SRI SATHYA SAI RAM NEWS
気づき
第3回
人間に自由意志はあるか?
〜 この世は操り人形劇 〜
SSSIOJ 副会長 小窪正樹
田舎町の小さな駅で、木製の長椅子に座り、毎朝一人汽車を待つ。私は此処で、正面の窓ガラスに映る世界を眺めるのが好きだ。そこには、背後にある町並みが映し出される。青・黄・赤・青・黄・赤・・・信号機の色が自動的に切り替わり、淡々と繰り返される。それに同調するかのように、バスも、人も、車も、静かに流れていく。何も考えずに、只々、その映像に見入っていると、ふっと我を忘れ、平安な世界に溶け込んでいく・・・と、その瞬間、「8時11分発、特急列車の改札を始めます」というアナウンス。私は一気に現実世界に戻されてしまった。
〔自由意志〕
私たちは普段、自分の意志で職業を選んだり、趣味をしたり、買い物に行ったり、何かを考えたり、怒ったり、悲しんだりしていると信じています。しか し、第1回および第2回で述べてきましたように、私たちは肉体でも心でもありません。ということは、肉体がとっている「行為」や、心の機能である「思いやイメージなど」も、当然ですが自分ではないということになります。つまり、 「私」の行為や思いはない、ということになり、「私」が自分の意志で何かをしているという考えは誤っている、人間に自由意志はないと言う結論が導かれます。さて、皆さんは、このように言われて納得されるでしょうか?
この疑問についてスワミは、ご自身が著した『Sandeha Nivarini(日本語版は平安・瞑想・大成就)』という本の中で民謡調の歌を詠み、私たちを啓発してくださっています。非常に長い歌ですので、部分抜粋して記述します。
あやつり人形の歌
タイ! タイ! タイ! タイ! タイ! ダミイ!・・・
あやつり人形の、「こっけいな」芝居をごらん。
ああ・・・人よ。過去と現在と未来、
すぎこしかたと、これから先の、長い長い話を聞きなさい。
・・・・・
男と女の人形をこしらえたもの
幾百万とない人形をこしらえたもの、それはブラフマン
しかし人形はそうとは知らず
人形あそびをよろこんでいる
ティム ティム ティム このマーヤーという人形は聖牛のように
鼻の孔に鈍性のなわがついている
肉欲と怒りはさそりのむち
奴隷の背中をぴしりぴしりと叩く
・・・・・
人形は泣き、眠り、目覚める。
見えない御手が、糸を引くとき、
手は神の御手、影に立つ神の御手。
しかし、かれは言うのだ。わたし わたし わたしと。
ダルマ、カルマは、強い糸。強く引いたり、緩めたりする。
そうとも知らず人形は、威張って歩く。舞台の上を縦横に。
-『平安・瞑想・大成就』pp.41-48
この歌にはこの世の真実が語られていますが、私なりの把捉(はそく)をまとめますと、「この世は芝居であり、舞台役者はブラフマン(神)が作った人形である。この人形は無明(筆者は、鼻の孔の鈍性の縄を無明と解釈しました)という縄で縛られており、そのため欲望と怒りで自分を痛めつける。ダルマ、カルマという強い糸で神に操られているが、そのことを知らない人形は、“わたし、わたし”とまるで自分の意志で動いているかのように振る舞っている。マーヤー人形のこっけいな芝居である」となります。
私がこの歌を最初に読んだときは、自分とは関係の無い世界、夢の世界を語っているだけと言う理解で、ほぼ素通りしていました。しかし、読むごとに、スワミがおっしゃっていることへの理解が深まり、「私=人形」から「私≠人形(マーヤー)」へと感じ入った時には、驚きと同時に、世界の見え方が180度変わったような感覚を覚えました。私たちの識別力を高め、スワミのおっしゃっていることへの理解を深めるのに最適な、現実に即した歌だと思います。本文末尾に全文を掲載しておきますので、是非、読者の皆さんにもそちらも読んでいただければと思います。
人は、人間という道具を通してすべてのことをなし遂げているのは、万物に内在する神の原理であるということに気がつかなければなりません。人が自分を、行為者(カルトルットヴァ)であり、楽しむ者(享受者/ボークトルットヴァ)であると見なす限り、自分の行為の結果から逃れることはできません。
