SRI SATHYA SAI RAM NEWS
古来、バーラタ〔インド〕は、霊性に立脚することによって平安と繁栄というメッセージを世界に伝えてきました。国民は常にすべての国の幸福を祈ってきました。バーラタ文化の偉大さは、その壮大さを体験した人だけが理解できるものです。バーラタ文化は、歴史の激動を乗り越えて試練に耐えてきた文化です。バーラタ文化の偉大さは、サナータナ ダルマ(古来永遠の人生哲学)に反映されています。正義はこの哲学の外的な現れです。正義が人間の生活を律してこそ、平等、友愛、自由といった理想が実際に実現されるのです。
人々が感官をコントロールすることを学んだとき、世の中の対立や不和はなくなるでしょう。現代のバーラタ人は、インド文化の深遠な真理を無視しています。それは人々が私利私欲を追求し、利己心に振り回されて、本来持っている神性を忘れているからです。他者に対して親切で思いやりがあるという、人間としての自然な傾向をきちんと育むべきです。現代人はそれをしていません。
サイの御教え
創造の神秘を理解しなさい
基本的には、人と自然の間に対立はありません。赤ちゃんには母乳を飲む資格があるように、蜂には花の蜜を吸う資格があるように、人には自然の果実を味わう資格があります。創造世界は人類よりも偉大です。創造世界の神秘を理解することは人間の特権です。さらに、人は創造世界と創造主の関係を知る努力もすべきです。
人体は、目や鼻や手や脚といった異なる器官で構成されています。人間は人間社会の手足であり、人間社会は人類の手足です。人類はプラクリティ(自然)の手足であり、プラクリティはパラマートマ(普遍なる大我)の手足です。こうした連鎖関係について考えるなら、人間は究極の至福の権化と結び付いているということがわかります。
しかし、なぜその至福は、とらえようとすると人の手から逃げていってしまうのでしょうか? それは、人が自分に内在する神性を認識していないからです。人は、自然というものはもっぱら人間が享受するために神が創造したものだと思っています。それは間違っています。自然は人間が、一定の限度内で、享受するためにあります。
現代の科学者たちは、無制限に自然を享受することを念頭において、自然の力を探っています。科学者たちは、自然のあらゆる力を人間のコントロール下に置いて、制限なしに享受したいと欲しています。今、私たちが目にしている非常に多くの自然災害は、それが原因です。
世界中で起きている干ばつや洪水の原因は何でしょう? 人は、抑制も規制もなしに自然の恩恵を享受しようとして、墓穴を掘っています。ここに地球儀があるとします。片側を叩けばバランスが乱れます。天然資源を用いるときには、きちんとバランスが保たれるよう、常に細心の注意を払うべきです。一方を過剰に用いるなら、他方に害をもたらすことになります。
天然資源の開発に際し、人々は権利という名の下に、限度を守らず、自分たちのやりたいようにやっています。私には、その「権利」という言葉がどこから来たのか、理解できません。実のところ、「権利」といったようなものは存在しません。実際、人々が持っているものは「責任」です。人が自分の責任をきちんと果たすなら、そこから何がしかの権利が生じることは可能です。もし責任を無視するなら、その結果はどうなるでしょう? 混乱と平安の欠如しかありません。雨が降ると水路に水が流れます。雨が降らないとき、どうして水を望むことができるでしょうか? ですから、まず雨が降るように祈ることです。そうして初めて、あなたは川の水の流れを享受することができます。同じように、まず自分の義務を果たすことです。そうすれば、自分の権利を確保することができるでしょう。
義務は最も神聖なもの
今、誰もが権利ばかりを口にします。これは全く意味のないことに見えます。人は皆どのように一日を過ごしているか、しばし考えてごらんなさい。朝起きてから寝る時まで、誰もが何らかの心配事を抱えています。時間は神聖なものです。行動はさらに神聖なものです。義務は最も神聖なものです。活動によって何かを成し遂げるだけでは不十分です。人生の最後の最後まで、着手したことすべてにおいて成功を収めなければなりません。チャンドラバブ・ナイドゥ首相〔アーンドラ・プラデーシュ州首相〕がスピーチの中で述べたように、人々はすべての行いを理想的な形で行わなければなりません。単に機械的に存在しているだけでは、人間性を表現することはできません。人として生まれるのは計り知れないほど貴重なことです。真の人間の証として、3つのことを守らなければなりません。それは、罪への恐れ、神への愛、社会における道徳です。罪深い行為は慎むべきです。サンスクリット語の格言に、「人は徳行の果報を欲しながら、罪深い行いにふけっている」というものがあります。思考と言葉と行いの清らかさを身につけたとき、人は善行の果報を得ることができるでしょう。
