SRI SATHYA SAI RAM NEWS
サイの御教え
SRI SATHYA SAI RAM NEWS
母の恩寵の重要性
1999年女性の日のババの講話
ジャスミンやキンコウボクのような
甘い香りの花よりもかぐわしく
チーズやバターよりも柔らかく
孔雀(くじゃく)の瞳よりも美しく
月光よりも快いもの
それは母の愛
(テルグ語の詩)
愛の化身たちよ! 動けるものと動けないものが存在するこの世界は、シヴァの宇宙の舞(シヴァ ターンダヴァ)にほかなりません。この至福あふれるシヴァ ターンダヴァは、畏敬の念を起こさせ、驚きに満ち、人間の理解を超えています。昼と夜、喜びと苦痛、生と死という二元性には終わりがありません。誕生と死が自然なことであるのと同じように、ダルマとアダルマ(正義と非正義)の存在も自然なことです。ダルマが隆盛になればアダルマは衰退し、アダルマが隆盛になればダルマは衰退します。男性も女性も、このダルマとアダルマの隆盛と衰退の責任を負っています。人間は、内なる神性に気づくことができず、神と自分は違うものであると錯覚しています。
シヴァ シャクティの原理
スマティーは、夫の命を救うために太陽が昇るのを止めさせることさえできました。サーヴィトリーは、死んだ夫をよみがえらせることさえできました。彼女たちはその力をどこから得たのでしょうか? それは、彼女たちの信愛と純潔の力です。信愛と熱意を持って神を礼拝するとき、神の性質であるサッティヤム・シヴァム・スンダラム(真・善・美)がその人の中に姿を顕わします。このまぶしく輝く神の力は、人の中に潜在しています。カムサが自分の妹デーヴァキーを殺そうとした時、夫のヴァスデーヴァが間に入ってデーヴァキーの命を救いました。それはヴァスデーヴァが生来持っていた神の力によって可能となりました。神の力を得るには、なんら特別な努力をする必要はありません。神の力はあなたの中にあります。神の力は、あなたが我を忘れて神を憶念したとき、初めて顕れます。
人間は、自分が持っている神の性質を忘れて、神は自分とは別のものだと思い、神を得ようとさまざまな霊性修行をします。人々は、ラーマ、クリシュナ、イエス、アッラーといった異なる御名で神を崇めます。しかし、ただ一つの根源的な力が存在するのみであり、それはシヴァ シャクティという形にほかなりません。シヴァ シャクティの原理はすべてに浸透しています。この世界は、バヴァーニー シャンカラ〔命を与える者という意味のパールヴァティー女神の別名と、至福を与える者という意味のシヴァ神の別名〕という、非常に意味深い名前を持っています。バヴァーニーはシュラッダー〔シラッダー〕(揺るぎない信愛)を、シャンカラはヴィシュワーサ〔ヴィッシヴァーサ〕(信念)を意味します。それはつまり、世界はシュラッダー(揺るぎない信愛)とヴィシュワーサ(信念)という二つの原理に基づいているということを意味しています。バヴァーニーとシャンカラは不可分で、相互に依存しており、すべてに浸透しています。ですから、全世界はアルダナリーシュワラ〔半身がパールヴァティーで半身がシャンカラという両性具有の神〕の姿なのです。このことに基づいて、「シュリーマティー」〔シュリーマト〕と「シュリー」〔シュリ〕という語が、女性、男性のそれぞれの呼びかけに使われているのです。「シュリーマティー」はバヴァーニーを現しており、「シュリー」はシャンカラを象徴しています。あなたの崇める御名と御姿がどのようなものであろうとも、確固たる信愛と信仰心を持つことが必要です。この二つがなければ、あなたは人生において何事も成し遂げることはできません。
シラッダーヴァム ラバテー グニャーナム〔ニャーナム〕
(揺るぎない信愛を持っている者だけが英知を得る)
信念を通してのみ、人は内なる神性を認識することができます。人の内にある神性は、バヴァーニーとシャンカラの結合体です。
神はあなたがしているすべてのことの目撃者
全世界は、イッチャ シャクティ(意志の力)、クリヤー シャクティ(行動の力)、グニャーナ シャクティ(英知の力)の結合体です。イッチャ シャクティ(意志の力)は心(マインド)と関連しており、クリヤー シャクティ(行動の力)は身体、グニャーナ シャクティ(英知の力)はアートマ〔真我〕と関連しています。これが、あなたは一人の人間ではなく三人の人間であると言われる理由です。一人は、あなたが自分だと思っているあなた(身体)、もう一人は、他人があなただと思っているあなた(心体)、そしてもう一人が、本当のあなた(アートマ原理)です。あなたは本質的には神なのですが、そのことを理解することができずにいるのです。ヴェーダは宣言しています。
サルヴァタッ パーニパーダム タット
サルヴァトークシ シロームカム
サルヴァタッ シルティマルローケー
サルヴァマーヴルッティヤ ティシタティ
(その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している)
神は、あなたがしているすべてのことの目撃者です。あなたは誰かをだますことができるかもしれませんが、神はだませません。なぜなら、神は常にあなたの中にいて、あなたと共にいるからです。
バヴァーニー シャンカラの恩寵がなければ、あなたの努力はすべて無駄になるでしょう。名と姿が重要ではないのは、名と姿は変化するものだからです。身体は水の泡のようなものであり、心(マインド)は狂った猿のようなものです。これらを信頼することはできません。しかし、これらの内には、真実で永遠のものが存在しています。それは神性です。この隠れた神性を顕現させるためには信愛を養う必要があり、それによってあなたの信念は強まります。木は、根が深く伸びれば伸びるほど大きく強くなります。それと同様に、信念は、信愛が深まれば深まるほど強くなります。もしあなたに信念と信愛が欠けていたら、どんな御名も御姿も決してあなたを助けないでしょう。
どの人の内にも無限の神の力が潜んでいます。もし、あなたがそれを顕わすことができれば、スマティーがしたように太陽が昇るのを止めることも、サーヴィトリーが証明したように死者をよみがえらせることもできるのです。神の力を顕現させた時、あなたは神になります。
神はあなたが得るに値するものは何でも与える
アートマは遍在です。アートマを経験するためには、確固たる信愛と信念を持っている必要があります。今日、人々は、ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ(世界のすべての人が幸せでありますように!)と祈ります。それは、シュラッダー(揺るぎない信愛)とヴィシュワーサ(信念)が育まれたとき、初めて可能となります。喜びや悲しみは流れゆく雲のようなものです。それらは来ては去っていきます。道徳心は、芽生えると育ちます。ですから、道徳心を養いなさい。富や地位や権力を熱望してはなりません。神は、あなたが得るに値するものは何でも与えます。神への愛を育てなさい。それは最高のサーダナ〔霊性修行〕です。
今日、人々は神に到達するためにさまざまな霊性修行をします。しかし、そのすべては精神的な満足をもたらすだけです。ナーラダ仙は、九つの信愛の道を広めました。それは、シュラヴァナム(聴くこと)、キールタナム(歌うこと)、ヴィシュヌ スマラナム(神を憶念すること)、パーダセーヴァナム(蓮華の御足に奉仕すること)、ヴァンダナム(崇敬すること)、アルチャナム(礼拝すること)、ダースヤム(神の召し使いとして奉仕すること)、スネーハム(友情を持つこと)、アートマ ニヴェーダナム(神我への全託)という道です。これらの修行が永続する喜びを授けることはできません。宇宙は神の御姿そのものである(ヴィシュワム ヴィシュヌスワルーパム)という揺るぎない信念を持ちなさい。ヴィシュヌ〔神〕は起因であり、ヴィシュワ〔宇宙〕は結果です。この二つは切り離すことのできないものです。
ヴェーダは宣言しています。「アチャラム チャラメーヴァチャ」(神は不動でありながら明らかに動いている)と。実例を挙げましょう。夢を見ている状態で、あなたはさまざまな場所を訪れ、幸福や悲しみを経験します。しかし、実際には、あなたの身体はベッドに横たわったまま――不動の状態です。
ですから、あなたがこの世で見たり経験したりするものはすべて、夢でしかありません。アートマ〔真我〕だけが真実であり永遠です。アートマはスティラム(永遠のもの)であり、この世はチャラム(変化するもの)です。人生は、このスティラム(永遠のもの)とチャラム(変化するもの)の組み合わせです。
ジャントゥーナーム ナラジャンマ ドゥルラバム
(人間として生まれることは、すべての生き物の中で最も稀有(けう)なもの)
すべての生き物が人間として生まれ得るという幸運にあずかれるわけではありません。すべての生き物が人間としての生を得るほど幸運なわけではありません。
すべての人間が神を体験するわけでもありません。神に到達するために偶像崇拝といった霊性修行をする人たちもいます。人は徐々に内面へと自分の目を向けていき、自分とアートマは一つだということを体験すべきです。
アートマの終わりなき至福を体験しなさい
