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SRI SATHYA SAI BABA様
御生誕100周年記念ヴィジョン

ハートの中におられる神様を絶え間なく憶念し

人類同胞愛という一体性の花を捧げます

SSSIOJ会長 住友正幹

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憂きこと
  有難きかな

 「憂(う)きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」これは江戸時代の陽明学者、熊沢蕃山の言葉です。


 憂きこととは、心を悩ますことや辛いことの意味ですので、人はこれを出来れば避けて過ごしたいと思うものです。人が神社などで祈願するのは、家内安全や無病息災などであり、決して憂きことなどを求めている訳ではありません。熊沢蕃山の言葉は、人が人として生きていくときに、様々な試練に出合わなければならないのであれば、それを避けるのではなく、むしろ立ち向かってやるぞという気概と勇気を表したものだと思いますが、心の持ち方一つで人生に対する態度は大きく変わることになるのでしょう。

 

スワミは次のように説かれています。
 

 「私たちは、この世であらゆる苦しみと悲しみを目撃します。しかし、そのどれ一つとして永久に続くものはありません。どんな苦しみの日々も、必ずその後には喜びがやってきます。喜びの体験は、先立つ苦しみによって純化され、いっそう強められるのです。金をるつぼで溶かして精錬するように、苦しみは後に続いてやって来る喜びを神聖化します。」

-1998年1月1日の御講話より
 

 人生、山あり谷ありです。喜びの時があれば、苦しみの時があります。苦しみがなければ喜びはなく、喜びがなければ苦しみはありません。喜びと苦しみ、善と悪、美と醜、獲得と喪失、成功と失敗、幸福と不幸、それらは、この世でしか味わえない貴重な経験であり、相対性を通してこそ様々な人生ドラマを体験することが叶うのでしょう。

 

 人が味わう様々な感情は、愛か恐れから生じると言われています。愛からは、喜び、楽しさ、安らぎなどが生じ、恐れからは、苦しみ、恐怖、憎悪などが生じます。しかし恐れは愛を見失ったときに生じると思われますので、多くの感情は愛に起因しているといえるでしょう。つまり愛があるときと愛を見失っているときです。愛は人の本質であり実存ですので、実際に失うことなどできるはずはありません。ですので、愛を見失ったと感じるときに生じる恐れは、人が作り出した幻想にすぎません。


 初めから苦しみという色のついた事象はありません。あらゆる事象は、人がそこに「苦しみ」とか「喜び」という色を付けるまでは、無色でありニュートラルなものでしょう。

 

 ブッダもパンニャースートラ(般若心経)では、真実の世界からみれば、苦しみ(四苦八苦)はすべて実態のない空なのだと説かれています。しかし、この世に生きる人としては、それは自分が作り出した幻想だと説かれても、一定の境地に達するまでは「苦しみ」は紛れもなくあるものだと言えます。そして、この人生で出合う「苦しみ」こそが、人を悟りへと導く力となるのです。
 

シルバーバーチは次のように説きます。
 

 「霊的真理は、単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来上がります。どうもその点がよく分かっていただけないようです。種を蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。養分が揃っても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもうまくいき、鼻歌まじりの呑気な連続では、神性の開花は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。」

―書籍『シルバーバーチの霊訓(一)』より
 

サイババ様も次のように説かれます。
 

 「今、人が捜し求めるべきものは喜びではありません。また、悲しみが人の目標なわけでもありません。人は喜びや苦痛の原因を自分の支配下に置くべきです。喜びよりも苦しみが人の叡知を呼び覚ますのです。もし、偉人の生涯を研究するなら、困難と苦しみから英知を見出したことが分かるでしょう。悲しみがなければ英知はもたらされません。苦しみこそが、人に多くの賢明な教訓を与えてくれるのです。この深遠な真理を悟ることなく、人は際限なく喜びを追い求めています。人が幸せになる必要があるのは当然のことです。しかし、幸せはどのようにして得ることができるのでしょうか? 人は悲しみを克服して、初めて幸福になることができるのです。ですから、人は誰もが、幸福を迎えるのと同じ気持ちで悲しみを歓迎すべきです。
 

悲しみと喜びは混じり合っている。

悲しみと喜びを引き離すことは誰にもできない。

喜びは決して単独では存在しない。

苦しみが取り除かれたとき、人は喜びを味わう。
 

 (中略)人は自分に何が起ころうとも、それを神からの贈物として扱うべきなのです。喜びも苦しみも、神からの贈物として同等に扱うようにしなさい。そのプロセスには比類のない喜びがあります。日常生活において、私たちは、失敗や損失や悲しみを不幸ととらえがちです。しかし、この世で原因なく起こることは何もありません。ものを食べる原因は空腹です。水を飲む原因は喉の渇きです。悲しみの原因は苦難です。もし永遠に続く幸福を味わいたいなら、その幸福の源を探さなければなりません。その源はプレーマ(愛)です。この世に愛より偉大なものはありません。あらゆるものには対価があります。


 永遠に続く幸福に対して支払うべき対価は、神聖なる愛です。愛がなければ、どんなものもあなたに真の幸福をもたらすことはできません。ですから、人にとって一番の富は愛です。誰もがその富を得ようと努めるべきです。その富を持てば、誰も皆、永遠の続く至福を味わうことができます。」

-1998年1月1日の御講話より
 

 苦しみが私たちを鍛え、神へと導かれるものであることが了解されたとしても、もし耐えられないほどの苦しみがあるときには一体どうすれば良いのでしょうか?その場合は、次の言葉を覚えておく必要があります。

 

 「霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされることは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。」

―書籍『シルバーバーチの霊訓(一)』より
 

 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

-新約聖書「コリント人への手紙」より


 つまり、耐えられないほどの試練は与えられないと言われているのです。一見、誰が見ても過酷な試練に陥っている姿をニュースや新聞などで目にします。何と理不尽なことかと心を痛めます。しかしそれが、もし我がことの場合であったとしても、それらの言葉は、耐える力と、それに立ち向かう勇気を与えてくれるのではないでしょうか? 私たちは神様の最大の配慮の中で生きています。ですので、かならず立ち向かうことができる力を持っているはずなのです。

 

 多くのサイババ様の帰依者は、サイババ様に導かれるべくして導かれています。それは、やはり何かの苦難をきっかけとしていることが多いのではないでしょうか?それは神からの招待状であり、神からの導きなのだと思われます。そのように考えれば、苦しみや困難には私たちが思う以上に隠された意図があることが分かります。

 

 苦難や困難には、もう一つの側面があります。スポーツ全般にいえることですが、ゴルフにしても、テニスにしても、サッカーにしても、もし簡単に勝利を収めることができれば、ゲームは決して楽しめるものにはなりません。もし打ったボールがすべてホールインワンになれば、ゴルフはつまらない運動になります。もし打ったボールがすべてウイニングショットになれば、テニスは楽しいものにはなりません。もし蹴ったボールがすべてゴールインすれば、サッカーは単なる運動にしかなりません。
 

 一定のルールの中で、どうすれば対戦相手に勝てるかなどの様々な克服しなければならない課題に挑戦し、その結果、勝利を得ることができればこそ、これはやりがいのあるスポーツになります。人生においても同様ではないでしょうか?

 

サイババ様は次のように説かれています。
 

 「人生というゲームは、制限や制御をするための限度と規則がある場合にだけ楽しくなるものです。サッカー場でのルールも制限もないサッカーの試合を想像してごらんなさい。その試合はまったくの混乱状態になるでしょう。自由な戦いになって、暴動と化してしまうでしょう。誰が勝ったのか、どのようにして勝ったのか言える人もいません。ダルママールガ(ダルマの道)とブラフママールガ(ブラフマンの道)は、場の境界線です。徳のある人は邪悪な性向と戦います。『ファウル』と『アウト』という警告に注意しながらゲームをしなさい。 」

-1960年のアナンタプルでの御講話より

※シルバーバーチ

モーリス・バーバネルが霊媒となり、そのメッセージを伝えたとされる霊の名。(Wikipedia - 2024.3.2 引用)

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​歓びの人生にする秘訣

 「我、煩悩具足の凡夫なり」という言葉を発した宗祖がいます。これは、誰かと言えば、9歳で仏門に入って20年、比叡山で血を吐く難行苦行に専心され、後に浄土真宗を開いた親鸞聖人です。その意味を分かりやすく言えば「私は、煩悩から抜け出せない、聖人とは程遠い人間です」という意味になります。 

 

 親鸞は、弟子の唯円から「私は念仏を唱えましても、躍り上がるような喜びの心はなかなか生まれませんし、また急いであこがれの浄土へ参りたいという気持ちもないのです。これはどうしたことなのでしょうか?」と質問されて、「私も同じような疑いを抱いて今に至っています。あなたも同じだったのですね」と答えられています。(「歎異抄にであう」阿満利麿著より)

 

 驚くべきことに、親鸞でさえ煩悩を克服することができなかったということです。しかし、この「私は凡夫である」という自覚ができることは凡夫ではないことを証明しているのかもしれません。極限の修業を積んだ者が発する言葉は、何の修業も行わず、内省する習慣のない、いわゆる凡人の言葉「私は凡人です」とは全く違います。

 

 親鸞の言葉は、人間という存在は、煩悩を自分の力で何とかしようとしても決してできるものではないという、人が持っている性(さが)を諦観した言葉であり、自らを省みて達した究極の真理なのだといえます。それは個人が感じた挫折ではなく、悟りの境地なのでしょう。

 

 そして、この冷徹な人間観こそが、出家して高度な修行などできない、すべての凡人のための救いとなるのですから分からないものです。親鸞が去って、時が流れると、その諦観から生まれた親鸞の教えがだんだんと変質してきます。このように親鸞の教えと異なってきたことを弟子の唯円が嘆き記したものが歎異抄でした。

 

 この歎異抄に書かれている有名な言葉があります。「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」です。これは「悪人正機」として知られています。つまり、「善人が救われるのであるから、なおのこと悪人は救われる」という意味ですが、普通の常識とは逆の言葉に途惑う方もいるかも知れません。この言葉を理解するためには、善人とは誰であり、悪人とは誰のことかを理解する必要があります。

 

 この場合の善悪とは道徳的な観点や法律上の観点からの見方ではなく、仏教的な観点から見たものだと言えます。それによれば、善人とは、戒律を守り、瞑想や坐禅などもできる正しく修行をしている人のことをさし、そして悪人とは、自分の力で仏教の教えを実践できない人、戒律を守れと言われてもついつい煩悩に負けてしまう人のことをさしています。

 

 では、なぜ悪人が善人に比べてなおのこと救われるのでしょうか?ここに阿弥陀仏の本願があるといわれています。つまり、自分の至らなさを自覚し、自分の力では煩悩を克服することなど出来っこないと信じている凡夫にとって残された道は、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えさえすればどんな人でも救うとする阿弥陀仏に頼り、身を委ねることでしょう。いや、それしかないと言った方が良いでしょう。これなら、どんな凡夫にもできるはずです。

 

 ここに弱者を救済する他力本願の真髄があるようです。それに対し、自らの力に頼ることができる善人は、自らの力で自己救済をしようとするでしょう。しかし、自力本願は厳しい道になるといわれています。ひとたび阿弥陀様に頼り「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば救われるというのは、私たちの言葉で言えば、すべてを神様に委ねる全託(シャラナガティ)であり、「南無阿弥陀仏」という唱名は、ナーマスマラナム(御名を繰り返し唱えること)だと言えます。

 

 サイ ババ様は、「ひとたび私たちの心(マインド)を完全に神に委ねれば、神は私たちのあらゆる面倒を見る」と言われています。神様や仏様にわが身を託し、共に生きる。これほどの安心はありません。
 

 どんなことがあっても面倒を見てくださる神様がついてくださるのですから、歓びの人生になります。

 

 キリスト教の聖書(ルカによる福音書)に次のような記述があります。

 

 イエスは次のたとえ話をされた。「二人の人が祈るために神殿に上がった。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 ファリサイ派の人とは、律法の掟に従い生活を律している非のない人たちです。その正しい生活をしている人のどこがいけないのでしょうか? 正しい行い自体には問題はないでしょう。しかし、聖書に出てくるこのファリサイ派の人の言葉には、私が行為者であるという自我意識がにじみ出ています。そして、自分の眼鏡で徴税人を裁いています。神の掟に従っているという自負がそうさせたのかも知れません。真の正しさとは、そこに愛があるかどうかでしょう。それは人に要求するものではなく、自らを律するためにあります。

 

 神様は、ファリサイ派の人のように非がないゆえに愛するのではなく、罪人であっても、他の人と同様に、いやむしろ罪人であるからこそ、神様は自分を頼るものを我が子として愛し、慈しんでくださるのではないでしょうか? この仏教の他力本願とキリスト教の教えは共通していているように感じます。それは、人に対する慈しみであり、人の弱さを包含し抱き留め、そしてそのまま導く愛です。

 

 私たちは、煩悩を克服する努力を続けなければなりません。正しく生きようと努めなければなりません。すべての人を愛し、すべての人に奉仕し、誰も傷つけないようにしなければなりません。想いと言葉と行いを一致させなければなりません。欲望や怒りや嫉妬を克服しなければなりません。しかし、それらが完全にできなくても自責の念に駆られることがあってはいけません。

 

 完全にできる人などいません。完全でないからこそ人として生まれているのです。大切なことはそれに対する努力をし続けることでしょう。神様が見ているのは、行為ではなく思いやその努力ではないでしょうか? 霊性修行者は自らが正しいと思った瞬間に、つまずくのかもしれません。法然でさえ自らを愚痴(ぐち-おろかの意)、親鸞は自らを愚禿(ぐとく-おろかの意)と言いました。人は自らを省みて、自らの愚かさを忘れないようにしなければなりません。その自覚がなければ足元をすくわれることになります。人は自力で生きることなどできません。自力で親猿にしがみついて生きる子猿より、親猫に咥えられて生きる子猫の方が安心の中で生きることができます。私たちは大いなる存在に生かされているのです。すべてを神仏に託した生き方、それに勝る安心と平安な生き方はありません。それは、人生をまことに歓びの人生にするための秘訣だと言えるでしょう。

 

全託の祈り

 なぜ心を騒がすのですか? あなたのすべての問題を、私に解決させなさい。それらの問題について考えるのは、この私です。私がひたすら待っているのは、あなたが私に全託することだけです。そうすれば、今後あなたは、どんなことに関してもまったく心配する必要がなくなります。あなたのいっさいの恐れや落胆に別れを告げなさい。

 

 全託とは、あなたの思いを問題から引き離すことです。困難や悩みから思いを引き離すことです。あらゆることを私の手に委ねて、「主よ、あなたの御心が行われますように」と言いなさい。それはつまり、「神様、あなたがすべてを御手にお引き取りくださって、私にとって一番よいように解決してくださることを感謝します」と祈ることです。

 

 結果について考えるのは、全託の反対であることを覚えておきなさい。つまり、何らかの状況があなたの望む結果になっていないと言って心配するのは、あなたに対する私の愛をあなたが信じていない証拠です。

 

 決して、「これはどうなってしまうのだろうか?・・何が起きるのだろうか?」などと考えてはなりません。あなたは私にそれを処理してほしいのですか? イエスですか? ノーですか? イエスであれば、あなたはそれについて心配するのをやめなければなりません! たとえ私が、あなたの期待とは違う道にあなたをみちびかなければならなかったとしても、「私があなたを両腕に抱えている」のであることを覚えておきなさい。

 

 あなたを深刻に悩ませるものは、あなたの理性的思考であり、あなたの不安であり、あなたの強迫観念であり、いかなる代償を払ってでも自分のことは自分でしようとするあなたの意志なのです。そんなに悩むことはありません。悩む代わりに、たとえ悲しい状況でも、こう祈りなさい。

 

 「神様、この問題を、この困窮をお与えくださったあなたを讃えます。どうか、この束の間の一生を、御心のままにお計らいください。あなたは、私にとって何が最善かを非常によく御存じです。」

 

 災難が減るどころか増えるばかりだと感じる時もあるでしょう。動揺してはなりません。眼を閉じて、信ずる心で私に言いなさい。「あなたの御心が行われますように。その問題は、どうぞあなたが考えてください。」そうすれば、必要なら私が奇跡を起こします。私はいつもあなたを想っていますが、あなたが完全に私に頼り切る時にしか、私はあなたを完全に助けることはできないのです。

 

―サティヤ サイ ババ

プラシャーンティ ニラヤムの

ウエスタンキャンティーンのボードの御言葉

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​霊的視野を広げる

 世の中には、胎内記憶を持つ子供たちがいるそうです。その子供たちは、生まれる前の記憶を持ち、その多くは母親を助けるために生まれてきたと証言しているようです。これは、生まれる家庭や環境を自分で選択していることを意味しますので、にわかには信じることができない人もいると思います。でも、身近にそのような記憶を持つ子供がいると、「そうなんだ」と比較的容易に信じることができます。知り合いの子供ですが、3歳の時に「お母さんは、他の子供には人気がなかったけど、僕には人気があったから選んだんだ」と母親に打ち明けています。

 

 このような胎内記憶や、過去世の記憶を思い出させる退行催眠などは、確かに人間は単に肉体的な存在ではなく、それを超えた霊的な存在であることを示すものだと言えるでしょう。

もちろん、そのような例を持ち出すまでもなく、サイの信者や霊性の探求者には、人間は単に肉体的な存在でないことは、いわば常識であり驚くことではありません。しかし、その霊的知識を自分の生き方にどれほど取り入れているかとなると、話は別になるのではないでしょうか?

スワミはどんなに霊的知識を持っていてもそれを実践しなければ何の意味もないと説かれています。私たちの人生を、そして人生で直面する様々な出来事を、肉体の目で見るのか霊的な目で見るのかは、人生に決定的な影響を与えます。霊的視野を広げて世界を見るようになれば、世界は今までとはまったく違う姿を見せることになると思われます。

 

(人生に対して)

 肉体の目で見れば、人間は誕生して、老いて、病気になり、やがて死んでいく存在です。どんなに楽しい時があったとしても、その事実の前ではすべてが空しいものになるでしょう。

一方、霊的な目で見れば、それとはまったく違う世界が広がります。肉体は魂(アートマ)の乗り物であり、乗り物が古くなったり故障したり、最後に動かなくなったとしても、それは乗り物(肉体)に生じる現象であり、自分自身に起こることではありません。自分自身は永遠不滅の魂であるという自覚は何より人生に勇気を与えてくれます。

 

 また、肉体の目では、人は自分の力で生きているように見えますが、自力に頼る生き方は絶えず不安や恐れがつきまといます。それに対して霊的な目では、人は大いなる存在に生かされているので不安や恐れのない生き方になります。

さらに、肉体の目では、人の誕生は偶然の産物でありそれ以外のものではありません。しかし、霊の目で見れば、人間として生まれることは偶然ではありません。今の家族のもとに生まれたのも、今の環境に生まれたのも、今の体に生まれたのも偶然ではなく、自らの選択の結果だということになります。だから親子喧嘩のセリフで「誰が産んでくれと頼んだ?」というような恨み節は通用しません。誕生は自らの意志の結果だからです。

 

 ある時、スワミは身体的なハンディキャップを負って生まれた方々に車いすを贈られたことがありましたが、その方々は高貴な魂であると言われたことがありました。これは、身体的なハンディキャップを自らに課して生まれるというとてもチャレンジングな人生の例だと言えます。そのような事例に接すると、肉体的な見方はいかに表層的かと感じざるを得ません。そしてその挑戦の姿に敬意を表したくなるはずです。

 

(家族に対して)

 肉体の目で見れば、家族とは血縁で結ばれた関係だと言うことができます。それは親や兄弟姉妹という関係であり、そのつながりは偶然だと言えるでしょう。この世に生きている限り、血縁としての家族関係も大切にしなければなりませんが、霊の目で見れば、家族は偶然の仲間ではなく、魂を高め合うために集っている霊性の仲間です。そう考えれば、家族とは血縁以上の意味を持つ大切な関係だと言えるでしょう。

 

(人生の目的に対して)

 霊的な立場では、人生には明確な目的があります。スワミによれば、私たちは何度も繰り返しこの世に生まれ変わっているとのことですが、それは私たちが、未だにその目的をクリアできていないからなのでしょう。 

過去を振り返れば私たちの挑戦の歴史は古く、私たちが人間として生まれる前まで遡らなければなりません。スワミは次のように説いていらっしゃいます。

 

サイ ババ様の御言葉

 「人間は長い間鉱物として生まれ、次に樹木となり、進化の過程で動物へ昇格し、最終的には人間の地位まで登ったのです。もし人が鬼や獣の性質にまですべり落ちたとすれば、それは大いに恥ずべきことです。人は神の状態にまで登ったときに初めて賞賛を受けるに値するのです。それが私たちの運命を全うするということです」

バーガヴァタ ヴァーヒニ第一章より

 

 スワミは、私たちが人間として生まれることは限りない幸運だと言われています。それは人間だけが自らの実在に気づいて神の状態に到達することができるからなのでしょう。私たちの人生は神を悟るためのものであり、単に楽しく生きるためのものではないことを覚えておかなければなりません。

 

 聖書には「犂(すき)に手を掛けたならば、後ろを振り返ってはならない」という言葉があります。これは一旦霊性の道を耕し始めるという境地まで達したならば後(世俗)戻りしてはいけないという意味のようです。このように霊的な目で見れば、人間として生まれた目的は、肉体の目のものとは全く違ったものであることに気づきます。

 

(死に対して)

 肉体の目で見れば死は無に帰することであり、そこには悲しみや苦しみしかありません。しかし、霊の目でみれば死は決してそのような不吉なものではありません。

 

サイ ババ様は次のように説かれています。

 「死について黙想することは、霊性修行の基盤そのものです。それをしなければ、間違いなくあなたは感覚の楽しみを追い求め、世俗的な富を蓄積しようと努めて、過ちに陥ることになります。死は決して不吉な災難などではありません。それは目に見える世界を超えた吉兆に満ちた光に向かう一歩です。死は避けることができません。わいろによってそれを遠ざけたり、善い行いをしたという証明書や、偉大な人々の証言によって延期したりすることもできません。いったん生まれた以上、死は避けることができません。あなたは、悪い結果を招かない行為に携わらなければなりません。毎日、神への捧げものと考えながら、一つひとつの行為に携わりなさい。そうすれば、あなたは繰り返し生まれる必要はなく、死を免れることができます。これを追求することは、霊性の道の核心であり、不滅の命を手に入れる助けとなります」

―1970年7月18日の御講話より

 

 人生の最期に待つ死を、恐れや苦しみではなく光の世界に向かうための喜びにすることができれば、自分の死に対しても家族や他人の死に対してもまったく違う見方ができます。スワミは死を避ける唯一の方法は、(死のあるこの世に)再び生まれてこないことだと説かれています。

 

(苦しみや困難に対して)

 人は生きていると実に様々な苦しみや困難に出合います。病気や貧困、愛する人との別れ、人間関係のもつれなどなど数えれば切りがありません。インド、ルンビニーで王子であったシッダールタ(後のブッダ)は、この世は四苦八苦の世界であると悟られました。確かに肉体の目でみれば、それは誰も否定することのできない厳然たる事実です。

しかし、霊の目では苦しみや困難を否定的に捉えるのではなく、自らの成長のためと肯定的に捉えることができるのです。人は安楽の中では決して成長することができません。苦しみや困難に直面して初めて、心から神の救いを求めることになります。その意味では苦しみや困難は霊性への入り口だといえるでしょう。ですので、困難は人を鍛え、真の恵みとなります。そのことを記した、ある無名兵士の詩があります。

 

大きなことを成し遂げるために

力を与えてほしいと神に求めたのに

謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった

 

偉大なことができるようにと

健康を求めたのに

より良きことができるようにと

病弱をたまわった

 

世の中の人々の称賛を得ようと

成功を求めたのに

得意にならないようにと

失敗を授かった

 

人生を享受しようとして

あらゆるものを求めたのに

求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた

 

神の意に沿わぬ者であるにも関わらず

心の中で言い表せない祈りは

すべて叶えられた

 

私はもっとも豊かに祝福されたのだ

 

