SRI SATHYA SAI RAM NEWS
108の御名
Garland of 108 Precious Gems
Om Sri Bhagawan Sathya Sai Babaya Namaha
01
『全訳・サティヤ サイ ババ 様の108の御名』より
(1〜4)
Om(オーム)= 原初の音
Sri(シュリ)= 敬称、そのあらゆる相における栄光、吉祥
Bhagawan(バガヴァン)= 主、主なる神
Sathya(サティヤ)= 真理
Sai(サイ)= 主、主なる神
Sai Baba(サイ ババ)= 主であり母であり父である者
Namaha(ナマハ)= 頭を垂れておじぎをする
ババは、「母」のイーシュワランマ様が一連のサティヤナーラーヤナ神への誓願の儀式をして授かった息子です。そのためババは「サティヤ ナーラーヤナ」と名付けられました。14歳のとき、ババはご自身がシルディ サイ ババの再来にほかならないことを宣言する時がきたと判断なさいました。それまでババはサティヤと呼ばれていましたが、こうしてサティヤ サイ ババとして崇められるようになりました。ババがサイ ババ、あるいはサティヤ サイ ババ(「本物の」あるいは「正真正銘の」サイ ババ)であることは数百万人の人々が知っています。サイとは主、つまり主なる神(シャーヒー、シャー、パドシャー、サーヒー、サーイー、サイ)という意味です。
また、サイの「サ」はサルヴェーシュワラ(君主)の「サ」であり、サイの「イ」はアイー(母)の「イ」です。ババは父を表します。ですから、サイ ババとは「主であり母であり父である者」という意味になります。
ナマハとは「頭を垂れておじぎをする」ことです。その時十指(じっし)を合わせて合掌するのは、十の感覚(内的感覚と外的感覚の両方)を神に捧げることを意味します。ババによれば、ナマハをするときには、心の中で「私のものではなく、あなたのものです」と誓いながらしなければならないということです。ナマハはそのような「心の内に秘めた全託」を外に表すものでなければなりません。ナマハを繰り返し、その意味をよく考えましょう。
それぞれの御名の名前の前には必ず「オーム シュリ」と唱えなければなりません。なぜならオームは、万物が変化を遂げる中、一貫して存続する原初の音だからです。オームはまさしくブラフマンの署名ですから、つまりはババの署名です。「シュリ」とはそのあらゆる相における栄光という意味です。
Om Sri Sai Sathya Swarupaya Namaha
02
Swarupa(スワルーパ)= 化身
真理とは、三つの時に反するもの、すなわち過去・現在・未来という時の流れに影響されないものです。シルディにいたとき約束してくださったとおり、ババは人の形をとってやってきた形なきものとして私たちの前に顕現なさいました。(そうしなければ私たちが神の栄光を理解できなかったからです)。このようにババは真理の化身(サッティヤ スワルーパ)なのです。
神が人として顕現するとき、その神性が影響を受けたり、減少したり、色褪せたりすることは露ほどもありません。ババは真理(サッティヤ)という変化することのない性質を備えていらっしゃいます。
「愚かな者は私を人間の体としか考えない」
とクリシュナは語りました。ババはそのような愚かさを戒めます。「どんなに時間をかけても、どんな人が、どのような方法で知ろうと努めても、わたしの威光の神秘を理解することはできません」とババはおっしゃいます。「信念をもって熱心に聖典を学ぶことだけが、その片鱗を垣間見る手助けとなります」とババは断言なさいます。ババの意志、ババの言葉は必ずその通りになります。なぜなら、ババは真理であるからです。「わたしは意味のない言葉は一言も言いません」とババはおっしゃいます。