あなたがどれほど神を愛しているかは、それほど重要なことではありません。重要なのは、神がどれほどあなたを愛しているかということです。神は、サット・チット・アーナンダの化身です。サットは永遠のものを意味します。チットは完全なる意識です。水と砂糖が混ざるとシロップ〔砂糖水〕になります。同様に、サットとチットが結合するとアーナンダ(至福)が生じます。世俗の喜びから経験するアーナンダ(至福)は一時的なものです。
目を内面に向けてアートマを体験したときにのみ、あなたは真実と尽きることのない至福を得ます。アートマは、姿形はありませんが、至福で満ちています。
愛の化身たちよ! アートマの終わりなき至福を体験すべきです。
生まれた時、
人の首にはどんな貴重な宝石の
首飾りも掛かっていない
しかし、重たい首飾りが必ず掛かっている
それは、善果であれ悪果であれ、
過去の行いの果報をつないで作った
首飾りなのだ
(テルグ語の詩)
母を神として崇敬しなさい
ヴェーダは宣言しています。
マートゥル デーヴォー バヴァ
ピトゥル デーヴォー バヴァ
母を神として崇敬しなさい
父を神として崇敬しなさい
かつて、ヴィシュワ・ヒンドゥー・パリシャド〔VHPと呼ばれる過激派のヒンドゥー教グループ〕の書記長、アショク・シンガルが私のもとにやって来て嘆願しました。「どうかラーマの生誕地を教えてください。それがわかれば、そこに寺院を建設することができます」。私は、「ラーマの真の生誕地はカウサリヤー妃の胎内です」と答えました。庶民であれ、神の化身であれ、母親の胎内がすべての人の生まれた場所です。ですから、母を神として崇敬しなさい。母の名を守り、母を敬いなさい。
今日は11月19日です。この日は、あなた方に母の重要性を思い出させるために、女性の日として祝われています。あなたは母の望みに応じて行動しなければなりません。母に背いてはなりません。クリシュナ神の大いなる帰依者であったチャイタニヤは、結婚を望んでいませんでしたが、母親のたっての願いに従ってラクシュミーという娘と結婚しました。しかし、不運にも、ラクシュミーは結婚後まもなく死んでしまいました。チャイタニヤの母、サッティデーヴィーは、息子の思いに反して結婚させたことをたいそう悲しみました。チャイタニヤは母にこう告げました。「これは良心の命じることに背いた結果です」。ですから、自分のしていることが正しいと感じるなら、母親を説得するように努めなさい。ただし、決して母親の感情を傷つけてはなりません。
あなた方は、女性は体も心も弱いものであるという間違った見解を持っているかもしれません。しかし、実際には女性は男性よりも強いのです。叙事詩『マハーバーラタ』〔ジャイミニ仙版〕に、アルジュナとの結婚を望んだ女王プラミーラー〔女性の王国の王女〕の物語があります。アルジュナは彼女との結婚を望んではいませんでした。プラミーラーは、アルジュナを捕らえるために最高司令官のマラヤーヴァティーを送りました。マラヤーヴァティーはアルジュナと激しく戦い、ついにアルジュナを捕まえてプラミーラーの前に連れていきました。プラミーラーはアルジュナに求婚しましたが、アルジュナは、たとえ命に代えても結婚はしないと断りました。プラミーラーはクリシュナ神の敬虔な信者で、アルジュナもそうでした。二人は熱烈に祈りました。宇宙劇の監督であるクリシュナ神には、自らの計画がありました。クリシュナ神はその場に現れ、プラミーラーとアルジュナをそばに呼び、二人の手をつながせて、マントラを唱え、おごそかに結婚式を執り行いました。
神はどんなことでもすることができる
神はどんなことでもすることができます。神は地を天に、天を地に変えることもできます。しかし、人間は神への信愛と信念に欠けています。人は世俗のことを信じ、霊性を信じません。バクティ(信愛)にまさるものはありません。「バクティ」の「バ」は「光沢」や「光輝」を意味し、「クティ」は「引き寄せる」という意味を持ちます。あなたは、バクティから身体と心(マインド)と霊〔アートマ、魂〕へのシャクティ(力)を得ます。バクティ(信愛)とシャクティ(力)によって、あなたは神へのラクティ(愛着)に浸り、世俗へのヴィラクティ(無執着)を培うことができます。すると、神はあなたにブクティ(食物)を与え、さらにムクティ(解脱)をも与えます。このようにして、人はバクティ(信愛)からムクティ(解脱)へと旅する必要があるのです。昨日、私が話したように、人生は「私」から「私たち」への旅です。聖地であるティルパティやヴァーラーナスィー〔ベナレス〕、ガヤーやプラヤーグへ行くために、あなたは大変苦労して長旅をするかもしれません。一方、「私」から「私たち」への旅は、あなたが自分を身体から引き離して真我への愛着を育む旅であるという意味において、非常に短い旅です。そのためには、母の恩寵が極めて重要です。
神は必要が生じればいつでもやって来る
アビマンニュがまだ母スバドラーの胎内にいた時、アルジュナは妻のスバドラーにたくさんの物語を話して聞かせていました。ある日、アルジュナは、パドマヴューハ(蓮の花の形をした軍陣)に入る際の複雑さと細かな点をスバドラーに説明していました。アルジュナがスバドラーにパドマヴューハから脱け出す方法を話す前に、宇宙劇の至高の監督である主クリシュナがその場にやって来ました。神は必要が生じればいつでもやって来て、適切に自分の役を演じます。
クリシュナはアルジュナに尋ねました。
「君は何という過ちを犯しているのだ! 君の言葉の一部始終を聞いているのは、スバドラーではなく、胎内にいる子供だ。子供にパドマヴューハについて教える必要性がどこにある?」
クリシュナは、アルジュナを連れて出ていきました。
後に、クルクシェートラの戦いで、アビマンニュがパドマヴューハの中で命を落としたのは、その軍陣から脱け出す方法を知らなかったからです。クリシュナは、なぜこのようなことをしたのでしょうか? それは、アビマンニュはヴィーナ スワルガ(英雄の天国)に到達しなければならなかったからです。実際、カウラヴァ兄弟がアビマンニュにパドマヴューハに入るように挑戦をしかけてきた時、アビマンニュは母スバドラーのもとへ赴き、母の許可と祝福を請い求めました。スバドラーは、アビマンニュが戦場に行かないよう最善の努力を尽くして説得しました。スバドラーは言いました。
「私の愛しい息子よ、パドマヴューハに入って、またそこから脱け出すのは、なまやさしいことではありません。それに、あなたの妻は身ごもっていますし、あなたの叔父上であるクリシュナと父上であるアルジュナは今ここにおりません。ですから、戦場に行くという考えはあきらめなさい」
しかし、アビマンニュは母の忠告に耳を貸しませんでした。アビマンニュは言いました。
「母上、私の生まれはクシャトリヤ(武人階級)です。クシャトリヤにとって、敵から突きつけられた挑戦に怖気づくほどの侮辱はありません。実に、母上は私を励まして、敵と闘って圧勝せよと勇気づけるべきなのです。戦(いくさ)に行く気持ちをくじかせるようなことをするのは、母上の役目としてふさわしくありません」
アビマンニュは、自分がしようとしていることは正しいということは分かっていましたが、母の愛を理解することはできませんでした。アビマンニュが命を落としたのは、母の願いに背いて戦場に行ったからです。
神の恩寵と人間の努力
母の愛よりも偉大なものはありません。母親の言葉は常に甘美です。時に厳しい言葉を使うこともあるでしょうが、それはただ、あなたを正すためであり、傷つける意図はありません。この世に邪悪な息子はいるかもしれませんが、邪悪な母は決して存在することはできません。女性の日が祝われているのは、母の愛の価値と、あなたへの母の思いをあなた方に理解させるためです。母親、父親、師、神の中で、最高位を与えられているのは母親です。現代の若者は母親を顧みません。若者は、自分はたいそう学があるけれど、母親は何も知らないと思っています。そのように考えるのは大きな間違いです。決して母を見下してはなりません。母親も、子供に自分の望みを強要してはなりません。母親は、愛と誠意を通じて子供を正しい道に置くべきです。母親は、わが子が善良になることを切望すべきであり、偉大になることを望む必要はありません。
ラーマは善良で、ラーヴァナは偉大でした。ラーマは自分が学んだことは何であれ実行し、それゆえに名声を得ました。一方、ラーヴァナは学んだことを何も実行せず、無知に浸っていました。その結果、ラーヴァナは良い評判を得ることができませんでした。良い評判を得るためには、罪への恐れと神への愛を持つ必要があります。神への愛と罪への恐れが欠如しているために、人間性が衰退しています。これが、今の世の中が不安定である原因です。
愛の化身たちよ! 神はガーナローラ〔歌を好む者〕でありガーナプリヤ〔歌を愛する者〕(歌に引き付けられる者)です。詩や祈りは、信愛を込めて歌われた歌ほどには神を引きつけません。皆さんはM・S・スッブラクシュミーの美しい歌を聞きましたね。彼女はガーナ コーキラ〔うぐいすのように甘く美しい歌声の人〕という称号を得ています。私は、まだとても若かった彼女がミーラーの役を演じたのを見たこともあります。
多くのアーティストがダンスで名声を博しています。ウダイ・シャンカール〔舞踊家。シタール奏者ラヴィ・シャンカールの兄〕は、そうした偉大なダンサーの一人でした。彼が踊っている時、足が床に着いているのを見ることがほとんどできなかったくらいです。彼の妻、義理の娘、そして弟子たちが、明日ダンスプログラムを上演するために、ここに来ています。こういった芸術は練習だけでマスターできるものではありません。神の恩寵も必要不可欠です。電流が流れるにはプラスとマイナスの両方が必要です。それと同じように、成功に至るまでには人間の努力と神の恩寵が共に必要なのです。
