らかな意識を手に入れるための方法です」

 

 神性は宇宙に内在しています。「おお、パールタ〔クンティーの子アルジュナ〕よ! 我は存在するすべてに内在するいにしえの種子であることを知れ」と、主はバガヴァド・ギーターの中で明言なさっています。ババは分かりやすい例を用いてそれを説明なさっています。

 「一粒の小さな種を撒いたとします。その種は大木へと成長します。木は何千もの実をつけ、その実の一つひとつには木の種が入っています。たとえそうであっても、この大宇宙に神性という種が植えられたとき、私たちは人間性という木がつける実の中に入っている神性という種を探し出す必要があります。木の実には種が入っていて、その種から木が成長するように、この宇宙は創造主の種を含有しているのです。ウパニシャッドにはこうあります。イーシャーヴァースヤム イダム サルヴァム(主はすべての生きものに宿っている)。人が自分の人間的性質を敬い、自分にある神の性質を見出すという義務を自覚するなら、人の内なる神は顕現するでしょう」

 

 バガヴァンによると、神が本体であり、世界はその影です。ババはおっしゃいます。

 「たくさんの実をつけたココナツの木を想像してごらんなさい。木は地面に長い影を落とします。その木に登って実をもぎとると、その人の影も同じように実をもぎとります。ですが、もし影の実だけに手を置いたとしたら、何も手に入れることはできません。もし神を知ろうと努力して、それに成功すれば、その人はこの世でも勝利するのです」

 

 カルマ、バクティ(信愛)、グニャーナ(英知)という三つの道は、真我顕現という同じ目的地へと導いてくれます。旅路の形態が少し違うかもしれないだけです。この主旨を説明するために、ババはこれら三つの道を、同じ目的地へ向かう列車の旅の三つのタイプに例えておられます。カルマ・ヨーガは、目的地に着くのに乗客は途中で列車を降りて2回か3回乗り換えが必要な旅です。バクティ・ヨーガは、乗客を乗せている客車が連絡駅で切り離されて別の列車に繋がれるような旅で、乗客は降りる必要はありません。グニャーナ・ヨーガは、出発地から目的地まで一本の直通列車で旅をするようなものです。バガヴァンは、これを少し変えた例も挙げておられます。

  「カルマ・ヨーガは歩いて旅をするようなもの、バクティ・ヨーガは牛車に乗って旅をするようなもの、グニャーナ・ヨーガは飛行機で旅をするようなものです」

 

 瞑想についてはバガヴァンはこうおっしゃっています。

 「多くの人々が、ディヤーナ(瞑想)はエーカーグラター(集中)と同じであると誤って考えています。瞑想は五感を超えた所で行われるプロセスであるのに対して、集中は五感のレベルでのプロセスです。両者の間には、チンタナ(黙想)と呼ばれる境界域があります」

 

 ババは分かりやすく説明なさっています。

 「バラの植木には、枝や葉っぱ、花やとげが付いています。とげで怪我をしないでバラを摘むには集中が必要です。そうして摘んだバラを手に取って、あなたはその美しさや香りを楽しみます。それは黙想に例えることができます。最終的に、あなたはそのバラを、愛を込めて神に捧げます。それが瞑想です」

 

 ババは、心(マインド)は人の輪廻と解脱の両方を招くとおっしゃっています。ですから、心をコントロールすることが霊性の道を行く鍵となるのです。では、私たちはどうやって心をコントロールすればよいのでしょうか? バガヴァンははっきりと説明なさっています。

 「マインドは熊蜂のようなものです。熊蜂は確かにとても強力で、最も固い木にさえ容易に穴を開けることができます。それほど強力な蜂でも、夕方、蓮の花の蜜を吸っている最中に花が閉じていくと、その柔らかな花の中に閉じ込められてしまいます。それと同じように、心はさまざまな手を使っていたずらをしかけ、休む間もなくあちこち飛び回っていますが、心が思いを神に定めると、さまよう力を失ってしまうのです」

このように、唯一、神への信愛だけが、心をコントロールする助けとなり得るのです。

 

 私たちがこの世の日常的な活動にいそしんでいるとき、世俗的なものへの執着や渇望によって汚されないままでいることは可能なのでしょうか? ババは、それは可能だと断言なさっています。1983年6月16日、シュリ・サティヤ・サイ高等教育機関の学生に向けたお話の中で、ババは学生たちに強くお求めになりました。

 「親愛なる学生諸君! 時は計り知れないほど貴重です。人の生涯において、学生時代は最も貴重で、神聖なものです。あなた方はそれを最大限に活用すべきです。水と混じり合ったミルクは、どれほど懸命に分離させようとしても、元あった純粋さを取り戻すことはできません。ですが、ミルクをバターに変えてしまえば、水と接触しても影響されることはなくなります。バターは水の上に浮かび、その独自の性質を保つでしょう。サムサーラ(世俗的な欲望や執着心)は水のようなものです。人の心(マインド)はミルクのようなものです。その清らかで神聖な、汚れなき心が世俗的な欲望と混じり合ってしまうと、元々の清らかさを取り戻すのは困難です。ですが、学生期という神聖な時期に、汚されていないあなたの心から、知識と英知と正しい行いというバターを取り出せたなら、たとえあなたが世の中にいたとしても、それらによって汚されることはないでしょう」

 

 最高の英知を獲得するには、肉体やエゴ〔我執〕と自分との同一視を取り除かなければなりません。それはどうやったらできるのでしょうか? バガヴァンはぴったりの比喩を使ってこの質問に答えてくださっています。

 「体におできができたら、軟膏を塗って、おできが治るまで絆創膏で覆います。もし軟膏を塗らずに絆創膏だけをしたら、感染症を引き起こして、ひどい目に合うかもしれません。おできは、きれいな水で洗って、こまめに傷口の手当てをすることも必要です。それと同じように、人生においては、私たちの人格にエゴという形をとったおできができます。このエゴというおできを治すには、純粋な愛という水で毎日洗い、その上に信仰という軟膏を塗って、謙虚さという絆創膏を貼らなければなりません。そうしなければ、あなたはその痛みや苦しみから逃れることはできないのです」

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​第 56 回

 人類を「肉体による暴政」から「魂の解放」へと救い出すためにこの世に降臨された、神なる導師の最も確かな証しの一つは、最高の真理を最も単純な形にする、という驚くべき手腕にあります。神の比類なき英知は、明らかに矛盾した求道者たちのアプローチを統合し、究極のゴールへといざないます。この見事な超人的巧みさには、現代の一般人の日常生活から適切な例を上げて崇高な原理を理解させる、ぴったりの比喩を使って要点を具体的に説明することですべての人の注意を引き付ける、人生を支配している深遠な法則を語呂合わせや言葉遊びを用いて認識させる、といった能力が含まれています。そうすることで、自然とインスピレーションが湧き上がり、知性的認識と直感的体験との間にある大きな隔たりに橋を架けるようにして、古代の経典といったものに新しい光を投げかけるのです。

 

 導師のこうした教えは、まさしくハートの中から、そして、すべての英知の根源から生まれたものであり、それゆえ、すべての人のハートの中にすんなりと入っていきます。それらは、単純で理解しやすく、容易に実践できるものです。もし私たちがそれらを真剣に実践するなら、必ずや人生の究極のゴールに到達できるでしょう。愛に満たされた蜜のような言葉に耳を傾けていると、学者も無学の人も、ほっと安心した気持ちになります。言葉といっしょに喜びと平安が聞き手のハートにもたらされるのです。

 

 この章では、本書で扱っている時期にバガヴァン・ババがなされた御講話の内容、手法、要旨、表現方法について、考察を加えたいと思います。1980年から1982年までの最初の三年間の主要なテーマは、教育でした。1980年にはプラシャーンティ・ニラヤムにカレッジが創設され、1981年には大学が開設されました。1983年には、すべての宗教は一つであること、人として生まれたことの特別な意味、そして、アヴァターの意義といったことにアクセントが置かれました。1984年になされた御講話では、人が自らを変容させて、自らの由来が神であることを理解し、自らが神としての運命を悟るようにと、バガヴァンが強く勧めておられるのが分かります。1985年の主な焦点は、セヴァ(奉仕)とサーダナ(霊性修行)に置かれていました。シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの第四回世界大会は、その年、ババの60歳の御降誕祭に合わせて行われました。もちろん、ババのメッセージの底に流れているものは、いつものように、「人の霊的な変容と社会の福祉」でした。

 

 バガヴァンは、ヴェーダーンタ哲学の最高の真理の数々を、非常に単純な言葉で表現していらっしゃいます。バガヴァンの「ブラマ――幻想――が消え去るとき、ブラフマン――神――に到達する」という言葉は、ヴェーダーンタの真髄を表しています。人の生涯の最高のゴールは、ブラフマンに到達することです。それによってのみ、人は永遠の至福を手にすることができ、すべての悲しみと苦しみに終止符を打つことができるのです。

 「サルヴァム カルヴィダム ブランマー」

――存在するものすべてはブラフマンのみである。

 しかし、人は、マインド(頭、思考)によってもたらされた肉体意識すなわちエゴというブラマ(幻想)のせいで、多様性や違いを見ます。これと同じ真理が、バガヴァンによって別の単純な形で語られています。

 「霊的な数学においては、3-1=1なのです!」
 

 ここでバガヴァンが語っておられるのは、パラマートマ――神、プラクリティ――自然、ジーヴァートマ――個々の魂、の三位一体についてです。プラクリティは鏡であり、パラマートマは対象物、ジーヴァトマ(個我)はその映しです。鏡を取り除けば、そこに残るのは本体のみです。映っていたものは鏡の消滅とともに消えてしまいます。肉体意識によって生じたプラクリティという幻影が取り除かれたとき、すなわち、マインドが消滅したとき、ジーヴァートマはパラマートマとなるのです。

 

 幻想を取り除く方法は何でしょうか?バガヴァンはおっしゃいます。

 「ドリシティ――見る目が、プレーママヤムとなるとき、スリシティ――創造物――は、ブラフママヤムとなります。」

 

 愛の眼鏡を通して世界を見ると、あなたは神のみを見るでしょう。このように、愛は万能薬です。さらに、ババはサーダナのエッセンスを次のように簡潔に述べられています。

 

信あるところには愛あり。

愛があるところには平安あり。

平安があるところには真実あり。

真実があるところには至福あり。

至福があるところには神あり。

 

 すべての価値の源である根本的な価値は、愛です。バガヴァンはこう宣言なさっています。

 

語る愛は真実。

行う愛は正義。

感じる愛は平安。

理解する愛は非暴力。

 

 霊的な道における成功の基本的な必要条件と何でしょうか?

 「不道徳な行いをやめることが、不死への唯一の方法です。」

とババはおっしゃっています。純粋なハートと非の打ちどころのない人格が、霊的な生活の基本となります。同様に、ババは簡潔にこう述べられています。

 「チッタシュッディがグニャーナシッディへと導く。」

 つまり、マインド(心)の純粋さが霊的英知へと導くのです。では、マインドの清らかさはどうやって手に入れたらよいのでしょうか? ババによれば、

 「チッタ シュッディはニシカーマカルマ〔離欲の行為〕によって得ることができる。」

 つまり、無私の奉仕こそが、世俗的な欲望や執着心という不純さを取り除いて、マインドをきれいにすることができるということです。ゆえに、バガヴァンはこうおっしゃっています。

 

 「セヴァサーダナ(奉仕という修行)は最高のタパス(苦行)です。」

 ババが簡略に述べられた次の言葉の中に、霊性の道の土台となっている真髄を見ることができます。

 「行いは、愛を込めて神に捧げられると、礼拝へと変わります。礼拝としてなされた行いは、英知へとつながります」

 

 すなわち、霊性の道の第一歩は、神への信仰と愛なのです。次の一歩は、人類同胞への無私の奉仕です。

 

 世界が抱えている数々の問題へのバガヴァンの解決策は、実に単純です。世界の福祉への鍵となるのは、個々人の変容です。バガヴァンによれば、

 「ハートに正義があれば、人格に美しさがもたらされます。人格に美しさがあれば、家庭に和がもたらされます。家庭に調和があれば国家に秩序がもたらされます。国家に秩序がもたらされれば、世界が平和になります。」

 個々人の不正は社会不安を作り出します。では、人々のハートにしっかりと正義を据え付けるにはどうしたらよいのでしょうか? ババは宣言なさっています。

 「神への信心を欠いた人間社会は、獣たちのジャングルへと退化しました。」

 正しき人間社会は、人が霊的に変容して初めて繁栄することができるのです。

人々のハートの霊的な変容はどのようにして始まるのでしょうか? バガヴァンはこう答えておられます。

 「主に従い(Follow)、悪魔に立ち向かい(Face)、最後まで戦い(Fight)、ゲームを終わらせなさい(Finish)。」

 これら四つのF(従うFollow・立ち向かうFace・Fight戦う・Finish終わらせる)に添って道を行くことで、人々のハートの中に隠れている主を、無知という偽りの覆いから解き放つことができるのです。生活の中で戦い続けるというのは、内なる主の声である良心の呼びかけに応えて五感の罠から目をそむける、というマインドの戦いのことです。ババはおっしゃいます。

 「インドリヤ(五感)に従う人は、パシュすなわち動物になります。ブッディ(知性)に従う人は、パシュパティ(動物の主)すなわち神となります。」

 この戦いをするために、社会から離れて森へ入る必要はありません。その解決策をバガヴァンは独特のスタイルで述べておられます。

 「頭は森の中に、手は社会の中に!――両手を使って社会で働きなさい。けれども、頭は神に定めていなさい。」

 

 ですから、人のハートにおわす神を信じることが、幸福な世界の土台なのです。

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​第 55 回

 23日、朝日が昇ると、ヒル・ビュー・スタジアムは、四方八方から人が流れ込んでいく、人の海のように見えました。至る所に人がいて、誰もがその輝かしい朝にアヴァターを一目見ようと固唾を呑んで待っていましたが、太陽は雲に覆われていて、雲の背後に身を隠し、式典が終わるまでずっと一度も姿を現すことはありませんでした。その涼しくて心地よい天候が、プラシャーンティ・ニラヤムに集まった50万人の帰依者たちの内なる喜びに期待を添えました。そうした幸運な人々の何人かにその朝のことを聞いてみることにしましょう。

 

 マンディルからスタジアムへと続く行進の列では、バガヴァンの学校から来た約60名の男子学生が、バガヴァンのチャリオット(二輪馬車)の前を行くバングラとナーガの踊り手として参加するという特権を与えられました。彼らの喜びに満ちた体験は次のようなものでした。

 

 「私たちは朝5時にマンディルへ行って、衣装を着け、化粧をしました。行進は7時半に始まることになっていました。バガヴァンがインタビュールームから午前6時45分に出てこられたときには、私たちはバジャン・ホールにいました。私たちはスワミがホールに入ってこられるのを見てわくわくしました。おそらく私たちは、その極めて大きな意義のある日にスワミのダルシャンを受けられる最初の者たちだったと思います。スワミは私たち全員をじっと見つめて、喜んでおられるようでした。スワミは、何人かの男子生徒たちの頭飾りを、もっとよく見えるように直してくださいました。そして私たちに、『少年たち、朝食は食べましたか?』とお尋ねになりました。私たちはまだ朝食をとっていなかったのですが、本当のことを言ったらスワミは悲しむと分かっていたので黙っていました。

 ババは微笑んで言いました。

 『分かっています、分かっていますよ! 君たちはまだ何も食べていませんね。それでどうやってダンスを踊って、式典の最後まで体をもたせるつもりですか? 終わるのはだいぶ遅い時間になるでしょう。心配いりません。私が君たちに朝食を用意しましょう』

 スワミはボランティアを数人呼ぶと、朝食を持って来るようにとおっしゃいました。私たちは母親のようなスワミの気づかいにとても感激し、涙を流す者もいました。それが、スワミの60歳の御降誕祭で、スワミが最初になされたことでした。朝食が出されると、すぐにスワミはホールを出て行かれました。私たちが行進でスワミのチャリオットの前で踊ることができたのは、大いなる幸運でした。行進を終えた後に疲れを感じた学生は一人もいませんでした。反対に、終わってしまったことが悲しく思えたくらいでした!」

 マイソール出身のナーマギリアンマ夫人はバガヴァンの古くからの帰依者でした。彼女はプッタパルティの「旧マンディル」に何年も住んでいました。バガヴァンの60歳の御降誕祭が終わった後、彼女はこのように言いました。

 

 「1950年以前の『旧マンディル』時代には、スワミは私たちだけのものでした。スワミはいつも私たちと共に過ごしていました。時には、ただ楽しく、はしゃいでいただけのこともありました。そんなある日のこと、スワミがサカンマ夫人と私におっしゃいました。

 『私の60歳の誕生日には、何十万という帰依者たちがこの村にいることでしょう。そのころには、私は自分の大学を持っており、白馬に牽かれた黄金のチャリオットに乗って行進をしているでしょう!』

 そのとき、スワミはとても真剣なご様子でした。

 当時、スワミの周りには100人もいないくらいでした。私たちは二人ともスワミは冗談を言っておられるのだと思い、笑い出さずにはいられませんでした。スワミは私たちに真面目な口調でおっしゃいました。

 『私の言うことを信じていないようだね! サカンマはそれを見るころにはいないでしょう』

それから、私のほうを向いておっしゃいました。

 『でも、あなたは見ることになります! ですが、その時には、これほど私の近くにいることはないでしょう!』

 スワミがそうおっしゃったのは40年も前のことですが、今日、それが実現したのだと言わざるを得ません! 23日の朝、私はスワミを一目見ようと、巨大な群衆の中、ガネーシャ ゲートの外の道路際に立っていました。遠くからスワミのチャリオットが見えたとき、あの予言めいた言葉が思い出されて涙が出ました。スワミは私を見過ごすことなく、チャリオットが私のそばを通り過ぎる時、意味ありげに微笑んでおられました。スワミは私に

 『ごらん、あの時あなたは私の言ったことを信じていなかったね!』

とおっしゃっているような気がしました。今日、生きてスワミの栄光を見ることができ本当にうれしい限りです!」

 

 ナイポール・スクデオ氏は、トリニダード・トバゴ共和国から世界大会の代表として、1985年の11月に初めてプラシャーンティ・ニラヤムへやって来ました。もちろん、彼は長年の間バガヴァンの帰依者でしたし、自国でたくさんのリーラーを目にしていました。彼は23日にスタジアムで見たことを語ってくれました。

 

 「バガヴァンは黄金のチャリオットに乗ってスタジアムに現れました。クルクシェートラの戦場でシュリ・クリシュナによって操られたのと同じ、その昔ながらの形を模したチャリオットは、立派な四頭の白馬に牽かれていました。チャリオットは、ナーダスワラム隊、学生たちの楽団、華麗な衣装を着けた踊り手たちに続いて、壮大な行列の中を進んで来ました。チャリオットが私たちのそばを通り過ぎるとき、私は思わず、『これこそ、カリ・ユガのアヴァターだ!』と声を上げていました。私たちははっきりと、甘く微笑むババの顔を見ることができました。ババの黄金色のお顔は、冠のような黒いいカーリーヘアと、百合のように白い歯とのコントラストで、純然たる光輝を発していました。ババの両手は高く掲げられて振られ、巨大な群衆を祝福していました。

 私は自分の目で神を見ていました! ババは私のラーマであり、クリシュナであり、シヴァ、ドゥルガー、イエス、アラー、私のすべてでした! スワミが美しい装飾を施されたシャーンティ・ヴェーディカの演壇に上がられると、何十万という帰依者たちが『バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババジ・キ・ジェイ!』と、誕生日を祝って叫びました。その勝利と称賛の声は大空を震わせたかと思われました。急に雲が分厚くなり、空を覆い始めたのです。私たちの多くが、サイクロンに関する天気予報を思い出しました。それはアーンドラ・プラデーシュ州の沿岸を横断するという予報で、この地域に大雨をもたらすというものでした。ですが、神様がおられるというのに何を恐れることがありましょうか? 小雨さえ降りませんでした。それどころか、雲は太陽を遮ってくれる喜ばしい覆いとなったのでした!

 バガヴァンは、その御降誕祭の御講話で、サイクロンの不思議な消滅についても言及しました。バガヴァンは次のように明かされました。

 

 『まさに祭典が始まろうとしていたとき、カストゥーリがラジオで聞いたことを私に何度も言ってきました。サイクロンが沿岸地域を横断しようとしており、ネッローレやオンゴールにやって来ること、そして、ラヤラシーマ地方にも大雨を降らせる、と。ですが、そうはなりませんでした。どうしてもこの日この場所にいたいという人々の信愛が、サイクロンを追い払う楯となったのです。もしサイクロンが来ていたら、帰依者たちは大変な目に合っていたことでしょう。彼らの帰依心が私の心の琴線に触れ、私は決して彼らが不都合な目に合うことはないと意志しました。私はバターのように柔らかいハートを持っていますが、バターを溶かすにはバターを温める必要があります。あなた方の帰依心がその温かさでした。サイクロンはいったいどこへ行ってしまったのか、まだ誰も発表していません! いったい誰がこのような奇跡を予測することができたでしょうか?』

 

 言うまでもなく、明らかにされたこの事実は、とどろきのような歓声で迎えられました。『サイ・サンカルパ』(サイの意志)の驚くべき力を明かし、いつ何時も帰依者たちを完全に守ることを保証してくださった御降誕祭のメッセージは、私たちの存在をより高く、至福に満ちたレベルへと高めてくれました。

 仲間の帰依者や代表たちと一緒に座っていたとき、私は、カリ・アヴァターラ(カリユガの時代の神の化身)としてのサイの降臨の60回目の祝典にその御足のもとにいるなんて、私たちはなんと幸運なのだろう! と驚異の念を抱かずにはいられませんでした」

 

 御降誕祭での画期的な御講話は90分に及び、バガヴァンは人と神との間にある必要不可欠な関係について説き、帰依者たちの多くの疑念を晴らしてくださいました。人類への限りない愛を込めて、バガヴァンははっきりと、いかに「サイ・サンカルパ」がこの世のために働いているのかということを明らかにし、また、無私の愛、普遍的な愛という最高の宝を有しているがゆえに、バガヴァンはこの世で最も裕福な者であることを明言なさいました。バガヴァンの歴史的な御講話の中からいくつか抜粋してみましょう。

 

 「神こそが唯一、人の生命を――その基盤、その構造、その完成を――維持している者です。お金は、人が神聖さを育てて源である神に融合するのを助けることはできません。学識も同様に無力です。人にできる唯一の方法は、切なる思いや必死な努力を神へと向けることによって、探究心を深めることです。切なる思いが研ぎ澄まされればされるほど、深くなればなるほど、それは人が感覚の領域や、理性の脆弱な力を超え、星々や宇宙空間を超えて、限りない至福の大海へと深く潜る助けとなります。反対に、もし、切なる思いがこの世の欲望や気を散らすものへと向かっていくなら、それは人を奈落の底へと突き落とすでしょう。この運命から逃れる一番の方法は、善良な人々や神聖な人々の仲間の中へ避難して、彼らと共に旅路を歩むことです」

 

 「人は自分を維持してくれている神なしには存在できません。神もまた、自らの存在を知らしめるために人を必要とします。『ナラ』という言葉は『ナーラーヤナ』の概念を伝えています。人はサーダナの強度によって神を自分のイメージどおりに創造し、神はそうなるようにと意志することで自分のイメージどおりに人を創造します。たいていの人は、知性や想像力が乏しいために、主なる神を心に描くことができません。エゴは、サーダナを妨げ、知性を悪用することによって、頑固さや無知を助長します」

 「人は皆、対立する者、すなわち敵と対峙しなければならないのが、この世の習わしです。全世界に一人の敵すら見いだすことができないのは、サイだけです。中には、自分勝手な空想をして私が彼らのことを嫌っていると思う人たちもいます。ですが、私に言わせるなら、私が愛していない人は一人もいません。私にはすべての者が愛おしいのです。今、この世で私ほどの富や財産や宝を持っている人は他にいません。世界銀行でさえ、最も裕福な王でさえも、です。その富や財産や宝とは何でしょう? それは、私の普遍的な無私の愛です。私の全くの私心のなさ、奉仕して救いたいという熱意に満ちた私の慈悲深いハート、平和と繁栄を築き上げようという私の決意、世界に至福の雨を降らせようという私の決心――これらは日を増すごとにどんどん形となって現れつつあり、私はいつも計り知れない至福で満たされています。私は一瞬でさえ不安がよぎることはありません。これらを考えてみるなら、こうした声明をすることができる人が、誰かこの世にいるでしょうか?」

 

 「私が一つのプロジェクトを決めると、資金集めの運動など何もしなくとも、それを成し遂げるために必要な資金はすぐに手に入ります。私の意志には、私の計画を具体化する力があるのです。私はプッタパルティにカレッジができるよう意志しました。すると、ナワナガルのラージャマータ(藩王女)がそれを建てました。しつけの行き届いた学生のいるカレッジを提供するために、私はハイヤー・セコンダリー・スクール(中・高等学校)を設立することを意志しました。すると、アメリカのボッザーニがそれを建てる機会をくださいと懇願してきましたバンガロールで、私がカレッジと学生寮の計画について意志した時には、エルシー・コーワン夫人がそれを完成させる栄誉を与えてほしいと頼んできました。これが、私のサンカルパ(意志)の力です」

 

 「あなた方の規律ある信愛、あなた方の愛、あなた方の不屈の精神は、手本とすべきものです。ここで私が身内を称賛するのは適切なことではありません。西洋人たちは、多くの不快な思いや不便をものともせずに、大勢でやって来ました。それは彼ら一人ひとりにとって、本当のタパス(苦行)です。あなた方は、自分たちをダルマとカルマの英雄的なメッセンジャーへと変えるために、あなた方の毎日と、行いと、知性と、技能を捧げなければなりません」

 

 「私はあなた方に一つ望みがあります。すべての人に対して兄弟感覚を持ちなさい。常に正しい行いを選びなさい。自己中心的な行いをやめなさい。貧しい人たちや虐げられた人のために働くどんな機会も歓迎しなさい」

 

 「60回目の誕生日の祝祭の一環として、私はあなた方にあるテストを処方します。あなた方はそれを受け入れなければなりません。農夫は、畑を耕し、種を蒔き、その作物の成長を穀物が収穫されるまで見守ります。次のプロセスは、それをふるいにかけることです。その時、もみ殻は風に飛ばされ、しっかりとした実だけが残ります。私は今から、ふるいにかけます。このテストで、もみ殻は取り除かれるでしょう」

 「もう一つ明らかにしたいことがあります。ある疑念が広まっていて、それが人々の心に混乱を招いています。それは、60歳の誕生日の後、スワミは一般の人々から遠い存在になる、スワミに変化が生じる、という懸念です。私の天性は変化するようなものではありません。私は決して帰依者たちから自分を遠ざけるようなことはしません。今後、私はより一層、帰依者たちにとって手の届く存在となるでしょう。サティヤ・サイは、サティヤ――真実(真理)です。どうやってサティヤが変わることなどできるでしょうか?」

 

 「サティヤ・サイ・プラブ(主であるサティヤ・サイ)とサティヤ・サイ・セーヴァカ(サティヤ・サイの奉仕者)は、愛と忠誠心によって固く結ばれています。サイはあなた方のために存在しており、あなた方はサイのために存在しているのです。私たちはお互い離れることはできないのです!」

 

 私たちは神が私たちの間で行動しておられる時代に生きている、ということを私たちが忘れることがありませんように! 二千年前にこの地上を歩いておられた救世主について、ハリール・ジブラーン(レバノンの詩人)が次のように書いています。

 

 「私たちは流れゆく川と共に流れ去り、名もなき者となるでしょう。流れの途中で主を磔にした者たちは、神の流れの途中で主を磔にした者として記憶に留められるでしょう!」

 

 私たちは流れの途中で主を磔にした者として人々の記憶に残らないようにしましょう。私たちにとって、そして、後世の人々にとって、この世界をより良い場所にするために、主と手を取り合いましょう。

54

​第 54 回

 バガヴァン・ババの60歳の御降誕祭の後、そのすばらしい祝典の陣頭指揮を執って働いていた者がこう述べました。

 「このように大規模で、また、三年という時を費やして企画された御降誕祭は、世界中、他のどこにも見当たりません。大切なのは、すべての活動が、その大小にかかわらず、サイ・オーガニゼーションによって行われたということです。社会の福祉と幸福を促進するための新しい活動への種子、拡大し続ける神性への信念を支えるための種子が蒔かれました。ババの60歳の御降誕祭をお祝いする際に生まれた情熱は、祝典が終わったからといって消えてしまうものではなく、それどころか、本当の仕事はたった今始まったばかりだというのが、アクティブ・ワーカーたちの心情です。

 この体験から生じた注目すべき教訓は、このような祝典の成功、あるいは成果の本当の指標は、催し物や行われたプログラムの数で計られるべきものではなく、人々の福祉、健康や幸福への貢献の度合い、また、奉仕を捧げたすべての活動における神への愛、信仰の深さという観点から計られるべきです」

 

 1985年11月14日にプラシャーンティ・ニラヤムで始まった10日間の御降誕祭は、それまでの3年間に世界中のサティヤ・サイ・オーガニゼーションで行われていた祭事の頂点を極めるものでした。それは光と歓びの比類なき祭典でした。その10日間にプラシャーンティ・ニラヤムで起こったことは、驚くほどすばらしい奇跡でした。最終日の23日には、少なくとも40万もの人がいました。その全員が、10日の間、日に4度の食事を完全に無料で与えられました。祝典の間に出された食事の数は合計で800万食以上におよびました! さまざまな種類の菜食の料理が作られ、さまざまな国からやって来た人に振る舞われました。巨大な厨房や配膳用の会場で働いたボランティアの数は、男女合わせて2000人を超えていました。集まった大勢の人々のため、祭典を喜びに満ちたものにするために、少なくとも1万人のボランティアが夜を徹して働きました。

 

 その祝典での活動の幅と質は驚くべきものでした。14日から16日まで、シュリ・サティヤ・サイ行政区の村々に医療キャンプが設営されました。そこではインドのあらゆる地域、そして海外の数か国からやって来た数百人の医師が、健康を必要とする何千人という村人たちのために働きました。医療キャンプのうちの10のセンターは、プラシャーンティ・ニラヤムで10日間昼夜問わず開いていました。26日にはナーラーヤナ・セヴァがあり、スタジアムに集まった1万人の貧しい村人に食事が出され、衣服が提供されました。バガヴァンご自身がその幾人かに食事を給仕なさり、衣服を与えて、その奉仕活動を開始なさいました。16日には、60の小屋からなるカラナム・スッバンマ・ナガルと名付けられた居住区がバガヴァン・ババによって開設されました。それは、ババが神であることをプッタパルティ村で最初に悟った信心深い女性を記念したものでした。その居住区の家屋は、それを必要とする、あるいは、それにふさわしい家族に寄贈されました。17日の朝には、マンディルで100人を超えるルットウィック(ヴェーダを唱える僧侶)によるヴェーダの詠唱が始まりました。詠唱は祝典の最後まで続けられました。

 

 バガヴァンは90冊以上もの出版物の封を切られました。それらは、プールナチャンドラ講堂での第四回世界大会の開会式において、ババの60歳の御降誕祭の奉納物として17日の朝、出版されたものです。世界大会の代表者たちは、バガヴァン・ババの大歓迎会を19日の午後にスタジアムで行う計画を立てていました。20年から30年という長年にわたってバガヴァンと行動を共にしてきた帰依者が何人か選ばれ、バガヴァンに祝辞を述べることになりました。その中には、インドのR・P・ラヤニンガル氏、G・K・ダモーダル・ラーオ氏、カマラ・サーラティ女史、A・ムケールジー女史、M・M・ピンゲー氏、シンガポールのウィー・リン氏、日本の津山千鶴子女史、アメリカ合衆国のロバート・ボッザーニ氏、マレーシアのジャガディーサン氏がいました。それと同時に、80歳代の5人の帰依者、N・カストゥーリ博士、N・S・クリシュナッパ氏、B・シーターラーマイアー博士、T・クリシュナンマ女史、コーナンマ女史という、多方面にわたってバガヴァンに仕えてきた人たちも、記念品の栄誉にあずかりました。翌朝、各国からの観衆は、唯一無二のゴーダーン(牛の贈り物)プログラムをスタジアムで目にしました。彼らの主であるサイ・ゴーパーラが60頭の乳牛と、その牛たちから最初に生まれた子牛を60人の幸運な村人たちに直々にお贈りになったのです。

 

 11月22日、シュリ・サティヤ・サイ高等教育機関は、インドで唯一、教育的な目的として近代的なスペースシアターすなわちプラネタリウムを備える大学、という無類の名声を手にしました。その独特な外観をしたスペースシアターは、ババ自らの絶え間ない直接的な指揮の下、記録的な速さで建てられ、その日の朝にオープンしました。午後には、巨大なサティヤ・サイ・ヒル・ビュー・スタジアムで、40万人以上が見守る中、大学の第四回学位授与式が行われました。

 

 どの高等教育機関の年代史にも、これほど大勢の熱烈な参列者の前で、絵のように美しい場で執り行われた授与式はありません。高名な科学者であった、E・C・G・スダルシャン博士が卒業式のスピーチをし、バガヴァンがお祝いのメッセージを述べて、その巨大なコンコースを祝福なさいました。

 

 ヒル・ビュー・スタジアムの「シャーンティ・ヴェーディカ」〔平安の座〕というぴったりの名前を付けられた壮大なステージは、バガヴァンがダルシャンを与え、記念すべき御講話を述べられる演壇としての役割を果たしただけでなく、17日から24日までの8日間におよぶ文化祭のためのステージとしての役割も果たしました。文化プログラムでは、インドの国立団体によって準備された一連の絶妙な民族舞踊やダンス、有名な音楽家たちによるコンサート、それから、バガヴァンの学生たちによる三つの劇が上演されました。11月20日には、アナンタプル大学の女学生たちが、「イーシュワラ サルヴァブーターナーム」〔主はすべての生類に宿っている〕という劇を上演しました。21日と22日には、プラシャーンティ・ニラヤム・キャンパスの男子学生たちによって、テルグ語の劇「ラーダー クリシュナ」と、英語の劇「こちらとあちら」が演じられました。どちらもバガヴァン御自身の監督によるものでした。前月の間中ずっと、ババはこの二つのお芝居の稽古に非常な関心を持っておられ、学生たちに楽曲の演出、対話の仕方、そして、それぞれの役の演じ方まで教えてくださっていました!

 

 23日の午後には、見事に飾り付けられたジューラー(ブランコ)に乗られるバガヴァン、という喜ばしい光景をながめて、帰依者の大集団が自らの目を楽しませている中、プラシャーンティ・ニラヤム・キャンパスの上級生が、この時のために特別にこしらえたテルグ語とヒンディー語と英語の歌を、心を込めて歌いました。

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プラシャーンティ・ニラヤムのプラネタリウムの礎石を据えるババ。
プラネタリウムはそれから一年もかからずに誕生した。

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​無類の建築

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​色彩豊かな文化プログラム

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​色彩豊かな文化プログラム

53

​第 53 回

 1982年に、シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの世界評議会のメンバーは、1985年11月にババの60歳の御降誕祭を世界的な規模で祝う許しを求めてバガヴァン・ババに祈りを捧げました。ババは乗り気ではありませんでしたが、最終的に、その祝典は拡大し続ける奉仕活動の流れの支流という性質を伴ったものであり、帰依者のためにも世界のためにもなるということを認めて、譲歩してくださいました。

 1970年の第4回全インド大会では、シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの主要な目的を明確にするべく、バガヴァン・ババはおっしゃいました。

 「雨粒は、水の流れや川にならないかぎり、自らの源であり目的地でもある海にはたどり着きません。それと同じように、神の帰依者たちはアーナンダ〔至福〕の海の雨粒です。それゆえ、帰依者自身が流れや川となって自らの源へと戻らなければなりません。サティヤ・サイ・セヴァ・オーガニゼーションは、世界のさまざまな所からやって来る帰依者たちを、言語、宗教、カースト、肌の色、国籍など関係なく一つにし、サイのセーヴァカ〔奉仕者〕一人ひとりを神へと戻す、流れです」

 人生の究極のゴールへと皆で共に到達するという概念は、モークシャ〔解脱〕に対する昔ながらの個人主義者的な手法に照らし合わせると、とりわけインドにおいては革命的な概念です。人は、自らの救済を追求する中で、社会のためになることを無視することはできません。この二つは互いに補い合っていますし、手に手を取って進んでいかなければなりません。社会奉仕の霊的な目的が、これほど強調されたことはありませんでした。共に協力して、救済の道を進んでいきなさいという、ババから帰依者たちへの明快な呼びかけは、そのころまだ5歳だったサティヤ・サイ・オーガニゼーションに大きな刺激を与えました。

 それから15年で世界中のオーガニゼーションが驚異的な成長を遂げたことは、1985年11月にプラシャーンティ・ニラヤムで開かれた第4回世界大会ではっきりしました。大会には、46か国から、1万3千人の代表と40万人の帰依者が参加しました。大会のテーマは「国際社会の統合」でした。バガヴァンが14歳で世界に向かって自らの使命を宣言なさった時に人類のハートの中に蒔かれた種が、45年後に巨大な木へと成長を遂げたのです。

 プールナ・チャンドラ講堂の収容人数の限界と、世界大会と御降誕祭に必死で詰めかけてくる大勢の帰依者たちを考慮して、開会式以外のすべての式典はヒル・ビュー・スタジアムで行われました。1984年のセヴァダル大会以来、ずっとバガヴァン自らが、ヒル・ビュー・スタジアムを世界大会と御降誕祭に向けて整えることに強い関心を示してこられました。というのも、予想される何十万人という帰依者をスタジアムだけで収容することができるからです。スタジアムの地ならしや清掃、ステージ「シャーンティ・ヴェーディカ」の建設、丘陵斜面の観覧席の拡張といった、準備に関する詳細の一切をバガヴァンが手ほどきされ、指揮されました。

 40年近くババの側に仕える機会に恵まれ、サイ・ムーブメントが幼い苗木からすべての大陸に根を下ろす力強い世界的な大木へと成長したのを見守ってきたシュリ・N・カストゥーリは、17日の朝、プールナ・チャンドラ講堂に集まった世界大会の代表者たちを迎える際、感極まった、声にならない声で言いました。

 「1968年の第一回世界大会の時、スワミは、アヴァターの呼び声に応じて地球の平和と人類の友好を求めてやって来た群衆に、私は人が神と崇めてきたあらゆる御名と御姿の内にいる、と宣言なさいました。今回は四回目の大会であり、すべての大陸からやって来た莫大な数の代表者たちは、貪欲や傲慢や憎悪という毒に対する唯一の処方箋は愛と奉仕と平静である、というサイのメッセージを何百万という人々が受け入れたことを立証しました。今大会のテーマは『国際社会の統合』です。実に、私たちは、その御心によってすべての人類を一つにすることができるお方の面前にいるのです!」

 1967年から1975年にかけてサティヤ サイ オーガニゼーションの初代全インド会長を務めた、1975年発足の世界評議会の初代委員長は、創設から20年におよぶ世界中のサティヤ・サイ・オーガニゼーションの成長を振り返って、こう宣言しました。

 「この20年で、サティヤ・サイ・オーガニゼーションはバガヴァン・ババの使命のほんの一部でしかないということが明確になりました。ババは、私たちが思いもよらない、ババご自身のやり方で、100におよぶ段階や層で働き続けておられます。サイ・オーガニゼーションはバガヴァン・ババであると見なされますが、逆はそうではありません」

 大会の開会式にあたって、バガヴァンは、無私の奉仕のみがサイを喜ばせると明言なさいました。セヴァは至高のサーダナであると宣言し、バガヴァンはこうおっしゃいました。

 「カルマのゴールはグニャーナ〔英知〕であり、グニャーナにとってカルマは基盤です。実践において二つを組み合わせることが、セヴァ――無私の奉仕です。セヴァより偉大な霊性修行はありません。三界を統べる至高の主、シュリ・クリシュナは、人類の運命を宣言するためにやって来たとき、自ら動物や鳥に仕えました。クリシュナは愛をもって馬や牛に仕えました。クルクシェートラの大戦では、クリシュナは剣を振おうとせず、単なる御者となることに満足しました。そうすることで、クリシュナは無私の奉仕の理想を示して見せたのです。

 サイの哲学は、部屋の片隅に座って息を整え、『ソーハム! ソーハム!』と唱え続けるよう帰依者を鼓舞するためにあるのではありません。『ああ、サーダカよ! 立ち上がりなさい! 気を引き締めて! 社会奉仕に身を投じるのです!』――これがサイのメッセージです。五感を制して、社会奉仕に没頭すべきです。セヴァのない人生は、闇に覆われた寺院と同じです。そこは悪霊たちの住みかです。セヴァの光だけが、霊性の求道者を明るく照らすことができるのです。

 あなた方はここに、世界中の遠い所から、多額の費用をかけて、大変な思いをしてやって来ました。やって来たからには、善い考えや気高い思いを吸収するよう努力すべきです。そうすれば、自分は人の模範となるような人生を送るのだ、人生を崇高なものにしてくれる価値のある行いに従事するのだ、という決意を携えて帰途に就くことができます。これは私からあなた方皆への祝福の言葉です」

 御講話を終えるに当たって、バガヴァンはこうアドバイスなさいました。

 「おしまいに、あなた方に二つの指示を与えたいと思います。それは、あなた方にこの大会の意義を理解させてくれるでしょう。一つは、『自分が人に説くことを自分が実行していること』、もう一つは、『自分が実行していないことを人に説かないこと』です。もし、あなたが何かを語り、それを自分で実行していないなら、それはペテンです。もし、自分が語っていることを実行しているならば、それは偉大さを示すものとなります!」

 その後の三日間、参加者たちは、国際社会の統合を促すという目標にのっとってサイ・オーガニゼーションの活動をさまざまな側面から考えるために、いくつかの分科会に分かれました。分科会では、霊性修行、人間的価値教育、バルヴィカス、セヴァダル、地方の発展、慈善トラストや財団の設立といったテーマについてじっくりと話し合いがなされました。

 

 大会の閉会式は、21日の朝、ヒル・ビュー・スタジアムで行われました。世界評議会のメンバーである合衆国の博士が、歓迎の挨拶で、世界中の帰依者すべての大望をバガヴァンに提起しました。

 「親愛なるバガヴァン、数多くの遥かなる地、人の住む地上のすべての大陸、46の国からやって来た、あなたのつつましやかな帰依者たちは、人生とは貴いものであり、あなたが与えてくださった意識の続く期間であることを、認識しています。私たちは、このきわめて貴重で神聖な宝を浪費しないことを、固く誓います。私たちは、今日ここでなされた決定事項を実行できるよう懸命に努力すること、そして、我々自身に対し、それぞれの参加国の兄弟姉妹たちに対し、また、世界全体に対して、サイの帰依者としての自分の務めを果たすことを、誓います。どうか私たちが、あなたの慈悲の中で、いつも、誠実に、そして効果的に、神の大義のために働くことをあなたが許してくださるよう祈ります」

 世界評議会の副会長が、大会の決定事項と提言のレジュメを提出しました。今大会においては、まずサイ・オーガニゼーションの内部の統合を望みました。国際社会の統合へ向けての第一歩として、大会では、次の四つの目標の下に各国でいくつかの共通プログラムを始めることが指示されました。

 

1)国民の健康と福祉

2)霊的な基盤の強化

3)サティヤ・サイ・アヴァターのメッセージを広めること

4)欲望に限度を設けること

 

 大会の閉会式の歴史的な御講話で、バガヴァンはこう明言なさいました。

 「私はこの世から一つの捧げものだけを受け取ります。それは愛です。それは、奉仕として、兄弟愛として、心の優しさとして、思いやりとして現れた、神聖な無私の愛です」

 現代における世界の危機的な状況について、バガヴァンはこうおっしゃいました。

 「多国からここに集まった世界大会の代表者たちは、異なる文化、伝統、言葉、衣服のスタイル、食べ物等々を有しています。しかし、この多様性が、私たちのヴィジョンである、皆さん方すべての中に本来備わっている神性という一体性を隠すようであってはなりません。今の世界は、手ごわい問題や、急速に広がりつつある恐れにさいなまれています。戦争への恐れ、飢饉への恐れ、悪魔のようなテロリストへの恐れ、民族的、宗教的、地域的争いという問題、経済復興、経済存続の問題、学生たちのしつけの問題、教義の衝突の問題、狂乱や狂信の問題、権力の横領と極端な利己主義の問題。徐々に広まりつつあるこうした恐れへの救済策は、ヴァイラーギャ(霊的な眼識に基づいた無執着)という態度です。体と心から成るものと、『私』と『私のもの』という制限に執着するなら、恐れは回避できません。アドワイタ(不二一元論)的な意識、すなわち、自分が目撃しているものは実在の上にある自分の心に焼き付いているものにほかならないという意識こそが、最良の治療薬であり、奉仕はもっとも効果的なサーダナ(霊性修行)です」

 

 御講話の最後に、ババはオーガニゼーションの会員やワーカー、そして、すべての帰依者たちに、人生で実践すべき10の指針を与えてくださいました。その「神へと至る10の道」〔10の訓令〕は、本書の最終章、「世界教師」の中に掲載されています。

 第四回世界大会は、地球規模での、霊性、教育、奉仕活動の成長、という点で画期的なものとなり、それらの活動はその後の10年で100ケ国以上に広まっていきました。合衆国の夫人いわく、「それは本当に、けた違いに大きな、国際的な出来事であり、バガヴァンへの愛によってつながれた魂たちの霊的な大会でした」。ニューヨークの心理学博士は、この世界大会を、「人類の霊的進化における記念すべき第一歩、転換期であり、重要な過渡期」であったと感じました。

 大会の一年ほど前に、インド国内外のサイのセンター、ユニット、慈善信託団体や教育機関に関するすべての関連データが、バガヴァンに提出されていました。誰が世界大会への出席が認められるべきか、バガヴァンに意見が求められました。各ユニットから一人の役員が代表として大会に出席が認められたとして、その場合でさえ優に一万人以上になるということが、その時、明らかになりました。霊性団体の役員の大会が、アヴァターがおられる中で開催されるなどというのは歴史上どこにも見当たらないことです。偉大なる霊的革命を告げようとしている、私たちのオーガニゼーションの驚異的な規模には驚くばかりでした。

​第 52 回

52

 1983年10月30日と31日にローマで開かれたシュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーション国際会議でのスピーチの中で、第二のノーベル賞と呼ばれる賞〔ライト・ライブリフッド賞〕の受賞者であり、英国のレキン・トラスト社の社長である、ジョージ・トレヴェリアン卿は、一体性へと向かう人類の行進について、極めて楽観的な意見を表明し、「神にはご計画があり、それを今、実行に移されています!」と宣言しました。

 

 その会議には、1200名を超えるイタリアの代表団、遠く南アメリカのアルゼンチンやチリ、そして、地球の裏側に当たるオーストラリアやニュージーランドなど、34の国からやって来た800名の代表団、さらには、イタリア全土から集まったおよそ3000人ものオブザーバーが参加していました。ジョージ卿は、ババが人類に与えた保証を思い起こさせ、それが実現するという希望をあふれさせました。

 「アヴァターの言葉に耳を傾けてください。『私は神へと至る古来の高速道路を修理しにやって来ました。アヴァターは決して失敗しません。アヴァターが意志することは必ず起こり、アヴァターが計画することは必ず実現するのです』そして、こうもおっしゃっています。『私は人類の歴史に黄金の一章を記すためにやって来ました。そこでは虚偽は廃れ、真理が勝利し、美徳が栄えるでしょう。そのとき、知識や独創に富んだ技術や富ではなく、人格が力を与えてくれるでしょう。英知が国の会議の場で敬意を得るでしょう』

 

 それから二年後、ロンドンのウェストミンスターの中央ホールで行われた会議で、ジョージ・トレヴェリアン卿は、身震いするような言明をしました。

 「私たちは現在、極めて尋常ならざる現象を目の当たりにしています。私たちが暮らす世界では、ありとあらゆる闇の勢力が猛威を振るい、危害を加え、恐怖を作り出し、実にたくさんの人々の生活が脅かされ、絶望さえしているありさまです。そして、そのような時、現代という混乱のさなかに、神が私たちと共に働いておられるという至高の希望、すばらしい出来事が起こっているのです。そこには、愛の力による救済という可能性があるのです」

 トレヴェリアン卿は、さらにバガヴァン・ババの言葉を引用して続けました。

 「『私はいつもあなた方と共にいます。あなた方のハートが私の家です。世界は私の屋敷です。私を否定する人々でさえ、私のものです。どんな名前ででも私を呼びなさい。私はそれに返事をします。どんな姿ででも私を思い描きなさい。私はあなたの前に姿を現します。誰をも傷つけたり悪口を言ったりしてはいけません。あなたはその相手の中にいる私を非難していることになるのです』。」

 

 1983年10月30日、ローマでの会議の開会式を行ったシュリ・サティヤ・サイ大学の当時の副学長、V.K.ゴーカク博士によって、その会議に向けられたバガヴァン・ババからのメッセージが読み上げられました。次にあげるのがそのメッセージです。そこには、現代という時代に悩み苦しむ人類の病を癒す、バガヴァンの処方箋が記されています。

 

 「神聖アートマの具現たちよ! 『すべての道はローマに通ず』という古くからのことわざが、今日、ここで立証されています。人々が多くの国からこの歴史的な都市に集まったことに、大きな意味がないわけがありません。あなた方は、今まで聞いたことがないことを学ぶため、そして、人間の冒険に関する新たな理想からインスピレーションを得るためにここに来た、ということを認識する必要があります。

 

 この大会は、どれか一つの宗教、国家、人種、カースト、個人と関係のあるものではありません。この大会は、あらゆる経典の根底にある本質的な真理を明らかにし、真理と正義を確立することを通してすべての人の平和と福祉のために努力することを意図しています。

 

 全人類は、一つの宗教――人間という宗教に属しています。すべての人にとって、神は父です。一なる神の子として、すべての人は兄弟です。したがって、この大会は家族の集まりです。この大会はさまざまな民族や宗教の集まりなのではありません。この大会はさまざまな心の集まりです。この大会はどれか一つの文化や哲学と関係のあるものではありません。この大会はあらゆる宗教の教えの中に存在する神聖な生き方に関係するものです。この大会の目的は、神性の中のユニティ〔単一性/一元性/一体性〕を見ることです。

 

 国や人種に関係なく、すべての宗教の基本的な真理はまったく同一です。哲学的な見解や修行やアプローチの方法は異なるかもしれません。けれども、最終的な目標とゴールはただ一つです。すべての宗教は神性のユニティを宣言し、カースト、信条、国、肌の色に関わらず普遍的な愛を養うことを説いています。この基本的な真理を知らない人は、自分の宗教を理由に慢心とエゴ〔自我意識/我執〕を膨らませます。そのような人たちは、神性を断片化することによって、大きな混乱とカオスを生み出しています。無限の神性をそのような狭いところに閉じ込めて分割することは、神性に対する反逆です。霊的な生活、神をベースにした生活の基盤は、内在の神霊すなわちアートマン(神の魂/アートマ)です。体は神霊の家です。

 

 社会生活も、この霊的基盤に従うべきです。ところが人は、実在するのは体だけ、という信念に生活の基盤を置いています。この誤りをなくすには、神霊について教わる必要があります。個人も社会も両方とも神の意志の現れであるということ、そして、神は宇宙に浸透しているということを認識する必要があります。この真理を認識することによってのみ、人は自分のエゴを手放して、義務に献身する生活を送ることができます。社会は自分本位な個々人の戦場になるのではなく、神に導かれる個々人の共同体になるべきです。

 

 科学の進歩に伴って、人は自分が宇宙の主であると思い、神を忘れる傾向に陥っています。現代人は、月に行き、宇宙を探検していますが、もし自分たちは創造における無数の謎と不思議をまだ知らないということを考えるなら、それらは心と知性の限られた能力をはるかに超えていることに気付くでしょう。宇宙の神秘と謎を発見すればするほど、人は、神がすべての創造物の創造者であり、動機を与える者であることに気付くでしょう。すべての宗教はこの真実を認めています。人にできることは、目には見えない無限の神を理解するために自分の限られた知性と知識を使って尽力し、神を礼拝し崇めることを身に付けることだけです。

 

 生まれ持っている神性を示す代わりに、人は自分自身の物質的な達成という牢屋に囚われています。人間のあらゆる科学や技術の進歩よりも偉大なのは、神の意識が授けられている存在としての人間自身です。物質世界のみを現実と見なすという選択をすることで、当分の間は、科学的、技術的、物質的な社会の繁栄をもたらすことができるかもしれません。けれども、もしその過程で人間の利己心や貪欲や憎悪が増すならば、人々が通常しているのと同じように、社会が社会を破壊してしまうでしょう。反対に、もし人間の本質をなす神性が示されるなら、人類はユニティに基づいた、そして、愛という神聖原理の順守に基づいた、立派な社会を築くことができます。この重大な変化は、個々人の心から始まらなければなりません。個人が変わると、社会が変わります。そして、社会が変わると、世界全体が変わります。ユニティは社会の進歩の秘訣であり、社会への奉仕はユニティを促進する手段です。ですから、誰もが献身の精神で社会への奉仕に身を捧げるべきです。

 

 物質的な快適さは社会生活の唯一の目的ではない、ということを悟るべきです。個々人が物質的な福利のみに関心を寄せる社会では、和合や平和を達成することは不可能です。たとえ達成されたとしても、それは継ぎはぎだらけの和合でしかないでしょう。なぜなら、そのような社会では強者が弱者を抑圧するからです。自然の恵みを平等に分配しても、名ばかりの平等以外は何も保証されないでしょう。物質で出来た品物を平等に分配することで、どうやって欲望と能力に関連する平等を達成できますか? ですから、霊的なアプローチを明らかにすること、そして、心を物質的なものから各人のハートの中に鎮座している神に向き直させることによって、欲望を支配する必要があるのです。

 

 ひとたび内在の神霊の真理を知ると、世界は一つの家族であるという意識のあけぼのがやって来ます。すると、人はその人のあらゆる行いの原動力となる神の愛で満たされます。人は終わりのない欲望の追求に背を向けて、平和と平静の探求へと向かいます。物質的なものへの愛を神への愛に転換することによって、人は神を体験します。その体験は人間を凌ぐものではありません。実際、それは人間に固有の性質の一部です。それは人の人間性と神性の神秘です。

 

 自分の宗教が何であれ、誰もが他の信仰への敬意を培うべきです。他の宗教への寛容と尊敬の態度を持たない人は、自分の宗教の真の信徒ではありません。単に自分の宗教の慣行を厳守するだけでは十分ではありません。すべての宗教の本質をなすユニティを見ようとも努めるべきです。そうして初めて、神性は一つであるということを体験できるようになります。宗教の分野では、いかなる類の強制も強要もありません。宗教的な問題は、穏やかに、そして、冷静に議論するべきです。ある人の宗教は優れていて、別の人の宗教は劣っている、といった感情を抱いてはなりません。宗教に基づく対立は完全に排除するべきです。宗教に基づいて人を分けるのは、人道に反する罪です。

 

 現代人は、自然と宇宙に関するすべてを知っていると思っています。ですが、もし人間が自分自身を知らないなら、その知識の一切は何の役に立ちますか? 自分自身を理解したとき、初めて外の世界についての真実を知ることができるようになるのです。人の内なる実在を、外の世界を探索することによって知ることはできません。目を内に向け、自分の本質をなす神性を悟るとき、人は万物への平等心を手に入れます。その、一つであるという気持ちによって、人は理解を超える至福を体験するでしょう」

〔Sathya Sai Speaks Vol.16 C29〕

 

 ローマでのこの画期的な会議において、ジョージ・トレヴェリン卿は三人のゲスト・スピーカーのうちの一人でした。彼は、「人類の一体性に向けて」というテーマで講演をしました。二人目のスピーカーは、アメリカのジョージア州レイクマウントにあるセンター・オブ・スピリチュアル・アウェアネスの設立者であり会長の、ユージーン・ロイ・デイヴィス氏でした。氏の話は、「急速に目覚めつつある世界における霊的責任」についてでした。三人目のスピーカーは、在英国シエラレオネ大使館や他の国々で大使を務めたヴィクター・カヌー氏でした。氏の題目は「シュリ・サティヤ・サイ・ババ、人類の希望」でした。

 

 会議では五つのグループに分かれてテーマを話し合い、話し合った内容を各代表が発表しました。

 

1.「人類の一体性」シュリ・V.K.ナラスィンハン氏

2.「日常生活におけるサイの理想」ジョン・ヒスロップ博士

3.「科学と霊性」サミュエル・サンドワイズ博士

4.「すべての宗教の真髄」ハワード・マーフェット氏

5.「人間的な特質と神性」シュリ・V.シュリーニヴァーサン氏

 