 ある現象や出来事には最初から困難とか苦しみという色がついている訳ではありません。肉体の目でみれば苦しみや困難に見えることでも、霊的な目でみれば神の祝福とさえ捉えることができると言うことでしょう。

 

(幸福や喜びに対して)

 肉体の目から見た幸福は、健康で笑顔のある家族や、何不自由のない暮らしができるお金や財産に恵まれることなどでしょう。それらを否定する必要はありませんが、霊的な目からは、それらとは違う幸福や喜びがあります。

混同すべきでないのは、快適さと幸福の取り違えです。快適さは身体に関係するものであり、幸福は心に関係するものです。真の幸福は決して外側にあるものではありません。真の幸福は自らを満たすものから生まれるのではなく、むしろ自らを犠牲にすることで得られるもののようです。そしてさらに喜びは、私たち人間の想像を遥かに超えているようです。

 

サイ ババ様の御言葉

 「我らが古代人たちは、体験し得るさまざまな歓喜と幸福を分類しました。その最も下の種類は、マーナヴァーナンダで、これは人間が日常生活の中で味わう喜びのことを指しており、この世の物や存在や事柄に関係しています。この千倍大きなものが、ガンダルヴァーナンダすなわち「天界の存在」が味わう幸福です。ダイヴァーナンダは、その次に高い水準の幸福で、ガンダヴァーナンダの千倍の大きいものです。これはデーヴァすなわち「半神」の味わう歓喜を差しています。ダイヴァーナンダよりさらに大きなものが、プルハスパティアーナンダ、すなわちプルハスパティというデーヴァの師たちが味わう至福です。その千倍大きなものがプラジャーパティアーナンダ、すなわち、プラジャーパティ(古代インドの聖典では、プラジャーパティは創造の実際的な側面に関わるものとされる)の味わう歓喜です。ブラフマーナンダは、プラジャーパティアーナンダより千倍大きなものであり、尺度の限界内で測れる最大の歓喜です。人間が切望し、通常それで甘んじているマーナヴァーナンダと、人間が本当に求めるべきブラフマーナンダの間を、どれほど巨大な溝が隔てているか分かりますね」

―2000年5月23日の御講話より

 

 この御言葉は、私たちの目から見れば、想像を超えた大きな喜びや世界があるということを示しています。でも、そんな大きな喜びなど求めなくても良い、今の小さな幸福で十分と考えるのは多くの人が共感できることではないでしょうか?しかし、その喜びが世俗的なものであるかぎり、それは永続するものではないでしょう。なぜなら、人間の味わう喜びは、失われやすく最後には悲しみに変わる可能性があるからです。なぜならこの世の喜びと悲しみは、一枚のコインの表面と裏面だからです。それを知っておくことはこの世に巻き込まれないための霊的視野といえるでしょう。

「この世の楽しみはひと時だけ、霊において生きる方がはるかに充実する」という言葉もあります。大切なことは世俗の中にも霊の表れを見る視力を持つことではないでしょうか?なぜならすべては神の顕れだからです。

 

 霊的視野を広げることは私たちの人生を真に意味のあるものにします。私たちは、今生の人生にフォーカスして生きることが大切ですが、同時に、魂の旅路の辿って来た足跡やこれからの未来を見据える霊的視野を持ちながら今を生きることが大切だと思われます。

 

サイ ババ様は次のように説かれています。

 「見えるもの、実際に存在するように見えるものは、時の流れの中で過ぎ去る運命にあります。現象界の中で見えているものはすべて、いつか消え去る運命にあります。私たちは、目に見えない不滅なるものを知るために、あらゆる努力を払うべきです。計り知れない能力を授かっている人間が、肉眼で見えるもので満足するのは正しいことではありません。そのような目は、野獣にも鳥にも、昆虫にも病原菌にも、等しく備わっているのです。それでは、人間に与えられた視覚の独自性は何でしょうか?確実に人として誕生することは難しいのだということを、理解しなければなりません。この特権を得ているのですから、人間は肉眼で見えるもので満足してはなりません。人間は叡知の目を獲得しなければならないのです。肉眼でさえも、知識を得る助けとなるではないかという議論があるかもしれません。目はすべてを見ますが、自分自身を見ることができません。自分自身を見ることができない目が、どうやって心(マインド)を見たり、マーダヴァ(主)を見たりすることができるでしょう?主を見るためには、肉眼は役に立ちません。そのためには、叡知の目を獲得しなければなりません」
 

-1995年10月22日の御講話

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霊性の向上を妨げる
2大障害

 霊性の向上を妨げる2大障害があります。心の領域においては、『劣等感』、身体の領域においては『五感への欲望』だと言われています。

 

(劣等感の障害)

 我々の人生を苦しめる劣等感は、霊性向上の障害となります。劣等感からは、嫉妬、怒り、貪欲、高慢などの否定的な感情が生じます。

それらは、自らが作り出した実態のない迷妄であり自我(エゴ)を強化し、いつも心を外側に向けさせます。

 

 旧約聖書にカインとアベルの話があります。アダムには二人の息子、長男のカインと次男のアベルがいました。「カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに捧げものとして持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその捧げものに目を留められたが、カインの捧げものには目を留められなかったので、カインは大いに憤って顔を伏せた」とあります。主はなぜそのようにされたのでしょうか?この一節にはどんな意味があるのでしょうか?

 

 これについて、次のような解釈があります。カイン的、アベル的という言葉がありますが、カイン的とは、いわば生活の空いた時間に祈りを捧げ、アベル的とは、生活の中心に祈りを置いていたという違いを象徴しています。

捧げものは、農作物の余ったものを捧げたのか、主に捧げるために農作物を作ったのかは、捧げるという行為は同じでも、まったく意味が違います。神様は行為を見ておられるのではなく、その心(動機)を見ておられるのでしょう。

 

 誤解があってはいけませんので、付け加えたいと思いますが、神様は捧げものを要求されることはありません。すべてが神に属するものであれば、神ご自身のものを、神ご自身が求められることはありません。私たちが捧げることができるのは、捧げるという行為を通した神への献身であり神への感謝でしょう。

 

 さてその結果、カインはアベルに嫉妬して最終的には弟のアベルを殺してしまいます。嫉妬は劣等感から生じます。劣等感は他人との比較、親などの期待に応えられないとき、失敗の経験、家庭環境などから生じます。その心は神ではない何かに向いているといえるでしょう。

しかし、同じ境遇であっても劣等感を持たない人もいます。それを考えれば劣等感などの否定的な感情は本人が作り出した幻想だといえます。

もしカインがアベルのようであれば、主がアベルの捧げものに目を留められて、自分の捧げものには目を留められなかったとしても、そのような嫉妬は生じなかったのだと思います。

 

 この聖書の一節は、表面的なあらすじに内的な意義を読むことができるとされています。カインは世俗的であり、アベルは霊的であるとされていますので、私たちの中にある霊性に向かう力(アベル)は、世俗へ引っ張る力(カイン)と兄弟のように同居しており、つまずけば世俗の力に殺められるというものです。

世の中には、いつも怒りを持っている人、やたらに攻撃的な人、有名人と親しいと吹聴する人、金持ちであることを自慢する人、いつも難しい言葉を使う人、家族や自分の幸せを自慢げに話す人たちがいます。このような人たちは、本人は気づいていないかも知れませんが、「劣等感」が潜んでいる可能性があります。

そうすることで承認欲求を満たし劣等感を覆い隠すことができるからです。

 

 劣等感からは人生のバネになるエネルギーも生まれますが、それは他人に対する「負けるものか」という負のエネルギーです。ある時、飛行機の中で、有名なお笑いタレントと乗り合わせました。その人の口癖は「負けたらあかん」でした。その人は芸能界では成功した人だと思いますが、そのような満足は真の喜びをもたらすものではないでしょう。今思い返せば、やはりその人の中にあったエネルギーは劣等感に根差したものだったのだろうと思います。

 

 劣等感は本来自由な意識を制限し、霊性の向上の妨げになります。自信から自己満足が生まれ、自己満足は自己犠牲をもたらし、自己犠牲から最終的には自己実現へと導かれていくと言われますが、その最初にある自信を培うためには、劣等感を克服しなければなりません。

劣等感を根本的になくすためには、「自分は神の力を受け継ぐ永遠の魂である」という真実に目覚めることが求められますが、知識が体現された確信になるためには、それなりの時間が必要になるでしょう。

 

 しかしもう一つの方法があります。これはある人から聞いたお話ですが、「神様が私たちに何を望まれているかを考えて、そのように人生を営んでみる」という方法です。 

その生き方は、世間や他人を気にしていた心を、神様に向けることで、他人と比較する意識を解放し、意識を自由にするのでしょう。どんな人も自分の意識に縛られています。それを解放するのは、意識の向きを神様の方向に変えることです。

 

 自分の人生に神様を招き入れ、アベルの生き方に一歩近づいてみる、神様が私たちに何を望まれているかを考え、一日だけでもそうしてみる。その体験で何かが変わるはずです。私たちが一歩近づけば神様は百歩近づくと約束されています。その生き方は、霊性向上の障害となる劣等感や、自己否定、怒り、悲しみ、嫉妬などの不要な感情を解放することになるでしょう。霊性の向上とは何かを付け加えることではなく、不要なものを捨て去ることだと思います。主がアベルを祝福されたように、全託の誠を愛でたもう神様は私たちに限りない恩寵を注いで下さるでしょう。

 

(五感への欲望)

 人間の身体に与えられた五つの感覚器官は、生きていくためにはなくてはならないものです。見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れることが出来なければ、外界を認識することさえできません。ですので、感覚器官は必要なものであり、それ自体が霊性向上の妨げになることはあり得ません。

美しい物や人を見て美しいと感じることは自然なことです。美しい音楽を聴いて心地よく感じるのは自然なことです。美味しいものを食べて美味しいと感じるのは自然なことです。良い香を嗅いで気分が良くなるのは自然なことです。

 

 問題となるのは、感覚を通して入ってくる刺激に執着することです。心がそれに囚われると、もっと感覚を満たしたいという欲望が生じ、その欲望は満たせば満たすほどさらに大きな欲望になって人を感覚の奴隷にしてしまいます。

そのような中毒状態になると、そこから離れることは容易なことではありません。

古来、出家した修行者は肉体的な欲望などの煩悩を遠ざけるために、山に籠り修行したわけですが、そのような高度な修行を行う修行者でさえ、それらに完全に打ち勝つことは難しかったと思われます。ましてや、現在の社会は刺激的なものに溢れています。

 

 五感への欲望の虜にならないために、スワミは、「感覚のコントロール」と「欲望に限度を設ける」ことを説かれています。これは帰依者の皆様にはよく知られた御言葉ですので、改めてお伝えする必要はないと思いますが、あえてその実用性を強調させていただききたいと思います。

 もし、感覚のコントロールをしなければどうなるでしょうか?誰もが経験したことがあると思いますが、必ず様々な副作用が生じ後悔することになります。もし、欲望に限度を設けなければどうなるでしょうか?必ず欲望は増殖し、執着を増し、最後には中毒になってしまいます。

 

スワミの御言葉です。

 「今日、欲望と怒りは人間の内で猛威を振るうようになっています。怒りに満ちた者は、違いを見つけ出し、憎しみを育てはじめます。新聞を読めば、人間の怒りと憎しみと嫉妬心を雄弁に物語る数多くの記事が載っています。それらの邪悪な傾向は、憎むべき人間の敵です。人々は惑星の悪影響について心配しますが、欲望と怒りこそが、人類に最大の危害を引き起こす二大惑星なのです。確かに欲望は人間にとって必要不可欠なものですが、過度な欲望は危険をもたらします。欲望は限度内に留めるようにしなさい。」

ナフ スレーヨー ニヤマム ヴィナー

(抑制がなければ幸福もあり得ない)

2003年4月2日の御講話より

 

 スワミは欲望をなくせとは説かれていません。欲望に限度を設けなさいと説かれています。限度はどこにあるのでしょうか?それはそれぞれで設定しなければなりません。それを設けてその自制のなかで人生を歩むことは人生を安全にし、トラブルから防ぎ、幸福をもたらすものとなるでしょう。

 

スワミの御言葉です。

 「心(マインド)の中にある衝動は、五感を動かし、感覚器官そのものよりも強力です。目は見るための道具に過ぎませんが、見ることそのものが目を凌駕する力なのです。同様に、聴覚も単なる耳よりも高次の力です。心(マインド)は感覚器官よりも優れており、心(マインド)の上には識別の力である理智(ブッディ)があります。理智の上には、生気を吹き込む生命原理(ジーヴァ―トマ)があります。ジーヴァートマ(個我)の上には、至高我(パラマートマ)があります。個人と神の間には、魅力的な錯覚を引き起こすベールであるマーヤー(迷妄の力)があります。このベールが剥がれると、個我と遍在する普遍我が一体となります。悟りを求めて五感が理智(ブッディ)へと向かうと、神の至福が流れ始め、神聖な魂の栄光が明らかになります。理智(ブッディ)は、内面へ向かう探求を促します。感覚器官はすべて外界の物体に向かって開かれていますが、真の霊性修行(サーダナ)は、視線を内面に向け、押し寄せる流れに逆らって泳ぐことから成ります。感覚器官を内面に向ければ、真我顕現というゴールがどれほど近くになるのか、真に理解している人はほとんどいません。」

-1983年7月24日の御講話より

 

 五感という道具をどのように使うかは、人間の自由です。美しいものを見れば感動し、美味しいものを食べればみんな幸せな笑顔になります。それはとても自然で好ましいものです。感覚は生きる喜びを与えてくれるものです。それが本来の姿ではないでしょうか?それを苦しみの道具にしては台無しです。そうさせないためには、感覚をコントロールすることと、欲望に限度を設けることがマストです。

 五感は動物にも与えられています。それは単に生きるための道具でしょう。しかし、高度な精神活動ができる人間はそれを超えて、五感を、神を悟る道具とすることができます。見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、感じるもの、すべてに神を感じることができます。それはすべての人に与えられた人としての特権のように思えます。

川のせせらぎの音に癒されるのはなぜでしょうか?大自然の中にいれば大きな愛に包まれているように感じるのはなぜでしょうか?そこには神の存在があります。五感はコントロールすれば、人生を豊かにしてくれると共に、神様を実感するための道具とすることができると思われます。

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自己実現への3ステップ

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 自己実現にいたるためには、自己信頼、自己満足、自己犠牲という3つのステップを進まなければなりません。この場合の自己とは、アートマのことを意味しており、言い換えれば、アートマを信頼すること、アートマを満足させること、アートマに犠牲を捧げることの3つのステップと言えます。それらを経て自己実現、つまりアートマが実現されることになります。

 

 第1ステップ

 自信(アートマを信頼すること)

 

 自信には世俗的な自信と霊的な自信があります。一般的に世俗的な自信は、何かの能力や才能、肉体的な力や美貌、学歴や家柄、お金や財産などから生じます。しかし、このような自信は、他人との比較の上に築かれた幻想だと言えるでしょう。このような自信は一時的であり、いずれ時がたてば失われてしまいます。

それに対して、霊的な自信は一度得ることができれば決して失うことはありません。

 

 スワミは次のように説かれています。

 

 「あなた自身への揺るぎない信心、健康で長生きし、両親と国の助けになれるあなたの能力への揺るぎない信心を持ちなさい。これが自信(アートマヴィシュワーサ、真我を信じること)です。これが人生という樹の根です。」

―1968年5月13日の御講話より

 

 ここで説かれている「あなた自身への揺るぎない信心」は、自分は単なる肉体的な存在ではなく、神の力を受けつぐ、永遠の魂(アートマ)であると信じることから生まれるものでしょう。その確信は、自分自身を苦しめていた劣等感や自己卑下などを霧消させ、また優越感や慢心なども霧消させます。そして、自分の置かれている状況がどのようなものであれ、それとは関わりなく自己の存在を肯定することができるようになるはずです。

 

 スワミは次のように説かれています。

 

 「自信を育みなさい。どのような状況のもとであれ、自尊心を保っていなさい。この二つを持たずに人生を送ることに意味があるでしょうか?あなたは、貧しく、弱いかもしれません。不名誉を被ることがあるかもしれません。しかし、常に自尊心をもっていなさい。」

―2002年11月19日の御講話より

 

 第2ステップ 

 自己満足(アートマを満足させること)

 

 満足とは何でしょうか?それは一般的には、世俗的な自信の源泉と同じように、何かの能力や才能、肉体的な力や美貌、学歴や家柄、お金や財産などが満たされることでしょう。人として生まれた以上、良識の範囲で欲求を満たすことは決して間違っているとは思いませんが、欲望は増大する傾向があり、自己制御をして良識的な範囲に収めておかなければ、欲望の追求はさらなる欲望を生み出し、結局、不満足感をもたらすというジレンマに陥ります。

 

 欲望をたくさん持っている人はそれゆえに不満感、不足感を抱えています。それに対して欲望の少ない人は、現状に満足しており、心が豊かな人だと言えます。どちらが幸せなのかは言うまでもありません。

 

 スワミは次のように説かれます。

 「貧しい人は最も裕福な人である、と言えるかもしれません。貧しい人の必要は限られているため、貧しい人の味わう満足や平安は、最も裕福な人でさえ味わうことはできません。実際、平安とは満足のことです。不満は精神的苦悩をもたらします。ですから自分の要求を減らし、余った資産を正しい目的のために役立たせなさい。」

- 2000年11月24日御講話より

 

 アートマにとっての満足とは何でしょうか?それはきっと神自らの愛を体験することであり、愛、至福、歓喜、幸福、平安などに浸ることと表現することができると思われます。

 

スワミは次のように説かれます。

 「満足ほど利益をもたらすものはありません。満足は三界よりも貴重な宝です。満足している人は、言葉では説明できない神聖な栄光を味わうことができます。その人は、如意牛カーマデーヌや如意樹カルパタルの持ち主よりも歓喜に満ちています。その人は、自らの内に浸り、そこに至福を見出すことができます。肉体的な喜びを得ようと努力して、内面の平静と満足という、より永続する喜びを放棄すべきではありません。」

- 『坐禅の源流』p.102

 

 「たとえどんなものを得ても失っても、どんな境遇になっても、満足していなければなりません。これは必要不可欠です。足るを知ることは、幸福をもたらし、幸福を増します。人生は、満足している心には終わることのない祝祭ですが、欲に苦しむ心に安らぎはないでしょう。欲があなたを悩ましているのに、集中できるはずがありません。欲望はあなたの体の中にある火です。それはあなたを焼いて灰にしてしまいます。満足はその火を消すのによく効く薬です。焼けつくような暑さの中で疲れて汗を流している旅人が、川の冷たい水を浴びると元気を取り戻すのと同じように、激しく燃える貪欲の火に苦しんでいる人は、満足という澄み切った水で元気を回復します。」

- 『坐禅の源流』p.101

 

 第3ステップ

 自己犠牲(アートマに犠牲を捧げること)

 

 自己犠牲とは、様々な欲望や様々な想いを捨て去ることでしょう。それは、クリシュナの笛に例えられます。クリシュナの吹く笛が、もし人の欲望やマインドで詰まっていたら、笛は良い音がしません。欲望や想いがなく、笛が空洞であれば良い音色がします。ですので、神の思いのままに吹かれるためには、空っぽであることが大切です。

 

 スワミは次のように説かれます。

 「まず最初に、邪悪な性質と欲望をすべて取り除きなさい。これは、ヴェーダが次の言葉で宣言していることです。

 

ナ プラジャヤー ダネーナ ティヤーゲーナイケー アムルタットワーマーナシュフ

(不死は富や子孫や地位によらず、自己犠牲によってのみ得られる)

-   ナ カルマナーの一節

 

 昨今、人々の欲望という重荷はますます増え続けていますが、自己犠牲の意向は見受けられません。人々は、自国への関心を忘れ、個人的な欲求を強めています。一体性を無視して、多様性を楽しんでいます。母国を自分の体と見なしなさい。人はそのような寛大なアプローチへと上昇していくべきです。もちろん、自分の富の一部を犠牲にしている人もいますが、そのような行為にはすべて利己主義の要素が存在しています。真の犠牲は神に対してなされる犠牲です。」

―2000年11月24日の御講話より
 

 取り除くべき邪悪な性質や欲望とは何でしょうか? それは、感覚を満たしたいという感覚への欲望、もっとお金が欲しい、もっと財産が欲しいというような所有欲、もっと認められたい、もっと優越感を持ちたいというような自我欲求などでしょう。劣等感や優越感、自己卑下や高慢、怒りや嫉妬などの自我意識から生まれる感情は生まれる前には持っていませんでした。それらは、生まれた後に自らが作り出したものです。ですので、自分の感情や欲望に注意して、気が付くたびに一つずつ捨て去らなければなりません。

 これに関して、サイババの熱心な帰依者であったラニマー女史は次のように回顧しています。

 かつて、何年もの歳月が過ぎた後、スワミは私の妹と私をインタービューに呼ばれました。スワミはおっしゃいました。

 

 「あなた方は多くのサーダナ(霊性修行)を行ってきました。あなた方は行ってきたすべてのサーダナにより、大変高い段階にまで到達していなければなりません。あなた方の日課は、吟唱、バジャン、読書と霊的な活動がぎっしり詰め込まれています。しかしこれらのすべての霊性修行にもかかわらず、あなた方はまだ到達すべき段階に到達していません。なぜなのでしょう?わかりますか?」

 

 私たちは答えました。

 「いいえ、スワミ。(私たちの行っている)霊性修行が、私たちをその段階に連れて行ってくれると思っていました。」

 

 スワミはおっしゃいました。

 「サーダナ(霊性修行)そのものがあなた方をその段階に連れていくことはできません。それは自己分析(自己内観)とサーダナ(霊性修行)の両方によって成就すべきものです。霊性修行が自己分析と結びつかなければなりません。なぜなら、自己分析のみが、あなたが人間としてどこで道を誤ったかを指摘してくれるからです。」

 私たちはアートマ(真我・魂)のレベルから行動していません。私は今、この世で人間として行動しており、誰かの母親であり、妻であり、姉妹等々です。

 

 スワミはおっしゃいました。

 「自己分析(自己内観)はあなたの過ちを指摘し、霊的にどこが欠けているかを指摘する手助けになります。自己分析をしないのなら、進歩することはできないでしょう。今、あなたは霊性修行を4分の1に減らし、(残りの)4分の3は自己分析しなければなりません。そうすればあなたは急速に進歩するでしょう。」

 

 「あなたがどのように話し、何を聞き、何を行うか、何を食べるか、人生のすべての歩みを細かく分析(注意して検討)しなければなりません。私は正しいことをしているだろうか?それは霊的に大丈夫だろうか?私は正しく考えているだろうか?正しく話しているだろうか?正しいことを行っているだろうか?」

― サイラムニュース2013年11月号 神聖なる師に魅了される瞬間③ ラニマー女史へのインタービューより
 

 なぜ、自分はこのような想いをもつのだろうか?なぜ、このような行為をしたのだろうか? そのような心に引っかかる思いが生じる度に、一度立ち止まり、一呼吸して内省すれば、そこには間違いなく、まだ克服できていない「エゴ」が見つかるはずです。 

 

 それに気がつけば、後は根気よく一つずつ捨てていく、そのような努力が求められます。きっとこのような内省と放棄というプロセスは真我を顕現するために最も効果のある霊性修行になると思われます。

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​神との交流

 この世には神の存在を信じる人と、神の存在を信じない人がいます。神の存在を信じない人に、神の話をすれば、「それは宗教でしょう」とにべもない返事をされることがあります。神の話をするのは非科学的だと思われているのでしょう。

 

 しかし、そのような態度をとる人でさえ、その言葉とは裏腹に、心のどこかで神や仏の存在を信じている節が見受けられます。何か人知を超えた偉大な存在がいるに違いないと・・・。

 

 多くの日本人は、お盆やお墓参りで、故人の冥福を祈り、またお正月には神社やお寺に参拝して、家内安全や家族の健康、あるいは良縁や子宝を祈願します。それらを見れば、日本人は決して無神論者ではないことが分かります。

 