決して怒りとエゴに入り込む隙を与えてはならない
学生諸君! 青年男女の皆さん! 神はあなたの気持ちに一致した反応をします。ですから、ネガティブな思考を抱いてはなりません。たとえ孔雀の卵をニワトリが温めて卵がかえっても、その卵から出てくるのは孔雀だけです。ダイヤモンドは、肥溜めに落ちても価値と輝きを失うことはありません。それと同様に、善良な人は、どこにいても常に良い評価を得ます。エゴと憎悪と怒りは、人間の最悪の敵です。誰かを正しい方向に導くために、その人に多少の怒りを示すのはかまいませんが、決して誰をも憎んではなりません。怒りとエゴに付け入らせてはなりません。
私は自分が教えることのすべてを、手本で示しています。中には、スワミが自分に話しかけてくれないのは、スワミが自分を嫌いだから、あるいは自分を怒っているからだ、と感じている者がいます。それは単に彼らの想像であり、彼らに良心の呵責(かしゃく)があるからにほかなりません。私は誰をも憎みはしません。あなた方を正しい道に導くために、私は時に怒ったふりをすることがあるかもしれません。けれども、実際には、私は誰に対しても怒りや憎しみは持っていません。中には、そうすれば自分の望みをかなえてもらえるだろうと期待して、グラーマ セヴァ(村への奉仕)をする人たちがいます。私を喜ばすには、それで十分でしょうか? すべての欲望を手放して、あなたのハートを清めなさい。そうすれば、私はあなたに頼まれずとも、あなたに必要なものをすべて授けます。ネガティブな思考を手放さないで、どうしてポジティブな結果を期待できますか? あなたのハートをポジティブな思いで満たしなさい。ハートを愛で満たしなさい。その時、あなたのすべての思考と言葉と行いは、愛で満たされるでしょう。
万人はヴィシュワ マータの子供たち
愛の化身たちよ! 決してあなたの母の愛を忘れずに、どんな状況の下でも母を幸せにしなさい。あなたが母を幸せにするときにのみ、私はあなたに満足します。ウマー・バーラティーが指摘したように、すべては一つであることを理解するよう努力しなさい。もしあなたが他人と自分を別のものだと考える
なら、憎しみが入りこむ余地があるでしょう。私とあなたは一つであることを認識しなさい。身体は異なっていても、あなた方は同じ愛の原理で結びついているのです。あなたの母があなたを愛するように、あなたはすべての人を愛すべきです。すべての人はヴィシュワ マータ(万物の母)の子供です。すべての人は兄弟姉妹です。何であれ差別意識を持ってはなりません。太陽はどこの世界でも一つであり同じです。太陽は貯水池にも川にも海にも映るのと同じように、同じ神性がすべての人のハートに映っているのです。
エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
(真理は一つ、しかし、学者はそれを異なる名で呼ぶ)
自分はラーマだけが好きだとか、クリシュナだけ、シヴァだけ、サイ ババだけが好きだと言うのは正しくありません。一なる神がいるだけであり、神は遍在です。他の宗教を憎んではなりません。
ヒンドゥー教徒はより良いヒンドゥー教徒になるべきであり、クリスチャンはより良いクリスチャンに、イスラム教徒はより良いイスラム教徒になるべきです。愛がなければ、その人をイスラム教徒とも、ヒンドゥー教徒とも、キリスト教徒とも、シーク教徒とも呼ぶことはできません。実際、愛のない人は地
悪魔です。愛のない人だけが、宗教に基づく違いに余地を与えるのです。あなたがハートを愛で満たしたとき、初めてすべての宗教は一つであることがわかるでしょう。
バーラタの文化は、母親に最大の重要性を与えています。人は、自分の国を母国と呼びますが、父国とは呼びません。主ラーマは宣言しました。「ジャナニ ジャンマブーミシュチャ スワルガダピ ガリーヤスィ」(母と母国は天国よりも偉大である)と。国は母であり、文化は父です。決してあなたの国と文化を忘れてはなりません。古来、バーラタの文化は、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」(世界のすべての人が幸せでありますように!)という祈りと共に、平和と愛のメッセージを広めてきました。あなた方は、この神聖な文化を支えなければなりません。
どのような御名、どのような御姿の内に神を礼拝してもよいのです。しかし、神は一つ、ただ一つである、という真理を理解しなさい。
シュリ サティヤ サイ ババ述
1999年11月19日
プラシャーンティ ニラヤム
サイ クルワント ホールにて
Sathya Sai Speaks Vol.32 Part2
訳注1:スマティーの物語
ウグラシュラヴァスというバラモンの妻スマティーは、貞節の誉れ高い貞女だった。ウグラシュラヴァスは病気で足が不自由になり、出かけるときはいつもスマティーが背負っていくようになった。ある日、ウグラシュラヴァスは売春宿に行きたいと言い、夫に忠実なスマティーは何も言わずに夫を売春宿まで連れていこうとした。それを見ていたマーンダヴィヤ仙は、ウグラシュラヴァスの非道に怒り、「明日、朝日が昇ったら首が落ちるように」と呪いをかけた。スマティーは悲しんで、「私が真に貞女であるならば、明日の朝、太陽が昇りませんように」と祈願した。すると、翌朝になっても太陽は昇らなかった。神々も人間も困ってしまい、スマティーのもとに行って、夫の命を保証するから太陽を昇らせるようにと頼み、スマティーは太陽が昇るようにした。
訳注2:サーヴィトリーの物語
ヤマ(死神)がサーヴィトリーの夫サティヤーヴァンの命を取った時、サーヴィトリーは悲しみを募らせて、夫を生き返らせてほしいとヤマに懇願した。「夫を生き返らせるか、私の命を取るかしてください。私は夫なしでは生きられません。私たちは一つなのです」。夫の命を取った後、ヤマがその場を去ろうとすると、サーヴィトリーはヤマの行く手をふさいで、ヤマを行かせなかった。そのため、ヤマはサーヴィトリーの願いに耳を傾けるしかなかった。ヤマがサーヴィトリーに「どうして欲しい?」と尋ねると、サーヴィトリーは「私に夫を返してください。なぜなら私は夫なしでは生きていけないのです」と答えた。結局、ヤマはサーヴィトリーの願いに屈した。ヤマはサーヴィトリーの貞操と決意を喜んで、サティヤーヴァンをよみがえらせ、さらにはサーヴィトリーとサティヤーヴァンに数々の恩恵を授けた。
バーラタの栄光を
取り戻しなさい
65歳御降誕祭のババの講話
神聖アートマの化身である皆さん! 最も古い時代から、バーラタ人〔インド人〕は真理〔真実/サティヤ〕を神と見なし、真理を愛し、真理を促し、真理を保護し、そうすることによって神性を得ました。バーラタ人は真理に徹し、ダルマ(正義)と結び付き、社会における道徳を第一の義務として尊重しました。今、人々は、真理と正義を忘れているために、国家的な問題を解決することも、共同体の対立を終わらせることもできずにいます。私たちは、東にベンガル湾、西にアラビア海を持ち、その両方がインド洋で合流しています。それと同じように、バーラタ〔サンスクリット語でのインドの正式名称/神を愛する者、あるいはバラタの子孫といった意味がある/ヒンディー語ではバーラト〕は、世俗の繁栄と霊的進歩の結合を例示しています。バーラタは、ジーヴァ(個々の魂)とブラフマー(普遍の魂)の一体性が浸透している国です。
私たちが「バーラタ」と言うとき、バーラタという単語は特定の個人や国や状況とは関係ありません。この単語には、さまざまな典拠によって多くの異なる派生的な意味が与えられていますが、それらはあくまでも個人的な解釈にすぎません。いくつかのプラーナ〔古来の神話集〕によれば、この国にバーラタという名前が付けられたのは、この国はジャダ バラタという王によって統治されていたからであるとあります。他には、ドゥシュヤンタとシャクンタラーの息子で、この国を支配していた、かのバラタ王に由来するという説もあります。他にも、シュリ ラーマの弟であるバラタがラーマの神聖なサンダルを王座に置いて国を治めたので、この名前はインドに起因すると説く人もいるでしょう。
ですが、「バラタ」という単語はいつできたのでしょうか? この名前は、ジャダ バラタがその名を授かるより前、ドゥシュヤンタの息子とラーマの弟の命名より前から存在していたはずです。バラタという名前は太古の昔から存在していたことは明らかです。
「バラタ」は人間家族全体を意味する
サラスワティー女神は、サラスワティーやバガヴァティーやバーラティーと呼ばれます。サラスワティーはヴァークデーヴァター(話し言葉の女神)を意味します。ですから、言葉を話す才能を持って生まれた人は誰もがバーラタです。バーラタという名前は、特定の個人や国とは関係ありません。バーラタという単語は、人間家族全体に適用されます。「バ」は、神聖な知識によって表される原理を指します。「真我の知識」が「バ」です。真我の知識を喜ぶ人たちが「バーラタ」です。したがって、自分自身の光り輝く力によって輝いている人は皆、バーラタなのです。