-1993年1月1日御講話、Sathya Sai Speaks Vol.26 C1
人間に自由意志はありません。自由意志があるのは神だけです。五感の奴隷となっている人間がどうやって自由意志を要求することが出来るでしょうか?人は何処から自由意志を得るのでしょうか?自由なのは神だけであり、それ故に神だけが自由意志を持つのです。
-『サティヨーパニシャッド上』p.269
〔私たちは操られている〕
スワミは、「人間という道具を通してすべてのことをなし遂げているのは、万物に内在する神の原理である」とおっしゃいます。では、このことについて、実際どのようになっているかを検証してみましょう。
まず、とても身近なことですが、私たちの行動の基盤である肉体についてはどうでしょうか? 命の大本である心臓も肺も消化管も肝臓も腎臓も脳脊髄系も免疫系も、すべて自分の意志で自由に動かすことは不可能だと分かります。誰が私たちの命を支えているのでしょう? 私たちは自分の意志で歩いているつもりになっていますが、右足、左足、右足、左足と考えて歩く人はいませ ん。一旦歩き出せば、その後は、歩いていると言うことを忘れ、考え事をしたり、携帯電話を操作しながらでも、誰にもぶつからず目的地まで歩いて行けます。これらはすべて条件反射的に行われているのですが、一体誰が歩かせているのでしょうか? マントラを唱えているとき、考え事をしていてもマントラは自動的に唱えられています。誰が唱えているのでしょう? 髪の毛や爪が伸びたり、瞬きしたり、眠くなったりすることなども同様に自動的に行われています。一体、誰がそうしているのでしょう?
日常生活についても考えてみましょう。私の或る朝の行動です。①朝は6時に起きて、②祭壇にお祈りを捧げ、③部屋の掃除をした。④食事をしたら、⑤おなかがゴロゴロしたのでトイレへ行った。これらの行動について、それが自分の意志に基づくものか否かを調べてみますと、①目が覚めたのは自分の意志ではなく、何となく目が覚めたら6時だった、②お祈りは習慣になっていて、意識 はせず自然に行っていた、③床にゴミが落ちていて埃っぽく感じたので掃除をした、⑤妻が朝食を用意してくれたので食事をした、⑤糞尿の排泄は自分の意志ではない、となり、私の行動は、なにか外部の力に影響された結果だったと言えるように思います。自由意志を「条件に左右されない自分を起源とする意志」と定義しますと、全くもって私たちには自由意志がないことが明瞭になってきます。そして、誰かに動かされている、操られているということが実感を持って感じられると思います。
ヒスロップ博士が神戸センターを訪問された際の自由意志に関する講演内容を記します。
自由意志を持った、真に自由な魂は、アヴァター以外にこの世に生まれてくることはありません。我々の体験する人生は、カルマの川の流れであり、何が起こるかは、すべてカルマの法則や天体の影響力によって細部に到るまで決まっており、その意味では我々に自由は全くありません。しかし私たち自身は、その川の流れを見守っている者であり、川自体が我々なのではありません。私たちの苦しみは、自分と自分の体験を同一視するところから生じます。「私は誰か」という探究の 道を歩むことにより、自分は体験を意識している者であり、体験は自分ではないということがはっきり判ります。・・・一つの思いに動かされて行為をする場合、その思いに力を与えているもの は、あなたの欲ばかりではありません。あなたの過去生からのカルマの総体、あなたの食べたものに込められていた波動、あなたの周囲の人々の想念の力、その場のエネルギー、遠い天体からの影響力等々、そこには、あなたが通常「自分」と思っているエゴの力をはるかに上回る様々な力が複雑に組み合わさって人間を操っているのです。
ヒスロップ博士の神戸訪問(1994年9月27日)
〔運命に身を任せ怠慢で良いのか〕
「私たちは操り人形であり、その行為も思いも神の原理により自動的に起きていることなのであって、“私”がしていることではない」となりますと、“私”は運命に身を任せ怠慢で良いのか、という大いなる疑問がわいてきます。さて、皆さんはどのように考えるでしょうか?