 ただ、多くの人が信じている神は、自分とはまったく違う特別な存在で、人間と神の存在は別々であるという宗教的な二元論の立場であることは明らかです。それは決して間違っているわけではありませんが、スワミは、人は霊的に進化するに従い、二元論から、条件付き不二一元論へ、そして最終的には不二一元論へと進むべきだと説かれています。なぜならそれが真実の姿だからでしょう。

 

サイババ様の御言葉

 「肉体意識が支配的だった時、イエスは神の使いでした。ハートの意識が優位になると、イエスはさらなる近さと親しみを感じるようになり、そのため、その段階では「父と息子」という絆がふさわしいと思えたのです。その後、アートマの意識が確立すると、イエスは「私と私の神は一つである」と断言することができました。以上の三つの段階は、「私は光の中にいる」、「光は私の中にある」、「私は光である」という言葉で表現することができるでしょう。そしてこれは、ヴェーダの哲学でいう二元論(ドワイタ)、「条件付き不二一元論」(ヴァシシタアドワイタ)、「不二一元論」(アドワイタ)という各段階になぞらえることができるでしょう。この最後の段階は、一切の二元性を脱した段階です。これはあらゆる宗教の規律と教えの真髄です。」

-1978年12月25日 クリスマスの御講話より

 

 神は愛です。愛は神です。神の愛と私たちの愛は同じものです。愛は決して崇め奉るものではありません。神を崇め奉る存在と位置付けていては、神との生き生きとした交流を望むことはできません。神を父として母として、あるいは親しい友として交流するためには、神との絆を深めなければなりません。

 

 インドのプッタパルティに行った時のことです。ある青年が「私は本心をいえば神を信じることができないのです」と演壇にいたサットサングの講師に訴えました。私は神を信じたいけれど、何の証拠もなく信じることができないという訴えでした。講師は黙って聞いていましたが、「あなたは愛を信じることができますか?」と逆にその青年に質問をしました。その青年は「はい、愛は信じることができます」と答えました。講師は「それで十分です」と微笑みました。

 

 愛があることは誰でも実感することができます。でも、それを証明することはできません。形而上の事柄を形而下で証明することはできないのです。講師は「神も同じです」と伝えたかったのでしょう。しかし、科学で客観的に証明できないとしても、事実として様々な現象が存在することは誰も否定することはできません。

 

 なぜハワイの州立病院から「触法精神障害者収容病棟」が消えたのか?(2022年8月号「心を浄化する言葉」)、なぜDNAのスイッチは心のありようによりオンになるのか(村上和雄「スイッチオンの生き方)、なぜ、アニータ・ムアジャーニさんは臨死体験後、癌が消滅したのか?(「喜びから人生を生きる」より)、なぜプラシーボ(偽薬)効果が有効なのか?なぜ、祈りに治療効果が認められるのか?なぜ、愛という文字は、見事な水の結晶を創るのか?などなど現代の科学では証明のつかない現象はたくさんあります。

 

 神の存在を客観的に証明することはできませんが、神の存在は体験的な事実として、知っている人には何の疑問もないのです。彼らは、日々、神と交流しています。サイの帰依者として著名なアメリカのジョン・ヒスロップ博士は、毎日出歩くときにもスワミ(神)と手をつないでいることをイメージしていました。

 

 サイセンターを日本で始めたお一人であるラムチュガニさんの奥様は、ご自分の娘さんのお婿さんを探していましたが、スワミに祈ったその翌日にアメリカからファックスが入って来て、結局、娘さんはそのご縁により結婚することになりました。

 

 SSIOJのアドバイザーである前会長のダヤルさんの奥様は、どうしても男の子が欲しかったのでスワミに語りかけ、見事に男子を授けられています。ある女性の帰依者は、食べたパンがあまりに美味しかったので、「スワミ、どうぞ一緒に味わってください」と呼びかけています。ある女性の帰依者は絵を描くときに、次にどこに筆を持っていくか迷ったときに、「次はどこですか?」と尋ねれば、絵の一部が光ったそうです。このように、多くのスワミの帰依者は、神に普通に語りかけ日々交流しています。そして、神はそれに答えて下さるのです。

 

 祈りや語りかけ、賛美、神への賛歌、それらはすべて神との交流です。神もまた、人との交流を望まれており、決して神殿の奥に押し込めて崇められたいわけではないでしょう。神を信じ、神と共に生きている人は、自然の中にも神を感じます。朝を告げる鳥や、空にかかる虹に神を感じ、太陽が昇り、その輝かしい光に感動し、それが夕日として沈むとき、その温かい優しさに心が満たされます。風の優しさに、海の偉大さに、夜空に浮かぶ星の光に、小さな虫の姿にも神を感じます。このように、人は誰でも自然の中に神を感じているのではないでしょうか?

 

 余談ですが、最近、天体望遠鏡で土星を見る機会がありました。輪っかをもった土星が夜空に輝いている姿を見た人の反応は2種類で、一つは「おおーッ」と感動の声を上げる人、もう一つは「・・・・」という反応です。人によって反応は違うのだなあと感じました。

 

 それでは、神は神を信じる者にだけ心を配り、神を信じない者には無関心なのでしょうか?いえいえ、そんなことは決してありません。神は依怙贔屓することはありません。何故なら、すべてが神の顕れだからです。すべての人は神の愛しい分身なのです。

 

 では、なぜ神は、神を信じる者にだけ神の姿を見せ、神を信じない者には姿を見せないのでしょうか?きっとそれは、神の電波に同調するアンテナを立てているのか立てていないのかの違いではないでしょうか?

 

 ラジオの電波を受信するためには、ラジオの方でも受信したい周波数に合わせなければなりません。同じ周波数になった時に電波はつながります。つまり、世界にあまねく広がっている神の愛という周波数を受信するためには人もまた神の愛の周波数にしなければならないのです。神を否定する人はアンテナを出していません。ですので、どんなに神の愛という電波が降り注いでいても同調することはできないのです。ですので、アンテナを出さないまま、「神が居ると言うのなら出してみろ」というのは所詮無理というものなのです。

 

 では神の愛という周波数になるためにはどうすれば良いのでしょうか?次のスワミの御言葉が参考になります。

  

サイ ババ様の御言葉です。

 ヒラニヤカシプとヒラニヤクシャは、あらゆる力を自在に操ることができましたが、神の近くにいることはできませんでした。彼らは、宇宙の神秘を調べ、天体の位置すらも変えることができました。ところが、神の原理に関しては、少しも理解することができなかったのです。しかし、ヒラニヤカシプの息子、若いプラフラーダは、神の原理に気づいていました。あるときヒラニヤカシプが、プルフラーダに、先生たちから何を学んだかを尋ねました。プラフラーダは答えました。「先生方は私に多くのことを教えてくださいました。私は、正しい行い(ダルマ)、富(アルタ)、欲(カーマ)、解脱(モクシャ)という、人生の四つの目標について学びました。実は、お父さん!私は教育の真髄そのものを学んだのです。」ヒラニヤカシプはこのような言葉を聞いて、たいそう喜びました。そして、「ああ息子よ!お前が先生たちから何を学んだか聞かせてくれ」と言いました。プラフラーダは言いました。「私は、神が遍在であるという真理を知ることができました。どこを見ても、私はそこに神を見ることができます。」ヒラニヤカシプはこれを聞いて激怒しました。

 

 彼は、膝に乗っていたプラフラーダを押しのけて叫びました。「お前は、先生たちが多くのことを教えてくれたと言った。これがお前の学んだことだというのか?富と欲(アルタとカーマ)に関しては、我々にとって非常に大切な、学ぶべきことがたくさんある。ところがお前はそれを無視して、神のことを話している。神などどこにいるというのだ?」プラフラーダは、とても静かに答えました。「お父さん、神はここにいるが、あそこにはいない、などとは決して考えてはなりません。実際、我々がどこを探しても、神はそこにおられるのです。」(テルグ語の詩)  

 

 ヒラニヤカシプのエゴは傷つけられました。彼は「こんなに年端もいかない者が、よくもこのわしに説教をするつもりか?」と思いました。そして「もし神が遍在と言うのなら、お前は、この柱の中に神の姿を見せることができるか?と言ってプラフラーダに迫りました。「はい、できます。」すぐに答えが返ってきました。彼の信仰の帰依はそれほどのものだったのです。ヒラニヤカシプは、すぐにこん棒で柱を叩きました。すると、御覧なさい!神がそこに姿を現したのです。この出来事には、どのような内的意義があるのでしょう?人間は、肉体的執着という束縛を絶ち切ったときに、初めて神の姿を見ることができるのです。今日、人は学識があるにも関わらず、無知に埋没しています。

― 2002年7月22日 国際セヴァ大会の御講話より

 

 神を信じ、神と交流し、神と共に生きている人には何の疑いもなく神の存在を実感することができます。そのためには肉体から生じる執着を克服し神の愛に同調する努力をしなければなりません。人が一歩近づけば神は百歩近づいて下さいます。神との交流ほど心を満たしてくれるものは他にはありません。

 

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解脱への王道 − 愛の道

 私たちをこの輪廻に縛り付けているのは、私たち自身です。それ以外に誰も私たちを縛るものはありません。それゆえ、解放の地に辿り着くためには、自縄自縛(じじょうじばく)の原因である自我を消滅させなければなりません。

自我を消滅させることは自己を失うことではなく、真の自己に還ることであり、アハムという真我意識に目覚めることでしょう。

 

 そのために、それぞれの境地に従って霊性修行を行うことが求められますが、サイババ様は、それぞれの霊性修行についてどのように言及されているのでしょうか?

 

1)カリユガといわれる現在の暗黒の時代に、サイババ様が最も推奨されているのは、ナーマスマラナ(自分が定めた神の御名を唱える、あるいは憶念すること)だといわれています。

 

ナーマスマラナに関するサイババ様の御言葉

 

 あなたは、瞑想や、苦行や、ヨーガなどの厳しい霊性修行はできないかもしれません。でも、もし神の御名を唱えればそれで十分です。最も簡単な道、すなわちナーマスマラナ(唱名)に進みなさい。クリタユガでは、瞑想が解放の手段として定められました。トレーターユガでは供犠でした。ドワーパラユガでは人々は礼拝を行いました。

“このカリユガではナーマスマラナ(唱名)だけがあなたに解放を与えることができる。これに勝る偉大な道はない”

(サンスクリットの詩)

ですから、神の栄光を歌いなさい。そして世俗の海を渡りなさい。ナーマスマラナはすべての霊性修行の基礎です。

―Sathya Sai Speaks Vol.35

ナーマスマラナは、いつも神の御名を憶念することで、心を神に向け、自我を抑制することになるのでしょう。

 

2)霊性を高める(=自我を克服する)効果の高い修行は奉仕活動だと言われています。サイババ様は奉仕について、次のように説かれています。

 

 ニシカマ カルマ(無私の奉仕)は、人間の持つ獣性を根絶やしにし、神性を授けます。奉仕は瞑想、バジャン、ヨーガなどの他の方法に比べて、霊性を高めるより効果的な方法です。なぜなら私たちが瞑想、バジャン、ヨーガを行うときは、自分の利益のために行っているのであって、他の人々のために行っているのではないからです。これらのことは、自分自身の煩悩を克服するのが目的で、自分の幸せを確かなものにしようとして行うのです。私たちは個人的利益を欲することなく、他の人々の幸せを強く願うべきです。無私の奉仕は博愛の香しい花です。それは奉仕する人や、それを指示する人の自己満足のために行われるべきではありません。人が生を受けたそもそもの目的は、奉仕にあると考えるべきなのです。

-『奉仕による修行』p.66
 

いかに奉仕活動が大切であるかをババ様は次のようにも説かれています。

 

 奉仕は最も優れた霊性修行です。なぜなら、神御自身が人類に奉仕するために人間の姿をして降臨し、それまで無関心でいた崇高な目的へと人々を導くからです。ですから人間が人に奉仕するとき、神がどれほどお喜びになるかを考えてもごらんなさい。

 

3)最も心を魅了する霊性修行は、バジャン(神への賛歌)ではないでしょうか?

 

サイババ様はバジャンの意義を次のように説かれています。

 

 しばしばカリユガ(暗黒の時代)として非難される今の時代は、実際は人が最もたやすく解脱を得られる時代です。今の時代、人間は、ナーマサンキールタンという霊性修行(神の栄光を歌い、歌われた神の御名を聴くこと)によって解脱を得ることができるからなのです。信愛の九つのステップの中でも、「神の栄光を聴くこと」と「神の栄光を歌うこと」は最高のものとして挙げられています。(中略)サンキールタンは、グループメンバーの解脱への進行を助けるのみならず、聞き手にも、さらには聞き手の輪を超えた所にいる人々にさえも恩恵をもたらします。そして、そのバイブレーションによって全世界が恩恵にあずかることができます。

―『バジャン神への賛歌』p.61

 

4)ヴェーダを学び、詠唱し、その叡智を実践することは何より、サイババ様の降臨された目的に沿っています。ヴェーダに関してのサイババ様の御言葉です。

 

  ヴェーダに傾けている私の愛(プレーマ)は、実に、人類に傾けている私の愛(プレーマ)と同等です。覚えておきなさい、私の使命は、ちょうど4つの要素から成っています。それは、ヴェーダ ポーシャナ(ヴェーダの復興)、ヴィッドワト ポーシャナ(ヴェーダ学者の復興)、ダルマ ラクシャナ(ダルマの守護)、バクタ ラクシャナ(帰依者の守護)です。私の恩寵と私の力をこれら4つの方向に沿って拡げながら、私はその中心に我が身を置いています。

―1962年11月23日 御降誕祭の御講話より

 

 サイババ様の降臨された目的に沿い、ヴェーダの復興に資することは大きな貢献となるでしょう。

 

5)ガーヤトリーマントラを唱える

 サイババ様はガーヤトリーマントラについて次のように説かれています。

 

 ガーヤトリーマントラは普遍的な祈りであり、あらゆる地方、あらゆる宗教の人々が用いることができるものです。ガーヤトリーマントラは、ヴェーダシャラ、すなわち「ヴェーダの教えの真髄」であると考えられています。もし、ガーヤトリーマントラを定期的に唱えるなら、ヴェーダを唱えることによって得られるすべての報いを手に入れることができます

―書籍『ガーヤトリーマントラ』より

 

 ガーヤトリーマントラはすべてのマントラの真髄であり、すべての神性な神の御名の真髄です。それゆえ、もし個々の神の御名を唱えなくとも、ガーヤトリーマントラだけを唱えていれば問題ありません。ガーヤトリーを唱えるなら、様々な神の御名を唱えるのと同じ利益が授けられます。

―書籍『霊性修行の手引き』pp.27-28

 

6)坐禅(瞑想)は真我を直接体験する霊性修行です。サイババ様は坐禅について次のように説かれます。

 

 坐禅によって、あなたの帝国である楽園を記憶に入れて、心の創造物を夢や幻として追い出すことが可能です。体系的に、落ち着いて坐禅を従事することによって、坐禅を効果的で安らぎのあるものにすることができます。このようにして、最上の体験への道が開かれます。鮮明で、波立つことのない、新たな理解のあけぼのがやってきます。坐禅の高みに達すると、その理解は非常に強力なものとなるので、人の低次の性質は滅ぼされ、焼き尽くされて灰になります。すると、『あなた』だけが残ります。創造世界の一切は、あなたの心の妄想です。存在しているものは一なるものだけです。それは真理であり、主であり、実在・覚醒意識・至福であり、至高の真我です。その一なる者は自分自身である(我はシヴァなり)ということです。

 

 以上のように、それぞれの霊性修行は自我を克服し解脱を得るためにどれも有益であり、それぞれが自分にあった霊性修行をすることが望まれます。その上で、サイババ様は次のようにも説かれていることを知っておく必要があります。

 

 人々は解脱に関して奇妙な観念をもっており、解脱には天国に行って永遠に生きることが含まれていると想像しています。解脱はそのようなものではありません。解脱とは、無私の愛という、不変で、衰えることのない、完全なるものを獲得することです。人が到達しようと努める状態はこれです。この状態に達して、初めて人は真に解放されます。解脱のためと称して、求道者たちがあらゆる霊的な道を試みています。そうした修行はどれも、せいぜい一時的の満足をもたらしてくれるだけです。あなたを本当に解脱へと至らせ、永遠の至福を授けることができるのは、純粋な愛の道のみです。

―2000年5月21日 御講話より

 

 無私の愛、神への愛がなければどんな霊性修行も空回りします。愛のないナーマスマラナは口癖に過ぎません。愛のない奉仕活動は、労働に過ぎません。愛のないバジャンは自己満足に過ぎません。愛のないヴェーダは詠唱に過ぎません。愛のない坐禅は時間の浪費にすぎません。それらは自我を強化することがあっても、消失させることは叶わないでしょう。

 

 サイババ様は「純粋な愛の道」だけが解脱へと至らせると説いておられます。同様に、イエス様もまた、神の国に還るためには愛の道を通らなければならないと説いておられるのです。

 

 イエスは言われました。

 

 「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ誰一人父のみもとに来ることはありません」

(ヨハネ14:6)

 

 イエス様は十字架で拷問を受けた時に、「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているか自分で分からないのです」と祈られました。イエス様が「私を通してでなければ誰一人父のみもとに来ることはありません」と言われたのは、イエス様が人生を通して示された愛の道、そして最後の瞬間にも示された赦しの道を通らなければ神に還ることはできない、という意味ではないでしょうか?

 

 愛の道がいかに大切かを知る実例があります。普通の人の中にも、愛の道により神に還る境地に達した実例があるのです。

 

 エドガーケイシーは信頼できる霊能者として知られています。ケイシーのリーディングの正確な記録は現在も残されていて、その中でライフリーディング(過去世からリーディングしてアドバイスを与えるもの)は1919件記録されています。

その中で18名(女性14名、男性4名)について、彼らは、次の転生が必要ない状態であることを告げているのです。いったいどんな人たちなのでしょうか?

 リーディングを受けた18人は、1924年から1944年までの間に、いろいろな場所からケイシーを訪れました。教育歴、社会的背景、職業はかなり違います。彼らの前世もさまざまでしたが、共通する特徴を見出すことができました。

 それは、彼らは今生では、見かけこそ違え、奉仕のためには私的関心を捨てることも辞さないという共通性を見ることができるのです。

 

 その人達へのリーディングは次のように述べます。(抜粋)

・その人は地上生の大部分において「与えることに」徹してきた。

・受けとるより、常に与えることに徹し・・

・常に自分より他を優先させ奉仕する・・

・どの世界にあっても他者の向上に尽くす・・

・利己主義はこの人の存在の一部をなしていない・・。

・まことにおのれを征服することは多くの世界を征服するより優れている。

・人は自分を奉仕に投げ出す時のみ覚醒する。

―『転生の終焉』(バイオレット・シェリー著)より

 

 彼らは、決して聖人でもなければ、修行(難行苦行や極端な禁欲)を行ったわけではないのです。今生の中でも失敗や後退もしていますが、それでも愛の道を歩んだ方々です。

 

 どのような状況でも愛を示し、他者に尽くすことは、神の道具として生きる道を歩む人の共通性です。それは自己犠牲、つまり自我の放棄の姿です。その生き方が自分自身を救うことになるのでしょう。愛の道を歩む人は、解放はすでにその人のものに違いありません。
 

22

​第 22 回

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​人生はゲーム、
それをプレイしなさい

 スワミはおっしゃいます。

 

 「生まれる前には、人は世の中やその物質的な対象とはいっさい何の関わりもありません。死後、それらや、すべての親戚縁者は消滅します。今の逗留は、ただ誕生と死の合間にプレイされるゲームにすぎません。」

― 『人生はゲーム、プレイしなさい』p. 25 My Baba and Iより

 

 なんと簡潔な言葉で、私たちの人生の意味を説明して下さっているのでしょうか。私たちの人生が、どのような人生であったとしても、それはゲームにすぎないという御言葉は、人生に悩む人にとっては大きな救いになります。また今、人生を謳歌している人にもそれらは永遠のものではないという戒めにもなるでしょう。

 

 私たちは、人生が終われば観る者だけが存在していたことに気づき、観る者は人生が始まる前も、肉体を持ってこの世を生きていた時も、そして終わった後も何も変わらずに存在し続けていることに気づくことになるのでしょう。

 人生は、自分が主人公の短編のドラマです。誰の人生にも、喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ、出合いと別れ、獲得と喪失などがあります。このような相対的な概念が生まれるのは、二元的な意識であるアハムカーラ(肉体としての私)が原因でしょう。それは自他が存在しているという迷妄を生み出し、私の喜びや悲しみ、私の楽しみや苦しみ、私の得や損という概念を生み出します。

 

 しかし、それらは心が創り出した実態のない空想にすぎず、真実のものではありません。例えば、生老病死という事実はあったとしてもそれを「苦しみ」だと感じるのは肉体と自己との同一視から生じる感覚にすぎません。人間のあらゆる苦しみの根源はこの同一視にあり、自分がアートマという永遠の存在であることを忘れたため、あるいは自覚できないために生じます。

 

 自分が乗っている自動車が動かなくなっても苦しみを感じることはありません。同様に肉体もアートマの乗り物に過ぎませんので、本来苦しむべきものではありません。ニュースで誰かの死を知っても心は動きません。そうではないでしょうか?それが知人になり家族になり、自分に近くなればなるほど悲しみや苦しみが増し、いよいよ自分自身になれば「人生一大事」になります。それを生み出しているのは、私は肉体であるという迷妄でしょう。

 ある霊性修行者がいよいよ自分の死に直面したことがありました。それまでは、いずれ誰でも死ぬのだからと呑気に構えていたようですが、いよいよそれが自分の身に及んだとき、日常の感覚は吹っ飛んだそうです。やっと平静に戻れたのは「アハム ブラフマースミ(我は神なり)」というマントラでした。

 カリユガという暗黒の時代も、私たち人間が、「人は神の顕れである」という真実から離れ、肉体と自己を同一視した結果生み出した混乱です。現在、世界で生じている戦争や犯罪も「人間とは肉体に過ぎない」という誤った思い込みが原因です。この無知が、領土を奪い合い、資源を奪い合い、マネーを奪い合わせています。無知が克服されない限り、これらが無くなることはありません。奪い合いから分かち合いになるためには「人はどのような存在なのか」という真実に目覚めなければなりません。

 では、私たちはこの混乱の世界で、人生ゲームをどのようにプレイすれば良いのでしょうか?それには次のスワミの「4つのF」の御言葉が役立ちます。

1. Follow the Master(主人に従いなさい)

2. Face the Devil(悪魔に直面しなさい)

3. Fight till the End(最後まで戦い抜きなさい)

4. Finish the Game(ゲームを終わらせなさい)

1.Follow the Master(主人に従いなさい)

 主人に従うとは、サイの帰依者からはサイババとして知られ、キリスト教の求道者からはエホヴァとして知られ、仏教徒からはブッダとして知られ、イスラム教徒からはアッラーとして知られている神なる存在に従うことでしょう。

すべての神の化身の教えは愛ですので、愛に従うという表現もできます。もちろん、その愛は人間としての執着の愛ではなく神の愛に従うという意味です。

 

 またそれは、不二一元の見方からは私たちの真我であるアートマに従うことを意味します。私たちが神から生じたものである限り、海水の一滴が海の成分そのものであるように、私たちは神そのものです。ですので、すべての答えは自分の中にあります。アートマに従うことは神に従うことを意味します。自分と神を別々の存在として見るのは、二元論でありスワミの御教えではありません。

 

 また、良心はアートマの反映といわれていますので、良心に従うという表現がより具体的で分かりやすいかもしれません。私たちは、良心に反する行為をした場合、良心の呵責を感じるようになっています。誰かを傷つけたり、生命を殺めたりすると苦しくなるのはそのためでしょう。

 つまり主人に従うとは、神の化身(御教え)に従うこと、神の愛に従うこと、アートマに従うこと、良心に従うことであると言えます。

2. Face the Devil(悪魔に直面しなさい)

 悪魔とは、自分の外側に存在するものではなく、私たちの心の中にあります。それは、心の中の六つの敵と呼ばれるもの、すなわち、欲望、怒り、貪欲、迷妄、高慢、嫉妬を指しています。