この単語は、バーラタ人は戦い(サングラーマム)に長けた者であるという意味の語根にも由来しています。サングラーマムとはどういう意味でしょう? それは、対峙(たいじ)する敵対勢力を、神聖な霊的な力によって征服することを意味します。「Balam Bharam Bhavathi Bibhartheh」〔バラム バラム バヴァティ ビバルテーハ〕は、ニルクタ〔ヴェーダの補助学であるヴェーダアンガすなわちヴェーダーンガのうちの一つ〕の中で使われている言葉です。バラ(バラム、力)とは、ブランマバラ(アートマの力)、テージョーバラ(内なる光の力)、シャーストラバラ(経典の知識から得られる力)のことです。バーラタとは、これら三種類の強さを持つ者のことです。シュルティ(ヴェーダ)は、バラをヤグニャ(供犠)と定義しています。したがって、バーラタとは、ヤグニャを行うことによって力を得た者ということになります。したがって、バーラタ人は、アートマバラ(神霊すなわち真我の力)によって神聖な力を獲得した者なのです。ですから、誰であろうと、どこの国であろうと、この神霊の力を得る必要があるのです。
バーラタは豊かな国
バーラタは自然に恵まれた国です。バーラタは、すべての道徳、霊性、世俗的な知恵の第一の源です。
バーラタはアンナプールナー(豊穣の国)です。これほど神聖な国を貧しい国と見なすのは、頭がどうかしています。私たちは貧しい国ではありません。バーラタは天分豊かな国です。もし、豊かな国でなかったら、なぜ、ムガール人やヨーロッパ人などがこの国を侵略したのでしょうか? 天分豊かな国であるにもかかわらず、私たちはその豊かさを守ることができずにいます。その理由は何でしょう? それは、国民に団結力(一体性)がないからです。
自由は勝ち得ましたが、団結は達成されていません。団結力がないからこそ、バーラタはあらゆる種類の災難に見舞われるのです。ガズニーのムハンマド〔当時のガズナ朝帝国の統治者〕はパンジャーブ地方に侵入し、略奪品として700モーンド〔2万6110キログラム〕の金をこの国から持ち去りました。ナガラコータには、すべてを金でこしらえた30ヤード × 5ヤード〔27.4 × 4.6メートル〕の会堂がありました。その会堂は侵略者によって丸ごと持ち去られました。
これほど豊かな国に生まれたにもかかわらず、人々が自分の国に誇りを持たないのは残念なことです。どこを向いてもスワールタム(利己主義の横行)〔スワは自分、アルタムは富の意〕ばかりが目につきます。神の愛の化身である皆さん! 利己心を捨てなさい。団結を促しなさい。調和の至福を味わいなさい。
バーラタがどんなに神聖な国であるか、そろそろ気づいてもいいころです。この神聖な土地には、何一つ欠けているものはありません。「バーラタにないものは、他の場所にもない」という古来の格言があります。それほど多種多様な恵みを授けられているにもかかわらず、この国は貧しく後進的であると見なされています。これは妄想から生まれたものです。この妄想から解放されて、初めて私たちはアートマの至福を体験することができます。私たちは、ブラマ(妄想)を取り除くことができて、初めてブラフマンを体験することができます。
バーラタ国内ですべてが手に入るのに、なぜ他の国々に物乞いに行くのですか? あらゆるものはバーラタに源を発しています。ですから、バーラタに生まれたからには、バーラタの栄光を広めるために尽力しなさい。すべての帰依者は、バーラタの偉大さを保護し、促進することを誓うべきです。バーラタ人は、自分の力を知らない象のように、自分の力に気づいていません。莫大な力を備えているにもかかわらず、バーラタ人は、象使いの前で弱腰になっている象のように振る舞っています。皆さんはその弱さを捨てなければいけません。
バーラタの比類のなさを自覚せよ
バーラタは、深遠な真理を説いた偉大な賢人や聖人を数多く輩出しています。バーラタは、国の自由のために戦った英雄たちの土地でもあります。さまざまな芸術や科学、音楽や文学の知識をリードしてきた国でもあります。この神聖な土地に生まれた多くの人がその無比の偉大さに気づいていないのは、大変残念なことです。母への愛は甘露のごときものです。母国への愛がないのは、なんと残念なことでしょう!
皆さんは母国を愛さなければなりません。母国への奉仕に人生を捧げる決意をしなさい。団結は第一の必要条件です。人々は偉人たちの誕生日を祝いますが、偉人の教えを守ろうとする人はわずかしかいません。誕生日を祝うことは、何もすばらしいことではありません。偉人たちの教えを理解し、それに従って行動するために、あらゆる努力を払わなければなりません。
愛の質を高めなさい。あなたの生活のすべてを愛で満たしなさい。これは、前のユガ〔ドワーパラ ユガ〕でゴーピカー〔牧女〕たちがクリシュナに宛てた祈りです。愛のない生活は、まったく不毛です。人間は愛の化身です。愛は、真実のものへと向けられなければなりません。そのような愛こそが、人間の生命の息吹なのです。
バーラタが受け継いできた財産でハートを満たしなさい
神聖アートマの化身である皆さん! 愛を神性の神髄と見なして、社会への愛の奉仕に従事しなければなりません。あなた方は、バーラタの栄光を取り戻さなければなりません。バーラタは、過去において、ずっとすべての国の教師でした。他国のあらゆる人々が平和と悟りを得るためにやって来ています。このような状況の中で、バーラタ人自身が自分たちの偉大さを意識していないことは、大きな不幸です。バーラタ人の歴史は、肉体的、心的、霊的、その他、生活のあらゆる側面におけるバーラタ人の功績を反映しています。私たちは、受け継いできたその財産で自分のハート満たさなければいけません。
今、私たちは、物質的で世俗的な快適さのために人生を捧げています。そうした備品はすべて、何の役に立つのでしょうか? 私たちは、永続的な至福の源であるアートマ原理を悟らなければなりません。ハートに愛がないなら、どんなに知識を得ても、どんなに地位を得ても、何の役にも立ちません。知識を追い求めるよりも、善い性質を身につけることの方が大切です。
神の愛という磁石
今日、なぜこれほど多くの人がここに集まっているのでしょうか? 何か抗しがたい理由があるに違いありません。皆さんは、自分の地元では見つけられない何かを求めているに違いありません。もし地元で欲しいものを見つけることができたら、高い旅費を払う必要はないでしょう。ここには神の愛があります。神の愛という強力な磁石が、人間の形をしたすべての鉄粉を引き寄せているのです。招待状は、誰にも、一枚も送られていません。来るように頼まれた人は誰もいません。人々をここに引き寄せたのは、神の愛の力であり、ハートを結びつける絆です。そのすべての根底にあるのは清らかさです。清らかさがある所には愛が育ちます。清らかさと愛が一緒になると、そこにはアーナンダ(至福)があります。どんな行いをしようが、どんな供犠を執り行おうが、愛がなければ、それらはあまり役に立ちません。
ヨーガの訓練では、いくつかの種類の呼吸法が取り入れられています。また、クンダリニーヨーガの訓練も行われています。これらはすべて、ビジネスの一形態です。呼吸法では、息を吸うことはプーラカム、吐くことはレーチャカム、息を止めることはクンバカムと表現されます。これらはヨーガの力を得るための手段にはなりません。善いものをすべて吸い込むことがプーラカムです。悪いものをすべて手放すことがレーチャカムです。善いものをハートに留めておくことがクンバカムです。誰にもこの種のヨーガを実践する資格があります。この神聖な種類のヨーガは、すべての人が実践すべきものです。これは、すべてのバーラタ人の第一の目標です。
ここプッタパルティは小さな集落です。この村は、どのようにして今の傑出した状態になったのでしょうか? その答えは、各自が自分で見つけることができます。それはヨーガであるとか、大きな幸運であるとか、運のいいハプニングであるなどと考えるべきではありません。それは、思考の力によるものです。あらゆる神聖な思考には、成就を見いだす力があります。だからこそ、ヴェーダーンタはこう宣言しているのです。
ヤッドヴァーヴァム タッドバヴァティ
(その人が考えるように、その人はなる)
ですから、誰もが善い思考を身につけるべきです。そうすることによって、その果報を手にする権利を得るようになるのです。
困難に順応するのは苦行の一形態
神の愛の化身である皆さん! このプラシャーンティ ニラヤムには十分な施設や便利さはありませんが、生活を便利にするさまざまなものに慣れている多くの皆さんがここに集まっています。皆さんは、あらゆる不便さに自分を適応させる一種のヨーガに身を投じているのです。その経験をサーダナ(霊性修行)と考えるべきです。あらゆる快適さを享受することはサーダナにはなりません。困難があるからこそ、幸せを感じることができるのです。困難を通ることなく幸せを実現することはできません。そうした困難は苦行の一形態と見なされなければなりません。楽な生活は苦行になりません。実際のところ、これほど多くの人が多くの困難や不自由を我慢してここに集まっているというのは、彼らの一体感の顕著な証です。
