SRI SATHYA SAI RAM NEWS
神性は、顕現していない形で、すべての人の中に存在しています。海の波と同じように、すべての人間は神の火花です。すべての人間は、神であるサット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)の化身です。このことは、バガヴァッドギーターの中ではっきりと述べられています。
神が愛の化身であるように、人も愛の化身です。しかし、現代人は利己的で自己中心的であるために、愛を完全かつ適切に顕現させていません。
人類は、物質と科学の分野ではかなり進歩しましたが、道徳や霊性の分野では悲惨な状態に陥っています。あらゆる行いにおいて利己心が支配的になっています。すべての思考、すべての言葉の背後に利己心が突き出ています。この利己心が根絶されて、初めて神性は姿を現します。
セヴァ(無私の奉仕)を行う際には、すべての人の中には神が遍在していることを認識すべきです。人間はティヤーガ(犠牲)の精神とボーガ(感覚の求める快楽)への嫌悪を育んできませんでした。真の奉仕は犠牲の精神を必要とします。犠牲は不死を得るための唯一の手段であると明言されています。
人々は神を探しているように見えます。人々は目に見えるものすべてに神が浸透していることに気づいていないのです。すべての姿は神の姿です。しかし、人の目が外に向けられているために、内を見る神聖な見方を持つことができずにいます。
人は平安を切望しています。平安や至福の源は自分の中にあるにもかかわらず、人は蜃気楼(しんきろう)を追い求めるように外にそれを求めています。ひっきりなしの活動、終わりのない心配、際限のない欲望のために、人は心の平安を失い、不満と不幸の餌食となっています。まず自分の中に平安を育むことです。それから、その平安を家族に広げます。それが家庭から村へと広がっていくようにするのです。このように、平安は個人から始まり、社会全体へと広がっていくべきです。
サイ オーガニゼーションでは真実〔真理〕、正義〔ダルマ〕、愛、平安、非暴力の価値を伝えるために努力していますが、それは単なる伝達であって、実践(あるいは実証)ではありません。ただ述べ伝えても、何の役にも立ちません。真実は実践されなければなりません。真実と正義〔ダルマ〕は、バーラタ〔インド〕文化が支持している最高の価値です。もし人々が真実と正義〔ダルマ〕に基づいて生きていないなら、人々の人間性には何の価値もありません。
サイの御教え
すべての美徳の中で、愛は何よりも優先されます。愛が育まれていれば、他のすべての徳目はそこから流れてきます。すべてのサーダナ〔霊性修行〕の形の中で、第一の位置を占めているのは愛です。愛は人間性の最高の印です。愛は神です。愛の中で生きなさい。一日を愛で始めなさい。一日を愛で満たしなさい。一日を愛で終えなさい。セヴァ(無私の奉仕)に従事して、アハンカーラ〔エゴ/自分が行為者であるという自我意識〕の痕跡をすべて排除しなさい。私たちの堕落は、神を忘れたことによるものです。神を覚えていれば、私たちの人生は平安と幸福で満たされるでしょう。
人間は3種類のイッチャ シャクティ(望む力)〔意志力〕を持っています。それは、
1)スウェーッチャ(自由に望むこと)
2)パレーッチャ(他の人の望みを実行すること)
3)アニーッチャ(望まないこと)
です。
3つの望む力の真の意味
スウェーッチャ(自由に望むこと)とは、他人の権利を顧みず、自分の力や持ちものを使って好きなように行動する自由という意味ではありません。真のスウェーッチャ(自分が望んでいるとおりに行動する自由)は、自分の心で決断し、それを行動に移し、その結果が良くても悪くても素直に心からそれを受け入れることにあります。これが真の意志の自由です。自分が好きなことをしたいと望む自由には、それがかなったときに生じる結果を、等しく、自由に受け入れることが伴うべきです。
パレーッチャ(他の人の望みを実行すること)とは、他の人に促されたり頼まれたりして行った行為の結果を嘆き、自分が被った責任を他人になすりつけることです。
アニーッチャ(望まないこと)とは、自分の意志なく起こった、あるいは他人に促されて行った行為の結果として起こった偶然の出来事を、神の摂理として受け入れることです。