 Ⅴ.K.ゴーカク博士とインドからローマへの旅を共にした、当時サナータナ サーラティ誌の共同編集者であったシュリ・Ⅴ.K.ナラスィンハンは、ローマでバガヴァン・ババの遍在を裏付ける奇跡的な体験をしました。その奇跡は会議の中で帰依者たちの話題になりました。その奇跡を目撃したオーストラリアのサラ・パヴァン博士に、その心躍る出来事を聞いてみることにしましょう。

 

 「そのすべてはローマで起こりました。10月27日に、私はエルジェフ・ホテルでシュリ・V.K.ナラスィンハンに会い、オーストラリアのサティヤ・サイ年鑑の出版前の原稿に目を通してくださいとお願いしました。それは私が編集したもので、規定に合っているかどうか確かめてもらうためでした。ナラスィンハンはそれを読もうとして老眼鏡を探しました。やっきになってメガネを探しましたが、いつもメガネを入れている赤いメガネケースが見つかっただけでした。ナラスィンハンは、ホワイトフィールドのブリンダーヴァンにある自分のアパートにメガネを置き忘れたのではと不安になりました。彼は、出発の日に二度も領事館に行かなければならなかったため、大あわてでブリンダーヴァンを出ていたのです。ナラスィンハンは、私が彼に渡した原稿の件はもちろんですが、メガネなしでどう会議をやり過ごしたらよいものかと戸惑いました。

 

 私は翌朝、ホテルに彼を尋ねました。私たちはソファーに座り、お互いどんなふうにスワミのもとへとやって来ることになったのかを話していました。突然、私たちの間のクッションの上に何かが落ちてきた音が聞こえました。そこに黒縁のメガネを見て、私たちは大変驚きました。ナラスィンハンはクッションの上のそのメガネを二度見して叫びました。『私のメガネだ! スワミがここにいらっしゃったのだ!』この言葉が発せられるよりも前に、私も何か『普通じゃないこと』が起こったのだという気がしていました。ナラスィンハンは、自分の老眼鏡が奇跡的に出現したことに圧倒されていました。スワミへの感謝の思いで彼は涙ぐみました。ローマ滞在中に自分の目の前で起こったこの奇跡によって、私はスワミの遍在を確信しました。

 

 ナラスィンハンがプラシャーンティ・ニラヤムへ戻ってからスワミが最初にお尋ねになった質問は、『ナラスィンハン、あなたのメガネに何かありましたか?』でした。ナラスィンハンはスワミに、誰かが自分のところにメガネを運んでくれたように感じましたと言いました。スワミは、『私がそのメガネをバンガロールからローマのあなたの所へ届けたのですよ』とおっしゃいました」

 

 ローマでの国際会議は、サイ・ムーブメントが地球規模で飛躍した画期的な出来事でした。それはある意味、シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの第四回世界大会の先駆けでした。世界大会は、バガヴァン・ババの60回目の誕生を祝う式典の一環として、1985年11月17日から21日まで、プラシャーンティ・ニラヤムで開催されたのでした。

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​第 51 回

 月刊誌サナータナ サーラティの1983年6月号の内表紙に、短いお知らせが掲載されました。見出しは「ブリンダーヴァンに新しいマンディル」でした。そこにはこう書かれていました。

 

 「ブリンダーヴァンを訪れる人は、100年の歴史のあったその建物を懐かしく思うことでしょう。そこは数々の増築や改築を施しつつ、およそ20年間バガヴァンの住まいだった場所でした。バガヴァンは1983年5月17日に、その古い敷地に新しいマンディルの礎石を据えられました」

 この知らせは、たくさんの人たちに懐かしい思い出の数々をよみがえらせました。彼らは神さまとの楽しい交流や人々の変容を目撃してきたその幸運な建物が取り壊されることをさみしく思いました。けれど、その場所に新たに現れた新しいマンディルは、一年もしないうちにそんな哀愁を吹き消してしまいました。

 

 その新しい住まいのためにバガヴァンがお選びになった名前、「トライー ブリンダーヴァン」〔トライーは「三つ組みの」を意味する〕には、何重もの意味があります。その根本にある意味は、神性の三つの側面を表している、「サッティヤム・シヴァム・スンダラム」です。「サッティヤム」(サティヤム)はボンベイにあるバガヴァンの住まいの名前です。ハイデラバードにある住まいは「シヴァム」で、マドラス(チェンナイ)の住まいは「スンダラム」です。しかしながら、この三つを合わせた名前は長すぎるため選ばれませんでした。「トライー」にはこの三つすべてが含まれています。

 

 さらに、「トライー」は、サナータナ・ダルマ(永遠の法)の根源を成す三つのヴェーダ、すなわち、リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダを表す合成語でもあります。加えて、「トライー」は、絶対者(神)の三つの属性、サット・チット・アーナンダも表しています。「トライー」は、シュリー・ラリター・サハッスラナーマ・シュトートラム〔ラリター女神の千の御名を称える讃歌〕に謳われている千の御名のうちの一つでもあります。「トライー」はまた、主だった宗教に見られる三位一体も表しており、霊的大望を抱く人にとって、「トリカラナ・シュッディ」〔三つの清浄〕すなわち、思いと言葉と行いの清らかさを、繰り返し思い出させるものです。「トライー」はさらに、「トリカーラ」〔三つの時間〕すなわち、過去・現在・未来も表しています。

 

 建物は、西正門のドア、北側のインタビュールームのドア、そして、南西の通用口というように、入り口が三つあり、二階建てで、蓮の花の形をしています。建物のどの面にも蓮の形があしらわれていますが、それはブラフマ・サーンキヤ〔神を表す数字〕である神秘の数9およびその倍数と密接な関係があります。

 

 建物の設計図には二つの同心円が記されています。直径が36フィート〔約11メートル〕ある内側の円は、高さが床上36フィートの荘厳な丸天井のホールで構成されており、外側の円は直径が72フィート〔約22メートル〕あります。その二つの円の間のエリアは両フロアとも各部屋と廊下で区切られています。円形のホールに立って見ると、一階にある9つの部屋のドアが見えます。それぞれのフロアの高さは144インチ〔約3メートル半〕あります。内側の円には円周に沿った9本の柱があり、外側の円には18本の柱があります。建物の18枚の蓮の花びらは、コンクリート製の日よけになっており、一階の外側にある18の窓を見下ろしています。屋内の丸いホールには満開の9つの蓮の花が施された欄干付きのバルコニーがあり、それぞれの花の中心にはナヴァグラハ(9つの惑星)が一つずつ飾られています。荘厳な円天井には、27フィート〔約8メートル〕の巨大なピンクの蓮の花が光沢を放っています。さらには、建物全体を蓮の花の形をした池が取り囲んでいます。蓮の花といえば、人のハートの霊的な開花という象徴的な姿形が思い出されます。蓮はバガヴァンのお気に入りの花でもあります。

 

 入口の重厚な扉には、ラーマーヤナの場面をモチーフにした2枚のパネルと、シヴァ・シャクティをテーマにした見事な木工細工が施されており、邸宅の美観をより一層を引き立たせています。玄関を通ると、屋内の円いホールへと導くアンティーク調のウッドローズの木の扉が人々を出迎えてくれます。扉を開けると、ガネーシャ神の大きな像に両手を合わせて挨拶することになります。その両脇にはナタラージャとヴェーヌ・ゴーパーラの神像が安置されています。

 

 バガヴァンにより、1984年4月26日にトライー・ブリンダーヴァンの落成式が執り行われました。その日は、あらゆる場所から集まってきた何千という帰依者たちにとって、思い出深い日となりました。その日の朝、帰依者と招待客、そして、大勢の群集が、サイラム・マンタップとその新しい建物の近くのテントに集まりました。ババは、ブリンダーヴァンに隣接する敷地にある仮住まい「デーヴィー・ニヴァーサ」〔女神の館〕からお出ましになり、先頭にブラスバンド、それから、ヴェーダを詠唱する学生、バジャンを歌う学生という、見応えのあるすばらしい行列を率いられました。行列の中には華やかな衣装を着けたゴークラムの雌牛が数頭おり、バーガヴァタムの一場面を思い出させました。

 

 バガヴァンがトライー・ブリンダーヴァンの門をくぐられると、バガヴァンが到着する前から伝統的なホーマ〔護摩焚〕を行っていた僧侶たちがバガヴァンにプールナ・クンバ・スワガタム〔歓迎の挨拶〕を捧げました。落成式に先立って、ババはその新しい寺院の建設に関った人たち全員に贈り物をしておられました。その中でも目立っていたのが、ボンベイ出身の建築家シュリ・アタレー、そして、建設現場を監督したシュリ・ブリガディエール・ボースとシュリ・ヴィマラナータン、古美術品や見事な木工細工という形で貢献したシュリ・ナテーサンとシュリ・スクマランでした。それから、バガヴァンはテープカットをなさり、「トライー・ブリンダーヴァン」と刻まれた銘板の覆いを外し、建物の落成を行われました。バガヴァンがマンディルに入られると、辺り一面に歓喜がみなぎりました。その場にいたジャーナリストの一団がバガヴァンにメッセージを求めると、バガヴァンはテルグ語で「あなた方の喜びは私の喜びです」とおっしゃいました。バガヴァンは彼らに、この建物は、数えきれないほどの帰依者たちの愛と帰依心がもたらした結果であると述べられました。それによって、バガヴァンは猿やリスやその他のものたちがどのようにしてラーマがランカーに橋を架けるのを手伝ったかを思い出させてくださいました。

 

 そこに集った何千という人々は、豪華な食事を振る舞われ、さらに、大勢の老人たち、障害のある人たちに衣類が配られました。その日の午後、マンディルの建物とサイラム・マンタップの間にある野外の公会堂は帰依者たちであふれました。名高い音楽家たちによる、魂を揺さぶられるような神への讃歌がその場の空気を満たす中、彼らは主の蜜のように甘いダルシャンを享受しました。シュリーマト・M・S・スッバラクシュミー、シュリーマト・S・ジャーナキー、シュリーマト・P・リーラー女史らは、人の姿をとった主に心からの歌を捧げるという幸運にあずかり、その崇高な雰囲気の中、パンディト・ジョグ氏が最高のバイオリン演奏をしました。

 

 こうして、多くの人々のハートの花を咲かせた新しい「蓮の花」が開花したのでした。

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50

​第 50 回

 ブリンダーヴァンのこの上なく素晴らしい魅力は、シュリ・ラーマブラフマンの人生における、興味深い、驚くべきたくさんの出来事によく表れています。彼はアシュラムの管理責任者になってから亡くなるまで、約30年にわたりずっとバガヴァンの祝福を受けてきました。バガヴァン自らがプラシャーンティ・ニラヤムや他の場所から900通以上の手紙を出されてラーマブラフマンにアシュラムの維持に関するガイダンスや指示を事細かに記したという事実は、バガヴァンのハートの中でいかにブリンダーヴァンという場所が尊ばれているかを示唆しています。ババからの手紙には、ラーマブラフマンへの限りない愛と思いやり、そして、ラーマブラフマンの身体的および霊的な安寧に寄せる気遣いが表されているものも数多くありました。それらの手紙には、母の愛情、父の厳しさ、そして、師であるアヴァターの英知が映し出されていました。ここに、バガヴァンがラーマブラフマンに宛てた、甘露のごとき神の愛に満ちた、詩歌のような手紙があります。

 

 「私は、私に会いたいと焦がれる寡婦、サックバーイーが流した切ない涙を、一度たりとも忘れたことがあっただろうか? 私を崇拝することより他には何も望まなかった私の帰依者、ナンダナールが味わった試練の数々を覚えていないことなどあろうか? ただ私のダルシャンにあずかりたいと、不用意に泣きながら懇願した王妃、ミーラーバーイーが一度でも私の記憶から色あせたことがあっただろうか? ラーマ、ラーマと絶え間なく呟きながら気が狂ったように神を求め、あちらこちらとさまよい歩いた詩人、ティヤーガラージャの祈りを一度たりとも無視したことがあっただろうか?

 

 おお、ラーマブラフマン! これらすべてをいつも覚えているあなたのサイが、私を求めて今泣き叫ぶあなたの涙ながらの訴えに耳を貸さないことがあるだろうか? どうしてあなたに彼の慈悲が降り注がれないことがあろうか? 心しておきなさい、彼はどんな時も必ずやあなたを守ります。

 

 ラーマブラフマン! サイはあなたがどこにいようとも、決してあなたを忘れません。あなたが森にいようと空にいようと山にいようと、村に行こうと町に行こうと、サイには問題ではありません。サイがあなたを忘れることは決してありません!

あなたのババより」

 

 ラーマブラフマンは、ヴィジャヤワダ市近郊の村の出身で、裕福な農学者であり、ビジネスマンでした。1945年からシルディ・ババの帰依者でしたが、1953年、51歳の時、初めてプラシャーンティ・ニラヤムでババのダルシャンにあずかりました。プラシャーンティ・ニラヤムでの最初の日、彼はバガヴァンから声をかけられ、「ラーマブラフマン、How are you?」と尋ねられ、たいそう驚きました。どうしてババに自分の名前が分かったのか、ラーマブラフマンは不思議に思いました。滞在三日目、ババはパーダプージャー〔御足への礼拝〕を捧げる機会を与えて彼を祝福なさいました。パーダプージャーをしていた時、彼にはサティヤ・サイ・ババの代わりにシルディ・サイ・ババが椅子に座っておられるのが見えました! こうしてババは、彼に信仰心という最も大切な贈り物をお与えになったのです。ラーマブラフマンはその時から二度と後ろを振り返ることはありませんでした。彼はプッタパルティを頻繁に訪れるようになりました。時折、妻や二人の娘や三人の息子など、家族の何人かと一緒に行くこともありました。

 

 1953年に初めてプッタパルティを訪れた後、ラーマブラフマンはグントゥールでたばこの輸出業に乗り出しました。勤勉さと誠実さのおかげで、事業はすぐに成功しました。そのことでババへの帰依心はより一層深まりました。1955年まではすべてが順調でした。しかし、そこから試練が始まりました。後に彼は、その時期は、ブリンダーヴァンでバガヴァンに仕える者としてふさわしい価値を備えた人物になれるよう、精神面を強くするためにバガヴァンが鍛えてくださった時期だったと告白しています。1955年の終わりごろ、ラーマブラフマンは重病を患い、1956年まで誰もその病気を正確に診断することができませんでした。その上、いつプラシャーンティ・ニラヤムへ行っても、バガヴァンから無視されました。最終的に、その病気は重篤な肺感染症であると診断され、カルナータカ州のマイソールへ治療と休養に行くようにと勧められました。ラーマブラフマンは1956年6月から1957年の3月までマイソールに滞在しました。事業は失敗し、負債を清算するために、ほとんどすべての財産と土地を売り払うしかありませんでした。ラーマブラフマンは一年もしないうちに百万長者から困窮者へと身を落としてしまいました。ババへの信心は厳しい試練にさらされました。しかし、彼は成功を収めました。幸運なことに、親戚や友人が皆彼を見捨てても、バガヴァンは限りない愛を注いて彼に寄り添ってくださったのです。信愛の絆はさらに強くなりました。

 

 それから5年間、ラーマブラフマンの内面は厳しい鍛錬と研磨にさらされ、神への思慕はさらに強いものとなっていきました。1963年、彼にとって決定的な瞬間が訪れました。それはブリンダーヴァンにおられたババの所へ末娘の結婚を祝福してもらおうと赴いた時のことでした。末娘の結婚式はまだ先でしたが、彼の魂が神と結ばれる時が来たのです。バガヴァンは末娘の結婚を決めることと式を挙げることを請け合い、彼に妻と末娘を連れてブリンダーヴァンへ来るように、そして、アシュラムの管理人として定住するようにとおっしゃいました。ラーマブラフマンは、その贈り物を何生にもわたった苦行への褒美としてありがたく受け取りました。その日、彼は永遠なるものを追い求めたこの世での探求が成就したことを知りました。

 

 ラーマブラフマンは年下の同僚たちにとても親切でしたが、必要とあらば、ためらうことなくアドバイスをしていました。彼自身がバガヴァンとの体験で学んだことを例に挙げてアドバイスをすることもありました。ラーマブラフマンの最初のアドバイスはこうでした。

 「ここには職のために来たのだと思わないことだ。ここは自分の所有物だと思って、責任感を持って管理すべきだ」

 

 二番目の忠告はこうでした。

 「バガヴァンにはどんな個人的なお願い事もしないことだ。あなたがバガヴァンの仕事をすれば、バガヴァンはあなたの仕事をし、あなたが必要とするすべての面倒を見てくださる。あなたが何もお願いしなくても、バガヴァンはあなたに相応しいもの以上のものを与えてくださる」

 

 三番目はこうでした。

 「バガヴァンの指示には徹底的に文字どおりに従い、守ることだ。どんなことであろうとも、あなたに選択の自由は一切ない。バガヴァンが命じたことを、あなたの論理や都合に合わせて解釈してはならない」

 そして最後に、彼はよくこう言ったものです。

 「ババは神様だ。いつも彼を神様として敬うことだ。時たま、バガヴァンは軽い調子で話したり、冗談さえ言ったりするかもしれない。しかし、決してバガヴァンを軽く扱ってはならない。もしあなたがこのチャンスを失ってしまったら、それを再び手に入れるには何度も生まれてこなければならないかもしれない。今生であなたが最優先すべきはバガヴァンだ。他の人や他の事は二の次だ」

 

 ある時、ババはラーマブラフマンを呼んでおっしゃいました。

 「あなたの奥さんはしゃべりすぎです。それに、大きな声で話すので、アシュラムにいる誰にもその声が聞こえるほどです。彼女の話し声はマンディルにいた私にも聞こえました」

 その翌日、ラーマブラフマンは15時間以上かけて奥さんを自分の村に連れていき、彼女を置いて戻ってきました。バガヴァンか妻かどちらを選ぶかという選択に、ラーマブラフマンはバガヴァンを選んだのです! 彼は戻ってからババに報告しました。

 「スワミ、もう私の妻がここで誰かをわずらわせることはありません。妻のことで私と妻がこれまでご迷惑をおかけしていたことを、どうかお許しください」

 ババは言いました。

 「私は、奥さんをここから追い出しなさいとは一度も言っていません」

 ラーマブラフマンは黙り込んでしまいました。

 

 一週間後、ババは尋ねました。

 「奥さんはいつ戻ってくるのですか?」

 ラーマブラフマンは言いました。

 「スワミ、分かりません」

 それからいく日か毎日同じ質問がなされ、同じ答えが続きました。とうとうババはしびれを切らして言われました。

 「ラーマブラフマン、もし奥さんが一週間以内にここに戻ってこなかったら、あなたも奥さんと二人でそこに住むことにしなさい」

 その時、ラーマブラフマンは事の重大さを理解し、三日も経たずに奥さんをブリンダーヴァンに連れ戻しました!

 

 グントゥールでラーマブラフマンの孫娘の結婚式が行われることになった時のことです。家族から招待状を受け取ったのは、式の二週間前のことでした。彼はバガヴァンにその招待状を捧げましたが、結婚式に出席するための許しを請うことはしませんでした。黙って立ち上がろうとしたとき、ババが自らおっしゃいました。

 「行って結婚式に出席してかまいません」

結婚式の日が近くなったある日、彼はババから式の二、三日前にはグントゥールへ出発するようにと言われるのを期待していました。しかし、バガヴァンはそのことには触れようとしませんでした。ラーマブラフマンもそれを口にはしませんでした。結婚式が終わった次の日、ババは尋ねました。

 「ラーマブラフマン、どうして結婚式に行かなかったのですか?」

 ラーマブラフマンは平然と答えました。

 「スワミは私に出席してほしくないのだと思ったのです。そうでなければ、当然あなたは私に行きなさいとおっしゃったはずです」

 バガヴァンは大いに満足し、もうすぐ75歳になろうとしていたラーマブラフマンにこうおっしゃいました。

 「Good boy(いい子だ)! それぞ真の帰依者の証しです」

 

 ラーマブラフマンにとって、思いと言葉と行動でババを喜ばせることよりも大切なことは、何もありませんでした。まさしく、彼はずば抜けた帰依者でした。

 

 ラーマブラフマンの次男、シュリ・ナーガブーシャンが、1964年6月3日、ヴィジャヤワダで急死しました。その日は猛烈なサイクロンのせいでヴィジャワダとブリンダーヴァンの間の通信回線はすべて切断されていましたが、その夜、バガヴァンはラーマブラフマンにおっしゃいました。

 「あなたの息子、ナーガブーシャンが亡くなりました。すぐに奥さんを連れて家に帰りなさい。でも、奥さんには家に着くまでそのことを知らせてはいけません」

 ラーマブラフマンは黙ってその言いつけに従いました。17時間の移動中、ババがある重要な用事のために自分をヴィジャヤワダに遣わせたのだということ以外、妻には何も明かしませんでした。家に着いて妻が目にしたのは、愛おしい息子の亡骸(なきがら)でした。妻は自分たちを襲った悲劇のことを急いでバガヴァンに知らせようと思いました。その時初めてラーマブラフマンは妻に真実を告げました。彼は慰めるように言いました。

 「おまえに対する限りない御慈悲から、スワミは私がブリンダーヴァンでこの子の死をおまえに知らせることを望まれなかった。母として、おまえは悲しみに耐えながら長旅をすることなど不可能だっただろう」

 

 最後の儀式〔葬儀〕が終わるまで、二人は二週間ヴィジャヤワダに滞在しました。その間、バガヴァンはラーマブラフマンと妻に長い手紙を書かれ、生死に関する英知の言葉で二人を慰めました。ですが、息子を失った母の心中にあった苦悩の炎はそう容易く消し去ることができませんでした。ブリンダーヴァンへ戻ると、妻は胸が張り裂ける思いでバガヴァンに泣きついて、嘆き悲しみました。

 「ババ、私は息子を亡くしてしまいました」

 ババはおっしゃいました。

 「彼はどこかに行ってしまったのではありません。彼は私と一緒にいます」

 「あなたと一緒に? 本当ですか?」

と、悲しみに打ちひしがれた母は尋ねました。バガヴァンは夫妻をインタビュールームに連れていきました。そこで二人が見たものは、二週間前に何百マイルも離れた場所で葬ったはずの息子でした。息子はブリンダーヴァンのインタビュールームに座っていたのです! ババは、嘆き悲しむ母の焼け付くような痛みを和らげるために必要なことをすべてなさり、一日のうちにそれを成功させたのでした。

 

 次に挙げるラーマブラフマンの三つの体験談は、ババに仕える者に必要な、大切な教えを説いています。

 

 ラーマブラフマンは背が高く、骨格もがっしりとして、体重もありました。ある日のこと、ババは彼にご自分のオレンジのローブを渡し、それを着るようにとおっしゃいました! 他の人なら誰もが冗談だと思ったことでしょう。ですが、ラーマブラフマンはそのローブを手にしてババを見ました。ババはおっしゃいました。

 「そうです、着てみなさい」

 ラーマブラフマンは真面目に言いました。

 「スワミ、着てはみますが、これが私の大きな頭や長い腕に合うかどうかは分かりません」

 バガヴァンは動じませんでした。ラーマブラフマンは大変な思いをしてローブに頭を入れようとしましたが、息もできないほどになってしまいました。それでも彼はあきらめませんでした。ラーマブラフマンが大いに驚き、また喜んだことに、ローブは彼にちょうどぴったりの大きさになるまで大きくなりはじめたのです! ラーマブラフマンはその経験から良い教えを学びました。彼はよくこう言っていました。

 「あなたがババに言われたことを誠実にやろうとするとき、ババは必ずあなたがその仕事を首尾よくやり遂げられるよう助けてくださるのだ」

 

 ラーマブラフマンがマンディルの一階にいたときのことです。二階からバガヴァンが大きな声で自分を呼んでいるのが聞こえました。ラーマブラフマンは手に魔法瓶を持っていて、それを持ったままババに会いにいくのは適切ではないと思いました。そのため、彼は台所に魔法びんを置きに行き、それから二階へ上がりました。バガヴァンの所へ行くと、バガヴァンは鋭い目を向けて彼に尋ねました。

 「なぜ来たのですか?」

 「スワミ、あなたがお呼びになったのです」

と、ラーマブラフマンは答えました。ババは少々厳しくおっしゃいました。

 「私があなたを呼んだのは数分前で、今ではありません」

 こうしてラーマブラフマンは神の御前から退出させられました。

 さほど問題ない出来事のように思えたその件から一月後、ラーマブラフマンの指揮の下、ブリンダーヴァンの農場に井戸が設置されました。彼はバガヴァンから、そこで作業をしていたセヴァダルや労働者たちのためにと、お菓子を預かっていました。お菓子を配り終え、畑を通ってマンディルへ歩いて帰る最中、彼は時計を見て、ババが自分を待っておられるかもしれないと思いました。彼は速歩きを始めました。けれど、急ぐあまり足を滑らせて転んでしまいました。地面に倒れる直前に、ラーマブラフマンは「サイラム」と叫びました。ひどい転び方をしたにもかかわらず、白い服が汚れただけで、まったく難儀を感じませんでした。バガヴァンのもとに着くと、バガヴァンは彼におっしゃいました。

 

 「ラーマブラフマン、あなたが私の名前を呼ぶや、すぐに私は農場のあなたが転んだ場所へと駆けつけて、あなたがひどい怪我を負わないよう守りました。さもなければ、あなたは骨を何本か折っていたことでしょう。あなたが私を呼んだ時、すぐに私がその場に駆けつけなかったら、どうなっていたでしょう? 一方、あなたは私があなたを呼んだ時、私のもとに来るのに時間をかけました。それでよいのですか?」

 ラーマブラフマンはババの御足にひれ伏して許しを願いました。

 

 ある日、当時のインドの副大統領、シュリ・B・D・ジャッティが、国の重要事項に関してバガヴァンの祝福を得るために、夕方6時にブリンダーヴァンへやって来ました。副大統領は主要な大臣数人とカルナータカ州の首相を連れていました。しかし、その日ババはすでに自室へ戻っておられました。ババの許しがない限りどんなゲストも訪問者もマンディルの敷地に入ることはできなかったため、ラーマブラフマンは副大統領とお歴々を「サイラム・マンタップ」で出迎えました。彼は恭しくあいさつをして、翌朝来てくださいと頼みました。副大統領は彼に懇願しました。

 「私はこの件について、夜が明ける前に首相に話をしなければならないのだ。どうかババに、私はここでお会いできるのを待っていると伝えてくれないか」

 ラーマブラフマンは丁寧に、しかし、きっぱりと言いました。

 「閣下、スワミが部屋へ戻られてからは、誰もスワミの部屋のドアをノックすることはできないのです。どうかお許しください」

 「それではどうすればよいのだ? どうか助言を与えてはくれないか?」

と、当惑した副大統領は尋ねました。

 「私の経験に基づいて言わせていただくなら、一つだけ方法があります。どうぞここにお座りください。そして、サイラムと唱え、ババに祈ってください。ババはすべてご存じです。あなた方の祈りに応えてくださることでしょう」

と、老練な帰依者である彼は答えました。

 シュリ・ジャッティはそのアドバイスを受け入れて、座って祈りました。ラーマブラフマンはマンディルへ戻っていきました。数分もしないうちに、バガヴァンが部屋から姿を現し、ラーマブラフマンに副大統領を中へ入れるようにと指示なさいました。バガヴァンは副大統領と三十分以上話をなさいました。

 

 ラーマブラフマンはそのことに驚きませんでした。ですが、他の者たちにとって、それは意義深い体験でした。こういった数多くの経験に基づいて、ラーマブラフマンが年下の同僚たちに与えるアドバイスはこうです。

 「私たちは、スワミを喜ばせることができるよう、物事を正しく行うための適切な働きかけの方法をスワミに絶えず祈り続けているべきなのだ。もし自分の知力や考えで判断すれば、十中八九間違えることになるだろう」

 ラーマブラフマンは神の人でした。彼は神のために生き、神のために働きました。

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神のために生き、神のために働いたラーマブラフマン

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東アフリカからラーマブラフマンに宛てて書かれた

ババの手紙

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ブリンダーヴァンのゴークラムの落成式

49

​第 49 

 時が経つにつれ、バガヴァンのところに集まる会衆はとても多くなり、どんな帰依者の家でもバガヴァンのダルシャンを求めて訪れる群衆を収容することができなくなりました。大勢の帰依者たちは、日差しや雨をものともせず、バガヴァンが滞在なさる家の外の道路に集まりました。その光景はバガヴァンの優しい心を動かし、バガヴァンは町の郊外にある静かで落ち着いた場所にアシュラムを作ることを決意なさったのです。

 

 1958年1月1日、ババは、町の東方20キロにある小さな町、ホワイトフィールドを訪れ、何人かの帰依者たちと共に、たわわに実った果樹園で丸一日を過ごされました。

 

 ホワイトフィールド周辺にアシュラムを設けるというババのサンカルパ〔意志〕は、1959年7月23日に現実となりました。バガヴァンは、町の北方まで伸びている幹線道路の東側に20エーカーの屋敷を購入なさいました。バガヴァンは、1960年7月25日に正式にその場所に入られ、そこを「ナンダナ・ヴァナム」と名付けました。その名のとおり、そのアシュラムは「喜びの庭」であり、「ナンダの神なる息子の庭」でした。何百本もの木に飾られた長方形の土地には、おびただしい数の鳥のさえずりが響き渡っていました。北側には木々に覆われた小丘があり、まるで天国のような所でした。その庭の中央には、小さいけれども魅力的なバンガローがありました。他には、その敷地にある建物は、南西の角に位置する正門に隣接した離れだけでした。ババは1961年の終わりまでずっと、その町を短期間訪れた際には「ナンダナ・ヴァナム」に滞在なさっていました。

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主が滞在された「ナンダナ・ヴァナム」のコテージ

 アーンドラ・プラデーシュ州の雲母王として知られていた、シュリ・ゴーギネーニ・ヴェーンカタ・スッバイフ・ナイドゥと彼の家族は、「ナンダナ・ヴァナム」の北方5キロにある13エーカーの土地、「モーハン・パレス」を所有していました。そこは鉄道のホワイトフィールド駅のそばに位置する良く計画されたエリアで、広大なバンガローがあり、たくさんの泉や池、手入れの行き届いた植物園の数々に囲まれていました。曲がりくねった一本の並木道がバンガローから敷地の北西角地の正門まで続いていて、道の両脇にはたくさんの花を咲かせる木々が立ち並んでいました。敷地に入ると、右手に巨大なインド菩提樹、左手に屋根付きの通廊で繋げられた瓦屋根の二つのコテージが目に入ってきます。その場所全体が、畏敬の念を抱かせるような所でした。バガヴァン・ババという神聖で力強な磁石は、そのアーンドラ・プラデーシュ州出身の有名な雲母産業の有力者をナンダナ・ヴァナムへと引き付けました。父親と、その三人の息子、シュリ・ヴェーンカテーシュワラ・ラーオ、シュリ・セーシャギリ・ラーオ、シュリ・モーハナ・ラーオは、ババの帰依者となりました。ババも彼らの家を何度か訪問なさいました。三兄弟は、1961年9月に父親が逝去すると、プッタパルティを訪れて、バガヴァンがバンガロールに来るときは必ず自分たちといっしょに「モーハン・パレス」に滞在してくださいとお願いしました。ババは彼らの愛に満ちた申し出を受け入れ、1962年の夏を三兄弟と共に過ごされました。並木道の木々の下でのダルシャンのために、素晴らしい準備がなされました。三兄弟から帰依者たちに提供された愛情のこもったもてなしは、バクタヴァッツァラー〔バクタを愛する者〕であるバガヴァンを喜ばせました。ババへの信愛とババの帰依者への愛情によって強く促された三兄弟が「モーハン・パレス」をババに捧げたいと言ったとき、ババはそれを受け入れられました。その一方で、ババは三兄弟に「ナンダナ・ヴァナム」を受け取るようにと強く主張なさいました。それはババから三兄弟への愛のこもった贈り物でした。サイ・ゴーパーラは、その新しいアシュラムを「ブリンダーヴァン」と命名なさいました。それは人々に、バーラ・ゴーパーラ、神なる牧童の、聖なるリーラー・ブーミ〔神聖遊戯がなされた土地〕を思い起こさせるものでした。

 三日間に及ぶ式典は、1964年4月13日のアシュラムの落成式で幕を開けました。そこには景観に配慮した18か月かけた改築が多数施されていました。その日は、クローディという新年の始まりと、ヴァサンタ・ナヴァラートリ〔春の九夜祭〕の初日という、二重におめでたい日でした。落成式には、インド国内外からの何千人という帰依者以外にも、卓越したヴェーダ学者たちや有名な芸術家たちなど、大勢のお歴々が出席しました。その時から、ブリンダーヴァンはアヴァターが半年間ほどを過ごされる第二の家となりました。当初、ブリンダーヴァンの主、サイ・クリシュナは、男女が別れて並木道の両側に座っている所を行ったり来たりしながら、ダルシャンを与えておられました。後に、生い茂った菩提樹の木の下で、毎週日曜日と木曜日にバジャン会が行われるようになりました。有名なトリバンギ〔首、腰、膝の三箇所をそれぞれ違った方向にS字に曲げる姿〕のポーズでたたずむ美しいヴェーヌゴーパーラの大理石の像の前にある大木の巨大な幹を囲むように設けられた円形の台の上に、バガヴァンは座られました。ブリンダーヴァンを訪れる帰依者の数が増えると、その木の下に金属製の薄板の屋根が付いた円形のマンタップ〔祭場〕が作られました。それは、「サイラム・シェッド」とか「サイラム・マンタップ」などと呼ばれました。そのアシュラムには、徐々にさらに多くの設備が帰依者たちのために付け加えられていきました。

 

 ブリンダーヴァンの黄金時代は、男子大学である、シュリ・サティヤ・サイ・カレッジ・オブ・アート・サイエンス・アンド・コマースの開校と共に始まりました。ブリンダーヴァンの地は、バガヴァンとバガヴァンの学生たちの間にある何よりも美しく甘美な間柄によってもたらされた、新しいオーラを得ました。そこは現代におけるグルクラ〔師と弟子たちが共に暮らし学ぶ学びや〕となりました。そこにはクラパティ〔クラの主〕の近くで愛に満ちた生活を共にする学生たちがいました。1970年から1980年の10年間、バガヴァンは一年の大半をブリンダーヴァンで過ごされ、自らの「青年男子たち」を親身になって育て上げられました。その幸運な学生たちは、バガヴァンから顕示される素晴らしい神の力に畏敬の念を覚え、バガヴァンから注がれるあふれんばかりの蜜のような愛によって心を動かされ、変容したのでした。ブリンダーヴァンの夏は、「インド文化と霊性に関する夏期講習」に参加しようと国中から押し寄せる何千人という大学生たちであふれ、忙しさが増しました。プラシャーンティ・ニラヤムとブリンダーヴァンの双方でバガヴァンの近くにいる機会を享受した帰依者たちは、「プラシャーンティ・ニラヤムはババの仕事場、ブリンダーヴァンはババの家庭。ババは、プラシャーンティ・ニラヤムではシヴァ神で、ブリンダーヴァンではクリシュナ神だ」と言っていました。

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ブリンダーヴァンの旧マンディールにて

48

​第 48 

 バガヴァンの限りない愛と慈悲は、その時期〔1944年~1958年〕、バンガロールのたくさんの人々のハートに届き、そのハートをつかみました。バガヴァンの愛に触れ、変容したハートの絹のごとき物語をすべて記録しつくすことはできません。ですが、バガヴァンの慈悲が示された件を二、三、垣間見てみることにしましょう。

 

 ケーシャヴ・ヴィッタルの娘、ジャヤラクシュミーが初めてバンガロールでババを見たのは、まだ10代の時でした。信仰深い家に生まれ育ったため、彼女はすぐにババへの信仰心を抱くようになりました。バガヴァンがウィルソン・ガーデンの彼らの家にやって来て滞在なさると、ジャヤラクシュミーのみずみずしいハートは喜びであふれ、ババをもてなすため、そして、家に詰めかけたたくさんの帰依者たちのダルシャンがスムーズに運ぶようにするために必要な仕事は、何であれ一生懸命に手伝いました。

 ジャヤラクシュミーは、自分の家でババの神聖な力や愛が示されるのを数多く目にしました。その一つに、ババが地上での母に対して愛すべき息子の役を完璧に演じられた出来事がありました。その体験は、彼女の若き心に忘れることのできない印象を残し、彼女の人格に強い衝撃を与えました。彼女は後に、女性教育の分野におけるバガヴァンの使命を果たす、疲れ知らずの働き手であるリーダーとなりました。彼女はすでに本書の中に「選ばれし教師たち」の一人として登場しています〔サイラムニュース197号に掲載〕。彼女自身の言葉でその物語を聞いてみることにしましょう。

〜・​〜・​〜・​〜・​〜

 「ある朝、ババはイーシュワランマお母様を、二人の女性帰依者と一緒にバンガロールを見て回るようにと送り出されました。三人はお昼過ぎに戻ってきたのですが、イーシュワランマ様は両脇を二人の女性に抱えられて、やっとのことで家に入ってきました。イーシュワランマ様は真っ直ぐにスワミの所へ行くと、右手を見せながら、目に涙を浮かべて言いました。

 『スワミ、右手がひどく痛むの』

 乗っていた車が渋滞していた市街地の急な坂道を走り下りていた時、運転手が急ブレーキをかけ、肘を前の座席にぶつけてしまいました。スワミはヴィブーティを物質化して肘と手に塗り、優しくおっしゃいました。

 『心配しないで。よくなりますよ』

 スワミのアドバイスで、彼女は部屋にあった椅子に座って休みました。私は、その日の午後、イーシュワランマ様のお世話をするという幸運にあずかりました。他の人たちは、ダルシャンにやって来る帰依者たちを迎えるための準備で忙しくしていました。

 

 帰依者たちが去った後、すぐにスワミは戻ってきて、尋ねられました。

 『痛みは治まりましたか?』

 

イーシュワランマ様は子供のように無垢な声で言いました。

 『いいえ、スワミ。ひどい痛みだわ』

母親のような愛情で――それはババにとってはとても自然なことですが――ババはこうおっしゃいました。

 

 『痛いのはほんの短い間だけです。明日の朝には、痛みは消えているでしょう。心配しないで』

 

 それから、ババは手を回されました。たくさんのヴィブーティが現れました。ババはそれをイーシュワランマ様の肘に丹念に塗られました。夜が更けると痛みが増して、イーシュワランマ様はうめき声を上げるようになりました。私はそばに付いていましたが、痛みを和らげることはほとんどできませんでした。もう10時を回っていて、皆、退室していました。けれど、息子のババはその痛みを感じとっておられました。地上の母の苦しみは息子を眠らせませんでした。ババはそっと部屋に入って来られました。イーシュワランマ様は、スワミを見ると上半身を起こしました。母は自分を抑えることができませんでした。彼女は声を上げました。

 『スワミ、とってもひどい痛みなの』

スワミは彼女の手を優しくなでて、慰めるように言いました。

 『一時間もしないうちに痛みは減りますよ』

スワミは右手をゆっくり動かして円を描きながら、すっと部屋を出ていかれました。

 

 お母様は横になりましたが、ひどい痛みのために眠ることはできませんでした。私が思ったとおり、一時間かそこいらでババがまたやって来られ、彼女に、

 『痛みはどうですか?』

と尋ねられました。彼女は、

 

 『スワミ、少し良くなりました』

と答えました。スワミは満足されたようでした。

 『言ったでしょう? 朝までに、痛みはすっかり無くなってしまうでしょう』

 

 スワミはご自分の手をそっと彼女の手と頭の上に置き、ヴィブーティを物質化して肘に塗られました。少しして、スワミは部屋を出ていかれました。お母様はホッとしてぐっすりと眠りました。でも、私は一晩中眠れませんでした。どうして眠れましょうか? 私は幸運にも、ダルマに忠実な神なる息子が、自分の母に対して神なる母の役を果たされるという、魂が揺さぶられるような光景を目撃したのですから。

 

 時計が4時を打つと、イーシュワランマお母様はベッドの上で上半身を起こしました。いとおしい息子のスワミがそっと部屋へ入って来られました。私はあふれるほどの感謝の念を胸に、立ち上がりました。私は、ブラフマ・ムフールタ〔神の刻。日の出の96分前から48分前までの神聖な時間帯〕に、神のダルシャンにあずかったのです。スワミはとても優しく尋ねられました。

 『調子はどうですか?』

 『ほとんど大丈夫です。痛みはとても少ないです』

と、彼女は答え、スワミのすばらしく慈愛に満ちた顔を子供のように見上げました。ババは彼女の頭をなでられ、こう請け合われました。

 『日の出までにはすっかりよくなりますよ。よく休みなさい』

 

 立ち去る時、ババの顔に美しい微笑みが浮かびました。以来、この天国のような体験は、お金に換えられない、私の心の大切な宝物になっています」

〜・​〜・​〜・​〜・​〜

47

​第 47 

 わが生命の主なる生命よ、〔中略〕

わたしはつねに、わたしの心から

いっさいの悪意を追い払い、

わたしの愛を花咲かせておくよう

つとめましょう

――わたしのこころの内なる聖堂(みや)に

おんみがいますことを知っているからです

〔R・タゴール著『ギタンジャリ』、レグルス文庫p.32より〕

 グルデーヴ・ラビンドラナート・タゴールはこう詠みました。帰依者がバガヴァン・ババに、自分の地元にババのマンディルを建てる計画を祝福してくださいと懇願すると、ババはよくこうおっしゃいます。

 「あなたのハートが私のマンディルです。いつも清潔に、きれいにしておきなさい。レンガやモルタルでできたお寺は、私には何の慰めにもなりません」

 時折、ババは帰依者にこうもお尋ねになります。

 「いったいどうやってあなたは、この全宇宙を満たしている者の寺院を建てることなどできるのですか?」

 けれどもやはり、「ババは自分の家族の見えざる師である」と信じている大勢の帰依者たちは、ババへの愛から、自分の家にババの聖堂を建ててきました。私たちは貧しい人のあばら屋にも、大金持ちの大邸宅にも、地球上の至る所に、そうした聖堂を目にすることができます。さらに、ババに捧げられた何百という寺院が、村にも町にも都市にも、次々に現れてきました。そういった、生身の人間を存命中に崇めようと建てられた寺院の数としては、歴史上、並ぶものがありません。こうした寺院の多くにババの全能の恩寵の印が現れて、さらに多くの無垢なハートに信仰の種を蒔いています。

 一方、帰依者によって建てられた愛の殿堂もわずかに存在します。それらは、ババの生身の体に住んでいただくという幸運によって祝福されています。その中で最もよく知られているのが、プッタパルティのプラシャーンティ・ニラヤムのマンディル、バンガロールのブリンダーヴァンのマンディルです。この二つのアシュラムは、ババは一年の大半を過ごされる場所です。

 ここで私たちは、ブリンダーヴァンの新しいマンディルの話を語るとしましょう。それは1984年に日の目を見ました。ブリンダーヴァンのアシュラムの発端を知る良い機会でもあります。

 バンガロールはプッタパルティから南へ150キロ下った場所に位置しています。バガヴァンがプッタパルティに次ぐ二番目の住まいとしてお選びになったことにより、その最高の恩寵にあずかっています。

 バガヴァンが初めてバンガロールにいらしたのは1944年2月、バガヴァンがまだ18歳の若者でいらした時です。シュリーマト・カラナム・スッバンマ夫人、彼女の兄のシュリ・パップル・サッティヤナーラーヤナ、そして、シュリーマト・カマランマ夫人と共に、スワミは、牛車に乗ってペンヌコンダの鉄道の駅までやって来て、それから列車でバンガロールに到着されました。

 一行は、ラールバーグ近くのシュリ・マヴァッリ・ラーマ・ラーオの小さな家に10日ほど滞在しました。当時、そこにはカマランマの親戚とその友人が何人かいただけでした。自分はサイ・ババであると宣言し、何もない所から品物を物質化したり、薬を使わずに病気を治したりしていた少年ラージュに会うために、彼らはプッタパルティを訪れていました。彼らはラーオの家に押し寄せましたが、そこにはババを拝見するための電灯すらありませんでした。彼らもババを自宅に招待しました。

 1944年の間に、ババはさらに4度、その町を訪問なさいました。ババの神々しくも美しい姿でのダルシャンに一度でもあずかった者は、何度でも、ババがどこにいようとも、会いに行かずにはいられませんでした。ババがバンガロールを訪問される時はいつも、彼らの家はまるでお祭りのような雰囲気になって、彼らの心に新たな喜びが湧いてきました。ババはさらに頻繁にその町を訪問されるようになりました。ババはほとんどのお祭りが終わるたびにバンガロールへやって来られました。さらには、マドラスへの行き帰りにもいらしていました。

 小さな家では、ババとババのもとに押し寄せる帰依者たちを収容することができなくなっていました。バンガロールの帰依者の中には、もっとたくさんの人がババのダルシャンにあずかれるよう、そして、木曜ごとのバジャンに参加できるようにと、ババに自分のバンガロー〔別荘〕に滞在してもらいたいと懇願する人たちがいました。

 1944年の次の訪問の際、バガヴァンはチャーマラージャペートのシュリ・ナラシンハ・ラーオ・ナイドゥと、シュリ・ナヴァニータム・ナイドゥの邸宅に滞在されました。

 1945年から1946年には、セント・ジョセフ・ロード沿いのシュリ・ティルマラ・ラーオのバンガローの広々とした屋敷が帰依者たちの安息所となりました。1946年から1948年には、バサヴァナ・グディの警視総監、シュリ・ランジョート・シンの邸宅がそうなりました。

 1947年から1950年には、ブル・テンプル・ロード沿いのシュリーマト・サカンマ夫人の屋敷が祝福されました。1949年から1953年には、リッチモンド・ロード沿いのシュリーマト・ナーガマニ・プールナイアフ夫人の邸宅が、1949年から1953年は、ウィルソン・ガーデンにあるシュリ・ケーシャヴ・ヴィッタルの邸宅が、比類なき幸運にあずかりました。

 

 1954年から1958年の間には、シュリ・ヴェーンカタラーマンとシュリ・シュリーニヴァーサンという、バンガロールで評判の二人の会計監査官が、バガヴァンを接待する機会に恵まれました。二人の住まいはどちらもクマーラ・パークにありました。

第46回

​第 46 

 ババの帰依者のシュリニヴァーサンとヴェンカタラーマンが始めた監査・所得税務専門会社で働く、シュリ K.R.シャーストリーという若者がいました。彼は、ビジネス街チンターマニ近郊の、小さな村の出身でした。彼が初めてバガヴァン ババのダルシャンを受けたのは、1954年7月、バンガロールのヴェンカタラーマン邸でした。主なるシュリ ラーマを深く信仰していた若者、シャーストリーは、ババはこの世にダルマを確立させるために再臨したシュリ ラーマだと信じていました。バンガロールへ来た時はいつも、シャーストリーはどんな機会でも利用して自らの主のもとへ参じていました。ババに対する彼の忠誠心と帰依心を嬉しく思っていた雇い主たちは、自宅に主をお迎えする準備を手伝ってもらおうと、バガヴァンが到着する数日前にシャーストリーをバンガロールに呼びました。ババがバンガロールを訪れている間、個人的な従者としてのシャーストリーと主との絆は、日に日に大きく強くなっていきました。彼の誠実さは、背の低さと相まって、ババから「ラール バハードゥル シャーストリー」〔訳注:インド第2代首相〕というあだ名を授かるほどでした! ここに、その若き帰依者がバガヴァン ババは全知であるという信念をますます深めることになった体験談があります。

 

 1959年4月、シャーストリーは、会計士の試験を受けるために、プネー〔マハーラーシュトラ州で二番目に大きな都市〕へ行かなければなりませんでした。幸いなことに、ババはその時バンガロールにいらっしゃいました。シャーストリーは、プネーへ発つ前に主の祝福を受けたいと思いました。バガヴァンは彼におっしゃいました。

 

 「あなたは私の有り余るほどの祝福に与っています。私はこれからもずっとあなたと一緒です」

 

 ヴェンカタラーマンは、シャーストリーがプネーにいる義理の兄弟の家に泊まれるように手配していました。その家の家族全員がババの帰依者だったので、そこでの滞在はとても心地よく、シャーストリーの心の拠り所と重なるものでした。ヴェンカタラーマンの甥、シュリ ランガラージャンはババが大好きでした。彼は、シャーストリーをダースヤ バクティ〔神に仕える従者の信愛〕の理想的な模範として敬意を表しました。

 

 シャーストリーは、一番に答案用紙を書き終えると、バンガロールへ戻るチケットを予約するために、夕方、ランガラージャンと一緒に列車の駅へ出かけました。家に帰る途中、二人は近くの公園、ヴィクトリア ガーデンを散策し、石のベンチに腰を下ろしました。公園にはそれほどたくさんの人はいませんでした。ランガラージャンはババについてもっともっとたくさんのことを知りたがり、シャーストリーもそれと同じくらい自分の体験を分かち合うことに熱中しました。近くの時計台が6時を打ったとき、70歳くらいの老人がやって来て、彼らのベンチに腰掛けました。老人は背が高く、きれいな顔立ちで、頭髪は短く白髪まじりで、古い靴を履いていました。老人は長袖のシャツとズボンを身に着けていましたが、どちらも着古したものに見えました。老人はシャーストリーにこう尋ね、会話を始めました。

 「君たちはどこから来たのかね?」

 シャーストリーは手短に答えました。老人は続けて言いました。

 「わしもバンガロールへはよく行く。チャマラージペート、バサヴァナ グディ、クマラ パークは、よく知っている。わしは世界中を回ったことがある。じゃが、インドのような国は他にない。わしはインドをとても愛している。この国は、世界の霊的叡智の宝庫じゃよ」

 

 完璧な誠実さが響くその老人の言葉に、二人の若者は魅了されてしまいました。二人は、人と社会の福祉に果てしない関心を持って話す、この賢明な見知らぬ老人の話を聞き続けました。その老人は、インド文化における偉大な真理や価値について、また、現代という時代に、全人類に対するそれらの関連性について詳しく語り、二人は時間の感覚を失ってしまいました。老人は、美しい文章をヒンディー語と英語の双方で流暢に引用しました。最後に老人は、インド人は時代を超えたそうした美徳を生活の中で実践することを放棄してしまったという失望を顕わにしました。老人は、その主張を裏付けるように言いました。

 「2、3年前、わしは友人数人とリシケーシュ〔リシケシ〕へ行ったのじゃが、黄土色の衣をまとったサードゥー〔行者〕が大勢、ジャパマーラー〔数珠〕を手に持って一つずつ数珠を繰っているのを目にした。だが、サードゥたちの心はあちらこちらとさまよっていた。わしには自分のものであると言えるような者〔家族〕は誰もいないが、私はすべての人を愛しておる」

 

 老人が話し終えると、時計が7時を打ちました。老人は立ち上がり、言いました。

 「君たちは好きなだけここでゆっくり座っていてかまわない。仕事も何もないだろうから。だが、わしはもう行かなければならない。たくさんの人が私を待っているのじゃ」

 そして、老人は歩きだしました。すっかり魅了された二人の若者は、老人のあとについて公園の外の道に出ました。老人は最後に二人にこう言いました。

 「両親への務めを決して忘れてはならぬ。たとえどんなに忙しくとも、決して神を忘れてはならぬ。神への信仰心が少しでもあれば、それが君たちを恐ろしい災難から救ってくれるじゃろう」

 そう言い残すと、老人は手を挙げて、後ろにあったタワーの時計を指さしました。二人が振り返って時計を見ると、7時を15分過ぎていました。二人がくるりと向き直ると、老人はもうそこにはいませんでした。老人は宙に消えてしまったのです! 二人は大変驚きました。シャーストリーが叫びました。

 「あれは僕たちのババだったんだ! 自分が誰なのかたくさんのヒントを与えてくれていたのに、僕たちは気づくことができなかった。僕たちの頭はどうかしてる! 7時というのは、プラシャーンティ ニラヤムのマンディールでバジャンが始まった時間だ。それでババはお戻りになったんだ」

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 K.R.シャーストリーがバンガロールへ戻ると、クールグ地区のマディケーリに行ってバガヴァン ババを迎える準備をするようにと言われました。ババはマディケーリでシャーストリーを見ると、こうお尋ねになりました。

 「プネーでは、何がありましたか?」

 そう問われると、プネーの公園でのあの老人の記憶が頭をよぎりましたが、シャーストリーは呆然として、黙り込んでしまいました。すると、ババは自ら、プネーのヴィクトリア ガーデンで起こったことのすべてを、シュリ N.カストゥーリに説明されました。そしてこう付け加えられました。

 「パーパム〔過ち〕! 彼らは私に気づかなかったのです!」

 

 K.R.シャーストリーは、成長すると、地元の卓越した会計検査官として活躍しました。彼は、親愛なる主のメッセージを、シュリ サティヤ サイ オーガニゼーションの地区の会長として地元に伝え、また多くの求道者たちの魂を神のもとへと導きました。彼は今、チクバッラプル町でババが大切にされている価値を重んじる学校を運営しています。

第45回

​第 45 

 バガヴァン・ババは、1976年、ブリンダーヴァンのアシュラムから3キロ離れたホワイトフィールドに二番目の病院を設立なさいました。ネータージー〔指導者の意の敬称〕・スバスチャンドラ・ボース〔インド独立運動の偉人〕の盟友、シュリ・N・G・ガンプレイは、ドイツに30年間滞在した後インドに戻り、1969年にホワイトフィールドに落ち着きました。愛国心に促され、同じような志を持った医療スタッフたちの助けを借りて、彼は「ヘルス・アンド・エデュケーション・ソサエティー」という名前の小さなクリニックを始めました。約4万平方メートルの広大な土地にあるシェッド〔平屋の小屋〕の中に設置された約9平米のクリニックは、無料で村人たちに薬を調剤していました。1970年、健康増進という気高い大義をさらに推し進めるために、ガンプレイはその土地とクリニックを、シュリ・サティヤ・サイ・ヘルス・アンド・ン・トラストに委譲しました。

 1976年8月28日、ヴィナーヤカ・チャトゥルティの吉祥な日、ホワイトフィールドのシュリ・サティヤ・サイ病院の落成式において、バガヴァン・ババはヘルスケアに関するご自身の構想について表明なさいました。

 「人は、体の病と心(マインド)の病という二つの種類の病気に苦しんでいます。この二種類の病気に関して大切なことがあります。それは、どちらも美徳を培うことによって癒されるということです。体の健康は心の健康に必要な条件であり、心の健康は体の健康を確実なものにします。体と心は密接に関わりあっています。健康な体は、健康な心の最良の入れ物です。

 物質的な生活と霊的な生活は、天秤の二つの皿のようなものです。二つのバランスは、ある程度の霊的な進歩が得られるまでは、等しく保たれるように注意する必要があります。霊的な識見を培うことは、人に寛大さ、逆境における不屈の精神、善をなそうという熱意、そして、自分の能力を最大限に発揮して奉仕をするという精神を与えます。これらの美徳は、心と体の両方を強くさせます」

 ババから医師たちへのアドバイスは次のようなものでした。

 「ここで働く医師の皆さんに指摘しておかなければならないことがあります。医師が処方する薬以上に効果があるのは、医師が話す甘く優しい言葉であり、医師が示す愛と思いやりは、患者の病気をより効果的に速く治すことができるということです。医師は患者を自分の親類縁者と見なし、愛と常に変わらぬ配慮を持って患者に寄り添わなければなりません。医師は治癒に影響を及ぼすということ、そして、病気が治ったら患者は医師に満足と喜びをもたらしてくれるのだから患者と医師は連携する必要があるということを、覚えておかなければなりません。ですから、医師は患者に感謝しなければなりません」

 そして、ババは患者には次のアドバイスをなさいました。

 「神の恩寵を頼みとするのは、どんな病気にも最高の治療薬です。薬に対して抱いている信心を神への信心に変えなさい。あなたの信頼を、薬にではなく神に置きなさい。私は、たくさんの人たちが錠剤や強壮剤に頼っていることに、大変驚いています。祈り、霊的な規律、瞑想という手段に訴えなさい。これらはあなた方に必要なビタミン剤であり、あなた方を回復させてくれるでしょう。神の恩寵なくして、薬や医師に何ができますか? 神の御名ほど効き目のある薬はありません!」

 バガヴァンは、ホワイトフィールドの病院を築き上げて管理するための自身の道具として、ラージェーシュワリー医師をお選びになりました。学問的にも、彼女は産科婦人科の専門医として最適任者でした。さらに、彼女は自分の職業に対する情熱を持っている医師でした。彼女は一日12時間以上も仕事に費やしていました。神のことはそれなりに信愛していましたが、1972年にブリンダーヴァンでバガヴァン・ババに会うまでは、サードゥやサンニャースィン〔出家行者〕には、さほど尊敬の念は持っていませんでした。実際、ラージェーシュワリー医師がブリンダーヴァンへやって来たのは、シュリ・サティヤ・サイ・カレッジで学んでいる一人息子に会うためで、たまたまその時、ババがそこに居合わせたのでした。

 初めてブリンダーヴァンに来た時には、その後の出来事の予感などまったくなく、もちろん、自分が神の計画における最終目的地に到達したということには気がついていませんでした。その後も何度かブリンダーヴァンを訪れましたが、そのうちの一つの訪問の際、ババからホワイトフィールドの病院で働かないかと招かれた時でさえ、ラージェーシュワリー医師の答えは丁重な「ノー!」だったのです。49歳という年齢でガーナの都市クマシで450の病床を抱えるコンフォ・アノキエ総合病院の最高責任者として働いていたラージェーシュワリー医師は、キャリアの全盛期にありました。当然ながら、約9平米の広さしかないクリニックを引き受けるなど、彼女にとって面白いことではありませんでした! ラージェーシュワリー医師は、より良い将来を求めてガーナから英国へと移る計画をまとめようとしているところでした。彼女の「ノー」に対するババの返答は、すべてをご存知の優しい微笑みでした! もちろん、ババはすでに彼女のハートの中に入り込んでいて、彼女のハートは自分では気づかないうちに、本当の故郷を求めていました。

 ババは、前回のシルディでのアヴァター時代に、よくこうおっしゃっていました。

 「たとえ私の帰依者がどんなに遠くにいようと、何千マイルも離れていようとも、私のもとへ来るようにと私が望めば、その帰依者は足に糸を結びつけられた雀のように引き戻されてくるでしょう!」

 それはまさしく、定めの時にラージェーシュワリー医師に起こったことでした。彼女はホワイトフィールドの病院が落成する数か月前にブリンダーヴァンへやって来て、定住したのです。ラージェーシュワリー医師は心底、仕事に没頭しました。それは彼女が知っている唯一のやり方でした。新しい持ち場で、彼女は病院を築き上げるための才量を存分に発揮しました。彼女は、好んでチャレンジを引き受けるリーダーであり、ファイターでした。彼女は行く手を阻む障害を乗り越えることを楽しみました。バガヴァンの恩寵と指示の下、彼女は、医師、そして、病院へ押し寄せる地方の村人たちのために働く職員から成る、専任チームを立ち上げました。

 病院経営におけるささいな事柄への彼女の気配りは、賞賛に値する見事なものでした。彼女にとっては、清潔さが第一で、次が信心深さでした! ラージェーシュワリー医師はよく、掃除人たちが来る前の早朝に、ほうきを手に病院の敷地を掃除していました。彼女はこよなく愛する同僚たちにこう言っていました。

 「ある種の仕事をほめそやして、別の仕事を卑しいと決めつけるのは無意味です。シーツを洗うことと外科医がナイフで腕を振るうことは等しく神聖で、やりがいのあることです。どんな仕事であっても、バガヴァンへの捧げものとして行うなら、その行為者はカルマ ヨーギ〔行いを通して神との合一を得る行者〕という気高い位にまで高められ、神の恩寵はまさに命を支える呼吸となるのです。神の全知を信じ、自分は行為者であるという主張と自分の行為の報いへの期待を手放すことは、神と一つになるという究極の目標だけでなく、永続的な神の臨在という豊かな喜びも約束してくれるのです」

 実際、ラージェーシュワリー医師は、永続的な神の臨在を物理的にも体験していた、ずば抜けたカルマ・ヨーギでした。

 それは、1980年11月9日、日曜の朝の極めて早い時間に起こりました。バガヴァンはプラシャーンティ・ニラヤムにおられました。ブリンダーヴァンの大学で働いていた彼女の息子は、土曜日の午後に始まった24時間のグローバル・アカンダ・バジャンに参加するために学生たちと一緒にプラシャーンティ・ニラヤムに行っていました。ラージェーシュワリーはアシュラムの自宅に一人でいました。いつものように、彼女は午前3時に起床して沐浴をした後、4時ごろに日課の礼拝を始めました。

 プージャー〔供養礼拝〕の半ばに、誰かが大きな声で「ドクター・アンマ! ドクター・アンマ!」〔アンマは母の意〕と彼女を呼ぶのが聞こえました。ラージェーシュワリーは、病院での看護を必要とするような緊急事態が起きたに違いないと推測しました。再度、「ドクター・アンマ! ドクター・アンマ!」という同じ声が聞こえました。誰だろうと窓の外をのぞいてみましたが、遠くて暗かったのでよく見えませんでした。三度目に声がした時、彼女は外へ歩いていって、正面玄関のドアを開けました。彼女の心は歓喜の衝撃波を受けました。生身のバガヴァンがドアの外に立っておられたのです! 彼女は言葉を失い、その神聖な時間帯〔ブラフマ・ムフールタ。日の出から翌日の日の出までを30等分した29番目の刻。だいたい午前3時から6時あるいは5時の間〕に突然神様が自分の家の戸口に姿を現されるという予想外の出来事への畏怖の念に打たれました。

 

 バガヴァンは沈黙を破り、

 「プージャーをしていたのですか?」

と、歌うような美しい声で尋ねられました。

 ラージェーシュワリーがパーダナマスカール〔御足への礼拝〕をしようとして身を屈めると、ババがおっしゃいました。

 「しなさい、ナマスカールをしなさい!」

ナマスカールをした後、彼女はあまりの喜びで一瞬目を閉じ、それから、感謝の気持ちいっぱいに「スワミ!」と言って目を開けました。再び目を開けた時、ババは消えていました!