何を達成するにも人間の努力が必要です。この20年間、プラシャーンティ ニラヤムの宿泊施設やさまざまな設備が充実してきたのは、ジョーガ ラーオの働きによるものです。セントラル トラストのメンバーとして20年間、彼はプラシャーンティ ニラヤムにそうした改善をもたらすために、昼夜を問わず絶え間なく努力を続けてきました。彼はカルマ ヨーギ〔行いを通じて神との合一を果たす行者〕です。仕事に喜びを感じています。しかも、この12ヶ月間、彼が昼夜を問わずたゆまぬ努力を続けてきたことは、私だけが知っていることであり、他の誰も知りません。彼はジョーガ ラーオ大佐ではありません。ジョーガ大佐とは呼ばれていますが、彼はまさにカルマ ヨーギなのです。この1ヶ月間、彼は一睡もしていません。彼は82歳です。その年齢でなお、彼が人々に可能な限りの快適さを提供するために尽力してきたからこそ、帰依者たちは困難を乗り越えることができているのです。ジョーガ ラーオの奉仕に感謝するために、セントラル トラストのメンバーたちは、彼にふさわしい栄誉を与えることにしました。私は、ジョーガ ラーオを他人だとは思っていません。しかし、義務としてすべきことはあるので、ジョーガ ラーオに敬意を表すことで、セントラル トラストはその義務を果たすことになります。
(ここでバガヴァンは、ジョーガ ラーオ大佐の手首に金の丸いカディヤム〔腕輪〕をはめられました。ジョーガ ラーオ大佐が神聖な御手からカディヤムを受け取るために登場した時、会場全体が歓声に包まれました。バガヴァンはジョーガ ラーオ大佐に小声で、同じ活力で善い仕事を続けていくようにとおっしゃいました。)
今後、バーラタには、ジョーガ ラーオのようなカルマ ジーヴィ〔行いの人〕やカルマ ヨーギがもっと大勢現れるべきです。誰もがカルマ ヨーギになるべきです。そのカルマ〔行い〕はダルマへと変わります。そのカルマは人生を聖化するでしょう。
バーラタは貧しい国ではない
神への信仰を培い、カルマ ヨーガに没頭し、自分の人生を神聖なものにすることは、すべての人の義務です。バーラタ人は皆、バーラタの神聖さを忘れてはなりません。バーラタは決して貧しい国ではありません。この事実に気づいていないから、この国は争いと無秩序に満ちているのです。一過性のものと永続的なものとの区別がつかず、人々はつかの間の快楽を追い求めて人生を台無しにしています。ささいな一瞬の利益のために、人々は永続的な価値を持つものを犠牲にしています。
自由を手に入れた当時は、人口の13%しか後進〔進歩や発展が遅れていること〕と見なされていませんでした。その割合は年々増加し、今では80%になっています! 5年か6年後には100%になるかもしれません! これはまったく正しいことではありません。
バーラタは後進の部類の人々で構成されている国ではありません。つまらない利権目的で、このような分類がなされているのです。諸外国は、バーラタを貧困に苦しむ国として見ています。神の愛の化身である皆さん! バーラタは豊かな土地であることを覚えていなさい。バーラタほど資源に恵まれた国はありません。なのになぜ、私たちは自分たちを貧しい国と呼ばなければならないのですか? それだけではありません。教育と医療の分野でも、私たちは犠牲の精神を育てなければなりません。
誰もが無料で教育を受けられるようにする
皆さんは、一ヶ月前、多くの学生が(焼身自殺をして)命を落としたことを知っていますね。その理由は何でしょう? それは、共同体単位での制限制度に対する抗議でした。私たちは、すべての人が自由に教育を受けられるような制度の普及を目指さなければなりません。教育は学ぶためのものでなければなりません。そうなれば、学生たちの間でこのような問題が起こることはないでしょう。
今日、ここに、インド大統領、アーンドラ プラデーシュ州の首相と州知事、その他の著名人たちが列席しています。教育界において、「遅れている」とか「進んでいる」といったような新たな分類を設けず、貧富の区別のない、万人のための無料の教育システムを確立すれば、国家は飛躍的な発展を遂げるでしょう。私たち〔国〕は何千万ルピーというお金を〔多くの見込みのない投機的事業に費やして〕無駄にしています。もし子どもたちに正しい未来を保証するなら、国家は限りない恩恵を得るでしょう。どの霊性団体も無料の教育を提供すべきです。
ティルパティ デーヴァスタナム〔ティルマラにあるヴェーンカテーシュワラ寺院を管理する世界第二位の信託〕が豊富な資金を持っていることはよく知られています。なぜそこの当局は無料の教育を提供しないのでしょうか? 何億ルピーが無駄になっているのでしょうか? 教育が無料でないから、デーヴァスタナムの教育機関に通う学生は誰一人として寺院に足を運ぼうとしないのです。それでどうして信仰心が育つでしょうか? 主の御名において、無料の教育と医療の救済を提供すべきです。
10億ルピーの病院プロジェクトの目的
このことを考慮して、私たちは昨日、ここに大きな病院を建てることを決めました。多くの人たちは都心に病院を建ててほしいと私に訴えてきました。いくつかの都市では、ビジネスとして多くの医療機関の運営がなされています。何か教育機関や医療機関ができると、そのもっぱらの目的は、ビジネスです。貧しい人々に無料で施設を提供するための事業を始めようとする人はほとんどいません。ですから、私たちは当初から、プラシャーンティ ニラヤムの近くに10億ルピーの病院を建てることを決めたのです。ここでは、高等教育が無料であるのと同じように、「高等医療」も無料になります。人々は、アメリカ合衆国で行われているような心臓外科手術を受けるために、何10万ルピーというお金を払っています。ですが、貧しい人たちはどんな有り様ですか? 誰が貧しい人たちの面倒を見るのですか? 都会へ行ったとしても、貧しい人たちは「色つきの水」(薬剤の混合液)さえ手にすることはないでしょう!
こういった現実を鑑みて、私たちはこの病院建設プロジェクトを立ち上げました。心臓バイパス手術であろうと、腎臓移植であろうと、肺の手術であろうと、脳外科手術であろうと、すべてが無料で行われます。このことは、プロジェクト開始当初から決まっていたことです。この病院は1991年11月22日に開院します。誰もサイ サンカルパ〔サイの意志〕を推し測ることはできません。銃が発砲される時には光と音が同時に発せられるように、サイの場合は、思いと行いは同時に起こります。ですから、サイの決意を理解するのは、誰にとっても、たやすいことではありません。
サティヤ サイの英雄物語
神の愛の化身である皆さん!私がこれから言うことを大げさだと思ってはなりません。私には利己心のかけらもありません。私がすることは何であれすべて、他の人々のためだけです。私は皆さんを「他人」と思っていません。あなた方はすべて私の民です。これほどのすべてを包み込むような気持ちは、世界中どこを探しても見られるものではありません。あなた方は、50年間でこれほどまでに成長した組織を他に見たことがありますか?
これまでのアヴァター〔神の化身〕たちの場合、その名声が広まったのは、もっぱらそのアヴァターが亡くなったずっと後でした。現在のアヴァターの場合は、アヴァターが生きている間に、大学、大病院、飛行場をはじめとする多くの施設が村人たちのために建設され、今後もさらに多くのものができるでしょう。
多くの人々は、どうしてこういった一切が成し遂げられるのかと不思議に思っています。(このアヴァターの)降臨は今から64年前に起こりました。それ以来ずっと、この手は、どんな時にも、誰かに何かを求めるために伸ばしたことはありません。私は誰にも何かを求めたことはありません。これからも決して求めたりはしないでしょうし、そのようなことは決して起こらないでしょう。では、一体どうやって一切が成し遂げられるのでしょうか? バーラタでは、善良な仕事には、障害となるものはありません。あなたが心の底から何か善い仕事をしたいと思ったときには、お金はふんだんに流れてきます。心の狭い人は、どんな仕事を始めても、決して満たされることはないでしょう。心の狭い人は、大きな心、広い心を持った人の行いを理解することができません。
神の愛の化身である皆さん! 私は皆さんに何かを期待しているわけではありません。ただ、あなたの
ハートの中に愛を育てなさい。すべての人をあなたの兄弟姉妹だと思って扱いなさい。すべての人を神の子であると認識しなさい。誰に対しても敵意や憎しみを抱かないようにしなさい。誰の気持ちも傷つけてはなりません。そうした大きな心の態度こそが、あなたに限りない至福を与えてくれるのです。もしあなたがスワミの誕生日を祝ってくれるのなら、これが、私があなたに望むすべてです。あなた方の間で一体性を持ちなさい。バーラタの栄光をよみがえらせ、推進させるよう努力しなさい。
「私はいつも限りない喜びで満たされています」
ここへ来る途中、私は何人かから、「ハッピー バースデイ! ハッピー バースデイ!」〔幸せな誕生日を!〕という言葉で挨拶されました。私はいつもハッピーです。私には「ハッピー」〔お幸せに〕という挨拶は必要ありません! 「ハッピー バースデイ」という挨拶は、ハッピーでない人に伝えなさい。私は限りない喜びで満たされています。私は今までどんな時も、どんな場所でも、心配を抱いたことはありません。その理由は何でしょう? すべての物事は、過ぎ去る雲のようにはかないものです。なぜそれらを心配することがありますか?
