SRI SATHYA SAI RAM NEWS
1979年クリシュナ神降誕祭のババの御講話
あなたの人生のあらゆる瞬間に
心の中でクリシュナの御名を繰り返しなさい
それは砂糖よりも蜂蜜よりも
甘いということがわかるでしょう
実に、それは甘露よりもおいしいでしょう
知性が偏狭で、それ以上の広大さに至ることができない人、存在の神秘を深く探求しない人は、世界の平和と繁栄を促進するという仕事で成功を収めることができません。世界の平和と繁栄は社会の平和と繁栄の確立しだいであり、社会は個人で構成されているのですから、世界が栄光に輝くためには個人の平和と繁栄を達成しなければなりません。そして、個人がこの義務を果たすためには、自らの実体である神から信心と熱意を得る必要があります。
霊的な道を進まないなら、人は自分の平和も、同胞との平和的な関係を得ることもできません。その前進は平和をもたらし、平和と共に福利ももたらされるでしょう。今、どこを向いても人々は平和を語っていますが、人々の行いはその言葉が偽りであることを示しています。人々は不安と恐れの感情を高めているだけです。個々人はこのゲームで相手を追い抜くことを欲しています。その結果、精神は無視され、心(マインド)は汚染されています。人々の間に真の理解と誠実な善意がありません。人生が意味のない時間の流れになっています。
パラマーナンダ〔最高の至福、パラマアーナンダ〕という名の聖賢のたいそう知的な10人の弟子が、浸水した川を歩いて渡り、無事に対岸にたどり着きました。弟子たちは10人全員が難事を切り抜けて生き延びたことを宣言したいと思いました。そこで、弟子たちは人数を数えるために一列に立ちました。人数を数えた弟子が自分を10人目に入れず、代わる代わる順番に人数を数えた弟子も皆、自分を入れて数えなかったので、1人が行方不明ということになりました。弟子たちは「荒れ狂う水にさらわれた10人目の弟子」の悲運を嘆き悲しみました!
人は束縛された状態にあるが、それを知らない
それと同じように、人々は地上と宇宙での達成や業績を誇りつつ、自分たちの手から平和が逃げていったといって自らの運命を嘆き悲しんでいます。人は今、星を数えること、月を歩くことができます。しかし、人は自分自身に関する知識を持っていません。それでどうやって他の人との親しい関係の喜びを味わうことができるでしょうか? いつ人は成就という目標を達成したと断言することができるのでしょうか? 成就の至福は物質世界では手に入りません。それは目を内側に向けることで勝ち得なければなりません。人は今、束縛された状態にありますが、束縛されていることを知りません。そして、あまりにも深く無知に沈んでいるために、自分を解放する努力もしていません。
妻子、親類縁者、家や土地、財産や所有物は束縛だと言う人もいます。人はこれらを捨てて、これらから解放されることができます。それは比較的簡単なプロセスです。というのも、これらはそれほどあなたを縛るものではないからです。最もきつい束縛は、「自分の実体を知らないこと」です。自分は誰なのかを知らない――これが最大の障害です。これが克服されるまで、悲しみは避けられません。なぜなら、人間はこの無知によって、タマス〔鈍性〕、非真、そして、死と結びついているからです。
サイの御教え
拡大を促すことはアートマの原則
自分に関する知識がないと、人は、物質世界は真実で永続的であるという信念を持ち、本当に真実で本当に永遠であるものを無視するようになります。自分とは何ですか? ここでも、人は間違って誤った信念を抱いています。人は、自分は体であると信じており、体の構成要素や特徴を連ねて喜んでいます。人は、アートマ〔真我〕、すなわち、崇高で、穏やかで常に新鮮で、自分自身である神の本質を無視しています。それは拡大したい、光を照らしたいという、常に存在する衝動です。収縮したい、抑えたいという衝動は、動物の特徴です。アートマを否定し、その任務を無視し、その存在を無視していること――これが悲しみの根源です。