 ラージェーシュワリーが応接室を通ってプージャーの部屋に戻る時、鏡に自分の姿が映っているのが見えました。顔からヴィブーティが噴き出ていました!

 その朝、プラシャーンティ・ニラヤムではアカンダ・バジャンが行われていたので、彼女の息子はマンディルのベランダに座っていました。午前6時半ごろ、ババは彼を室内に呼び入れられました。ババは光り輝く顔に子供のような微笑みを浮かべておっしゃいました。

 「私はブリンダーヴァンへ行って、あなたのお母さんに会いましたよ!」

 

 ラージェーシュワリーは、奇跡的な治癒や救助活動といった形をとった、さらに多くの神の恩寵の驚異を病院で目撃しました。しかし、その全ての中で一番驚異的だったのは、才気あふれる医療専門家たちを引き付け、変容させ、神の使命における優れた治療の道具へと変えてしまうバガヴァンの名人芸でした。そのうち何人かはプラシャーンティ・ニラヤムかホワイトフィールドのババの病院に常勤の内科医や外科医として加わり、他の多くは客員医師として奉仕を捧げました。彼らの話はもちろん、この章で彼らの名前を挙げ連ねることさえ、とうてい不可能です。その中でも、ホワイトフィールドの病院でのP・V・ヘッジ医師、バラスッブラマニアン医師、ナラサッパ医師、サロージャンマ医師、プラバ医師の献身的な働きぶりは注目に値します。1983年に加わったサーヴィトリー医師は、私心のない、疲れを知らない奉仕において群を抜いています。一人ひとりの人生のすばらしい英雄伝をつづるには、丸々一冊を要することでしょう。彼らの仲間が増えますように!

 ホワイトフィールドの病院は、すでに産科病院として認知と名声を獲得していましたが、さらにプライマリー・ヘルスケアにおけるほとんどすべての設備を備えた無類の治療センターとなるべく、着実に成長してきました。1980年11月の手術室の開設と総合外科治療の開始は、その発展において重要で画期的な出来事となりました。

 現代において医学という気高い職業に目標を定めたのは、かのウイリアム・オスラー医師ですが、彼は「病気を予防すること、苦しみを和らげること、病人を治すこと、これが我々の仕事である」と宣言しています。

 ガレノス〔古代ローマの医学者〕は、「私が薬を与え、神が癒す」と世間に表明して、治療という仕事に最も効能のある方法を示しました。商売が医療の分野を侵略し、医療の目標と方法が歪められ、医療がますます多くの人々にとって、ますます手に入りにくいものとなりつつある社会において、門をくぐるすべての人に質の高い医療を完全に無料で提供している、ババの設立されたプラシャーンティ・ニラヤムとホワイトフィールドの病院は、あらゆる医療専門家にこの職業の気高さと栄光を思い出させる標識灯として光り輝いています。

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ホワイトフィールドの病院の落成式でヴェーダの祈りを詠唱するシュリ・カマヴァダニ

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ホワイトフィールドのシュリ・サティヤ・サイ総合病院

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ラージェーシュワリー医師を祝福するバガヴァン

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「私はここにも、そこにもいることができます!」

第44回

​第 44 

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 病院は時が経つにつれ大きくなり、多くの献身的な医師と、医師以外の医療従事者、非医療従事者たちが、人々の体を治して魂を浄化するという使命を持って、病院に加わりました。毎年、さらに多くの設備機器が加わり、特に1979年以降、顕著になりました。1984年2月29日、マハーシヴァラートリの日、病院の南側の広い敷地に、新たに大きな建物が竣工し、病院に一般的な外科処置が導入されました。

 ここで、この病院で死からよみがえり、寮監も目撃した驚異的な事例を紹介しましょう。1985年の早朝、プラシャーンティ・ニラヤムの学生寮に住むナーラーヤナ・シャルマという研究生が、急性のぜんそくの発作で入院しました。病院長のチャーリ医師は衰弱ぶりを見て危機感を募らせました。麻酔医は酸素マスクを使って助けようとしました。シャーンター医師もその場に駆けつけましたが、心臓の鼓動はなく、体はすでに青くなっていました。チャーリ医師は、シャーンター医師に「もうだめだ」と言って、マンディルのババの所へ報告に行きました。15分もしないうちに、彼はバガヴァンからのヴィブーティの包みを2つ持って戻ってきて、ババの指示どおりに研究生の胸に塗り、背中にはお湯を入れた湯たんぽを当てました。

 研究生の様子を見るために病院にやって来た寮監は、起こったことを知ると絶望し、マンディルに行きました。バガヴァンは断言なさいました。

 

 「あの子は良くなります。何も心配する必要はありません」

 

 それから、寮監に熱いコーヒーの入った魔法瓶を手渡して、「彼に少しずつコーヒーをすすらせなさい」と、指示なさいました。寮監は病院に戻り、シャーンター医師にコーヒーを手渡しました。彼女は無表情で魔法瓶を受け取りました。後に本人が語ったことですが、彼女は心の中で、「死んだ子がどうやってコーヒーを飲めるのか?」と思っていました。

 心の中で祈りながら、なす術もなく遺体を見つめていると、研究生の足の親指が微かに動きました! 私たちは心臓が止まるかと思いました! シャーンター医師が研究生の酸素マスクを外し、耳元でささやきました。「スワミがあなたのためにコーヒーを用意してくださったのよ。どうか飲んでちょうだい」彼女がコーヒーをスプーンで一口、研究生に含ませると、嬉しいことに、そして、驚いたことに、研究生は少しずつ飲み込みました。

 シャーンター医師が研究生の腕に血圧測定の布を巻き付けていると、バガヴァンが病室に入ってこられました。バガヴァンは微笑んで、医師にお尋ねになりました。

 

 「彼は死んだのではないですか? なのに、どうして血圧測定の布を巻こうとしているのですか?」

 バガヴァンの声を聞いて、研究生はどうにかこうにか自分の目を開きました! ババは彼のそばに行かれ、からかわれました。「君はまだ生きているのですか? みんなは君が死んだと言っていますよ!」ババはチャーリ医師を見て、「彼が死んでいたというのは本当ですか?」と、お尋ねになりました。「はい、スワミ」と、チャーリ医師は答えました。

 

 シャーンター医師が付け加えました。「スワミ、脈もなければ、まったく呼吸もしていませんでした。心臓の鼓動も聞こえず、血圧も感じ取ることができませんでした。それで私たちは、彼は死んだという結論を下したのです!」

 バガヴァンは微笑んで手を回されました。四角く茶色っぽい、チョコレートのように見えるものが手の中に出現しました。バガヴァンはそれを研究生の口に入れ、かむようにと言われました。

 

 ババは医師に脈と血圧を測るようにとおっしゃいました。どちらも普通の状態に戻っていました。ババは寮監たちの方を向いて、「あなた方は信じますか? 死んだ子が生き返ったのです!」と、おっしゃいました。寮監たちは、「はい、スワミ」と、言いました。ババは医師たちにも同じ質問をなさいました。全員が、「はい、スワミ」と、答えました。医師の一人が、「ババ、あなたは神様です。あなたは何でもおできになります!」と、言いました。「あなた方には、そう思うほどの信心がありますか?」と、バガヴァンがお尋ねになりました。「はい、スワミ!」と、皆、一斉に答えました。「そうです。彼は死にました。私は彼に第二の人生を与えました!」と、ババはさらりと明かされました。

 大勢の男子学生が心配して外で待っていました。ババは寮監に、自分が見たことを説明するようにとおっしゃいました。学生たちは、良い知らせを聞いて喜び、嬉しそうに寮に帰っていきました。

 ババは、ヒドロコルチゾンの点滴を打つようにと医師たちに言い、マンディルへ戻られました。しばらくすると、ババは、適量を服用させるようにと、ご自分が物質化なさった錠剤の瓶を3つ届けさせました。研究生の青年は夕方には回復し、ババの指示により、退院しました。

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プラシャーンティ・ニラヤムのジェネラル・ホスピタル〔総合病院〕の新しい建物

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ババとジェネラル・ホスピタルの医師たち

第43回

​第 43 

 ナローッタム・メーングラ・アルレージャ医師は、1975年にババの病院の院長になり、さまざまな才能をもとに、完全なる献身をもって30年にわたり病院に奉仕してきました。アルレージャは、ボンベイ〔現ムンバイ〕出身の真面目で誠実な霊性の求道者でした。彼は、140歳という高齢で肉体を去った、あるスィッダ・プルシャ〔覚者〕によって示された自分のグルを捜し求めていました。アルレージャがその聖者にマントラを授けてくださいと懇願した時、その聖者は、自分はまもなくこの世を去るのでお前のグルになることはできないと答えました。しかし、その聖者はアルレージャに、いずれお前はマハー・グル〔大師〕に出会うだろうと断言しました。

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 アルレージャはグルを探し求めて1965年にブリンダーヴァンへやって来ました。ババがアルレージャにお掛けになった最初の言葉はこうでした。

 「ドクター、あなたはいつボンベイから来ましたか?」

アルレージャは、どうしてババが自分の職業や、どこから来たのかご存知なのかと不思議に思っていたその時、バガヴァンは彼をインタビューに呼びました。ババはお尋ねになりました。

 「あなたは何が欲しいですか?」

 「神の恩寵により、私は、自分が欲しいと思っていたものはすべて手に入れました。私にはこれ以上望むものは何もありません」と、アルレージャは答えました。

 「ですが、あなたにはまだ欲しいと思っているものがあるはずです。私はあなたが望むものは何でもあげましょう」

 「ババ、私のブッディ〔知性〕が、私に物質的なものは何も求めないようにと促しているのです」

 「そうです、分かっています。あなたはパリパヴカ・ブッディ〔成熟した知性〕を持っています。大変よろしい。あなたは何が欲しいですか?」

 「私にバクティ〔神への愛/信愛〕とシュラッダー〔固い信心〕をお与えください」

 

 バガヴァンは彼の頭に触れて祝福を与えるような仕草をなさり、アルレージャはバガヴァンの御足に触れようとひざまずきました。彼はババの小さな輝く御足が大きな御足へと変わっていくのを見て、大変驚き、大いに喜びました。その大きな御足は、彼にマントラを授けることを拒んだスィッダ・プルシャの御足でした。マハー・グルを探し求める彼の探求は、この日、ブリンダーヴァンで終わりを告げたのでした。

 それから10年にわたって引き続き起こったたくさんの不可思議な体験によって、とうとうアルレージャ医師は、ボンベイからプラシャーンティ・ニラヤムへと引き寄せられました。それらの中でも最も驚いたのが次の体験でした。

 

 アルレージャがボンベイで認定医として働いていた時のことです。ジョセフという名の男が溺れ死に、その遺体が彼の所に解剖のために運ばれてきました。アルレージャは遺体を調べ、死因は溺死であるという証明書を発行しました。いつもの習慣に従って、警察にもその書類の写しを送りました。数日後、ジョセフの親戚たちの心に、あれは溺死ではなく殺人事件ではないかという疑念が湧き上がりました。その時初めて、職務に対するアルレージャの誠実さに疑いがかかりました。彼は助けを求めてババに祈りました。

 裁判所の命令により、遺体を掘り起こして調べ直すことになりました。死体解剖から33日後のことでした! 警察本部長のジョン・クロフトがアルレージャ医師を墓地に連れていきました。棺の蓋が開けられた時、遺体はまるでたった今埋められたかのような生々しい状態でした。本部長は遺体の手足を持ち上げて調べ、遺体には何の損傷も骨折もないと納得しました。

 警官たちがその場所を去った後、アルレージャが自分の車に向かって歩いていた時、ふと、「どうして一ヶ月も経った遺体があれほど新鮮なままなのだろうか?」という思いが浮かびました。戻って棺の蓋をもう一度開けてみると、遺体はすっかり壊変していました。アルレージャは大変驚きました。そこにあったのは朽ちかけた肉の塊でした!

 

 驚きで呆然としたまま家に帰ると、彼は妻からぞくっとするような話を聞かされました。家の敷地の中で、バガヴァンが一匹の大きな魚を手に持って、ぶらぶら揺らしているのを見たというのです! その光景は妻の心配を完全に払拭してくれていました。

 夫妻は急いでプラシャーンティ・ニラヤムへ行き、自分たちの救世主に感謝しました。ババは我を忘れて喜んでいる夫婦にこうおっしゃいました。

 「そうです、私があの遺体をそっくりそのまま、新鮮な状態にしておきました。そうしなければ、あなた方は困ったことになっていたでしょう!」

 夫妻は感謝に満ちてババの御足にひれ伏しました。

 

 バガヴァンのすぐそばで長年仕えていた間、アルレージャ医師には驚くべき神の力と英知を体験する機会が数多く与えられました。そのうちのいくつかがここに記されています。

 

 バガヴァンのダルシャンを求めてプラシャーンティ・ニラヤムへ来ていたカルカッタ〔現コルカタ〕出身の教授、ゴーシュ博士が、心臓発作に見舞われたことがありました。博士はアシュラム内のイースト・プラシャーンティ・ブロックのアパートの一部屋に滞在していました。バガヴァンはゴーシュ博士の治療をさせるためにアルレージャをその部屋に送られました。癌や心臓病といった重篤な疾患を患っている患者の場合、ババの通常のアドバイスはこうです。

 

 「痛みや不快感の原因を告げるのを急いではなりません。なぜなら、それは患者にさらにショックを与えることになり、患者を半分死んだも同然にしてしまうからです。可能な限り、精一杯治療をして、それから徐々に、段階的に真実を明らかにしていくようにしなさい。心臓発作の場合、呼吸不全という問題がないかぎり、患者をすぐに病院へ搬送してはいけません。まず、家で治療して、それから病院へ移したほうがよいでしょう」

 

 アルレージャはゴーシュ博士の部屋へ行き、診察をしました。明らかに心臓発作の徴候がいくつかありました。患者もそれを疑っていました。しかし、アルレージャは不安を抑えて、いくつかの基本的な処置を施し、さらに、ババから送られたヴィブーティも与えました。バガヴァンの指示どおり、患者は翌朝、病院へ搬送されました。一日が過ぎましたが、様態にあまり改善は見られませんでした。三日目に、アルレージャが病院へ行くと、ゴーシュ博士は喜びに顔を輝かせていました。完全に健康な様子でした。アルレージャは神が介入されたという確信を持ちました。そうでなければ、このようなことはあり得なかったからです。アルレージャが病室のババの写真に目をやると、ゴーシュ博士が言いました。

 

 「先生、私は昨夜、不安で眠れませんでした。それで、スワミの写真を見ていたら、スワミが写真から出てこられ、私をヴィブーティで祝福してくださったのです。それから、私の肩を叩いて〔写真の中に〕戻っていかれました!」

 

 それから数日後、ゴーシュ博士はあふれんばかりの健康と幸福に満たされて、カルカッタへ帰っていきました。

 あるとき、アルレージャ医師は掘削用具で井戸を掘っている夢を見ました。脇にはババが立っておられました。アルレージャが三度虚しい試みをし、四度目を行おうとした時、バガヴァンがお尋ねになりました。

 

 「あなたは何をしているのですか?」

 「水を探しているのです」と、アルレージャが答えました。

 「あなたは時間と労力を無駄にしています。あなたは三度失敗し、またそれをやろうとしています」

 「バガヴァン、お願いです、どうか私がなぜ失敗したのか教えてください。私には何が欠けているのですか?」

 「あなたにはタットパラタが欠けているのです」と、ババは言い、消えてしまいました。夢はそこで終わりました。

 

 翌朝、アルレージャはいつものように病院へ行きました。午後一時半にババに自室へ呼ばれるまで、夢のことはすっかり忘れていました。バガヴァンは会話を始めました。

 「あなたは昨日、夢で何を見ましたか?」

 アルレージャが夢の内容を話すと、ババはおっしゃいました。

 「そうです、あなたにはタットパラタ(tatparata)が欠けているのです」

 「スワミ。タットパラタとはどういう意味ですか?」

 「自分で考えて、私に言ってごらんなさい」

 アルレージャは、バガヴァド・ギーターの中から「タットパラハ」(tatparah)という言葉が出てくる節を唱えました。それは第4の39節でした。ババはお尋ねになりました。

 「その節の意味は?」

 「信仰心があり、決意を持ち、感官を制御する者は、英知を得る。その英知はその者に至高の平安を与える、という意味です」

 「では、タットパラタは何を意味していますか?」

 「決意、注意力、正しいことをすみやかに行う姿勢です」

 「そのシュローカ〔詩節〕の文脈では、それは正しい。あなたは何か他の意味を思いつきませんか?」

と、ババは探りを入れられました。

 「ババ、私には分かりません。私に教え諭してください」

 バガヴァンは説明なさいました。

 「タットはブラフマン、パラタは立脚しているという意味です。ですから、タットパラタとは、ブラフマンに立脚している、ということです。さあ、理解しましたか?」

 「理解しました。ですが、私にはブラフマンの体験などないのに、それを理解して何になるのですか?」

 「それはそんなに簡単なことでしょうか?」

 「スワミ、それは分かっています。人間には至高の体験など得られるものではありません。たとえどんなに頑張っても――。ダイヴァクリパー〔神の慈悲〕やグルクリパー〔グルの慈悲〕を享受しないかぎり、無理です!」

 「すべてはふさわしい時に起こります。人は信仰心と忍耐を培わねばなりません。しかし今、もしあなたが望むなら、私にいくつか質問してもかまいません」

 「ババ、あなたは以前おっしゃいました。聖者アシュターヴァクラは、ジャナカ王の耳元でマントラをささやくことによって、王に至高の体験を与えたと。そのマントラは何ですか? 私の知るかぎり、それはどんな本にも載っていません」

 

 「そのマントラを知りたいのですか?」

 「はい、スワミ」と、アルレージャは熱意を込めて言いました。

ババは椅子から立ち上がり、アルレージャの耳元まで身を屈め、おっしゃいました。

 「タット トワム アスィ!」〔タットワマスィ/汝はそれなり〕

たちまち、アルレージャは一切の分離感を失いました。そこにはババが、ババのみが存在していました。

ババが「さあ、もう理解しましたか?」とアルレージャにお尋ねになると、アルレージャはやっと我に返りました。

 

 アルレージャは答えました。

 「はい、スワミ。すべてはブラフマンです!」

 そして、彼はスワミの御足にひれ伏しました。

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タット トワム アスィ

〔タットワマスィ/汝はそれなり〕

 ボンベイにいるアルレージャ医師の姉は、乳がんと診断されていました。彼女の夫はタタ基礎研究所の核科学者で、ババを信じていませんでした。さらに言えば、どんな聖者もサードゥ〔出家行者〕も信じていませんでした。彼女は神を信じていましたが、ババに対してはどんな感情も持ったことはありませんでした。姉は癌であると診断したアルレージャの弟は、アルレージャに、姉の手術のことでタタ記念病院の外科部長であるラームダース医師に話をしてほしいと頼みました。アルレージャはボンベイへ行き、ラームダース医師と話をして、手術の日取りを決めました。

 

 その時、ババはボンベイにいたので、アルレージャは姉のためにババの祝福を得ようと、ダルマクシェートラ〔ボンベイにあるババのアシュラム〕に行きました。アルレージャがババにプラサード〔神から流れ出る恩寵としての食べ物や薬〕を懇願すると、ババはアルレージャにお尋ねになりました。

 「彼女は私を信じていますか?」

 アルレージャはババに言いました。

 「スワミ、分かりません。あなただけがご存知です。それに、たとえもし彼女があなたを信じていないとしても、あなたは彼女に信仰心を与えることも、彼女を治すこともおできになります!」

 ババはヴィブーティを物質化してアルレージャに与え、これを7日間彼女の左胸に塗るようにと指示なさいました。アルレージャは、手術は2日後に行われるのに、どうしてそのプラサードを7日間塗ることができるのかと、不思議に思いました。けれど、すぐに彼はその手術が一週間延期になったことを知らされました。ラームダース医師は緊急手術のためにマドラスへ出向かなければならなくなったのです。

 アルレージャは、ババのプラサードが「癌を消滅させてくれる」と信じていました。アルレージャがそう信じていることを義理の兄に打ち明けると、彼はこう言われました。

 「君は愚かだ。どうやってヴィブーティで癌を治すことなどできるのだ?」

 そして、義理の兄は手術がスケジュールどおり行われることを望みました。アルレージャの姉は、心がぐらついて迷っていましたが、夫に説得されて手術を受けることにしました。ラームダース医師が手術をするのを、アルレージャ医師は立って見ていました。

 

 取り除かれた腫瘍の3つの組織が再度、生体検査に送られました。そのどれもが癌ではありませんでした!二人は当惑しました。義理の兄は、確認のために4枚のスライド全部を著名な癌専門医であるプランダレ医師に送ることを提案しました。1枚目のスライドは手術前の状態、後の3枚は手術後の状態が映っていました。スライドを見ると、プランダレ医師は、最初のスライドは極めて重い悪性腫瘍の相を呈しているが、他の3枚には癌の様相が何も見られないという見解を述べました! この出来事は、アルレージャ医師の家族に計り知れない衝撃を与えました。ババは、「癌の消滅」という喜びとは別に、信仰心という最も貴重な贈り物を彼らに与えてくださったのです。一方、アルレージャの姉は、手術をする前に弟の言葉を完全には信じていなかったことを後悔しました。彼女は、せめて手術の前に腫瘍の再検査を主張すべきだったと思いました。

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第42回

​第 42 

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 1956年から1975年にかけて初代病院長として働いていた幸運な外科医、B・シーターラーマイアフ医師は、こう書いています。
 

 「まさに始まりの時から、ババは私に、ババの指示の下で奉仕するという二つとない機会を与えてくださいました。私はしばしばバガヴァンに、寄る年波には勝てませんので私はこの務めから解かれたほうがよいかもしれませんと、お願いしていました。ですが、その度に、きっぱりと要求を払いのけられ、仕事を続けるようにと力強く励まされました。

 

 『恐れてはいけません。ただ道具でいなさい。私があなたのためにすべてを行います!』

 

 時折、病院で働く医師が何か月も私一人ということもありました。そんな大変な時期、私はババの恩寵によって毎日200人から300人の外来患者を診察し、薬を処方し、その上さらに、相当数の手に負えない内科の患者たちを診ることができていました。バガヴァンは、恩寵を目に見える形でも、見えない形でも与えてくださる方でしたので、そこには失敗という事例は一つとしてありませんでした」

 一方、病院の二周年記念式典においてシーターラーマイアフ医師が大きな声で読み上げたすばらしい奉仕活動の成功記録の報告に関して、ババはこう明言していらっしゃいます。

 「無私の奉仕の精神が帰依者たちを動かして病院の建設中にシラマダーン〔無償で労働力を提供すること〕を行い、それがここにいる医師たちを動かしたことが、この病院が成功している主な理由です」

 病院での体験について、シーターラーマイアフ医師はこのように語っています。


 「この病院で患者たちが体験する説明のつかない一連の回復に、私たちは医師として驚かされました。特に、国内あるいは海外で、すべての主要な病院施設から治療不可能な患者として拒否されたあげく、ここへたどり着いた患者たちの場合がそうです。バガヴァンは、苦しんでいる人、人生という競争においてハンディを持っている人に、より多くの愛を降り注がれます。バガヴァンは、健康という贈り物を、有益な目的のために活用するように、と授けてくださるのです」帰依者たちは、数えきれないほどの奇跡的な治癒や健康が回復したいくつもの事例を、よく知っています。それらはバガヴァンへの帰依心が引き起こしたものです。起こる場所はバガヴァンのすぐそばのこともあれば、世界中のどこか遠い所のこともあります。バガヴァンは、助言を求める医師たちの聖なる相談相手として何度も振る舞ってこられました。医師たちが真っ暗闇で手探りしているときには、特にそうでした。たびたび、バガヴァン自身が、病気を適確に診察したり、適確な薬を処方したりする医者となり、時には緊急の外科手術を行って、帰依者の生命を救ってこられました! また、ババが死んだ人を生き返らせたという事例もいくつか記録に残っています。

 

 ある時、ババは、なぜ病院建設という仕事を手掛けられたのかという理由を明らかにました。

 

 「私は、病院で治療を受けて初めて心の平安や満足を得るような人々のために、病院を建てました。彼らは、常に健康な存在であるアートマへの信心が最高の気付け薬であり、最高の薬であるということを知りません。彼らはこのような病院を訪れて、神の恩寵はあらゆる薬よりも効能があるということを理解することでしょう。彼らは神の方へと向きを変え、真我の悟りの道を歩くようになるでしょう」


 奇跡的な治癒の神秘について尋ねられた時、ババはこのようにお答えになっています。


 「それは、生類も生類以外のものも、すべては私と一つであるという、私の体験です。私の愛はすべての人に注がれています。というのも、私はすべての人を自分として見ているからです。もし心の底から私の愛に報いるならば、私の愛とその人の愛が一つになって、その人の苦痛は癒されます。相互依存の関係がない所には、治癒は起こりません」

 

 もちろん、神の意志のみが及ぼす治癒もあります。ヒスロップ博士がババに尋ねたことがあります。

 

 「スワミが人を癒やされるのは、カルマ〔その人の行為の結果〕がそれにかなっていると思われるときのみですか?」

 

 ババは答えました。


 「いいえ。もしスワミがその人に満足していたら、スワミはすぐさまその人を治します。そこにカルマが入り込む余地はありません。もしその人が清らかなハートを持ち、スワミの教えを生きているなら、スワミの恩寵は自動的にその人のもとへやって来ます」

 ここで、シーターラーマイアフ医師がプラシャーンティ・ニラヤムで目撃した奇跡の治療をいくつかご紹介しましょう。

 

 マイソール藩王国のマレナードゥ出身のコーヒー農園主がいました。彼は30年以上もリューマチ性関節炎のさまざまな症状に苦しんでいました。高熱で病院へ運ばれてきた時には、腎臓もやられていました。バガヴァンはシーターラーマイアフ医師に、彼を診察して何本か注射をするようにと指示を出しました。けれど、その極度に憔悴しきった寝たきりの患者は、医療の専門家に何かをさせることを一切拒否しました。彼はこれまで、アロパシー〔西洋医学/対処療法〕、アーユルヴェーダ、ホメオパシー〔代替療法〕、その他もろもろを受けてきて、もう、うんざりしていたのです。彼は、バガヴァンだけに治療をして欲しかったのです! バガヴァンは丁寧に応じました。バガヴァンはその患者のために小さな液体の入った瓶を物質化し、その液体を2滴、水に混ぜて一日二回飲むようにと言いました。10日もすると、彼はマンディルのベランダまで一人で歩いていけるようになり、一ヶ月もしないうちに、マンディルへ行ってバジャンを歌うようになりました。それから15日もしないうちに、彼はすっかり元気になりました!

 デリー近くのムラーダーバードに、舌の癌で苦しんでいる人がいました。彼は2年間デリーの病院に入院して優れた医師たちの治療を受けていましたが、効果はありませんでした。あらゆる医療の専門家に見放された彼は、最後の手段としてプラシャーンティ ニラヤムへとやって来ました。ある朝、バガヴァンのダルシャンを受けた後、彼は何気なく病院に足を踏み入れ、シーターラーマイアフ医師に自らの苦悩をとうとうと訴えました。医師は、希望を捨てないようにと言い、ホウ素グリセリンを舌に塗り、ビタミンB群の錠剤を飲む ようにと何錠か渡しました。もちろん、医師はその患者に、ババに助けを求めて祈るようにとも助言しました。その二日後、その患者は、バガヴァンに祝福されたヴィブーティの包みをいくつか持ってプラシャーンティ・ニラヤムを出ていきました! いまや、それが彼の唯一の薬でした。彼は、家で礼拝するために、ババの写真も一枚持って帰りました。一年後、彼はプラシャーンティ ニラヤムへ戻ってきましたが、癌は完全に治っていました! 彼はシーターラーマイアフ医師に、いかにしてババが彼の家で、そばにいる証しを示してくださったかを明かしました。バガヴァンの写真を含め、額に入ったさまざまな神様の絵姿から、ヴィブーティがあふれ出したのです。
 

 タンガヴェルは、ボンベイの繊維工場で働いていました。彼は40歳の時、直腸癌に苦しめられました。雇い主がしばしば彼をスイスへ連れていき、医師たちに彼の疾患を診てもらっていました。タンガヴェルは、ババのことを耳にして、急いで恩寵を求めてプラシャーンティ ニラヤムへと出かけていきました。病院で、シーターラーマイアフ医師が彼に出してあげられたのは、いくらかの緩和剤だけでした。ところが、夜になってタンガヴェルがプラシャーンティ ニラヤムのシェッド〔簡易宿泊所〕で眠っていると、鋭い器具を手に持ったババが夢に出てきて、彼に手術をなさったのです! 目が覚めると、彼の体と衣服に血の痕が付いていました。けれど、彼はすこぶる安堵していました。後に、タンガヴェルは、シーターラーマイアフ医師に、「夢の中での外科手術」によって自分は奇跡的に治ったという手紙を書きました!

 

 シーターラーマイアフ医師は、こう締めくくります。


 「胆石は、『そんなものは想像の中にしか存在しません』とババが軽くおっしゃると、消えてなくなります。心臓の発作は、不思議にもおさまり、喘息の苦しみは、もはやなくなり、腫瘍は、ババの命令を受けて消滅します。実際、一切は、ババが住まわれる肉体でのババの御心の戯れなのです。バガヴァンは、私のような医師たちを教育するために、そして、神の恩寵という治癒の力を伴わない単なる医療行為は役に立たないということを私たちに確信させるために、この病院を設立なさったのだと、私は固く信じています。その治癒の力は、心からの祈りによって容易に手に入れることができるのです」

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​第 41 

第41回

 主の根本的な使命は、人間の心(マインド)をはかない肉体への執念から切り離して、永遠なる魂へと導くことです。そこには人と社会双方にとっての救いがあります。人間社会は、人が霊的な目標を追求するときにのみ、完全なる幸福と調和という理想に向かって前進することができます。バガヴァンは、おもに人が霊性を取り戻すことに携わっておられますが、人の物質的な幸福を無視されることはありません。つまるところ、人間は天の子であるのと同じく、地の子でもあるのです。ババが理想とされる、人間にとっての霊的な天国は、地上に根差したものです。ババは人間にその人自身、同胞、そして自然と調和して生きることを教えることと同様に、人間の基本的、物質的な必要を満たすことにも従事なさっています。この両方が達成されたとき、初めて黄金時代は幕を開けることができるのです。

 

 魂に付いた傷を癒すためにやって来られたアヴァターによって設立された最初の施設は、体を治すための病院でした。バガヴァンは1954年、ご自身の29回目の誕生日に、自らの住まいの後ろにある小さな丘の上に病院を建設するための礎石を据えられました。

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バガヴァンの29回目の誕生日にプラシャーンティ・ニラヤムで病院の礎石を据える

 その建設は帰依者たちへの愛、またそれと同じくらいに、帰依者たちの神への愛を示す作業となりました。バガヴァンはほとんど毎日のように建設現場に出かけていき、老いも若きも喜びと熱意を持って働く帰依者とともに数時間を過ごされました。

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建設予定地でのババとボランティアの帰依者たち

 帰依者はそれぞれ応分の働きを捧げつつ、バジャンを歌いました。建物に使われる石やレンガの一つひとつが、神に対する彼らの愛で満たされていました。バガヴァンは、そのうっとりするようなすばらしい現場を司る主として、岩の上に座っておられました。その忘れがたき時代の一端であった帰依者たちは、ババが月明かりの夜に果物のジュースの大きな瓶を一つ手に持ってやって来られ、いかにしてその神の飲み物をコップに注いで自分たち一人ひとりに手渡してくださったかを鮮明に覚えています。

 

 東に面したその建物は、毎朝、朝日の黄金の輝きを浴びて丘の上に姿を見せて、主とその信徒の一群との蜜のような愛を味わっていました。そのころは視界を遮るような物は何もなかったので、背景にそびえ立つ雄大な丘陵に沿って流れるチットラーヴァティー川をそこから見ることができました。シュリ・サティヤ・サイの名を冠した最初の施設であるその病院は、1956年10月4日、ナヴァラートリ祭において、当時のアーンドラ・プラデーシュ州首相、シュリ・B・ゴーパーラレッディによって落成されました。病院には5つの部屋があり、2部屋が病室として使われ、もう1部屋は分娩室、そして他の2部屋は、診察室、および、薬の調剤や着替えをする場所として使われました。

バガヴァンは当時、多くの時間を病院で過ごし、病める人々を励まし、慰め、医師やそのチームにいる医療以外のボランティアを激励しておられました。最初の年は、毎日200人ほどの患者が近隣の村々から病院へと集まってきました。当時、病院の医師は一人だけで、退職した外科医だったのですが、彼が疲れていると、ババは彼に休憩するようにとおっしゃり、患者をご自分で診ておられました! 病院の百薬の長は、バガヴァンの恩寵でした。言うまでもなく、それは絶対に信頼できる確実な薬でした。年が経つにつれ、病院で働く医師の数は増えましたが、バガヴァンの直接的、物理的な関わりは徐々に減っていきました。それでも、目には見えないバガヴァンの臨在が、彼らの治療をする手を導き続けました。

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病院での神なる医師

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​第 40 

第40回

 ここで、地上の女王からメロディーの女王へと話を移しましょう。世間では「MS」と呼ばれている、バーラタ・ラトナ〔インドの宝石〕・シュリーマト〔女性に付ける敬称〕・M・S・スッブラクシュミーです。彼女は、ヒンドゥスタン音楽の巨匠ウスタード〔マエストロの意〕・バデー・グラーム・アリー・カーンから、「スワラ・ラクシュミー」(甘い声の女神)と呼ばれていました。かつて、マハートマ・ガンディーは彼女のことをこう語っています。

 「彼女の声はことのほか甘い。彼女は我を忘れてバジャンに没頭する。祈っている時には、我を忘れて神に没頭しなければならない。バジャンを歌うのと、我を忘れて神に没頭してバジャンを歌うのとでは、まったく違う」

 これこそまさに、彼女の音楽の顕著な特徴です。彼女は、ナドーパーサナ〔音楽を通じた礼拝/ナーダ・ウパーサナ〕に専念することによって、カルナーティック音楽の霊的なエッセンスを現代音楽の中に取り戻しました。ナドーパーサナでは、バクティ〔神への愛/信愛〕に満ちた音楽が人をモークシャ〔解脱〕へと導く道となっています。

 

 ジャワハルラール・ネルー〔インド初代首相〕からMSへ繰り返し贈られた賛辞があります。

 「私が誰だというのでしょう? 私は歌の女王の前では、しがない一人の首相にすぎません!」

 これは、当時のネルーの常套句になりました。ネルーは、慈善的な目的で催される彼女の音楽会でスピーチをする時はいつも、この自らの有名な賛辞の言葉を繰り返すことを好みました。

 「私は人前でのスピーチに慣れてはいますが、このような機会に話をするのは決して容易なことではありません。スッブラクシュミーの音楽には人の心を揺さぶる特質があり、彼女がデリーを訪れるといつも、聴衆は彼女のメロディーに心奪われて、身震いするような感動を覚えるのです!」

 

 MSは、たくさんの慈善運動や慈善団体のゴッドマザー〔後見人〕でした。その中でも最も有名なのは、マハートマ・ガンディーに関わりのあるカストゥルバ・メモリアル・トラストの資金を集めるために開かれた彼女のコンサートでした。実際、お金は決して彼女が歌を歌う動機にはなりませんでした。彼女は偉人でした。彼女の実直さ、謙虚さ、寛大さは、伝説的です。彼女はインド大統領から「バーラタ・ラトナ賞」〔インドにおける民間人への最上の褒章で“インドの宝石”を意味する〕という最高の栄誉を与えられましたが、それは、音楽の霊的な力に対して払われた敬意であり、彼女という形で具象化されたインドの理想の女性像への賛辞でした。

 

 MSにとってのバガヴァン・ババは、「カリの時代〔カリユガ〕に人類を救うために来られたシュリ・クリシュナ・パラマートマの化身」であると、彼女は自らの言葉で語っています。彼女はしばしばこのようにも述べていました。

 「ババは真理と善の化身です。彼を信じることは、この困難な時代に倒れることのない支えを持つことなのです」

 多くの人にとって、メロディーの女王が人生において私たちと同じように困難を抱え、逆境に遭っていたと知るのは、驚きかもしれません。事実、逆境は彼女の音楽に最高のものをもたらしました。「最も甘く美しい歌は、最も悲しい思いを語る歌である」とシェリー〔英国の詩人〕は書いています。神は大切な帰依者を故意に数えきれないほどの困難に置いて、神との合一という最終的な無上の至福へと向かう準備をさせるというのは、インドで一般的に信じられている概念です。この脈絡からすれば、タミル語とヒンディー語で制作されて40年代に人気を博した映画の中でMSが演じたミーラー〔藩王女から吟遊詩人となった16世紀の偉大な信者〕の役は、彼女の私生活と重なっていたのでしょう。

 

 MSは1975年にブリンダーヴァンで初めてババのダルシャンを受けました。MS夫妻にとって、そのころは大変な時期でした。彼女が初めてババの御足にひれ伏し、体中が震えて目に涙があふれた時、夫、シュリ・サダーシヴァムはいつものように彼女に付き添っていました。バガヴァンは微笑んでおっしゃいました。

 「いらっしゃい、何年もお預けになっていたナマスカールを捧げなさい!」

 バガヴァンは夫妻を個人的な集まりに呼び、夫妻の苦難を順を追って語られました。それは夫妻の心中どおりに語られたので、バガヴァンこそは自分たちのアンタラヤーミ〔ハートの中に住まう神〕であると、夫妻は確信したのでした。バガヴァンとの最初のインタビューを思い出しながら、MSは後によくこう語っていました。

 「何年もの歳月を経て、やっと私たちはババが生身の姿で目の前におられるという至福を体験したのです」

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ブリンダーヴァンでのババと夫妻

 MSは10年前、家族ぐるみの友人であり、夫妻の幸せを祈ってくれるババの帰依者たちからバガヴァン・ババのことを聞いていました。ぜひともダルシャンを授かりたいと切望していましたが、1975年までそれはできませんでした。サダーシヴァムがババの所へ行きたがらず、理想的で忠実なインド妻であるゆえに、MSは夫の付き添いなしにはどこへも旅に出ようとはしなかったのです。バンガロールを訪れた時、MSはヴェーンカタチャラム夫妻と共に滞在していました。シュリ・S・R・ヴェーンカタチャラムはババの帰依者で、よくブリンダーヴァンを訪れていました。あるとき、MSはヴェーンカタチャラムに私のプラーナム〔合掌〕をバガヴァンに捧げてくださいとお願いし、バガヴァンに私のためにプラサーダム〔神から流れ出る恩寵を意味する食べ物やヴィブーティなど口に入れることのできる物〕をくださいと祈りました。ヴェーンカタチャラムが彼女の祈りをババに捧げた時、ババがおっしゃいました。

 「MS? 知っていますよ。彼女の夫、サダーシヴァムはここに来ようとしません。でも、いずれ彼はやって来ます」

そして、彼女のためのプラサーダムをお与えになりました。

 MSはヴェーンカタチャラムから、彼が慢性の偏頭痛で苦しんでいた時に初めてブリンダーヴァンを訪れた際の興味深い話を聞いたことがありました。ブリンダーヴァンへの旅の最中に、彼は心の中で「サイ・ババは私の頭痛を治すことができるだろうか?」と考えていました。ダルシャンの時、バガヴァンは彼の前を通りすぎていかれました。しかし、きびすを返してヴェーンカタチャラムの前に立ち、こうおっしゃいました。

 「あなたは何がほしいですか?」

 「ババ、私はあなたからの祝福を懇願します」

と、ヴェーンカタチャラムは申し出ました。

 

 バガヴァンはヴェーンカタチャラムの頭に手を置いて彼を祝福されました。何年もの間彼を悩まし続けてきた頭痛は、その瞬間に消え去り、二度と頭が痛くなることはありませんでした!

 

 MSはどのようにしてババの帰依者になったのかと尋ねると、答えは実にシンプルでした。

 

 「人々はババの偉大さについて語り、また、ババが人々の問題を解決される驚くべきやり方について教えてくれました。最大の奇跡は、もちろん、ババの愛に満ちた優しい眼差しが降り注がれる時に体験するシャーンティ〔平安〕です。ババがおられるということ以外すべてを忘れてババに全托する時の、守られているという感覚のなんとすばらしいことか! ババの言葉はいつも真理に満ちています。それは神の言葉です!」

 

 MSとサダーシヴァムはプラシャーンティ・ニラヤムとブリンダーヴァンを定期的に訪れるようになり、MSは機会さえあればいつでもバガヴァンのために心から歌いました。バガヴァンの御前での初めてのコンサートは、1977年5月、ブリンダーヴァンでのインド文化と霊性に関する夏季講習の時でした。当時の外務大臣だったシュリ・アタル・ビハーリー・ヴァージパイー〔第13代および16代インド首相〕が、その日の午後の、人であふれかえった大学の公会堂での主賓でした。MSが我を忘れるほどのバクティで恍惚としてミーラーのバジャンを歌うと、バガヴァンは立ち上がって美しい金のネックレスを物質化し、彼女にお与えになりました。バガヴァンからそれを受け取って、彼女はいたく感動していました。その贈り物は彼女の霊的な人生において深い意味があったのでしょう。

 

 MSはよくこう言っていました。

 「夫と私は何度もプラシャーンティ・ニラヤムやブリンダーヴァンへ行きました。そして、ババがチェンナイ〔MSの地元〕を訪れる時はいつもスンダラム〔ババのチェンナイのアシュラム〕にも行っていました。ババが帰依者たちの間を歩いて回られるダルシャン以外、何も期待してはいませんでした」

 ですが、ババはよくMSの前で足を止め、二言三言、祝福の言葉をかけ、彼女のためにヴィブーティを物質化されていました。夫妻を個人的な会に呼ばれることもよくありました。さらにバガヴァンは、チェンナイにある夫妻の住まいを訪れられたことも何度かありました。1982年に夫妻の娘ラーダーが重篤な病に倒れた時には、バガヴァンは打ちひしがれた夫妻と娘をブリンダーヴァンに一月以上も留めおき、限りない慈悲を降り注がれました。

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プラシャーンティ・ニラヤムでM.S.スッブラクシュミーを祝福するバガヴァン

 MSはサダーシヴァムの指揮下、インドのさまざまな言語でサイ・バジャンのアルバムを発表しました。その中には、ババ自らが若いころに作曲された「サイラーマ・チルカ」〔ラーマであるサイの鸚鵡〕という曲が含まれていました。少数の幸運な者は、MSがその歌を歌うのをババがこの上なく幸せそうに聴かれているのを目にしました。ババは手で拍子をとったり、一緒に歌ったりもされていました。他の曲はMSのレパートリーからの曲がほんの数曲で、何曲かはそのアルバムのために覚えたり作ったりした曲でした。その胸の高鳴る瞬間に思いを馳せながら、MSは思い返します。

 「それぞれの歌を歌いながら、私はカルナムールティ〔慈悲の権化〕であられるババへの深い思いに我を忘れました」

それから彼女はうやうやしくこう付け加えました。

 「神が私たちと共に生きている時代に生きられるなんて、私たちはなんと幸運なのでしょう!」

 

 あるバガヴァンの側近の従者が、MSが亡くなる数週間前にチェンナイの彼女のもとを訪れました。彼女にいとま乞いをする時、彼はこう尋ねました。

 「アンマー〔母上〕、私は明日プラシャーンティ・ニラヤムにまいります。スワミに何かお伝えになりたいことはありますか?」

 彼女は両手を合わせ、一瞬上を向いて部屋にあるババの写真に目をやりました。そして、込み上げる思いで息を詰まらせながら言いました。

 「神に何を伝える必要がありましょう? 神は、私の願いを、それが私の心の中に湧く前に、もう叶えてくださるのに!」

 彼女の聖人のような答えは、バガヴァンとのすべてにわたる絶え間ない心の交流を示しており、その従者は彼女にそんな質問をしたことを恥ずかしく思いました! けれど、彼女の答えを聞いた時に彼が覚えた崇高な気持ちは、この質問をしたのは正しかったと感じさせてくれたのでした。

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私たちのハートが奏でる音楽に合わせて拍子をとるガーナローラ〔歌を愛する者/音楽に魅せられる者〕
シュリ・サティヤ・サイ

​第 39 

第39回

 ナワナガル藩王国のマハーラージャ〔藩王〕であった故シュリ・ランジット・シンジーの王位継承者である、マハーラージャ、シュリ・ディグヴィジャイ・シンジーは、「ジャム・サーヘーブ」〔君主や王子の称号/サーヒブ〕と呼ばれて広く知られていました。

 

 1965年2月、ジャム・サーヘーブは、ジャームナガル〔グジャラート州の都市〕の宮殿で危篤状態にあり、胆のう結石症による激痛に苦しんでいました。彼は糖尿病で、さらに、緑内障のせいで目もかすんでいました。強い意志の持ち主でしたが、ここ数年は絶え間なく病気を患い、全くどうすることもできない状態にまで陥っていました。彼は自らの惨状から救われる唯一の方法として、死を待ち望んでいました。ジャム・サーヘーブの手当てを担当する高名な医療専門家たちも、同様になす術がありませんでした。彼らは止むを得ず外科手術を提案しましたが、彼の弱った身体が持ちこたえられそうにないということは承知していました。マハーラーニー〔藩王女/藩王夫人〕であるグラブ・クンワルバは、夫を手術が行われるボンベイ〔現ムンバイ〕に移すのは賢明ではないと思いました。ジャム・サーヘーブは、何としても自分のグル〔導師〕であるシュリ・アゴーラナンダジー・マハーラージに会わなくてはと、躍起になっていました。そのグルは、その地域では偉大なヨーギであり、神の子として知られていました。二日後、グルがジャム・サーヘーブの寝床までやって来ました。藩王家の弟子〔ジャム・サーヘーブ〕は自らの師に懇願しました。

 「マハーラージ、私はもうこれ以上この痛みに耐えられません。お願いですから、医者たちに私を眠らせてくれるよう助言してください」

 グルは心を動かされましたが、強(こわ)い外見でその優しい心を隠していました。グルは言いました。

 「そんなことを言うとは、君はジャム・サーヘーブかね、それとも誰か他の者かね? 私は君がそんなことを言うのを二度と聞きたくない!」

 「では、私はどうすればいいのですか?」

 グルは鞄の中から一枚の写真を取り出すと、それをジャム・サーヘーブに見せて、「この方を知っているかね?」と尋ねました。ジャム・サーヘーブは写真を見る気力さえありませんでした。彼は言いました。

 「私には誰も分かりません。まず元気にならなければ、私は誰かを見ることも知ることもできません!」

 「弟子を神のもとへ導くのはグルの務めだ。この写真のお方は人の姿をとった神である。彼を見て、彼に祈りなさい」

 グルはそう命じ、藩王〔ジャム・サーヘーブ〕が見ることができるようにと、その写真をランプの下に持っていきました。

 ジャム・サーヘーブはやっとの思いでその写真を見ると、「それはサイ・ババです」と、かぼそい声で言いました。

 「そうです。バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババです。君の心を、痛みから彼の方に向け変えなさい。彼には君の痛みを取り除く力がある。君はただ、彼に心の底から祈るだけでよいのだよ」

 

 グルの声は信念に満ちており、忠実な弟子の心に一筋の希望をもたらしました。

 部屋の外の廊下でマハーラーニーが戸惑いながらもしっかりとした声で誰かと話しているのが聞こえたので、グルは部屋の外に出ました。マハーラーニーはグルに言いました。

 「どこかの紳士が、マハーラージャにすぐに会いたいと来ています。どうしてそんなことができましょうか? 私がマハーラージャは病気だと伝えさせると、その紳士はマハーラージャか、マハーラーニーのどちらかに会うまでは帰らないと言っているのです!」

 

 グルはマハーラーニーに言いました。

 「はるばる南からやって来た、そのかわいそうな人に、どうして会わないのですか?」

 「マハーラージ、私の夫が死の床にあるというのに、いったいどうして誰かに会うことなどできますか?」

と彼女は尋ねました。

 「彼は私たちにとって大切な人かもしれません。一緒に会いましょう」グルはそう決定を下しました。

 

 訪問者は二階に通されました。それは、英国から来たガディア医師でした。彼は元々ジャームナガルの出身でした。ガディア医師は、うやうやしく提案しました。

 「お邪魔をして申し訳ありません。私は、バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババからここへ来るようにと言われて来ました。二日前まで、私はプッタパルティにいました。ババは私に、マハーラージャの具合がよくないのでこのヴィブーティの包みを渡すようにとおっしゃいました」

 

 ガディア医師は、大きな包みをマハーラーニーに手渡しました。マハーラーニーは驚きましたが、グルは違いました。まるでグルはそのことを予期していたかのようでした。グルは子どものように無邪気に歓喜の声を上げました。

 「あなたに言ったでしょう。彼は私たちにとって大切な人かもしれないと! 私はすでにババの写真をベッドの脇に置いておきました。だから、こうして今、彼の聖なるプラサード〔神から流れ出る恩寵〕が送られてきたのです!」

 マハーラーニーはガディア医師にお礼を言い、医師はいとまごいをして出ていきました。グルはマハーラーニーを伴ってマハーラージャの部屋に入っていきました。グルは部屋の外で起こっていたことをマハーラージャに説明しました。グルはヴィブーティの包みを開けて、そのうちの少しを水に混ぜて、サーヘーブに飲むように言いました。グルはそのプラサードを患者〔サーヘーブ〕の腹部にも塗りました。彼らがその不思議な出来事について話しはじめると、ここ三日間というもの一睡もしていなかったマハーラージャが眠りにつきました。誰もが大いに安堵しました。朝、目覚めると、痛みは完全に消えていました! バガヴァン・ババは、王室の夫妻の人生に喜びと安らぎをもたらすべく、夫妻の人生に登場したのです。その恵まれたグルは、自らの弟子を神のもとへと導くという務めを果たしたのでした。

 マハーラージャの回復は、ゆっくりではありましたが、確実でした。6カ月もすると、かすんだ視力以外は、完全によくなっていました。1965年の12月、彼は初めての娘婿、ラージクマール・ナラハリ・シンジーに伴われて、プラシャーンティ・ニラヤムへと赴きました。バガヴァンは、受け取った人が何と説明してよいか分からないような甘いお菓子を物質化しました。それはクリーム色で、べとべとするでもなくパサパサしているわけでもありませんでした。その味について、後にジャム・サーヘーブは、「私は世界中を回ってきましたが、あのようなものはそれまで一度も食べたことがありませんでした!」と言っています。ババは、その相当な量の「この世のものではない」プラサードをマハーラージャに差し出すと、言いました。

 「ジャム・サーヘーブ、あなたは糖尿病ですね」

 「はい、そうです」

 「何も心配いりません。スワミはそれをあなたにプラサードとして与えているので、あなたは何もためらうことなく食べていいのですよ」

 マハーラージャがそれを食べた後、バガヴァンは尋ねました。

 「あなたは何が欲しいですか? ジャム・サーヘーブ、言ってごらんなさい」。

 「スワミ、私はただ、あなたの祝福が欲しいだけです」

 「視力が欲しいとは思いませんか?」

 「私は、何かこの世のものを見るための視力など欲しいとは思いません。私は、あなたの御姿をはっきりと見ることはできませんが、それは私の心の中に焼き付けられています。私は、最後に主ソームナート〔月の神〕のダルシャンを受けたいと願っています」

 「私はあなたをソームナートである私のもとへ連れていきましょう」と、バガヴァンは断言しました。

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ソームナート寺院でのバガァヴァン

 ジャム・サーヘーブは、満足してジャームナガルへ帰っていきました。彼は最期の時まで至福の日々を過ごしました。1966年2月2日の朝4時ごろ、それは突然やって来ました。彼は重度の心臓発作を起こしたのです。けれども、痛みはまったくありませんでした。周りにいた誰もが驚いていましたが、特に彼を看ていた医師たちは驚いていました。ジャム・サーヘーブは、脈拍がゼロにまで落ちてしまっても、一つのいすから別のいすへと移動したりしていました! 最終的に、彼はベッドの上に小高く重ねていたクッションにもたれかかり、医師たちや使用人たちにお礼を言いました。横になる前に、彼はマハーラーニーに、「ありがとう。君はずっと良い妻だった。これからもずっと神様は君のそばにいるよ!」と言いました。彼は、マハーラーニーからガンジス河の聖水を飲ませてもらった後、穏やかにこの世を去りました。

 

 ジャム・サーヘーブの死から一週間後、マハーラーニーはプラシャーンティ・ニラヤムから一通の手紙を受け取りました。それは、2月3日に、彼女の姪でクッチ藩王国の姫、ナンダ・クマーリーによって書かれたものでした。ナンダは当時、プラシャーンティ・ニラヤムで暮らしていました。ババはナンダに伯父のナワナガル藩王国のマハーラージャが死んだことを伝え、ババの代わりに伯母への手紙を書くようにと頼みました。ババはナンダ・クマーリーに言いました。

 「マハーラーニーに私の祝福を伝えなさい。彼女は、マハーラージャの魂はどうなったのかと考えて、深い悲しみで心が一杯になっています。私は最期の瞬間に彼と共にあり、彼の最後の望みどおりに、彼をソームナートのもとへ連れていき、彼にモークシャ〔解脱〕を授けました」

 

 その手紙は、嘆き悲しむマハーラーニーの心に膏薬のような働きをしました。バガヴァンはその手紙を通じて、「サークシャート・パラメーシュワラ・スワルーパ」〔目に見える至高神の化身〕としてのバガヴァンを完全に信じる心を彼女に与えました。彼女はババの周りにいた帰依者たちに、愛のこもった助言として、ためらうことなくこう言いました。

 

 「スワミはサークシャート・イーシュワラ〔目に見えるシヴァ神〕です。スワミのマーヤーの芝居に惑わされてはいけません。スワミは、お芝居をするのがすばらしく上手なのですから!」

 

 1966年4月、マハーラーニーであるグラブ・クンワルバは、息子のユヴラージ〔若き藩王〕シュリ・シャトルシャリヤ・シンジーが王位に就いたことで、ナワナガル藩王国のラージャマータ〔藩王の母〕になりました。彼女がバガヴァンに初めて会ったのは、1966年5月、彼女の従妹、ボンベイのクッチ藩王国のマハーラーニーの館でのことでした。当時、グラブ・クンワルバは息子のことで、とても頭を悩ませていました。彼女は大いなる自尊心の持ち主で、強い意志を持った女性でした。そのことに彼女が触れるまでもなく、ババは彼女に言いました。

 

 「あなたは何も心配する必要はありません。私はあなたの息子です!」

 その言葉によって、彼女は一切の悩みから永遠に解放されたのでした。ラージャマータは、アヴァターからの祝福を受けてデーヴァマータ〔神の母〕となったのです。二、三日もしないうちに、バガヴァンはグラブ・クンワルバのボンベイの住まいを訪れました。彼女の娘、ヒマンシュ・クマーリーは、ババの神性が信じられるような印を私に示してくださいと、心の中で祈っていました。慈悲深い師は、すぐにそれに答えました。ババの所〔祭壇〕に亡き愛する父の姿が見え、娘は座り込んでしまいました。心に付いていた疑いの染みが、感謝の涙で洗い流されていきました。

 ラージャマータは、主の使命という祭壇に完全に身を捧げました。1968年、80代になったラージャマータが、ブリンダーヴァンのディヴィヤ・サンニディ〔神の近くの意〕で暮らすためにやって来ました。バガヴァンが自分の館に住むようにと彼女を招いたのです。彼女は、1971年にブリンダーヴァンのアシュラムの一区画にババから「デーヴィー・ニヴァース」〔女神の住居〕という新築が贈られるまで、ずっとそこで暮らしました。1972年にシュリ・サティヤ・サイ・セントラル・トラストが設立されると、ババはラージャマータをトラストの一員に任命しました。

 1981年に総合大学が創設されると、バガヴァンはその大学のトラストにも彼女を任命しました。彼女はさらにシュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションのワールド・カウンシル〔世界評議会〕にも所属していました。バガヴァンの使命における彼女の役割は他に類を見ないものでした。

 ラージャマータの生涯で興味深い出来事を二、三紹介しましょう。それはバガヴァンと彼女の間に存在する関係の甘美さを表しています。その甘美さは、もちろん、バガヴァンの度量の大きさという味がします。

 バガヴァンは、三度目にジャームナガルを訪れた時、ラージコート〔グジャラート州の都市〕のラージクマール大学シュリ・ディグヴィジャイ・シンジー部門の開設式の後、1973年3月31日の正午にアマル・ヴィラス宮殿に到着しました。何台もの車がバガヴァンの車の後を付いてきていました。ラージャマータもその中の一人でした。あまりに几帳面な主催者であった彼女は、玄関ポーチにいる忠実なアラブ人の警備員に、すでに指示を出してありました。彼の愛称は「シェイフ」〔アラビア語で長老や賢人の意〕で、彼は、ラージャマータの主が訪問するので、宮殿の神聖さを保つために玄関ポーチと宮殿には誰も土足で入ることを許さないように、という指示を与えられていました。車が玄関ポーチに到着し、バガヴァンが車から降りると、接待係の者たちが大いなる敬意をもって出迎えようと前に進み出ました。しかし、「シェイフ」が誰よりも先にやって来て、皆が驚いたことに、バガヴァンに向かってこう言ったのです。「ババ、ジューティー ニカーリエ!」〔靴を脱いでください〕。ババは微笑むと、謙虚にも警備員の言葉どおりにしました! ババは履き物を脱ぎ、太陽の下で待っていた国防市民軍の部隊の儀仗兵たちを出迎えるために、前に進みました。

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 何秒もしないうちに、ラージャマータがそこへ到着し、彼女の警備員がやらかした不敬な振る舞いを知りました。彼女は急いで主の所へ行ってひたすら謝り、「どうか履いてください」と、自分の手で持ってきたババのサンダルを差し出して懇願しました。しかし、バガヴァンは国防市民軍の方へ足を進め、真夏の正午の炎天下、焼けつくような砂の上を、平気な顔で裸足で滑るように歩いていき、ラージャマータは肝をつぶしました! ポーチへ戻ってくると、バガヴァンは、ラージャマータが「シャイフ」を、許し難い罪を犯したとして腹立たしげに叱りつけているのを目にしました。許しを懇願するような警備員の目と、情け深い眼差しをしたバガヴァンの目が合いました。ババはこう言って彼女をなだめました。

 「ラージャマータ、あれは、まったくもって彼の過ちではありません。あなたは、私以外は、という例外を彼に指示していませんでした。私は彼の忠誠心と忠実さを高く評価します!」

 警備員の目から感謝の涙がどっと溢れ出しました。彼は、ババが血と肉をまとった神であると信じていたにもかかわらず、やむをえず女主人の指示どおりに務めを果たしていたのです。

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焼けつくような砂の上を滑るように歩くババ

 さらに、ババは謝意を表すように、優しく彼の背中を叩くと、彼にお守りを物質化しました。それは緑がかった灰色の石でした。縦横1インチ〔2.54cm〕の大きさで、アラビア語でコーランからの文字が刻まれていました。驚いた「シャイフ」は、すばらしい機会に恵まれたという感謝の眼差しでラージャマータの方を見ました。彼女が彼を叱りつけていなければ、そんなものを手にすることなどなかったからです!