誕生や死に直面したとき、舞い上がったり落ち込んだりすべきではありません。私たちは裸でこの世にやって来ました。この世を去る時、行き先の住所を親類縁者に残すことはできません。親類縁者が親類縁者であり続けることなどどうしてできますか? そういったものはすべて、この世での現象です。生きている間ずっと、調和と同朋意識を持って生活を送るべきです。困難はすべて、神を黙想することによって乗り越えることができます。神を忘れて、世俗的な事柄にどっぷりと浸かりながら、あなたは何を達成するというのですか? 神への揺るぎない信心を持ちなさい。カースト、宗派、国籍による差別に、いかなる余地も与えてはいけません。すべての名と姿は神のものです。あなたが目にするすべては、主の普遍なる姿の現れです。神への固い信心を持って、主の御名を唱え、あなたの人生をあがないなさい。
サティヤ サイ ババ述
1990年11月23日
65歳の御降誕祭
プラシャーンティ ニラヤム
サイ クルワント ホールにて
Sathya Sai Speaks Vol.23 C34
古来、バーラタ〔インド〕は、霊性に立脚することによって平安と繁栄というメッセージを世界に伝えてきました。国民は常にすべての国の幸福を祈ってきました。バーラタ文化の偉大さは、その壮大さを体験した人だけが理解できるものです。バーラタ文化は、歴史の激動を乗り越えて試練に耐えてきた文化です。バーラタ文化の偉大さは、サナータナ ダルマ(古来永遠の人生哲学)に反映されています。正義はこの哲学の外的な現れです。正義が人間の生活を律してこそ、平等、友愛、自由といった理想が実際に実現されるのです。
人々が感官をコントロールすることを学んだとき、世の中の対立や不和はなくなるでしょう。現代のバーラタ人は、インド文化の深遠な真理を無視しています。それは人々が私利私欲を追求し、利己心に振り回されて、本来持っている神性を忘れているからです。他者に対して親切で思いやりがあるという、人間としての自然な傾向をきちんと育むべきです。現代人はそれをしていません。
創造の神秘を理解しなさい
基本的には、人と自然の間に対立はありません。赤ちゃんには母乳を飲む資格があるように、蜂には花の蜜を吸う資格があるように、人には自然の果実を味わう資格があります。創造世界は人類よりも偉大です。創造世界の神秘を理解することは人間の特権です。さらに、人は創造世界と創造主の関係を知る努力もすべきです。
人体は、目や鼻や手や脚といった異なる器官で構成されています。人間は人間社会の手足であり、人間社会は人類の手足です。人類はプラクリティ(自然)の手足であり、プラクリティはパラマートマ(普遍なる大我)の手足です。こうした連鎖関係について考えるなら、人間は究極の至福の権化と結び付いているということがわかります。
しかし、なぜその至福は、とらえようとすると人の手から逃げていってしまうのでしょうか? それは、人が自分に内在する神性を認識していないからです。人は、自然というものはもっぱら人間が享受するために神が創造したものだと思っています。それは間違っています。自然は人間が、一定の限度内で、享受するためにあります。
現代の科学者たちは、無制限に自然を享受することを念頭において、自然の力を探っています。科学者たちは、自然のあらゆる力を人間のコントロール下に置いて、制限なしに享受したいと欲しています。今、私たちが目にしている非常に多くの自然災害は、それが原因です。
世界中で起きている干ばつや洪水の原因は何でしょう? 人は、抑制も規制もなしに自然の恩恵を享受しようとして、墓穴を掘っています。ここに地球儀があるとします。片側を叩けばバランスが乱れます。天然資源を用いるときには、きちんとバランスが保たれるよう、常に細心の注意を払うべきです。一方を過剰に用いるなら、他方に害をもたらすことになります。
天然資源の開発に際し、人々は権利という名の下に、限度を守らず、自分たちのやりたいようにやっています。私には、その「権利」という言葉がどこから来たのか、理解できません。実のところ、「権利」といったようなものは存在しません。実際、人々が持っているものは「責任」です。人が自分の責任をきちんと果たすなら、そこから何がしかの権利が生じることは可能です。もし責任を無視するなら、その結果はどうなるでしょう? 混乱と平安の欠如しかありません。雨が降ると水路に水が流れます。雨が降らないとき、どうして水を望むことができるでしょうか? ですから、まず雨が降るように祈ることです。そうして初めて、あなたは川の水の流れを享受することができます。同じように、まず自分の義務を果たすことです。そうすれば、自分の権利を確保することができるでしょう。
義務は最も神聖なもの
今、誰もが権利ばかりを口にします。これは全く意味のないことに見えます。人は皆どのように一日を過ごしているか、しばし考えてごらんなさい。朝起きてから寝る時まで、誰もが何らかの心配事を抱えています。時間は神聖なものです。行動はさらに神聖なものです。義務は最も神聖なものです。活動によって何かを成し遂げるだけでは不十分です。人生の最後の最後まで、着手したことすべてにおいて成功を収めなければなりません。チャンドラバブ・ナイドゥ首相〔アーンドラ・プラデーシュ州首相〕がスピーチの中で述べたように、人々はすべての行いを理想的な形で行わなければなりません。単に機械的に存在しているだけでは、人間性を表現することはできません。人として生まれるのは計り知れないほど貴重なことです。真の人間の証として、3つのことを守らなければなりません。それは、罪への恐れ、神への愛、社会における道徳です。罪深い行為は慎むべきです。サンスクリット語の格言に、「人は徳行の果報を欲しながら、罪深い行いにふけっている」というものがあります。思考と言葉と行いの清らかさを身につけたとき、人は善行の果報を得ることができるでしょう。
人としての生は、生まれてから死ぬまで、さまざまな悩みに満ちています。それらの悩みから解放される唯一の方法は、心を神に向け、いつも神のことを考えていることです。
さらに、人は自立心を養わなければなりません。自分でできることを人や政府に頼ってはいけません。自分のことはできるだけ自分でして、その労働の果報を享受しなさい。
神の助けを求める前に、自分の能力を使いなさい
現代人の多くは、自分に自信がなく、自分が望んだことを成し遂げる決意も持っていません。そして、必要な努力もせずに、すぐに結果を出したいと思っています。どうしてそうなのでしょうか? 神や政府に責任を負わせるのは適切なことではありません。神は間違いなく助けることができますが、神に助けを求める前に、あなたが神から授かっている力と才能を使うことを神は期待しています。神から与えられた能力を最大限に活用することをせずに神に頼るのは、誤った判断です。
自分たちが住んでいる環境を浄化するよう努めなさい。どこにも平和や調和がありません。帰依者は愛を育み、人間的価値を実践することによって、そうした空気を浄化し、聖化するように努めなさい。帰依者たちは、さる方面からの反対や不賛成に遭うかもしれません。そうした障害は克服すべきです。そのような批判をする人たちは、極めて価値のあるものを破壊する害虫のようなものです。
福祉活動に従事する人たちは、そのような批判を気にすることなく、良心の指示に従って善い行いを続けていくべきです。この点については、州首相も述べています。自分は人々のためになることをやっているのだと確信しているとき、どうして小心者の批判を気にする必要がありますか? 自信を持ちなさい。
今日、バーラタでは何百万人もの人々が飲み水の不足に悩まされています。この問題は、ある程度、人々自身の行動に原因があります。人々はどこまで正しい行動をとっているでしょうか?