 

 これらの敵は、誰の心にも潜んでいますが、内省する習慣がなければ、それらに気づくことはありません。そして大切なことはなぜ、そのような思いが生じるのかという理由を探求することでしょう。心から平安が失われ、ざわついた思いが感じられた時、「なぜだろう?」と自分に問いかけると、そこには必ず、心の中の六つの敵の何かが潜んでいるはずです。

 

 心に不満や苦しさがある場合、それは何らかの欲望があるサインでしょう。それが正当な欲求なのか、過剰な欲望なのかは良心に問えば分かるはずです。人間である限り欲望があるのは自然なことですが、それが限度を超えて執着になれば問題となります。

 

 怒りは、欲望が満たされない時に生じると言われています。怒りを感じたとき、どんな欲望が潜んでいるか内省するチャンスです。「他者から認められたい」「自分の思い通りにしたい」「自分のものにしたい」などの思いが見つかるかもしれません。

 

 貪欲は、「もっともっと」と貪る心です。貪欲は利己的で自分さえ良ければよく、他人のことを省みていません。平安や幸福が感じられないのは自己中心だからでしょう。真の喜びはその反対側、すなわち、自己の放棄と犠牲にあります。

 

 他人と比べて優越感を感じたり、劣等感を感じたり、恐れを感じたりするのは、自分と他人が存在するという迷妄のせいです。優越感、劣等感は自分の中に迷妄があることを教えてくれます。

 

 つまり、悪魔とは神の化身の御教えに反するもの、神の愛に反するもの、アートマに反するもの、良心に反するものだといえるでしょう。 

 心の探求は、他人の行動を理解する時にも役立ちます。猛烈に自己主張している人は自己承認欲求のなせるわざかもしれません。パワハラをする上司も同様です。国境を越えて軍事侵攻する世界の争いも迷妄と欲望が原因でしょう。

 

 

3. Fight till the End(最後まで戦い抜きなさい)

 さて、次の「最後まで戦い抜きなさい」には少々注意が必要かもしれません。

 

 2023年のグル プールニマーで国際オーガニゼーションのナレンドラナート レッデイ博士は、ビデオ講演の中で次のように述べられています。「敵と戦えば、敵はさらに強力になる」

 確かに、自分のネガティブ性を意識して、なきものにしなければいけないと意識をそれに向ければ、それが強化されるのは必定です。

 

 例えば、欲望を落とさなければならないと強靭な意志の力で欲望に蓋をしたとしても、欲望自体が無くなった訳ではないので、永遠に封じ続けるのは不可能でしょう。欲望は、地下で渦巻いていて気を緩めれば一気に噴出するかもしれません。

 

 スワミは欲望をなくしなさいとは説かれていません。欲望に限度を設けなさいと説かれています。仏教でも、人間である限り欲望が生じるのは自然なこととしていて、欲望自体を問題視しているわけではありません。ただし、それが問題になるのは、欲望が一定の範囲を超えて執着になることでしょう。

 

私たちは、実に多くのものに執着しています。例えば、特定の人への執着、物質的な所有や富への執着、自分の考え方や信念への固執、他者からの評価に対する執着などです。また、身体への執着、若さへの執着、健康への執着なども持っています。

 それが良識の範囲か執着かは良心に問えば分かるはずです。それが満たさなければ苦しいと感じることはすべて執着といえるでしょう。

 

 ナレンドラナートレッディ博士は欲望を神への欲望に変換させることが大切だと説かれていますが、神に心を向けて、神ながらの生活をしていれば、ある日気がつけば執着や不要な欲望も落ちていることに気づくことになるのでしょう。

 

 それまでは欲望、怒り、貪欲、迷妄、高慢、嫉妬などの心の中の敵に対して、ABC(Always Be Careful)つまりいつも注意していなければなりません。そして敵を見つけたならば、心を神の方に向け直すことが求められます。

4. Finish the Game(ゲームを終わらせなさい)

 人生というゲームに巻き込まれずにゲームを楽しむための方法は、人生を面白がる目を持つことでしょう。スワミは次のように説かれています。

 試合に出ている人たちが、観戦者が味わう喜びと同量の喜びを得ることはありません。ですから、観戦者の態度、つまり、見る者の態度を持ちなさい。試合の最中は、打者も、投手も、野手も、場外のファンたちが得る喜びのごく一部すら味わうことはできません。ファンたちは、一打一打、打撃と守備の失敗や好プレーに目を留めます。試合の細かい点まで正しく評価します。それと同じように、人生というゲームから最大の喜びを引き出すためには、ゲームに深くかかわらなければならない時でさえ、傍観者の態度を培う必要があるのです。

 マハーシヴァラートリの御講話より

(1963年2月22日)

 

 そして、人生というゲームを進める上で大切なポイントを次のように説かれています。

 人生というゲームは、制限や制御をするための限度と規則がある場合にだけ、行う価値があるものであり、また、楽しくなるものです。サッカー場でのルールも制限もないサッカーの試合を想像してごらんなさい。その試合はまったくの混乱状態になるでしょう。自由な戦いになって、暴動と化してしまうでしょう。誰が勝ったのか、どのようにして勝ったのか言える人もいません。ダルマ マールガ〔ダルマの道〕とブラフマ マールガ〔ブラフマンの道〕は、場の境界線です。徳のある人は邪悪な性向と戦います。「ファウル」と「アウト」という警告に注意しながらゲームをしなさい。

アナンタプル女子ハイスクール創立記念日の御講話より

(1960年)

そして人生というゲームを生きる最大の秘訣を次のように説かれています。

 愛のない人々は恐れに包まれています。愛は勇気を注入し、冒険を促します。愛は挑戦することを歓びます。もしあなたが主人(良心)に従うならば、あなたは悪魔と対決して、最後まで戦い抜き、ゲームを終わらせることが出来ます。

ークリスマスの御講話より

(1981年12月25日)

愛は人生の目的であり、愛は平安と健康に生きる秘訣であり、愛はカリユガという暗黒の時代に生きる人生の導です。

 

「人生は夢、それに気づきなさい」

「人生は挑戦、挑みなさい」

「人生は愛、楽しみなさい」

「人生はゲーム、プレイしなさい」

21

​第 21 回

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​人生は挑戦、
それに立ち向かいなさい

 人がこの世に生まれてきたのは、良い学校に入り、良い会社に勤め、良い給料をもらって良い人に巡り合い、良い家庭を築くためではありません。

 

 それらは生活を豊かにしてくれますが、人生のゴールではありません。また、人間の愛は心を満たし、生きる喜びも与えてくれますが、それらもまた、人生のゴールではないでしょう。私たちが何度も地上に生まれ変わっているのはなぜでしょうか?それは、真のゴールに未だ至っていないからではないでしょうか?

 真のゴールとは何でしょうか?それは、内なるマハーバーラタすなわち、自我と真我の戦いに勝利することでしょう。真我が実現されれば、真の愛、真の幸福、真の平安が実現されます。 

 それに対して、自我が生み出す人間的な愛や幸福は、二つの悲しみの合間にある一時的な喜びにすぎないとスワミは言われています。しかし、多くの人はそのことを理解していません。そして、外側に喜びを求めつづけ、日々生じる様々な問題に心を奪われ、貴重な時間を浪費しています。

この世に生を受けたすべての人は、内なるマハーバーラタを戦う戦士です。戦士は遅かれ早かれ、人生の真のゴールに挑むことが定めなのではないでしょうか?

 それは宝石に例えれば、永遠の輝きのある最高のダイアモンドを手に入れることであり、それを手に入れさえすれば、もう他の宝石への関心は薄れ、心が動くことはありません。そのように、真の愛、真の幸福、真の平安をもたらす真我の実現は、人生における最も価値のある挑戦なのだと言えます。

 しかし、真我の実現という究極のゴールは私たちが自らの力だけで獲得できるものでしょうか? 残念ながらそうではないでしょう。なぜならそれらは獲得するものではなく、もたらされるものだからです。自我の力で無我の境地に至ることは叶わないでしょう。

 私たちにできることは自我を放棄する努力をし続けることです。それは簡単なことではありませんが、そのための最も確実な方法は、自分の思いを放棄し、与えられた運命に従い、他者や社会のために自分の役割を果たすということでしょう。自我の放棄とはすなわち、神の道具として生きることであり、献身の道を歩むことだと言えます。

 自分に与えられた運命に従い、人のために尽くす挑戦をした素晴らしい事例があります。

デニ・ムクウェゲというノーベル平和賞を受賞したコンゴの医師がいます。筆舌に尽くしがたい性暴力を受けた女性たち

 

 3万人もの治療にあたった医師です。テレビで放映された映像は見るに忍びなく、人はここまで残忍になれるのかと衝撃を受けました。この状況の中でムクウェゲは、自宅を襲撃され殺されそうになります。亡命せざるを得なくなりましたが、その間に病院は荒廃に瀕しました。帰国することになったのは、パイナップルや玉ねぎを売った代金を寄付して飛行機代を集めた、貧しい患者の女性たちの願いに応えるためでした。

ムクウェゲが医師になったのは、牧師である父に連れられて貧しい病人の家に訪問したとき「なぜ治療してあげないの?」と父に聞いたのですが、「私は医者ではないから」という父の言葉に 「それなら自分が医者になって、この人たちを助ける」と言ったのが始まりでした。

 

 もしコンゴという国に生まれていなければムクウェゲの人生は違ったものになっていたでしょう。もし、牧師の父と一緒に病人の家に訪問していなければ、彼は医師にはなっていなかったでしょう。すべてがなるべくしてなり、起こるべくして起こっていることを考えれば、ムクウェゲの人生はムクウェゲでなければ引き受けることのできない運命からの促しであり、命をかけた挑戦だったと言えます。

 また、世界的に有名な小説の中には、果敢に自分の運命に挑戦した感動的な物語がたくさんあり、私たちを啓発してくれます。

 

 ビクトルユーゴ―原作の『レ・ミゼラブル』は、フランス革命の時代を背景にした、愛と赦しをテーマにした名作です。たったパン1個を妹の為に盗んだために、19年間もの牢獄生活を強いられたジャン・バルジャンが、仮釈放の途中で逃亡し、身分を隠し市長にまで上り詰めたものの、警部ジャベールに執拗に追いかけられながらも彼を赦し、娘として引き取ったコゼットに神の愛を見出しながら神に召されていくというあらすじです。

 ジャン・バルジャンはもしパンを盗まなければ、牢獄に19年も入れられることはありませんでした。しかし、どうしても貧困のために止むを得ず盗んでしまったのです。それはジャンのつまずきでしたが、その小さなつまずきから始まる波乱万丈なストーリーを通して、愛と赦しに挑戦した人生だったと言えます。

 振返って私たちの人生を考えれば、誰もが同じように生まれながらの定めに出合い、あるいは出来事に直面し、それが人生の岐路になっているのではないでしょうか?その時、どうしたか、人それぞれに人生のストーリーがあります。

 

ヴェーダの深遠な英知を明らかにしたバガヴァッドギーターにも、自らの運命に挑戦したアルジュナの姿が描かれているのは皆さまよくご存じの通りです。

 

 アルジュナは、クリシュナに諭されるまでは、親族と戦うのをためらい優柔不断なまま身動きが取れない状態まで追い詰められたのでした。しかし、最後には自分に与えられたダルマを果たすべく、自分の運命に果敢に挑戦しました。

 

すべてに共通しているのは、自分が直面することになった運命に対する挑戦であり、決して他者との競争ではありません。それは自分に対する挑戦であり、自分を高める千載一遇のチャンスです。

 

スワミは次のように説かれています。

サイババ様の御言葉

 「人類の歴史においては、何回もアヴァター(神の化身)がやってきて、人を目覚めさせました。しかし、動物的な過去と悪魔的な迷妄が人を泥沼の中に引きずり込みます。そこで人は愚かにも、官能的で肉体的で一時的なつまらない物事に興じているのです。今生は、あなたの人間としての存在価値を高める素晴らしいチャンスなのです。親族や富や世俗的名声から得ようとするアーナンダ(至福)は、神が宿るハートという泉に棲むアーナンダの薄い影にすぎません。その泉とつながろうと試みなさい。その源泉そのものに向かいなさい。真のアーナンダもしくは内なる神に集中しなさい。真のアーナンダを求める人はほとんどいません。多くの人は、感覚、知性、マインドから成る似非(えせ)アーナンダに夢中になっています。真のアーナンダが湧き出すのは、真理からだけです。そして、各自が自分自身に対して負っているダルマ(義務)が真理なのです。真理を求め、真理に奉仕し、真理になりなさい。ハートが愛で満たされたとき、真理が自ずと明らかになるでしょう。

―1970年7月の御講話より

 人は生まれながらに、他者の役に立ちたいという本能をもっているようです。体内記憶をもっている子供たちは、例外なく父や母の役に立ちたかったと証言するのを見ても明らかです。 

 その意味では、人や社会に尽くすことは魂の願いでもあると言えるのでしょう。自分の思いを空にして、与えられた役割を果たし、運命を成就することは確かな幸せにもつながるでしょう。

サイババ様の御言葉

 「英語のハッピーに相当するテルグ語の言葉は、『サントーシャム』です。『サントーシャム』という言葉の意味を調べてみましょう。『トーシャム』は『プラサンタナ』(喜び)を意味します。接頭辞の『サン』は、『放棄』と『犠牲』によって、正しく高潔な手段によって勝ち取った喜びを意味します。人は欲望を手放さなければなりません。欲望は、悲しみをもたらし、奴隷にし、拘束します」

―1983年11月23日の御講話より

 つまり、真の喜びは、欲望の放棄や神への献身の中に見出されるのであり、決して自己を満たす行為の中にはないのです。

 

 「人間は長い間、鉱物として生まれ、次に樹木となり、進化の過程で動物へ昇格し、最終的に人間としての地位にまで登ることが出来ました。人として生まれることは限りない幸運であり、人間だけが自らの実在に気づいて、神の状態に到達することができる」そうスワミは説かれています。ですので、私たちは、この貴重な人生を無駄にすることなく、千載一遇のチャンスに果敢に挑戦することが求められています。

「人生は挑戦、それに立ち向かいなさい」

「人生は愛、それを分かち合いなさい」

「人生は夢、それに気づきなさい」

「人生はゲーム、それをプレイしなさい」

20

​第 20 回

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​人生は愛、
分かちあいなさい

 そもそも神が、宇宙を創造したのはなぜだったのでしょうか?それを知ることができれば、私たちの人生の意味も明らかになると思われます。なぜ神は宇宙を創造したのか?『サティア サイ エデュケアー理論と実践』には次のように記されています。

 

 最初に、時が始まる前、時間も空間もない状態の中に、「純粋意識」「存在」がありました。それは「宇宙存在」「神」「それ」とも呼ばれています。ヴェーダ聖典では、サンスクリット語で至高者という意味の「プルシャ」と呼んでいます。それはまた「ブラフマン」「アートマン」「イーシュワラ」とも呼ばれています。この宇宙存在は「一」であり、「他」はありません。それから、明らかな原因もなく、至高者は創造したい「多」となりたいという最初の衝動をもちます。「エーコーハム バフッシャーム(私は一なるものである。私は多となりたい)」「それ」は存在を証明したいと欲し、愛したいと欲しました。楽しみたい、戯れたい、喜びを感じたいと欲しました。「それ」はもう純粋な主体もしくは意識のままでいることはできなくなり、愛する対象を創造しなければならなくなりました。愛する対象がなくては愛することがかなわないからです。光はその対をなす闇がなければ、光であることが分かりません。一なるものだけで、共に戯れるものがいなければ、喜びを感じることもありません。こうして「創造」が始まりました。至高者が自らに課さなければならなかった最初の条件は「知らないこと」(アヴィッディア)すなわち無明でした。宇宙存在は、自らを忘れるという最初の犠牲を自らに課さなければなりませんでした。しかしそのことは自身を失うことを意味するものではありませんでした。「それ」は「それ以前」にも完全であり、「それ以降」もまた完全でした。「それ」はあらゆるものに浸透するため、永遠に完全で、創造物の中に内在するようになったのです。「それ」は超越するとともに、内在するのです。

 

 この文書には、宇宙の創造の秘密が記されています。なぜ宇宙は創造されたのか?なぜ人は生まれたのか?人生の目的は何なのか?私たちは神の顕れであるにも関わらずなぜそれを忘れているのか?についてのとても重要なメッセージです。

 

 つまり、神は自らの愛を体験するために、自分自身から自分自身を分離させて世界のすべてを創造したと言われているのです。そうであるならば、私たちの生きる目的は「神の愛」を体験することであり、それ以外には考えることはできません。

 

ヴェーダにおいても、「生きとし生けるものすべて至福より生まれ、至福に支えられ、そして再び至福と一つになる」(タイッティリーヤ ウパニシャッド3.6)と記されていますので、人生は至福を体験するため、つまり神の愛を体験するためにあることが分かります。

 

 しかし、神のリーラー(遊戯)が成就するため、神は自分が神であることを忘れなければなりませんでした。知らないということを通して知るという体験ができます。忘れているということを通して思い出すという体験ができます。無明やマーヤー(幻想)はそのための必要条件だったのでしょう。

 

 私たちは神の愛を体験するために生まれてきた神です。神を愛し、神から愛されるためです。神を愛するとは、寺院や教会にある像や祭壇にある写真を礼拝することではありません。人を愛し、動物を愛し、自然を愛し、すべてのものを愛することであり、Love All Serve Allを生きることです。その愛は、無私の愛、無条件の愛、無償の愛を意味しています。無私の愛とは「私」に関係するものから生まれるものではなく、分け隔てのない真の愛です。

 私たちは、家族愛、夫婦愛、兄弟愛、男女の愛など、「私」という個人に関係するものから生まれる愛を愛だと思っています。世界の文化を見ても、映画や小説、歌や芸術は人間の愛をテーマにしたものが多く、また、私たちの人生においてもそれらの愛は生きる喜びを与えてくれるものです。

 しかしスワミは、世俗の愛は執着に過ぎず、真の愛を求めるべきだと以下のように説かれています。

 

 神の愛(プレーマ)について言うならば、99パーセントの帰依者はプレーマが何を意味しているのか理解していないことを、ここではっきりと説明しましょう。この愛は世俗の感覚で解釈されています。これは人に道を誤らせます。夫婦、母子、友人同士、親戚知己の間にある執着は、すべて大ざっぱにプレーマと表現されていますが、これらの執着は、束の間の人間関係の結果であり、本質的にはかないものです。プレーマはトリカーラ アバーディヤム(過去・現在・未来という時の三相を通じて永続するもの)です。そのような愛は、神と帰依者の間にのみ存在するものであり、他のどんな類の人間関係にも当てはめることはできません。神の愛の本質を理解するのは容易なことではありません。皆さんは浮き沈みの影響を受ける世俗の執着だけを認識しています。そのように変化に傾きやすいものを愛と呼ぶことはできません。真の愛は変化しません。それは神です。愛は神です。愛に生きなさい。

―1995年1月14日マカラサンクラーンティの御講話より抜粋

 

 確かに、家族愛や夫婦愛、兄弟愛、男女の愛は個人の関係から生まれるものであり世俗の愛だと言えるでしょう。しかし、世俗の愛の中にも真実の愛の片鱗を垣間見ることもあり、また、真実の愛の中にも執着の香りがあることもあります。では、どうすれば、それが世俗の愛なのか、真実の愛なのかを見分けることができるのでしょうか?スワミは次のよ

うに説かれています。

 

サイババ様の御教え

 現代の青年は、愛というものの本当の意味を理解できていません。二元性という気持ちがあるなら、愛は存在できません。不二の愛(エーカートマ プレーマ)が真の愛です。ギブ アンド テイクの関係には、愛の真の精神は映し出されません。何の見返りも期待せずに、ひたすら与え続けるべきです。それが真の愛です。

― 2005年4月13日の御講話より抜粋

 真の愛は何の見返りも期待しない愛であり、ただ愛ゆえに愛するということなのでしょう。それに対して世俗の愛は、期待する愛であり、それが得られなければ悲しみや苦しみが生じることになります。

 

生者必滅、会者定離はこの世の習いであり、この世に生を受けた者は必ず滅び、この世で出会った者には必ず別れの時が来ます。その時、それは悲しみや苦しみに変化してしまうでしょう。

それを回避するためには、それらの一時的な愛を、真の意味において永遠の愛、神の愛に昇華させていかなければなりません。

 

 肉体の眼で見れば、そこにいるのは父親であり母親であり、子供であり、兄弟や姉妹であり、男性や女性です。しかし、心の眼で見れば、家族も夫婦も兄弟も男女もあるいはどんな人もすべての人は、人の姿をとった神さまです。そうであれば、人を人として愛するのではなく、人を神として愛することが大切なのではないでしょうか。そうすれば、私たちの愛は真の愛になるはずです。「世俗の中に神を見て、愛を分かち合う」、きっとそれが「人生は愛、分かち合いなさい」というサイババ様のメッセージの意味ではないかと思っています。 

 

その愛は家族から社会にそして世界へと広がっていきます。なぜなら拡大することが愛の性質だからです。世界には何十億人もの人が生きています。私たちは何と多くの神さまに囲まれて生きていることでしょうか!私たちの人生は多様な姿をとっている神さまたちと愛を分かち合うためにあるのだと思います。

 

サイババ様の御言葉

 神を探す必要はありません。あなたがまさしく神なのです。この真理を悟る努力をしなさい。簡単で易しい方法があります。すべての人が神の化身であるという信念を持ちなさい。すべての人を愛しなさい。すべての人に仕えなさい。神を愛する最善の方法は、すべての人を愛し、すべての人に仕えることです。神は万人の中にいるのですから、万人を愛さなければなりません。すべての人は神の顕現です。

―1995年1月14日の御講話より抜粋

 

人生は挑戦、それに立ち向かいなさい

人生は愛、それを分かち合いなさい

人生は夢、それに気づきなさい

人生はゲーム、それをプレイしなさい

19

​第 19 

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​人生は夢、
それに気づきなさい

 人生は「私」という主人公を中心に展開していく夢のドラマです。まず主人公は、男か女かどちらかを選ばなければなりません。そして、どんな母親と父親の間に生まれるのか。兄弟や姉妹を持つのか、持たないのか、どんな国に生まれるのか、どんな人種に生まれるのか、どんな環境に生まれるのか、裕福なのか、貧困なのかなどを選び、舞台設定が整えば、誕生から始まる人生ドラマが始まります。

 

 主人公には一定の先天的な傾向が与えられています。それは過去世の行いによって持ち越された傾向で、ヴァーサナと呼ばれるものです。

 スワミはヴァーサナについて次のように説かれています。

 「あなたのヴァーサナ(生まれ持っている傾向)は、あなたがハートの中で培ったさまざまな感情によって決まります。ちょっとした例をあげてみましょう。紙自体に匂いはありませんが、揚げ物や干物やジャスミンの花を紙で包むと、良いにおいであれ悪いにおいであれ、その紙は包んだものの匂いがするようになります。ハートは紙に例えることができます。もしハートの中に善い感情が入っていれば、必ず善い傾向が出てきます。善いものを見て、善いことを聞いて、善いことを話して、善いことをしなさい。そうすれば、カリの悪い影響はあなたには何の衝撃も与えないでしょう」

 ―2001年2月22日マハーシヴァラートリの御講話より

 私たちは過去世においてどのような思いを抱いていたのかは直接知ることができませんが、現在、自分がどのような傾向を持っているかは、その名残に違いありません。それは良い傾向かもしれませんし、悪い傾向かもしれません。輪廻によりそれが来世に引き継がれるのであれば、今生で良い傾向を培っておくことは決して無駄にはならないでしょう。

 ある方は、ピアノでショパンを弾きたいという夢を持っていましたが、歳を考えれば今生ではその実現は難しい、それなら来世で実現しようと、練習を始めているそうです。思いではなく技能まで引き継がれるのかどうかは分かりませんが、先天的に様々な技能を持って生まれる子供たちがいるのを見れば、ひょっとしてそうなのかもしれません。もし、そうだとすれば、私たちの人生には新しい可能性が開かれ、より肯定的に生きることができるようになります。

 

 そしてもう一つ、主役には過去になした行為(プラーラブダカルマ)をこの人生で解消するという課題が与えられます。

 

 スワミは次のように説かれています。

 「現代人は、平安を求めていながら、暴力と慢心の危険な道を歩いています。心は安らかではなく、ひどく乱れています。その理由は、過去世で積み上げてきた行い、プラーラブダカルマまでさかのぼってたどることができます。プラーラブダカルマは、 地獄の猟犬のように、どこまでも人を追いかけてきます。蓄積したプラーラブダカルマのずっしりした重荷は、今生での善行(サットカルマ)によってのみ滅することができます。不快な臭いを消すには香水を使います。しかし、嫌な臭いは本当になくなったわけではありません。香水の香りによって和らげられただけです。それと同じ方法で、過去のカルマ(行い)の有毒な力は、現在の善行の健全な力によって鎮圧し、相殺することができます。」

―1979年第7回夏期講習における御講話より

 カルマは決して罰として与えられるのではありま せん。カルマはただ自分のなした行為がブーメランのように自分に帰ってきているだけです。その結果、いわば自分がまいた種を自分で刈り取り、カルマは 解消されることになりますが、それ以上に大切なことは、カルマは、自分がなした行為を今度は相手の立場で体験することで学び成長する機会にするとい うことでしょう。

 さらにもう一点、主人公は知っておくべきことがあります。

 本来、人間は神の愛を体験するために生まれてきたはずでした。昔々、世界は聖書に見られるような 楽園だったはずです。しかし、徐々に自我意識が芽生えた人間は、自分が神であることを忘れこの世の磁力に捉えられ、輪廻の鎖から抜け出せなくなってしまったようなのです。

 このことは以前、聖仙ナーラダでさえこの世のマーヤーの幻惑に翻弄されてしまったという逸話 (2023年の1月号)をご紹介させていただきましたが、この世に生を受けている私たちは、旅に出たまま帰る家も忘れて、豚になったナーラダのように、 この世に捉えられ、この世での楽しい泥んこ遊びに夢中になっているのだといえるでしょう。

そのことが理解できれば、再び、生老病死のあるこの世への再生を繰り返さないためには自らの運命を切り開いていくことが大切なのではないでしょうか?