尊いものである人間の姿を手に入れた以上、人は人の姿に真に求められることに応じて生きようと努めなければなりません。人は無知や貧困や罪に苦しむために生まれてきたのではないということを理解すべきです。人はもっと高尚な運命のために生まれてきたのです。人は自分に授けられた役割を果たすべきなのです。
王とサンニャースィと踊り子
ある時、一人のサンニャースィ(出家行者)がマハーラージャ〔王〕のもとを訪れて、ヴェーダーンタの聖なる真理を説きました。王は彼の説明に満足し、皿いっぱいの金貨を差し出しました。行者はそれを受け取るのを辞退して、「物質的な贈り物を受け取ることは、私が身にまとっている衣にそぐいません」と言いました。「世俗のものをすべて捨てた私に、このようなものが必要でしょうか?」と行者は言いました。王はこのサンニャースィの態度を気に入りました。
次の日、同じ人物が女の踊り子に扮して宮廷に現れました。踊り子は王の前で見事な踊りを披露しました。王は喜んで、踊り子に金貨の入った皿を差し出しました。しかし、踊り子は、「そんなはした金は受け取れません」と言い放ち、もっと多くを要求しました。その時、王は踊り子の衣装を着たその人物が前日のサンニャースィと同一人物であることに気がつきました。王は踊り子に言いました。「昨日、そなたは私の手による贈り物を拒否したが、今日は私が提示した以上を求めている。この態度の違いの真意は何か?」
踊り子は、こう指摘しました。「誰もが自分の役割に応じた行動をとらなければなりません。サンニャースィのローブを着ている行者にとっては、いかなる物質的な贈り物も拒否するのが適切なことです。しかし、踊り子の役割においては、自分にふさわしいと思う分を要求する権利があります。私は、今日は踊り子の役を演じていました」
その返事を聞いた王は、善い教訓を得たと感じました。「私は王だ。私は王としての行動をとるべきであり、王のローブをまとっている者にふさわしくない振る舞いをしてはならないのだ」。王は踊り子が教えてくれた教訓に感謝しました。
現代では、黄土色のローブを着ていても、心の中は汚いものでいっぱいの人たちがいます。彼らは家長でさえ持ってないような欲を持っています。そのような二重生活によって、バーラタ文化は損なわれています。パンディト〔学僧〕たちを見てみると、彼らの多くは経典に精通しており、経典をそらで唱えることができます。彼らはルッドラークシャ マーラー(ジャパに使う聖なる珠数)を誇っているかもしれません。貴重なショールを身につけているかもしれません。しかし、彼らの行動は彼らの衣や装飾品にふさわしいものではありません。
「パンディターハ サマダルシナハ」――真の学者はすべてのものを平等な目で見る――とギーターは明言しています。平等な目を持っていない人を、どうしてパンディト〔学僧〕と言えるでしょうか? もし、サンニャースィと名乗る人が俗世のものをすべて放棄しながら欲望を抱き続けていたら、その人はどうしてサンニャースィと見なされるでしょうか? 今日、経典の知識をひけらかしている多くの人は、ボーガラージュ〔贅沢の王者〕(贅沢を楽しんでいる人)やローガラージュ〔病気の王者〕(病気を自慢している人)であり、ティヤーガラージュ〔放棄の王者〕(放棄の大家)にはなっていません。
サイのセーヴァカの役割
皆さんは、サティヤ サイ セヴァ ダルの一員です。一員として、皆さんは自分の役割に沿った奉仕をするよう努めなければなりません。皆さんはセーヴァカ〔無私の奉仕者〕です。あなたが奉仕する相手が誰であれ、自分は神に奉仕しているのだという気持ちを持ちなさい。猿のハヌマーンがどのような精神でシュリ ラーマに仕えたかを思い出しなさい。ハヌマーンは猿なのだから知性やその他の資質に欠けていると思ってはいけません。ハヌマーンは「穏やかで、徳が高く、強い」と描写されています。それほどの者が、ランカーのアショーカヴァナの木〔無憂樹〕の上で、ラークシャサ〔羅刹〕たちに「お前は何者だ、どこから来た?」と問われた時、「ダーソーハム カウサレーンドラッスヤ」(私はコーサラ国の主であるシュリ ラーマの召し使いである)と答えました。ハヌマーンは、自分の武勇や知識を自慢げに話しませんでした。ハヌマーンは、自分を謙虚で献身的なラーマの召し使いと称することに満足していたのです。