では、死についてです。アートマに誕生はありません。ですから、死もありません。アートマはずっと存在し続けていて、決して消滅することはありません。アートマには始まりも終わりもありません。アートマは死にません。アートマを殺すことはできませんし、アートマに自動力はないと言うこともできません。アートマは万物それぞれの内なる照覧者です。アートマを認識するようになった瞬間に、人は悲しみに捕らわれている束縛の状態から解放されます。物質世界は確かなものだという考えは忘れなさい。物質世界はせいぜい試練として差し出される心像です。だからこそ、聖賢たちの祈りは、「アサトー マー サッドガマヤ(私を非真から真実へと導き給え)、タマソー マー ジョーティル ガマヤ(私を暗闇から光へと導き給え)、ムルッティヨールマー アムルタム ガマヤ(私を死から不死へと導き給え)」というものだったのです。
人としての生の真の目的は、ブラフマンが見えるようになり、ブラフマンに融合することです。古代の人々は、目的地への道には3つの段階があると明言しました。それは、カルマ ジグニャーサ(行いを通して霊的知識を追求すること)、ダルマ ジグニャーサ(美徳を通して霊的知識を追求すること)、ブラフマ ジグニャーサ(神性を通して霊的知識を追求すること)です。この3つのステップは、何世紀にもわたって学者たちによって区別され、説明され、分析されてきました。人は、カルマ(行い)を通じて道徳(ダルマ)の人となり、道徳の基盤(ブラフマン)を追求し始めます。人は、美徳と道徳はアーナンダ〔至福〕に付加される、そして、すべてのアーナンダは至る所でブラフマンから流れてくる、ということを発見します。そして、この認識に欠けた行いは不毛であり、束縛するものであるということがわかります。
人間は動物よりも悪くなりつつある
ウパニシャッドの明言である「カールニャム パラマム タパハ」は、この意識に基づいています。その意味は、「すべての存在への思いやりが真の霊的規律である」というものです。人間は創造物の王です。人間は生類の中で最高のものです。ですから、人間は大きな責任を負っているのです。人間は、他の生き物を愛し、それらに奉仕し、それらを救わなければなりません。なぜなら、他の生き物は人間の親類縁者であり、それらも核として神の原理を持っているからです。ところが人間は、自己中心、慢心、妬み、怒りを募らせて表し、それによって動物より悪くなりつつあります。人間は、哀れみ、慈悲の心、同情心、不屈の精神、喜びが授けられているのに、これらの美徳を捨て去って、行いと振る舞いにおいて非人間的になっています。虎が牛小屋に入り込んでいくのを想像してみなさい! 悪い傾向は虎のようなものであり、サーットウィカ(純性)の美徳を破壊します。ひとたびこの災難の程度を認識したなら、あなたはこうした野生の侵入者を倒すことを決意しなければなりません。
主クリシュナの生涯は主のメッセージだった
今、人はバクティ(信愛)とプラパッティ(献身)を通してのみ救われることができます。バクティ(信愛)は、ジャパ〔唱名〕やバジャンやディヤーナ〔瞑想/坐禅〕では終わるものではありません。それは、獣〔獣性〕を排除して神へと上昇するという理想、その理想への信愛から成るものです。パシュ(動物)〔獣性〕を手放してパシュパティ〔動物たちの主〕(神)を得なさい。それが呼び声です。その呼び声に耳を傾ける者だけが人間と呼ばれるに値します。この最上の運命、この神聖な行き先を人間の前に差し出すために、神は(誕生しない存在であるにもかかわらず)人間の姿をとるのです。なぜなら、神はゴーパーラ〔牛を護る者〕だからです。「ゴー」は牛を意味するだけでなく、ジーヴィ(人間および他の生き物)も意味します。今日、クリシュナ アシュタミー〔シュラヴァナ月の満月から8日目のクリシュナが降誕した日〕は、クリシュナのアヴァターラ〔化身〕の活動が始まった日です。
クリシュナは、獣からブラフマンへと上昇するようにと人間に呼びかけました。神への信愛と献身によって、人は自分を「縛る」一切のもの——体、富、親類縁者、属性、感情——とは無関係であるという自覚を得る必要があります。
クリシュナにとって、アヴァターラであることはリーラー(神聖遊戯)でした。クリシュナの人生はクリシュナのメッセージでした。クリシュナは、最も高潔で最も有益なものであるカルマヨーガ(無私の献身的行いによる神との親交)の権化でした。クリシュナの行いにはほんのわずかな利己心も慢心も妬みもありませんでした。