 スワミは次のように述べられています。

 「人は自分の運命を切り開くために生まれるのであり、他人の劇で役を演じるために生まれるのでは ありません。人は自分の刑を全うするために生まれてきます。刑を果たし終えれば、人は自由になります。あなたはずっと監獄に入っているわけではなく、 親しくなった囚人仲間がまだ中にいるからと言っても、そうはいきません!」

―1963年10月28日の御講話より

 人生は、自分が創り上げる夢のドラマです。自分の外側に見る山や海や空や星などの森羅万象も、体験する喜びも悲しみも、楽しみも苦しみも、欲望も怒りも高慢も嫉妬も、すべて自分が創りだしたものです。それらはすべて夢に過ぎません。

 

 スワミは次のように説かれています。

 「皆さんは、夢の世界は五十年の歳月が五分間に短縮され、奇妙なものごとが実際に存在しているものとして経験される、ナンセンスな幻影の世界であることを知っています。しかし真我を悟った境地から言わせてもらえば、目覚めている段階も、(夢と)同じくらい信頼できないものなのです。ですから、正しい価値観、正しい価値の尺度をもちなさい。 すべての物、すべての人には、それぞれふさわしい価値を与え、それ以上の価値を与えないようにしなさい。アートマを覆っている五つの鞘が、アートマの輝きの現れを妨げています。これらすべてを清めて、輝かせなさい。食物鞘(アンナマヤ・コー シャ)は清潔で純粋な良質の食べ物によって、生気鞘(プラーナマヤ・コーシャ)は静かで安定した呼吸と平常心によって、心理鞘(マノーマヤ・コー シャ)は喜びによって、理智鞘(ヴィグニャーナマ ヤ・コーシャ)は実在を黙想することによって、歓喜鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)は神の悟りを得た恍惚感に浸ることによって、清めなければなりません。」

―1961年2月26日の御講話

 人生は心の中で創られた実態のない夢ですが、そのことに気づいて生きるのと、それを知らずに生きるのでは全く違う生き方になるでしょう。なぜなら、 人生は夢だと知っていれば、その夢が辛く悲しいものであっても、楽しく嬉しいものであっても、観る者としてそれに巻き込まれることはありませんが、 夢が真実だと錯覚すれば、自分が役者であることを 忘れた役者のように夢に巻き込まれてしまうことに なるからです。人生は神が監督し、神が演じ、神が 鑑賞している神のリーラーに違いありません。

 アートマには性別はありません。アートマには国籍や人種はありません。アートマには思考がありません。悲しみも、苦しみも、欲望も怒りも、高慢も嫉妬もありません。アートマには恐れも心配もありません。アートマには誕生も死もありません。アートマは観るものであり観られるものではありません。 アートマはサット・チット・アーナンダ、つまり実 在であり、純粋意識であり、至福です。

 このアートマ(真我)に立脚して生きることがこの世を渡る秘訣だと思われます。人生は一人ひとりが創り出す、自分が主人公の夢のドラマです。ですので、それを否定する必要はありませんし、相対世界の幸せを否定する必要もありませんが、それは夢だと気づいていなければなりません。

 

 スワミは説かれます。

人生は挑戦、それに立ち向かいなさい

人生は愛、それを分かち合いなさい

人生は夢、それに気づきなさい

人生はゲーム、それをプレイしなさい

アンカー 18

​第 18 

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​解脱を求めなくてどうする
​解脱を求めてどうする

 霊性修行の最終的な目標は、悟りに達し解脱を得ることだと言えるでしょう。つまり私たちを縛る「個人意識」という幻想を克服し、私たちの本質である真我(神意識)を顕現することです。

 原始仏教の説明によれば、悟りにも段階があるとしていますので、その到達度は一様ではありません。

 

 ちなみに段階とは、私(自我)は永遠であるという信条、ブッダの教えに対しての疑い、誤った戒律・禁制への執着という3つの束縛が絶たれている第一段階。次に、貪瞋痴(とんじんち)、つまり貪欲、怒り、無知が薄まっている第二段階。次に、第二段階の貪欲と怒りが完全に絶たれている第三段階。そして、色界や無色界に対する欲望・執着、慢心、心の浮動、無知を絶った第四段階とのことです。そして第一段階では最大7回の輪廻があり、第二段階では一度だけの輪廻があり、第三段階では欲界および天界には再び還らない、そして第四段階では輪廻から解放されるとしています。

 これが真実かどうかは私たちには分かりませんが、解脱にも段階があると考えれば、解脱が漠然としたものから、より輪郭をもってイメージできますし、何を克服すべきかが見えてくるようにも思えます。

 

 先日、「解脱」をテーマにしたスタディサークルがありました。質問は「解脱とは何でしょうか?」そして「解脱を得るためには何が必要でしょうか?」というものでした。

 人は何度も生まれ変わり、浮かれた人生を送り、再びおぎゃあと生まれることを繰り返しています。霊性の階段を一歩ずつでも登らなければ、いつまで経っても、この世の宿命である生老病死という苦を味わい続けなければなりません。このスタディサークルの背景には、そのような思いがあったのだと思います。 

 スワミは死を回避する唯一の方法は、再び生まれないようにすることだと説かれています。ですので、私たちは、この人生で解脱を求めなくてどうする?ということになります。

 しかし、2002年の国際セヴァ大会で、ヴェンカタラーマン博士は、スワミは次のようなお話しをされたと打ち明けられています。

 

 数年前、スワミは奉仕について話をされていました。話しの途中で急に声を大きくされ、「解脱とは、まったくなんとナンセンスなものでしょう」と言われました。すべての人が解脱を望んでいます。スワミは(ある時は)「あなた方は解脱を熱望しなければなりません」とおっしゃり、(またある時は)「なぜあなた方は解脱を求めるのですか?」とおっ

しゃるのです。解脱を求めることは非常に利己的であると言われます。「あなたは解脱を望みますが、他の人はどうなのですか?困っている人のところに行って奉仕しなさい。行って奉仕するのです。あなたがそうするなら、神があなたのところにやって来て『私の愛しい帰依者はどこにいる?さあ、解脱を受け取りなさい』と言うでしょう。」スワミはこのことを大いなる喜びと力と情熱をもって話されました。私はそれを正確にお伝えすることはできませんが、私の中に今も深い印象として残っていることを申し上げたいと思います。この中に含まれているメッセージは、「奉仕しなさい。そうすれば、神が来て、あなたに奉仕します。神があなたを探しにやって来ます」ということです。これは非常に重要なポイントです。(サイセヴァp.124より)

 

 スワミのお話しは、言うまでもなく解脱を求めてはいけないとおっしゃっている訳ではないでしょう。これは、世の中に困っている人たちがあふれているのに、自分のことだけを考えることに対して注意を促されたものだと思われます。神々でさえ人類に対して奉仕のために化身されているのです。私たちもまた、他人の苦しみや悲しみに無頓着で、自分のことばかり考えて良いはずがありません。

 誤解を恐れずにいえば、「解脱は求めるものではない」と言えるのではないでしょうか?解脱を得るために霊性修行をするという姿勢には、結果を求める行為者意識が見え隠れします。  

霊性修行は「私」という自我意識を放棄するために行うものと言えますので、矛盾をはらんでいると言わざるをえないのです。

 

 奉仕活動の中に、「私」が消えたとき、バジャンの中に「私」が消えたとき、瞑想の中に「私」が消えたとき、つまり自我意識、目的意識、意図、判断、計らいなどの思いが消えたとき、その結果として神意識が顕現されるのではないでしょうか?そうであれば、解脱は求めるものではなく、もたらされるものなのだと言えます。 

 逆説的ですが、解脱を求める心がある限り解脱はもたらされないという言い方もできるのかもしれません。この逆説は幸せを得ようとする限り、幸せは逃げていくという逆説にも通じているように思えます。

 

 国際オーガニゼーションの資料「幸せになりなさい」の中で、ウエイン・W・ダイアーの言葉が紹介されています。

 「あなたが自分自身のために幸福を探し求めるならば、それは常にあなたを避けて通るだろう。他の人のために幸福を探し求めるならば、それはあなた自身であることを見出すだろう。」

 

 私たちは自己関心が高く、解脱にせよ幸せにせよ自分のことばかり考えています。それは程度の問題かもしれませんが、自分のためにという目的をもって行うことは、霊的な観点からは逆の結果になりかねないことを覚えておく必要があります。

 悟りを得られるか、解脱に至るかなどと思い煩うことなく、神様を愛し、すべてを神様に委ねて、神様の道具として生きていれば、その時が来ればそうなるかもしれないし、ならないかもしれない。そんなことは忘れて今の人生を輝かせる。そのようなスタンスが望ましいのではないでしょうか?

 クリシュナを愛したゴーピカたちには、ただ愛しかなく、そこには何の計らいもなかったはずです。ただ「南無阿弥陀仏」と唱え続けた妙好人は学問も修行もしないで感謝と喜びに生きたのではないでしょうか?規律を厳格に守り、それを誇ったファリサイ人に対して、取税人は「私を憐れんでください」と主に祈り、救われたのではないでしょうか?

 

 ジョン・ヒスロップ博士も、「私のババと私」の回顧録の中で次のように言われています。

 

 現代の神聖なアヴァター(神の化身)であるババは、無限の知識の深みから、この時代には、たとえ私たちが社会や家庭に残っていても、霊性修行をして神への信愛に満ちていれば、誕生、死、転生から自由になれる可能性があると述べている。現代にふさわしい霊性修行は、ババの神聖な御教えの中で説明されている。千金の値打ちのある解放(解脱)の秘訣とは、神のものを神に捧げることであり、最終的に分析すれば、あらゆるものは神のものである。行為の結果を味わうために行為しているという考え方を捨てて、代わりに、すべての行為の結果を神に捧げるようにとババは教えている。神が意志し、神自身がその行為の行為者となり、神がその行為の結果を受け取るのだ。ババは言う。

 「グニャーニ(転生から解放された者)とアグニャーニ(知るべきことを知らぬ者)は、両者ともに欲望、すなわちあの世への欲望と過去のカルマの重荷を等しく抱えています。ただ、グニャーニは自分が行為者であるという意識を持ちません。それゆえグニャーニは束縛されません。心(マインド)は束縛(誕生と死と転生の循環)の原因であり、解脱の原因でもあります。心はすべての原因なのです。」

 輪廻転生から離脱を始めるのに簡単で効果的な一つの方法がある。この簡単な方法とは、いつも自分自身の利益を得ることばかりを目指す代わりに、他人に善行をなし、他人のために善行をなすことである。大量の土に覆われた花の種は芽吹かないように、私たちの過去の悪行の種は、もし善行で覆われるなら芽吹くことはない。「善行は無数の罪を覆い隠す」と格言にも言われている通りだ。(ジョン・ヒスロップ博士の『私のババと私』回顧録より抜粋)

 

「全てを愛して、すべてに奉仕しなさい」

「いつも助けて、決して傷つけてはなりません」

 この霊性の叡智が凝縮されたスワミの御教えを生きる人は、難しい顔をして霊性修行をしなくても、輪廻からの解放がもたらされるでしょう。これは霊性修行というより、誰にでもできる理想的な生き方であり、人生を最も豊かに、そして意味のあるものにしてくれる秘訣です。自己関心を脱し、神様と共に奉仕する。一日を愛で始め、愛で過ごし、愛で終える、それ以外に何かする必要はあるのでしょうか?

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​第 17 

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​禁戒から勧戒へ

 パタンジャリのヨーガ・スートラの中で、八支則として知られている戒律があります。八支則とは、禁戒(ヤマ)、勧戒(ニヤマ)、座法(アーサナ)、調気(プラナヤーマ)、制感(プラティヤーハラ)、集中(ダーラナ)、瞑想(ディヤーナ)、三昧(サマディ)です。

 

 この八支則は、悟りに至るまでの道筋を表しているようですが、このステップの中で禁戒(ヤマ)と勧戒(ニヤマ)は特に大切だと思われます。禁戒は、禁じられている戒めであり、勧戒は、勧められている戒めです。具体的には禁戒は、非暴力(アヒムサー)、嘘をつかないこと(サティヤ)、盗まないこと(アステーヤ)、欲望に溺れないこと(ブラフマチャリヤ)、貪らないこと(アパリグラハ)であり、一言で言えば『否定性の排除』だといえるでしょう。

 それに対して勧戒は、身心を清らかに保つこと(シャウチャ)、足るを知ること(サントーシャ)、苦しい状況があったとしてもそれを成長の糧にすること(タパス)、心を良い方向に導く本を読むこと(スヴァディアーヤ)、信仰をもち感謝の気持ちを忘れないこと(イーシュワラ・プラニダーナ)であり、一言で言えば『肯定性の促進』だと言えると思います。

 どちらも霊性修行には必要なステップですが、順番としては禁戒がファーストステップであり、勧戒はセカンドステップである点に注目したいと思います。禁戒は霊性という木を育てるために、暴力、嘘、盗み、貪り、欲望などの雑草を取り除くことを意味していますが、これが初めになされるべきなのは、このステップがなければ霊性という木が育つことが望めないからでしょう。

 もし禁戒というファーストステップを疎かにしたまま、勧戒を行ったとしても、それらは中身のない見せかけだけの行為になります。

 例えば暴力的な言葉を吐いたり、他人を見下したりしながら、霊的書物を読んで知識を増やしたとしても、毎日、神を礼拝する習慣を持っていたとしてもまったく意味はなく、むしろ霊的高慢さが募るばかりになります。

 反対に禁戒を守ることができれば、たとえ他の難しい修行ができなくても、霊性は自然に進んでいくように思えます。なぜなら、雑草のない整地された土地では、苗木はよく育ち、神への愛という肥料を施せば、いずれ大木に成長することになるからです。そのように考えれば、禁戒は私たちが守るべき最も大切な霊性修行の基本であると言えるのではないでしょうか?

第一の禁戒 アヒムサー(非暴力)

 スワミの「決して傷つけてはなりません」という御教えは禁戒です。そして「いつも助けなさい」「すべてを愛しなさい」「すべてに奉仕しなさい」は勧戒です。それらはとても大切な教えであり、私たちの生き方の理想となっていますが、その前提はまず「決して誰も傷つけてはなりません」という禁戒を守ることにあるように思えます。

それはあまりに当然すぎて、あたかも学校で教える道徳のように感じるかもしれませんが、スワミの説かれる「決して傷つけてはなりません」という御言葉は、それとはまったく違う深さがあります。

 「決して誰をも傷つけてはなりません」は究極の真理である、すべての存在は唯一の神の顕れであり、すべては一体であるというアドワイタ(不二一元論)に根差しています。その見地からは、誰かに暴力をふるうことは神に暴力をふるうことであり、同時に自分自身をも傷つけることを意味します。また、誰かを傷つけることがあれば、その報いは必ず自分に戻って来るものです。誰もこのカルマの法則から逃れることはできないことを考えれば、自分自身にも害を及ぼす暴力的な行為はするべきではありません。

また、傷つけないという意味は、行為だけを意味しているのではありません。思いにおいても、言葉においても傷つけてはならないのです。

 

 行為で人を傷つけないように心掛けることは比較的簡単です。言葉で人を傷つけないのは、自分が知らないうちに間違いを犯すこともあり注意が必要です。最も難しいのは思いにおいても人を傷つけないことでしょう。嫌悪感や差別意識を放棄することは簡単ではありません。マザーテレサが路上で死にゆく悪臭を放つ病人を助けたのは、そこにイエス様を見ていたからに違いありません。 

 

 我々も、もし嫌悪する誰かがいたとすれば、その言動や表情や姿形ではなく、その中にいる神様を見るようにすべきでしょう。そうすれば、思いにおいても人を傷つけることは少なくなると思います。

 

第二の禁戒 サティヤ(真理=嘘をつかない)

 

 人は自分を正当化するために、あるいは自分の何かを守るために、嘘をつくことがあります。理由はいろいろあったとしても、霊性修行者はどんな場合でも真理に従い、嘘をつかないようにしなければなりません。スワミは嘘をつくより真実を語った方が後で取り繕うような必要がなく本当は易しいともおっしゃっています。もし真実を守れないのであれば、むしろ沈黙した方が良いのでしょう。

さらに、相手のことを思っての嘘であってさえもつくべきではないという逸話があります。

 

 「マハートマ ガンディーの母プリターバーイーは、神を憶念しつつ生涯を送りました。プリターバーイーはカッコーの鳴き声を聞くまでは食事をしないという請願を守っていました。ある日、カッコーの声が聞こえないという事態が起こりました。まだ幼かったガンディーは、請願を守って食べ物を口にしない母親を見ていられなくなり、家の裏に行ってカッコーの鳴きまねをしました。それから家に入って、カッコーの声が聞こえたから食事をしてもよいはずだと母親に言いました。母のプリターバーイーは大変悲しみました。なぜならば、息子が嘘をついていると分かっていたからです。」

―2000年11月19日の御講話より

 

 母を想っての優しい嘘ぐらいは許されるのではないかと考えることもできます。しかし冷静に考えてみれば、ガンディーは嘘により母親の請願を破らせてしまうことになるのではないでしょうか?これは真理の見地からすれば、してはいけないことだと考えられます。

第三の禁戒 盗まない(アステーヤ)

 他人の財産やお金などを盗んではいけないのは誰にでも分かります。しかし目に見えないものに関しては、私たちは無頓着かもしれません。例えば、約束の時間に遅れることは相手の時間を奪うことになります。また次のことはアステーヤに想定されていないことかもしれませんが、私たちは余計なお節介をして、相手の学ぶ機会を奪ってしまうことがあります。神様でさえ私たちに間違いを犯すことを許されています。それは真の学びは体験によってでしか得られないからでしょう。すべての人を神様が導かれているのですから、頼まれてもいないのに安易に誰かの問題に干渉することは慎むべきだと思われます。

第四の禁戒 欲望に溺れないこと(ブラフマチャリヤ)

 スワミは欲望に制限を設けなさいと説かれています。その制限というハードルの高さは他人から強制されるものではありません。自分の内において自ら決める必要があります。低すぎるハードルは簡単に超えることができます。高すぎるハードルは超えることが難しいです。

 徐々にハードルを上げていく堅実さが必要なのでしょう。欲望を制限すれば自由を制限し、束縛が増すように感じるかもしれません。しかし、真の意味において、それは束縛からの解放をもたらすと言えるのでしょう。なぜなら、スワミは真の自由とは欲望がないことだと言われているからです。

 スワミは「I want God.(私は神が欲しい)」から”want(欲望)”を取れば「I God(私は神)」になると言われています。そして「I(私)」を取れば「God(神)」だけが残ります。

 

第五の禁戒 他人から貪らないこと(アパリグラハ)

 スワミは次のように説かれています。

 「ウパニシャッドは、パリグラハ(他人からものを受け取ること)を罪深いことと見なしています。他人にどのような助けを施すにしても、見返りは一切期待せずに行わなければなりません。ウパニシャッド聖典は、自分の行為の結果を刈り取るのは人間にとって当然のことであると述べています。人間には、自分の父親、母親、師、そして、神からは援助を受ける権利がありますが、他の人から援助を受ける権利はありません。神は創造者であり、維持者であり、守護者なのですから、あなたは何でも神に求めることができます。両親からは、両親の地位の許容量に応じたものを受け取ってもかまいません。しかし、それ以上を求めてはなりません。

 師からは、知識だけを受け取らなければなりません。何があなたの福利を促進するかを教える師に対しては、他の何ものでもなく、師を満足させる方法を見つけなければなりません。今の学生は、この能力に欠けています。その結果、さまざまに借りを作っています。それらの借りを返すために来世でどのような生を受けなければならないかを語ることは誰にもできません。友人から受けるもてなしも、制限を守らなければなりません。親から独立している友人の家でさえ、長居しすぎることは間違っています。

 それゆえ、他人からの申し出を遠慮する気持ちを育てることが必要不可欠です。客人に、果物や花、水やちょっとしたものを出す準備ができていなければなりませんが、他人から何かを受け取ることには慎重であらねばなりません。」

―1989年9月3日 ガネーシャチャトゥルティーの御講話より

 

 禁戒を守ることは霊性修行の土台であり、霊性修行者として最も大切にすべき戒めだと思われますが、それらは決して簡単なことではありません。しかし私たちはそれを疎かにして、何か新しい知識を得たいとか、新しい瞑想を行ってみたいとか、新しいマントラを学びたいとか、付け加えることに関心を示しがちです。それは決して間違っているわけではありませんが、霊性修行の基本は足し算ではなく、生まれる前には持っていなかったものを、引いていくことが王道ではないかと思われます。

 

 禁戒という引き算から始め、そして勧戒という足し算に進むという流れは、ヴェーダのルッドラムでも見られます。ナマカムは無執着の祈願であり、チャマカムは願望の祈願だと思われますので、やはりこの順番が大切なのでしょう。 

 霊性修行を急がずに、しっかりと禁戒を踏み固めることが大切なのではないでしょうか?