私なりの理解を述べさせていただきますと、この答えは「自分を何と同一視しているか」により異なってくるものと思われます。自分を肉体および心と同一視している人は、当然、自分の意志と言うものを信じるわけですから、それに従って行動することになります。ですから、「怠慢で良い」と言われたからと言って怠慢になれるわけでもなく、この質問自体が適用されません。
しかし、一方、この質問にあるように「行為も思いも自動的に起きている、自分のものではない」と固く信じる人は、徐々に自分という存在が、肉体を離れ不動に、心を離れ静寂に導かれるため、やがて、自分を目撃者意識と同一視するようになります。この場合は、完全な不動、つまり、言葉は適切ではないかも知れませんが、究極の怠慢という状態になり、答えはイエスとなります。
このように考えていきますと、この世が操り人形劇であるからと言って、私たちが何もしないで良いと言うことにはならないと思われます。また、肉体意識から目撃者意識になっても、実際は、行動が怠慢になるという事象は起きないようです。それはスワミを見ても一目瞭然ですが、バガヴァンの有名な帰依者であり、大企業の最高経営責任者であるジェームス・D・シンクレア氏の講演からも理解することが出来ます。
〔静寂の存在を許す〕
もしあなた方がそこから一歩踏み出して敢えて神に集中して行動するというリスクを冒すならば、世間の人はあなたを最も活動的な人と見るでしょう。・・・「神なる自己」とつながるためには、その邪魔をしないようにすることこそが唯一の方法であり、邪魔をしない方法とは、黙って静かにすることです。聴くことを学んでください。聴くことを学ぶとき、またこの話題になりましたが、あなたは何もしていないのです。皆さんは、聞かなくてはならない声を聞くために、ボリュームを落とすのです。完全に信頼しなさい。そして、世界に出て、神のご意志が展開するままに任せなさい。その具体的な様子については何も意志しないことによって、それができるのです。・・・
単純に知的な考察がない状態として定義される、その静寂が、そこに存在することを許しなさい。ちょうど問題がそこに存在するように、その静寂にも、そこに存在することを許すのです。そして、その問題への解決方法が皆さんに向かって、何ものにも止められない勢いを持って、決然と突き進んでくるのを感じてください。そうして、皆さんが、ただ単にスワミのなさり方の邪魔をしないでいることができただけだと知ってください。
ジェームス・D・シンクレア氏の講演(2002年4月3日放送) https://sathyasai.or.jp/sgh/talk/sinclair.html
シンクレア氏の述べておられる「静寂の存在を許す」とはどのようなことを言うのでしょうか? 私の体験ですが、ダルシャンでスワミに手紙を受け取っていただいたとき、スワミと自分以外は他に何も見えず、時間が止まり、静寂に包まれたような感覚を覚えたことがありました。おそらく、そのような状態を言うのかなと思っています。ただし、絶対なる静寂という場合は、それは心の次元を超える必要がありますから、肉体でも心でもない状態、つまり、舞台監督である神の視点、人形劇を見ている目撃者の位置に意識があるときの境地と言えるでしょう。
〔悟るのは目撃者〕
さて、ここで少し横道に逸れますが、皆さんは覚醒がどのように起きるかを考えてみたことがあるでしょうか? 私たちは通常、自分という個人が悟って何か変化を遂げると想像していますが、この操り人形劇という舞台を考えたとき、それは誤りと気づかされます。なぜなら、人形が悟れないのは自明のことだからです。悟りとはつまり、「人形劇の中の個人(たとえば小窪)が夢から覚めて特別な人になるわけじゃなく、目撃者である舞台監督の方が覚める」と推察されます。舞台監督であるアートマが、「あっ、そうだ、すっかり忘れてた。自分は小窪じゃないんだった。劇を見ているんだった!」と我に返ることが悟りだと思いました。ただ面白いことに、今この時点でも私たちは目撃しており、すでに神なのですが......。
一本の木に二羽の鳥が止まっています。ウパニシャッドはそれを、この体、この世界という木に止まる、ジーヴァートマとパラマートマ、すなわち、個人の魂と至高の魂であると述べています。一羽の鳥はその木の実を食べ、もう一羽の鳥は目撃者として単にそれを見ています。しかし、驚くべきことに、その鳥は、二羽いるように見えても、実際には一羽なのです。それは同一の存在の二相であるがゆえ、二羽を引き離すことはできません。
-1964年1月1日御講話「ゼーローではなく、ヒーローになりなさい」