クリシュナはアルジュナの戦車を運転する任務を自分にあてがいました。一日の戦いが終わると、クリシュナは馬を洗い、餌を与え、傷口に軟膏(なんこう)を塗ってやりました。どれほど重要でない仕事も、クリシュナは最も重要な仕事にかけるのと同じ注意と熱意を持って実行しました。
人間がイッチャ シャクティ(意志の力)を授かっているのは、この目的 —善、高潔、向上を意志すること— のためです。人間に贈られた他の2つのシャクティ〔力〕は、グニャーナ シャクティ(知る力)とクリヤー シャクティ(行動する力)です。これら3つの相互依存の関係を確立するための一例をあげましょう。あなたはコーヒーを飲みたいという強い望みを持っていて、そのためにそれを果たすことを意志したとします。しかし、イッチャ(意志)だけではコーヒーはできません。ですから、次にあなたはグニャーナ(知恵)を使って、コンロ、いくらかの水、砂糖、ミルク、そして、コーヒーの粉を用意します。けれども、まだあなたの元々のイッチャ(意志)は実現されていません。ですから次に、あなたはクリヤー(行い)を使って、あなたが欲しかった、そして、入れ方を知っていた、コーヒーを入れます。
さまざまなサーダナは神に至るために処方された
さて、イッチャ シャクティ(意志の力)が、神に至ろうと意志したとします。単なる願望では目的を達成するには弱すぎます。グニャーナ シャクティ(知る力)は、願望を失わないようにとあなたに忠告します。あなたが勝利を得ることのできるいくつかの方法があり、グニャーナ シャクティ(知る力)は、あなたの前にさまざまなサーダナ〔霊性修行〕を置きます。クリヤー シャクティ(行動する力)は、それらを手にとって、目的を達成するまで行動するよう、あきらめないで行い続けるよう、あなたを鼓舞します。残念ながら、100人中99人は、イッチャ シャクティ(意志の力)しか使いません。彼らは願望だけで終わります。彼らは追求せず、その人を待っている至福を得ることはありません。彼らの信念は揺らぎます。彼らは勇敢に進もうとはしません。イッチャ シャクティ(意志の力)はあなたに試験で一級を取るよう促しますが、グニャーナ シャクティ(知る力)はそれを無視し、クリヤー シャクティ(行動する力)は何もせずにいます。もし熱意の1000分の1でも行動で示すなら、容易に試験で一級を取ることができます。
クリシュナは、バガヴァットギーターの中で、人はこれら3つの力をどのような方法で育んで活用することができるかを詳述しています。何よりもまず、人を傷つけたい、害を負わせたい、侮辱したいという邪悪な欲望を心から根こそぎにしなければなりません。信愛と献身の苗は、カルナ(思いやり)が染み込んでいる心でのみ成長することができます。最高の種であっても、塩分を含む土壌で芽吹くことができますか? 思いやりとは、他の人の喜びと悲しみを自分の心に映して、喜んだり同情したりして反応することです。これが起こるためには、心を清めてきれいな鏡に変える必要があります。
クリシュナの恩寵を勝ち得るために平等を実践しなさい
神は、あなたが他の人々の差し迫った必要に同情的に応じるときにだけ、あなたの祈りに応じます。他の人々の苦痛を見る目、他の人の嘆きの言葉を聞く耳を持たずに、人生を利己的な行いで無駄にしてはなりません。同じように苦しみ、同じように喜ぶ——これがクリシュナの言うサマットワム(平等心)です。この平等を実践し、それに成功すること——これがクリシュナの言う神の恩寵を勝ち得る方法です。思いやりのある行いをすることで物質的な報酬を得ることはできないでしょうが、その最高の報酬は、あなたが得る喜びとあなたが与える喜びです。あなたの持っているあらゆる貴重で無類の資質は、あなたの道具であり、それらを備えているあなたの体は、あなたがそう「意志し」、どうするかを「知り」、そのように「行動する」ことができるよう、あなたに与えられているのです。あなたに一定の「時間」が割り当てられているのは、これらの聖なる清めという目的のためにあなたが時間を役立てて使うことによって、あなたが利益を得ることができるようになるためです。