 

16

​第 16 

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​ある霊性修行者の選択

 一人の真面目な青年がサイ オーガニゼーションを離れていきました。スワミの話をする時は「スワミが、スワミが・・」と嬉しそうに話していたのですが・・・。いろいろな悩みも話されていましたが、スワミの御教えを守れないので会員としての資格がないと自責の念にかられているようでした。霊性の道を歩もうとすれば、誰もが自分の出来の悪さや至らなさに直面させられます。

 

スワミは、

「感覚をコントロールしなさい」「欲望に制限を設けなさい」「いつも助けなさい」「誰をも傷つけてはなりません」「すべての人を愛しなさい」「すべての人に奉仕しなさい」「あなたの生き方が私のメッセージになるように」など多くのメッセージを発していらっしゃいます。

 果たして自分はそのようなサイの御教えを守っていけるのだろうか・・・・?サイの帰依者などと呼ばれる資格が自分にはあるのだろうか?サイの道を歩む者として相応しいのだろうか?真面目な人ほど、このような理想と現実の狭間で葛藤するのでしょう。その方は、自問自答の末にサイオーガニゼーションを離れ、別の道を歩まれることになりました。どんな道を歩もうとも、その道がその人にとってはきっと必要なのだと思いますし、どんな道を歩んでも神様が見守っておられますので心配はしていませんが、残念な結果になったことを覚えています。

 

 スワミは御教えを守ることを決して強制されているわけではありません。スワミは次のように説かれています。

 

 「宗教の分野ではいかなる類の強制も強要もありません」(1983年10月30日の御講話より)

 

 またスワミは、フォース(強制)ではなくソース(源)だと言われています。ソース(源)とは、私たちの源である内なる神のことです。つまり、一人ひとりが内なる神聖意識に照らして行動する自主性が大切であり、誰かから強制されるものではないということなのでしょう。サイオーガニゼーションもそのように何かを強制することは決してありません。

 ですので、スワミの御教えを守れなければ会員としての資格がないなどということはないのです。「御教えを守れなかった」と思えばやり直せば良いのです。完全な人間などいませんし、誰でも間違うこともあります。しかし、そのような助言をしてもその方の決心を翻すことはできませんでした。

 

 スワミは次のように説かれています。

 

 「人々が霊的で有益な活動を行うよう求められるとき、最初からやる気のある人は一人もいません。それでもやはりやけになってはなりません。分別が芽生えるまでは、厳しく規律を守りなさい。この分別が修行の成果なのです。最初のうちは誰一人としてそれを持っていません。しかし絶えず訓練することが熱意を生み出します。乳児は母乳の味を知りません。毎日母乳を飲むことによってそれを好きになり始めるのです。実際、その味がとても好きになるので、母乳を止めて代わりにご飯が与えられるようになると、最初は嫌がります。しかし母親は諦めません。毎日少量のおかゆを食べるように促し、そのうちに子供はご飯を好むようになって、最終的に断乳するのです。乳児にうってつけの食べ物だった母乳は、自然なやり方で、今度はご飯に取って代わられます。実際、今度は一日中ご飯がもらえないと、子供は悲しくなります。同様に、絶えず修行していると、世俗的・感覚的な事物に対する欲望は薄れていき、良い仲間(サットサング)が主流となるでしょう」(バーガヴァタヴァ―ヒニー第1章より)

 何ごとにも根気強さが大切です。たとえ御教えを守れない時があっても諦めるべきではありません。そのような時には良き仲間(サットサング)が大きな力になってくれるはずです。仏教には、出家した者が戒を守れそうにない時に「捨戒の便法」というものがあるそうです。これは戒を犯す前に一時的にその戒律を捨てるというものだそうですが、真意には深さがあるようで、今日は捨戒したから般若湯(お酒)を飲むことにするなどと言い訳にするものではなさそうです。

 

 しかし「捨戒の便法」という言葉があるということは、古来より出家者でさえいろいろと悩み、葛藤してきたことを物語っているように思われます。この世に神の御教えや戒律を完全に守れる人はどれほどいるのでしょうか?人間である限り、内なるジハードを続けながら、勝利した日や敗北した日があるのが普通なのだと思われます。この勝利感も敗北感も、私が行為者であるという行為者意識が生み出すマーヤー(幻想)だと思いますが、そうだとしてもそれらを否定する必要はないでしょう。なぜなら、私たちは体験を通してこそ学び成長することができるからです。敗北感や悲嘆などの否定的な感情も肯定的に受け止めることが求められます。

 

 ただし、自責の念や否定的な感情は行為者意識が生み出すマーヤーだと知っておかないと自己嫌悪に陥りますので注意が必要です。私たちは、私という個人が存在し、個人の自由意志で生きていると錯覚していますが、真実から見れば、すべては神により動かされているはずです。スワミは言われます。

 

 「草の葉一枚といえども神の意志なくしては動かない」

 

 ただし、この見解はアドワイタ(不二一元)という究極の真理であり、行為者意識に縛られている私たちは、自分の行為の責任を取らなければなりません。その理由につきましては、ダイアナ・バスキンが「サイ ババの聖なるレッスン」の中で「自由意志」について言及されていますので、ご参考にしていただければと思います。

 

 いずれ霊性修行者が究極の段階に達することになれば、すべてが神様のご意志により動いていることが分かるのではないでしょうか?そのことを頭の隅においた上で、現状を俯瞰し、自分を責めることなく、根気よく霊性修行を続けることが大事なのだと思われます。

ジハードとは:

 ジハードは、『(クルアーン(コーラン)』に散見される「神の道のために奮闘することに務めよ」という句のなかの
「奮闘する」「努力する」に相当する動詞の語根 jahada(ジャハダ、語源としており、アラビア語では「ある目標をめざした奮闘、努力」という意味である。(ウィキペディアより、2023年1月29日)

 

ダイアナ・バスキン:

 著者のダイアナを光に導いたのは、その母親でした。母親は初めてのインドの旅で出会った神人、バガヴァン・シュリ・サティヤ・サイ・ババについて語り、満たされずにいた娘を霊的に励ましました。娘のダイアナは、母親の言葉を信じてインドへ向かい、現代のアヴァターにめぐり遭う幸運に恵まれました。2度目にインドを訪れた際、ダイアナは5年間アシュラムに滞在して、バガヴァンの神性を体験し、その御教えを学び、バガヴァンに従うことができました。バガヴァンに出会う前は混乱状態にあったダイアナの人生は、神のお導きによって見知らぬ相手と結婚した時に転換しました。これはすべて、彼女の最初の本である『追憶-サイ・ババとの聖なる日々』の中に書かれています。

 

自由意志のリンク先:

http://www.sathyasai.or.jp/mmg_cnt/202302/freewill.pdf

15

​第 15 

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ヨーガックシェーマム
ビャハーミャハム

(その者の安寧は私が担う)

 世の中には、神の恵みをいっぱい受けて幸せな人生を送る人がいる一方で、もがいても、もがいても明日が見えず、絶望に打ちひしがれる人がいます。その不公平さに神の存在を疑い、神を信じることができない人もいるのではないでしょうか?では、神はある人には恩寵を与え、ある人には恩寵を与えないというようなことがあるのでしょうか?

 

 いいえ、そんなことは決して考えられません。なぜなら、神はすべての存在に宿るものであり、すべての人は神の顕れだからです。神はすべての人を区別しません。誰かをえこひいきすることなど有りえないでしょう。

 

 では、なぜそのような違いが生まれるのでしょうか?それは、自分がなした行為の結果を受けるというカルマの問題や、過去世から持ち越しているヴァ―サナ(生まれ持った傾向)の問題かもしれませんし、あるいは、自ら苦難に挑戦するということもあるでしょう。それは私たちには分からないことですし、軽々に、「ああだこうだ」と言うことはできません。しかし、スワミの次の言葉は私たちの目を開かせてくださいます。
 

スワミの御言葉
 

 「世界全体に一つのブラフマンがいるのです。そして、内在のブラフマンは人によって異なるものではありません。ここにはいろいろな電球があり、電球はそれぞれ違うと私たちは思っています。実際には、電球から発せられる光はそれぞれ違って見えても、電球を流れる電流はどれも同じです。世界の人々は皆、電球のようなものであり、ブラフマンの側面が、シャクティパータという形となって人間という電球の中を流れているのです。しかしながら、一部の電球は無知ゆえにヒューズを有しておらず、そうした電球は光が点きません。ただ光っていないからといって、その人の中にはブラフマンは存在しないと言うべきではありません。どの人にも光る能力はあるのです。」

1974年5月夏期講習における御講話より
 

 つまり、すべての人(電球)に神の電流が流れていても、電球の明るさに違いがあるのは、神のえこひいきによるものではなく、受け取る私たちに原因があるとのことです。神から発せられる電流は、生命エネルギーや愛や恩寵と言い換えても良いと思いますので、神がすべての人に等しく愛や恩寵を降り注いでいても、それを受け取れるかどうかは私たちの問題なのでしょう。
 
 そして、神からの恩寵を無益にしないために神は次のように説かれています。


スワミの御言葉
 

 「霊性修行者は、神の恩寵、グルの恩寵、神の帰依者の恩寵を勝ち得るかもしれません。しかし、もう一つの恩寵、すなわちアンタッカラナ(自分自身の内なる意識)の恩寵が保証されない限りすべては無益です。この恩寵がなければ、霊性修行者は破滅に陥ります。それ以外は取るに足らぬことだからです。」

『プレーマ ヴァーヒニー』21節


 アンタッカラナ(自分自身の内なる意識)の恩寵とは何でしょうか?それは、アンタッカラナつまり、マナス(心)、ブッディ(知性)、チッタ(心素・認識・意識・記憶)、アハンカーラ(自我意識)という内なる四つの道具が、本来の役割を果たすことで得られる賜物という意味ではないかと思われます。


 例えて言えば、神からリンゴを与えられたとしても、それを受け取り味わうためには、「恩寵、恩寵」と鸚鵡(おうむ)のように口先だけで繰り返しても意味はなく、自ら手を出して受け取る努力がなければならないのです。
 

 さらに、覚えておきたいもう一つのポイントがあります。アルジュナが「どうしてあなたは、その神聖で高い境地をすべての人が手に入れるようにされないのですか?それは不公平ではないですか?」と疑問を呈した時のクリシュナの答えです。少々長いですが、引用させていただきます。
 

クリシュナは答えました。
 

 「そうだ。普通、人間はそうした疑問に圧倒されている。君は人類を代表しており、したがって、君の疑問は人類の疑問でもある。君の疑問を解くことによって、私は人類への私のメッセージも知らせることができる。聞くがよい。私を求める者には四種いる。そのうちの一種は、体をむしばむ病気によって常に疲れている人だ。彼は苦しみ悩む者である。もう一種は、繁栄、権力、自分、財産、子孫といったものを求める苦闘によって気をもんでいる人だ。彼は富を求める者である。三番目はアートマを悟りたいと切望し、経典や聖典を読み、いつも霊性の求道者たちと行動を共にし、聖賢たちが定めた善行の道筋に沿って行動し、常に主の臨在を得たいという熱望に動機づけられている人だ。彼は英知を求める者である。四番目は英知者だ。彼はブラフマンの原理に浸っている。


 第一の種類の苦しみ悩む者は、自分が困難の中にあって悲しみや痛みに苦しんでいるときにしか私を礼拝しない。彼が私に祈るとき、私はそれを聞いて、その特定の困難、その特定の悲しみや痛みに関してのみ、彼を満足させる。それと同じように、富を求める者が財産や地位、権力や高い身分を求めて祈るとき、私はそれを聞いて、彼が乞い求める特定のものだけを与える。英知を求める者は、離欲の行為をする機会、導き手としてふさわしいグル、そして、アートマとアナートマを見分けるに足りる研ぎ澄まされた識別力という恵みを授かり、そのようにして目標に到達することを助けられる。私は、気を散らかすものから救われるよう、また、解脱という唯一の目標に集中することができるよう、私は〔原文ママ〕カルパ ヴリクシャ(天界にある願望成就の木)のようなものだ。私の任務は、一人ひとりにその人が求めるものを与えることだ。私に偏見はなく、ひいきすることもない。残酷さの影すらも私に触れることはできない。いかなる過ちも私に負わせることはできない。日差しは日の当たる所にあるすべてのものに公平に注がれる。しかし、例えば、もし何かが別の何かの後ろにあったり、閉め切った部屋の中にあったりしたら、太陽はどうやってそれを照らすことができる?高次の願望を募らせよ。そうすれば、君は高次の利益を受け取る。過ちは、求道者と求道者の願望にあるのであって、主の態度にあるのではない。」

『ギーター ヴァーヒニー』pp.96-97

 

 神は、求めに応じて、私たちが求めるものを授けてくださいますが、求道者は一時的な満足を得られる世俗的なものではなく、永遠の価値を求めるべきなのでしょう。
 そして、次の神の約束は私たち帰依者に生きる勇気を与え、明日に向かって前進する力を与えてくれます。

 

スワミの御言葉

 「帰依者は、[アハンカーラ、自我意識]を圧倒して打ち負かすバクティ(信愛)によって、主を愛で縛ることができるのです。人がこの種のバクティで満ちているとき、主自らがその人の必要とするものをすべて与えて祝福するでしょう。主の恩寵はその人のあらゆる望みをかなえるでしょう。ここで、主がギーターの中で約束したことを思い出してごらんなさい。「ヨーガックシェーマムビャハーミャハム(その者の安寧は私が担う)」(バガヴァッド・ギータ9章22節)という約束です。」

『ギーター ヴァーヒニー』p.35より


 この「ヨーガックシェーマムビャハーミャハム(その者の安寧は私が担う)」という約束は、主が、全託した帰依者に与えたものですが、これほどの恩恵は他にあるでしょうか?この言葉を知った私たちはなんと幸運なのでしょうか!この神の約束を知っているだけで、私たちはあらゆる心配や恐れから解放され、のびのびと生きることができます。

14

​第 14 

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​第二の矢を放つな

 あるテレビ番組で仏教の教えを分かりやすく紹介していました。仏教は言うまでもなく、約2500年前に悟りを開かれたブッダの教えに基づいた宗教ですが、哲学的な色彩を持っていると言えます。

 

 ブッダが悟られた、苦しみから逃れる方法を一言で言い表せば「第二の矢を放つな」と言えるでしょう。第二の矢とは何でしょうか?

 かなり以前のことですが、電車の中で見知らぬ女性から足を思い切り踏まれたことがありました。電車が駅に着きごった返した時だったと思います。「アッ痛い!」と激痛ともいえる痛みに一瞬、固まりました。当然、「大丈夫ですか?」とか「スミマセン」とか言われると思ったのですが、その女性は何食わぬ顔で出ていきました。

 すると「なんて無礼な人だ」とか「一体どんな性格なんだ」とか怒りが湧いてきて収まりませんでした。今から何十年も前のことですが未だに良く覚えています。

 仏教では最初に体に感じた痛みを「第一の矢」と呼び、その後の心に生じた怒りを「第二の矢」と呼ぶのだそうです。

 

 普通、痛みと怒りはほぼ同時に生じますので、そんなことは考えません。分かりやすく表現すれば「痛いじゃないか(怒り)」になりますが、ブッダは体と心を観察し、五感を通して体に入ってくる感覚と、そこから生じる心の働きを区別し、人が苦しむのは心の働きにあることを見抜かれました。

 足を踏まれて「痛い!」と感じるのは体の反応ですので仕方がありません。しかし、「なんて無礼な人だ」とか「一体どんな性格なんだ」となるのは相手とは関係なく、自分自身が作り出したものです。そのように想いが拡張することを、仏教では無用の分別という意味で戯論(けろん)というそうです。

 

 戯論だかなんだか知らないが、足を踏んで謝らないのは非常識ではないか?と思われるかもしれません、しかし相手の立場に立てば、また違う想いを持っているかもしれないのです。

 「後ろから押して倒れそうになったのに、足をよけないなんて、なんて無神経なのかしら」と憤っているのかもしれません。つまり相手は相手で憤りの反応をしていて、こちらはこちらで怒りの反応をしているのかもしれないのです。

 

 「そんなのは理屈だ。相手はどうあれ、私は痛くて頭にきている、これは事実だ。」 確かにそうかもしれません。しかし、ブッダの教えに倣い、怒りという苦しみを生じさせないためには、感情のままに流されるのではなく、そこで踏み留まることが大切なのでしょう。

 

 「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用によって起こるのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起することは有りえない」(ブッダの言葉 スッタニパータより)

 もし、第二の矢を放たなければ、「痛ててて……」だけで終わったのかも知れません。体は痛くても心に怒りが生じることはないのです。では、第二の矢を放たないようにするにはどうすれば良いのでしょうか?

 

 仏教では、心と体を観察する練習が必要だと説きます。喜怒哀楽などの感情が生じた時に、それを観るもう一つの目を持つことがポイントのようです。そうして心が動いた瞬間を観察し、その因果関係に気づけるようになると、第二の矢を放つことはなく、心の自動反応から抜けられるようになるとのことです。

 

 これは、体の痛みという触覚だけのことを言っているのではありません。体には五感が備わっており、外部から様々な情報がそれらを通して取り入れられます。それが様々な妄想を生じさせます。耳からは、他人からの中傷や批判が入ってくるでしょう。目からは暴力的なニュースが入るでしょう。その度に、心を反応させていれば心は嵐になります。でも、怒りなどを生じさせてはいけないなどと言われると、「ちょっと私には無理、無理」と思われるかもしれません。でも、大切なことは生じさせてはいけないのではなく、生じた怒りを観察することなのです。それは喜ばしい反応であっても同様です。観察により心は静まります。

 

 そうせずに、もし第二の矢を放てばどうなるかというと、きっとそれはさらに第三の矢を放つことにつながるかもしれません。

 最初の体験に照らせば、「足を踏まれた」ことが、「なんという無礼な人だ」という第二の矢を放つことにつながりましたが、「こんなことで怒るなんて、私はなんて出来の悪い人間なんだ。私は全く人間の屑だ」などと、第三の矢を放ち、自己嫌悪を生じさせるかもしれません。

 あるいは、「世の中はなんて無礼な人間ばかりだ。もうこんな地球なんかに住みたくない。よその星に行く」などと地球悲観論者になってしまうかもしれません。

 

 しかし、すべては自分自身が創り出した不要な戯論(けろん)なのです。誰かに足を踏まれた痛みにより怒りが生じても、それに支配されないこと、そのためには心と体を観るという習慣を培うことが大切なのだと言えるでしょう。 

 また、スワミは、「あなたが見る世界はあなたの心の反映にすぎない」と説かれています。つまり、「あなたが愛の眼鏡をかけていれば、世界は愛なる世界に見えます。あなたが怒りの眼鏡をかけていれば世界は怒っているように見えます」と説かれていますので、思いやりや愛という眼鏡をかけていれば、足を踏まれても、「痛ててて……」だけで終わり、怒りや憤りという第二の矢を放つことはないでしょう。第二の矢を放たないためには、心をいつも愛で満たすことと、そして心と体の観察をすること、そのどちらもが大切だと思われます。

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第13回

​第 13 

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​この世の看板

 こんな小話を聞いたことがあります。

 ミリタリーレストランに入ってきて、菜食を注文したお客に対して、店の人が笑いながら言いました。
 

 「客人、ここはミリタリーレストランですぜ。入口の看板が目に入らなかったのですかい?ここは肉食ばかりで菜食なんかありません。どうぞどこかよその店に行ってくだせえ。」
 

 入口を間違えれば目的のものを手に入れることはできません。同様に、この世の入り口にも看板があるそうです。どのようなことが書かれた看板なのでしょうか?

 この話を進める前に、スワミが話されたもう一つの小話を紹介します。

 

 聖仙ナーラダが、ヴィシュヌ神の怒りに触れ、豚として地上に生まれ変わる呪いをかけられました。ナーラダは、豚のナーラダとして地上に降りてきました。しばらくすると、母なる女神、ラクシュミーがヴィシュヌ神に言いました。
「わが主、ヴィシュヌ神よ、そろそろナーラダをヴァイクンタ(天界)に連れ戻す時期ではありませんか?」


 そこで、ヴィシュヌ神はナーラダと話をするために地上に降りて行きました。その頃までにナーラダは美しい豚の妻をめとり、12匹のやんちゃな子豚たちに囲まれて、豚の家長としての幸福な生活を送っていました。ヴィシュヌ神はナーラダに近づいて言いました。
 「ナーラダよ、おまえはもう十分苦しんだ。さあ、私について来なさい」

ナーラダはその提案に愕然として、言いました。

 「何の話をしていらっしゃるのですか? 私はここでとても幸せなのです。どうして美しい妻と可愛い子どもたちを置いて行くことなどできるでしょう? それに、私は子どもたちに見目麗しい花婿を見つけてやらねばなりません。」

(シュリ G.ラーマチャンドラ ラーオへのお話 1996年7月13日)

 

 この小話はどのような人であってもこの地上に生まれればマーヤーの幻惑に翻弄されてしまうという教訓を含んでいるのでしょう。人もまた、美しい妻をめとり、やんちゃな子ども達に囲まれて生活することが楽しいのです。子どもたちには良い学校に行かせて、お金をしっかりため込み、老後を安心して暮らしたい、誰でもそう思うのではないでしょうか?

 もちろん、そのこと自体が悪いとは思えませんし、そのような世俗的な喜びを否定する必要もありません。ただ、この世の入り口の看板には「楽しく過ごす地上の楽園にようこそ」と書かれているのかどうかということです。

 

 この世で味わう喜びは一時的であり永続するものではありません。また、世俗的な喜びには喪失の悲しみがつきまとうものですが、楽しい時にはそのことに想いが及びません。あまり世俗的な喜びにとらわれると、残念ながら最後には四苦八苦を味わうことになるようです。スワミは「世俗的な平安は、一つの心配ともう一つの心配の間に訪れる短い隙間に過ぎません」と言われています。ですので、大切なことは、そのことを踏まえて、あまりこの世の喜びに執着しないことではないでしょうか?スワミはあまりこの世に恋をしてはいけませんと分かりやすく教えてくださいます。

スワミの御言葉

「賢明な人は、誰かを慕ったり、何かに過度な執着を感じたりしません。すべての恋慕とすべての執着を神に向けなさい。神だけが永遠であり、すべての喜びの源です。それ以外は、物を物として愛し、それ以上には愛さないようにしなさい。人を人として愛し、それ以上には愛さないようにしなさい。もし、それ以上愛するなら、それはあなたが彼らの本性に惑わされているしるしです。借家が自分のものであるように振る舞うことができるのは、ほんの短い間だけです。期限が過ぎればすぐに、その家は別の入居者に引き渡されます。このように考えると、配偶者、子ども、財産、親族が自分のものであるのは短い期間だけのことであり、長きに渡るわけではないと分かるでしょう。そうであるのなら、なぜこれらの非永続的なものごとを心配しながら時間を浪費するのですか?」

(Dhyana Vahini Ch 6より)

 これらの二つの小話は、この世の入り口の看板に書かれていることを忘れて違うものを求めてはいけないこと。そしてこの世は、単に楽しく暮らすための場所ではないことが暗示されているようです。人としてこの世に生まれたということは、私たちは、輪廻の鎖に捉えられているということです。だとすれば、誰でも克服しなければならない何かの課題を持っていることになります。

 それは人によって一人ひとり違うのでしょうが、すべての問題や克服すべき課題は、エゴを原因とするものだと思われます。例えば、心の中の6つの敵と呼ばれる否定的な想い、つまり怒り、貪欲、迷妄、高慢、嫉妬などや欲望はすべてエゴの兄弟であり、エゴを克服することでそれらはすべて克服されると思われます。スワミは、心の中の6つの敵に対する最も効果的な消火剤は人間的五大価値であると言われています。すなわち、真実、正義、平安、愛、非暴力です。真実は想う愛、正義は行う愛、平安は感じる愛、非暴力は悟る愛と呼ばれていますので、人間的五大価値の本質は愛だといえます。つまり、愛を培い、愛を導(しるべ)とし、愛に生きることはエゴを克服する最も確かな方法だといえます。

 

 この世の入り口に書いてあった看板の言葉は、私たちが達成すべき人生の理想と言い換えることができます。人生の理想、霊性の理想は、この世でさまよう意識を引き戻し、自分が自らに与えた課題を果たすための導きとなります。年のはじめにあたり、自分の人生の理想に想いを巡らせ、入口の看板は何かを思い返すのも意義のあることではないでしょうか?きっとその看板を書いたのは自分自身なのでしょうから。

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第12回

​第 12 

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​海と波のおはなし

 霊性修行の目的は、突き詰めれば、「私」という個人性を手放すことであると言えるでしょう。なぜなら「私」という個人性は肉体としての私が作り出した幻想であり、その束縛から解放されることが解脱だと言えるからです。

 それは、よく大きな海と波の関係に例えられます。海は、太平洋も大西洋もインド洋もすべてつながっており唯一のものです。その一つの海からたくさんの波が生じます。海から生じた波は、しばらく波として留まった後、再び海に戻りますが、波という姿をとっている間も、海と分離されて別の存在になったのではありません。波は、間違いなく海そのものであることは明白です。ところが、波は自分の姿を見て、自分は波に違いないと錯覚しています。また、他の波を見て、他の波は自分とは違う別の存在だと錯覚しています。それは自分たちが一つの海から生まれた海だということを忘れてしまったためでしょう。

 霊性修行は、自分は波であるという幻想、つまり個人性を手放し、源である海に戻ることだと言えますが、海に戻るためにもがく必要はありません。私たちは今のままで海だからです。それを覆う、ただ一つの障害物があるとすれば、それは自分自身でしょう。人は自分の想いに束縛されていると言えます。

 自分は波だという想いに囚われると、そこに個別性、個人性が生じ、消滅してしまわないかという恐れや、大いなる海と分離している感覚が生じます。

 

 カリユガ(暗黒の時代)とよばれる現代社会の分断や対立は、人間が自分は限られた命である波だと錯覚し、すべては永遠につづく一つの海だという真実を見失ったことが原因です。

人は生まれる前、肉体はありませんでした。

人は生まれる前、性別はありませんでした。

人は生まれる前、名前はありませんでした。

人は生まれる前、家族はありませんでした。

人は生まれる前、国籍はありませんでした。

人は生まれる前、海でした。

 

人は生まれた後、肉体を持ちました。

人は生まれた後、性別を持ちました。

人は生まれた後、名前を持ちました。

人は生まれた後、家族を持ちました。

人は生まれた後、国籍を持ちました。

人は生まれた後、波になりました。

 

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 波は海が一時的に波という形をとった海に過ぎません。それを忘れると幻想の上に人生を築くことになり、世俗的にどんなに成功を収めたとしても、どんなに裕福で幸せな家族を持ったとしても、それらは時が来れば空しく消え去ります。

 また、「富んでいる者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」とイエス様が言われたように、この世の物や人への執着は霊性の道に躓かせることになります。

 さて、波が海に戻れば、「私」という個人性は消えてしまうのでしょうか?