「キンカラ(主の命令を実行する覚悟ができている者)でなければシャンカラ(神)にはなれない」という格言を心に留めておきなさい。
皆さんは、奉仕を通して自分の人生を変えなければなりません。皆さんの奉仕活動には、ほんのわずかでも、傲慢さや私利私欲が入り込む余地があってはなりません。自分が誰かに行う奉仕は神への奉仕である、という気持ちを心に植え付けなさい。そうして初めて、人〔マーナヴァ〕への奉仕は神(マーダヴァ)への奉仕となるのです。
自分の行いのすべてを神に捧げる
社会で生まれ、社会で育ち、社会から教育を受け、社会から数え切れないほどの恩恵を受けている皆さんですが、皆さんは社会のために何をしていますか? 社会奉仕とは、社会が私たちにしてくれたことへの感謝の表現である、と考えるべきです。社会がなければ、私たちは生きていけません。神から与えられた体は、ダルマを実践するために使うべきです。プラフラーダが言ったように、もし手、足、口、耳といったさまざまな器官が主への礼拝に従事しないなら、人間として生まれることが何の役に立つでしょうか? そのような人は、その人を産んだ母胎にとって、重荷です。グニャーナ マールガ〔英知の道〕の唱道者であるシャンカラーチャーリヤ〔シャンカラ〕は、最後に「バジャ ゴーヴィンダム」の中でバクティの道を賞賛しています。
女性はおしゃべりが過ぎる傾向にあります。毎日の家事も、集中して行う仕事と見なすべきです。もし家事のためにサットサンガ〔善良な集まり/サットサング〕に出られなくても、そのことで惨めな気持ちになってはいけません。家庭での義務を果たすことは、サットサンガに参加するのと同じくらい神聖なことです。家庭での義務をきちんと果たしてこそ、外で適切な奉仕を提供することができるのです。床を掃除するにしても、チャパティを作るにしても、家でするどんな仕事も、それを霊性修行の一つの形に変えなさい。すべての行いに神への愛を吹き込んで、それを神に捧げなさい。
1989年3月23日
アクティブ ワーカーと他の帰依者に向けた御講話
マドラス〔チェンナイ〕のアボッツベリーにて
Sathya Sai Speaks Vol.22 C6
善良な人との友情を育み、悩める人への思いやりを培い、幸福で繁栄している人を喜ぶ気持ちを養い、悪い心を持つ者への対する無関心を深める――これは古来よく行われてきた、穏やかで平和な人生を送るための処方箋です。神はそのような人を祝福し、恩寵を与えます。心からの喜びをもって唱えた神の御名は、人の心(マインド)に大きな影響を及ぼします。それは月光のように、人の内なる海の波に映ります。というのも、それは内からの神の響きであり、外からの神の呼び声だからです! しかし、ごらんなさい。科学によってもたらされるもの――物質世界を扱うもの、確認可能な部類の思考という方法によって測定や計量や計算ができる物事や出来事を扱うもの――は、喜びを求める人間を荒涼とした世界に追いやってきました!
先ほど、チャンドラモーウリ シャーストリは、マントラについて、「信心を持って意味を十分に理解した上で繰り返し唱えると、神の神秘体験を与えることができる」と、あなた方に話していました。つまり、マントラは、あなた自身の心の電流で充電されたとき、文言の効力によって引き寄せられる神の近くにあなたを置くことを可能にするのです。
マントラとは何でしょう? 「マン」(マナナ、すなわち、潜んでいる意味を考え続けること)、「トラ」(トラーナ、すなわち、救う行為、悲しみを越えられるようにする行為)。心(マインド)がマントラに必要な力を充電することができるための条件は何でしょう? 何よりもまず、「一点集中」です。
さて、心はとても粗末な道具です。というのも、心は鈍いからです。心はあまりにも多くの物や目的を追いかけます。神に注意を向けるようにとあなたが心に説得したその瞬間にも、心は映画館やバザール、クラブのカードルームなどへとふらふらと出かけていきます。神の大いなる荘厳さに思いを馳せることに心が同意することは、めったにありません。あなたが心を神に向けさせると、心はあたかも、大洪水に直面しろ、あるいは、地獄の恐怖を迎え撃て、とあなたが心をけしかけているかのように振る舞います!