しかし、どの人も皆、エゴに打ち負かされています。人々は人から敬われたいと望んでいますが、自分は人を尊敬するつもりはありません。人々は幸せになるために努力していますが、人を幸せにすることはしていません。ほとんどの人は、自分が幸せならそれで満足です。自分だけでなく、他の人たちや周りの人が幸せなときに満足する人も、大勢います。他の人々を幸せすることができるなら、自分は喜んで苦しむという人も、わずかにいます。第一のグループの人たちは電球に例えられます。電球は小さな部屋だけを光で照らすことができます。二番目の人たちは月に例えられます。その光は広範囲ではありますが、物がはっきりとわかるほど明るくはありません。三番目の人たちは太陽に例えられます。その光はすべての物を照らし、その物の性質と特徴を明らかにします。
クリシュナの教えを避けるのは神聖冒涜
数ある信愛の規律の中で、主の絵姿や像を家に置いてそれを崇めることは、最も価値の低いものです。クリシュナ ジャンマ アシュタミー〔クリシュナの誕生日〕のお祝いを、特別なプージャー〔供養礼拝〕や特別な昼食にとどめるべきではありません。今日の心の狭いスケジュールは、クリシュナの恩寵を引き寄せたいという願望から生まれたものです。しかし、恩寵は、クリシュナの教えを守ることによってのみ、勝ち得ることができるものです。恩寵は、人目を引く豪華な装飾に授けられるものではありません。クリシュナを崇めてクリシュナの教えを避けるのは、神聖冒涜です。崇めることをやめても、もしクリシュナが示した道を真摯に進もうとするならば、あなたは恩寵を得ることができます。
クリシュナは愛の権化でした。ですから、愛はクリシュナが高く評価している美徳です。愛は、具体的な思いやりの行いへと変わらなければなりません。愛の権化であるクリシュナに融合するという目的地に到達するまで、思いやりを育て、同情的な理解を深めなさい。
皆さんの中にはサーダナ〔霊性修行〕に従事している人が大勢います。サーダナの根本的な目的は何ですか? サーダカ(霊性の志願者)の修行はどれも、恩寵の海へと流れていく川です。あなたに奉仕と同情を促す愛は、神の愛の火花であるということを信じなさい。
1979年8月14日
プラシャーンティ ニラヤムにて
クリシュナ神御降誕祭
Sathya Sai Speaks Vol.14 C29
1969年ダシャラー祭のババの御講話3
人はなぜ、この世に生を受けた時に泣き声を上げ、生涯を通じて泣きべそをかき、あの世に行く時にはうめき声を上げて、ここでの滞在は無駄だったと嘆くのでしょうか? 人がそうするのは、自分の栄光、自分の気高い運命に気づいていないからです! 人間は神が人間という型に流し入れられたものです。生物であれ無生物であれ、他のあらゆるものもそうであるのと同じように。
けれども、この貴重な真実に気づくことができるのは、人間だけの特権です! これは人間に向けたウパニシャッドのメッセージです。このメッセージは、経典に、そして、数え切れないほどの聖人たちの明言の中に、繰り返し述べられています。それでも、人はそれに耳を貸しません。おそらく、それは過去世での自分の悪行によって生じた不幸によるものでしょう。人は、自分の神性を、あるいは、自分の外側で見たり、聞いたり、味わったり、触ったり、嗅いだりするすべてのものに表れている神性を黙想することで、アーナンダ(神の至福)を引き出すことができます。
サルヴァム ブランママヤム
― ブラフマンはすべてに内在している ―
あなたの内側にも外側にもあるアーナンダの源は、なんと尽きることのないものでしょう!あなたはただ、その呼びかけに応え、真理を認識する心(マインド)を育てさえすればよいのです。揺りかごの中の赤ちゃんは、まさにアーナンダの権化です。悲しみのあまり赤ちゃんが泣くと、私たちは赤ちゃんの方に走っていきますが、それは、悲しむのは赤ちゃん本来の姿ではないからです。人間も本質的には至福の存在です。不幸は人間とは無縁のものなのです。
神が内にいることを認識したならば、すべての行為を神に捧げなければなりません。深く分析してみると、行為とは何でしょうか? 行為とは、神から授けられた技能を通じた、神による、神の操作です。そこには、普遍的な「I・私」と神聖な「My・私の」以外、「私」や「私のもの」はありません。
心(マインド)を悪徳や貪欲から遠ざけなさい