 そうであれば、そのことに抵抗を覚える方がおられるかもしれませんが、その抵抗感はアハムカーラ(肉体としての私)とアハム(真実の私)の混同からきているのかもしれません。波としての個人性(幻想)が消失しても海としての自己を失うことはあり得ません。つまり、私という意識は決してなくならないのです。それでも、抵抗を感じる方には、エドガー・ケイシーの次の言葉が参考になるかもしれません。

 「Be yourself, yet one with All(自分自身でいなさい、あらゆるものとの一体性を保ちながら)」

 この意識状態では、自分と他人という区別はもはやありません。ですので、分離感から生じる心配や恐れ、あるいは欲望からも解放されて真に自由なのでしょう。何かをしなければならないという強迫観念もなく、すべてに満たされていて、すべてが愛おしいという境地でしょうか?

 スワミご自身はアハム(海)とアハムカーラ(波)について次のように説明されています。

アハム(海)に関する御言葉

 『私』の原理はあらゆる場所に存在しています。その原理は神自身と共に始まりました。最初の言葉はアハム(「私」)でした。プラナーヴァ〔プラナヴァ〕(「オーム」)でさえ、アハムの後に生じました。あらゆる創造の前に、アハムだけが存在していました。そのアハムは多になりました。普遍的なアハムと自分が「私」と見なすものの唯一性を悟る者のみが自らの真実を知っています。普遍的な「私」は、時間と状況のゆえに、さまざまな体のさまざまな名と姿をとって現れます。同一人物であっても、一生のうちに外観や人間関係に多くの変化を被ります。しかし、「私」は変わることなく留まります。それは俳優がさまざまな扮装をするようなものですが、俳優自身は同一人物です。

1987年3月30日「I am I」(私は私)に関する御講話より

 

アハムカーラ(波)に関する御言葉

 肉体は、水の中から沸き上がり、水の中で大きくなって消えていく水泡のようなものです。これが真理です。人間はブラフマンから生まれ、ブラフマンを通して成長し、ブラフマンに融合します。ブラフマンを通して成長し、ブラフマンに融合します。ブラフマンとは、ブラマ(迷妄)からの解放を意味します。ブラフマンを体験できないのは迷妄のせいです。人間はアハムカーラ(自我、エゴ)とママカーラ(所有者意識)という迷妄に支配されているのです。 

1988年11月23日の御講話より

 つまり、海はアハム(真我)であり波はアハムカーラ(幻想)なのです。私たち一人ひとりは共通の海から生まれた波です。波に焦点をあてれば、分離感の中で苦しみが生まれます。海に焦点をあてればすべての存在への一体性が生まれます。 

 どちらに焦点をあてても、私たちは海であるという実態は変わりません。しかし、どちらに焦点を当てるかで人生はまるで違ってきます。

 海が自分は海であることを忘れて、波というドラマに没入すれば、波は行為者となり人生の喜怒哀楽に翻弄されますが、波が自分は海であり、波の役を演じているに過ぎないと知っていれば、その波の人生は海が演じるドラマになります。

 スワミは「Life is a Game, Play it (人生はゲームです。演じなさい)」と言われますが、それはきっと、人生とは神が演じるドラマであり、波を演じている海として生きることで、人生はゲームのようになるという意味ではないかと思われます。

スワミの御言葉

 『ギーター』は、結果に執着せず行為をなせと教えます。生きるそれぞれの立場に応じて、人には義務としてなすべき行為があります。それを、それにふさわしい精神で行うとき、行為をしつつ、しかも束縛されることはありません。すべての行為を舞台劇の俳優が演ずるように、役割と自分自身を切り離して考え、自分自身をあまりにも役割に密着させぬように注意しなさい。すべては単なる芝居であり、至高神があなたに役割を与えたのです。このことをよく覚えておきなさい。自分に与えられた役割を見事にやりこなすこと、それであなたの義務は完了します。「かれ」が舞台劇の筋書きをかき、「かれ」がそれを楽しんで見ています。

 アートマンは大洋であり、プラクリティ(物質)は広大で年代もなく無限の大洋のひとつの波です。人間は波のひとしずくに過ぎないのです。あなたは大洋を、波を、捨てることはできません。ひとしずくという名と姿を捨てれば、大洋に融合することができます。海の深みに沈潜しなさい。なんという静けさでしょう。すべてが平安です。波立ち、騒音、混乱はなく、それらは外側の、海の表面にあるだけです。そのように、ハートのもっとも深いところ、そこには平安が貯蔵されています。あなたは深い奥底のハートをよりどころとせねばなりません。

『黄金の宇宙卵』 1960年9月27日の御講話より

エドガー・ケイシー:

 エドガー・ケイシーは米国が生んだ20世紀最高の霊覚者の一人であると言われます。ひとたび催眠状態に入ると、彼自身がまったく知らない様々な事柄について、卓越した情報を与えることができました。

(エドガー・ケイシー口述『神の探求』より抜粋)

第11回

​第 11 

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​今とここに生きる

 サイ ババ様は次のように説いておられます。

 「現在というと、人は今の瞬間のことだけを考えるかもしれません。しかし、それは神が見ている現在ではありません。神にとって、現在(present)は遍在(omnipresent)です。これは、過去と未来はどちらも今あるものの中にあるという意味です。なぜなら、今あるものは過去の結果であり、未来の種だからです。人間は神の遍在を固く信じていないために、過去や現在や将来について思い悩むのです。神にとっては、時間の三つのカテゴリーは存在しません。」

1988年9月3日

クリシュナ神御降誕祭の御講話より

 

 私たちは、過去という時があり、現在という時があり、未来という時があると信じています。しかし、過去は現在意識の記憶にすぎず、未来もまた現在意識の想像の中にあるのであれば、時は今しかないはずです。過去、現在、未来という直線的な時の流れという感覚は、すべてが移ろいゆくこの物理次元だけの感覚だといえるのでしょう。

 

 しかし、時は今しかありません。例えば、夜寝て目覚めれば明日かと想像することはできますが、明日、目覚めればその時は今なのです。同様に肉体を離れて来世に生まれ変わると想像はできても、実際に生まれ変わったとしたら、それはその時の今なのです。ですので、明日をどう生きるか、来世をどう生きるかという質問は意味をなさず、今をどう生きるのかだけが私たちに問われることになるのでしょう。

 

 nowhere(どこにもない)という単語はnow(今)とhere(ここ)に分けることができます。つまり、私たちが生きることができるのは今とここをおいて他にはないことを暗示しているように思えます。

 

 過去を思えば、あの時ああすれば良かった、こうすれば良かったという後悔の念が生じます。未来を思えば、この先いったいどうなるのだろうという不安や恐れが生じます。過去は過ぎ去り、未来はまだ来ていないにもかかわらず、人は後悔したり恐れたりしています。

 

 また人は、過去にあった嫌な出来事が忘れられずにずっとそのことに苛まれ続けることがあります。例えば、誰かから罵詈雑言を浴びせられたとして、実際には、それはただ一度のことだったとしても、その後に怒りや苦しみが続くのは、もはやその相手とは関係なく、自分の記憶が繰り返されているためです。人が何かについて考えたり感じたりする時に生じる体の反応は、それが今起こっている現実か、過去の記憶かの区別をしません。

 嫌な怒りや悲しみを繰り返していれば、その度に、体は防御のために動悸を早め、血圧を上げてしまいます。怒りは免疫力も下げてしまうといわれています。つまり、過去の出来事にとらわれていると心が傷つき、また体も傷ついてしまうのです。

 

 ではその嫌な出来事を忘れることができるのかといえば、嫌な出来事というとらえ方のままでは、せいぜい気分を変えることはできても忘れることは簡単にはできないのではないでしょうか?

 

 そんな時にスワミの御言葉が役立ちます。

「過去を変えることができない」というのは私たちの常識ですが、スワミの説かれる「過去と未来はどちらも今あるものの中にある」という御教えは、過去に対する受け止め方は変えることができると説かれているようにも思われますが、どうでしょうか?

 

 もちろん、過去の出来事という事実は変えることはできないでしょう。しかし、その出来事に対するその時の受け止め方と今の受け止め方では全く違ってしまうことがあります。

 

 例えば、ある女性は、ある男性から結婚を申し込まれていたのですが、気乗りがせず承諾しませんでした。後に、あの時結婚していればよかったととても後悔することになりました。そのことがずっと心に引っかかり、とうとう生きる意味さえ見いだせなくなったのだそうです。

 しかし、結婚を選ばなかったという事実は変わらないとしてもそれは神の計画であり、後になればそれが感謝に変わるかもしれないという見方を知り、受け止め方が前向きになったようでした。

 

 もちろん、それは後にならなければ分からないことですが、実際そのような経験を多くの人がしているのではないでしょうか?困難に出会ったお陰で今がある。もうどうしようもない八方ふさがりになったお陰でスワミに導かれたなど・・・。

 

 そうであれば、人はどんな過去を引きずっていたとしても、それを「単なる悪しき出来事」とするのではなく、それは必ず、自分にとって必要な踏み石に違いないと信じれば前を向くことができるように思えます。

 

 人生に正しい選択はありません。我々にできることは、自分が選んだ道をどう正解にしていくのかだけなのでしょう。

 

 ハリール・ジブラーン(*)は「あなたの生き方は、人生があなたに何をもたらすかではなく、あなたが人生にもたらす態度によって決まります。あなたに何が起きるかではなく、起きることをあなたの心がどう受け止めるかのよって決まるのです」と述べています。

 

 では、「ここに生きる」とはどういう意味なのでしょうか? 私たちは、あの人のように、もっとお金持ちの家に生まれていればこんなに苦労しなかったとか、もっと健康に生まれていれば何でも好きなことができたのにとか、もっと才能豊かに生まれていれば芸術家の道を歩めたのになどと想像します。

 

 「ここに生きる」とは、そのような嘆きのような空想ではなく、自分に与えられた今のままの環境を是として生きるという意味でしょう。むしろ今の環境にこそ自分のなすべき課題や生きるべき意味があると了解することだといえます。

 

 人は自分と他人を比べ、優劣を競い合い優越感や劣等感を作り出しています。それは「自意識」というエゴが生み出すものですが、自分は自分で良いのであり他人と比べる必要はありません。

 

 神戸サイセンターで、ある身体障碍者の施設で音楽セヴァとしてスマップの「世界に一つだけの花」を歌ったことがありました。この歌の歌詞は自分の人生を人と比べる必要はなく、自分に与えられた場所で自分の生き方を目指せば良いと歌われています。

 「花屋の店先に並んだ、色んな花を見ていた。人それぞれ好みはあるけど、どれもみんな綺麗だね。その中で誰が一番だなんて争うこともしないで、バケツの中、誇らしげにしゃんと胸を張っている。それなのに僕ら人間はどうしてこうも比べたがる。一人ひとり違うのにその中で一番になりたがる。そうさ、僕らは世界に一つだけの花、一人ひとり違う種をもつ、その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」

 以下はその時の音声記録です。

https://drive.google.com/file/d/1C2iy6ag_zDfp3WXDLS7KNRDnH13nSjIr/view?usp=sharing

 

 今とここに生きるとは、そのように今に意識を定め、そして自分に与えられた今の環境を是として受け入れ生きることだといえます。

 

 その現状を肯定する前向きな姿勢は必ず幸福をもたらすといえるでしょう。サイ ババ様は、「過去は過去です。未来は不確かなものです。ただ『今』だけが私たちの手の中にあります。今を生き、自らの喜びを同胞と分かち合うことが人間の第一の義務です」と言われます。

(*) ハリール・ジブラーン:

1883年1月6日生まれ。

「20世紀のウィリアム・ブレイク」とも称され、宗教・哲学に根ざした、壮大な宇宙的ヴィジョンを謳う詩や絵画を残しその作風は後世さまざまな詩人や政治家に影響を与えた。皇太子妃だった当時の上皇后美智子がレバノン大統領から贈られたジブラーンの散文詩集『預言者』を愛読し、相談役の神谷美恵子にも紹介。神谷が後に『預言者』の抜粋集を執筆するきっかけにもなった。 

(ウィキペディアより抜粋 2022年9月14日)

第10回

​第 10 

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​人生の旅の荷物

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ある男が死にました。気がつくと、

神様がスーツケースを手に近づいて来るのが見えました。

神様と死んだ男の会話。

 

神様: 息子よ、もう行く時間です。

男 : こんなに早く?いろいろと予定があったのに。

神様: 残念だが、もう行く時間です。

 

男 : そのスーツケースの中には何が入っているのですか?

神様: あなたの荷物です。

 

男 : 僕のもの?僕のものって、服とかお金とか?

神様: それはあなたのものではありません、地球のものです。

 

男 : それは僕の思い出?

神様: いいえ。それは時のものです。

 

男 : それは僕の才能ですか?

神様: いいえ、それは「状況」に属しています。

男 : 私の友人や家族でしょうか?

神様: いいえ、彼らはあなたが旅した道に属しています。

 

男 : それは私の妻と子供たちですか?

神様: いいえ、それはあなたの心のものです。

 

男 : ならば、それは私の体に違いない。

神様: いやいや、それは埃から造られたものです。

 

男 : じゃあ、それはきっと私の魂に違いない!

神様: 残念なことに、君は勘違いをしている。

あなたの魂は私のものなのです。

 

男は目に涙を浮かべ、恐怖でいっぱいになりながら、

神の手からスーツケースを受け取り、それを開けた...。

 

空っぽだった...。

 

涙で頬を濡らしながら、彼は神に問いかけた。

男 : 僕は何も持っていなかったのか?

 

神様: そうです。あなたは何も所有したことがありません。

男 : では、何?私のものは何だったのですか?

神様: あなたのMOMENTSです。

あなたが生きたすべての瞬間があなたのものでした。

すべての瞬間に善を行いなさい。

すべての瞬間に良いことを考えなさい。

すべての瞬間に神に感謝しなさい。

人生はこの瞬間だけです。

それを生き、愛して、楽しみなさい。

 

 この小話は、私のものは何もないという真実を伝えてくれています。そして今という瞬間を生きることが大切であると...。

 

 実際、私たちが所有するものは何もありません。土地や建物も、お金や宝石も、家族や親類も、冷静に考えれば自分のものとはいえません。土地や建物は自然のものであり、お金や所有権は人間が考えた約束にすぎません。家族は旅の同行人に過ぎず、人生という旅が終われば終わるものでしょう。自分の体もまた、道具であり自分自身ではありません。すべては束の間のものです。

 

 しかし、我々は自分のものに大いに執着しており、その執着が苦しみを作り出しています。スワミはその可笑しさをいろいろと説明してくださっています。

 

 ここに自分のベンツがあるとして、所有者はそれを誇りに感じたり大切に思ったりするでしょう。でも、もしそれが隣のガレージにあるベンツだとしたらどう思うでしょうか?というものです。自分のベンツだと思えばボディに少しでも傷つけば大変なショックを受けるでしょう。しかし、隣のベンツだと傷ついてもなんとも感じないのです。その差は自分のものという意識があるかどうかです。

 

 家族が病気になれば、心配して祈ります。「神様、どうか家族を助けてください」でも、新聞に誰かが交通事故にあって亡くなったという記事を見ても、動揺することはありません。その理由もまた、自分のものという意識があるかどうかでしょう。

 

 そのような自分のものという幻想を克服するために、スワミは面白いたとえ話をしてくださいます。

 

 「もし、学校の校長先生が、転任することになっても、その学校にあった音楽室の楽器や図書館の本を持って行けないからといって、嘆くことはありません。それはそれらのものが、自分のものではなく、預かりものだと知っているからです。同様に、私たちが自分のものだと思っている財産などすべてのものも預かっているだけであり、返す時がきても嘆くことはありません」

 

 そして家族への執着に関しては、次の御言葉が参考になります。

スワミの御言葉

 「主は決してあなたを見捨てません。あなたが経てきた過去世の数を考えてみれば、あなたには数えきれないほどの母親、父親、妻、夫、息子、娘、友人、敵がいました。その人たちは今、生存していますか? その人たちは、あなたとの関係を覚えていますか? もはや、あなたはその人たちにとって何者でもなく、あなたにとってその人たちは何者でもありません。しかし、あなたにも、その人たちにも、変わることのない身内である共通の主がいます。主はすべての生を通じて存在しています。主は永遠です。主は、生から生へとずっとあなたを見守っています。そのような主を忘れることより大きな悲劇がありえるでしょうか?」

サティヤ サイ出版協会『坐禅の源流』

第八章より

 自分のものや自分に関係するものなど何もありませんが、仮に自分のものがある、自分に関係するものがあると限定すれば、それ以外のものは自分のものではないと宣言することになります。反対に自分のものは何もないと限定しなければ、すべては自分のために用意された神様からの恵みであることに気づきます。

 

 さらに、人生のもう一つの重い荷物を減らす必要があります。それは欲望という荷物です。

 

 欲望がなぜお荷物なのか? それは、スワミのご説明では、「欲望とは、より多くの燃料を求めて、より激しく燃え盛る焚火であり、一つの欲望が十の欲望へと導き、人は欲望の要求を満たそうとする中で自らを疲弊させてしまう」からでしょう。

スワミの御言葉

 「人生は長い旅であり、皆さんの欲望は荷物です。「荷物を少なくして快適さが増すと、旅は楽しくなる」と言われています。人生という旅は、皆さんが欲望という荷物を減らした時に、初めて楽しいものとなるのです。欲望が少なければ少ないほど、あなたは幸福になります。『バガヴァッドギーター』はすべてを神に捧げるべきだと説いています。

1963年2月6日 ウパナヤナ連続講話より

第9回

​第9回

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  心を制御する
「莫妄想
(まくもうぞう)

 お釈迦様は、この世に生きることは苦であると諦観されました。なぜなら、人は人として生まれた以上、誰でも生老病死という苦を体験しなければなりませんし、愛別離苦(あいべつりく)「愛る人と別れる苦しみ」、怨憎会苦(おんぞうえく)「嫌な人と出会う苦しみ」、求不得苦(ぐふとくく)「求めるものが手に入らない苦しみ」、五蘊盛苦(ごうんじょうく)「心の働きによる苦しみ」という苦にも直面させられるからです。

 もうこんなに悩みや苦しみの多い人生は早く卒業したい……。人は誰でもそんな想いをいだく時があるのではないでしょうか?もっと平安に生きたい、もっと幸せに生きたい、誰でもそう思うはずです。少なくとも悩みのない毎日、苦しみのない毎日を送りたい、そうではないでしょうか?

 生老病死という根源的な苦は、肉体を持って生まれた者の宿命であり、どんなに抗っても抗いきれるものではありません。この世のものはすべて諸行無常であり、生じたものは消滅するのがこの世の定め。肉体という道具もまたしかりだと受け入れるしかありません。この根源的な苦を克服するには、肉体と自己を同一視している迷妄を克服しなければなりません。
 

 残る4つの苦しみの内、日常で多くの人を悩ませているのは、実は五蘊盛苦、つまり心の働きによる苦しみではないでしょうか?五蘊とは、色受想行識という心が物事を認識する5つのプロセスを示していますが、心は認識の段階で、自分の想いを反映させてしまいます。その結果として、悩みや苦しみを作り出していると言えます。

 しかし、悟りを開きブッダとなられたお釈迦様は般若心経において、照見五蘊皆空つまり、五蘊は実体のないもの(空)であると説かれていますので、心の働きが生み出すものはすべて幻想であることを知っておく必要があります。

 パタンジャリの著したヨーガスートラに次のような言葉がありました。「ヨーガの目標は心の作用を止滅することである。鋭敏な学生には、この一つのスートラで十分だ。なぜなら後はすべてこの一つのスートラの説明にすぎないからだ。心の“作用(はたらき、諸状態)”の止滅が成し遂げられたならば、その人はヨーガの最終目標に到達したことになる。」
 

 パタンジャリは、ヨーガの目標は「心を滅すること」ではなく「心の作用を止滅すること」としていることにご注意いただければと思います。(ここで使われている「心」という言葉は、日本語のハートという意味ではなくマインド(思考)を意味しています。)心は道具にすぎませんので、使い方により、良いものにもなれば悪いものにもなりますが、心という道具自体を否定する必要はありません。                    
 

 スワミは、心は鍵であり、外側(世俗)に回すと輪廻の原因になり、内側(神)に回すと解脱の原因になると説かれていますので、心はとても大切な道具なのだと言えます。しかし、私たちの心は外側の刺激に反応し、決してじっとしていません。モンキーマインド(お猿のようにじっとしていない心)と言われるゆえんです。
 

 一説によれば、私たちの心には実にとりとめのない想いが数秒に一度ぐらい生じており、その数は1日にすれば何万にもなるとのことです。

 想念は食べ物や環境からの影響、人類共通の潜在意識からの影響などもありますので、どんな想念が浮かんだとしても、それは自分のものと考えるのは正しくありません。ただ自分に生じたというだけのことです。体と自己の同一視が迷妄であるように、心や感情と自己の同一視もまた迷妄であることを忘れないようにしましょう。私たちは、体や心、感情ではなくそれを見る者(真我)です。

 スワミによれば、心は衝動から芽生えてくる欲望の寄せ集めであり、欲望で形成されているとのことですが、私たちが出合う悩みや苦しみは、これらの欲望に突き動かされて生じるもののようです。それらは、仏教的には渇愛とよばれており、いくら満たしても満たしきれず、むしろさらなる渇きが生じるという性質があります。それらは、物欲や、五感を満たしたいという感楽欲、生きたいという生存欲、自分の存在を認められたいという承認欲などです。

 

 悩みや苦しみの背後には必ず何かの欲望が潜んでいます。そして不思議なことに、自分の中にどのような欲望があるかを知るだけで、悩みや苦しみが軽減されることになります。あるいは理由が分からずなぜか不満だというような場合や、なぜか分からないけど怒りがあるというような場合でも、何かの欲望(欲求、期待など)が思い当たれば、モヤモヤが解消されることがあります。

 例えば、多くの人が人間関係から生じる次のような悩みに悩まされています。「なぜ、あの人は自分のことを分かってくれないのか?」「なぜ、あの上司(部下)はあんなに高圧的なのか?」「なぜ、いつも言い争いになるのか?」「なぜ、友人や知り合いの成功を嫉妬するのか?」「なぜ、成績が悪いと悩むのか?」「なぜ他人の目が気になるのか?」「なぜ勝ち負けにこだわるのか?」などなど……。
 

 これらのすべてに共通するのはたった一つの欲望です。それは自分を認められたいという承認欲なのだといえます。「そうか、自分には他人に認めてもらいたいという承認欲があるのか」そう思い当れば、悩みが自分から離れていくことに気づきます。もし承認欲がなければ、例え理不尽な言動を受けたとしても、怒りという反応にはならないでしょう。ですので、悩みや苦しみを克服する根本的な解決法は、そのような欲望をなくすことです。

 

 しかし、そうだと分かっていても、人にはできない時があります。いや私たち凡人にはできない時の方が多いでしょう。ここに葛藤が生じますが、悩みの背後にある欲望を理解することと、もう一つ覚えておくとよい方法があります。禅の修行法です。それは悩みや苦しみ、連想や記憶、分別や裁きなどの妄想が浮かんだ瞬間に「莫妄想(まくもうぞう)」と断ずるのです。莫妄想とは「妄想することなかれ」という意味ですが、自分の想いを「妄想」と認識することで、その囚われから離れ、妄想を断ち切ることができます。


 スワミの108の御名の中に「オーム 貪・瞋・痴を戒め滅ぼす神に帰命し奉る」という言葉があります。貪瞋痴(とんじんち)の、「貪」はむさぼりを、「瞋」は怒りを、「痴」はおろかさを意味しています。「妄想」は貪・瞋・痴(とんじんち)の痴であり、心の三毒の一つなのです。妄想が生じたら「莫妄想!」あるいは「妄想」と断ずるべし、です。
 

 同様に、貪欲が浮かべば「貪欲」、怒りが浮かべば「怒り」と言葉で断ずれば、心からそれらを放し、不毛な心との内的対話を終わらせることができるのではないでしょうか?