ヒスロップ:・・・覚醒状態においては、私たちは自分を真の実体であると信じることができま せん。私たちは自分を影として見ており、活動に従事する現実の人間ではないと感じます。
サイ:あなたは、自分を影と見なしています。そのうちそれが変化して、 自分は実体そのものであると感じます。このようにして、状態が交互に代わります。それは一枚の硬貨の二つの面のようであり、表と裏のようです。
ヒスロップ:そうです、その通りのことが起こります。
サイ:しかしそれは、覚醒状態における典型的な経験ではありません。 それは、サーダナによって
もたらされる、ヨーガ的な一段階です。人々は普通、夢を見ている間は夢を真実として体験し、起きている間は覚醒状態を真実として体験します。あなたが体験しているのは、条件付一元論の状態です。
-『サティア サイババとの対話』pp.145-146
〔努力は何のために?〕
さて、また、本題に戻ります。人間に自由意志はない、すべては神がなさっていること、すべてはカルマの結果、と言うことになりますと、次なる疑問は、努力は必要か、努力は一体何の役に立つのかと言うことです。
人々は、人間誰にでも自由意志があると信じています。これは完全に間違った信念です。人間が成功を収めるのは、自分の意志、決意、霊性修行、努力のためだと想像しています。これはすべて、彼らのアハムカーラ(自我意識)の逸脱・迷いによるもので、自分が行動しているのだという間違った考えを反映しています。
-『ブリンダヴァンの慈雨』pp.183-184
ほとんど努力をしないで、または全く努力しないでも、あなたの全活動を神に捧げ、自分の行為を主なる神の仕事だと考え、神への信頼を固めて仕事を取り上げることによって、必ず成功を勝ち取ることが出来ます。あなた方は、人間の努力によっては何事も起こらないという固い信念を持つべきです。
-『ブリンダヴァンの慈雨』pp.173-174
日本人は元来、勤勉で努力家であり、それらは日本人の美徳とされてきました。「努力に優る天才なし」、「努力は人を裏切らない」などの名言もあります。そして、スワミも、「解脱の門には、忍耐と努力という二人の門番がいる」(『神への道』p.191)とおっしゃり、努力することを強く勧めてもおられます。一見、相反するようなこれらの御言葉ですが、果たして努力は必要で しょうか? それとも必要ないのでしょうか?次のスワミの御言葉がその答えと思います。
神の恩寵だけが真実であり永遠です。人は神の恩寵を得るよう努力すべきです。
-2005年7月21日 グル・プールニマ祭の御講話
皆さんは、カルマの結果から逃れる方法はあるのだろうかと思っているかもしれません。方法はあります。神の恩寵を得た人々には可能です。ひとたび神の恩寵の受取人になれば、カルマ・パラ(行為の成果)の影響を受けることはなくなります。
-2005年7月21日御講話「すべては神の恩寵しだいである」
広く一般に受け入れられている「カルマ」の意味の一つは、その人の運命あるいは宿命、すなわち、自分の額の上に書かれた消すことのできない「記述」であり、 実行されなければならないものです。それを逃れることはできません。けれども、 それは他人の手によって書かれたものではないということを人々は忘れています。 それはすべて自分自身の手で書かれたものです。そして、それを書いた手は、それを消すこともできます。
-1963年10月21日御講話「世界の繁栄 - ローカ カッリャーナ」
答えは、「神(真我)の恩寵を得るように努力すべき」、努力のベクトルが重要と言うことでした。その理由は、操り人形劇の大要から考えて、十分得心がいくと思います。私たちの肉体や心や行動のすべてを操っているのは神ですから、神の恩寵がなければ何も生まれないというのは当然と言えます。つまり、努力も、ただ、闇雲に行うのではなく、神様を喜ばすように行わなくてはいけ ないとなります。そして、さらに付け加えるなら、「神の恩寵を得る努力ができる」ということは、それ自体が神からの恩寵であるということも忘れてはいけないと思いました。
個人の努力と神の恩寵はどちらも持ちつ持たれつの関係です。努力をしなければ、恩寵が授けられることはないでしょう。恩寵がなければ、努力をしてみることもできません。その貴重な恩寵を神から勝ち取るために、あなたに必要なものは、信仰と美徳だけです。
-1966年3月27日の御講話
〔あれは完全、これは完全〕