奉納はさまざまな方法で行われます。私たちが食べる食物のことを考えてみましょう。食べる前に食物を神に捧げなさい。すると、食物は清らかで力に満ちたものになります。神の栄光を讃えるために行う行為は、そのようにして清らかで力に満ちたものとなるのです。そのような行為は、その行為をした人も、それによって恩恵を受けるもの、すなわち社会も、傷つけることはできません。というのも、その行為は愛に満ちており、愛は神だからです。神は、この人形劇の演出家、糸を操る者です。幕の後ろに回って神を見なさい。今は幕が神を隠しています。私たちに美しいものを見せるため、重く水滴を含んだ雲の暗さを見せるために、神が糸を操っているのを見るには、ただ、花の裏側をのぞき込み、雲の背後を見るだけでよいのです。同様に、あなたはただ、自分の思いの背後を見つめ、自分の感情の背後を見るだけでよいのです。あなたはそこに、内側から動機づけをしている者を見つけるでしょう! この内側を見るプロセスは、インドのヨーガシャーストラ(ヨーガの科学)〔ヨーガ経典〕の中で教えられています。しかし、あなたは、無知を離れ業や妙技で補うような教師にではなく、純粋で無私の教師に近づかなければなりません。
もしそのような教師が得られなかったら、神の御名と御姿(自分にとって魅力的な御名と御姿であればどんなものでも)を瞑想するだけで十分です。あるいは、御名と栄光を思い起こすだけでも十分です。心(マインド)を悪徳や貪欲から遠ざけることが重要です。ハートは、優しく思いやりのある状態に保たれているべきです。年齢は問題ではありません。年老いていても、その人のハートは新鮮で優しく、奉仕への熱意と、犠牲をいとわない気持ちで満ちているかもしれません。それは霊性の国へのパスポートを手に入れることを確実にしてくれるでしょう。神性とは、人生という旅の終着点にほかなりません。それは、熟した果実は、芽から花、花から実、酸っぱい苦い果実から甘い果汁でいっぱいの熟した果実への、旅の終着点であるのと同じです。恩寵は、果実を熟させる太陽の光です。サーダナ〔霊性修行〕は、大地から上がってくる樹液です。どちらも木が実をつけるために必要なものです。
瞑想で身につけるべき7つのステップ
恩寵は、求める人に降り注がれます。ノックしなさい、そうすればドアは開くでしょう。頼みなさい、そうすれば食べ物は出されるでしょう。探しなさい、そうすれば宝はあなたのものになるでしょう。あなた方は文句を言うかもしれません。「そうです! スワミ! 私たちは何年も前からノックし、頼み、探しています。しかし、ドアはまだ開かず、食べ物はまだ出されず、宝はまだ手の届かないところにあります!」。しかし、私はあなた方に聞きたいことがあります。あなた方は、神ではなく悪魔に頼み、悪魔のドアをノックし、悪魔の国で宝を掘ってきたのではありませんか? 悪魔の国というのは、物質世界、外側の自然界、プラクリティのことです! 彼女は巧妙な魔法使いです! あなたは、彼女が平安とアーナンダ〔至福〕を与えてくれると信じて、彼女の機嫌をとってきました! 彼女はあなたの心をくすぐり、次から次へとあなたを失望させます。彼女はあなたがうぬぼれて崩壊するまで、あなたのエゴと達成感を強めます!あなた方は間違ったドアをノックしているのです。常に開いている地獄のドアを! あなた方は、永遠の宝ではなく、くだらないわずかな快楽を探しているのです!
あなた方は私にこう言います。「スワミ! 私は50年前から真剣に瞑想を実践していますが、いまだに集中力が得られません」。これは恥ずべき告白です。ディヤーナ〔瞑想/坐禅〕は、第8のサマーディ(心/マインドの征服)〔三昧〕へとつながる一連のステップのうちの第7のステップです。その前の6つのステップでしっかりと足場を固めていないと、何年がんばってもディヤーナから後退してしまいます。第1のステップは感官のコントロール、第2のステップは感情と衝動のコントロールです。第3のステップはバランスと均衡の習得、第4のステップは呼吸と生気の調整、第5のステップは外部からの影響が心(マインド)をそらすのを防ぐこと、第6のステップは自分自身の進歩に一点集中して注意を払うこと、それから、真のディヤーナ——自分の実在の瞑想——へと至るのです。これはサマーディでの悟りへと容易に導いてくれます。前の段を踏まずに、いきなり7段目に飛び乗ることはできません! それから、8段目に飛び乗ることができるのです!