人としての生は、生まれてから死ぬまで、さまざまな悩みに満ちています。それらの悩みから解放される唯一の方法は、心を神に向け、いつも神のことを考えていることです。
さらに、人は自立心を養わなければなりません。自分でできることを人や政府に頼ってはいけません。自分のことはできるだけ自分でして、その労働の果報を享受しなさい。
神の助けを求める前に、自分の能力を使いなさい
現代人の多くは、自分に自信がなく、自分が望んだことを成し遂げる決意も持っていません。そして、必要な努力もせずに、すぐに結果を出したいと思っています。どうしてそうなのでしょうか? 神や政府に責任を負わせるのは適切なことではありません。神は間違いなく助けることができますが、神に助けを求める前に、あなたが神から授かっている力と才能を使うことを神は期待しています。神から与えられた能力を最大限に活用することをせずに神に頼るのは、誤った判断です。
自分たちが住んでいる環境を浄化するよう努めなさい。どこにも平和や調和がありません。帰依者は愛を育み、人間的価値を実践することによって、そうした空気を浄化し、聖化するように努めなさい。帰依者たちは、さる方面からの反対や不賛成に遭うかもしれません。そうした障害は克服すべきです。そのような批判をする人たちは、極めて価値のあるものを破壊する害虫のようなものです。
福祉活動に従事する人たちは、そのような批判を気にすることなく、良心の指示に従って善い行いを続けていくべきです。この点については、州首相も述べています。自分は人々のためになることをやっているのだと確信しているとき、どうして小心者の批判を気にする必要がありますか? 自信を持ちなさい。
今日、バーラタでは何百万人もの人々が飲み水の不足に悩まされています。この問題は、ある程度、人々自身の行動に原因があります。人々はどこまで正しい行動をとっているでしょうか?
人の振る舞いには、神の振る舞い、人間の振る舞い、獣の振る舞いという3つの種類があります。私たちは、獣性の増大と人間性の衰退を目にしています。この傾向の原因は、欲望が際限なく膨らみ、アーシャヤール(理想)が確実に消滅していることです。利己心が拡大し、無私が減少しています。策略が蔓延(まんえん)し、誠実さが消え、体への執着が増し、国への愛が薄らいでいます。その結果、国民の人格がどんどん卑しくなっています。
犠牲は幸福の真の秘訣
古代の人々が生きていた古き良き時代の物事の状態は、どれほど違っていたことでしょう。彼らは善良な帰依者たちとの交流を喜び、貧しい困窮した人が家に来るのを歓迎し、神を讃える賛歌を聞くことを好みました。彼らは、そういったことがあった日だけを神聖な日と見なしました。人生はこうした高潔な生き方によってのみ救済されるのです。
古代のバーラタ人は、犠牲の質を高く評価し、正しさを崇め、正義を最高の美徳とし、真理を大切な友として迎え入れました。今日の物事の状況は、これらすべてと食い違っています。
幸せの真の秘訣は犠牲です。誰もが自分の能力の範囲内で収入と財産を他の人々に分け与え、他の人々の幸せに貢献すべきです。貧困にあえぎ、さまざまな形で苦しんでいる人がたくさんいます。そのような不幸な人たちを助けに行くのは、裕福な人の義務です。
自分の言葉どおりに生きなさい
愛の化身たちよ! 今日、皆さんは多くのリーダーのスピーチを聴きました。彼らは心から語り、人々の福祉に対する懸念を表明しました。もしそれらの言葉が意味のある行動に移されれば、この国は必ずや良い方向に向かうでしょう。このような機会に、こうしたリーダーたちが前に出て、この種の保証をするというのは、歓迎すべき兆しです。それらは国民に熱意と自信を与えるに違いありません。州首相、カルナータカ州議会議長、連邦大臣は、いずれも信念と熱意を持って発言しました。このことは、人々のハートに刻み込まれるはずです。保証は行動に移されるべきです。