人の振る舞いには、神の振る舞い、人間の振る舞い、獣の振る舞いという3つの種類があります。私たちは、獣性の増大と人間性の衰退を目にしています。この傾向の原因は、欲望が際限なく膨らみ、アーシャヤール(理想)が確実に消滅していることです。利己心が拡大し、無私が減少しています。策略が蔓延(まんえん)し、誠実さが消え、体への執着が増し、国への愛が薄らいでいます。その結果、国民の人格がどんどん卑しくなっています。
犠牲は幸福の真の秘訣
古代の人々が生きていた古き良き時代の物事の状態は、どれほど違っていたことでしょう。彼らは善良な帰依者たちとの交流を喜び、貧しい困窮した人が家に来るのを歓迎し、神を讃える賛歌を聞くことを好みました。彼らは、そういったことがあった日だけを神聖な日と見なしました。人生はこうした高潔な生き方によってのみ救済されるのです。
古代のバーラタ人は、犠牲の質を高く評価し、正しさを崇め、正義を最高の美徳とし、真理を大切な友として迎え入れました。今日の物事の状況は、これらすべてと食い違っています。
幸せの真の秘訣は犠牲です。誰もが自分の能力の範囲内で収入と財産を他の人々に分け与え、他の人々の幸せに貢献すべきです。貧困にあえぎ、さまざまな形で苦しんでいる人がたくさんいます。そのような不幸な人たちを助けに行くのは、裕福な人の義務です。
自分の言葉どおりに生きなさい
愛の化身たちよ! 今日、皆さんは多くのリーダーのスピーチを聴きました。彼らは心から語り、人々の福祉に対する懸念を表明しました。もしそれらの言葉が意味のある行動に移されれば、この国は必ずや良い方向に向かうでしょう。このような機会に、こうしたリーダーたちが前に出て、この種の保証をするというのは、歓迎すべき兆しです。それらは国民に熱意と自信を与えるに違いありません。州首相、カルナータカ州議会議長、連邦大臣は、いずれも信念と熱意を持って発言しました。このことは、人々のハートに刻み込まれるはずです。保証は行動に移されるべきです。
バーラタだけでなく、世界の他の地域も、無数の問題に悩まされています。その解決策は何でしょう? 人の心を根本から変える必要があります。人々は人間に生来備わっている神性を認識すべきです。この心の変容と神性の認識が同時に起こったとき、人類の神格化があるでしょう。
愛の化身たちよ! 5日から始まったこのヤグニャも今日で終わりです。今日はヴィジャヤダシャミーの日〔勝利の十日目という意味のダシャラー祭の最終日〕です。今日、飲料水プロジェクト〔恵みの水〕がアーンドラ・プラデーシュ州政府に移管され、州首相がこの事業を適切に維持する責任を引き受けたことは、おめでたい兆しです。国民のために実施しなければならない同様の福祉計画は、まだまだたくさんあります。私は、頭のてっぺんから足のつま先まで、全身全霊で人々への奉仕に尽くしています。私は、人々のためになる多くのことを行いたいと考えています。私は、それらについて話したくはありません。行動がそれを語らなければなりません。州議会議長は、自分の県でも飲料水の問題が深刻であることに言及しました。他の県と違って、コーラール県には川がありません。こうした問題を解決するために、誰もが自分の力を発揮することを決意すべきです。誰もが社会に恩があるのですから、誰もが社会に対する自分の責務を自覚すべきです。必要であればいつでも、自分たちの問題を解決するために集まって協力し合うべきです。
多くの若者が家で時間を無駄にしています。そのエネルギーを建設的な福祉活動に集結させるべきです。州首相は、シュラマダーン(労働力を贈る)という案に言及しました。村の誰もが、他人の助けを待たずに村の道路を建設するために、そうしたシュラマダーンに参加すべきです。できるだけ多くの村人たちの必要を満たすために、この種の自発的な協力活動を行うべきです。必要なときには他人の助けを求めてもかまいません。
全力を傾けて助けるというバガヴァンの保証
私は、どの村から来る人も、どの州から来る人も、どの共同体から来る人も、助ける用意ができています。私はどんな類の差別も心に抱きません。あなた方が信じようと信じまいと、私は、ただ一つのカースト――人類というカースト、ただ一つの宗教――愛という宗教、ただ一つの言語――ハートという言語を敬っています。私の助けを求める人には、私はその人がどのカーストであろうと、どの宗教であろうと、どんな信条であろうと、決して誰にも「ノー」(No)とは言いません。多くの帰依者がここに集まっています。私は、あなた方の要望に応えるためなら、プラシャーンティ・ニラヤムを手放す覚悟さえあります。私は人々のためになら何でもする覚悟があります。それが私の唯一の関心事です。私は、人々を主の恩寵を受けるに値するようにするためだけに働いています。この事実を認識している人はほとんどいません。何年も私の所に通っている人たちでさえ、この真実を認識していません。神のやり方について、真実を理解するのは難しいことです。
あなた方は皆、神への信心を持って自分の義務に精を出すべきです。そうすれば、すべてが上手くいくでしょう。万事、容易に達成することができるでしょう。これは、私たちの古代の人々が追求した道です。当時は、政党も派閥争いもありませんでした。すべての人が心を一つにして行動していました。それは「ヴェーダ」のメッセージです。「共に働き、共に楽しみ、互いを愛し、皆と喜びを分かち合おう」――これはリグ・ヴェーダの輝かしいメッセージです。人々はヴェーダの教えを基に生活していました。こうした訓戒が尊重されない今、どうやって人としての生が神聖であることができるでしょうか?
あなたのハートが善良なら、あなたに害は及ばない
自分の良心に従って正しいことをしていれば、他人の言うこと、考えることを恐れる必要はありません。勇気は善行と共にあるべきです。あなたのハートが善良なら、あなたに害は及びません。
私は、アナンタプル県〔アナンタプラム県〕以外にも、いくつかの県の必要に応えたいと考えています。その中で、私は一つのことを保証したいと思います。バーラタであれ他のどの国であれ、福祉計画を実行するための財源が不足することはありません。財源は豊富にあります。ただ、そうした計画を実行しようという強い気持ちがないだけです。強い気持ちがあれば、どんなことでも達成することができます。人々は、月へは行けるのに、自分のハートに旅をすることはできないのでしょうか?
私が飲料水プロジェクトを始めた時、トラストのメンバーたちは私にこう言いました。「スワミ! トラストには十分な資金がありません。私たちはどうやってこの巨大プロジェクトに乗り出せばいいのでしょうか?」。私は彼らに請け合いました。「それは私の仕事です。私がこの善良なプロジェクトの完遂を見届けます」。それは何の障害もなく達成されました。
バーラタには、まだ為されるべきことがたくさん残っています。カルナータカ州議会議長が述べたように、水は国中で第一に必要とされているものです。きれいな飲料水が全国民に行き届くようにしなければなりません。それが私の決意です。
私は、早い時期から国民に3つの必需品を提供することを気にかけてきました。無償の教育、無償の医療、そして、飲料水といった基本的な設備の提供です。教育は頭のため、医療はハートのため、きれいな水は体のためです。この3つは、生活に必要とされる主なものをカバーしています。この3つを提供することは最も大きな満足感を与えてくれます。
リーダーたちに課せられた課題
どこでもあなた方ができる所で、教育を無償で提供するよう努めなさい。貧しい人々のために無料で薬や治療を提供しなさい。飲み水を提供するために、あなた方の間で可能なかぎり協力し合いなさい。ラーヤラシーマ地方では、人々がフッ素症の弊害に苦しんでいます。どうか、少なくともこれからの世代がこれらの病気から救われるよう取り計らってください。私はあなた方全員を祝福し、あなた方のすべての有益な活動において私の恩寵があることを保証します。福祉プログラムを実行するためにすべての関係当局が協調して行動することを、私は望みます。
長い間ここに来ることを切望していた州首相が、今日という縁起の良い記念すべき機会にここにいるのは幸運なことです。私は彼が自分のプログラムをしっかりと遂行してくれると確信しています。私は彼が将来におけるこの計画〔飲料水の提供〕の維持に対する責任を引き受けてくれたことを嬉しく思います。彼は部外者ではありません。実際、名前や姿は違っても、霊的には皆一つです。彼が引き受けてくれたことで、私たちは重い責務から解放されました。今後、私は新たな重荷を背負うことになるかもしれません。その用意は十分にできています。物語はこれで終わりではありません。
私はコーラール県の人々が必要としていることを、近い将来実現することを保証します。72歳の誕生日までに、コーラール県の人々の飲料水の必要は満たされ、どの村の人々にも十分に行き届くようになるでしょう。アナンタプル県でさえ、まだ行き届いていない地域があります。私は、残りもすべて遂行させると断言します。もしカバーされていない地域があるなら、私に知らせてくれれば遂行させるつもりです。私はあなた方のものであり、あなた方は私のものです。私たちの関係は霊的な関係です。あなた方には私に近づく権利があり、私にはあなた方の希望に応える義務があります。この点に関して、いかなる疑いも抱いてはなりません。私はあなた方全員を祝福します。
1997年10月11日
ダシャラー祭ヴィジャヤダシャミー
プラシャーンティ ニラヤムの
サイ クルワント ホールにて
Sathya Sai Speaks Vol.30 C29
シャーストリ〔学者〕は、叙事詩や歴史からの例を挙げて、人間の状況への時間の力と影響について皆さんに説明しました。今日は良いことでも明日には悪いことになり、今日実行可能なことでも明日には実行不可能なことになる場合があります。時間は、習慣や風習を時代遅れなものや時代錯誤なものにします。今日悲しみを与えるものは、明日には喜びをもたらすかもしれません。子供にとって学校に行くのは嫌なことですが、後になれば、自分が年若い時分に無理やり授業を受けさせられたことに感謝します! ラーマが追放された時、シーターは、アヨーディヤーの都も、宮殿も、自分が持っていた幸せな夢の数々も、すべてを捨てて、森に付いて行きました。けれども、金色の鹿を見て、隠れていた欲望が呼び覚まされて、世俗的なものへの「執着」が生じ、その結果、一連の災難に見舞われることになりました。時間がシーターのハートの中にあった欲望の根を温存させていたのです。
ラーマーヤナは、もう一つの教訓も説いています。シーターを探すことは、体験の場における真我顕現の秘訣を象徴しています。ラーマは、シーターを取り戻した時、体験によって裏づけられた真我顕現の英知を取り戻しました。グニャーナ〔英知〕はアヌバーヴァ グニャーナ〔体験から生まれた英知〕となりました。ラーマーヤナは、人が真我顕現という尊い目標を切望しているときには、自然界のすべての力、すべての創造物がその人を助け、あらゆる援助をしてくれるということを教えています。猿、鳥、リス、さらには、石ころや岩までもが、その困難な務めにおける同志となりました。高みを目指し、最高の冒険をしようと決意しなさい。そうすれば、すべてが整い、あなたをゴールへと導いてくれるでしょう。
世界は3つのグナの複合体
実のところ、あなたはその冒険へと向かうよう、あなたの呼吸に促されているのです。呼吸は、1日に21,600回も「ソー ハム」(神=私)〔私は神であるという意味の音〕を繰り返して、宇宙に内在する原理と体に宿る者の同一性を強調しています。あなたは、口では「神はいない」と断言しているかもしれませんが、息が入ってくる時に「ソー」〔神である〕、出ていく時に「ハム」〔私は〕と繰り返して、不変の存在である「神」は常駐している「私」〔自分〕である、ということを明確にしているのです!