 1970年12月、バンガロールからボンベイへ向かう途中、バガヴァンはプネーにあるラージャマータの「ジャームナガル・ハウス」に泊まりました。翌朝、その建物で公開の会合が開かれることになり、ありがたいことに、ババの講話がある予定でした。ラージャマータは、娘のヒマンシュ・クマーリーと一緒に厨房で昼食の準備の様子を監視していました。厨房で座っていても講話を聞くことができましたし、窓越しにババのダルシャンに与かることもできました。御講話の最後に、バガヴァンはバジャンを何曲か歌い、ラージャマータは目を閉じてそのバジャンを繰り返しました。二、三曲バジャンをリードして歌った後、ババは帰依者たちにバジャンを歌い続けるように言い、勝手口から厨房へと歩いていきました。ラージャマータは信愛に我を忘れてバジャンを歌い続けていました。バガヴァンは、娘と他の者たちに、ラージャマータの邪魔をしないようにという合図をし、彼女が歌うのを聴きながら、その後ろに立っていました。しばらくしてから、厨房の様子を見ようと後ろを振り返ったラージャマータは、ババがいるのにたいそう驚きました。ババは彼女に言いました。

 「ラージャマータ、あなたはとても上手に歌いますね。さあ、パンダル〔仮設小屋〕に行ってバジャンを何曲かリードしてもいいですよ!」

 「いいえ、スワミ、とんでもありません! 私はそんなことはしたことがありません」

と、当惑したラージャマータが言いました。

 「いいえ、あなたは私が歌うのを何度も聴いてきましたよ。今度は私が、あなたが歌うのを聞きたいのです!」

 「スワミ、どうか私を困らせないでください……どうしてここへいらっしゃったのですか?」

 「私は、あなたがここで何をしているのか見に、そして、あなたのバジャンを聞きにきたのです!……何人分の食事をこしらえたのですか?」

 「スワミ、60人分程度の食事を用意しました」と、ラージャマータは答えました。

バガヴァンは配膳室へ行き、すべての器の蓋を開け、中に何が入っているのか尋ねました。そうしてバガヴァンは、用意されたすべての品を祝福しました。それからパンダルへ戻り、アラーティーを受けました。

 ババは、数人の招待客と昼食をとっている時に、食事を出す人たちのリストを付け加え続けました。ババに命じられて、たくさんの人が次から次へと昼食に呼び入れられました。ラージャマータは、台所に用意してある食べ物の量を心配してドキドキしました。けれど、ババは彼女の狼狽を、満面の笑みを浮かべて見ていました。食事会が終わった時、全部で700人が何の問題もなく食べ終え、さらには、食べ物はまだ残っていました! その日、厨房にいた誰もが、そこにあったすべての容器がアクシャヤ・パートラ〔尽きることのない葉っぱの器〕になるという奇跡を目撃したのでした!

 

 ダルシャン・ホールに安置する新しいクリシュナの像が、ブリンダーヴァンに運び込まれました。それはこの上なく美しい芸術作品で、横笛を吹くクリシュナが、トリバンギ〔頭を一方に傾け、上半身はそれと反対方向に傾け、腰から下の部分はまたそれとは逆方向に傾けたポーズ〕の姿勢をとっていました。像は学生たちの手でトラックからマンディルの前に降ろされ、中に運び込まれました。ババはその作業をずっと監視し、その像をとても喜んでいました。ババはその像を見せようと、ラージャマータを呼びました。彼女が中へ入ってきて、顔いっぱいに喜びをあらわにして像を見ていると、バガヴァンが尋ねました。

 「ラージャマータ、このクリシュナはどうですか? とても美しい……そう思いませんか?」

彼女は崇敬に満ちた眼差しでババを見て言いました。

 「私のカナイヤ〔小さなクリシュナ〕ほど美しいお方はおりません!」

ババの光り輝く顔に、魅惑的な微笑みが浮かびました。ババはそこにいたカレッジの校長に尋ねました。

 「彼女のカナイヤというのは誰のことか分かりますか?」

学長は当惑してババを見ました。答えが分からなかったのです。バガヴァンは誇らしげにご自身を指さしながら、威厳のある頭を振ってうなずきました!

 

 9月26日はラージャマータの誕生日でした。バガヴァンは、その最後の誕生日となった日に「デーヴィー・ニヴァース」〔ババが彼女のためにブリンダーヴァンに建てた家〕を訪れました。彼女を見るや、バガヴァンは歌いはじめました。

 「ハッピー バースデイ トゥ ユー、ラージャマータ!」

 ラージャマータも、ババが歌うのをまねしながら、ババの方へ歩いていきました。彼女はババに祈りました。

 「スワミ、私は今日、あなたに誕生日の贈り物を一つお願いしたいと思っています。必ずそれを私に恵んでください!」

 「それは何ですか? 言ってごらんなさい」

と、ババが尋ねました。

 「まず、それをくださると私に約束してください。そうしたら、それが何なのか申し上げます!」

 「まず、あなたの欲しいものを言いなさい。それをあげますから!」

 神と帰依者との間で、押し問答がしばらく続きました。とうとう、バガヴァンが折れました。

 「よろしい、あなたが欲しいものは何でもあなたにあげると約束しましょう! さあ、言ってごらんなさい!」

 「バガヴァン、私に死をお与えください!」

 ババはご自分の両手をラージャマータの頭の上に5分間置きました。その貴い時間に何が起こったのかは、誰にも分かりませんでした。後に、彼女はそのことについて娘に話していました。

 「スワミは神です。スワミはその5分の間に、私が見たいと思っていたものすべてを見せてくださいました!」

 

 その日から、ラージャマータは自分がこの世を旅立った後に何をすべきか、諸事万端について、家族に詳細な指示を与え続けました。さらに、孫息子には、人が死んでいるか、いないか、どんなふうにして見極めることができるのかを教えました!

 

 ラージャマータは、6日後の午前4時に、最愛の主が歌うバジャンを聞きながら、穏やかにこの世を去りました。そのバジャンは、彼女がテープレコーダーでかけてほしいと言った歌でした。息を引き取る数時間前、ラージャマータは娘と孫息子にこう言っていました。

 

 「もう私に話しかけないでね。私はバガヴァンの声だけを聴いていたいの!」

 

 夜が明けると、バガヴァンが「デーヴィー・ニヴァース」にやって来ました。いとしい帰依者の遺体を見ながら、バガヴァンはつぶやきました。

 

 「これから私は、いったい誰とジャガダをすればいいのでしょう?」

 

 「ジャガダ」とは、ヒンディー語で口論のことです! バガヴァンとラージャマータとのチャーミングな関係のたぐいまれな一面に、バガヴァンは彼女がいろいろな事柄に関して自由に異を唱えるのを許していたことがあげられます。時には、バガヴァンと口論することさえ、彼女に許していました! ラージャマータがバガヴァンに帰融して一つになった日の朝、バガヴァンはそうした口論を「ジャガダ」と呼んだのです! 間違いなく、彼女はバガヴァンの数えきれない帰依者たちの中で、唯一無二の存在でした!

もう私に話しかけないでね
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デーヴァマータ〔神の母〕となったラージャマータ

​第 38 

第38回

 スコットランド出身のビル・リアム・マッケイ・エイトケン氏は、自分のことを「スピリチュアル・ノマド」〔霊性の流浪の民〕と称し、60年代にインド人に帰化することを選択し、インド中を旅して回りました。そのインドでの霊的な地理の学習で得た専門的な知識は、彼を数多くの人気の旅行記を書く作家にさせました。ビル・エイトケンは、バガヴァン・ババに関するすばらしい本、『Sri Sathya Sai Baba―A Life』を書いています。その本で、彼はバガヴァンの人生の霊的な真髄をとらえ、バガヴァンをゴータマ・ブッダやイエス・キリストの系列にある現代の世界教師として描いています。

 バガヴァン・ババの帰依者たちは、ビル・エイトケンがアヴァターの計り知れない神秘を知性的に探究していることについて、完全には賛成しかねるかもしれませんが、彼が次のように宣言していることには誰も異議を唱えることはできません。

 「サティヤ・サイ・ババが私の中に呼び起こすもの、それは気が狂いそうになるほど美しく、間違いなく世界中の誰もが体験してみたいと願うような感覚です」

 ビル・エイトケンは、1972年の冬、ニューデリーにある「ジンドの藩王女」の館で、初めてババを見ました。彼の第一印象はこうでした。

 「間違いなく、彼はいかなる聖者の中でも、あるいは、はっきり言って、私が今まで会ったどんな人よりも、最も衝撃的で感動的な存在です。あまりにも活力あふれるエネルギーで満ちているために、もし彼に触れたらショックを受けるかもしれないほど、超自然的な静電気がパチパチと音を立てているような感じがしました」

 彼は、ババがカシミールを旅した後の1980年の6月14日に、再び同じ場所でババに会いましたが、それはビル・エイトケンにとって、とんでもなく尋常でない体験でした。というのも、そのおかげで、彼は6週間後にヒマラヤ山脈を旅した際に命を救われることになったからです。彼の語る話はこうです。

 

 「当時、私は、ヒマラヤ山脈の中でも最も困難な行程をたどって行く聖所の一つ、ナンダ・デーヴィーへの巡礼の旅をする準備をしていました。ババに会いに行った時、私は高地用の装備で身を固めていました。高山で必要なロープ、岸壁用ロープの留め具、信頼のおけるピッケル、断崖絶壁の氷で覆われた地形を切り抜けるのに欠かせない道具類などです。

 ババは私の健康を優しくお尋ねになり、私はババに私の冒険を祝福してくださいと言いました。私の宿の女主人が、私のピッケルを祝福してもらったら、と提案してきました。ババは微笑まれ、ピッケルを手に取ると、それが作られる際に使われた鉄の組成について、いくつか鋭い質問をしはじめました。そこにいたババの学生たちは、そのことについて私以上によく知っていました。突然、ババは何もない所からヴィブーティを物質化なさいました。それには、私がみんなの前で見ていたような、手をくるくると回すような動作は一切ありませんでした。ババはそのヴィブーティをピッケルのつるはし側の部分に、かなり強くこすり付け、それから、終わったというようなしぐさをなさり、『うまくいきますよ』と言って、ピッケルを私に戻してくださいました。

 私にはどんな奇跡が行われたのかは分かりませんでしたが、それから一ヶ月後の7月26日、聖所で登山をしている時に、そのピッケルのつるはしが私の命を救ってくれたのだ、ということを知ることとなりました。ラマニで、リシ・ガンガー峡谷の上にある、岩を切り取ってできたような手ごわい岩盤をジグザグに登っている時、私は二人のとても優秀なガルワーリー〔ウッタラーカンド州ガルワール地方の人々〕のポーターたちに手助けをしてもらっていました。彼らは、とても熟練した大胆なポーターたちだったので、どんなロープも使おうとはせず、その峡谷の刃(やいば)のように急傾斜している岩盤を裸足で渡っていきました。彼らはロープを固定させながら先へ進み、それから、しゃがんで私を待っていました。私はというと、自分を引き上げるために必要なあらゆる登山用の装具一式を身に付けていました。

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 私たちは、地表が裂けてできたような狭い小峡谷を登り始めました。そこは極めて滑りやすく、油断のならない所でした。どこにも頼りになるような足場はなく、進みながら自分で足場を作っていかなければなりませんでした。私は振り返って、大きく口を開けた深淵を覗き込みました。はるか下を流れる川の急流によって刻み込まれた巨大な峡谷は、真っ直ぐに降りても1,000フィート〔約300メートル〕はあったでしょう。

 私は、じめじめした地面をつま先で蹴って足がかりとし、手を伸ばしながらピックを上部の地表に強く打ち込みました。驚いたことに、その6インチ〔約15センチ〕のつるはしは、岩にわずか3インチ〔約7.5センチ〕入っただけでガチンと音を立て、私の体重を支えるには十分ではなくなりました。その瞬間、つま先の下の地面が砕け落ち、私は自分が地表に優しく沈み込んでいくように感じたかと思うと、ピック一つで峡谷の上にぶら下がっていました。絶体絶命のその時、私の全体重がそのピックにかかっていました。私は、自分はあっという間に1,000フィート下に落ちて間違いなく死ぬだろうという恐怖よりも、むしろ自分の無能さへの嫌悪感を強く抱きました。

 どういうわけか、その3インチの鉄は、軟弱な地表を突き通すことはできなかったにもかかわらず、ポーターたちが戻ってきて私をつかまえるまでの間、持ちこたえてくれました。その後、私たちは、危機一髪を何度か切り抜けて、グルプールニマーの聖日に、我らが聖なる目的地である聖所ナンダ・デーヴィーへ無事に到達しました。帰りの旅の途中にも、身の毛がよだつような出来事がいくつかありましたが、ありがたいことに、ババの恩寵のおかげで、私たちは無事に切り抜け、私は生きて今日、この話を語っているのです」

  このように、バガヴァンは、志に燃える世界中の多くの魂たちに手を差し伸べてきました。距離のあるない、カーストや信条、あるいは国籍の違いがバガヴァンの愛と慈悲を妨げることはできません。バガヴァンはよく、「愛に理由はなく、愛には時季もない」と歌っています。

 

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 バガヴァンは、アヘートゥカ〔理由なき〕・ダヤースィンドゥ(慈悲の王)です。バガヴァンの、理由なき、絶え間ない慈愛は、シュリ・カストゥーリ博士を鼓舞し、「あなたが彼を必要とするなら、あなたは彼〔の慈悲を得る〕に値します!」と、彼に宣言させています。

 

 バガヴァンの慈悲の英雄物語は、そのようなバガヴァンを必要としている魂を探し出し、次の章へと続いていきます。

​第 37 

第37回

 シュリ・チダンバラクリシュナンは、ティルネルヴェーリ〔タミル・ナードゥ州の都市〕から、25キロ離れた町、ムックダルの裕福な若者で、南インドの「タバコ王」として知られた家の出身でした。高名な占星術師から1960年3月15日までに死ぬと予言されたために、チダンバラクリシュナンは大変な恐怖心と不安を抱えていました。その期限の一週間前のことです。彼は何人かの友人たちからババに会ってみるよう勧められました。ババはマドゥライ〔タミル・ナードゥ州の都市〕からトリヴァンドラム〔ケーララ州の州都〕へ行く途中、ティルネルヴェーリを経由することになっていました。ババはその日、ティルネルヴェーリにいる数人の帰依者たちの家を訪れ、隣町のスレンダイに泊まっていました。

 チダンバラクリシュナンには、彼を苦しめていた問題がもう一つありました。地元でとても影響力を持つ兄が、チダンバラクリシュナンが自分で選んだ相手との結婚への道をふさいでいたのです。兄は、花嫁はまだ未成年であるという理由で、法廷にその結婚に反対する禁止命令を発行させることまでしていました。翌朝、スレンダイでのダルシャン中、ババはチダンバラクリシュナンのところへまっすぐにやって来ると、彼の手を取り、家の中へ連れていきました。ババは彼の肩を叩いて言いました。

 「心配しなくていい。あなたは長生きします。占星術師が予言したように死んだりはしません。私はただあなたを救うためにここへやって来たのです!」

 チダンバラクリシュナンは耳を疑いました。言葉も出ませんでした。目から涙があふれ出しました。ババが続けました。

 「結婚はどうなりましたか?」

 「どうして何でも知っておられるのですか?」

と、チダンバラクリシュナンは思わず口にしました。

 「このもじゃもじゃ頭のババは、何でも知っています。何も心配することはありません。私があなたの結婚式をプッタパルティで執り行い、お兄さんも参列させましょう!」

チダンバラクリシュナンは信じられませんでした。彼はぶっきらぼうに言いました。

 「ババ、兄は大変な権力者です。誰の言うことにも耳を貸したりはしません」

バガヴァンは微笑み、こう言って請合いました。

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 「私に任せなさい。すべてうまくいきます!」

 チダムクリシュナンがあっけにとられていると、ババはご自分の肖像が描かれたロケットを物質化して彼に渡し、言いました。

 「これは、あなたのためのラクシャー〔腕に着けるお守り〕です。いつも身に着けていなさい」

 チダンバラクリシュナンは、その瞬間から別人になりました。全能の守護神を見いだして、彼のハートは新たな希望と勇気で満たされました。ババに言われて、彼はババの旅の一行に加わり、トリヴァンドラムとカンニャークマーリー〔インド最南端の巡礼地〕に同行しました。幸運にも、彼は海岸での数多くのリーラー(神聖遊戯)を目撃することになりました。地元の町に戻るころには、彼は占星術師の予言に対する恐怖から完全に解放されていました。ババは、こう言って彼に別れを告げました。

 「あなたがダイヴァヌグラハ〔神の恩寵〕を手にしたとき、ナヴァグラハ〔九つの惑星〕があなたに危害を加えることはできません!」

 人が神の恩寵を手に入れたとき、九つの惑星でさえその人に悪い影響を及ぼすことはできない、とは何という真理でしょうか! バガヴァンは、それから三か月もしないうちに、プラシャーンティ・ニラヤムのマンディルで結婚式を執り行いました。ババの約束どおり、彼の兄もその結婚式に参列したのでした。

ダイヴァヌグラハ
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第36回

​第 36 

 アルゼンチンのレオナルド・P・ガター氏は、1981年にブエノスアイレスの「ラージャ ヨーガ スピリチュアル協会」の会員だった一人の婦人からサイ ババのことを耳にしました。レオナルドはその協会の副会長でした。その婦人がどのようにしてババのことを知るようになったかという話は、とても心を引き付けるものでした。

 その前の月、彼女はインドに行く途中、数日ロンドンに滞在しました。現地の図書館で書棚の本を見ていた時、上の棚から一冊の本が彼女の頭の上に落ちてきました! それはババに関する本でした。その本に目を通していくうちに、ババに会いたいという強烈な欲求が湧いてきました。彼女はインドのプラシャーンティ ニラヤムを訪れ、ババにインタビューを与えられました。

 

 ブエノスアイレスに帰ってから、彼女はババのことを熱烈に、興奮しながら協会の会員たちに話しました。彼女は、ババは世界が待ち望んでいたアヴァター〔神の化身〕―救世主―であると言いました。それに感激したレオナルドは、ブエノスアイレスにあるサイの帰依者グループの会合に出席しました。けれど、彼は自分のことを帰依者だとは思っていませんでした。

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 その後しばらくして、レオナルドの夢にババが現れました。夢の中で、レオナルドは数人の友人たちと部屋にいて、ババがドアのところに現れて部屋に入ってきました。レオナルドは心の中で思いました。「もし、彼がアヴァターならば、私の近くに来た時、何か特別な感覚がするにちがいない!」そして、まさにそのとおりのことが起きたのです。バガヴァンが近づいてきた時、レオナルドは信じられないような体験をしました。以下は本人の言葉です。

 「私は、自分のサトル ボディ〔微細体〕のすべての細胞が振動するのを感じはじめました。そして、細胞の一つひとつが、至福に満ちたエネルギーで沸き立ち、爆発しはじめました。私は霊的な探究において探し求めていたアーナンダ〔至福〕を、あっという間に手にしたのです! エネルギーと至福の波が私の足元から頭まで上っていきました」

 その体験で、レオナルドは全く自分の身体をコントロールできなくなり、倒れてしまいました。しかし、意識ははっきりとしており、完全なる至福の状態にありました。ババがドアの方へ歩いていくのが見え、レオナルドは、「ババ、あなたは神です!」と心の中で繰り返しました。ババは後ろを振り返り、レオナルドの方にやってきました。ババはレオナルドを起こし、彼の頭を軽く叩いて祝福しました。そこで夢が終わり、レオナルドは目が覚めました。その夢によって、レオナルドはババに会いたいという、燃えるような思いでいっぱいになりました。そういうわけで、レオナルドはインドへ行く帰依者たちのグループに加わり、1982年1月にマドラスで初めてのダルシャンを受けたのでした。

 

 バガヴァンがプラシャーンティ ニラヤムに戻っていくと、アルゼンチンのグループもバガヴァンの後を追い、熱烈な思いでインタビューを待ちました。34日が過ぎましたが、インタビューなどまったくありませんでした。メンバーの中にはがっかりする者も何人かいましたが、レオナルドは、ババは自分の帰依者を失望させるようなことをするはずがないと信じていました。絶望する代わりに、レオナルドは自分の内面を見るようにし、自省しました。その夜、彼は思いました。

 「スワミがこの時代のアヴァターであることが分かった以上、スワミにお仕えして、スワミのメッセージを広めなくては。スワミに心から全托しよう」彼はバガヴァンに、それを達成するための信仰心と意志力をお授けくださいと祈りました。次の朝、バガヴァンはダルシャンの列にいたレオナルドのところに来て、言いました。

 

 「いいでしょう。私は今日の午後、あなた方をインタビューに呼びましょう」

 その日の午後、アルゼンチンのグループはインタビューを与えられ、その時ババはレオナルドの耳元でこうささやきました。

 

 「私は自分の帰依者たちを決して失望させません!」

 そのインタビューの後、レオナルドは自分の生涯の使命――アヴァターのメッセージを自分の地で伝えること――を確信したのでした。

 1982年3月にプラシャーンティ ニラヤムを発つ前、レオナルドは9月に戻ってきてバガヴァンのダルシャンを受けたいという強い思いが心に湧き上がるのを感じました。けれど、自分の経済的状況がそれを許さないことは分かっていました。それでもレオナルドは、ババに願いをかなえてくださいと祈り、ブエノスアイレスに戻ったのでした。アルゼンチンの帰依者のグループは、少人数でしたが、とても献身的で強い意志を持っていました。彼らは国中を、時には国外までも出かけて回り、地上に神聖なる神なる主がおわすという素晴らしいニュースを広めて回りました。レオナルドは、どこであろうと、誰に対してであろうと、あらゆる機会にババの話をしました。

 1982年の7月、仕事でエクアドルに行った時のことです。レオナルドはキト〔首都〕にあるハタ ヨーガのグループに話をする機会がありました。その会合の終わりに、その国でも有名な、とても影響力のある大企業家で、エクアドルの元外交官だった人から、翌日のランチに自宅へ招待されました。ランチの間、会話はババの超自然的な癒しのパワーの話へと流れていきました。会話の最後に、その企業家は彼にこう尋ねてきました。

 「この9月に私と一緒にインドへババに会いに行ってもらえませんか? あなたさえよければ、旅行の手配はすべて私がします!」

 

 レオナルドは大喜びでそれに同意し、バガヴァンに願いをかなえてもらったことを感謝しました。二人は9月の第一週にプラシャーンティ ニラヤムにやって来ました。道中、レオナルドはその友人の旅行の目的を知ることになりました。彼は霊性の求道者ではありませんでした。彼は自分の口蓋(こうがい)がんを治してほしいとババにお願いしたかったのです。彼はアメリカで外科手術を受けていましたが、それは救いとはなりませんでした。レオナルドはババに彼の友人にお慈悲をお与えくださいと祈りました。

 9日目の午後のバジャン中、二人がマンディルの建物の中に座っていた時、奇妙なことが起こりました。その企業家が、手が付けられないほど動揺してむせび泣きはじめたのです。レオナルドは彼をなだめようとしましたが、慰めようがありませんでした。しばらくすると、企業家は叫び声を上げました。「ババはなんて親切なんだ! 彼は私のがんを治してくれた!」

 

 レオナルドはあっけにとられていました。彼はその友人に尋ねました。

 「どういう意味ですか? いつババはあなたに話しかけたのですか?」

 「数分前にババが私のところへやって来られたのを見なかったのかい?」

と企業家は尋ねました。

 「どうしてそんなことが? ババはまだ出てきておられませんよ!」

 「ババが私のところへ来られて、私の目の前に立って私に口を開けるようにと言ったんだよ。それから私の口の中に手を入れて、何かを引っぱり出したんだ。そして、『あなたは治りました!』と言ったんだ。私は自分は間違いなく治ったと思う!」

 

 友人の信じられないような体験を聞いて、レオナルドは何と言っていいのか分かりませんでした。二人はその翌日プラシャーンティ ニラヤムを発ち、エクアドルへと戻りました。主治医であるキトのがんの専門医が検査を行いましたが、がんの痕跡は何も残っていないことが確認されました! 言うまでもなく、その企業家はバガヴァンの揺るぎない帰依者となりました。彼は自身の体験を書き記し、小冊子にして一万部をエクアドル中で配ったのでした。

 10年後、レオナルド・P・ガター氏は、ラテン アメリカでのサイの活動の重要なリーダーとなりました。

ババnの囁き
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レオナルド・P・ガター氏を祝福するバガヴァン

​第 35 

第35回

 フィリップ マシュー プラサード氏は、ケーララ州のパールガートという町の非常に信仰の篤い家庭に生まれました。その町の調和に満ちた環境で育ったフィリップの若いころは、すべての宗教に共通の根源である霊的かつ道徳的な価値への理解において際立っていました。しかし、15歳の時、カレッジで学業を修めるためにトリヴァンドラム市〔州都〕へ移ると、彼の物の見方は突如として変わってしまいました。マルクス主義思想の強い風〔ケーララ州はインド共産党マルクス主義派が政権をとっている〕に煽られて足元から揺るがされた彼は、極端な無神論者となってしまいました。

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 17歳になるまでにマルクス主義の学生運動のリーダーとなり、18歳でマルクス主義の政党の党員となりました。彼は21歳の時に学業を捨て、ナクサライト運動〔極左の急進的な共産主義運動〕に参加しました。そして、1968年にカルカッタで創設された全国ナクサライト委員会の創設者の一人となりました。ほどなく、警察との武力衝突の渦に巻き込まれたり、ケーララ州の丘陵地帯の部族のために働く一方で地主から土地を略奪したりするようになりました。そして、一年もしないうちに投獄されました。

 1973年、カリカット〔ケーララ州の港湾都市〕の管区刑務所の独房に入れられたフィリップの精神は混乱状態にありました。彼は人生における根源的な問題について深く考えるようになりました。魂の霊的な飢餓感がさまざまな形で顔を出し、昼となく夜となく彼に付きまといました。彼は自分が選んだイデオロギーと道に幻滅していました。人生で最悪の暗黒の危機が立ちはだかってきた時、彼が子供のころに祈りを捧げていた神は、彼を見捨てませんでした。その地域のサティヤ サイ オーガニゼーションが、彼の独房を出てすぐの刑務所内の場所でバジャン〔神への讃歌〕を催しました。けれど、霊的なものすべてに対する否定的な考えによって心(マインド)が完全に混乱していたために、一時間に及ぶバジャンの間、彼はいらだち、立腹していました。バジャンの最後にボランティアの一人が独房にやって来て、鉄格子の隙間からプラサード〔神に供えた果報として神の恩寵が注がれた供物〕のオレンジを優しく彼に手渡しました。フィリップは激怒し、それをくれた人にそのオレンジを投げ返しました。その弾丸はボランティアの後頭部に当たり、その人は振り返ってフィリップを見ました。その人の目には怒りも恐れもありませんでした。その人はただ立ち去りました。フィリップはその出来事を思い返して深く考えるようになりました。その出来事は彼のハートの中に強い道徳的ジレンマを引き起こしたのです。

 

 ある夜のこと、突き刺すような苦悩に耐えられなくなって、彼はどうしようもないほどに泣き崩れました。とうとう、祈りたいという耐え難い欲求が爆発しました。彼は「主の祈り」――イエスが弟子たちに教えたとされるもの――を祈りました。それは子供の時に母親から教わったものでした。彼は願いをたった一つ請いました。それは眠りたいという願いでした。その願いはすぐに聞き届けられました。後悔の涙で濡れたシーツの上で、彼は静かに、夢を見ることもない甘美な眠りへと落ちていきました。

 その夜再び授かった信仰心が、彼の人生を完全に変えました。それから4年間、彼は刑務所での日々を、祈り、ナーマスマラナ〔唱名〕、黙想、そして、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、仏教の経典を学ぶことに費やしました。彼はバガヴァッドギーターのメッセージを深く探求し、永続するインド文化と多宗教のエートスの現代的なシナリオにおけるマルクス主義の哲学思想との統合を探っていきました。何年も経ってから、この探究は、近代インドにおける宗教間の調和の救世主として光を放つ、シルディ サイ ババの教えへと彼を導きました。彼のハートに、シルディ ババの慈愛に満ちた姿への親近感が自然と湧き上がってきました。

 ついに刑務所を出たフィリップは、弁護士の職に就き、政治活動家として、そして、ソーシャル ワーカーとして、虐げられた大衆を向上させる仕事に身を捧げました。彼は、スワミ アーナンダ ティールタという、大衆の擁護者であり、シュリー ナーラーヤナ グル〔1856-1928〕から直接教えを受けた最後の門弟であったサンニャースィン〔出家行者〕と接触を持つようになりました。重病を患っていたアーナンダ ティールタは、フィリップと共に過ごしていたある日、グルの生まれ故郷であるチェムパザンティに連れて行ってほしいと思いました。そこはトリヴァンドラムから数マイル離れた所にありました。アーナンダ ティールタはひどく弱っており、2、3歩歩くことさえできませんでした。ところが、車でその地に着くやいなや、沸々と活力がわいてきて、信愛の涙を流しながら嬉々としてマンディル〔お寺〕を歩いて巡礼したのです。フィリップはその姿を見て衝撃を受けました。

 フィリップはその日、グル バクティ〔導師への信愛〕の力というものを理解しました。彼のハートは真のグルを見つけたいという思いに焦がれました。アーナンダ ティールタはプラシャーンティ ニラヤムを2度訪れたことがあり、ババに大いなる畏敬の念を抱いていました。ババに対する敬意に満ちた彼の言葉は、フィリップに深い衝撃を与えました。さらに、ハワード マーフェットの『奇跡が生まれる』という本によって、彼の心の準備は整いました。

 1984年のクリスマス直後に、奇跡的な方法で神からの招集がかかりました。その2日前、彼は、弁護士が着用することになっている上着と訴訟案件の書類を入れた箱を父親の家に置き忘れ、彼の父はそれを12月26日の午後6時に彼のところに持っていきました。箱を開けると、何か金属がぶつかる音がしました。フィリップは指輪が1つ入っているのを見つけました。その指輪にはシルディ サイ ババの顔が彫られていました。それは彼の指にぴったりでした!

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フィリップの言葉です。

 「その指輪を見ただけで、私は恍惚とした気持ちに満たされました。その至福は3日間、私の全身に染み渡っていました。神はもはや知性の命題ではなくなっていました。神は即座に生きた現実となったのです」

 

 けれど、フィリップの懐疑的な心(マインド/頭)は、その3日間の後、彼がそこに安住することを許しませんでした。彼は言います。

 

 「私は、その指輪は誰かあまりに熱狂的な帰依者がババのメッセージを広めたいという必死な思いから箱の中に入れたものかもしれない、という疑念を引きずっていました。私はそういった品物が売られているようなトリヴァンドラムの店を歩き回り、同じような指輪を探しました。ですが、無駄に終わりました。情けないことに、ではなく、幸いなことに、です」

 すぐに彼はプラシャーンティ ニラヤムへ行き、師のダルシャンを受けました。しかし、彼のハートにあった罪の意識という重荷と、他人からの疑いの眼差しが、彼の平安と幸福をさまたげました。最終的に、彼は1985年のオーナム祭の時、主によって罪悪感という渦の中から救い出されました。師との初めてのインタビューは、彼の人生における決定的な瞬間でした。フィリップは純粋な喜びと共に思い返します。

 「スワミは、私に干渉することなく、ありのままの私――錠前も、中に詰まっているものも、何もかも――を受け入れてくれました。無条件に受け入れられたことによって、私は至福に満たされました。45分間続いたインタビューの中で、スワミは17回こう繰り返しました。

『あなたの良心を罪悪感で汚してはいけません!』

 

 スワミは、まるで私がたった一人の友人であるかのように、そして、この全宇宙で彼の友情に値する価値のあるたった一人の者であるかのように、私を扱ってくれました。私はどれほど誇らしく、自信を持てたことでしょう! 今まで誰もそんなふうに私を受け入れてくれた人はいませんでした。私の母親ですら。

 “世界”は私を変えたがり、そして、ただ私を受け入れました。“世界”、すなわちスワミは、ありのままの私を包み込んでくれました。そのように受け入れられたことで、涙がごうごうと止めどなく流れ出て、私の服もスワミのローブもぐっしょりと濡れてしまいました。スワミは私の涙をご自分のハンカチで拭い、ヴィブーティを物質化し、私の口の中に入れてくださいました」

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 ババはフィリップのためにエメラルドの指輪を物質化しました。それを贈りながら、バガヴァンはすでにフィリップの手に飾られていた指輪に目を向けて、目をキラキラさせながら尋ねました。

 

 「その指輪は店で手に入るものですか?」

 フィリップは、ババは自分の疑り深い性格をからかっているのだと理解しました。彼の家族全員に物質化の贈り物がありました。3歳の息子には真珠で飾られた金の十字架、娘には片面にババの写真、もう片面にキリストの肖像が描かれたロケット〔ペンダント〕、奥さんにはシルディ ババの顔が彫られたロケットで、「私がここにいるのに何を恐れるのか!」と刻まれていました。

 言うまでもなく、フィリップはケーララ州におけるサイ アヴァターの強力なメッセンジャーとなりました。演説の才能、文才、そして公共の福祉への情熱によって、彼は使命を果たしました。カリカットへ旅行した時のことです。自分の人生における真のターニングポイントは、師との最初のインタビューではなく、師の謙虚な召し使いだった人にオレンジを弾丸のように投げ返した時だったと、彼は悟りました。フィリップはその時のことを次のように語っています。

 

 「以前、私はカリカットのサティヤ サイ オーガニゼーションに招かれて、市の公会堂のぎっしりと詰まった聴衆の前でバガヴァン ババについてスピーチをするようにと依頼されたことがありました。話を進めていくうちに、不本意ながらも刑務所で囚われの身でいた際に、初めてサイ バジャンに接した時のこと、その時の私の怒りに満ちた反応について話をしました。私のスピーチが終わると、一人の老人がやって来て、近くにある自宅にどうしても来てほしいと言いました。彼の名前はシュリー シャンカラ アイヤルといい、花の卸売を営んでおり、何十年も前にババの帰依者となったということでした。彼の家で一杯のコーヒーが出され、私がそれを飲み終えると、彼は泣き崩れ、この話を語り始めました。

 シャンカラ アイヤルは、刑務所で私のオレンジの弾丸を投げつけられたボランティアその人だったのです。彼にオレンジが当たった時、彼は独房の中の怒れる若者に――私のことですが――お慈悲をと思わずにいられませんでした。彼はバガヴァンに祈りました。

 『スワミ、あなたのお慈悲をこの青年に注いでください。そして彼が幸せになれるように変容させてください。どうか、いつの日か、あなたの恩寵で、私の家で彼に一杯のコーヒーを入れてあげられますように!』

 スワミはシャンカラ アイヤルの祈りを聞き入れて、私を救いに来られたのです。そのころでした。私の人生が急展開し始め、神への信仰を取り戻したのは。彼が私にオレンジの弾丸を投げつけられた独房で、私はスワミによって振られた旗の下、長旅に終わりを告げたのです。シャンカラ アイヤルは私の旅の駅長だったのです!」

​第 34 

第34回

 サーングリーとコーラープル〔いずれもマハーラーシュトラ州の都市〕の法科大学で教えていたアブドゥル ラザーク バーブーラーオ コルブ教授は、人気のある法律教師として名声を博していました。1981年2月、彼は、プラシャーンティ ニラヤムにあるバガヴァン ババの新しい大学が14の学科で客員教授を必要としていることを知り、大喜びしました。彼はこの4年間、ババのアシュラムをよく訪れていました。けれど、ババはまったくコルブに話しかけることはありませんでした。

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 実のところ、バガヴァンは一度だけコルブを見てくれたことがありましたが、それは1977年にまで遡ります。コルブの心を永遠に捉えるにはそれで十分でした。コルブいわく、「私はババを一目見て恋に落ち、夢中になってしまった」のです。彼は、スラム暮らしのわんぱく小僧から尊敬される教授へと人生を駆け上る手助けをしてくれたのはババだった、と確信しました。

 今や、ババの教育の分野での使命に携わってババにお仕えするチャンスが目の前に開かれ、コルブはそれに飛びつきました。彼はコーラープル法科大学での教職を辞し、シュリ サティヤ サイ高等教育機関〔通称サイ大学〕の商法の客員教授職への願書を送りました。1981年3月にプッタパルティを訪れた時に学部事務所で聞いたところによると、サナータナ サーラティ誌に掲載された求人広告の14の職務に対して、著名な教授たちの応募が世界中から何千通も寄せられたということでした。コルブは、サイ大学で教えるという望みをすっかり失って、意気消沈してサーングリーへ帰ってきました。

 1981年4月の第2週に、コルブはプラシャーンティ ニラヤムから採用通知を受け取りました! 彼は事務所の椅子から立ち上がって、まっすぐに自分の寝室に行き、ドアに鍵をかけると、ベッドの上に座って子供のように泣きました。どのくらいそうしていたかも分かりませんでした。彼は、そのまたとない機会をバガヴァンに感謝しました。一度の面接さえなかったのに、どうして自分は選ばれたのかと不思議に思いました。その答えは、二日後にプラシャーンティ ニラヤムで副学長のV.K.ゴーカク博士に会った時に知らされました。

ゴーカク博士はこう説明しました。

 「それ自体、面白い話なのです。コルブ教授、一体どうやって何千人という応募者を面接することなどできたでしょうか? 私たちは選考に関してご指示をいただけるようスワミに祈りました。スワミは、折を見て事務所へ来られ、必要なことをしますとおっしゃいました。スワミは、封筒を開けたり応募者を呼んだりする必要はありませんとおっしゃいました。ある日の朝のことでした。ダルシャン後、スワミは事務所へとやって来られ、私はスワミの言うとおりにしました。

床の上に願書を全部広げるようにとスワミがおっしゃったので、私たちはそうしました。スワミは書類の山から14秒で14の封筒を拾い上げ、私たちに向かって『この人たちが選ばれました!』と言って、出ていかれました。私たちが封筒を開けると、14の学科に対してちょうどそれぞれ1名の願書が入っていたのです! その選ばれた応募者の中に、商法科に応募したあなたの名前がありました。今や、スワミの奇跡は私たちにとって日常となってしまいました。もし何か疑問に思われるなら教務係に会ってもよいですよ。その14通以外の封筒は一通も封を切られていません」

 

 コルブは自分を選んだババのやり方に示された恩寵に、何と言っていいか分からないほど感激しました。それに関して教務係と話す必要があるとは思えませんでした。彼はコーラープルへ出立しました。コルブが客員教授としてプラシャーンティ ニラヤムを初めて訪れたのは1981年6月のことでした。

 客員教授として奉仕を始めた最初の一年間、ババはコルブに一言も話しかけませんでした。ある夕暮れ、ダルシャンの時に、ババがまっすぐに彼のところへ歩いてきました。コルブは目に涙を浮かべながらババの御足に触れました。ババは彼に、「お元気ですか? 先生」と尋ねました。「元気です。ババ! 今・・・」コルブが言い終える前に、バガヴァンがふいに言葉を差し挟みました。「分かっています、後で会いましょう」コルブはとても嬉しくなりました。彼の幸福にさらに付け加えるように、副学長が翌日こう言いました。「スワミはあなたをとても愛しておられます。あなたの学生たちがあなたのことを、とてもよく教えてくれると言っているのです」

 

 その日曜の夕方、帰依者たちにダルシャンを授けた後、バガヴァンはマンディルのベランダにいたコルブのところに歩いていくと、こう尋ねました。

 「あなたのファーストネームは何ですか? 先生」

 「アブドゥル ラザークです。スワミ」

 「アブドゥルの意味は何ですか?」

 「帰依者という意味です、ババ」

 「ラザークの意味は何ですか?」

コルブは口ごもるしかありませんでした。ババが自ら言いました。

 「ラザークはアッラー〔アッラーフ/イスラム教の神〕という意味です。アッラーの意味は何ですか?」

 「神です、ババ」

 「それだけでは正しいとは言えません。アッラーは“至高”あるいは“すべてを超越したもの”という意味です。それは、パラマ イーシュワラ、すなわち、パラメーシュワラの意味でもあります。そこには何の違いもありません。アッラーとパラメーシュワラは一つです。神は自らをこのヴィシュワ〔一切/全宇宙〕として顕したのです」

14通の奇跡
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 コルブの頭は喜びで真っ白になりました。それから、ババは彼をインタビュールームへと呼び入れました。自分の守護神と初めて二人っきりになり、コルブは泣き崩れました。バガヴァンは早速、彼との親密な関係を築いて言いました。

 「楽に座りなさい。そして、泣くのはやめなさい。私がここにいるのに、なぜ恐れるのですか! あなたはアブドゥル――私のアブドゥル、そして、私はあなたのラザークです。あなたにはそれがよく分かっていますね」

 ババから与えられた2度目のインタビューはその翌日で、それはコルブの人生の節目となりました。コルブが詳しく語っています。

 

 「ババは私といっしょに9人の外国人をインタビュールームにお呼びになりました。そこでいくつか霊的な話題について語られた後、彼は私だけさらに奥の部屋にお呼びになりました。ババはおっしゃいました。

 『あなたが私のことを信じているのは分かっています。ですがあなたは、私の物質を創造する力は信じていません。そうではありませんか?』

 

 その問いかけに私は唖然としました。過去5年ずっと私の心の中に隠していた疑念を、ババは明らかにしたのです。ババご自身がその話題を取り上げられたことで、私は嬉しくなりました。私は『お許しください、ババ。あなたが言われたことは本当です』と言いました。

 

 ババはとても優しくおっしゃいました。

 『あなたが私の物質化する力を信じていないのは、嘘偽りのない気持ちです。私はあなたの率直さが好きですし、あなたを愛しています。あなたがどんなことでもあたり前だと決めてかからないのは良いことです。さあ、どんな物でも私に願ってごらんなさい、今ここでそれをあなたにあげましょう! ゆっくり考えて、あなたが望む物を、どんな物でもいいから言ってごらんなさい』

 しばらく考えた後、ババの帰依者にイスラム教徒があまりいないことがわかったので、こうお願いすることに決めました。

 『ババ、どうか、その中にこの全宇宙が入っている物、しかも私の宗教のシンボルが刻まれている物をいただきたいです!』

 

 ババは優しく微笑んで、おっしゃいました。

 『アブドゥル、あなたは私に不可能な要求をしたと思っていますか?』

 

 私は黙ってじっとババを見つめていました。

 ババはご自分の手のひらを見せながら、こうおっしゃいました。

 『私の手のひらをご覧なさい。何か見えますか? 手のひらにも甲にも何もありません。それはあなた自身で確かめられますね』

 ババは上に向けていた手のひらを下に返しました。ローブの袖は肘の上までまくられていました。私はあえてババの手に触れようとはしませんでした。けれど、ババは私の手を無理やりつかんで、ババの手のひらと手の甲に持っていきました。それから、ババは言いました。

 『アブドゥル、しばらく私の手のひらの真ん中を見ていなさい』

 私がじっとババの手の平を見ていると、数秒のうちに手のひらの真ん中の皮膚が開いて、そこから丸い大きな物が出てくるのが見えました。すぐに皮膚は元どおりになり、そこには輝く指輪があって、それが床に落ちました。

 

 ババは私におっしゃいました。

 『それを拾って、よく注意して見てみなさい。それから、それを私に手渡しなさい』

 

 私はそれをよくよく注意して調べました。金に三日月と星が刻まれていました。私はそれをババの手のひらの上に戻して置いて、『ババ、私にはこの指輪について何も理解できません。どうか説明してください』と尋ねました。

 

 ババは笑っておっしゃいました。

 『あなたはムスリム〔イスラム教徒〕として生まれただけで、イスラムについては何も知りませんね!』

 

 それは本当でした。私は自分の宗教のことをあまり知らなかったのです。しかも、私は実は宗教的な人間でもありませんでした。ババは説明してくださいました。

 『私はこの金の指輪をナヴァラトナ〔九つの宝石:ルビー・真珠・赤珊瑚・エメラルド・イエローサファイヤ・ダイヤモンド・ブルーサファイヤ・ヘソナイト・猫目石〕が埋め込まれたアシュタコーナ〔八角形〕のものにしました。どちらも宇宙を表しています。ナヴァラトナの中央に、イスラムのシンボルである三日月と星を緑色のエメラルドで配しました。これらの緑の石もあなたの宗教を表しています。さあ、この指輪をあなたの左手の薬指にはめてあげましょう。というのも、あなたの右手の指は傷ついていますから』

 

 私は驚いて、傷ついている右手の指を見ました。ババはその重くてきらきら光る指輪を私の指にそっとはめてくれました。ぴったりでした。外の部屋に戻ると、ババはそこで待っていた外国人たちに、その指輪のことや、私が信じていなかったことを語り、それから、『彼はnaughty-knottyな帰依者です!』とたしなめました。〔naughty(ノーティ)は“言うことを聞かない、手に負えない”、knotty(ノッティ)はババがおそらくknot(ノット/結び目)という語から作った造語で、“入り組んでいて複雑な”といった意味だと思われる〕

 

 私は知らなかったのですが、マンディルから出た後、その指輪を見たアメリカ人のイスラム教徒の帰依者が言うことには、ババは緑のエメラルドの石の真ん中に ‘アッラー’とアラビア語で刻んでおられたのでした!」

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​第 58 回

 きわめて興味を引き、かつ効果的な例え話は、どの師の教えの中でも重要な部分です。ババは熟練の語り手です。ババの例え話を聞くのはとても愉快で、有意義です。同じ話でも、ババの口から別の機会に語られると、ババがいつも新しい見方やバリエーションを加えられるために、新しく、違った風に聞こえます。そうしたババの「チンナ・カター」〔小話〕の数々は、とても心を引きつけられる読み物となります。

 

 上辺だけの学識や単に口達者なだけでは、神の恩寵を得る助けにはなりません。神に対する子供のように純真な信仰心があるならば、驚くべき果報を手にするでしょう。1982年1月23日、マドラスでの御講話において、バガヴァンはこのことについて適切な例え話を使って説明なさっています。

 

 「あるとき、バーガヴァタムに精通している偉大な学者が、ブリンダーヴァンの牧童たちの幼子クリシュナへの信愛を称賛していました。聴衆の中に一人の泥棒がいて、宝石を身に着けた美しいクリシュナという描写に引き付けられました。泥棒は幼子クリシュナが身に着けている宝飾品を盗みたいという衝動に駆られました! 講話が終わると、泥棒はその学者に近づいて、どこに行けばクリシュナに会えるのかと尋ねました。学者は幾分そっけなく答えました。『ブリンダーヴァンだよ。ヤムナー川の土手の上だ。夜にね』

 泥棒はすぐにそこへ行きました。すると、主がたくさんのきらびやかな宝石を身に着けた12才の少年の姿で泥棒の前に現れました。けれど、それほどに愛らしい者から一体どうやって宝石を奪うことなどできるでしょう? 泥棒は何時間もの間、法悦に我を忘れてその姿を眺めていました。宝石を欲しいとは思わず、欲しがったことを恥じました。しかし、クリシュナは彼が宝石を欲しがっていたことを知っていました。クリシュナは、自分が身に着けていた宝石を一つひとつ外して驚いている泥棒に手渡し、消えてしまいました!」

 

 またある時には、ババは第二次世界大戦の歴史のページから、信じる心の力を示す、ある興味深い実話を語られています。

 

 「第二次世界大戦中、インドの兵士たちを運んでいた蒸気船が日本軍によって爆撃され、沈められました。多くの兵士が命を落としました。わずかに五人だけが生き残り、波がうねり寄せる海の中、何とか陸にたどり着きたいという希望を胸に、ライフボートを漕いでいました。彼らは何時間も海の波に揉まれていました。

 ある者は絶望的になり、叫び出しました。『海に飲み込まれそうだ。サメの餌にされてしまう』パニックに陥ったその兵士は、海へ落ちてしまいました。

 別の兵士は、『家族が悲惨な目に合うと思うと心配でたまらない。俺は家族の将来のために何もしてやれないまま死んでいくんだ』と、嘆き悲しみました。彼も信じる心を失い、恐怖心に負けてしまいました。

 三人目の男が言いました。『ああ! 俺の生命保険の証書は俺が持ったままだ。俺は死にかけているのに、妻はどうやってお金を受け取れるのだろう?』

 そして、彼も海に飲み込まれてしまいました。

 