バーラタだけでなく、世界の他の地域も、無数の問題に悩まされています。その解決策は何でしょう? 人の心を根本から変える必要があります。人々は人間に生来備わっている神性を認識すべきです。この心の変容と神性の認識が同時に起こったとき、人類の神格化があるでしょう。
愛の化身たちよ! 5日から始まったこのヤグニャも今日で終わりです。今日はヴィジャヤダシャミーの日〔勝利の十日目という意味のダシャラー祭の最終日〕です。今日、飲料水プロジェクト〔恵みの水〕がアーンドラ・プラデーシュ州政府に移管され、州首相がこの事業を適切に維持する責任を引き受けたことは、おめでたい兆しです。国民のために実施しなければならない同様の福祉計画は、まだまだたくさんあります。私は、頭のてっぺんから足のつま先まで、全身全霊で人々への奉仕に尽くしています。私は、人々のためになる多くのことを行いたいと考えています。私は、それらについて話したくはありません。行動がそれを語らなければなりません。州議会議長は、自分の県でも飲料水の問題が深刻であることに言及しました。他の県と違って、コーラール県には川がありません。こうした問題を解決するために、誰もが自分の力を発揮することを決意すべきです。誰もが社会に恩があるのですから、誰もが社会に対する自分の責務を自覚すべきです。必要であればいつでも、自分たちの問題を解決するために集まって協力し合うべきです。
多くの若者が家で時間を無駄にしています。そのエネルギーを建設的な福祉活動に集結させるべきです。州首相は、シュラマダーン(労働力を贈る)という案に言及しました。村の誰もが、他人の助けを待たずに村の道路を建設するために、そうしたシュラマダーンに参加すべきです。できるだけ多くの村人たちの必要を満たすために、この種の自発的な協力活動を行うべきです。必要なときには他人の助けを求めてもかまいません。
全力を傾けて助けるというバガヴァンの保証
私は、どの村から来る人も、どの州から来る人も、どの共同体から来る人も、助ける用意ができています。私はどんな類の差別も心に抱きません。あなた方が信じようと信じまいと、私は、ただ一つのカースト――人類というカースト、ただ一つの宗教――愛という宗教、ただ一つの言語――ハートという言語を敬っています。私の助けを求める人には、私はその人がどのカーストであろうと、どの宗教であろうと、どんな信条であろうと、決して誰にも「ノー」(No)とは言いません。多くの帰依者がここに集まっています。私は、あなた方の要望に応えるためなら、プラシャーンティ・ニラヤムを手放す覚悟さえあります。私は人々のためになら何でもする覚悟があります。それが私の唯一の関心事です。私は、人々を主の恩寵を受けるに値するようにするためだけに働いています。この事実を認識している人はほとんどいません。何年も私の所に通っている人たちでさえ、この真実を認識していません。神のやり方について、真実を理解するのは難しいことです。
あなた方は皆、神への信心を持って自分の義務に精を出すべきです。そうすれば、すべてが上手くいくでしょう。万事、容易に達成することができるでしょう。これは、私たちの古代の人々が追求した道です。当時は、政党も派閥争いもありませんでした。すべての人が心を一つにして行動していました。それは「ヴェーダ」のメッセージです。「共に働き、共に楽しみ、互いを愛し、皆と喜びを分かち合おう」――これはリグ・ヴェーダの輝かしいメッセージです。人々はヴェーダの教えを基に生活していました。こうした訓戒が尊重されない今、どうやって人としての生が神聖であることができるでしょうか?
あなたのハートが善良なら、あなたに害は及ばない
自分の良心に従って正しいことをしていれば、他人の言うこと、考えることを恐れる必要はありません。勇気は善行と共にあるべきです。あなたのハートが善良なら、あなたに害は及びません。
私は、アナンタプル県〔アナンタプラム県〕以外にも、いくつかの県の必要に応えたいと考えています。その中で、私は一つのことを保証したいと思います。バーラタであれ他のどの国であれ、福祉計画を実行するための財源が不足することはありません。財源は豊富にあります。ただ、そうした計画を実行しようという強い気持ちがないだけです。強い気持ちがあれば、どんなことでも達成することができます。人々は、月へは行けるのに、自分のハートに旅をすることはできないのでしょうか?