真理(サッティヤ)は、「サ」と「タ」と「ヤ」の三つの音節から成っているいるとババはおっしゃいます。これは、「サ」は、「タ」と「ヤ」によって獲得することができるということを表しています。すなわち、サークシャートカーラ、いわゆる神我顕現(悟り)は、タパス(苦行、無執着、個を否定すること)とヤマ(感覚をコントロールして昇華すること)によって獲得できるということです。真理は悟りの至福であり、ババはその至福そのものです。ババは絶対実在であり、永遠の存在であり、真理です。
Om Sri Sai Sathya Dharma Parayanaya Namaha
03
Dharma(ダルマ)= 正義、正しい行い、法、本文、規範
Parayana(パーラーヤナ)= 関心がある、没頭している
ババは明言なさいます。真理、ダルマ、平安、愛の支配を確立するために来た、と。真理のあるところには愛があると、ババは繰り返しおっしゃっています。なぜなら非真理(虚偽)は恐怖の結果であり、恐怖は愛のあるところには存在しないからです。それと同じく、ダルマのあるところには平安があります。なぜなら非平安はあらゆる非ダルマの結果であるからです。
ババは真理とダルマを強調します。人生において「行うべきこと」と「行わざるべきこと」を定めたダルマは、シャーストラに記されています。それゆえババは、シャーストラの学習を復興し、人々が再びシャーストラ〔註:論書、『マヌ法典』『ヤージュナヴァルキヤ法典』といったダルマシャーストラや実利論を記したアルタシャーストラ等を指す〕を敬うようにさせたのです。パラーヤナーとは、「関心がある」、「没頭している」という意味です。真理と道徳の復興こそがババがいらした目的です。それゆえババは個人と社会の双方の矯正に「没頭して」いらっしゃるのです。
ババはシルディにいたときにおっしゃいました。「常に真理を固く守り、交わした約束はすべて守りなさい。そうすれば、あなたがいつどこにいようとも、私はいつもあなたと共ににいる」と。今でもババは同じように明言し、真実であれ、道徳的であれと私たちを促します。
ババは宣言なさっています。「私の名前は真理です。私は真理であり、私の行いは真理であり、私の栄光は真理です」と。ババはダルマのために、すなわちダルマを明らかにし、ダルマを世に知らしめ、すべての人の心にダルマを打ち立てるためにいらしたのです。
ババはこれら二つ(真理とダルマ)に、愛に満ちた「関心がある」ために、人の姿をまとって人々の間にいらしたのです。
Om Sri Sai Varadaya Namaha
04
Varada(ヴァラダー)= 恵みを授ける者
ババは、ヴァラダーすなわち恵み(ヴァラ)を授け給うお方(ダー)です。人間は5つの鞘に包まれた神の火花です。その神の火花が輝き続けることができるように、燃え続けることができるようにと、ババは恵みを授け、すべての鞘がよく機能するよう手助けしてくださいます。
ババは食物鞘(アンナマヤコーシャ:粗大な肉体という覆い)を病気から守り、生気鞘(プラーナマヤコーシャ:神経という覆い)を乱れから救い、心理鞘(マノマヤコーシャ:心)を錯乱と心配と動揺から守り、理知鞘(ヴィグニャーナマヤコーシャ)を障害物や濃霧から守り、歓喜鞘を養い育みます。そして、これらすべての鞘の生来の目的を推し進めるあらゆる恵みを惜しみなく授けてくださいます。
けれども、ババの恩寵が授けられる目的は、「肉体」を死から不死へと旅するのにふさわしいものとするため、「神経のエネルギー」に落ち着きと安定と均衡を確立させるのを助けるため、「心」を動揺させないため、「理知」を普遍的特性と絶対者を理解するために足るよう研ぎ澄まさせるため、「歓喜」を破られることのない完全なものとするためです。ババの恵みは求めることにより与えられます。「たたけよ、されば開かれん」〔註:新約聖書マタイによる福音書7章7節、ルカにyろ福音書11章10節にあるイエスの言葉〕。
ババ御自らが「たたき」、恵みをお授けになった、といういくつかの実例もあります!苦難、悔恨、祈り、正業、禁欲生活、勉学、これらの結果として、その人が贈り物を受け取る機が熟したとき、「恵みを授け与えるお方」は、ただちに恩寵という合図を出してくださるのです。