 他の二人は互いに神への信心をより強固なものにしました。二人は言いました。『俺たちは恐怖に負けはしない。神の全能と慈悲を信じる心を捨てたりしない』

 二人は水漏れしているボートを捨てなければなりませんでした。それでも、あきらめませんでした。二人は海岸に向かって泳ぎはじめました。数分すると、湾岸船から送られた一機のヘリコプターがやって来ました。湾岸船は沈みかけた汽船から信号を受信していたのです。ヘリは二人を見つけて安全な所へ運びました。後に、二人は互いに言い合いました。『たった五分が生死を分けた!』

 二人に勝利をもたらしたのは信心です。信心が欠けていたために、他の三人には敗北と死がもたらされたのでした」

 

 すべての仕事は神の仕事だと信じるべきです。その信心は、私たちの仕事を礼拝へと変えるだけでなく、どんな仕事に力を尽くそうが、私たちの最高の能力を引き出してくれます。バガヴァンはこの真理を、ムガール帝国の偉大な皇帝アクバルの生涯から、興味深い出来事を引き合いに出して説明してくださいました。

 

 「ある夜のこと、アクバルは宮廷音楽家のターンセンを連れて首都を巡回していました。二人は、神を讃える歌を口ずさんでいる老人に出くわしました。アクバルは馬車を止めてその見知らぬ老人の歌に聞き入りました。その歌は心の琴線に触れ、アクバルを感動させました。時間は止まり、目から涙が流れていました。歌が止み、アクバルは夢から覚めたかのように思いました。アクバルはターンセンに、当代、誰が最高の歌い手だと思うかと尋ねました。

 『私は長い間そなたの歌を聞いてきたが、それらは間違いなく、耳に心地よく、心が癒されるものだ。だが、この老人が歌うと、私は天上の至福のような歓喜へと導かれ、私の魂は純粋な喜びという天国へと舞い上がるのだ。そなたの音楽では、このようなことは一度も起こらなかった。どうしてなのか私には理解できない!』

 ターンセンはうやうやしく答えました。

 『陛下! 私はあなたを喜ばせようと歌ってきました。けれど、この帰依者は神を喜ばせようと歌っているのです。それがすべての違いです!』

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クリシュナの物語を語るサイ クリシュナ

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神に捧げられた音楽は私たちの魂を揺さぶって神のもとへと引き上げる

​第 57 回

 バガヴァンは、深遠で崇高で真理の数々を、聞き手の心をつかむ例を挙げて理解させてくださいます。「カルマとダルマとブラフマン」は、インド哲学においておおいに論じられているテーマです。カルマとは、この世での日常的な行為のことです。ダルマは、私たちの行為を制御する規範を定めるものです。ブラフマンは、人の生涯における究極の目標です。バガヴァンは、これら三者の間の関係を主婦の日常生活の中から簡単な例を挙げて分かりやすく語っておられます。

 「家庭で作るココナッツのチャツネには、塩、唐辛子、タマリンド、ナッツという四つの材料が要ります。これらをすべて、必要な量、清潔で純正のものを調達することが、カルマ、すなわち行いの道です。それらを混ぜて潰してペースト状にすることもカルマであり、行いの道の一部です。次に、それをほんの少し舌の上に載せ、正当なチャツネの味がするかどうかを調べます。これがダルマの道です。もしほんの少し塩をかければ正当な味になるとわかったら、この段階で塩を加えます。反対に、塩気が多いとわかったら、塩を加えていないペーストをいくらか混ぜて、ちょうどいい塩加減になるまで加えます。すると、あなたはその報酬として喜びを得ます。これは喜びの段階、満足の段階であり、欲望の終焉、ブラフマンです。行動し、微調整をし、崇める――これが清らかな意識を手に入れるための方法です」

 

 神性は宇宙に内在しています。「おお、パールタ〔クンティーの子アルジュナ〕よ! 我は存在するすべてに内在するいにしえの種子であることを知れ」と、主はバガヴァド・ギーターの中で明言なさっています。ババは分かりやすい例を用いてそれを説明なさっています。

 「一粒の小さな種を撒いたとします。その種は大木へと成長します。木は何千もの実をつけ、その実の一つひとつには木の種が入っています。たとえそうであっても、この大宇宙に神性という種が植えられたとき、私たちは人間性という木がつける実の中に入っている神性という種を探し出す必要があります。木の実には種が入っていて、その種から木が成長するように、この宇宙は創造主の種を含有しているのです。ウパニシャッドにはこうあります。イーシャーヴァースヤム イダム サルヴァム(主はすべての生きものに宿っている)。人が自分の人間的性質を敬い、自分にある神の性質を見出すという義務を自覚するなら、人の内なる神は顕現するでしょう」

 

 バガヴァンによると、神が本体であり、世界はその影です。ババはおっしゃいます。

 「たくさんの実をつけたココナツの木を想像してごらんなさい。木は地面に長い影を落とします。その木に登って実をもぎとると、その人の影も同じように実をもぎとります。ですが、もし影の実だけに手を置いたとしたら、何も手に入れることはできません。もし神を知ろうと努力して、それに成功すれば、その人はこの世でも勝利するのです」

 

 カルマ、バクティ(信愛)、グニャーナ(英知)という三つの道は、真我顕現という同じ目的地へと導いてくれます。旅路の形態が少し違うかもしれないだけです。この主旨を説明するために、ババはこれら三つの道を、同じ目的地へ向かう列車の旅の三つのタイプに例えておられます。カルマ・ヨーガは、目的地に着くのに乗客は途中で列車を降りて2回か3回乗り換えが必要な旅です。バクティ・ヨーガは、乗客を乗せている客車が連絡駅で切り離されて別の列車に繋がれるような旅で、乗客は降りる必要はありません。グニャーナ・ヨーガは、出発地から目的地まで一本の直通列車で旅をするようなものです。バガヴァンは、これを少し変えた例も挙げておられます。

  「カルマ・ヨーガは歩いて旅をするようなもの、バクティ・ヨーガは牛車に乗って旅をするようなもの、グニャーナ・ヨーガは飛行機で旅をするようなものです」

 

 瞑想についてはバガヴァンはこうおっしゃっています。

 「多くの人々が、ディヤーナ(瞑想)はエーカーグラター(集中)と同じであると誤って考えています。瞑想は五感を超えた所で行われるプロセスであるのに対して、集中は五感のレベルでのプロセスです。両者の間には、チンタナ(黙想)と呼ばれる境界域があります」

 

 ババは分かりやすく説明なさっています。

 「バラの植木には、枝や葉っぱ、花やとげが付いています。とげで怪我をしないでバラを摘むには集中が必要です。そうして摘んだバラを手に取って、あなたはその美しさや香りを楽しみます。それは黙想に例えることができます。最終的に、あなたはそのバラを、愛を込めて神に捧げます。それが瞑想です」

 

 ババは、心(マインド)は人の輪廻と解脱の両方を招くとおっしゃっています。ですから、心をコントロールすることが霊性の道を行く鍵となるのです。では、私たちはどうやって心をコントロールすればよいのでしょうか? バガヴァンははっきりと説明なさっています。

 「マインドは熊蜂のようなものです。熊蜂は確かにとても強力で、最も固い木にさえ容易に穴を開けることができます。それほど強力な蜂でも、夕方、蓮の花の蜜を吸っている最中に花が閉じていくと、その柔らかな花の中に閉じ込められてしまいます。それと同じように、心はさまざまな手を使っていたずらをしかけ、休む間もなくあちこち飛び回っていますが、心が思いを神に定めると、さまよう力を失ってしまうのです」

このように、唯一、神への信愛だけが、心をコントロールする助けとなり得るのです。

 

 私たちがこの世の日常的な活動にいそしんでいるとき、世俗的なものへの執着や渇望によって汚されないままでいることは可能なのでしょうか? ババは、それは可能だと断言なさっています。1983年6月16日、シュリ・サティヤ・サイ高等教育機関の学生に向けたお話の中で、ババは学生たちに強くお求めになりました。

 「親愛なる学生諸君! 時は計り知れないほど貴重です。人の生涯において、学生時代は最も貴重で、神聖なものです。あなた方はそれを最大限に活用すべきです。水と混じり合ったミルクは、どれほど懸命に分離させようとしても、元あった純粋さを取り戻すことはできません。ですが、ミルクをバターに変えてしまえば、水と接触しても影響されることはなくなります。バターは水の上に浮かび、その独自の性質を保つでしょう。サムサーラ(世俗的な欲望や執着心)は水のようなものです。人の心(マインド)はミルクのようなものです。その清らかで神聖な、汚れなき心が世俗的な欲望と混じり合ってしまうと、元々の清らかさを取り戻すのは困難です。ですが、学生期という神聖な時期に、汚されていないあなたの心から、知識と英知と正しい行いというバターを取り出せたなら、たとえあなたが世の中にいたとしても、それらによって汚されることはないでしょう」

 

 最高の英知を獲得するには、肉体やエゴ〔我執〕と自分との同一視を取り除かなければなりません。それはどうやったらできるのでしょうか? バガヴァンはぴったりの比喩を使ってこの質問に答えてくださっています。

 「体におできができたら、軟膏を塗って、おできが治るまで絆創膏で覆います。もし軟膏を塗らずに絆創膏だけをしたら、感染症を引き起こして、ひどい目に合うかもしれません。おできは、きれいな水で洗って、こまめに傷口の手当てをすることも必要です。それと同じように、人生においては、私たちの人格にエゴという形をとったおできができます。このエゴというおできを治すには、純粋な愛という水で毎日洗い、その上に信仰という軟膏を塗って、謙虚さという絆創膏を貼らなければなりません。そうしなければ、あなたはその痛みや苦しみから逃れることはできないのです」

56

​第 56 回

 人類を「肉体による暴政」から「魂の解放」へと救い出すためにこの世に降臨された、神なる導師の最も確かな証しの一つは、最高の真理を最も単純な形にする、という驚くべき手腕にあります。神の比類なき英知は、明らかに矛盾した求道者たちのアプローチを統合し、究極のゴールへといざないます。この見事な超人的巧みさには、現代の一般人の日常生活から適切な例を上げて崇高な原理を理解させる、ぴったりの比喩を使って要点を具体的に説明することですべての人の注意を引き付ける、人生を支配している深遠な法則を語呂合わせや言葉遊びを用いて認識させる、といった能力が含まれています。そうすることで、自然とインスピレーションが湧き上がり、知性的認識と直感的体験との間にある大きな隔たりに橋を架けるようにして、古代の経典といったものに新しい光を投げかけるのです。

 

 導師のこうした教えは、まさしくハートの中から、そして、すべての英知の根源から生まれたものであり、それゆえ、すべての人のハートの中にすんなりと入っていきます。それらは、単純で理解しやすく、容易に実践できるものです。もし私たちがそれらを真剣に実践するなら、必ずや人生の究極のゴールに到達できるでしょう。愛に満たされた蜜のような言葉に耳を傾けていると、学者も無学の人も、ほっと安心した気持ちになります。言葉といっしょに喜びと平安が聞き手のハートにもたらされるのです。

 

 この章では、本書で扱っている時期にバガヴァン・ババがなされた御講話の内容、手法、要旨、表現方法について、考察を加えたいと思います。1980年から1982年までの最初の三年間の主要なテーマは、教育でした。1980年にはプラシャーンティ・ニラヤムにカレッジが創設され、1981年には大学が開設されました。1983年には、すべての宗教は一つであること、人として生まれたことの特別な意味、そして、アヴァターの意義といったことにアクセントが置かれました。1984年になされた御講話では、人が自らを変容させて、自らの由来が神であることを理解し、自らが神としての運命を悟るようにと、バガヴァンが強く勧めておられるのが分かります。1985年の主な焦点は、セヴァ(奉仕)とサーダナ(霊性修行)に置かれていました。シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの第四回世界大会は、その年、ババの60歳の御降誕祭に合わせて行われました。もちろん、ババのメッセージの底に流れているものは、いつものように、「人の霊的な変容と社会の福祉」でした。

 

 バガヴァンは、ヴェーダーンタ哲学の最高の真理の数々を、非常に単純な言葉で表現していらっしゃいます。バガヴァンの「ブラマ――幻想――が消え去るとき、ブラフマン――神――に到達する」という言葉は、ヴェーダーンタの真髄を表しています。人の生涯の最高のゴールは、ブラフマンに到達することです。それによってのみ、人は永遠の至福を手にすることができ、すべての悲しみと苦しみに終止符を打つことができるのです。

 「サルヴァム カルヴィダム ブランマー」

――存在するものすべてはブラフマンのみである。

 しかし、人は、マインド(頭、思考)によってもたらされた肉体意識すなわちエゴというブラマ(幻想)のせいで、多様性や違いを見ます。これと同じ真理が、バガヴァンによって別の単純な形で語られています。

 「霊的な数学においては、3-1=1なのです!」
 

 ここでバガヴァンが語っておられるのは、パラマートマ――神、プラクリティ――自然、ジーヴァートマ――個々の魂、の三位一体についてです。プラクリティは鏡であり、パラマートマは対象物、ジーヴァトマ(個我)はその映しです。鏡を取り除けば、そこに残るのは本体のみです。映っていたものは鏡の消滅とともに消えてしまいます。肉体意識によって生じたプラクリティという幻影が取り除かれたとき、すなわち、マインドが消滅したとき、ジーヴァートマはパラマートマとなるのです。

 

 幻想を取り除く方法は何でしょうか?バガヴァンはおっしゃいます。

 「ドリシティ――見る目が、プレーママヤムとなるとき、スリシティ――創造物――は、ブラフママヤムとなります。」

 

 愛の眼鏡を通して世界を見ると、あなたは神のみを見るでしょう。このように、愛は万能薬です。さらに、ババはサーダナのエッセンスを次のように簡潔に述べられています。

 

信あるところには愛あり。

愛があるところには平安あり。

平安があるところには真実あり。

真実があるところには至福あり。

至福があるところには神あり。

 

 すべての価値の源である根本的な価値は、愛です。バガヴァンはこう宣言なさっています。

 

語る愛は真実。

行う愛は正義。

感じる愛は平安。

理解する愛は非暴力。

 

 霊的な道における成功の基本的な必要条件と何でしょうか?

 「不道徳な行いをやめることが、不死への唯一の方法です。」

とババはおっしゃっています。純粋なハートと非の打ちどころのない人格が、霊的な生活の基本となります。同様に、ババは簡潔にこう述べられています。

 「チッタシュッディがグニャーナシッディへと導く。」

 つまり、マインド(心)の純粋さが霊的英知へと導くのです。では、マインドの清らかさはどうやって手に入れたらよいのでしょうか? ババによれば、

 「チッタ シュッディはニシカーマカルマ〔離欲の行為〕によって得ることができる。」

 つまり、無私の奉仕こそが、世俗的な欲望や執着心という不純さを取り除いて、マインドをきれいにすることができるということです。ゆえに、バガヴァンはこうおっしゃっています。

 

 「セヴァサーダナ(奉仕という修行)は最高のタパス(苦行)です。」

 ババが簡略に述べられた次の言葉の中に、霊性の道の土台となっている真髄を見ることができます。

 「行いは、愛を込めて神に捧げられると、礼拝へと変わります。礼拝としてなされた行いは、英知へとつながります」

 

 すなわち、霊性の道の第一歩は、神への信仰と愛なのです。次の一歩は、人類同胞への無私の奉仕です。

 

 世界が抱えている数々の問題へのバガヴァンの解決策は、実に単純です。世界の福祉への鍵となるのは、個々人の変容です。バガヴァンによれば、

 「ハートに正義があれば、人格に美しさがもたらされます。人格に美しさがあれば、家庭に和がもたらされます。家庭に調和があれば国家に秩序がもたらされます。国家に秩序がもたらされれば、世界が平和になります。」

 個々人の不正は社会不安を作り出します。では、人々のハートにしっかりと正義を据え付けるにはどうしたらよいのでしょうか? ババは宣言なさっています。

 「神への信心を欠いた人間社会は、獣たちのジャングルへと退化しました。」

 正しき人間社会は、人が霊的に変容して初めて繁栄することができるのです。

人々のハートの霊的な変容はどのようにして始まるのでしょうか? バガヴァンはこう答えておられます。

 「主に従い(Follow)、悪魔に立ち向かい(Face)、最後まで戦い(Fight)、ゲームを終わらせなさい(Finish)。」

 これら四つのF(従うFollow・立ち向かうFace・Fight戦う・Finish終わらせる)に添って道を行くことで、人々のハートの中に隠れている主を、無知という偽りの覆いから解き放つことができるのです。生活の中で戦い続けるというのは、内なる主の声である良心の呼びかけに応えて五感の罠から目をそむける、というマインドの戦いのことです。ババはおっしゃいます。

 「インドリヤ(五感)に従う人は、パシュすなわち動物になります。ブッディ(知性)に従う人は、パシュパティ(動物の主)すなわち神となります。」

 この戦いをするために、社会から離れて森へ入る必要はありません。その解決策をバガヴァンは独特のスタイルで述べておられます。

 「頭は森の中に、手は社会の中に!――両手を使って社会で働きなさい。けれども、頭は神に定めていなさい。」

 

 ですから、人のハートにおわす神を信じることが、幸福な世界の土台なのです。

55

​第 55 回

 23日、朝日が昇ると、ヒル・ビュー・スタジアムは、四方八方から人が流れ込んでいく、人の海のように見えました。至る所に人がいて、誰もがその輝かしい朝にアヴァターを一目見ようと固唾を呑んで待っていましたが、太陽は雲に覆われていて、雲の背後に身を隠し、式典が終わるまでずっと一度も姿を現すことはありませんでした。その涼しくて心地よい天候が、プラシャーンティ・ニラヤムに集まった50万人の帰依者たちの内なる喜びに期待を添えました。そうした幸運な人々の何人かにその朝のことを聞いてみることにしましょう。

 

 マンディルからスタジアムへと続く行進の列では、バガヴァンの学校から来た約60名の男子学生が、バガヴァンのチャリオット(二輪馬車)の前を行くバングラとナーガの踊り手として参加するという特権を与えられました。彼らの喜びに満ちた体験は次のようなものでした。

 

 「私たちは朝5時にマンディルへ行って、衣装を着け、化粧をしました。行進は7時半に始まることになっていました。バガヴァンがインタビュールームから午前6時45分に出てこられたときには、私たちはバジャン・ホールにいました。私たちはスワミがホールに入ってこられるのを見てわくわくしました。おそらく私たちは、その極めて大きな意義のある日にスワミのダルシャンを受けられる最初の者たちだったと思います。スワミは私たち全員をじっと見つめて、喜んでおられるようでした。スワミは、何人かの男子生徒たちの頭飾りを、もっとよく見えるように直してくださいました。そして私たちに、『少年たち、朝食は食べましたか?』とお尋ねになりました。私たちはまだ朝食をとっていなかったのですが、本当のことを言ったらスワミは悲しむと分かっていたので黙っていました。

 ババは微笑んで言いました。

 『分かっています、分かっていますよ! 君たちはまだ何も食べていませんね。それでどうやってダンスを踊って、式典の最後まで体をもたせるつもりですか? 終わるのはだいぶ遅い時間になるでしょう。心配いりません。私が君たちに朝食を用意しましょう』

 スワミはボランティアを数人呼ぶと、朝食を持って来るようにとおっしゃいました。私たちは母親のようなスワミの気づかいにとても感激し、涙を流す者もいました。それが、スワミの60歳の御降誕祭で、スワミが最初になされたことでした。朝食が出されると、すぐにスワミはホールを出て行かれました。私たちが行進でスワミのチャリオットの前で踊ることができたのは、大いなる幸運でした。行進を終えた後に疲れを感じた学生は一人もいませんでした。反対に、終わってしまったことが悲しく思えたくらいでした!」

 マイソール出身のナーマギリアンマ夫人はバガヴァンの古くからの帰依者でした。彼女はプッタパルティの「旧マンディル」に何年も住んでいました。バガヴァンの60歳の御降誕祭が終わった後、彼女はこのように言いました。

 

 「1950年以前の『旧マンディル』時代には、スワミは私たちだけのものでした。スワミはいつも私たちと共に過ごしていました。時には、ただ楽しく、はしゃいでいただけのこともありました。そんなある日のこと、スワミがサカンマ夫人と私におっしゃいました。

 『私の60歳の誕生日には、何十万という帰依者たちがこの村にいることでしょう。そのころには、私は自分の大学を持っており、白馬に牽かれた黄金のチャリオットに乗って行進をしているでしょう!』

 そのとき、スワミはとても真剣なご様子でした。

 当時、スワミの周りには100人もいないくらいでした。私たちは二人ともスワミは冗談を言っておられるのだと思い、笑い出さずにはいられませんでした。スワミは私たちに真面目な口調でおっしゃいました。

 『私の言うことを信じていないようだね! サカンマはそれを見るころにはいないでしょう』

それから、私のほうを向いておっしゃいました。

 『でも、あなたは見ることになります! ですが、その時には、これほど私の近くにいることはないでしょう!』

 スワミがそうおっしゃったのは40年も前のことですが、今日、それが実現したのだと言わざるを得ません! 23日の朝、私はスワミを一目見ようと、巨大な群衆の中、ガネーシャ ゲートの外の道路際に立っていました。遠くからスワミのチャリオットが見えたとき、あの予言めいた言葉が思い出されて涙が出ました。スワミは私を見過ごすことなく、チャリオットが私のそばを通り過ぎる時、意味ありげに微笑んでおられました。スワミは私に

 『ごらん、あの時あなたは私の言ったことを信じていなかったね!』

とおっしゃっているような気がしました。今日、生きてスワミの栄光を見ることができ本当にうれしい限りです!」

 

 ナイポール・スクデオ氏は、トリニダード・トバゴ共和国から世界大会の代表として、1985年の11月に初めてプラシャーンティ・ニラヤムへやって来ました。もちろん、彼は長年の間バガヴァンの帰依者でしたし、自国でたくさんのリーラーを目にしていました。彼は23日にスタジアムで見たことを語ってくれました。

 

 「バガヴァンは黄金のチャリオットに乗ってスタジアムに現れました。クルクシェートラの戦場でシュリ・クリシュナによって操られたのと同じ、その昔ながらの形を模したチャリオットは、立派な四頭の白馬に牽かれていました。チャリオットは、ナーダスワラム隊、学生たちの楽団、華麗な衣装を着けた踊り手たちに続いて、壮大な行列の中を進んで来ました。チャリオットが私たちのそばを通り過ぎるとき、私は思わず、『これこそ、カリ・ユガのアヴァターだ!』と声を上げていました。私たちははっきりと、甘く微笑むババの顔を見ることができました。ババの黄金色のお顔は、冠のような黒いいカーリーヘアと、百合のように白い歯とのコントラストで、純然たる光輝を発していました。ババの両手は高く掲げられて振られ、巨大な群衆を祝福していました。

 私は自分の目で神を見ていました! ババは私のラーマであり、クリシュナであり、シヴァ、ドゥルガー、イエス、アラー、私のすべてでした! スワミが美しい装飾を施されたシャーンティ・ヴェーディカの演壇に上がられると、何十万という帰依者たちが『バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババジ・キ・ジェイ!』と、誕生日を祝って叫びました。その勝利と称賛の声は大空を震わせたかと思われました。急に雲が分厚くなり、空を覆い始めたのです。私たちの多くが、サイクロンに関する天気予報を思い出しました。それはアーンドラ・プラデーシュ州の沿岸を横断するという予報で、この地域に大雨をもたらすというものでした。ですが、神様がおられるというのに何を恐れることがありましょうか? 小雨さえ降りませんでした。それどころか、雲は太陽を遮ってくれる喜ばしい覆いとなったのでした!

 バガヴァンは、その御降誕祭の御講話で、サイクロンの不思議な消滅についても言及しました。バガヴァンは次のように明かされました。

 

 『まさに祭典が始まろうとしていたとき、カストゥーリがラジオで聞いたことを私に何度も言ってきました。サイクロンが沿岸地域を横断しようとしており、ネッローレやオンゴールにやって来ること、そして、ラヤラシーマ地方にも大雨を降らせる、と。ですが、そうはなりませんでした。どうしてもこの日この場所にいたいという人々の信愛が、サイクロンを追い払う楯となったのです。もしサイクロンが来ていたら、帰依者たちは大変な目に合っていたことでしょう。彼らの帰依心が私の心の琴線に触れ、私は決して彼らが不都合な目に合うことはないと意志しました。私はバターのように柔らかいハートを持っていますが、バターを溶かすにはバターを温める必要があります。あなた方の帰依心がその温かさでした。サイクロンはいったいどこへ行ってしまったのか、まだ誰も発表していません! いったい誰がこのような奇跡を予測することができたでしょうか?』

 

 言うまでもなく、明らかにされたこの事実は、とどろきのような歓声で迎えられました。『サイ・サンカルパ』(サイの意志)の驚くべき力を明かし、いつ何時も帰依者たちを完全に守ることを保証してくださった御降誕祭のメッセージは、私たちの存在をより高く、至福に満ちたレベルへと高めてくれました。

 仲間の帰依者や代表たちと一緒に座っていたとき、私は、カリ・アヴァターラ(カリユガの時代の神の化身)としてのサイの降臨の60回目の祝典にその御足のもとにいるなんて、私たちはなんと幸運なのだろう! と驚異の念を抱かずにはいられませんでした」

 

 御降誕祭での画期的な御講話は90分に及び、バガヴァンは人と神との間にある必要不可欠な関係について説き、帰依者たちの多くの疑念を晴らしてくださいました。人類への限りない愛を込めて、バガヴァンははっきりと、いかに「サイ・サンカルパ」がこの世のために働いているのかということを明らかにし、また、無私の愛、普遍的な愛という最高の宝を有しているがゆえに、バガヴァンはこの世で最も裕福な者であることを明言なさいました。バガヴァンの歴史的な御講話の中からいくつか抜粋してみましょう。

 

 「神こそが唯一、人の生命を――その基盤、その構造、その完成を――維持している者です。お金は、人が神聖さを育てて源である神に融合するのを助けることはできません。学識も同様に無力です。人にできる唯一の方法は、切なる思いや必死な努力を神へと向けることによって、探究心を深めることです。切なる思いが研ぎ澄まされればされるほど、深くなればなるほど、それは人が感覚の領域や、理性の脆弱な力を超え、星々や宇宙空間を超えて、限りない至福の大海へと深く潜る助けとなります。反対に、もし、切なる思いがこの世の欲望や気を散らすものへと向かっていくなら、それは人を奈落の底へと突き落とすでしょう。この運命から逃れる一番の方法は、善良な人々や神聖な人々の仲間の中へ避難して、彼らと共に旅路を歩むことです」

 

 「人は自分を維持してくれている神なしには存在できません。神もまた、自らの存在を知らしめるために人を必要とします。『ナラ』という言葉は『ナーラーヤナ』の概念を伝えています。人はサーダナの強度によって神を自分のイメージどおりに創造し、神はそうなるようにと意志することで自分のイメージどおりに人を創造します。たいていの人は、知性や想像力が乏しいために、主なる神を心に描くことができません。エゴは、サーダナを妨げ、知性を悪用することによって、頑固さや無知を助長します」

 「人は皆、対立する者、すなわち敵と対峙しなければならないのが、この世の習わしです。全世界に一人の敵すら見いだすことができないのは、サイだけです。中には、自分勝手な空想をして私が彼らのことを嫌っていると思う人たちもいます。ですが、私に言わせるなら、私が愛していない人は一人もいません。私にはすべての者が愛おしいのです。今、この世で私ほどの富や財産や宝を持っている人は他にいません。世界銀行でさえ、最も裕福な王でさえも、です。その富や財産や宝とは何でしょう? それは、私の普遍的な無私の愛です。私の全くの私心のなさ、奉仕して救いたいという熱意に満ちた私の慈悲深いハート、平和と繁栄を築き上げようという私の決意、世界に至福の雨を降らせようという私の決心――これらは日を増すごとにどんどん形となって現れつつあり、私はいつも計り知れない至福で満たされています。私は一瞬でさえ不安がよぎることはありません。これらを考えてみるなら、こうした声明をすることができる人が、誰かこの世にいるでしょうか?」

 

 「私が一つのプロジェクトを決めると、資金集めの運動など何もしなくとも、それを成し遂げるために必要な資金はすぐに手に入ります。私の意志には、私の計画を具体化する力があるのです。私はプッタパルティにカレッジができるよう意志しました。すると、ナワナガルのラージャマータ(藩王女)がそれを建てました。しつけの行き届いた学生のいるカレッジを提供するために、私はハイヤー・セコンダリー・スクール(中・高等学校)を設立することを意志しました。すると、アメリカのボッザーニがそれを建てる機会をくださいと懇願してきましたバンガロールで、私がカレッジと学生寮の計画について意志した時には、エルシー・コーワン夫人がそれを完成させる栄誉を与えてほしいと頼んできました。これが、私のサンカルパ(意志)の力です」

 

 「あなた方の規律ある信愛、あなた方の愛、あなた方の不屈の精神は、手本とすべきものです。ここで私が身内を称賛するのは適切なことではありません。西洋人たちは、多くの不快な思いや不便をものともせずに、大勢でやって来ました。それは彼ら一人ひとりにとって、本当のタパス(苦行)です。あなた方は、自分たちをダルマとカルマの英雄的なメッセンジャーへと変えるために、あなた方の毎日と、行いと、知性と、技能を捧げなければなりません」

 

 「私はあなた方に一つ望みがあります。すべての人に対して兄弟感覚を持ちなさい。常に正しい行いを選びなさい。自己中心的な行いをやめなさい。貧しい人たちや虐げられた人のために働くどんな機会も歓迎しなさい」

 

 「60回目の誕生日の祝祭の一環として、私はあなた方にあるテストを処方します。あなた方はそれを受け入れなければなりません。農夫は、畑を耕し、種を蒔き、その作物の成長を穀物が収穫されるまで見守ります。次のプロセスは、それをふるいにかけることです。その時、もみ殻は風に飛ばされ、しっかりとした実だけが残ります。私は今から、ふるいにかけます。このテストで、もみ殻は取り除かれるでしょう」

 「もう一つ明らかにしたいことがあります。ある疑念が広まっていて、それが人々の心に混乱を招いています。それは、60歳の誕生日の後、スワミは一般の人々から遠い存在になる、スワミに変化が生じる、という懸念です。私の天性は変化するようなものではありません。私は決して帰依者たちから自分を遠ざけるようなことはしません。今後、私はより一層、帰依者たちにとって手の届く存在となるでしょう。サティヤ・サイは、サティヤ――真実(真理)です。どうやってサティヤが変わることなどできるでしょうか?」

 

 「サティヤ・サイ・プラブ(主であるサティヤ・サイ)とサティヤ・サイ・セーヴァカ(サティヤ・サイの奉仕者)は、愛と忠誠心によって固く結ばれています。サイはあなた方のために存在しており、あなた方はサイのために存在しているのです。私たちはお互い離れることはできないのです!」

 

 私たちは神が私たちの間で行動しておられる時代に生きている、ということを私たちが忘れることがありませんように! 二千年前にこの地上を歩いておられた救世主について、ハリール・ジブラーン(レバノンの詩人)が次のように書いています。

 

 「私たちは流れゆく川と共に流れ去り、名もなき者となるでしょう。流れの途中で主を磔にした者たちは、神の流れの途中で主を磔にした者として記憶に留められるでしょう!」

 

 私たちは流れの途中で主を磔にした者として人々の記憶に残らないようにしましょう。私たちにとって、そして、後世の人々にとって、この世界をより良い場所にするために、主と手を取り合いましょう。

54

​第 54 回

 バガヴァン・ババの60歳の御降誕祭の後、そのすばらしい祝典の陣頭指揮を執って働いていた者がこう述べました。

 「このように大規模で、また、三年という時を費やして企画された御降誕祭は、世界中、他のどこにも見当たりません。大切なのは、すべての活動が、その大小にかかわらず、サイ・オーガニゼーションによって行われたということです。社会の福祉と幸福を促進するための新しい活動への種子、拡大し続ける神性への信念を支えるための種子が蒔かれました。ババの60歳の御降誕祭をお祝いする際に生まれた情熱は、祝典が終わったからといって消えてしまうものではなく、それどころか、本当の仕事はたった今始まったばかりだというのが、アクティブ・ワーカーたちの心情です。

 この体験から生じた注目すべき教訓は、このような祝典の成功、あるいは成果の本当の指標は、催し物や行われたプログラムの数で計られるべきものではなく、人々の福祉、健康や幸福への貢献の度合い、また、奉仕を捧げたすべての活動における神への愛、信仰の深さという観点から計られるべきです」

 

 1985年11月14日にプラシャーンティ・ニラヤムで始まった10日間の御降誕祭は、それまでの3年間に世界中のサティヤ・サイ・オーガニゼーションで行われていた祭事の頂点を極めるものでした。それは光と歓びの比類なき祭典でした。その10日間にプラシャーンティ・ニラヤムで起こったことは、驚くほどすばらしい奇跡でした。最終日の23日には、少なくとも40万もの人がいました。その全員が、10日の間、日に4度の食事を完全に無料で与えられました。祝典の間に出された食事の数は合計で800万食以上におよびました! さまざまな種類の菜食の料理が作られ、さまざまな国からやって来た人に振る舞われました。巨大な厨房や配膳用の会場で働いたボランティアの数は、男女合わせて2000人を超えていました。集まった大勢の人々のため、祭典を喜びに満ちたものにするために、少なくとも1万人のボランティアが夜を徹して働きました。

 

 その祝典での活動の幅と質は驚くべきものでした。14日から16日まで、シュリ・サティヤ・サイ行政区の村々に医療キャンプが設営されました。そこではインドのあらゆる地域、そして海外の数か国からやって来た数百人の医師が、健康を必要とする何千人という村人たちのために働きました。医療キャンプのうちの10のセンターは、プラシャーンティ・ニラヤムで10日間昼夜問わず開いていました。26日にはナーラーヤナ・セヴァがあり、スタジアムに集まった1万人の貧しい村人に食事が出され、衣服が提供されました。バガヴァンご自身がその幾人かに食事を給仕なさり、衣服を与えて、その奉仕活動を開始なさいました。16日には、60の小屋からなるカラナム・スッバンマ・ナガルと名付けられた居住区がバガヴァン・ババによって開設されました。それは、ババが神であることをプッタパルティ村で最初に悟った信心深い女性を記念したものでした。その居住区の家屋は、それを必要とする、あるいは、それにふさわしい家族に寄贈されました。17日の朝には、マンディルで100人を超えるルットウィック(ヴェーダを唱える僧侶)によるヴェーダの詠唱が始まりました。詠唱は祝典の最後まで続けられました。

 

 バガヴァンは90冊以上もの出版物の封を切られました。それらは、プールナチャンドラ講堂での第四回世界大会の開会式において、ババの60歳の御降誕祭の奉納物として17日の朝、出版されたものです。世界大会の代表者たちは、バガヴァン・ババの大歓迎会を19日の午後にスタジアムで行う計画を立てていました。20年から30年という長年にわたってバガヴァンと行動を共にしてきた帰依者が何人か選ばれ、バガヴァンに祝辞を述べることになりました。その中には、インドのR・P・ラヤニンガル氏、G・K・ダモーダル・ラーオ氏、カマラ・サーラティ女史、A・ムケールジー女史、M・M・ピンゲー氏、シンガポールのウィー・リン氏、日本の津山千鶴子女史、アメリカ合衆国のロバート・ボッザーニ氏、マレーシアのジャガディーサン氏がいました。それと同時に、80歳代の5人の帰依者、N・カストゥーリ博士、N・S・クリシュナッパ氏、B・シーターラーマイアー博士、T・クリシュナンマ女史、コーナンマ女史という、多方面にわたってバガヴァンに仕えてきた人たちも、記念品の栄誉にあずかりました。翌朝、各国からの観衆は、唯一無二のゴーダーン(牛の贈り物)プログラムをスタジアムで目にしました。彼らの主であるサイ・ゴーパーラが60頭の乳牛と、その牛たちから最初に生まれた子牛を60人の幸運な村人たちに直々にお贈りになったのです。

 

 11月22日、シュリ・サティヤ・サイ高等教育機関は、インドで唯一、教育的な目的として近代的なスペースシアターすなわちプラネタリウムを備える大学、という無類の名声を手にしました。その独特な外観をしたスペースシアターは、ババ自らの絶え間ない直接的な指揮の下、記録的な速さで建てられ、その日の朝にオープンしました。午後には、巨大なサティヤ・サイ・ヒル・ビュー・スタジアムで、40万人以上が見守る中、大学の第四回学位授与式が行われました。

 

 どの高等教育機関の年代史にも、これほど大勢の熱烈な参列者の前で、絵のように美しい場で執り行われた授与式はありません。高名な科学者であった、E・C・G・スダルシャン博士が卒業式のスピーチをし、バガヴァンがお祝いのメッセージを述べて、その巨大なコンコースを祝福なさいました。

 

 ヒル・ビュー・スタジアムの「シャーンティ・ヴェーディカ」〔平安の座〕というぴったりの名前を付けられた壮大なステージは、バガヴァンがダルシャンを与え、記念すべき御講話を述べられる演壇としての役割を果たしただけでなく、17日から24日までの8日間におよぶ文化祭のためのステージとしての役割も果たしました。文化プログラムでは、インドの国立団体によって準備された一連の絶妙な民族舞踊やダンス、有名な音楽家たちによるコンサート、それから、バガヴァンの学生たちによる三つの劇が上演されました。11月20日には、アナンタプル大学の女学生たちが、「イーシュワラ サルヴァブーターナーム」〔主はすべての生類に宿っている〕という劇を上演しました。21日と22日には、プラシャーンティ・ニラヤム・キャンパスの男子学生たちによって、テルグ語の劇「ラーダー クリシュナ」と、英語の劇「こちらとあちら」が演じられました。どちらもバガヴァン御自身の監督によるものでした。前月の間中ずっと、ババはこの二つのお芝居の稽古に非常な関心を持っておられ、学生たちに楽曲の演出、対話の仕方、そして、それぞれの役の演じ方まで教えてくださっていました!

 

 23日の午後には、見事に飾り付けられたジューラー(ブランコ)に乗られるバガヴァン、という喜ばしい光景をながめて、帰依者の大集団が自らの目を楽しませている中、プラシャーンティ・ニラヤム・キャンパスの上級生が、この時のために特別にこしらえたテルグ語とヒンディー語と英語の歌を、心を込めて歌いました。

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プラシャーンティ・ニラヤムのプラネタリウムの礎石を据えるババ。
プラネタリウムはそれから一年もかからずに誕生した。

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​無類の建築

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​色彩豊かな文化プログラム

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​色彩豊かな文化プログラム

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​第 53 回

 1982年に、シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの世界評議会のメンバーは、1985年11月にババの60歳の御降誕祭を世界的な規模で祝う許しを求めてバガヴァン・ババに祈りを捧げました。ババは乗り気ではありませんでしたが、最終的に、その祝典は拡大し続ける奉仕活動の流れの支流という性質を伴ったものであり、帰依者のためにも世界のためにもなるということを認めて、譲歩してくださいました。

 1970年の第4回全インド大会では、シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの主要な目的を明確にするべく、バガヴァン・ババはおっしゃいました。

 「雨粒は、水の流れや川にならないかぎり、自らの源であり目的地でもある海にはたどり着きません。それと同じように、神の帰依者たちはアーナンダ〔至福〕の海の雨粒です。それゆえ、帰依者自身が流れや川となって自らの源へと戻らなければなりません。サティヤ・サイ・セヴァ・オーガニゼーションは、世界のさまざまな所からやって来る帰依者たちを、言語、宗教、カースト、肌の色、国籍など関係なく一つにし、サイのセーヴァカ〔奉仕者〕一人ひとりを神へと戻す、流れです」

 人生の究極のゴールへと皆で共に到達するという概念は、モークシャ〔解脱〕に対する昔ながらの個人主義者的な手法に照らし合わせると、とりわけインドにおいては革命的な概念です。人は、自らの救済を追求する中で、社会のためになることを無視することはできません。この二つは互いに補い合っていますし、手に手を取って進んでいかなければなりません。社会奉仕の霊的な目的が、これほど強調されたことはありませんでした。共に協力して、救済の道を進んでいきなさいという、ババから帰依者たちへの明快な呼びかけは、そのころまだ5歳だったサティヤ・サイ・オーガニゼーションに大きな刺激を与えました。

 それから15年で世界中のオーガニゼーションが驚異的な成長を遂げたことは、1985年11月にプラシャーンティ・ニラヤムで開かれた第4回世界大会ではっきりしました。大会には、46か国から、1万3千人の代表と40万人の帰依者が参加しました。大会のテーマは「国際社会の統合」でした。バガヴァンが14歳で世界に向かって自らの使命を宣言なさった時に人類のハートの中に蒔かれた種が、45年後に巨大な木へと成長を遂げたのです。

 プールナ・チャンドラ講堂の収容人数の限界と、世界大会と御降誕祭に必死で詰めかけてくる大勢の帰依者たちを考慮して、開会式以外のすべての式典はヒル・ビュー・スタジアムで行われました。1984年のセヴァダル大会以来、ずっとバガヴァン自らが、ヒル・ビュー・スタジアムを世界大会と御降誕祭に向けて整えることに強い関心を示してこられました。というのも、予想される何十万人という帰依者をスタジアムだけで収容することができるからです。スタジアムの地ならしや清掃、ステージ「シャーンティ・ヴェーディカ」の建設、丘陵斜面の観覧席の拡張といった、準備に関する詳細の一切をバガヴァンが手ほどきされ、指揮されました。

 40年近くババの側に仕える機会に恵まれ、サイ・ムーブメントが幼い苗木からすべての大陸に根を下ろす力強い世界的な大木へと成長したのを見守ってきたシュリ・N・カストゥーリは、17日の朝、プールナ・チャンドラ講堂に集まった世界大会の代表者たちを迎える際、感極まった、声にならない声で言いました。

 「1968年の第一回世界大会の時、スワミは、アヴァターの呼び声に応じて地球の平和と人類の友好を求めてやって来た群衆に、私は人が神と崇めてきたあらゆる御名と御姿の内にいる、と宣言なさいました。今回は四回目の大会であり、すべての大陸からやって来た莫大な数の代表者たちは、貪欲や傲慢や憎悪という毒に対する唯一の処方箋は愛と奉仕と平静である、というサイのメッセージを何百万という人々が受け入れたことを立証しました。今大会のテーマは『国際社会の統合』です。実に、私たちは、その御心によってすべての人類を一つにすることができるお方の面前にいるのです!」

 1967年から1975年にかけてサティヤ サイ オーガニゼーションの初代全インド会長を務めた、1975年発足の世界評議会の初代委員長は、創設から20年におよぶ世界中のサティヤ・サイ・オーガニゼーションの成長を振り返って、こう宣言しました。

 「この20年で、サティヤ・サイ・オーガニゼーションはバガヴァン・ババの使命のほんの一部でしかないということが明確になりました。ババは、私たちが思いもよらない、ババご自身のやり方で、100におよぶ段階や層で働き続けておられます。サイ・オーガニゼーションはバガヴァン・ババであると見なされますが、逆はそうではありません」

 大会の開会式にあたって、バガヴァンは、無私の奉仕のみがサイを喜ばせると明言なさいました。セヴァは至高のサーダナであると宣言し、バガヴァンはこうおっしゃいました。

 「カルマのゴールはグニャーナ〔英知〕であり、グニャーナにとってカルマは基盤です。実践において二つを組み合わせることが、セヴァ――無私の奉仕です。セヴァより偉大な霊性修行はありません。三界を統べる至高の主、シュリ・クリシュナは、人類の運命を宣言するためにやって来たとき、自ら動物や鳥に仕えました。クリシュナは愛をもって馬や牛に仕えました。クルクシェートラの大戦では、クリシュナは剣を振おうとせず、単なる御者となることに満足しました。そうすることで、クリシュナは無私の奉仕の理想を示して見せたのです。

 サイの哲学は、部屋の片隅に座って息を整え、『ソーハム! ソーハム!』と唱え続けるよう帰依者を鼓舞するためにあるのではありません。『ああ、サーダカよ! 立ち上がりなさい! 気を引き締めて! 社会奉仕に身を投じるのです!』――これがサイのメッセージです。五感を制して、社会奉仕に没頭すべきです。セヴァのない人生は、闇に覆われた寺院と同じです。そこは悪霊たちの住みかです。セヴァの光だけが、霊性の求道者を明るく照らすことができるのです。

 あなた方はここに、世界中の遠い所から、多額の費用をかけて、大変な思いをしてやって来ました。やって来たからには、善い考えや気高い思いを吸収するよう努力すべきです。そうすれば、自分は人の模範となるような人生を送るのだ、人生を崇高なものにしてくれる価値のある行いに従事するのだ、という決意を携えて帰途に就くことができます。これは私からあなた方皆への祝福の言葉です」

 御講話を終えるに当たって、バガヴァンはこうアドバイスなさいました。

 「おしまいに、あなた方に二つの指示を与えたいと思います。それは、あなた方にこの大会の意義を理解させてくれるでしょう。一つは、『自分が人に説くことを自分が実行していること』、もう一つは、『自分が実行していないことを人に説かないこと』です。もし、あなたが何かを語り、それを自分で実行していないなら、それはペテンです。もし、自分が語っていることを実行しているならば、それは偉大さを示すものとなります!」

 その後の三日間、参加者たちは、国際社会の統合を促すという目標にのっとってサイ・オーガニゼーションの活動をさまざまな側面から考えるために、いくつかの分科会に分かれました。分科会では、霊性修行、人間的価値教育、バルヴィカス、セヴァダル、地方の発展、慈善トラストや財団の設立といったテーマについてじっくりと話し合いがなされました。

 

 大会の閉会式は、21日の朝、ヒル・ビュー・スタジアムで行われました。世界評議会のメンバーである合衆国の博士が、歓迎の挨拶で、世界中の帰依者すべての大望をバガヴァンに提起しました。

 「親愛なるバガヴァン、数多くの遥かなる地、人の住む地上のすべての大陸、46の国からやって来た、あなたのつつましやかな帰依者たちは、人生とは貴いものであり、あなたが与えてくださった意識の続く期間であることを、認識しています。私たちは、このきわめて貴重で神聖な宝を浪費しないことを、固く誓います。私たちは、今日ここでなされた決定事項を実行できるよう懸命に努力すること、そして、我々自身に対し、それぞれの参加国の兄弟姉妹たちに対し、また、世界全体に対して、サイの帰依者としての自分の務めを果たすことを、誓います。どうか私たちが、あなたの慈悲の中で、いつも、誠実に、そして効果的に、神の大義のために働くことをあなたが許してくださるよう祈ります」

 世界評議会の副会長が、大会の決定事項と提言のレジュメを提出しました。今大会においては、まずサイ・オーガニゼーションの内部の統合を望みました。国際社会の統合へ向けての第一歩として、大会では、次の四つの目標の下に各国でいくつかの共通プログラムを始めることが指示されました。

 

1)国民の健康と福祉

2)霊的な基盤の強化

3)サティヤ・サイ・アヴァターのメッセージを広めること

4)欲望に限度を設けること

 

 大会の閉会式の歴史的な御講話で、バガヴァンはこう明言なさいました。

 「私はこの世から一つの捧げものだけを受け取ります。それは愛です。それは、奉仕として、兄弟愛として、心の優しさとして、思いやりとして現れた、神聖な無私の愛です」

 現代における世界の危機的な状況について、バガヴァンはこうおっしゃいました。

 「多国からここに集まった世界大会の代表者たちは、異なる文化、伝統、言葉、衣服のスタイル、食べ物等々を有しています。しかし、この多様性が、私たちのヴィジョンである、皆さん方すべての中に本来備わっている神性という一体性を隠すようであってはなりません。今の世界は、手ごわい問題や、急速に広がりつつある恐れにさいなまれています。戦争への恐れ、飢饉への恐れ、悪魔のようなテロリストへの恐れ、民族的、宗教的、地域的争いという問題、経済復興、経済存続の問題、学生たちのしつけの問題、教義の衝突の問題、狂乱や狂信の問題、権力の横領と極端な利己主義の問題。徐々に広まりつつあるこうした恐れへの救済策は、ヴァイラーギャ(霊的な眼識に基づいた無執着)という態度です。体と心から成るものと、『私』と『私のもの』という制限に執着するなら、恐れは回避できません。アドワイタ(不二一元論)的な意識、すなわち、自分が目撃しているものは実在の上にある自分の心に焼き付いているものにほかならないという意識こそが、最良の治療薬であり、奉仕はもっとも効果的なサーダナ(霊性修行)です」

 

 御講話の最後に、ババはオーガニゼーションの会員やワーカー、そして、すべての帰依者たちに、人生で実践すべき10の指針を与えてくださいました。その「神へと至る10の道」〔10の訓令〕は、本書の最終章、「世界教師」の中に掲載されています。

 第四回世界大会は、地球規模での、霊性、教育、奉仕活動の成長、という点で画期的なものとなり、それらの活動はその後の10年で100ケ国以上に広まっていきました。合衆国の夫人いわく、「それは本当に、けた違いに大きな、国際的な出来事であり、バガヴァンへの愛によってつながれた魂たちの霊的な大会でした」。ニューヨークの心理学博士は、この世界大会を、「人類の霊的進化における記念すべき第一歩、転換期であり、重要な過渡期」であったと感じました。

 大会の一年ほど前に、インド国内外のサイのセンター、ユニット、慈善信託団体や教育機関に関するすべての関連データが、バガヴァンに提出されていました。誰が世界大会への出席が認められるべきか、バガヴァンに意見が求められました。各ユニットから一人の役員が代表として大会に出席が認められたとして、その場合でさえ優に一万人以上になるということが、その時、明らかになりました。霊性団体の役員の大会が、アヴァターがおられる中で開催されるなどというのは歴史上どこにも見当たらないことです。偉大なる霊的革命を告げようとしている、私たちのオーガニゼーションの驚異的な規模には驚くばかりでした。

​第 52 回

52

 1983年10月30日と31日にローマで開かれたシュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーション国際会議でのスピーチの中で、第二のノーベル賞と呼ばれる賞〔ライト・ライブリフッド賞〕の受賞者であり、英国のレキン・トラスト社の社長である、ジョージ・トレヴェリアン卿は、一体性へと向かう人類の行進について、極めて楽観的な意見を表明し、「神にはご計画があり、それを今、実行に移されています!」と宣言しました。

 

 その会議には、1200名を超えるイタリアの代表団、遠く南アメリカのアルゼンチンやチリ、そして、地球の裏側に当たるオーストラリアやニュージーランドなど、34の国からやって来た800名の代表団、さらには、イタリア全土から集まったおよそ3000人ものオブザーバーが参加していました。ジョージ卿は、ババが人類に与えた保証を思い起こさせ、それが実現するという希望をあふれさせました。

 「アヴァターの言葉に耳を傾けてください。『私は神へと至る古来の高速道路を修理しにやって来ました。アヴァターは決して失敗しません。アヴァターが意志することは必ず起こり、アヴァターが計画することは必ず実現するのです』そして、こうもおっしゃっています。『私は人類の歴史に黄金の一章を記すためにやって来ました。そこでは虚偽は廃れ、真理が勝利し、美徳が栄えるでしょう。そのとき、知識や独創に富んだ技術や富ではなく、人格が力を与えてくれるでしょう。英知が国の会議の場で敬意を得るでしょう』

 

 それから二年後、ロンドンのウェストミンスターの中央ホールで行われた会議で、ジョージ・トレヴェリアン卿は、身震いするような言明をしました。

 「私たちは現在、極めて尋常ならざる現象を目の当たりにしています。私たちが暮らす世界では、ありとあらゆる闇の勢力が猛威を振るい、危害を加え、恐怖を作り出し、実にたくさんの人々の生活が脅かされ、絶望さえしているありさまです。そして、そのような時、現代という混乱のさなかに、神が私たちと共に働いておられるという至高の希望、すばらしい出来事が起こっているのです。そこには、愛の力による救済という可能性があるのです」

 トレヴェリアン卿は、さらにバガヴァン・ババの言葉を引用して続けました。

 「『私はいつもあなた方と共にいます。あなた方のハートが私の家です。世界は私の屋敷です。私を否定する人々でさえ、私のものです。どんな名前ででも私を呼びなさい。私はそれに返事をします。どんな姿ででも私を思い描きなさい。私はあなたの前に姿を現します。誰をも傷つけたり悪口を言ったりしてはいけません。あなたはその相手の中にいる私を非難していることになるのです』。」

 

 1983年10月30日、ローマでの会議の開会式を行ったシュリ・サティヤ・サイ大学の当時の副学長、V.K.ゴーカク博士によって、その会議に向けられたバガヴァン・ババからのメッセージが読み上げられました。次にあげるのがそのメッセージです。そこには、現代という時代に悩み苦しむ人類の病を癒す、バガヴァンの処方箋が記されています。

 

 「神聖アートマの具現たちよ! 『すべての道はローマに通ず』という古くからのことわざが、今日、ここで立証されています。人々が多くの国からこの歴史的な都市に集まったことに、大きな意味がないわけがありません。あなた方は、今まで聞いたことがないことを学ぶため、そして、人間の冒険に関する新たな理想からインスピレーションを得るためにここに来た、ということを認識する必要があります。

 

 この大会は、どれか一つの宗教、国家、人種、カースト、個人と関係のあるものではありません。この大会は、あらゆる経典の根底にある本質的な真理を明らかにし、真理と正義を確立することを通してすべての人の平和と福祉のために努力することを意図しています。

 

 全人類は、一つの宗教――人間という宗教に属しています。すべての人にとって、神は父です。一なる神の子として、すべての人は兄弟です。したがって、この大会は家族の集まりです。この大会はさまざまな民族や宗教の集まりなのではありません。この大会はさまざまな心の集まりです。この大会はどれか一つの文化や哲学と関係のあるものではありません。この大会はあらゆる宗教の教えの中に存在する神聖な生き方に関係するものです。この大会の目的は、神性の中のユニティ〔単一性/一元性/一体性〕を見ることです。

 

 国や人種に関係なく、すべての宗教の基本的な真理はまったく同一です。哲学的な見解や修行やアプローチの方法は異なるかもしれません。けれども、最終的な目標とゴールはただ一つです。すべての宗教は神性のユニティを宣言し、カースト、信条、国、肌の色に関わらず普遍的な愛を養うことを説いています。この基本的な真理を知らない人は、自分の宗教を理由に慢心とエゴ〔自我意識/我執〕を膨らませます。そのような人たちは、神性を断片化することによって、大きな混乱とカオスを生み出しています。無限の神性をそのような狭いところに閉じ込めて分割することは、神性に対する反逆です。霊的な生活、神をベースにした生活の基盤は、内在の神霊すなわちアートマン(神の魂/アートマ)です。体は神霊の家です。

 

 社会生活も、この霊的基盤に従うべきです。ところが人は、実在するのは体だけ、という信念に生活の基盤を置いています。この誤りをなくすには、神霊について教わる必要があります。個人も社会も両方とも神の意志の現れであるということ、そして、神は宇宙に浸透しているということを認識する必要があります。この真理を認識することによってのみ、人は自分のエゴを手放して、義務に献身する生活を送ることができます。社会は自分本位な個々人の戦場になるのではなく、神に導かれる個々人の共同体になるべきです。

 

 科学の進歩に伴って、人は自分が宇宙の主であると思い、神を忘れる傾向に陥っています。現代人は、月に行き、宇宙を探検していますが、もし自分たちは創造における無数の謎と不思議をまだ知らないということを考えるなら、それらは心と知性の限られた能力をはるかに超えていることに気付くでしょう。宇宙の神秘と謎を発見すればするほど、人は、神がすべての創造物の創造者であり、動機を与える者であることに気付くでしょう。すべての宗教はこの真実を認めています。人にできることは、目には見えない無限の神を理解するために自分の限られた知性と知識を使って尽力し、神を礼拝し崇めることを身に付けることだけです。

 

 生まれ持っている神性を示す代わりに、人は自分自身の物質的な達成という牢屋に囚われています。人間のあらゆる科学や技術の進歩よりも偉大なのは、神の意識が授けられている存在としての人間自身です。物質世界のみを現実と見なすという選択をすることで、当分の間は、科学的、技術的、物質的な社会の繁栄をもたらすことができるかもしれません。けれども、もしその過程で人間の利己心や貪欲や憎悪が増すならば、人々が通常しているのと同じように、社会が社会を破壊してしまうでしょう。反対に、もし人間の本質をなす神性が示されるなら、人類はユニティに基づいた、そして、愛という神聖原理の順守に基づいた、立派な社会を築くことができます。この重大な変化は、個々人の心から始まらなければなりません。個人が変わると、社会が変わります。そして、社会が変わると、世界全体が変わります。ユニティは社会の進歩の秘訣であり、社会への奉仕はユニティを促進する手段です。ですから、誰もが献身の精神で社会への奉仕に身を捧げるべきです。

 