私が飲料水プロジェクトを始めた時、トラストのメンバーたちは私にこう言いました。「スワミ! トラストには十分な資金がありません。私たちはどうやってこの巨大プロジェクトに乗り出せばいいのでしょうか?」。私は彼らに請け合いました。「それは私の仕事です。私がこの善良なプロジェクトの完遂を見届けます」。それは何の障害もなく達成されました。
バーラタには、まだ為されるべきことがたくさん残っています。カルナータカ州議会議長が述べたように、水は国中で第一に必要とされているものです。きれいな飲料水が全国民に行き届くようにしなければなりません。それが私の決意です。
私は、早い時期から国民に3つの必需品を提供することを気にかけてきました。無償の教育、無償の医療、そして、飲料水といった基本的な設備の提供です。教育は頭のため、医療はハートのため、きれいな水は体のためです。この3つは、生活に必要とされる主なものをカバーしています。この3つを提供することは最も大きな満足感を与えてくれます。
リーダーたちに課せられた課題
どこでもあなた方ができる所で、教育を無償で提供するよう努めなさい。貧しい人々のために無料で薬や治療を提供しなさい。飲み水を提供するために、あなた方の間で可能なかぎり協力し合いなさい。ラーヤラシーマ地方では、人々がフッ素症の弊害に苦しんでいます。どうか、少なくともこれからの世代がこれらの病気から救われるよう取り計らってください。私はあなた方全員を祝福し、あなた方のすべての有益な活動において私の恩寵があることを保証します。福祉プログラムを実行するためにすべての関係当局が協調して行動することを、私は望みます。
長い間ここに来ることを切望していた州首相が、今日という縁起の良い記念すべき機会にここにいるのは幸運なことです。私は彼が自分のプログラムをしっかりと遂行してくれると確信しています。私は彼が将来におけるこの計画〔飲料水の提供〕の維持に対する責任を引き受けてくれたことを嬉しく思います。彼は部外者ではありません。実際、名前や姿は違っても、霊的には皆一つです。彼が引き受けてくれたことで、私たちは重い責務から解放されました。今後、私は新たな重荷を背負うことになるかもしれません。その用意は十分にできています。物語はこれで終わりではありません。
私はコーラール県の人々が必要としていることを、近い将来実現することを保証します。72歳の誕生日までに、コーラール県の人々の飲料水の必要は満たされ、どの村の人々にも十分に行き届くようになるでしょう。アナンタプル県でさえ、まだ行き届いていない地域があります。私は、残りもすべて遂行させると断言します。もしカバーされていない地域があるなら、私に知らせてくれれば遂行させるつもりです。私はあなた方のものであり、あなた方は私のものです。私たちの関係は霊的な関係です。あなた方には私に近づく権利があり、私にはあなた方の希望に応える義務があります。この点に関して、いかなる疑いも抱いてはなりません。私はあなた方全員を祝福します。
1997年10月11日
ダシャラー祭ヴィジャヤダシャミー
プラシャーンティ ニラヤムの
サイ クルワント ホールにて
Sathya Sai Speaks Vol.30 C29
シャーストリ〔学者〕は、叙事詩や歴史からの例を挙げて、人間の状況への時間の力と影響について皆さんに説明しました。今日は良いことでも明日には悪いことになり、今日実行可能なことでも明日には実行不可能なことになる場合があります。時間は、習慣や風習を時代遅れなものや時代錯誤なものにします。今日悲しみを与えるものは、明日には喜びをもたらすかもしれません。子供にとって学校に行くのは嫌なことですが、後になれば、自分が年若い時分に無理やり授業を受けさせられたことに感謝します! ラーマが追放された時、シーターは、アヨーディヤーの都も、宮殿も、自分が持っていた幸せな夢の数々も、すべてを捨てて、森に付いて行きました。けれども、金色の鹿を見て、隠れていた欲望が呼び覚まされて、世俗的なものへの「執着」が生じ、その結果、一連の災難に見舞われることになりました。時間がシーターのハートの中にあった欲望の根を温存させていたのです。
ラーマーヤナは、もう一つの教訓も説いています。シーターを探すことは、体験の場における真我顕現の秘訣を象徴しています。ラーマは、シーターを取り戻した時、体験によって裏づけられた真我顕現の英知を取り戻しました。グニャーナ〔英知〕はアヌバーヴァ グニャーナ〔体験から生まれた英知〕となりました。ラーマーヤナは、人が真我顕現という尊い目標を切望しているときには、自然界のすべての力、すべての創造物がその人を助け、あらゆる援助をしてくれるということを教えています。猿、鳥、リス、さらには、石ころや岩までもが、その困難な務めにおける同志となりました。高みを目指し、最高の冒険をしようと決意しなさい。そうすれば、すべてが整い、あなたをゴールへと導いてくれるでしょう。
世界は3つのグナの複合体
実のところ、あなたはその冒険へと向かうよう、あなたの呼吸に促されているのです。呼吸は、1日に21,600回も「ソー ハム」(神=私)〔私は神であるという意味の音〕を繰り返して、宇宙に内在する原理と体に宿る者の同一性を強調しています。あなたは、口では「神はいない」と断言しているかもしれませんが、息が入ってくる時に「ソー」〔神である〕、出ていく時に「ハム」〔私は〕と繰り返して、不変の存在である「神」は常駐している「私」〔自分〕である、ということを明確にしているのです!