神への思いに浸るには神性への信仰心が不可欠
神への思いに浸るためのどんな修行にも不可欠な、神性への信仰心がないのです。その信仰心は、信心深い人と付き合うこと、信心深い人の生涯や体験を読むこと、そして、自分自身が体験を重ねることによって、ゆっくりと芽生えることができるのみです。ナーマ サンキールタン(共に神の御名を歌うこと)は、たちどころに信仰心を生じさせます。最初は、好むと好まざるとにかかわらず、日課として御名を唱えなければなりません。やがてその味は、それが癖になるほど、あなたを引き込むでしょう。神の御名を繰り返し唱えることは、尽きることのない喜びをもたらしてくれるのです。私たちは、ハートの蓮の花について語ります! なぜでしょう? 蓮は水中で育ち、水中で栄養を得て、太陽の下で花を咲かせます。ハートも同様に、バクティ(信愛)から栄養を得て、グニャーナ(英知)によって花を咲かせます。
神の御名のほとんどは、2つの文字あるいは音節で構成されています。2という数字では、(ラーマ、クリシュナ、ハラ、ハリ、ダッタ、シャクティ、カーリーといった二文字の御名の)1つ目の音節はアグニ(火の原理)を表しており、積み重ねた悪徳、すなわち罪を焼き尽くすということを意味しています。2つ目の音節はアムリタ〔不死〕の原理を表しており、これは回復させ、リフレッシュさせる、改善する力です。この2つのプロセスが必要なのです。すなわち、障害物の除去、そして、建造物の建設です。
主クリシュナはヤショーダーに育てられましたが、彼女はクリシュナがどこで生まれたのか知りませんでした! クリシュナは実の息子のように愛され、扱われました。つまりそれは、ヤショーダーの愛は清らかで、利己的な思惑によって汚されていなかったということです。このたとえは、こう理解されます。
へその領域で生まれた神の生気は、その後(ゴークラ村でナンダとヤショーダーが)御名を絶えず繰り返し唱えたことにより、舌の上で保持され、育まれたのだ、と。
ラーマの原理は愛の原理であり、それは神々の贈り物として、偉大な犠牲の果報として、天界から降りてきたものです。「ラーマ」は「歓喜」を意味します! 生来備わっている真我(アートマ)ほど歓喜しているものはありません。それゆえラーマは「アートマ ラーマ」とも呼ばれているのです。
では、どうしてバラタは、ラーマを正統な後継者とする王位の座を奪うことに応じたのでしょうか? ラーマが追放され、ダシャラタ王がラーマとの別離を悲しむあまりに死んだとき、バラタとシャトルグナはケーカヤ国の都にいました。〔帰国せよとの〕知らせが届き、アヨーディヤーの都に暗い影を落としていたその二重の悲劇を知らずに宮殿に入ったとき、バラタは何らかの災いを感じ取りました。王家の師であったヴァシシュタ仙は、バラタに王位に就くようにと勧めました。というのも、君主が不在であれば王国が苦難を被ることになるからです!
バラタが示した主ラーマへの愛の模範
バラタは、「私が祈る神であり、絶え間ない愛に満ちた崇敬を受け取る主である者」のもとに行くことを許可してほしいと懇願しました。ヴァシシュタ仙は、君主としてバラタが王位に就くことはバラタの父の命令であり、師の助言でもあると、バラタに述べました。バラタは、その要求は両親、国民、師、そして、アヨーディヤーのすべての人がバラタに対して持っていた、きわめて激しい憎悪の証拠である。なぜなら、もし彼らがバラタを愛していたら、決してバラタにそのような恥ずべき罪を犯すよう迫らなかっただろうと、返答しました。
バラタは合掌してヴァシシュタ仙の前に立ち、懇願しました。
「王国を統治する重責を私に背負わせることは、正当で公正なことでしょうか? それは私の父を殺し、母を寡婦にし、私が自分の息よりも大切にしている最愛の兄を、兄が心から愛している妃と共に悪魔の棲む森へ追放させ、最終的に、私の母にぬぐうことのできない恥辱を与えることになります。私の王国は、ラーマが統治している王国、すなわち、私のハートです。そこは、ラーマの栄光を収めるには小さすぎる国ですが」
バラタの名前それ自体が、バラタはラーマへの愛に浸りきっているということを示しています。(「バ」は、バガヴァーン〔宇宙のすべて〕、すなわち主ラーマを意味し、「ラタ」は、~を喜ぶ、~を幸せに思う、~に執心している、を意味する)
教育が人間のハートを硬化させている
バラタがしたように、あなたの中で主への愛が育つようにしなさい。王座さえも捨てるほどの崇敬の念が、あなたの中に花開くようにさせなさい。そうすれば、あなたは、あなたの国、あなたの文化、あなたの社会、あなたの宗教、あなたの共同体にとって、大いに役立つことができます。それができないなら、あなたが体験してきたサットサンガ〔神聖な集い〕への参加、霊的な講話を聴くこと、霊性の大家たちと会うこと、霊的な書物を学習すること、といった骨折りは、すべて途方もなく無駄な試みになってしまうでしょう。
読み書き、技能、適合、物質的進歩に重点を置いた教育システムが、人のハートを硬化させ、軍用品の蓄えのもう一つの武器にしています! 人の知性は、絶え間ない嘘の繰り返しによって鈍くなり、人の聖なる感情を養う畏敬の念や尊敬の念が、時代遅れのものとして非難されています! 聖人、聖地、聖河は嘲笑されています。長い間、神々の遊び場、聖者の生育の場、人類のグル〔導師〕であったインドが、今ではヴェーダーンタの光を求めて声を上げる人々〔ヴェーダの価値を認識している外国人〕のドアの前に立つ物乞いになっています!