 物質的な快適さは社会生活の唯一の目的ではない、ということを悟るべきです。個々人が物質的な福利のみに関心を寄せる社会では、和合や平和を達成することは不可能です。たとえ達成されたとしても、それは継ぎはぎだらけの和合でしかないでしょう。なぜなら、そのような社会では強者が弱者を抑圧するからです。自然の恵みを平等に分配しても、名ばかりの平等以外は何も保証されないでしょう。物質で出来た品物を平等に分配することで、どうやって欲望と能力に関連する平等を達成できますか? ですから、霊的なアプローチを明らかにすること、そして、心を物質的なものから各人のハートの中に鎮座している神に向き直させることによって、欲望を支配する必要があるのです。

 

 ひとたび内在の神霊の真理を知ると、世界は一つの家族であるという意識のあけぼのがやって来ます。すると、人はその人のあらゆる行いの原動力となる神の愛で満たされます。人は終わりのない欲望の追求に背を向けて、平和と平静の探求へと向かいます。物質的なものへの愛を神への愛に転換することによって、人は神を体験します。その体験は人間を凌ぐものではありません。実際、それは人間に固有の性質の一部です。それは人の人間性と神性の神秘です。

 

 自分の宗教が何であれ、誰もが他の信仰への敬意を培うべきです。他の宗教への寛容と尊敬の態度を持たない人は、自分の宗教の真の信徒ではありません。単に自分の宗教の慣行を厳守するだけでは十分ではありません。すべての宗教の本質をなすユニティを見ようとも努めるべきです。そうして初めて、神性は一つであるということを体験できるようになります。宗教の分野では、いかなる類の強制も強要もありません。宗教的な問題は、穏やかに、そして、冷静に議論するべきです。ある人の宗教は優れていて、別の人の宗教は劣っている、といった感情を抱いてはなりません。宗教に基づく対立は完全に排除するべきです。宗教に基づいて人を分けるのは、人道に反する罪です。

 

 現代人は、自然と宇宙に関するすべてを知っていると思っています。ですが、もし人間が自分自身を知らないなら、その知識の一切は何の役に立ちますか? 自分自身を理解したとき、初めて外の世界についての真実を知ることができるようになるのです。人の内なる実在を、外の世界を探索することによって知ることはできません。目を内に向け、自分の本質をなす神性を悟るとき、人は万物への平等心を手に入れます。その、一つであるという気持ちによって、人は理解を超える至福を体験するでしょう」

〔Sathya Sai Speaks Vol.16 C29〕

 

 ローマでのこの画期的な会議において、ジョージ・トレヴェリン卿は三人のゲスト・スピーカーのうちの一人でした。彼は、「人類の一体性に向けて」というテーマで講演をしました。二人目のスピーカーは、アメリカのジョージア州レイクマウントにあるセンター・オブ・スピリチュアル・アウェアネスの設立者であり会長の、ユージーン・ロイ・デイヴィス氏でした。氏の話は、「急速に目覚めつつある世界における霊的責任」についてでした。三人目のスピーカーは、在英国シエラレオネ大使館や他の国々で大使を務めたヴィクター・カヌー氏でした。氏の題目は「シュリ・サティヤ・サイ・ババ、人類の希望」でした。

 

 会議では五つのグループに分かれてテーマを話し合い、話し合った内容を各代表が発表しました。

 

1.「人類の一体性」シュリ・V.K.ナラスィンハン氏

2.「日常生活におけるサイの理想」ジョン・ヒスロップ博士

3.「科学と霊性」サミュエル・サンドワイズ博士

4.「すべての宗教の真髄」ハワード・マーフェット氏

5.「人間的な特質と神性」シュリ・V.シュリーニヴァーサン氏

 

 Ⅴ.K.ゴーカク博士とインドからローマへの旅を共にした、当時サナータナ サーラティ誌の共同編集者であったシュリ・Ⅴ.K.ナラスィンハンは、ローマでバガヴァン・ババの遍在を裏付ける奇跡的な体験をしました。その奇跡は会議の中で帰依者たちの話題になりました。その奇跡を目撃したオーストラリアのサラ・パヴァン博士に、その心躍る出来事を聞いてみることにしましょう。

 

 「そのすべてはローマで起こりました。10月27日に、私はエルジェフ・ホテルでシュリ・V.K.ナラスィンハンに会い、オーストラリアのサティヤ・サイ年鑑の出版前の原稿に目を通してくださいとお願いしました。それは私が編集したもので、規定に合っているかどうか確かめてもらうためでした。ナラスィンハンはそれを読もうとして老眼鏡を探しました。やっきになってメガネを探しましたが、いつもメガネを入れている赤いメガネケースが見つかっただけでした。ナラスィンハンは、ホワイトフィールドのブリンダーヴァンにある自分のアパートにメガネを置き忘れたのではと不安になりました。彼は、出発の日に二度も領事館に行かなければならなかったため、大あわてでブリンダーヴァンを出ていたのです。ナラスィンハンは、私が彼に渡した原稿の件はもちろんですが、メガネなしでどう会議をやり過ごしたらよいものかと戸惑いました。

 

 私は翌朝、ホテルに彼を尋ねました。私たちはソファーに座り、お互いどんなふうにスワミのもとへとやって来ることになったのかを話していました。突然、私たちの間のクッションの上に何かが落ちてきた音が聞こえました。そこに黒縁のメガネを見て、私たちは大変驚きました。ナラスィンハンはクッションの上のそのメガネを二度見して叫びました。『私のメガネだ! スワミがここにいらっしゃったのだ!』この言葉が発せられるよりも前に、私も何か『普通じゃないこと』が起こったのだという気がしていました。ナラスィンハンは、自分の老眼鏡が奇跡的に出現したことに圧倒されていました。スワミへの感謝の思いで彼は涙ぐみました。ローマ滞在中に自分の目の前で起こったこの奇跡によって、私はスワミの遍在を確信しました。

 

 ナラスィンハンがプラシャーンティ・ニラヤムへ戻ってからスワミが最初にお尋ねになった質問は、『ナラスィンハン、あなたのメガネに何かありましたか?』でした。ナラスィンハンはスワミに、誰かが自分のところにメガネを運んでくれたように感じましたと言いました。スワミは、『私がそのメガネをバンガロールからローマのあなたの所へ届けたのですよ』とおっしゃいました」

 

 ローマでの国際会議は、サイ・ムーブメントが地球規模で飛躍した画期的な出来事でした。それはある意味、シュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションの第四回世界大会の先駆けでした。世界大会は、バガヴァン・ババの60回目の誕生を祝う式典の一環として、1985年11月17日から21日まで、プラシャーンティ・ニラヤムで開催されたのでした。

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​第 51 回

 月刊誌サナータナ サーラティの1983年6月号の内表紙に、短いお知らせが掲載されました。見出しは「ブリンダーヴァンに新しいマンディル」でした。そこにはこう書かれていました。

 

 「ブリンダーヴァンを訪れる人は、100年の歴史のあったその建物を懐かしく思うことでしょう。そこは数々の増築や改築を施しつつ、およそ20年間バガヴァンの住まいだった場所でした。バガヴァンは1983年5月17日に、その古い敷地に新しいマンディルの礎石を据えられました」

 この知らせは、たくさんの人たちに懐かしい思い出の数々をよみがえらせました。彼らは神さまとの楽しい交流や人々の変容を目撃してきたその幸運な建物が取り壊されることをさみしく思いました。けれど、その場所に新たに現れた新しいマンディルは、一年もしないうちにそんな哀愁を吹き消してしまいました。

 

 その新しい住まいのためにバガヴァンがお選びになった名前、「トライー ブリンダーヴァン」〔トライーは「三つ組みの」を意味する〕には、何重もの意味があります。その根本にある意味は、神性の三つの側面を表している、「サッティヤム・シヴァム・スンダラム」です。「サッティヤム」(サティヤム)はボンベイにあるバガヴァンの住まいの名前です。ハイデラバードにある住まいは「シヴァム」で、マドラス(チェンナイ)の住まいは「スンダラム」です。しかしながら、この三つを合わせた名前は長すぎるため選ばれませんでした。「トライー」にはこの三つすべてが含まれています。

 

 さらに、「トライー」は、サナータナ・ダルマ(永遠の法)の根源を成す三つのヴェーダ、すなわち、リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダを表す合成語でもあります。加えて、「トライー」は、絶対者(神)の三つの属性、サット・チット・アーナンダも表しています。「トライー」は、シュリー・ラリター・サハッスラナーマ・シュトートラム〔ラリター女神の千の御名を称える讃歌〕に謳われている千の御名のうちの一つでもあります。「トライー」はまた、主だった宗教に見られる三位一体も表しており、霊的大望を抱く人にとって、「トリカラナ・シュッディ」〔三つの清浄〕すなわち、思いと言葉と行いの清らかさを、繰り返し思い出させるものです。「トライー」はさらに、「トリカーラ」〔三つの時間〕すなわち、過去・現在・未来も表しています。

 

 建物は、西正門のドア、北側のインタビュールームのドア、そして、南西の通用口というように、入り口が三つあり、二階建てで、蓮の花の形をしています。建物のどの面にも蓮の形があしらわれていますが、それはブラフマ・サーンキヤ〔神を表す数字〕である神秘の数9およびその倍数と密接な関係があります。

 

 建物の設計図には二つの同心円が記されています。直径が36フィート〔約11メートル〕ある内側の円は、高さが床上36フィートの荘厳な丸天井のホールで構成されており、外側の円は直径が72フィート〔約22メートル〕あります。その二つの円の間のエリアは両フロアとも各部屋と廊下で区切られています。円形のホールに立って見ると、一階にある9つの部屋のドアが見えます。それぞれのフロアの高さは144インチ〔約3メートル半〕あります。内側の円には円周に沿った9本の柱があり、外側の円には18本の柱があります。建物の18枚の蓮の花びらは、コンクリート製の日よけになっており、一階の外側にある18の窓を見下ろしています。屋内の丸いホールには満開の9つの蓮の花が施された欄干付きのバルコニーがあり、それぞれの花の中心にはナヴァグラハ(9つの惑星)が一つずつ飾られています。荘厳な円天井には、27フィート〔約8メートル〕の巨大なピンクの蓮の花が光沢を放っています。さらには、建物全体を蓮の花の形をした池が取り囲んでいます。蓮の花といえば、人のハートの霊的な開花という象徴的な姿形が思い出されます。蓮はバガヴァンのお気に入りの花でもあります。

 

 入口の重厚な扉には、ラーマーヤナの場面をモチーフにした2枚のパネルと、シヴァ・シャクティをテーマにした見事な木工細工が施されており、邸宅の美観をより一層を引き立たせています。玄関を通ると、屋内の円いホールへと導くアンティーク調のウッドローズの木の扉が人々を出迎えてくれます。扉を開けると、ガネーシャ神の大きな像に両手を合わせて挨拶することになります。その両脇にはナタラージャとヴェーヌ・ゴーパーラの神像が安置されています。

 

 バガヴァンにより、1984年4月26日にトライー・ブリンダーヴァンの落成式が執り行われました。その日は、あらゆる場所から集まってきた何千という帰依者たちにとって、思い出深い日となりました。その日の朝、帰依者と招待客、そして、大勢の群集が、サイラム・マンタップとその新しい建物の近くのテントに集まりました。ババは、ブリンダーヴァンに隣接する敷地にある仮住まい「デーヴィー・ニヴァーサ」〔女神の館〕からお出ましになり、先頭にブラスバンド、それから、ヴェーダを詠唱する学生、バジャンを歌う学生という、見応えのあるすばらしい行列を率いられました。行列の中には華やかな衣装を着けたゴークラムの雌牛が数頭おり、バーガヴァタムの一場面を思い出させました。

 

 バガヴァンがトライー・ブリンダーヴァンの門をくぐられると、バガヴァンが到着する前から伝統的なホーマ〔護摩焚〕を行っていた僧侶たちがバガヴァンにプールナ・クンバ・スワガタム〔歓迎の挨拶〕を捧げました。落成式に先立って、ババはその新しい寺院の建設に関った人たち全員に贈り物をしておられました。その中でも目立っていたのが、ボンベイ出身の建築家シュリ・アタレー、そして、建設現場を監督したシュリ・ブリガディエール・ボースとシュリ・ヴィマラナータン、古美術品や見事な木工細工という形で貢献したシュリ・ナテーサンとシュリ・スクマランでした。それから、バガヴァンはテープカットをなさり、「トライー・ブリンダーヴァン」と刻まれた銘板の覆いを外し、建物の落成を行われました。バガヴァンがマンディルに入られると、辺り一面に歓喜がみなぎりました。その場にいたジャーナリストの一団がバガヴァンにメッセージを求めると、バガヴァンはテルグ語で「あなた方の喜びは私の喜びです」とおっしゃいました。バガヴァンは彼らに、この建物は、数えきれないほどの帰依者たちの愛と帰依心がもたらした結果であると述べられました。それによって、バガヴァンは猿やリスやその他のものたちがどのようにしてラーマがランカーに橋を架けるのを手伝ったかを思い出させてくださいました。

 

 そこに集った何千という人々は、豪華な食事を振る舞われ、さらに、大勢の老人たち、障害のある人たちに衣類が配られました。その日の午後、マンディルの建物とサイラム・マンタップの間にある野外の公会堂は帰依者たちであふれました。名高い音楽家たちによる、魂を揺さぶられるような神への讃歌がその場の空気を満たす中、彼らは主の蜜のように甘いダルシャンを享受しました。シュリーマト・M・S・スッバラクシュミー、シュリーマト・S・ジャーナキー、シュリーマト・P・リーラー女史らは、人の姿をとった主に心からの歌を捧げるという幸運にあずかり、その崇高な雰囲気の中、パンディト・ジョグ氏が最高のバイオリン演奏をしました。

 

 こうして、多くの人々のハートの花を咲かせた新しい「蓮の花」が開花したのでした。

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50

​第 50 回

 ブリンダーヴァンのこの上なく素晴らしい魅力は、シュリ・ラーマブラフマンの人生における、興味深い、驚くべきたくさんの出来事によく表れています。彼はアシュラムの管理責任者になってから亡くなるまで、約30年にわたりずっとバガヴァンの祝福を受けてきました。バガヴァン自らがプラシャーンティ・ニラヤムや他の場所から900通以上の手紙を出されてラーマブラフマンにアシュラムの維持に関するガイダンスや指示を事細かに記したという事実は、バガヴァンのハートの中でいかにブリンダーヴァンという場所が尊ばれているかを示唆しています。ババからの手紙には、ラーマブラフマンへの限りない愛と思いやり、そして、ラーマブラフマンの身体的および霊的な安寧に寄せる気遣いが表されているものも数多くありました。それらの手紙には、母の愛情、父の厳しさ、そして、師であるアヴァターの英知が映し出されていました。ここに、バガヴァンがラーマブラフマンに宛てた、甘露のごとき神の愛に満ちた、詩歌のような手紙があります。

 

 「私は、私に会いたいと焦がれる寡婦、サックバーイーが流した切ない涙を、一度たりとも忘れたことがあっただろうか? 私を崇拝することより他には何も望まなかった私の帰依者、ナンダナールが味わった試練の数々を覚えていないことなどあろうか? ただ私のダルシャンにあずかりたいと、不用意に泣きながら懇願した王妃、ミーラーバーイーが一度でも私の記憶から色あせたことがあっただろうか? ラーマ、ラーマと絶え間なく呟きながら気が狂ったように神を求め、あちらこちらとさまよい歩いた詩人、ティヤーガラージャの祈りを一度たりとも無視したことがあっただろうか?

 

 おお、ラーマブラフマン! これらすべてをいつも覚えているあなたのサイが、私を求めて今泣き叫ぶあなたの涙ながらの訴えに耳を貸さないことがあるだろうか? どうしてあなたに彼の慈悲が降り注がれないことがあろうか? 心しておきなさい、彼はどんな時も必ずやあなたを守ります。

 

 ラーマブラフマン! サイはあなたがどこにいようとも、決してあなたを忘れません。あなたが森にいようと空にいようと山にいようと、村に行こうと町に行こうと、サイには問題ではありません。サイがあなたを忘れることは決してありません!

あなたのババより」

 

 ラーマブラフマンは、ヴィジャヤワダ市近郊の村の出身で、裕福な農学者であり、ビジネスマンでした。1945年からシルディ・ババの帰依者でしたが、1953年、51歳の時、初めてプラシャーンティ・ニラヤムでババのダルシャンにあずかりました。プラシャーンティ・ニラヤムでの最初の日、彼はバガヴァンから声をかけられ、「ラーマブラフマン、How are you?」と尋ねられ、たいそう驚きました。どうしてババに自分の名前が分かったのか、ラーマブラフマンは不思議に思いました。滞在三日目、ババはパーダプージャー〔御足への礼拝〕を捧げる機会を与えて彼を祝福なさいました。パーダプージャーをしていた時、彼にはサティヤ・サイ・ババの代わりにシルディ・サイ・ババが椅子に座っておられるのが見えました! こうしてババは、彼に信仰心という最も大切な贈り物をお与えになったのです。ラーマブラフマンはその時から二度と後ろを振り返ることはありませんでした。彼はプッタパルティを頻繁に訪れるようになりました。時折、妻や二人の娘や三人の息子など、家族の何人かと一緒に行くこともありました。

 

 1953年に初めてプッタパルティを訪れた後、ラーマブラフマンはグントゥールでたばこの輸出業に乗り出しました。勤勉さと誠実さのおかげで、事業はすぐに成功しました。そのことでババへの帰依心はより一層深まりました。1955年まではすべてが順調でした。しかし、そこから試練が始まりました。後に彼は、その時期は、ブリンダーヴァンでバガヴァンに仕える者としてふさわしい価値を備えた人物になれるよう、精神面を強くするためにバガヴァンが鍛えてくださった時期だったと告白しています。1955年の終わりごろ、ラーマブラフマンは重病を患い、1956年まで誰もその病気を正確に診断することができませんでした。その上、いつプラシャーンティ・ニラヤムへ行っても、バガヴァンから無視されました。最終的に、その病気は重篤な肺感染症であると診断され、カルナータカ州のマイソールへ治療と休養に行くようにと勧められました。ラーマブラフマンは1956年6月から1957年の3月までマイソールに滞在しました。事業は失敗し、負債を清算するために、ほとんどすべての財産と土地を売り払うしかありませんでした。ラーマブラフマンは一年もしないうちに百万長者から困窮者へと身を落としてしまいました。ババへの信心は厳しい試練にさらされました。しかし、彼は成功を収めました。幸運なことに、親戚や友人が皆彼を見捨てても、バガヴァンは限りない愛を注いて彼に寄り添ってくださったのです。信愛の絆はさらに強くなりました。

 

 それから5年間、ラーマブラフマンの内面は厳しい鍛錬と研磨にさらされ、神への思慕はさらに強いものとなっていきました。1963年、彼にとって決定的な瞬間が訪れました。それはブリンダーヴァンにおられたババの所へ末娘の結婚を祝福してもらおうと赴いた時のことでした。末娘の結婚式はまだ先でしたが、彼の魂が神と結ばれる時が来たのです。バガヴァンは末娘の結婚を決めることと式を挙げることを請け合い、彼に妻と末娘を連れてブリンダーヴァンへ来るように、そして、アシュラムの管理人として定住するようにとおっしゃいました。ラーマブラフマンは、その贈り物を何生にもわたった苦行への褒美としてありがたく受け取りました。その日、彼は永遠なるものを追い求めたこの世での探求が成就したことを知りました。

 

 ラーマブラフマンは年下の同僚たちにとても親切でしたが、必要とあらば、ためらうことなくアドバイスをしていました。彼自身がバガヴァンとの体験で学んだことを例に挙げてアドバイスをすることもありました。ラーマブラフマンの最初のアドバイスはこうでした。

 「ここには職のために来たのだと思わないことだ。ここは自分の所有物だと思って、責任感を持って管理すべきだ」

 

 二番目の忠告はこうでした。

 「バガヴァンにはどんな個人的なお願い事もしないことだ。あなたがバガヴァンの仕事をすれば、バガヴァンはあなたの仕事をし、あなたが必要とするすべての面倒を見てくださる。あなたが何もお願いしなくても、バガヴァンはあなたに相応しいもの以上のものを与えてくださる」

 

 三番目はこうでした。

 「バガヴァンの指示には徹底的に文字どおりに従い、守ることだ。どんなことであろうとも、あなたに選択の自由は一切ない。バガヴァンが命じたことを、あなたの論理や都合に合わせて解釈してはならない」

 そして最後に、彼はよくこう言ったものです。

 「ババは神様だ。いつも彼を神様として敬うことだ。時たま、バガヴァンは軽い調子で話したり、冗談さえ言ったりするかもしれない。しかし、決してバガヴァンを軽く扱ってはならない。もしあなたがこのチャンスを失ってしまったら、それを再び手に入れるには何度も生まれてこなければならないかもしれない。今生であなたが最優先すべきはバガヴァンだ。他の人や他の事は二の次だ」

 

 ある時、ババはラーマブラフマンを呼んでおっしゃいました。

 「あなたの奥さんはしゃべりすぎです。それに、大きな声で話すので、アシュラムにいる誰にもその声が聞こえるほどです。彼女の話し声はマンディルにいた私にも聞こえました」

 その翌日、ラーマブラフマンは15時間以上かけて奥さんを自分の村に連れていき、彼女を置いて戻ってきました。バガヴァンか妻かどちらを選ぶかという選択に、ラーマブラフマンはバガヴァンを選んだのです! 彼は戻ってからババに報告しました。

 「スワミ、もう私の妻がここで誰かをわずらわせることはありません。妻のことで私と妻がこれまでご迷惑をおかけしていたことを、どうかお許しください」

 ババは言いました。

 「私は、奥さんをここから追い出しなさいとは一度も言っていません」

 ラーマブラフマンは黙り込んでしまいました。

 

 一週間後、ババは尋ねました。

 「奥さんはいつ戻ってくるのですか?」

 ラーマブラフマンは言いました。

 「スワミ、分かりません」

 それからいく日か毎日同じ質問がなされ、同じ答えが続きました。とうとうババはしびれを切らして言われました。

 「ラーマブラフマン、もし奥さんが一週間以内にここに戻ってこなかったら、あなたも奥さんと二人でそこに住むことにしなさい」

 その時、ラーマブラフマンは事の重大さを理解し、三日も経たずに奥さんをブリンダーヴァンに連れ戻しました!

 

 グントゥールでラーマブラフマンの孫娘の結婚式が行われることになった時のことです。家族から招待状を受け取ったのは、式の二週間前のことでした。彼はバガヴァンにその招待状を捧げましたが、結婚式に出席するための許しを請うことはしませんでした。黙って立ち上がろうとしたとき、ババが自らおっしゃいました。

 「行って結婚式に出席してかまいません」

結婚式の日が近くなったある日、彼はババから式の二、三日前にはグントゥールへ出発するようにと言われるのを期待していました。しかし、バガヴァンはそのことには触れようとしませんでした。ラーマブラフマンもそれを口にはしませんでした。結婚式が終わった次の日、ババは尋ねました。

 「ラーマブラフマン、どうして結婚式に行かなかったのですか?」

 ラーマブラフマンは平然と答えました。

 「スワミは私に出席してほしくないのだと思ったのです。そうでなければ、当然あなたは私に行きなさいとおっしゃったはずです」

 バガヴァンは大いに満足し、もうすぐ75歳になろうとしていたラーマブラフマンにこうおっしゃいました。

 「Good boy(いい子だ)! それぞ真の帰依者の証しです」

 

 ラーマブラフマンにとって、思いと言葉と行動でババを喜ばせることよりも大切なことは、何もありませんでした。まさしく、彼はずば抜けた帰依者でした。

 

 ラーマブラフマンの次男、シュリ・ナーガブーシャンが、1964年6月3日、ヴィジャヤワダで急死しました。その日は猛烈なサイクロンのせいでヴィジャワダとブリンダーヴァンの間の通信回線はすべて切断されていましたが、その夜、バガヴァンはラーマブラフマンにおっしゃいました。

 「あなたの息子、ナーガブーシャンが亡くなりました。すぐに奥さんを連れて家に帰りなさい。でも、奥さんには家に着くまでそのことを知らせてはいけません」

 ラーマブラフマンは黙ってその言いつけに従いました。17時間の移動中、ババがある重要な用事のために自分をヴィジャヤワダに遣わせたのだということ以外、妻には何も明かしませんでした。家に着いて妻が目にしたのは、愛おしい息子の亡骸(なきがら)でした。妻は自分たちを襲った悲劇のことを急いでバガヴァンに知らせようと思いました。その時初めてラーマブラフマンは妻に真実を告げました。彼は慰めるように言いました。

 「おまえに対する限りない御慈悲から、スワミは私がブリンダーヴァンでこの子の死をおまえに知らせることを望まれなかった。母として、おまえは悲しみに耐えながら長旅をすることなど不可能だっただろう」

 

 最後の儀式〔葬儀〕が終わるまで、二人は二週間ヴィジャヤワダに滞在しました。その間、バガヴァンはラーマブラフマンと妻に長い手紙を書かれ、生死に関する英知の言葉で二人を慰めました。ですが、息子を失った母の心中にあった苦悩の炎はそう容易く消し去ることができませんでした。ブリンダーヴァンへ戻ると、妻は胸が張り裂ける思いでバガヴァンに泣きついて、嘆き悲しみました。

 「ババ、私は息子を亡くしてしまいました」

 ババはおっしゃいました。

 「彼はどこかに行ってしまったのではありません。彼は私と一緒にいます」

 「あなたと一緒に? 本当ですか?」

と、悲しみに打ちひしがれた母は尋ねました。バガヴァンは夫妻をインタビュールームに連れていきました。そこで二人が見たものは、二週間前に何百マイルも離れた場所で葬ったはずの息子でした。息子はブリンダーヴァンのインタビュールームに座っていたのです! ババは、嘆き悲しむ母の焼け付くような痛みを和らげるために必要なことをすべてなさり、一日のうちにそれを成功させたのでした。

 

 次に挙げるラーマブラフマンの三つの体験談は、ババに仕える者に必要な、大切な教えを説いています。

 

 ラーマブラフマンは背が高く、骨格もがっしりとして、体重もありました。ある日のこと、ババは彼にご自分のオレンジのローブを渡し、それを着るようにとおっしゃいました! 他の人なら誰もが冗談だと思ったことでしょう。ですが、ラーマブラフマンはそのローブを手にしてババを見ました。ババはおっしゃいました。

 「そうです、着てみなさい」

 ラーマブラフマンは真面目に言いました。

 「スワミ、着てはみますが、これが私の大きな頭や長い腕に合うかどうかは分かりません」

 バガヴァンは動じませんでした。ラーマブラフマンは大変な思いをしてローブに頭を入れようとしましたが、息もできないほどになってしまいました。それでも彼はあきらめませんでした。ラーマブラフマンが大いに驚き、また喜んだことに、ローブは彼にちょうどぴったりの大きさになるまで大きくなりはじめたのです! ラーマブラフマンはその経験から良い教えを学びました。彼はよくこう言っていました。

 「あなたがババに言われたことを誠実にやろうとするとき、ババは必ずあなたがその仕事を首尾よくやり遂げられるよう助けてくださるのだ」

 

 ラーマブラフマンがマンディルの一階にいたときのことです。二階からバガヴァンが大きな声で自分を呼んでいるのが聞こえました。ラーマブラフマンは手に魔法瓶を持っていて、それを持ったままババに会いにいくのは適切ではないと思いました。そのため、彼は台所に魔法びんを置きに行き、それから二階へ上がりました。バガヴァンの所へ行くと、バガヴァンは鋭い目を向けて彼に尋ねました。

 「なぜ来たのですか?」

 「スワミ、あなたがお呼びになったのです」

と、ラーマブラフマンは答えました。ババは少々厳しくおっしゃいました。

 「私があなたを呼んだのは数分前で、今ではありません」

 こうしてラーマブラフマンは神の御前から退出させられました。

 さほど問題ない出来事のように思えたその件から一月後、ラーマブラフマンの指揮の下、ブリンダーヴァンの農場に井戸が設置されました。彼はバガヴァンから、そこで作業をしていたセヴァダルや労働者たちのためにと、お菓子を預かっていました。お菓子を配り終え、畑を通ってマンディルへ歩いて帰る最中、彼は時計を見て、ババが自分を待っておられるかもしれないと思いました。彼は速歩きを始めました。けれど、急ぐあまり足を滑らせて転んでしまいました。地面に倒れる直前に、ラーマブラフマンは「サイラム」と叫びました。ひどい転び方をしたにもかかわらず、白い服が汚れただけで、まったく難儀を感じませんでした。バガヴァンのもとに着くと、バガヴァンは彼におっしゃいました。

 

 「ラーマブラフマン、あなたが私の名前を呼ぶや、すぐに私は農場のあなたが転んだ場所へと駆けつけて、あなたがひどい怪我を負わないよう守りました。さもなければ、あなたは骨を何本か折っていたことでしょう。あなたが私を呼んだ時、すぐに私がその場に駆けつけなかったら、どうなっていたでしょう? 一方、あなたは私があなたを呼んだ時、私のもとに来るのに時間をかけました。それでよいのですか?」

 ラーマブラフマンはババの御足にひれ伏して許しを願いました。

 

 ある日、当時のインドの副大統領、シュリ・B・D・ジャッティが、国の重要事項に関してバガヴァンの祝福を得るために、夕方6時にブリンダーヴァンへやって来ました。副大統領は主要な大臣数人とカルナータカ州の首相を連れていました。しかし、その日ババはすでに自室へ戻っておられました。ババの許しがない限りどんなゲストも訪問者もマンディルの敷地に入ることはできなかったため、ラーマブラフマンは副大統領とお歴々を「サイラム・マンタップ」で出迎えました。彼は恭しくあいさつをして、翌朝来てくださいと頼みました。副大統領は彼に懇願しました。

 「私はこの件について、夜が明ける前に首相に話をしなければならないのだ。どうかババに、私はここでお会いできるのを待っていると伝えてくれないか」

 ラーマブラフマンは丁寧に、しかし、きっぱりと言いました。

 「閣下、スワミが部屋へ戻られてからは、誰もスワミの部屋のドアをノックすることはできないのです。どうかお許しください」

 「それではどうすればよいのだ? どうか助言を与えてはくれないか?」

と、当惑した副大統領は尋ねました。

 「私の経験に基づいて言わせていただくなら、一つだけ方法があります。どうぞここにお座りください。そして、サイラムと唱え、ババに祈ってください。ババはすべてご存じです。あなた方の祈りに応えてくださることでしょう」

と、老練な帰依者である彼は答えました。

 シュリ・ジャッティはそのアドバイスを受け入れて、座って祈りました。ラーマブラフマンはマンディルへ戻っていきました。数分もしないうちに、バガヴァンが部屋から姿を現し、ラーマブラフマンに副大統領を中へ入れるようにと指示なさいました。バガヴァンは副大統領と三十分以上話をなさいました。

 

 ラーマブラフマンはそのことに驚きませんでした。ですが、他の者たちにとって、それは意義深い体験でした。こういった数多くの経験に基づいて、ラーマブラフマンが年下の同僚たちに与えるアドバイスはこうです。

 「私たちは、スワミを喜ばせることができるよう、物事を正しく行うための適切な働きかけの方法をスワミに絶えず祈り続けているべきなのだ。もし自分の知力や考えで判断すれば、十中八九間違えることになるだろう」

 ラーマブラフマンは神の人でした。彼は神のために生き、神のために働きました。

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神のために生き、神のために働いたラーマブラフマン

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東アフリカからラーマブラフマンに宛てて書かれた

ババの手紙

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ブリンダーヴァンのゴークラムの落成式

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​第 49 

 時が経つにつれ、バガヴァンのところに集まる会衆はとても多くなり、どんな帰依者の家でもバガヴァンのダルシャンを求めて訪れる群衆を収容することができなくなりました。大勢の帰依者たちは、日差しや雨をものともせず、バガヴァンが滞在なさる家の外の道路に集まりました。その光景はバガヴァンの優しい心を動かし、バガヴァンは町の郊外にある静かで落ち着いた場所にアシュラムを作ることを決意なさったのです。

 

 1958年1月1日、ババは、町の東方20キロにある小さな町、ホワイトフィールドを訪れ、何人かの帰依者たちと共に、たわわに実った果樹園で丸一日を過ごされました。

 

 ホワイトフィールド周辺にアシュラムを設けるというババのサンカルパ〔意志〕は、1959年7月23日に現実となりました。バガヴァンは、町の北方まで伸びている幹線道路の東側に20エーカーの屋敷を購入なさいました。バガヴァンは、1960年7月25日に正式にその場所に入られ、そこを「ナンダナ・ヴァナム」と名付けました。その名のとおり、そのアシュラムは「喜びの庭」であり、「ナンダの神なる息子の庭」でした。何百本もの木に飾られた長方形の土地には、おびただしい数の鳥のさえずりが響き渡っていました。北側には木々に覆われた小丘があり、まるで天国のような所でした。その庭の中央には、小さいけれども魅力的なバンガローがありました。他には、その敷地にある建物は、南西の角に位置する正門に隣接した離れだけでした。ババは1961年の終わりまでずっと、その町を短期間訪れた際には「ナンダナ・ヴァナム」に滞在なさっていました。

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主が滞在された「ナンダナ・ヴァナム」のコテージ

 アーンドラ・プラデーシュ州の雲母王として知られていた、シュリ・ゴーギネーニ・ヴェーンカタ・スッバイフ・ナイドゥと彼の家族は、「ナンダナ・ヴァナム」の北方5キロにある13エーカーの土地、「モーハン・パレス」を所有していました。そこは鉄道のホワイトフィールド駅のそばに位置する良く計画されたエリアで、広大なバンガローがあり、たくさんの泉や池、手入れの行き届いた植物園の数々に囲まれていました。曲がりくねった一本の並木道がバンガローから敷地の北西角地の正門まで続いていて、道の両脇にはたくさんの花を咲かせる木々が立ち並んでいました。敷地に入ると、右手に巨大なインド菩提樹、左手に屋根付きの通廊で繋げられた瓦屋根の二つのコテージが目に入ってきます。その場所全体が、畏敬の念を抱かせるような所でした。バガヴァン・ババという神聖で力強な磁石は、そのアーンドラ・プラデーシュ州出身の有名な雲母産業の有力者をナンダナ・ヴァナムへと引き付けました。父親と、その三人の息子、シュリ・ヴェーンカテーシュワラ・ラーオ、シュリ・セーシャギリ・ラーオ、シュリ・モーハナ・ラーオは、ババの帰依者となりました。ババも彼らの家を何度か訪問なさいました。三兄弟は、1961年9月に父親が逝去すると、プッタパルティを訪れて、バガヴァンがバンガロールに来るときは必ず自分たちといっしょに「モーハン・パレス」に滞在してくださいとお願いしました。ババは彼らの愛に満ちた申し出を受け入れ、1962年の夏を三兄弟と共に過ごされました。並木道の木々の下でのダルシャンのために、素晴らしい準備がなされました。三兄弟から帰依者たちに提供された愛情のこもったもてなしは、バクタヴァッツァラー〔バクタを愛する者〕であるバガヴァンを喜ばせました。ババへの信愛とババの帰依者への愛情によって強く促された三兄弟が「モーハン・パレス」をババに捧げたいと言ったとき、ババはそれを受け入れられました。その一方で、ババは三兄弟に「ナンダナ・ヴァナム」を受け取るようにと強く主張なさいました。それはババから三兄弟への愛のこもった贈り物でした。サイ・ゴーパーラは、その新しいアシュラムを「ブリンダーヴァン」と命名なさいました。それは人々に、バーラ・ゴーパーラ、神なる牧童の、聖なるリーラー・ブーミ〔神聖遊戯がなされた土地〕を思い起こさせるものでした。

 三日間に及ぶ式典は、1964年4月13日のアシュラムの落成式で幕を開けました。そこには景観に配慮した18か月かけた改築が多数施されていました。その日は、クローディという新年の始まりと、ヴァサンタ・ナヴァラートリ〔春の九夜祭〕の初日という、二重におめでたい日でした。落成式には、インド国内外からの何千人という帰依者以外にも、卓越したヴェーダ学者たちや有名な芸術家たちなど、大勢のお歴々が出席しました。その時から、ブリンダーヴァンはアヴァターが半年間ほどを過ごされる第二の家となりました。当初、ブリンダーヴァンの主、サイ・クリシュナは、男女が別れて並木道の両側に座っている所を行ったり来たりしながら、ダルシャンを与えておられました。後に、生い茂った菩提樹の木の下で、毎週日曜日と木曜日にバジャン会が行われるようになりました。有名なトリバンギ〔首、腰、膝の三箇所をそれぞれ違った方向にS字に曲げる姿〕のポーズでたたずむ美しいヴェーヌゴーパーラの大理石の像の前にある大木の巨大な幹を囲むように設けられた円形の台の上に、バガヴァンは座られました。ブリンダーヴァンを訪れる帰依者の数が増えると、その木の下に金属製の薄板の屋根が付いた円形のマンタップ〔祭場〕が作られました。それは、「サイラム・シェッド」とか「サイラム・マンタップ」などと呼ばれました。そのアシュラムには、徐々にさらに多くの設備が帰依者たちのために付け加えられていきました。

 

 ブリンダーヴァンの黄金時代は、男子大学である、シュリ・サティヤ・サイ・カレッジ・オブ・アート・サイエンス・アンド・コマースの開校と共に始まりました。ブリンダーヴァンの地は、バガヴァンとバガヴァンの学生たちの間にある何よりも美しく甘美な間柄によってもたらされた、新しいオーラを得ました。そこは現代におけるグルクラ〔師と弟子たちが共に暮らし学ぶ学びや〕となりました。そこにはクラパティ〔クラの主〕の近くで愛に満ちた生活を共にする学生たちがいました。1970年から1980年の10年間、バガヴァンは一年の大半をブリンダーヴァンで過ごされ、自らの「青年男子たち」を親身になって育て上げられました。その幸運な学生たちは、バガヴァンから顕示される素晴らしい神の力に畏敬の念を覚え、バガヴァンから注がれるあふれんばかりの蜜のような愛によって心を動かされ、変容したのでした。ブリンダーヴァンの夏は、「インド文化と霊性に関する夏期講習」に参加しようと国中から押し寄せる何千人という大学生たちであふれ、忙しさが増しました。プラシャーンティ・ニラヤムとブリンダーヴァンの双方でバガヴァンの近くにいる機会を享受した帰依者たちは、「プラシャーンティ・ニラヤムはババの仕事場、ブリンダーヴァンはババの家庭。ババは、プラシャーンティ・ニラヤムではシヴァ神で、ブリンダーヴァンではクリシュナ神だ」と言っていました。

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ブリンダーヴァンの旧マンディールにて

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​第 48 

 バガヴァンの限りない愛と慈悲は、その時期〔1944年~1958年〕、バンガロールのたくさんの人々のハートに届き、そのハートをつかみました。バガヴァンの愛に触れ、変容したハートの絹のごとき物語をすべて記録しつくすことはできません。ですが、バガヴァンの慈悲が示された件を二、三、垣間見てみることにしましょう。

 

 ケーシャヴ・ヴィッタルの娘、ジャヤラクシュミーが初めてバンガロールでババを見たのは、まだ10代の時でした。信仰深い家に生まれ育ったため、彼女はすぐにババへの信仰心を抱くようになりました。バガヴァンがウィルソン・ガーデンの彼らの家にやって来て滞在なさると、ジャヤラクシュミーのみずみずしいハートは喜びであふれ、ババをもてなすため、そして、家に詰めかけたたくさんの帰依者たちのダルシャンがスムーズに運ぶようにするために必要な仕事は、何であれ一生懸命に手伝いました。

 ジャヤラクシュミーは、自分の家でババの神聖な力や愛が示されるのを数多く目にしました。その一つに、ババが地上での母に対して愛すべき息子の役を完璧に演じられた出来事がありました。その体験は、彼女の若き心に忘れることのできない印象を残し、彼女の人格に強い衝撃を与えました。彼女は後に、女性教育の分野におけるバガヴァンの使命を果たす、疲れ知らずの働き手であるリーダーとなりました。彼女はすでに本書の中に「選ばれし教師たち」の一人として登場しています〔サイラムニュース197号に掲載〕。彼女自身の言葉でその物語を聞いてみることにしましょう。

〜・​〜・​〜・​〜・​〜

 「ある朝、ババはイーシュワランマお母様を、二人の女性帰依者と一緒にバンガロールを見て回るようにと送り出されました。三人はお昼過ぎに戻ってきたのですが、イーシュワランマ様は両脇を二人の女性に抱えられて、やっとのことで家に入ってきました。イーシュワランマ様は真っ直ぐにスワミの所へ行くと、右手を見せながら、目に涙を浮かべて言いました。

 『スワミ、右手がひどく痛むの』

 乗っていた車が渋滞していた市街地の急な坂道を走り下りていた時、運転手が急ブレーキをかけ、肘を前の座席にぶつけてしまいました。スワミはヴィブーティを物質化して肘と手に塗り、優しくおっしゃいました。

 『心配しないで。よくなりますよ』

 スワミのアドバイスで、彼女は部屋にあった椅子に座って休みました。私は、その日の午後、イーシュワランマ様のお世話をするという幸運にあずかりました。他の人たちは、ダルシャンにやって来る帰依者たちを迎えるための準備で忙しくしていました。

 

 帰依者たちが去った後、すぐにスワミは戻ってきて、尋ねられました。

 『痛みは治まりましたか?』

 

イーシュワランマ様は子供のように無垢な声で言いました。

 『いいえ、スワミ。ひどい痛みだわ』

母親のような愛情で――それはババにとってはとても自然なことですが――ババはこうおっしゃいました。

 

 『痛いのはほんの短い間だけです。明日の朝には、痛みは消えているでしょう。心配しないで』

 

 それから、ババは手を回されました。たくさんのヴィブーティが現れました。ババはそれをイーシュワランマ様の肘に丹念に塗られました。夜が更けると痛みが増して、イーシュワランマ様はうめき声を上げるようになりました。私はそばに付いていましたが、痛みを和らげることはほとんどできませんでした。もう10時を回っていて、皆、退室していました。けれど、息子のババはその痛みを感じとっておられました。地上の母の苦しみは息子を眠らせませんでした。ババはそっと部屋に入って来られました。イーシュワランマ様は、スワミを見ると上半身を起こしました。母は自分を抑えることができませんでした。彼女は声を上げました。

 『スワミ、とってもひどい痛みなの』

スワミは彼女の手を優しくなでて、慰めるように言いました。

 『一時間もしないうちに痛みは減りますよ』

スワミは右手をゆっくり動かして円を描きながら、すっと部屋を出ていかれました。

 

 お母様は横になりましたが、ひどい痛みのために眠ることはできませんでした。私が思ったとおり、一時間かそこいらでババがまたやって来られ、彼女に、

 『痛みはどうですか?』

と尋ねられました。彼女は、

 

 『スワミ、少し良くなりました』

と答えました。スワミは満足されたようでした。

 『言ったでしょう? 朝までに、痛みはすっかり無くなってしまうでしょう』

 

 スワミはご自分の手をそっと彼女の手と頭の上に置き、ヴィブーティを物質化して肘に塗られました。少しして、スワミは部屋を出ていかれました。お母様はホッとしてぐっすりと眠りました。でも、私は一晩中眠れませんでした。どうして眠れましょうか? 私は幸運にも、ダルマに忠実な神なる息子が、自分の母に対して神なる母の役を果たされるという、魂が揺さぶられるような光景を目撃したのですから。

 

 時計が4時を打つと、イーシュワランマお母様はベッドの上で上半身を起こしました。いとおしい息子のスワミがそっと部屋へ入って来られました。私はあふれるほどの感謝の念を胸に、立ち上がりました。私は、ブラフマ・ムフールタ〔神の刻。日の出の96分前から48分前までの神聖な時間帯〕に、神のダルシャンにあずかったのです。スワミはとても優しく尋ねられました。

 『調子はどうですか?』

 『ほとんど大丈夫です。痛みはとても少ないです』

と、彼女は答え、スワミのすばらしく慈愛に満ちた顔を子供のように見上げました。ババは彼女の頭をなでられ、こう請け合われました。

 『日の出までにはすっかりよくなりますよ。よく休みなさい』

 

 立ち去る時、ババの顔に美しい微笑みが浮かびました。以来、この天国のような体験は、お金に換えられない、私の心の大切な宝物になっています」

〜・​〜・​〜・​〜・​〜

47

​第 47 

 わが生命の主なる生命よ、〔中略〕

わたしはつねに、わたしの心から

いっさいの悪意を追い払い、

わたしの愛を花咲かせておくよう

つとめましょう

――わたしのこころの内なる聖堂(みや)に

おんみがいますことを知っているからです

〔R・タゴール著『ギタンジャリ』、レグルス文庫p.32より〕

 グルデーヴ・ラビンドラナート・タゴールはこう詠みました。帰依者がバガヴァン・ババに、自分の地元にババのマンディルを建てる計画を祝福してくださいと懇願すると、ババはよくこうおっしゃいます。

 「あなたのハートが私のマンディルです。いつも清潔に、きれいにしておきなさい。レンガやモルタルでできたお寺は、私には何の慰めにもなりません」

 時折、ババは帰依者にこうもお尋ねになります。

 「いったいどうやってあなたは、この全宇宙を満たしている者の寺院を建てることなどできるのですか?」

 けれどもやはり、「ババは自分の家族の見えざる師である」と信じている大勢の帰依者たちは、ババへの愛から、自分の家にババの聖堂を建ててきました。私たちは貧しい人のあばら屋にも、大金持ちの大邸宅にも、地球上の至る所に、そうした聖堂を目にすることができます。さらに、ババに捧げられた何百という寺院が、村にも町にも都市にも、次々に現れてきました。そういった、生身の人間を存命中に崇めようと建てられた寺院の数としては、歴史上、並ぶものがありません。こうした寺院の多くにババの全能の恩寵の印が現れて、さらに多くの無垢なハートに信仰の種を蒔いています。

 一方、帰依者によって建てられた愛の殿堂もわずかに存在します。それらは、ババの生身の体に住んでいただくという幸運によって祝福されています。その中で最もよく知られているのが、プッタパルティのプラシャーンティ・ニラヤムのマンディル、バンガロールのブリンダーヴァンのマンディルです。この二つのアシュラムは、ババは一年の大半を過ごされる場所です。

 ここで私たちは、ブリンダーヴァンの新しいマンディルの話を語るとしましょう。それは1984年に日の目を見ました。ブリンダーヴァンのアシュラムの発端を知る良い機会でもあります。

 バンガロールはプッタパルティから南へ150キロ下った場所に位置しています。バガヴァンがプッタパルティに次ぐ二番目の住まいとしてお選びになったことにより、その最高の恩寵にあずかっています。

 バガヴァンが初めてバンガロールにいらしたのは1944年2月、バガヴァンがまだ18歳の若者でいらした時です。シュリーマト・カラナム・スッバンマ夫人、彼女の兄のシュリ・パップル・サッティヤナーラーヤナ、そして、シュリーマト・カマランマ夫人と共に、スワミは、牛車に乗ってペンヌコンダの鉄道の駅までやって来て、それから列車でバンガロールに到着されました。

 一行は、ラールバーグ近くのシュリ・マヴァッリ・ラーマ・ラーオの小さな家に10日ほど滞在しました。当時、そこにはカマランマの親戚とその友人が何人かいただけでした。自分はサイ・ババであると宣言し、何もない所から品物を物質化したり、薬を使わずに病気を治したりしていた少年ラージュに会うために、彼らはプッタパルティを訪れていました。彼らはラーオの家に押し寄せましたが、そこにはババを拝見するための電灯すらありませんでした。彼らもババを自宅に招待しました。

 1944年の間に、ババはさらに4度、その町を訪問なさいました。ババの神々しくも美しい姿でのダルシャンに一度でもあずかった者は、何度でも、ババがどこにいようとも、会いに行かずにはいられませんでした。ババがバンガロールを訪問される時はいつも、彼らの家はまるでお祭りのような雰囲気になって、彼らの心に新たな喜びが湧いてきました。ババはさらに頻繁にその町を訪問されるようになりました。ババはほとんどのお祭りが終わるたびにバンガロールへやって来られました。さらには、マドラスへの行き帰りにもいらしていました。

 小さな家では、ババとババのもとに押し寄せる帰依者たちを収容することができなくなっていました。バンガロールの帰依者の中には、もっとたくさんの人がババのダルシャンにあずかれるよう、そして、木曜ごとのバジャンに参加できるようにと、ババに自分のバンガロー〔別荘〕に滞在してもらいたいと懇願する人たちがいました。

 1944年の次の訪問の際、バガヴァンはチャーマラージャペートのシュリ・ナラシンハ・ラーオ・ナイドゥと、シュリ・ナヴァニータム・ナイドゥの邸宅に滞在されました。

 1945年から1946年には、セント・ジョセフ・ロード沿いのシュリ・ティルマラ・ラーオのバンガローの広々とした屋敷が帰依者たちの安息所となりました。1946年から1948年には、バサヴァナ・グディの警視総監、シュリ・ランジョート・シンの邸宅がそうなりました。

 1947年から1950年には、ブル・テンプル・ロード沿いのシュリーマト・サカンマ夫人の屋敷が祝福されました。1949年から1953年には、リッチモンド・ロード沿いのシュリーマト・ナーガマニ・プールナイアフ夫人の邸宅が、1949年から1953年は、ウィルソン・ガーデンにあるシュリ・ケーシャヴ・ヴィッタルの邸宅が、比類なき幸運にあずかりました。

 

 1954年から1958年の間には、シュリ・ヴェーンカタラーマンとシュリ・シュリーニヴァーサンという、バンガロールで評判の二人の会計監査官が、バガヴァンを接待する機会に恵まれました。二人の住まいはどちらもクマーラ・パークにありました。

第46回

​第 46 

 ババの帰依者のシュリニヴァーサンとヴェンカタラーマンが始めた監査・所得税務専門会社で働く、シュリ K.R.シャーストリーという若者がいました。彼は、ビジネス街チンターマニ近郊の、小さな村の出身でした。彼が初めてバガヴァン ババのダルシャンを受けたのは、1954年7月、バンガロールのヴェンカタラーマン邸でした。主なるシュリ ラーマを深く信仰していた若者、シャーストリーは、ババはこの世にダルマを確立させるために再臨したシュリ ラーマだと信じていました。バンガロールへ来た時はいつも、シャーストリーはどんな機会でも利用して自らの主のもとへ参じていました。ババに対する彼の忠誠心と帰依心を嬉しく思っていた雇い主たちは、自宅に主をお迎えする準備を手伝ってもらおうと、バガヴァンが到着する数日前にシャーストリーをバンガロールに呼びました。ババがバンガロールを訪れている間、個人的な従者としてのシャーストリーと主との絆は、日に日に大きく強くなっていきました。彼の誠実さは、背の低さと相まって、ババから「ラール バハードゥル シャーストリー」〔訳注:インド第2代首相〕というあだ名を授かるほどでした! ここに、その若き帰依者がバガヴァン ババは全知であるという信念をますます深めることになった体験談があります。

 

 1959年4月、シャーストリーは、会計士の試験を受けるために、プネー〔マハーラーシュトラ州で二番目に大きな都市〕へ行かなければなりませんでした。幸いなことに、ババはその時バンガロールにいらっしゃいました。シャーストリーは、プネーへ発つ前に主の祝福を受けたいと思いました。バガヴァンは彼におっしゃいました。

 

 「あなたは私の有り余るほどの祝福に与っています。私はこれからもずっとあなたと一緒です」

 

 ヴェンカタラーマンは、シャーストリーがプネーにいる義理の兄弟の家に泊まれるように手配していました。その家の家族全員がババの帰依者だったので、そこでの滞在はとても心地よく、シャーストリーの心の拠り所と重なるものでした。ヴェンカタラーマンの甥、シュリ ランガラージャンはババが大好きでした。彼は、シャーストリーをダースヤ バクティ〔神に仕える従者の信愛〕の理想的な模範として敬意を表しました。

 

 シャーストリーは、一番に答案用紙を書き終えると、バンガロールへ戻るチケットを予約するために、夕方、ランガラージャンと一緒に列車の駅へ出かけました。家に帰る途中、二人は近くの公園、ヴィクトリア ガーデンを散策し、石のベンチに腰を下ろしました。公園にはそれほどたくさんの人はいませんでした。ランガラージャンはババについてもっともっとたくさんのことを知りたがり、シャーストリーもそれと同じくらい自分の体験を分かち合うことに熱中しました。近くの時計台が6時を打ったとき、70歳くらいの老人がやって来て、彼らのベンチに腰掛けました。老人は背が高く、きれいな顔立ちで、頭髪は短く白髪まじりで、古い靴を履いていました。老人は長袖のシャツとズボンを身に着けていましたが、どちらも着古したものに見えました。老人はシャーストリーにこう尋ね、会話を始めました。

 「君たちはどこから来たのかね?」

 シャーストリーは手短に答えました。老人は続けて言いました。

 「わしもバンガロールへはよく行く。チャマラージペート、バサヴァナ グディ、クマラ パークは、よく知っている。わしは世界中を回ったことがある。じゃが、インドのような国は他にない。わしはインドをとても愛している。この国は、世界の霊的叡智の宝庫じゃよ」

 

 完璧な誠実さが響くその老人の言葉に、二人の若者は魅了されてしまいました。二人は、人と社会の福祉に果てしない関心を持って話す、この賢明な見知らぬ老人の話を聞き続けました。その老人は、インド文化における偉大な真理や価値について、また、現代という時代に、全人類に対するそれらの関連性について詳しく語り、二人は時間の感覚を失ってしまいました。老人は、美しい文章をヒンディー語と英語の双方で流暢に引用しました。最後に老人は、インド人は時代を超えたそうした美徳を生活の中で実践することを放棄してしまったという失望を顕わにしました。老人は、その主張を裏付けるように言いました。

 「2、3年前、わしは友人数人とリシケーシュ〔リシケシ〕へ行ったのじゃが、黄土色の衣をまとったサードゥー〔行者〕が大勢、ジャパマーラー〔数珠〕を手に持って一つずつ数珠を繰っているのを目にした。だが、サードゥたちの心はあちらこちらとさまよっていた。わしには自分のものであると言えるような者〔家族〕は誰もいないが、私はすべての人を愛しておる」

 

 老人が話し終えると、時計が7時を打ちました。老人は立ち上がり、言いました。

 「君たちは好きなだけここでゆっくり座っていてかまわない。仕事も何もないだろうから。だが、わしはもう行かなければならない。たくさんの人が私を待っているのじゃ」

 そして、老人は歩きだしました。すっかり魅了された二人の若者は、老人のあとについて公園の外の道に出ました。老人は最後に二人にこう言いました。

 「両親への務めを決して忘れてはならぬ。たとえどんなに忙しくとも、決して神を忘れてはならぬ。神への信仰心が少しでもあれば、それが君たちを恐ろしい災難から救ってくれるじゃろう」

 そう言い残すと、老人は手を挙げて、後ろにあったタワーの時計を指さしました。二人が振り返って時計を見ると、7時を15分過ぎていました。二人がくるりと向き直ると、老人はもうそこにはいませんでした。老人は宙に消えてしまったのです! 二人は大変驚きました。シャーストリーが叫びました。

 「あれは僕たちのババだったんだ! 自分が誰なのかたくさんのヒントを与えてくれていたのに、僕たちは気づくことができなかった。僕たちの頭はどうかしてる! 7時というのは、プラシャーンティ ニラヤムのマンディールでバジャンが始まった時間だ。それでババはお戻りになったんだ」

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 K.R.シャーストリーがバンガロールへ戻ると、クールグ地区のマディケーリに行ってバガヴァン ババを迎える準備をするようにと言われました。ババはマディケーリでシャーストリーを見ると、こうお尋ねになりました。

 「プネーでは、何がありましたか?」

 そう問われると、プネーの公園でのあの老人の記憶が頭をよぎりましたが、シャーストリーは呆然として、黙り込んでしまいました。すると、ババは自ら、プネーのヴィクトリア ガーデンで起こったことのすべてを、シュリ N.カストゥーリに説明されました。そしてこう付け加えられました。

 「パーパム〔過ち〕! 彼らは私に気づかなかったのです!」

 

 K.R.シャーストリーは、成長すると、地元の卓越した会計検査官として活躍しました。彼は、親愛なる主のメッセージを、シュリ サティヤ サイ オーガニゼーションの地区の会長として地元に伝え、また多くの求道者たちの魂を神のもとへと導きました。彼は今、チクバッラプル町でババが大切にされている価値を重んじる学校を運営しています。