インドの聖賢たちが日常生活に課した規制や制限、衝動や態度を制御して方向付けるために推奨したあらゆる処方箋は、インド文化の貴重な要素であり、大切にし、実践すべきものです。この世は3つのグナ(属性)――サーットウィカ〔浄性〕・ラージャスィカ〔激性〕・ターマスィカ〔鈍性〕――の複合体です。
ウパニシャッドは、この3つのグナに絡め取られている人たちに、雷が「ダ、ダ、ダ」〔雷の音〕といって「ダヤー」・「ダマ」・「ダルマ」という3つの教訓を教えていると述べています。アーナンダ(至福)を渇望するサーットウィカ〔浄性〕の人には「ダマ」(自制心)を、冒険、英雄、活動を渇望するラージャスィカ〔激性〕の人には「ダルマ」(正しい行動、正義の理想)を、そして、感覚に執着して客観的な快楽を渇望するようなターマスィカ〔鈍性〕の資質に支配されている人には「ダヤー」(愛に基づく慈悲。これは執着と貪欲を昇華させることができる)を、教えているのです。
賢者たちは、「タット トワム アスィ」(汝はあれである)〔タットワマスィ、汝はそれなり〕という真理を発見しました。「あれ」は「神」であり、そこからすべてのものが生まれ、そこにすべてのものが在り、そこに一切が融合します。この真理は、バクティ マールガ〔信愛の道〕――真我への献身、信愛、全託の道――によって知ることができます。「汝」つまり「個人」は、カルマ マールガ――無私の行い、すべての行いの果報を放棄する道、尊崇の精神を持ってすべての行いを礼拝の行為として真摯に行う道――によって理解することができます。そして、「タット」(あれ)と「トワム」(汝)を同一視していく「アスィ」と呼ばれるプロセスは、グニャーナ マールガ〔英知の道〕――知恵の道、鋭く執拗(しつよう)な識別の道――によって完結しなければなりません。バクティとカルマ〔行為〕が結合すると、それはグニャーナへとつながっていきます。バクティはすべてのものを「タット」〔神〕と見ます。カルマ〔行為〕は「トワム」〔汝〕の分離性を消し去ります。そのため、「アスィ」(同一視)のプロセスは容易になるのです。
貧しい人に奉仕することでエゴをなくす
こうしたことはすべて単純なことで、さまざまな聖句によって説明されていて、それを著名な師が毎日何千という人々に説明していますが、真理は経験されておらず、自己同一視は味わわれていません。一切が舞台上の演技です。言葉はハートからのものではなく、他人が書いた台本の合図に従って発せられています。観客に受けるため、そして、拍手と劇場窓口の利益のために多くが行われているのです! バケツを逆さまに置いておいたら、せっかく大雨が降っても何が得られますか? 水を集めることができますか? 宗教に関する話を聞いても、あなたの心(マインド)がそれを受け入れないなら、あなたは何の利益も得られないのではありませんか?