インドの聖賢たちが日常生活に課した規制や制限、衝動や態度を制御して方向付けるために推奨したあらゆる処方箋は、インド文化の貴重な要素であり、大切にし、実践すべきものです。この世は3つのグナ(属性)――サーットウィカ〔浄性〕・ラージャスィカ〔激性〕・ターマスィカ〔鈍性〕――の複合体です。
ウパニシャッドは、この3つのグナに絡め取られている人たちに、雷が「ダ、ダ、ダ」〔雷の音〕といって「ダヤー」・「ダマ」・「ダルマ」という3つの教訓を教えていると述べています。アーナンダ(至福)を渇望するサーットウィカ〔浄性〕の人には「ダマ」(自制心)を、冒険、英雄、活動を渇望するラージャスィカ〔激性〕の人には「ダルマ」(正しい行動、正義の理想)を、そして、感覚に執着して客観的な快楽を渇望するようなターマスィカ〔鈍性〕の資質に支配されている人には「ダヤー」(愛に基づく慈悲。これは執着と貪欲を昇華させることができる)を、教えているのです。
賢者たちは、「タット トワム アスィ」(汝はあれである)〔タットワマスィ、汝はそれなり〕という真理を発見しました。「あれ」は「神」であり、そこからすべてのものが生まれ、そこにすべてのものが在り、そこに一切が融合します。この真理は、バクティ マールガ〔信愛の道〕――真我への献身、信愛、全託の道――によって知ることができます。「汝」つまり「個人」は、カルマ マールガ――無私の行い、すべての行いの果報を放棄する道、尊崇の精神を持ってすべての行いを礼拝の行為として真摯に行う道――によって理解することができます。そして、「タット」(あれ)と「トワム」(汝)を同一視していく「アスィ」と呼ばれるプロセスは、グニャーナ マールガ〔英知の道〕――知恵の道、鋭く執拗(しつよう)な識別の道――によって完結しなければなりません。バクティとカルマ〔行為〕が結合すると、それはグニャーナへとつながっていきます。バクティはすべてのものを「タット」〔神〕と見ます。カルマ〔行為〕は「トワム」〔汝〕の分離性を消し去ります。そのため、「アスィ」(同一視)のプロセスは容易になるのです。
貧しい人に奉仕することでエゴをなくす
こうしたことはすべて単純なことで、さまざまな聖句によって説明されていて、それを著名な師が毎日何千という人々に説明していますが、真理は経験されておらず、自己同一視は味わわれていません。一切が舞台上の演技です。言葉はハートからのものではなく、他人が書いた台本の合図に従って発せられています。観客に受けるため、そして、拍手と劇場窓口の利益のために多くが行われているのです! バケツを逆さまに置いておいたら、せっかく大雨が降っても何が得られますか? 水を集めることができますか? 宗教に関する話を聞いても、あなたの心(マインド)がそれを受け入れないなら、あなたは何の利益も得られないのではありませんか?
ミストリー博士は、ボンベイ〔ムンバイ〕でのセヴァダル〔無私の奉仕を行うボランティア〕の活動である献血、病院の病室訪問、貧しい入院患者への奉仕のことを話してくれました。実に、奉仕はエゴを消し去って人に本当のアーナンダ〔至福〕を与えてくれる行いです。ミストリー博士はパールシー〔インドに住むゾロアスター教徒〕ですが、博士がいかにヒンドゥー教の聖典も熟知しているかに注目しなさい。そのおかげで、博士は今、皆さんに、シヴァ神、パールヴァティー神、ガナパティ神〔ガネーシャ神〕はゴールへと向かうカルマ、バクティ、グニャーナのマールガ〔道〕の象徴として解釈され得るということを説明することができたのです。
すべては一なる神の姿であるという信念を持って行われるセヴァ〔無私の奉仕〕は、最高のカルマ〔行為〕です。セヴァのインスピレーションは、頭ではなくハートから生まれることに着眼して見てみなさい。以前、ホワイトフィールドにある人文科学の大学の講師と学生たちに話をした時、私は年長者を敬う必要について語りました。今、学生は教師に対してうなずいたり頭を動かしたりする挨拶をしていますが、ただそれだけです。私は学生に、「うなずくこと」は距離、敵意、不和を意味すると伝えました。それは、学生と教師が対峙(たいじ)していることを明らかにし、互いに他人であることを示しています。私は学生たちに、そのような考えは捨て、先生を友人として、そして、セヴァに従事する導き手であると同時に学び手でもある者として受け入れるようにと望みました。私は両者の間に愛と尊敬の念が行き交うことを望みました。
クリシュナとバララーマの英雄的活躍
今、私は〔この講話を〕終わりにして、楽屋にいるヴェーダパータシャーラ(ヴェーダを勉強する学校)の子供たちのもとに行かなければなりません。彼らは霊的な甘露でいっぱいの劇を演じることでしょう。というのも、神を味わったことのある人たちは、神は「ラソー ヴァイ サハ」(神は甘露そのもの)であると表現しているからです。神の物語は言葉にならないほど甘いのです。全世界は神のおかげで甘美であり、全世界は神であるがゆえに喜びを与えます。あなた方はその喜びをどうやってつかんで保っていいかを知らず、そのせいで喜びと悲しみの間を行ったり来たりしています。喜びを完全に、常に得ていなさい。そうすれば、生まれることも、死ぬこともなくなります。あなたは不滅です。あなたは至福であり、力であり、英知なのです。
少年たちが演じようとしている劇の中で、私はカムサ、ゴーピー、アクルーラ、デーヴァキー、ヴァスデーヴァ、ナンダといった、私の昔のバクタ〔バクティを有する者〕たちの生涯における出来事を描いています。少年たちにとって幸運だったのは、私が何日も夕方に彼らと一緒にいて、歌い、セリフを繰り返したことです。
そのおかげで、少年たちはそれらの偉大な真理を学び、皆さんの前で感動的な出来事を演じ、演者も観客も喜びを得て、分け合うことができるのです。少年たちは役を完全に表現することはできないかもしれませんが、皆さんはその感動と、それが伝えようとしている霊的な教訓を吸収することができるでしょう。
物語は、カムサが宿敵である7歳の牛飼いの少年クリシュナとその兄バララーマを自分の都や宮殿に連れてきて、王家の象や闘士の力を借りてクリシュナを殺そうとたくらむところから始まります。その後の場面では、神童と離れ離れになってしまったゴークラ村の牧女たちの苦悩、里親を悩ませるジレンマ、そして、クリシュナ兄弟がカムサの待つマトゥラーの都へと旅立つ様子が描かれています。クリシュナは自分を招待した君主のもてなしではなく、貧しい信者のもてなしを受け入れ、クリシュナの来訪は民衆に大きな喜びを与えます。一方、牢獄(ろうごく)にいた両親は、長年離れ離れになっていたクリシュナとの再会を喜びます。看守たちは、象と闘士を亡きものとし、最終的に王であるカムサ本人に屈辱と崩壊をもたらしたクリシュナとその兄の英雄的な活躍、都に響きわたったその一連の勝利を、その都度、両親に伝えます! クリシュナとバララーマは牢獄に侵入して両親を解放し、そこで劇は終わります。
演者たちの幼い年齢にとらわれてはいけません。彼らから発せられる言葉は賢明で、治癒力があります。それらはヴェーダやシャーストラの教えです。あなた方のハートの中にそれらを大切に収めて、少なくともそのうちのいくつかを日々実践することを決意して、それぞれの地元へと発ちなさい。
サティヤ サイ ババ述
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
1969年10月17日
Sathya Sai Speaks Vol.9 C25