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​ヴェーダを生きる

第4回

人間って何? 私って何?
〜 探求とブルグヴァッリー 〜

 「人間って何だろう」「私は何だろう」このように深く考えたことはあるでしょうか。

 

 このような疑問の後に続くのは、「何のために生きているのだろう。何のために生きればよいのだろう」というさらなる問いです。何となく学校へ行って、何となく就職をして、生きる道に迷わずに生きている間は、真剣に「いかに生きるべきか」を考えることは少ないかもしれません。しかし、親しい人や家族を亡くしたとき、大きな災害にあったとき、何気ない日常の中でふと立ち止まり、今までの人生を疑い、これからの人生に不安を感じたとき、人は人生の意味を理解したいと思います。「いかに生きるべきか」を真剣に考えるとき、「私とは何か」は避けては通れない質問となります。このような疑問に対して、皆さんはどのように答えを求めたでしょうか。本を読む、友達の話を聞く、年長者の話を聞く、一人で考えるなど、いろいろな方法が考えられます。しかし、このような方法ですっきりと答えを得られず、「この問いに答えはないのだ。答えを探すことが人生なのだ。人生の意味は人によって違うのだ」というような考え方で落ち着くのが現代ではしばしば見られる状況ではないでしょうか。一方で、ヴェーダは明確にその答えと探求の手段を以下のように示しています。

 

 ブリグの心にひとつの思いがよぎりました。ブラフマンはだれか? ブラフマンについて発見したのはだれか? ブラフマンを構成するのは何か? 一切の創造物はだれに責任があるのか? 彼は答えを求めて父のもとに行きました。ブリグは父に、自分の求める知識を与えてほしいと頼みました。しかし当時はそのような質問に対する答えは、学生が自ら考えて答えを見つけるのが習わしでした。もし師が、弟子に疑問が湧いたとたんに答えを与えるならば、弟子は答えを求め、探し出す能力を失ってしまうからです。ブリグは森に戻って、考えをめぐらした結果、「アンナム ブラフマン」〈食味はブラフマンなり〉との結論に達しました。彼は、人は食物から生まれ、食物を食べて生き、食物は人を支えると考えました。ついに人は食べたもののせいで死にます。家に帰った彼は父に、自分の得た答えが真理か、あるいは自分の無知を反映している答えなのかと、尋ねました。父は、ブリグはまだブラフマンの真義を認識していないと諭し、森に戻ってさらに考えをめぐらすように示唆しました。その後ブリグは、ブラフマンはプラーナ(生気)である、マナス(心)である、ヴィグニャーナ(ヴィッニャーナ)英知であると繰り返し父に伝えました。しかし、その度に父はブリグに、もう一度森へ帰り、真理を求めるように指示しました。ブリグは探究をつづけ、いかに学識があろうとも至福と幸福がなければ、人生は無意味であるとの結論に達しました。人生の目的は至福であり、生命は至福から来ます。水の泡が水から生まれて、水のなかで成長し、水に帰融するように、それと同様に、人は至福に生まれ、自分自身を至福によって維持し、最後には至福に帰融せねばなりません。ブリグは至福こそブラフマンであるとの結論に達しました。彼は至福に満たされました。彼は父のもとに帰りませんでした。数日後、父は息子に会いに森へきました。ブリグは完全に至福にひたっていました。そのような人物には、父もなく、母もなく、親族もありません。父はブリグの至福の境地を認識し、彼を祝福しました。

『至福のサイ』より抜粋要約 若林千鶴子

シュリ サティアサイ出版物日本刊行センター P.22-28

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 一切の生物がそれに向かって動き、死後、その中に融合するもの、それを知ろうと切望しなさい。それがブラフマンである。

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ブルグは苦行を行った。苦行を行った後、

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彼は食物がブラフマンであることを悟った。

ヴェーダテキスト公開版『ブルグヴァッリー』より(サティヤ・サイ出版協会)

 

 この物語は、ブルグヴァッリーというヴェーダで唱えられている内容です。美しいメロディで、部分によってはお経にも似た節回しで唱えられるマントラです。

 

 「ブラフマンとは何か」という問いに対して、アンナ(食物)、プラーナ(気)、マナス(心)、ヴィグニャーナ(英知)、アーナンダ(至福)という5つの答えは、階段を一段ずつ登るように答えに近づいていきます。答えを見つける方法は苦行、瞑想です。物質的な満足から、見えない気や心の探究、そして英知・哲学を通して、至福・解脱へ至るという、まさに霊性修行の道を表しているようです。

 

 では、ここでは「ブラフマンとは何か」の5つの答えを、日常生活や人生の目的につなげて考えてみたいと思います。

アンナ(食物)

 おいしい食べ物から始まり、華やかな服と宝石、豪華な住居、最新のデジタル機器、肉体的な美と健康などの物質的なものは、現代の人々にとって大きな関心の対象であり、人生の主要な目的となっていると言うことができます。人生の楽しみはそれだけではないと思いつつも、一般的にはかなりの割合を占めていることでしょう。まだ小さい子どもでも、何がほしいか聞かれると「お金」と答えることは決して珍しくありません。また、これらのものが満たされない苦しみやコンプレックスが、時には人生を自ら終わらせてしまう原因にもなっています。アンナ(食物)は、物質的な世界を象徴しています。

 

プラーナ(気)、マナス(心)