ミストリー博士は、ボンベイ〔ムンバイ〕でのセヴァダル〔無私の奉仕を行うボランティア〕の活動である献血、病院の病室訪問、貧しい入院患者への奉仕のことを話してくれました。実に、奉仕はエゴを消し去って人に本当のアーナンダ〔至福〕を与えてくれる行いです。ミストリー博士はパールシー〔インドに住むゾロアスター教徒〕ですが、博士がいかにヒンドゥー教の聖典も熟知しているかに注目しなさい。そのおかげで、博士は今、皆さんに、シヴァ神、パールヴァティー神、ガナパティ神〔ガネーシャ神〕はゴールへと向かうカルマ、バクティ、グニャーナのマールガ〔道〕の象徴として解釈され得るということを説明することができたのです。
すべては一なる神の姿であるという信念を持って行われるセヴァ〔無私の奉仕〕は、最高のカルマ〔行為〕です。セヴァのインスピレーションは、頭ではなくハートから生まれることに着眼して見てみなさい。以前、ホワイトフィールドにある人文科学の大学の講師と学生たちに話をした時、私は年長者を敬う必要について語りました。今、学生は教師に対してうなずいたり頭を動かしたりする挨拶をしていますが、ただそれだけです。私は学生に、「うなずくこと」は距離、敵意、不和を意味すると伝えました。それは、学生と教師が対峙(たいじ)していることを明らかにし、互いに他人であることを示しています。私は学生たちに、そのような考えは捨て、先生を友人として、そして、セヴァに従事する導き手であると同時に学び手でもある者として受け入れるようにと望みました。私は両者の間に愛と尊敬の念が行き交うことを望みました。
クリシュナとバララーマの英雄的活躍
今、私は〔この講話を〕終わりにして、楽屋にいるヴェーダパータシャーラ(ヴェーダを勉強する学校)の子供たちのもとに行かなければなりません。彼らは霊的な甘露でいっぱいの劇を演じることでしょう。というのも、神を味わったことのある人たちは、神は「ラソー ヴァイ サハ」(神は甘露そのもの)であると表現しているからです。神の物語は言葉にならないほど甘いのです。全世界は神のおかげで甘美であり、全世界は神であるがゆえに喜びを与えます。あなた方はその喜びをどうやってつかんで保っていいかを知らず、そのせいで喜びと悲しみの間を行ったり来たりしています。喜びを完全に、常に得ていなさい。そうすれば、生まれることも、死ぬこともなくなります。あなたは不滅です。あなたは至福であり、力であり、英知なのです。
少年たちが演じようとしている劇の中で、私はカムサ、ゴーピー、アクルーラ、デーヴァキー、ヴァスデーヴァ、ナンダといった、私の昔のバクタ〔バクティを有する者〕たちの生涯における出来事を描いています。少年たちにとって幸運だったのは、私が何日も夕方に彼らと一緒にいて、歌い、セリフを繰り返したことです。
そのおかげで、少年たちはそれらの偉大な真理を学び、皆さんの前で感動的な出来事を演じ、演者も観客も喜びを得て、分け合うことができるのです。少年たちは役を完全に表現することはできないかもしれませんが、皆さんはその感動と、それが伝えようとしている霊的な教訓を吸収することができるでしょう。
物語は、カムサが宿敵である7歳の牛飼いの少年クリシュナとその兄バララーマを自分の都や宮殿に連れてきて、王家の象や闘士の力を借りてクリシュナを殺そうとたくらむところから始まります。その後の場面では、神童と離れ離れになってしまったゴークラ村の牧女たちの苦悩、里親を悩ませるジレンマ、そして、クリシュナ兄弟がカムサの待つマトゥラーの都へと旅立つ様子が描かれています。クリシュナは自分を招待した君主のもてなしではなく、貧しい信者のもてなしを受け入れ、クリシュナの来訪は民衆に大きな喜びを与えます。一方、牢獄(ろうごく)にいた両親は、長年離れ離れになっていたクリシュナとの再会を喜びます。看守たちは、象と闘士を亡きものとし、最終的に王であるカムサ本人に屈辱と崩壊をもたらしたクリシュナとその兄の英雄的な活躍、都に響きわたったその一連の勝利を、その都度、両親に伝えます! クリシュナとバララーマは牢獄に侵入して両親を解放し、そこで劇は終わります。
演者たちの幼い年齢にとらわれてはいけません。彼らから発せられる言葉は賢明で、治癒力があります。それらはヴェーダやシャーストラの教えです。あなた方のハートの中にそれらを大切に収めて、少なくともそのうちのいくつかを日々実践することを決意して、それぞれの地元へと発ちなさい。
サティヤ サイ ババ述
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
1969年10月17日
Sathya Sai Speaks Vol.9 C25