第45回

​第 45 

 バガヴァン・ババは、1976年、ブリンダーヴァンのアシュラムから3キロ離れたホワイトフィールドに二番目の病院を設立なさいました。ネータージー〔指導者の意の敬称〕・スバスチャンドラ・ボース〔インド独立運動の偉人〕の盟友、シュリ・N・G・ガンプレイは、ドイツに30年間滞在した後インドに戻り、1969年にホワイトフィールドに落ち着きました。愛国心に促され、同じような志を持った医療スタッフたちの助けを借りて、彼は「ヘルス・アンド・エデュケーション・ソサエティー」という名前の小さなクリニックを始めました。約4万平方メートルの広大な土地にあるシェッド〔平屋の小屋〕の中に設置された約9平米のクリニックは、無料で村人たちに薬を調剤していました。1970年、健康増進という気高い大義をさらに推し進めるために、ガンプレイはその土地とクリニックを、シュリ・サティヤ・サイ・ヘルス・アンド・ン・トラストに委譲しました。

 1976年8月28日、ヴィナーヤカ・チャトゥルティの吉祥な日、ホワイトフィールドのシュリ・サティヤ・サイ病院の落成式において、バガヴァン・ババはヘルスケアに関するご自身の構想について表明なさいました。

 「人は、体の病と心(マインド)の病という二つの種類の病気に苦しんでいます。この二種類の病気に関して大切なことがあります。それは、どちらも美徳を培うことによって癒されるということです。体の健康は心の健康に必要な条件であり、心の健康は体の健康を確実なものにします。体と心は密接に関わりあっています。健康な体は、健康な心の最良の入れ物です。

 物質的な生活と霊的な生活は、天秤の二つの皿のようなものです。二つのバランスは、ある程度の霊的な進歩が得られるまでは、等しく保たれるように注意する必要があります。霊的な識見を培うことは、人に寛大さ、逆境における不屈の精神、善をなそうという熱意、そして、自分の能力を最大限に発揮して奉仕をするという精神を与えます。これらの美徳は、心と体の両方を強くさせます」

 ババから医師たちへのアドバイスは次のようなものでした。

 「ここで働く医師の皆さんに指摘しておかなければならないことがあります。医師が処方する薬以上に効果があるのは、医師が話す甘く優しい言葉であり、医師が示す愛と思いやりは、患者の病気をより効果的に速く治すことができるということです。医師は患者を自分の親類縁者と見なし、愛と常に変わらぬ配慮を持って患者に寄り添わなければなりません。医師は治癒に影響を及ぼすということ、そして、病気が治ったら患者は医師に満足と喜びをもたらしてくれるのだから患者と医師は連携する必要があるということを、覚えておかなければなりません。ですから、医師は患者に感謝しなければなりません」

 そして、ババは患者には次のアドバイスをなさいました。

 「神の恩寵を頼みとするのは、どんな病気にも最高の治療薬です。薬に対して抱いている信心を神への信心に変えなさい。あなたの信頼を、薬にではなく神に置きなさい。私は、たくさんの人たちが錠剤や強壮剤に頼っていることに、大変驚いています。祈り、霊的な規律、瞑想という手段に訴えなさい。これらはあなた方に必要なビタミン剤であり、あなた方を回復させてくれるでしょう。神の恩寵なくして、薬や医師に何ができますか? 神の御名ほど効き目のある薬はありません!」

 バガヴァンは、ホワイトフィールドの病院を築き上げて管理するための自身の道具として、ラージェーシュワリー医師をお選びになりました。学問的にも、彼女は産科婦人科の専門医として最適任者でした。さらに、彼女は自分の職業に対する情熱を持っている医師でした。彼女は一日12時間以上も仕事に費やしていました。神のことはそれなりに信愛していましたが、1972年にブリンダーヴァンでバガヴァン・ババに会うまでは、サードゥやサンニャースィン〔出家行者〕には、さほど尊敬の念は持っていませんでした。実際、ラージェーシュワリー医師がブリンダーヴァンへやって来たのは、シュリ・サティヤ・サイ・カレッジで学んでいる一人息子に会うためで、たまたまその時、ババがそこに居合わせたのでした。

 初めてブリンダーヴァンに来た時には、その後の出来事の予感などまったくなく、もちろん、自分が神の計画における最終目的地に到達したということには気がついていませんでした。その後も何度かブリンダーヴァンを訪れましたが、そのうちの一つの訪問の際、ババからホワイトフィールドの病院で働かないかと招かれた時でさえ、ラージェーシュワリー医師の答えは丁重な「ノー!」だったのです。49歳という年齢でガーナの都市クマシで450の病床を抱えるコンフォ・アノキエ総合病院の最高責任者として働いていたラージェーシュワリー医師は、キャリアの全盛期にありました。当然ながら、約9平米の広さしかないクリニックを引き受けるなど、彼女にとって面白いことではありませんでした! ラージェーシュワリー医師は、より良い将来を求めてガーナから英国へと移る計画をまとめようとしているところでした。彼女の「ノー」に対するババの返答は、すべてをご存知の優しい微笑みでした! もちろん、ババはすでに彼女のハートの中に入り込んでいて、彼女のハートは自分では気づかないうちに、本当の故郷を求めていました。

 ババは、前回のシルディでのアヴァター時代に、よくこうおっしゃっていました。

 「たとえ私の帰依者がどんなに遠くにいようと、何千マイルも離れていようとも、私のもとへ来るようにと私が望めば、その帰依者は足に糸を結びつけられた雀のように引き戻されてくるでしょう!」

 それはまさしく、定めの時にラージェーシュワリー医師に起こったことでした。彼女はホワイトフィールドの病院が落成する数か月前にブリンダーヴァンへやって来て、定住したのです。ラージェーシュワリー医師は心底、仕事に没頭しました。それは彼女が知っている唯一のやり方でした。新しい持ち場で、彼女は病院を築き上げるための才量を存分に発揮しました。彼女は、好んでチャレンジを引き受けるリーダーであり、ファイターでした。彼女は行く手を阻む障害を乗り越えることを楽しみました。バガヴァンの恩寵と指示の下、彼女は、医師、そして、病院へ押し寄せる地方の村人たちのために働く職員から成る、専任チームを立ち上げました。

 病院経営におけるささいな事柄への彼女の気配りは、賞賛に値する見事なものでした。彼女にとっては、清潔さが第一で、次が信心深さでした! ラージェーシュワリー医師はよく、掃除人たちが来る前の早朝に、ほうきを手に病院の敷地を掃除していました。彼女はこよなく愛する同僚たちにこう言っていました。

 「ある種の仕事をほめそやして、別の仕事を卑しいと決めつけるのは無意味です。シーツを洗うことと外科医がナイフで腕を振るうことは等しく神聖で、やりがいのあることです。どんな仕事であっても、バガヴァンへの捧げものとして行うなら、その行為者はカルマ ヨーギ〔行いを通して神との合一を得る行者〕という気高い位にまで高められ、神の恩寵はまさに命を支える呼吸となるのです。神の全知を信じ、自分は行為者であるという主張と自分の行為の報いへの期待を手放すことは、神と一つになるという究極の目標だけでなく、永続的な神の臨在という豊かな喜びも約束してくれるのです」

 実際、ラージェーシュワリー医師は、永続的な神の臨在を物理的にも体験していた、ずば抜けたカルマ・ヨーギでした。

 それは、1980年11月9日、日曜の朝の極めて早い時間に起こりました。バガヴァンはプラシャーンティ・ニラヤムにおられました。ブリンダーヴァンの大学で働いていた彼女の息子は、土曜日の午後に始まった24時間のグローバル・アカンダ・バジャンに参加するために学生たちと一緒にプラシャーンティ・ニラヤムに行っていました。ラージェーシュワリーはアシュラムの自宅に一人でいました。いつものように、彼女は午前3時に起床して沐浴をした後、4時ごろに日課の礼拝を始めました。

 プージャー〔供養礼拝〕の半ばに、誰かが大きな声で「ドクター・アンマ! ドクター・アンマ!」〔アンマは母の意〕と彼女を呼ぶのが聞こえました。ラージェーシュワリーは、病院での看護を必要とするような緊急事態が起きたに違いないと推測しました。再度、「ドクター・アンマ! ドクター・アンマ!」という同じ声が聞こえました。誰だろうと窓の外をのぞいてみましたが、遠くて暗かったのでよく見えませんでした。三度目に声がした時、彼女は外へ歩いていって、正面玄関のドアを開けました。彼女の心は歓喜の衝撃波を受けました。生身のバガヴァンがドアの外に立っておられたのです! 彼女は言葉を失い、その神聖な時間帯〔ブラフマ・ムフールタ。日の出から翌日の日の出までを30等分した29番目の刻。だいたい午前3時から6時あるいは5時の間〕に突然神様が自分の家の戸口に姿を現されるという予想外の出来事への畏怖の念に打たれました。

 

 バガヴァンは沈黙を破り、

 「プージャーをしていたのですか?」

と、歌うような美しい声で尋ねられました。

 ラージェーシュワリーがパーダナマスカール〔御足への礼拝〕をしようとして身を屈めると、ババがおっしゃいました。

 「しなさい、ナマスカールをしなさい!」

ナマスカールをした後、彼女はあまりの喜びで一瞬目を閉じ、それから、感謝の気持ちいっぱいに「スワミ!」と言って目を開けました。再び目を開けた時、ババは消えていました!

 ラージェーシュワリーが応接室を通ってプージャーの部屋に戻る時、鏡に自分の姿が映っているのが見えました。顔からヴィブーティが噴き出ていました!

 その朝、プラシャーンティ・ニラヤムではアカンダ・バジャンが行われていたので、彼女の息子はマンディルのベランダに座っていました。午前6時半ごろ、ババは彼を室内に呼び入れられました。ババは光り輝く顔に子供のような微笑みを浮かべておっしゃいました。

 「私はブリンダーヴァンへ行って、あなたのお母さんに会いましたよ!」

 

 ラージェーシュワリーは、奇跡的な治癒や救助活動といった形をとった、さらに多くの神の恩寵の驚異を病院で目撃しました。しかし、その全ての中で一番驚異的だったのは、才気あふれる医療専門家たちを引き付け、変容させ、神の使命における優れた治療の道具へと変えてしまうバガヴァンの名人芸でした。そのうち何人かはプラシャーンティ・ニラヤムかホワイトフィールドのババの病院に常勤の内科医や外科医として加わり、他の多くは客員医師として奉仕を捧げました。彼らの話はもちろん、この章で彼らの名前を挙げ連ねることさえ、とうてい不可能です。その中でも、ホワイトフィールドの病院でのP・V・ヘッジ医師、バラスッブラマニアン医師、ナラサッパ医師、サロージャンマ医師、プラバ医師の献身的な働きぶりは注目に値します。1983年に加わったサーヴィトリー医師は、私心のない、疲れを知らない奉仕において群を抜いています。一人ひとりの人生のすばらしい英雄伝をつづるには、丸々一冊を要することでしょう。彼らの仲間が増えますように!

 ホワイトフィールドの病院は、すでに産科病院として認知と名声を獲得していましたが、さらにプライマリー・ヘルスケアにおけるほとんどすべての設備を備えた無類の治療センターとなるべく、着実に成長してきました。1980年11月の手術室の開設と総合外科治療の開始は、その発展において重要で画期的な出来事となりました。

 現代において医学という気高い職業に目標を定めたのは、かのウイリアム・オスラー医師ですが、彼は「病気を予防すること、苦しみを和らげること、病人を治すこと、これが我々の仕事である」と宣言しています。

 ガレノス〔古代ローマの医学者〕は、「私が薬を与え、神が癒す」と世間に表明して、治療という仕事に最も効能のある方法を示しました。商売が医療の分野を侵略し、医療の目標と方法が歪められ、医療がますます多くの人々にとって、ますます手に入りにくいものとなりつつある社会において、門をくぐるすべての人に質の高い医療を完全に無料で提供している、ババの設立されたプラシャーンティ・ニラヤムとホワイトフィールドの病院は、あらゆる医療専門家にこの職業の気高さと栄光を思い出させる標識灯として光り輝いています。

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ホワイトフィールドの病院の落成式でヴェーダの祈りを詠唱するシュリ・カマヴァダニ

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ホワイトフィールドのシュリ・サティヤ・サイ総合病院

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ラージェーシュワリー医師を祝福するバガヴァン

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「私はここにも、そこにもいることができます!」

第44回

​第 44 

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 病院は時が経つにつれ大きくなり、多くの献身的な医師と、医師以外の医療従事者、非医療従事者たちが、人々の体を治して魂を浄化するという使命を持って、病院に加わりました。毎年、さらに多くの設備機器が加わり、特に1979年以降、顕著になりました。1984年2月29日、マハーシヴァラートリの日、病院の南側の広い敷地に、新たに大きな建物が竣工し、病院に一般的な外科処置が導入されました。

 ここで、この病院で死からよみがえり、寮監も目撃した驚異的な事例を紹介しましょう。1985年の早朝、プラシャーンティ・ニラヤムの学生寮に住むナーラーヤナ・シャルマという研究生が、急性のぜんそくの発作で入院しました。病院長のチャーリ医師は衰弱ぶりを見て危機感を募らせました。麻酔医は酸素マスクを使って助けようとしました。シャーンター医師もその場に駆けつけましたが、心臓の鼓動はなく、体はすでに青くなっていました。チャーリ医師は、シャーンター医師に「もうだめだ」と言って、マンディルのババの所へ報告に行きました。15分もしないうちに、彼はバガヴァンからのヴィブーティの包みを2つ持って戻ってきて、ババの指示どおりに研究生の胸に塗り、背中にはお湯を入れた湯たんぽを当てました。

 研究生の様子を見るために病院にやって来た寮監は、起こったことを知ると絶望し、マンディルに行きました。バガヴァンは断言なさいました。

 

 「あの子は良くなります。何も心配する必要はありません」

 

 それから、寮監に熱いコーヒーの入った魔法瓶を手渡して、「彼に少しずつコーヒーをすすらせなさい」と、指示なさいました。寮監は病院に戻り、シャーンター医師にコーヒーを手渡しました。彼女は無表情で魔法瓶を受け取りました。後に本人が語ったことですが、彼女は心の中で、「死んだ子がどうやってコーヒーを飲めるのか?」と思っていました。

 心の中で祈りながら、なす術もなく遺体を見つめていると、研究生の足の親指が微かに動きました! 私たちは心臓が止まるかと思いました! シャーンター医師が研究生の酸素マスクを外し、耳元でささやきました。「スワミがあなたのためにコーヒーを用意してくださったのよ。どうか飲んでちょうだい」彼女がコーヒーをスプーンで一口、研究生に含ませると、嬉しいことに、そして、驚いたことに、研究生は少しずつ飲み込みました。

 シャーンター医師が研究生の腕に血圧測定の布を巻き付けていると、バガヴァンが病室に入ってこられました。バガヴァンは微笑んで、医師にお尋ねになりました。

 

 「彼は死んだのではないですか? なのに、どうして血圧測定の布を巻こうとしているのですか?」

 バガヴァンの声を聞いて、研究生はどうにかこうにか自分の目を開きました! ババは彼のそばに行かれ、からかわれました。「君はまだ生きているのですか? みんなは君が死んだと言っていますよ!」ババはチャーリ医師を見て、「彼が死んでいたというのは本当ですか?」と、お尋ねになりました。「はい、スワミ」と、チャーリ医師は答えました。

 

 シャーンター医師が付け加えました。「スワミ、脈もなければ、まったく呼吸もしていませんでした。心臓の鼓動も聞こえず、血圧も感じ取ることができませんでした。それで私たちは、彼は死んだという結論を下したのです!」

 バガヴァンは微笑んで手を回されました。四角く茶色っぽい、チョコレートのように見えるものが手の中に出現しました。バガヴァンはそれを研究生の口に入れ、かむようにと言われました。

 

 ババは医師に脈と血圧を測るようにとおっしゃいました。どちらも普通の状態に戻っていました。ババは寮監たちの方を向いて、「あなた方は信じますか? 死んだ子が生き返ったのです!」と、おっしゃいました。寮監たちは、「はい、スワミ」と、言いました。ババは医師たちにも同じ質問をなさいました。全員が、「はい、スワミ」と、答えました。医師の一人が、「ババ、あなたは神様です。あなたは何でもおできになります!」と、言いました。「あなた方には、そう思うほどの信心がありますか?」と、バガヴァンがお尋ねになりました。「はい、スワミ!」と、皆、一斉に答えました。「そうです。彼は死にました。私は彼に第二の人生を与えました!」と、ババはさらりと明かされました。

 大勢の男子学生が心配して外で待っていました。ババは寮監に、自分が見たことを説明するようにとおっしゃいました。学生たちは、良い知らせを聞いて喜び、嬉しそうに寮に帰っていきました。

 ババは、ヒドロコルチゾンの点滴を打つようにと医師たちに言い、マンディルへ戻られました。しばらくすると、ババは、適量を服用させるようにと、ご自分が物質化なさった錠剤の瓶を3つ届けさせました。研究生の青年は夕方には回復し、ババの指示により、退院しました。

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プラシャーンティ・ニラヤムのジェネラル・ホスピタル〔総合病院〕の新しい建物

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ババとジェネラル・ホスピタルの医師たち

第43回

​第 43 

 ナローッタム・メーングラ・アルレージャ医師は、1975年にババの病院の院長になり、さまざまな才能をもとに、完全なる献身をもって30年にわたり病院に奉仕してきました。アルレージャは、ボンベイ〔現ムンバイ〕出身の真面目で誠実な霊性の求道者でした。彼は、140歳という高齢で肉体を去った、あるスィッダ・プルシャ〔覚者〕によって示された自分のグルを捜し求めていました。アルレージャがその聖者にマントラを授けてくださいと懇願した時、その聖者は、自分はまもなくこの世を去るのでお前のグルになることはできないと答えました。しかし、その聖者はアルレージャに、いずれお前はマハー・グル〔大師〕に出会うだろうと断言しました。

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 アルレージャはグルを探し求めて1965年にブリンダーヴァンへやって来ました。ババがアルレージャにお掛けになった最初の言葉はこうでした。

 「ドクター、あなたはいつボンベイから来ましたか?」

アルレージャは、どうしてババが自分の職業や、どこから来たのかご存知なのかと不思議に思っていたその時、バガヴァンは彼をインタビューに呼びました。ババはお尋ねになりました。

 「あなたは何が欲しいですか?」

 「神の恩寵により、私は、自分が欲しいと思っていたものはすべて手に入れました。私にはこれ以上望むものは何もありません」と、アルレージャは答えました。

 「ですが、あなたにはまだ欲しいと思っているものがあるはずです。私はあなたが望むものは何でもあげましょう」

 「ババ、私のブッディ〔知性〕が、私に物質的なものは何も求めないようにと促しているのです」

 「そうです、分かっています。あなたはパリパヴカ・ブッディ〔成熟した知性〕を持っています。大変よろしい。あなたは何が欲しいですか?」

 「私にバクティ〔神への愛/信愛〕とシュラッダー〔固い信心〕をお与えください」

 

 バガヴァンは彼の頭に触れて祝福を与えるような仕草をなさり、アルレージャはバガヴァンの御足に触れようとひざまずきました。彼はババの小さな輝く御足が大きな御足へと変わっていくのを見て、大変驚き、大いに喜びました。その大きな御足は、彼にマントラを授けることを拒んだスィッダ・プルシャの御足でした。マハー・グルを探し求める彼の探求は、この日、ブリンダーヴァンで終わりを告げたのでした。

 それから10年にわたって引き続き起こったたくさんの不可思議な体験によって、とうとうアルレージャ医師は、ボンベイからプラシャーンティ・ニラヤムへと引き寄せられました。それらの中でも最も驚いたのが次の体験でした。

 

 アルレージャがボンベイで認定医として働いていた時のことです。ジョセフという名の男が溺れ死に、その遺体が彼の所に解剖のために運ばれてきました。アルレージャは遺体を調べ、死因は溺死であるという証明書を発行しました。いつもの習慣に従って、警察にもその書類の写しを送りました。数日後、ジョセフの親戚たちの心に、あれは溺死ではなく殺人事件ではないかという疑念が湧き上がりました。その時初めて、職務に対するアルレージャの誠実さに疑いがかかりました。彼は助けを求めてババに祈りました。

 裁判所の命令により、遺体を掘り起こして調べ直すことになりました。死体解剖から33日後のことでした! 警察本部長のジョン・クロフトがアルレージャ医師を墓地に連れていきました。棺の蓋が開けられた時、遺体はまるでたった今埋められたかのような生々しい状態でした。本部長は遺体の手足を持ち上げて調べ、遺体には何の損傷も骨折もないと納得しました。

 警官たちがその場所を去った後、アルレージャが自分の車に向かって歩いていた時、ふと、「どうして一ヶ月も経った遺体があれほど新鮮なままなのだろうか?」という思いが浮かびました。戻って棺の蓋をもう一度開けてみると、遺体はすっかり壊変していました。アルレージャは大変驚きました。そこにあったのは朽ちかけた肉の塊でした!

 

 驚きで呆然としたまま家に帰ると、彼は妻からぞくっとするような話を聞かされました。家の敷地の中で、バガヴァンが一匹の大きな魚を手に持って、ぶらぶら揺らしているのを見たというのです! その光景は妻の心配を完全に払拭してくれていました。

 夫妻は急いでプラシャーンティ・ニラヤムへ行き、自分たちの救世主に感謝しました。ババは我を忘れて喜んでいる夫婦にこうおっしゃいました。

 「そうです、私があの遺体をそっくりそのまま、新鮮な状態にしておきました。そうしなければ、あなた方は困ったことになっていたでしょう!」

 夫妻は感謝に満ちてババの御足にひれ伏しました。

 

 バガヴァンのすぐそばで長年仕えていた間、アルレージャ医師には驚くべき神の力と英知を体験する機会が数多く与えられました。そのうちのいくつかがここに記されています。

 

 バガヴァンのダルシャンを求めてプラシャーンティ・ニラヤムへ来ていたカルカッタ〔現コルカタ〕出身の教授、ゴーシュ博士が、心臓発作に見舞われたことがありました。博士はアシュラム内のイースト・プラシャーンティ・ブロックのアパートの一部屋に滞在していました。バガヴァンはゴーシュ博士の治療をさせるためにアルレージャをその部屋に送られました。癌や心臓病といった重篤な疾患を患っている患者の場合、ババの通常のアドバイスはこうです。

 

 「痛みや不快感の原因を告げるのを急いではなりません。なぜなら、それは患者にさらにショックを与えることになり、患者を半分死んだも同然にしてしまうからです。可能な限り、精一杯治療をして、それから徐々に、段階的に真実を明らかにしていくようにしなさい。心臓発作の場合、呼吸不全という問題がないかぎり、患者をすぐに病院へ搬送してはいけません。まず、家で治療して、それから病院へ移したほうがよいでしょう」

 

 アルレージャはゴーシュ博士の部屋へ行き、診察をしました。明らかに心臓発作の徴候がいくつかありました。患者もそれを疑っていました。しかし、アルレージャは不安を抑えて、いくつかの基本的な処置を施し、さらに、ババから送られたヴィブーティも与えました。バガヴァンの指示どおり、患者は翌朝、病院へ搬送されました。一日が過ぎましたが、様態にあまり改善は見られませんでした。三日目に、アルレージャが病院へ行くと、ゴーシュ博士は喜びに顔を輝かせていました。完全に健康な様子でした。アルレージャは神が介入されたという確信を持ちました。そうでなければ、このようなことはあり得なかったからです。アルレージャが病室のババの写真に目をやると、ゴーシュ博士が言いました。

 

 「先生、私は昨夜、不安で眠れませんでした。それで、スワミの写真を見ていたら、スワミが写真から出てこられ、私をヴィブーティで祝福してくださったのです。それから、私の肩を叩いて〔写真の中に〕戻っていかれました!」

 

 それから数日後、ゴーシュ博士はあふれんばかりの健康と幸福に満たされて、カルカッタへ帰っていきました。

 あるとき、アルレージャ医師は掘削用具で井戸を掘っている夢を見ました。脇にはババが立っておられました。アルレージャが三度虚しい試みをし、四度目を行おうとした時、バガヴァンがお尋ねになりました。

 

 「あなたは何をしているのですか?」

 「水を探しているのです」と、アルレージャが答えました。

 「あなたは時間と労力を無駄にしています。あなたは三度失敗し、またそれをやろうとしています」

 「バガヴァン、お願いです、どうか私がなぜ失敗したのか教えてください。私には何が欠けているのですか?」

 「あなたにはタットパラタが欠けているのです」と、ババは言い、消えてしまいました。夢はそこで終わりました。

 

 翌朝、アルレージャはいつものように病院へ行きました。午後一時半にババに自室へ呼ばれるまで、夢のことはすっかり忘れていました。バガヴァンは会話を始めました。

 「あなたは昨日、夢で何を見ましたか?」

 アルレージャが夢の内容を話すと、ババはおっしゃいました。

 「そうです、あなたにはタットパラタ(tatparata)が欠けているのです」

 「スワミ。タットパラタとはどういう意味ですか?」

 「自分で考えて、私に言ってごらんなさい」

 アルレージャは、バガヴァド・ギーターの中から「タットパラハ」(tatparah)という言葉が出てくる節を唱えました。それは第4の39節でした。ババはお尋ねになりました。

 「その節の意味は?」

 「信仰心があり、決意を持ち、感官を制御する者は、英知を得る。その英知はその者に至高の平安を与える、という意味です」

 「では、タットパラタは何を意味していますか?」

 「決意、注意力、正しいことをすみやかに行う姿勢です」

 「そのシュローカ〔詩節〕の文脈では、それは正しい。あなたは何か他の意味を思いつきませんか?」

と、ババは探りを入れられました。

 「ババ、私には分かりません。私に教え諭してください」

 バガヴァンは説明なさいました。

 「タットはブラフマン、パラタは立脚しているという意味です。ですから、タットパラタとは、ブラフマンに立脚している、ということです。さあ、理解しましたか?」

 「理解しました。ですが、私にはブラフマンの体験などないのに、それを理解して何になるのですか?」

 「それはそんなに簡単なことでしょうか?」

 「スワミ、それは分かっています。人間には至高の体験など得られるものではありません。たとえどんなに頑張っても――。ダイヴァクリパー〔神の慈悲〕やグルクリパー〔グルの慈悲〕を享受しないかぎり、無理です!」

 「すべてはふさわしい時に起こります。人は信仰心と忍耐を培わねばなりません。しかし今、もしあなたが望むなら、私にいくつか質問してもかまいません」

 「ババ、あなたは以前おっしゃいました。聖者アシュターヴァクラは、ジャナカ王の耳元でマントラをささやくことによって、王に至高の体験を与えたと。そのマントラは何ですか? 私の知るかぎり、それはどんな本にも載っていません」

 

 「そのマントラを知りたいのですか?」

 「はい、スワミ」と、アルレージャは熱意を込めて言いました。

ババは椅子から立ち上がり、アルレージャの耳元まで身を屈め、おっしゃいました。

 「タット トワム アスィ!」〔タットワマスィ/汝はそれなり〕

たちまち、アルレージャは一切の分離感を失いました。そこにはババが、ババのみが存在していました。

ババが「さあ、もう理解しましたか?」とアルレージャにお尋ねになると、アルレージャはやっと我に返りました。

 

 アルレージャは答えました。

 「はい、スワミ。すべてはブラフマンです!」

 そして、彼はスワミの御足にひれ伏しました。

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タット トワム アスィ

〔タットワマスィ/汝はそれなり〕

 ボンベイにいるアルレージャ医師の姉は、乳がんと診断されていました。彼女の夫はタタ基礎研究所の核科学者で、ババを信じていませんでした。さらに言えば、どんな聖者もサードゥ〔出家行者〕も信じていませんでした。彼女は神を信じていましたが、ババに対してはどんな感情も持ったことはありませんでした。姉は癌であると診断したアルレージャの弟は、アルレージャに、姉の手術のことでタタ記念病院の外科部長であるラームダース医師に話をしてほしいと頼みました。アルレージャはボンベイへ行き、ラームダース医師と話をして、手術の日取りを決めました。

 

 その時、ババはボンベイにいたので、アルレージャは姉のためにババの祝福を得ようと、ダルマクシェートラ〔ボンベイにあるババのアシュラム〕に行きました。アルレージャがババにプラサード〔神から流れ出る恩寵としての食べ物や薬〕を懇願すると、ババはアルレージャにお尋ねになりました。

 「彼女は私を信じていますか?」

 アルレージャはババに言いました。

 「スワミ、分かりません。あなただけがご存知です。それに、たとえもし彼女があなたを信じていないとしても、あなたは彼女に信仰心を与えることも、彼女を治すこともおできになります!」

 ババはヴィブーティを物質化してアルレージャに与え、これを7日間彼女の左胸に塗るようにと指示なさいました。アルレージャは、手術は2日後に行われるのに、どうしてそのプラサードを7日間塗ることができるのかと、不思議に思いました。けれど、すぐに彼はその手術が一週間延期になったことを知らされました。ラームダース医師は緊急手術のためにマドラスへ出向かなければならなくなったのです。

 アルレージャは、ババのプラサードが「癌を消滅させてくれる」と信じていました。アルレージャがそう信じていることを義理の兄に打ち明けると、彼はこう言われました。

 「君は愚かだ。どうやってヴィブーティで癌を治すことなどできるのだ?」

 そして、義理の兄は手術がスケジュールどおり行われることを望みました。アルレージャの姉は、心がぐらついて迷っていましたが、夫に説得されて手術を受けることにしました。ラームダース医師が手術をするのを、アルレージャ医師は立って見ていました。

 

 取り除かれた腫瘍の3つの組織が再度、生体検査に送られました。そのどれもが癌ではありませんでした!二人は当惑しました。義理の兄は、確認のために4枚のスライド全部を著名な癌専門医であるプランダレ医師に送ることを提案しました。1枚目のスライドは手術前の状態、後の3枚は手術後の状態が映っていました。スライドを見ると、プランダレ医師は、最初のスライドは極めて重い悪性腫瘍の相を呈しているが、他の3枚には癌の様相が何も見られないという見解を述べました! この出来事は、アルレージャ医師の家族に計り知れない衝撃を与えました。ババは、「癌の消滅」という喜びとは別に、信仰心という最も貴重な贈り物を彼らに与えてくださったのです。一方、アルレージャの姉は、手術をする前に弟の言葉を完全には信じていなかったことを後悔しました。彼女は、せめて手術の前に腫瘍の再検査を主張すべきだったと思いました。

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第42回

​第 42 

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 1956年から1975年にかけて初代病院長として働いていた幸運な外科医、B・シーターラーマイアフ医師は、こう書いています。
 

 「まさに始まりの時から、ババは私に、ババの指示の下で奉仕するという二つとない機会を与えてくださいました。私はしばしばバガヴァンに、寄る年波には勝てませんので私はこの務めから解かれたほうがよいかもしれませんと、お願いしていました。ですが、その度に、きっぱりと要求を払いのけられ、仕事を続けるようにと力強く励まされました。

 

 『恐れてはいけません。ただ道具でいなさい。私があなたのためにすべてを行います!』

 

 時折、病院で働く医師が何か月も私一人ということもありました。そんな大変な時期、私はババの恩寵によって毎日200人から300人の外来患者を診察し、薬を処方し、その上さらに、相当数の手に負えない内科の患者たちを診ることができていました。バガヴァンは、恩寵を目に見える形でも、見えない形でも与えてくださる方でしたので、そこには失敗という事例は一つとしてありませんでした」

 一方、病院の二周年記念式典においてシーターラーマイアフ医師が大きな声で読み上げたすばらしい奉仕活動の成功記録の報告に関して、ババはこう明言していらっしゃいます。

 「無私の奉仕の精神が帰依者たちを動かして病院の建設中にシラマダーン〔無償で労働力を提供すること〕を行い、それがここにいる医師たちを動かしたことが、この病院が成功している主な理由です」

 病院での体験について、シーターラーマイアフ医師はこのように語っています。


 「この病院で患者たちが体験する説明のつかない一連の回復に、私たちは医師として驚かされました。特に、国内あるいは海外で、すべての主要な病院施設から治療不可能な患者として拒否されたあげく、ここへたどり着いた患者たちの場合がそうです。バガヴァンは、苦しんでいる人、人生という競争においてハンディを持っている人に、より多くの愛を降り注がれます。バガヴァンは、健康という贈り物を、有益な目的のために活用するように、と授けてくださるのです」帰依者たちは、数えきれないほどの奇跡的な治癒や健康が回復したいくつもの事例を、よく知っています。それらはバガヴァンへの帰依心が引き起こしたものです。起こる場所はバガヴァンのすぐそばのこともあれば、世界中のどこか遠い所のこともあります。バガヴァンは、助言を求める医師たちの聖なる相談相手として何度も振る舞ってこられました。医師たちが真っ暗闇で手探りしているときには、特にそうでした。たびたび、バガヴァン自身が、病気を適確に診察したり、適確な薬を処方したりする医者となり、時には緊急の外科手術を行って、帰依者の生命を救ってこられました! また、ババが死んだ人を生き返らせたという事例もいくつか記録に残っています。

 

 ある時、ババは、なぜ病院建設という仕事を手掛けられたのかという理由を明らかにました。

 

 「私は、病院で治療を受けて初めて心の平安や満足を得るような人々のために、病院を建てました。彼らは、常に健康な存在であるアートマへの信心が最高の気付け薬であり、最高の薬であるということを知りません。彼らはこのような病院を訪れて、神の恩寵はあらゆる薬よりも効能があるということを理解することでしょう。彼らは神の方へと向きを変え、真我の悟りの道を歩くようになるでしょう」


 奇跡的な治癒の神秘について尋ねられた時、ババはこのようにお答えになっています。


 「それは、生類も生類以外のものも、すべては私と一つであるという、私の体験です。私の愛はすべての人に注がれています。というのも、私はすべての人を自分として見ているからです。もし心の底から私の愛に報いるならば、私の愛とその人の愛が一つになって、その人の苦痛は癒されます。相互依存の関係がない所には、治癒は起こりません」

 

 もちろん、神の意志のみが及ぼす治癒もあります。ヒスロップ博士がババに尋ねたことがあります。

 

 「スワミが人を癒やされるのは、カルマ〔その人の行為の結果〕がそれにかなっていると思われるときのみですか?」

 

 ババは答えました。


 「いいえ。もしスワミがその人に満足していたら、スワミはすぐさまその人を治します。そこにカルマが入り込む余地はありません。もしその人が清らかなハートを持ち、スワミの教えを生きているなら、スワミの恩寵は自動的にその人のもとへやって来ます」

 ここで、シーターラーマイアフ医師がプラシャーンティ・ニラヤムで目撃した奇跡の治療をいくつかご紹介しましょう。

 

 マイソール藩王国のマレナードゥ出身のコーヒー農園主がいました。彼は30年以上もリューマチ性関節炎のさまざまな症状に苦しんでいました。高熱で病院へ運ばれてきた時には、腎臓もやられていました。バガヴァンはシーターラーマイアフ医師に、彼を診察して何本か注射をするようにと指示を出しました。けれど、その極度に憔悴しきった寝たきりの患者は、医療の専門家に何かをさせることを一切拒否しました。彼はこれまで、アロパシー〔西洋医学/対処療法〕、アーユルヴェーダ、ホメオパシー〔代替療法〕、その他もろもろを受けてきて、もう、うんざりしていたのです。彼は、バガヴァンだけに治療をして欲しかったのです! バガヴァンは丁寧に応じました。バガヴァンはその患者のために小さな液体の入った瓶を物質化し、その液体を2滴、水に混ぜて一日二回飲むようにと言いました。10日もすると、彼はマンディルのベランダまで一人で歩いていけるようになり、一ヶ月もしないうちに、マンディルへ行ってバジャンを歌うようになりました。それから15日もしないうちに、彼はすっかり元気になりました!

 デリー近くのムラーダーバードに、舌の癌で苦しんでいる人がいました。彼は2年間デリーの病院に入院して優れた医師たちの治療を受けていましたが、効果はありませんでした。あらゆる医療の専門家に見放された彼は、最後の手段としてプラシャーンティ ニラヤムへとやって来ました。ある朝、バガヴァンのダルシャンを受けた後、彼は何気なく病院に足を踏み入れ、シーターラーマイアフ医師に自らの苦悩をとうとうと訴えました。医師は、希望を捨てないようにと言い、ホウ素グリセリンを舌に塗り、ビタミンB群の錠剤を飲む ようにと何錠か渡しました。もちろん、医師はその患者に、ババに助けを求めて祈るようにとも助言しました。その二日後、その患者は、バガヴァンに祝福されたヴィブーティの包みをいくつか持ってプラシャーンティ・ニラヤムを出ていきました! いまや、それが彼の唯一の薬でした。彼は、家で礼拝するために、ババの写真も一枚持って帰りました。一年後、彼はプラシャーンティ ニラヤムへ戻ってきましたが、癌は完全に治っていました! 彼はシーターラーマイアフ医師に、いかにしてババが彼の家で、そばにいる証しを示してくださったかを明かしました。バガヴァンの写真を含め、額に入ったさまざまな神様の絵姿から、ヴィブーティがあふれ出したのです。
 

 タンガヴェルは、ボンベイの繊維工場で働いていました。彼は40歳の時、直腸癌に苦しめられました。雇い主がしばしば彼をスイスへ連れていき、医師たちに彼の疾患を診てもらっていました。タンガヴェルは、ババのことを耳にして、急いで恩寵を求めてプラシャーンティ ニラヤムへと出かけていきました。病院で、シーターラーマイアフ医師が彼に出してあげられたのは、いくらかの緩和剤だけでした。ところが、夜になってタンガヴェルがプラシャーンティ ニラヤムのシェッド〔簡易宿泊所〕で眠っていると、鋭い器具を手に持ったババが夢に出てきて、彼に手術をなさったのです! 目が覚めると、彼の体と衣服に血の痕が付いていました。けれど、彼はすこぶる安堵していました。後に、タンガヴェルは、シーターラーマイアフ医師に、「夢の中での外科手術」によって自分は奇跡的に治ったという手紙を書きました!

 

 シーターラーマイアフ医師は、こう締めくくります。


 「胆石は、『そんなものは想像の中にしか存在しません』とババが軽くおっしゃると、消えてなくなります。心臓の発作は、不思議にもおさまり、喘息の苦しみは、もはやなくなり、腫瘍は、ババの命令を受けて消滅します。実際、一切は、ババが住まわれる肉体でのババの御心の戯れなのです。バガヴァンは、私のような医師たちを教育するために、そして、神の恩寵という治癒の力を伴わない単なる医療行為は役に立たないということを私たちに確信させるために、この病院を設立なさったのだと、私は固く信じています。その治癒の力は、心からの祈りによって容易に手に入れることができるのです」

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​第 41 

第41回

 主の根本的な使命は、人間の心(マインド)をはかない肉体への執念から切り離して、永遠なる魂へと導くことです。そこには人と社会双方にとっての救いがあります。人間社会は、人が霊的な目標を追求するときにのみ、完全なる幸福と調和という理想に向かって前進することができます。バガヴァンは、おもに人が霊性を取り戻すことに携わっておられますが、人の物質的な幸福を無視されることはありません。つまるところ、人間は天の子であるのと同じく、地の子でもあるのです。ババが理想とされる、人間にとっての霊的な天国は、地上に根差したものです。ババは人間にその人自身、同胞、そして自然と調和して生きることを教えることと同様に、人間の基本的、物質的な必要を満たすことにも従事なさっています。この両方が達成されたとき、初めて黄金時代は幕を開けることができるのです。

 

 魂に付いた傷を癒すためにやって来られたアヴァターによって設立された最初の施設は、体を治すための病院でした。バガヴァンは1954年、ご自身の29回目の誕生日に、自らの住まいの後ろにある小さな丘の上に病院を建設するための礎石を据えられました。

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バガヴァンの29回目の誕生日にプラシャーンティ・ニラヤムで病院の礎石を据える

 その建設は帰依者たちへの愛、またそれと同じくらいに、帰依者たちの神への愛を示す作業となりました。バガヴァンはほとんど毎日のように建設現場に出かけていき、老いも若きも喜びと熱意を持って働く帰依者とともに数時間を過ごされました。

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建設予定地でのババとボランティアの帰依者たち

 帰依者はそれぞれ応分の働きを捧げつつ、バジャンを歌いました。建物に使われる石やレンガの一つひとつが、神に対する彼らの愛で満たされていました。バガヴァンは、そのうっとりするようなすばらしい現場を司る主として、岩の上に座っておられました。その忘れがたき時代の一端であった帰依者たちは、ババが月明かりの夜に果物のジュースの大きな瓶を一つ手に持ってやって来られ、いかにしてその神の飲み物をコップに注いで自分たち一人ひとりに手渡してくださったかを鮮明に覚えています。

 

 東に面したその建物は、毎朝、朝日の黄金の輝きを浴びて丘の上に姿を見せて、主とその信徒の一群との蜜のような愛を味わっていました。そのころは視界を遮るような物は何もなかったので、背景にそびえ立つ雄大な丘陵に沿って流れるチットラーヴァティー川をそこから見ることができました。シュリ・サティヤ・サイの名を冠した最初の施設であるその病院は、1956年10月4日、ナヴァラートリ祭において、当時のアーンドラ・プラデーシュ州首相、シュリ・B・ゴーパーラレッディによって落成されました。病院には5つの部屋があり、2部屋が病室として使われ、もう1部屋は分娩室、そして他の2部屋は、診察室、および、薬の調剤や着替えをする場所として使われました。

バガヴァンは当時、多くの時間を病院で過ごし、病める人々を励まし、慰め、医師やそのチームにいる医療以外のボランティアを激励しておられました。最初の年は、毎日200人ほどの患者が近隣の村々から病院へと集まってきました。当時、病院の医師は一人だけで、退職した外科医だったのですが、彼が疲れていると、ババは彼に休憩するようにとおっしゃり、患者をご自分で診ておられました! 病院の百薬の長は、バガヴァンの恩寵でした。言うまでもなく、それは絶対に信頼できる確実な薬でした。年が経つにつれ、病院で働く医師の数は増えましたが、バガヴァンの直接的、物理的な関わりは徐々に減っていきました。それでも、目には見えないバガヴァンの臨在が、彼らの治療をする手を導き続けました。

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病院での神なる医師

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​第 40 

第40回

 ここで、地上の女王からメロディーの女王へと話を移しましょう。世間では「MS」と呼ばれている、バーラタ・ラトナ〔インドの宝石〕・シュリーマト〔女性に付ける敬称〕・M・S・スッブラクシュミーです。彼女は、ヒンドゥスタン音楽の巨匠ウスタード〔マエストロの意〕・バデー・グラーム・アリー・カーンから、「スワラ・ラクシュミー」(甘い声の女神)と呼ばれていました。かつて、マハートマ・ガンディーは彼女のことをこう語っています。

 「彼女の声はことのほか甘い。彼女は我を忘れてバジャンに没頭する。祈っている時には、我を忘れて神に没頭しなければならない。バジャンを歌うのと、我を忘れて神に没頭してバジャンを歌うのとでは、まったく違う」

 これこそまさに、彼女の音楽の顕著な特徴です。彼女は、ナドーパーサナ〔音楽を通じた礼拝/ナーダ・ウパーサナ〕に専念することによって、カルナーティック音楽の霊的なエッセンスを現代音楽の中に取り戻しました。ナドーパーサナでは、バクティ〔神への愛/信愛〕に満ちた音楽が人をモークシャ〔解脱〕へと導く道となっています。

 

 ジャワハルラール・ネルー〔インド初代首相〕からMSへ繰り返し贈られた賛辞があります。

 「私が誰だというのでしょう? 私は歌の女王の前では、しがない一人の首相にすぎません!」

 これは、当時のネルーの常套句になりました。ネルーは、慈善的な目的で催される彼女の音楽会でスピーチをする時はいつも、この自らの有名な賛辞の言葉を繰り返すことを好みました。

 「私は人前でのスピーチに慣れてはいますが、このような機会に話をするのは決して容易なことではありません。スッブラクシュミーの音楽には人の心を揺さぶる特質があり、彼女がデリーを訪れるといつも、聴衆は彼女のメロディーに心奪われて、身震いするような感動を覚えるのです!」

 

 MSは、たくさんの慈善運動や慈善団体のゴッドマザー〔後見人〕でした。その中でも最も有名なのは、マハートマ・ガンディーに関わりのあるカストゥルバ・メモリアル・トラストの資金を集めるために開かれた彼女のコンサートでした。実際、お金は決して彼女が歌を歌う動機にはなりませんでした。彼女は偉人でした。彼女の実直さ、謙虚さ、寛大さは、伝説的です。彼女はインド大統領から「バーラタ・ラトナ賞」〔インドにおける民間人への最上の褒章で“インドの宝石”を意味する〕という最高の栄誉を与えられましたが、それは、音楽の霊的な力に対して払われた敬意であり、彼女という形で具象化されたインドの理想の女性像への賛辞でした。

 

 MSにとってのバガヴァン・ババは、「カリの時代〔カリユガ〕に人類を救うために来られたシュリ・クリシュナ・パラマートマの化身」であると、彼女は自らの言葉で語っています。彼女はしばしばこのようにも述べていました。

 「ババは真理と善の化身です。彼を信じることは、この困難な時代に倒れることのない支えを持つことなのです」

 多くの人にとって、メロディーの女王が人生において私たちと同じように困難を抱え、逆境に遭っていたと知るのは、驚きかもしれません。事実、逆境は彼女の音楽に最高のものをもたらしました。「最も甘く美しい歌は、最も悲しい思いを語る歌である」とシェリー〔英国の詩人〕は書いています。神は大切な帰依者を故意に数えきれないほどの困難に置いて、神との合一という最終的な無上の至福へと向かう準備をさせるというのは、インドで一般的に信じられている概念です。この脈絡からすれば、タミル語とヒンディー語で制作されて40年代に人気を博した映画の中でMSが演じたミーラー〔藩王女から吟遊詩人となった16世紀の偉大な信者〕の役は、彼女の私生活と重なっていたのでしょう。

 

 MSは1975年にブリンダーヴァンで初めてババのダルシャンを受けました。MS夫妻にとって、そのころは大変な時期でした。彼女が初めてババの御足にひれ伏し、体中が震えて目に涙があふれた時、夫、シュリ・サダーシヴァムはいつものように彼女に付き添っていました。バガヴァンは微笑んでおっしゃいました。

 「いらっしゃい、何年もお預けになっていたナマスカールを捧げなさい!」

 バガヴァンは夫妻を個人的な集まりに呼び、夫妻の苦難を順を追って語られました。それは夫妻の心中どおりに語られたので、バガヴァンこそは自分たちのアンタラヤーミ〔ハートの中に住まう神〕であると、夫妻は確信したのでした。バガヴァンとの最初のインタビューを思い出しながら、MSは後によくこう語っていました。

 「何年もの歳月を経て、やっと私たちはババが生身の姿で目の前におられるという至福を体験したのです」

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ブリンダーヴァンでのババと夫妻

 MSは10年前、家族ぐるみの友人であり、夫妻の幸せを祈ってくれるババの帰依者たちからバガヴァン・ババのことを聞いていました。ぜひともダルシャンを授かりたいと切望していましたが、1975年までそれはできませんでした。サダーシヴァムがババの所へ行きたがらず、理想的で忠実なインド妻であるゆえに、MSは夫の付き添いなしにはどこへも旅に出ようとはしなかったのです。バンガロールを訪れた時、MSはヴェーンカタチャラム夫妻と共に滞在していました。シュリ・S・R・ヴェーンカタチャラムはババの帰依者で、よくブリンダーヴァンを訪れていました。あるとき、MSはヴェーンカタチャラムに私のプラーナム〔合掌〕をバガヴァンに捧げてくださいとお願いし、バガヴァンに私のためにプラサーダム〔神から流れ出る恩寵を意味する食べ物やヴィブーティなど口に入れることのできる物〕をくださいと祈りました。ヴェーンカタチャラムが彼女の祈りをババに捧げた時、ババがおっしゃいました。

 「MS? 知っていますよ。彼女の夫、サダーシヴァムはここに来ようとしません。でも、いずれ彼はやって来ます」

そして、彼女のためのプラサーダムをお与えになりました。

 MSはヴェーンカタチャラムから、彼が慢性の偏頭痛で苦しんでいた時に初めてブリンダーヴァンを訪れた際の興味深い話を聞いたことがありました。ブリンダーヴァンへの旅の最中に、彼は心の中で「サイ・ババは私の頭痛を治すことができるだろうか?」と考えていました。ダルシャンの時、バガヴァンは彼の前を通りすぎていかれました。しかし、きびすを返してヴェーンカタチャラムの前に立ち、こうおっしゃいました。

 「あなたは何がほしいですか?」

 「ババ、私はあなたからの祝福を懇願します」

と、ヴェーンカタチャラムは申し出ました。

 

 バガヴァンはヴェーンカタチャラムの頭に手を置いて彼を祝福されました。何年もの間彼を悩まし続けてきた頭痛は、その瞬間に消え去り、二度と頭が痛くなることはありませんでした!