さて、「すべては神がなさっていること、あなたの名誉も不名誉も、幸も不幸もすべては神がなさっていること、あなたは人形に過ぎない」と聞いて、皆さんはどのように感じるでしょうか?面白くない、むなしい、関係ない、面白い、楽だ、ありがたい、素晴らしい、等々、いろいろな意見があると思いますが、これは、皆さんが自分をどう捉えているか、この世界をどう捉えているか、神をどう捉えているかによって変わってくると思います。甲乙はつけられないでしょう。
私は、神が決めていることであれば、すべてが善であり完全であるに違いないと考え、難しいことですが、そのように対処するようにしています。
プールナマダッ プールナミダム
プールナート プールナムダッチヤテー
プールナッスヤ プールナマーダーヤ
プールナメーヴァーヴァシシヤテー
あれは完全、これは完全
完全から完全が生じ
完全から完全を取り去っても
完全が残るのみ
-1994年4月14日御講話「時は神なり ― 最大限に活用しなさい」
しかし、これはそれほど簡単なことではありません。私の体験を以下に記します。
『ヴェーダのマントラチェックが返ってきた。今回は、絶対に「指摘点無し😃」で返ってくるはずだと思っていたところに、「フィードバックをアップしました。ノートの更新をお願いします」と、予想に反し、修正箇所が必要というお返事。しかも、自分ではきちんと直して完全と思っている箇所を指摘されている。・・・心の声「そんなはずはない、これは何かの間違い。受け入れられない」と抵抗が続くが、気を取り直し、「そうか、こういう返事が返ってくることが最初から決まっていたんだ。必然なのだ。神がくださった最善の結果であるならば、この体験を楽しもうではないか。」と受け入れる。練習を積み重ね、何度か提出したある日のこと、マントラ合格のメールが届いた。普段であれば、大いに喜び「やった〜」と言うところを、「ふ〜ん、平常心、平常心 神の御業さ」と対応する。しかし、何かが違う。これでは無為、無気力と何処が違うのか? 喜怒哀楽はあった方が人生は豊かなのではないか? 苦悩の先に喜びがなければ人生の意味が無いではないか? 平常心は至福に繋がるのだろうか? 平常心とは何なのだろう? 疑問の連鎖が湧き上がる。』
喜びと悲しみのようなあらゆる二元性は、一般の人々の心を波立たせ影響を与えます。感覚の対象から意識を引き戻すことは、日々の生活に携わる中で達成できます。世界を世俗的な目で見ないことです。そうすれば、あなたは悲しみと喜びの二元対立を離れて、バランスがとれ、平等心を得ることができます。あなたは、心が行なっているゲームのために、唯一者である神を、多くの存在として体験しているのです。あらゆるものを、愛にあふれた神様の投影/延長と見る練習をしなさい。そうすれば、あなたは二元性の地平を超えて一体性の領域に入ることができます。
-『スートラ ヴァーヒニ』第1章「六つの美徳」
つまり、この答えは、私がまだまだ未熟で、あらゆる結果を神の御業と真に受け止めていないことにあるようです。「ふ〜ん、平常心。神の御業さ」という言葉自体に、それと対立する「平常心でないこと」、「神の御業ではないこと」が包含されていて、二元対立が明白です。人形劇の芝居に意識が囚われているうちは真の平常心は得られない、それは目撃者意識になって初めて得られるということのように思いました。
〔全託とダルマしかない〕
この人形劇という舞台には、いろいろな役者がいます。善人も悪人も、富む者も貧しい者も、人を傷つける者も傷つけられる者も、嘘をつく者もつかれる者も、いろいろな役者がいて、すべてが神に操られています。その中でもサイは私たちに、サイの召使いとしての役を与え、バジャンを歌わさせ、ヴェーダを唱えさせ、サイに向かって歩ませるという役を演じさせているのです。おぉ、 何という幸運でしょう。これほどの喜びがあるでしょうか。これほどの恩寵があるでしょうか!
もし、そうであるなら、私たちがしなければならないこととは何でしょうか?それはもう、心も体もすべてを神にゆだねる全託しかないと思うのです。そして、神の命令(ダルマ)に絶対服従することしかないと思います。皆さんは、どのように思われたでしょうか? サイの甘く優しい愛を感じつつ、筆をおきたいと思います。
あなたがすべきことは、ただ神の意志に委ねることです。これは、良いことであ れ悪いことであれ、人生に何が起きようと、それは自分にとって最も良いことだと思い、喜んで受け入れる覚悟をすることを意味しています。あなたはそれを神からあなたへの贈り物として受け入れなければなりません。そうすることが真のグニャーナ(英知)でありバクティ(信愛)なのです。
-『サティヨーパニシャッド上』p.270