その光の輝きを知り、あなたの二つの翼――バクティ(信愛)とシラッダー(揺るぎのなさ/シュラッダー)――があなたを持ち上げることができる高さまで、その光に向かって飛んでいきなさい。
シャーストリは、スワミの奇跡を描写するのは不可能なことだと言いました。その神秘を理解していない人が、どうやって説明することができるでしょう? 海岸にいる人が、どうやって海の波を数えられるでしょう? 海岸にいる人が全部の数を数えることはできません。その人にとっては、自分が数え始めた波が最初の波で、数えるのをやめた波が最後の波です。聞いて、反芻(はんすう)して、アドバイスに従う――これがあなたにとって十分なサーダナです。
私の教えにおいて第一に重要なのは、あなたの両親、特に母親を敬いなさいというものです。あるとき、大変なハリケーンに見舞われた地域がありました。あまりの激しさにより、家という家がすべてなぎ倒され、住民は食べるものも寝る場所もなくなりました。最もひどい被害を受けた人たちの中に、ある母親と二人の息子がいました。長男は徳の高い素晴らしい息子で、家族を安全に守り養うことに責任を感じていました。というのも、彼は母親を愛していたので、何にも増して母の愛と祝福を得ようと努めていたからです。
真の帰依者は、まず母親を敬うべし
あなた方は、バーラタ マータ〔母なるインド〕、つまり母国について話しますが、どの母親も同じように呼吸をし、同じ血筋にあるのです。その母親は、下の子を連れて物乞いに出かけ、飢饉(ききん)に襲われたその地域で施されるわずかな食物で生き延びていました。しかし、間もなく母親は、自分がほんの数歩を歩くことさえできないほどに衰弱していることに気づきました。そのため、家族が食べていくには、長男が一人で物乞いに出なければならなくなりました。長男は母の足元にひれ伏して、「お母さんがしてきたことは僕がやります。みんなの食べ物を集めてきます」と言いました。長男は、母親が無理をして健康を悪化させるのは嫌でした。けれども、ほんのわずかな食べ物だけで、どうやって三人が生きていけるでしょう? 長男も衰弱していました。
か弱い声と、おぼつかない足取りで、長男は大地主の家に行き、わずかな食糧を乞い求めました。その家の女性が、中に入るようにと言い、少年を葉っぱのお皿の前に連れていき、食べ物を盛りました。しかし、少年は食事をとるために身をかがめることなく、ふらついてバタリと床に倒れてしまいました。大地主が部屋に駆け込んできて、死に際にいる少年がふりしぼる最期の言葉を聞き逃すまいと、少年の口元に耳を寄せました。少年はこう言っていました。
「いえ、いえ、先にお母さんに食べ物をあげないと。僕の番はそれからです」
あなたが負っている借金は返すことができるかもしれませんが、あなたが母親に負っている恩は決して返すことができないほど大きなものなのです。自分は神の帰依者だと言う人は、このように、それにふさわしい行いをしなければなりません。神の帰依者は自分の母親を尊ばなければなりません!
サティヤ サイ ババ述
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
1969年10月16日
Sathya Sai Speaks Vol.9 C24