 一方で、目に見えないものも人生において大きな価値をもちます。感覚的な娯楽や心地よさ、音楽、友達、恋愛、そして健康(生き生きと感じられるかどうか・元気さ)などは、日常生活において物質的なものと同様に大きな意味を持っています。逆に、家族・学校・仕事・人生・将来に対する不安が心を埋め尽くすと、経済的・物質的にどれほど恵まれていたとしても、生きることは苦しみに満たされてしまいます。プラーナ(気)、マナス(心)と聞くとピンと来なくても、感覚的・心情的な楽しみは、人間が幸福を感じるために、物質的なもの以上に不可欠なものとなっています。

ヴィグニャーナ(英知)

 経済的・精神的に安定した生活を送っていたとしても、「いかに生きるべきか」「私とは何か」について真剣に考えたとき、そして人類は長い歴史の中で同様に同じことを考えてきたということを知ったとき、人はそれまでは興味のなかった哲学や宗教に大きな興味を抱きます。同時に物質的なもの、感覚的なこと、情緒的なものへの興味を失い、理性的な思索、普遍的な価値を探求するようになります。そんな人生観の変化があった人は、同じ姿をしていても中身が入れ替わったかのように周囲には見え、友人や家族がその変化を受け入れられないこともしばしばあるかもしれません。本人は生まれ変わったかのように感じ、過去にどんな苦しみを体験していても生きてきてよかった、人生の意味が分かったと思うことができます。しかし、四六時中そのように感じることは難しく、頭で分かっていても現実とはまだギャップがあり、結局苦しみや不安がゼロにはならないものです。ヴィグニャーナ(英知)は人生を大きく変えるターニングポイントであり、人生の目的を確信させてくれます。

アーナンダ(至福)

 先述の4つの分類に象徴される人生の楽しみへの執着がなくなり、人生の意味を完全に理解し、体験し、実現することができたとき、人は解脱を得たという状態になるのでしょう。物質的、感覚的、心情的、理性的な悦びも苦しみも全てを超越し、どんな状態であってもただ幸せだけがある状態こそが、霊性の世界で人生の目的とされている自己実現の境地です。

 

 「私とは何か」という問いに対して、このアンナ(食物)、プラーナ(気)、マナス(心)、ヴィグニャーナ(英知)、アーナンダ(至福)という5つほど分かりやすい答えがあるでしょうか。さらに、ブルグヴァッリーには、ヴェーダの英知である「五つの鞘」というものが登場しています。五つの鞘とは何でしょうか。

 

 私たちの体には五つの鞘(コーシャ)があります。肉体は食物鞘(アンナマヤ コーシャ)です。生命力の活気あふれる面は生気鞘(プラーナマーヤ コーシャ)です。精神活動の領域は心理鞘(マノーマヤ コーシャ)として知られています。五番目の鞘は歓喜鞘(アーナンダマヤ コーシャ)として知られる至福の状態です。多くの人が、他の面をすべて忘れて、いつも食物(アンナマヤ)の面だけにふけっているのは、嘆かわしいことです。しかし、私たちのゴールはこれらの鞘すべてを超越しています。

1981年12月31日の御講話

 アートマを包む五つの鞘は、「ブラフマンとは何か」という問いに対してブルグが苦行を通じて出した5つの答えに対応しています。「ブラフマンとは何か」と「人間とは何か」「人生とは何か」という問いが、一つにつながっていくようです。五つの鞘は、実際に人生にどのような影響を与えているのでしょうか。

 

 人は、食物でできた鞘(アンナマヤ コーシャ)の中、言い換えるなら肉体の中に落ち着いている時、また、生気でできた鞘(プラーナマヤ コーシャ)の中、すなわち神経と生気の活動の領域にいる時、生活は食べ物と遊びと満足のいく快適な生活によって満たされると感じます。心でできた鞘(マノーマヤ コーシャ)へと上がると、想像力の視界が開け、神の栄光と威厳を垣間見て、それが人に神を崇拝させ敬意を抱かせます。次の鞘、理智でできた鞘(ヴィグニャーナマヤ コーシャ)に足を踏み入れると、人は経験の多様性の探求へと向けられ、五番目の鞘である至福の段階(アーナンダマヤ)へと導かれ、理智が組み立てた神に関する仮説は確信となります。それは人を恐れと疑いから解放します。英知のみが完全な自由を授けることができます。文化の最終目的は進歩であるのと同じく、知識の最終目的は愛であり、また、英知の最終目的は自由です。

1970年12月25日の御講話

 

 「神様(ブラフマン)とは何か」と「人間とは何か」「人生とは何か」という誰もが一度は抱く疑問は、多くの人にとって一生解くことができない問いかもしれません。しかし、ヴェーダは驚くほど明確に答えを与えているのです。しかもそれは、最終目的地である解脱だけではなく、そこへ至るための段階を示しています。まずは最終目的地を知って信じて、物質や感覚や心を否定するのではなく、すべての中に神(ブラフマン)を見出したいと感じます。そして、頭で理解した後に、このマントラを唱えることは、目的地へ進む大きな力となります。英知は、頭で理解するだけでは十分ではなく、体で実行することもすぐにはできないかもしれません。しかし、人生の困難に出会ったときに、この探求のマントラを唱えると、ブリグと共に歩んでいるかのように感じます。マントラの中で唱えられているように、五つの鞘を一つずつ超えて目的地であり、出発点でもあるアートマに近づくことができるのです。

 

 「ヴェーダを生きる」とは、マントラを学び、行動する生き方です。そして、マントラを唱えることはより深く学び、より強く行動することを助けてくれます。名前(音)と形は一つです。神聖なマントラを唱え、行動し、生きていきましょう。

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