 

 MSはどのようにしてババの帰依者になったのかと尋ねると、答えは実にシンプルでした。

 

 「人々はババの偉大さについて語り、また、ババが人々の問題を解決される驚くべきやり方について教えてくれました。最大の奇跡は、もちろん、ババの愛に満ちた優しい眼差しが降り注がれる時に体験するシャーンティ〔平安〕です。ババがおられるということ以外すべてを忘れてババに全托する時の、守られているという感覚のなんとすばらしいことか! ババの言葉はいつも真理に満ちています。それは神の言葉です!」

 

 MSとサダーシヴァムはプラシャーンティ・ニラヤムとブリンダーヴァンを定期的に訪れるようになり、MSは機会さえあればいつでもバガヴァンのために心から歌いました。バガヴァンの御前での初めてのコンサートは、1977年5月、ブリンダーヴァンでのインド文化と霊性に関する夏季講習の時でした。当時の外務大臣だったシュリ・アタル・ビハーリー・ヴァージパイー〔第13代および16代インド首相〕が、その日の午後の、人であふれかえった大学の公会堂での主賓でした。MSが我を忘れるほどのバクティで恍惚としてミーラーのバジャンを歌うと、バガヴァンは立ち上がって美しい金のネックレスを物質化し、彼女にお与えになりました。バガヴァンからそれを受け取って、彼女はいたく感動していました。その贈り物は彼女の霊的な人生において深い意味があったのでしょう。

 

 MSはよくこう言っていました。

 「夫と私は何度もプラシャーンティ・ニラヤムやブリンダーヴァンへ行きました。そして、ババがチェンナイ〔MSの地元〕を訪れる時はいつもスンダラム〔ババのチェンナイのアシュラム〕にも行っていました。ババが帰依者たちの間を歩いて回られるダルシャン以外、何も期待してはいませんでした」

 ですが、ババはよくMSの前で足を止め、二言三言、祝福の言葉をかけ、彼女のためにヴィブーティを物質化されていました。夫妻を個人的な会に呼ばれることもよくありました。さらにバガヴァンは、チェンナイにある夫妻の住まいを訪れられたことも何度かありました。1982年に夫妻の娘ラーダーが重篤な病に倒れた時には、バガヴァンは打ちひしがれた夫妻と娘をブリンダーヴァンに一月以上も留めおき、限りない慈悲を降り注がれました。

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プラシャーンティ・ニラヤムでM.S.スッブラクシュミーを祝福するバガヴァン

 MSはサダーシヴァムの指揮下、インドのさまざまな言語でサイ・バジャンのアルバムを発表しました。その中には、ババ自らが若いころに作曲された「サイラーマ・チルカ」〔ラーマであるサイの鸚鵡〕という曲が含まれていました。少数の幸運な者は、MSがその歌を歌うのをババがこの上なく幸せそうに聴かれているのを目にしました。ババは手で拍子をとったり、一緒に歌ったりもされていました。他の曲はMSのレパートリーからの曲がほんの数曲で、何曲かはそのアルバムのために覚えたり作ったりした曲でした。その胸の高鳴る瞬間に思いを馳せながら、MSは思い返します。

 「それぞれの歌を歌いながら、私はカルナムールティ〔慈悲の権化〕であられるババへの深い思いに我を忘れました」

それから彼女はうやうやしくこう付け加えました。

 「神が私たちと共に生きている時代に生きられるなんて、私たちはなんと幸運なのでしょう!」

 

 あるバガヴァンの側近の従者が、MSが亡くなる数週間前にチェンナイの彼女のもとを訪れました。彼女にいとま乞いをする時、彼はこう尋ねました。

 「アンマー〔母上〕、私は明日プラシャーンティ・ニラヤムにまいります。スワミに何かお伝えになりたいことはありますか?」

 彼女は両手を合わせ、一瞬上を向いて部屋にあるババの写真に目をやりました。そして、込み上げる思いで息を詰まらせながら言いました。

 「神に何を伝える必要がありましょう? 神は、私の願いを、それが私の心の中に湧く前に、もう叶えてくださるのに!」

 彼女の聖人のような答えは、バガヴァンとのすべてにわたる絶え間ない心の交流を示しており、その従者は彼女にそんな質問をしたことを恥ずかしく思いました! けれど、彼女の答えを聞いた時に彼が覚えた崇高な気持ちは、この質問をしたのは正しかったと感じさせてくれたのでした。

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私たちのハートが奏でる音楽に合わせて拍子をとるガーナローラ〔歌を愛する者/音楽に魅せられる者〕
シュリ・サティヤ・サイ

​第 39 

第39回

 ナワナガル藩王国のマハーラージャ〔藩王〕であった故シュリ・ランジット・シンジーの王位継承者である、マハーラージャ、シュリ・ディグヴィジャイ・シンジーは、「ジャム・サーヘーブ」〔君主や王子の称号/サーヒブ〕と呼ばれて広く知られていました。

 

 1965年2月、ジャム・サーヘーブは、ジャームナガル〔グジャラート州の都市〕の宮殿で危篤状態にあり、胆のう結石症による激痛に苦しんでいました。彼は糖尿病で、さらに、緑内障のせいで目もかすんでいました。強い意志の持ち主でしたが、ここ数年は絶え間なく病気を患い、全くどうすることもできない状態にまで陥っていました。彼は自らの惨状から救われる唯一の方法として、死を待ち望んでいました。ジャム・サーヘーブの手当てを担当する高名な医療専門家たちも、同様になす術がありませんでした。彼らは止むを得ず外科手術を提案しましたが、彼の弱った身体が持ちこたえられそうにないということは承知していました。マハーラーニー〔藩王女/藩王夫人〕であるグラブ・クンワルバは、夫を手術が行われるボンベイ〔現ムンバイ〕に移すのは賢明ではないと思いました。ジャム・サーヘーブは、何としても自分のグル〔導師〕であるシュリ・アゴーラナンダジー・マハーラージに会わなくてはと、躍起になっていました。そのグルは、その地域では偉大なヨーギであり、神の子として知られていました。二日後、グルがジャム・サーヘーブの寝床までやって来ました。藩王家の弟子〔ジャム・サーヘーブ〕は自らの師に懇願しました。

 「マハーラージ、私はもうこれ以上この痛みに耐えられません。お願いですから、医者たちに私を眠らせてくれるよう助言してください」

 グルは心を動かされましたが、強(こわ)い外見でその優しい心を隠していました。グルは言いました。

 「そんなことを言うとは、君はジャム・サーヘーブかね、それとも誰か他の者かね? 私は君がそんなことを言うのを二度と聞きたくない!」

 「では、私はどうすればいいのですか?」

 グルは鞄の中から一枚の写真を取り出すと、それをジャム・サーヘーブに見せて、「この方を知っているかね?」と尋ねました。ジャム・サーヘーブは写真を見る気力さえありませんでした。彼は言いました。

 「私には誰も分かりません。まず元気にならなければ、私は誰かを見ることも知ることもできません!」

 「弟子を神のもとへ導くのはグルの務めだ。この写真のお方は人の姿をとった神である。彼を見て、彼に祈りなさい」

 グルはそう命じ、藩王〔ジャム・サーヘーブ〕が見ることができるようにと、その写真をランプの下に持っていきました。

 ジャム・サーヘーブはやっとの思いでその写真を見ると、「それはサイ・ババです」と、かぼそい声で言いました。

 「そうです。バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババです。君の心を、痛みから彼の方に向け変えなさい。彼には君の痛みを取り除く力がある。君はただ、彼に心の底から祈るだけでよいのだよ」

 

 グルの声は信念に満ちており、忠実な弟子の心に一筋の希望をもたらしました。

 部屋の外の廊下でマハーラーニーが戸惑いながらもしっかりとした声で誰かと話しているのが聞こえたので、グルは部屋の外に出ました。マハーラーニーはグルに言いました。

 「どこかの紳士が、マハーラージャにすぐに会いたいと来ています。どうしてそんなことができましょうか? 私がマハーラージャは病気だと伝えさせると、その紳士はマハーラージャか、マハーラーニーのどちらかに会うまでは帰らないと言っているのです!」

 

 グルはマハーラーニーに言いました。

 「はるばる南からやって来た、そのかわいそうな人に、どうして会わないのですか?」

 「マハーラージ、私の夫が死の床にあるというのに、いったいどうして誰かに会うことなどできますか?」

と彼女は尋ねました。

 「彼は私たちにとって大切な人かもしれません。一緒に会いましょう」グルはそう決定を下しました。

 

 訪問者は二階に通されました。それは、英国から来たガディア医師でした。彼は元々ジャームナガルの出身でした。ガディア医師は、うやうやしく提案しました。

 「お邪魔をして申し訳ありません。私は、バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババからここへ来るようにと言われて来ました。二日前まで、私はプッタパルティにいました。ババは私に、マハーラージャの具合がよくないのでこのヴィブーティの包みを渡すようにとおっしゃいました」

 

 ガディア医師は、大きな包みをマハーラーニーに手渡しました。マハーラーニーは驚きましたが、グルは違いました。まるでグルはそのことを予期していたかのようでした。グルは子どものように無邪気に歓喜の声を上げました。

 「あなたに言ったでしょう。彼は私たちにとって大切な人かもしれないと! 私はすでにババの写真をベッドの脇に置いておきました。だから、こうして今、彼の聖なるプラサード〔神から流れ出る恩寵〕が送られてきたのです!」

 マハーラーニーはガディア医師にお礼を言い、医師はいとまごいをして出ていきました。グルはマハーラーニーを伴ってマハーラージャの部屋に入っていきました。グルは部屋の外で起こっていたことをマハーラージャに説明しました。グルはヴィブーティの包みを開けて、そのうちの少しを水に混ぜて、サーヘーブに飲むように言いました。グルはそのプラサードを患者〔サーヘーブ〕の腹部にも塗りました。彼らがその不思議な出来事について話しはじめると、ここ三日間というもの一睡もしていなかったマハーラージャが眠りにつきました。誰もが大いに安堵しました。朝、目覚めると、痛みは完全に消えていました! バガヴァン・ババは、王室の夫妻の人生に喜びと安らぎをもたらすべく、夫妻の人生に登場したのです。その恵まれたグルは、自らの弟子を神のもとへと導くという務めを果たしたのでした。

 マハーラージャの回復は、ゆっくりではありましたが、確実でした。6カ月もすると、かすんだ視力以外は、完全によくなっていました。1965年の12月、彼は初めての娘婿、ラージクマール・ナラハリ・シンジーに伴われて、プラシャーンティ・ニラヤムへと赴きました。バガヴァンは、受け取った人が何と説明してよいか分からないような甘いお菓子を物質化しました。それはクリーム色で、べとべとするでもなくパサパサしているわけでもありませんでした。その味について、後にジャム・サーヘーブは、「私は世界中を回ってきましたが、あのようなものはそれまで一度も食べたことがありませんでした!」と言っています。ババは、その相当な量の「この世のものではない」プラサードをマハーラージャに差し出すと、言いました。

 「ジャム・サーヘーブ、あなたは糖尿病ですね」

 「はい、そうです」

 「何も心配いりません。スワミはそれをあなたにプラサードとして与えているので、あなたは何もためらうことなく食べていいのですよ」

 マハーラージャがそれを食べた後、バガヴァンは尋ねました。

 「あなたは何が欲しいですか? ジャム・サーヘーブ、言ってごらんなさい」。

 「スワミ、私はただ、あなたの祝福が欲しいだけです」

 「視力が欲しいとは思いませんか?」

 「私は、何かこの世のものを見るための視力など欲しいとは思いません。私は、あなたの御姿をはっきりと見ることはできませんが、それは私の心の中に焼き付けられています。私は、最後に主ソームナート〔月の神〕のダルシャンを受けたいと願っています」

 「私はあなたをソームナートである私のもとへ連れていきましょう」と、バガヴァンは断言しました。

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ソームナート寺院でのバガァヴァン

 ジャム・サーヘーブは、満足してジャームナガルへ帰っていきました。彼は最期の時まで至福の日々を過ごしました。1966年2月2日の朝4時ごろ、それは突然やって来ました。彼は重度の心臓発作を起こしたのです。けれども、痛みはまったくありませんでした。周りにいた誰もが驚いていましたが、特に彼を看ていた医師たちは驚いていました。ジャム・サーヘーブは、脈拍がゼロにまで落ちてしまっても、一つのいすから別のいすへと移動したりしていました! 最終的に、彼はベッドの上に小高く重ねていたクッションにもたれかかり、医師たちや使用人たちにお礼を言いました。横になる前に、彼はマハーラーニーに、「ありがとう。君はずっと良い妻だった。これからもずっと神様は君のそばにいるよ!」と言いました。彼は、マハーラーニーからガンジス河の聖水を飲ませてもらった後、穏やかにこの世を去りました。

 

 ジャム・サーヘーブの死から一週間後、マハーラーニーはプラシャーンティ・ニラヤムから一通の手紙を受け取りました。それは、2月3日に、彼女の姪でクッチ藩王国の姫、ナンダ・クマーリーによって書かれたものでした。ナンダは当時、プラシャーンティ・ニラヤムで暮らしていました。ババはナンダに伯父のナワナガル藩王国のマハーラージャが死んだことを伝え、ババの代わりに伯母への手紙を書くようにと頼みました。ババはナンダ・クマーリーに言いました。

 「マハーラーニーに私の祝福を伝えなさい。彼女は、マハーラージャの魂はどうなったのかと考えて、深い悲しみで心が一杯になっています。私は最期の瞬間に彼と共にあり、彼の最後の望みどおりに、彼をソームナートのもとへ連れていき、彼にモークシャ〔解脱〕を授けました」

 

 その手紙は、嘆き悲しむマハーラーニーの心に膏薬のような働きをしました。バガヴァンはその手紙を通じて、「サークシャート・パラメーシュワラ・スワルーパ」〔目に見える至高神の化身〕としてのバガヴァンを完全に信じる心を彼女に与えました。彼女はババの周りにいた帰依者たちに、愛のこもった助言として、ためらうことなくこう言いました。

 

 「スワミはサークシャート・イーシュワラ〔目に見えるシヴァ神〕です。スワミのマーヤーの芝居に惑わされてはいけません。スワミは、お芝居をするのがすばらしく上手なのですから!」

 

 1966年4月、マハーラーニーであるグラブ・クンワルバは、息子のユヴラージ〔若き藩王〕シュリ・シャトルシャリヤ・シンジーが王位に就いたことで、ナワナガル藩王国のラージャマータ〔藩王の母〕になりました。彼女がバガヴァンに初めて会ったのは、1966年5月、彼女の従妹、ボンベイのクッチ藩王国のマハーラーニーの館でのことでした。当時、グラブ・クンワルバは息子のことで、とても頭を悩ませていました。彼女は大いなる自尊心の持ち主で、強い意志を持った女性でした。そのことに彼女が触れるまでもなく、ババは彼女に言いました。

 

 「あなたは何も心配する必要はありません。私はあなたの息子です!」

 その言葉によって、彼女は一切の悩みから永遠に解放されたのでした。ラージャマータは、アヴァターからの祝福を受けてデーヴァマータ〔神の母〕となったのです。二、三日もしないうちに、バガヴァンはグラブ・クンワルバのボンベイの住まいを訪れました。彼女の娘、ヒマンシュ・クマーリーは、ババの神性が信じられるような印を私に示してくださいと、心の中で祈っていました。慈悲深い師は、すぐにそれに答えました。ババの所〔祭壇〕に亡き愛する父の姿が見え、娘は座り込んでしまいました。心に付いていた疑いの染みが、感謝の涙で洗い流されていきました。

 ラージャマータは、主の使命という祭壇に完全に身を捧げました。1968年、80代になったラージャマータが、ブリンダーヴァンのディヴィヤ・サンニディ〔神の近くの意〕で暮らすためにやって来ました。バガヴァンが自分の館に住むようにと彼女を招いたのです。彼女は、1971年にブリンダーヴァンのアシュラムの一区画にババから「デーヴィー・ニヴァース」〔女神の住居〕という新築が贈られるまで、ずっとそこで暮らしました。1972年にシュリ・サティヤ・サイ・セントラル・トラストが設立されると、ババはラージャマータをトラストの一員に任命しました。

 1981年に総合大学が創設されると、バガヴァンはその大学のトラストにも彼女を任命しました。彼女はさらにシュリ・サティヤ・サイ・オーガニゼーションのワールド・カウンシル〔世界評議会〕にも所属していました。バガヴァンの使命における彼女の役割は他に類を見ないものでした。

 ラージャマータの生涯で興味深い出来事を二、三紹介しましょう。それはバガヴァンと彼女の間に存在する関係の甘美さを表しています。その甘美さは、もちろん、バガヴァンの度量の大きさという味がします。

 バガヴァンは、三度目にジャームナガルを訪れた時、ラージコート〔グジャラート州の都市〕のラージクマール大学シュリ・ディグヴィジャイ・シンジー部門の開設式の後、1973年3月31日の正午にアマル・ヴィラス宮殿に到着しました。何台もの車がバガヴァンの車の後を付いてきていました。ラージャマータもその中の一人でした。あまりに几帳面な主催者であった彼女は、玄関ポーチにいる忠実なアラブ人の警備員に、すでに指示を出してありました。彼の愛称は「シェイフ」〔アラビア語で長老や賢人の意〕で、彼は、ラージャマータの主が訪問するので、宮殿の神聖さを保つために玄関ポーチと宮殿には誰も土足で入ることを許さないように、という指示を与えられていました。車が玄関ポーチに到着し、バガヴァンが車から降りると、接待係の者たちが大いなる敬意をもって出迎えようと前に進み出ました。しかし、「シェイフ」が誰よりも先にやって来て、皆が驚いたことに、バガヴァンに向かってこう言ったのです。「ババ、ジューティー ニカーリエ!」〔靴を脱いでください〕。ババは微笑むと、謙虚にも警備員の言葉どおりにしました! ババは履き物を脱ぎ、太陽の下で待っていた国防市民軍の部隊の儀仗兵たちを出迎えるために、前に進みました。

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 何秒もしないうちに、ラージャマータがそこへ到着し、彼女の警備員がやらかした不敬な振る舞いを知りました。彼女は急いで主の所へ行ってひたすら謝り、「どうか履いてください」と、自分の手で持ってきたババのサンダルを差し出して懇願しました。しかし、バガヴァンは国防市民軍の方へ足を進め、真夏の正午の炎天下、焼けつくような砂の上を、平気な顔で裸足で滑るように歩いていき、ラージャマータは肝をつぶしました! ポーチへ戻ってくると、バガヴァンは、ラージャマータが「シャイフ」を、許し難い罪を犯したとして腹立たしげに叱りつけているのを目にしました。許しを懇願するような警備員の目と、情け深い眼差しをしたバガヴァンの目が合いました。ババはこう言って彼女をなだめました。

 「ラージャマータ、あれは、まったくもって彼の過ちではありません。あなたは、私以外は、という例外を彼に指示していませんでした。私は彼の忠誠心と忠実さを高く評価します!」

 警備員の目から感謝の涙がどっと溢れ出しました。彼は、ババが血と肉をまとった神であると信じていたにもかかわらず、やむをえず女主人の指示どおりに務めを果たしていたのです。

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焼けつくような砂の上を滑るように歩くババ

 さらに、ババは謝意を表すように、優しく彼の背中を叩くと、彼にお守りを物質化しました。それは緑がかった灰色の石でした。縦横1インチ〔2.54cm〕の大きさで、アラビア語でコーランからの文字が刻まれていました。驚いた「シャイフ」は、すばらしい機会に恵まれたという感謝の眼差しでラージャマータの方を見ました。彼女が彼を叱りつけていなければ、そんなものを手にすることなどなかったからです!

 1970年12月、バンガロールからボンベイへ向かう途中、バガヴァンはプネーにあるラージャマータの「ジャームナガル・ハウス」に泊まりました。翌朝、その建物で公開の会合が開かれることになり、ありがたいことに、ババの講話がある予定でした。ラージャマータは、娘のヒマンシュ・クマーリーと一緒に厨房で昼食の準備の様子を監視していました。厨房で座っていても講話を聞くことができましたし、窓越しにババのダルシャンに与かることもできました。御講話の最後に、バガヴァンはバジャンを何曲か歌い、ラージャマータは目を閉じてそのバジャンを繰り返しました。二、三曲バジャンをリードして歌った後、ババは帰依者たちにバジャンを歌い続けるように言い、勝手口から厨房へと歩いていきました。ラージャマータは信愛に我を忘れてバジャンを歌い続けていました。バガヴァンは、娘と他の者たちに、ラージャマータの邪魔をしないようにという合図をし、彼女が歌うのを聴きながら、その後ろに立っていました。しばらくしてから、厨房の様子を見ようと後ろを振り返ったラージャマータは、ババがいるのにたいそう驚きました。ババは彼女に言いました。

 「ラージャマータ、あなたはとても上手に歌いますね。さあ、パンダル〔仮設小屋〕に行ってバジャンを何曲かリードしてもいいですよ!」

 「いいえ、スワミ、とんでもありません! 私はそんなことはしたことがありません」

と、当惑したラージャマータが言いました。

 「いいえ、あなたは私が歌うのを何度も聴いてきましたよ。今度は私が、あなたが歌うのを聞きたいのです!」

 「スワミ、どうか私を困らせないでください……どうしてここへいらっしゃったのですか?」

 「私は、あなたがここで何をしているのか見に、そして、あなたのバジャンを聞きにきたのです!……何人分の食事をこしらえたのですか?」

 「スワミ、60人分程度の食事を用意しました」と、ラージャマータは答えました。

バガヴァンは配膳室へ行き、すべての器の蓋を開け、中に何が入っているのか尋ねました。そうしてバガヴァンは、用意されたすべての品を祝福しました。それからパンダルへ戻り、アラーティーを受けました。

 ババは、数人の招待客と昼食をとっている時に、食事を出す人たちのリストを付け加え続けました。ババに命じられて、たくさんの人が次から次へと昼食に呼び入れられました。ラージャマータは、台所に用意してある食べ物の量を心配してドキドキしました。けれど、ババは彼女の狼狽を、満面の笑みを浮かべて見ていました。食事会が終わった時、全部で700人が何の問題もなく食べ終え、さらには、食べ物はまだ残っていました! その日、厨房にいた誰もが、そこにあったすべての容器がアクシャヤ・パートラ〔尽きることのない葉っぱの器〕になるという奇跡を目撃したのでした!

 

 ダルシャン・ホールに安置する新しいクリシュナの像が、ブリンダーヴァンに運び込まれました。それはこの上なく美しい芸術作品で、横笛を吹くクリシュナが、トリバンギ〔頭を一方に傾け、上半身はそれと反対方向に傾け、腰から下の部分はまたそれとは逆方向に傾けたポーズ〕の姿勢をとっていました。像は学生たちの手でトラックからマンディルの前に降ろされ、中に運び込まれました。ババはその作業をずっと監視し、その像をとても喜んでいました。ババはその像を見せようと、ラージャマータを呼びました。彼女が中へ入ってきて、顔いっぱいに喜びをあらわにして像を見ていると、バガヴァンが尋ねました。

 「ラージャマータ、このクリシュナはどうですか? とても美しい……そう思いませんか?」

彼女は崇敬に満ちた眼差しでババを見て言いました。

 「私のカナイヤ〔小さなクリシュナ〕ほど美しいお方はおりません!」

ババの光り輝く顔に、魅惑的な微笑みが浮かびました。ババはそこにいたカレッジの校長に尋ねました。

 「彼女のカナイヤというのは誰のことか分かりますか?」

学長は当惑してババを見ました。答えが分からなかったのです。バガヴァンは誇らしげにご自身を指さしながら、威厳のある頭を振ってうなずきました!

 

 9月26日はラージャマータの誕生日でした。バガヴァンは、その最後の誕生日となった日に「デーヴィー・ニヴァース」〔ババが彼女のためにブリンダーヴァンに建てた家〕を訪れました。彼女を見るや、バガヴァンは歌いはじめました。

 「ハッピー バースデイ トゥ ユー、ラージャマータ!」

 ラージャマータも、ババが歌うのをまねしながら、ババの方へ歩いていきました。彼女はババに祈りました。

 「スワミ、私は今日、あなたに誕生日の贈り物を一つお願いしたいと思っています。必ずそれを私に恵んでください!」

 「それは何ですか? 言ってごらんなさい」

と、ババが尋ねました。

 「まず、それをくださると私に約束してください。そうしたら、それが何なのか申し上げます!」

 「まず、あなたの欲しいものを言いなさい。それをあげますから!」

 神と帰依者との間で、押し問答がしばらく続きました。とうとう、バガヴァンが折れました。

 「よろしい、あなたが欲しいものは何でもあなたにあげると約束しましょう! さあ、言ってごらんなさい!」

 「バガヴァン、私に死をお与えください!」

 ババはご自分の両手をラージャマータの頭の上に5分間置きました。その貴い時間に何が起こったのかは、誰にも分かりませんでした。後に、彼女はそのことについて娘に話していました。

 「スワミは神です。スワミはその5分の間に、私が見たいと思っていたものすべてを見せてくださいました!」

 

 その日から、ラージャマータは自分がこの世を旅立った後に何をすべきか、諸事万端について、家族に詳細な指示を与え続けました。さらに、孫息子には、人が死んでいるか、いないか、どんなふうにして見極めることができるのかを教えました!

 

 ラージャマータは、6日後の午前4時に、最愛の主が歌うバジャンを聞きながら、穏やかにこの世を去りました。そのバジャンは、彼女がテープレコーダーでかけてほしいと言った歌でした。息を引き取る数時間前、ラージャマータは娘と孫息子にこう言っていました。

 

 「もう私に話しかけないでね。私はバガヴァンの声だけを聴いていたいの!」

 

 夜が明けると、バガヴァンが「デーヴィー・ニヴァース」にやって来ました。いとしい帰依者の遺体を見ながら、バガヴァンはつぶやきました。

 

 「これから私は、いったい誰とジャガダをすればいいのでしょう?」

 

 「ジャガダ」とは、ヒンディー語で口論のことです! バガヴァンとラージャマータとのチャーミングな関係のたぐいまれな一面に、バガヴァンは彼女がいろいろな事柄に関して自由に異を唱えるのを許していたことがあげられます。時には、バガヴァンと口論することさえ、彼女に許していました! ラージャマータがバガヴァンに帰融して一つになった日の朝、バガヴァンはそうした口論を「ジャガダ」と呼んだのです! 間違いなく、彼女はバガヴァンの数えきれない帰依者たちの中で、唯一無二の存在でした!

もう私に話しかけないでね
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デーヴァマータ〔神の母〕となったラージャマータ

​第 38 

第38回

 スコットランド出身のビル・リアム・マッケイ・エイトケン氏は、自分のことを「スピリチュアル・ノマド」〔霊性の流浪の民〕と称し、60年代にインド人に帰化することを選択し、インド中を旅して回りました。そのインドでの霊的な地理の学習で得た専門的な知識は、彼を数多くの人気の旅行記を書く作家にさせました。ビル・エイトケンは、バガヴァン・ババに関するすばらしい本、『Sri Sathya Sai Baba―A Life』を書いています。その本で、彼はバガヴァンの人生の霊的な真髄をとらえ、バガヴァンをゴータマ・ブッダやイエス・キリストの系列にある現代の世界教師として描いています。

 バガヴァン・ババの帰依者たちは、ビル・エイトケンがアヴァターの計り知れない神秘を知性的に探究していることについて、完全には賛成しかねるかもしれませんが、彼が次のように宣言していることには誰も異議を唱えることはできません。

 「サティヤ・サイ・ババが私の中に呼び起こすもの、それは気が狂いそうになるほど美しく、間違いなく世界中の誰もが体験してみたいと願うような感覚です」

 ビル・エイトケンは、1972年の冬、ニューデリーにある「ジンドの藩王女」の館で、初めてババを見ました。彼の第一印象はこうでした。

 「間違いなく、彼はいかなる聖者の中でも、あるいは、はっきり言って、私が今まで会ったどんな人よりも、最も衝撃的で感動的な存在です。あまりにも活力あふれるエネルギーで満ちているために、もし彼に触れたらショックを受けるかもしれないほど、超自然的な静電気がパチパチと音を立てているような感じがしました」

 彼は、ババがカシミールを旅した後の1980年の6月14日に、再び同じ場所でババに会いましたが、それはビル・エイトケンにとって、とんでもなく尋常でない体験でした。というのも、そのおかげで、彼は6週間後にヒマラヤ山脈を旅した際に命を救われることになったからです。彼の語る話はこうです。

 

 「当時、私は、ヒマラヤ山脈の中でも最も困難な行程をたどって行く聖所の一つ、ナンダ・デーヴィーへの巡礼の旅をする準備をしていました。ババに会いに行った時、私は高地用の装備で身を固めていました。高山で必要なロープ、岸壁用ロープの留め具、信頼のおけるピッケル、断崖絶壁の氷で覆われた地形を切り抜けるのに欠かせない道具類などです。

 ババは私の健康を優しくお尋ねになり、私はババに私の冒険を祝福してくださいと言いました。私の宿の女主人が、私のピッケルを祝福してもらったら、と提案してきました。ババは微笑まれ、ピッケルを手に取ると、それが作られる際に使われた鉄の組成について、いくつか鋭い質問をしはじめました。そこにいたババの学生たちは、そのことについて私以上によく知っていました。突然、ババは何もない所からヴィブーティを物質化なさいました。それには、私がみんなの前で見ていたような、手をくるくると回すような動作は一切ありませんでした。ババはそのヴィブーティをピッケルのつるはし側の部分に、かなり強くこすり付け、それから、終わったというようなしぐさをなさり、『うまくいきますよ』と言って、ピッケルを私に戻してくださいました。

 私にはどんな奇跡が行われたのかは分かりませんでしたが、それから一ヶ月後の7月26日、聖所で登山をしている時に、そのピッケルのつるはしが私の命を救ってくれたのだ、ということを知ることとなりました。ラマニで、リシ・ガンガー峡谷の上にある、岩を切り取ってできたような手ごわい岩盤をジグザグに登っている時、私は二人のとても優秀なガルワーリー〔ウッタラーカンド州ガルワール地方の人々〕のポーターたちに手助けをしてもらっていました。彼らは、とても熟練した大胆なポーターたちだったので、どんなロープも使おうとはせず、その峡谷の刃(やいば)のように急傾斜している岩盤を裸足で渡っていきました。彼らはロープを固定させながら先へ進み、それから、しゃがんで私を待っていました。私はというと、自分を引き上げるために必要なあらゆる登山用の装具一式を身に付けていました。

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 私たちは、地表が裂けてできたような狭い小峡谷を登り始めました。そこは極めて滑りやすく、油断のならない所でした。どこにも頼りになるような足場はなく、進みながら自分で足場を作っていかなければなりませんでした。私は振り返って、大きく口を開けた深淵を覗き込みました。はるか下を流れる川の急流によって刻み込まれた巨大な峡谷は、真っ直ぐに降りても1,000フィート〔約300メートル〕はあったでしょう。

 私は、じめじめした地面をつま先で蹴って足がかりとし、手を伸ばしながらピックを上部の地表に強く打ち込みました。驚いたことに、その6インチ〔約15センチ〕のつるはしは、岩にわずか3インチ〔約7.5センチ〕入っただけでガチンと音を立て、私の体重を支えるには十分ではなくなりました。その瞬間、つま先の下の地面が砕け落ち、私は自分が地表に優しく沈み込んでいくように感じたかと思うと、ピック一つで峡谷の上にぶら下がっていました。絶体絶命のその時、私の全体重がそのピックにかかっていました。私は、自分はあっという間に1,000フィート下に落ちて間違いなく死ぬだろうという恐怖よりも、むしろ自分の無能さへの嫌悪感を強く抱きました。

 どういうわけか、その3インチの鉄は、軟弱な地表を突き通すことはできなかったにもかかわらず、ポーターたちが戻ってきて私をつかまえるまでの間、持ちこたえてくれました。その後、私たちは、危機一髪を何度か切り抜けて、グルプールニマーの聖日に、我らが聖なる目的地である聖所ナンダ・デーヴィーへ無事に到達しました。帰りの旅の途中にも、身の毛がよだつような出来事がいくつかありましたが、ありがたいことに、ババの恩寵のおかげで、私たちは無事に切り抜け、私は生きて今日、この話を語っているのです」

  このように、バガヴァンは、志に燃える世界中の多くの魂たちに手を差し伸べてきました。距離のあるない、カーストや信条、あるいは国籍の違いがバガヴァンの愛と慈悲を妨げることはできません。バガヴァンはよく、「愛に理由はなく、愛には時季もない」と歌っています。

 

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 バガヴァンは、アヘートゥカ〔理由なき〕・ダヤースィンドゥ(慈悲の王)です。バガヴァンの、理由なき、絶え間ない慈愛は、シュリ・カストゥーリ博士を鼓舞し、「あなたが彼を必要とするなら、あなたは彼〔の慈悲を得る〕に値します!」と、彼に宣言させています。

 

 バガヴァンの慈悲の英雄物語は、そのようなバガヴァンを必要としている魂を探し出し、次の章へと続いていきます。

​第 37 

第37回

 シュリ・チダンバラクリシュナンは、ティルネルヴェーリ〔タミル・ナードゥ州の都市〕から、25キロ離れた町、ムックダルの裕福な若者で、南インドの「タバコ王」として知られた家の出身でした。高名な占星術師から1960年3月15日までに死ぬと予言されたために、チダンバラクリシュナンは大変な恐怖心と不安を抱えていました。その期限の一週間前のことです。彼は何人かの友人たちからババに会ってみるよう勧められました。ババはマドゥライ〔タミル・ナードゥ州の都市〕からトリヴァンドラム〔ケーララ州の州都〕へ行く途中、ティルネルヴェーリを経由することになっていました。ババはその日、ティルネルヴェーリにいる数人の帰依者たちの家を訪れ、隣町のスレンダイに泊まっていました。

 チダンバラクリシュナンには、彼を苦しめていた問題がもう一つありました。地元でとても影響力を持つ兄が、チダンバラクリシュナンが自分で選んだ相手との結婚への道をふさいでいたのです。兄は、花嫁はまだ未成年であるという理由で、法廷にその結婚に反対する禁止命令を発行させることまでしていました。翌朝、スレンダイでのダルシャン中、ババはチダンバラクリシュナンのところへまっすぐにやって来ると、彼の手を取り、家の中へ連れていきました。ババは彼の肩を叩いて言いました。

 「心配しなくていい。あなたは長生きします。占星術師が予言したように死んだりはしません。私はただあなたを救うためにここへやって来たのです!」

 チダンバラクリシュナンは耳を疑いました。言葉も出ませんでした。目から涙があふれ出しました。ババが続けました。

 「結婚はどうなりましたか?」

 「どうして何でも知っておられるのですか?」

と、チダンバラクリシュナンは思わず口にしました。

 「このもじゃもじゃ頭のババは、何でも知っています。何も心配することはありません。私があなたの結婚式をプッタパルティで執り行い、お兄さんも参列させましょう!」

チダンバラクリシュナンは信じられませんでした。彼はぶっきらぼうに言いました。

 「ババ、兄は大変な権力者です。誰の言うことにも耳を貸したりはしません」

バガヴァンは微笑み、こう言って請合いました。

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 「私に任せなさい。すべてうまくいきます!」

 チダムクリシュナンがあっけにとられていると、ババはご自分の肖像が描かれたロケットを物質化して彼に渡し、言いました。

 「これは、あなたのためのラクシャー〔腕に着けるお守り〕です。いつも身に着けていなさい」

 チダンバラクリシュナンは、その瞬間から別人になりました。全能の守護神を見いだして、彼のハートは新たな希望と勇気で満たされました。ババに言われて、彼はババの旅の一行に加わり、トリヴァンドラムとカンニャークマーリー〔インド最南端の巡礼地〕に同行しました。幸運にも、彼は海岸での数多くのリーラー(神聖遊戯)を目撃することになりました。地元の町に戻るころには、彼は占星術師の予言に対する恐怖から完全に解放されていました。ババは、こう言って彼に別れを告げました。

 「あなたがダイヴァヌグラハ〔神の恩寵〕を手にしたとき、ナヴァグラハ〔九つの惑星〕があなたに危害を加えることはできません!」

 人が神の恩寵を手に入れたとき、九つの惑星でさえその人に悪い影響を及ぼすことはできない、とは何という真理でしょうか! バガヴァンは、それから三か月もしないうちに、プラシャーンティ・ニラヤムのマンディルで結婚式を執り行いました。ババの約束どおり、彼の兄もその結婚式に参列したのでした。

ダイヴァヌグラハ
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第36回

​第 36 

 アルゼンチンのレオナルド・P・ガター氏は、1981年にブエノスアイレスの「ラージャ ヨーガ スピリチュアル協会」の会員だった一人の婦人からサイ ババのことを耳にしました。レオナルドはその協会の副会長でした。その婦人がどのようにしてババのことを知るようになったかという話は、とても心を引き付けるものでした。

 その前の月、彼女はインドに行く途中、数日ロンドンに滞在しました。現地の図書館で書棚の本を見ていた時、上の棚から一冊の本が彼女の頭の上に落ちてきました! それはババに関する本でした。その本に目を通していくうちに、ババに会いたいという強烈な欲求が湧いてきました。彼女はインドのプラシャーンティ ニラヤムを訪れ、ババにインタビューを与えられました。

 

 ブエノスアイレスに帰ってから、彼女はババのことを熱烈に、興奮しながら協会の会員たちに話しました。彼女は、ババは世界が待ち望んでいたアヴァター〔神の化身〕―救世主―であると言いました。それに感激したレオナルドは、ブエノスアイレスにあるサイの帰依者グループの会合に出席しました。けれど、彼は自分のことを帰依者だとは思っていませんでした。

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 その後しばらくして、レオナルドの夢にババが現れました。夢の中で、レオナルドは数人の友人たちと部屋にいて、ババがドアのところに現れて部屋に入ってきました。レオナルドは心の中で思いました。「もし、彼がアヴァターならば、私の近くに来た時、何か特別な感覚がするにちがいない!」そして、まさにそのとおりのことが起きたのです。バガヴァンが近づいてきた時、レオナルドは信じられないような体験をしました。以下は本人の言葉です。

 「私は、自分のサトル ボディ〔微細体〕のすべての細胞が振動するのを感じはじめました。そして、細胞の一つひとつが、至福に満ちたエネルギーで沸き立ち、爆発しはじめました。私は霊的な探究において探し求めていたアーナンダ〔至福〕を、あっという間に手にしたのです! エネルギーと至福の波が私の足元から頭まで上っていきました」

 その体験で、レオナルドは全く自分の身体をコントロールできなくなり、倒れてしまいました。しかし、意識ははっきりとしており、完全なる至福の状態にありました。ババがドアの方へ歩いていくのが見え、レオナルドは、「ババ、あなたは神です!」と心の中で繰り返しました。ババは後ろを振り返り、レオナルドの方にやってきました。ババはレオナルドを起こし、彼の頭を軽く叩いて祝福しました。そこで夢が終わり、レオナルドは目が覚めました。その夢によって、レオナルドはババに会いたいという、燃えるような思いでいっぱいになりました。そういうわけで、レオナルドはインドへ行く帰依者たちのグループに加わり、1982年1月にマドラスで初めてのダルシャンを受けたのでした。

 

 バガヴァンがプラシャーンティ ニラヤムに戻っていくと、アルゼンチンのグループもバガヴァンの後を追い、熱烈な思いでインタビューを待ちました。34日が過ぎましたが、インタビューなどまったくありませんでした。メンバーの中にはがっかりする者も何人かいましたが、レオナルドは、ババは自分の帰依者を失望させるようなことをするはずがないと信じていました。絶望する代わりに、レオナルドは自分の内面を見るようにし、自省しました。その夜、彼は思いました。

 「スワミがこの時代のアヴァターであることが分かった以上、スワミにお仕えして、スワミのメッセージを広めなくては。スワミに心から全托しよう」彼はバガヴァンに、それを達成するための信仰心と意志力をお授けくださいと祈りました。次の朝、バガヴァンはダルシャンの列にいたレオナルドのところに来て、言いました。

 

 「いいでしょう。私は今日の午後、あなた方をインタビューに呼びましょう」

 その日の午後、アルゼンチンのグループはインタビューを与えられ、その時ババはレオナルドの耳元でこうささやきました。

 

 「私は自分の帰依者たちを決して失望させません!」

 そのインタビューの後、レオナルドは自分の生涯の使命――アヴァターのメッセージを自分の地で伝えること――を確信したのでした。

 1982年3月にプラシャーンティ ニラヤムを発つ前、レオナルドは9月に戻ってきてバガヴァンのダルシャンを受けたいという強い思いが心に湧き上がるのを感じました。けれど、自分の経済的状況がそれを許さないことは分かっていました。それでもレオナルドは、ババに願いをかなえてくださいと祈り、ブエノスアイレスに戻ったのでした。アルゼンチンの帰依者のグループは、少人数でしたが、とても献身的で強い意志を持っていました。彼らは国中を、時には国外までも出かけて回り、地上に神聖なる神なる主がおわすという素晴らしいニュースを広めて回りました。レオナルドは、どこであろうと、誰に対してであろうと、あらゆる機会にババの話をしました。

 1982年の7月、仕事でエクアドルに行った時のことです。レオナルドはキト〔首都〕にあるハタ ヨーガのグループに話をする機会がありました。その会合の終わりに、その国でも有名な、とても影響力のある大企業家で、エクアドルの元外交官だった人から、翌日のランチに自宅へ招待されました。ランチの間、会話はババの超自然的な癒しのパワーの話へと流れていきました。会話の最後に、その企業家は彼にこう尋ねてきました。

 「この9月に私と一緒にインドへババに会いに行ってもらえませんか? あなたさえよければ、旅行の手配はすべて私がします!」

 

 レオナルドは大喜びでそれに同意し、バガヴァンに願いをかなえてもらったことを感謝しました。二人は9月の第一週にプラシャーンティ ニラヤムにやって来ました。道中、レオナルドはその友人の旅行の目的を知ることになりました。彼は霊性の求道者ではありませんでした。彼は自分の口蓋(こうがい)がんを治してほしいとババにお願いしたかったのです。彼はアメリカで外科手術を受けていましたが、それは救いとはなりませんでした。レオナルドはババに彼の友人にお慈悲をお与えくださいと祈りました。

 9日目の午後のバジャン中、二人がマンディルの建物の中に座っていた時、奇妙なことが起こりました。その企業家が、手が付けられないほど動揺してむせび泣きはじめたのです。レオナルドは彼をなだめようとしましたが、慰めようがありませんでした。しばらくすると、企業家は叫び声を上げました。「ババはなんて親切なんだ! 彼は私のがんを治してくれた!」

 

 レオナルドはあっけにとられていました。彼はその友人に尋ねました。

 「どういう意味ですか? いつババはあなたに話しかけたのですか?」

 「数分前にババが私のところへやって来られたのを見なかったのかい?」

と企業家は尋ねました。

 「どうしてそんなことが? ババはまだ出てきておられませんよ!」

 「ババが私のところへ来られて、私の目の前に立って私に口を開けるようにと言ったんだよ。それから私の口の中に手を入れて、何かを引っぱり出したんだ。そして、『あなたは治りました!』と言ったんだ。私は自分は間違いなく治ったと思う!」

 

 友人の信じられないような体験を聞いて、レオナルドは何と言っていいのか分かりませんでした。二人はその翌日プラシャーンティ ニラヤムを発ち、エクアドルへと戻りました。主治医であるキトのがんの専門医が検査を行いましたが、がんの痕跡は何も残っていないことが確認されました! 言うまでもなく、その企業家はバガヴァンの揺るぎない帰依者となりました。彼は自身の体験を書き記し、小冊子にして一万部をエクアドル中で配ったのでした。

 10年後、レオナルド・P・ガター氏は、ラテン アメリカでのサイの活動の重要なリーダーとなりました。

ババnの囁き
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レオナルド・P・ガター氏を祝福するバガヴァン

​第 35 

第35回

 フィリップ マシュー プラサード氏は、ケーララ州のパールガートという町の非常に信仰の篤い家庭に生まれました。その町の調和に満ちた環境で育ったフィリップの若いころは、すべての宗教に共通の根源である霊的かつ道徳的な価値への理解において際立っていました。しかし、15歳の時、カレッジで学業を修めるためにトリヴァンドラム市〔州都〕へ移ると、彼の物の見方は突如として変わってしまいました。マルクス主義思想の強い風〔ケーララ州はインド共産党マルクス主義派が政権をとっている〕に煽られて足元から揺るがされた彼は、極端な無神論者となってしまいました。

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 17歳になるまでにマルクス主義の学生運動のリーダーとなり、18歳でマルクス主義の政党の党員となりました。彼は21歳の時に学業を捨て、ナクサライト運動〔極左の急進的な共産主義運動〕に参加しました。そして、1968年にカルカッタで創設された全国ナクサライト委員会の創設者の一人となりました。ほどなく、警察との武力衝突の渦に巻き込まれたり、ケーララ州の丘陵地帯の部族のために働く一方で地主から土地を略奪したりするようになりました。そして、一年もしないうちに投獄されました。

 1973年、カリカット〔ケーララ州の港湾都市〕の管区刑務所の独房に入れられたフィリップの精神は混乱状態にありました。彼は人生における根源的な問題について深く考えるようになりました。魂の霊的な飢餓感がさまざまな形で顔を出し、昼となく夜となく彼に付きまといました。彼は自分が選んだイデオロギーと道に幻滅していました。人生で最悪の暗黒の危機が立ちはだかってきた時、彼が子供のころに祈りを捧げていた神は、彼を見捨てませんでした。その地域のサティヤ サイ オーガニゼーションが、彼の独房を出てすぐの刑務所内の場所でバジャン〔神への讃歌〕を催しました。けれど、霊的なものすべてに対する否定的な考えによって心(マインド)が完全に混乱していたために、一時間に及ぶバジャンの間、彼はいらだち、立腹していました。バジャンの最後にボランティアの一人が独房にやって来て、鉄格子の隙間からプラサード〔神に供えた果報として神の恩寵が注がれた供物〕のオレンジを優しく彼に手渡しました。フィリップは激怒し、それをくれた人にそのオレンジを投げ返しました。その弾丸はボランティアの後頭部に当たり、その人は振り返ってフィリップを見ました。その人の目には怒りも恐れもありませんでした。その人はただ立ち去りました。フィリップはその出来事を思い返して深く考えるようになりました。その出来事は彼のハートの中に強い道徳的ジレンマを引き起こしたのです。

 

 ある夜のこと、突き刺すような苦悩に耐えられなくなって、彼はどうしようもないほどに泣き崩れました。とうとう、祈りたいという耐え難い欲求が爆発しました。彼は「主の祈り」――イエスが弟子たちに教えたとされるもの――を祈りました。それは子供の時に母親から教わったものでした。彼は願いをたった一つ請いました。それは眠りたいという願いでした。その願いはすぐに聞き届けられました。後悔の涙で濡れたシーツの上で、彼は静かに、夢を見ることもない甘美な眠りへと落ちていきました。

 その夜再び授かった信仰心が、彼の人生を完全に変えました。それから4年間、彼は刑務所での日々を、祈り、ナーマスマラナ〔唱名〕、黙想、そして、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、仏教の経典を学ぶことに費やしました。彼はバガヴァッドギーターのメッセージを深く探求し、永続するインド文化と多宗教のエートスの現代的なシナリオにおけるマルクス主義の哲学思想との統合を探っていきました。何年も経ってから、この探究は、近代インドにおける宗教間の調和の救世主として光を放つ、シルディ サイ ババの教えへと彼を導きました。彼のハートに、シルディ ババの慈愛に満ちた姿への親近感が自然と湧き上がってきました。

 ついに刑務所を出たフィリップは、弁護士の職に就き、政治活動家として、そして、ソーシャル ワーカーとして、虐げられた大衆を向上させる仕事に身を捧げました。彼は、スワミ アーナンダ ティールタという、大衆の擁護者であり、シュリー ナーラーヤナ グル〔1856-1928〕から直接教えを受けた最後の門弟であったサンニャースィン〔出家行者〕と接触を持つようになりました。重病を患っていたアーナンダ ティールタは、フィリップと共に過ごしていたある日、グルの生まれ故郷であるチェムパザンティに連れて行ってほしいと思いました。そこはトリヴァンドラムから数マイル離れた所にありました。アーナンダ ティールタはひどく弱っており、2、3歩歩くことさえできませんでした。ところが、車でその地に着くやいなや、沸々と活力がわいてきて、信愛の涙を流しながら嬉々としてマンディル〔お寺〕を歩いて巡礼したのです。フィリップはその姿を見て衝撃を受けました。

 フィリップはその日、グル バクティ〔導師への信愛〕の力というものを理解しました。彼のハートは真のグルを見つけたいという思いに焦がれました。アーナンダ ティールタはプラシャーンティ ニラヤムを2度訪れたことがあり、ババに大いなる畏敬の念を抱いていました。ババに対する敬意に満ちた彼の言葉は、フィリップに深い衝撃を与えました。さらに、ハワード マーフェットの『奇跡が生まれる』という本によって、彼の心の準備は整いました。

 1984年のクリスマス直後に、奇跡的な方法で神からの招集がかかりました。その2日前、彼は、弁護士が着用することになっている上着と訴訟案件の書類を入れた箱を父親の家に置き忘れ、彼の父はそれを12月26日の午後6時に彼のところに持っていきました。箱を開けると、何か金属がぶつかる音がしました。フィリップは指輪が1つ入っているのを見つけました。その指輪にはシルディ サイ ババの顔が彫られていました。それは彼の指にぴったりでした!

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フィリップの言葉です。

 「その指輪を見ただけで、私は恍惚とした気持ちに満たされました。その至福は3日間、私の全身に染み渡っていました。神はもはや知性の命題ではなくなっていました。神は即座に生きた現実となったのです」

 

 けれど、フィリップの懐疑的な心(マインド/頭)は、その3日間の後、彼がそこに安住することを許しませんでした。彼は言います。

 

 「私は、その指輪は誰かあまりに熱狂的な帰依者がババのメッセージを広めたいという必死な思いから箱の中に入れたものかもしれない、という疑念を引きずっていました。私はそういった品物が売られているようなトリヴァンドラムの店を歩き回り、同じような指輪を探しました。ですが、無駄に終わりました。情けないことに、ではなく、幸いなことに、です」

 すぐに彼はプラシャーンティ ニラヤムへ行き、師のダルシャンを受けました。しかし、彼のハートにあった罪の意識という重荷と、他人からの疑いの眼差しが、彼の平安と幸福をさまたげました。最終的に、彼は1985年のオーナム祭の時、主によって罪悪感という渦の中から救い出されました。師との初めてのインタビューは、彼の人生における決定的な瞬間でした。フィリップは純粋な喜びと共に思い返します。

 「スワミは、私に干渉することなく、ありのままの私――錠前も、中に詰まっているものも、何もかも――を受け入れてくれました。無条件に受け入れられたことによって、私は至福に満たされました。45分間続いたインタビューの中で、スワミは17回こう繰り返しました。

『あなたの良心を罪悪感で汚してはいけません!』

 

 スワミは、まるで私がたった一人の友人であるかのように、そして、この全宇宙で彼の友情に値する価値のあるたった一人の者であるかのように、私を扱ってくれました。私はどれほど誇らしく、自信を持てたことでしょう! 今まで誰もそんなふうに私を受け入れてくれた人はいませんでした。私の母親ですら。

 “世界”は私を変えたがり、そして、ただ私を受け入れました。“世界”、すなわちスワミは、ありのままの私を包み込んでくれました。そのように受け入れられたことで、涙がごうごうと止めどなく流れ出て、私の服もスワミのローブもぐっしょりと濡れてしまいました。スワミは私の涙をご自分のハンカチで拭い、ヴィブーティを物質化し、私の口の中に入れてくださいました」

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 ババはフィリップのためにエメラルドの指輪を物質化しました。それを贈りながら、バガヴァンはすでにフィリップの手に飾られていた指輪に目を向けて、目をキラキラさせながら尋ねました。

 

 「その指輪は店で手に入るものですか?」

 フィリップは、ババは自分の疑り深い性格をからかっているのだと理解しました。彼の家族全員に物質化の贈り物がありました。3歳の息子には真珠で飾られた金の十字架、娘には片面にババの写真、もう片面にキリストの肖像が描かれたロケット〔ペンダント〕、奥さんにはシルディ ババの顔が彫られたロケットで、「私がここにいるのに何を恐れるのか!」と刻まれていました。

 言うまでもなく、フィリップはケーララ州におけるサイ アヴァターの強力なメッセンジャーとなりました。演説の才能、文才、そして公共の福祉への情熱によって、彼は使命を果たしました。カリカットへ旅行した時のことです。自分の人生における真のターニングポイントは、師との最初のインタビューではなく、師の謙虚な召し使いだった人にオレンジを弾丸のように投げ返した時だったと、彼は悟りました。フィリップはその時のことを次のように語っています。

 

 「以前、私はカリカットのサティヤ サイ オーガニゼーションに招かれて、市の公会堂のぎっしりと詰まった聴衆の前でバガヴァン ババについてスピーチをするようにと依頼されたことがありました。話を進めていくうちに、不本意ながらも刑務所で囚われの身でいた際に、初めてサイ バジャンに接した時のこと、その時の私の怒りに満ちた反応について話をしました。私のスピーチが終わると、一人の老人がやって来て、近くにある自宅にどうしても来てほしいと言いました。彼の名前はシュリー シャンカラ アイヤルといい、花の卸売を営んでおり、何十年も前にババの帰依者となったということでした。彼の家で一杯のコーヒーが出され、私がそれを飲み終えると、彼は泣き崩れ、この話を語り始めました。

 シャンカラ アイヤルは、刑務所で私のオレンジの弾丸を投げつけられたボランティアその人だったのです。彼にオレンジが当たった時、彼は独房の中の怒れる若者に――私のことですが――お慈悲をと思わずにいられませんでした。彼はバガヴァンに祈りました。

 『スワミ、あなたのお慈悲をこの青年に注いでください。そして彼が幸せになれるように変容させてください。どうか、いつの日か、あなたの恩寵で、私の家で彼に一杯のコーヒーを入れてあげられますように!』

 スワミはシャンカラ アイヤルの祈りを聞き入れて、私を救いに来られたのです。そのころでした。私の人生が急展開し始め、神への信仰を取り戻したのは。彼が私にオレンジの弾丸を投げつけられた独房で、私はスワミによって振られた旗の下、長旅に終わりを告げたのです。シャンカラ アイヤルは私の旅の駅長だったのです!」

​第 34 

第34回

 サーングリーとコーラープル〔いずれもマハーラーシュトラ州の都市〕の法科大学で教えていたアブドゥル ラザーク バーブーラーオ コルブ教授は、人気のある法律教師として名声を博していました。1981年2月、彼は、プラシャーンティ ニラヤムにあるバガヴァン ババの新しい大学が14の学科で客員教授を必要としていることを知り、大喜びしました。彼はこの4年間、ババのアシュラムをよく訪れていました。けれど、ババはまったくコルブに話しかけることはありませんでした。

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 実のところ、バガヴァンは一度だけコルブを見てくれたことがありましたが、それは1977年にまで遡ります。コルブの心を永遠に捉えるにはそれで十分でした。コルブいわく、「私はババを一目見て恋に落ち、夢中になってしまった」のです。彼は、スラム暮らしのわんぱく小僧から尊敬される教授へと人生を駆け上る手助けをしてくれたのはババだった、と確信しました。

 今や、ババの教育の分野での使命に携わってババにお仕えするチャンスが目の前に開かれ、コルブはそれに飛びつきました。彼はコーラープル法科大学での教職を辞し、シュリ サティヤ サイ高等教育機関〔通称サイ大学〕の商法の客員教授職への願書を送りました。1981年3月にプッタパルティを訪れた時に学部事務所で聞いたところによると、サナータナ サーラティ誌に掲載された求人広告の14の職務に対して、著名な教授たちの応募が世界中から何千通も寄せられたということでした。コルブは、サイ大学で教えるという望みをすっかり失って、意気消沈してサーングリーへ帰ってきました。

 1981年4月の第2週に、コルブはプラシャーンティ ニラヤムから採用通知を受け取りました! 彼は事務所の椅子から立ち上がって、まっすぐに自分の寝室に行き、ドアに鍵をかけると、ベッドの上に座って子供のように泣きました。どのくらいそうしていたかも分かりませんでした。彼は、そのまたとない機会をバガヴァンに感謝しました。一度の面接さえなかったのに、どうして自分は選ばれたのかと不思議に思いました。その答えは、二日後にプラシャーンティ ニラヤムで副学長のV.K.ゴーカク博士に会った時に知らされました。

ゴーカク博士はこう説明しました。

 「それ自体、面白い話なのです。コルブ教授、一体どうやって何千人という応募者を面接することなどできたでしょうか? 私たちは選考に関してご指示をいただけるようスワミに祈りました。スワミは、折を見て事務所へ来られ、必要なことをしますとおっしゃいました。スワミは、封筒を開けたり応募者を呼んだりする必要はありませんとおっしゃいました。ある日の朝のことでした。ダルシャン後、スワミは事務所へとやって来られ、私はスワミの言うとおりにしました。

床の上に願書を全部広げるようにとスワミがおっしゃったので、私たちはそうしました。スワミは書類の山から14秒で14の封筒を拾い上げ、私たちに向かって『この人たちが選ばれました!』と言って、出ていかれました。私たちが封筒を開けると、14の学科に対してちょうどそれぞれ1名の願書が入っていたのです! その選ばれた応募者の中に、商法科に応募したあなたの名前がありました。今や、スワミの奇跡は私たちにとって日常となってしまいました。もし何か疑問に思われるなら教務係に会ってもよいですよ。その14通以外の封筒は一通も封を切られていません」

 

 コルブは自分を選んだババのやり方に示された恩寵に、何と言っていいか分からないほど感激しました。それに関して教務係と話す必要があるとは思えませんでした。彼はコーラープルへ出立しました。コルブが客員教授としてプラシャーンティ ニラヤムを初めて訪れたのは1981年6月のことでした。

 客員教授として奉仕を始めた最初の一年間、ババはコルブに一言も話しかけませんでした。ある夕暮れ、ダルシャンの時に、ババがまっすぐに彼のところへ歩いてきました。コルブは目に涙を浮かべながらババの御足に触れました。ババは彼に、「お元気ですか? 先生」と尋ねました。「元気です。ババ! 今・・・」コルブが言い終える前に、バガヴァンがふいに言葉を差し挟みました。「分かっています、後で会いましょう」コルブはとても嬉しくなりました。彼の幸福にさらに付け加えるように、副学長が翌日こう言いました。「スワミはあなたをとても愛しておられます。あなたの学生たちがあなたのことを、とてもよく教えてくれると言っているのです」

 

 その日曜の夕方、帰依者たちにダルシャンを授けた後、バガヴァンはマンディルのベランダにいたコルブのところに歩いていくと、こう尋ねました。

 「あなたのファーストネームは何ですか? 先生」

 「アブドゥル ラザークです。スワミ」

 「アブドゥルの意味は何ですか?」

 「帰依者という意味です、ババ」

 「ラザークの意味は何ですか?」

コルブは口ごもるしかありませんでした。ババが自ら言いました。

 「ラザークはアッラー〔アッラーフ/イスラム教の神〕という意味です。アッラーの意味は何ですか?」

 「神です、ババ」

 「それだけでは正しいとは言えません。アッラーは“至高”あるいは“すべてを超越したもの”という意味です。それは、パラマ イーシュワラ、すなわち、パラメーシュワラの意味でもあります。そこには何の違いもありません。アッラーとパラメーシュワラは一つです。神は自らをこのヴィシュワ〔一切/全宇宙〕として顕したのです」

14通の奇跡
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 コルブの頭は喜びで真っ白になりました。それから、ババは彼をインタビュールームへと呼び入れました。自分の守護神と初めて二人っきりになり、コルブは泣き崩れました。バガヴァンは早速、彼との親密な関係を築いて言いました。

 「楽に座りなさい。そして、泣くのはやめなさい。私がここにいるのに、なぜ恐れるのですか! あなたはアブドゥル――私のアブドゥル、そして、私はあなたのラザークです。あなたにはそれがよく分かっていますね」

 ババから与えられた2度目のインタビューはその翌日で、それはコルブの人生の節目となりました。コルブが詳しく語っています。

 

 「ババは私といっしょに9人の外国人をインタビュールームにお呼びになりました。そこでいくつか霊的な話題について語られた後、彼は私だけさらに奥の部屋にお呼びになりました。ババはおっしゃいました。

 『あなたが私のことを信じているのは分かっています。ですがあなたは、私の物質を創造する力は信じていません。そうではありませんか?』

 

 その問いかけに私は唖然としました。過去5年ずっと私の心の中に隠していた疑念を、ババは明らかにしたのです。ババご自身がその話題を取り上げられたことで、私は嬉しくなりました。私は『お許しください、ババ。あなたが言われたことは本当です』と言いました。

 

 ババはとても優しくおっしゃいました。

 『あなたが私の物質化する力を信じていないのは、嘘偽りのない気持ちです。私はあなたの率直さが好きですし、あなたを愛しています。あなたがどんなことでもあたり前だと決めてかからないのは良いことです。さあ、どんな物でも私に願ってごらんなさい、今ここでそれをあなたにあげましょう! ゆっくり考えて、あなたが望む物を、どんな物でもいいから言ってごらんなさい』

 しばらく考えた後、ババの帰依者にイスラム教徒があまりいないことがわかったので、こうお願いすることに決めました。

 『ババ、どうか、その中にこの全宇宙が入っている物、しかも私の宗教のシンボルが刻まれている物をいただきたいです!』

 

 ババは優しく微笑んで、おっしゃいました。

 『アブドゥル、あなたは私に不可能な要求をしたと思っていますか?』

 

 私は黙ってじっとババを見つめていました。

 ババはご自分の手のひらを見せながら、こうおっしゃいました。

 『私の手のひらをご覧なさい。何か見えますか? 手のひらにも甲にも何もありません。それはあなた自身で確かめられますね』

 ババは上に向けていた手のひらを下に返しました。ローブの袖は肘の上までまくられていました。私はあえてババの手に触れようとはしませんでした。けれど、ババは私の手を無理やりつかんで、ババの手のひらと手の甲に持っていきました。それから、ババは言いました。

 『アブドゥル、しばらく私の手のひらの真ん中を見ていなさい』

 私がじっとババの手の平を見ていると、数秒のうちに手のひらの真ん中の皮膚が開いて、そこから丸い大きな物が出てくるのが見えました。すぐに皮膚は元どおりになり、そこには輝く指輪があって、それが床に落ちました。

 

 ババは私におっしゃいました。

 『それを拾って、よく注意して見てみなさい。それから、それを私に手渡しなさい』

 

 私はそれをよくよく注意して調べました。金に三日月と星が刻まれていました。私はそれをババの手のひらの上に戻して置いて、『ババ、私にはこの指輪について何も理解できません。どうか説明してください』と尋ねました。

 

 ババは笑っておっしゃいました。

 『あなたはムスリム〔イスラム教徒〕として生まれただけで、イスラムについては何も知りませんね!』

 

 それは本当でした。私は自分の宗教のことをあまり知らなかったのです。しかも、私は実は宗教的な人間でもありませんでした。ババは説明してくださいました。

 『私はこの金の指輪をナヴァラトナ〔九つの宝石:ルビー・真珠・赤珊瑚・エメラルド・イエローサファイヤ・ダイヤモンド・ブルーサファイヤ・ヘソナイト・猫目石〕が埋め込まれたアシュタコーナ〔八角形〕のものにしました。どちらも宇宙を表しています。ナヴァラトナの中央に、イスラムのシンボルである三日月と星を緑色のエメラルドで配しました。これらの緑の石もあなたの宗教を表しています。さあ、この指輪をあなたの左手の薬指にはめてあげましょう。というのも、あなたの右手の指は傷ついていますから』

 

 私は驚いて、傷ついている右手の指を見ました。ババはその重くてきらきら光る指輪を私の指にそっとはめてくれました。ぴったりでした。外の部屋に戻ると、ババはそこで待っていた外国人たちに、その指輪のことや、私が信じていなかったことを語り、それから、『彼はnaughty-knottyな帰依者です!』とたしなめました。〔naughty(ノーティ)は“言うことを聞かない、手に負えない”、knotty(ノッティ)はババがおそらくknot(ノット/結び目)という語から作った造語で、“入り組んでいて複雑な”といった意味だと思われる〕

 

 私は知らなかったのですが、マンディルから出た後、その指輪を見たアメリカ人のイスラム教徒の帰依者が言うことには、ババは緑のエメラルドの石の真ん中に ‘アッラー’とアラビア語で刻んでおられたのでした!」

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