「荷物」を減らして人生の旅をもっと安全なものにしなさい
人生という旅をしているときには、持ち歩く荷物を減らしなさい。覚えておきなさい、「あなた」でないものは、すべて荷物だということを! あなたは体ではありません。ですから、体は荷物です。心(マインド)、感官、知性、想像力、欲望、計画、偏見、不満、苦悩——すべては荷物です。あなたの旅をもっと軽やかに、もっと安全に、もっと快適にするために、すぐにそれらを投げ降ろしなさい。この教訓は、謙虚で質素な偉人たちを見て学びなさい。彼らは、あなたが敬い、従うべき年長者です。彼らは、彼らがこの世を去る(pass away)時にあなたに涙を流させる人です。あなたの道を横切って(pass your way)あなたに涙を流させる人もいます! 彼らは避けるべき人たちです。
神は、荒野に迷い込んでしまった人間よりも、むしろ動物や鳥たちに自ら〔神〕のことを気づかせます。最近、人と荷物をいっぱいに積んだ一台の馬車がダルマーヴァラム〔プッタパルティから40キロほど離れた市〕の鉄道の駅に向かっていました。御者は馬を速く走らせようと、馬の背や首を情け容赦なく鞭(むち)打っていました。ちょうどその道を、顎ひげを生やした血色のよい老人が通っていました。その老人は御者に声をかけました。「おい! そんなに手綱をきつく持つんじゃない。手綱を放して、ゆるく持つんだ! そうすれば馬は速く走る」。御者は言い返しました。「黙れ! 俺の馬のことは俺のほうがよく知っている」。 馬車に乗っていた乗客の男の一人が「どうでもいい!」と言いました。その時、御者に声が聞こえました。(話していたのは馬でした)「彼はアルジュナの馬車の馬を御していたクリシュナだ。彼は馬のことなら何でも知っている!」。御者は、その声の主は乗客の誰かだと思いました。御者は馬車の中をのぞき込みながら返事をしました。「クリシュナは、アルジュナの馬のことなら何でも知っているだろう。だが、俺の馬のいったい何を知っているというんだ?」
ゴーピー〔牧女〕たちは、どんな人間の使者よりも、蜜蜂のほうがクリシュナとの別離の苦しみに共感してくれると感じていました。ゴーピーたちは、自分たちに代わって主に取りなしてほしいと、一匹の蜜蜂に頼みました。「私の礼拝の花輪を身につけてくださるよう、主に祈っておくれ」と、あるゴーピーは頼みました。別のゴーピーは「私のハートの暗闇を照らしてくださるよう、クリシュナに頼んでおくれ」と願いました。ラーダーはその蜂に「私のハートの砂漠の砂に緑が青々と芽吹くよう、クリシュナに祈ってほしい」と頼みました。「そうすれば、クリシュナの御足はその上を軽やかに滑らかに歩けるでしょうから」と。
単なる学識では神への融合には至らない
澄み切っていて穏やかな、心の湖(マーナサ サローヴァラ)を神に捧げなさい。あるいは、もし心が猿のように落ち着かず、気まぐれであったとしても、シャンカラーチャーリヤがしたように、その心を神に捧げなさい。シャンカラーチャーリヤはシヴァ神にこう祈りました。「主よ! 私は、あなたが物乞いに行くときに必要なものを持っています。私は猿を持っているのです。大変いたずら好きで、気を引くものなら誰にでも、何にでも飛びつく猿です! これを持っていってください。そうすれば、あなたは猿を連れ歩いている物乞いのように、あなたがよく行く村の子供たちの間でさらに歓迎される物乞いになれることでしょう!」
清らかなものであろうと、未熟なものであろうと、心を神に渡しなさい。自分の切望と自分のサーダナ〔霊性修行〕に誠実でありなさい。単なる学識と外側だけの服従は、本物の純然たる帰依の代わりにはなりません。シャンカラーチャーリヤは、ヴァーラーナスィー〔ベナレス〕の通りを歩いていた時、小さな庵(いおり)で一人の僧侶が文法の本を読み込んでいるのを見かけました! シャンカラーチャーリヤはその老いた学者を哀れに思い、最期が近づいた時、学識は彼を滅びから救うことも、神への融合という目的地へと導くこともできはしないと警告しました。それゆえ、シャンカラーチャーリヤは、その男に、神を崇め、神への思いで自分を満たすようにと言いました。それこそが、人生に対処するための適切な方法であり、人生を心の気まぐれの祝宴として浪費せずに済む方法です。
サティヤ サイ ババ述
1969年10月15日
ダシャラー祭(ナヴァラートリ祭)
プラシャーンティ ニラヤムにて
Sathya Sai Speaks Vol.9 C23