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スワミの御言葉

 「人が最初にとり入れなければならないサーダナ〔霊性修行〕は、内なる静寂を養うことです。それは、心との終わりのない対話を終わらせるためのものです。心をしばらく休ませなさい。不適切なことを事細かに心に思い浮かべて、妬みと貪欲という煙で心を汚染してはいけません。良いことも悪いことも、私たちが抱く考えはすべて、カーボン紙のように心に転写されます。そのようにして、弱さや不安定という要素が心に入れられてしまうのです。心を、落ち着いた、澄んだ状態に保ちなさい。ノンストップの会話によって、毎瞬毎瞬、心を動揺させてはなりません」

1982年5月20日純粋性に関する御講話より

 「心(マインド)は、サンスクリット語では「マナス」という名前です。なぜなら、心はいつも、「マナナ」すなわち「思考する」作業に携わっているからです。衝動は心で生まれます。しかしながら、心は自らの中で生じる矛盾した衝動によって、頻繁に道を誤ります。心の落ち着きのない性質は、人の霊性の進歩の障害として作用します。そのため、もし魂の歓喜に浸りたければ、心を制御することはどの求道者にとっても避けられません」

1979年第7回夏期講習における御講話より


 「心それ自体には独自の実体はありません。心は衝動から芽生えてくる欲望の寄せ集めです。布は要するに糸の束です。糸は、元々は綿です。同様に、欲望は元々の衝動から生じ、心はそれらの欲望で形成されています。布は糸を1本ずつ引き抜いていけばなくなってしまうように、心も欲望の根を抜き取っていくことで消滅させることができます」

1979年第7回夏期講習における御講話より

 

 「心の制御の第一歩は、この世は束の間のものであり、それゆえ、この世で得る喜びは一時のものであるという事実を心に刻むことにあります。五感の喜びは満足を与えてはくれません。五感の欲望は、満たされれば満たされるほど数と激しさを増していきます。薪を投げ込めば投げ込むほど火が勢いを増していくのと同じです」

1979年第7回夏期講習における御講話より

第8回

​第8回

心を浄化する言葉
「ありがとう、愛しています」

スワミは次のように説かれています。

 

 「心を浄化すれば、至るところに純粋性を見るでしょう。外界はあなたの心の反映にすぎません。心を愛で満たせば、至るところに愛を経験するでしょう。心に憎しみがあれば、同じ憎しみが外側に反映されるでしょう。何であれあなたが外界で見たり、聞いたり、経験したりするものは、あなたの内にあるものの反映、反応、反響にすぎません。あなたが外界で遭遇するあらゆる善悪は、あなた自身の反映にすぎません。

 ですから、他人に非難の指を向けてはなりません。世の中全体はあなた自身の行い次第です。あなたが善良ならば、世の中もまた善良でしょう。世の中はどこもかしこも悪だらけだと考えるのは間違いです。実際には、その悪は外側に反映されているあなた自身なのです。あなたの気持ちが悪魔的なら、周りの世の中は悪魔的に見えるでしょう。あなたの気持ちが神聖なら、至るところに神聖を見出すでしょう」

- SSP出版 ジョン・ゴールドスウェイト著 「心を浄化する方法」より

 

 私たちが外の世界に見るものは、自分自身の内側にあるものの反映に過ぎないという、このメッセージは多くのスワミの帰依者に知られています。しかし、パラダイムシフトとも言うべきその驚くべき真実に着目している人は案外少ないのかもしれません。

 

 この御教えは、自分を離れて客観的な世界があると見るのは幻想で、存在するのは自ら創り出した体験的な世界だけだということを意味しているようです。

 

 私たちが認識している物質世界も、その究極の単位は原子であり、私たちはそれらの上に、特定のイメージを投影し外側の世界として認識していると言われています。

 

 カリユガという暗黒の時代も、その後に到来すると言われている黄金の時代も自分の外にある世界の話ではなく、内なる世界の話だということになるのでしょう。

 

 したがって、暗黒の時代から黄金の時代への推移は時間の問題というより、私たち一人ひとりが、今、取り組むべき課題となります。世界の見え方は私たちにかかっているのであれば、私たちは内なる世界の創造者であると言えるでしょう。

 

 100人いれば100通りの世界があり、1000人いれば1000通りの世界があります。どのような世界を創造するかは私たち次第であると言えます。そしてそれぞれの世界の中心にはアートマがあり、神は一人ひとりに内在するアートマを通してこの世を体験しているのでしょう。

 私たちは愛を体験するためにこの世に生まれています。心を愛で満たせば、至るところに愛を経験するとスワミは説かれています。ですので、心を愛で満たせば、世界は愛なる世界、地上の天国として出現するのです。しかし、愛は私たちの本性であるにもかかわらず、私たちにはその実感があまりありません。それはなぜでしょうか?

 

 それは自我意識という汚れが心に映る愛の純粋性を歪ませているからではないでしょうか?水の表面に波立ちという歪みがあれば底は歪んで見えるように、自我があれば心は歪み愛も歪みます。自我がなくなれば心は愛をそのまま映し出すことになるはずです。

 

 ですので、愛を体験するためには、心の浄化は絶対に避けては通れない大切な課題だと言えます。私たちが霊性修行をする目的も自我を取り除くためであり、地道に現在の霊性修行を続けていくことが何より大切ですが、心を浄化するためにもう一つの注目すべき方法があります。

 

 その方法は、次のエピソードの中でご紹介させていただきますが、心の浄化により驚くべき現象が生じるという実話に驚かされます。ハワイの州立病院から、「触法精神障害者収容病棟」が消えたというお話しです。

 

 この病棟では殺人のような重い罪を犯しても責任をとる能力がないと判断された人が収容されていて、収容者たちの間での暴力沙汰はもちろんのこと、病院の職員たちも頻繁に暴力を受けるというような施設でした。そのため、収容者は大量の薬を投与され、手かせ足かせをはめられることが日常茶飯事だったとのことです。職員は、いつ襲われるかわからないため、壁を背にしなければ廊下を歩けなかったほどで、当然のことながら、スタッフや精神科医はすぐに辞めてしまい、誰からも見捨てられたような病棟でした。

 

 そこに、一人のある博士がスタッフとして入ったことがきっかけとなり、2、3か月後には、手足を縛られていた人たちが、自由に歩くことを許可されるようになり、多量の投薬が必要だった人たちは、それが不要になりました。そして、退院の見込みのなかった人たちが次々に退院していき、欠勤ばかりだった病棟のスタッフが仕事を楽しむようになり、誰一人休まなくなったということです。そしてその博士が勤務して4年後、すべての収容者が退院し病棟は閉鎖されたのです。

 

 では、博士はどのような方法でそのような奇跡を成し遂げたのでしょうか?その博士は、収容者に対してカウンセリングも、治療行為も一切行わなかったそうです。収容者と話しもしない、手も触れないで一体どうやってそのようなことをなし得たのか?

 博士が行ったことは、収容者という相手ではなく、自分自身の心を浄化することでした。博士は、自分の心を浄化するために、カルテを見ながら、たった二つの言葉を何度も何度も言い続けたそうです。その言葉とは「ごめんなさい」と「愛しています」でした。

 

 なぜこのような言葉でそのような現象が起こり得るのでしょうか? きっと、私たちの意識は全体とつながっているために、自分の意識を浄化することは結果として他にも影響を与えるということではないかと思われます。

 

 私たちの本質であるアートマは純粋意識と呼ばれています。それは個人個人の意識として顕れてはいても、純粋意識は全体として一つのものであることはスワミの数々の御言葉からも明らかです。

 

エーカートマ サルヴァ ブーターンタラートマ

(唯一なるアートマがすべての生き物に宿っている)

 

 ですので、自分自身の心を浄化すれば人類共通の意識を浄化することにもなるのでしょう。

 

 ではそもそも、なぜ愛により心が浄化されるのでしょうか? この疑問は信仰に生きるサイの帰依者にはまったく不要だと思いますが、あえて言えば次のような説明が可能でしょう。

 水の氷結結晶の研究をした江本勝さんは、愛と感謝という言葉を聞かされた水は最も美しい結晶を作ることを明らかにしています。それは、愛と感謝が最も波動が高く、水に良い影響を与えたためでしょう。波動の法則は、優位波動は劣位波動をコントロールできるというものですので、愛という最高の波動は自分の中のネガティブな劣位波動を凌駕するのだと。

 

 また、波動は時空を超えて広がりますから、他への影響もあるのだと。祈りやバジャンやヴェーダも同様にそのような肯定的な影響があると言われています。

 

 「あなたたちが今歌ったバジャンによって生じた神聖な波動は、世界のあらゆる場所に広がっていきます。あなたが唱える神の御名は多くの人々のハートを清めます。それゆえ、悪い感情を抱いてはなりません。悪い言葉を使ってはなりません。神聖な言葉のみを用いなさい。神の栄光を歌いなさい。そうすることによって、あなたは世界全体に大いなる助けをもたらすでしょう」

2002年10月9日の御講話より

 

 「サーヴィトリーは、どのようにして死んだ夫を蘇らせたのでしょうか? 彼女は、絶え間なく神を憶念することによって、自らの波動を神の波動へと変容させました。それゆえに、彼女の夫は蘇ったのです。神聖な感情を育めば、あなたにとって不可能なことはありません。純粋な無私の愛により、いかなる大仕事もなしとげることができるのです」

2002年10月9日の御講話より

 「ありがとう」と「愛しています」という言葉は、自分の心を浄化し、自分の体験する世界を愛なる世界に変えるだけではなく、結果として肯定的な影響を周囲にも与えることにもなります。「ありがとう」と「愛しています」はそのように大変大きな力を秘めていると思われます。

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江本勝

 水の伝道師。1943年横浜生まれ。1992年に「オープン・インターナショナル・ユニバーシティ」より代替医療学博士の認定を受ける。アメリカで共鳴磁場分析器・MRAやマイクロクラスター水に出会い、水の謎に挑む。波動技術のパイオニアで日本に「波動」を広めた第一人者。「水からの伝言」「水は答えを知っている」を始めとする関連書籍で述べられているメッセージは、人々の心に共鳴現象を引き起こし、世界中に広がり、現在45カ国以上の言語に翻訳され発行国は80カ国で300万部を超える国際的ベストセラーとなっている。「水は答えを知っている」の英語版は、2004年にアメリカのNYタイムスのベストセラーリストに17週連続ランクイン。2011年から3年連続で、イギリスで発行されたワトキンスレビューでスピリチュアル(精神世界)の中で最も影響力のある現存の100人の一人に選ばれる。2014年、逝去。

第7回

​第7回

​神を思い、神と共に生きる

 神さまと共に生きることほど満たされた生き方はありません。それは真の喜びに生きることであり、どんな悩みや恐れからも解放される生き方だといえるでしょう。そんな素晴らしい生き方をした帰依者がいました。それは、ジョン・ヒスロップ博士でした。ヒスロップ博士はどこに行く時もスワミと一緒でした。スワミと手をつなぎ一緒にいることをずっとイメージしていたそうです。

 

 スワミが自分と一緒にいることを想像してみてください。私たちを母の百倍もの愛で包む神さまが、父の百倍もの愛で導く神さまが、全知全能にして宇宙を創造された神さまが私たちにつき、いつも一緒にいてくださると思えば、喜びに包まれないはずはありません。恐れや悩みが生じるはずはありません。

 

 まことに神を得ることはすべてを得ることです。あれが欲しいとか、これが欲しいとか、もっとお金が欲しいとか、病気が嫌だとか、老いるのは嫌だとか、死ぬのが恐いとか、誰がどうのこうのとか、そんなことはもはや問題ではなくなるでしょう。

 また、誰かに非難されようとも、罵詈雑言を浴びせられようとも、怒りで反応することはなくなり、優しく愛で返すことができるように思えます。それは神の愛に満たされているからこそできる反応と言うことができるでしょう。

 

 そうだとすれば、この境地はこの世で体験できる最高のものであり、もうこれ以上何も求める必要のない満ち足りたものと言えるでしょう。まさに地上の天国に住む者となります。

 

 しかし、私たちは意外にも神さまと一緒に過ごすことを求めていないようにも思われます。なぜで しょうか?それはきっと、神さまと一緒に一つ屋根の下で共同生活するとなると少々窮屈に思うからかも知れません。恥ずかしい恰好はできないとか、後ろ姿や足を向けるべきではないとか、いつも優等生でなければいけないとか、冗談は言うべきではないとか、もし、そのように思うのであれば神さまと一緒に暮らすことは確かに少々窮屈かもしれません。

 

 実際、私たちは神社やお寺、教会などを訪れるときは、うやうやしく最大の敬意をもって参拝するという礼儀作法を重んじています。またお寺などでもご本尊は、本殿の一番奥に祀られており、簡単にお姿を拝謁することはできません。ですので、私たちは、神さまに接するときには自然と、神さまを拝むものとしての態度をとります。

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 そのことは決して間違っているわけではありませんが、果たして神さまは、私たちにそのような態度をとることを求めていらっしゃるのでしょうか?

 

 そもそも神さまが宇宙を創造されたのは、神さまご自身が、ご自身の愛を体験するためだったと言われています。一緒に戯れるために仲間を欲されたとも言われており、決して拝まれるためではないはずです。もちろん、そうだとしても、いまだ二元性の段階にいる私たちには、神さまに対し、敬意を表することや、慎み深く接することは大切だと思います。

 

 しかし、スワミは、「宇宙にはあなた以外のものは無く、あなた以上のものもありません」と言われています。つまり、私たちは神の分身であり、宇宙には神以外のものは存在していないのです。そうだとすれば、神さまを拝む対象として寺院や神社に押し込めておくのではなく、神さまと共に生きることこそが本来の姿なのではないでしょうか?

 

 スワミが肉体にいらした時には、私たちはスワミのお話しを聞き、ユーモアに笑い、一緒にバジャンを歌い、また幸運な人は神さまに触れることができました。また神さまと話し、一緒に食事をした人もいたのです。そこでの関係は、決して拝むという関係ではなく、霊性の師としての神、父や母としての神、親しき友としての神であり、生き生きと交流していたことでしょう。

 スワミは肉体を去られた今も、以前とまったく変わらずに私たちを導いてくださっています。私たちは、ヒスロップ博士がなさったように、スワミをありありと思い浮かべ、語りかけ、相談し、悩みを打ち明け、頼り、スワミをよりどころにして生きることをもっと積極的に行うべきなのではないでしょうか?

 

 神と共に生きれば、もちろん恥ずかしくない自分を心がけるようにもなるでしょう。それは体の姿勢や恰好の問題ではなく、どんな思いで生きているかという意味です。

 

 私たちは神さまには何も隠すことはできません。どんな思いを抱いていても神さまはすべてお見通しです。なぜなら、神さまは私たちのフリダヤヴァーシー、つまりハートに住まうお方だからです。

 

 ですので、自分を正直にみつめ、直すべき欠点や、自分の至らなさを隠さずに、正直に向き合うことが大切だと思います。神さまに頼れば、罪をも香華となしたまう神さまが救いの手を差し伸べてくれるに違いありません。

 神さまと共に生きるとは、マインド(思う心)をいつも内なる神さまに向けて、神さまを思いながら生きることを意味します。人には自分が思ったものを実現する力が与えられています。

「神を思えば神になり、ゴミを思えばゴミになる」といわれているゆえんです。

 

 いつも神さまを思うという習慣が定着すれば、私たちは神を実現することになるでしょう。またいつも神さまを思えば、蓮の花が泥水の中でも汚れないように、世俗の活動をしながらも汚れが付着することはありません。なぜなら、神さまのためになされた行為、神さまに捧げられた行為は、神さまへの礼拝になり、霊化されるからです。

 「あなたは疑いやプライド、偏見によって視野が狭くなっているので、自分の中にも外にもいる神を見ることができないでいます。あなたはないものに憧れ、自分の手の届くところにある宝物を無視しています。あなたは、自分の手には鳥がいないと誓い、藪の中で自分を待っていると信じる鳥を探すのに必死です。藪の中の鳥は、あなたが既に手にしている鳥のイメージに過ぎないのですが、あなたはこの真実に気づいていません。

 あなたは、感覚とそれによって得られる知識を信じ、自分の心(マインド)が生み出す空想や想像を信じ、自分の理性による結論を信じています。しかし、これらに束縛されることなく、これらによって見出すことのできない神を信じていません。だからあなたは恐れ、嘆き、疑うのです。

 

 『神を思う』という蚊帳をあなたの周囲に張り巡らせなさい。そうすれば欲望や不信という致命 傷をもたらす蚊に襲われることはありません。その蚊帳があれば、あなたは病気を免れ、健康を得ることができるでしょう。何かに恋焦がれたり、何かを恐れたりすることがなくなり、乱されることのない安心感を覚えるでしょう」

 

―1973年4月4日の御講話

J. S .ヒスロップ博士


米国カリフォルニア大学 (UCLA) 教育学部で博士号を取得し、そこで大学院の助手として教鞭をとる。カリフォルニアのリバーサイドカレッジの商業教育学部学部長として教職を継続したのち、教育分野からビジネス分野に入り、カリフォルニア都市開発社の副社長を務めた。博士は、青年時代から霊的真実を探求し続け、さまざまな霊的師のもとで学んだ後、1968年1月にサティヤ・サイ・ババに出会う。無数の出来事を通じて博士はサイ・ババの神性を実感、サイ・ババから多くのインタビューを受け、さまざまな霊的疑問に関する詳細な回答をサイ・ババ自身から直接得た。その後、米国サティヤ・サイ・オーガニゼーションの統括を務め、サイ・ババとの体験を本に綴り、サイ・ババのメッセージを世界に広めた。病に冒された晩年も積極的に活動を続けた博士は、1995年8月11日の金曜日に肉体を離れた。博士の死後、サイ・ババは「ヒスロップは私のもとに来ました。ヒスロップは良い人間でした。いつもスワミのことを考え、スワミのために働いていました」 と語った。

※ サティヤ サイ出版協会「サティヤ サイ ババとの対話」より

第6回

​第6回

​感覚のコントロール

 スワミは「感覚のコントロールを伴わない霊性修行(サーダナ)は無益です。それは、水漏れする壺に水を注ぎ続けるようなものです」と言われています。 

(1978年11月23日の御講話より)

 

 また、「神は皆さんに、儀式を行うことも経典を学ぶことも期待していません。神が皆さんから望んでいるのは、八種類の『花』だけなのです」とも言われています。すなわち、非暴力、感覚のコントロール、慈悲、忍耐、平安、苦行、瞑想、真実という八種類の花です。 

(2000年8月22日の御講話:褪せることのない花より)

 

 すべて大切なテーマですが、感覚のコントロールは、霊性修行者は避けては通れない大切な課題だと言えるでしょう。特に、現代社会においては、感覚を刺激する情報がテレビやネット上に氾濫しており、コントロールしなければ感覚を満たしたいという欲望が増大し、心は魅力を感じるものに引っ張られることになります。

 実際、テレビでは、感覚を刺激する映像がこれでもかというぐらいに映しだされ、美味しい料理やビールを飲んで「うーん旨い」などと幸せそうにしているシーンを見せられると、アルコールと縁を切った霊性修行者でも心を動かされるのではないでしょうか?目に触れなければ、決してそのような欲望は生じなかったはずですが、目に触れた結果、心が動き、感覚を満たしたいという欲望が生じるのです。

 欲望の性質は、欲望がさらなる欲望を生みだすことにあります。欲望を満たせば一時的には落ち着くようにみえますが、欲望は再び頭をもたげてきて、これが繰り返されることになります。その結果、欲望は執着となり、気をつけなければ最後には中毒になることさえあります。そうなれば、心はその対象物にとらわれてしまい、霊性修行どころではなくなってしまうでしょう。

 

 それでは感覚を刺激する一切のものを遮断すべきなのかと言うと、実社会に生きている私たちにはそれは現実的ではありません。

 スワミも次のように言われています。

 「あなた方は、人が感覚を制御することなど不可能なことだと感じているかもしれません。ここで言う制御とは、『完全に停止させる』という意味ではありません」 

(1999年2月15日マハーシヴァラートリ祭の御講話より)

 私たちが取り組むべきなのは、一切を遮断することではなく、感覚の前に良識という門番をたて、感覚に入れて良いものかどうかを識別しコントロールすることでしょう。

 そうして、私たちは感覚をコントロールするべきだという自制心と、感覚を満たしたいという欲望のはざまで葛藤することになります。門番が甘ければなし崩し的になるでしょうし、門番が厳格すぎると欲望が抑圧されただけで、なくなった訳ではありませんので、大きなストレスになります。

 この問題は、少し大げさにいえば、欲望を取るか霊性の道を取るかというテーマに行き着くように思えます。遠藤周作の小説『深い河』を読まれた方も多いと思いますが、聖職を目指す主人公が誘惑に屈するというシーンがでてきます。これはまさに弱さを抱えた偽らざる人間の姿であり、私たち自身だと言えるでしょう。ブッダも魔王マーラの誘惑にあっていますが、その時どう向き合うか、霊性修行者は試される時だと言えます。古来よりこの問題は霊性修行者を悩ませてきた問題だと思えます。

 感覚を満たせば一時的には喜びを味わうことができます。しかし、これらの幸せはやがて苦くて不快なものへと変わります。このように外界のものが知覚器官への影響によって、甘露と勘違いされたものは激性の幸せと呼ばれています。

 それに対して感覚のコントロールは、それを行ってもすぐに幸せになるわけではありませんが、最後には真の満足に変わります。これは浄性の幸せと呼ばれています。

 言うまでもなく私たちは浄性の幸せを目指さなければなりません。欲望も制限すると最初は不満を感じるかもしれませんが、スワミは次のように説き私たちを励まされています。

 「舌が美味を切望する時には、自分はその気まぐれには応えないと主張しなさい。美味ではなく、辛くもないけれど、十分に健康を維持することができるシンプルな食べ物を自分に与え続けるのであれば、数日間は舌が落ち着かないかもしれませんが、すぐにそれを歓迎するようになるでしょう。それが舌を抑制し、舌があなたの主人となることによって生まれる悪い結果に打ち勝つ方法です」

(1968年11月23日の御講話より)